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2009年7月

2009年7月31日 (金)

リアルな肉体で示す存在感・リアルなライヴ感

 かつて様々なスターたちが夭逝して世間を悲しませた。古くはジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン(ジェームズ・ダグラス)、ジム・クロウチ、マーク・ボラン、エルヴィス・プレスリー、ジョン・レノン、ボブ・マーリー,マーヴィン・ゲイ、カート・コバーン,最後の二人は自殺だった。特に音楽だけを挙げたが、彼らは皆四十代前半より若く死去している(だから忌野清志郎にせよ、ジョージ・ハリスンにせよ五十八歳までは生きたわけだから除外しておこう)。

 今年亡くなった最大の世界的スターは誰しもマイケル・ジャクソンであると認めるだろう。それでも彼は五十までは生きた。川村カオリは三十八歳だった。

 彼らに共通したイメージは何かと問えば、それはヴォーカルにせよ、演奏にせよ、肉体全体から迸り出るものに尽きる。尾崎豊も、hide(HIDE)も、肉体全体で主張していたという意味では、例えば詩人や哲学者や批評家や思想家たちが言葉で生き、文章や詩や作品を残し、アーティストが作品をものとして残すということから言えば、あまりにも肉体が滅んで死滅した後の空しさが大きい。つまり彼らはある意味では生きている内だからこそ生彩を放つ魅力に賭けている。かつて作家の石田衣良がテレビで有名な喜劇役者であった岡八郎が亡くなった時「どうしてこう喜劇役者の方が亡くなると悲しいんでしょうね」としみじみと語っていたことが印象に残っているが、確かに林家三平にしてもそうだったが、落語家にしても漫才師にしてもその死去のニュースは文学者や学者たちが死去した時よりも何故か悲しい。それはポップスターやロック・ミュージシャンにしても同様である。私自身は たこ八郎 とか早野凡平とかが亡くなった時にかなりショックだったことを覚えている。あの独特のペーソスと芸が二度と見られないのか、と。

 勿論落語家にせよ、ミュージシャンにせよ現代ではCDでその名演を聴くことは可能だ。しかしそれは恐らく全く生きている内に生身でそれを鑑賞するのとは違うことなのだ。

 言葉はそれ自体で生きているが、彼らのパフォーマンスは言葉だけではなく、肉体全体から放出されるエネルギーなのである。エネルギーは意味化されたり、普遍化されたりすることをどこかで拒む。それらは端的にライヴ感以外のものではない。従って彼らの名演自体を一度も鑑賞したことのない人にはその魅力は終ぞ理解出来ないそういう性格のものなのである。これはアクターやアクトレスにしても同じである。しかし恐らく俳優や役者たちは今日ではテレビで露出度が大きくなっているので、落語家(大半がテレビには出演しない)や小劇場の役者、旅芸人、ロックスターといった人たちよりは知名度もあるし、親近度もあるだろう。(何故かテレビでのライヴ感は少し異質であり、四六時中テレビで活躍する彼らが亡くなってもあまり儚さを感じさせる空しさは感じない)つまり一部ではあるが熱狂的ファンを獲得するようなタイプの夭折の天才にある固有の儚さを感じるのは、それがリアルタイムでのライヴ感に全てが依存している、という事実に拠っている。勿論落語とロックとでは同じライヴ感でも感動の質は違うかも知れない。しかし恐らくある瞬間の連続における再現不可能性という意味では共通する。

 これがアーティストであるなら、作品と共に奇行でさえ伝説として残る(例えばアンディー・ウォーホル)、あるいはジャズプレイヤーでもそうである(セロニアス・モンク、ビル・エヴァンス、マイルス・デイヴィス、ミシェル・ペトルチアーニ)。あるいは映画俳優なども映画と共に名シーンはいつまでも残るというイメージもある。勿論舞台役者もジャズプレイヤーもその名演が二度と生では見られないという空しさはある。しかし彼らには未だどこかでスタイル上での工夫とか、要するに何らかの残り得るものがある。

しかし何故かコメディアン、コメディエンヌ、ロッカーといった人たちの瞬間芸的なリアルタイムのライヴ感は再現不可能という感じが付き纏う。そしてその場に居合わせた観客全員がその瞬間であるが故のライヴ感を共有し、その体験はその時固有のものとして記憶される。だから当然のことながら舞踊家、舞踏家といったダンサー系の人(最近マース・カニングハム氏が亡くなった)も同様である(彼らも一部ではあるがスタイル変革者などはジャズプレイヤーや舞台役者たちと共通する普遍を獲得することは出来る。しかしイサドラ・ダンカンを生で見ていた人たちは、生でエディット・ピアフやビリー・ホリデーを見た人と同様の空しさを味わっていただろう)

私にとって川村カオリはマイケルほど世界的規模のスターではなかったからこそ悲しかった。丁度私たちの世代にとってのマドンナ的役割の存在だったということも手伝っている。私は年老いたマッカートニーやクラプトンが死去する時も恐らくジョン・レノンが亡くなった時同様号泣するかも知れない。しかし少なくとも彼らは大いなる偉業を達成してきている。その前段階で死去しなければならなかった人たちの多くに私は鎮魂の情を捧げたい。

生きているということはレヴィナスの哲学ではないが、仲間であった大勢の先に逝く人々との別れを体験することなのである。私の中に現在までのところ今年亡くなった人々の幾人かは永遠に、少なくとも私が死ぬまで忘れないであろう。言葉とかものを作る人々が死ぬことなど悲しむことはないのだ。リアルタイムの肉体が放出するライヴ感だけを頼りに生きているパフォーミングアーティストのみ、その死を悲しめばよい。

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学習の仕方

 私のある友人がブログで私からのコメントに対して「自分は何にでもちょっとだけ首を突っ込んでみたくなるタイプだ」と告白しているのだが、そのことでちょっと思いついたので書いたみたい。

 彼は小説家志望の青年である。小説家とはある意味では特にエンターテインメント作家になっていくためには浅く広い視野が必要だ。村上春樹などもその典型であろう。しかし小説家は文体を考えることにかけては狭く深くなければならないだろう。

 ある種の哲学者にも狭く深いヴィジョンが求められる。画家とかアーティスト系の仕事でもそうである。それが技術=思想ということとしてである。しかし哲学者でも哲学史的アプローチの人は浅く広い視野が求められる。映画監督もそうであろう。かつて鈴木清順氏が「映画監督は浅く広くですよ」と言っていたのが印象的である。

 批評という仕事があるが、これなども浅く広い視野が求められるだろう。しかし批評の場合には誰それは生きていて、誰それはいつ死んだというようなデータ収集に関しては正確であることが要求される。そのデータの示し方一つでそのノンフィクションやルポルタージュの評価ががらりと変わってしまう。いい加減な思い込みも禁物である。

 従って仕事によって様々な資質的に求められる異なった条件というものはある。画家は体力と情熱が必要であるが、あまり正確なデータ収集は要求されない。しかし小説家は特に長編小説を書くとなると、その種の力量も問われる。それはアーティストが端的に肉体的な技の巧みであるのに対して、小説家が言葉による伝達の巧みであることから来る相違であろう。だから浅く広いということの在り方も恐らく小説家のそれと、批評家のそれ、あるいは映画監督のそれとでは異なると言ってもよいだろう。例えば映画監督の浅く広くということは現実描写に関する情報的な指示ということではそうだろうが、映像美とか、動きそのものの意味や指示性に対して敏感であることは求められるわけだから、それは当然職業毎に異なったタイプの繊細さとか異なったタイプの知識の質が求められて当然であろう。つまりある意味ではずぼらであった方がいい部分さえ仕事の質によって異なってくるわけだ。

 脳科学では強化学習といって一定の意識的な所作とか訓練によって脳がその方法をインプットして何度も反復することが習慣化される(脳神経が強化される)、ということがあるが、その強化志向性(あるいは回路)が職業毎に異なっていると言えるのだろう。或るピアニストはあまり練習曲ばかり真剣に弾いていると、本当に弾きたい曲が表現出来なくなるとも言っているし、今はどうなのか知らないが、美大に合格するためには石膏デッサンをしていかなければならなかったがあれもどうなのだろう?

 つまり基礎訓練ということに関しても実は色々な考え方があって、英語なども小学校から教えるべきであるとする考え方とそれは駄目だとする考え方もある。私自身はあまり強制するべきではないが、能力のある子には英語も早くから学習させてもいい、と考えている。

 浅く広いということもどの領域に対してそうなのか、あるいは狭く深いということもどの領域に対してそうなのかということが論究されていくべきだろう。これは各分野の専門家たちが頭を捻って考えていかなくてはならないかなり困難な問題であろう。

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意味=公平・論理と実在

 

 私たちは日常、意味の世界に生きていることを少しも疑問に感じていない。例えば机を見てそれをそこで椅子に座ってものを書いたり、本を読んだりするところだ、と認識する。それも意味的に事物を捉えている証拠である。しかしそれを一々意味世界の認識としてなど捉えることはしない。つまりそれだけ意味とは私たちの生活に定着しているのだ。

 しかし一方私たちは家族とか親しい友人とか、自分の人生にとって重要な人たちとの触れ合いにおいて何かあったなら、家族とか親友のために全てを捧げるとか、要するに他者全般に対して確かに優先順位をつけている。そして仮に自分の息子が文学賞を目指して頑張っているということを知ると、本当は自分の息子がそれほど文学者としての才能があると信じられなくても、自分の息子の成功だけを祈る。つまりそれが愛情である。

 しかしこの時明らかに文学自体の優劣とか、文学の才能ということから言えば贔屓をしているだけで、文学的意味の世界からすればただ愛する者の味方をしているだけである。(意味=公平<不公平である公平>)

 しかし意味とは本質的にはそういう愛情の優先順位とは異なったものである筈だ。そこで意味を公平という観点から考えてみよう。すると意味とは愛する自分の息子が文学賞の候補作を書いていて、父親である自分が審査員であったとしよう、しかし自分の目からすればもう一人の女性の作品の方が優れていると思う、だから文学賞審査員として、あるいは自分の作家生命に賭けて推すべき作品がその女性の作品であるとすれば、たとえ息子の作品も候補に挙がっていても、彼女の作品を推奨すべきであるし、それが理に適ったことである。

 しかし一方科学の世界ではミラーニューロンという脳内のニューロンの働きが立証されてきていて、それは他者の行動や他者の感情を自分の脳が読み取り、その読み取る時に活性化するニューロンの位置がまさに自分がその他者と同じ行動をしたり、感情を持ったりする時に活性化するニューロンと同じである、ということが確認されている。

 するとこのニューロンは確かに自分の愛する対象(他者、例えば息子とか娘とか妻)に対しても発火するが、それ以外の人間全般に発火するのである。勿論自分の愛する対象に対して発火するものの方が強度から言えば優越しているだろう。しかし人間は本能的には他者であれば誰に対してでもそのように脳は活性化するのである。

 これは哲学などによる独我論における二分法といった論議自体を生理学的には容認出来ないという方向へと議論を持っていく。「自分しか愛せない」と言っている哲学者もいるが、実際このニューロンの発火現象自体を捉えると、恐らくそう言っている哲学者の脳内でも彼にとって嫌いな他者に対しても発火しているのである。つまり論理的な真理性と、実在の生理的な作用とは必ずしも一致しないということがあるのである。それは即ち意味の世界自体が、論理的な真理性と、実在的な生理作用においてでは異なった見解があることを示してはいないだろうか?

 例えば机はどんな机でも同じである。それは機能的な意味合いとか、しっかり床にフィットしていて、崩れなければそれでいい。しかし実際机の形状とか色彩とか、物質感そのもののクオリアの差異が齎すその机で仕事をしたり、本を読んで寛いだりする時の脳内の作用は恐らく違っているだろう。つまりそれは乗り心地のよい車とか、使い心地のよいボールペンといったものと同じで、意味世界において論理的には「これで十分である」としても、作業能率的にも精神衛生的にも生理的実在感という観点からは同じ机同士でも隔たりを持っているだろう。すると必然的に意味=公平の原理もまた、論理的な意味世界だけでなく、実在生理的な意味世界というものから価値評定すべき局面も出てくることになる。

 つまり論理的認識において公平である意味世界も、一歩実在生理的レヴェルへと位置をずらして見ると、ちっとも公平ではない、机毎に全く異なった精神作用を、それを使用する者に与えるということが現象として出て来る。

 今日カレーの匂いを店内に充満させた店が40パーセントも売り上げを上昇させたという話が朝のNHKのニュースで報じられていた。確かにそれは錯覚であり、ヴァーチャルな感性による戦略であるが、心地よく消費するということだって私たちの生活において実体的な意味世界における重要な指針である筈である(同じ買い物をするのにも買うものが同じであるのなら心地よく買った方がいいに決まっている)。

だからリッチな豪邸が映し出され格好のよいヒーローが活躍するアクション映画がヒットしたとして、それは自分がそういうヒーローのような行動が出来ないということ、そして豪邸などに住むことが出来ないということの精神的な代理作用として溜飲を下げているだけではないのだ。恐らくそういう場面を映画で見ること自体に快楽がある、脳内のドーパミンが活性化するような何らかの根拠がある筈なのである。確かにヴァーチャルな三次元映像とか、その種のヴァーチャルな匂い自体を警戒する考え方もあるだろうが、生理的実在において人間はそういうヴァーチャルなものをリアルマテリアル以外にも求めているのである。そういう観点からすれば現代論理学に一番欠けているものとは、そういう脳内の作用、クオリア的感受に対する新たな意味世界の構築から捉える視点ではないだろうか?

つまり自分の息子を贔屓することも生理的実在なら、それを敢えて押し殺して論理的な意味=公平で文学の将来を見据えて別の女性の作品にエールを送ることもまた生理的実在からも価値評定出来るということに他ならない。(不公平なことも公平なことも公平に扱う)

 

 

 

 

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2009年7月30日 (木)

加熱する企業間競争から見る現実・人類史を背負った個人

 マイクロソフトの専門分野にグーグルが参入したことに対して、マイクロソフトがヤフーと組んでポータルサイトビジネスに参入していこうとしていることに端を発して益々私たちの身近で企業間競争が激化していき、次第に各企業間に見られる各社固有の差別化されたイメージなどどうでもよく、ただ一度成功した企業がどのような形で生き残るのかという本能的なクラス維持欲求だけが顕在化していくそういう現実を私たちは目の当たりにしている、と言ってよい。

 かつてある大臣が「金持ちを貧乏人にしたところで、貧乏人が金持ちになれるわけではない」と言い放って物議を醸したことを思い出した。要するに競争的現実自体に参入し得るのには、まず何かにおいて成功していることが第一条件である。そうではない蚊帳の外の企業やそこで働いている人たちはただただ、激化するトップ企業間の競争的現実に齎すメディア内で氾濫する情報に右往左往するだけである。

 パソコンを一番いい時期に買う、つまり安くて、しかも高性能で、利便性の高い商品を買うにはどうしたらよいか、という判断さえこう次から次へと展開する新戦略の前では一切そういうことを考えずにその時に買いたいと思ったら買えばよいという判断だけが正しいと思えてくる。それはこれからは車にしても同じ判断になっていくだろう。恐らく次から次へとエコカー、燃料電池自動車、水素自動車というようなエコ的観点から現在の自動車を凌ぐ車の在り方を巡る競争が激化して、一体どのタイプのものを買うのが一番いいのだろう、といつまでも考えている内に人生なんて終わってしまうというような現実になっていく。

 実は人類が言語を獲得していく過程とはそんなものだったのではないだろうか?例えば最初はただ太陽とか月とか雲、嵐、雨、雪、海、川、山、岩、森、林といった語彙だけが流用され、その次にはそれらに対してどういう風に自然の脅威に対処していったらよいかの語彙が考えられる。勿論それと同時に時制や、感慨、物性的形容の語彙も発達していっただろうけれど、そのような次から次へと新しい語彙が発明され、流用されることによって、どの語彙を使用することがこういう場合には適切かというような判断はじきに「一番いい判断などというもの自体が存在し得るのだろうか」という問いへと転換されていく。

 それは現代社会においていつどんなタイプのパソコンを買うのが一番得かとか、いつどんなタイプの自動車を買うのが一番得かというような判断と似ていただろう。つまりそうなってくると、錯綜した選択肢の前でただ「その時そう感じればそれでいいのだから、感じたままを表現すればよい」と判断する癖が次第に人類に備わっていったなら、その時こそ意外と文学とか、詩とか小説が誕生した時なのかも知れない。

 「結局どういう選択肢を取るかということ自体が主観と、その時々の私たちの判断でしかないのだから、どれが一番よいかと迷っている内に人生は終わってしまう」という諦観こそが文学や、詩、小説といった形態を自然の事物や社会にとって必要なアイテム以外にも共存させていったのかも知れない。

 その都度の選択の判断とは、文学者とか詩人とかに限らず、誰でも恋人とか配偶者の選択においてしていることなのである。しかしその当たり前の選択自体を、「何でこんな風に私たちは直観で行動してきているんだろう?」と疑問に思う奴も昔からいただろう。その中の幾人かは哲学者の祖となっていったのかも知れないが、自然や自然に拮抗するための建造物とかインフラの持つ重要性以外の、心の疑問に答えるもの、文学や哲学といったものの存在を「存在」として位置づけることを提案するような考え自体を人類が常習化しいていった時今度は恐らく、「あなたが選んだ恋人や配偶者はあなたにとって最良の選択だったのですか?」と問うようなタイプの成員が登場する段になって預言者とか、占い師のようなタイプの人間が定着していったのかも知れない。実はその時既に「全ての人が自分の持っている状況に不満を生じさせ得る」ということから、誰でも一歩踏み誤れば犯罪者にも転落し得るということを確定させていったのかも知れない。

 そしてそのことを私たちの祖先は知っていた。だからこそ「今日もあなたも私もこちら側にいて犯罪をせずに済んでよかったですね、でもこんな風に犯罪に走っていった人もいますよ」と告示するタイプの成員が登場すると、それがマスコミ、つまりジャーナリズムの祖となるタイプの成員の登場となっていったのだろう。

 私たちはその最後の段階の人たちによる情報伝達の渦の中で、では一体私自身はどのタイプの成員として社会に位置づけられるのだろう、と自己に問い掛ける。すると自己内の実質的他者は私たち自身にこう返答する。「それは全ての段階のタイプの成員にあなたはいつでもなり得るのですよ。ただその時々のあなたの判断と選択に掛かっている、それだけです」

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2009年7月29日 (水)

親しいから言えること、親しいから言い難いこと

 私たちは家族とか友人といった親しい間柄であるから言えることがある一方、親しいから却って言い難いことというのもある。それに一旦親しくなるとその人の言動全体に対して純粋客観的に評定することが難しくなる。どうしても相手を贔屓目に見てしまう。だから親しい人とそうではない人とを比べた時公平な目で判断することが難しくなる。だからこそ親しくない人という存在は、私たちにとって他者とは一体どういう存在であるか、あるいは自己が他者との間で成立する社会とはどういう場所かということを考えるのにいい機会を与えてくれる。

 親しいから言いやすいことの内には相手に対する甘えと、相手の甘えを受け留めてもよいという寛容さとが結びついている。しかし相手は必ずしも自分と同じ気持ちでいるとは限らない。勝手にこちら側だけがそう感じている場合もあるからだ。また逆に相手は自分を信用してくれているが、自分はそれが迷惑だと感じることもあるだろう。

 端的に他人に親しみを感じる時、その親しい相手にだけ言えることと、親しいからこそ隠したくなることの両方があると言ってよい。

 例えば哲学はかなり私自身に生きる勇気を与えてくれているものだが、今日昼食時何気なくテレビでNHKを見ていたら、ホタテの貝柱を紐でつなぐための穴を開ける機械をおばさんたちが利用している姿が映し出されたが、実際このような機械を作る時に、その機械製作者たちはホタテの貝柱の重さ、厚み、大きさなどの一定であることをよく確認して作ったのだろう、と思った。つまり大体全ての個体は平均した大きさと形状だということである。

 では一体何故このように一定に大きさと形状がなっているのだろうか、と疑問に思った時果たしてこれまでに哲学でそのことに対する明快な回答を与えてくれたものがあっただろうか?私は疑問である。端的に哲学にそういった疑問に返答出来るものはない。しかし私たちは誰しもそういった疑問を抱くことがあるし、それは哲学を勉強する者とて同じである筈だ。やはりそのことに関してはダーウィンをはじめとする進化論とか、生物学の世界の人たちの方がそういう点での洞察に関しては優れていたということだろう。

 しかしこういう話を、哲学を専門にする人たちの中でするのは、し難い雰囲気があるのである。またそういうタイプの人たちともし私が親しくなっていったとしたら、そういう話をすることを臆するような気もするのである。

 つまり各専門分野の仕事では、その分野毎に異なった世界観がある、と言ってよい。そしてそれはその専門毎に異なったタイプの羞恥心があるということでもある。

 恐らくテレビとか映画で裏方とか、スタッフの仕事をしている人たちは、スターとか芸能人たちと仲良くやっていこうというタイプの人と、彼らとは一定の距離をもって接していこうというタイプの人がいるのではないか、と思う。勿論どちらを選択するかということは個人毎の判断だが、一定の距離をとっていこうと決意した人にとって、芸能人と交際することを羞恥と考えているかも知れない。しかし同じ業界にいたら、そういうタイプの人でも、芸能人たち、つまり表方の人たちと親しくするタイプの同僚の悪口はそう言えないものだろう。

 例えば哲学には分析哲学系の分野で科学哲学というものがあるが、この専門に携わっている人たちは恐らく科学者と親しい人は多いだろう。しかし哲学者の中には科学者と親しくするのを嫌がる人も大勢いる。この種の葛藤は、同一業界内でも犇いているのだろうと思う。

 しかしもし何らかの大きな命題に直面した時、この両者はやはり手を組んで仕事をしていく必要性に迫られるかも知れない。そうなのである。芸能人と一定の距離を取りたい裏方であれ、そうではないタイプの裏方であれ協力し合わなければならないそういう瞬間が必ずあるのである。

 ところでアメリカ在住のラビア氏(世界ウィグル会議代表。ウィグル族精神の母と呼ばれている)が日本の政党へと訪れたということであるが、それに対して中国政府が不快感を示したということでもある。向こうの新聞でもそのように大きく扱われた。しかしここにも日本政府に対する中国政府の甘えの姿勢が仄見える。日本は主権国家である。従ってどんな人が日本を訪れてもその人を追い払うことはしないでよい。つまり多層的に親しさというものは構成されている。日本と中国が友好関係にあったとしても、中国が反目し合う相手と日本が親しくしても問題がないのは、日本が中国が北朝鮮と親しくしても文句を言わないのと同じである。

 北朝鮮と親しくしている国は多い。しかし日本は一度としてそれらの国々に批判的な言説を加えたことがあったであろうか?

 向こうにしてみれば親しいからこそ日本に対してそういう苦情を言いやすいということがあるのだろうが、日本が外国に対してそういうことを言わないまま過ぎるということから来る甘えをあまり簡単に容認してはいけない。相手に対して親しき仲にも礼儀ありだぞ、と親しいからこそ少しは遠慮しろ、というように外交は持っていかなければいけない。

 

 付記 今付記を書いている私は三年前の7月(今日5月20日から丁度二年十ヶ月くらい前のこの記事を読みながら)に日本で世界ウィグル会議が開かれていたことを私も想起している。今月14日から17日迄開催され、日本側の与野党参加者も多数に上った。今日のNHK討論でも中国人論客が出演してその事を批判していた(テレ朝の番組の方だったかも知れない。まあいずれでもよい)。私自身は中国人論客を軽々しくテレビ出演させる事に大分前から抵抗を感じてきた。そこら辺のことも今後どんどん書いていくつもりである。本記事は今読み直して全くタイムリーだし、当時の自分自身の考えが今と変わりないことを知れて今嬉しく思っている。(2012年5月20日記)(Nameless-value)参考ニュース記事→ http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201205180067.html  /  

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120518/stt12051821050005-n1.htm

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私にとって愛すべき人たち

ちょっと今日は極めて個人的なことを書きたい。

私はアーティストを目指して横浜の両親の家から引っ越して24歳の時初めて一人暮らしをしたのだ(東京の品川区戸越に)が、その頃でも、大学生の頃していたこととは仕事の内容は違うが多く日払いとか、短期間契約して、満期払いの作業的な仕事を多くした。

実は今日配管の人が自宅を訪れたが、私は配管そのものはしなかったが、その種の仕事も多くした。そして言えることとして、私はそういう仕事を通して知り合えた人たちが一番今まで接してきた人たちの中で魅力的だった、ということである(だから時々配管工などを装って女性の自宅に侵入して犯罪に及ぶ輩を許すことが出来ない)。

 アーティストを目指していたから当然その関係の仕事の人たちとも多く知り合ったが、私にとって美術評論家も、画家も、デザイナーも、写真家も、好きな人たちではなかった。私の関わった現場の人たちは最近多く哲学を学ぶようになってから知り合った人たちよりも更に魅力的だったと言える。

 何故だろうか?私自身その当時は若かったので私よりは少し年長の人たちだったわけだが、私はそういう職種の人たち(特に電気工事とかその種の仕事)から好かれた。

 私は画家たちとか哲学研究仲間たちと一緒にいる時にはかなり饒舌だが、そういった人たちに囲まれていると彼らのような静かな男性になっているのである。私自身身体的な敏捷性はあまりないのだが、電気工事は他の多くの建築関係の仕事とも少し業務内容が違うのだ。配線を据え付けたりするわけだから、また配管工とも少し違うわけだが、その配電盤とかそういうものを見るのがあまり嫌いではなかった、ということもあるのかも知れない。

 私の父は早くから私に対して図工とか美術に興味を持つようにしてくれたが、父自身はエンジニアだった。俳句を趣味で作っていたが、私の父は配電盤なんかを見ることは日常茶飯だったのだろう。そういうDNAがどこかで眠っていたのかも知れない。

 自分の魂の故郷のようなものとは、意外と自分で父とか、父の周囲の人たちとは違う道を専門として進んでいったことのきっかけになる思春期の反発とは寧ろ逆に、何か説明の尽き難いものがあるのかも知れない。

 兎に角あの特に今幕張メッセのある辺りや、東京ビッグサイトがある辺りでしていた配電の仕事をしていた頃の仲間が懐かしい。どうしているのだろう?私に次からはもっと簡単で給料のいい仕事を紹介してあげるよ、と言ってくれたお兄さんはどうしているのだろうか?私自身はその後、アートをもっと深くしたくて、そういう業務から離れていってしまったが、今思い出してみると、その頃のことが一番懐かしく、私の人生の中で未来に対する展望に胸をときめかしていたような気がするのである。そしてその頃私に対してよくしてくれた同僚たち、先輩たちに感謝したい気持ちで一杯である。

 私の自宅の風呂場の電気をつけるスイッチは私がここに越して来た時から、何回押しても戻ってしまうままになっている。私はすぐにそれでもそれを押すこつを覚え、一々修理するのに代金がかかるのを節約してきているのだが、配管工の方が作業を終えて、それを押そうとすると戻ってしまうので、私にそのことを告げると私は「それ、ちょっとこつがあるんですよ」と言って、それを難なく押すと、その方は「流石慣れてらっしゃいますね」と言って笑った。「本当はきちんと直さなくちゃいけないんだけれど、一人で暮らしているからいいかと思って」と私は応対した。

 その時かつて私と共に東京湾岸で仕事をしたあの愛すべきお兄さんたちのことを思い出したのである。

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2009年7月28日 (火)

関心の移行

 六年前の私にとって一番重要な過去はせいぜい今から七年前くらいからその頃までのことであった。しかし今現在の私にとっては一年前くらいのことが切実な過去として意味を持っている。とすると、私自身のその時々での関心は、常に一年くらい前までなら明確に遡れることになる。

 誰だったか忘れたが、著名な心理学者によると、人間はせいぜい百人くらいの知人さえいれば、全ての生活上でのことが運用出来るらしい。つまりそれ以上いくら大勢知り合いがいたとしても、それはあまりその人の行動とか思想には影響を与えないということだ。

