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2012年4月25日 (水)

今世の中では何が求められているかPart3

 何か世の中で求められているもの全ては、それを求めている者にとって精神的支えとか憩いとなっている訳だが、その求めているものを提供しようとする者にとってそれは精神的支えとか憩いではあり得ない。それはある部分では冷めた見方と、極めて精緻で「求められているものが持つ構造」への明確な理解に支えられている。

 ある部分ではそれはモラル的な正しさとは別次元の問題である。

 要するにそれはプロとはどういう仕事で世の中に世の中が求めているものを提供するかという技術の問題であり、形而下的な仕組みの問題なのである。

 これは教育とか哲学とか、一見技術的な論争よりも精神的な理解の方が命題的には勝っていると思われるものに於いても全く変わりない事である。率直に言って形而上学とか教育もそれ自体精神論だけでは全く成立し得ない技術的・形而下的な事なのである。

 しかし世の中は何かが求められていても、それに応じようとする人達だけのコミュニティを構成しやすい場所だから、必然的に何もかもプロのやる事は外部からは干渉されない砦の様なものになっていきやすい。それは昨今の政治とか震災後の政治家達、東電をはじめとする経営者達の態度を見ても分かる。

 しかしやはり最終的には求められているものを受けて立つ人達は必要だが、求めている側の全ての人達が納得する形でのみ、その求められているものは意義あるものとして、そして価値あるものとして認識されていくだろう。

 しかしどんな世界でもプロの人達は固有の美学を持っていて、その美学が世の中で求められているものを提供する心意気を作っている訳だけれど、その美学が行き過ぎるとやはり世の中の側からすれば辟易してしまうという事態も比較的頻繁に見受けられる。

 それは司法などで大阪地検特捜部による書類改竄事件などでも我々が目撃してきた事だし、全ての社会問題はそういう事であると言っていい。

 私が知る世界は世界全体からすれば微々たる部分でしかないが、その部分にも社会全体の問題点は縮約され反映されている。

 しかしそれなりに意見を言わせて貰えれば、小利巧な人は天下を取れないし、生涯を好きな事だけして満足して終える事もないだろう。何故なら誰からも相手にされないという事態自体を楽しむ心の余裕とは、一々の世の中から求められている事に対応出来ていない、つまり余り芳しい評価を得られていない事に耐え切れなくなって、適当に世の中から認められる安易な道を見出して常に誰か真ん中に立てる他人の脇を固めるだけで生涯を終える人には終ぞ出会えない心の状態だからである。それはそれで素晴らしい脇で居られるなら、しかもその脇になってもいいと思える素晴らしい真ん中に立つ人との出会いがあれば、それでもいいが、そこ迄素晴らしい人と出会うという幸運はそうは転がっていない。

 だからたとえ世の中でこれこれこういう事こそが求められている事だと大勢の人達が主張しても、俺はそういう事ではないと思うんだという事で、一切妥協しなくて誰からも高く評価されない作業を黙々と続行していくだけの図々しさと勇気がある者こそが最終的には天下を取る、という事は言えるだろう。

 つまり最終的には世の中が求めている事というのは、安易に世の中がその時々で溜飲を下げるものなのではない、という形で常に未だ見出されていない事なのである。だからその見つかっていないものを延々求めて彷徨うバカになりきれる者だけが最終的にはそれを見出していなかった大勢から求めているものとはそれだったのだ、と見出されるのだ。

 それは評価される仕事だけを延々繰り返す人には出来ない事なのだ。

 しかしそれがどういう事なのか、つまり誰からも相手にされないけれど続けていく価値あるものとはどういう事なのかは、やはりそう容易には見出されないものでもある。それは何かを必死に続けてきて始めてある時期から見えてくるものなのである。

 そういった価値あるものと出会う為にしていくべき事というのは人それぞれ違う。そして自分だけのそれを見つけ出会う為になすべき事を自分なりに発見していく事が大事だが、それは余り真面目にだけしていても駄目であろう。勿論努力は必要だが、巧く周囲からの「やっかみ」とか「煙たがられる空気」を避けていくそれなりの世渡り的技術も必要なのである(意外と皆が挙ってしている事についていけないという諦めだけが自分なりの仕方を見出していくヒントとなるかも知れない)。

 一々他者と衝突して無駄なエネルギーの消費をしないでいこうと決め込むいい意味での功利主義が求められているのである。そしてそれこそが最初に技術論的だとか形而下的だと私が述べた事、つまりその求められているものを提供しようとする「求められているもの」自体を自分なりに発見していく心意気の人間に必要な処世なのである。そしてそれは「~は~である」と一律に法則化し得ない事なのである。そして又そういう風に定石に従っていこうと決め込んでいる人間には終ぞ出会えない事なのである。そういう態度で居る決意だけが内容的にもどういう事を自分なりにしていけばよいかを知る手掛かりとなるのである。

 最終的には周囲の社会とか他者からの評定ではなく、自分自身内部での生涯をこういう事に費やしてよかったと思える満足感の問題なのである。それが少なくとも私にとっての今の思想である。

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