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2012年10月

2012年10月31日 (水)

月末特集1ケ月内来場者数ベスト1 映画『アウトレイジビヨンド』が語りかけていること

 今日から北野武監督作品(監督にとって十六作目)である『アウトレイジビヨンド』が上映されているので、監督に対する敬意も込めて最寄の上映館で初回で観た(前作アウトレイジ一作目もそうであった)。

 今回の私自身の楽しみとは初回で生き残った出演者達がどうなっていくかであった。加藤(三浦友和)、石原(加瀬亮)、片岡(小日向文世)、木村(中野英雄)、そして前回で死んだ筈であった大友(ビートたけし)が実は生きていたという設定となっている。そしてこの全員が今回も余すところなく活躍し、それに新たに花菱会という関西のヤクザ組織の会長布施(神山繁)、その若頭西野(西田敏行)、幹部中田(塩見三省)、それ以外にも加藤が下克上で手に入れた山王会の古参幹部に富田(中尾彬)、白山(名高達夫)、五味(光石研)、それに彼等さえも顎で使おうとする石原とぴたっとくっ付いている幹部舟木(田中哲司)が物語り全体に重要な役どころで、加藤によって乗っ取られた山王会の前会長である関内(今回は写真のみの登場。北村総一郎)のボディガードだったという設定となっている。 

 今回も封切間もないので一切のネタバラシをすまい。 

 かつて北野映画とは『ソナチネ』にしても『HANA-BI』にしても『BROTHER』にしてもかなり脚本をルーズに作っておいて、台詞無しのアドリブ演出や長回しも多かったが、前回に引き続いてより用意周到な台詞の遣り取り(演出上での変更などの一切利かない)とか編集も計画性の高い仕方を採っていて、その点では映画全体のメッセージとか主題もより鮮明となっていて、曖昧なところを極力排除している。尤もかつてキタノブルーとも呼ばれた映像の美の冴えは健在である。 

 又前回は一応ビートたけし演ずる大友が主役であったものの、どちらかと言えば大勢の出演者全員の役柄の魅力を全開させることも目的の一つであったことに比べれば、主役大友(ビートたけし)の行動と考えそれ自体が持つ比重がもっと前面に出ていて、要するに昔気質のヤクザの生き様に焦点が当てられる様になっている。 

 それでも尚他の出演者の演技の素晴らしさもより前作よりもクローズアップさせられており、周囲から突き上げられる追われる立場となった加藤と石原を演ずる三浦と加瀬も素晴らしいが、花菱会会長布施役の神山、その若頭西野の西田、幹部中田の塩見なども素晴らしくどすの利いた演技を見せている。本物のヤクザより恐ろしさを出している。西田は以前より北野映画を鑑賞してきていたが、自分は使って貰えないと決め付けていたところもあったが、今回監督へ一もニもなく手を上げ、やっと本作にて念願が叶ったと言う。又今回は本来主役級役者でもある筈の高橋克典が一切台詞のない花菱会のヒットマン役で出演しているが、彼も北野映画出演をかねてから切望していて、台詞のない役しかもう残っていないけれどとのたけし監督からのオファーにも是非と飛び付き、クールな殺し屋を巧く演じ切って新境地を開拓している。 

 パンフレットによると今でも映画祭に出品する際の結果待ちには慣れていないとのことであるが、最早二作で大きな賞を獲っているので、北野監督には敢えて大賞が必要であるとも私には思えない。もう監督によるフィルムノワールの完成度は極まっていると思えた。とりわけ大友が出所後にかねてよりお世話になってきているという設定で今回初めて登場した影の在日フィクサー張大成(チャン・テソン)(金田時男)が曰く有り気な雰囲気をよく出していて、映画全体の展開に重要な台詞を沢山語る。しかもその配下の李(白竜)は在日らしくパチンコ屋を普段はしており、このことが今回の映画の結末の一つに重要な役割を果たしている。それにしてもこの白竜という人のアンダーワールド役は凄みがある。怖い(白竜は北野映画出演は『その男凶暴につき』『みんな~やってるか!』『HANA-BI』に続き四作目である) 

 それに対してかつてお世話になり解散の憂き目にあった木村の属した村瀬組の組員の息子達で木村が雇って使っている青年二人に桐谷健太と新井浩文が起用されているが、彼等は大友のボディガードをする様に命じられるが、ホテルでカレーを食べている隙にエレベーターに乗った大友が銃で撃たれる場面があるが、このエレベーターのシーンは北野映画のファンなら誰しも『ソナチネ』をまず思い出すだろう。南方英二、大杉漣、渡辺哲などとビートたけしが迫力ある銃撃戦を繰り広げるシーンはエレベーターを使ったアクション銃撃シーンとして世界に衝撃を与えたが、これらも含めて北野監督はある部分ではフランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』シリーズとかテレンス・ヤング監督の『バラキ』とか『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(セルジオ・レオーネ監督)とか『アンタッチャブル』(ブライアン・デ・パルマ監督)などからもインスパイアされてきたのだろうと思う。つまり深作監督とか黒澤監督からだけインスパイアされてきたのではない、と私は思う。エレベーターのシーンを北野監督はお気に入りの様で、本作と『ソナチネ』以外でも『Dolls』や『TAKESHIS’』などでも有効に活用している。 

 だからもし北野監督、たけし監督によって次回以降大きな賞を獲る作品が登場するとしたら、今回迄の様なフィルムノワールではなく、監督本人も切望している純愛映画などではないだろうか? 

 又北野武という人、そしてビートたけしという人は、今回は台詞なしだけで起用した高橋克典などの役者を次回は台詞を多く使った役で起用するとか、そういったことを考えている人ではないだろうか?そうである。映画の中で演ずる大友の持っている昔気質が彼の中にはある様に思われるのだ(私は前回の生き残り組の後始末をどう今回つけるか想像していたが、少なくとも殺し方に関しては想像したとおりであった。私も大分北野映画の美学の文法を掴んできた様である)。 

 私は北野映画を全作品鑑賞してきた。その初期三作とそれ以降の作品四作以外は殆ど初日に鑑賞した。私の好きな北野映画は先述の仕事以外では『その男凶暴につき』『みんな~やってるか!』『BROTHER』『監督・ばんざい!』『アキレスと亀』などである。 

 人間社会への透徹した眼差しを持つ北野映画では、悪それ自体も通り一遍ではなく人間存在の弱さとか集団とか組織の掟に縛られていく不条理から描かれる。その意味では真の意味での強者は北野映画では登場しない(当然のことながら正義もである。その意味では今回初登場である片岡の片腕として活躍する繁田<松重豊>の存在が映画全体で語りかける意味もかなり大きい)。そういった二律背反を描き切った北野監督による純愛映画とか、他のジャンルの今後の映画を今から楽しみでぞくぞくする想いである、という意味で私自身の北野ワールドの旅は未だ当分終わりそうにない。

 付記 本文では触れなかったが、音楽を担当した鈴木慶一の仕事が素晴らしい。抑制の効いたアンニュイでいてミニマルで情に流されない楽曲が巧く北野映画の持つ不条理感の通奏低音を際立たせている。(Nameless-value)10月5日記事(今日現在来場者数1066人)

 本作品公式サイト http://wwws.warnerbros.co.jp/outrage2/

 付記

 本記事は本ブログでは久し振りに1ケ月経たぬ二十日少しで千人の来場者数を獲得した。本ブログでは二年前のある記事以降最も多く来場者数を獲得した記事となった。

 それもしかし一重に北野武監督の威光である。北野映画も素晴らしいし、その映画で多く主演も務めるビートたけしという役者も素晴らしい。そしてビートたけし=北野武というお笑い芸人にしてヴァラエティや時事問題討論番組の司会者、報道取材特番の企画者、そして画家、詩人、脚本家、編集者などこの20世紀から21世紀に股をかけた大物の存在理由をそろそろ私なりに考えるべき時期に来ているとは考えていたのだが、その度にこの人は常に新たな方向へと私達を誘う。そして又この映画で私達に彼は何かを突き付けた。まさに偉大なる才能の持ち主にして偉大なる巨人である。

 ビートたけし=北野武は人生でかなり大きな波があったし、いい意味でも悪い意味でも時代を象徴し代表していた。しかし映画監督として着実にキャリアを積むに従って私達へ肩書きとか一人の人間のキャラクターとかそういった部分毎の持つ力を遥かに超え得る存在自体が持つメッセージ性を我々へと突きつけてきた。それこそがこの人の持つ存在理由である。つまりビートたけし=北野武はそんなに単純ではないのだ。一つの彼の持つ性格とかセンスとか才能とかはこの巨人の前ではやはり小さな部分でしかない。それらが複合化されたところに何か時代とそれを越えるメッセージがある。かつてその様なタイプの巨人はどの世界にも何人かは居た。アートの世界ではピカソがそうであったし、音楽の世界ではロック&ポップスではビートルズが、そしてお笑いの世界でも様々なタイプの大物が出ては消えた。しかしビートたけし=北野武は所謂お笑い芸人という枠には常に嵌らなかった。だから当然役者を始めても役者であるだけではなかった。要するに彼は常に何をしても、その枠から食み出てしまっていたのである。その意味では存在の仕方としてはある部分では三島由紀夫的(彼も又一文学者には収まりきらなかった)だし、ある部分では寺山修司的(彼は多才そのものであった)である。それでいて、崔洋一監督から要請されればきちんと役者も務めるし、テレビ局から頼まれれば一度は出演を差し止められていたNHKでも紅白歌合戦で志村けん等とコントもやった。そしてその技術論的な完璧さと相変わらずのキャラクターの持つ毒舌的センスで常に我々を飽かすことなく存在し続けた。彼が演じた犯罪者や刑事などどれを取っても時代を象徴する存在ばかりであったし、どの役を演じてもしかし同時にビートたけしで在り続けた。

だがそんなビートたけし=北野武も還暦を過ぎ、六十五歳となった。さてこれから人生の完成期へと突き進むこの人がどんなことを又しでかすか、常に私達は注目していくわけだが、この人を真に脅かす存在がどれくらいこれからこの日本という国に登場するか、ということも又恐らくこの人の脳裏にも過ぎっている考えではないだろうか?どんなに偉大な存在でも一人の人間の存在は時間的に永遠ではない。そしてきっと監督であり役者であるこの人は未だ手をつけていなかった部分へと既に動き始めているだろう。そしてそれが再び存在自体のメッセージである様に我々も望むし、本人もそれを自覚していることだろう。その時迄私は静かにビートたけし=北野武の動きをじっと待ち続けてみようと思う。それはここ三十年くらいこの人の動きを常に追ってきた一人の人間の決意である。(Nameless-value)

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2012年10月30日 (火)

今の若い人へ伝えておきたいことPart1 好きなことだけで飯を食っていこうとすることはかなりリスキーな生き方だ

 私は若い頃芸術家になりたくて、要するに絵を描くのが好きで、その好きな絵で飯を食っていこうと考えた。しかし実際に生涯で売った絵などほんの僅かであり、大半は常に描いてしまった膨大な量の絵をどう処分するか、つまりいい絵は保存しておかなければいけないが、そうではない絵は捨てなければいけないので、常にそういったことばかりに苦心してきた人生であった。

 絵を描くということは物理的に場所を占拠する物質を多く抱え込むことになるので、必然的に整理術とかが巧い人と下手な人とでは大きな生活上での差が出てきてしまう。

 率直に言って全ての仕事は整理である。私は自分が住む自宅とか自分が自宅で寛ぐ空間を常に清潔にして保ち、快適に仕事をしやすくする環境を作ることが苦手であり続けた。しかもなかなか捨てることを思い切ることも出来ない性格も災いして今日迄自分の家庭さえ持てずに来てしまった。

 結婚して子供を育てるということは家の中を巧く整理していくことに他ならず、妻とか夫とか子供のことを第一に考えるということは即ち、それ以外の他人との付き合いを適当に必要なもの以外は全て捨てていくことでもある。

 ある種の思い切りが全てに対して必要であるということでは、人生好きなことで飯を食っていこうと思うなら、あらゆる平凡な人が得る幸福、例えば安定した収入とか幸福な家庭を持つことを諦めるしかないということだ。逆にそういった平凡であるがささやかな家庭と幸福を得たいのなら、好きなことで飯を食っていくことを諦めるしかない。

 ある部分ではアートとか文学とかは社会に対する謀反であるし、生きていくこと自体の当然しなければいけないことを放棄する様な反逆的な行為である。何故ならそれらは人類の文明に絶対に必要であったものだけれど、それが出来るということを前提に、それはあくまで趣味とか心の憩いの問題で、市民としてしなければいけない仕事とはもっとそういった心の憩いを成立させる為のインフラ整備と維持の仕事だからである。

 我々はかつての朝廷とか王朝の皇族とか王様ではない。そういった立場の人達も現代でも居るには居るが、実際に何もしないで居る人達は居ない。公務とは厳しいことであり、よっぽどメンヘラやプレカリの青年達の方がいい生活をしている。要するに日本はどんなにメンヘラとかプレカリであっても、他の多くの国々の人達に比べれば生活は楽なのである。だから余りにもペシミスティックなNHKなどの青年世代の自殺などの特集とか討論番組を作っているのを見ると、一度は経済大国へと伸し上がった国固有のエゴとか怠惰を見る思いはする、というのが私の正直な感想である。口先だけで何か討論したり、理屈だけはいっぱしでもしなければいけないことをしないでいるという生き方は、その人の話し方とか討論の仕方でも伝わってしまう。

 実用的なことではなく非実用的なことを寧ろ人類は古代から行ってきた。そちらの方が実用的なことより大事であったからこそ、巫女なるものも日本では古代から存在したのだし、そういった宗教祈祷的なこととか、デザインとかお洒落といったことが逆に生活が豊かになって、産業革命などを齎した後、今度は実用的なことの方を主体にしだしただけであり、アートも思想も哲学も、実用的な仕事ではなく、実用的な仕事をして食べている市民の心の憩いとか、生きていることそのものの意味を理解したり反省したりする為のものであり、それは全ての市民にとって必要なことであるから、誰しもが仕事のオフの時間には好きな探偵小説を読んだり、好きな写真を撮りに出かけたりするのであり、それをする為にそれほど好きではないことを仕事にしているのであり、そうではなく好きなことをしようと思ったら却って金をこちらから支払わなければいけないのであり、好きではないことで社会に奉仕するからこそ逆にお金を貰って、それで余暇に好きなことをすることが出来るのである。

 私自身は好きな探偵小説もないし、まさに好きな小説がないから小説を書きたいと思うのであり、好きな詩はないから好きな詩を自分で書こうと思うのであるが、人は私が書く小説を好きで居てくれるかどうかは分からないし、詩でも同じである。唯私の自己満足かも知れないのだから、それでも尚そういったことをし続けていくとしたら、それはまさにリスキーな生き方以外ではない。

 だから好きなことだけをしてそれで何とか食っていこうと試みる生き方とはまさにリスキーである、ということだけを念頭に絶えず入れて、忘れずに、そして真っ当な生き方ではないことを自分は選んでいるのだ、だから社会から顰蹙を買っても仕方ないと思える者のみが好きなことだけを生涯し続けることが出来る、そしてそれは決してそうしてよいと社会から認められることでさえない、許されることでさえない、ということだけを好きなことだけをして生きてこうと考えている青年世代の人達には言いたいのである。

 そして好きなことだけをして生活していこうとしている全ての人達(それはそれで成功している人達も、そうではない予備軍の人達、或いは生涯をメンヘラ、プレカリで生活していくしかない人達も全て含め)は好きではない仕事ではあるが、社会に奉仕して余暇にだけ好きなことをしている人達に支えられているのだ、ということだけを忘れずに居て欲しい、というのが、私が若者、青年世代の人達に今言えることなのである。

 そして好きなことをする為にはどんなに怠惰な人でも、その好きなことをして食っていけるだけのかなり才能のある人でも好きではないこともやはり沢山しなければいけない(時には好きではないどころかかなり大嫌いな人にさえ頭を下げなければいけないことも必ず人生ではあるのだ)、ということだけは忘れないで居て欲しい、ということである。

 付記 やはり好きではないことをするにしても、それをすることで好きなことが出来るのだからと言い聞かせて、楽しんでするしかないのではないだろうか?それはかなり人生では大切な心がけであり智恵ではないだろうか?(こんなこと絶対学者は言わないけれどね)(Nameless-value)

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2012年10月29日 (月)

日記的記述BF ブログで書くネタがなくなること、日記を書くことで言えること

 本ブログを始めて約三年と五ヶ月(正確にはそれと二日)が経ったわけだが、ブログとはそもそも日記を書きながら、それを公開する形である一つのツールとして広まったものであり、これは率直に言って20世紀に於ける人類の発明の大きなものであろう。

 この三年と五ヶ月の間平均すれば毎日書いてきた(途中旅に出たりして中断することもあったが)。多い時には一日に三つから四つ記事を書いたこともあったし、二つ記事を更新することもあったから、約平均毎日一記事ずつくらいは書いてきた。

 これだけずっと続けていくと、流石にネタがつきてしまうこともある。又長期的に続行させている研究テーマは毎日書き続けることは出来ないから、当然途中で別の記事を差し挟まなければならない。

 ネタがつきてしまったなら、ネタがつきるということに就いて考える内容の記事を書けばいいとは知っている。かつてヴァラエティ番組に村松友視が出た時、出版社の人が自分を缶詰にして書いた小説原稿を電車の中に置き忘れ紛失してしまったので、再度謝罪しながらもう一回原稿を書いて欲しいと再び氏の前に現れ頼まれた時、村松氏はせっかく書いた原稿を出版社の人に渡した後、その人が原稿をなくしてしまったので、原稿を無くした男か、その男によって再度別の小説を書かなければいけなくなった作家の話というそのままの内容の小説に変更した話をしていたから、いよいよ切羽詰った作家がものを書く時には、その切羽詰ったこと自体を内容にすればいいということは知っていた。

 しかしそれだって一回しか利かないその場凌ぎである。次はやはり別のことを考えなければいけない。

 ところで本ブログを始めた時私は辛うじて四十代であった。四十九歳で本ブログを始めた。そしてそれからほどなくして五十代に突入し、今日に至っている。

 かつて社会人ばかりが集まるあるサークルに属していた時私より大分年配のあるご婦人が、人生なんて一度として同じことが繰り返されることなんてない、と語っていた。その場に居合わせた年配者全員が同意していた。そのことはよく私にも分かる。生まれてから二十歳になる迄だって一度として同じ様な時間を繰り返すことは人生ではない。恐らくそれは仮に人類の寿命が何百歳になっても同じなのかも知れない。要するに毎日、毎月、毎年違ったことばかりの連続であり、出会う人、別れる人、全て人生でその都度一回限りのことである。

 ここにカサノヴァとかドンファンの様なタイプの男が居たとして、生まれてから何千人という女を抱いてきたとしよう。しかし彼は独身であるなら、再び恋をする時、それ迄何千人と女を経験してきたとしても次に逢う運命の人かも知れない異性とはその時初めて会うのであるから、梅沢富美男の演歌ではないが、恋は何時でも初芝居である(ということは長く続けているのにSNSでフォロワーや友達が常に一人だけであり、それ以上絶対増えないのに、その一人である人の顔ぶれが何時も違うということと先程述べた人生の個々の出会いと別れともであるし、このカサノヴァの生き方もであるが、それらは似てはいないだろうか?)。

 だから相手次第では心もどきどきしてくるだろうし、そうやって何時迄経っても身を固めないという生き方も、それはそれでかなり大変であろう。そういったときめき自体が面倒臭くなるからこそ、人は結婚するのかも知れない。そのときめきが面倒臭くない内は結婚しなくてもいいのかも知れない。因みにある時結婚しようと思った女性に母親を紹介されると、かつて抱いた女性だったというのがカサノヴァの恋の遍歴の落ちであることは有名である。カサノヴァは自分の娘と結婚しようとしていたのである(ところでその女性とは既に肉体関係があったのだろうか?)。

 尤も私自身未だ恋もしたいし、又後何十年も生きたいと今は思う。しかし人生の期限というものは自分で望んでその通りに行くものではなく、あくまで「向こうから」お迎えです、と来るものである。だから五十も過ぎれば誰だって人生最期の時というものを想像くらいはするだろう。そしてそれが早く来るか遅くくるかはやはり決定的に運命であるとしか言い様がない。

 死ぬ迄こうやってブログを更新し続けられれば、それはそれで面白いかも知れない。しかし人生どうなるか分かったものではないので、別のことで凄く収入が巡って来て、そのことで食える様になっていった時には本ブログだって閉じるかも知れない。そういうことはやはり先々であるから分かるものではない。

 明日は今日こういった記事を書いたので、一番最近の「世界の真理」シリーズであるPart18の異性関係で書いた三つの★の記事内容を膨らませて書こうかと昨日辺りから考えている。「不良学入門」シリーズを少しこれから増やしていこうかとも思っているのだ。

 不良学なるタイトルなんだから、決して一般的に学者なんかは書かない内容である。そしてそういった砕けた内容であればあるほど、反社会的である筈なのに、却って来場者は増すだろう(もしその通りであるなら、却って社会的であろうとする生真面目な学者の様な生き方の方が結果的にはずっと反社会的であるということになる。そして実際にそうである)。

 勿論そういった記事にはそういった記事なりにもある書き方があって、それに巧く沿っていなければそうならないのだけれど、やはりああすればこうなる式の定石の様なものは受ける記事にはない。だからこそそんなことを一切考えずに書き続けるしか方法はないのだ。そしてそうやって益々受ける記事を多く書ける様になるかも知れないが、もう二度と多くの来場者を獲得する記事が書けないまま終わるかも知れない。

 要するにそういう風に先行きとは一切不透明で、不確実であるからこそ、ブログに何かを書きとめ続けることに何らかの意味があるのかも知れない。

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2012年10月28日 (日)

私は大半の文学に感動を得られない/要するに個別の作品世界に魅せられるだけで体系的に把握しているわけではない

 私は所謂文学通ではない。大半の日本文学の名作も読んでいない。つまり文学史的にそれらの作品を読んで教養として文学通で居ようという気が人生で一度として起きなかった。それどころか積極的に文学というものそれ自体を教養とか時代的メッセージとしてある種の学生運動的精神の糧として読むのがずっと(大学生時代から)嫌いだったし、文学者の色々な場面での言い分、つまり社会とか政治とか様々なことに関する意見の大半が嫌いであるし、昨今でもツイッターで何人か著名な作家をフォローしているが、その観は益々強まっている。

 若い頃贔屓にしていた作家は何人か居た。安部公房、富岡多恵子、池田満寿夫、佐木隆三(『偉大なる祖国アメリカ』は素晴らしかった)、尾辻克彦(芥川賞受賞作だけ読んでいない)、唐十郎(尤も芥川賞を受賞した『佐川君からの手紙』以前の戯曲を中心にで、芥川賞受賞以降のもの読んでいない)、大学に入学してからは鈴木清順の映画に嵌って、彼の好きな作家である石川淳を熱読し、泉鏡花も読んだ。落合信彦(十数年前位迄の実録ものやエッセイなどを熱読した)などを読んだが、大半の作家をずっと読み続けるということもなかったし、第一三島由紀夫の代表作を幾つか読んだのも比較的最近のことである。彼のものでは『金閣寺』だけ感心した。他にも四作ほど読んでみたいと今からでも思わせるものはある。

 川端康成は読んだこともないし、太宰治も『走れメロス』を中学か高校の教科書で読んだだけであり、それ以上読みたいと思わせなかった。司馬遼太郎は『殉死』と『新撰組血風録』と『この国のかたち』『ロシアについて』など短編、中篇小説やエッセイ、取材ものなどを読んだ。司馬史観それ自体にはそれなりに当時も心惹かれた部分はあるが、今もう一度再考してみた時どれくらい共感し得るかも分かったものではない。

 大江健三郎は初期の『死者の奢り』『飼育』『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』とかを読んだが、今一つ当時からぴんと来るものがなかった。

 安部公房の代表作は一通り読み、読んでいないものの方が少ないが、今読んだらそれほどあの頃ほど感動出来るかなども分かったものではない。

 村上春樹は『1Q84』をBook2迄読んで3も買って数ページだけ読んでそのままとなって今では埃を被っている。

 夏目漱石は『坊ちゃん』『こころ』『虞美人草』とかはかなり昔(何十年も前)に読んだが後ろ二作はとても暗い小説だったとしか記憶がない。尤も『こころ』はそもそもストーリーとかも有名なので、おぼろげながら思い出すことも出来るくらいだ。

 志賀直哉も谷崎潤一郎も島崎藤村も殆ど読んでいない。

 要するに私は文学青年ではなかったし、今でも文学中年ではない。

 海外文学は小学生の頃『シェークスピア物語』というのをチャールズ・ラム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%A0のもので読んだことはよく覚えているし、中学生の頃フロイトの入門書を読んで感動したことだけは覚えている(確か何とか書院とかの本だった。余りにも昔のことなのでよく覚えていない)。

 小学校高学年頃は翻訳ものでアルセーヌ・ルパンシリーズ(モーリス・ルブラン原作。最近『ルパン最後の恋』の原稿が発見されブームとなっている)、コナン・ドイルのホームズものとかガストン・ルルーといった推理小説、そしてモーパッサン、スタンダール、モームなどを少しずつ小学校高学年から二十代迄の間に読み、大学生時代はドストエフスキーを熱読した(尤も『白夜』『賭博者』『地下室の手記』『死の家の記録』などは読んだのに、どうしても内容が暗過ぎて『罪と罰』を読破出来なかった)。

ゲーテの『ファウスト』を読破したのは数年前のことであるが、よく理解出来なかった。

メルロ・ポンティの翻訳されたものは大学生当時出版されていたものは殆ど目を通し熱読したのが哲学へと徐々に嵌るきっかけとなったのだが、大学卒業後にハイデッガー、ウィトゲンシュタイン、フッサール、デリダ、クリプキとか次第に著名な哲学者を現代のものを手始めに、それ以降スピノザとかロックとか古いものも読み始める様になって今日に至っている(原書を取り寄せることはしていたし、未翻訳のものを読むこと和訳に挑戦し始めたのもここ10数年の間であり、ずっと既翻訳のものばかりだった)。 

大学在学中サルトルの『アルトナの幽閉者』や『聖ジュネ』(この小説は病気で21歳の時死にかけた時にジュネの『薔薇の奇蹟』や『女中たち・くろんぼたち』と共に父に病床の私の為に買って来て貰う様に頼んで読んだ)、そして父に勧められた司馬の『殉死』もその時に読んだ。死ぬかも知れないと思っていたので貪る様に読んだ(もう一度その時に読んだ本を全部読み返してみたいのだ。今読むとどう思うだろうかと関心がある)。

 文学それ自体を好きになっていったのは幾つかの詩を中学生とか高校生の時に読んでからであり(そういった興味は当時流行っていたクイーンとかのロックへの関心と多分に重なっていた)、例えば高橋新吉、萩原朔太郎、中原中也とかの幾つかの詩に心酔した時期はあった。或いはアポリネールの詩を翻訳でだが読んで面白いと思ったのも高校生の頃のことである。

 要するに小説は娯楽的にはその都度評判を呼んだものを読もうとか思ったりしていたが、詩の方により共感し得るところはかなり若い頃からあった。と言って率直に詩を歴史的に学んだことはなかったし、今でもそれほど詳しいわけではない。

 要するに精神的渇望から必ず文学が必要であるとか、読まずには居られないということはなかった。

 寺山修司の短歌を幾つか読んで凄い人が居ると思って高校生(当時彼が脚本を書いた映画『サード』<東陽一監督>を観に行ったのが懐かしい)から大学生迄を過ごしたが、卒業後間もなく彼は亡くなってしまった。

 最後の映画『さらば箱舟』を観たのも去年その映画に出ていた原田芳雄が亡くなった後Youtubeを通してだった。今でもこの映画と鈴木清順の『陽炎座』はYoutubeで全編見ることが出来る。修司の映画は『草迷宮』以外は映画館かテレビで既に大半は観ていたが、初期実験映画である『トマトケチャップ皇帝』は昨年やはりYoutubeで観たので、結局中篇である『草迷宮』だけを見逃していたのだが、最近最寄のブックオフでDVDを二千数百円で売っているのを見つけたので時々その店へ行くがなかなかなくならないので、お金に余裕があったら来月くらいに手に入れようかと思っている。

 つまり文学を何か教養として身に着ける気など今でも更々私はなくって、それは要するに私が文学研究者になる気がないからなのである。

 語彙とか言葉には興味があるので『源氏物語』も『平家物語』も日本語の伝統的なコードとかスピリットを把握しておきたいという意味で読んでみたいとは思うし、日本の歴史に沿って理解したいという気持ちもあって今年九月京都で平徳子(建礼門院徳子)に縁の場所を数箇所と、紫式部に縁の石山寺に、そして彼女の墓に去年詣でたので、読んでみたいという気だけはずっとある(なかなか他のことで忙しくて読めないでいるのだが、老後の楽しみにとっておこうとは思っている)のである。

 しかしそれらは何か差し迫ってのことではないし、職業的使命感からではなく、歴史と文学史的ロマンからであるに過ぎない。

 文学それ自体に例えばどうしても関心が持てないという資質の人が居たとして、それはそれで仕方ないのだし、事実そういったタイプでプロ作家となっていった人も居るし、哲学者にもそういったタイプは居る。

 尤も私は語彙研究をしているが、個別言語学に圧倒的に関心があって、普遍文法とか普遍言語学、つまり論理学的な認識をベースに人類の言語を把握するというグローバリズムを余り信用出来ないで居るのだが(要するに日本語とか英語をそれぞれ別のものとして個別に関心があるだけなのである。そのことの理由に就いては近々詳しく別記事で述べる)、それと同じ様に何かあたかも文学の通史観的な認識が必要であると文学史研究者の様には思えないだけである。

 だからかなり前であるが新田次郎の小説を一冊も読んでいなかったので(映画では高倉健主演で加山雄三や緒形拳なども出演した豪華キャストの『八甲田山』も当時ロードショーで鑑賞していたが)、新田氏死去後に『アラスカ物語』を読んで当時かなり感動したことを覚えているが、その様に単品に対してその都度いいなあ、と思うだけで、私は小説とか物語文学自体の通史観的認識を携えているわけではないのだ。

 唯自分が小説を書こうと思う時には、それなりに自分の方法論を持とうと思って考えているだけのことである。そして文学青年であった人とか、文学を読書することで得る世界観を持つ人が作家になっていくのだとも私は思えないし、文学全般に不信感とか感動出来なさを感じる人が居たとしても、そのことがその人が小説を書いたり、詩を書いたりすることを妨げるものではないとも思えるのである。

 京都で知り合ったある青年哲学者にして文学者と久し振りに今年再会した時、四十八歳年少の女性と再婚した不良老人的な映画監督である鈴木清順のことを私が話題にして、彼の映画には頻繁にダンスホールが登場するが、私の父母が若い頃はそういった場所へ出入りする女性は不良と相場が決まっていた(それどころか喫茶店へ出入りする学生さえ当時は不良だった。私の父母は父が大正十四年生まれ、母は昭和六年生まれである。安保闘争などに明け暮れていた全共闘世代とは違うのである)と話すと、彼はすかさず、昔は詩を読む青少年こそ不良だとされたと私に語った。「君死に給うことなかれ」と与謝野晶子が歌った時、当時の人々は反体制的な晶子の詩に感銘を受ける青年達を白い目で見た、ということはよく理解出来る。そうである。文学とはそれ自体両親とかから反対されてやるものだったのである。それは今でも変わりない真実ではないだろうか?そう思うからこそ教養で文学を理解することに私は理解がないのかも知れない。

 だからこそ文学全般にある種の憩いを見出せないでいる感性があり、それが工学的センシビリティからそう思えるタイプの青年が居たとしても、その感性自体を育む中で創造を考えたり、自然科学へ進むことを考えたりしたっていいのであり、何か教養主義的に文学の名作を全部読んでおかなければいけないというのは、あたかもクイズ番組に出て文学関係のクイズに答える為でもなければ更々人生で困るということはないと私は考えているが、今後若い頃読む気さえなかった太宰治を発作的に読みたくなることがあったとしても、それを抑える必要も又ないのであって、要するに強制的に読むものではないものこそ文学である、という考えでいい、と少なくとも私は考え続けてきたし、今もその考えは変わらないのである。