 またある数学者によれば、人間は三百億くらいの事項を知識として所有していれば、もうそれ以上たとえその数が三千億とか三兆となったとしても、あまり大差がないと脳が判断するそうである。つまりそれ以上の数の知識を、惰性的な反復としてしか感知しないというのがどうも脳の性質らしい。するとである。誰か特定の人間のインテリジェンス(情報)を意味化するとしたら、私たちはその人のその時点での知人の顔ぶれや交際範囲、そしてそれより一年前の交際範囲と知人の顔ぶれとその時々でしていたことを調べ尽くせば、ある程度その人間の関心の不動点と移行傾向を知ることが出来る。それを自分に当て嵌めて考えてみる。すると自分が似たような交絶を反復している部分と、それとは逆に徐々に進化している部分との明確な領域を知ることが出来る。するとその領域の内容をよく吟味すれば、これから交際すべき人材とか、交流すべき成員の資質や性格、能力を査定して合理的に計画を立てることも可能である。

 それは人格の陶冶を意味するかも知れない。

 今現在の私にとって七年前の出来事とか考えとか関心の傾向は六年前ほど重要な指針ではあり得ない。そして現在にとって重要な一年前の指針は、やがて年数が経つに連れて、徐々に意味から曖昧な記憶へと脱落していくだろう。記憶にとって一番重要であるのは、その現時点での欲求とか関心内容であり、それに従って海馬・内側視床(約二年分の記憶を司る)とか扁桃体(感情的意味)、大脳基底核(運動、認知、情動、動機づけ)とかの判断によって側頭葉へと収納される。思考する時には前頭前野が記憶を引き出すというわけだ。何か忘れたことを必死に思い出そうとしていると米神の辺りが痛くなるのもそういった理由からかも知れない。創造が記憶の編集作用に近い脳作用であるということも分かってきている。

 しかし私にとってどこか失われていく記憶、つまり忘却されることの中に何か途轍もなく重要なことがあるのではないか、ともう一人の私が今現時点での関心傾向を携えている私に囁く。これは一つの反省意識を支えているのかも知れない。私の知人の顔ぶれとか、私の交際範囲もこれからも徐々に変化し続けていくだろう。その移行過程に私の関心の移行傾向が読み取れるのだとしたら、私自身を私の外部から私を見るような脱中心化によって知ることが可能だろう。その時私は私自身に対して反省的自己を獲得出来るのかも知れない。

 付記 川村カオリが亡くなった。24日の今日、11時1分息を引き取ったと言う。彼女の壮絶な過去、闘病生活、私たちにとって大きな存在の一人だった。私たちの世代のマドンナとして既に本田美奈子(工藤美奈子)、坂井泉水(蒲池幸子)、池田晶子、中尊寺ゆつ子といった人たちが相次いで亡くなってきている。奇しくも本田美奈子もカオリと同じく38歳だった。先日はアクターの山田辰夫氏も53歳で亡くなっている。私たちの世代にとって悲しい別れが続く。合掌。

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感情移入しないことを決めた人類

 私たちの祖先はかなり早い時期に貨幣経済を履行していた。私たちとは日本人という意味であると同時に、先進国の祖先という意味である。

 それ以前は現代でも希少ながら散見される物々交換、あるいは文化人類学で言うところのポトラッチ(ポトラックとも言う)のような贈与文化であったことだろう。

 しかしこのシステムでは端的に賄賂のような性質の遣り取りになりやすい。どこかの国の総理大臣は「極端な市場原理主義にしない」と言明したが、これは極めて矛盾したものの言い方だ。第一もし貨幣経済の流通ということを考えたら、それは全て市場原理によって動かざるを得ないのだし、それを阻止するとしたら、強力な政府を作るしかないが、それをすれば現今の経済不況を克服することは出来ないだろう。また日本をはじめ既に先進国は共産主義国のような政策をすることは出来ないというより、国民が反対するだけである。

 端的に経済不況になるとそのような言説が罷り通ること自体にある種の辟易を感じる。それは思考の停滞でしかない。貨幣自体の流通ということが結局人類にとって一番効率的で、極端な贔屓や差別を未然に防止する役割として既に認可されたものであることは間違いない。それはどんなに効率的な考えの下での政策であれ、失敗することもあれば、経済的に停滞することもあるが、それでも下手な感情移入をすることをかつて一度人類は諦めたという事実に対する冒涜である。もしこういう時代に極端な市場否定論者たちの言う通りにしたら、恐らく恐怖国家が出来上がるだろう。

 日本が向こう三軒両隣的人間関係を忌み嫌っていった理由もそれなりにあるのである。勿論隣人がどうなってもいいという考えで全ての市民生活が運営されていていい筈はないが、全ての個人主義や自助努力を放棄せよ、ということにはならない。こういう時代だからこそ、現実をよく注視する必要性を求められているのではないか?

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2009年7月27日 (月)

自然選択と無常

 毎年芥川賞が発表され、該当者なしの場合以外は一人から二人と受賞する。それ以外にも直木賞をはじめ、多くの文学賞、文藝賞がある。私たちの脳裏に果たしてどれくらいの数の作家たちの作品が残っていくのだろうか?毎月飛ぶように売れる本を書く流行作家たちがいつの時代にもいるが、それらさえ膨大な数の投稿作品の中から選び抜かれたものである筈だが、例えば二十年前に流行作家であった人の作品を今読んだり、作品の内容を思い出したりする人はどれくらいいるのだろうか?

 一方で認められるかどうか分からないがいつか桧舞台に上がれるのではないかという幻想を抱いて無数の作家志望の人たちが小説や、批評を書く。そしていつまで経っても認められないと、本願ぼこり的な発想で、生涯認められないでもこうして書いていくことが大事なのだ、と自分を説き伏せる。確かに世間に生きている間に認められずに死に、その後で高く評価される人も中にはいる。しかし同じ時代で何百万人、何千万人の隠れ作家がいたとして、そのような存在になり得るのは恐らくその中の一人か二人くらいのものであろう。つまり時間というものは冷徹にどんなに生きている間は流行作家であっても、あるいはどんなに惨めな生活を余儀なくさせられたとしても、そんなことにはお構いなしに、いいものだけを残していく。

 そのいいものとは何なのだろうか?

 まず現代社会の行く末を暗示しているようなものだろう。つまりどんなによくても前時代の雰囲気をただ漂わせているものは即座に消えていくだろう。つまりありていに言えば常に現代のデジタル性をよく熟知し、そのデジタル性がどれくらいこれからも波及していくか、その波及し尽した後に人類はどうなっているのだろうか、ということを予兆した作品は残っていく筈である。何故なら今までの歴史において私たちが残してきた作品がそういうタイプのものに限られていたからである(聖書もまた最初の人類の考え出したデジタルの一つである)。世界の言語において英語以上に重要な言語は日本人にはない。それと同じように世界の情報波及ということにおいてネット以上の存在は今現在ない。つまりそういった制度的な事実自体をどんなに憂えても仕方ないだろう。それこそがミーム(リチャード・ドーキンスが考え出してスーザン・ブラックモアが定着させた概念)として生存していく自然選択上での冷酷さである。私たちに懐かしんでいる心の余裕など一切ないのである。懐かしむことは死ぬ前の瞬間までとっておかなければならない。

かつて宗教家たちが言っていた、無常ということ、これは意外と懐かしむことをしたくなる人間の気持ちについて語っていたのだろうと思う。つまりダーウィンの自然選択が環境や地質とか大気の変化に応じて次世代へと子孫を残し得る個体のみが次世代へと自らの遺伝子を残してきたということと同様に、文学や批評という仕事においても、一定の次世代への配慮があるものだけが残り得るだろう。残り得るものには懐かしさはない(作品自体の要素に懐かしさを感じさせるということは全然違うことである)。それはアートにしても同じだろう。アートにおいて既にサブカルチャーを次世代的感覚で示したアーティストは出尽くした。これからはアート自体の動かなさ、つまり静止していること(キネティックなものも含めて)の意味を次世代的に感覚的に把握し得たようなものが求められるのかも知れない。

 私もまたそういう作品を一作でも作りたいものだが、果たしてどれくらい次世代の人類が立たされた岐路を読みきることが出来ることやら。ただそういう里程標を作る無数の中の一人ではいたい、と思う。

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文字・フィクション・ヴァーチャルリアリティ・殺人

 私たちは文字でものごとを考え、行動し、自らの主体があたかも文字とその思考の力によって保たれているように思う。本当は身体感覚とか、生理的欲求とかの方が強いのだろうが、それを隠蔽する力として言葉を無意識に発動させている。それが錯覚なのか、実在なのかは哲学的問題でありそれ自体問う価値があるかも知れないが、そのことは取り敢えず置いておき、文字世界が私たちの意志決定に及ぼす力が計り知れないという現実から、逆にそういう言語の呪縛から解き放たれたいという欲求が自然に湧き上がって来る。そして映像の魅力が私たちの心を一時癒す。ヴァーチャルリアリティへと映画もテレビも、ネットも移行しつつある。

 一方でそれを嘘である、つまり本当のリアルワールドではないということを私たちは承知しているからこそ、いつまでもその魅力を魅力として受け留めていられる。因みに魅力はspell とも英語では表現する。この語彙は他にも呪文の意味もあるし、文字通りスペルの意味もある。私たちは映像の世界においてニュース映像を本当のことであるとしている。勿論これもまた映像が編集されており、新聞に見出しがあり、報道写真にキャプションがつけられているような意味で虚構的なもの、報道する側の意図的、恣意的な戦略があることを薄々知っているが、そんなことは通常お構いはしない。つまりそれがフィクションではないと知っている。それを前提している。だから逆にフクションはフィクションで楽しむという欲求と意図を持っている。だから映画もそうだし、マンガ、テレビドラマ、AV、ゲームソフト、Vシネマといった多様なメディアを利用して、嘘の世界のリアリティを楽しむ。

 しかしそれら一切はヴィジュアルな快楽のゲームであるが、言葉も濃厚に漂っている。台詞一つない動きだけの映画があってもいいが、ヒーローやヒロインがただ黙々と殺人をする映像であっても、その殺人は意味化されており、観客である私たちは行為の意味を言語的に理解しようとする。

 他方、インテリとかビジネスマンたちは日経新聞を読みその日の株式市況、自社株価とか、要するに市場の動きに関心があって、モーニングサテライトやワールド・ビジネス・サテライトを見るだろうが、一般新聞では三面記事的殺人事件が話題を攫い、宮里藍が仏国内での全米女子ツアー、エビアン・マスターズで優勝したような特別のニュース以外は大抵、ワイドショーでも殺人事件が視聴率を稼ぐ指標となっている。これは人間が快楽的にその種のニュースを好刺激剤として利用している、いやそういうスリルとサスペンス、あるいは要するにどきどきするような殺人の動機や、履行、その後の逃走劇自体を、あたかもフィクションの中の殺人をゲーム的に楽しむかの如く楽しむためである。だから案外日経新聞とラップトップコンピューターをブリーフケースに入れてアルマーニに身を包んで丸の内や霞ヶ関を歩くビジネスマンでもそういうワイドショーネタにどきどきしたりしているのかも知れない。つまりあまりフォーマルな場でなければそういう話題で花を咲かせているのかも知れない。低価格、高性能の機種を開発する至上命題を抱えた企業のお偉方でも、案外昼食時にはそういう話題で盛り上がっているものである。

 作家の村上春樹氏の最新作である「1Q84」でも殺人が重要なアイテムとなっている。それはゲームソフトで殺人が日常化していった経緯を踏まえたアイロニーなのかも知れない。殺人とは聖書でもカインによるアベルへの殺人という形で示されている。人類は自分がたまたまそれをすることなく済んでいる(親鸞は全ての人がそうであると考えていたそうである)が、一歩踏み誤るとそういう行為をしでかすことになりかねないということを薄々知っているからこそ、そうなっていってしまった人たちの姿を見て、ああ今日も自分がそうならなくてよかった、と溜飲を下げているのである。全てのフィクション(あらゆる聖典も含めて)とは実はそのような心的作用を前提として、作られてきたとも言い得る。

 それは恐らく文字が出来た瞬間からそうだったのではないだろうか?文字が出来たのもそもそもフィクションを伝えるためではなく、リアルイヴェントをフィクシャスに伝えるためだったのだ。そのリアルイヴェントの中には最初から殺人も入っていただろう。だから文字こそが最初の人類にとってのヴァーチャルリアリティだったのである。

 しかし人類はやがて文字だけが齎す文字の力に飽きてきた。そこで文字が脳内に表象として齎す快楽を拡張させてきた。それが映画やテレビ、ネットの世界の歴史である、と言ってよい。つまり文字がリアルワールドにおけるリアルイヴェントをフィクシャスに伝え、そのフィクションが拡張されたものがヴァーチャルリアリティであり、その三項関係が象徴的に私たちに好奇を齎すものこそ殺人だ、というわけだ。人間の欲望の最終地点である殺人がフィクシャスにゲーム化されて伝えられるところに私たちの日々の心の躍動を形作ることを絶やすことの出来なさ、つまり好奇心を持つことのやめられなさがある。

 明日日経平均株価がどうなっていくか、ダウ・ジョーンズの時代から人類は、その株式市況の数値自体に、多くの人間を殺し、多くの人間が殺される可能性を読み取っている。文字がフィクシャスにリアルワールドのイヴェントを伝達するという図式が成立した時点で既にそのシンボライズされた欲望最終地点への旅が始まっていたのである。

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2009年7月26日 (日)

文字と映像文化

 今日の午前九時から始まる教育テレビの「日曜美術館」を見た。今年開かれたヴェネチア・ヴィエンナーレに日本代表として出品された やなぎみわ氏 の特集だった。

 私は大分以前からヴェネチア・ヴィエンナーレをはじめとするこの手の企画自体に殆ど関心を抱かなくなっている。その理由の一つはこれらの企画が欧州の文化基盤に立脚した作品創造スタンスに依拠しており、それは日本にそういう文化基盤がないことを承知で、参加する欧米作家、アジアやオセアニアの作家たちとの間での国際的レピテーションを競い合う、ある種の特権的グローバリズムを理解することの出来るほんの一握りの作家だけを招待して制作させるというスタイルに反感を持ってきたということがある。そしてもう一つは、ヴェネチアが遠くて、そこまでそれを見るためだけには出かけられないということである。

 現代アートには純粋パフォーマンス以外には、幾つかの潮流が併走している。その一つが舞台装置や大型写真を使用したインスタレーションや映像などによって展覧会場全体を使用するもの、従来型の小型の作品郡を陳列するものなどである。やなぎ氏は前者である。私は個々の作家の仕事自体に対してはそれぞれ一定の評価をしたいと思うが、それと企画自体に対する考えが全く別のものである。

 現代アートの企画ものに一切関心を私が失っていった最大の理由は、その潮流が明らかに美術ジャーナリズム自体が牽引するスタンスになっていった(特に七十年代から)ことに起因する。アート自体の色彩とか物質感よりも企画自体のジャーナリスティックなモティヴェーションに閉鎖的な特権階級的なものに対する違和感を私に植え付けてきたということである。

 端的に現代アートは言葉に多く依拠していると思われる。その一回性のパフォーマンス自体が演劇的、映像的、それら全ての根幹に文字の威力が介在しているように思われる。

 

 しかし今日はアートのことを述べるのが目的ではない。文字自体の威力について考えるのだ。

 通常親しい人同士、親しい間柄では言い難いことというのがあるが、それが一旦そういう人間関係的柵を離れると自由にものが言えるということがある。特定の政党に属している人でなければどの政党のマニフェストに対しても自由に批判出来るようにである。

 例えばこのブログも含め、このような場での発言に対して、私は名前以外の私固有のプロフィールを一切公表していないので、このブログでも一定のマナーさえ守って頂ければ、何を発言しても自由である。管理人である私はコメントを下さる方々のプロフィールを一切知らない。それがいいのである。来場者と管理人の間で繰り広げられるネームレスに近い文字のみを通した交流、これが有意義なのである。

 本来文字とはそういった純粋な文字の配列が示す意味世界の中だけで繰り広げられるコミュニケーションである筈であった。特に写真などが登場する以前の社会では本の著者のプロフィールとは二次的なことであり、著者はどんな人であるかを想像することが楽しみだった筈だ。

 しかし二十世紀以降その様相は一変する。現代社会では著者のプロフィール、写真から学歴、職歴に至るまで詳細に調べることすら容易である。要するに著者とは、純粋の言葉を伝達するメッセンジャーであるだけなく、パーソナリティが極度に曝け出されている。寧ろそのパーソナリティに人気が集中して、その人気が本を売るという現象の方が一般的である。特にテレビなどのメディアに露出の多い著者のものが飛ぶように売れる。

 しかし繰り返すが、本来文字の世界の普遍性とはこのような著者のパーソナリティを前提としたものではなかった筈だ。それは純粋に文字配列全体がどのような意味を指示しているか、という物語性こそが重要であった筈だ。しかし本を売るための戦略である著者のプロフィールとかパーソナリティは評判を呼んだ本には必ず付帯してくる。そしてその戦略に乗って流行作家たちは本を出版し捲くるのだ。

 そういった映像メディアからの影響は、ブログ自体にも完全に波及している。テレビタレントの多くがブログを発表し、写真やイラストを中心として多くの来場者を獲得している。それは話題の人がブログをするということが重要なのである。そしてその管理人が人気タレントである場合、それは映像によって周知の事実を盛り上げるためにブログ自体が利用されるのである。勿論それは現代社会のマスメディアによる実相であるからそれ自体肯定も否定もする筋合いのものではないのかも知れない。

 しかしある意味では現代アートが美術ジャーナリズムが作る潮流によって文字化された世界、コンセプチュアルなイメージを売り物にしてグローバリズムを構成しているのと丁度逆の現象、つまり大衆のサブカルチャーがメディアで評判となっているものをブログでもう一度確認するという現象になっている。しかし興味深いことには現代アートはそういった社会現象自体をコンセプチュアルにシンボライズするのである。つまりそこには無意識的な分業的なフィードバック作用が垣間見られるのである。

 それはある意味では現代人が映像やメディアに対して強烈なニーズがあるということ自体に対して現代人自身がある種の不安を抱いており、文字に加担することをも忘れないが、かと言って純粋な文字の意味世界にのみ伝達的メッセージを求めるということはどこか心もとないという気分が支配している証拠である。確かに小説の熱心な読者もいるし、批評や哲学に対して関心を示す読者もいるにはいる。しかしそれは数の上では既に少数派である。だから小説家や、評論家、哲学者たちも現代アート同様、熱心に現代社会のメディアとネット利用状況、ブログ文化を反映したタイプの作品を作り続けていくことだろう。

 しかし純粋に文字の世界のメッセンジャーたらんと欲する人はどうかあまりメディアに頻繁に登場しないで頂きたいという願いも実は私は抱いている。節度からではない。寧ろ本人の仕事の質に関してメディアの露出度が頻繁になればなるほど自ら対象化すべき現象に取り込まれてしまうことになるからである。勿論それを自主的に選択する道もあることはあるだろう。私はそういう風に依頼されることすらないだろうから、そんなことを留意する必要がないのだが。

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2009年7月25日 (土)

見たいように見ること、考えたいように考えること

 私は「文字・貨幣・映像」において自らの有限性を忘却して、そのことを深刻に考えずに済むことを映像が代理感情的に実現している、と考えた。例えば私はスポーツが苦手であるが、それが得意な人たちがプロ選手として活躍する、政治家にはなる才能がない人でも映像で知る政治家の活動を通して自らにはない資質や能力を代行してくれる姿を見て溜飲を下げるのだ。サーフィンの映像を見てプロサーファーたちの勇姿を見て、そんなことが出来ればいいな、という私たちの欲求を鎮めている。

 しかしそうした代理感情による自らにとって不可能な行為を代行してくれることを映像を通して知る沈静化が、真にただ自分には出来ないこと(物理的にも、能力的にも)、例えばニューヨークに滞在している者がカイロであったことをニュース映像を通して知るということそのものが、本当は耐えられないことであるなら、そんな幻想に浸りきることをやめて、そんな映像を全て廃止して、自分たちの出来ることだけをしようという動きに人類が出てもよさそうなものである。

 しかし決してそうはならない。と言うことは、私たちは自分の能力範囲内のことだけを見たいのではなく、まさに空を飛ぶ鳥を見るように、自分たちにとっては不可能な行為や能力を行使する姿を見ること自体が快楽であることを物語っている。つまりそれはただ単に代理感情から自らの欲求を代行して貰っているに過ぎないのではなく、もっと本質的に無限の能力や行為に対する認識を視覚や聴覚を通して知ること自体が人間の本質的欲望だ、ということを物語っている。つまり世界を見たいように見るということが私たち人類の本質的快楽なのである。

 だから必然的にあまり見たくはないことも私たちは現実には目にすることになる。それだけに理想的な見たいもの、こうであって欲しいことである世界の在り方に対する欲求自体を我々は携えている。またその事実は見たいことだけではなく、考えたいことも考えたいように考えるという風に理解出来る。神などもその典型的な一つである。自由意志もそうだし、意識もそうだし、クオリアもそうではないか、と私は考えている。そうであって欲しいことに当て嵌めて私たちは私たち自身を理解しようとする。

 このブログの私自身のプロフィールで私は私のことを考えたいように考える人としているが、それは私自身に対してだけではなく人類全体に対しての考えである。つまり見たいように見ることを本当は全てに対して実現したいのだが、私たちは必然的にあまり見たくはないことも現実では目にするので、映像を通してせめて映像内だけでも見たいものだけを見たいと思う。しかし映像もまた見たくもないものも多く含まれてくる。そこでまた新たな映像を作り続けるというわけである。そして時たま映像ではなく本当の姿で見たいものを見ようと思う。野球中継を見るのではなく、本当に野球場で野球を見、コンサートに出かけ、政治家の街頭演説を見る。しかしそういうことをしても映像自体をなくそうとは絶対に私たちは思わない。それは世界を見る見方自体を映像を通して知るという欲望もまた内在しているからである。それは本当に目にする時にでも「まさに中継で見た通りだ」とそう思うためかも知れない。

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天才・神・謙虚・思い遣り

彼は天才だからやはり違う、と言う。あるいは~は天才だから仕方がない、と言う。あるいは「お前とは違うのだ」とも言う。これら一切の言葉を私は胡散臭く感じる。権威づけしてその権威に縋り、それを鼻にかけその権威に対して無知な人間への軽蔑心が端的に表れているからである。

 私たちは前回でも言ったように知らないことを知るとは言えない。何故なら「知らない」ということは何か特定出来る対象があって、それに対する言及だからである。だから「よく知らない」くらいは言い得る(くらいには知っている)指示対象があって初めて「知らない」と言い得るのであって、「知らないことがあることを知っている」というのは、その当の「知らない」と言っていること自体の存在に対する知があればこそ言えるのだから、本当に知らないことがあるとは言えない。そのように知らないことがある、と言えるということは「知らないことを知っている」という語に置き換えられるから語義矛盾である。知らないことはあくまで知らないのであり、それを知っているとは言えないからである。だからあるともないとも言えない筈である。だから必然的にそんなことを言えるのは神だけである、ということになる。神という語がここで初めて登場する。

 神は完璧であり欠点がないということの別名であり、知らないことなど一切ないということであり、他の全てと協調し合わない(単独に決定する)ので、絶対的孤独、弧絶の別語であることになる(キリスト教で言う「父」とか「主」という神は、それを信じる者のみを救い、慈愛を持つのだから当然全ての人に対して完全無比ではない。神が思い遣りがあるという考えもだから必然的に論理的には辻褄が合わなくなる。何故なら思い遣りとは特定の人に対して向けられているからこそであり、それは必然的にそれ以外の人に対しては無視しているということだからである。しかしそういう欠点を持っていることを何故神と呼べようか?神が思い遣りがあるというのは、では事実的に正しいのだろうか?大人とは自信のなさのある人に魅力を感じ、傲慢な人には魅力を感じないから、必然的に全てを単独で決定する人に思い遣りを感じない。従って神は思い遣りがない、しかし神は完璧である筈である、それなのに思い遣りがないというのは矛盾する、それを神などと呼べようか)。

 しかしよく私たちは芸術作品などで技巧的、技術的には完璧なのに、どこか退屈だとか思うことがあるし、あの人の欠点は欠点がないことだとも言う。と言うことは、私たちは完璧というものの基準を欠点をも含み込む、とどこかで無意識に解釈していることになる。つまり主観的に完璧、完全無比、神を「これこそがそうだ」と言っているに過ぎないことになる。しかしそれだと矛盾する。欠点があるということは完璧ではない、それは神にはなり得ない。神は完璧で完全無比でなければならない。しかし私たちは最大の魅力とか、最高の存在をその欠点をも含めて判断する。すると神なる存在が仮にあったとしても、それは言葉の上での一つの思惟の可能性であり、決して実在的には存在しないことになる。無限後退を来たす神とか完璧と、その定義や最高のものへの判断は、言葉自体が完璧ではないことを意味する(それは私たちの存在自体が完璧ではないことにもなる)。

 私が天才、と言うこと自体を嫌っている理由とは、端的にそう言うことによってそれを言う者が謙っているその態度が嫌いなのだ。よくものを分かった態度の人(そういう人は概して何も理解していないことの方が多い)が「お前もっと謙虚にならなければ成功しないぞ」と言う。では謙虚であれば必ず成功するのだろうか?そんなことはない。傲慢でも成功しているケースはあるだろうし(尤もそれがいつまでも持続するかどうかは分からないが)謙虚でも失敗することは多くある筈だからだ。あるいは誰からも好かれて、信頼がある人がいたとして(仮の話であるが)いつまでたっても人望も衰えないのに内心では極めて傲慢である場合もあるだろう。だから「謙虚になれ」と、そういうことを言う人のことは一切信用しない方が無難である。大体権威主義な思惑があるだけだからである。

 思い遣りという言葉もそうである。他者に対する思い遣りとは概して自分の側の勝手な他者に対する思い込みによってなされている場合が殆どである。私は他者存在そのものを知っているが、その内実はよく知らない、従って思い遣りをかけること自体を忌避する。そうすることで相手に全ての判断を委ねる。私は一切責任を負わない。そのことだけがもし成立し得る思い遣りがあるとすればそうだ、と言える。しかし世の中は責任を負えないのに責任を負う姿勢をアピールすることで満ち溢れている。全ての欺瞞を欺瞞であると知りつつ、それをうっちゃっているというのが私たちの社会生活の内実である。

 確かに天才と言われる人には欠点はあるし、しかしその欠点をさえ長所のように見せるだけの魅力に溢れているとも言える。しかし天才という名指しは決して強要し得ない。何故ならそのような完璧さとか完全無比さに対する判定自体が極めて主観的なことだからである。従って誰か特定の他者(相手)に「彼は天才だよ」と言う場合には気をつけなければいけない。その者にとってはそうではないかも知れないからだ(それは神ということに関しても同様である)。私はだから「私()は、彼は天才だと思うけれどね」と言うことにしている。そして私は謙虚ではない態度の人にこそ真実の謙虚さ(少し矛盾した言い方だが)を感じるし、思い遣りを行使しようとしない人、そういう態度を振りかざさない人しか信用しないことにしている。

 つまり全面的に信用しないけれど、全く信用しないわけではない、という態度を全てに対して取るのが賢明ではないだろうか?それはかつて言った「ある程度なら信用出来る」ということとか、前回の「知らないことがあるに違いない」と断定を避けることにも繋がるからである。

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知らないことがあるに違いない

 人の心とはどうすることも出来ない。例えば私は人からアドヴァイスを受けることもあるし、何か考えを聞かせられることもある。しかし本質的にそれらの言葉によって百八十度自分の考えを変えるということは殆どない。確かに参考になると思えることは沢山ある。しかしもし自分の考えを百八十度変えたとしても、それは何か他人から聞かされたことからではなく、もう既に自分の中で何かが変わっていて、その変わったことを、他人からの何気ない一言によって変わったと実感し得るだけである。

 しかし人間とは愚かなもので、特に相手が自分より年少であるなら尚更だが、何かこちらの意見を伺いたいという態度で相手が自分に接すると、途端に自分の一言が相手の気持ちを変えることが出来るかも知れない、とそう錯覚してしまう。老人が中年に、中年が青年に、青年が子どもに対してそういう風に接してしまう。

しかしよく思い出せば誰しも理解出来ることだろうが、自分の親でさえ、何か特定の一言で自分の考えが変えさせられたというようなことが一度でもあっただろうか?それは他人よりは親とは子どもにとって影響を受けることが多いが、それでもそれは生活全体の習慣とか遺伝的資質とかであって、生きて来た時間も、育った時代も、他から受けた環境も全く違うので、たとえ親からでさえそういう意味ではたった一言とか、相手が自分の変えさせてやろうという意図に付き従ってしまったということは殆ど皆無に近い筈である。遺伝的資質とか習慣さえ、人間の考えを構成する判断内容や価値観には全くと言っていいほど影響を与えないと私は考えている。そもそも人間の脳とはそのように外部から強制されることを最も嫌がるものだからである。

 それと同じように哲学とか脳科学(神経科学)とかも今後起こるであろう様々な発見によって人間の脳とか心とかの全てが理解される、というようなことは恐らく未来永劫ないだろう。そのことに対する知こそが哲学者や科学者の理性を支えているという意味でソクラテスは「自分が何も知らないことを知っている」と無知の知ということを述べたが、私は「自分がよく知らないことがあるに違いないと思う」と修正したい。何も知らないことが多くあるということは、語義矛盾である。

以前にも述べたが、実際知らないことを知らないとは言えない。少しだけは知っているからそれを「よく知らない」と言い得るのである。知らないことは知らないのだから、言及出来ない筈である。従って「よく知らないことがある」ということは確固とした形で私たちは知っているし、また全く知らないことを「それは知らない」と言えるのは、何か他者からそのことに関して言及された後でしかないのだから、「でも全く知らないこともあるに違いない」と人間は思う能力があるのだろう、と思う。つまりそのように自分が知らないこととは「恐らくある筈だ」「あるに違いない」と思えるということが人間固有の能力ではないだろうか?恐らくこの考えは他の一切の動物、生命体には不可能な思惟ではないだろうか?

