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2013年6月

2013年6月30日 (日)

リスタート形容詞論 中間総括④分析から得たシリーズ展開可能性

 前回迄の要旨は、倫理的羞恥を伴う形容詞をそうでない形容詞と異なる品詞にしたら、我々は全くその品詞を公的には使用しなくなるか、裏ではそればかりを使用する様になるかとなり、そうなると或いは秘密を持つという事自体が無くなり、又その事で何の報告でも羞恥を感じる事自体が無くなるとは可能性としてはあり得る事となるのではないだろうか?

 そして三回に渡って考えてきた事は、次の三点へと問題は収斂され得るのではないだろうか?

一、 羞恥とはそれ自体、秘密(にしたいという事)と関係がある。

二、 羞恥とはそれ自体、我々に嘘をつかせる契機、根拠になり得る。

三、 見栄や虚栄心とは羞恥感情が生んでいる。要するに何か自ら本当は劣っていたり欠けていたりすると知っている事に対して羞恥を催しているからこそ、強がり、実際より良く見せようとする心意気こそが見栄であり虚栄心である。虚勢を張るという事自体が実は自信の無さを示していて、その虚勢が「恥ずかしい」「後ろめたい」「後暗い」「疚しい」という片鱗もない事をアピールする(多少は本当はそういう事があると知っていても、それを誤魔化そうとする)事へと直結していると言える。

 ところで動物には秘密があるのだろうか?偽る事は鳥でも確認されていて、それはあり得るけれど、もし言語哲学者なら動物は言語を持っていないので、秘密も厳密にはないし、(彼等の虚偽サイン=啼き声)とは秘密ではないと捉えるかも知れない。しかし私はそう思わない。やはりそれは彼等なりの秘密であり得るだろう。

 しかし人間はそこに固有の羞恥が伴うという処に良心とか理性という事があるが故の事実として読み取れるのではないだろうか?

 次回より再び「動詞の在り方を考える」シリーズと併用させて展開させていく。

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世界の真実Part19 男と女

★男にとって女に纏わる問題の全てを解決出来れば人生のほぼ半分の問題を片付けたのと同じである。残りの半分とは人間とは死ぬので何故生きているかを自ら問い見極めていこうとする事である。

★女にはそもそも人生の問題は男が持つ様にあるのではない。女にとって男とは生活であり、生まれてきた性的な同一性を保証するものである。

★☆上記の男女記述はあくまでストレートである一般的な真理である。世界に存在するジェンダー問題の全ては一般的なストレート以外の今の処マイノリティのLGBTの為のものである。それは積極的に世界には必要な問いであるが、そもそも全ての男女に存在する潜在的な要素の問題でもある。それをマイノリティ人権保護的見地にだけ押し込める事は狭量とは言える。性の問題はもっと人類学的にも本質的問題である。恐らくそれは言語とか言葉の使用の全てへも関わっている。

 その意味ではフロイトが科学ではないという形で学界で白眼視されてきた経緯もあるが、それを再考する余地は充分あると言える。

☆又上記の事実は、人間の宗教感情的なレヴェルの問いとも深く関係している。ここで言う宗教とは宗派や宗教教団的な事では勿論ない(宗派その他の集団行動の問題も又人類学、社会学的な問題ではあるが、それよりもっとユニヴァーサルな人間本体の問題である)。

☆上記の宗教感情論と言語論と性の問題がクロスする部分こそ今後の人類にとって最も重要な何かを示唆するものと思われる。

 ★は日常的リアル、☆は形而上的学術的リアル。

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6月26日・29日・30日のFB(「いいね!」★)

★古田新太は俺より六歳若いって事は新人類世代(本木雅弘とかと同じ)って事だけど、貫禄ある。北野武の暴力映画で今迄呼ばれなかったのが不思議なくらいだ。

今彼が宮沢りえと共に取り組んでいる蜷川演出の『盲導犬』は僕が17歳の時初個展をした頃初めて読んだ唐十郎の本で戯曲だった。懐かしい。りえを日本最後のアングラ女優と評す辺りに世代感覚が滲み出ていた。宮本信子、吉田日出子、白石加代子とかの系譜にりえが、そして吉高由里子辺りも来るだろう。皆頑張って欲しいぜ。(26日)

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★★社会は君は~が向いているよと何時も言う。そして結局個人の充実感より社会全体の利益を優先する。がその社会のお仕着せに従順で真面目で凄く人へ気を遣う人は大半が早く死ぬ。率直に言って人からの思い遣りを一切期待せず、必要以上に人へ気を遣い過ぎぬ適度のエゴイズムだけが健康と長寿の秘訣だと言ってさえよい。

と言って誰もがそう巧くやっていけるわけではない。真面目にしか生きられぬ人も多い。適度に他へも自分へもいい加減にして生きていくこつを掴むのにもある程度時間を要す。

★現象学者、ポストモダン系の哲学者や思想家の著述の最大の欠点とは、文章とか物事の主張が異様にまわりくどい事だ。そういう中で凄く読者の興味を惹き売れる本とは本当に奇跡的な事である。大半の本は読みやすく捨てやすく書かれているけれど、それに謀反を起こそうとする本も大半は読まれずに終わる。

★世の中には物事を常に深く考え込まずには居られぬ人と、そうでなく絶対的に物事を深く考えられない人とが居る。そして後者がしばしば前者を諭す形で運営されているのが日本であり、その事実が真理探究とか真の社会進化や人間的深さを日本人に植え付けぬ結果となっている事は否めない。