 唯、私は学生時代は専攻から美術青年だったので読んだアンドレ・ブルトンの『シュールレアリスム宣言集』とか昔読もうと思って読んでいなかった日本の戦後アーティストへ多大な影響を与えた詩人滝口修造の詩集とかエッセイ集(『点』など)、そして当時読み損ねた美術評論の傑作である宮川淳の『引用の織物』などを芸術学科出身者としての使命感から読んでおこうかとだけ考えている。

 付記 数年前、川上未映子の芥川賞受賞作である『乳と卵』を読んだが、富岡多恵子的な文体の人だとは思ったが、よく理解出来なかった。先天的に現代文学を理解する素質がないのかも知れない。尤も彼女が出演して女優として大きな賞を獲得した映画『パンドラの匣はDVDで鑑賞しようと思っている。女優としての川上さんを好きになれそうだからである。(Nameless-value)

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世界の真理Part18 表現、SNS、異性関係<不良学入門番外編>

 最近気づいたことに就いて箇条書きにする。

★芸術や文学など表現形式とは全て学問ではない。又積極的に学問的使命感がないところにこそ学問と並ぶ存在理由がある。率直に表現とは表現娯楽であり、何か特定の政治的目的などに殉じるものは表現という名を借りた思想行為であり、表現は純粋に娯楽であるべきだし、そうであることで初めて表現の存在理由を全うする。表現は非思想的であることで初めて思想と並ぶ(それも別に張り合う意味でなく共存する)。

SNSでもTwitterは明らかに匿名性を守ることがたやすく、毒舌、攻撃的なくらいに厭世的ツイートさえ許容する。又それをしても然程問題にならないばかりか、そういったことさえ許されるタイプのメディア、ツールであるからこそ却ってツイートすることがストレス解消の為の有益な行為となる。

それに対しFacebookは社交的な場であるが故に名前や存在を明らかにしなければいけないので、必然的に攻撃的内容は控えられる。要するにそれは公的な場での発言と見做されるが故に、一定の対他的な態度での慎みが要求される。

だからこの二つは全く異なった目的で同時並行的に行うことで自己内部の問題を明確化することが出来るだろう。

残念ながらブサメンはブスと知り合う確率が最も高く、イケメンはイケジョ(美女)と知り合う確率が最も高い。時々凄くブサメンと一緒に居るイケジョとは、端的に男の経済力で一緒に居るのだ。この二つのことは殆ど世界の真理と言ってさえよい。

★尚、イケメンでもブサメンでもない普通の男も又ブスと知り合う確率が一番高いことは言うまでもない。そして普通の女も又ブサメンと知り合う確率が一番高い。普通ってのも案外少ないからである。

★こんなことを言ったら顰蹙を買うかも知れないが、余りにも見てくれのいい女とセックスするより、ちょっと見劣りする女とするセックスの方が後々迄記憶には残ると言えるね。昔、鈴木清順監督も言ってたけど、美女ってのは眺めているのが一番いいんだって。床上手って又別なのさ。

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2012年10月27日 (土)

日本語の持っている複合語的センスPart3複合語からの省略形のパタンに就いてⅡ

 外来語並びに和製英語の複合語からの省略形①、一部外来語並びに和製英語を含ませ、それ以外が通常の日本語によって構成されている省略形②、そして通常の日本語同士の複合語からの省略形③から再び列挙する。()内に元の語彙を記す。

パリコレ(パリ・コレクション)、プロレス(プロ・レスリング)、アマレス(アマチュア・レスリング)、ノンポリ(ノン・ポリティックス)、ゲネプロ(ゲネラールプローベ、オペラ・バレエ・演劇業界用語)、ファミレス(ファミリー・レストラン、日本でしか使わない英語だと思われる。参考wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3)、エンタメ(エンターテインメント)、ハイソ(ハイ・ソサエティ)、スパコン(スーパー・コンピュータ)、コミケ(コミック・マーケット)、メアド、メルアド(メールアドレス)、アニソン(アニメ・ソング、しかしこれ自体もアニメーションソングの略だし、英語で言うならsongs used in animation dramas(or programs)となるだろう。この種の日本でしか使用されない和製英語の略語もかなり現代では多い)

サボる(サボタージュする)、ガス欠(ガソリン欠乏)、ジャズ研(ジャズ研究会、この種の接合語の例として)、スポ根(スポーツ根性もの)、懐メロ(懐かしのメロディ)、昼メロ(昼間に放映されるメロドラマ)、女子アナ(女子アナウンサー)、写メール(写真のメール)、着メロ(着信メロディ)、ググる(グーグル検索するgoogle<英語では既に使用されている>)、ディスる(disrespectdisapprovedisgraceなどの動詞を日本語接尾辞と接合させている)、リア充(リアルな充実、ウェブサイト上ではない生活体験)

銀ブラ(銀座をぶらぶらすること)、労組(労働組合)、意味深(意味深長)、電卓(電子式卓上計算機 参考wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%8D%93)、棚ぼた(棚から牡丹餅)、落研(落語研究会)、科捜研(科学捜査研究所)、ジコチュー(自己中心主義<者>)、渋地下(渋谷地下街)、ぱしり(使い走り)、激痩せ(劇的に痩せること)、激太り(激的に太ること)、ツンデレ(つんつんでれでれ)、文字化け(文字が異なったロゴへ化けること)、ぱっと見(ぱっと見ること)、ちょっと見(ちょっとだけ見ること)

 これらの語彙、ことに日本語だけの③の元祖的な語彙組み合わせのパタンは「肩凝り」「物好き」「取り巻き」「太巻き」「逆け」「早食い」などの副詞や名詞と動詞が接合された複合語(熟語)が基本にある。そしてその基本から和製英語や外来語それ自体の略語①、そして一部①を含む日本語②、そして③の日本語語彙だけのものの複合語の略語がそれぞれ派生する、と考えられる。

 従ってこの種の日本語語彙論は、明らかに古語としての日本語から綿々と伝えられてきている音組み合わせ、語彙組み合わせ、語呂の伝統的なセンシビリティを炙り出すことにもなる。

 又①の様な完全なる和製英語であれ外来語であれ明治期以降初めて入ってきた語でさえ、最終的に日本語の語呂へ当て嵌めてしまう(その顕著な例はパソコンであり、personal computerであるからパーコンである筈であるが全体の中で必要な全ての発音を一字ずつ取るという日本語式の略語センスをここでも応用している。それ以外ではエンタメentertainmentである)。

 恐らく既に平安時代から熟語という形で略語は生まれていたものと思われるが、それが元ともなって江戸期には完全に今の日本語の略語的センシビリティの基礎が形成されたものと思われる。

 尚、猫糞という語彙は古語からある語彙であるが、やはり猫が砂を足でかけて自分のした糞を隠すことから、人のものを勝手に盗んで知らぬふりをすることを意味する。

 

 余談であるが、かつて日本でかなり不倫ブームとなったことが何度かある。夕暮れ族という名で吉行淳之介の小説『夕暮れまで』(黒木和雄監督で映画化されている)から不倫がマスコミの話題となって愛人バンクなども出来たのが80年代である。そして渡辺淳一の『失楽園』によって再び不倫がマスコミの話題となったことも記憶に新しい。参考ブログ 日本語俗語辞書 夕暮れ族 http://zokugo-dict.com/37yu/yuugurezoku.htm

 

 それにしても不倫をして何食わぬ顔をして元の夫婦の鞘に納まっている男女とも、相手の配偶者に対しは立派な猫糞をしていることであろう。そうである、この猫糞という語彙も又立派な一つの例示の話の省略形である。

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月末特集一ヶ月内来場者数ベスト5 生きるとはどういうことか?二本の映画から読み取れること 『最強のふたり』と『ライク・サムワン・イン・ラブ』

昨日東京駅の復旧工事が完成し、披露されたので、写真などを撮る為からも直にまじまじと眺めてみたいということからも出掛けた。そして目一杯写真を撮ってから、月初めの日だったので、映画が千円で観られるということで新宿の武蔵野館で『最強のふたり』と『ライク・サムワン・イン・ラブ』とを同じ映画館の異なった部屋で梯子で観た。後者の映画は一日に二回しか映写されないが、前者はかなり評判を呼んできた映画だし、予め予備知識が多くの観客にもあったせいか、映画館でも二つの部屋で少しずつ上映時間をずらして一日六回近く上映していた。

 人生とは一体何なのだろう、とこの全く異なったタイプの二本の映画から考えてしまった。ある意味では人生は器用な理屈とかそういうことではないと改めて思ってしまったのだ。

 人生を映画監督ほどよく知っている人達は居ないのではないかと何時も思わされる。人生とは人生の時間に他ならない。そしてあたかも人生の機微を知り尽くしたかの様に人生の時間を映画という時間に縮約させて見せるテクニックそれ自体が人生を知っていると思わせるのであり、人生を知っていると思わせることが人生を知っているということなのだ。

 だから映画監督の仕事からは哲学者より哲学的な何かを、思想家よりも思想的な何かを読み取ることが出来る。又哲学者は人生での哲学的な何かがよく分からないからこそ就いている職業なのであり、思想家は人生での思想的な何かがよく分からないからこそ就いている職業なのだ。だから逆に人生の哲学や思想を知っているのなら、その人は映画を撮っているかも知れない。小説を書いているかも知れない。それらは人生の哲学や思想を知ってるものとして観させ、読ませるものだからである。そこに彼等クリエイターの真骨頂がある。

 『最強の二人』はフランス映画であり、原題はintouchable(はみ出し者、の意)である。東京国際映画祭では主役の二人が共に主演男優賞をW受賞している。首から上以外の全ての筋肉が麻痺してしまって障害を負って生活する大富豪フィリップ(この映画は実話を元にして描かれており、モデルの本人、本の著者である本人も同名)が介護として雇ったドリス(実際のモデルの名はアブデルであり、映画では黒人青年の設定になっているが、モデル本人はアラブ人である)との最初はちぐはぐであったが次第に衒いのないドリスの接し方からフィリップも心を解き解し真実の友情へと二人が目覚めていく心温まる心の交流を描いている。ドリスとの出会いによってフィリップは再び生きていく活力と夢と希望を取り戻していくヒューマンストーリーである。

 映画は選曲(バッハなどクラシックからジャズっぽいテーマ曲からアース・ウィンド&ファイヤ等のソウルフルなものと多彩な展開だが、極めて映画の内容とフィットしていて自然である)とメインテーマのピアノが美しく、所謂音楽映画ともなっているし、映像に迫力があり、見ていて極めて心地よさを感じさせるキャメラワークと編集の運びとなっている。

 又主役のフィリップ役のフランソワ・クリュゼがダスティン・ホフマンやピーター・セラーズを彷彿させる風貌で、その貫禄と優しさ溢れる眼差しが印象的で、年少の介護者であるドリスへ最終的には解雇してあげる(ドリスの家庭的な複雑な事情から)辺りに、本映画のヒューマニティのメッセージがある。

 ドリス役のオマール・シーはセザール賞でもリュミエール賞でも主演男優賞を獲得している。

 映画では、しかしフィリップはその後どの介護者とも巧くやっていけず、再びドリスと共に時間を過ごす。そしてドリスの計らいで新たな人生へと踏み込むのである。例によってネタバラシはこれ以上はすまい。

 社会では確かに上流階級とかそうではない人達との間の壁も距離も世界観の違いとかもある。しかしそれは人間が生きていく幸福観とかの本質とは全く関係がない。その当たり前の真実に気づかせてくれる映画だった。

 久し振りに目頭が熱くなって目が滲んだ。こんな感動を味わったのは山田洋次監督の『遥かなる山の呼び声』以来のことだった(あの映画では高倉健もよかったが、倍賞千恵子やハナ肇が素晴らしかった。思い出しただけでも又目頭が熱くなる)。

 監督は今が働き盛りである41歳のエリック・トレダノと39歳のオリヴィエ・ナカシェである。

 一方人生をアイロニーから考えるなら、イラン人の巨匠映画監督アッバス・キアロスタミ監督の『ライク・サムワン・イン・ラブ』はもっと日常的な描写を淡々と描き、極力ヒューマニズム的なメッセージを排除させたテーマである。元大学教授である老人のかつての教え子の友人から紹介されたデリヘル嬢が老人の家へ行く所から映画は始まる。そして何事もなく一夜を明かし、翌日大学でテストを受けるそのデリヘル嬢を車で送っていく際に、彼女を車から降ろした直後、彼女を待ち構えていた彼女と交際している自動車修理工の青年から彼女の祖父と間違われ、老人自身も祖父になりすまして老人の車に乗り込んできた青年との会話から思わぬ展開となっていく映画である。これもこれ以上のネタバラシはすまい。

 主演(役者人生初の主演である)の老学者役の奥野匡、デリヘル嬢の若い女子大生役の高梨臨、そして自動車修理工役には今や日本国内外で時代を代表する役者となっている加瀬亮が扮している。兎に角加瀬の一本気な性格で彼女との結婚を切望している青年と奥野の落ち着き払った年配者との自動車の中での会話が絶妙である。

 加瀬と私の映画を通した付き合いは『オリオン座からの招待状』『硫黄島からの手紙』『アウトレイジ』などから数本目であるが、もうじき『アウトレイジビヨンド』も公開されるから、再び加瀬と私の出会いがあるだろう。

 映画全体はやはりBGMとして老人が室内にかけるジャズテーマ(映画タイトル)がメインであり、日本人しか出演していないのだが、演出の冴えとクールで抑制の利いた描き方から外国映画を楽しむ様に鑑賞出来る。流石キアロスタミ監督である。

 この二本の映画は全くテイストは異なるが、人生が全く予期せぬ偶然的なことからいい意味でもやばい意味でもとんでもない展開をしていくということを描き出しているという意味でも、共に年配者からの視点で描いているという意味でも鑑賞者が年配であればあるほど胸のぐっと来るものがあるに違いない。

 人生とは寧ろ後半になればなるほど本番である、ということを教えてくれる二本の映画であった。

 公式サイト 最強のふたり http://saikyo-2.gaga.ne.jp/ / ライク・サムワン・イン・ラブ http://www.likesomeoneinlove.jp/ 102日記事 来場者数44人(28日記録)

 付記 今年は比較的例年より映画評論を多く書いた。昨年惜しまれつつ亡くなった名優原田芳雄のことを数回書いたし、それを含めて今年ロードショーで観た映画八本のことも七つの記事で書いた。そしていずれも本ブログでは他の堅い内容の記事よりも多くの来場者数を記録した。本ブログで映画に関する記事が受ける様になってきたのはつい最近のことで、私の愛するアクターであった原田芳雄の記事を書いてからである。

私が今年観た八本の映画の中で本記事で触れた映画は両方とも極めて印象の残る映画である。尤も私は印象に残りそうな映画しか観に行かない様にしているので、どの映画もよかったが、敢えて順位をつけるなら、シンプルに感動したという意味では『最強のふたり』がトップ、映画それ自体の美学を味わえたという意味では『ライク・サムワン・イン・ラブ』がトップ、私自身の好みの映画という意味では『I'm flash』と『アウトレイジビヨンド』がいい勝負であった。前者は主役と助役のアクターが後者よりずっと若く、そういった意味では今後の映画のテイストとしては今年観た映画ではかなりトップに近い期待感を持たせた。

北野映画は既に古典の部類に入っている。だから安心して北野フィルムノワールを観ることが出来るし、それは私達の世代の特権かも知れない。北野武監督と出会えたことは私の人生の幸運であった。 

キアロスタミ監督の映画を殆ど観ていないので、本映画でその良さを知った私にとってキアロスタミ監督映画の旅が今始まったことにわくわくしている。この監督が世界的監督であることを本映画を観てよく理解出来た。凄い人は世界中に居るものである。

それに対して年齢から言えば『最強のふたり』の二人の監督は今働き盛りである。楽しみであるし、二人でも又撮って貰いたいし、一人一人でも撮って貰いたい。今年も暮に差し掛かってきたが、これからどんな映画を観ることが出来るか今から楽しみである。

 尚今年は沢山DVDでも(私所有のものやレンタルを含め)映画を鑑賞した。新作ではない作品で鑑賞したものは『グロリア』『はなれ瞽女おりん』(この二本に関しては記事化した)『天国の本屋』『人間失格』『血と骨』などを、そして我が町の図書館で上映された無料上映会で『奇跡』『それから』を鑑賞した。新作以外で鑑賞して印象に残ったものも映画自体を主題とした記事以外でも随時書いていこうと考えている。

映画を論じるのは映画文化それ自体だけでない内容のものでも出来る。又却って社会思想的な内容のものに鑑賞した映画を評することの方がより面白み(書き手としても読む来場者としても)があるとも言えるのではないだろうか?映画の持つ力とはそういった世界と社会への批評と風刺という観点から作品を論じられるというところではないだろうか?

 そしてその社会思想とか社会批評とか社会風刺はそれ自体我々個々人の人生論とも大きく関ってくることではないだろうか?その辺のことも近々記事化させていこうと考えている。(Nameless-value)

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2012年10月26日 (金)

詩論・金子みすゞ/元祖キャッチコピーのメッセンジャー<韻律と意味の素朴な遊び①>

 私は文学評論家ではないし、詩を文化人類学的に考察しているわけではなく、唯自分でも詩を書くのが好きな人間である。従ってこの詩論は詩を文学全体からどう位置づけるかとかの趣旨のものではないし、扱う詩人もそういった客観的文学批評ではない。

 

 しかも文学評伝執筆者でも私はないので、誰それという詩人がどういう生涯を送ったかというよく民放でもNHKでも放映される文学者が主人公のドラマの様なことは一切しない。仮にそういったことを述べるにしても最低限に留めるつもりだし、第一それだけの資料を集めて評伝を書くのなら私よりもっと相応しい人達が既に沢山おられるだろうと思う。

 

 さて扱う詩人は初っ端は金子みすゞ、それ以外で今のところ予定しているのは萩原朔太郎、宮沢賢治、中原中也、寺山修司などである。そして取り扱う順番は年代順でも詩人の持つ資質とか傾向順でもなく適当にその都度気まぐれに行っていく。

 

 要するに問題は彼等が一体どんな詩を書いてきたのか、ということである。そしてそれは詩自体が全てを語っていて、詩自体に内在する構造とか意味とかメッセージとかを読み取ればそれでいいのだ。

 

 私自身は詩は韻律的なことであり、それは<音=意味とか抑揚とか音読として発声した時にどういう効果を齎すか>ということであり、それ自体がメッセージである。それはしかし現代の様にウェブサイト上でコミュニケーションを執り行っている際にも我々が知らず知らずに採用していることである。

 

 ブログを書く時、大勢の来場者を獲得する記事はタイトルがまず耳に響きのいい言葉であり、語呂である。ブログに書かれた内容の時事性とかタイムリーさそのものを除けば言葉それ自体の響きが印象的であることが一番大きく作用する。

 その意味ではブログタイトルのメッセージは扇動的なことである。否文章とか言葉とは全て何らかの形で扇動的である筈だ。その語彙をその文を聞いて欲しい、読んで欲しいということでは全文字は扇動的である。

 

 しかし扇動的な言葉も、政治的メッセージもあれば、政治的視点では語り難いものもあって、金子みすゞは人間社会の正義に目を向けていたわけではないから当然政治的でもないし、と言ってその俗的処世と無縁で生きたいという気持ちの表出それ自体はメッセージとしては政治以上に強烈であるとも言える。

 そしてその部分ではキャッチコピー的センシビリティの元祖だと位置づけることも出来る。それは詩歌界とか詩壇とかに於いてそうであるというより、現代に生活する我々から彼女の詩を読んで得るメッセージはそうである、ということである。

 

そして彼女も他の多くの詩人同様、その韻律的なこととか、音の響きの持つニュアンスを最大限に応用して詩を作っている。それは他の詩人達よりかなり意識的にそうしているということだ。彼女の詩に音楽をつけることも(例えば私の従兄弟であるシンセサイザー奏者兼作曲家である西村直紀などもそれを試みているのだけれど)比較的しやすいタイプの詩人だったと言える。それは彼女がそもそも童謡詩人であったことも大きく手伝っている。しかしそれは彼女にとって少なくとも世に出る為の戦略ではなかったと詩自体が語っている。 参考Wikipedia 金子みすゞ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E3%81%BF%E3%81%99%E3%82%9E

例えば次の余りにも有名な詩『大漁』はそれを示している。

 

 朝焼小焼だ 大漁だ 大羽鰮の大漁だ 浜は祭のようだけど 海の中では何万の 鰮のとむらいするだろう。

 

 ここでは彼女は「ようだけど」など「ようだけれど」ではない言葉にしているし、「とむらいをするだろう」ではなく「とむらいするだろう」にしている。この計らいは全ての彼女の詩に共通している。次の『おとむらいの日』はこうである。

 

 お花や旗でかざられた よそのとむらい見るたびに うちにもあればいいのにと こないだまでは思ってた だけども、きょうはつまらない 人は多ぜいいるけれど だれも相手にならないし 都からきた叔母さまは だまって涙をためてるし 誰もしかりはしないけど なんだか私は怖かった。お店で小さくなってたら 家(うち)から雲が湧くように 長い行列出て行った。/あとはなおさらさびしいな。ほんとにきょうはつまらない。

 

 「思っていた」は「思ってた」に、「ためているし」は「ためてるし」に、「小さくなっていたら」は「小さくなってたら」に、又逆に「うちもあればいいのにと」は「うちにもあればいいのにと」と付け足してきちんと語数を整えている。

 

 この配慮は一字一句を神経遣って選別するコピーライターのキャッチコピー作成的な配慮である。そしてそれは現代でブログをして、それは大勢の人に見て貰うのがその本質ではなく、真に理解してくれるある種オタク的と言ってもいい人を来場者として求めるということがあってさえ、ある程度大勢の中からしかそういった真の理解者も見つからないから、ブログ記事のタイトルをよく考えて思わず開いて読みたくなる様にすることと基本的に全く同じ意識の持ち方なのである。

 

 次回はそのことに関して中也や朔太郎や修司といった人達がどう配慮していたかを検証してみようと思う。とは言っても彼等の書いた全ての詩に目を通すことは出来ないから、取り敢えず私が所有している詩集の中から発見したものに限って論考してみようと思う。(つづく)

 参考画像 大羽いわし https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A7%E7%BE%BD%E3%81%84%E3%82%8F%E3%81%97&hl=ja&prmd=imvnse&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=-iCKULGBBsiJmQWpk4FQ&sqi=2&ved=0CC4QsAQ&biw=1024&bih=500

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日本語の持っている複合語的センスPart2複合語からの省略形のパタンに就いて

 今回は日本語が持つ複合語的センスを省略語からカテゴライズさせてみよう。

 現代日本語の省略語には多用されるものには幾つかのパターンがある。それは次のとおりである。つまり外来語並びに和製英語の複合語からの省略形①、そして一部外来語並びに和製英語を含ませ、それ以外が通常の日本語によって構成されている省略形②、そして通常の日本語同士の複合語からの省略形③である。

 ではそれらを下記に列挙してみよう。()内に元の語彙を記す。

パンスト(パンティー・ストッキング)、ハンスト(ハンガー・ストライキ)、パソコン(パーソナル・コンピュータ)、ゼネコン(ゼネラル・コントラクター)、ゼネスト(ゼネラル・ストライキ)、スマホ(スマートフォン)、ミニコミ(ミニ・コミュニケーション)、ラノベ(ライトノベル)、リストラ(リストラクチュア)、モバゲー(モバイルゲーム)、シネコン(シネマ・コンプレックス)、ミスプリ(ミスプリント)、ミスコン(ミス・コンテスト)

ドタキャン(土壇場でのキャンセル)、口コミ(口によるコミュニケーション)、ゆるキャラ(緩いキャラクター)、パンチラ(パンティーがちらっと見えること)、生コン(生コンクリート)

ごね得(ごねて得をすること)、取説(取扱説明書)、マトリ(麻薬取締官・業界隠語)、助監(助監督)、携帯(携帯電話)

 

 又暫くしてもっと別の例が見つかり次第Part3として報告したい。

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2012年10月25日 (木)

何が楽しいって絵を描くほど楽しいことなんてないのだけれど①

 人類はかなり太古からずっと絵を描いてきた。そしてそれは何か別の目的の為ではなかった。要するに絵それ自体が描くこと、そして描いた絵を見ることが楽しいから描いてきたのだ。そのことは数え切れないくらいの大勢の科学者、歴史家、思想家達が考えてきたし書いてもきたので繰り返さない。

 尤も現代社会は極めて生きていくことそれ自体が困難だと思わせるストレスを現代人に与えてきている。当然そういった感性はプロのアーティスト達の絵画の方向性にも大きな影響を与えずにはおかない。従って現代絵画はそんなに誰しもが容易に理解しやすいものではない。そのことは「現代アートと現代哲学に於ける精神的危機とは?」http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-2d5c.htmlで既に書いた。しかし重要なことは、一般的に普通の人が絵を描いてそれで食っていこうとするなら、それはまさに精神的危機であるとそこで書いていただけで、本質的にアートの世界などで作品で食っていける人というのは、その一般人が精神的危機とする様な固有のストレスフルな感性をこそ楽しめる、要するに普通ではない感性の人だけなのであり、絵の方がプロとなれる人を選ぶのであり、絵を描こうと思う人が絵で食べていこうと決めるのではない。

 その意味では既に絵で食べていけている人はそれだけで通常の感性ではない部分に憩いを見出せる人である。

 又私は「人は一人で生きているわけではないし、人は一人で仕事していくことは出来ない/アートだって映画だって哲学だって全部他者との関係でなされる、という意味では同じなのだhttp://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-0bae.htmlでも書いたのだが、本来絵画には大きく分けて二つの方向性があって、一つは文学的なことであれ修辞的なことであれ、絵画の主題性、つまり絵画を描こうと思い立つ創造動機の部分をこそ重んじる傾向のもの、そしてもう一つは造形的な構造美の追求をこそ重んじる傾向のものとがあると考えた(ポップアートやコンセプチュアルアートは前者、抽象表現主義やミニマルアートは後者と捉えた)が、実際そうは言うものの、絵画を成立させる精神的基盤という絵画にとって外側の問題を重視する前者と、絵画それ自体という絵画の内側の問題を重視する後者とを実は明確に分ける手立ても、そういった実例としての絵画もないとも言えるのだ。

 勿論ウォーホルは明らかに前者のタイプだし、コンセプチュアルアートのジョセフ・コススも河原温もそうであるのに対し、ロバート・マンゴールドは後者だし、ロバート・マザウェルなども概ね後者の傾向の画家である。にも関わらずそれらの画家達さえ全く造形的なこと以外の主題性とか創造動機、つまり絵画それ自体ではない世界の雑多な要素から触発されていないということはあり得ないし、逆にウォーホルも河原温もジョセフ・コススも造形的要素を介さないで描いているということもない(後者の二人は描いているというより、コンセプチュアルアート移行期以降は作っているという要素が強いけれど)から、当然のことながらこの二つは実は切っても切り離せない。

 セザンヌにだって絵画主題から誘引された絵画的要素がゼロではないし、フォルマリズムの祖であるとされる彼にも絵画ロマンは立ち込めている。又ルドンやモローやムンクにも主題性以外にも厳然たる造形性もあるわけだ。

 しかしことに20世紀以降のアートでは作品を作ることそれ自体のモティヴェーションがより物質的、つまり描画される内容よりもより重視されるマテリアルな感性の方向へと突き動かされてきたことは言う迄もない。つまりその部分こそが通常の感性の人にとっては精神的危機なのである。

 確かに絵を描くことは楽しい。しかしそうやって楽しんで描いた絵それ自体が我々固有のストレスを抱く現代人に楽しみを与えてくれる画家などそう滅多に居るものではない。大半は自己満足的な仕事である。だから絵の方が描く人を選ぶのである。そして一般的な人にとって精神的危機である様なことをさらりと楽しんで苦もなく描けてしまう人だけが、そういった精神的危機を難なくこなして考えて論理を組み立てられる人だけがプロの哲学者とか論理学者になれる様にプロアーティストになれるのである。

 例えば抽象表現主義の画家達は画面、平面それ自体を造形することを哲学した、と言えるので、当然空間ということを平面に立ち込めさせるということで考えた。トビーやクラインなどの仕事は従って東洋的空間と相同のストラテジーを現出させたと言える。

 しかしウィレム・デ・クーニングは明らかに描くことをストラテジックではなくそれ自体楽しむことをしながら、マテリアルな感性を突き進まねばならぬ精神的危機を難なく乗り越えている。

 その顕著な例とは彼の初期ドゥローイングの仕事に痕跡として残っている最初に木炭などで描いた痕跡を消し去ろうとしている描跡である。このことを私は青春期の浪人時代にある美術予備校で中村博というアーティストの弁によって「消すという行為を残した」という言葉で聴いている。要するに消した痕跡を技と残す仕方をクーニングが採っていたのである。これは間違いなく絵画を描くロマンを封じ込める意図によるものである。従って抽象表現主義者達の中でも何人かは(ポロックもそうであるし、ゴーキーもそうであるし、ゴットリーブもそうであるが)完全に造形的なことだけに意識が傾注していたわけではないのだ。つまり絵画は描こうと思い立つ主題的動機と造形性が合致して不可分となったところでしか成立し得ないものなのである。

 しかしそういったドゥローイングをさらりと描ける人とは、総じて映画監督で言えば撮影しながら粗方どう編集で繋げるかを既に決定させて役者を演出していけるタイプの人であり(それでもクランクアップ以降に撮り直しをすることもあるのだが)、小説家とかでも必要なこと以外を一切書かない様に一々心掛けるのではなく、必要なことだけしか書かない主義の作家に近い判然たる決断力を要するのである。それは「日本人の娯楽感性/日本人には民族的エレジーは希薄だPart2」http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/part2-2bce.htmlで述べた北野武監督とか三島由紀夫など数限られたタイプのクリエイターにのみ可能な作業でもある。それと画家に関しても全く同じことが要求されるというわけだ。

 だからこそその難事業をさらりとやってのける人とは、楽しんで描くこと、つまり本来なら普通の感性から言えばかなり精神的にきつい作業をさらりとやってのけ、それでいてその楽しんだ痕跡が自己満足には決してなっていないで、造形的にも絵画を描く楽しさも同時にそこに残すことが出来る人であり、そういった稀有な例だけが20世紀以降の現代アートのプロアーティストと言えるとは言えることなのである。(つづく)

参考Wikipedia ウィレム・デ・クーニング http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0 / 画像 https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0&hl=ja&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=btSIUIiOHOn3mAXEtoDwBw&sqi=2&ved=0CB8QsAQ&biw=1024&bih=500

Wiki. 河原温 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E6%B8%A9 / 画像 https://www.google.co.jp/search?q=%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E6%B8%A9&hl=ja&prmd=imvnso&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=_tOIUJroO-X2mAWTj4DwDA&sqi=2&ved=0CDgQsAQ&biw=1024&bih=500

Wiki. ジョセフ・コスース http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%B9 / 画像 https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%B9&hl=ja&prmd=imvnso&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=M9WIUKi4G_HkmAXPlYHYDQ&ved=0CCcQsAQ&biw=1024&bih=500 

Wiki. ロバート・マンゴールド http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89 / 画像 https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89&hl=ja&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=XNWIUO2zMouImQXVvYDwCQ&sqi=2&ved=0CC0QsAQ&biw=1024&bih=500

アドルフ・ゴットリーブ画像 https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%96&hl=ja&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=qtOIUNiXL-LRmAXY5YH4Bw&ved=0CDEQsAQ&biw=1024&bih=500

Wiki. アンディー・ウォーホル http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9B%E3%83%AB / 画像 https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9B%E3%83%AB&hl=ja&prmd=imvnso&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=MNOIUMH2GonNmQWV0IHYAw&ved=0CCwQsAQ&biw=1024&bih=500

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異性へ可愛いとか美しいと思う気持ちに内在するエロスの美的感性とアートとか言語の美的感性との関係とは?