 「に違いない」と修正を加えたのは、それが断定ではないというところに意味がある(何故ならあることについて「自分が知らないことがあるに違いない」と言うことは、「あるいはないかも知れない」という気持ちも少しは含まれているからである。そういう余裕を残しておくことが些細なことだが重大だ、と私は思うのである)。つまり断定出来ないという気持ちこそが人間固有のことなのだ。それは相手に何かよかれと思ってアドヴァイスしても、そのことで相手が自分から全面的に影響を受けることはないだろう、と諦観を持つということが重要なのであって、「相手は私の一言で絶対変わる筈だ」と思うことほど身の程知らずなことはない。しかしこれだけ説得力ある言葉をかけたのだから「きっと少しは考慮してくれるに違いない」と言うのであれば、それは妥当な判断である、と言えよう。つまりその頃合を知るということが人間の知恵なのである。

 それは哲学者であれ科学者であれ、念頭に入れておかなくてはならない重要なことだと私は思う。

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2009年7月24日 (金)

暑中雑記

 私はよく言う文学青年ではなかった。学生運動とか政治的・思想的イデオロギーにも全く関心がなかった。関心があったのはアートと音楽と、哲学だったし、小説も詩も数えるくらいしか読まなかった。文章を書くのは好きだったが、支離滅裂な難解な文章を論文風に書くことくらいだった。尤も小説らしき体裁のものを最初に書いたのは5、6歳くらいだったから、文学自体に関心はあった。しかし進化論にも、分子生物学にも文化人類学にも、言語学にも民俗学にも関心があったのである。

 従って私の場合プロの小説家になりたいという欲望はあまり強くなかった。小説は趣味で書いていければそれでいいと画家を目指した時点ではそう思っていた。そうそう池田満寿夫のように両方で成功出来るほど世間は甘くない。つまりそれだけ美術にかける時間が長かったということだろう。その割にはアートとは飯の食えない仕事だとつくづく思い知らされた。第一美術評論家とか画商といった人たちは絵とか彫刻を描いたり作ったりする人たちとは全く関心が最初から違う。それはある程度小説を書く人と、それを世に出そうとする人たち、つまり出版社の人たちとの間でもあるだろう。でも文学の場合、小説家志望の人が編集員である場合がかなり多いようである。

 私は出版社にもかつて短い間だったが勤めたことがあったが、小説家を目指しているようなタイプの人はあまりいない感じの会社だった。またその出版社では文学を取り扱ってはいなかった。そういう意味では短かったがいい経験をしたと思う。色々な仕事をしてきた、と思う。

今日アマゾンで買った村上春樹の「1Q84」を読み始めた。なかなか文章と物語に引き込んでいく力量の凄い人だとは思う。三十歳で小説家としてデビューしているところを見ると、それほど早熟でもなければ遅咲きでもないと言えるだろう。実は他にも何人かの作家の小説、あるいは哲学書、生物学書、精神分析の本などを十数冊くらいと、英語の原書のもの(やはり生物学、哲学、精神分析など)を並行して読んでいるので、村上氏のものだけを集中して読むわけにもいかないが、他に何もすることがないのであれば、二三週間続けてそれだけを読みたいとも思う。そういう余裕が来るのは私の人生ではいつのことなのだろうか?

 

 私が今一番惹かれているテーマは価値ということである。つまり価値自体があるかのように思えるということから人生を生きていると私たちは実感していると言える。つまりその価値とは一体何かということを問うた優れた哲学書を意外と私はよく知らない。「人間知性論」(ジョン・ロック)も「人性論」(デヴィッド・ヒューム)もあるいはそういうことを述べているテクストではないか、とは薄々感じることは出来る。しかし哲学書は往々にして直裁的ではない。要するに勿体ぶった書き方なんである。もっと私は直接的に示すことの出来るタイプの論説で、価値自体を考えたいのである。

 実はもう書き始めている。それはこのブログで書いてきたこととも関係があるし、その中の一部はここでも紹介したい。タイトルはもう決めてある。「価値のメカニズム」。昔、アーティストの荒川修作と奥さんの詩人であるマドリン・ギンズが「意味のメカニズム」という本を書いてかなり評判になったことがある。それを別に意識したわけではないが、どこか価値自体を人倫的に取り扱うものしかないということに抵抗してみたい、という気が私にはあるのだ、と思う。つまり価値技術論的に考えたいのである。何故そうか?私は哲学的にはどちらかと言うと機能論者だからである。エンジニアの息子だからかも知れない。

 父は十八年前に死んだが、俳句を作るのが趣味だった。私の父が高校自体には川本臥風、そしてその門下にいた篠原梵という俳人(元中央公論の編集長をしていた人)に大きく感化された。梵先生と父とは先生が86歳で亡くなるまで交流が続いた。私の父の師匠と、私の父の俳句を一句ずつ記しておきたい。

 扇風機止り醜き機械となれり(梵)

 樹の下に本をふり振り蟻落とす(佳寿夫)

 

 ブログ 価値のメカニズム http://mechanismofvalue.blogspot.com/

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2009年7月23日 (木)

心臓の鼓動・音楽・数学・単位

 現代言語学では言語の発祥について問わなくなって久しい。しかし自然科学は解明を旨とする。哲学は思考の整理なので、解明を求めない。解明にさえ懐疑的である(しかしこれは哲学の最大の欠点でもある)。

 デズモンド・モリスは「裸のサル」で心臓の鼓動を母親の母胎にいた時から聴いていたことが、音楽、とりわけビートのリズムの激しいロックを現代人が好む理由ではないかと考えていた。近代に入ってからロマン派のようなタイプの音楽が流行するのは、恐らく理性論的なドイツ観念論哲学が隆盛を極めるのと同じ理由からだろう。人間性が主役となる音楽の登場だったわけだ。しかしそれは音楽の進化過程において大分後になってからのことであり、それ以前には宗教性(神への称揚)ということがあったのだし、もっとそれ以前には人間社会での人間の行為を表象するようなタイプのものがあっただろうし、もっと以前には全く違う音楽が存在したのかも知れない。

 つまり人類の発祥の時期にはもっとプリミティヴな音楽があったと思われる。それはリズムにもっと忠実であったのではないか?つまり自分たちの心臓の鼓動を表象化したもの、つまり自己身体表象化作用としての音楽、そこには刻むという行為が顕在化されている。刻むことは単位を作ることでもある。やがてその音楽行為は言語行為へも発展していく。その単位を作ることから数学が進化していく。数学が空間を分割させ、行政が発生する。行政は分割だけではなく支配をも誘発する。統轄、統括といったことが単位によって齎される。

 つまり人間は自らが作ったものから再び別のものを作っていったのだ。作ったもの、発見したもの同士を組み合わせるのだ。私は以前ある論文に次のように書いた。

物を創造することは、それがどんなことであれ、愛情表現もまた根幹的な創造行為の一つであるが、それは色々な事態を交差させることである。例えばその一つとして住居を空間的に確保することと、建造物に時間的耐性を保たせることである。もう一つは、愛情は自分と他者の感情の襞を交差させることである。信頼の根幹にはそれがある。その二つに最も必要なことというのは何かを想像出来ることである。それは過去に対する記憶の確保とそれと関連した未来への想定意識である。これがあるからこそ色々な感情を重ね合わせ、交差させて複雑な感情を形造れる。感情が複雑になればなるほど創造のレヴェルは進化する。」

 つまり人間だけが創造したもの同士を組み合わせて更に複雑で高次なものを創造出来たというわけである。それはメタ認知能力によって喚起されている。単位を認識し得た段階で既に我々はそれを利用することが可能となる。単位を理解してもそれを利用出来ない(動物にように)のであれば人類は文明社会も構築出来なかったし、従って核兵器も生産しなかっただろう。

 心臓の鼓動に対して耳を澄ます→自己身体存在への認識→単位を表象する=音楽、数学の創造→創造したものを組み合わせる→文明と破壊の能力を確保

 これが人類学的に発想した時の私の考えである。

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文字・貨幣・映像

 人類の文明において最大の発明は文字そして貨幣、映像の三つであると言ってよいと私は考えている。

 今映画やグーグルアースをはじめ、多くの映像は3Dを志向している。しかしリアルな映像が進化すればするほど、実在のリアルさを極力無意識の内に避ける傾向に人類が向かっているということを示している。全てがヴァーチャルな世界に身を委ねていくことになっていく。ネット社会とかサイバースペースという語彙自体を否定的に捉えても最早意味がないが、サイバースペースもまたこの三つが不可欠に関わっている。文字を拾うということがミニマルなサイバースペースの存在理由であり、オンラインショッピング、株式の売買、デイトレーディングといった全ては貨幣を流動させるためにネットが利用されている現実があり、そしてそれら全てが同時にネット映像に関わっている。

 そもそも米国のテレンス・ディーコン(神経生物学・人類進化学)の言葉を捩れば、レファレンス機能としての言語は、それ自体表象を誘発するシステムになっていて、貨幣という人類の欲望の象徴が既にそのレファレンス機能を交換と商品や価値に対する対価という指示において体現している(お金はそれ自体一つの個的差異性を無効化し、ユーザーを均一化して差別しない)し、映像はそれら一切に欠けている実在感を醸成している。それはレファレンス機能自体の幻想性をより実在性へと転換しようとしているわけだ。

 それら一切は自然とか、肉眼で確認することを最大の幸福としながらも、ビジネス的なビジーネスにおいてそういう余裕を現代人が見失っているということを象徴してもいる。凝った映像(3Dのような)によって実際にタヒチに行き、トロピカルジュースを飲んでいる気分を、埼玉県ででも、ニューヨークででも可能であるという風に代理機能として我々は利用する。それは逆に極一握りの富豪だけが実際に映像を楽しまなくてもそういう風に本当に世界中を飛び回ることが可能であるという現実を一切変えないのだ。

 しかし恐らく最初に聖書が書かれた時期においても自己対象化と、メタ認知とによって我々は既にこの文字・貨幣・映像の進化過程を予兆させていたのかも知れない。

 マックス・ヴェーバーの「古代ユダヤ史」を読むとよく理解出来るが、資本主義の大半の機能(利子、担保といったこと)はこの時期に確立している。要するに最初に人類の欲望を喚起させたのは明らかに文字である。文字とは、端的に自分にとって関係のあることをほんの一部とさせて、自己と全く何の関係もない幾多の情報を全ての人に均等に伝えるという機能を持っているのである。そして文字を持つ文明社会という前提を貨幣は要求するが、同時に貨幣交換行為が言語を進化させるという側面も持っている。ある意味では貨幣経済が成立してから初めて人類は責任を履行する側面から発動させた、と言ってよいかも知れない。債権者と債務者の関係を構築しているのは、あるいはバイヤーとコンシューマーを構築しているのも言語行為である(商品とサーヴィスの指示と、消費価値に対する認可)。そして文字と貨幣の流通によって支配された文明は、その範囲内で表象の実在感をリアルに追求出来る。つまり限定的自由を無限に可能にするわけだ。

 そうすることで実際の犯罪を未然に防止しているようなタイプの規制が逆に無差別的通り魔殺人を欲望として煽り立てているとも言えるが、そこから果たした私たちは離別し得るのだろうか?表象的欲望であるところの映像が無限の自由を模索すればするほど我々は自己の身体能力の有限性を知る。有限性を知れば知るほどそこから飛翔したいという欲望だけは増幅される。その増幅された欲望の捌け口こそが映像のリアルさというわけである。

 私たちは言語行為をし始めた瞬間から既に閉じた世界からしか無限の欲望を追求出来なくなっているのである。私たちは実無限という幻想を可能無限というリアルで理解しているのだろうか?それは未だ解明されていない。

 しかし表象のリアルな具現化によって私たちは益々リアルとアーティフィシャルの境界を曖昧化していくだろう。

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2009年7月22日 (水)

熱狂・協調性・孤絶

今日、皆既日食があった。その番組が多く編成されて、あまり天候のすぐれない区域もあったようだが、ゲストに呼ばれた人たちが理想的映像を見せられると感嘆していたのが印象的である。

私は幼い頃からそういう風に大勢で熱狂することが不得手なタイプだったし、どこか有名な観光地に家族で出かけても、大体一度ははぐれてしまい、結局一番重要な名所の部分を見損なったりしたそういう思い出の方が多い。だからスポーツを観戦するのもずっと嫌いだった。

 しかし不思議なもので、年齢を重ねていく内に徐々にそのように皆が熱狂することについていくことが昔ほど苦ではなくなってきた。これも人生経験によるものなのだろう。つまり若い頃あまりにも協調性とか集団での熱狂に巧く適合していけるタイプの人は寧ろある年齢に来ると、逆に孤独で何かをすることを価値として見出していくのかも知れず、逆に私のように幼い頃からあまり集団での協調性とか熱狂とかに殆ど無関心で、そういう流れについていくことが不得手だったようなタイプの人間は価値的にそういうものの存在理由を年齢を重ねることを通じて理解していくものなのかも知れないからである。

 要するに人間にとって価値とはあまり自分にとって実現されていないけれども、何かそれが実現されたのなら、感動することがあるに違いないと、そう思えることに付与する心理なのではないだろうか?

 確かに皆既日食を見るためだけに遠くまで出かけるだけの情熱が自分にはないと知っていてもやはりもし間近にそういう光景を見たのなら、感動するに違いないと言うくらいには、そういうことを理解出来る年齢にはなった、と思う。

 よく心理学とか脳科学とかでは共同注意という概念が使用される。これは逆に自閉症などだと巧く援用され得ないということで問題にされる人間の能力である。

 恐らく人間は太古からそういう風に集団で熱狂出来るものを模索してきていて、その熱狂を集団で獲得するために努力するという協調性も求められてきたのだろう、と思う。

 だから逆に集団的熱狂が一旦冷めてしまうと、途方もない個的な寂寥感が募ってくる。つまりそこから個が孤立した状態、弧絶と言ってもいいある種の隔離状態というものが価値的に見直されていくという人間の思考経路があるのかも知れない。

 熱狂することは、そうすること自体が価値なのである、と誰しも無意識の内に了解しているように思う。従ってその熱狂自体に覚めた目を持ち、批判的であると、人間的にはあまり協調性がなく、偏屈な奴だと思われたり、その弧絶状態が著しいと怪しまれたりするということは太古からそうだったのだろうと思う。

 私自身は集団的熱狂自体に巧く乗ってついていくことの出来ない成員に対して何ら偏見は持っていない。第一自分こそが真っ先にそういうタイプの代表である、と思えるからである。しかしそういうことが価値的に感じられる理由も理解出来る気がする。特に自然のそういった崇高なる脅威を前にすると言葉を失うという心理もよく理解出来る気がする。尤も私はいつまで経っても、態々そういうものを見るためだけに遠くまで出かけるという気持ちにはならないそういうタイプだろうけれど。

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覚え違い・切り返しの言葉

 どこかの総理大臣が「踏襲する」を「ふしゅうする」と読み、「未曾有」を「みぞゆう」と読んだことは記憶に新しい。しかしもし仮にこの二つを間違えて読んでいたとしても、その意味を理解していたということは十分考えられる。「ふしゅうする」という読みで「踏襲する」ことを理解していた、ということである。しかし六十八、九年もの間日本で生活してこられたわけだから、「とうしゅうする」とか「みぞう」という言葉の響き自体を一度も耳にしてこなかったということも考えられない。すると「とうしゅうする」とか「みぞう」という響きを耳にした時どのような漢字で示すと考えていたのだろうか?氏の脳裏には恐らく全く別の漢字を当てて理解していた、としか考えられない。

 しかも「怪我する」を「かいがする」とも読んだのだからこの漢字が出てくる度にそう読んでいたわけだ。しかし「けがする」ということを聞いたことがないということはあり得ないだろうから、「かいがする」と読んで、ではそれが一体何を指示すると理解していたのだろうか?その極めてユニークな理解の仕方自体に私は関心がある。氏の漫画好きとかのキャラクターよりもずっとユニークである。

 何か嫌味なことを他人から言われた時の切り返しの言葉をここで二つほど示しておこう。

 一つは夫が出世したので、管理職や役員たちの妻との交際をするようになっていき、ある日パーティーで今一つ空気が読めないことを主催者に次にように揶揄されたとしよう。

「まあ、それにしても近頃のご夫人ときましたら、何て空気を読まれるのが不得手なんざましょうね。」

 そういう時には次のように切り返そう。

 「まあ、私ごときを印象深く観察なさっておられたなんてなんて光栄なことでしょう。私はまた、あまり最初から空気を読むような器用な真似をすることが却って新参者にしては非礼だと思いましたもので、敢えて不器用に空気を読まないでいたものですから。」

 自衛隊とか消防隊とか要するにかなり肉体的に訓練が行き届かないと遂行し得ない業務に就く人が、ある時先輩の隊員に何らかの配慮をかけられたのに、そのことに気づきもせず、無にしたとしよう。その後それとなく彼は次のように耳打ちされたとしよう。

 「俺の好意を無にしやがって、覚えていろよ。」

 そういう時には次のように切り返そう。

 「いいえ、忘れます。私は物覚えの悪い性質なもんで。」

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2009年7月21日 (火)

人間の本質・集団と個・本質的個

 今日衆議院が解散された。解散の公示が衆議院議長によって発せられると議員たちは皆「万歳」を叫ぶ。これはいつ頃から定着してきたのだろうか?戦後からなのか、それとも大日本国憲法時代からなのだろうか?それ以前にも似たような状況では常に日本人は万歳をしてきたのだろう。

 いずれにせよ、四十日後には全てが決するわけであるが、いずれの党が与党になっても、その本質が極端に変わるということはないだろう。勿論政権交代がなされればある程度の内外へ人心一新的イメージを印象づけるということはあるだろうが、四年前に「~チルドレン」と呼ばれた人たちと同じ運命を今回の都議会選などで得た議員たちが辿らないで欲しいと祈っている人も多い筈だし、たまたま今回政権交代という錦の御旗で結束しているM主党はしかし内部においてかなり政策的矛盾を相互に抱えており、一致団結ということは交代実現後にはかなり様相を変えるだろう、ということもまた予測し得るし、J民党にしても、何とか与党としての命脈を保ったとしても、逆に下野しても、いずれにせよ内部における政策的葛藤によって益々昏迷へと追い込まれるだろう。従って今現在の形での結束は与野党において双方とも崩れ去るという可能性の方が大きい。

 人間が何故徒党を組むのかということは、恐らく人類が進化してくる過程において不可避的な成り行きとして愚問に付されてきたのだろう。現代若者気質として私はセクト的な閉鎖性を既に守りの体勢において堅持しているとしたが、どの時代のどの世代の人にとっても集団ということ、そしてその集団内部での自己ということに対する確信が拭い去れないということをたまたま私にとって若い世代と映る人たちが携えているということでしかなかったのだろう。

 私はしかし集団の中の個ということがある意味ではかなり外圧的な規制であり、幻想であるという考えで生きている人の方が圧倒的に好きである。しかしこのような考えのタイプの人はかなり少数派であることは確かだ。集団内部で成功したり、挫折したりということだけがある意味では人間の進路とか指針を明確化するものである、と誰しもそう思うだろうからである。しかし個の側から見れば世界とは自分の死によって終了するのである。いくら自分の死後も社会や人類が永続しても、自分の死後は自分にとって世界は無であるに等しい。そういう考えは決して大きくクローズアップされることなくいつの時代でもひっそりと息衝いてきたのだろう。

 しかし人間には常に両面がある。今回の解散を期に政界から身を退ける人も多いが、その後にも彼らの人生は続くのである。集団内部での熱狂とか自分に対する応援とか、協力とか、離反といったことと、個人間の交流とは全く性格を異にしている。あるいは集団内部で知遇を得た同士や同僚と、個人的に知遇を得た友人との間も性格を全く異にする。集団内部で成功しないタイプの人でも集団という枠外でなら幾らでも成功することは可能であるし、仮にそういった一切の成功が自分の身に起きることのない人生も依然人生は終わらない。宗教はそういった社会的地位とか社会的成功とか権力とは一切無縁の立場から考えている。そこが精神的な宗教思想のグローバリティーである。

 また現在の状況下での様々な失策とか奇策といったことでも、時間の経過に伴った全く評価を変えていくこともあるだろう。つまり全ての現在における価値判断とは、時間と共に変化するのだし、それは今現在ということが常に過去と未来を抱えているということからも必然的真理である。集団内部での幻想において人望のある人でも、一旦集団から外れてしまえば一切の人望を失ってしまうということもあるし、その逆もあるだろう。兎に角集団ということと個とは常に裏腹の関係にあるが、集団に対する個ということではない本質的個ということもあると私は考える。

 第一私は常に私の内部に実質的他者を抱えて生きているのだし、その実質的他者に対して常に返答していないままで生活をしていっても、集団内での個か、集団に対する個ということでしか世界を見ることが出来ない。世界は常に集団のためにも、集団内での個のためにも存在しない。私という内部の実質的他者との語らいの中にのみ世界は存在する。そのことを本質的に見抜いている政治家がどれくらいいるのか、ということが本当は一番重要なことなのである。つまり政治家である以前にまず本質的個での実存が形成されているのか、ということが最大の価値的規範なのである。

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2009年7月20日 (月)

今現時点での自分しか中心に出来ないことの本質

哲学者、永井均氏は「倫理とは何か」において、独今主義とか唯今主義といった独自の見解を展開しているのだが、そこには一つ重大な隙間があるように私には思える。

確かに人間は今便意を催したのなら、即座にトイレに行きたいと願うだろうし、そういうレヴェルでは常に今現時点での欲望に支配されている、と言ってよい。例えば確かに腹が減れば飯を食べようと思う。しかし同時に行為目的的な意味では常に人間は未来へと向けて行動している、と言える。朝会社に向かうのは、向かった先のオフィスで仕事をするためであり、オフィスでパソコンの画面でエクセルやメールの遣り取りをするのも、そうすることで今月末の給料を貰うためであり、要するに常に何らかの形で未来のあること、それは報酬であったり、消費であったりその時々で内容は変えるが、常に未来のある時点での何らかの目的(今未来に差し向けられる)のための行動をしている、とも言えるからだ。すると今だけを重視すると言っても、今重要であると思われる未来におけるある報酬(あるいは責任)という形で考えれば、純粋に今のためにのみ何かをするということはあまりないように思われる。

確かに遊びでするセックスなら今の快楽のためにのみするから独今論ということは成立するかも知れないが、それとてそういう風に今を快楽の中に漂うことを通して明日の活力にしているとも言えるし、食事もまた明日まで生命を維持するためであるとも言える。そういう意味では全ての今は全てのその時点での未来へと行為は目的的に位置づけられ得、純粋の今現時点のための行為など殆どなくなってしまう(酒を飲むのも明日の仕事に向けて今日までのストレスを解消するという目的に位置づけられる)。

だからこうも言える。今現時点での未来に関する欲望ということで言えば、また今年の秋には京都に行こうと私は思っているが、少し経って色々な情報が私の生活に侵入してきて、来月の時点では、いや今年の秋は奈良にしよう、と思い直している可能性もある。

つまり今の自分の欲望を常に中心にしてしか考えることが出来ないと私が言った時、それはあくまで今の時点で考えられる未来、将来への想定とか予定を中心にしてしか考えることが出来ないと言い換えることが出来る。

現代の若者は既に自己のテリトリーを死守して、守りの体勢に入っていると私は何度か批判したが、実はこれもまた彼らにとっての未来とか将来という想定の下で、彼らの思惟が固定化されている、と言い換えてもいいのである。それは若い頃の私にしても同じだったのかも知れない。私自身はそういう守りを持っていないと自分では思っていてもその当時の今の私くらいの年齢の人から見れば私は明らかにセクト的な守りの体勢を構築いていたのかも知れない。つまり常に未来に呪縛される、ということもまた今の時点のことしか念頭に入れられないということの別語なのである。つまり今現時点での自分しか中心に出来ない、常に今の自分を最大の贔屓にする、ということ自体が、今現時点で考える未来への想定、予定、展望ということを意味するのである。

しかし脳科学において未来への展望という脳の作用は過去に対する追想と脳活動が似ていると報告されているところを見ると、逆に常にその時点での未来への想定ということは、常にその時点での過去への反省、過去への決別、過去の決算という意味合いを帯びていることにもなる(尤も懐かしいという感慨はそれとは幾分異なる気も私はするのだが)

となると意外と今現在の自分しか中心にすることが出来ないという我々の運命とは、実は常に今現在の過去と未来への想念以外のものではない、ということになりはしないだろうか?つまり常に今現時点での事情しか考慮出来ないという我々の性向自体が、実は常に今ではない時、過去(今まで過ごしてきた時間)と、その今までから引き出されるこれからという両極に支配を受けない今はないという逆説的な性質を明らかにするのだ。

 となると独今論という永井哲学の考え方自体に内包されている、今の自分をしか味方にすることが出来ないということ自体の意味も、逆説的に常に今以外の時間へ向けた思惟や想念が支配していること自体に対する抵抗という形でしか理解出来ないことになってしまう。つまり今に支配されること自体が、今ではない時間系列に支配されるとなると、今度は人間はとどのつまり死ぬまで時間系列的な秩序、あるいは時間の推移自体の呪縛から逃れられないということになる。

 恐らく死だけが全ての時間の推移からの呪縛を解き放つことが出来るのだろう。尤も死んでも時間は推移していくし、その推移を自己を喪失している死という状態が覚知し得ないということだけで、死もまた死の持続という意味で時間に支配されている、と生きている私はそう考えることが出来る(いや死んだらひょっとしたら、時間自体(=永遠の今、一切の変化がないこと)になっているのかも知れない)。

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2009年7月19日 (日)

価値転換を見出す瞬間

 私たちは通常自分が生活している事実に対して大して大きな価値的意味づけをすることなく機械が動くように行動する。例えば朝食を搔きこんで新聞紙を脇に差し込み地下鉄や通勤電車に揺られ、ブリーフケースを片手に腕時計を見て、歩道を歩き、今日一日のスケジュールを念頭に入れる。しかしそういった各瞬間に、例えば動く地下鉄の中で何気なく目にとまった中吊り広告の内容とか、駅構内で見かけた人の仕草とかから、その日一日にするべきこと以外の空想的なこととか、将来への漠然とした希望や不安が脳裏を掠める。つまり予定通りに行動するというルティンの隙間に何ら目的意識のない思惟に放り込まれるそういう空隙に常に行間的に満たされていることを私たちは知るのである。

