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2010年7月29日 (木)

私の知る世界、私が理解出来る世界、私が記憶している世界/私は私の知らない世界があると言えるのか、私には理解出来ない世界があると言えるのか?私は忘れた世界があると言えるのか?

 去年天橋立に行った時に考えたことを私は「天橋立で考えた哲学」http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-7e74.htmlとその続編で纏めたが、そのことと関係あることを今回は取り上げよう。

 私達は日常的に簡単に知っていることとか知らないことと言う。しかしよく考えると我々は知っていることの際を知ることが出来ない(これはウィトゲンシュタインが「論理哲学論考」で考えていたことでもある)。何故なら我々自身が知る世界とは既に知らない世界など考えることの出来ない唯一のものであり、それを手がかりに全ての行為を我々は執り行う。つまり世界に対する疑いのなさだけが我々の行為を可能にする。

 それは要するに我々が一切我々の世界の外に出ることが出来ないということを意味する。

 世界の外から私自身の世界を私が「~だ」と記述出来ない様に、私は今私が理解し、記憶している過去の私の世界(過去<私にとっての過去でしかないが、私自身のことも他者のことも世界そのもののことも>も私にとっては世界の一部である)からしか私は全てを考え、想像し、想定することが出来ない。従って私が私の記憶から抜け落ちていったもの、つまり忘れたことがあると私の側から言い切ることは本来は出来ない。何故なら私は忘れたことを「忘れた」と言い切る為にはその忘れたこと自体を説明出来なければならず、それは不可能だからだ。要するに私は、私自身が昔のことで忘れたこともあるということを、何かの拍子にそれまで忘れていたことを思い出したりすることがあるからこそ、客観的にあたかも私自身の存在の外側に立って観察する様に、私には忘れたこともある、と言い得るに過ぎない。

 この問題は哲学者ではアウグスティヌスが真剣に考えたことだそうである。

 しかし確かに哲学的には私は私が知る世界や理解する世界、記憶している世界からしか全てを認識することも理解することも把握することも出来ないにもかかわらず、日常的には安易に知らない世界とか、理解出来ない世界とか、忘れた(世界とは余り言わないが)こととか言う。

 それは私達が実は私達自身で決して言えないこと自体を、つまり自らは出来もしないこと自体をも一つの対象として認識し、それに名を与え言葉上では何の矛盾もなく言語空間的な場では論理的に他者と叙述し合えるということを意味する。

 つまりそのことは裏を返せば、我々自身は常に自分自身で知り、理解し、記憶している世界の側から発信する(それ以外の方法を我々は取ることが出来ない)にも拘らず、その事実全体を私の世界以外の、つまり私が知らない世界、理解していない世界、記憶していない世界と対置させて物事を考える習慣自体が定着していることも意味する。

 それは端的に私達が常に未来へ向けて自らの行動や行為を目的的に捉え、未来そのものは常に未だ我々自身によっては知ることも理解することも記憶することも出来ない(それがやがて到来するということだけは何故か断言出来る気がするに過ぎない<実はそれも必ずそうであるとは限らない。何故ならある日突然地球は消滅するかも知れぬし、何より私自身が死滅するかも知れないからである>)ものとして、一つの無として対象化、客体化することが可能だからだ。

 つまり我々はそういった対自に於いて未来へ向けて思考を巡らせ、行為へ向けて志向するのだ。その行為への発動の契機として我々はあたかもそんなものがあるかの如く「知らない世界」「理解していない世界」「記憶していない世界」を措定するのである。

 繰り返すが、私は私自身が忘れてしまったことを明確に言うことが出来ない以上、私にとって私の世界とは私が現に今記憶しつつある現在と記憶している過去だけであり、それ以外ではない。従って忘れてしまったことがあると断言したり、あるに違いないと思うこと自体も、実は私自身が私を離れて私という存在を客観的第三者の視点に立って思い描く一つの想像でしかない。

 既に私にとって完全に記憶に残存していない、つまり忘却された世界がもしあるのなら、それは既に私の世界、つまり私が記憶している世界ではない故、それを私の世界という場で語ることは出来ない。

 しかしにも関わらず、こんな簡単な真理をも日常我々は踏みにじり安易に「忘れたこと」と言い得るのは、私自身の存在とは、常に私の世界にも関わらず、その私の世界は、私自身が作っている「世界」の中のほんの一部であり、その一部である私の世界からは絶対語れないにも関わらず、「世界」の側からは容易に語り得るという信頼が私達にあるからである。

 その一つが科学的認識である。科学には私やら主体という考えは一切ない。そして我々は科学的思考自体も自然なものとして、それこそ私にとっては私の世界に組み入れている。

 この「知らなさ」「理解出来なさ」「記憶していなさ」自体への語り得なさと知り得なさから、容易に語ってしまうことへの飛翔自体を、我々は実は哲学的には徹底的に問い詰めなければいけないのである。

 それは科学者にも実は求められているのではないか、と既に現代科学の視点からもそう私には思えるのである。

 勿論科学に独我論を論じるスペースは未だない。だが徐々に科学者にもこの問題をアウグスティヌスやウィトゲンシュタインや最近では永井均等多くの哲学者達の頭を悩ませてきた問題を、科学者なりの結論を出す努力を彼等がしてもいいのではないか、そしてそれが提出された時、それを哲学者達も又同じテーブルについて語り合ってもいいのではないか、と私は密かに考えているのである。

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