★★宮崎アニメのプロデューサーが『風立ちぬ』を必死に宣伝していたけど、僕も一応宮崎アニメの代表作を観ているんだけど、僕はどうも宮崎さんみたいな無垢な感性の映画ってそういう汚れなき感性の押し売りみたいに感じて率先して観たいと迄は思えないんだ、ずっと。それよりは粋なAV、とかハードボイルドとか擦れた感性のものを鑑賞したいって気分の方が昔からずっと強いんだ。

そういった意味ではずっと昔から発禁本となる様な文章を書きたいって気持ちの方がずっと強い。だからあらゆる賞とは無縁の人間なんで、そういう人達だって大勢居るわけだから、そういう感性だってとやかく言われる筋合いなんてないと思うんだ。

要するに猥雑で猥褻な感性しか受け入れられないタイプの人も居て、そういう人達を白眼視する面白みのない人達が実に大勢居るっていう事さ。

★一度哲学的人間であるリアルを得てしまうと、もう二度と哲学的人間を蔑む能天気な楽観主義者(非哲学的人間)を羨ましいと思えず、彼らがリアルだと考える事も無価値に思え、彼らと共有し得る価値を一切見いだせずに生きていく事になる。要するに全希望を全絶望に置換するのではないが、一種のまやかし的な意識と社会が結託したプロパガンダだと思えてしまう事の内心の幸福にほくそ笑む習慣が身についてしまうのである。

★★あらゆる音楽・芸能とは希望という名の自己欺瞞と社会とが結託したプロパガンダの称揚である

★本当の意味で凄い理論、論理、学説等は全て心の中に、脳の中にだけ聞こえる音楽、目では見えない絵画空間が心と脳に浮かばせる何かである。

●努力して何か成功すると我々は満足する。満足は虚しさを次第に伴う様になる。虚しさは不満を生み、成功を負担に思う。それでも尚不満から新たな何かを生もうとするなら過去の栄光を捨て去る必要がある。その繰り返しが耐えられないのなら、一度もきちんと成功せず、常に半分だけ何をしても得て、半分は不満を残した侭次の事をする方がいいとも言える。とは言え常に消化不良の侭突き進むと、それはそれで虚しさも伴う。

故に人間は成功しても半ば成功し半ば失敗しても完全に失敗しても、いずれに於いても後悔を得ぬ生き方など出来ない。

●マルセルの言う様に人生が賭けであるなら、我々は賭けに勝っても勝者固有の孤独を得、負けて敗者になってもどん底の苦しみから何時か逃れたいと願い、しかし終ぞ勝利は訪れない事も多いし、結局勝利も敗北も、成功も失敗も勝負する前には絶対戻れないという固有の空しさから、人生とは行為の連続とその末の後悔だけがリアルで、それ以外は全てまやかしという事になる。

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●ある人との出会いが凄く大きいという事は、その出会われた相手にとってもそうであるとは限らない。その意味では全ての出会いの中で出会った者同士が同じ比重で大きな出会いであったという事の方がずっと少ない(と言ってそういう出会いの方が片思い的出会いより幸福だとか重要だとかとは言えない)。

例えばある女が出会った男から一切相手にされず袖にされても尚生涯愛し続けたとしても、或いはある男が出会った女に対して同じ様な感情を抱き続けたとしても、その事で相手の生涯を拘束さえしなければ、一般社会モラル的には許され得る自由の領域だろう。

だが時としてエゴイズムで自分にとって相手が大きな存在であるので、相手にとっても自分が大きな存在であって欲しいと願い相手の生涯へ闖入する試みもこの世ではしばしば見受けられる。尤もそういう展開をしているのに、思っている相手も思われている相手もそういう柵の渦中に居る事にとんと気づいていない場合もかなりある。

出会いは、人自身である場合もあるけれど、人のした仕事、作品、行為の場合もある。そしてそれはビジネスや文藝や学問だけでなく異性との恋愛でもある事である。しかしその場合でも自分がそういう出会い方を相手にしていると気づかない侭である事も多いのだ。と言って全てに気づいている事だけが幸福であるとも言い切れない。気づいている不幸も気づいている幸福と同じくらいある。気づかぬ侭で居る事がある時気づいてしまったが故に脆くも崩れる幸福があったとして、それはかつては幸福だったと結果的にでも言い得るだろうか?そうなってしまえば最初から幸福だと思っていた事の方が只の錯覚だったという事になる(そうしてしまう)のが我々ではないだろうか?

そしてそれは大人として生きていくとか、何かを意志して、これ迄とは違う生き方を選ぶという時には必ず擡げてくる感情ではないだろうか?

NHKSONGSに高橋麻梨子の特集として彼女が出て、彼女のゲストとして都倉俊一と尾崎亜美が出た。『ジョニーの伝言』他の名曲の秘話を対談し、ステージで歌った。

70年代を知る者にとっては確かにこれらの名曲は胸にぐっと来るものがある。しかしそういう者達でさえ今はそういう時代ではないと知っている。早く成功し早く充実した満足感を得た人達とは即ち早く去っていく人達でもある。

鷲田清一は『「待つ」ということ』で昔のCMは三分以上のものも多かったが、現在では四十秒くらいのものだけが主流だと述べている。そして今のCMにも当然傑作はある。そして今のCMのメッセージをぱっと理解する者にとって阿久悠と都倉俊一の楽曲をぱっと理解する事は難しいだろう(その逆もである)。

本田圭佑が出演しているスマホのCMでは圭佑を起こすスマホを渡辺謙が演じる。まず謙が出て圭佑を起こし、起こされた圭佑がスマホをプッシュする(謙はそのシーンでは出ない)。圭佑と謙が二人で歩くシーンが後続し、そこでは圭佑がスマホを持たぬ。何故なら謙自身がスマホだからだ。しかし柱を超えると圭佑はスマホを持っているので謙は場面から消える。そして再びスマホを持たぬ圭佑が謙を後ろへ従えて歩くシーンへ切り替わる。最後に謙がはしゃいで腕を振る。要するにこのCMでは僅か四十秒の間に渡辺謙くらい魅力的で頼もしいスマホだと言いたいのだ。僅か四つのシーンの編集だけでそれを表現している。