 

 アダルトサイトなども含め画像で世界中の女性の画像を観るのが凄く好きだ。特に私にはロシア人、チェコスロバキア人、ウクライナ人、メキシコ人、ブラジル人、トルコ人などを観ていると美しいと感じる。スペイン人やイタリア人も魅力的だし、フランス人もいいとか思う。要するにその様に美女とかイケジョに対して美しいって思うこと、可愛いと思うことは、客観的な姿形への査定も混入しているけれど、好感を持って、例えば実際に顔を合わす機会があれば口説いてみたいとか思えてしまうことは極自然な個人的な私の好みであろう。

 しかしその好みには、恐らく全ての人間には美しいものに惹かれるという部分が性質として備わっているから、必然的にアート全般、美しい絵画、陶芸、思わず毎日使ってみたくなるスマホとかタブレット端末のデザインへの嗜好とかとも無関係ではないだろう。

 要するにプロポーションの美しさへの判断基準、査定基準は、個人的に好きだとか可愛いと異性へ思える気持ちと不可分であろう。

 だからそれがもう少し抽象的な理解のレヴェルとなると、魅力的な文章と言うものへも向けられる意識とも何処かでは繋がりがあるだろう。確かに正しい文章とかよく論理的に筋道の通った文章という判断基準は別個に存在し得る。にも関わらず印象が強烈で何時迄経っても心から去ることのない言葉とか文章とかは実際に人からかけられた言葉であれ、本で読んだ文章であれ、街角で見かけた広告とかウェブ上とかで見かけたキャッチコピーであれ、それが印象的で何時迄も忘れられないということで、やはり個人的好みの傾向も多分に判断する際に関わっていても、美的にそれが素晴らしい、出色であると思えるという意味では唯主観的なだけでもない。

 するとやはり美的感性とか、聴き心地よさとか、記憶に残る印象的なことというのは、主観とか客観などといずれかであるという風に分けられるものではなさそうだし、それは異性に対してであるなら性的な好奇心とかエロス的な(だから当然生理的なことも手伝っているわけだけれど)、そしてリビドー的なことも多分に手伝ってるから、実際に知り合って話してみたいとか思えることであるが、それが例えばスマホのデザインなどでは、よりツールへの使い良さとか使い勝手とか、勿論便利であることは当然としてもそれ以外の付加価値として愛着の持てる名機という意味では個人の中にそれぞれ同一機種でも色とかは選べるわけだから、それが個人的嗜好であるなら、もっと大勢の人、つまりピンクのスマホであれ黒のスマホであれ、それを手に取って使ってみたいと思わせる何かとは、デザイン全体の魅力である。それだって人それぞれ違うだろうから別のカテゴリーということになろう。

 色とか形状への好みなどは異性への好みのタイプの持つ実存的なことから比べれば抽象化された好みとも言えよう。と言ってもその二つはやはり無縁ではない。何処かではしっかりと繋がっているとも言える気が私はするのである。

そしてスマホなどのツールへの好みは(それだって機種毎に異なったデザインであり形状である筈だから個人の好みの傾向というもの、タイプというものはあるだろうが)個人の嗜好自体がタイプ的に位置づけられもするということ、つまりある程度のマスにどんな個人でも位置づけられるということであるから、ここでも主観と客観を判然と分けることも不可能なことである。

 それはある事態に直面した時、私が取る行動が、私個人の判断であっても、それ自体私は日本人であり関東人であるから、そういったことも含めて、当然私自身の人生経験とも私の家系的な性格とかともそれらが合わさって作用して脳内で判断されて行われていることと同じではないだろうか?

 当然のことながら行為の根拠だって、個人的判断ということと、国民性とか地方人性とか民族性とか、逆に地理的なことではなく時代的なことで言えば現代の21世紀人性ということも全てが不可分に接合されて判断されなくてはならないだろう。

 話を最初の具体的なことへと戻すと、私自身の異性への好みにも当然21世紀を私は今生きているのだから、今の例えば若い女性に惹かれるとしたなら、それは21世紀人固有の異性へのエロス的美的感性が関わっているだろう。それに勿論私自身の性格とか家系的な性質も関わって個人のDNAも関係している。そして特に今回考え始めた惹かれる異性ということは顔の形状でも姿格好、つまりプロポーションでも全て抽象化された形では私が好きな車の形のタイプであるとかPCとかタブレット端末とかスマホのデザインのタイプとも関係しているだろう。そしてそういった考察は明らかに哲学者の得意とするところではなく生物学者とか分類学者の得意とするところであるかも知れないし、ある部分ではデザイナーとかアーティストとかの得意とするところであろう。

 異性の姿格好とか彼女等の取る表情への惹かれ具合と、アート、デザイン性はかなり関係がありそうだと思っても、先程少し触れた言葉とか文章への惹かれ具合はそれらとは少し離れているかも知れない。

 しかしやはり全く無関係ではないだろう。そしてそう考える仕方は欧米的ではなく東洋的なものの見方であるかも知れない、とは心理学者であるニスベット等の考察の存在を私が知っているからであるが、そういった全てを何処かでは繋げて、或いは繋がったものとして認識していくことは、少なくとも分析哲学者の最も不得手なことであり、生物学者とか生理学者とか脳科学者とかの方が得手なことであるとは思われる。<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=l021d-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4478910189" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

 音楽の好みと映画のテンポとか編集のセンシビリティの好みと文章の文体への好みは明らかに先程の異性へのヴィジュアルな好みとデザイン、アートの好みの類縁性の様に近いものがある。論理は当然前者、つまり音楽や文章の類縁性の中に含まれる。

 先程、分析哲学ではこういった類縁性への着目が不得手であるとした理由は分析哲学が分析を旨とするからである。

 しかしウィトゲンシュタインは分析哲学に多大の影響を与えた主であるが、類似、或いは類縁性ということにも着目していた。だから本当のところは分析哲学でもこの種の深い繋がりがあることとか、それほど迄ではなくても、ある程度緩く繋がっている(ウィトゲンシュタインの家族的類似性、はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E6%97%8F%E7%9A%84%E9%A1%9E%E4%BC%BC、この緩くの部分から着目されている。しかも語彙から考えられるゲームの規則からである。しかしこの考えはそれ以外への適用可能であると私は考える)ということの相関性を論じることだって決して不可能とは言えないと私は考えているのである。

 だからと言って凄く明確にその分析の方向性が決定されている段階では未だないのだが、分析自体も必ず総合と対となっているわけだから、分析に内在する総合性から考えていくという理念性はまず考えられる。

 それからかつて二度程「性と言語の共通性」http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-b9e6.html、「性と言語の共通性Ⅱ」 http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-18bb.htmlでは既に述べたことでもあるが、性のエロス的リビドー的部分と言語的論理だって全く無関係で類縁性もないとは私は考えていないので、異性への姿格好へのエロス的興味とか欲情などの生理的なことも、それ自体デザイン、アート的な美的感性と無縁ではないどころか、必ずかなり太いパイプで繋がっているということは言えるのではないか、という提言だけを一先ず今回の結論としておこうか。

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2012年10月24日 (水)

「性」を読むPart1/「気」を読むPart2

 今回は性と気の二回目を報告する。

 まず性の使われた語彙を列挙しよう。「しょう」「じょう」と発音するもののみ、<>で括ろう。

<相性>、アルカリ性、陰性、感性、<気性>、可能性、客観性、急性、向性、硬性、個性、傾(向)性、悟性、恒常性、<根性>、酸性、志向性、指向性、主観性、<性懲り>、<性悪(しょうわる)>、<性分>、女性、真性、心性、神性、信性、<素性>、性愛、性悪説、性格、性急、性教育、性向、性交、性質、性善説、性徴、性的、性能、性癖、耐性、対称性、男性、弾性、知性、天性、特性、軟性、品性、物性、本性、<本性>、慢性、陽性、理性

 性は比較的単純で、要するに性質を表すものは「せい」と発音し、キャラクターであってもより人間の性格、人間臭のある判断(俗的な判断)に近いものを「しょう」(相性、性分、本性)、並びに「じょう」<音韻的な変化による>(根性、素性)で示すということである。

「せい」は従って物理的傾向を示すのであり、人間の性格であっても感性も悟性も知性も理性も比較的客観的に比較しやすいものである。それは要するに外的に示されていることを判断基準としている。だからそれは物性的、物理的性質と相同のものとしてこの語彙では扱われている。

それに対して「しょう、じょう」はあくまでその場その時の状況を知る者にとって切実な印象であったことを他者へ報告するタイプのものであり、主観的なこと、つまり被計測可能なこととは本質的に違う。それは報告者と被報告者にとっての報告対象に内在する性質であり、情報供給する相手も公的なものではない。この点が重要である。

 だから当然健康状態的なこと、例えば急性や慢性はあくまで客観的なこととして感性、悟性、知性、理性などと同じ扱いとなるのに対し、だから一般的には今日、品性などのみ(それを言うなら性格判断としての陰性、感性、知性、性格判断としての陽性、理性も悟性よりは主観的だとも言い得るのであるが、それ以上にこの品性は「しょう、じょう」で示す意味合いが強いとは言える)が例外的に報告者にとってそれがあるか否かが問題となり、報告者と被報告者との閉じた関係に於いてのみ報告事実の客観性が問われる(尤もこの語彙が誕生した頃はそうではなかったと言うことなのだが)、という以外では性(せい)が今述べた主観性とか客観性などの様に幾らでも接尾辞として付け加えられる様な意味で、より報告者と被報告者という例えば二人の会話であってさえ、それは閉じていない真理報告(つまりその二人の間でののみの切実な印象ではなく一般的なことの報告)という様相は強いとは言えるだろう。

 従って「ほんしょう」(本性)はあくまで話者同士での私的報告と主観性に於いて成立しているが、哲学等で論じられる「ほんせい」(本性)はあくまで公的客観的基準の報告という様相を帯びることは言う迄もない。

 

 

 さて次は今回の性と前回の気を中国語では日本語とどう重なっているかを確認しておこう。

 

 可能性、性格、性質(質は中国語の簡体字

http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/part1-c8f7.html

で表記する)、性教育、弾性、天性、特性、本性

 

 ここで興味深いのは性教育であり、これは中国での一人っ子政策とも大いに関係しているだろうとは推測出来ることである。

 次は前回扱った気(これも中国語の簡体字で表記する)で日本語と重なった語彙を列挙する

 気概、気孔、気管、気候、気絶(絶は中国語の簡体字表記)、気力、気流、気球、気色、気勢、気体、気味、気温、気象、気質、気焔(質、焔は中国語の簡体字表記)<尚本列挙は中国語の辞書表記順>

 又報告し溢しがあることを発見したら再度報告するつもりである。尚前回の「「気」を読むPart1」も加筆修正した(報告漏れを発見し次第随時加筆修正する)。→

http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/part1-c8f7.html

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2012年10月23日 (火)

本当に沢山本を読むことだけが正しい世界の学び方なのだろうか?

 

 本を読まない人は人の意見に耳を貸さない人であるとか、世界への見識を得られないと批判する人がいる。石原都知事は日本人を駄目にしてものがパソコンと携帯でテレビであるとしている。そして氏は凄く沢山本を読まれるのだろうと思う。

 しかしそのこととかの知事が冷静なる判断力の人間であるとか、為す行為の全てが適切であるかとは全く関係がないと言える。少なくとも知事の日頃からの言動を見る限りそうである。

 本を読むといってもどういう本なのかということが常に問題である。一日で全て読了出来る本から、何ヶ月もかけてうんうんと唸ってやっと少し理解出来る本、殆ど数年をかけて読む本とかもある。しかもその様な本とはどういう本であるかは人によって違う。ある本をある人はすらすらと読める、と言う。しかし別の人にとってそうではない。更にすらすら読めるからと言ってそこで書かれていることをよく理解出来ているということにもならない。逆になかなか読み辛い本でも書かれてあることに一々納得することもあるだろうし、幾つかの点では納得出来はするが、それ以外は皆目分からないということもあるだろう。

 因みに私は今和訳されたものであるが、哲学者のウィルフリド・セラーズ、リチャード・マービング・ヘアのもの、そしてずっと少しずつ断章を読んでいるワルター・ベンヤミン、一章ずつ呼んでいるミルチャ・エリアーデ、エリック・ホッファー、エリッヒ・フロム、鈴木清順、ピーター・ミルワード、ルドルフ・オットー、マックス・ウェーバーなどを平行させて少しずつ読んでいる。飛ばして読んでも所詮理解出来ないと思われるものの方が遥かに多い。

 要するにこれこれこういう本は飛ばして、そして別のああれあれああいう本はゆっくり読むべきである、と言うことそれ自体に決まりはないのだ。しかもある人にとって大切でゆっくりとじっくりと読むべき本は別の人にとっては読むべきではないと判断されるものであるかも知れないし、ある人にとって薬となる本は別の人には毒となるということも決して珍しくないのである。

 又本を読むことで得ることを唯単に情報であると考える向きと、そうではなくあくまで教養であると捉える向きともあるし、率直に言って私は情報だけならウェブサイトの方がいいし、近々少しアマゾンで安くなってから取り寄せようと考えている蓮池薫さんの本なども情報というより、著者の人生自体をじっくりと理解する為に読みたいという欲求が強い。又教養だって今更身につけたからってどうなるというものでもないと感じてもいる。要するに私は今飛ばして沢山の本を読むことより、ある程度選んでじっくりと読みたいという気分に支配されているのである。

 確かに若い世代などはある時期飛ばして沢山の本を読む必要がある時期もあるかも知れない。しかしそれだって人によって違うだろうし、第一どんな傾向のものであるかということだって選択は人それぞれだし、選択されたものから次にはどういうタイプの本を読むことへとシフトしていくかということだって人それぞれなのである。

 又先ほど都知事の本を読むべきであるというお考えと氏の言動との無関係性に就いて述べたが、本を余り読まなくても適切な対人関係とか社会的判断を下せる人というのは沢山居るし、逆に日頃から沢山本を読んで努力して人の考えを知ろうとしている人でも常に適切ではない判断しか下せない人もかなり居るとは言えることではないだろうか?

 しかもずっと適切な判断を行ってきた人がある日突然極めて不穏当なよくない判断をすることだって人間はかなりあるし、それはマスメディアやマスコミを見ていればよく理解出来ることではないだろうか?つまり偉大なことをしてきた人さえ凄く下らない大したことがない、或いはある場合には罪なことさえ積み重ねるというところに人間の本質があるのではないだろうか?だから当然逆に常に下らないことばかり、そして大したことではないことばかり積み重ねてきた人がある時突然凄く偉大なことをすることだってあるのである。

 そういった意味では唯闇雲に本を読めばいいとそう言い切れるものではない、ということも又確かなことではないだろうか?

 要するに私は本を読むことは、そのことで何か直接自分の思想とか行動に役立てるということを余り目的論的に明確にせず、その時々での好奇心と関心とによって読む本を選んでいるに過ぎないとだけ言えるのだ。そしてその仕方が自分にとって向いていると思うのなら、そのことでとやかく人から言われる筋合いなんてないだろうとも思うだけである。

 そして何より私は人格形成とか言動の採り方の適切性とかと読書というものをはっきりと分けて考えたい、ということだけは言えるのである。

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辞任劇を繰り返す政府とフランスコメディアンの問題ジョークや週刊誌問題などから読み取れること

 田中慶秋法務拉致担当大臣 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%85%B6%E7%A7%8B が辞任し、またぞろ野党自民党が怪気炎を吐いているが、自民党は只管政権奪取を切望していて、何かほんの些細なことがあったとしても与党を窮地へと追い込めるのなら何でもしようという魂胆であることは分かり、言わせておけと誰しもが思うだろうが、それにしても野田総理という人はたった一年とちょっとの間に既に三人の大臣が辞任している(鉢呂経済産業大臣 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A2%E5%91%82%E5%90%89%E9%9B%84 、田中直紀防衛大臣 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%9B%B4%E7%B4%80 と田中法務拉致担当大臣)ということだけとっても、要するに人選びのセンスがないってことである。任命責任云々はある部分では党内での融和を図ることだけに修身して、例えば現政調会長の細野氏なども引き続き環境大臣を続行させていたらよかったとも思えるし、何か今一つその任命的な選択が巧いとはお世辞にも言えないという印象を国民に与え続けている。

 尤もそれ以前の二人の民主党代表且つ総理にしてもいい勝負だったし、それ以前の三人の自民党与党時代の三人の総裁且つ総理もいい勝負だったので、これはもう日本政治全体の問題であると日本国民はおろか世界からもそう思われているに違いない。

 だからと言うわけではないが、ローラン・リュキエ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%82%AD%E3%82%A8 なるフランス人コメディアンが川島ゴールキーパーの手が四本生えている写真を使って「福島の影響があっても私は驚かない」と言ってそれに対して厳正なる抗議を日本政府がすると、それを受けて「コップの中の津波」と言い放ち、再び問題とされているが、こういった唯単なるヴァラエティ番組、しかもフランスという遠い外国の番組の一発言を政府迄が真剣に抗議したりするその無様さに対して、この未だ四十九歳という働き盛り血気盛んなコメンテーターがどこかしら日本のうろたえ方、そして原発以後の政治の無策を嘲笑っているかの印象さえ持つ。

勿論私も日本人だからこういう非礼なジョークをすること自体心地よいとは思わないまでも、所詮外国のことで、日頃我々日本人だって公の席でさえなければ平気で友達などと外国の悪口くらい言うよな、って思ってしまう。何処かああいった揶揄に近いジョークを吹き飛ばす命知らずのコメディアンの意気を賞賛してあげたくもなってしまうくらいに今の日本国内の政府からマスメディアに至る迄の昨年の3.11以降の狼狽ぶり、運命に唯翻弄されているだけで何ら打開策を見出していない様な無様は多くの外国人の痛感するところではないだろうか?

 ヤクザの結婚式で仲人をしたとかしないとか、要するに政治家は顔が広いので何時誰から何を頼まれるか分かったものではないから、要するにどんな依頼でも注意して軽々しく応じるものではない、ということが野党その他の田中大臣への批判に込められているのだろう。尤もそういう自民党だって一切総裁選で原発政策の責任に就いて言及していなかったし、復興プランに就いても殆ど言及していなかった。このことに関して失望している国民は少なくない筈だ。

 だから竹島と尖閣列島を共同統治しかないと言い放った橋下氏の動向が一時期自民党総裁選へと多くの国民の関心が向かっていってしまってすっかり忘れられていたところ、皮肉と言うべきか幸運と言うべきか例の週刊朝日による佐野眞一氏による連載記事の内容が問題となって再び橋下氏の存在へと注目を集めたが、週刊朝日と佐野氏との間でももし連載中止となったら訴訟問題にまで発展するかも知れないし、それだけでなく例の一件は橋下氏の存在を軽視して侮っていた佐野氏の思惑違いであって、橋下氏の弁護士であったなどのディベート能力を舐めていた佐野氏の方の失点であって、彼もそうだし週刊朝日も今後はかなり大きな嵐が吹き荒れることだけは間違いなさそうである。朝日新聞社自体も多大の損失をこの問題は蒙った。しかも却って橋下氏の存在感を以前よりも増す事となってしまった、というおまけつきで。

 Wikipedia 佐野眞一 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E7%9C%9E%E4%B8%80

 今の日本はある部分では熱くなり過ぎている。それはいい意味でではない。確かに中国も韓国もすることが汚い。がお互いが熱くなっている内は領土問題などのセンシティヴな問題は絶対に解決しない。そういう時期に国家主義的なセンシビリティを標榜する政治家に人気が集まるのはいいことではない。又中国や韓国も大いに評判を国際的に落としたが、日本も又欧米各国から評判を落としてきているのだ。確かに形式的にはアメリカにとっても、尖閣列島を中国が領土主張することは国益にも反する。しかし野田総理による国連での中国代表との応酬を巧い仕方であったと思っているアメリカ人も少ないと私は思う。

 又たかが一コメディアンのヴァラエティ番組で吐いた一言に政府を挙げて抗議するとかやることが小さい。ある部分こんな大したことないことを大騒ぎするくらいに一々全ての細かい摂取することが不必要とさえ言える情報を駆り集め過ぎているという重箱の隅をつっつくかの如き偏執狂的正義観それ自体がみっともない。これは日本にのみ言えることでなく世界のどの国でもそうである。情報ネットの緊密化の弊害とは、それがなかった内には起き得なかった小さな問題が過大視され、一々大騒ぎすることを容易に誘引させてしまうということ、つまり却ってストレスフルに問題を起こさぬ様に人間を萎縮させてしまうことである。

 政治家だってそうであるが、誰でも叩けば多少の埃は出てくるものである。何かをしてきた人は特にそうである。だから小さな失言も見逃さないということにも言えることであるが、キャリアに一点の曇りもない人だけを大きな社会的地位へ配置しようと思ったら、必然的に面白みのない形骸的な前例踏襲者である官僚的なタイプの人達だけを登用しなければいけなくなるのである。要するに小粒な人達だけに絶大な権力を委任することとなってしまうということだ。と言って私は田中大臣を支持しているわけではない。彼も又小粒過ぎたということは言える。

 パキスタンの人権運動家である十五歳のマララ・ユサフザイさん http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%82%B5%E3%83%95%E3%82%B6%E3%82%A4  

 の回復状況と今後の方が世界にとってずっと重要である。パキスタンでは女性が隠れて学校を作って教育を受けている。基本的に女性へ教育を受けさせることを国家では禁止している。この様な人権問題にこそ世界の情報ネットによる情報摂取を使うべきではないだろうか?

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2012年10月22日 (月)

人は知らず知らずに他人の真似をする

 私達にとって言葉がそうである様にあらゆる行為は誰か他人がしているから、それを模して行うという意味では、全ての人間の行為は水平伝播的に広まっていく。要するに我々の行為習慣とは何処か無反省的、無思考的な癖に近い。つまり我々は意味づけられた、目的が明確に意識されることだけで人生を費やしているのではなく、限りなく惰性的に社会全体がそういう仕方をしているからとか、日本人は昔からそうやってきたからとか、要するに文化伝統的にもそうだし、宗教慣習的にもそうだし、何につけ全て先人、或いはそれに倣って今生きている大半の人達がしているし、してきたから、それに倣って自分もすればよいと判断して行うことが大半なのである。

 だから逆にそういった惰性的なことではいけないという思惟も働くから、やれ哲学的な洞察であるとか、社会の機能とか構造とかを学ぼうとかいうことで社会学とか、文化人類学とか宗教学とかに関心を持つ人が時々居て、そういった人達の中で何人かの割合で本当にそういった職業のプロになるのであって、それ以外の大半の人達は自分の就く仕事だって、かなり大勢がそういう風にしてきたからということで余り深くは考えず選び、それをしている内にその仕事が馴染んできたり、天職であるとか思える様になるのであって、それは恐らく先程挙げた学者だってそうである。

 つまり真剣にその根拠を問うということは、あくまでどんな人間であれ全人生の中で僅かな時間である。しかもある程度我々は同時代性ということで他人から遅れを取るまいという形で集団全体で動いていることへついていこうとするから、社会生活とはお金を払ってものを買うとかの大半の習慣は唯単にそれを昔から人々が行ってきたからであるだけのことであり、例えば何故お金を払ってものを買うのだろうとか考えることとは、そういうこととは誰しも当たり前のこととして恐らく誰しもが子供の頃から身に着けた習慣となって、る後、その習慣自体をメタ認知する反省的な視点を学問とか思想とかから学んで考える様になるだけで、例えばトイレに入って用を足す習慣それ自体迄、何故こんな格好で用を足すのだろうとまで四六時中考えているわけではなく、あくまでそういう唯単なる習慣であるなら、全てそつなくそれをこなして、ある時ふいっと何故だろうと考えるくらいに過ぎない。

 しかも日本人はある程度同族的な意識が中国人や韓国人ほど強烈には意識しない民族なので、うちでは、うちの家系では、という発想で何かをするということは極めて国民の中のパーセンテージとしては少ない。だから必然的に東京などの都会を歩いていると、エスカレーターでは左に立ったままで居ることを選ぶ人が寄り、右は急いで歩いて上がろうとする人、或いは降りようとする人が寄る、という習慣となっていったりして、要するに都会生活者一般のする行為に唯付き従っている。そしてそういう風に他者全般に合わせることが一種の都会でのマナーとなっている。それは身体的な癖ともなっている。しかしそれは個人の癖ではなく日本の都会人に共通した癖なのである。  

 だからある部分では我々は都会で移動する時など他人がどういう歩き方をして、どういう仕草をするかということを知らず知らず電車の中などで座席に座っている時などに観察し、ホームで乗る電車を待つ間に観察し、自動改札を出て歩く仕草を観察し、学習して、他人の多く、つまり他者一般の取る仕方から著しく逸脱しない様に知らず知らずに工夫している。社会学などでゴフマンの儀礼的無関心とかと呼ぶとか言われていることも結局そういった我々による他人全般に共通して採用されている仕方という認識であり、それはあくまで横の伝播、水平伝播であり、縦の遺伝、つまり家系的な文化ではないのだ。そういった家系的な特殊な伝統的所作ということを限りなく無化させていく方向で一般社会は成立している(だからそうではない伝統芸能とかは歌舞伎でも狂言でも能でも、垂直伝播的なこととして特殊社会ということになり、現代社会の中では伝統工芸などと共に文化的な遺産として重宝されることはあっても、それは一般化されることはない)。

 自分の両親とか兄弟、姉妹がしているからということで倣うこともあるにはあるが、それよりは圧倒的に他人一般がしていることに倣うということの方が人生上では多い、というのは現代人、とりわけ都市生活者の取る無意識の生き方の流儀である。さっき電車の中で見かけたお兄さんのしていた仕草が印象的であるから、別の日自分が似たシチュエーションになった時知らず知らずにそれを模倣した仕方をする(例えばショルダーバッグを電車の網棚に載せていたのを電車を下車する時に取るその仕草とか)。それは言葉遣いでも、何か不愉快なことを店舗などで味わった時、以前見かけた他人がしていた店員へのクレームの付け方、つまり態度から言葉の使い方から何から何まで、そうやって人の真似ばかりしていたって、それは主体的な生き方ではない、と誰しも反省意識ではそう思えたって、実際には無意識に大半の人達がそうやって誰だったかはきちんとおぼえて居はしないのだが、脳裏に片隅に残っていた記憶を頼りに自分も採用してみようという風に自然に脳内思考が働きつい取ってしまう仕草というものの方が、意識的に誰からそれは余りいい癖ではないよと諭されて直そうとすることなど以外では、大半である、ということが現代の都市生活者にとって(或いはかなり地方でさえ)真実ではないだろうか?

 唯その事実を研究テーマとする場合には宗教的葬儀の習慣とか、社会全体の法体系的な秩序であるとか、娯楽習慣であるとか、それぞれの考察対象の分類と体系化という作業は必要なのだろうとは思うが、本記事で最も重要なこととは、要するに大半の人達が取っているからという殆ど無思考的な根拠によって選び取っている行為習慣とは、それ自体日本人が箸を使う(中国人も朝鮮半島人も使うが、韓国などでは鉄の箸を使うとかの違いはある)とかの伝統食文化的な縦の伝播と、ある時代で携帯を皆が使っているから自然と定着していく大半の人達による癖という風なある程度時代的な固有性とが合体して顕現されていると捉えることは出来るだろうが、いずれにせよ、それは家系的な伝承とは全く本質的に異なった模倣習慣が我々人類には先験的に能力として備わっているということなのだろうと、取り敢えず今回は結論しておこうか。

 要するに他人がしていることを自分も次に似た状況に自分が立った時には採用してやろうという意識が確かに我々にはある、ということである(それはある部分では心理学的な真理なのであろう)。

 付記 唯もう一つの考察、研究に必要な考えとは、その癖が個人毎に異なった傾向のものである、と考えられることと、そうではなく集団全体の傾向であると考えられることが分けられるとは言えることで、前者だとタイプ的な分類学、後者だと民族的性格とか、関東と関西の人の習慣の違いとかの考察、研究もあるだろうということだ。だから必然的に社会学的でもあるし、文化人類学的、民俗学的、宗教学的、歴史学的なことでもあるとは言えよう。本テーマはミーム学的な性格もあるけれど、癖という事だからもう少し言語とか道具とかより扱う範囲は広範となろう(身体的なことだと自然人類学的な考察ともなり得る)。その考察、研究の方向性を決めることは意外と困難ではある、とも言えよう。(Nameless-value)

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思想・哲学メモPart5 遥か祭りの群集を離れて(K氏との対話からⅡ)論理の自立が必要な時、形概念の発生根拠その他

★論理的なある提案に(情動的に)納得出来ない場合、我々は何処かでその提案を放棄したい。が実際それが社会的責任の名に於いて行わなければいけない提案であるなら、そこで我々は論理的に(唯論理的に致し方なく)納得しようとする。これは一見矛盾している様だが、意外と日常茶飯である。

 例えば法律は遵守しなければいけない。しかし法律の方が間違っている、つまり現状での行為を正当化させるに足るだけのものではなく古びていることもあるが、法が改正される迄は悪法たりとも遵守せざるを得ず、それが社会的責任の履行である。

 つまり論理的に納得がいかなくても、その論理に従わねばならぬ時その論理の情動的な納得(直観とか感性とかによって正しいと思えること)を、論理自体の論理、つまり修辞性とか理屈上での納得を糧に情動的なその論理への従えなさを克服しようとする。これは一種の牽強付会であるが、そうせざるを得ないところに社会的責任の履行はある。

★形は先験的にあるわけではない。実在の対象として我々が認知し得ることやものに形を発見しているに過ぎない。それは計測とか測定とかによって現出される。このことはヘーゲルも述べている(『精神現象学』)。尤も認知的把握とか印象によって判断する際現代心理学では色によってまず把捉し、形はその後であるらしい。しかしそのリアルは形自体が実在対象から誘引した概念であることを妨げない。

 意味はある意味ではこの形に似ている。意味それ自体に意味はない。我々は只ある対象、事実、現象、つまり事象の全てを意味によって理解する、それらに形を与えて不可知的な収まりの悪さ、納得出来なさを克服している。何か得体の知れぬ居心地の悪さを、意味を全対象へ付与することで落ち着きなさから安定へと持ち込んでいる。

論理はある意味では見出された形を見出すメソッドの間の無矛盾性(それがなければ計測や測定にはならない)への希求によって作られる。だから最初から論理にはある牽強付会が付き物であることもここで分かる。

★今があるから過去があるのではなく、今ここに自己存在が身体として認識し得る事実として覚知(把捉)し得るが故に、かつて今であった今ではなくなった今を過去とするだけである。自己身体が今ここにあるとされるのは(或いはするのは)、かつて今であった今ではなくなったあの時とかあの場所に「居た」自己身体があったと捉えることから過去は初めて成立する。従って今ここに存在する自己身体を通した自己存在それ自体への把捉から引き出されるナルシシズムこそが今では今でなくなったかつての今達を通して過去として認識せしめるだけである。

 だから歴史とはそういった個々の現在を今ここに生きるナルシスとは、誰しも携えているに違いないという我々による同意、その同意は「~に違いない」という認識と共に発生している思考習慣としての言語という制度から引き出されているが、その同意によって成立している。だからこそ今この時を私以外の誰しもが共有していると誰しもが認識し同意していることの覚知が言語を成立させていると言えるし、そのことの把握によって現在の側の事情から絶えず書き換えられているものこそ歴史である。

 要するに歴史の書き換えとはその都度の現在のナルシシズムに拠って行われる。過去の想起や意味づけともそれらは同時的に行われる。それらは所詮自己存在を今覚知すること、把捉すること(を誰しもが行っているという前提で行われている言語行為)によってなされる。だからそれら歴史の書き換え(過去の意味づけのし直し)も想起も今ここに存在する自己のナルシシズムに拠って行われている。

★自己存在の社会への還元とは独我論の克服に他ならないが、それはフッサールの『経験と判断』中の概念、生活世界へと自己を還元させることに他ならない。それはフッサールの表現を借りれば生活世界生活を履行するということである。

★ディルタイの 経験=抵抗 という考えが、ある部分ジョン・デューイによる能動と受動の考え、或いはフッサールの受動的綜合などの考えにも近いことであるが、日本人は苦境に陥ると必ず災厄を避ける為に御祓いなどの祈祷に頼るところがある。それは日本人固有のシャーマニズム的な最終決済的な精神性を示している。つまり 生=無益な受難 というサルトル図式を理解していないことを意味する。それは非科学的、非哲学的感性に埋没していることに気がついていないこととも言えるのだ。

★人間が人へ苦情を言う時、声を荒げたり、相手を罵ったりすることは、要するにそうすることで鬱憤を晴らしているわけだ。それはそうすることでストレス解消を行っていることなのだ。そして苦情を言う時、情感的に憤っている時、人は正当なるクレーマーとしてのナルシシズムに酔っているのだ。

 だからこそ他者の自己への暴言などは反論すべきではない。彼等はどんな時でも言い切ってしまえば溜飲を下げて引き下がるからである。そんな時に反論でもしようものなら却って相手はここぞとばかりに更に自己への攻撃を止めようとしないであろう(それこそがナルシシズムなのだ)。

 又人は苦情を言われたり、四面楚歌となったり、他者からの攻撃に四苦八苦して立ち往生したりしている時、叱られている時に神妙(如何にも日本語的な表現である)にしている時ほど精神が安定している時はないし、こういう時以上に謙虚で理性的である時はない。

 要するに百%虚心坦懐で素直な心情となっている時とは他者から攻撃され窮地に立たされ孤立している時だけである。 

 だからこそ孤立している人、窮地に立たされている人だけが唯一百%信用することが出来るとさえ言い得る。

 尤もそういった立場の全ての人を信用することは出来ないし、全ての孤立者、全ての困窮者を味方することも理解することも出来はしない。そこそこの所で我々は他者存在を一括りにして済まそうとする。そこに我々の惰性的な処世が存在している。要するに信用出来る相手を何処かで限定しようとする。それが要するに我々にとっての生活の安定の維持である。

 又全ての信用出来る人を味方にしようと画策すると、途端に功利主義的な戦略へと心が堕してしまうことも我々は知っている。我々は所詮プレカリアートhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88全てを救えるわけでもないし、彼等全てを信用し、支持することも、共感することも出来ない(雨宮処凛http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E5%AE%AE%E5%87%A6%E5%87%9Bもそれを知って社会運動している筈である)。

 要するに全的に社会問題を解決し正義を履行させようとすることそれ自体に欺瞞があることを誰しも覚醒する。正義の履行も社会問題の解決も所詮権威や権力による決済、戦略的政治性に裏打ちされた恣意的なその都度の判断、或いは運動や運動家そのものの売名行為によってなされると知っている筈だ。それを知らないのであるなら、その運動の全ては所詮偽善でしかなくなる。自己パワーの及ぶ範囲が限定されていることの察知こそが、そして信用する範囲の限定化こそが行為を成立させる最低限の意識なのである。

 それは全ての社交に就いても言えることである。

★全ての行為習慣が伝統となり文化となっている。日本人は決済に於ける神頼み、祈祷(御祓い)に見られるシャーマニズムから脱していく為には 経験=抵抗 というディルタイ図式をよく把握していく必要があるのではないだろうか?

