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2010年7月30日 (金)

「知っていること」を「知らないこと」にする

 私達は通常自分でよく知っていることを他人に話す時、相手は全くその事に就いて知らない(例えば自分の家族のこととか、住んでいる地域のこととか)わけだから、当然相手にも理解しやすい様に、そのことに就いて知らない人の視点に立って説明する。

 それは言語行為上での責任倫理的な約束事であり規約であると言うより、もっと原初的な構えの様なものかも知れない。

 しかしそのことはある意味ではもっと別の形で私達によって実現されている。

 それは、私達が自分でよく知っていることに就いて「~に就いて君詳しいかい?」と聞かれると「うん、よく知っているよ<詳しいよ>」という様に相手に伝えるのと同じ様にそれに就いて全く詳しい知識を持ち合わせていない時には「全然知らないよ」と伝える。

 このことは昨日の記事と関係するが、極めて不思議なことではないだろうか?

 何故なら知っていること自体は我々は絶えずそのことに就いて脳内で表象的に思い浮かべることが可能であり、それは端的に多くの連想も生むし、想起することも可能だが、一方知らないことに関してはそういった脳内での表象は思い浮かべ難く、極めてイメージも曖昧である。にも拘らず我々はその二つを全く同じ様に一方を「よく知っている」と言い、他方を「全然知らない」と言う。そこにはまるで質的な違いはない(少なくとも文章的な意味では)。つまり伝えるという事に於いてまるで自分の内的感情を押し殺しているかの様である。

 そうなのである。まさに我々は言語行為上ではその様な個人的な脳内でエピソード記憶とか意味記憶が容易に引き出せるもの、つまり想起し得るクオリアが明確なものと、まるでその様に想起可能ではない、クオリアなど全く不明確で、持ち合わせていないものとを併置的に伝える。

 つまり概念上で我々はこの全くクオリアも自分自身にとっても切実であることの二つを同一地平上に併置させるのだ。

 この事は自分自身でよく知っていて、他人は知らない事に関して、例えば親しい友人にその事に就いて触れる時、相手の立場に立って、あたかも自分もその事にその友人と一緒に初めて立ち会うかの如く伝える時の仕方と全く構造的には同じである。

 これは知らないことに対しては、それ自体何のクオリアも思い浮かばないのだから、そのまま知らないこととして伝えるのと同じ様に、よく知っていること自体を、知らないことに貶めて伝えるということを意味する。

 これは言語行為上での我々の他者に対する配慮を無意識の内に介在させる私的なことを公的なことにする、つまり私的事項の公的化に他ならない。

 もう一度説明しよう。

 我々は自分自身がよく知っていることとは、端的に想起も連想もしやすい。そこから無限のイメージを紡ぎ出せる。それは要するに自分自身にとってクオリアが明確なものである。

 一方よく知らない事、全く知らない事に対し我々は想起や連想をすることはおろか、一切明確なクオリアを表象的に脳内で思い浮かべることは不可能である。

 にも拘らず、よく知っていることを誰か他者に告げる時には、相手がそのことに就いて知らないのであれば、こちら側もあたかも初めてそのことに接するかの如き態度で説明する。

 そしてその原型とも言える我々の言語習慣として、知っているものは自分にとって切実であるのに、少なくとも言い方として(語調に関しては自分でよく知るものに就いて「知っている」と返答する時の方が朗らかかも知れない。尤もかなり忌避すべきことを知っている場合は又違うが)は、「知っています」「知りません」と殆ど何の違いもないかの如く併置的に伝える。

 つまり我々は概念上では叙述形式としての論理可能性としてのみ、「知る」ということの是非を同列に相手に伝えるのである。

 これは私的な感情、とりわけ自分がよく知ること自体を相手に対して余り感情を露にすることを差し控えるということと、知らないこととか、よく知らないことをも素気無くすることなく相手からの要請(知っているかと質問されるということは、そのことを相手は少なくとも重要視しているということである)に受けて立つ姿勢だけは鮮明化するということを意味する。

 私達はまず論理可能性として自らのある対象、ある話題として焦点化している事項に対する感情を差し控える為に伝える時に名自体を「知る」「知らない」という二分法、二値論理的に併置させて、同列化する。そしてそれは、自分がよく知ることをそれをよく知らない他者へ説明する時には、自分自身がよく知るということを、知らない人の立場にまで引き下げ、やはりそれを知らないことと同列化させる。

 この脳内表象や連想され得るクオリアを一切無視して言語叙述形式的な論理可能性としての同列化、併置的言説設定こそ、我々が日々無意識の内に執り行っている言語行為上での他者をも巻き込んだ私的言語の不可能性を示す、責任倫理的な構えなのである。

 永井均は最近の講義で現実的コギトというものを私的なこと、現象的なことを即自的に自覚し得ることとして、独我論的論証として、可能的コギト(他者一般を恐らく自分自身と同じであろうと理解し、相手も又自分と同じ現象的なこと<痛みとか痒みとか、感覚的なことを直接知ることが出来ること、それは自分自身だけであるという哲学的考え>を感知し得ると理解することを意味する)を併置させている。

 又永井均は言語習得を巡る一大転換と彼が呼ぶ、この自分自身で自分だけが持つ感覚に就いてよく知ることと、自分自身には一切知り得ない他者の感覚をも同列化させ併置させて言語行為を営むことに哲学者人生の大半を注ぎ込んでいる。

 私自身は実は、この一大転換をそれほど転換する者が大仰な気持ちで行っているのではなく(勿論永井均もそう語ってなどいない)、もっと恐らく容易なこととして行っていると考えている。

 その根拠は、昨日の記事でも書いたが、我々は自分自身の存在をも他者にあたかも他人に対して接するかの如く説明する。今日の記事の最初に述べたことがそのまま自分自身のことでもあり得るわけだ。

 しかしそのことに別段我々は苦痛を感じはしない。このことは重要である。

 つまり我々は極自然に自分自身の外側に、少なくとも言語行為上では立てるのである。外在的視点を容易に携えられるのである。

 そしてそういった物の見方(それを昨日は科学という形で例示したが)自体に愛着がある。それは私達がある程度自分自身のことに関してさえ、全て自己責任的に他者全般へ言及すること自体にストレスを感じるからではないか、と考えているのである。

 つまり我々があたかも自分自身を他人の様に他者に告げる時、我々が知らず知らずに取っている態度とは、適度の許される範囲内での責任転嫁であり、同一共同体内で生活する他者に対し、自己の弱さを告白することを通して、相手に対し不必要な脅威を与えない様に配慮しているのではないか、そうすることを通して我々は他者と自己の間の壁を除去しようと画策しているのではないか、というのが私の考えなのである。

 いずれにせよ、<「知っていること」を「知らないこと」にする>他者に対する言語行為上の殆ど自動的な仕方に、我々自身が私的であることだけに感けることが、少なくとも他者をも巻き込んだ意思疎通上では差し控えるべきであるという配慮を誰しも実践しているということをまざまざと知ることが出来ることだけは確かである。

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