 するとそういう時実は生活を保守するために行っている仕事の目的とか手段といった意味連関全ての方が実はどうでもいいことであり、そうではないそういう空隙的瞬間の方がずっと生において重要な意味合いを持っているのではないかとそう思えてくる。

 あるいは社会的地位とか目的とか収入や昇格といったことの方が実は幻影であり、実在とはそういう空隙的瞬間に途方もなく放り込まれる思惟の方ではないかとさえ思えてくる。

 どんなに優秀なビジネスマンでも小説を読んだり、演劇を鑑賞したり、美術館で絵画を鑑賞したり、映画館で映画を観たりすることがあるし、ナイターを観戦したり、サッカーの試合に熱中したりする。あるいは休日にはテニスをしたり、近くの山を散歩したり、要するに仕事とか、家庭とか、そういう全ての人生の目的とは少し外れたものの価値を別の角度から捨て去ることなく大事にしている。

 しかし通常それは一番重要な社会的地位とか家族とかを犠牲にしない範囲内で一つの生きる活力を得るためのエキスとして利用しているだけである。しかし時々そのエキスの方が肥大化していまい、当初の目的とか獲得した人間関係全体を犠牲にしてまでも追求していくべき価値があるのではないかという人生を選択する者もいる。

 あるいはそういったことを実行していったエゴイストたちこそ仏陀であり、イエス・キリストであり、ポール・ゴーギャンであり、種田山頭火であったのかも知れない。しかし彼らの存在は彼らのように全てを犠牲してまでもそういう世界に踏み込まない限りで一つの価値として輝きを放っている。しかし一歩その犠牲を顧みない人生を選択してしまうと、そう何もかも価値として認めることは出来なくなる。それは経営者になった立場から従業員の心を従業員であった頃と同じようには理解出来ないというようなレヴェルの価値追認不可能性とも全く違ったレヴェルの価値転換である。

 つまり本当の意味での価値転換はあらゆる価値を並列したものとして容認するような相対主義ではなく、寧ろある時には激烈にバイアスのかかった主観のみを採用したり、行動するためにあらゆるあり得るべき可能性を積極的に捨てていくことを意味するのだ。それは仕事の内容に関してもそうだし、維持してゆくべき人間関係の選択に関してもそうなのである。つまり捨てて削ぎ落として身軽になってみなければ理解出来ない真理が、あるいは主観的になりきらなければ理解出来ない真理があるのである。

 そういう意味では現代経済学の世界における様々な価値転換同様私たちは実は常に昨日までの価値が全くの無価値になっていたり、昨日までの無利益が急激に利益になっていたりといった予想もつかない選択行為を常に瞬間毎に求められている。そういった時にたじろがずに済む方法が一つだけあるように思われる。それは怯んだり、迷ったり、躊躇したりすることもまた一つの習慣である、という認識を持つことである。あるいはそれが正しいとか価値ありと見做すこと自体もまた習慣である、ということに覚醒することである。そしてそういう判断を成立させる日常を獲得していった経緯をもう一度反省してみる必要性があると考えることである。

 歩道を歩いている時行く先は銀行のATMであっても、昼食を取るレストランであれ、その途中で放り込まれる思惟の世界は幾分全て反省的である。つまり人生における行動全般に対する反省的意図がある。しかし意外とそういう瞬間での思惟において閃いた判断に眠っていた価値が潜んでいることも多いと思う。そういう瞬間にああ昨日帰宅途中で立ち寄ったバーで隣の人と会話したこととか、その後で聴きに行ったライヴハウスでのジャズ演奏を聴いたことの効用はあったのだ、と理解するだろう。つまりそれこそが空隙的瞬間の思惟に実在を感じる人生の価値転換を得る瞬間である。価値転換こそが人生を創造的なものにする可能性を秘めている。

 

 付記 十五年ぶり四回目のスコットランド、ターンベリーでの全英オープンゴルフはラストプレイオフにおける熾烈な死闘の末、36歳のスチュアート・シンクが初のメジャー制覇を果たした。16歳のイタリアの新星とか様々な話題を攫った今回の大会では最後まで死闘をチャンピオンと繰り広げた59歳、トーマス・スタージェス・ワトソンの活躍が最大の見せ場だった。ワトソンが最後の土壇場で敗れ去った時、解説の青木功の声が潤んでいたのが印象的だった。久保谷健一が27位タイで日本人では最高だった。石川遼もタイガー・ウッズも予選落ちだった。

 相撲も大詰めとなってきているが、スポーツとは、熾烈な死闘において、どんなにドラマティックな結果をギャラリーが求めても、それを常に裏切るような展開になる可能性を秘めているというところに不条理な魅力がある。終わってみれば必然のように思える展開でも、それが行われている時には常にどういう風にも転がり得る無限の価値転換可能性をその瞬間毎に内包している、それが勝負事の妙味である。

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本音を隠す現代社会生活

現代社会では種田山頭火のような生き方が困難になりつつある、と前回述べた。それは何故だろうか?

 一つには日本社会に以前はあった(昭和三十年代初期まではあった)縁側で隣家の人と話し合うとか向こう三軒両隣的人間関係が希薄化して、より合理化した社会システム内部で、そう安易に他人に私生活を暴露することを慎む都会型の生活が地方都市でも大分定着してきたということが言えると思う。それをより促進したのが規制緩和の波だったのだ。それと共にたとえ自分が住む同地区の子どもたちでさえ他所の大人が叱り付けるというような昔はよく見られた風景も消失していった。あるいはステテコ姿で縁日を歩き回る親父のような姿や風景もとんと見かけなくなった。それ自体はいいことだと大半の市民は思っているし、電車の中で騒ぐ子どもがいても無視しているし、ましてや中学生たちに対してなんて下手に注意でもしようものなら、酷い仕打ちをされるかも知れないと大半の大人は見て見ぬ振りをする。

 だから本音レヴェルでは自分は生き方とか人生観は山頭火を理想とすると思っていても、定年になるまではそういうことは誰にも言うまいと決め込み、そういう本音を只管隠しで生活していく。それは定年後に得た趣味の集いか何かにおいて語り合う時期が来るまで楽しみとして取っておこうというわけだ。

 つまり本音と現代社会の波に乗り遅れまいとする社会的通念との二重性を生きることを余儀なくされているのが現代人なのである。しかしそういう風に二重に生活することに手馴れた手合いばかりが跋扈しているのではなく、極度に下手な輩もいる。そこでそういう極度に下手なタイプの成員は、怨念めいた感情を蓄積するようになり、その中でも特に重症な者が通り魔殺人などを犯すようになる。

 しかしそこまで踏み外さなくても、ある抑圧された感情に時々押し潰されそうな気分に陥ることは誰しもあるだろう。それは現代人の心理的特徴である。その鬱憤を少しでも晴らそうとするために「2ちゃんねる」のような存在がネット社会でもなくならないのだし、また掲示板の極度にモラルを外して書き込みなどを通して欝な気分を解消している。

 現代のいじめとは言葉的な遣り取りが多いというのもそこら辺の発散させたい抑圧した感情が鬱積している、というところに起因している。そもそも本音と建前を二重に併走させて生活するにはまず基本的に一定レヴェルの生活力とか収入が必要なのである。

 どちらかがあれば何とかなる。どちらも欠けていると、かなり現代社会は生活し難い場所である。ブログをするということも一つの気分転換でもあるし、自分以外のそれを探索するということもそうである。私たちは本音が一体どこにあるのか、ということさえ見失いがちである。従って本音を見出し得たのなら、それだけでもう既に苦悩はある程度除去されたと言ってもよい。

 最大の技巧者とは、二重にも三重にも本音を使い分け、別腹で生活して、それぞれの対人関係をこなすタイプの人である。しかしそれを自分で巧く遣りおおせていると勘違いしているタイプも多いから、本質的にそれが得意であるように振舞えているタイプの成員とは、恐らくあまり自分はそういう二重性、三重性が得手ではないと心得ていて、巧く二重や三重にしなければいけないということを避けているということではないだろうか?

 私の友人のKなどはそうである。向こうは向こうで私こそがそうである、と思っているかも知れないが。

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技術としての実務から精神としての実務へ

 音楽には国境がないとよく言われる。だから弦楽器同士とは容易に共演し得る。私は以前インド音楽のシタールとブルースに使用されるドブロ・ギターとは音色が似ていると述べたが、実は邦楽の琵琶にも似ている。もしここにシタール奏者とドブロ・ギター奏者と琵琶奏者が一緒にいたら、何か面白い試みをすることは相互にたやすいだろう。

 この点どんなにそれぞれの楽器が奏でられる文化の専門的研究家よりも彼らが演奏技術という面で相互に交流し合えるという特権の方が説得力を持つだろう。それは文化批評が解釈に留まっているのに対し、楽器演奏はそれ自体が一つの独立した技術であるからだろう。勿論解釈にも技術は必要であるが、文化批評に必要な技術は文章力だけであり、文化コード自体の構造研究という意味では文化人類学には及ばないし、文化人類学でさえ文化間の交流の実務に関しては全く素人である。それはどんなジャンルの表現でも同じである。つまり表現自体と表現全般を解釈する批評とは同列ではない。

しかし意外と面白いことには、画家とは多く実務的能力のない人が多い。例えば演奏家は皆楽譜を読むことが出来るだろうし、それはケミカルにかかわる人が元素記号を習得するのによく似ている。しかし何故だか修復家とか特別の技術を持った人はあるいは別かも知れないが、あまり言語的にかかわる実務、例えば報告書を書いたり、エクセルを使用して表を作成したりするといった技術を持っている人はアーティストには少ない。これは何故なのだろうか?

デザイナーはそうではない。彼らの多くはパソコンを使用するので、技術的な知識を沢山持っている。彼らは報告書を書くのも得意であれば、表を作成することも得意な人が多い筈だ。ここに決定的な社会的実務にかかわるコピーライターとかデザイナーとアーティストとの生き方の違いが横たわっている。

 しかし二十世紀以降の著名なアーティストは多く実務的能力の優れた人も輩出した。それはアート自体の価値において社会的行動ということと精神活動ということが切り離せないと人類が直観的に把握しだした、ということに起因すると思う。故に二十一世紀も既に十年近くが経過した現在、アートの専門に関する資質も、既に実務と、非実務的精神性の二つを両立させるような才気を要求されている、とは言えないだろうか?

 一つには以前にも書いたが、アンチヒーロー志向的感性が人間にある限り、種田山頭火のようなタイプの生涯を送る俳人を高く評価することが私たちに出来るのだから、たとえ実務的能力が欠けていたとしても、それはそれで人生全体には何の支障もないと判断することは可能である。しかしこれからの時代においてそういうタイプの天才が極めて生き難くなっていくということだけは確かではないだろうか?

 これは二十一世紀がパソコンをはじめとする機器全体に対する認識度によって生活を向上させることに直結しているという現実に起因しているのだ、と言える。しかもネット社会でのテロリズムとはウィルスをはじめとするネットサーヴァーテロという社会保安管理上で極めて深刻な不安定要因を抱えているということとも関係がある。従って放浪して生活していた山頭火のようなタイプの生活上でのデカタンス、破天荒さということは益々実質上不可能となっていくだろう。

ここに私たちがハイテク社会に固有のストイシズムが顕在化されるだろう。つまり秋葉原の事件や多くの猟奇的通り魔殺人、無差別テロといったものは、ある意味ではこのサイバーテロ自体を極度に忌避する現代社会の体質が招聘している、とも言える気がするからである。するとそれを出来る限り回避するための最大の方策とは、サイバースペース上での実務能力自体を精神性へと高めるようなイノヴェーションを創出していくということに尽きるのではないだろうか?

その意味ではアート然としたアートが益々ニッチ的な地位へと堕して行くということは避けられないように思われる。アンチヒーロー志向的な娯楽は益々映画の中だけの現実となっていくのではないか?つまりあらゆるデカタンスは商品的付加価値的なものへと移行し、その実践者たちは社会的落伍者としての烙印を押されていってしまうということが必定である、ということである。

あと二十年もしたら、恐らくネット社会とかサイバー空間自体に息苦しさを感じるような社会人は極めて少なくなるだろう。いたとしたら、それは猟奇的殺人者だけかも知れない。つまり技術としての実務という範疇からいつまで経っても抜けきれないという後進性がそのようなタイプの落伍者に圧し掛かっているだろうということである。しかしそのような落伍者はいつの時代にもいるが、やはり大勢となるということは決してないだろう。

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2009年7月18日 (土)

哲学・宗教・科学、そして

 昨今グーグルとマイクロソフトとの熾烈な争いやら、キリンとサントリーの統合といった極めて注目すべき一大ニュースが相次いだ。それは既に世界的規模の競争や統合などが一切の常識とか通念をぶち破る形でしか現状の規模の企業経営を維持出来ないというところまで来ているということを示している。その意味では正統と異端の差異すら明確ではなくなっていくだろう。

私は哲学における日常的にどろどろした感情的縺れ自体を、それを法則化したり、定式化したりすることによって心のメカニズム自体を運命的に引き受けることを思惟的に促進するタイプの開放と救済であるが、それは極めて短いスパンの営みであると前回言った。それは哲学の求めるものが変化ではないからだ。つまり哲学では端的にそういう真理で世界が動いているということを諦観的に見つめる眼差しを重視するからである。

 しかし宗教ではそこに違いがある。つまり宗教では端的にもし変わらないという人類学的、生理学的真理があったとしても、そんなことは一切お構いなしである。つまり変われると信じる者であるなら誰彼なく変わり得るという信仰的な心の営みなのである。

 またそう信じられる者同士の結束が宗教の本分なのである。しかしこの心の営みは果たしてキリンとサントリーのように統合し得るものなのだろうか?

 科学は法則の一般化、つまり実際に反復可能であることから実用、応用を可能とし得るか否かが一大問題である。従って変わらないと言えば絶対変わらないし、変わると言えば絶対変わるのだ。哲学では変わるのに変わらないとそう思えると言えば、それは間違っていないとするだろうし、変わらないのに変わるとそう思えると言えばそれも間違っていないとするだろう。宗教では変わるとそう思える人だけが変わることが出来ると信じるということである。ではこれらはいつまで経っても、永遠に交じり合うことはないのだろうか?

 しかしこう考えれば案外三つは融合し合えるかも知れない。つまり変わるのに変わらないとそう思えることが変わらないということが科学的に真理であり、変わらないのに変われるように思えるし、そう信じることによって変わることが出来るのなら、それはそれで心の持ちようとして科学的に証明し得る、と。すると哲学が短期的な覚醒と、再び元の鞘に収まっていってしまうことをいささか自嘲的に捉えるとすれば、宗教はそれを変えることは可能だと信じることから出発させる。そしてその哲学と宗教の諦観と信仰の間の関係を可能性として融合させ得るのが科学であるかも知れない。つまり科学の法則の一般化の中で哲学の心理と宗教の心理を相関的に位置づけられ得るのなら、科学が哲学と宗教の間の垣根を越えさせることを可能とするかも知れない。例えば哲学者にとって哲学とはそれ自体ひとつの固有の信念があるのなら、それはそれで一つの信仰なのであると科学が見做せば、その時案外哲学において諦観を持つことは心の平静を得るためなのであり、それは特殊なタイプの宗教であると科学が定義し得るかも知れないし、そのように一般化したくなるということ、つまり科学的に証明したくなるということすらも哲学的に認識することは可能であろう。また科学的一般化の真理そのものを信仰論的に考えることも出来る。尤もそれはそれで一つの科学となってしまうだろうけれど。しかし例えば無神論に固有の信念は、意外と宗教的心理と接近しており、無神論者自身が自らを宗教的布教者であると確信することもあり得る。

 芸術(アート)とか文学とはこれらのカテゴリーを容易に越境するようなタイプのセレンディップな発見を直観的に視覚的であるとか文字配列の中で示唆するような心の動きを発動せしめるものである、と言えるかも知れない。

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2009年7月17日 (金)

ここで示される一つの結論・ブログのこと、対人関係・哲学の存在理由

 このブログを最初から来訪して下さっている方に説明すれば、私が罵詈雑言を言っているのは、特定の人から得たことを参考にしているが、特定の個人ではなく、かなり大勢の一般的な人のことを指示している。また常に複数の人のことを念頭に置いている。私のある知人は「ブログに書いてしまうと、これは作品ではないのだからということで手を抜きがちになり、しかもブログに書いたことで安心感が与えられるので、時間を無駄にそちらばかりに費やしてしまったりしがち」であるとメールで私に言ってきてくれた。これは確かに真実を突いている。しかしそれでもここで書いておかなくてはならないこともある。

 私には大勢知人がいる。若い人のざっと百倍くらいの知人がいる。勿論本当に親しい人は少ないのだが。10代後半から八十代中盤に至るまで人間のことを観察するのには事欠かない。ただ奇妙なことにある法則が人間にはあることが判明したのだ。

 それはこういうことである。対人関係で悩む人の多くは、恐らく自分の心の状態を他人がどういう風に気を遣ってくれるか、くれないかということで悩み自体を作っているのが実は自分であるということをなかなか気がつかないということである。

 これは他人に対して自分がどれくらい気を遣っているかということが反映しているのだが、これだけは言えることとして、自分が色々な意味で仕事とか対人関係に巧く言っている時には、その人は他人に対して多少気が強くなっているから必然的に自分ではそうとは気が付かずに失礼なこと、非礼なことを言ってしまうことが多いということである。

 だから逆にあまり精神的に幸福ではない状態、つまり気落ちしたりして悩みごとがある状態では、大体殊勝な心持になって他者に接しているということである。

 特に言えることとは、大体において人間は病の時の方が他者に対して優しい性格になれるものである。しかし自分が一定の努力をした後で何かが報われた時には、あるいはそうすることで他人から信頼を勝ち得た時には逆に気が太くなり、非礼なことを他人に言ってしまうことが多いということだ。だから自分が調子づいた時に他人に対して謙虚でいられとしたなら、その人はかなり人格的に陶冶された優れた人である、と言ってよいだろう。

 しかしこの真理のような人間の対他的感情という奴をモラル論的な位相からではなく、生理学的に証明したという例をあまり私は知らない。あるいはそういうタイプの科学者や医学者もいるのかも知れないが、私自身の勉強不足で今のところ知識を持たない。

 他者の心を掴み取ることが出来ないということ自体が実は自分の心を百パーセント理解しているということはなかなかなし得ないというところに起因しているとも言えるのである。私はこのブログで敢えてあまり気遣いをせずに、思ったことを全て書き綴ってきたが、実は罵詈雑言的な事柄の多くが自分に対してもその都度多少は向けられていたのである。

 つまり他人から見ればそれはあなたのことではないか、と思っている他人が必ず一人か二人は自分にとって誰しも存在する、と考えた方がよい。私は私自身の若い日々に対して贔屓をしている。従って私の若い日々のことを熟知している人は今はあまりいないが、そういう稀有な人から想起すれば私の若い頃のことは、私が今は立派な(優れたという意味ではなく完全にという意味)中年になっているので、私が思い出すよりそれ程優れたものではなかったのかも知れないし、今私より若い人に対して私はかなり辛い点数をつけてきたのだが、実際は私が感じるほどは全ての若者もそれほど悪辣ではないのだろうとも思う。それは私にとって老人と呼んだ何人かの人々にしてもそうなのかも知れない。しかしあくまで私の立場からすれば私はいじめとしか感じられない仕打ちをされてきたとしても、実は向こうは向こうで全く私と同じ印象を私に対して差し向けてきていたのかも知れない。

 それを思えばやはり他者そのものを私は常に私の視線の射程において作り続けてきていると言っても過言ではないのである。だから私は他者のことを罵詈雑言しながら、実はそれと同じことを私以外の全ての人が私に対して言う権利を持っていることを私は知っている。従って私は私の中の実質的他者から告げられる利害ということから言えば、私が最も他人から素気無く言われて、意気消沈している時の、然程自分が悪いとは思えないのに、酷い一言を浴びせかけられた時に無意識に反省へと赴いている時の殊勝な気持ちを寧ろ思い出すべきなのかも知れない。

 しかし通常哲学ではこの種のことを「反省」とは決して呼ばない。しかし何故哲学ではそういう俗な日常的なことを避けてきたのか、ということの根拠も実はそこにあるのかも知れない。それはあまりにもそういうことが多い日常であるのなら、絶えず自分の落ち度を観察する自分が傍らにいる、ということになるから、偉大な哲学者は他者を訴追するような態度に出ること自体を未然に阻止してきたのかも知れないからだ。

 すると哲学が持っている俗であることを忌避する性格はそれなりに合理的説明も尽く。しかしこれはある意味では科学でも同様なことが言えるのではないだろうか?

 私は私自身さえ気がつかない形で若い頃持っていた性格を直視するのが厭で今の若者に見たくはない欠点を一瞬で見抜いているだけなのかも知れないし、未来の老人になった自分を直視することが厭でそういう風に思える老人を避けているだけかも知れないのだ。

 すると私は確かに、一度は徹底的に不快な思いを他者から受けたことをこのブログで書く必要があったが、それをある意味では躊躇なくし得たからこそ、私はもう一つのフェイズへと私の思惟を運ばせることが出来たのかも知れない。つまりそれほど日常的な意味で卑近な対人感情をただ書き綴るのではなく、もっと高次の次元へと昇華させてゆくこと自体もまた一つの人間にとっての苦悩除去法であり続けたのかも知れないと初めて思えだしたということだ。

 すると私にとって批判すべき哲学者や哲学研究者の多くが、実は忌避すべきことを敢えて直視することでそれを乗り越えようとしてきているのなら、それはそれで価値的に評価すべきことなのかも知れない、という思いさえ湧いてくる。しかしこのこと自体は私が童心に帰る必要があるのでも、大人になることを試みるのとも違う気がするのである。

 そもそも大人とか子どもということの境界自体が極めて自由意志と同じように曖昧な設定基準でしかないからである。それは書くということの理由を考える営みでもあるのではないか?つまり私の文章はそれ自体絶対誰かに対して酷く気を落ち込ませてもいるだろう。それは私という存在からして同じである。しかし私は今のところこの存在を止めるわけにはいかないのである。それは私を忌避する者も、私が忌避する者も同じだろうし、そこで展開される行為や性格もそうであろう。

 そのことを知った時(実は最初から薄々それを私は気づいていたのだが)哲学の非日常的な思惟の志向性とは、それ自体一つの人間の苦悩に対する象徴的な是認なのかも知れない、と思え始めるのである。

 恐らく私は私が批判したり、非難したりしたくなる全ての他者から或ることを教えられるのである。それは私自身が全ての他者にとってそういう存在であるかも知れない、ということを。その時哲学の非日常的な俗受けしないことへの転化自体が、一つの私自身のその事実を突きつけられたことからの解放と、救済を意味しているのかも知れない。

 しかしその解放と救済は恐らく物凄く短い一瞬のことなのである。その一瞬の解放と救済というところに、恐らく宗教にはない軽やかさもあるのかも知れない。尤も私は神を信じる者ではないが、宗教の持つ心理的効用(プラシーボ効果)自体は決して否定するものではない。

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友情とは何か

 Kは唯一哲学することを知っている私の友人である。彼は私と違って完全に権力を若くして知った人である。勿論市民として十分な権力という意味で、全国的規模のそれではない。だから当然のことながら権力者の側の立場をよく心得ている。しかしそれだからこそ逆に権力に追随するところがない。それは現今の若者との大きな違いである。

 彼とは来月三浦半島の先まで旅行することになっているが、その時またどんな実りある会話が出来るかが楽しみである。彼とは十年来の付き合いになる。私よりも十九歳と半年くらい年齢が離れているが、年齢差ということが本当の意味で話題や、論議そのものの充実には全く関係ない、ということを知り得る最良の例が彼の存在である。少なくとも私にとっては。

 五十代や四十代の知人でそういうタイプはいない。去年知り合い一番親しい友人の一人であるMはメディア界の大物である(七十代)が、よく未だ死んでいない人のことを死んだと勘違いしていることが多いから、データ収集的な意味ではあまり信頼出来ない。しかしそれと話題が尽きないということはまた別の話である。絶対全てのゴシップを信用しない五十代の知人がいるが、それも極端過ぎると俗が理解出来ないということにもなる。これはある意味では幼形成熟の典型である。世辞の一つも言えないということはある意味では社会的には害毒である。私はその点大いにマジョリティーを積極的に支持する。

 哲学者並びに哲学研究者たちの最大の欠点は俗を理解しないでいいと思っていること、俗を理解することを軽蔑することである。その点Kは誰よりも哲学的思索をすることの出来るタイプであるのに、いい意味で俗を理解している(私をいじめた老人はその逆で悪い意味で俗を利用してきている人である)

 城ヶ島の民宿で彼と生きていく上で必要な俗と、そうではない俗とは一体何であるのか、ということを哲学的に徹底的に語り合ってみたい。専門の哲学者には絶対出来ないタイプの語り合いであるだろうから。また若い哲学青年には絶対に理解出来ないことであるから。 

私にとっては子供のための哲学など糞食らえである。第一私自身が子供丸出しなので、そう言うものを目指す必要がない。「子どものための哲学」と言ったのは永井均氏である。氏自身は極めてノーマルな方であり、極めて紳士的だし、気障ではないダンディーさが備わった方である。しかしもし子どもの心が一番尊いと、そういうことを言って青年の心を掴むことを通しておじさんを軽蔑する若者を作っているのなら極めて危険な言説でもある。そのように意識していなくたってそう結果的になっているという状況がよく見受けられるからだ。分かり合えないと言って孤立している青年を煽っている哲学者もいるが、それなら未だ幸福論を論じる脳科学者の方が危険度は少ない。

 私はよく分かったタイプの態度の人は大嫌いであるが、あまり全てを子供のための哲学命題に還元するような価値を叫ぶ哲学者や哲学青年はもっと嫌いである(永井氏の本意は恐らく別のところにあるのだと私は思う。ただ勘違いしている人がいるだけだ)。きちんと社会経験を積んできてから大人と対等な口を聞けと言いたい。また全ての日本人の優しさを害毒のように吹聴する哲学者もいるが、世の中には必要な協調性とか善良さも沢山あるのである。私は友情を信じられるくらいにはいい意味で俗であり善良な人間でありたい。そのことと真のエゴイズムとは両立し得るのではないか?つまりエゴイスティックであるということは自分の幸福に貪欲である、ということなのだから。

 私はKに対して定期的にゴマすり的なことを言うことにしている。それが対等に語り合うには必要であると考えるからである。モラル論を友情や家族に持ち込むのは危険である。私はその手の似非哲学的輩とは生涯対立してゆくだろう。友情を信じられないし、家族愛を信じられないのなら、いっそ自殺してしまえばよいと思うが、そういうタイプでしかも学歴だけは完全なタイプの学者がかなり大勢いるが、これはかなり危険なことである。これは規制緩和を推奨し過ぎたかつての宰相の責任である(彼はいいこともしたが、極端なところも藤原氏ではないが確かにあった)。

 私は友情を信じるという意味では極めて古いタイプの人間なのかも知れない。しかし教養は必要であると思うが、学閥とか閉鎖的なセクト的人間関係に安らぎを求めるということ自体に示されている、私が否定する多くの学者(Kは学者でありながら学者の限界をよく知っている人である)や自己防衛力だけは巧妙な若者たちは友情という二文字が信じられない、あるということが理解出来ないということなのかも知れない。それは大いに気の毒なことである。論理至上主義を批判した藤原正彦氏の本意がどこにあるかは定かではないが、信頼感を前提として交際の出来ない人がいるとしたら、そういう人が抱く知性は極めて危険ではないだろうか?