 要するに何もかも巧くいかないことの方がずっと自然なのであり、思い通りに行くことを自然と思うことの甘えから卒業していくべきなのである。他者全ての思い通りにならなさとは不条理ではなく条理なのである。

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2012年10月21日 (日)

思想・哲学メモPart4 遥か祭りの群集を離れて(K氏との対話から)

Aは論理的に主張するが、Bはその論理に対して納得しない。要するにBは情動的にAの論理を納得しないのだ。と言うことは論理を論理で返さなくても、そもそもその主張の論理自体を納得出来ないとした時Bは情動で論理を納得していないのだから、納得出来る論理とは情動的に納得しているに過ぎないということになる。これは論理の完全性、無謬性への懐疑を正当化し得ることだ。論理は所詮全て情動が生み出しているのだ。その論理による論理の為の思考に拘泥し過ぎると観念と理念だけが宙吊りにされる。それを回避する為には論理それ自体の情動的納得ということの意味を考えていく必要がある。

★ディルタイは経験とは抵抗(との出会いであり、その出会いの受け入れ)であると言っている。ハイデガーはディルタイから啓示を受けていて、そのハイデガーを出発点とするサルトルが「生とは無益な受難である」と『存在と無』の結語とする時、明らかに経験=抵抗 のディルタイ思想を咀嚼していると言える。経験=抵抗 とは言ってみれば 他者(自然も含む)=思い通りにはならない存在 ということである。思い通りに行かなさだけが人を哲学的にする。従って夢を全て実現させた者は最も非哲学的な生の受益者である。尤も夢を実現させ過ぎたことの空しさからも哲学的な想念を生じさせることは出来る。

★意味とはそれ自体形などない。にも関わらず現実(リアル)に形を与えることで我々は納得している。そこに意味づけということが生じる。意味とは何か対象を得て付与された時初めて形を得る。そして我々の日々の生活、行為や出会いの全てを我々は意味づける。それは生それ自体が形のないものに形を与えることによって意味づけ、そこに価値を見出そうとすることであることをも意味している(生を意味づける欲求、欲望が意味によって全ての対象、全ての存在を我々は形として理解する。全存在を意味づけることとは全存在に形を与えることだ。形それ自体も先験的に存在しているわけではないのだ)。本来生に形などなく、そもそもが無であるとさえ言える。存在はそれ自体無でしかない。しかしそのことである種の落ち着きなさを我々は感じ取るので、そこに意味というものを付与して形を与え有化させる。そこから問いかけが生まれる。問いかけ続けることだけが生きることである。しかし最後はそれも無へと明け渡さなければならない。生とは泡沫の夢なのである。

★情報空間の共有によって情報摂取機会的マルキシズムを実現化させた我々だが、情報への渇望という事態を解消させ過ぎて我々は既に情報過多であり、エレジー、つまり情報のなさから生み出される渇望を失って希望とか夢を情報に関して得られなくなっている。しかし本当に得ていると考えている情報とは実体を伴ったものなのだろうか?我々は何もかも認知的に情報を獲得しているという錯覚に陥っているだけなのではないだろうか?

★自分というものが単独で成立するということは存在とかその存在同士の関係を分節化し過ぎることで得る一種の錯覚であり幻想である(我々はある種の分析哲学の様な独我論的な錯覚に陥りやすい)。遥か群集を離れていることで得る孤独(一人で居ること、二人きりになること)は所詮皆と一緒ではないというnegationで得ているに過ぎない。我にとって汝とは対語である様に、我にとって集団も対語関係にある。我:汝、(我:汝):集団(組織、共同体)、汝:集団、(汝:集団):我(:集団)、などの関係性だけがあるわけだ。

★秀吉は他者が下々であれお上であれ、自らの思い通りにいかぬことを熟知していたが故に信長の草履取りをして彼の草履を懐で温めた。それは自らを奴隷化することを通して他者の切望する状態を他者へ与えることで信望(つまり社会的自己)を得た。その考えはヘーゲルの主人と奴隷の図式と基本的に同じである。

★歴史などは全て現在の側からのでっち上げなのだ。過去それ自体が現在の側の自分勝手、つまり今そのもののエゴイズムによって成立し(でっち上げられて)ている。ディルタイから観念の図式を受け継いだサルトルの様にディルタイも又過去の哲学者から受け継いでいる。つまり歴史をその都度現在の側に引き寄せ、過去という幻想を今の事情と自分勝手ででっち上げること、それは歴史のその都度の今の側からの書き換えであり、その繰り返しを我々人類は行ってきた。と言うことは過去などその都度全てにとっての幻想でしかない、ということ以外ではない、ということだ。今の側から常にかつて今であった全時間、全瞬間を今「様に」でっち上げてきたその痕跡を我々は歴史と呼ぶ。そしてその歴史は書き換えられる為だけに常に存在する(存在すると思えることそれ自体も幻想かも知れないが)。

★欧米思想ではマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の様に如何に貪欲に稼いでもいい、只寄付をせよ、ということを基本としている。それはイスラム教の喜捨の精神とも基本的には相同である。しかし日本人はその社会へ自己利益を還元するという思想に疎いと言える。その点の改善がなければ国際的視野で今後の日本を運営していくことは罷りならぬ。自分など所詮集団の中で得られる想念であり、自分という存在も最終的には集団へと還すという発想を持たねばならぬこと(独我論的ドグマの超克)と、その自己利益の社会還元の思想は構造的には同一である。

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日本の中の朝鮮半島とその文化Part2(聖天院慰霊塔の10月5日②)

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日本の中の朝鮮半島とその文化Part2(聖天院慰霊塔の10月5日①)

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Nameless-value流実践術/ブログで来場者数を獲得する方法・評判を呼ぶブログ記事に共通した性格とは?

 本ブログでは幾つかの記事は数百人とか千人単位で来場者数を獲得した。それらの記事に共通した性格と、その様な記事を書く為に必要なことを本記事では列挙してみよう。例によって箇条書きにする。本記事はブログ作成初心者の為のものであるが故にヴェテラン、或いはプロは読む必要はない。

★タイムリーな話題、時事的に価値のあることに積極的に日頃から関心を注ぐ。大体に於いて時節的にタイムリーな記事に多く来場者が集まる。

★触れている内容が一部かなりオタク的である方が検索ワードでひっかかりやすい。だから逆に日頃から通常人が余り関心を注がないことでも興味深いテーマになり得ると思えば、そのことに拘りオタク的に関心を持続し研究する癖をつける様にする。勿論オタク的でも最終的には大勢の人の興味を惹く様なものを選択するセンスが問われることは言う迄もない。

★記事のタイトルを出来る限り単純化させ、且つ思わず読みたくなると思える雰囲気のものにする様に心掛ける。キャッチコピー的センスがあるタイトルには人目を引くものがあるからである。

★上記の様な記事を書く為に、つまり受ける記事を書く為には寧ろ日頃から受ける記事ばかりを書こうと心掛けず、あくまでブログの自己方針を明確化させて、その信念を曲げずに自分にとって関心があり興味があることだけに常に意識を焦点化させることが必要である。その為には仮にアフィリエートなどで金を稼ぐことが目的でやっている場合でさえ、金に直接結びつかない自主的な研究とか考察内容を持ち、兎に角受ける為だけに日頃から文章を書くという意識を捨てることである。誰からも関心を持って貰えなくても自分はあることを書き続けることを止めないという信念だけが来場者を自然と呼び寄せる記事を書くことを可能にする、と考えた方がよい。

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2012年10月20日 (土)

問題作しか作らない監督による原発の映画から読み取れること/『希望の国』

 私は園子温のことを作家論として語る資格がある者ではない。常に話題を振りまいてきたことそれ自体も前作『ヒミズ』によって知ったくらいであり、DVDでさえ未だ沢山の賞を獲得した『愛のむきだし』も『冷たい熱帯魚』も観ていない(前者は長過ぎることが理由で、後者はグロテスクな内容だと聞いているからである)し、もっと以前の『自殺サークル』とか二作前の『恋の罪』も観ていない。にも関わらず原発に就いて描かれているということと、その製作動機から前作に引き続き今回も封切後初回で鑑賞することとした。

 何か現実で昨年の震災と原発事故などの様な悲惨な出来事が勃発した場合、映画を観るということに於いて一般の人であれ被災地に住む人であれ二つの態度があるだろう。つまりせめて映画くらい現実の悲惨さを忘れさせてくれる内容のものがいいと考えて現実直視的内容のものは極力避けるという選択肢と、もう一つは現実の悲惨さが人事であれ自分のことであれそういう時こそ現実直視の内容のものを観ようと思う選択肢とである。当然本作品は後者である。尤もそういった選択もその時々の気分次第だとも言えよう。

 にも関わらず内容そのものは監督固有の(だと思う)詩情的なセンシビリティを各シーンの映像の美しさから読み取れることは出来たが、やはり現実に自殺された酪農家の話も知っていたし、様々な本当にあったことを監督自身が取材して製作したことも聞いていたから、幾つかのシーン、例えば原発事故による放射能を浴びることを避ける為の防護服を最終的に医師から「放射能恐怖症です」と診断される主人公夫妻の息子の妻が着て夫にもそれを強要する場面などでも確かに滑稽で可笑し味があるものの心底から笑い転げることが誰も出来なかったその場の観客の態度を私も確認したのだった。

 恐らく世界中の市民によって震災や原発事故などに関する映像は多く撮影され、未発表のものやアマチュアの市民同士で鑑賞し合う目的のものまで含めれば相当数の映像や映画が作られてきただろう(そういったものもやはり震災や原発の映画である)。しかし日本人の著名な監督によって本格的に撮られた3.11以降の原発映画という意味では本作が初めてであろう。そして映画を「巨大な質問状」と評する監督によって封切前に前作同様NHKの番組などに出演して予め好奇心をそそられておれば観に行かないというわけにはいかない思いの観客も多かっただろうと思う。

 園子温という人は或いは、かつて松竹や日活で鈴木清順や大島渚達が多くの映画を作った背景に戦争経験というものが色濃く過っていたこととも何処かでは共通した思いがあって、しかしそういったプロ映画作家の使命感以前の個人的な使命感から本作までで終わらせることなく今後もずっとこの種の映画を撮り続けていきたい旨は既にテレビでも語られており、今後この監督がどう変化していくかを注視していこうと考えている人達も少なくないのではないかと思う。

 本作で最も印象に残っている場面の一つは避難区域にぎりぎりなって退避することになってしまった家族の息子とその恋人が恋人の女性の家族の住んできた区域の津波被災地を二人で訪れた際に荒地に佇んで「小さい頃聴いたビートルズのレコードを探しにきた」と言う二人の男女の子供の言うことを聴いてそれを探そうとしだすと、「そんな歩き方おこがましいですよ」と言って「一歩一歩」を歩き出し、そしてそれを観て更にレコードを探しだし「あんな小さいのに小さい頃にビートルズなんで渋い子供だな」と被災区域の家族の息子が恋人にそう語って振り返ると、まるで二人が観た幻影であるかの様に二人の子供が居なくなっているシーン、そして映画の終盤に認知症的症状に陥っている主人公夫婦の妻(大谷直子)が避難区域へと彷徨い歩いていった雪の敷き詰められた荒地の先で盆踊りをしだしているのを確認してやっと妻を見つけた夫(夏八木勲)が妻と共に妻の言う振り付け通りに踊りだし、やがて妻をおぶって歩くシーンなどである。

 例によって詳しくネタばらしはすまいが、終盤に「愛があれば大丈夫よ」という台詞が効果的に用いられているところからも、本作品は家族間の愛情、そして徘徊老人などを軸とした高齢社会問題、日本社会の地域共同体に於ける不和雷同的な部分への批判、国家への不信など様々なリアルな問題提起に満ちていて、せめて映画では一時現実を忘れたいと思っている向きには敢えて現実の悲惨さを思い出させる仕掛けになっているとだけは言える。しかし私は最初に触れた選択肢で敢えてそれが現実であるからこそ本作品を鑑賞することにした(私自身も震災と原発事故によって大きな精神的な変化を来たしたし、私自身も又表現者でもあり、現実とフィクションの問題は大きなこととして立ちはだかっているからである)。そして映画がフィクションであり、商業娯楽であるということを知りつつも、敢えて本国ではこの様なタイプの映画を製作することを製作会社の多くは渋ったということらしい(監督による弁)が、それでも尚本作の様な映画を撮ることを決意した監督の創造モティヴェーションに敬意を表したい。

 しかしそれでも尚私はこの映画は極めて個人的創造動機に拘る園監督による主観的なフィクションであると判断する。そしてそのことを顕著に示すことは、終盤へと至る迄に段々と盛り上がっていくマーラーの交響曲を選曲してBGMとして使用していること、映像的な美を追求していること(映画終盤の結婚した時に植えた木を燃やすシーンなど)などである。

 この様なタイプの映画をきっと今をときめくプロ映画監督の誰かはメガホンを取るだろうと予想していたが、たまたまそれをしたのは園監督であった。そういった意味で私にとって多くの注目すべき現在活躍中の映画監督、映像作家達が居る中でも、私自身ともそんなに年も違わない(恐らくこの監督も大谷直子の演技を青年期に観て<とりわけ『ツィゴイネルワイゼン』などを鑑賞していて>何時か自分でもこの女優を演出してみたいと思っていたのだろう)この働き盛りの監督の今後に注目し続けていくことも無意味ではないと思わせる作品であった。

 尚カメオ出演として伊勢谷友介、吹越満、大鶴義丹、田中哲司なども出演しているが余程注意していないと分からない。観ていて即座に分かったのは吹越だけで、パンフレットを後で見て彼と一緒に演技していたのが伊勢谷だと知った以外、残りの二人はあああの時のあの場面でだったかな、と思うくらいに殆ど目立たない。著名な役者もカメオ出演を承諾するくらいの社会的認知度のある監督などこの園監督以外には北野監督や蜷川監督、西川監督くらいしか居ないかも知れない。しかしそういったことは映画本体の評価の問題とは別個である。そして本作品の評価を知る意味でももう一回くらいは観てみてもいいなと思わせもした。

 本作オフィシャルサイト http://www.kibounokuni.jp/

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2012年10月19日 (金)

世界の真理Part17 世界への意味付けの持つ恣意性に就いて

★あたかも真理があるかの如く振る舞い、あたかも完璧なる世界の構造が図式的に先験的に与えられていると考えることは、即ち世界の実存の不合理そのものである様な雑多な様相を一切無視して、神によって無傷のものとして世界が作られたと錯覚することに等しい。

★理性も真理同様、それ自体我々の生きている実存的な究極の答えなど一切ない皆目予測のつかない矛盾をあたかも一語で全て納得することが出来るかの様な錯覚であり、所詮それらは全て現実の不合理を一時的に解決させる為に後から拵えた方便でしかないと心得ぬと、所詮哲学者達がよく拘泥する陥穽へと落とし込まれていくことだろう。あの大震災の後の権威筋の人達の狼狽ぶりを見よ。あれこそが人間の真実の姿である。イデオロギーはあくまでイデオロギーなのである。それはリアルではなく観念なのだ。観念をリアルと錯覚することで利益を得るのは似非的な権威筋だけなのである。

★ある部分芸能の持つ我々の日々の生活感情から生み出される唄や詞とはそれ自体実存的な真の哲学がある。役者も又感性のエリートである。そこにこそ我々が表現的にも研究テーマとしても求めるものがある。

それを言うなら正義云々以前に政治さえイデオロギーと政策によるプロレスというショーであるに過ぎない。だがそのショーも又我々には祭りも必要である様に、日本中に異なった性格と流儀のだんじり祭りがある様な意味で必要なのであり、そういった意味で人間精神の宗教と言語学的論理の不可分な我々の生活感情、情動、不合理な願望などを現実として知る意味でも、手を汚す仕事であるにも関わらず、それをあたかも崇高な仕事であるとする欺瞞の中から、そういう風にしていくしかないと知る意味でも貴重なる観察対象である。

★専門学問の多くが観念操作ゲーム化してしまっているということも内実的には所詮近代以降のデカルト主義や、真理があたかもアプリオリに実在すると決め付けた哲学者達の態度にあった。その責任は大きい。

★より世界はマックス・ウェーバー的、ジョルジュ・バタイユ的、ミルチャ・エリアーデ的、エリック・ホッファー的な世界観から我々の生活的実存を考えたいという欲求が充満している様に思われる。

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思想・哲学メモPart3 予測のつかなさに翻弄され続けることから見出されることとは?

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★豊田利晃監督脚本の映画『Im flash』で主人公ルイ(藤原竜也)が新野(松田龍平)に「お前、そんなに人を傍観していた楽しいか?」と聞くと新野がすかさず「人生ってそんなに楽しいもんなんですかね」と返答するシーンがあるが、この松田の台詞は映画でもかなり重要な肝である。

そうである人生なんて所詮そんなに楽しいものではない。寧ろ大半が楽しくはない瞬間の連続である。だがその楽しくなさの中で如何に楽しさを発見していくかというところに恐らく何かある。

しかしそれは何か一言で言葉に出して言い尽くせるものでもないし、それ自体価値であるかなど誰も知らない。と言うよりそれは恐らく人それぞれ全く違うことなのだろう。だからその違うことなのだろう、と憶測し得ることの内に全ての他者存在とは考えられるのだろう。

ある他者が楽しそうに見えても、それは所詮そう自分から見えるだけなのかも知れない。そしてそれは自分に対してもそうである。楽しいと思っていることは本当に価値なのか、それは後になってみなければ分からない。

しかしその後とは来ないかも知れないのだ。その予測のつかなさに私達は翻弄され続けるしかないのかも知れない。その翻弄され続けることだけが生きるということである。

だがそれを文学だとか哲学だとか思想だとか何か価値的な枠で推し量れることなのか、それも恐らく我々には生涯分かるまい。

だけど、その分からなさを大切にしていくしかないのだろう。唯一そうしようと思うことだけが虚無主義的な絶望から我々を救ってくれるのだろう。そう考えられることは或いは宗教的な何かなのだろう。しかしそれは決して教団的なことではなく、宗派的なことでもない。恐らくかなり個々異なった個人的なことなのだ。

★結局言葉を綴ることも、言葉を通して考えることも、言葉で主張し行動することも、実は全て宗教的な何かと関係している。否それ自体ではないだろうか?すると宗教的な何か、それを取り敢えず倫理的な想念の出発点だとすると、それを育むことで予測のつかなさへ翻弄される我々の里程標にし得るのなら、言葉を誰かに突きつけること、まず言葉の銃口に口を当て、次に言葉の引き金を誰かに差し向けることそれ自体が既に宗教的な何かに誘引されている、ということなのだろう。学問的に宗教社会学的なことと言語学的なことを接合させることでしか論理性とか倫理性を納得した形で理解出来ない様に、ある部分では人生の楽しくなさは、その楽しくないままの形で退屈でうんざりすることの価値から見出される発見の切実さを知る為のものかも知れない。

★つまり生きることそのものが宗教的なことであり、メッセージを発信し続けていかなければいけないことそのものが予測のつかなさに翻弄され続けることであり、生きるのを止めないということは、そうされ続けることを受け入れることである。

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生への逆説的賛歌・若松孝二監督の旅

 

 

 映画監督若松孝二は私にとって何時も何処かで気になる、特に何時も関心を抱いてきたわけではないが、心の片隅では念頭から決して一時も全く消滅することのない監督であり続けた。だからその訃報に接した時には既に七十六歳を超えた方だったのか、と今更ながらにその制作意欲とか映画全体に漲る若さから驚愕的な思いを味わった。

 若松の映画を私は劇場では三本くらいしか今記憶では見て来なかったと思うのだが、実際にこの数奇な生涯の映画作家には幾つかのテーマが若い頃からあった。

その一つは紛れもなく性(セックス、性欲)であり、テレビの仕事をある事情から首になった後ピンク映画の監督となった若松にとってテレビでかなり昔、勃起させることこそが目的であると語っていたことが重要である。だから七十七年に大島渚監督による『愛のコリーダ』のプロデュースをしたことも決して偶然ではない。その後の作品『戒厳令の夜』で製作者として名を連ねていて、その時の助監督も、コリーダの助監督も崔洋一だから、崔監督ともかなり長い付き合いの間柄の様だ。そして忘れてならない作品は『キャタピラー』である。この作品に就いては後半詳しく述べる。

 それ以外の彼の軸は実録物というジャンルである。これはエンタメ的要素も込めて作った『水のないプール』も該当するし、『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』そして最晩年の今年の作品『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』もそうである。それに先述の『キャタピラー』も性を扱っているが同時に戦争による傷跡という意味では実録物的意味合いも持っている。

 尤もそうは言っても若松監督は他の多くの監督もそうである様な意味で映画は所詮商業娯楽であるので、その娯楽性という観点から言えば人情ものである『寝取られ宗介』とか、ハードボイルドアクション作品である『われに撃つ用意あり』『シンガポール スリング』とか『水のないプール』で使った内田裕也を再び使った『エロティックな関係』では宮沢りえ、ビートたけしを配して豪華キャストによるエンタメサスペンス映画も作っている。

要するに映画とはそれ自体商業娯楽的な体験なのであって、どんなに社会的テーマとか政治的メッセージを込めてもエンタメ的サーヴィス精神を忘れずに居るというところが若松監督も又一流のプロたる所以である。

 要するにゴダールが批評活動から映像製作へと移行していったから商業娯楽作品の劇映画性とドキュメンタリー性とを同時に把握している様に若松監督も又、劇映画とドキュメンタリーの両方の要素を巧みに接合していった監督の一人であると言っていいだろう。

 とりわけ僅か十一二日で撮影を終えた『キャタピラー』では戦争のシーンが全く映画の内容では出て来ない、要するに戦争によって両手両足を失った障害者の夫と若い妻(寺島しのぶ)との日々の生活、ものを食べさせたり、セックスをしたり、夫は障害者ではあるものの食欲と性欲だけは旺盛である、という設定と描写の映画なのだ。するとどうだろう、そこで展開される場面に我々は状況とかこの登場人物達が立たされた立場とかが深刻で戦争という人類の悪の愚かさの前で只厭戦的、反戦的気分にだけなるかと言えば、それはあくまで反省的意識でのメタ認知からだけなのであり、見ながら私などは思わず笑い転げてしまっていたのである。軍神という形で地域社会から戦争の功労者として崇め奉られながら、その軍神への捧げ物である生卵を、全く呻くだけできちんと話も出来ず(耳も聞こえなくなっている為に)通常のコミュニケーションを行えなくなっているこの夫に対して憤懣やるかたない感情をぶつけて妻が夫の顔に投げつけてしまうのである。そしてセックスも性器も意欲も貪欲そのものである夫は、しかし手で女房を愛撫するでもなし、只管顔と舌だけで妻の身体を弄るのだ。そしてここでも私は思わず笑ってしまっていたのである。もしそういうことが本当にあったとしたなら、笑うことなどもっての他であり不謹慎であるのに(これが映画であるから仮に笑ったとしてもお金を払って見に来ているのだから許されるだろうけれど)、何処かつい噴出してしまう私達があるのである。

 これはかなりリアルなことに対してさえ実はそうである、という意味で、自分がそういった立場に立たされていなければ、家族にそういった者が一人居たとしてもそういう風に可笑しいと思える、ということだから、人間存在の悪、つまり残酷な悪、どんなに悲惨なことに対してさえ笑いを適用してしまう罪深い悪を我々が持っていることを、この映画から私は知った。だからこの映画は唯単なる反戦映画ではない。寧ろ人間の生の実存に対するシニカル且つ真摯な認識の映画である。

 要するに、誰かが北野武の最新作をヴェネチアで観て「余りにも残酷な暴力の前では思わず笑い転げてしまう」という感想を漏らしていたが、前作でも北野監督は「笑いと残酷は紙一重だ」と語っていたが、戦争それ自体の愚かさも滑稽さと紙一重だということをこの映画も語っていたのである。

 かつて社会問題化されてきた大島監督や若松監督と同様それ以前に日活から突如解雇されるという憂き目に遭い、その事実が社会問題さえ引き起こした鈴木清順監督が、対談で語ったところに拠ると、戦艦に乗組員として配備されていた監督の乗った船に奇襲してきた米軍によって戦死した戦友達の亡骸を乗組員がラッパ吹きによる葬送の曲に合わせて海に二人がけで頭と足を持って「せいの」で投げ捨てるわけだが、その時の海に遺体が落とされるドボンという音が余りにも即物的で却って滑稽ささえ催すということを監督が述べたのである。そうなのである、斯様に戦争とは愚かしく滑稽なことなのである。そしてそういったゲームに我々は何時しか嵌り込んでいくこともあるのだ(だからこそ現況での日本人にはこの種の映画を鑑賞することが必要なのだ)。

究極には人の人生自体がある日突然生れ落ちて、ある日突然ころっと死んでいくその様自体も滑稽なことなのである。少なくとも生きて死者を見送る立場からすればそうなのである。そして誰しも最後は自分もそうなるのだし、それを私達は皆知っているのである。

 そしてそのことを娯楽形式である映画によって面白可笑しく描くところにエンタメである映画の持つ固有の思想性がある。これは痛烈なるアイロニーである。

 僅かな期間で全部のシーンを撮り終えることも得意とするこの監督の脳裏には他の監督同様、全撮影シーンを既に撮りながらその都度頭の中で編集作業を行っているのだろう。だからこそそういったスピーディなクランクインとクランクアップの間の期間、ずっと緊張を持続し続けていられるのである。

 私は哲学者を殆ど尊敬していない。特に現代の彼等には基本的に文体というものが殆ど希薄だからである。

しかしどんな映画監督にも文体がある。それは映像と音による持続した時間のカット割りから編集へと至る一つの映画全体のメッセージを決定する作業に於いて発揮されている。だから私は尊敬もするし、私自身の詩作などにも大いに参考になる、という意味で役者の演技を楽しむということだけでなく監督による映像の采配ということも楽しむ様にしているのである。

 寺島しのぶが大きな賞をこの映画では取っているが、この稀有な銃後の夫人の姿さえ似合う女優を上手く短期間で演出したこの監督の創造精神は今後の若い映画監督達にも大きな啓示を与え続けることだろう。従って肉体そのものは若松監督自身としては消滅してしまい、肉体を通した彼の旅はここで終わってしまったのであるが、この監督の創造精神、かつては問題児とさえされた異端的メッセンジャーが残した映画創造を通したメッセージの旅はまさにこれからも永遠に持続していくものと思われる。そしてその旅に私も又大いに付き合っていきたい、と今考えているのである。

 参考ブログ 若松孝二プロフィール http://www.allcinema.net/prog/show_p.php?num_p=806

 Wikipdia 若松孝二 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%9D%BE%E5%AD%9D%E4%BA%8C

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2012年10月18日 (木)

日本の中の朝鮮半島とその文化Part1(日高市高麗神社の10月5日)

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日本人のコミュニケーションモラルから考える民族的性格とは?言葉を信用しないと言うより、より言葉以外の要素をも重視する性格から読み取れること

 

 中島義道の『対話のない社会』その他での主張、言葉を信用しないという日本人の精神的資質と言ってもいいと思われる民族的性格は、しかしある程度日本人にとっては拭い難い運命的なことであるとも私は最近ずっと考えている。又それは中島本人の中にもその著書での主張で感性のマイノリティを放っておいて欲しいという切願の中でも著者の真意とは裏腹に示されてしまっている、ということを私は「人間の本性が悪である証拠とは?Part2http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/part2-048f.htmlで述べた。

 事実日本人は対話(それ自体の進行やその内容)こそが客観的な真偽裁定基準とかモラル論的な正当性に於ける至上価値であるとする考えの民族ではない。

 その点ではずっと中国人や韓国人(恐らく内心では北朝鮮人さえ)ほど言葉「だけに」絶大な価値を見出したり、信用を寄せたりしている訳では決してない。

 彼等(中国人、朝鮮半島人)は祖先から継承された文化的宗教的遺産への追随ということに関して日本人等よりずっと強烈に信頼を置いている(それは崔洋一監督『血と骨』で祝祭的空間での所作や供え物の配置への拘りなどを通した在日朝鮮人の姿でも描かれている)。

 それは言葉を換えれば、極めて伝承性のこと、つまり祖先から受け継いだ言葉文化を大切にする、ということであり、それは見方を変えれば、自分の身体も現に今存在していること以上に、祖先から受け継ぎ、これから子孫へ譲り渡していくべき遺伝子の縦の伝播という想念に裏打ちされており、今の自分だけのエゴを一切許さないという伝承的観念論でもあるのだ。

 彼等はこと血ということに関して偶然を認めない。それが同族婚を旨とする彼等と、婚姻に関して非同族間でも自由な日本人との大きな違いである。

 中国、朝鮮半島人とは端的に同族社会なのであり、それは縦関係最重要視であり、日本人の和を持って尊しとする横関係最重要視の持つ処世や政治性とは違うことなのである(だからこそ中国では王朝の打倒と倒壊後の処置では徹底しているし、韓国でも大統領経験者が死刑判決が出たりすることを自然なこととしている)。

 私は本ブログ記事「人間の本性が悪である証拠とは?Part2」で次の様に書いた。

「又厄介なことには、本音を言い合うのはよしましょうという本音を言っている時に、それ自体が一つの社交辞令であり、ポーズであると相手が受け取り、相手は本音を言い合うことを提案していると理解してしまうこともよくあるのだ。そしてその提案を億劫がり気乗りしないでいるということもあり得る。そういう時曖昧善主張者は極めて苦境に立たされる。自己真意を曲解されてしまったのだから。」

上記の様に私は書いたが、本音を言い合うのはよしましょうという本音を言っている時に、それ自体が一つの社交辞令であり、ポーズであると相手が受け取り、相手は本音を言い合うことを提案していると理解してしまうということは、本音主義者或いは率直主義者(つまり本音言い合い善主義並びに率直善主義ということ)にとって曖昧悪であるにも関らず、それは寧ろ内心では積極的に曖昧善こそが正統善であると捉える(日本人に圧倒的にマジョリティである)者にとっては自然な受け取り方なのである。

 つまり実は「本音を言い合うのはよしましょう」という本音とは、そう言えるということで既に何もかも本音を言い合えると信じていることであり、且つ又そう出来る率直善主義者或いはその資質者による発言であるとも言える。そしてその率直主義者並びに資質者の発言だと受け取ってしまうコミュニケーション奥手者(日本人の圧倒的マジョリティである)とは「本音を言い合うのはよそう」と考えている、と言うよりそれが自然であると思える(それが日本人の一般的な民族的性格である)者であるが故に概して(通常は)そう提案し合わない、そう提案することがし難い資質者である、と言えるのだ。

 日本人は本音を言い合うことへの羞恥(シャイネス、shyness)を相互に認め合おうという暗黙の了解を正義としやすい民族なのである。

 又日本人の持つ率直過ぎることはよくないと思うこと(「日本人の娯楽感性/日本人は民族的エレジーは希薄だPart2http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/part2-2bce.htmlを参照されたし)或いは、そう思うことが自然であると感じられる資質では、率直に言い合うことは本音を言い合うことであるより、本音とは本来隠しておくべきことである(本音を言い合うことが羞恥を催すが故に)が故に本音を言い合うという決意それ自体が極めて恣意的なポーズであるに過ぎず、それは結局相互善(単独善、個人善と言ってもいいが、それを否定することは当たり前だとする社会観)を追求する為の方便でしかなく、個人の内心を秘めたままにしておいていい、というプライヴァシーを侵害していると映る。

 しかしこれはある部分ではプライヴァシーとは公的場では言ってはならず、だからこそ逆に内心では仮に反民主主義、反理性的なこと(例えば極悪な犯罪者に対して共感さえしてしまう様なこと<これはしかし四年前の秋葉原の加藤死刑判決犯への共感でウェブ上では示されたのであるが>)さえ考えること、つまり思想自体は実践さえしなければ何を考え思おうと(殺人さえ自由である社会であるとか独裁主義国家が善であるとかの考えなども含む)自由であるという考えでもあることとなる。

 しかし日本人は意外とこの最後の考え主義者ではないだろうか?