この現代CMの瞬時に分からせるセンスは70年代歌謡曲やポップスを理解するセンシビリティとは明らかに違う。特に『ジョニーの伝言』にある女の待つ、は今はない。

小泉元総理が高い支持率を得たのは「この小泉が自民党をぶっ壊す」という短いフレーズだった。後続首相の安倍氏は「美しい国、日本」が受けず頓挫した。今回はアベノミクスという語彙が幸い一人歩きしている。その点ではかつての二の舞だけは踏むまいとしている事だけは確かである。

●宇野常寛のテレビでの発言を観察していると、彼は率先して教養主義が日本では大衆には絶対に受けない事を知っていて、そちらの方に合わせ、決してインテリや学者の方に合わさずにいて、その好感度で本を売ろうとしているという事がよく理解出来る。

その点では彼は実に巧みな商業戦略的評論家である。それが何時迄続くかを決めるのは大衆と彼が決め込んでいる層の人達でもあるし、そうでない人達でもある。

●クリエイティヴであろうとする者にとってたとえ成功しても高級レストランとか料亭で著名人同士で会食する習慣となったら御終いであると同時に、インテリルンペンが成功者を呪って自分達だけが崇高であると幻想して似非文化人の溜まり場の居酒屋の常連となっても又御終いであると言ってよい(因みに私はそういった類の場所へは滅多に行かないし、外食自体を極力控えている)。

●今日の試合を見る限り、ドイツとなでしこジャパンとでは大分実力の差があると言ってよい。4:2とは完敗である。

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2013年6月29日 (土)

リスタート形容詞論 中間総括③

 最も形容詞使用で重要な事は、報告事実として、その報告する事の誠実性としてある報告は適切で、ある報告は不適切だとされる事の両方が共に形容詞として存在する事である。

 富士山を直に仰ぎ見て、それを箱根側からも富士市側からも長野県側からも凄く雄大だと思いました。直に箱根越しに見ればそのスケールの違いを感じました。箱根はのんびり湯に浸かって少し遠くの富士山を仰ぎ見るのに適している保養地だと思います。

 上記の様な文章それ自体が報告として不適切だと誰しも思わないだろう。そもそも報告とは文学的過ぎない事の条件の一つだからだ。

 一方、次の様なものはどうだろうか?

 富士山に登山する時に何時も栄養補給する為に登山の前に買っておいた食料を休憩中に食べる時、その際に出たアルミホイールでも何でも登山の邪魔になるので登山している時に目立たない処を狙って捨てます。そしてその度に世界文化遺産となったこの富士山を汚す事に贖罪心理を感じています。率直に言って何時もそうしながら私は後ろめたく感じ、恥ずかしい思いをしているのです。

 明らかに不適切で、そんな事を報告しない様にゴミを出さぬ様に登山者は心がけるべきであり、そういった行動としてのモラル的、道徳的行いの不履行を巡る告白というものそのものをしない様に日頃から心がけるべきであると誰しも思おう。

 要するに報告とはそうする段で既にきちんと日々するべき事と、してはならない事をしないで居る者だけがしていいとされるモラルが社会自体に存在する、と言っていい。

 と言う事は形容詞で富士山が高くて雄大であるという修飾形容をする事をアンモラルではないとしても、富士登山の際にゴミを平気で棄てる事に纏わるその悪行の告白それ自体の誠実な修飾形容はアンモラルだとしている、という我々の社会的規約がある、という事だ。

 にも関わらず何故そのアンモラルではない内容の形容詞とアンモラルな内容の形容詞を両方とも同じ品詞として取り扱っているかと言うと、それは単に文章(センテンス)それ自体の伝え方と伝わり方自体が円滑に行く事だけを主眼にして文法規則というものが考えられているからである。

 要するに文章とは公的な場で報告する為のものだけを扱っているのではない、という事である。だから逆にある事を公的に報告する事がアンモラルで、その報告に羞恥の伴う事でも本とかで読む限りは、それ程読んでいる読者がそう感じる事はない、という事が存在する、という事である。

 その意味では公的場とか公的に報告してよいとされる事というのは、文章化される範囲のものの中のほんの一部であるという風に言い換えられる事となろう。

 この読むだけの為の文章と、公的場で公表する事、報告する事の為の文章とでの、受け手の抱く印象の大きな壁とは一体何なのだろうか?明らかにそこには大きなずれと大きな壁がある様に思われる。勿論告白として富士登山者がそういうアンモラルな事をしてきたと書く事だって、それ自体批判を浴びる事は大いにあり得る。結局告白とはその告白が告発されない限りで何を言っても許されるという事が書く事でもあり得るという事だろう。

 そう考えれば告白する事で著しく社会的評定を損ねる内容でも示せるという部分に言葉というものの持つ冷厳な機能と力がある、という事なのだろう。

 そしてそれは行為事実として人間は時として思わず悪を為すのだ、という事を、あらゆる形容詞が存在し、必ずしもある形容詞で形容する事でその報告とか叙述自体が歓迎ではないケースも全て含めて言語とは成立しているのだ、という事が意味し、その事への哲学的認識こそが報告の適切性の有無に関わらず形容詞であるなら何を使用しても意味は伝達し得るという事を示しているとも思われる。