 誰とは言わないが、該当する人を多く誰しも見かけるのはないだろうか?信頼するということが友情の基本であり、家族愛も友情を基本としている、と私は考えるからである。

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「国家の品格」と現代若者気質・老成とその隠蔽

 藤原正彦氏の「国家の品格」の中で述べられていることの内、欧米型の論理至上主義に対して憂えている部分には若干共鳴し得るところもあった。

ところで私はあの本の痛烈なる批判者である。例えば小学生の内から英語を教えるとはけしからんという言説にはある教条的民族主義を感じる。国粋主義者の意見をあまり真剣に取り合うものではない。発音くらい小学校の頃から聞き取れるようにしておくに越したことはない。

 英語が一番重要な科目で今後の日米関係においても日本人にとって大いなる遺産となっていくべき英語教育を何と思っておられるのだろうか?あるいは私はパソコンや経済学を小学校の内から教えるのにも賛成である。ただそういうことだけでなく情操教育にも力を入れるべきである、とは思う。その点では日本文化も小学生の内から教えることには賛成である。

 また氏の本の中での論理至上主義批判に関しても同意出来る。

 さて論理至上主義と言えば現今の一定レヴェルに到達している若者は概して論理至上主義者である。しかもそのことに気づいていない。自分のことを客観的に評定出来ないということは若者の特権であるなら、下手に目上の多くの論客たちに対して何だかんだと評定して自らの無知を隠蔽するのは十年二十年早い。それよりも先にまず自分より色々なことを知っている大人に頭を下げ色々質問し捲くるくらいで丁度いいのだ(中島義道の「一度頭を下げればそれで済むことじゃないか」という言葉が嫌いだということもそれなりに理解出来る面もあるが、そうした方が得なことだって多く社会には存在する。そういう言説で頭の固まっていない若者から人気を取ろうとする中島氏の悪辣さはもっと非難されて然るべきである)。しかも彼らの多くは大学教授であるとか世間的社会的地位を獲得している人の意見しか真面目に取り合おうとはしない。それは東大などに在籍している学生だけではなく、ろくすっぽ学歴さえないタイプの青年でも同じである。学歴を鼻にかけることは間違っているが、なくてもどうでもいいと開き直るのも危険である。

 確かにパソコンなどの機器に対する扱いとか一部の能力に関して若者の方が中年以降より上であることは認めよう。しかし社会には色々な多くの経験すべきことがあるのである。大体若者は殆どが大人に比べれば判断力、経験、知識全てに対して劣っているのだから、正直に自己の無知を目上の人に晒し、自己防衛的な策略を持つべきではない。

 何故そうしないのか?それは恐らく彼らが多く大人に対して不信を抱いているからであろう。ある種の若者に中島義道氏が教祖的人気があるのもそういう理由からである。

 しかも相手が著名な人であれば尊敬し、そうでなければ軽蔑するような態度全般に現今の若者に本質直観が十分備わっていないという風に私は見ている。まあ女性ならいい給料を取っている人に嫁ぐということを想定に入れるのはまだ分かる。しかし男性までそういう態度で目上の人に臨むのは困ったことである。まず自分のことを棚に上げて他人を差別する術を身につけている人が若者には多い。しかしそれに負けず劣らず老人、中年にもその手の輩が増加している。

 それは何故か?そうすることによって暗黙の紳士協定を至るところに張り巡らせ、自分の不可侵のテリトリーを死守しているのである。それが老いて感覚的に鈍ってきたことを中年以降の人に悟られたくはないというのならまだ分かる。しかし案外殆どの若者がそういう不可侵紳士協定を考えているのだから、老成も極まれりである。

 まず集団にかかわること、そしてその中から自己の存在理由を見出すことが若者には必要ではないだろうか?しかも自分のことを高く評価しないような集団にも暫くは身を置くという試練も必要なのではないか?何も私ほどいびられて生活してゆけ、とまでは言わない。要するにもっと苦労せよ、と私は言いたい(自分に対して批判的な友人や目上の人と意識的に親しくするのがいいのである)。年寄りの冷や水と思われて結構。今の私はまだ若者に打ち倒されるくらいに脆弱であるとは思っていない。しかしいつかはそうなる日も来るだろう。それを知って今を大事にする、ということしかない。

 バカになりきれない若者が多く存在するということは、逆にそれと同じくらい多く魅力のない中年が跋扈している、ということが言えるのかも知れない。

 私は少なくとも若者から嫌われるくらいにはバカになりきれる大人でいたい。私は小悧巧な青年ではなくもっとバカな青年だった気がする。そのバカさ加減が現在の魅力(?)を作っているとも言える。これからはもっとバカになりきる老人を目指したい。

 人はどう見るかは分からないけれど。

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2009年7月15日 (水)

バカになりきることの価値

今日は久しぶりに隣の駅まで歩き、そこで定食屋で食事してから、借りていた本を引き続き借りて、懇意にしているある現代アートのギャラリーに出向いた。オーナーは私より五歳ほど年長者であるが、ほぼ同世代なので比較的話題が合う。

彼が見ていた瑛九という著名な画家の高価な画集を見せて貰って、色々な話をした(以前私の母はこのギャラリーで瑛九の版画を一枚購入したことがあり、今でも母の実家の玄関の壁にはこの画家の版画が飾られている)

現代の日本人の死因の内でもトップクラスである癌は、彼は何でも自分の意志の通りになるという異様に責任感の強い人の方がなりやすいというようなことを言っていた。医学的根拠はないかも知れないが、あるいは人間の精神的な思惟の傾向がそういう風に病理的状態を招いたり、遠ざけたりするということはあるかも知れない。

つまりあまりネガティヴなことばかり考える人間は必然的に悪運を招き寄せるということである。その意味では哲学者はタイプにも拠るが、あまり深刻に全てを考え過ぎる(いつ自分が死ぬかなどと考え込み過ぎることもこれに含まれる)と、病理的状態を精神的にも身体生理学的にも招き寄せてしまうようにも思う。要するに哲学者はある意味ではバカになりきるということが、下手なタイプの職業ではないだろうか?(だから逆にそうではないタイプがあればかなり天才であるかも知れない)勿論考えること自体に対してバカになりきるということは出来るだろうが、もっと具体的動作を伴うことでバカになりきるという意味では画家とか、研究室に閉じこもるタイプの研究者(科学者とか文献学者)たちは上手なのだろうと思う。

しかし人間がバカになりきるためには、一度は悧巧にならなくてはならない。そうなってからそれを今度は意識的に捨てるのである。

私は古生物学の本を読むのが好きだ。それはそこに提示されている素晴らしいイラストに目が行くということも大きく手伝っているが、カンブリア紀からジュラ紀とか白亜紀までの四~五億年の間に出現した動物たちの身体のデザインを見ると多くは極度に技巧を凝らしたデザインであるように私には見える。その高次の動作とか、高次の自然に対する適応が複雑な形態を可能にしたのだろう。しかし意外と多くの高次の複雑化したデザインの動物郡は絶滅も早かったのだろう。最もシンプルなデザインの動物たちだけが長く絶滅から免れられたということは言えるだろう。人間の身体のデザインは意外とシンプルである。従って行為を動作という形而下的局面に絞って考えると意外と単純な動作しか出来ない(鳥類と正反対である)。

しかしだからこそ我々は思惟において複雑なことを考えることの出来る脳を獲得し得たのかも知れない。しかしその高次の意識が逆にその高次さ故に考え過ぎをしばしば招くという悪弊を人間に齎したから、逆に価値としてバカになりきる、ということを私たちは考えることも出来る。つまり価値として得たものを捨てるという意識的な行為、あるいは無意識に捨てられるようになることを理想にする思惟は、逆に捨てることを意識することが出来るだけの高次の思惟を獲得し得た生命体だけが得ることの出来る特権である。

つまり全ての理屈や思惟の果てに得る真理的結果とは、単純なもの、素朴なものだけが説得力を持つということである。つまりバカみたいに単純であることが一番美しいということである。例えば複雑なデザインの生命は確かにある特殊な環境条件においてはよく適用しているだろう。しかし地球環境は常に大きな意味では激変し続けてきているから、必然的にある特殊な環境に適応しているデザインの生命体は、環境の突如の激変には耐えられない。そこでごく単純でどんな環境条件でも適応し得るようなデザインのものだけが生存を持続し得る。そのような摂理を直観的に私たちは知っているからこそ、時として考え過ぎると、今度は一切深く考え込み過ぎず、もっと単純に物事を理解してみようと意志するのである。そこでオッカムの定理ではないが、虚心坦懐になってもう一度見つめ直すということをする。そうした方がいい場合(そうでなくかなり精緻に考え込まなくてはならないこともあるのだが)もかなりあるとも言える。つまりバカになりきる者のみに幸が訪れることも多いにあり得るというわけである。

瑛九の天才性とは実はかなり億劫であり、難儀である描写自体に没入し得るということで言えば確かにバカになりきることだけで全ての偉業を全うできたとも言える。尤もその行為の持続が極度に彼の生命の維持を縮めたということも言えるが。彼は四十八歳で死去している。しかし彼の偉業が後世に残っているという事実から言えば、人生の価値は確かに長短ではない。

 しかし人生の長短ということについて、幸不幸を考えるとなると、ここから先はやはり哲学の出番である。しかしそれも案外単純なことの中に何か真理があるようにも今の私には思える。つまりバカになりきれる時間を多く持てるということ、しかもそれを意識的にするのではなく殆ど無意識的にそうなってしまうということに何か理想に近い真理があるようにも思えるのだ。そうすることが出来るのなら、そういう人生に死に対する恐怖は希薄かも知れない。しかしそれが幸福であると感じられるか否かは個人毎に違うだろうが。

 付記 今日全米オールスターゲームが行われ、オバマ大統領が始球式に参加し、イチローもバッターボックスに立ったが、彼もまたバカになりきることが出来るくらいに精緻に考え抜かれた野球の哲学と方法論があるが、それは蓄積しつつ、どこかでは意識的に捨てている、つまり常にポジティヴに参戦出来るという精神状態を維持しているのだとしたら、バカになりきれる理想を熟知していると言えるだろう。その理想の状態がどれだけ持続し得るかということを常に目標としている、ということが彼の幸福感情を構成しているのかも知れない。

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もしあなたが文学賞の審査員だったなら

 私は哲学者(職業としての)ではない。またそういう立場になりたいとも思わない。そう言うとあたかも努力すればなれるかのような響きもあるが、そうではない。努力しても無駄かも知れないが、仮にそういうことが可能な道があったとしてもその道は拒否したいのだ。かと言って職業的哲学者たちが一切私の関心の蚊帳の外であると言っているのではないし、私はこれからも多く哲学書を読み続けていくだろう。しかしそれでも尚私は職業として哲学者と名乗ることはこれからもないと思う。

 それには理由がある。私は哲学以外の多くのことにも関心があるからである。それら一切を哲学が専門なので哲学自体に対して害毒であるかのように扱えないということ一事に全ての理由がある。職業としての何々学ということになると、ここから先は一切専門家に任せておこうという紳士協定のようなものが介在するのである。その紳士協定が私はたまらなく不健全なものに思えるのである(従って真に日本国内で尊敬に値する哲学者など一人もいない)。

 しかしそういう立場、つまり紳士協定を要する立場にある人も大勢いることだろう。そこで今回は趣向を変えて、そういう立場にあなたが立った時どういう判断をするかということを考えてみよう。

 

 あなたは三十代そこそこで小説を書いて成功して既に文学全集にもあなたの小説が選出されて出版されていて、印税生活も板についている。そしてあなたは数年前から四十代半ばにして全国で最も権威ある文学賞の審査員にもなっている。あなたは自分のことを他の審査員よりも郡を抜いて天才的文学者であると自負しているとしよう。そして皆が読むための六作の小説を出版社が文学賞候補作として審査員に提出してきた。審査員はあなたを含めて全員で六名である。あなたは六作の小説を全部一週間以内に読み、その内皆が賛成するだろうと思う佳作を二作選び、あとの一作はあなたが一押しの作品である。

 さてある料亭で六人の審査員が集まった。皆でまず二作ずつ候補作を指定することになっている。そのそれぞれの候補作を公開した後、あと一回それを考慮に入れて全部の作品の中から一作あなたの一押しの作品を推すことになっている。あなたはそれぞれに審査員が恐らく推薦するであろう作品二作と、後一作自分が一押しのものを既に用意している。  

 そして皆がどういう作品を推すか興味があったが、あなたの予想通りあなたが皆も推すであろうと思った作品は三人の審査員の作家が指定した。しかしあなたの一押しの作家の作品は誰も推していなかった。

 あなたは全ての審査員の中で最も権力もあるし、最も発言の内容が考慮されるくらいの存在である。さてあなたは誰も推さなかったがあなたは一番優れた作品であると思っていたその一作をどんなに抵抗にあっても、あなたの裁量で押し通そうとなさるであろうか?もしその気になりさえすればあなたならそれが出来る地位にあるのである。

 この時ある意味ではあなたの人間性が試される。自分の本意ではあなたが推す作家の作品が一番いいと知っている。しかしその者が受賞すればあなたはじきにその者の実力に押されて過去の作家になっていく可能性さえあると感じている。それでも尚あなたはその作家の作品を他の人が全く予想していないし、一切注目してさえいないと知っていても推すだろうか?あなたはその作家が天才であることを知っているのである。あなたはそれだけの見る目を持っている大家なのである。さてあなたは?

 実はこのような問いを立てるのは、私自身は全くそういう地位にある者ではないから、果たして全ての審査員はそういうことにおいて自分の将来さえ自分が推す作家によって危ぶまれるということが十分あり得ると知っていても尚そういう作家を選んでいるのだろうか、と常に思っているからこういう風に提出してみたのである。

 このような問いは実は全てのエリアで散見されることではないだろうか?またその問いに対する答がその人自身の嘘偽らざる哲学を示しているとは言えないだろうか?

 つまりこの種の問いを決して専門の哲学者は問わないだろう、と私は思うからこそ私は専門の哲学者にはなりたいとも思わないし、なれないのではないか、と思うのである。

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2009年7月14日 (火)

異性としての男女・母親化と本来的母性・あどけなさを残した欲情

 よく男性の年齢が極端に女性よりも上のカップルなどによって「結婚するまではそうじゃなかったけれど、結婚してしまってからは、年齢はこちらの方が上でも向こうの尻に敷かれている」と告白するケースが見られる通り、女性という性は安定を常に求め、相手が年上であれ年下であれ、家庭を守るという意味では全て母親化してしまう。しかしこれが子供を生み、育てる過程であるならまだしも、子供を持たない状態の内から殆どがそうなのだから、困ったものである。この種のつまらない女性の母親化には一体どういう背景があるのだろうかと問うと、一言で言えばそれは女性の多くが男性を尊敬しなくなってきている、尊敬出来ないという思いを強くしていると言うことが出来る。にもかかわらず一人前に発情することだけは抑えられないと来ているから始末が悪い。

 渡辺淳一氏による「欲情の作法」という本での「女性は清楚であることを男性が望んでいる」という主張は、この女性の惰性的なまでの保守志向に対して昔ながらの男性の側からの幻想を精一杯示したことだと言うことも出来る。

 私はこの一億総母親化こそが人類の危機であると思っている。

  私は十代から三十代までの多くの同性の青年たちとも親しくしてきたのだが、彼らの大半は惰性的なまでに権威随順的であった。彼らは自分に対する差別には敏感であるが、他人に向けられる差別には鈍感だった。そして権力に立ち向かうスタンスを肯定している割には、自分は基本的なところでつまらない権威に縋りつき、出来合いの思想をあたかも自分だけが一番初めに発見したかのように振りかざし従属し批判精神を失っているというのが大半だった。一人も例外はいなかったように思う。今の青年男性に気骨などない。つまりこういった脆弱な男性の側の若くして既に守りの体勢に入っているセクト内での保守安泰的な夢のなさ(閉鎖集団内での小さな権力に満足する)と革新的生き方そのものへの懐疑と、本当は自信など一つもない癖にそれを悟られまいとする保守的自己防衛的老成こそが、女性の側を魅力のない保守管理型の母親的存在へと押し上げているのだ。

 女性は本質的には生理的に男性よりも欲情的な生きものである筈である。要するにいい女性とは巧く男性の側の欲情を引き出し、自分のペースであるのに、あたかも男性の側のペースであるかのように男性に思わせる、いい意味でのあどけなさのある欲情を作ることが出来る人である筈である。これは生物学的に正しい生き方な筈だが、意外と今の女性は戦後民主主義と男女雇用機会均等法以降のかつての日本男性の女性への横暴に対する復讐心からか、観念的につまらない保守思想において革新的パワーを秘めた男性の夢を打ち砕くことに砕身しているように思われる。「私と関わりを持つのなら、全ての私の中の母親に従いなさい」という本音が渦巻いているのである。女性が結婚する相手に対して極度に経済的条件を求めるのもそうした現われである。

ならばいっそのこと昔のように女性は家庭を守るということだけに徹して、一切の雇用機会均等を期待しなければよさそうだが、そういうわけにもいかないのだ。それはそれで必要で、相手の経済力も、相手に自分がいなくても一人で何でもかでも出来るくらいの生活力も全部求める。この欲張り加減とは実は女性の中のいい意味での母性性が、権威随順的守りの若者の存在が跋扈することによって逆に「男性自体がそういう体たらくなのだから、私たちは私たちで自分の身を守るしかない」という変な開き直りを作らせてしまい、いい発現のされ方を阻止されていることからくる一つの結果なのである。つまり多くの女性の魅力のない母親化とは全て男性の責任なのである。

要するに、守りの格好だけは革新的スタンスを示しつつ内実的には守りの体勢の若者たちと、実質的な創造とは縁遠い多くの女性の母親化の二つは実は相互に結束し、それでいて自分自身の脆弱な正体を必死に悟られまいという羞恥だけは一人前に備わっている存在者として残された最後の人間性に対する権利主張しているだけなのである。これは空しいから回りである。

 男性の若者はもっと自分の中の弱さとか浅はかさを誇示してよい。下手に空気など読まず、只管自分の内部に気骨ある精神を蓄積することだけに砕身しておればよい。そうすれば少しは女性の中にいい意味でのあどけない欲情を示すような母性を引き出すことが出来よう。女性は女性で男性に全てを求めず、しかし一定の敬意を男性に認めるようにすると(男性には女性にないシステム化する能力があるのである)、男性の方もそれなりに責任感ある態度を女性に採るようになるだろう。

 要するにいい男性はいい女性が作り、いい女性はいい男性が作る。

 男性はいい意味で駄々っ子であり、悪戯っ子であっていいし、女性はいい母性を示せるようなあどけなさを残した欲情を作っていけばよいのだ。これはそう難しいことではない。いずれの側も異性に全てを求めなければよいのだ。男性は全てマザーコンプレックスなのであり、女性は全てエディプスコンプレックスなのである。その点において例外など一人もいないという諦観だけが相互に尊重し合える関係を構築することが出来ると思う。

 尤も男性と同じように仕事で能力を発揮し得るタイプの女性は自分から率先して女性性を捨ててかかっているタイプの人も大勢いるし、母親と職業人とを両立させようとすることは極めて困難である。従って両立しようと試みるのなら、その時こそ男性の側からの心ある援助を必要としている、ということもあり得よう。その時こそ男女は協力し合うということが求められているのである。

付記・エロスの喪失=組織の肥大化

 政治状況を俯瞰していると、一定の組織の肥大化による飽和状態が、次のフェイズへと押しやっているように思える。つまり一時「人生色々、会社も色々」と言った人気宰相によって命脈を保ったJ民党は最早組織が肥大化したつけを払わされ、自然倒壊することをただ待っている状態になっている。それは組織自体が、収集がつかないくらいに建前主義的な主義主張が罷り通りはするものの、一切の政策的一貫性がなくなってしまったということである。要するに組織自体が大きくなると必然的に対話の中身が形骸化してしまうということだ。それは端的にエロスの喪失を来たすということである。

 女性がどういうわけか全て観念論的な、形骸的な母親のような説教臭さを身につけてしまったということもまた、生殖に伴って発散される筈の(べき)エロスを喪失して、権利主張の面からは男女同権であるということの意思表示が、しかしエロスを伴わない形で顕在化したということが出来る。

 伝統とか実績とかとは、それを踏襲して後に既得権益的に台頭する者に固有の権威随順的態度を醸し出させる。本流とか主流と傍流という差異をあてつけ的に示そうとする小物が跋扈する。しかしそれは倒壊を目前に政権交代を叫ぶ側も同じなのではないか?私たちはまるで何度も何度も同じような演目の歌舞伎を見せ付けられているだけであるようにさえ感じてしまう。当分この政治的昏迷は続き、だから必然的に景気も暫くは低迷するだろう。しかし思惟の自由だけは内的に保証されていなければならないし、今こそそのことを再認すべき時ではないだろうか?

 

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2009年7月13日 (月)

日本語を外国語として聞くとしたら

 私たちは日本人なので、日本人が日本語を話しているところを目にすると、それが街角であれテレビの映像であれ、全て「何を話しているのか」という風に話の内容、意味から聞き取ってしまう。音そのもののクオリアとして認識することはない。

しかし日本語を一切解さない外国人であるなら、彼は恐らく、突然日本にやってきて日本人が話す姿を見て、まず表情と語調から、大体どんな内容のことを話しているかということを音そのもののクオリアから理解しようと努めるだろう。

 ここにアメリカ中西部のある州の牧場で育ち、両親から継いだ牧場で働き続けてきて、州どころか町から一度も外へ出たことがなく全て町の中だけで済ませてきて、白人以外は日系人でさえ一度も見たこともない壮年の牧場主ボブがいたとしよう。彼は日本という国が一体どこにあるのか、第一世界地図を開いて見るということさえしないから知らない。しかし彼は仕事をしていない時間の唯一の趣味が語学だとしよう。彼は今までドイツ語とギリシャ語を勉強をして、日常会話くらいなら話せるし聞き取れるのだ。しかし去年まで使っていたテレビはあまり多くのチャンネルが映らないので、思い切って今年衛星放送が受信出来るテレビを買い契約して、頻繁に外国の諸事情をニュースとして流す局を選択して、ある時毎年のように頻繁に首相が代わるということをテーマとした日本のことが報じられている映像に釘付けになったとしよう。

 そこで地方選の選挙結果を巡って与党と野党の若手国会議員政治家二人が討論している。与党の政治家が心なしか気落ちした表情で殊勝な語調で国民に語りかけているように見える。しかし野党の政治家はやけに勢いのある語調で、国民を説得しているように見える。何を話しているかさっぱり内容は分からないが、何か来るべき選挙についてインタビュワーの質問にそれぞれ返答しているようだ。彼は必死に二人の政治家が話しているその口の辺り、そして顔全体の表情筋の動きに注視している。接続詞であると思われる部分の語調によってその接続詞がどうやら否定辞であるか、それとも起承転結を表すものであるかということは表情全体とか話の展開そのものに対して聞き手が示す反応如何によって判断しようとする。彼は殊更中西部の白人として人種差別撤廃を叫ぶタイプでもなければ人種差別をするタイプでもないが、選ばれた大統領がアフリカ系の血を引く人であるので、大統領に対しては一目を置いておこうとそう思っている。日本はアメリカにとって大切な貿易国であることだけは知っているが、牛の餌とか牧草の肥料とかで時たま日本語のロゴを見かけたことだけはあるから、恐らく技術力の優れた国であることだけは間違いないだろうと思っている。しかし日本の首相の名前など一切覚えないことにしている。そう言えば数年前今年まで大統領だったと人とやたら親しくしていた首相がいてエルヴィスの真似なんかもしていたのが印象的だったが、比較的長く執務していたと記憶していて、時々サミットなどを報じるニュースで前大統領と親しくしている姿が登場していたが、彼は一体今どうしているのだろう。しかしそれもそれほど関心があるわけではないし、第一今の首相の名前すらよく知らないし、毎年代わっているんだから覚える気にもならない。だけれどどうも二人の若い政治家の討論の感じからすると、何やら政界では只ならぬ空気が漂っていて、そのことに少なくともマスメディアだけは必死で報道しているようだ。しかしそのことと国民全体が関心を注いでいるのだろうかということに関することは別のことなのだろう、とも思う。彼にとって大統領選とは極めて関心が高く、かなり真剣に大統領候補者二人の討論を去年も聞いたものだった。そんな風に日本で国家のトップリーダーを選ぶ時に国民全体が賑やかになるなんて一度も聞いたこともない。ともかくまた別の人に首相が交代しそうな雰囲気だけは二人の話から伝わってくる、やれやれ一体いつになったら、日本という国の政治は落ち着くのやら。

 そう言えば従兄弟のスーザンは親族の中で唯一町から出てロスに行って事業をやり、ニューヨークからやってきていた韓国系のビジネスマンと結婚したんだっけ。彼女が一年に一度クリスマスの休暇で町に戻ってきた時に会ったなら、その時アジア人の考え方について聞いてみよう、そう思う。

 兎に角日本語って奴はやたら細かく小刻みに音を区切り、滑らかさが一切ない。彼は息継ぎの仕方が全く自分とは異なるとそう思っている。そして話し方に抑揚が全くなくとりとめのない話し方に少しうんざりしてテレビのスイッチを切り、冷蔵庫から冷やしてあったバーボンウィスキーを取り出しグラスに注いで一気に飲み干した。その時車で買い物に行っていた妻のジュリーが

「ボブ、荷物が一杯あるの、ちょっと出て来て運ぶの手伝って頂戴。」

そう叫んでいるので、どうも車で戻ってきたらしい。ボブは

「分かった今行く。」

 と返答して玄関の扉を開けて外へ出た。妻のジュリーは一切政治には関心もないし、しかも語学など一切関心がない。ただ安物のミステリー小説を読むことだけが趣味である。ボブが多少抱いた日本語という音の世界に対する好奇心も恐らくその日町であったことを告げるジュリーの話に掻き消されて彼の脳裏から明日は一切消え去っていることだろう。

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2009年7月12日 (日)

他人から見た自分、自分の意志を表明するということ、今の自分しか優先出来ないということ

 現代を生きるお笑いタレントを目指す若者にとってかつてのビートたけし、現在現役で活躍している爆笑問題、あるいはそれより少し前の時代に席捲したとんねるず、ダウンタウンといった人たちが憧れの対象であったり、目標であったりするだろう。

 綾小路きみまろの笑いのネタは一定の年齢を積み重ねた人にしか分からない心情、老いをテーマとした実感を残酷に実像を突きつけることで人間の愚かさを描出しているので、若者にはなかなか理解出来ないだろう。

 

 私は三十年前血気盛んな青年であった。その頃のことを今でもありありと思い出すことが出来る。そして平凡な大人が嫌いで反抗的だったし、それでよかったと思っている。だから今の若者にも変に大人の分別をつけずにもっと尖ったままでいて欲しい。空気など一切読めなくてもいいと思う。ただ敵対する者と味方との違いを判断する能力だけは身につけていって欲しい。

 私は三十年前の私自身と会ったのなら相手にもっとこうしておけと忠告するだろう。しかし今は三十年後の私なのだからやはり今の私の味方だから、そういう感情から若い私に干渉しているだけのことかも知れない。既に若い頃の自分の気持ちを全て理解してはいないかも知れないからだ。

 

 経済学者は潜在需要として、これからもっと需要を創出し得る分野の産業とかに関して敏感な察知能力を持っていることだろう。しかし他方経営者たちは、すべからく自分にとって実現し得る能力に対する査定を客観的に冷静に洞察し得るということが求められているだろう。それは経済学者が社会全般に対して俯瞰的な立場を取ることとは正反対のスタンスの取り方となるだろう。要するに他者に対しては幾らでも客観的にああだこうだと言い切ることが出来る。今の政治はもっとこうあるべきだ、とか今のスポーツをもっとこうしたら面白くなると幾らでも批評し得る。しかしそれはその現場で生きる人間にとっては全く何のアドヴァイスにもならない。それと同じように三十年前の私は三十年後の私から見たら不合理極まりない行動に明け暮れていたと思う。しかしそうであったからこそ、今日それが不合理であると思えるような立場にあるのであり、そういう地点に立っていると自覚し得るのであり、それがなくもっと真っ当な行動だけをしていたのなら、今私は真っ当ではない行動に憧れそれを実行しようとしているかも知れない。

 経済学者の考えるような予想絵図に忠実に消費行動へと走る市民や個人はいない。私たちは皆自分の立場からしか世界を見ることが出来ない。他人になることが出来ないということだけが自分の経済行動の全てを決する。