 これがPart2の最終パラグラフの文章に対する文化人類学的な日本人論から鑑みた見解である。

 事実私自身も上記の様に日本人的部分は濃厚にあるのだ。つまり観念上、或いは理念上では対話主義は正しく、相互善とは単独善を告白し合うことによって履行されると一方では考える。又それが民主主義社会の是である、とも。それは端的に言葉それ自体を最大の価値として認めようという理性論でもある。

 だがそういった言葉を最大限に信用しようというモティヴェーションだけでなく、同時に私自身、何処かでは「言葉だけに」全てを仮託することを頑なに是とはすまいぞ、という決意さえあるのである。それは極自然にそう思える決意でもあるのだ。

 この二つのアンヴィヴァレンツな感情が常に葛藤しつつ共存している、というところが私自身の偽らざる事実なのである。

 言葉を最大に信用しているということも本音であり真意であるなら、そのこととは全く正反対の言葉だけに全てを委ねることも又躊躇せざるを得ない、ということも本音であり真意なのである。

 これをもっと客観的に分析してみると、日本人は明らかに悲しみを韓国人の様に率直に、と言うか公の席ではあからさまに示すまいということ、その様に率直に個人的悲しみを示すことを躊躇し、羞恥することを自然に思い、辺り憚らず泣き喚くこと自体を是とはしない(又日本人の美意識ではそういう風に感情を剝き出しにすることが自然に思えない)、そしてそう思えること自体も慎み(この言葉こそ日本民族的性格を最もよく示している)であると考えることが自然であると自己メタ認知しても言い得るのである。

 日本人は韓国人の様に公で悲しみを炸裂させることそれ自体を欺瞞的に感じ取るのである。

 日本人とは極論すれば韓国人が身内の葬儀の際に辺り構わず泣き喚くことも又、北朝鮮人達がカメラの前でだけキム・ジョンイル前主席死去の際に泣き喚くパフォーマンスと所詮同じ習慣にしか過ぎまい、とそう受け取るのである。

 しかし仕草とかパフォーマンスということを言うなら実は日本人の様に悲しみとは公にすべきではない、という慎み、つまりそういった公にすべきではないという想念から引き出された押し殺した鎮痛な表情や所作にも適用されることなのである(しかし概して日本人はそう考えない。日本人はパフォーマンスとは率直悪にだけ適用されると考えるだろうからだ)。

 このことは日本人が言葉以外の身体的感受性、或いは心(こころ)的要素を言葉と全く対等のものとして受け取るという感性に由来しているものと思われる。それは宗教文化的にそうなのである。確かに形式的には神道も仏教も朝鮮半島経由で大陸からやってきたものが大半である。しかしその宗教文化の受け取り方の感性が確かに日本人は大陸半島人達と違うのである。

 そしてある部分ではその部分での感性を自然に、無意識にと言ってもいいのかも知れないが、表出させてきたのがウィトゲンシュタイン解釈を通した永井均の哲学思想であるかも知れない(このことは「メッセージの性格から何を読み取ればよいのか」シリーズの続編で近日中に書くつもりである)。

 

 今回の結論としてはかつてかなりしつこく本ブログで日本人アウトロー論として展開させてきたことと同じなのである。つまり日本人とは集団的、組織的に暗黙の内に価値や正義とは内的個人的なことなのだから、逆に取り敢えずそれは公では抑えることにしようということ、そしてその態度をこそ相互善として余り言いたいことを言い過ぎずにおくことが慎みであるとする民族なのである。

 だからこそそれは裏を返せば、内心に迄はモラルを全て押し通す必要はないという処世的性悪的容認ということとなる。

 この点でも永井均はかつてNHKのインタビュー番組で司会を務めた爆笑問題との遣り取りで本番ではカットされた夢でなら人を殺してもよいか、という問いかけに対して爆笑問題の二人は、夢でならいいとしたのに対し、永井は実際に人を殺すのがいけないのなら、夢でもいけないと考えている旨を示した下りの話(『ウィトゲンシュタインの誤診』)とも関係してくる。

 私は夢で人を殺したことなら何度かある。何故なら私は永井均その人を殺す夢を見たからである(尤も方法や殺人の場面は一切出て来ず、殺したという事実だけが展開されていた。ある部分では永井均氏という人となりを私も全く知らないわけでもないからこそ中島義道氏やその他私の人生で関わった全ての人達が何処かでは一度は夢で登場してきた様にその人も登場してきただけである)。

 多分に永井氏の持つ論拠のスマートさ(論理的展開の巧さとか知性と、その和製英語的な意味でのスマートさ、つまり格好良さ)への羨望と嫉妬がそういったおぞましい内容の夢を見させたのだろう。そしてそれだけ永井均という人も私にとって気になる存在であるとだけは言い得るであろう。

しかし夢は自分が願望していることだけを忠実に写し取って脳内で再現されるわけではない。多分にあの本、つまり永井均による最新著作である『ウィトゲンシュタインの誤診』のその箇所が心(記憶)に残っていたからこそ、そういう夢を見たとも言い得るからである。夢とは映像的・身体感受性的内容以外にも多分に言葉それ自体による事実関係への認知とか把握からの意味的(つまり余り映像的でも身体的ではない感情それ自体の戯画化された意味内容だけのもの)なものも見るし、意味自体も夢に大きく影響を与える。私がその夢を見たのはあの本を読了してから間もなくだったのだ。

 永井による爆笑問題に対する彼等二人と異なった見解とは、ある部分では欧米キリスト教的である。事実彼は多くの著作で理性論的には既に世界はクリスチャニティによって統制されていると考えている。しかしそれは永井自身の本人の感性的資質だけなのだろうか?ある部分では哲学者としてのモラル正当性への見解も含まれているだろう。しかしそういった夢でさえ見てはいけないと思うということを日本人が全く思わないということもない。しかし同時に爆笑問題の様に夢でならいいという考えも日本人は否定しない。これも言えることである。そしてキリスト教ではそう公では絶対言ってはいけないことである。しかしだからと言って彼等もそういった夢も見るであろうし、いけないと思うことと、そう夢の中でなら思えてしまうということは別のこととしてどの民族でも矛盾して共存しているだろうとは言えることである。(つづく)

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何かする時には積極的に敵は必要である

 本ブログでは(他のブログでもであるが)私は基本的に権力を保持している者も、そうではなく全くパワーレスな者も等しく悪であると捉えている(「人間の本性が悪である証拠とは?」シリーズを検索し参照されたし)。それは要するに権力というものが、例えば政治家であるなら立法か行政に従事していれば、当然それぞれ異なった立場になることからパワーを行使することが必ず限定的となるから、それはとりもなおさず絶対的なパワーでも強さでもないことからである。つまり人間は須らく弱者なのである。この考えは一部マルキシズム的であるが、内実的にはそこにある上から目線ではない。寧ろもっと個人的であることを主眼にした考えである。

 これからの社会とか世界はやはり決定的に上から目線でも下から目線でもない。上部構造と下部構造の二元論的なものの見方は失効している。主観論というより、やはり決定的に個人論の時代である。

 それは権利というよりやはり現実とは自分自身にとってどう世界が見えるかということからしか考えられないし、論じられないし、感じられないということからである。

 しかしその全弱者説=人間性悪説も、実践的見地に立てば少々違う意識を要すると言える。つまりこういうことだ。

 例えば権力者は経営者であれ政治家であれ限定的に絶対的パワーを権利上では持っている。しかしそれはやはりかなり巧くやれない者に失格者の烙印を押すことを我々に決断させるから、パワーを失った権力者は総じて無力であり非力であり弱者でさえある、という意味では悪が弱さであるとしたなら、決定的に誰しもが人間存在という弱者性と悪という構図に組み込まざるを得ない。しかしそれは一つの世界に対する上から目線であり、何か具体的に行う時には仇となる。だから実践的に何かをすると決意したなら、ある程度想定され得る敵対者を持つことは積極的に必要である、と言える。

 だからその場合気安さとか親しみといったものさえ一旦は白紙撤回していく決意さえ必要かも知れない、ということだ。

 親しい知人、友人といった存在はそれ自体、相手に対して自分より劣った部分を無意識の内に探して、それを見てほっとしている、安心していればこそ相手に対して気安さを我々は抱く。だから逆に言えば、相手に対してその自分より優れた部分に目を瞑ることでしか相手への気安さとは生じない。しかしそれは一つの陥穽であり、相手は何らかの形で自分より優れた部分もあって、その優れた部分はある意味では見習うべき部分であるが、ある意味では敵対する部分でもあるのである。

 確かに「人間の本性が悪である証拠とは?Part27 ぞんざいな受け答えの本質とは?」http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/part27-95b1.htmlで述べた様に、全ての我々の行為を理念的目的に従事させていこうとすれば、友情なども我々は獲得出来ず、常にアウトレイジ的行為の応報である政治の様に友情と打算との駆け引き(かつてYKKでのことに就いて小泉純一郎が語った様に)となり、純粋な(果たしてそんなことはあり得るのだろうか、ということは取り敢えず不問に付すこととして)信頼とか愛情というものを他者との間には持つことは出来なくなる。

 しかしやはり決定的にある程度信念を持った仕事をする、ということには、理念的にそういった気安さを一旦反故にして行う、仕事と向き合うということが必要なのである。だからこそ仮想敵であってさえ、何か明確な敵対者を必要とする、とさえ言い得るのである。

 しかし同時に何か余り大きな障害を取り込むことなく滞りなく仕事を履行するということの内には必ず気安さとか親しみというものを他者との間で持つ必要がある(このことは実存的に人間社会が相互甘え的部分で成立していることであり、そのことは別記事で詳しく考える)。これは集団とか組織というものの性質上仕方ないことである。

 にも関わらず個人で出来る仕事であれ、集団内の成員として活動するのであれ、同士であってさえ敵対者を要する、ということが、何か意志して行うという場合には言えることなのだ。

 私自身は仕事行為を円滑にしていく為に生徒とか学生が愛校精神を持つ様な意味で愛社精神とか愛組織精神などは必要であると思うが、それらは全て幻想である、とも考えているタイプの人間である。

 従って国家も又巨大(これは愛する対象の実際の巨大さと、自分自身の生活と行動とにとって抜き難く内的にも巨大という意味であるが)な幻想なのである。しかしこの幻想なしに社会的個であるとか、それによっても成立させられている自分というものは成り立たないが故に、政府や管理職者にありがちなこの幻想への無批判的な追随は批判し得ても、全ての幻想を捨てろ、ということは言葉とか概念とか意味を捨てろ、と言うに等しいが故に、適度に幻想に従い、適度に常に幻想へ批判的であれ、としか今は言えない。

 そうなのである。敵対者とは無批判的、無思考的な追随全般なのである。そしてそういう行為を読み取れる様な他者を周囲であれウェブサイト上であれ発見したのなら、それこそが批判すべき敵対者であり、その敵対者はとりもなおさず自分自身の鏡なのであり、ある意味では全てのそういった敵対者こそが反面教師でもあるのだ。

 だから何かをする時に必要な敵とは、本質的には自分の中に巣食う悪=弱さ、いい加減さ(悪意としてのいい加減さ)であり、その発見の為に我々は実際の特定の他者を、表立って宣言する必要もなければ、誰かに告げる必要もないが、敵として意識してことに当たることは積極的に必要なのである。

 全ての他者は敵でも味方でも本質的にはない。しかしあることに関してはこの者は味方でこの者は敵である、という意識は必要であり、それは気安さとか親しさだけで判断することでは得られない何かを教えてくれる。

 

それはある部分は感性的な他者との一致点ではない理性的なことかも知れないし、ある部分ではそういった特殊な感性の一致点であるかも知れない。否、それは何が感性で何が理性であるかを即座に返答し得るほど単純ではなく、それはやはり幻想を抜き難く我々が抱いて生活しているという実態、事実からも引き出されることであり、自分と他人、自己と他者という現象学的な哲学考察とも関わってくる問題である、とだけは言える。

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2012年10月17日 (水)

Nameless-value流実践術/社会への接し方・仕事の仕方

★尖閣列島などの領土問題を過大視する報道が民放でもNHKでも喧しい。しかしよく考えてみると、国家主義的な発想で政府が運営していくことで一番利益を得るのはマスコミ、つまり新聞社並びに放送局である。その点では公平無私であろうと心がけているNHK(最近の報道傾向は民放化してしまっている)であれ他局(民放)であれ変わりない。つまりマスコミ、マスメディアの報道スタンスやそこで展開される社会問題のみが我々の生活にとって重要な問題であると努々思わぬ様にすることである。所詮マスコミ、マスメディアのお上とはそれ自体我々個々の生活とは独立したものである。だから次期総選挙でも一切マスコミの報道スタンス自体に影響を受けずあくまで自分の考えでのみ投票すべきである。又テレビのコメンテーターがワイドショー等で発言する内容や傾向もそのコメンテーターの出自や利害関係をよく把握して斜交いに身を置きつつ聴くべきなのである。

★仕事はたとえ経営であれ営業であれ研究であれ主力とするべき内容をしつつも、それと平行して主力内容を四分とするなら二部くらいの割合ずつでそれぞれ他の傾向の仕事で残りの六分を満たし、主力内容を六分とするなら、それ以外の四分を三分と一分とかの割合で配分して行うべきである。それは必ず主力とする仕事内容で何かトラブルが起きた際に役に立つ。要するに仕事内容を自ら未然に保険的意図で配分しておくべきなのである。不測の事態に対処して切り抜けていくのも所詮自分自身である。それはたとえ組織に身を置いていても命令されたこと以外のことを日頃から自分なりに工夫して平行して主力内容、至上目的の仕事以外のこともしていくべきという意味では同じなのである(それはある意味対人関係に於いてさえ言えることなのである)。

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日本人の娯楽感性/日本人には民族的エレジーは希薄だPart2

 日本人に固有の感性とは何処かで諦める(欲望を押し通し過ぎない)という部分である。それをもののあわれであるとか、無常観とか考えてもいいが、全てを水に流すというところをかつて七十年代に鈴木清順監督は対談でそういう風に泣いてけろっと直ぐに恨みとかも忘れるところがいけないと発言している(『鈴木清順 けんかえれじい』より)。要するに執着とか執念というものが悪い意味で希薄なのである。

 だから武家社会での責任の取り方にしても切腹であるとか、ヤクザ社会での指詰めであるとかにしても、多分にこれだけ痛い思いをするのだから許してあげよう、という意識の賜物である。

 恐らく韓国人にも中国人にもこの様な許しと水に流す精神はない。

 日本では室町時代には旅芸人の一座が他国の情報を伝えるという役割を果たしていたと言われる。江戸時代には瓦版などが刷られ読まれたが、そこから全ての情報を摂取していた。現代のウェブサイトと同じ役割だったのである。

 日本では神社などに人が集う習慣が定着していた。それは宗教的なシャーマニズムでもあるし、ハレとケの反復を全ての人民が何処かで知っていたということだ。

 秀吉は北野天満宮で大きな祝いの席を設けたし、もっと以前から人々は神社へ集まり祭りを行ってきた。

 だから戦後高度成長期真っ只中で唐十郎が花園神社で状況劇場の初演『腰巻お仙』を上演したのも、そういった日本の祭りの習慣に倣ってのことである。

 浄瑠璃(文楽)、歌舞伎、落語、講談などは全て何らかの形で定型があって、そこから各自表現者達がどの程度逸脱していくかというところにルールと、そこから逸脱する勇気とで上演者に拍手を送ってきたのである。

 戦後の幾人かの表現者達は定型とか粋さということを意識的に排除することこそが表現の理念であった。その典型的な例として三島由紀夫、大島渚、村上春樹、北野武などを挙げることが出来る。

 そういった表現の自由への飛翔は、ある部分では日本人の民族性が職能集団的色彩によって理解することが出来る部分で評価していきやすくなっている。

 だから民族全体の他民族への怨念の様なものは限りなく希薄である(中国人や韓国人はそうではない)。日本人は意識では民族以上に各自職業人なのである。

 三島は自分自身の拘りであった美の定型を壊したい衝動に駆られる僧見習いの青年を吃音へのコンプレックスからの離脱という形で『金閣寺』で描いた。その離脱意識は定型を否定するという彼自身の決意でもあった。

 それは拘るということ、忘れないということである。それこそが鈴木清順が批判したことと同一地平の問いかけなのである。

 北野武は『アウトレイジビヨンド』では大友と木村にだけ義理人情を忘れないタイプのヤクザを通して、自己のエゴイズムにだけ邁進してきた日本人への批判を行っている。

 それは性愛というものを忘れないで死さえ美的に捕らえてしまう大島渚の『愛のコリーダ』でも忘れられなさ、執着という形で描いている。その精神を渡辺淳一は何処かで継承させて、『失楽園』や『愛の流刑地』を描いているとも言える。

 日本人の祭りの習慣、神社に人々が集う習慣とは、とりもなおさず水に流すという決意への全ての人々からの同意であり総意なのであるが、それは何処かでは忘れられないということをも自覚しているからである様にも思われる。

 しかし怨念を持ちたくはないというところが決定的に日本人にはある様に思える。怨念を直接他者へ示すことに羞恥心を持つ民族なのである。それは家族とか親族が死んだ時もそうなのである(その点が韓国人とは極めて異なる)。

 周囲を憚ることなく泣くことこそ日本人にとっての羞恥なのである。泣くということを公の席では憚るという美徳と美学と美意識が日本人にはある。だから逆に時々辺りを憚らず泣く者に固有の許しを我々は与えられる。

 韓国人はその点では号泣することこそが対外的に悲しみを示す方法なのである。それを出来ないことは羞恥の対象なのである。(つづく)

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2012年10月16日 (火)

道は交通機関の発達によって様相を変えたけれど

 平清盛 Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B は瀬戸内海の海路の現在神戸となっている福原に大泊りを建造したり、迂回しなければならなかった関門海峡の一部の島として繋がっていた箇所を海路にしたりして自然のままではなく国家全体へ公益によって利益を齎す様な都市計画を最初に大掛かりに行った人物としても今回のNHKの大河ドラマ『平清盛』では描かれている。Wikipedia 平清盛 (NHK大河ドラマ) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B_(NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)

 自然のままであらゆる交通を行っていたならなし得なかったことを我々の祖先は政治を駆使して実現させてきた。それは清盛の時代には船によってであり、丹那トンネルは御殿場を迂回して交通を行っていた鉄道をトンネルの掘削技術を通して実現させたものだった。しかしトンネルの掘削技術も鉄道が開通していなければ進歩していなかったかも知れない。Wikipedia 丹那トンネル http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E9%82%A3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB

 

 今でこそ京都と大津との間は東海道本線でも琵琶湖線 Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96%E7%B7%9A と呼ばれる区域の電車に乗れば直ぐに到着出来る距離であるが、全く交通機関の発達していなかった江戸期以前は山を登るか迂回するかしか行き先へ到着する術はなかったのだろう(そのルート迄は今手元に情報がないが、天城超え的な仕方であっただろうとだけは想像出来る)。しかも気象学的にも大津と京都との間では寒暖差からその時々での天候が異なった形であることも珍しくはないだけの起伏がある。京都そのものは盆地であり、周囲は山脈状の起伏の富んだ地形であり、延暦寺 Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E6%9A%A6%E5%AF%BA などもそういった地形を利用して仏教聖地として君臨し続けたのだろうと思われる。

 それをかなり頻繁に行き来することを可能としたのもやはりトンネルであり、逢坂山トンネルを手始めに、それよりも直進に近いルートへと変更された東山トンネル、新逢坂山トンネルの建造によって交通機関として多くの乗降客を運ぶこととなった。名神高速道路も大津トンネルによって京都府と滋賀県を通り抜けすることを可能にしている。参考ブログ 

東海道本線旧線・逢坂山トンネル

 http://haisentn.s78.xrea.com/oosakayama/1.htm

 要するにまず交通機関として鉄道が、そしてそれに続き自動車が発明され施設され利用されることで人類はかなり自然のままであったなら迂回したり、山を登ったりしなければならなかった事態を唯行き先へ早く到達するという観点から言えば克服してきた、と言える。

 しかしそのことは同時に自然の状態に沿った道、つまりあらゆる現在実現している交通機関がない時代には当たり前であった徒歩によって出来る道の概念や道の意味を、人工的に塗り替えてきた歴史でもあった。直進出来るからこそ目的地へと人々を運ぶという意味では自動車の発明と利用とによって促進された橋梁建造やトンネル掘削技術は我々の生活の利便性へ計り知れない恩恵を齎しているけれども、徒歩で自分自身の足で感じ取って移動するからこそ認知、触知し得た幾多の自然条件からの直のリアクションを得ずに素通りしてしまうことを我々に当たり前のこととすることこそが現代都市文明である。

 そのことからの竹箆返しを時として我々は昨年に勃発した大震災とか様々な台風とか川の氾濫などによって知ることにもなると言える。

 だから大津から京都にしても、国府津から沼津にしても、今ではトンネルなどが出来て直進に近い形で移動出来る交通機関の存在自体に一々感謝などしてはいないのだけれど、古の人々、民にとってその自然条件の猛威というものを常に考えの内に入れて近隣住民は生活していたのだし、移動していたのであり、その知恵とかそのエリアに住む人々しか直には実感出来ない幾多の地形と気候に関する事態への対処の際の感情などを全く度外視して政治が全ての交通の在り方の決定をすることが出来ないというところに、恐らく現在東北被災地の復興に求められていることの内の重要な一つの真実があるのではないだろうか?

 つまり私は何を言いたいかと言うと、要するに全ての地形とか気候条件を制覇して完全なる人工にすることなど我々には未来永劫出来はしないということに他ならず、どんなに我々の手によって交通の行き来が便利になったとしても、それはあくまで地形とそれによって喚起される気候などの自然条件を全面的に克服することは不可能である、という真理に立脚した自然全体からの猛威を極力回避し得る生存の知恵のレヴェルに留まるということなのである。

 そういった意味では古の人々が行き来してきた旧ルートを徒歩で移動することを通して初めて田中角栄の考えていた日本列島改造論を実践しつつある現在の日本の交通機関の持つ意味も、その場所場所で異なった形で求められる利便性とその地固有の自然条件に沿った自然克服的メソッドが齎されると言っていいであろう。

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2012年10月15日 (月)

世界の真実Part13 人間は生来の飽きっぽい生き物である

★結婚制度、婚姻制度の最大の欠点とは浮気や自由な複数の異性との交友(交遊)をアンモラルなこととする点である。生涯一人の異性とだけ肉体関係を持つことを基本とした精神的パートナーが価値的に自分の人生で最大の存在であるという通念の持つ不自然さはどう克服していけばよいいのだろうか?

★人間は交際する友人や知人でも、共に働く同僚でも相棒でも同士(同志)でも配偶者同様、必ず長期一緒に時間を過ごすことで、相手へ飽きが来ることを避けられない。そういう生き物なのである。その事実を前提に全ての社会生活、仕事、交遊などを考えていくべきなのである。

★生涯を一つのことしか仕事で成し遂げてはいけないとするモラルは不自然である。それはまさに歪な論理であるし、倫理である。そういった旧態依然の倫理的呪縛から自由になろう。どんなに生涯追求していくに値するテーマでも十年が一区切りであると心得よう。それは交友する知人でも異性でも同じである。そういった飽きていってしまうという我々の性向を前提とした予定とか将来の展望を持つ様にしよう。

★世の中は理念的には誰しもが同じだけの権利を持つし、平等である。しかしにも関わらず仕事的には必ず上下関係もあるし、社会的には主従もある。基本的に経済力や仕事でのリーダーシップのない者は大きな他者へ影響力を行使する発言をなし得ないと考えておくべきである。そのことをよく承知しておくことこそが青年の仕事であるとも言える。尤も最終的に価値的な他者への見方は自分で決めていくしかない。

★男であれ女であれ、相手である人が親であれ上司であれ、相手が人間であるという認識を如何にメタ認知し得るか否かが他者をよく理解する道筋である。要するにどんなに年配になっても男も女も異性へとときめく。これが最も基本的な人間の性向である(動物だってそうかも知れない)。だからそのことを承知して、内心で年配者や目上の者を過大視しないということが大人の態度、大人としての他者への接し方を得る最良の方法である。唯自分が過去に於いて輝いたと考える青春時代を想起するだけの人生は人間が記憶に呪縛されやすい生き物であるだけに、これほど惨めなものはない。今こそが全てであるということから言えば、今だけを常に一番充実させようと考えることは理に適っている。永井均の言う独今論、唯今論を思想や生き方へと応用させて考えていこう。

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2012年10月14日 (日)

思想・哲学メモPart2/世界の真理政治編

★現在の政局に於いて次期総理大臣が誰になるかという総選挙結果如何とは即座に結びつかないにせよ、次代の政治的展望で期待し得る人材が橋下徹日本維新の会代表、細野豪志民主党政調会長、小泉進次郎自由民主党青年局長の三人に絞り込まれたと考えている国民は多いだろう。彼等が次代の総理大臣へと直結し得る今後の政局的展開に於いて次期総選挙投票行動もなされる、と言っても過言ではない。

★竹島・尖閣列島問題はそうたやすく結論を出してどう韓国・中国・台湾と外交展開するか決定すべきではないが、私の予感では既にこの問題は日清日露戦争などより遥か古い時代に迄領有権の問題を持ち出される可能性があるが故に、最終的には日韓、日中、日台共同海洋開発、共同観光を兼ねた共同統治しか解決方法は見出されぬ様に思われる。その意味では橋下日本維新の会代表の見解こそが最も他のどの政治家の見解(例えば、その見解に対して疑念を抱く石破茂自民党幹事長の見解なども含めて)よりも的確な論拠を見出せる気がする。

★哲学者とは端的にかなりいい加減な性格の人間に向いている。一つには何に対しても感動出来ない人に向いている。天邪鬼な性格の人間に向いている。又一般には若い頃から哲学にのみ関心や情熱がある人間より、若い頃には色々なことに関心や情熱のある者が、年を重ねて自然と自己の来し方行く末を見据えた時沸き起こる疑問の中に真の哲学がある。

★私が受講という形で関わったある横浜市にある現代アートのゼミナールは、私がそこから離れた後日、私の知人の二人のアーティストが教鞭を取った。H講師とN講師は何処か世代は少し年齢差があるが、ライヴァル心もあって、学生の作品の講評会では全く異なった作品を褒め、異なった作品を貶した。つまりHの褒める仕事をNは腐し、Nの褒める仕事をHは腐した。相互に認め合うことのない二人は自身のクラスの受講生に「俺を取るか、奴を取るかを決めてくれ」と懇願したと言う(それを私はNの親友で数年前に亡くなったWから私の自宅に泊りに来た時聞かされた)。そういった理念の違いによって後身の育成で仲たがいするというところにアート界のアウトレイジ性がある。しかしそれは基本的に自然科学でも哲学でもあり得る。それどころか基本的に会社であれ役所であれ、人間社会ではこういった閥的なヒューマンネット上での葛藤や対立は日常茶飯事である。そして誰しもその混交した考えの中から自分の考え、理念を掴み取っていくしかない。そしてそれはかなり生涯に渡って誰しもに降りかかる事実なのである。人間は一人で生きているのではないからである。

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2012年10月13日 (土)

自己精神分析Part6 ある部分では今後への決意、ある部分では私達の未来予想

 今後の私を暗示する今の考えと、そのことを通した我々の未来絵図を独断と偏見に近い私の近状での他者への感じ方を通して箇条書きで書こう。

★私が学生であった八十年代初頭に根暗(ネクラ)と根明(ネアカ)という二元論が日本語で定着した。しかし現在この言葉を使うことは少なくなった。それはそれから三十数年我々の中でお宅とかおたく、オタクという語彙が定着してきたことも預かっている。その主張はとりもなおさず高度成長期に迄は求められた対人関係での熱い情熱の様なものが、今日日では時代遅れ以外のものではないという認識が多くの人達の間で共有されているということだ。例えば70年代にはよくあった青春ものがテレビドラマでも放映されてはいない。七年前に放映された『ドラゴン桜』にしても東大合格だけを目指させるある部分では現代日本の学歴社会全体へのパロディであったし、『世界の中心で、愛を叫ぶ』でも青年達の不条理な運命を描いているし、それよりも前の80年代に発表された村上春樹の『ノルウェーの森』もメンヘラ的な青春像であった。要するに熱い情熱で何とかなるという時代は既に80年代でも懐疑的に受け取られていたのだ。だから却ってこれからは益々ある部分ポジティヴシンキングは常に必要でも、感性的には変にエネルギッシュな対人関係論を展開させる人達には生き難い状況が益々支配的になっていくのではないだろうか?それは人々に求められている能力自体がかなり専門分化していることと、その為にかなりメンヘラ的に神経を研ぎ澄ましていなければならないという業務的な困難さによる。

 何より私自身が安易に人を信じていて何とかなるという生活状況から隔たった地点に居ると言えるからである。尤も人類全体も安易な管理職的寛容的対人的接し方でこれからの世界どうなっていくというものではないことだけは別段私だけの個人的見解を超えて言えることではないだろうか?

