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2009年12月 9日 (水)

天橋立で考えた哲学②

予定とは過去の決定事項としての①(前の記事を参照されたし)でしかない。他者の「予定は一応知っていれば②であり得よう。

 未来に実際に予定通りいくかどうかは①や②ではなく、③である。つまりそれは予定とは決定的に違う。全ては未来になってみなければ分からない。

 さて問題なのは、時間系列的な意味で人格が推し量れるかということと、第一人格など毎日、毎時間、毎分、毎秒刻々と変化していっているということ、それにもかかわらず一定の人格を常に我々は他者にも自身にも与えている。それは何故か、ということだ。

 さて私は以前このブログで「私は昔が懐かしくない」と述べた。それは事実である。第一確かに幼少時代というものは固有の輝きを持つことは持つ。しかしあまりにも遠過ぎる過去なので、今現在の自分にとっての重要度という観点からはただの幻でしかないとさえ言い得る。私の人格は自分で感じることとしては、恐らく二年から長くても六年くらいの間であり、それより長いスパンではどんどん変わってきている。つまりそれはそういう風に自分を変える何かがあるからなのだが、さてこの人格とは難しいことには、ある存在者においては確かにこれこれこういうものとしての私の人格があり得るが、他の存在者には通用せず、全く違う相貌を見せる。それは自分自身内部でも他者からそう告げられれば思い当たる節は確かにあろう。しかしやはりそれは自分自身にとっては然程重要な変化ではない。

 人間にとってもし懐かしいという感情があり得るとしたら、それはもしかしたら、自分自身にとってのみ重要な、それは外部の他者にとって私自身が変わったと感じるような変化ではない、つまり対他的にはいつも変わりないように振舞ってきているのに、自分自身ではかなり激烈な何事かとの出会いを持つものであろう。それは他者にそうおいそれとは口外出来ないような、勿論タブー的なことだけではないが(そうである場合もあるが)要するに自分自身にとっていたく大切なことではないだろうか?

 それは自然と懐かしいと自分では感じることが出来ることである。だからそれがあればたとえそれが一年くらい前でも懐かしいし、それがなければ二十年前でも懐かしくはないのである。

 しかし最初の謂いに対する否定にも多少繋がるかも知れないが、大体において未来において計画通りに行くことが多いとすれば、それは予定がかなり現実に足をしっかりと下ろしていると言えるし、予定通りに行かないということの方が多い場合、予定を立てる自分自身に迷いが常にある、ということを意味しよう。私は最近予定を立てたことと、それを実行に移す時との落差が少なくなってきたし、あまり壮大な予定とか計画自体を立てないようになってきたと思う。そして寧ろ予定を立てなかったのに、予定を立てた以上に実際に実現したことの方がいいということが多くなってきた、と思う。これはいい兆しではないだろうか?

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