 お笑いタレントを目指す若者たちも、私たちの世代からすれば不必要なほど多くのお笑い系タレントたちが大挙して出演するヴァラエティーやクイズ番組が多過ぎる、とそう思うが、当人たちにとってはそういう風に出演する回数が多いということは生活の上で極めて重要なことなのだろう。その決定的な違いが常に自分と他者との間には横たわっている。と言うことは私に対しても他人は多く私が考える私にとっての合理的行動とかに対して逆評価を下し、その二つは常にずれ込んでいて、自分にとって最良の行動が他人からは矛盾した行動としてしか映らないかも知れない。この酷くずれ込んでいると自分でも思えることに対して、それではいけないと考えることも出来るし、いやそのズレさえ、それがどうしたと言うのだと考えることも出来る。つまりそのようにどうしようかと迷ったりその迷いを吹っ切ったりするというところで初めて意志というものが意識の上で表面化する。

 私たちが何か購入するとかお金を消費行動に結びつけることも同じである。そうすることが生活する上での意志の表明なのである。他人からそっぽを向かれるくらいに不合理的であると思われているのに成功した場合私は他人から推奨され得るような行動をとって成功した時よりも喜びが大きい。「してやったり」と思うからである。

 そういうギャンブル的感性を一切避けるタイプの選択肢をモットーとする生活信条というものもある一方、一切そういう通念を無視して生活していこうと決意する生活信条というものもあるだろう。実は一番重要なこととは、他人全般に対して空気を読むことではなく、自分でこれが自分の意志であると考えることに対して空気を読むということなのである。他人がどう言うかということはそれはそれで一つのバロメータである。しかしその一つの見解に対して自分がどういう態度を採るかということから、全ての価値的な判断が成立するのである。それ以前の読みは全て客観的査定でしかない。しかしその客観的査定が成立するからこそ、自分なりの行動を採ろうという決意や意志が生じもするのである。

 しかし私たちはそうして選択して成功した場合他人が自分の行動を理解していなかった時などは尚更自分に備わった能力だったと思いたいのだ。しかし意外とそれはそうではないのだ。つまり反対されたからこそ自分が敢えてそれにもめげずに遂行し得たのかも知れないのだ。そういう意味では自己選択が完全に自分による意志であることなど殆どないと言ってよいだろう。つまり世間がどう言おうが自分はこれこれこういう行動を採るのだという決意そのものが既に他者存在を念頭に入れてしまっている。

 どんな人生でも若い頃にしてきたことをよかったと思える部分と、もっとこうしておけばよかったと思える部分が共存しているように感じられるだろう。従って寧ろ過ぎてしまったからこそ全てを他人の行動であったかのように客観的に価値判断することが可能なのであるなら、本当の他人の行動を客観的に価値判断することが如何に自分にとって都合のよい判断であるかということを知ることも出来る。つまり三十年前の私の行動とは実は三十年後の私にとって都合のよい形でしか価値評定し得ないからである。

 人間は常に自分の行動を他者の行動との対比でしか判断し得ないが、同時に常に今の自分に対する味方としてしか行動に対する判断もし得ないのだから、二十年後の私のために行動する人間は少ないだろう。第一私は二十年後必ず元気でいるという保証はないのだから。だから人間は常に次の瞬間のためにのみしか生きられない。と言うことは経済学者が考える二年後三年後の予想というものも、常に目先の目的とか利益のためにしか行動出来ないという私たちの性癖を熟知した形でしか立てることは出来ないということになる。それは極めて難しい。

 しかし一寸先は常に闇であり、常に未来に対しては不確実性が付き纏う。この不確実性ということはとどのつまり次の瞬間における私にとってのその時の「今」を最優先させるという考えに他ならない。さっきまではそうしたかったのに、今は全然違うことをしたいと思っている、その連続が私というものが本当にあろうが、それが幻影であろうが、私の生活を支配する原理であることは間違いないだろう。

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暗黙の理解を強制するファシズム・それを助長するマスメディアと出版界

 KYという言葉がかなり定着してきている。これは<空気が読めない>の略語である。 

 しかし私はこの語彙が定着しているその精神的理由が今一つよく理解出来ない。要するに七面倒くさい全ての手続きを省略して阿吽の呼吸で全てを進行させようとするあらゆる知性的策略を封じ込めるアンチ・エリート的発想である。何の世界でも優秀な人とそうではない人がいて、優秀な人がそうではない人を誘引していくということは当たり前である。世間知らずの若者は目上の人の言うことをじっくりと聞くべきなのであり、老いた者は働き盛りの者の指導に配慮すべきなのである。しかし日本では完全に何も知らない無知蒙昧な大衆だけが一番発言権があるかのような空気を作っていく。その空気を煽っているのがお笑いタレントたちである。まさに大挙してブラウン管の空間を支配している。真面目に実務をこなす者を排斥する空気さえある。

 確かに悪質ではあるもののビートたけしたちによるかつてのトライアルにはそれなりの反体制的主張もあった。しかし今のお笑いタレントたちは一部のカリスマ的な思想家や批評家に傾注して特権的発言権を持っている危険な若者(ニートであることを誇示してそれを武器にしてさえいる)たちが言論界は俺たちが采配を振るっているのだと頑として一般的市民が言論に参加することを拒絶するのに似て、若者に人気のないパーソナリティの欠如した大人に何が分かるかという態度で下らないお笑いで政治や学問に対してさえ口出しする。これは一種のファシズムである。未だしも80年代のビートたけし氏らにはそれなりにアウトサイダー的節度というものがあった。しかし最近のお笑いタレントはまさにアラフォーより年長の人たちはもう黙っていろというような空気を発散させている。空気などというものを読むということが四十年くらいかかって会得すると言うのなら未だ分かる。しかしまだそこそこ二十代やら三十代の若造たちがそんな主張をするというのは極めて危険である。無思考、無思想的雰囲気主義の支配を提唱する精神的ファシズム以外の何物でもない。

 私でさえ未だ未だやっと五十に手が届くハナタレ小僧である。しかし若者は若者に固有の主張をしてもいいし、全ての世代と性別の人たちが意見を言うのはいいことだ。私をいじめた老人はあるいはこのKYの先駆けだったのかも知れないと最近は思っている。

 しかし暗黙の内に全てを悟ってしまうような会得術を、しかもその内実をしっかりと同意を得ることなくKYなどと言って認めてしまうことは、閉鎖集団内での特権的進行スタンスを強制的に認めさせる精神的テロリズム以外の何物でもない。

 現代社会のこの種の不気味な暗黙の理解を強制するファシズムを誘引している張本人とはテレビをはじめとするマスメディアと出版界であることは間違いない。それにカルチャーセンター系の機関が同調している。

 本質的にテレビも携帯電話もインターネットも全て空気を読むことが苦手な人をも含めた全ての人たちに対して開かれているべきものなのである。

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2009年7月11日 (土)

忍耐しないようにすること・衝突しないで済むような相互の工夫

私はある老人があまり家庭を持っているのに家庭から顧みられないことからくる孤独を解消するのに都合のよいからかい相手として利用された。彼は私に対してなら何を言っても鷹揚な性格だから怒らないだろうと踏んだのだと思う。皆の前で私のことをからかい自分を優位に立つように見せる。彼は私と二人でいる時にはいつも優しい素振りを見せた。だから私はその豹変振りに狼狽した。それを見るのも彼の息抜きのひとつだったのだろう。

しかし私が一切腹を立てる素振りを控えていたのは私があまり表立って自分が憤慨した姿を衆目に晒すことを潔くないと考えていたから抑制していただけだった。事実彼は私を色々な人間に紹介してくれたが私にとって交際することで益になるようなタイプの人は一人もいなかった。要するに彼は私が一人ぼっちでいることが可哀想だと思い色々な人に紹介してくれていたのだと思う。しかし私は一度として皆で行動しないからと言って孤独であると感じたことはない。

私は以前もし私が失業して食うにも困っていたとして、そんな私を見かねてある人が私に「いつまででもいいから家(うち)にいてくれていいよ」ともし言ってくれたのなら、一体いつまでならいていいものなのだろうか、と考えたことがある。相手は本当に一年でも二年でも自分の家に私が住み込むことになるかも知れないと承知してそう言っているのだろうか?それはただ社交辞令であり、本当のところは一二週間以内くらいには仕事を見つけ、住むところも見つけて出て行って貰いたいのに、それを直接言うのが憚られるから、婉曲に「いつまでも」と言っているのだと考えるべきである、というのが日本社会ではないかとも考えた。

しかし重要なのは、その判断は私が勝手にしていいものなのか、それとも判断そのものにも常識というものがあり、それに従うべきなのかということに関して誰も教えてはくれないということなのである。そのことを思った時私はそういうことを私に言う人には気をつけようと思うことにしたのだ。要するにそう言いながらそれはただ単に相手がそういう気遣いを一切しない愛情の篭っていない人間だと判断されることが嫌で形だけでもそう言っておきたいというそう言う本人の満足を暗黙に認めるべきである、という社交的な強制であると思うようになっていった。

私をねちねちいじめた老人はそういう社交的強制を私に強い、暗黙の了解を私があまり巧く出来ないと私を皆の前でこき下ろし、そうすることで、体で私に暗黙の強制を分からせようとしていたのだと思う。またそれこそが愛情であると信じて疑わないタイプの老人だったのだと思う。

しかし私はその老人に対して一度も歯向かって行ったことなどなかったし、私に対する接し方の本質を理解し始めた時私はただ極力彼と会うことを避けようとだけ決意した。私は基本的に歯向かって全てが相手に了解され得ると考えるほどお人好しではない。そうした方がいい相手とそうしない方がいい相手がいると思っている。そしてそのことを書きたいと思った。その決意がこのブログを私に始めさせた幾つかの理由の一つである。

人はあまり好きではない人同士とは極力会わないように相互に工夫すべきなのである。

昨今の衝動的通り魔、放火殺人事件の犯人たちに恐らく共通するところとは避けてなるべく自分が嫌な思いをする機会そのものを減らすように工夫する仕方が極度に下手だったのではないかと思った。あるいは気分転換の仕方が極端に下手だったのだ。そこで忍耐が忍耐を呼び、段々耐えられなくなっていく。しかし忍耐そのものに耐えられなくなって関係のない人に対してその鬱憤を晴らすという仕方に同情するほど世間とは甘いところではない。

そのことに対しても犯人たちは実はよく知っていたのではないか?つまりそれを知っていながら犯行に及んでいたのだ。一つにはそうすることで社会に忍耐から抜け出ることの出来ないタイプの成員もいるのだ、ということを知らしめたかったということがあるのかも知れない。(それが民族となると去年のチベット族、今年のウィグル族の暴動へとエスカレートするのだ。)

しかし私は基本的に忍耐に耐えられる人間など一人もいないと考えている。あいつは抑制力があると思われているタイプの成員はただ、衝突を避けたいと願っているだけなのである。しかし人間は耐え忍ぶ相手に付け込んで益々からかうのが楽しいと思えるくらいには残酷な生き物なのである。だから忍耐強くあるべきなのではなく、忍耐しなくてはならない状況を極力避けるように相互に工夫するということが全ての社会という局面に求められているのだ、と思う。

しかし意外と言うか当たり前と言うか、社会とはそう真正面から宣言することを絶対と言ってしない。性善説的に「助け合おう」とスローガンを立てる。

しかし最近大分そうでもないタイプの組織も増えてきたと思う。私ももう少し遅く生まれていたのならもっと組織に入って自分の能力を試そうと思っていたかも知れない。私が二十代とか三十代の頃はまだまだ組織自体が暗黙の了解を出来ないタイプの成員に対して冷たかった。最近は大分様々なタイプの仕事の適性が組織でも求められるようになってきていると私は思う。つまり個人プレーが得意なタイプの成員をそれなりに集団内で活かしていこうと考えている人も多くなってきた、と思う。

皆と仲良くしなければいけないという不文律も大分影を潜めてきたと思う。これはいいことだ。暗黙の内に相互に摩擦を避けることを習得することが得意なタイプの人だけが生延びられるほど楽な時代は終わった。摩擦とか衝突においてあまりにも無意味なことだけを未然に防止するような対人関係科学論が無意識の内に私たちの社会に浸透してきているように思われる。その一つが脳科学の物凄い躍進である。

全ての人の幸福がルソーが考えていたように全ての人が少しずつ我慢する社会の実現であるとするなら、消極的に対人関係的に避けられるものなら避けるという逃げによる平和を相互に尊重し合うということの内にあるのではないだろうか?

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悪と責任・悪の可能性に対する思惟の自由

 通常私たちが他者に対して責任を委託する時、決然と責任行為を遂行することを理想の姿として求める。だからそれは時として私たちにとっての生活や幸福を維持するための責任であるから必然的に私たちの生活や幸福を維持するために要求されるニーズが円滑に実現すること自体がデメリットとなるような私たち以外の成員共同体にとって悪となるような行動を採ること自体に躊躇がないということを資質的に問われる。

 例えば私たちがサマーキャンプをしようと山林部に入っていくと、向こうからも私たちと同じ目的で入ってくる一団がいる。そこで私たちの中の代表者は、向こうの代表者とキャンプを張る場所を巡って相互に邪魔にならないように相手と話し合い折衝しなくてはならない。しかしその時相手側の意向だけを考慮し過ぎてこちら側にとって不利になる条件を鵜呑みにするようなタイプの人間であるなら折衝者として失格であろう。

 つまり責任というものにはこちら側の利益が最大限に実現するように何としてでも努力するという、対立する利害の集団や共同体にとっては悪となりきるという資質が問われるのである。

 だから逆に大阪のパチンコ店の放火殺人事件の犯人のような無責任で甘えの濃厚な行動は、そういう責任ある地位の偶像に対して責任を委託する側から責任ある地位の立場の人や彼らによって采配を振るわれている共同体秩序といった権威へ一切の返礼的な努力をすることなく、向こうからこちら側に対して享受し得ることだけを期待する心理に裏打ちされていると言ってもよい。それは主体の欠如した自分で自分の責任を取ることさえ出来ず、しかし犯罪を起こしてしまった自分を裁いてくれることだけは期待するという甘えである。

 この種の無責任さは何度も言うようにウィグル族のような漢民族と民族感情が対立しているイスラム教徒の人々の間ではあまり発生しないだろう。それは彼らが私たちよりも責任感があるという理由によってではない。そもそも共同体全体がその成立基盤において不安定さえを抱えているという状況が、個人と個人の間の感情的遣り取りを円滑に行い得る雰囲気を形成することが出来ないままでいるからである。それは深刻な状況から発する対話の真摯さ(深刻ではないタイプの気楽な会話が成立しない)しかないということに起因する。

 だから少なくとも民族感情の発露そのものが存亡の危機に面しているのではない私たちのような社会では必然的に悪自体が責任ある地位にある偶像に対して求めるだけでなく、私たち個人の内部にも謳歌する自由が成立してしまっているということである。つまり悪の可能性に対する思惟に制限がなくなってしまっているということなのである。

民族感情の発露自体の存亡の危機的状況においては恐らく最低限の溜飲を下げる行為さえ共同体全体で成立すれば、それ以外の内的な悪という自由は制限されていても構わないという、責任ある地位の共同体カリスマ、例えばウィグル族の立場にすれば漢民族に対して決然と抵抗し得る態度の人によって自分たちの民族感情の表現が可能となるなら、それ以外の自由が制限されていても一向に構わないという心理になるのだ。尤も彼らの間でも漢民族との間で円滑な共同体感情が維持出来ればそれに越したことはないと考えるタイプの成員も大勢いるだろうが。しかしその二つの立場は基本的には自由ということから定義し得る態度として同一路線上のものである。

私たちにとっては既に与えられてしまっていて、その状況に対して感謝の念も疑問も一切持たないということから来る精神的欲求の志向の先が無限定であることが、逆に自暴自棄的甘え行動さえ悪の行動の可能性として思惟に浮上させてしまうのである。

そうなってしまうと今度は私たちにとって責任を委託されている立場の権力者の側からも最早どうすることも出来ないことになるのだ。取り締まること自体がまず不可能である。これは政治的イデオロギーによる犯罪ではないからである。もし起こり得る犯罪が政治的共同体全体の利害に関わることであるなら想定し得るので権力の側もいい意味でも悪い意味でも取り締まり得る。しかし個人的な集団全体に対して差し向けられる欲求不満の甘え的発露ということになると、一切誰がそういう行動を取るのかということを想定することが極めて困難になる。まさにスピールバーグの「マイノリティ・リポート」的状況になってしまう。あの映画はそうなることはないという想定の下でのアイロニーだったのだから。

つまり悪の可能性に対する思惟の自由が内的に保証し得るということ(恐らくウィグル族の中では日本で盛んなミステリー小説類のものはあまりないのではないか?)自体が、無責任で突発的衝動的無差別殺人ということまで発生させ得るのだ。

しかしそれでも私たちは既に現在のウィグル族の人民のようなタイプの制限された自由を善としてもう一度そこから民族史自体を遣り直そうというスタンスを取れない地点に立っている。三島由紀夫的行動が不可能な地点に立っていると言ってよい。

すると私たちは既に獲得してしまっている悪の可能性に対する思惟の自由を、いかに社会行動としては肯定的に利用する術を見出していかざるを得ない。

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2009年7月10日 (金)

悪女の魅力

テレビ東京の「ワールド・ビジネス・サテライト」を見るのが好きだ。何故ならその週に必ず毎日出演する解説役の専門家や経済通と、その日だけ単発的に出演する専門家や経済通の意見が食い違う時の両者の表情を観察するのが楽しいからである。

私が数回前の「経営効率一辺倒ではない形での労働の対価と価値評定」において直接的経営効率一辺倒主義こそがコンプライアンス(法令遵守)を逸脱させることになると考え、急がば回れ主義である間接的経営効率から労働の対価を考えてみたらよいのではないかと素人なりに考えてみた。

しかしそのように合理的に前向き志向で考えるビジネスマンタイプの思考は日本では完全にマジョリティーであるだろうが、一方そういった合理主義を一切拒絶することもまた自由であり、その二つが奇妙な形で共存してバランスやアンバランスを形成している、というのが人間の実像ではないだろうか?

率直に言って衝突とか挫折のない人生を送ることが賢明であることを分かっていても尚もっと高次な発想から言えば、一夜にして億万長者からホームレスに転落する人生もまた妙味のあることである、という判断さえ成立する。

そういう観点から言えば、断れるものなら全ての歪な人間関係やら下らない付き合いを断る方が確かにいい。しかしあらゆる断れなさに雁字搦めになって身動きも取れない人生だって、それはそれで結構楽しいのではないだろうか?

 極端に言えばいい女房とか奥さんを貰って賢い息子や娘に囲まれて生活する人生もいいが、悪女に魅せられてずたずたになるまで利用されてぼろ布のように捨てられて絶望するような、気だけがいい、しかし決して先行きに対するヴィジョンを持つことの出来ない愚かな男の人生を送ってみたいと思うことは、ただ単なる恵まれた人間の心の余裕が生み出す幻想だろうか?いや私はそこまでではないものの、それにかなり近い線も体験してきた人生だった。

 19世紀末のアートではファム・ファタルといったことを主題性として持て囃した時期もある。北野武氏はかつてテレビで「本当は関わらない方がいいということを分かっているのに病みつきになる性悪女のような映画を作っていきたい」と語っていたが、私は世間に悪い影響を与えたという意味ではビートたけし、志村けん、タモリ、明石家さんまといった人たちは功罪があると考えているが、そのことと彼らの魅力がずば抜けているということとは全く別のことであるとも考えている。北野映画そのものを私は全部欠かさず見ているし、これからもそれは変わりないだろう。

コント55号初期を除いてそれ以降の二人は健康そのもので、寧ろあまり悪い影響を与えては来なかったと言えるのではないだろうか?寧ろ誠実であり、ヒューマンであり続けたのではないか?だからそれだけ退屈であり続けたとも言える。それに比べるとビートたけしの80年代の番組は悪質そのものだったし、そこで競演するさんまとか志村けんといった人たちも教育的見地から言えば悪質そのものだった。しかしこれは文学などにも言えることなのだが、悪影響を与えるようなものから私たちが学んだことというのは極めて大きいと言える。親から反対されるような悪質なものに憧れ、悪習を身につける、そういうことを学ぶのに格好なグルたる同級生とか一年先輩の同性というのが誰でも一人くらいいた筈である。彼らへの傾斜と親を煙たく思うこと、それが大人になるためのイニシエーションなのである。

 アメリカに滞在していたら、誰しも四文字言葉とかbull shit といった言葉遣いを時と場所を弁えて使用することが出来るようになる筈だ。そういうこと一切を知識に混入しないままでいるということは果たして健康なことなのだろうか?

 つまり悪女には悪女の魅力があり、それは何かを私たちに教えてくれるとさえ言える。

 一介の中年男性に多大な横領金を貢がせてそれからも多数の男性を渡り歩く女性、売春組織を操りハリウッドを支配しようとした女性、スポーツでライヴァルが怪我をさせるように愛人に仕向け、追放されても再びボクサーとしてデビューして再起を図った女性とか色々と紹介された番組が何度かあったが、彼女たちには固有の魅力がある。病み付きになっていってしまう愚かな男性の気持ちが理解出来る、共感さえしてしまうということがある。

 八百屋お七や阿部定の魅力もそうである。

 人間は悪になりきれさえしない技量では大きな仕事など出来はしない。悪のいい意味での魅力を追求出来るくらいに全ての組織や企業が考えるようになった時、真の意味で公平とか正義とか平等とか、友愛とかが理解出来るのかも知れない。

 尤も私は悪の魅力を悪の魅力のままにしておいて、それから真の発展を考えるなどという所業には一生かかわりたくはないが。

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2009年7月 9日 (木)

転職、再起、集団、対立

今の社会ではまだなかなか一定の年齢を超えてから転職することが困難なようになっている。そういう意志や自由が保証されているということと、そうすることがたやすいということとは両立しない。再起を図るにはそれ相応の経済力を要するということ一つとってもそうである。

私は「全体の指揮に如何に軍隊式に服従するかということではなく、如何に創造性を各成員に引き出すことに貢献するかということに対する対価の重要性」について述べたが、実はこれが可能であるということはかなり経営と業績が安定した優良企業に限定されるということが言えると思う。だから逆にどんなに心意気からすればそういう理念を掲げていても創業から間もない弱小企業においては理念とは裏腹に軍隊式の序列とか先輩後輩の差別というものが顕在化するだろう。これは閉鎖的集団に起こりがちなことなのである。しかも血気盛んな若者にこの保守性が浸透しやすい。かつてナチスが若者を洗脳して誇りを持たせて、中年以上の人々を圧迫させることに駆り立てたことを思い出すと、極めて悪辣な指導者の下では弱小企業であれテロリスト集団的様相を帯びやすい。

だから一定の経験のある年配者が転職した時に、そこで働く若者よりも覚えもよくより効率的に仕事をし得るのなら、一挙に上司へ格上げさせることくらいのことはしてもいいが、それすら優良企業ではたやすいことでも、弱小企業ではそうもいかない。

理念と現実は常に著しく乖離している。前回、ウィグル族の反乱においてそういう民族的アイデンティティーが不安定要因を抱える共同体ではあまり衝動的無差別殺人は起こり難いのではないかと考えたが、実際閉鎖的集団であればあるほどそういう衝動は起こり難く、逆に上下関係、序列、経験年数ということがものを言うのであろう。だから安定した優良企業内では上下関係が窮屈ではない雰囲気を作ることも上手であるが、そういう衝動的犯罪をする可能性のある成員も必ず一定量存在させ得るだろう。だから「あんな真面目な人が」というような感想が犯罪発生後に聞かれることが多いのだ。

社会的存在理由が安定化していないで模索中である閉鎖集団内での保守的人間関係と衝動的犯罪発生率の低さと、安定しているが故に欲求不満が生じやすく、衝動的犯罪も一定量発生率が上昇するという二者択一が社会にはある、と考えることも強ち間違ってはいないだろう。閉鎖集団内では対立が表面化しやすいから、逆に対話の重要性が増すが、安定した社会での確固とした存在理由を与えられている集団内ではより働きやすい環境が整備されている(対話もしやすいように設定されている筈であるからと言って対話が濃密であるとは限らない)から、逆に対人関係処理での選択肢が多く存在し、よって対立は逆に隠蔽されやすくなり欲求不満も衝動的になりやすいということが言えるのではないだろうか?