 そしてそうであればこそ、我々はある形容詞を報告でする事は告白的意味合いであるなら、悪しき習慣であればある程大きな意味を持つという事からも、誠実という観念は凡ゆる誰しもが隠したい悪をも告白するという敢えて為す行為に存すると言う事も出来る。そしてそれは告白というものが常に誠実であれさえすれば、告白される側としては良い事態であるとは限らず、それどころか却ってそんな事など告白されずに居た方がずっと良かったという事もあり得る、という事を意味しているものと思われる。

 そしてそれは凡ゆる学問でも技術でも思想でも想念でも、少なくとも言葉を紡ぐ脳内での凡ゆる思考でも言える事である、とも言えるので、形容詞を利用して報告する事態での適切性の有無での一切を含む意味上の無差別性という文法、統語、センテンス意味論的な公平性とか客観性とかは須らく無感情的なものでしかなく、又それでよく、そこに変な区別や差別をする事は言語運営上では甚だ言語利用者としては不利益を蒙るという事も言える事ではないだろうか?(つづく)

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自分にとっての向き不向きを一般的真理で決め付ける事は出来ない、でも

 日本人は大きな社会動乱を好まない性格の民族だという事は、中東や多くのアジア諸国での政情不安とか動乱とかを観ていると、切にそう思う。要するに日本人とは心の平安を常に保ち、激す事を嫌う民族性だという事である。

 その事と昨今の青年世代の人達の何処か絵空事的な世間知らずとか、そういった無知に漬け込むブラック企業とかの横行は大いに関係があるものと思われる。70年代以降、それ以前迄日本の持っていたある種の社会通念とか理念を定式固定化させるのを拒む論議とかエリート主義への批判はあれから四十年影を潜め、寧ろ積極的な知識詰め込み主義、主知主義が横行し(テレビの東大出身者とか予備校教師を挙って出演させるクイズ番組は大流行りである事でもそれは分かる)、近代社会迄存在したかの様に幻想している天才神話とかがもう現代社会は天才等求められていないと考える思考回路と、個性主義神話それ自体への幻滅とそのかつては命脈を保っていた可能性自体への懐疑が一般的に社会全体へと蔓延していて(しかしそれを悪い事だとは言えない)、夢を語る事の不毛に既に現代人は覚醒していて、滅多な安易な幻想には振り回されまいぞ、と思っていると同時に、素直に他者から受ける好意を受け取るべき場面でもついその申し出を躊躇してしまう悪しき不信感も募っている。

 だから何をしてもそれが社会や特定の自分自身にとって切実な他者から向いていると思われてない事をしていたって仕方ないとそう決め込み、早々とあらゆる或いは時間をかけてしていけば結実し得たかも知れない可能性を諦める処から人生を大半の人達がスタートさせている。とは言え人生の時間は限られているので、何時迄も自己の可能性ばかりを追い求めている訳にもいかない。しかし最終的にはどんなに親密な他者が言う様に向いていると思われる事をするにせよ、逆に自分自身だけが向いていると思える事をするにせよ、他者から自分自身にとって向いているとされる事でも、自分自身にとって向いていると思える事でも、それをして何かが結実する事とは常にずれているというのが普通だし、他者全般から向いていると思われる事がそれをしていて自分でも本当に向いていると言えるかを決める事も最終的には自分自身以外ではないし、又向いていない事にチャレンジする気分が一番自分に向いているというタイプの人もかなり大勢この世の中には存在するという事もあるのだ。

 養老孟司は、仕事とは全て社会が求める事に応じて、その中で社会が要請する向き不向きで決定されていくものだ、とそう言い切っている。それはそれで尤もな事なのだけれど、そう言える程可能性が限られていない様なあらゆる選択肢を提供する様に社会や世界全体が動いているという風に、養老氏の様な世代の人達(渡辺淳一氏や石原慎太郎氏等もそうだし、山田洋次氏等もそうだが)には既に考えられぬくらいに自由に社会を再建しようという論議をする事を阻むストイシズムが社会、国家、ネット社会に迄徹底化されている(それと逆にその我慢料として選択肢を多く社会全体が設定している)とも言える。

 それが、だから現代社会のテロリズムを阻む為の人類の方策と決心というアナーキズムへの心理的な極端の嫌悪(それを特権的に提唱し得るのは文化人、著述家、アーティストくらいであるが、その彼等の主張も虚しく響くとも言える)と同調した日本人固有の革命的な社会変革とか民族史的リヴィジョンを阻止しようとする民族性、国民性に拠るものなのか、もっとグローバルな世界的共時性なのかを言い当てる事は私には出来ない。

 でも向いているとか向いていないという事は最終的には自分自身の決心、未来へと向けられた展望に拠ってその都度修正されたり固定化されたりするだけだ、とは言い得る様に思われる。

 でも我々は自分自身とか自己自身と言う時、必ず他者一般、他者全般、自分自身にとって信用出来る他者の見解等と全く絶縁状態のものではないものとして捉え、それを孤立した事として捉える事も出来ない。だからあらゆる自分自身の周囲や社会全体からの自分への評価とか認識を一定程度容認しつつも、それでも尚それらを過大に念頭に入れるか、全く無視していこうと決意するかは最終的には自分自身で決定するしかない、という事は責任論的にも個人の価値観念からも言える事なので、危険を察知したなら一々深く考える事なく巧く逃げる事を決断すべきである様な意味で巧く他者、社会全体の通念から耳を塞ぐべきか、多少はそういう事も考慮に入れるべきかという事をその都度自分自身だけの判断でしていくしか(何にトライするにせよ)ないとだけ言い得る事である。

 要するに人生を~であると結論づける事自体が、人生を死んだ後自分自身の生きた軌跡を振り返る事が出来ない以上、死ぬ迄不可能だと悟った時点から、何をするにしても、その成果とか結論とは不確実であると、まず認識してからトライするしかない、とは言い得る事であろう。

