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2011年6月10日 (金)

日記的記述W 時間と空間-Part9の補足/旅行を前にして

 昨日の記事の補足から今回は入ろう。

 要するにコンピューター数学とか科学に於ける二進法の秩序は、哲学的無と有の関係とはいささか違うということを私は言いたかった。つまり1と0との組み合わせの配列で行列式から展開される計算機数学科学の世界では、1の代わりに2を、2の代わりに3を置いても何ら不都合はない。

 只理解しやすい様にする為に敢えて1と0を置いているに過ぎない。この便宜的な(expedient)ことは、案外見過ごされがちであるが、これが便宜的であるということは、桁が換わる度に0を置くということも全くそうなのである。

 もし0を置かずに漢数字の様に百とか千とかを置くとしたら、計算し難いのではないかという疑問も持ち出されるだろう。しかしそれは計算を0を規準にする様に我々が馴らされてしまっているからこそ、そう思うのであり、ひょっとしたらもっと有効な計算方法が0を一切使わず呼び名(百とか千とか)だけで成立するのなら、別段そちらに全面移行しても差しつかないだろう。

 尤も今そのことをぱっと思いつくことが出来ないので、今回の京都への学会旅行を終えた後に提出する宿題としたい。

 さて今年入会した二番目に入会した哲学学会の大会が明日午前十一時から立命館大学で行われる。この学会大会は去年東大で行われたのだが、その時入会しそびれたので、今年こそ入会しようと思っていた。来年は関東地方で行われるだろう(学会は関西か関東で毎年順繰りに行われる。それにしても九州、沖縄、四国、北海道、東北の人にとってはいずれで行われるにせよ、大変ではある)。

 哲学を学ぶことは、私にとっては哲学自体が学問として有効であるかという問いと常に接してきた。これはニーチェ辺りの時代から現代に至る迄ずっと継続されてきた命題でもある。これを反哲学とも呼ぶし、リチャード・ローティやジャック・デリダといった人達、或いはジョン・サールとかトーマス・ネーゲル等もそういった観念に対して自然さを携えて哲学してきた、と言える。

 しかしこれは演劇では反演劇、芸術では反芸術という観念が20世紀以降は支配的であった。

 シュペングラーなどによる西欧社会の没落を自虐的に認識する視点が現代社会には構造的に発生しやすい基盤があるのかも知れない。

 

 ここから先は社会学的な認識になるが、現代社会は利便性の追求の余り、その利便性の転換的スピードについていけない人達を大勢発生させてしまっている、と言える(反哲学の波もメディアの脅威から派生したと捉えることも出来る)。

 これは「未来展望Part3 メディアとツールの戦争」http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/part3-24e6.htmlで述べたことだし、「シリーズ・未来展望 学問の将来/芸術の将来/ツールの将来」http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-663b-1.htmlでも述べたことである。

 私の親友であるN君はツール・リテラシー的な意味で才人である。彼は携帯電話の携帯入力に関して然程慣れていたわけではなかったが、そのことが却ってそれだけに慣れた人ではないからこそ、それ以降アプリにカスタマイズをすることを容易にし、携帯入力以外のflick入力もqwerty配列も何でもそれなりにその時々で使い分けるフレクシビリティを獲得している。

 これは始めたのが遅い者が必ずしも常に時代に遅れを取るとは限らないということを意味している。

 只現代社会はその利便性の極度の追求によって却って不便を感じているツール・イリテラシーの人々を多く産出する結果となっている。これは上に挙げた二つの記事でも書いた。

 そのことを端的に表わす最近のツイートを最後に紹介して、私は旅の人になろうと思う(来週月曜日午後以降迄ブログを休止します)。

 

★ 本来利便性や便利であることは、例えば四肢の不自由な老人こそがツールを利用すべきであるのに、便利過ぎること、つまりカスタマイズの選択肢的多様が却ってユーザーにそれ迄の単純なツールにはなかった複雑さを与え、その機能的利便性についていくこと自体に多大なストレスを与えるという矛盾がある。

★ 結局便利なツール自体は、頭脳も明晰でユーザーとして多機能把握、利用頻度を増し習慣化することのスピーディーさに於いて、本当は一番利便性を必要とする老人をおいてけぼりにするという側面は否めない。結局ユーザーセンスある一部の青年や中年だけに利便性を提供する様になる。この矛盾はどうする?

★ ヴァージョンアップされたツールへと容易に移行し得るのは、ある部分では例えば男女の関係で言えば特定の配偶者や恋人等の選択に於いて性生活をはじめ全ては馴染むという事で他の関係を排除していく終の棲家的発想からは遠い。それはまさに生涯理想の異性を追い求め独身のまま性の彷徨をする事に近い。

★ 一旦慣れてしまったツールからもっと便利なツールへと転換した場合、最初はおたおたするが、慣れるに従って最早前の機種には戻れなくなる。だが男女の仲でも仮に三十年一緒に過ごしたパートナー以上の存在が出現したら、そちらに乗り換えより幸福を得ることもあるのに、それを躊躇うのは諦観だろうか?

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