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2009年7月 8日 (水)

事実と出来事・民族の痕跡とアウラ

新疆ウィグル族の動乱をテレビのニュースで見ていると、最近日本の大阪で起きた放火殺人事件のような個人的な絶望を、一人で自殺するとかしないで「見ず知らずの他人を巻き添えにしてしまえ」という考えで履行することに換える犯罪が果たして起きるのだろうか、ということだった。

イランの動乱もそうだし、ミャンマーのような国における動乱もそうであるが、そういう政情も、国家体制に対する安定性における不動点の確立されていなさとは、ある意味では個人的怨恨とか、衝動的甘え的犯罪を誘引する心の余裕を人民に与えないのではないかということが私の脳裏に去来したことであった。

脳科学では私たちの脳はエピソード記憶によって出来事を想起することが出来るが、それは事実記憶とも違うと考えられている。確かに何かの体験したことに関するエピソードを想起するということと、私にとっては生まれていなかったのでラジオのニュースから知るということさえなかった盧溝橋事件とかノモンハン事件といった歴史的出来事は生まれてから見たニュースから知った事実としてだけ記憶されていることとも違う。勿論それらを描いた映画とかそれらのニュース映像を特番などで見た記憶はあるが、それらから得た印象よりは事実関係として記憶されているという要素の方が私の中では強い。

 しかしアキノ氏暗殺事件の全貌に対する知識は私の中にないものの、当時見たニュース映像からその鮮烈な映像の迫力から出来事的な臨場感によって私の中には記憶されている。それは9.11にしても同じである。あるいは上九一色村における麻原彰晃逮捕の瞬間や浅間山荘事件の中継といったことも鮮烈に脳裏に蘇らせることが出来る。

 しかしそのように鮮烈に外部的な事実を出来事的に想起し得るということ自体が私の人生はずっと現在のウィグル族のような運命ではなかったということを物語っている。

 しかしイランでも新疆ウィグル自治区でも日本やアメリカのような国家的安定がいつ訪れるかどうかは定かではないが、少なくとも民族問題が何らかの決着を得た時には、次第に現在の日本のような自己の苦悩を自己内で処理することが出来ず、何の関係もない他人を道連れにするようなタイプの自己本位な犯罪が発生する素地が出来上がっていくだろうとだけは言える気がする。

 私たちの日本社会は確かに今のそれらの国々のような苦悩には見舞われていないが、今度は利己的な犯罪動機が発生しやすく、自分の身はそういう観点からは自分で守るということを意識していかねばならないようなタイプの、別種の通念が発生してしまっているとも言えると思う。国家や民族共同体自体の不安定要因とは、個人において同一共同体成員同士の信頼と異民族や異イデオロギーに対する敵対が比較的分岐しやすいようには意識されているが、私たちのような社会では、アメリカでも時々猟奇的拳銃発砲事件があり、犯人が凶悪な犯行の末に自殺するケースが見られるが、そういう信頼と敵対の対立図式はない代わりに衝動的自我暴発的犯罪にいつ何時見舞われないとも限らないという別種の不安定さと恐怖によって支配されている、と言ってもいいかも知れない。

 このことを考えていた時私はワルター・ベンヤミンの「パサージュ論」で次のような箇所を発見した。ベンヤミンによる一節である。

 

 痕跡(シュプール)とアウラ。痕跡は、残したものがたとえどんなに遠く離れていようとも、近くにあることの現われである。アウラは、それを呼び起こすものがたとえどんなに近くにあろうとも、遠くにあることの現われである。痕跡の中にわれわれは事柄を捉えるが、アウラにおいては事柄がわれわれを取り押さえる。[M16a,4]

 

 ウィグル族の中で発生している漢民族への抵抗とは、ここで言うアウラに支配されている。しかし私たち日本人にとって時間的には遠くなった第二次世界大戦での体験とは痕跡と言ってよいかも知れない。ウィグル族にとってもいつかは昨今の動乱が痕跡化する時期は来るだろう。しかしその時私たちが携えている極度に絶望と甘えが表裏一体化した犯罪が多発する状況さえもアウラとして覚知する時期とその時期が重なりつつあるだろう、とだけは想像することが出来る。

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2009年7月 7日 (火)

差異(運命)と反復(懐かしさ)・価値と価値の組み換え・形而上と形而下

価値とは欲望の呪縛への正当化である、と私は言った。人生は長いが短い。だから永井均氏が「子どものための哲学」が一番哲学的純度が高いと言った時、子どもが一番哲学的であると言っているわけではない。子どもの心を大人が取り戻すということが一番重要なことなのである。子どもや青年は吸収することに忙しく、中年は働くことに忙しく、壮年になると捨てることをしていかなければならない。

だから中年以上の人々にとってハイデッガーやサルトル自体に問題があるのではなく、自分にとってのハイデッガーやサルトルこそが問題なのである。それが実存を生きるということである。それは私にとっての世界やあなたにとっての世界が重要であることと同じである。

私たちの脳は空隙を発見するのが恐らく好きなのだろう。やがて脳はその空隙を埋める欲求を抱き、それが行動を促進する。あまり深く考えていなかった日常からは難解な数学の問題を解くことを求め、あまり考え過ぎた日常は音楽を聴いたり、美しい景色を眺めることを求めたりする。それは脳がそのように求めているということだ。

そして行動し、その行動が価値を呼び覚ます。そしてその価値がやがて行動の原理となっていく。しかし言葉に関わる者は特に形而上的な言葉の世界=認知世界に常に情動の風を吹き込むように心がけなくてはならない。欠如を感じている脳が音楽や美しい景色を求めるように「ないもの強請り」をするのだ。

懐かしさとは前にも書いたが、要するに「今(現在)は~ではない」という形で過去にあったことを追想する時に立ち現われる。行為や経験を積み重ねると次第に暗黙知の量が増加していくから、ある時その形而下的な層が形而上的価値に声をかけ、行動の起爆力になるのだ。行動はなされると意味連関と理念の世界へと定着させられる。反省意識によってそうなる。そうなることによって益々暗黙知が豊富になっていく。経験が認知的にも理解されるようになり、判断力が醸成される。つまり判断力とは行為連関や暗黙知の最終段階での高次の結晶作用である。

一個一個の人間は運命という個固有の差異を生きるし、生きるように常に決意している。それを止めた時には自殺するしかない。懐かしさは「ないもの強請り」による反復欲求である。今現在はそういう状態ではないから、そういう状態であった過去に追想し、それを憧れるのだ。価値とは「ないもの強請り」によって作られている。私たちにとって科学とは反復するものに対する価値付けによって形成されている。従って懐かしさとは科学を生み出す機動力であるとも言える。

しかし我々が生み出した価値(科学も含む)は惰性的反復によって形而上的価値に呪縛されているというもう一つの価値判断を我々に呼び覚ます。そしてこの判断が実存によってその呪縛を打ち砕くという決意を呼び起こす。この決意において行動が形而下的に求められる所以である。従って価値とは多元的なものである筈である。

しかし価値を一元化しようとする惰性は常に私たちに待ち構えている。その時刺激を外部から注入するために音楽や美しい景色を私たちは求める。美しい音楽や景色に思いを寄せるのは恐らく定着された形而上的呪縛から価値の組み換えを脳が欲するから、そこに新たな別種の実存を求めているからである。音楽のリズムや調べを、あるいは自然の風景や自然の脅威自体が世界を神が創造したかのような作り物であるように感じさせつつ、私たちに運命と懐かしさとを同時に覚醒させるのである。その時沈殿していく形而上的価値が再び新たな言葉となって私たちから紡ぎ出されるのだ。

我々の情動は溢れてくれると、それを分節化していこうと脳が画策するが、分節化された価値(形而上)によって呪縛を受けると今度は、それを無化(形而上・形而下)したいとも欲する。そして新たに情動が行動(形而下)によって吹き込まれるわけだ。そこにもまた差異(運命・形而上)と反復(懐かしさ・形而下)が立ち現われている。

この「落としどころのなさ」が生きるということに他ならない。

(Kとの対話による)

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意味習得・恣意性・当たり前である何かを不思議がること

私たちは言語を習得した段階での様々な想像や脳内での思惟を殆ど忘れ去ってしまっている。ソシュールは意味内容と意味作用という風に二分で考え、前者をシニフィエとして後者をシニフィアンとして意味はその連合であると考えた。そして一つの記号は別の諸記号との間の連関においてのみ意味を持ち、一つの記号、例えば木々が鬱蒼と生えている状態の場所を林とか森と私たちが呼ぶこと自体は恣意的なことであり、林はただ単に森があるから、森はただ単に林があるからその相互の隣接とか連関においてのみ意味があると考えた。しかしやはり同じく言語学者のバンヴェニストはソシュールは意味と言語外実在とを混同していると批判している。(「意味の現象学」竹原弘著、参考)

しかしもっと先読みしてしまえば、恐らくある語彙を習得する際に我々は森を林よりはもっと鬱蒼した木々の状態であると認識して習得していた(あるいは林は森よりも木々が疎らな状態であると認識して習得していた)筈だから、まず森を最初に習得した場合は林はそれよりは疎らな木々の群れとして、逆にまず林を最初に習得した場合はそれよりは鬱蒼した木々の群れとして森を理解していた筈であり、つまり森を知って林を習得する場合には、森を想起し、それを連想してそれに関連付けて習得し、林を知って森を習得する場合はその逆となっていた筈である。この段階では意味とは森を連想することによって得る林、林を連想することによって得る森という連想作用自体であった筈だ。そして例えば私にとって林も森も何らかの最初にそのような風景を見ていたということ、つまり原体験があるわけであり、その原体験をその語彙を習得してから暫くは常に思い出していたことだろう。

しかしある時点から、と言うのはもっと沢山様々な領域の語彙を意味理解と共に習得していかなければならないから、必然的に林や森といったごく初歩的な語彙に纏わる習得時における個人的な意味理解的体験に纏わる想起、つまり連想はやがてもっと多くの語彙の習得と理解へと道を譲るようになり、従って大人になってしまった我々が個々の語彙を利用する時、既に個々の語彙固有の習得時体験的なクオリアに対する連想を省略してしまい、完全に意味連関、つまりまさにそこからがソシュールが考えていた恣意性ということなのであるが、相互の語彙間の隣接、類縁性(ウイトゲンシュタインが「哲学探究」において示したような)、カテゴリー連関という概念性において理解するようになる。つまり我々は一々林とか森という語彙を聞いた時、それに付随して「林に入った時木々の間から差す日光が彼の後姿の肩の辺りを直射した時彼のその時の不安を知った」などという文章が与えられると、我々はその全体の情景を思い浮かべはするが、個々の林とか日光とか肩とかいった概念に付随する意味から派生する連想を表象的には思い浮かべはしない。ましてそのような一つの文章が与えられているだけであるならいざ知らず、もっと長い小説世界が提示されている時、個々の意味の連想は全く我々の心的世界には登場せず、個々の行動に対してさえ意識は注がれず、もっと小説世界全体の主張とか、大筋な物語りの運び自体へと意識自体は注がれている。

しかし少なくとも韻文においては言葉の羅列が制限されているから、必然的に個々の語彙に差し向けられる意識が再び重要な役割を果たす。つまり林とか森とかいう語彙が与えられると、途端にそれは私にとっては幼い頃にいつも外で遊んでいた時に見慣れていたあの当時住んでいた家の近くにあった固有の森であったり、林であったりする。つまりそのような連想世界の、表象的連関の要請が小説や散文以外にも韻文を私たちが必要としている、ということなのである。

戦後の分析哲学者や心の理論家たちが考えた「ゾンビ」という概念はまさにその意味連関の忙しい反復だけに追われる現代人に対する心の郷愁が生み出した概念だったのかも知れない。つまり最初に見た林や森に対する語彙習得時における体験的なクオリアを大分見失ってきている現実に対して、そこに郷愁を呼び覚ますことによってものを見ているということ、ものが見えるということ自体に対して不思議さを抱くということからこのような概念を反語的に捏造したのではないだろうか?

もしゾンビならその意味習得時には持っていた筈の原体験的クオリアを想起することが出来ない筈だから、という意味において。

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2009年7月 6日 (月)

「懐かしさ」と「運命」

昨日の夜はいつもよりずっと遅くまで起きて、四時間以上にも渡るウィンブルドン男子決勝を見た。ロジャー・フェデラーが二年ぶりに優勝を奪還した。六回目の優勝である。会場にはボルグ、マッケンローといった私たちの世代にとって懐かしい人たちやサンプラスといった名選手たちが駆けつけていた。映画監督のウッディ・アレンや名優ラッセル・クロウなども観戦していた。

フェデラーの試合を見てテニスに嵌りこむ世代にとっても恐らくいつかは彼の試合は懐かしむようなものになるのだろう。

懐かしさとは一体どのような心的な作用なのだろうか?

私は「懐かしさ」とは現実の苛酷さに対して、自ら只管抵抗をし続けることを断念するということ、つまり辛い道のりではあったが、まあ生きてきたこと自体は価値があったのだと思い、これからも現実の苛酷さを受け容れて生きていくしかないというある種の諦観を持つことから喚起される心的感情ではないだろうか、と考えている。もっと言えばそれは死を受け容れる姿勢が整いつつある、ということかも知れない。

人間がある一定の諦観をよく表す言葉に「運命」がある。つまり人間は「運命」と思う時、何にせよこちらからいかに抗おうとも向こうは押し寄せてくるということに対して、自ら運命自体に対して「いつでもやってこい」という開き直りがあるように思う。運命は自ら切り開くものであり、待ち構えるものではないともよく言うが、そうだろうか?

そもそもそのように自ら切り開こうとすること自体が一つの運命なのであり、待ち構えることの方が本当は難しいのではないだろうか?

生活していく中で向こう側、周囲のものがどんどん流転していっているという感じを得ることがある。しかし一方そういう周囲やあちら側に対する観察をしている自分がいつの間にかどんどん変わっていってしまっている。変わってしまった自分に気がついた時、そのように気がつくまで一切自分の変化に無頓着であったことにも気がつく。その無頓着であったこと自体が運命だったのだ。そしてその運命に気がつかないままでいたということが懐かしさを呼び起こすのかも知れない。

私は全てがあまり懐かしいと思わないと言ったが、実はそのように過去がいつまでたっても過去になっていないということを知り、今の自分をふと振り返って自分の変わり果てたことを知った時突如過去が懐かしいものとして立ち上がるとするなら、懐かしさとは、自らが変わりゆくこと自体が運命であるのにそのことに無頓着である(ありたい)事が、実は時間に身を委ねその身を委ねること自体が既に時間が経過していって二度と元には戻れないことを見つめることを避けているということであり、そのことがもう一つの自分の運命であるということに対して自嘲しているような心の状態であるように思われる。

人間はどんなに死にたくはないと思っていてもいつかは必ず死ぬ。だからその死ぬということで全てが無になること自体に対して、それでも生きてきたということは価値があることであったと思うこと、思いたいこと自体が懐かしさを呼び起こすのかも知れない。

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2009年7月 5日 (日)

世の中自体が遣り過ごさざるを得ないこと・柵と決意(ある知人から伺った話から考えたこと)、そして問うこと

私と親しいあるメディア界の大物は、私と知り合うずっと以前から、私と同年のある人にずっと商売の後援をしてきたという話を私にしてくれた。

彼は要するに水商売をしていて、その内装から出す料理に至るまで親しかった私の知人に相談したりして、そればかりか経済的な負担も彼にして貰っていたらしい。

しかし最近経営も軌道に乗ってきて、これからもずっと彼と付き合うことに嫌気が差して、一切連絡を取ることを止めたということを私は知人から聞いた。

ずっと疎遠だった時期もあるのに、ある時再び急に連絡してきて、お金を貸してくれないかとまで言い出すようなその自分勝手な都合で人を利用するような態度が嫌になったということである。

世の中にはお金でどうのこうのということになると、仕事に関すること、あるいは引越しをしたり、結婚したり、要するに生活上での変化に伴う出費ということ、あるいは両親から受け継ぐ遺産とか借金とか、そういうことから派生する人間関係も多く存在する。だから逆に金の切れ目が縁の切れ目ということもある。しかし金が絡む人間関係も実は色々あって、仕方なくそうなっていく人間関係もあるし、そうではなくいつの間にか自然人的に親しくなっていった間柄で、金の貸し借りをしたり、一方が他方に援助したり、無心したりということもある。

しかも人間関係において最も不思議なのは、合理的に考えれば嫌な付き合いなど一切断ればいいのだが、なかなかそうもいかないこともある、ということである。

それどころかあんな自分に対して邪険な態度を取っているのだから一切気を遣わなくてもいいように思うような相手に対して妙に気にかかったり、何故か嫌いになれなかったりと、要するにその人間関係を維持していること自体に対して合理的説明を加えることが困難な多くの柵もある、ということである。

つまりだからこそある時意志的にある人間関係を途絶えさせてしまおうと決意することも必要だと思ったり、自然と遠のいていったりするということもまた仕方ないとも言えるのである。

しかしそれは惰性的反復であるような仕事内容とか、事業内容とか、要するにビジネス的にもよくあることなのである。しかしそういう決断を潔くタイムリーにすることが出来る人は優秀なビジネスマンであり経営者であるが、実際には意味のない持ちつ持たれつ的人間関係にいつまでも拘って多大なロスを蒙ったり、悪循環的な人間関係の維持に、いつまでたっても抜けきれないままでいたり、ということがある。まるで性悪女に魅せられて、全てを失っていく壮年教師を描いたジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の「嘆きの天使」のような映画の主人公を思い出させるが、それは女性の側にしても、悪い男性に捕まって一生を棒に振るようなこともあるだろう。それは仕事仲間でも傍目から見れば悪影響を及ぼしあっているだけの関係もあるし、ビジネス内容に関しても言えることである。そして友情とか同僚間の人間関係でも言えることである。

そういう悩みをではどこで解消すべきなのかということを問う時、ただ多少対人感情的な面で縺れてしまい、それを修復するために趣味とか息抜きをして解消され得る範囲内のことであれば、どうということはないけれど、そうではなく抜け切ることを必死に願っているのに、なかなかそれが実行出来ないままでいる自分の不甲斐なさに対してもどかしい思いを味わっている人にとって、いい息抜きとしてブログもあるかも知れないし、2ちゃんねる の書き込みもあるかも知れない。そういう意味において私はそういうもの全てを否定する気にはなれない。

例えば老人というものは意外と誰にも相談することが出来ないままで日々悶々としていることも多い。若者の悩みは誰でも聴いてくれると言えるほど世の中は単純ではないが、でもまだ若者にとっての息抜きの方が多く存在するような気が私はする。つまりそれは社会そのものがそういう風に未だ将来のある世代の人に対しては手を差し伸べている気がするのである。

末期医療なども問題化される現代社会は、人生の出発においては多大な祝福とエールが寄せられるが、死に行く人に対して、最早あまり先の短くなった人たちに対しては然程精神的力に真剣になってくれるというシステムになっているようには思えない。幸福な家庭を築いてきてそのことに悔いのない人ならそれでも未だ救いがある。しかしそれさえ果たされていない、しかも仕事的にも一切の成功も、一切のチャンスにも恵まれなかった人も世の中には大勢いる。しかしそういうケースに対しては一切目を瞑るということもまた、社会では仕方のないこととして遣り過ごされる。つまりだからこそ私の知人が面倒を見ていた人に対して知人が十分考えた末に絶縁していったような経緯、つまり柵的人間関係というものが発生してしまうものなのである。

つまりそんな不合理なことを何故と、他人からはそう言われることに拘ったり、なかなか抜けきれないままでいたりするということこそが、人間が生きているということなのである。そして他人に「最近どうして元気がないのか」と尋ねられて事情を話したのなら「何故そんなことに対して真剣に悩むのか」と返答されたり、そういう印象をもたれたりするということ自体に、いつまでたっても悩まざるを得ないということが生きるということであり、人間の出会いであり別れであり、意志や決意が必要だと言い得ることなのではないだろうか?

それに対して真剣に問うことを止めないということから一切の哲学が始まるという気もする。つまりその問いにおいてはやれソクラテスがどうであるかとか、デカルトがどうであるかとか、そういうことというのはあまり重要なことではない。

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経営効率一辺倒ではない形での労働の対価と価値評定

私は経済学に関しても経営学に関しても全くの素人である。そのことを承知で敢えて今回はある思考実験をしてみよう。企業のあるプロジェクトに対する成員の企業への貢献度ということに関してである。

あるプロジェクトに関してそのチームリーダーは統率力を要する。それはある製品を開発し、生産し、流通させる上でのどのセクションにおいても同様である。よりスピーディーに、より完成された製品を、より市場のニーズにマッチした製品を市場へと流出させていく必要がある。しかしどんなに早くいい製品を世に出すと言っても、一定の熟慮とか試行錯誤を要することは言うまでもない。そこで急がば回れ式に、ある本当に価値ある製品、それはP・F・ドラッカーの言うような潜在需要を持った製品であり、商品流通戦略を綿密に立てることである。企業自身がそのような現在のユーザーのニーズだけではなく、潜在的なユーザーのニーズに対応したような商品戦略を打ち立てる必要性がある。そのためには最近のある二十四時間スーパーの社長のようなタイプの統率力ではない形での、もっと従業員全体の主体的創造性を引き出すことの出来る成員が求められているのではないだろうか?統率力という言葉よりも潜在的創造性への喚起力という言葉の方が相応しい気がする。

ワーク・ライフ・バランスということから言えば、世界同時不況の煽りをくらってワーク・ワーク・バランスもまた見直されているということは、一面では極めて終身雇用制の見直しとも繋がる見方である。どれが一番いいのかどうかということは、その人の人生観に関わる問題であり、選択肢は多ければ多いほどいいということだけは言える。

これを今度は商品流通戦略の側から考えると、その戦略プロジェクトチーム内でのニッチとして成員全体のやる気を鼓舞するようなタイプの、しかもそれはただ体育会系のそれだけではなく、もっと成員間の協調性とか、成員間の戦略苦境を乗り切るような心を和ませる成員が必要とされているのではないだろうか?その際お笑い系的センスとか、アート系的センスとかマジック系的センスとかも要求されるかも知れない。どの役割が一番重要であるという査定を予め出すのではなく、戦略プロジェクトの進行に伴って自然に引き出されるように設定するということが求められる気がする。

商品のデザインは、全て生産における物理的効率とユーザーの側が求める使い安さと手頃な価格、そして商品自体の付加価値によって必然的に決定されていく。同様に戦略プロジェクトチーム内での成員の役割も全体の中でのニッチに対する自覚と、その自覚自体が如何に全体的システム内部で必然的に要請され得るかという判断によって決定されていくだろう。

 つまり商品のプロダクティヴな物性(耐久性、ポータビリティ<持ち運びやすさ>)と、生産効率、コストパフォーマンス、潜在需要という観点の全てを寧ろプロジェクトチーム内の各成員に対する労働対価ということの決定基準に持ち込むということは意味がある考えではないだろうか?つまり全体の指揮に如何に軍隊式に服従するかということではなく、如何に創造性を各成員に引き出すことに貢献するかということに対する対価の重要性をもっと重視すべきではないか、ということである。

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データの信頼性と勝敗だけでは推し量れないこと

価値付けというものは一定の経験とそれに伴う成果を要するというのが私の意見である、と私は前回言った。それは権威主義からではない。要するに最初に価値で行為の目的を縛り付けたままでいると、行為の発展可能性やら進化潜在能力を引き出すことが出来ずに終わるということが積極的理由であり、自分に対する過大評価をすることで引き起こす身の程知らずな無駄なトライアルを避けることが出来るというのが消極的理由である。

今回は少し労働に対する対価ということを考えてみよう。

私たちは一定時間内における所定の要求された労働に対する対価として報酬を得るが、実社会ではある個人にとって耐えられることとある個人にとって耐えられないという個人的適性から、それを克服しているかというレヴェルでは労働の対価を設定していない。要するにある人はあまり得意でなないことをしているのだから、同じ労働をしても労苦が伴っているからその我慢に対して褒美で適性のある人の倍報償を与えるというような報酬設定基準というものは通常ない。何故だろうか?

それをしてしまうことには危険が伴うからだ。一つはそう設定することの困難さとは個人的適性とか個人的に耐え得る忍耐内容といったものを客観的に証明することが出来ないということに起因する。もう一つはそのような設定基準を設けることによって必要とされる労働が社会機能維持の観点から著しく不合理的な結果を招いてしまうということにあるのだろう。

しかし今後脳科学が進歩していって一定の忍耐内容の忍耐能力や個人的適性自体を客観的に測定し得るようになっていった場合(例えば脳内をfMRIによってもっと綿密に確認出来るようになった場合)、脳科学計測否定論者たちは騒ぎ立て始めるだろう。外在主義的な計測値だけで全ての忍耐的個人の現象性を推し量ることが、計測主義的ファシズムを招聘するとまで言い出すかも知れない。つまりここで問われていることとは、端的に客観的データというものが成立し得るかということである。ある計測値が示すところは本当にある個人が内的な痛みとか感覚の内容とか感受を示しているのだろうかという疑問である。

しかし私の考えでは勿論計測値は何らかの真理や判断を下す上での決定因の全てではないが、ある程度の一般的目安にはなるということである。勿論それはある判断の正当化への要因の全てではない。しかしそれはどうでもいいというようないい加減なものでもない。「ある程度なら信用出来る」ものである。この「ある程度なら信用出来る」ものであるということに対する認識は比較的最近になって哲学では考えられ始めたものである。戦後世界ではアメリカ人のヒラリー・パットナムがそう言うことを考えていたし、それ以前ではエアも考えていた。あるいはパットナム以降ではコリン・マギンもその代表格である。常識心理学(民間心理学)という考え方もその一つである。

真偽とか正否とか善悪というように二分法にはそれなりに説得力はあるが、存在するものの多くは真偽でも正否でも善悪でもないものの方が圧倒的に多い。と言うよりそもそもそのような価値評定は私たち人間の主観によって形成されてきたものであるに過ぎない。

この文章を書きながら見ていたウィンブルドン女子決勝で姉妹であるウィリアムズの妹であるセレナが昨年の雪辱を晴らしてヴィーナスの三連覇を阻止し制した。

この姉妹は古くはビリー・ジーン・キング、マルチナ・ナブラチロワ、シュテフィ・グラフといったこれまでの強豪の系譜に長く称えられるだろう。

ところでスポーツの選手は理想的にはいつも勝てる方がいい。しかし実際にはそうも行かない。相手も常に勝ちたいと努力しているからだ。従って勝つことに対する栄光を噛み締めることは当然としても、それ以外なら意外と負けてもけろっと早く立ち直るということが選手に求められる適性かも知れない。いつもいつも負けているということは屈辱であるから、そういった状態からは一刻も早く脱する必要はある。しかし常に勝ち続けることは不可能なのだし、スランプの時もある。従ってもし負けてもその瞬間は怯んでしまうだろうが、すぐに立ち直り、勝者を共に称える心の余裕が求められるのではないだろうか?

もし負けてその都度深刻になり過ぎるタイプの選手であるなら、選手生活を持続することに対して適性があるとは言えないのではないだろうか?ここでもいい意味での鈍感力を要するのだろう。つまり、ここにも勝敗という二分法では推し量れない真実が息衝いていると言えないだろうか?

二分法では推し量れない真実、これは意外と重要な哲学的命題である。すると本来資本主義における公平の原理から言えば、労働内容の適性ということである個人に対する対価を決定するということの不合理さえ、計測値によってある程度考慮されて然るべきであるという、二分法、つまり適性があるか否か、あるいは成果が上がるか否かということだけではない判断基準が設けられていく可能性もゼロではないことにならないだろうか?

それは労働に対する社会での存在理由に対する判定の仕方や認識に依存するかも知れない。

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2009年7月 4日 (土)

復習と新たな問題提起、モティヴェーションの単純さと後発的な価値付け

真意とか本音というものは語られる時意外と外圧的強制によって内的に対自己的にも対外的な明示においても歪曲された形で理性論的な合理的説明を与えられていることが多い。それを戦略的に対外的ポーズとして示すというのなら悪辣であるが、そうではなく外圧に屈する形で示さざるを得ないのなら、それは公的レヴェルの強制からの支配に甘んじるということに他ならない。

しかし精神的に余裕のある人間はたいていそう他者に外圧的態度で臨むことはない。またそういう余裕のある人しか本当の意味では他者全般に何らかの感動を呼び起こすことは出来ない。しかしこういう精神的余裕のある人というのは、それ以前には恐らく何らかの形で惰性的業務の反復に耐えられずに苦悩した末に創意工夫で乗り切ってきたという経緯があることが多いと思う。

だが一方惰性的業務の反復を恒常化させて慣れていった人たちは耐えられる自分を構築してきたので、概して創意工夫をすること自体に対して本当は嫉妬しているのに用意周到にそれに気がつかせない悪意の実質的他者によって私でなくされているので、惰性的業務に耐えられない人でしかも創意工夫をしている人に対して疎ましく思い、権力以前的な自己テリトリーを自己中心的に寛ぎあるものにしたいと願うために、小さな支配を望むので、異分子扱いをする。要するにこれが「いじめ」であり、「嫌がらせ」である。これらはある意味では差別一般の中の一つのなかなか消滅しない人間の業のようなものなのである。

 人間が消極的職業選択理由を語る時あまり深く考え込まずに返答する。それこそが本当は本音であり真意であることが多いのに、それでは格好がつかないということから、理性論的に美化してしまう。そしてその美化ということ自体が既に対外的なポーズを取らざるを得ない心理的状況と、外圧的強制に屈するということなのだ。

だから精神科医が「私はあまり集団内の協調性に欠けるので、こういう職業を選びました」とふとしたきっかけに漏らしたとすればそれこそが本音であったという風に受け取った方がいい。それを「精神的に苦悩する人たちに対して少しでもお役に立ちたい」などと言ったのなら、そちらの方を疑った方がいい。画家は別に本当に美を普及するために絵を描いているわけではなく、ただ一人で作業することが向いているから描いていると考えた方が自然であるのと同じである。

だから私は全ての行為を消極的選択理由の方こそ本音であると捉え、それを価値化した考えの下で理性論的に辻褄を合わせていることをあまり信用しないのである。それはフロイトの「精神分析入門」中の最初に示されているかの有名な「言い間違い」においても立証されていると思う。

確かに「生き甲斐」ということは後発的なこととしては重要であろう。だから精神科医が精神科医になってから後に徐々に「精神的苦悩を背負った人々を救済していきたい」と感じ入ること自体は否定すべきことではない。しかし最初からそのような題目の下に精神科医になっているということの方が少ないと思うだけのことである。小学生に漢字を覚えさせる教師たちは、日々理性論的に生徒に意味づけて教えるのではなく、もっと単純な好奇心を芽生えさせ強制的に学習することを楽しく覚えさせるということにするように工夫を凝らすだろう。それと同じことではないだろうか?