 そしてそれでも尚全く後で後悔の残らぬ生き方も仕事も、人生もない、という事もまず認めていくしかないとも言い得る様にも思われる。

 付記 マルセルが人生は賭けだ、と言った事は、本記事最後の主張と全く重なるという事ではないだろうか?(Nameless-value)

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2013年6月28日 (金)

思想・哲学メモPart8 出会い・世界・フィクションとリアル

☆経験主義は、主義という段で既に経験を出会いのリアルから「出会い」の全てという一般化を果たしている。その点では全ての哲学とはリアルが在ると我々が「思う」から、そのリアルの正体、それはしばしば意識とか我々に拠る自由意志とか理性というやはりそれぞれフィクションでしかあり得ないものとかこと達それ自体が生み出してもいて、その事を徹底分析する事で、却ってリアルとフィクションの狭間でフィクションを娯楽的に楽しむ、よく在るタイプの韓国トレンディードラマ鑑賞っぽく嘘と知っていてエンタメ的に楽しむので、余暇的時間はそれでいいと決め込む事すらベルグソン的に寄生的自我に拠って問う事を雲散霧消させているのだ、と捉える事に拠って、却って我々に必要とされている生のフィクションを暴きたてる事をするものだから凄く生々しさが付き纏ってしまい、とてもじゃないがエンタメとは程遠い地点へ我々を運んでしまうと我々は知っている(だから一般的に哲学の本は売れない)。

 しかしやはり問う快楽には勝てない、とそう思う事も我々には厳然とあって、出会いそれ自体を図式化させ惰性的に全的に過去化された事から経験を語る処に経験主義があるとすれば、意外とマルセルが結局自由因果性というカント的な事を出発に於いては認めつつも、最終的には『存在と所有』中の形而上学日記の後半ではカントの自律の不毛性を語り、世界へ対峙している事とは、世界の只中で自己が自己でなくなる地点迄語る事であるというその後の現象学的な想念を予告していた。

メルロ・ポンティに拠る共犯関係という語彙は、世界との関係が我々にとってインタラクティヴであるとするマルセルの形而上学日記の後半記述の思想の体現であり、同時に生きていく事自体が責任を負って行く事に等しいので、それは悪を引き受けていく事だという悪の哲学も予告するのだ。

そうである。生きていく事は善的に完全性を狙って死ぬ(自殺する)事ではなく悪的に不完全性を自己に対して認めつつ生き抜く事だ、という意味ではメルロ・ポンティ的な共犯関係も、知覚や世界との対峙という形而上学的レヴェルでの定義だけでなく、他者との折り合いという俗的レヴェルの事でもあったのだ。

☆文学や芸能等でのフィクションは、しかしやはり何処かではリアルな歴史とか生活を前提しているのだけれど、それら全ての表現とは究極的には如何にフィクションそれ自体の中で楽しめるかの追求の世界なので、それは少なくとも哲学的探究ではないし、科学的証明でもない。寧ろ科学の方がずっとリアルとは何であるかを突き止めようとしよう。哲学はリアルを突き止める我々とは一体何かと問う。

 文藝、芸能文化に於けるエンタメ的活動の全てでは如何に嘘(フィクション)がリアリスティックであるか否かを価値的に問うが故に、リアルが「在る」とすれば現実逃避的快楽である。

 しかし、ではその当のリアル、つまり現実でしかないそういうものが存在するのだろうか?それ自体こそ幻想と言えないだろうか、と哲学では問おう。だから哲学はどうしても生々しさを払拭し得ない。

 でも我々に拠る世界での(我々自身は世界を作っているのだけれど)出会いとは、「出会い」として形而上学的に価値規範的にも語れるけれど、やはりその都度新たな出会った事のない何か、人物であれ情景であれ状況であれ、全て今迄を過去の事としてご破産にしていく様な性質をも充分兼ね備えた何かとの人生でのたった一回限りのものである。その生々しさを忘れさせてくれるものとして表現や文化的な営みがあって、そういう風に忘れようとしているのだ、とハイデガーよろしく存在忘却(Seinsvergessenheit)と呼ぶ事とは、要するに文字であれ映像であれ何であれ、それに没入する事でリアルそれ自体なんてどうでもいい事にする我々の傾向の事なのであって、だからこそ、その捉え方からリアルなんて本当にあるのかなという謎と問いが生まれるのだ、とも言い得るのだ。

 結局、認識であれ出会いであれフィクションであれ、我々が意志とか自由とか理性とか呼ぶものこそが世界とかリアルを作っているのであって、お気楽にエンタメを楽しもうという事も、実はこういった粘着質の哲学的問いが、自分にはそういう問いなんてとんと縁がないと決め込んでいる御仁さえやはり何処かでは厳然と存在していると知っているからこそ(要するに根源的自我を知っているからこそ)その反語として寄生的自我でお気楽にエンタメを楽しんでいるのである。そしてそれを誰しもが知っているのだ。

 でもエンタメ的時間だってそれはそれで忘我なのだし、必死に何かを掴もうとする瞬間、イチローがここぞという時にHRを出す時の気持ちみたいな忘我がカント的自律などで説明し得ぬものだとマルセルは直観的に知っていたと言えよう。

 そしてだからこそ問う事とか真実とか真理という問いの前では日々頽落して生きる事それ自体が悪となり、生き抜き責任を全うする事とは即ち悪を全うする事であるという結論も導かれ、その悪を回避する事こそ最悪の悪だという事にもなっていくのである。

☆結論的にリアルとはフィクションとそれへの没入が齎す幻想である。そして世界も又我々に拠る途轍もなく大掛かりのフィクションなのである。出会いも、である。

 しかしその都度の今に拠る出会いとは生々しく、それは最もフィクションの中でもフィクションっぽくない感じを我々に与え、その「その都度の今」出会われるものに我々は常にフィクションならぬリアルを見出す、と言ってよかろう。

☆リアルはそれを表現しようとすると途端にするりと抜け落ちて居なくなってしまうものである。寧ろ一切の表現を諦める時にこそ途轍もなく立ち現れるものである。

☆恥ずかしいという気持ち、贖罪心理とか後悔は、他者から辱められた事のトラウマ的記憶よりずっと自己内では生々しいのだろうか?その倫理的羞恥とは辱められた者の苦痛より大きいと言い切れるだろうか?

