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2011年5月30日 (月)

未来展望Part4 居住することと旅すること

 私は東京都隣接県内のある観光都市に住んでいる。しかし私の住むエリアは観光客の余り訪れない隣接する市の自動車工場その他の従業員の人達が仕事として利用する以外は住宅地とマンションが立ち並ぶ街である。私の住む市は観光都市としては全国的規模で著名なので、京都などと同じ様にかなり頻繁にテレビの特番などで紹介される。

 幼少の頃二歳から小学校の上がる前まで東京都のある街に住んでいた頃時々訪れた街だったが、それ以後訪れることなく二十年前に引っ越してくるまでに一回訪れただけの街だった。

 従って私にとって生まれ故郷でもないし、かと言って育った街でもないので、仮に大震災直下型のものがわが町に来て、貴重な文化遺産が破壊されても、然程悲しまないだろう。

 そういった意味では生まれてから引越しの多かった人生であることも手伝ってか、土地土地に対する不必要な執着が一切ない。そして常に移動している様な生活の方が自分自身にとっては、何処かに安住することよりも居心地がいい。

 ここ数年かなり頻繁に仕事その他で京都を訪れてきた。それ以外にも奈良や大阪、舞鶴にも何度か行った。それ以外では少年時代から青年時代の思い出の地である三浦半島にも何度か訪れた。富士五湖周辺にも行った。少年時代の思い出の地である箱根にも何度か足を運んだ。

 今回は何時も住んでいる場所と旅で訪れる場所の自分自身にとっての性格の違いに就いて書いてみたい。

 ある場所に居を構えるということは普段の生活全部をそこで何とかしていくということである。従って役所が何処にあって、普段買い物をするスーパーが何処にあって、銀行のATMやら郵便局、図書館、行きつけの居酒屋が何処にあるかという事全体を脳内で把握することであり、しかも長年一箇所に住むということは、色々な自分自身にとって必要な場所同士の地理的関係が近いとか遠いという様に相互の位置関係全てが理解出来て、その場所同士を行ったり来たり出来るということである。

 これが如何に頻繁に訪れる場所であっても、何時も住んでいる場所ではない場所に旅で訪れると、どうしても点から点への移動となり、その途中に何があるかということを余り意識せずに遣り過ごすということから、結局「頭で」地理関係を把握していても実感としては場所場所の相関関係全体が統一した像を脳内で結ばないということが言えると思う。

 従って京都であるなら東山区なら東山区を色々な角度から散歩してはじめてその全体を把握出来るのだ(私は比較的東山区は頻繁に訪れているので、他の区よりは実感として全体が把握されている)。

 要するにある場所に居を構えるということと、旅の目的地として訪れるということの間にはそういった決定的な違いが横たわっているということである。そしてそのことは私達をそう容易に引っ越しをさせない様にしている、ということは「日記的記述M 今日も二回の停電だった/人は何故住んでいる土地に愛着を持つのか?・記憶の執着(1)」で述べた。http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/m1-b6ce.html

 しかし現代社会はどの町に行ってもコンビニも郵便局のATMも利用出来るので、短期滞在であるなら地域毎に異なる色々な不文律に悩まされるということはない。つまり初めて訪れる街で色々と生活の仕方自体で到着してから即座に迷うということは大分少なくなってきている。

 勿論携帯電話も外国に行けば日本国内で利用している様なわけにはいかないし、それはスマホの様なものであっても、使い勝手自体もそうだし、互換性自体も国内に限られているという現状も未だ未だあるのだが、恐らく今後そういった問題は徐々に克服されていくだろうし、世界中の何処に行ってもマクドナルドでも食事出来るという意味では世界中が画一化されていくという波自体は避けられないことなのだろうが、それでも尚毎日過ごしている街と、そうではなく時々仕事とか旅行で訪れる街との違いというものは実感として、つまり身体的記憶として私達の脳裏に異なる性格の者同士として刻まれているのだろうと思う。

 恐らくそればかりでなく、我々自身が普段毎日住んでいる街とそうではなくあくまで短期的に滞在する街自体の存在理由を全く異なった性格のものとして自分自身の中に位置づけている、ということによって、この両者が全く異なった在り方を自分自身に対して示すということがあるのだろう、と思う。ここら辺のことは「人は何故旅をするのか?理想的な旅とは何か?」で述べた。http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-0d02.html

 ところでこのシリーズの名前である「未来展望」とは70年代に上映されたジャン・リュック・ゴダールの映画のタイトルからとった。<wikipedia 未来展望 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E5%B1%95%E6%9C%9B>つまり時代と共に変遷していく部分と、そうではなくずっと変わらぬものとして永続していく部分の共存こそが私達にとってのある街であり、共同体であり国である、という主張に相応しいのでかの映画から頂戴した次第である。

 次回は五百年後の世界を想定して、何が今とそう変わりなく、何が今と大分変わってしまっているかということに就いて考えてみたい。

 ところで今回の結論としては、人類は未来永劫絶滅する迄何処かに居住して、時々旅をするだろうということだ。勿論一年の内三百六十五日全部を移動にだけ費やしている様な生活形態の人達も今もいるだろうし、未来でもいるだろう。しかしそれでも心の何処かには自分自身の故郷を描いているのかも知れない。勿論それは必ずしも幼少の頃過ごした街である必要もない。未だ行ったこともない場所であるかも知れない(私は父が生まれた生まれ故郷である高知県宿毛市に行ってみたいし、そこが何処か私自身の心の故郷である様に何故か思えもするのだ)。(つづく)

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