 要するにポジティヴシンキングより依然ネガティヴシンキングそれ自体を生き抜く強靭さとそのアンニュイさを美的に極めることの方に人生の醍醐味を感じ取っているということなのだろう。退屈なものの延々と続くことそれ自体の言葉化され得ない価値に生の意味を掴み取りたいのだ。

★「今日は死にたい気分である。自殺したい気分である」ということをよく知人に言っては自殺を防がせたのはウィトゲンシュタインであったが、草間弥生も同じことを周囲の関係者に言っていた(NHKの特集番組で)。そういったセンシビリティはある部分ではかなり極限迄思考を張り巡らせる意図から派生する感情である。

 そういった意味では私は学者にありがちな世間知らずであること、つまり社会全体の動向とか組織内での対人関係とか人間関係全体の把握とかメタ認知に疎い学者バカ性を何処かでは蔑みながらも、ではその逆で始終そういったことを話題にしたり、高度成長期にありがちだった野球観戦を通した組織論ばかりに日頃から現を抜かしている様なセンシビリティにもある種の時代錯誤を読み取って蔑みの気持ちを抱いている。要するにどの道私は基本的に自分自身のことにしか関心がないし、そういったウィトゲンシュタインや草間弥生的なメンヘラ的感性しか信用出来ないという部分では世間知らずとか学者バカ的なセンシビリティを得たいとは絶対思わないものの、ある歪と言っていいくらいの偏向型の考えを育むことをも今後は永続的にしていこう、つまり変に纏めて誰からも認めて貰いたいという気持ちとは正反対の地点でものを考えているということは明確に言えるであろう。

 要するに誰からも良いと思われるものには一切価値を見ないという点で徹底させたいという願望はより強くなってきているということだ。と言うことは世間一般で認められている多くのものに対して、それは何処かで安易に世間一般の基準を無思考的に阿っているとしか思えないという、それだって一端(いっぱし)のメンヘラ的精神状態なのかも知れないが、そう思えてしまう傾向を否めないということ以外ではないと言えよう。

★映画を作りたいという気持ちが強いが、それは要するにどんな画像のものでもいいし、却って日々の記録的なものであった方が面白いということは言える。少し金を貯めて来春には東北地方、とりわけ福島県の被災地、被爆地域周辺を訪れて記録していきたい、という気分が段々本格的となってきている。滅茶苦茶に多く撮り捲くり、それを最低限の、しかし明確な決断力で編集することから何かを見出していきたいという気分が強い。恐らくそこから表現の方向性は明確化されるであろう。アポステリオリなそういったトライアルの中からしかテーマも表現者のイデオロギーも何も見つからないのではないだろうか?それはジャン・リュック・ゴダール、ジョナス・メカス、北野武その他の大勢の映像作家達から教わった気はする。

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2012年10月12日 (金)

人は一人で生きているわけではないし、一人で仕事をしていくことは出来ない/アートだって映画だって哲学だって全部他者との関係でなされる、という意味では同じなのだ② 現代アートの読み方

 

 映画とはリュミエール兄弟http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%85%84%E5%BC%9Fがシネマトグラフリュミエールという複合映写機を発明し、写真館を営んでいた父アントワープの時代に持っていた人々の欲求を更に動画という形で拡張させたことが発端であり、映画自体が今度は20世紀の芸術や表現の多大の影響を齎したことは、19世紀に写真の発明が印象派その他の画家達に多大の影響を齎したことと社会的相関性の中からアートが生み出されるという意味では本質的には構造的に相同である。

 要するにどんなに個人の作業であるアートであれ、それは社会内での様々な時代的なムーヴメントと無縁で成立するものでは決してなく、リュミエールの発明の後やがて映画は配給会社と製作会社との分業と、スタッフとキャストの分業という形で発展していく。

 その際にエイゼンシュテイン監督によるモンタージュ理論とかグリフィス監督http://ja.wikipedia.org/wiki/D%E3%83%BBW%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B9によるクローズアップとかクロスカッティング(カットバック)とかウェルズ監督のパンフォーカスなどのメソッドが後世に多大の足跡を残し、要するに個人プレーであってさえ、それらは時代や社会全体のニーズの中にしっかりと組み込まれていて、それは結局どんなに孤立したクリエイターであってさえ(例えば20世紀で言えばジョナス・メカス監督の様なタイプでさえ)集団の作業として顧みられる性質のものであり続けた。

 その点では映画から触発された多くのアートムーヴメントにシュールレアリスムもダダイスムも未来派も含まれるし、ピカソとブラックによるキュースムも含まれる。それらは写真という静止画しかなかった時代にはなかった表現が動画によってなされるからこそ考え付かれた多くのアイディアに満ちていたからである。

 尤もシュールレアリスムはアンドレ・ブルトン(詩人)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3によって宣言をなされて始動し始めたので、かなりアートイデオロギー的に明確な意図があったとも言えるが、多くの戦後のアートムーヴメントは画家とか彫刻家といったクリエイター達は勝手に個人的に創造していて(勿論作家仲間という付き合いはあったのだが)、その創造プロセスとか出来上がった作品の傾向を後付的に批評家とかジャーナリズムが括弧付のムーヴメントとしてでっち上げて、それを何々派とか何々主義とかイズムとか命名していったという要素もかなり強い。

 それはアーティストと画商(ディーラー)とコレクターの図式にメディアというジャーナリズムが介入することで構成される新たな社会図式である。

 セザンヌが画商ボラールによって紹介されたことは有名であるが、20世紀以降の全てのアーティストもアートムーヴメントもとどのつまりこのアート批評が介入して展開される資本主義ゲームであること、つまり集団全体の暗黙の総意によって時代が作られていたということは間違いのない事実である。

 だから作っている本人はアート批評を戦後アメリカで牽引したクレメント・グリーンバーグhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0によってポロック以下の面々として抽象表現主義者である定義されたアーティストの中には悪い言葉を使えば寝耳に水的に「えっ、僕もその中に入るの?」という印象さえ抱いたとも言える。

 抽象表現主義の台頭によってアンフォルメルなどの欧州のアート運動の向こうを張ってアメリカはアート大国として君臨することとなるが、それとてアメリカの戦後政策などの世界政治経済的構造にも大部分拠っている。

 こういったムーヴメントの勃興の中にポロック以外のデ・クーニングもロスコーもニューマンもトビーもクラインもゴーキーもマザウェルもゴットリーブも含まれ得るのであるが、個々人はそれぞれ別のイデアや芸術理念を携えていたと言える。 

 それでも抽象表現主義以降の世界的アートムーヴメントの発火装置ともなったポップアートはそれ以降ではよりコンセプチュアルアートの火付け役となったとは言い得るのであって、それは抽象表現主義自体が物質と色彩と形態の造形的要素を極点迄突き詰めた作家郡による奮闘行為であったればこそ、ポップアートでは本来造形や物質以外に主題とかモティーフがあった筈だという時代的着眼が携えられていた。

 勿論ポップアートもオルデンバーグ等の都市空間に設置する巨大彫刻に発展すると、そこには当然物質というテーマも蘇ってくるし、しかし主題性を日常のオブジェとかツールに求めたポップアートに対して、もっとそれを造形的な要素へと還元させようとするプライマリーストラクチャーではアンソニー・カーロによって単純な形態と存在的クオリアの追求をすることで、却ってコンセプチュアルアートがアートメッセージの根幹に存する言語性とか概念把握などの理念へ傾注し過ぎたことへの反省から、よりもう一度造形と物質へと回帰させようという機運がミニマルアートへと直結していき、それが日本では<もの派>というムーヴメントへと展開していったと言える。

 しかしそれ以外にもフルクサスなどのパフォーマンスのムーヴメントがニューヨークにも欧州から上陸して、そこで展開されたある種の前衛アートの乱痴気騒ぎは日本では読売アンデパンダンや具体などのムーヴメントへと同時代的に運動的機運を波及させていったが、この具体は、ある部分ではその後に展開される多くの世界的アートムーヴメントを予感させる表現に満ち溢れていた。

 具体的に言えば動き音を発する機械仕掛けの彫刻作品はキネティックアートとポップアートを予感させ、単純な形態の壁へのインスタレーションはミニマルアートを、そして文字による表示と装置の設置はコンセプチュアルアートを、それぞれ同時代的な乱痴気騒ぎの中から育んで来たとも言えるからである。

 だからざっくりと把握すると、抽象表現主義の形態と物質と空間との極点の造形性はフォルリスティックな展開を見せるミニマルアートへと時代的スパンを持ちながらも予感させていたし、ポップアートの日常的生活からモティーフと主題を発見するというイデオロギーはコンセプチュアルアートを予感させたし、ミニマルアートから脱皮していく過程で新表現主義と呼ばれたニューペインティングはコンセプチュアルに過ぎない様な造形性に概ね準拠した、しかしクリエイターのモティヴェーションだけはミニマルアートの極端なフォルマリズムを克服する意図によって育まれたと言ってよい。

 しかしほぼ十年置きに展開する(抽象表現主義50年代、ポップアート60年代、コンセプチュアルアート70年代、ミニマルアート70~80年代、ニューペインティング80年代以降)これらのアートムーヴメントもそれ自体社会全体の動向と無縁ではいられた筈もなく、80年代以降はそこにポストモダン思想やメディアアート的な映像分野やマスコミ、マスメディアとの多元的図式の構造に組み込まれていくわけである。その際にはナム・ジュン・パイク(白南準)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%8D%97%E6%BA%96などのフルクサスメンバーの果たした役割も大きい。

 しかし同時代にはセザールなどの巨大彫刻の持つ永遠性に対して状況性をよりクローズアップさせたロバート・スミッソンhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%B3などのアースワークなどやウォルター・デ・マリアやヨゼフ・ボイス(フルクサスメンバー)、或いはクリストなどの作家達による試みが後日、祭國強などの作家郡の活躍の素地となっていったことも決定的な真実である。

 従ってフランク・ステラやロバート・マンゴールドなどのクリエイター達の仕事は、それ以前のジョセフ・アルバースやエルスワース・ケリーやケネス・ノーランド等による原点的なミニマルな仕事からミックストメディア性をより混入させつつ、ウォーホル等の携えていた時代状況へのメッセージを今度は造形全体へと込めて封印させていこうというトライアルでもあって、それは多分にパフォーマンスやインスタレーションの意識も強いものであった。

 当然舞踏家達もそういった仕事の内部でダンスを行ったりしたということも彼等の登場より早く実現していたのであり、そこでは演劇や商業デザインなどの世界との同時代的な精神的な連帯感もあったのである。日本では昨今では映画俳優として活躍している田中泯http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%B3%AFが逸早くパフォーマンスに取り組んでアート畑と共同作業を行っていた。

 人類として個である市民にとってのスピリチュアルなニーズとしてアートは誰しもが持っている絵を描きたいという欲求、そしてそれを資本主義社会ゲームのパフォーマンスとして実現させるディーラーと仲介役である批評家達による共同作為が必ず一点のアート作品には絡んでいるのであり、一クリエイターの創造モティヴェーションもそれら全ての思惑の中から生み出されているのであり完全に孤立している存在など、映画であれ学問の世界であれ全くあり得ない様にアートの世界でもあり得ないのである。

前回の記事// 人は一人で生きているわけではないし、一人で仕事をしていくことは出来ない/アートだって映画だって哲学だって全部他者との関係でなされる、という意味では同じなのだ① 今回は取り敢えずアートと映画、演劇などに就いて

 

 http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-e5bb.html

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2012年10月11日 (木)

結婚制度とは本当に人間を幸福にしてきているのだろうか?

 私は全てに対して人それぞれでいいと思っているし、そういった意味では社会観にせよ結婚観にせよ保守主義者ではない。だが同時にある種の自由主義者達の様に何につけ必ず破綻していて、教条的モラルに逆らっていればそれでいいと考えているタイプでもない。

 従って伝統的な家庭観を持つ人達が居たっていいと考えている。しかし彼等の保守的な考えだけで人類が今後巧くやっていけるなどと安穏なことを考えているわけではない。

 第一就職にせよ、結婚にせよ、何につけ現代社会では炙れる人達の人員数の方が今後も益々増えていく様に思われるからである。

 既に五人に一人は四十代でも独身であり、将来は生涯独り身で居る人の人口比率は四分の一から三分の一くらいまで引きあがると予想されているからである。

 日本では結婚という形態は保守的な家庭観を持つ人達にとって極めて容易に理解しやすく、他者を納得させやすい基準であり続けた。

 しかし現代では既に婦女子は炊事洗濯さえ出来ればそれでいいという時代ではとっくになくなっている。そういったかつての大和撫子に求められた条件を抜かりなく出来る婦女子も居るだろうが、その比率は年々減少している筈だ。

 要するにそれは戦後男女同権社会となってからの変化なのである。つまり男性と同じ様に女性が社会進出すると、求められる能力も多様化していき、何も婦女子だけが料理を習得したり、掃除洗濯を滞りなく出来ることを求められる、ということそれ自体が既に差別となっている。

 従ってある部分では現代社会は独身者達が如何に巧く性欲処理をしていくかということが社会問題化していると言っても過言ではない。

 

 フランスは既に婚外による子供の数の方が結婚によって生まれてくる子供の数を上回ってる。日本も如何に保守伝統的なコードを大切に思っても、母子家庭とか父子家庭とかの数も必然的に増えていくだろうし、ある意味では性的な関係をもっと自由にして(その意味では性病とかの知識も認知していくことを求められているが)、自由恋愛で自由に結婚に縛られずに子供を育てることの出来る状況を社会に設定していく必要性が迫られているし、異性との交流とか交友というものを交遊とかビジネスとか、多層的に考えていくべきなのだ。

 要するに女性とは結婚して家庭に収まって欲しいという男性から女性へ要求するエゴイズムをまず克服していくべきであるし、仮に自分が結婚して巧くいっている立場の人であっても、自由恋愛主義者とか、フリーセックス主義者とか、母子父子家庭の人達を何処か白い目で見る様な態度を謹んでいくことが求められているだろう。

 かつて『アメリカン・ビューティー』という映画があったし、『ファイト・クラブ』という映画があったが、共にアメリカ社会の伝統的家庭観に対して衝撃を与えた名作であったが、仮に前者の映画の様に表向きは平和で愛睦まじい夫婦と親子を演じていたって、心の中までは誰も相手の気持ちを強制することは出来ないのだし、要するにそれなのに形式的には巧く行っている風を装うことを暗に社会から強制されることそれ自体への批判が、この二つの映画には込められていたのである。

 それと同じ様に実際に私が知る多くの夫婦(恐らく私が知る既婚者の中の6割と言っていい)が真に愛情に溢れて巧く行っている夫婦よりも(大半の夫婦とは離婚のエネルギーを回避したいだけで離婚せず結婚を続けているに過ぎない)理想とは程遠い夫婦数がずっと多く理想の夫婦の数の方が遥かに少ない。これは紛れもない事実である。

 だからそろそろ人類は社会的モラルであるとか、要するに世間体的な全てを一旦棚に置いておき、いい意味での結婚制度とか子孫を繁栄させる仕方など性愛に就いて本音トークをしていってもいいのではないだろうか?

 そして未だに国家公務員とか堅い職業ではそういった保守的な家庭観を持っている人達の方が相対的には出世している人の数が多いだろうと察せられるが、それだって何時迄もそういった基準で社会を安定化させようと図ること自体が時代錯誤である(恐らく不可能である。男女共に同性愛者もこれからは増えていくだろうし)と言えるとは誰しも思っていることだろう。

 七十年代の日本社会はとりもなおさず高度成長期の真っ只中であり、世界的規模のカウンターカルチャーの影響下、多くの社会的なアウトサイダー達へ視線が向かった時代であり、そのことが保守伝統的なコードへの安穏とした追随への批判が噴出した。その際には世代間齟齬が問題化された。しかし八十年代はバブルで日本が豊かになってくると、批判精神よりは国家的に達成した経済力からスピリチュアルなゆとり的な考えが謳歌された。しかしそのバブルも弾け次第に日本では失われた十年とか後に持続していく就職氷河期の到来を経験する。

 そういった時代的変遷から我々は既に世代間闘争などは序の口で、青年世代であれ老人世代であれ個々全く異なった思想と常識であり、世代間の闘争などという単純な図式など一切通用しなくなっていることを誰しもが知っている。

 そしてその中で本来なら不遇な身の上の人達への親切な心を持つべきであった日本人の中で静かに蔑みの気持ちを育んできてしまったことがここ十数年では言える(ホームレスへの虐待などもその間にはあった)。

 それは保守伝統的な社会観への批判精神を封殺して、より無思考的に無難な生き方を選択する様な人生観が支配していき、要するにそこに疑問を抱くことそれ自体を封殺していく様なタイプの寄らば大樹の陰的発想から、暴力的なことは特殊なケースで、通常は言葉で甚振るとか、大切にしている道具などを壊したりする些細な嫌がらせという形で青少年世代に保守安穏的大人の考えの雛形が芽生えてきてしまったのである。

 しかし一旦大人になってしまえば、そういったいじめとかを受けた心の傷も癒えてしまえる場合もあるが、その様な人生上でのモラトリアム自体を許さない方向へと日本は舵を切ってしまったのである(それは企業経営者や政治家の責任でもあるし、教育者の責任でもある)。

 だから大人の中に居れば、多様な恋愛観、結婚観とかセックス観があっても、それはあくまで大人の間でだけで成立することであって、子供とか未だ学校とか大学とか教育機関に居る内は違うのである。尤も大学生は思想的なことを考えることが許される期間であるから、高校以下のケースとは分けて考えていくべきかも知れない。

 結婚制度はある部分では人類が近代以降合理的に子孫繁栄の為に考案してきたものであり、それは欧米化していく脱亜入欧的な明治期以降のスローガンから日本では発展してきた。そこには多分にキリスト教プロタスタンティズムの精神の普及ということも手伝っている。

 日本では現在少なくとも独身であることとかで差別を受けることはない。私自身もたまたまこの年になるまで独身できてしまっただけで、結婚それ自体を批判している(或いは否定している)わけではない。

 唯たまたまそうなっている大勢の人達もこれからは以前よりずっと増えていくであろうと予想していて、そういった社会ではこれ迄の様なお気楽な家庭観の固定化をしていくことは時代錯誤だ、と言いたいだけである。

 愛情溢れる夫婦ばかりであるのなら、それは理想だし結構であるが、実際はそうも行かないということが経済的な安定度の確保ということで言えるので、その個人の間に横たわるギャップに対してどう対処していけばいいのだろうか、という疑問へその都度議論したり、考えたりする心の余裕だけは持つべきだ、とは言えるのだ。

 私自身はそれこそ『アメリカン・ビューティー』の様に世間体的に、外面(そとづら)的に取り繕って出世競争に響かない様にしている多くの夫婦を生きていかなければいけないのなら、いっそ生涯独身で居た方が気楽だ、という考え自体をルーズであると見做すことさえなければ全てを自由にしていいと思うし、生物学的にも一切の精神的浮気さえするべきではないという極めつけの縛りをお互いに持たない様にしよう、ということがなければ夫婦などやっていられない、ということは言えると思うし、大人がそういう風にいい意味で割り切っておれば、寧ろ青少年達が突外れた学校の生徒を爪弾きにしていく様な憂えるべき事態だけは大分避けられるのではないか、と考えているのである。

 

 日本では未来永劫、様々な国家としてとか民族としての制度は変わらずに残っていくことだろう。

 大統領制へと移行することも、天皇制が廃止されることも恐らくあるまい。

 しかし仮にそういったことを、或いはそれに近いことへと移行させていくべきであると想念したり、論議することを試みても、その自由迄は奪ってはいけない。極論すれば、それを実行さえしなければどんな思想であれ(かなり非常識な考えを心の中で抱くことさえ)自由である、という割り切った大人の他者への態度が益々日本では求められている気が私はするのである。と言うことはその点では未だ日本では教条的に「自分自身で考える」ということではない、周囲がそうだから、元来自分の家系ではそれが常識だったからということだけで全てを判断しているとも言えるのであり、そういった非主体的な無思想性だけは徐々に変質させていくべきではないか、というのが取り敢えず今の私の考えなのである。

 付記 これからは好むと好まざるとに関わらず、社会ではより職能的には高度なテクが求められストレスフルな日常となっていく。従ってより個人的な息抜きの仕方を誰しもが獲得していく必要性に迫られている。だからこそ性善説的なモラル論を一日も早く葬り去って、より現実的な日常的なメソッドとかウィズダムを模索していくプラグマティックな視点に社会や国家自体が目覚めていくべきなのである。そこら辺の考え方をお知りになられたい来場者の方は、本ブログの「人間の本性が悪である証拠とは?」などの一連の記事を本ブログ名と一緒にしてグーグルの検索などで参考にして頂きたい。(Nameless-value)

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「気」を読むPart1

 気は日本語の中で特殊な位置にある。それは意味的にもそうだし、語用論的にもそうだし、発音的にもそうである。

 ざっくりと分類すれば物理的な息とか呼吸とか自然現象やそれと関係する事物の意味①、感情の状態乃至決意や心の状態を表す意味(最近の日本語で言えばテンション)②、個人や集団の性格とか傾向(性)を表す意味③という三つのカテゴリーにこの語は分類出来る(その分類の後で詳細に分析する)。

 発音的には「き、ぎ」「け、げ」である。

 さてではまず五十音順に羅列してみよう。発音がけとげには<>をつける。名詞と動詞と形容詞を中心に示す(名詞と格助詞で形容動詞的機能になる)

<味気>、<呆気>、いい気、意気、一気、一本気、嫌気、陰気、移り気、運気、英気、男気、<男っ気>、<女っ気>、勝気、活気、換気、寒気、勘気、気合、気圧、気炎(気焔)、気受け、気鬱、気移り、気運、気負う(い)、気後れ、気落ち、気重、気化、気概、気構え、鬼気、気掛かり、気兼ね、気が合う、気変わり、気球、気軽、気管、気位、気候、気孔、気功、気質、気心、気さく、気象、気性、気色、気勢、気絶、気ぜわしい、気狂い、気体、気遣い(う)、気詰まり、気取り(る)、気長、気になる、気の毒、気乗り、気晴らし、気張る(り)、気品、気分、気泡、気前、気まぐれ、気味、気持ち、気楽、気力、空気、景気、<気だるい>、<健気>、<気配>、血気、口気、語気、心意気、根気、才気、殺気、山気、酸気、士気、磁気、<湿気>、邪気、<洒落っ気>、臭気、秋気、酒気、正気(しょうき、せいき)、生気、精気、沼気、笑気、瘴気、蒸気、上気、心気、<素っ気>、大気、短気、<茶目っ気>、中気、通気、天気、電気、怒気、人気、熱気、<眠気>、乗り気、暢気、呑気、覇気、排気、病気、雰囲気、本気、負けん気、<むらっ気>、やる気、勇気、陽気、乱痴気、冷気、和気、悪気

 次に①②③へ分類してみよう。幾つかに跨っているものは取り敢えず除外する。

  換気、寒気、気圧、気化、気管、気球、気候、気孔、気象、気絶、気体、気泡、山気、酸気、磁気、<湿気>、臭気、秋気、酒気、沼気、笑気、瘴気、蒸気、大気、中気、通気、天気、電気、排気、冷気

②一本気、嫌気、移り気、英気、男気、勝気、勘気、気合、気炎(気焔)、気受け、気鬱、気移り、気負う(い)、気後れ、気落ち、気重、気概、気構え、鬼気、気掛かり、気兼ね、気が合う、気変わり、気軽、気位、気心、気さく、気性、気勢、気ぜわしい、気狂い、気遣い(う)、気取り(る)、気長、気になる、気の毒、気乗り、気晴らし、気張る(り)、気品、気前、気まぐれ、気持ち、気楽、血気、<健気>、語気、心意気、根気、才気、正気(しょうき、せいき)、生気、精気、心気、短気、怒気、<眠気>、乗り気、暢気、呑気、本気、負けん気、<むらっ気>、やる気、勇気、陽気、悪気

  一気、景気、士気、乱痴気、和気

 尚②でも③でもあるものを④としよう。

  <呆気>、いい気、意気、陰気、運気、<男っ気>、<女っ気>、活気、勘気、気運、鬼気、気質、気色、気詰まり、気分、殺気、<洒落っ気>、<茶目っ気>、人気

 又①でも②でもあるものを⑤としよう。

⑤気力、陽気

 又①でも②でも③でもあるものを⑥しよう。

⑥空気(しかしこれはある程度①と③とに偏っているので敢えて⑦を設けておくことも意味がある)<気だるい>、<味気>、<気配>、雰囲気

(⑦空気)

 実は暫定的にこう分類してはみたものの、本質的に主観的情動的ニュアンスを示す気の混入した語彙は個人的性格であると同時に集団の性格でもあるし、それ自体自然全体への状態とか印象とかを内的外的に性質として示している。拠ってこれらを完全にいずれかに分類することの難しさをここで証明してしまっている。 

 要するに名詞であれ動詞であれ、文全体を修飾するという意味では全て内的外的な事項を文によってある対象を指示する場合、形容詞を心的には志向する意味合いがある。そして従って特に今回の様な日本語の「気」などでは純粋に客観的であるとか純粋に主観的であるといずれの語彙も言い切れなさも必ず残る。だから取り敢えず概ね客観的な意味だとする①でも、全て②以降の意味合いにもなり得るし、逆に②以降の語彙を使用している時でも話者や筆者は然程主観的に述べていないということもあり得るので、その場合は主観的な(心の状態や個や集団の傾向はそれ自体見方によるという意味で)②や③を使いながら心的には①の意味で話者や筆者が叙述している、ということは充分あり得る。

 又日本語自体が他の言語同様自然認識自体に霊的なこととか非科学的なことも元々は含んでいた。これは日本固有のシャーマニズムからも分析可能であるし(日本人固有の自然観によって分析可能であるし)、もっと人類全体で普遍的な自然観からも分析可能である。つまり日本人固有のシャーマニズムと人類普遍のシャーマニズムとがあり得るということである。この点の考察と分析は今後も続行させていく価値があるものと思われる。

 とりわけ<味気>、<気だるい>、<気配>、雰囲気などは英語でもairennuidulllazytasteatmospherestateなどで置換し得るが、これらは概して英語でも⑥に分類出来る。

 従って英語その他の印欧語族の言語からもこの分類を行えば、それなりの結論は導き出されるものと思われる。

 取り敢えず英語でそれを近日中に行うことだけは今考えている。その際により哲学的な形容詞を基本とした論理学・語用論、或いは人類学的な形容詞を軸に進化していく道筋の語用論等から考えることが日本語と英語との同時進行的な考察には求められる。

 尤も日本語では気という語で示されることと対比的に進行させるなら、かなり英語でも多くの接頭辞、接尾辞から考察していかなければいけない。日本語も同様であり、今回はたまたま気で日本語を行ったが、次回日本語でも「性」を行う。又中国語では「気」がどうなっているかと「性」がどうなっているかも考察する。

 次回以降は「合」などから考える機会をも持つ必要性はある(合は気・的でもあるし性・的でもあり、且つ個的でも集団的でもある)。その点では「読む」ということはかなり何事業であるとだけは言える。

 付記 又本記事の「気」や次回の「性」はどちらかと言えば主観的情動的語彙であるが、どちらかと言えば認知触知的語彙であるところの「場」「所」「間」「座」「番」などを中国語との対比も交えてそれらと平行して行っていく。(Nameless-value) 

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2012年10月10日 (水)

語彙研究に求められること/しかし言葉を交わす空しさも知れ

 日本社会はミニコミ紙などが全国紙よりも重要視されていくにつれて社会全体の様相を大きく変えた。既に我々は何処かで国家的規模の論争を耳にしても、それはそういった観念に現を抜かしている一部の特権階級の間でだけ交わされるゲームでしかないと決め込んでいる。事実実際に自分の住む町に食料が届けられないという様な一部昨年の大震災以降の危機的な雰囲気などが漂うことさえなければ、或いはどんなに中国や台湾の漁船とか軍艦が尖閣列島周辺でうろうろしていたとしても我が町へそれらの国々の人達が攻めてでもこない限り、重い腰を上げて国家的な結束を図ろうなどとは思いもしないだろう。我感知せずというのが本音であろう。

 従って既に大量な国家的規模の発令などがなされることそれ自体を何処か別の国のことであると決め込んでいるし、ノーベル賞の受賞者が出たことを我がことの様に喜んでも、それが直ちに話題となって自分が日本人であることを誇らしげに語れる集いを誰しもが持てるわけではないから、それは形式的に街頭でインタビューを受ければ返答しているに過ぎないとも言える(放送局は何処も教科書的な返答をする市民へのインタビューだけを編集して放映しているだけなのだから)。

 そういった時代的気分(それ自体が凄く現代に固有のことであるなどと決め付けられはしないが)の中で大量な人員数を期待する商業戦略が功を奏することはそうこれからはないだろう。仮にそういった戦略で功を奏するものがアップルであるとかグーグルであるとかであると分かっていても大半の人達はそのレースの渦中にあるわけではない(この事実は重要である)。だからそれら一切の情報端末の存在が全くなかったつい十数年前の状況と今の状況とが一般市民にとって極めて異質であるなどとも言えないことになるのだ。

 従って全てのメッセージ、流通させるべき商品、発信する表現などは何らかの形で絞り込まれたターゲットに向けられている。だからそれは全てに敷衍されるべき筋合いのものでは最初からない。そういったロングテールビジネスの時代では、仮に今全端末が使えなくなったとしても、それを復旧させることは誰しもが試みようが、復旧されて元通りに全てのメッセージ交信が執り行われても、そのことで特別な何かをそんな便利なものの一切なかった十数年前とは本質的に違う時代へと我々を乗せて変えていくということはないものの様に思える。

 却って一部の凄い人達だけが復旧出来て、そうではなくその恩恵に一切預かれない人達が大勢派生して、そのことを不平等であるとか言わない状態が持続した方が何時か暴動が社会で勃発して面白いかも知れない、などと仮に私が述べたなら、それこそアナーキズムだとかテロリズムであるか言う人達も現れるかも知れない。

 唯、高度成長期に顕在していた誰しもが国家的規模で何かへと一丸となって立ち向かうなどという状況へと遡行することだけはないとだけは言い得る。だからこそ別ブログでも書いたが、オタクなどという語彙自体が死後化しているのが現況でもあるのだ。

 既にマスプロ的メッセージがマイナー化してしまっている現況からは、オタクとさえ呼べないあらゆる種類の、しかしそれをあらゆる種類などと達観することなど誰もが試みもしないある一群の人達にだけ必要な全てのメッセージやツールなどが乱立していくということだけが上から目線的に言えば恒常化していくことだろう。

 言葉の使用は確かに人類の初期ではそれ自体が一般普及化されることが全ての個にとってときめきであり戦きであったかも知れないが、火を使うことの方が言葉より少し先だったかも知れない(私には直観的にそう思えるということだけだけれど)が、そういった一般普及化されることの積み重ねの中にあらゆる世相とか社会事象が含まれるわけだけれど、何時の時代でもある程度の一纏まりの閥が人間社会では出来上がる仕組みとなっていて、古代日本邪馬台国の九州起源説は東大を中心とするグループが率先して提唱していけば、京大を中心とするグループでは畿内起源説を提唱するとか、平清盛が白河法皇落し種説を京大を中心とするグループが提唱すれば、それに意を東大を中心とするグループが唱えるといった喧々諤々の論争それ自体も既に古代から人類がしてきた派閥間抗争のほんの一例にしか過ぎない。

 エリートとかインテリと呼ばれる人達が使う語彙は確かに一般市民が使わない様なこととして存在する。しかしそれらさえ即座に自分達も取り込もうとする一般市民のウィズダムによって今日の様なウェブサイトを有効活用し得る時代では、直ぐにジャーゴンもテクニカルタームも一般化されてしまうだろう。それでも尚専門家は常に先を行こうとするだろうから、一般化していない語彙を使おうとするだろう。しかしそういった壁とか溝とか距離も所詮、専門家だってウェブサイトの大きなウェイヴと無縁ではいられないから一般市民が勝手に使い一般化される語彙の方をエリートやインテリ達自身が遅れを取るまいと摂取しようとするだろうから(それは平安時代に既にあった兆候であろう)、結局上部構造と下部構造とかの二段構えなんて一切効力を発揮することはないだろう。

 だから特権階級とか一部の専門家とそうではない人達の間の壁とか溝とか距離などというもの自体幻想であることがどのエリアに自分が属していたと自覚していても次第に分かる様になるのだ。

 と言うことは語彙研究していこうと考えている自分の思惑とか目論見それ自体もきっと他の誰かはとっくにしてきて、そんな研究など卒業して別のことをしているに違いないとそう思いながら、でも自分は自分ですべきことを今しようと思いつつ、実は自分なんてものもそれ自体結局自分以外の全ての他者への自分の中の意識が組み立てていることでしかないと知ることとなるのだ。

 敷居の高いある特別な語彙が流行となり一般化されて使い捨てられる様に今度は別の語彙を使い出す専門家が現れても、その専門家のことなんて知りもしない別の一般市民が急速に普及していきそうな語彙を使い出すと、何時しかその専門家もそれを真似て、結局その専門家の使い出した語彙をその専門家以外誰も使いもしないまま終わることの方がずっと多いというのが現況かも知れない。

 だから言葉を使うこと、言葉で何かを伝えようとすることそれ自体が既に全く「言葉でなんか伝えられようもない」ことを知る為だけに存在する事実かも知れないと次第に誰しもが思い始める。しかしそのことを言葉で伝えようとすると、途端に誰しもが後味の悪さを感じてしまう。だから言葉はそれが誰しもが使っていくという事実の前では誰しもが空しさを感じ取ってしまうものである。にも関わらず、では言葉の代わりに何かを見つけようとしても、それは容易には見つけられはしない。そんなことは誰しも直ぐに気がつく。だから結局「取り敢えず」言葉で代用させておこうと言葉で誰しもが遣り取りを再開する(まるで津波で流された町を再建するかの様に)。

 だから結局社会にそのもどかしさを克服する為の努力をしているという風に何時も誰かから採点されていることを気にして関わろうとすることそれ自体にある種の空しさを感じ取ったなら、沈黙し続けるしかない。それはそれでよい。そして必要な時、つまりどうしても言葉を使わなければ何も先へは進めないという事態が到来することをじっと待つしかないと思える様になった時初めて言葉を使い、言葉を使うということ、そして言葉を使わないということの意味を知ることが出来る、それは決して知ろうと思って知るのではなく、その分かったことが向こうから勝手にやってくる様な状態を得ることが出来るのかも知れない。

 だから語彙がどう使われているかを知ろうとして、日夜検索数などを調べて語彙使用状況の把握に努めても、その言葉の応報の空しさの中からしか、結局言葉を使うこととか、言葉を使わないで済ますこととかの意味や無意味を知ることは出来ない、ということだけが真理である様に今の私には思えるのである。

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2012年10月 9日 (火)

日本人の娯楽感性/日本人は民族的なエレジーは希薄だPart1

 日本人はある意味ではかなり感性的には屈折していると海外からは思われているかも知れない。と言うのも我々の日常を振り返ってみても、その文化的様相から芸能などへの接し方でも一枚岩的ではないと思われるからである。

 日本人にとって余暇の過ごし方とか息抜きの仕方とかはかなり人それぞれ自由であるが、その巧い気分転換に関して他の民族よりもより粋さというものを追求している(勿論個人レヴェルでの話しであるが)と言えるのではないだろうか?