恐らく自分自身に対してはそうであろう。それに対し辱められた者の恥ずかしさとは他者に対してであり、内在的(アクトゥアリテート)には贖罪的な生々しさはずっと少ないと言えないだろうか?何故なら(勿論被害者としての苦悩は性質が異なるので、比較しようはないのだけれど)少なくともそれは完全に自己責任とは言えないからである(しかし全く自己責任がないとも言い切れない)。

 この内在的な感情以外に人間生活で生々しいと呼べるものなどあるのだろうか?

 だからこそこう言えないだろうか?

 我々が日々生活していて過去への追想で忘却出来ぬ生々しさの方こそリアルで、と言う事は自由意志的想念、理性、意識があると自分で思っている事の方が(先程はそれをこそフィクションと呼んだけれど)寧ろ自分自身の中ではずっとリアルなのであり、私だけでなく全ての人がリアルと呼ぶものの方がずっと実はフィクションである(世界もそうであるけれど)、とそう言えないだろうか? 

 そして結局二つ前の☆で言った「そして世界も又我々に拠る途轍もなく大掛かりのフィクションなのである。出会いも、である。」という事だけが真実だ、という事となり、自分自身で、自己内で忘却され得ない事の方だけがリアルだ、という事になる(それを思い出させているものが自由意志とか理性とか意識だとすると)。するとやはり記憶を失っている人間にとっては全てがリアルではなくフィクションだという事になりはしないだろうか?

 だがそこから始まる問いに完全に未だ今私は答える事は出来ない。

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2013年6月27日 (木)

リスタート形容詞論 中間総括②

倫理的羞恥を伴う形容詞と伴わぬ形容詞を何故我々は品詞を違えようとしなかったのだろうか?

羞恥を羞恥と感じる為に羞恥の克服、つまり羞恥を伴わぬ報告を行う事と羞恥を伴う報告を行う事を義務的に履行するという事を必要としたとしか今の処考えられない。

公的な報告義務を自らに課す事で却って羞恥を伴う形容詞を極力使わずに済む様な倫理的な心掛け(カント的に言えば道徳法則の遵守、人間理性の立法者としての振る舞いをする為に定言命法を遵守する事)を持つ事を自らに促進させ強いたと言えないだろうか?

そうでなければ理性と自由意志とで倫理的命題を人類は持てなかったと迄は言い切れないのだが、それはそうする事を通して倫理的羞恥を容易に得ぬ様な日々の戒めを与えてきたという事でもあろう。もし倫理的羞恥を伴う内容の告白が形容詞では示されず、違う品詞であったなら、その告白はそれ程羞恥を伴うものではなかった可能性は全くないとは言い切れない(勿論それも一つの可能性にしか過ぎぬのだけれど)。

少なくとも人類は人間のエゴイスティックなカント的に言う処の幸福の原理にだけ邁進しやすい他律的な要素がある、と知っていたので、公的報告の中に敢えて倫理的羞恥を伴う形容詞も混入させる事を通して、その報告し難さ、宣言し難さがあるが故の理性的感情、つまりそういう報告、宣言をせずに済む様な事として倫理的羞恥があるという事を、倫理的羞恥と無縁の形容詞と並列化させて内的理解としてクローズアップさせて、倫理的命題を保持し続ける道を選んだのだ、と言い得る様に思われる。(つづく)

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世界の真理Part28 矛盾した対要素の共存、同居

★人は誰しも心に居心地の良い下町と、晴れの舞台(coming out stage)としての山の手をそれぞれ心では矛盾させずに持っている。要するに人類とは誰しもがローカリティとグローバリティを両方持っている。人は誰しもが心情倫理主義者であると同時に責任倫理主義者でもある。時と場合に拠ってその対立する様な要素が別々に発現するという処に、一個の人間の測り難さがある。

★人は誰しもコンサヴァティヴな思想とラディカルな思想を併せ持っている。それは職業的な性質が保守的か革新的かに関わらずにである。要するに人は誰しも形式的前例主義者であると同時に革命論者でもある。そしてそれぞれの要素の発現の仕方の違いを我々は人格的個性として認識している。

★誰しもが世界に対しては作家であると同時に批評家やジャーナリストでもある様に、或いは他者に対しては演出家であると同時に役者でもある様に、誰しもが空間(生活者)的にはアートパフォーマーであると同時に、アートインストーラーでもあるし、世界へ対峙する判断に於いて誰しもが現象学者であると同時に分析哲学者でもある。

★上記の様な対関係にある異質の要素を併せ持ち、共存させているという事は、それ等の対要素が同居して世界を構成しているという事でもある。只我々はその真理を身を持って証明している、という事である。その真理の証明をし続ける為に我々は生き、そして生活している、と言う事も出来よう。

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2013年6月26日 (水)

日記的記述BN 基本的に私は過去を懐かしいと思わない/人生に過去を懐かしんでいる余裕などない

本ブログを始めた矢先に既に私は過去を懐かしくないと記事で書いていたが、その基本的考えと方針に変わりない。

何故そう思うかというと私自身が凄くドライで過去に対して情感的な事を思い巡らす事自体へ価値を見出さないという事と、もう一つは過去とは存在する事ではなく、多くの哲学者の考える様に、常に今現時点で我々が脳内で記憶として作り上げているものだと私も考えるからである。

