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2010年7月28日 (水)

ハイデガーとウィトゲンシュタイン①

 今週末立て続けに二つ哲学の集いに参加するので、ハイデガーの「存在と時間」とウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」に関する解説本を読んでいる。

 前者は「『存在と時間』の哲学」、今年二月に急逝された門脇俊介氏の著作で、後者は野矢茂樹氏の著作「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」である。

 ハイデガーとウィトゲンシュタインは同じ年に生まれている。同じ年にチャップリンなども生まれている(因みにヒトラーも)。ルドウィヒの方がマルチンより少し早く生まれている。

 金曜日には東大駒場キャンバス18号館で私が入会している学会の東北大学に拠点を置くメンバーグループが主催の門脇氏へのオマージュシンポジウムである。当然講演内容は氏の「存在と時間」に対する研究に就いてである。

 翌日から翌々日にかけては川崎のホテルで現象学者の竹田青嗣氏と西研氏が主催する「完全解読ウィトゲンシュタイン」講義があり、前半(「論理哲学論考」を読む)の最終講義が二日合宿に於いて計三講義ある。前日には自由討論会、懇親会もある。

 ハイデガーに関しては和訳されたもので数回「存在と時間」を読んでいたし、「形而上学入門」も一昨年中島義道氏の哲学塾カントで初期扱っていたので、その流れで一通り読んでいた。

 ハイデガーの哲学に於いて「存在と時間」では道具とか道具的存在者というものが登場し、それがキー的存在となっている。適所性といった概念も重要で、単純に言えばハイデガーとは日常生活に於ける現存在(私達人間)にとっての行為を通した世界との関わり、その世界と関わる中で道具とか他者とか死者が絡むということを考えている。

 その意味ではハイデガーは現象学から啓発されていたが、実存主義の祖的存在(ニーチェなどと並んで)と言える。そして信条的には完全無神論者である。

 一方ウィトゲンシュタインは生涯を言語的思考を軸に世界との関わりを考えた哲学者である。彼自身はハイデガーの様に初期神学者を目指したわけではないが、エンジニア出身である故やはり正規の哲学教育を受けたわけではなかった。

 ルドウィヒにとって世界は世界を把握し理解し、表現する為の言語的思考こそが世界を構成するという発想で哲学を開示していたので、必然的に論理空間と彼が呼ぶ「AAである」「AAではなかった可能性もある」「ABでもあり得た」といった可能世界全体を網羅する論理思考そのものが実在の世界よりも広大であるという発想で「論理哲学論考」を書いている。その考えは独我論的視点も導入されている。

 野矢茂樹によれば、ルドウィヒはある部分かなり突っ放して(私の表現である)世界を理解する為に必要最低限の論理空間把握へと至る認識や判断を基底としているのであり、意志作用をそこに吹き込むと考えている飯田隆氏の考え(「ウィトゲンシュタイン」)に対しては反意を示している。

 そこら辺のお二人のお考えを実際にお会い出来たならお伺いしてみたいと考えている。

 一つのテクストに対する解釈は、それが天才によって書かれたものであればあるほど、かなり多様となり振り幅も広がる。

 その意味では同じウィトゲンシュタイン解釈であっても、専門が現象学であるお二人である竹田氏と西氏の講義ということで私は今年この講義を取ることを決心したのである。

 関心をそそられるのは、同じ年に生を受けた二人の天才哲学者がそれぞれ異なったフィールドから世界を把握し、後代に多大な影響を及ぼしたことである。

 ハイデガーの後にはサルトル、メルロ・ポンティ、カール・レイヴィットといった存在が続き、ウィトゲンシュタインの後にはアンスコム、ノーマン・マルコムといった弟子達以外にもソール・クリプキやネルソン・グッドマンといった存在が続いた。

 現在でもこの二人の哲学者を再考しようという試みは後を絶たず、ある部分では現代哲学出発点の金字塔として君臨している。

 個人毎に強弱はあるだろうが、この二人が、それ以外ハイデガーの師的存在であったエトムント・フッサールなども混ぜて二十世紀最大の哲学的偉業であることを疑う者はいないだろう。

 それ以外にも現代思想に於いては少し前にニーチェ、フロイト、フッサールより一年早く生を受けたフェルディナント・ソシュールといった存在が、その後続者達である構造主義、ポスト構造主義で立役者となるラカン、ローマン・ヤコブソン、レヴィ・ストロースやコジェーヴ、ジャン・リオタールといったフランス哲学の巨匠達へと連綿と継承される西欧知の体系として君臨している。

 それぞれの存在が相互にインパクトを及ぼし合い、未だに多くの思想家、哲学者、学者一般から引用され、再考されるべき価値として崇め奉られている。

 只日本哲学に於いて私が懸念する現実とは、ハイデガーを通して哲学を学んだ者、ウィトゲンシュタインを通して哲学を学んだ者、それぞれは格別反目し合うということもないが、さりとて格別交流し合うこともない、というのが実態で、それこそ個々の伝統的考え方に固執してそれ以外の哲学を見ようとしないという傾向は決定的にある。

 これは専門的な視野狭窄と言ってよい。

 だから哲学を専門とする人と一言二言言葉を交わすと、即座に「ああ、この人はここら辺が専門だな」ということが理解されてしまう。

 例えばカントとかヘーゲルとかを専門とする人、現代言語哲学・分析哲学を専門とする人、ライプニッツなどを専門とする人、プラグマティズムを専門とする人、スコラ哲学などを専門とする人、要するに各専門領域毎にそれぞれ不文律があって、それを踏襲しているから、大体察しがついてしまうのである。

 しかし既に現代社会はもっと複雑な様相を呈している。思想や哲学だけでなく全てのフィールド、例えばサブカルチャーやオタク系文化がいよいよ競合していって、しかもかなり多くの青年達を虜にしているし、そういった世代間の感覚的ギャップだけでなく、世代を超えた環境問題、世界経済金融問題の前ではやれ哲学、社会学、言語学、心理学といった学問学閥的現実に目を囚われていたら、即座に時代から取り残される。

 その意味ではかなり真摯な眼差しで全ての専門分野が一般の大勢の人達との間の共有財産として開放され、より大勢の人達からの再考を持たれ、再び人類の共有財産として捉え直されるべきなのである。

 特に思想的見地からはそうである。

 つまり各専門フィールド独自の見解自体が、相互にそれぞれ別のフィールドとの間で再検証され続け、より一般化されるべきである、と言える。

 その意味では今年入会した学会や初めて受講したゼミ参加によって今後私の哲学人生に於いてどの様な成果が私の生活に齎されるかが今から楽しみである。

 この二つの会合に就いて、そしてハイデガーとウィトゲンシュタインに就いては再び本ブログでも取り上げる積もりである。

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