私は今後この単純なモティヴェーション(今まで職業選択における消極的理由において示してきた)こそが本質でありと捉えていきたいし、後から捏造した「本質」の方こそ欺瞞的なものであると私は考える。職業選択であるなら、単純にその業務が他の業務よりも毎日していくのに耐え得るということが本音であると私は思うからだ。しかしこの毎日同じ業務をする職業人としての忍耐的適性ということの内にも、一定の成果が自己業績として上がった時こそ、価値的に、例えば精神科医なら「私との対話で患者の人たちが精神的に立ち直っていく姿を見ることは嬉しいし、そこに生き甲斐を感じる」と言ってもそれはそれで説得力があるというものである。価値付けというものは一定の経験とそれに伴う成果を要するというのが私の意見である。

いじめることを特権としているようなタイプの惰性的業務反復主義者たちは、それを生き甲斐とすることが出来るとまで鈍感ではないだろう。たいていそれではいけないと思いつつ重い腰を上げることが出来ないままできていることが多いのだろう。しかし価値付けをするということを志したのなら、そういう姑息な小さな支配に愉悦を感じるということを控えるようになるだろう。小さな支配は自己テリトリーを死守しているようでいて、本当の意味では外圧的強制による利他的欺瞞に満ちているからである。本当に惰性的な日常に耐えられないのなら、それ以外の方法を探るか、その耐えられなさとは何なのかを命題的に追求することが必要である。

しかし感性は鈍磨していく。

例えば先日私は映画を見に行った時少し上映まで時間があったので、映画館の近辺を散歩していた時草刈をしている壮年男性の持つ鎌の先からぷーんと雑草の匂いを嗅いで吸い込んでしまった。その時人間は日常的にはいかに視覚能力に過大な負担と責任を負わせているかということを思った。一説には80パーセントくらい視覚に脳は費やされているが、例えば犯罪捜査などにも視覚的目撃以外でも、嗅覚的ウィットネス、触覚的ウィットネス、聴覚的ウィットネスということをもっと重要視してもいいのではないかとその時ふと思ったのである。つまりその種の感覚的な鈍磨とは、恒常的に責任を負わせている器官(哲学的には感官と呼んでもいい)に対する信頼に対して一定の懐疑を忘れてはいけないということをも物語っている。 

つまりその種の知覚能力に対する慣れに対する懐疑こそが、例えば耐えられると耐えられないということの区別を有効に活かしていくということに繋がる気がするのである。これは恐らくビジネス上での差別化ということにも繋がると思うのだ。

私たちは創意工夫の反復には耐えられる人格を作らなければいけないが、創意工夫を排斥するような惰性的習性に耐えられる人格は放棄しなければいけない。

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消極的職業選択理由と翻訳の問題

ある精神科医がいる。その者が別の精神科医ではない職業の人から「あなたは何故精神科医になると決心したのですか?」と尋ねられて、その者が自分とは全く異なった職業の人であると知ったなら、恐らく「私はあまり集団でやる仕事は向いていない気がしたんです。ですから患者と一対一で対話出来るような職業に向いていると思ったんです。」などと答えるかも知れない。しかしその返答はある意味では彼が「本当に」精神科医になろうと決意したこととは少しずれているかも知れない。いや彼の決心を支えた本質的な理由からすれば瑣末な条件の一つでしかないかも知れない。

しかしそれは本当なのだろうか?

つまり私がそう問い掛けたこととは、実は本音とか真意ということを私たちがあるものとして求めてしまっているということを考えているからなのだ。本音とか真意とかはもっと表面的な理由を前にそれだけではあまりにも心もとないという私たちの不安によって後付的に捏造されたものなのではないかというのが私の考えの中にある。

例えば彼が同じ精神科医同士で何か語り合っている時であるなら、また少し違う返答をしていたかも知れない。そもそも精神科医を医師の中でも選ぶということではその語り合っている相手と全く同じ理由があることも多いから、それとはもっと違った内的な「本質的理由」、つまり積極的職業選択理由を語るかも知れない。

しかし本当にまずそれがあって然る後に消極的選択理由は説明原理的に求められるのだろうか?先ほど私が述べたように逆のことは考えられないだろうか?つまり本当はまず説明原理的な理由があるから、その理由を本質的なものとするために「本当に」精神科医になろうと決意したことが後で理屈づけられ積極的選択理由が拵えられるという風には考えられないだろうか?つまり「本質的理由」自体が、実はア・プリオリに一般的理由が存在していて、それだけでは何か物足りないと感じてしまう私たちの要請に従って理屈づけられる、という可能性について私は考えているのである。

つまり初めて出会う人に対して、その精神科医が不躾にもいきなり「先生は精神科医でいらっしゃいますが、どうしてそういう職業に就こうと思われたんですか?」と尋ねられた時、通常、人が精神的に苦悩する姿を見て助けたいと思いました、と返答することが通り一遍の理想的返答であるとも言える。しかしその通り一遍を相手がどうも求めていないということを察知したのなら(こういう不躾な質問をする者はそういう返答を求めていない可能性の方が大きいから)、彼は恐らくそれを裏切るように返答するだろう。そして積極的で本質的な職業選択理由そのものが内面的にのみ理解出来ることであるなら、それを敢えて告白することが立ち入ったことなので、説明に梃子摺るということを承知しているので、敢えてそれを避けるということを尋ねている相手も暗黙の内にこちらに求めているのではないかという読みが極めて敏感にその精神科医にあるかも知れないからだ。

しかしこのことは実は翻訳に関してもあり得ることである。

通常どのような非ネイティヴな人でもある外国に滞在して最初に覚えることは揶揄する言葉である。日本語であるなら「糞ったれ」とか「あんぽんたん」とか「おたんこ茄子」とか「あほんだら」といった語彙はすぐ習得される。それを英語ではある状況ではこれこれこう言うとかいうことを翻訳することは恐らくそんなに困難なことではないだろう。

Son of a bitch とか idiot とかその状況において該当する語彙を探索することは然程困難ではないだろう。それはこの種の語彙が状況依拠的であるからだ。

しかし一方英語でsadness とかsorrowとかいう意味の言葉をドイツ語で翻訳するとなると途端に困難に直面する。それはこのような抽象的概念である語彙自体が、その抽象精神において深く各言語文化に侵食されているからである。traulichkeit と取り敢えず翻訳することは可能であったとしてもそれが常に可能であるとは限らない。

哲学者の永井均氏はしばしば「ザッハリッヒに」と自らの哲学論文で示している。それはそれを直訳した日本語で「客観的に」と表現する時に何らかの十分に対応しきれてはいないということに対して意識的であるからだろうと思う。それを英語に翻訳してobjectively と言ったとしてもそこで立ち現れる事情は似たり寄ったりであろう。

つまり抽象的意味世界での伝達と把握の仕方の固有の在り方が浮かび上がってくる。つまり抽象的意味世界自体が既にそれ以前的にもっと簡易な意味以前的な伝達しやすさ、把握されやすさによって要請されている、という可能性がなくもないのではないかと私は考えているのである。

これは先ほど最初に触れた職業選択における消極的理由の方が常に実は最初に脳裏に立ち上がり、それでは不十分であるという心理的要請に従ってもっと本質的な理由が必要であると思惟が進行し、後付的に捏造されたとすると、文化自体が後付的な民族共同体的・政治的要請によって捏造されたものだから、抽象的概念が一対一対応として翻訳することが困難であるという論理と容易に結びつく。

つまり消極的選択理由である説明原理の方が実は本質的なのであり、あるいは最初に習得するそれを公的な場で発することが憚られる汚い語彙の方が本質的なのであり、逆のその本質的であることに対して理性論的に「それではまずい」という要請こそが積極的職業選択理由を後で捏造し、あるいは抽象的語彙の「本質的美しさ」が捏造されている、という可能性も考慮に入れておく必要が哲学においても言語学においてもあるのではないか、というのは私が考えたことの意味である。

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2009年7月 3日 (金)

意識・直観・価値

現代哲学(分析哲学、現象学を含む)、認知科学、心の理論といったものに共通する考え方は、一つは意識を機能主義的に捉えるか、還元主義的に捉えるかといった学問自体の方向性によって意味づけられているように思われる。

機能主義的に捉えると意識の内容は、意識の形式、つまり脳科学的には百兆くらいのニューロン(この数え方も色々あるのだろうが、取り敢えずそうしておこう)によって「考えさせられている」と外在主義的にそう捉えることになる。意識は波動関数であるとか、ニューロンの発火現象であるとか、要するに物質とか機械の持っているメカニズムと等価に捉えるわけである。しかしそのように捉える仕方もまた自然であると私たちは考えることが出来る。

しかし一方そのように人間の脳の作用という風に捉えることをしているのは紛れもなく私たちの考えであり、言葉である。つまりそれは端的に心である。心が脳を考えているのである。しかし心は脳を考えているということ自体も我々自身の認識においては脳による作用ということにもなり、このイタチゴッコは止まない。それは一元論に傾きつつあったなら、今度は二元論を見直すような時の仕方に似ているとも言える。

しかし自分というものを学問とか職業とか要するに自分に付帯する形式として捉えた時明白化することとは、意外と人間は自分にはないものを価値として求めるということである。私の経験から言って認知的な形式を重んじるのは若い人の特権である。

それは何故か?

ある社会教育学者はこう言っている。それは若いということは情動が満ち溢れているから、必然的に認知形式的な解釈に価値を認め終始してしまう。それはこういうことだ。自分の情動の豊かさに対する処理に困っているので、理性を拠り所にするわけである。それを価値として崇高に捉えるわけだ。

しかしカントという哲学者に言えることとして彼は決して認知的形式の哲学者であるようには本質的には読み取れないということである。それはデカルトにしても同じである。

私はもうすぐ五十歳になるが、ある意味では肉体の衰えは激しく、徐々に感性自体も形式化していっているのを感じる。すると認知レヴェルのことよりももっと失われた情動を価値として認めるようになっている。理性は情動の豊さを証明するためのものである、という風に。理性は本来備わっている筈である情動を鼓舞するものである、と。

人間は知っていることに対して「知っている」と他者に述べる時明らかにそのことによってそう宣言しているわけだから、説明責任を履行することを前提にしている。

一方あることを「知らない」と他者に告げる時明らかに全く知らないのではないのだ。第一全く知らないことに対しては「知らない」と述べることさえ出来ない筈だからである。「知らない」と告げるということはそう告げることが出来るくらいには「知らない」と言っていることを少しくらいなら知っているということを意味する。ここにも言語行為の責任ということの重さが表されている。

確かにあまりよく知らないことは曖昧であるから「知らない」とそう告げる。しかしそれはそう告げることが出来るくらいには知っているということを意味している。しかし言葉の上ではそう告げることを通して知っていると告げる時とは正反対のことを言明していることになる。

これは言葉の魔術である。つまりこのように本来は茫漠としたものに対して言明をする時、明らかに概念的には「知っている」ということの対になる概念として明確化している。

つまりこの知らないことでさえ「知らない」と言明すること(茫漠なままにしておかないこと)を通して明白化させることこそ把握と伝達の固有の仕方なのである。

何故なのだろうか?ここに言語行為に固有の責任明示性が控えている。

つまり言語行為の言明には否定も肯定も、熟慮することそのもの、正確に判断すること、詳述することそのものへの断念がある。そしてこの断念とは実は、責任が取れることに対しても差し向けられている。何故なら「知らない」と言い切ることによって「知っている」と言い切ることで付帯する責任の重圧から予め自己が没入することから解放させておこうという判断は、逆に責任の重圧を認めたことになるからである。つまり「知らない」と言うことによって「知っている」ことに対してなら説明する責任を取る「構え」を示しているからである。そのように用意している自己を暴露することだからである。つまりそう言うことでそういつもいつもは責任回避することは出来ないと責任回避をすることを断念しているという響きさえここにはある。

先ほどの意識自体が心によって作られていると考える仕方に加担しているタイプの人でもそれが脳による作用であることは認めるだろう。そう捉えることが正しいとは直観ではそう考えている。しかしそう考える一方でそれが何かしっくりこないとも思う(これもまた直観だ)。それは完全に知っていると言明出来はしないものの、少しは知っているということに該当する。

しかし一方人間は自分の思考形態にはないもの、得ていること自体を自覚的ではない形で持っていることを無意識の内に棚上げしてまでも、未だ持っていないことに対して憧れもあるから価値的に見るということも出来るし、失ったものを切実なものであるとして価値的に見ることも出来るので、自己のありようとは正反対の価値に傾倒していくということも十分あり得る。それは本当には自分のことがよく分かっていないということを意味する。

理性的行為である筈の論理的な道筋を立てた説明もまた情動という意識の内容に包まれている。認知的な形式にのみ加担しているのではない。しかしやはり言語はどんなに情緒的な人間でも何か茫洋としたことを言い表す時には明白化した概念を利用する。

 このイタチゴッコは知っていることと知らないことの間でも成立するし、理性・認知・形式と、感情・情動・内容においても言えることなのである。あるいは一つ前の音楽や絵画と言葉による文学との関係でも言えることではないだろうか?

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小説の終わらせ方

小説の終わらせ方にはいつも苦労させられる。

少し前の爆笑問題による学者訪問インタビュー番組で、いつも大体、大田光氏が中心になって話をして、それをゲストの学者が聞くというスタイルになっているのだが、それでも印象的だったのは生命科学者である池上高志氏の話だった。氏は落語を聞くのが好きだそうだが、落語は途中の話が面白いのであり、落ちとは意外とどうでもいいものだ、というものだった。それは確かに言えることである。

これを小説に置き換えると、小説で凝りに凝った落ちを最後に持ってくると、それまでの小説の経過自体が如何に面白いものであっても、落ちの見事さに読者の神経が持っていかれてしまい、案外途中の魅力を読後忘れさせるという欠点もあるのである。

小説とはまさに読んで字の如くであり、途中の小さなエピソード自体が生命であり、その集積なのだから、当然その一つ一つが生命を持っていなければいけない。

これは音楽にも該当することであり、徐々にクライマックスに達し、大団円があっていきなり終結するタイプの音楽(例えばラヴェルの「ボレロ」)、あるいはあまり抑揚がない持続であるような激しいリズムを刻みある時ぷっつりと何の前触れもなく突然終わる音楽(インド音楽のある種のタイプ)、あるいは盛り上がった後かなり長くその余韻を引きずりながら、ある時ひっそりと静かに消え入るように終わる音楽と、色々ある。

つまり終わらせ方がいかに大事かということである。次に書く小説を最後は静かに終わらせたい。と言うのも途中の色々なことこそが主題だからである。人は生きている。自然は息衝いている。街も都市も動いている。そういう一つ一つの描写と、一つ一つの意思表示自体が主題であるような小説である。

小説は音楽や映画と違って、何回も繰り返し聴いたり観たりすることが出来ても、その流れ自体は自宅でCDDVDを利用して鑑賞しても決してある箇所に注意を釘付けにすることが出来ないものとは違って流れとは関係なく、哲学書や専門書を読む時同様に重要な箇所を何度も繰り返しその部分だけ読んだりすることが出来る。そういう鑑賞の仕方が可能である分だけ実際の音とか映像によって想像力の範囲が狭められるのとは違って読む側の自由な想像の領域は広がる。従って文字による表現である小説はそのことにおいて既にきっちりと抽象化されている。つまり実際の音のクオリアとか、映像に写された役者の実像的イメージによって具体性に想像力が限定されることがない。

しかしその分より省略とか詳述に関する選択、つまりどのように具体的に想像を喚起させ、どのように自由に読者の想像に委ねるかという選択の問題が作家の頭を悩ませる。

ことに台詞の分量と、ト書き的部分の説明の仕方、あるいは作家自身の登場人物への思い入れとか登場人物に対する性格的肉付けとか背景の説明、物語進行上での状況説明、世界観の表明がどのようになされるべきかというやはり省略と詳述の配分の問題が極めて重大な要素となる。まあそれは音楽や映画でもそうだし、絵画であるなら具象画であるなら同じような問題は付き纏う。しかし映画や音楽は一度使用したものを案外簡単に捨てることが出来るが、小説ではそれをするのには勇気が要る。(私は意外と捨てることが好きである)

誰だったか忘れたが、ある著名な音楽家は音楽とはいつか終わるからそれは人生を思わせ、その終わるということにおいて全ての音楽はどんなに楽しい音楽であれ例外なく悲劇的である、と言った。まさに言い得て妙である。尤もそれは小説にも付き纏う。しかし小説の場合既に一度も実際の音とか映像が立ち現われていないので、必然的に最初から死んでいるとも言える。そこが演劇、映画、音楽の生の演奏を鑑賞することとの大きな違いである。言葉とは伝える者が伝えている段で既に何かは死んでいるのである。言葉にしたいと思って出来ないでいる状態だけが私たちにとって生きていると言い得るのではないか?

その意味では小説の終わらせ方とは言ってみれば死んだものをもう一度蘇らせるようなタイプの工夫とでも言ってもいいのではないだろうか?その時音楽や映画の終わらせ方は参考にはなると言ってもよいだろう。しかしそれらよりは一層抽象的な読者に対して想像力を喚起させるような巧みな省略が要求され得るのだが。

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2009年7月 2日 (木)

もう一つの結論、実質的他者に対する語らいと私でしかあり得ないこと

 私は実質的他者として時代を読む私というものを考えた。時代を状況とか、最近流行りの言葉の空気と読み替えてもよい。しかしある意味ではこれは全ての存在者に付き纏う運命である。従って自分の中に巣食う自己成立要因としての前提的な他者であるとも言える。つまり私の内部においては必ず他者全般がどういう風に考えているのかということが端的に意識されるからである。

 つまりそれは私が世界に望むものと世界が私に望むものが極端に乖離してはいないような状態を望むということから来る。勿論その両者が見事に一致しているような状態も稀にはあるだろう。しかし大体において自己の努力とは、自己の側からの一方的な世界への願望と、世界が私という自己に対して課す過大な望みとの間の中間に落着するということを誰しもが知っている。つまりそれが今現在私に与えられている能力の限界だからである。   

勿論時として、それは極めて稀ではあるが、完全に後者の基準を遥かに超え得る成果を出す私というものもあるだろうし、逆に世界に対する私の側からの過大な期待に世界そのものが私の努力がそれほどでもないのに、答えるという、要するに「運のよい」状態というものも時として偶発的には起こり得るだろう。(そういうことはそう長くは続かないものであるが)

 私は私の中にある実質的他者に向かって語りかける。これ以上私は世界からの過大な要請には耐えられない、とか、いやもっと私の中の能力に世界が期待してもいいのではないか、と。しかし実質的他者は私に対して「そんなに気負うことなどないよ、あなたにとって精一杯出来ることだけをなせ、必要以上に自己に能力を求めるな」と語りかけてくれる。

 だからある特定の集団内での世界ということで言えば私は確かに求められていないどころか疎ましく思われていたとしても尚、世界全般ということにおいては未だ私の存在理由ということで言えば可能性があるのである。そう私の中の実質的他者が私に語りかけてくれる。それはある意味では都合のよい私の内部での自己弁護であり、実は私でしかあり得ない部分こそが作り上げる<実質的他者である私の内部の部分>がそう語りかけているという風にも考えられる。

 つまり私の内部における世界に対する過大な期待があればあるほど私は挫折を多く経験することとなる。しかし一方私の内部であまり過大な期待をしないまま臨めば全ては世界から私に齎される恩恵、つまり世界がそこそこ私に求めるものに対してなら私は律儀に全て遂行し得るのだ、いやそれ以上私なら出来る、と自信を持って世界に公言出来ることから来る当然の権利として私は願っていたより以上のものを受け取るだろう。その際に私は世界に対してもっと期待してもいいですよ、とそう言い放つことさえするかも知れない。

 つまり私は世界に対して望み過ぎないという形でのみ多くを世界から受け取るということになる。また世界も私からあまり過大な期待をしない限りで私から多くを受け取るという相補的関係も成立する。

 つまり私は世界を<私に対して私からの要求より以上に常に多くを与えてくれる存在である>と認識した段になって初めて多くを世界から受け取るわけだから、私の内部での実質的他者とは私に対して恩恵を与えてくれる羅針盤であるとさえ言える。つまりある意味では常に私の側での世界に対する過大な期待を慎ませる能力こそが私の内部での実質的他者であると言える。つまり世界に対する世界から私への願望や期待という名の要請に対する<適切な読み>、つまり時代感覚をあざとく取り込むことを実践する私の中の読みは、私の内部で自信のなさとか卑屈さとかを払拭してくれるに相応しい勇気として発現される。そしてこの羅針盤である外向けの私を作る勇気が、戦略的に策略的に私の内部の自信のなさを私以外の一切の他者に対して見え難くしてくれる。つまりこの用意周到な隠蔽こそが私の羞恥を勇気へと変換してくれる実質的他者なのである。

 つまり私でしかあり得ないこととは、私は私の内部の実質的他者との語らいをしている状態だ、と捉えることが出来る。これを過去において多くの哲学者たちが理性とか、悟性とか、他者とか、自己とかその時々で立場を変換しながら語ってきたのだ。

 だから逆に私だけでもない多くの私一般に私が成り下がる時こそ、実は私が私でなくなる瞬間であると私の内部の実質的他者がそう語りかけるのである。私は私の中の羅針盤である実質的他者を大切にする限りで私が私ではない本当の他者になることなくその一瞬前の段階に留まりつつ日々の生活を過ごしていくことが出来るのである。

 しかし実に妙なことに自分の中に存在する実質的他者に対して私が感謝の念を忘れるということを意外と私は他者自身が移いゆき私でなくなる言動の中に反面教師として読み取るのである。そしてそれこそが私の内部の実質的他者の能力なのである。そして私は他者から私が私の内部の実質的他者を忘却していることを教えて貰うことを一切期待しないでいる時にだけ密かに私に告げてくれる他者も出現することが多いだろう。それを期待し過ぎることは実質的には私が世界に望み過ぎるということなのだから、必然的に私に語りかけてくれる他者はいつの間にかどこにもいなくなっている。これもまた真理である。つまり私は世界に期待し過ぎない限りで私の過大な努力に対して、もう少し自然体でいいんだよ、と語りかけてくれる他者と邂逅し得るのである。

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2009年7月 1日 (水)

意味や価値‐認知と情動・意志と未来‐挫折や後悔

 私たちはややもすると、意味とか意味体系そのものを価値体系そのものを認知的レヴェルのものとしてだけ扱いがちであるが、実は情動的にも極めて重要なのである。

 例えば数学の難問を解くということは、日常的な有用性とか実用性という認知レヴェルからだけ意味や価値があり、そのように目的的に利があるのだけなのではなく、解けた時の喜び(快)においても価値があるのである。これらに関しては脳科学が何かが理解出来た時に脳内に報酬レヴェルで放出されるドーパミンによる効果としてアハ!体験としても既に周知のことである。

 私たちはしたい勉強や研究、創作のために快適な環境を要するが、それはそれらの結果としていい大学に合格するためでもあるし、いい助成金が政府から貰えるためでもあるし、いい展覧会をすることが出来たり、権威ある賞を貰えるためであったりするが、そういった結果的な目的だけではなく、勉強、研究、創作そのものが楽しいからするのである。その意味では意味や価値は目的とか認知レヴェルの側からだけではなく、手段とか方策とか情動レヴェルからも常にインターラクティヴに認識していく必要があるように思われる。

 つまり世界を快適なものとするために、あまり快適ではないことも多く私たちは実践する。どのようなタイプのスポーツ選手も楽器演奏家もただ自分の専門とする競技や楽曲だけを訓練として行うのではなく、足の力とか筋力そのものを鍛えるためにするアスレチックな訓練とか楽理そのものを理解するために行う楽器や楽曲の演奏や練習といったものは決して楽しいだけのものではないばかりか、必ず苦も伴う。ただ彼らはその退屈でさえある反復行為の末に得られる成果のためにそれらを耐え忍ぶのである。つまり世界が自分にとって望ましいように、あるいは世界そのものが自分という存在を望ましいものとして迎えてくれるように努力するのである。

 

 つまり私たちは<世界が私に望むものと私が世界に望むもの>で考えたことから言えば、世界から望まれるように世界を作る。あるいは作ろうとする。しかし必ずしも世界は私にとって快であるだけではない。好きであるからこそ選んだ仕事の多くの部分は苦に満ちているし、住みたいと思って住んだ場所には必ず親しい人や好きなタイプの人以外の大勢の人が住んでいる。つまり世界は必ずしも私という存在を世界にとって望ましいものとしてだけ作られてはいない。それどころかある意味では私の存在そのものが世界の幾分かのドメインにおいては決して望まれてさえいない。そこには必ず挫折がある。

私の意志は常に世界を私にとって望ましいものとしたいし、そう画策するも、それとは常に逆のベクトルで考えている存在者たちも大勢いることを私は知っている。だがその私の願望や希望における挫折自体が私に新たな意志を作らせる。つまり過去において私が世界に望んだことの幾分かは必ず私の望み自体が世界にとって適切ではなかったからこそ世界は私にとって望ましいものではなかったのだし、世界そのものが私を望ましいものとは見做さなかった。しかしだからこそ私は過去の私による世界に対する接し方、つまり望みとか希望が挫折したことによってその際に私が世界に要請したことそれ自体に対して後悔する(その意味では中島義道氏が過去とは後悔があるからこそ認識し得ると考えたことは正しいと言える)。

つまりその挫折を私に招聘したことそのものが起因する私の側の落ち度に対する後悔が、新たな意志を私に持たせる。つまり私は今度こそは失敗することなく私が世界に対してなす要請を適切なものとしていこうと決意する。その時私は未来というものを意志と密接な形で理解する。

 つまり未来とは意志によって常に想定されるというわけである。

 しかし私は決して私の望みや希望の内容が適切ではなかったとは思わない。寧ろそのための方策として採ったことの幾つかがあまり適切ではなかったということに後悔の内容は決定されている。つまり私は私にとって世界が好ましいものであるだけではなく、私以外の全ての存在者にとっても好ましいものであるというレヴェルで再び世界に対してどのように臨み、望むかを考え直すのである。その時確かに未来は過去の後悔に起因する挫折に対する克服意図を伴った再起という意志によって具体化された様相を帯びている。

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アート(絵)・音楽・もの・言葉

作家の島田雅彦氏は戦後の現代アートは全て過去の遺物の模倣であるというようなことをどこかで述べていたし、そればかりか音楽もアート同様人間において小説を始めとする文学で表現出来ることの一部だけを担っているのでマイナーな存在であり、文学の方が一段上であると捉えている。

尤もその類例に倣うだけの作品を島田氏が構築し得ているかの判断はブログ来訪者諸氏にお任せするとして、この島田氏の態度は哲学的に言えば合理論(理性論)であると言える。

尤も音楽は歌曲は別として感情の流出が直接言葉ではない形で私たちの情動へと訴える。バッハは存在の内奥の真理(宗教的感情をも含めた)を仄浮かばせるような効果を持っているが、それは対位法によるところが大きいだろう。あるいはショパンは恋愛・嫉妬・別離といった人間学的感情を呼び覚ます。この系譜にビゼーも、ブラームスも、ラフマニノフも位置するだろう。ドビュッシーは身体生理学的な存在事実への感謝を呼び起こす。サン・サーンスなどもその系譜である。サティーは孤独と憂愁へと我々を誘う。ジャズピアノの巨匠であるビル・エヴァンスはこのエキスを応用してショパン流のセンチメンタリズムと融合させたのだと言える。

絵画は沈黙の言語であり、カンディンスキーは音楽的情動や感情を(この系譜には尾形光琳も、クリムトも入る)、モンドリアンは深い思索と決断への誘いを、マティスはエロス的空間の夢魔を、ピカソは個と自我による感性と認識の合動を見る者に覚醒させる。

音楽や絵画は要するに、「理性の思い上がり」とか「理性の越権」といったことを述べたカントによる思索に象徴される実存の事実を突き付けられる。

私たちはどんなに言葉を尽くしても、語り得ないもの、語り尽くせないものを常に残す。つまりそれを音楽やアートは代弁してくれるというわけだ。ものとはその存在に対する認知を契機に私たちの存在をものから何かを生み出す力として可能性と価値を知らしめる。

私たちによって作られるものこそがアートであり、メッセージの情動・感情的基本的形態だけを抽出したものが音楽なのである。だから確かにこの二つは小説や詩歌が示すことの出来るのとは全く違う感情を呼び起こすことが出来る。それは言いそびれたこと、言い尽くせなかったのだが極めて重要なものに思えることのオンパレードである。

それはどちらかと言うと、音楽が原始的本能と理性の間のパイプを通して、アートは存在の認知と理解との間のパイプを通して「ああ、このことだったのだ、私が言いそびれたことは、私が言い尽くせなかったのは」と思わせるのである。つまり文学は意識レヴェルで私たちが他者に伝達し得ることを中心に展開する(だからこそ島田氏が言ったことの意味も理解することは出来る)が、音楽やアートは明らかに無意識レヴェルで他者との間で伝達されるメッセージを中心に展開するというわけである。

 世界が私に求めるものに応じて私が行為するように私は世界を作る。私は世界が私を求めるのだから、何らかの行為を通して私が作った世界と関わるのだ。それは私が「世界」を見たいように見て(例えば旅行、絵画鑑賞、映画鑑賞)、考えたいように考える(あらゆる学問、読書)ことをも意味する。(聴きたいように聴く(音楽その他)もこの中に入る。)

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