我々にとって過去も未来も実は存在しない。双方とも常に今はこうであるという想念の中からだけ過去も未来も作り出されているのである。

しかし多くの小説、映画、ドラマは(戯曲は少し違うけれど)過去への想起や想念が主題化されている。古今東西の文学の名作、映画やドラマの傑作も大半が過去の事を忘れられない人間の姿を描いている。贖罪心理、後悔が主題化されているものが実に多い。

 ところで日本の小説、映画、ドラマは情感的なものが多いが、それは日本にのみ固有ではない。

しかし死生観に関して日本人は永遠とか永久という事を仏教では言っているのだけれど、生活実感的には薄い。それは一重に日本語の統語とか文法構造に拠る事だ、と私は考えている。

 対し欧米、とりわけ英語では永久とか永遠という想念をしやすいのも英語の統語とか文法構造に拠る事だ、と言えると思う。だから日本人固有の幽霊とか霊気とかも日本語と関係があり、アメリカ人にとっての天使と悪魔とかも英語と関係がある、と私は考えている(この事自体は別に考えてゆく意味のある事であるので、その内取り組みたい)。

 それに私自身は集団生活的な国家民族的な倫理(非哲学的な)を大嫌いで同世代同士で固まる事自体をいい考えだと思っていないので、必然的に一度も同窓会的な集まりへ参加した事もないので、世代論的な社会倫理(就活とか婚活とか終活といった事をも含めた)も徹底的に否定している。そこでセンチメンタルな郷里への郷愁やら同窓同士の結束とかへも一切信用を置いていない(事実そういう付き合い自体を全く私は持たないし、親しい友人関係も二三年毎に総入れ替えしている)。

 基本的に人生とは今自分がしている事へ集中し、その事が充実していれば過去を振り返っている余裕等ない筈である。そしてその今はどんどん新たな局面へと入れ替わり移り変わって行っている。そして常に今関心があって常に今自分がしている事が一番重要であるなら、一切の過去はさして重要ではない筈なのである。

 しかし勿論刻々と人生とは死へ接近しているとは言える。だが死とはそもそも生の瞬間とは全く異質の事の到来である。そして全ての人生を未完成のものへと放り込む事こそ死であろう。だがそれでもいいのだ。つまり何かを完成させる事自体が然程重要な価値の事ではないのだ。

 価値とは不変の事ではなく、死ぬ迄どんどん書き換えられていくものである。何か不動のものとするのなら、それは死が切実に次の瞬間へと接近している時だけであろう。

 それはそれでよい。しかしその瞬間が接近していると悟る迄は価値が不動のものである意味などない。

 価値は何かこれをするべきだと行為を促進させる為のものとしてのみ有用である。そしてそれは凄くリアル世界の具体的な事に於いてのみ有用であるべきである。時間が惜しいという事もある。だから読むべき本とか鑑賞すべき映画やドラマを絞っていきたいという事はあるにはあるけれど、実はどっぷり何かへ浸かっている時には何に対してそうであっても、それ以外の選択肢はやはりその時にはないので、計画を立てる事も暫定的な事でしかなく、無計画であってさえそれ程良くない事とも言えない(だから我々は昔から計画を立てないのも計画の内と言ってきたのだ)。

 これからも私は自分自身にとってその都度関心のある事だけにかまけて一切それ以外は無計画で行こうと思っているのである。そして相変わらず過去を懐かしむ事もなく、常に今とは何だろうと問いながら何かしている事だろう。

 そうしながら何時か私は死にこの世の人ではなくなっているだろうけれど、その時には一切の未練も一切の情緒も無意味なものとして世界それ自体として世界を今何かを眺めている様にではなく眺めているのかも知れない。しかしその時私は私ではなく他の誰でも良く、私も貴方も彼も彼女もない様なものとして世界自体で居る事だろう。

 だからそれ迄は私という逃れられなさの前で何かを考え絶えず立ち竦んでいる事だろう。

 そしてそれはいいとか悪いという事ではなく、まさに生きる事のリアルである。だからこそ価値はそのリアルを維持していこうとする私にとっての羅針盤であるに過ぎないし、それだけで良いのだ。

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6月25日のFB(「いいね!」★)

★★三年くらい前にあった事だけど、ブログのある記事に一晩で千人以上来場して、ツイッターでも話題沸騰だった事があるんだけど、そういう事って一回経験すれば、もう二度と訪れずともよくなって、寧ろ地味なリピーターだけ居てくれればいいって思う様になるもんだよね。

★『月下上海』の作者、山口恵以子氏が一躍脚光を浴びているが、案外食堂のおばちゃんという職業こそが小説執筆に必要な人間観察の観点から有利なのかも知れない。筋金入りの中年作家(黒田夏子以来)がどんどん活躍する中年、年配者の時代に乾杯!

