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2011年5月14日 (土)

「時間と空間」と「無の創造」の為の基礎論

 非在と在は非対称である。

 

 非在:存在(在・有)=0:1

 

 非在は或いは、私達の思惟による捏造である可能性はあり、実在レヴェルで忠実に示すこと、再現することは出来ないかも知れない、という前提は常に付き纏う。

 素粒子(原子、原子核その他)さえ物質か運動か解明されていない。もし運動であるとするなら、存在・有は全てそれ自体ではなく、唯関係としてのみ存在しているとも言えよう。

 これはアインシュタインの相対性理論的であるよりは、よりボールドウィン効果的、或いはその祖であるダーウィンの自然選択説的である。

 要するに一体純粋な無など実在的にはあり得るのだろうか?

 勿論ビッグバン以前の、つまり宇宙誕生以前の状態(それは今のところ説明不可、実証不可)に対する想定に於いて我々がイメージするものである。

 存在・有に拠って無は創られている。無から有を創るなら、我々が言うところの神を必要とする。これは一つの因果論的思考習慣のなせる技であるのだが。

 しかしそもそも一元的神を必要とせず、存在・有は在り続けてきたとすれば、それは宇宙の誕生さえ、ほんの全存在(この全体認識には矛盾があるが、次回「無の創造Part3」で取り扱う)のワンシーンとされ得てしまい、存在・有=神とも言える。

 結局ここら辺の基礎論は言葉の問題だとも言える。高々八十年から百年くらい迄の長さしか生きることの出来ない現人類にとっての思考の限界は既に全体論という形で示されてもいる。所詮宇宙の果てに人類が到達することは不可能だろうと私は思う(そうでない人もおられるだろうが)。

 しかしその思考習慣を容認してしまえば、デネットの批判しているデヴィッド・ルイスの可能世界論も又俄然説得力を帯びてくる。デネットの唯一世界実在論に対してルイスの反実在論、可能世界論は対になって論理空間上では存在し続けている。デネットによると反実在論等の全ては考え方の癖によることなのだ、ということになる。それはそれで正しい。

 尤も私は論理空間の肥大化された実在空間からの離脱に対して完全に同意しているわけでもない。しかしそれは思考習慣的には一つの歴然とした事実である。ありもしないことを想像出来るわれわれがありもしないことを叙述出来るのは論理空間上での思考習慣、否思考習慣が生み出してきた論理空間のなせる技である。

 しかしもう一度より実在的・具体的に考えてみよう。

 時間に就いて「時間と空間」Part8では扱わなかったが、実は非在であるという意味では時間も何ら変わりない。未だカントがどう言っていたか確めてはいないが、同じことを恐らく言っているだろう。

 空間が存在レヴェルで考えられてきたことと同様時間も我々の生の存在レヴェルでのみ考えられてきた(これは次回「時間と空間Part9」で取り扱う)。

 尤も基礎論的に重要なことは存在レヴェル以前に認識レヴェルである。

 認識レヴェルでの重要性は20世紀以降の哲学・自然科学では常識となっている。19世紀迄は完璧な観察を旨とした自然科学も20世紀以降では観察者という我々自身の視点を考慮に入れてきた。同じことは思考内容だけではなく思考主体である我々、認識されること以前の認識主体の問題は哲学で命題化されてきたのはここ一世紀の間である。それが分析哲学などを生んだのだ。

 そこで一つ重要なことは、時間認識は言語認識と不可分である、ということだ。

 -A時点から今現在A時点迄にあったこと全てを我々は記憶していない。従ってPart7で述べた様に曖昧化してきている部分が大半だが、にも関わらず私は十年前に粗方何をしていたかを思い出せるし、その-A時点で私が四十一歳と八ヶ月生まれてから経っていたと知っている。これが如何に忘却したことの方が多くてもずっと変わらずに記憶されていることである(当時私が夏にどんな服装をしていたかを思い出せずとも、何かを誰かと話したことは覚えている)。

 又時間の過去への戻れなさとは、論理的矛盾によって証明されるとしたなら、論理とは時間秩序に忠実である、と言うことになる。私がマクタガートに準え考えたB系列世界の中でマクタガートが提唱したB系列時間が我々に認識されることをもって、それを我々は時間秩序としてきた。だから私は曖昧化された記憶に取り巻かれていもするのに、十年前にあったことの骨格は忘れずに居続けられる。

 論理は説明可能であること、宣言記憶的なことである。だからもし論理無矛盾性が時間秩序に依存しているのなら、言語も又基本的には論理的秩序(無矛盾性)に依存しているから、必然的に言語もまた時間秩序に依拠しているということになる。

 尤も三年前の秋に私は数日京都に滞在した、という事実は同じ時期に奈良とか大阪にいたという事実と矛盾する、という意味では、言語的に矛盾する前に物理的事実的に矛盾するという前提があって、然る後に言語的矛盾として叙述の真理が問えるのだ。時間秩序に於ける無矛盾性は物理的秩序、つまり空間的秩序にも従属しているし、その逆も言えるだろう。

 言葉という綾、つまり論理空間的秩序は従って常に物理的秩序に従属している、と言うことも出来る。勿論その理解は言語によってかも知れないが、あくまで物理的秩序に従属する言語の位置だけは見失わない様にしたい、というのが今一度確認しておきたかったことなのである。

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