 

 その源流はやはり江戸時代に迄遡ることが出来る。恐らくもっと古い時代から綿々と日本人はお上に対する恭順の意思と平行させてより自分達自身の娯楽的な感性を磨いてきたと言える。

 

 休日であれオフの時間帯であれ我々はスポーツを観戦するが、ゴルフや野球はそのプレーされる全瞬間を見なくても済む。人と話しながらでも、家族と会話しながら食事しながらでも見ることが可能だ。それに対してテニスとかサッカーはそうではない。一瞬たりともテレビの画面から目を離すととんでもない展開へと縺れ込むことがある。その点でかつて野球が異様なる視聴率を誇った時代(巨人大鵬卵焼きの時代)があったのも頷ける。

 しかしここ三十年くらいの間に徐々に日本人の価値基準へと認識は変わってきた。要するに個人毎の選択基準があっていいという風に高度背長期を超えた辺りから日本人は考え始めたのである。だから野球やゴルフばかりでなくテニスやサッカーなども日本人は愛好する様になってきたのだ(その影には三浦和良や中田英寿の力も大きかったし、最近ではなでしこジャパン、そしてテニスでは錦織圭の活躍も大きい)。その顕著な傾向はオタクという語彙が定着してきた経緯からも読み取れる。

 かつて年配者(八十代から七十代)が若かった頃、幼少期から青年期へと差し掛かる辺りで感性を構築していった時期に接触していた芸能娯楽的感性とはとりもなおさず無思想性であった。

 それは娯楽というものには単純さが必要なのであり、そこに変な意図的な思想的批評的なメッセージ性とか芸術文化的な比喩を持ち込むことを敢えて拒絶する意志、それは嗜みと言ってもいいし、美学と言ってもいいが、要するに息抜きの仕方に定型を求めたというところが少なくとも戦後の敗戦からの復興から高度成長期には顕著に在ったと言っていいであろう。

 その時代に相撲や野球やプロレスが果たした役割や映画館ではヤクザ映画(高倉健主演の昭和残侠伝シリーズとか深作監督による仁義なき戦いシリーズなど)が果たした役割は大きかった。

 しかし次第に日本人は集団で楽しむという論理から、個人毎に楽しむとう論理をも大切にしていく様になった。その一つがテレビを個室で見るという習慣であり、それらのニーズが現代の携帯電話使用の日常へと結びついている。だからそれは日本固有の条件とか状況と世界的規模での人類の変化とが相俟っているとも言える。

 

 しかし依然テレビでは「水戸黄門」シリーズとか「暴れん坊将軍」とか「桃太郎侍」などのシリーズの持つ勧善懲悪的世界観こそがいい安楽なる娯楽的な息抜きであるとされてきていた。この勧善懲悪とは曲亭馬琴(滝沢馬琴)による『南総里見八犬伝』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%B7%8F%E9%87%8C%E8%A6%8B%E5%85%AB%E7%8A%AC%E4%BC%9Dに由来するとされる。1814年から1842年の長きに渡って出版され読まれたこのシリーズがその後の日本人の娯楽意識へと与えた影響は絶大なものがある。

 

 敵方とはあくまで敵方なのであり、味方とは常に相互に義理堅く結び付けられているという発想であり、それは赤穂浪士(四十七士)による討ち入りにしてもそうである。僅か高田郡兵衛http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E9%83%A1%E5%85%B5%E8%A1%9Bなどの脱落者が居たことが印象的に描かれるくらいが情動的な多層性を描く最高の表現であるにとどまっていた。そしてそれは現代の特撮ドラマとかアニメなどにもずっと引き継がれてきている。ウルトラマンもそうであったし、仮面ライダーもそうであったし、要するに正義の味方と悪党という二元性はかなり根強く我々の娯楽鑑賞的気分へインパクトを今でも与え続けていると言える。

 

 しかし我々現代人はそういった娯楽を一方で容認しつつ、それだけでは飽き足らないという感性をもここ三十年くらいの間に決定的に育んできた。そこにPC端末の普及とか携帯電話の普及とか、様々な知の体系への貪欲な関心(例えば八十年代くらいからはポストモダンとか、社会学とかへの関心によって示される)とかの社会現象も含まれるものと思われる。

 

 しかし勧善懲悪はあくまで時代劇の定石であって、ホームドラマの基礎は小津安二郎によって開拓され、それが向田邦子とか橋田壽賀子の世界や、フーテンの寅さんの世界を支えてきたとも言える。

 

 この世界観は一方では時代劇では時代小説の藤沢周平による下級武士の悲哀という形で描かれてきた。最近では殆ど読まれなくなってきたがかつては一世を風靡した源氏鶏太などによるサラリーマン小説もこの路線の先駆けと言える。

 

 だから池波正太郎の時代物の持つテイストが現代社会へと適用されると大藪春彦的ハードボイルドとなり、藤沢周平の持つ時代物のテイストが現代へと適用されると、無思想的な娯楽では特命係長只野仁になると言っていい。

 

要するに藤沢の世界とはあくまで江戸期の下級武士であってこそ描けるのであり、それを現代へと適用してしまうと派遣社員とかへのドキュメンタリー的志向の告発的メッセージになってしまう。

だから時々そういったテーマを巧く織り込ませて描いてきたテレ朝の『相棒』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%A3%92シリーズはそういった現状への風刺を杉下右京(水谷豊)と、相棒となる亀山薫(寺脇康文)や神部尊(及川光博)、そして今週からリスタートする成宮寛貴などによるキャラクターのデータベースによって巧く娯楽色を出してきたと言ってよい。それは『踊る大走査線』などでも巧みに現代社会の組織とか上層部への批判ともなって表現的に処理されてきていた。

しかしそれはあくまで思想のレヴェルへと表現が上昇することを未然に阻止する工夫によってであり、その範囲内でしか娯楽はあってはいけないとする暗黙の倫理も決定的に働いている。

 

 NHKの大河ドラマで『利家とまつ』とか『篤姫』とか『江』とかが視聴率が高かったのは、史実そのものよりもホームドラマ性にもあった。要するに描き方自体が女性が主人公であったこととか、その周囲の日常的で形而下的な対人関係の描写が主だったことにも起因する。

 

 その点が複雑な利害と背景描写で非日常的、形而上的組織論が主である『平清盛』の視聴率が低かったことの理由ともなっている。

 

 山田洋次の世界や向田邦子(『あ・うん』)、橋田壽賀子(『おしん』『となりの芝生』『渡る世間は鬼ばかり』)、山田太一(『男たちの旅路』)、倉本聡(『北の国から』)の世界が異様に受けてきたことはある部分ではシニカルに描いていても、それが通奏低音ではホームドラマであり続けてきたことによってである。

 

 その点では和田勉http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%8B%89は(特に『阿修羅のごとく』や『ザ・商社』など)が当時としては異色であったし、野島伸司 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%B3%B6%E4%BC%B8%E5%8F%B8も(特に『高校教師』など)が異色であった。又最近では『ハゲタカ』(真山仁原作、林宏司脚本。因みにこれは映画化された)なども集団と組織が主体に描かれていて、特に和田はそれ以前では『白い巨塔』やそれ以後では明らかに『不毛地帯』の持つ社会性を主体としたドラマの系譜である。

 

 現代社会が価値が多層化してきたことの顕著な例とは『相棒』シリーズによる鑑識米沢のキャラクターの人気によって製作された『鑑識・米沢の事件簿』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%91%91%E8%AD%98%E3%83%BB%E7%B1%B3%E6%B2%A2%E3%81%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E7%B0%BF#.E6.98.A0.E7.94.BBなどのスピンオフ作品が昨今では積極的に製作される様になってきたことである(その魁は古畑任三郎<三谷幸喜脚本、石原隆製作>の西村雅彦の演じる今泉慎太郎主演によるテレビのスピンオフ作品にもあった)。要するにこれらの現象はアマゾンなどによるロングテールビジネスモデルなどの時代による影響と捉えることも可能である。つまりオタク的ニーズも決して馬鹿に出来ないと踏む製作サイドの思惑から生み出されてきたのだ。

 

 かつて日本人は深刻な表現を嫌い続けた。そしてその精神は今でも絶やされていない。確かに表現娯楽は複雑化してきたし、オタク的ニーズにも受け応える様にもなってきたと言える。

 

 しかしそれでも尚私は日本のドラマツルギーとは基本ではやはり決定的に民族的悲哀を避けているとは言えると思うのである。深刻過ぎることは表現娯楽ではご法度であるという意識は濃厚である。

 

 だから全ての世代、全ての階層(この語彙自体が日本社会には相応しくないとさえ日本では言える)からも支持される表現世界とは宮崎駿によるスタジオジブリアニメである。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%AA(スタジオジブリ)/ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E9%A7%BF(宮崎駿)

 この世界は家族全員で祖父祖母から親子迄全員で鑑賞出来るからである。それに対して何処かしら北野武世界は一人で観に行きたくなる風情なのである。

 宮崎アニメの世界とは幼き日々に誰しもが持っていた純粋無垢な自然への畏怖や幼児体験に遡る他者との出会いの感動を描いている。監督が守ろうとしている森は私の住む町からもそれほど遠くはないから、その風情はよく理解出来るのである。

 

 日本人は深刻さを極度に嫌う。それは中国や朝鮮半島の様に国土を蹂躙されたり植民地化されたりした経験がなかった(戦後はラッキーであった。敵対戦勝国がアメリカであったことが幸運であった)ことにも起因している(近い内に韓国ドラマに就いては本ブログにて特集する)。

 

 日本人は悪く言えば能天気、良く言えば前向きの民族である。その資質こそが変に哲学的であることを嫌う(だから事実一般的に哲学者は日本では嫌われている。それはある部分では日本のプロ哲学者達の責任でもある)。つまりさらりと美意識で流し怨恨を持ち続けることを忌避したい、という気分が強い。だから日本では思想家とか哲学者と称する人達でさえ本質的にサヴァイヴァル的なエレジーは希薄である。それは一面ではグローバルに世界を見渡せる(それが功を奏しているのは各賞を受賞する機会の多いクラシックとかジャズの世界、或いは昨日ノーベル賞受賞の決まった山中伸弥氏などの自然科学分野であろう)。

 

 しかし今日本人は昨年の大震災と原発事故、そして領土問題とか国防の問題に於いて国家的規模でクライシス的状況に置かれていて、視点の転換をも迫られている。この時これ迄培ってきた日本人の精神的資質の根拠を探ることは無意味ではない。この能天気で前向きな資質の正体をじっくりと探ることが本シリーズの目的である。

 

 次回は日本の宗教的な背景から文化芸能とか娯楽を考えてみたい。(つづく)

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2012年10月 8日 (月)

人間の本性が悪である証拠とは?Part33 ぞんざいな受け答えの本質とは?

 君子危うきに近寄らず、という諺がある。この言葉がずっと嫌いだったし、今も嫌いである。何故ならこの言葉からは理想とか追求ということが感じられないからである。しかしこの諺が言わんとするところのことはある意味では厳然たる知恵であり、それを守ることだけが自分自身を大切にする仕方であるという意味で真理であり事実である。

 悪は世界には数多存在する。しかしその悪はあくまで自分から見た悪でしかない。私によって悪と見做された存在から見て私も悪かも知れないし、悪が存在すると言って、その事実に対してその悪を滅ぼそうとする意志があったとして、その意志は悪から見たら悪であり、そういった悪を討ち滅ぼすという意志そのものを、そんなことをしたって所詮悪など滅ぶことなどないのだから、うっちゃっておけ、出来る限り関わらない様にしようという考えこそが、君子危うきに近寄らずであり、それは悲しいかな、我々にとって自己保身にとって最良の策にならざるを得ないものでもあるのだ。それを悔しいが認めるところから生きることとは始まる。

 だから自己保身の為に悪が存在することを知りながら一切それにノータッチで行こうとする意志は消極的な正義の意識である。

 積極的な正義の意識は何かアクティヴにすることである。それがたとえ悪いことであっても何もしないよりは正義の理念に適っている。何もしない者は確かに敵は作らないから生き延びられる。しかし何かして(何かをするということは誰かとか何かへ味方をし、他の何かとか誰かへは敵対することに等しいから)そのことが仇となって滅ぼされたり、死んだり、挫折することは、死なせることが理に適っている側、挫折させたり、滅ぼしたりする側からすれば、一つの悪の消滅となるが故に、その敗北は正義である。しかしそうされないで居続けること、つまり敵対者を作らずに生存を図ることとは、とりもなおさず、正義の理念からすれば完全なるぞんざいに全てに対することであり、一切に対して主観的には接しないということであるが故に誠実という意味ではこれ以上の悪はない。

 中島義道が根本悪と呼んでいるカント認識経由の考えとはこのことである。

 北野武という映画作家は悪の存在を見据えていて、積極的に何かをしようとしても運良く生き延びられる側の一人としてビートたけしが演じる主人公の大友をアウトレイジシリーズでは描いている(尤もそれはたまたま彼の描く映画の時間内ではそうであるだけだ、という描き方でもある)。尤もヤクザという社会悪の中では最も古風な義理人情の輩として自分の役を描いている。その僚友として中野英雄演じる木村を描いている。それに対して現代的な合理主義悪として三浦友和演じる加藤と、加瀬亮演じる石原を描いている。しかし結局彼等は全て最後は敗北する。尤もそれは一度は完全なる成功をしてからそうなるのであって、それ以外に多くそこ迄行かずに敗北してしまう存在として石橋蓮司演じる村瀬や中尾彬演じる富田を描いている。

 唯生き残ることだけが勝利であるなら、死ななかった全ての登場人物は勝者であるが、映画とは必ず終わるものだから、全ての登場人物を死なせては終わらせられない。つまり最初に登場した登場人物が全て死んでしまっても、後から登場した人物が生き残らなければ辻褄が合わなくなるからである。

 地球上の全ての存在が死滅する迄を描くのでなければ映画は「何処か」で打ち切る必要がある。地球上の全ての存在が死滅したことを描いている映画があったとしたら、それはそれを観る我々が存在していることを嘘だと言っていることと同じなのである。しかしそういう表現こそが切実味がある時代も人類にもやがて訪れるのかも知れない。

 つまり北野武の映画では完全に生きていることは偶然だ、という認識とか感慨があるのである。そしてそれはたまたま未だ我々が彼が作る映画が「何処か」で打ち切られて終わることのリアリティ、つまりそれ以後も人類とは社会とか人々とかどんな言い方をしたっていいが、それらは存続していく、だから当然悪も存在し続けるであろう、という終わり方を映画がすることがリアリティの時代に生きているということの証拠なのである。

 中島義道の言う根本悪を地で行っているアウトレイジの登場人物こそ最後は映画の内部で敗北する小日向文世演じる片岡の右腕だが、最後には退却したいと片岡に告げる松重豊演じる繁田である。この映画では意図的であろうが、脚本家の北野によって消極的に悪へ接しようとする輩としての主人公の大友と、この警察官である繁田だけを映画内では滅ぼさないままで終わる。  

 しかしそれはあくまで偶然でしかないのだ。前作の村瀬が滅ぼされる前で映画が終わるという描き方のリアリティが存在する可能性もあるし、二部の全ての滅ぼされる登場人物の滅ぼされる前に終わるという描き方のリアリティが存在する可能性さえそれぞれあって、しかし映画作家はあの終わり方を選んだ。そこに映画のメッセージがある。しかしそれ以降は観客が一人一人考えるしかない。たまたま最初は積極的に関わろうとしつつ、最後は退却したがった通常正義の側とされる警察サイドの繁田が生存し、最初は消極的であった(前作でもそうであったが)が最終的には義理人情で深入りせざるを得なくなった大友も映画の時間では生存する(北野はある部分では大友と木村だけがヒューマニズムを保っていると言いたいところもあるが、世間とはそうではない。そしてそれも北野は知っている)。もっとアクティヴであった前作からの全ての登場人物は最後は消え、新たな登場人物だけはどうなるか分からぬまま映画は終了する。

 不干渉悪というものがあるとすれば、全ての事態に積極的に関わろうとせずにうっちゃっておき、静観している者全てである。何か積極的に関わろうとすることは味方も持つが同時に敵も持つことである。そして最後に滅ぼされるということは何らかの形で何かに対しては積極的に関わってきたからである。誰かを滅ぼすことは滅ぼす側からすれば、自分にとって滅ぼされる者が滅ぼそうとする自分へ大きな力を持っているという事実を容認することに他ならない。

 悪を見逃すことを寛容とか慈悲と呼ぶのなら、全ての寛容や慈悲とは見て見ぬふりをする不健康な偽善であり欺瞞となる。しかし世の中の大半の行為はそれである。完全なる善でも正義でもない。善も正義もある部分では悪の様相を理解する為に設えられた便宜的な概念でしかない。もし全てを君子危うきに近寄らずという諺の持つ偽善と欺瞞を告発する為だけで生きていこうとするなら、地球上に存在する全ての友情も全ての他者との間での和やかな瞬間も得ることは出来まい。

 だからもっと本質とか真理を究明するとか追及するのであれば、直截的な言い方のみが適切ということとなろう。しかし我々は地球上で勃発する全ての事態へ真剣に関わることなど出来はしない。そこで私が本ブログの「私の最も嫌いな日本語」http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-140d.htmlで最後に述べた二つの言葉、「どうなんだろうね」と「まあ、それはそうなんだけれどね」という言い方を我々は気づかぬ内に使ってしまっているのである。

 そういうそんざいな言い方というものは消極的ではあるが、必要であると言い得る。そういう言い方を出来る限りしない様な良好な状態を全てに対して保っておくべきであるからこそ消極的な適切性と言えるが、そうも言っていられない、つまり忙しい時とか全てに対して懇切丁寧に接することが出来ないこともかなり人生ではあるから、そういった観点にのみ立てば、こういったそんざいな言い方は積極的に適切であるとさえ言える。

 それだけではない。やはり我々の日常では北野映画の様に戯画化されて描かれるほどの極悪はそう存在しない(北野は観客に対して曖昧に受け取られる表現を拒否する。しかし此れは日本文化では特殊な表現方法である。欧米ではそうではない。それが海外でより高く彼の映画が評価される理由である。そのことは別シリーズにて詳しく扱う)にしても、ある程度小さな悪は至る所で発揮される。従って少なくとも自分が何か遂行しようと画策している時はノイズとなるそれらの小さな悪、つまり他者からの侵害に対処していかなければいけない。そこで我々がそのまま放っておけば何時か土足で自分のエリアへ踏み込んでくる可能性を感じ取った全ての行為とか発言に対して、知らず知らずに(否ある部分ではかなり意図的に)「どうなんだろうね」とか「まあ、それはそうなんだけれどね」と言い放つ。

 時と場合によってはもっと過激に言うことすらあるが、そう言うことでそれ以降その他者と再び相対する時決まり悪くさせたくはない場合には、そんざいではあるが、酷く相手が不快にまではならない言い方を我々はする。

 それを中島が考えている様に根本悪としなければならないとするなら、その根本悪とは必ず除去は出来ない。そうしてしまったなら、我々は全ての事態、勃発していてしつつある事態へ関わらざるを得ず、世界で起きていること全てへ目配せし関わっていくことを選択するという、言わば全事態を等価に接しなければいけないアスペルガー的ノンチョイス型の接しだけに生の全瞬間を捧げねばならなくなる。

 中島の考える根本悪を履行することでしか生きられないとすることへのしっかりとした自覚とは確かに必要ではあろう。しかしそれは認識にだけ留めておく必要もあるのである。

 しかし同時に何処かでそんな実利的なことを言ったって、最後は人は死ぬではないかとも言えることは言える。

 最低限の自己防衛が過剰防衛となったり、当初自己防衛であるつもりであったことが知らず知らずの内に積極的に特定の敵対他者へ彼等を打ち滅ぼす為の意図的な行為を画策していくことへと至った時、し過ぎてしまったと後で悔やんでもそれは後の祭りであり、その悔やむこととは、そうすることで自らも墓穴を掘ることで初めて得る感情だし、そうならない為に我々は我々の根本悪を知る必要があっても、それだからと言ってそれでどうなるというものではない。

 つまり人生とは何らかの形でどんなに充実し、どんなに善行を積み重ねてきたと考えてきた人間であれ、何処かではその忸怩たる思いを持たずに生を終えることなど出来はしないという不条理に支配されているとも言えるからである(これはやはりある程度の長さを生きてみないと分からないことでもあるのだけれど)。

 映画作家達は鈴木清順であれ大島渚であれ北野武であれ、もっと若い全ての作家達も含めても、何処かで方法とか美学とかは個々異なってはいても、その悔やみとか忸怩たる思いを映像に記録していこうとはしている筈なのである。

 それは人間の本性が悪以外ではあり得ない、完全善であるなら死ぬしかない(あらゆる存在にとっての善であり得ようとするなら、死して存在しなくなるしか方法はない)からである。つまり悪に対してさえ善であろうとするなら悪によって打ち滅ぼされるしかない。それはある種のキリスト教的無抵抗主義でも言えることである。しかしそれは何処かではヒロイズムもあるし、倫理的なナルシシズムもある。

 完全にそこ迄人は吹っ切れるものだろうか?若くしていじめを苦に自殺していく者達は或いは、ヒロイズムでもナルシシズムでもないのかも知れない。

 自己防衛が悪辣化していってしまい、悪そのものの履行へ終始していってさえ、それはどんよりと誰からも何物からも抵抗されず非難されもしないでぬくぬくと生存を図る全悪への見て見ぬふりをすることに比べれば明らかに誠実でさえある。

 すると一切の自己防衛をすることさえ拒絶していくこと、即ち不測の事態、つまり他者の悪に抗し切れずに死ぬ以外にないこと以外の全生の選択は悪を含むということだけが真理であることになる。

 そしてそれは中島義道的な根本悪の思想ともかなり違う考え方である様にも私には思えるのだ。

 しかしその正体を明示するだけの段階に今はないと言えるし、たとえ今以上に何か言えたとしても、そこで全てが解明され尽くされるとも思えないと仄かには想像出来る気だけはするのである。

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何時だったかの薄明かりに包まれた味に惹かれてPart7

 徹はセックスをした時のことを思い出して、その女性を抱いた感触を出来る限り思い出しながら懐かしさを感じさせる風景を見てみたい、そしてそういう風に風景を見たならどういう写真が撮れるだろう、と思って、そろそろ暫く休んでいた写真撮影を重い腰を上げて撮りに行こうと思い立ったのだった。

 お彼岸となっていたので、徹は大分前に亡くなった母親のことを思い出していた。今年は墓参りをする前に写真を撮っていこうと思っていた。墓参りする為に帰郷する道すがら写真を撮って行くのだ。

だがその時、母のことだけを思い出していたのではなく、母が亡くなってから十年後くらい後で抱いた女性のことも同時に思い出していたのだ。もうその女性とは短い交際で終わって,それから既に二十年くらいは経つ。

 自分を生んでくれた女性のことと、自分の子供を生んでくれる可能性のある女性を同時に思い出すこと、これは男性にだけ出来ることだと当たり前だが徹はその時そう思った。

 エロスが齎す風景を前にした全くそれ迄になかった見方、見え方、それを追求しようと思い、彼にとって一番エロスを喚起する花でもある彼岸花の匂いが立ち込めている場所をまず探そうと徹は思い、常にそれを見つけようとしながら、母の墓のある町へ電車で向かい、普段ならそこからバスに乗って寺の前の停留場で降りるのだが、その道をずっと歩いていくことにした。バス通に沿って側面にある山には幾つも平行した山道があったからだ。

 小学校の頃徹はその辺りを何度も行ったり来たりしていたのだ。その際に好きだった女の子が同じクラスに居て徹は初めてその女の子のことを考えたり、その女の子の傍で話して、その子の匂いを鼻腔に吸い込むと俄かに下半身に熱いものが押し寄せて、徹の陰茎の先っちょはぬるぬるとして全体的にも硬くなるのを感じていたのだ。

 そしてそのことを思い出していた彼はそのバス通りの脇の山道を歩きながら密かに周囲に誰も見ていないのを確認して、小脇の藪に入り込んで半ズボンを下迄降ろし、陰茎を扱き出したのだ。最初の頃は未だ何も出なかった。しかし小学校の三年か四年か五年だったかは忘れたが、ある時に白くって異様にどろっとした液体が感触的な快楽の絶頂に於いて迸り出てきたのだった。それが一体何なのか知るくらいに彼はませていなかった。誰にも相談出来ずに徹は戦いていたが、そしてその最初に射精した時山道で嗅いだ匂いこそ彼岸花のあるつんとした匂いだったのだ。

 だから彼岸花のつんと来る匂いを嗅ぐと、今でも徹はその時に好きでその彼が精子を迸らせる瞬間に脳裏に思い浮かべていた女の子、あの遠い未来を夢見る様なロマンチックな瞳で見つめる様に誰と接しても話すあの女の子のことを思い出すのだった。

 ところが彼岸花が咲き誇るその土地にやってきた時徹は彼岸花はさして強烈な匂いがしないということに気がついたのだった。そうなると、結局彼は別の何かの匂いを彼岸花のそれであると思い込んで記憶していただけであることになる。

 確かに彼岸花のヴィジュアルイメージは強烈である。そしてその視覚的なインパクトが嗅覚的な想像力を喚起してきただけだったのかも知れない、と徹はそう思った。しかし彼岸花を前にして好きな女の子のことを思いながらおもむろに山道で人が来ないかを確かめて下半身の怒張した一物を取り出して扱いたことがあったからこそ、その女の子のことを彼岸花が咲き誇る野を前にして徹は顔から姿格好迄思い出すことは出来た。しかしそこに今は記憶してきたつもりの匂いはなかった。

 するとその時何か人の声の様なものがした。そして暫く耳を済ますとその声はこう言っているのが確認出来た。

「わしは匂いの神様じゃ。お前が記憶していた匂いはお前の精子そのものの匂いじゃなかったのか?恐らくそうじゃ、お前は初めてそれを外界へ射出した時の身体的な衝動が忘れられず、その時目の前に咲き誇っていた彼岸花の匂いだと勝手にその時解釈してしまっただけなのじゃ。お前は、しかし目が見えるからのお、目で記憶していることを匂いとかそれ以外の全ての感覚と結び付けられるのじゃ。しかし生まれつき目の見えない女の子のことをわしは知っておるのじゃが、彼女は全てを恐らくお前が持っている嗅覚よりも鋭く匂いで記憶し、そのそれぞれを脳内で色や形迄想念的にじゃが、思い浮かべることが出来るのじゃ。それは目が見えるお前の様な者達にはそもそも備わらぬある種固有の頭の中の映像なのじゃ。」

 徹は幻聴を耳にしていると最初は思った。しかしこの自分を匂いの神と称する者の言うことは一々筋が通っている。これほど筋の通った幻聴などあるのだろうか、と思った。しかし声だけでこの神は視覚的に徹の身体へ何ら実在的な在り方を示さなかった。しかし自分がこの彼岸花が咲き誇る野を前にしてそれら全ての赤い、そして所々薄く黄色づいた白い花が連綿とその徹の聞く声を木霊させていることを何処かで徹は感じ取っていてもいた。そうである。その声は徹や徹の知る人間の様な実体とは異なった何か別の世界の「もう一つの実体」なのかも知れない、とそう徹は思った。そしてそれは何かしら懐かしさを感じさせ、説明は尽かないがずっと昔から徹も知っている様なものの様にも思えたのだった。(つづく)

 彼岸花 ヒガンバナ科の多年草。球根植物で、秋の彼岸ころ、赤色の花を数個輪生する。球根は有毒。マンジュシャゲ<曼珠沙華>。〔ヘボン〕

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2012年10月 7日 (日)

不良学入門Part2 特別生来からセクシーさが兼ね備わっていないと自分で思う女性が男性を惹きつける方法とは?

