« 最近面白いと思ったこと | トップページ | 天橋立で考えた哲学 »

2009年12月 7日 (月)

政治的マニフェストと現実、あるいは地方毎に固有の精神風土

 政権交代というキャッチフレーズ、あるいはもっと言えばキャッチコピーが踊ってそれが実際に成し遂げられたとは言え、一体何が本質的に変わり得たであろうか?

 私は関東地方の全国でも有数のある歴史と伝統のある観光都市に住んでいるが、そこでは役所は完全に極限られた民間の地元に根を下ろした業者と結託してゴミ収集さえ自らは手を出さない。尤も小売商自体も価格設定から何から何まで全て自己裁量となっているので、本質的には自己申告制である以上、「適当に君たちも上前を跳ねているんだろう」という役所の側の高圧的な目配せがあるわけである。消防署の地元の飲食店などの管理に関しても予め指定した業者に高額の消火器とか消化設備を整えさせようと画策している。そこでは観光都市において観光客から多大な利益を得る一部の業者だけが利潤を得て、一般サラリーマンには一切利益を供与され得ない仕組みになっていて、選出される政治家も一切親の代からの世襲である。そこで一切が蚊帳の外に追い遣られているのは小売商ではない自由業者、あるいはサラリーマンたちである。

 仮に今現政権がキャッチフレーズにしている一つである国から地方へということが実現したとしても、それは地元の役所とその役所と結託している一部の業者にとって利益となるだけで、一般庶民には一切関わりがないことである。

 本質的に日本ではマスメディア自体がそういう地方の役所の利権とか地元業者の利潤追求と無縁で成立していないので、公官庁の利潤同士の奪い合いという図式が或る以上、そして国から地方へと税源や権力を委譲したところで、自由業者(その殆どが石川遼のような多額の収入など得てはいない)やサラリーマンには一切動いている問題そのものにおいて概して蚊帳の外なのである。

 それは本質的に日本がネイションであるという意識が希薄なのと、本質的に個というものの定義が曖昧であることから起因している。そしてそれに加えて自由競争原理そのものに対して極端なアレルギー反応があることである。

 これは既に何度も触れてきていることであるが、性善説的民主主義と、政治的マニフェスト自体が極めてイデア主義的な理想のみによって成り立っていること、その実、実際の現実は一切改革されないという図式が読み取れる。

 日本は地方地方に固有の精神風土というものがある。

例えば東京という地方、あるいは都市では経済力がなくても知的レヴェルさえ高ければ、尊敬される気風というものがある。しかし同じことは大阪では成り立たない。しかし恐らく東京よりも大阪の方が就職条件においては地方出身者とか外国人に対しては寛容であろう。また京都は固有のアヴァンギャルド的気風があり、概して伝統的な手工芸とか文化芸能を保守してきたこととは裏腹に明治以降の大企業よりもヴェンチャー企業の興隆に対して寛容なところがあるものの、今度は人間関係的利害に関して極めて潔癖な性善説論が罷り通っていて、端的にいい意味の権威主義は成り立ち難い。常に若さと潔癖さと平等主義とイデア的浮世離れだけが価値とされる。そしてその固有のバイアスのかかった似非コスモポリタニズムに同化し得ない者に対して冷淡である。それは固有の閉鎖的気風である。

 横浜は端的に新興住宅地などが多く、大半が東京への勤務者によって成り立っていて、その内実においては知的レヴェルが尊敬されるし、もっと高級な報酬を受け取っている特権階級たちは鎌倉とか逗子とか葉山といった高級リゾート地(湘南と俗に言われる)に居を構えている。そして彼等ほど良心的左翼主義的マニフェストを信奉する。それが同じ神奈川県では川崎は全くそういう気風ではないし、生活水準も横浜や湘南とも正反対である。

 もし東京が今のように中心に皇居がなければ全く異なった気風だったことだろう。またもしあの大政奉還によって遷都して天皇が京都御所から皇居に転居することがなかったなら、現在の京都の気風もなかったに違いない。京都は一見さんお断り的閉鎖性と固有のバイアスのかかったアヴァンギャルドが奇妙に共存しているし、東京は東京で知的レヴェルに対する尊敬心と綺麗に稼いで汚く使う主義も共存している(大阪は汚く稼いで綺麗に使うである)。要するに地方出身者から見れば都会に固有の権威主義がある。

 札幌は言葉に関しても東京や横浜以上に標準語に近いものの、その気風は他の全ての北海道の都市や地方と同様、本州出身者のことを「内地人」として差別するし、概して路上で困った人がいたとしてもそれを率先して手助けすること自体に最も冷淡である。その閉鎖性はまた京都とか鎌倉とかとも一線を分かつものである。北国固有の生活的状況がそういう徹底した他者不干渉主義を醸成してきたのであろう。

 つまり日本という国は欧米流のネイションであったことも一度もなければ、かと言って純粋の地方自治であったことも一度もなく、また現実的な人間関係における利害関係というものを個人では死守しながら、国政レヴェルでは偽善的に性善説的イデア論的正当を主張し、貪るような競争意識をその地方毎に固有の嫌悪感(それは東京者と京都者とでは違う形で、という意味で)において排斥して、それでいて建前上は資本主義社会を死守するのである。

 世界経済は既にアメリカ一辺倒的リーダーシップ自体に綻びが来ている。何故ならリーマンショックやサブプライムローン問題自体がドバイショックを誘引するという世界システム自体に破綻を来たしているということが明白だからだ。つまり端的に日本なら日本の周辺諸国、例えば台湾、韓国、フィリッピン、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランドといったブロック毎の結束をある程度強くしていかなければ、今後現今と似たような世界経済状況に陥った時に現今の二の舞となること必至だからである。第一アメリカが風邪を引いたら世界も移るという事態そのものが異常である。尤もそこにも実は日本における地方都市が抱える旧態依然とした現実と似たような構造が露呈しているのかも知れないから、一朝一夕には如何ともし難いとは言えるだろうが。

|

« 最近面白いと思ったこと | トップページ | 天橋立で考えた哲学 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 政治的マニフェストと現実、あるいは地方毎に固有の精神風土:

« 最近面白いと思ったこと | トップページ | 天橋立で考えた哲学 »