 男にとっていい女とは身体で選ぶとしたら、とりもなおさず健康美だけではない。勿論健康美も重要である。如何にセクシーでも実際にパートナーとして選ぶ相手が如何にも性病にでも罹っていると思える相手は敬遠してしまうものだし、性的な病ではなくても病弱な女性を健康な男性は避けたいというのは生物学的にも自然な欲求だからだ。

 しかしにも関わらず健康美だけが全てではない、ということも又決定的な真理なのである。つまり男は勃起してセックスしたくなる女性を好むのである。

 だから今回は普通の女性がいい男性を惹きつけるテクニックを指南したい。生来のいい女はこの記事を読む必要はない。そういう女性とは努力せずに既に多くの男性の目を釘付けにしているからである。

 例によって箇条書きにしてみよう。

★女性は普段からいい男性をゲットしたいのなら、普段からオナニーなどを工夫して行い性的なイマジネーションを鍛えておく必要がある。これは一種の脳トレである。その際に自分自身でも感度のいい箇所を性感帯などに類する指南書などを手引きにして研究しておくべきである。

Gスポットの場所などを的確に理解しておくに越したことはない(概ねそういった箇所は誰しも大体同じだが、微妙に人それぞれ箇所はずれているからである)。それは何時も同じ仕方でオナニーをしていても理解出来ない場合もある(そういったことに疎くないと思えるなら本記事は無視せよ)。時々普段気持ちいいと思っている箇所以外のスポットも探索して色々と試してみる、しかもオナニーする時の姿勢も変えてみるべきである。

★オナニーをする際には、自らの行為を大きな鏡などに映して、その時の自分の表情を確認しておくべきである。要するに相手の男性から見て「これが自分にとって好きな男性を惹きつける魅力的且つセクシーな表情だ」というものを見つけるべきなのである。

★好きな相手にも色々と好みがあって、その相手にしか通じない性的なメッセージがあるだろう。従って相手の男性の硬軟、形式に拘るか否かなどのバロメータを常に心を配って相手に合わせた有効なそういった表情を模索すべきである。尤も自分で気持ちよくないのなら、嘘の表情になるし、そういった仕方で相手を惹きつけることは一二回迄であると心得よ。自分自身で気持ちいい表情且つ、相手から見ても醜くない表情こそを自然と発見していける様に努力せよ。

★結局いい男性をいいセックスへと導くこととはお互いの最高の相性、つまりセックスをしたい時がお互いに一致するということだから、それは次の様な喩え話と関係がある。

 生涯で二回しか女性とセックスする機会がないにも関わらず、その二回のセックスによって五人の子供を儲ける男性も、これだけ広い世の中である、必ず世界でも数人は居る筈である。それは確率の問題(相手との出会い、自分自身の遺伝子とセックス時の健康状態と精神状態と、お互いの性的な相性)である。

 要するに下手な鉄砲数打ちゃ当たる式の仕方は短期的には効を奏することもあろうが、長期的には得策ではないと心得よ。

★纏めると、女性は好きな男性から魅力的だと思われた方が相手を気持ちいいセックス(自分自身が気持ち良くないのに相手を気持ち良くさせることは長期的安定的なパートナーシップでは不可能である)へと導くことが出来る。その相手を気持ち良くセックスへと誘うこととは、とりもなおさずこちらから相手へサーヴィス精神があって、それが自発的であり楽しんで相手を楽しませている、ということに他ならない。

★相手から性的に攻められた時にも、その攻めが気持ちいいと相手に察知させる愉悦の表情を手に入れておき、その相手に通じるメッセージとしてその表情を自然と利用出来る様にしておくことこそがセックスで、女性の側からいい男性を気持ち良くさせて、自分のそのフィードバックで気持ち良くなる(オーガズムを獲る)秘訣である。

★上のことを実践する意味でも古今東西のエロスの文学を楽しんで研究することはいいことである。源氏物語などの世界からスタンダールの『恋愛論』とか『赤と黒』、或いはマル・キ・ド・サドの小説世界、アポリネールなどのエロス文学等枚挙に暇がない。文学の素養も活かせ。

★男は要するにそういった気の利いたセックス時の相手(女性)からの誘いとかサーヴィスによっていい射精をするのだ。相手の表情を読み取ることに疎い男性は又いい男性とは言えない。そういう相手であると察知したなら、相手とずっと交際していくべきか考え直した方がいい場合もある(セックスだけが全てではないとは言えるから、それ以上は自分自身の判断である)。

★ある種厳格に躾けられてきた女性とは上記のことを困難と思う場合もあるだろう。しかしルイス・ブニュエル監督の映画『昼顔』でも描かれていたし、渡辺淳一の『失楽園』や『愛の流刑地』でも描かれていたが、性的な嗜みに習熟していることそれ自体に羞恥を持つことは、ヒューマンネット的な意味では悪いことではないが、却って厳格に躾けられた女性の方がより性的な愉悦とか、アブノーマルなセックスへと免疫がない分、耽溺していきやすい、とも言い得るのである。その辺の育ちとか、自分自身の好奇心の在り処をよく理解することを心がけよう。要するに自分は普通よりそういった変態的なことに関心があるのか否かくらいを理解しておこう。好き者には好き者に必要な心得があるし、堅物には堅物の心得があるのである(それは別の記事で書こうと思う。乞うご期待)。

★上記のことを踏まえた上で、尚男性とはセックスの「巧さ」ではなく相手からこちら側への誠意であると考える向きは、それはそれで堅実な相手を選ぶべきである。正常位(英語ではmissionary positionと言う)一本槍の相手をこそ選ぼう。くれぐれもこういった文章を書こうとする男性を選ぶべきではなく、職業も収入の安定した公務員とか、良家を狙うのなら大学学長とか会社の社長の御曹司とかを狙うべきである。尤も後者の様に上を狙うのなら、かなり自分でそういった相手と釣り合うと自分を自負していないなら、却って自分で自分を傷つけるだけに終わる可能性も高い、とは心得ておこう。分相応ということも決して間違いではないし、分相応で満足することこそ幸福への第一歩でもあるとも言えるのだから。

★大体に於いて英雄色を好むと言っていい仕事をする男性は性的にも欲求も強ければいい女を求めると言って過言ではない。この点をよく女性とは理解しておくべきである。何時迄経っても誰からも声をかけられないのなら、何処か自分にも反省点があると考えるべきなのである。たった一回の人生である。有効に異性との出会いを発見し、性的な意味での幸福を積極的に得る努力をしようではないか。

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反社会的エロス論/乱婚こそ自然であり、モラルこそ最大悪である、とも言い得るが、それは強制すべきではないし、一体何が正常で何が変質的で変態と言い得るのだろうか?Part3

 現代社会はある意味では統合失調させる感性にかかりきりになりやすく社会自体が機能している。それは職務的にもかつての社会(戦後直ぐから高度経済成長期迄)ならあったところの単純なガンバリズムとか数値目標といったことでは推し量れない困難さがあることとも関係がある。

 それはあらゆる多層的価値が入り乱れ、何を選択したらよいかということに関して異様に迷う様にメディアもウェブサイトも機能しているからである。その実害は実は人間の恋愛感情とか性的な欲求へも齎されている。あらゆる異性との出会いは出会い系サイトなどからデリヘルなど迄を通して性的快楽と孤独解消法それ自体がサーヴィス業的な第三次産業で保証されていて、選択肢が多くなり過ぎているから、健康な身体の持ち主に余分な多くの欲望を与える結果となっている。だから大体男性とは異性に対して欲求の捌け口としては身体の良さを求めるのは健康な男性としては当然のことである。身長とか肉体的美、バランス、肉付きの健康的な具合と、性的な欲求掻き立てるいい具合のバディをこそ求める。そしてその選択肢も異様に多くなり過ぎているのだ。こんな異性もあんな異性も居るぞ、と思ってしまうからだ。

 だから次の言葉はセックスの相手を求める男一般の真理である。

★セックスの相手を選ぶ時男は身体で異性を選ぶ。

 しかし結婚となると、相手は肉体的な相手だけでなくもっと精神的な触れ合いの相手でもあるから、当然話しが合うということが重要な異性選択理由となる。しかしそれだってよく語り合うのであれば、それはいい顔であるに越したことはない。どうしようもなく醜い顔の相手は避けたいということも当然の欲求である。だから男にとって話し相手でもある恋人一般から配偶者に至る迄選択基準は次のことは真理である。

★顔が美しく見ていて飽きないに越したことはない。いい女の基準は顔である。

 しかし美人は三日で飽きるとも言われているから、長期間見続けているのに飽きるタイプの美人というものと、そうではなく何時見ても飽きない顔というものはあって、それは個人的に好みが違うということなのだろう。

 にも関わらず相手に対して美人であると思う相手に対しては飽きっぽくなってしまうということだけが共通しているということが興味深い。

 何故なら私にとって三日で見飽きる顔の美女と思える相手は、私のある友人にとっては何時迄も見飽きない顔である可能性はあるし、逆に私から見て何時迄も見飽きない顔の女性はその友人から見たら何と三日も見たら飽きてしまうタイプの美女と映っているのかも知れないからである。

 だがもっと問題なのは、話し相手としていい異性とは仕事仲間でも現代の様に付き合っていかなければいけない同僚とかとして必ず存在するから、昔の様に異性とは男性にとって結婚相手でありさえすればよかった時代では現代は既にないので、必然的に結婚相手とか恋人として相応しい異性と、そうではなくあくまで会社とか組織とか集団で共に仕事し合えるいい仲間としての異性とは違うタイプとなっていく。その運命的な社会事実が却って配偶者とか恋人を選ぶ際には障害となって立ちはだかる可能性があるのだ。

 要するに一人の異性に対して話す相手としていいタイプと、そうではなくあくまでセックスの相手としていいタイプが極端に分離していくのである。

 勿論結婚相手は話し相手ともセックス相手とも違うとそれは理屈では言える。しかし実際に相手を異性のパートナーとして選ぶ場合には先程の男の側からの真理として身体か顔かで選ぶわけだから、両方良ければ一番いいのだけれど、どちらかと言うと身体で選びたい相手と、顔で選びたい相手という風に分裂していくことの方が実際の相手選びでは多くなる筈だ。

 何故なら理想的な相手とは競争相手も多くなるからである(人それぞれ好みは千差万別であっても、いい女に対して複数の男性は白羽の矢を立てるということは大いにあり得ることだからである)。

 次回は男性にとってセックスの相手としての理想的異性の条件を兼ね備える為の女性への指南としての「不良学入門Part2」として数箇条を書こうと思う。

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2012年10月 6日 (土)

映画『アウトレイジビヨンド』が語りかけていること

 今日から北野武監督作品(監督にとって十六作目)である『アウトレイジビヨンド』が上映されているので、監督に対する敬意も込めて最寄の上映館で初回で観た(前作アウトレイジ一作目もそうであった)。

 今回の私自身の楽しみとは初回で生き残った出演者達がどうなっていくかであった。加藤(三浦友和)、石原(加瀬亮)、片岡(小日向文世)、木村(中野英雄)、そして前回で死んだ筈であった大友(ビートたけし)が実は生きていたという設定となっている。そしてこの全員が今回も余すところなく活躍し、それに新たに花菱会という関西のヤクザ組織の会長布施(神山繁)、その若頭西野(西田敏行)、幹部中田(塩見三省)、それ以外にも加藤が下克上で手に入れた山王会の古参幹部に富田(中尾彬)、白山(名高達夫)、五味(光石研)、それに彼等さえも顎で使おうとする石原とぴたっとくっ付いている幹部舟木(田中哲司)が物語り全体に重要な役どころで、加藤によって乗っ取られた山王会の前会長である関内(今回は写真のみの登場。北村総一郎)のボディガードだったという設定となっている。

 今回も封切間もないので一切のネタバラシをすまい。

 かつて北野映画とは『ソナチネ』にしても『HANA-BI』にしても『BROTHER』にしてもかなり脚本をルーズに作っておいて、台詞無しのアドリブ演出や長回しも多かったが、前回に引き続いてより用意周到な台詞の遣り取り(演出上での変更などの一切利かない)とか編集も計画性の高い仕方を採っていて、その点では映画全体のメッセージとか主題もより鮮明となっていて、曖昧なところを極力排除している。尤もかつてキタノブルーとも呼ばれた映像の美の冴えは健在である。

 又前回は一応ビートたけし演ずる大友が主役であったものの、どちらかと言えば大勢の出演者全員の役柄の魅力を全開させることも目的の一つであったことに比べれば、主役大友(ビートたけし)の行動と考えそれ自体が持つ比重がもっと前面に出ていて、要するに昔気質のヤクザの生き様に焦点が当てられる様になっている。

 それでも尚他の出演者の演技の素晴らしさもより前作よりもクローズアップさせられており、周囲から突き上げられる追われる立場となった加藤と石原を演ずる三浦と加瀬も素晴らしいが、花菱会会長布施役の神山、その若頭西野の西田、幹部中田の塩見なども素晴らしくどすの利いた演技を見せている。本物のヤクザより恐ろしさを出している。西田は以前より北野映画を鑑賞してきていたが、自分は使って貰えないと決め付けていたところもあったが、今回監督へ一もニもなく手を上げ、やっと本作にて念願が叶ったと言う。又今回は本来主役級役者でもある筈の高橋克典が一切台詞のない花菱会のヒットマン役で出演しているが、彼も北野映画出演をかねてから切望していて、台詞のない役しかもう残っていないけれどとのたけし監督からのオファーにも是非と飛び付き、クールな殺し屋を巧く演じ切って新境地を開拓している。

 パンフレットによると今でも映画祭に出品する際の結果待ちには慣れていないとのことであるが、最早二作で大きな賞を獲っているので、北野監督には敢えて大賞が必要であるとも私には思えない。もう監督によるフィルムノワールの完成度は極まっていると思えた。とりわけ大友が出所後にかつてお世話になってきているという設定で今回初めて登場した影の在日フィクサー張大成(チャン・テソン)(金田時男)が曰く有り気な雰囲気をよく出していて、映画全体の展開に重要な台詞を沢山語る。しかもその配下の李(白竜)は在日らしくパチンコ屋を普段はしており、このことが今回の映画の結末の一つに重要な役割を果たしている。それにしてもこの白竜という人のアンダーワールド役は凄みがある。怖い(白竜は北野映画出演は『その男凶暴につき』『みんな~やってるか!』『HANA-BI』に続き四作目である)

 それに対してかねてよりお世話になり解散の憂き目にあった木村の属した村瀬組の組員の息子達で木村が雇って使っている青年二人に桐谷健太と新井浩文が起用されているが、彼等は大友のボディガードをする様に命じられるが、ホテルでカレーを食べている隙にエレベーターに乗った大友が銃で撃たれる場面があるが、このエレベーターのシーンは北野映画のファンなら誰しも『ソナチネ』をまず思い出すだろう。南方英二、大杉漣、渡辺哲などとビートたけしが迫力ある銃撃戦を繰り広げるシーンはエレベーターを使ったアクション銃撃シーンとして世界に衝撃を与えたが、これらも含めて北野監督はある部分ではフランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』シリーズとかテレンス・ヤング監督の『バラキ』とか『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(セルジオ・レオーネ監督)とか『アンタッチャブル』(ブライアン・デ・パルマ監督)などからもインスパイアされてきたのだろうと思う。つまり深作監督とか黒澤監督からだけインスパイアされてきたのではない、と私は思う。エレベーターのシーンを北野監督はお気に入りの様で、本作と『ソナチネ』以外でも『Dolls』や『TAKESHIS’』などでも有効に活用している。

 だからもし北野監督、たけし監督によって次回以降大きな賞を獲る作品が登場するとしたら、今回迄の様なフィルムノワールではなく、監督本人も切望している純愛映画などではないだろうか?

 又北野武という人、そしてビートたけしという人は、今回は台詞なしだけで起用した高橋克典などの役者を次回は台詞を多く使った役で起用するとか、そういったことを考えている人ではないだろうか?そうである。映画の中で演ずる大友の持っている昔気質が彼の中にはある様に思われるのだ(私は前回の生き残り組の後始末をどう今回つけるか想像していたが、少なくとも殺し方に関しては想像したとおりであった。私も大分北野映画の美学の文法を掴んできた様である)。

 私は北野映画を全作品鑑賞してきた。その初期三作とそれ以降の作品四作以外は殆ど初日に鑑賞した。私の好きな北野映画は先述の仕事以外では『その男凶暴につき』『みんな~やってるか!』『BROTHER』『監督・ばんざい!』『アキレスと亀』などである。

 人間社会への透徹した眼差しを持つ北野映画では、悪それ自体も通り一遍ではなく人間存在の弱さとか集団とか組織の掟に縛られていく不条理から描かれる。その意味では真の意味での強者は北野映画では登場しない(当然のことながら正義もである。その意味では今回初登場である片岡の片腕として活躍する繁田<松重豊>の存在が映画全体で語りかける意味もかなり大きい)。そういった二律背反を描き切った北野監督による純愛映画とか、他のジャンルの今後の映画を今から楽しみでぞくぞくする想いである、という意味で私自身の北野ワールドの旅は未だ当分終わりそうにない。

 付記 本文では触れなかったが、音楽を担当した鈴木慶一の仕事が素晴らしい。抑制の効いたアンニュイでいてミニマルで情に流されない楽曲が巧く北野映画の持つ不条理感の通奏低音を際立たせている。(Nameless-value)

 本作品公式サイト http://wwws.warnerbros.co.jp/outrage2/

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2012年10月 5日 (金)

人間は自分と同じ欠点を持っている者同士で自然とお互いに引き付け(惹きつけ)合う

 私は部屋の整理も好きではないし、時たま思い立った様に片付けても暫く放っておく内に直ぐに部屋は乱雑になるし、PCでバックアップしてきたデータの整理も滅多にしない。要するに物臭であり、面倒臭いことは極力避けている怠け者であり、その怠け者にこそ向いていて得意なこととは何かということばかりずっと考えてきた男である。だから必然的に私と長期付き合える友人とか知人は男女を問わず物臭な人達ばかりである、ということが言えるのである。

 これは似た者同士とは引き付けあうということだ。要するに人とは長く付き合える者同士は何処か似た欠点がないと息が詰まるということが言えるのだ。

 物臭で面倒臭がり屋とは裏を返せば大らかであり、鷹揚であるとも言える。それに対し部屋とか情報を巧く整理して何事にも抜かりない人間とは、律儀であり几帳面であるという利点がある一方、融通が利かない(或いは神経質過ぎる)という面もある。勿論大らか且つ仕事が几帳面な者も居るし、逆に神経質なのに酷く怠け者というのも居るから、人間は千差万別であり、一律に性格的な分類を法則化することは出来ない。

 しかし少なくとも人間が付き合う相手を友人であれ恋人であれ何であれ(夫婦も入るし、個人的に仕事仲間を選択出来るのであれば同僚とかも。親子とか兄弟とかは選択することが出来ない)余り自分がコンプレックスを抱いている部分で優れ過ぎている相手とは似た者同士ではないから敬遠していってしまうということは言えるのではないか?

 しかし今言ったことでも少なくとも夫婦などでは正反対の性格とか正反対の欠点と利点とを持ち合わせている者同士が最高に巧くいっているということはあり得よう。しかよくしたものでと言うべきか、悲しいことにとか哀れなことにと言うべきか、それ程お互いに欠点を補い合う様な理想的な夫婦というものも滅多に居るものではなく、端から見ていて、余りにも似た者同士だからしょっちゅう喧嘩ばかりしているという夫婦の方が数の上では多いのでないだろうか?

 しかしにも関わらず離婚迄行かない人達も多いのは離婚するということが果てしなくエネルギーを消耗することであるとお互いに自覚しているからであり、実際に離婚している人達をも含めて考えると、最高に巧く行っている夫婦というものの方がずっと数は少ない筈である。

 だからこそ人間は長期付き合える相手とは、何処か自然とお互いに我慢し合えるということであり、それは言葉を変えて言えば、自分と似た欠点を持っているから、それを許し合えるということなのだろう。

 勿論相手が持つ欠点が全く自分と箇所が同じということはあり得ないが、何処か几帳面でありながらとろい部分を相手に発見し得るからこそ、自分より仮に秀でた部分がある相手に対しても安心して付き合えるのではないだろうか?

 自分がずぼらであるのに、相手が余りにもイエス・キリストの様な完璧な慈愛と聖人君子的な人であるなら、長期親しく付き合っていけるものではない。

 又自分の側から買い被って見ている相手だって、何処か自分の側からは発見し難い欠点というものはあるものである。

 まず自分の欠点を素直に人に示してしまう無防備なタイプの人間は別名では素直とも言える。それに対して強烈な欠点があるのに、それを人に容易には気づかせないという巧妙なる悪辣さを持っている人とは、素直であると何処かでは自認しているタイプの人間からは敬遠されていく運命にある、とは言えることである。

 尤もそのタイプを前者が自分である、と考えている人でさえ、その者を他人として扱う誰かからは、その者こそが後者のタイプである、と見做すこともあり得るし、この自分への自認は間違っているとは決して言えないが、後者のその者の自認に対して、そんなことは認められない、その者こそ悪辣だと思う考えも決して間違いとは言えない。

 それは自分が自分に対してと他人が他人に対してでは違うということからも言えるし、逆に例えば私を前者の者であると考える他者も居れば、そうではない逆の見方をする他者も居るであろう、という意味でもそうである。

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2012年10月 4日 (木)

人は一人で生きているわけではないし、一人で仕事をしていくことは出来ない/アートだって映画だって哲学だって全部他者との関係でなされる、という意味では同じなのだ① 今回は取り敢えずアートと映画、演劇などに就いて

 先月迄に私は半世紀と少しの人生の中でも極めて印象的な幾つかの展覧会を鑑賞し、素晴らしい何本もの映画を鑑賞していた。今年出掛けた二度の旅行も最初のものはevo-devoの専門家達による青年世代を中心にしたものだった(それは愛知県岡崎市で行われたので序でに熱田神宮や犬山城などを訪れた)し、分析哲学・現象学の午前から午後にかけての博士論文公開審査のワークショップも素晴らしかったし、生物学進化論系の学会で私自身も発表(語彙使用を巡る研究)したことや、その学会大会で多くの科学者達と知り合えたことでも、その後に京都の立命館大学の二条のキャンパスで行われた論理学のシンポジウムも素晴らしかった。その前日に高速バスに乗る前に夕方から鑑賞した具体美術の回顧展が一際素晴らしかったし、その後で鑑賞した『Im flash』(豊田利晃監督)という映画が素晴らしく、そのことを書いた本ブログ記事が大受けしたことも記憶に新しい。

 要するに自分自身の仕事上での展開でも、対外的な鑑賞や参加に関しても充実した数ヶ月であったと言える。

 その際に気づいたことは、とりもなおさず仕事でも何かと出会うことでも一人で閉じ篭っていても仕方ない、ということであり、いい仕事はたとえ孤独の内になされていることであっても(特に一人で作る様なこと、研究とかでもそうだ。尤も映画監督は大勢の人達を使って仕事するが、公開する時迄最高責任者として最も孤独であるだろう。音楽やアフレコ、編集迄全てのプロセスに関わるのはスタッフでもキャストでもないのだから)結局、全ては社会全体とか人との出会いによって様々なことを啓発され仕事自体のモティヴェーションを構築することでも、如何に反社会的なスタンスで仕事をしている文学者や研究者や哲学者なんかでさえ、最終的には社会全体や他者全般から啓発され、創造動機を構築してきているのだ。

 このことは社会全体が何らかの形で何時であっても時代というものを暗黙の内に皆で創造してきている、ということからも明白である。私自身は哲学書も科学書も青年期からずっと読んできたが、実際にリアルにその道のプロ達と接する様になったのはここ数年のことである。大学時代には絵画制作と自主制作映画の制作と上映とに熱中していたし、結局、奈良美智ほど第一線世界的レヴェルでのクリエイターにもなれなかったし、と言って正式の哲学者とか言語学者と名乗ることの出来るアカデミックな仕事もなし得なかった。にも関わらず意識の上ではかなり若い頃から哲学的思考というものをアート創造的思考と同じ様に欠かすことはなかったし、アート批評自体にも意識の何処かではずっと関わってきていた。それは哲学や美学や言語学とそれらの間の垣根の極めて低いことをも示している。

 私とほぼ同世代で私も出品参加したぴあフィルムフェスティバル出身でプロとなった成島出や園子温といった人達が第一線の映画作家となってきたことからすれば、映画もプロにはなれなかったが、ずっと鑑賞してきたし、若い頃から寺山修司、鈴木清順、黒木和雄、大島渚、篠田正浩、若松孝二といった存在、今は亡くなってしまった藤田敏八、神代辰巳といった人達の仕事を他人事の様には今でも思えない。

 それはアートの世界で様々な出会いを実制作者としても鑑賞者としても関わってきたことと同じ様に真剣に接してきたということが言える。時代的には佐藤信による黒テントや野沢那智による劇団薔薇座などの舞台も鑑賞してきた。要するに日本の戦後の歴史に於いて文化芸能の世界ではアートであれ文学や演劇や映画であれ、哲学や批評や思想であれ何らかの形で時代全体の息吹を吸収してきたと言える。

 先月豊田監督の映画を鑑賞したテアトル新宿はまさにかつて唐十郎が『腰巻お仙』を上演した花園神社の目の前にある。その花園神社はかつて今でこそ文化人となっている大勢の人達が若くて食えない時代に青春を過ごしたゴールデン街と隣接している。その時代の空気を確かに新宿、池袋、渋谷で若松監督だって根岸監督だって、昨年亡くなった原田芳雄だって、先日亡くなった馬渕晴子だって、当時ジャズ喫茶で働いていたビートたけしだった吸ってある意味では悶々と先行きに不安を抱え、ある意味では夢と希望を胸に過ごしていた筈だったのだ。当時の東京には都電も走っていたし、トロリーバスも走っていた。その時代の東京を私は今でも映像的に想起することが出来る。

 日本はやがて万博を迎え、万博では岡本太郎(彼は戦後のアート界で影響を受けていないアーティストは居ないというくらいのカリスマだった)の太陽の塔と丹下健三の建築と武満徹等の音楽と具体のパフォーマンスなどによって活気づいていた。そして戦後日本社会を震撼させた三島が自決し、新宿では霞ヶ関ビルや京王プラザホテルとビルが完成し、高度成長が真っ盛りであり、次第に80年代へ向けてバブルへと直走っていくのである。ポストモダン系思想が持て囃されるのもこの時代からである。

 そしてどんなに中島義道の様に集団の協調性から炙れていき、反社会性をスタンスとしていたって、彼自身が食い扶持として拠って立つ出版界だって結局そういった時代全体の空気と無縁で成立してきたわけではないということだ。中島より少し前に池田晶子が出版界では世に出て、相前後して宮台真司が世に出て、大塚英志やら大澤真幸とか上野千鶴子といった批評家や社会学者が世に出て来た。大分後から茂木健一郎や東浩紀が世に出た。そして彼等の後から宇野常寛やら古市憲寿などが続々と世に出てきたわけである。

 つまり芸術運動であった具体美術のムーヴメントが吉原治良や田中敦子等によって牽引された時代、つまり五十年代初期以降の日本の文化史とは前衛生け花である草月流やら、同じアートであるならフルクサス(ドイツで勃興し、後にニューヨークなどで展開し、世界的ムーヴメントとなっていたアート運動。日本人では初期から草間弥生、小野洋子(ヨーコ・オノ)、靉嘔、オノの夫でもあった作曲家の一柳翠、松沢宥等大勢が関わっていて、後にハイレッドセンター<高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の頭の苗字を英語読みにして前衛的アート集団であり、パフォーマンスなどを日本で展開させた>も連携して活動していった)、デモクラート美術協会(瑛九を中心に、靉嘔、池田満寿夫、真鍋博、泉茂、磯部行久といったアーティストによって久保貞次郎などのコレクター兼批評家の協力の下展開していった。数年で解散する)が具体のムーヴメントと同時期に展開し(主に具体は大阪でデモクラートは東京で展開した)、ネオダダオルガナイザーズ(荒川修作、工藤哲巳、小野洋子、赤瀬川原平、高松次郎などの作家達が詩人で批評家であった滝口修造やその精神的配下でもあった武満徹とかの作曲家や詩人達の下に集合し、滝口を精神的支柱としながら展開したアート運動の母体であった)といった読売アンデパンダン展を中心に出品していた作家郡が主な担い手であった。

 私自身はその後発組であるモノ派とアートジャーナリズムで定義されたムーヴメントの初期くらいから美術展とかギャラリーへ足繁く通うこととなっていったのだった。

 京橋や銀座ではそういったアーティスト達が展覧会をすれば、そのオープニングには売れない文学者の卵や劇団員の人達がかけつけ、ジャズやシャンソンを歌っていた歌手達も集った。そういった仲間達の中に三島由紀夫に啓発されて三島にも大いに可愛がられた横尾忠則や美輪明宏(当時は丸山明宏と称していた)なども居たわけである(ここら辺の経緯は詩人の高橋睦夫氏などが詳しい)。

 一方では演劇では寺山修司が天井桟敷を、唐十郎が人形作家であった四谷シモン等と状況劇場(この劇団から不破万作、十軒寺梅貫、小林薫、根津甚八らが巣立っていった)を旗揚げ、その波に佐藤信の黒テントとか大田省吾の転形劇場(この劇団から大杉漣などが輩出していった)、鈴木忠志の早稲田小劇場などが伸していき、その演劇史の延長線上に例えば野田秀樹の夢の遊民社であるとか松尾スズキの劇団大人計画などが勃興していったわけである。

 つまり私は何が言いたいかというと、例えばビートたけしが漫才で浅草の舞台で世に出たことだって、街頭演劇を俳優座から飛び出て行っていた原田芳雄が映画の世界で世に出た(彼の初期映画などは銀座並木座<八十年代に閉館した>などで私の学生時代によく上映された。この銀座京橋界隈では多くの現代アートのギャラリーもあって、演劇人や映画人も当時から訪れた。そして映画館やギャラリーや劇場を梯子することこそがジャンルを越えた表現者達の同時代意識であった)ことだって、全てそういった同時代の時代的空気、それは一方では田原総一郎が映画を監督したりして上映したATGのムーヴメントとかインディーズ系のクリエイターとか演出家とか批評家の共同作業があったのであり、東由多加であれジュリアス・シーザーであれ、東陽一であれ、日本画家から舞台美術を担当することとなって日本を代表するアートディレクターとなっていった朝倉摂などであれ、そういった同時代的な意識の中から世の中へと進出していったのであり、無縁ではなかったし、その他者との無縁性では成立し得ない仕事であるという意味では小説家や批評家であれ哲学者や社会学者であれ、取材をしてもしなくても他者との関わりの中からしか仕事を成立させ得ないということなのである。

 つまりそのことを哲学者のダニエル・デネットは名著『ダーウィンの危険な思想』で、論理学者達のことを論って、数学的命題であれ論理学の思考実験であれ、全てピアレヴューからしかその理論の正当性を証明することは出来ないと語っていることの根拠なのである。とりわけ哲学や論理学で、ある論理の正当性とか信頼性を語る時、同一のプロ仲間の間で暗黙の内に称揚されるものだけが同時代で価値あるものとして後世迄語り継いでいく価値あるものと見做されるということである。

 だからアートの世界では未だ世界中で全く正当に評価されていなかった頃の草間弥生の仕事は、今見てもぐっと胸に迫ってくるものがある。彼女が愛したニューヨークさえ一度は離別せざるを得なかったパフォーマンスの乱痴気騒ぎさえ、今から振り返るとそれなりに真摯なものであったと思われる。その空気の中でカウンターカルチャーなど(ロックやフォークを中心としたムーヴメントであり、映画や演劇などの前衛運動とも連携していたし、その時代的なウェイヴの波及の中で日本の暗黙舞踏なども演劇映画やアートとの無境界性に於いて活動した。モダンダンスの大野一男やパントマイムなどの勅使河原三郎、土方巽<アスベスト館の主催者で、暗黒舞踏の創始者>、麿赤児の大駱駝館などが登場し、鈴木清順らが彼等を挙って前衛映画などに出演させた)も息吹いていたと言えるのだ。

 その意味ではそろそろ上映される園監督の『希望の国』も楽しみであるが、昨年大震災で物心両面で一度は打ちのめされた日本人にとって、この戦後の数十年に渡る文化芸能的なムーヴメントを今もう一度顧みて、我々が生きていて生なリアルに接する中で如何なる表現を獲得して、メッセージとして提示していくかということを、時代的スパンを超えて考えていくことに意味がある様に私には思えるのである。

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2012年10月 3日 (水)

十月一日の東京駅情景①

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気分は回文Part1

 今回は息抜きに回文を楽しもう。

 まず次の回文はどうだろう?

☆岩子が岡留美を見る顔が怖い

 尤も岩子という名前に違和感があるなら

☆妙子が岡留美を見る顔が肥えた

でもいいけれど、どうもこれは綺麗過ぎて内容が面白くない。前の方が意味は凄みがある。

 では次の様なのはどうだろう?

☆渡れ、諏訪、と言うの、のう、糸、忘れたわ

 ちょっと切れ切れなのが心地よくない。

 要するに回文は短いものから作っていく手があるが、妻が待つ、土間の窓、しけた武、マカオのオカマ等々誰でも思いつくものがある。それを巧く繋げればいい訳だ。でもなかなかそれは難事業なのである。

 又その内思いついたら書こう。

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