★小川町といい、寄居町といい埼玉県のローカルエリアが凄くいい。自宅からも程近いので出かけて探訪してみようと思う。

★中園ミホ脚本で吉高由里子主演のNHK朝のテレビ小説『花子とアン』だって。吉高の時代も極まってきたな。

Twitterで変名でだけど本音的ツイートをして更迭された官僚といい、ブログで本音的内容を書き込んで自殺した県議といい、田原総一郎氏の言の通り、失言とは本音を言う事だとは正しい。そしてそうやって人生を破滅させるのだから公職など就くものではない。

しかし公職者は一切本音を言ってはいけないというのも本当は可笑しな話はあるんだけど、そこは議題にはならない。

付記 最初の★も最後の★もそうだけど、ブログ、SNSを我々がする精神的な現代人の傾向を一度徹底的に探ってみる必要はある。そして公職者への異様なる厳罰的傾向も日本人にのみ顕著とも言えないだろうが、そのこれ見た事かという厳罰主義とストレスの溜まる仕事をどうやって克服すべきかも考えていくべきである。(Nameless-value)

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2013年6月25日 (火)

リスタート形容詞論 中間総括①

 形容詞は「形容詞の在り方」で考えたが三分類される。

①=悟性確認可能形容詞(ヴィジュアルでもオーディトリーでも一目瞭然的に観察可能)、「大きい-小さい」「長い-短い」「太い-細い」

②=調べれば知覚可能な形容詞、「熱い-冷たい(手で触れて初めて分かる)」「重い-軽い」

③=内在的な体感、感情、情動、気分等を表す形容詞=「辛い」「苦しい」「痛い」「悲しい」「恥ずかしい」「後ろめたい」「後暗い」「疚しい」

 「形容詞の在り方を考える」シリーズで私は③形容詞中「辛い」「悲しい」「恥ずかしい」「後ろめたい」「後暗い」「疚しい」はヒューマニティ維持形容詞と呼んだ。「苦しい」はそれらでもあり得るし、「痛い」同様体感直接形容詞でもあり得る。

 そしてそれらの形容詞は第三者的に語られる場合淡々と語れるけれど、自己に就いての報告で、しかも今現在の事であるなら容易に語り難さが付き纏う。それを容易に告白し得ぬが故の意味なのである。その部分が最も①、②分類形容詞と異なる(意味的な)性質である。

 にも関わらずその意味的な語り難さそれ自体をも語るに語りやすい事ではない(「辛い」「悲しい」「痛い」)事もなければ倫理的羞恥を伴う(「恥ずかしい」「後ろめたい」「後暗い」「疚しい」)事もない形容詞①、②分類群とそれら語り難さを伴う形容詞群を品詞的に対等で統語秩序的には相同の機能として捉える部分で哲学的現象的である覚知的な事と、哲学的心理的である覚知的な事を並列化させる事で、私的世界、私にしか知られない事項の間の壁のみならず、人に言いやすい事と言い難い事との壁をも不問に付す形で営まれるものこそ言語だ、と言い得る。

 意味的に自分自身への言及であるなら全く倫理的羞恥を伴わない身長体重に就いて「背が高い」「体重が重い」でも感じられるかも知れない羞恥はしかし決して倫理的な事ではない。それは裸を見られる事が恥ずかしいという事と同じである。公衆の面前で全裸に敢えてなって破廉恥な行為に及んだ事で得る恥ずかしさは倫理的羞恥であるが、ホテルのビルが火事になってその時バスルームに居た婦女子がきちんと衣類を纏わず救出された時に外部の火事の野次馬達にその姿を見られる事で得る羞恥は自己責任的な事ではないが故に「後ろめたさ」や「疚しさ」はない。だからその裸やうだうだ言っても仕方のない、平常時の様ではいられない緊急の際の格好悪さは羞恥的な意味合いが全く異なる。

 要は後悔や贖罪の念を換気する事実への感情形容詞である「恥ずかしい」「後ろめたい」「後暗い」「疚しい」の様に、事故的に裸を見られたりする際でも「恥ずかしい」という気持ちがあっても、少なくとも倫理的に「みっともない」という事はない。「みっともない」は格好もであるが、倫理的に恥ずかしいという意味でも使う。

 となると報告事実の修飾機能としての形容詞とは、そういった個々の形容詞毎の全く意味的違いを一切無視してメタレヴェルで語られるが故に、当然過去形を基準としている。今現在後ろめたさや疚しさを感じている場合、それを他者へ告げる事を我々は通常しない。人からは今現在の感情を悟られまいとするだろう。

 となると形容詞という品詞分類に於いて個々の事実の修飾を要す場合、その修飾様相が全く淡々と無感情的に受け取られる場合とそうでなく「そう、あいつあの時決まり悪い表情だったけど、一体何を思ってそんな気持ちだったのか?何か過去にでもそんな疚しい事をしたのかな?」と推察する事を促す感情的に理解していく必要性を生じさせる場合とが明らかにあるのだが、その感情様相的な性質の違いは叙述、記述、伝達報告されるという統語秩序的援用に於いては全く性質の違いを無視して等価のものとして取り扱われる事で、却って性質の違いを浮き彫りにさせる、という事を我々が何処かでは知っていて行っている事も判明する。

 つまり異なった感情様相と修飾される事実の意味とは、同一機能として取り扱われる統語秩序の下で初めてその違い、ずれ、様相的個別性格を浮き彫りにされる、というわけである。

 従って今現在の自己に就いて報告しなければならない状況に於いて倫理的羞恥を伴うものとそうでないものとがあるという事は、もし前者であるなら過去にそうであった報告ほどある程度報告しやすさが伴うという意味で、メタレヴェルでの報告事実への認識とは全て過去形を基準としている、という事である。

 しかも現在「私の身長は彼よりも高いです」と①的に報告しなければいけない時でさえも、昨日会った彼はそうだったとか、彼は四十歳だから何か特別な事でもない限り背が縮む事も伸びる事もないだろうからという意味で三年位会っていないけれど、その時点ではそうだった(私より身長は低かった)、という意味として語られているのである。(つづく)

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6月23~24日のFB(「いいね!」★)

23

★★★★皆が皆大学へ進学する必要もなければ、皆が皆結婚する必要もないし、皆が皆長生きする必要さえない。今の大学生の学力は三十年前と比べれば明らかに低下しているし、結婚もどんどん晩婚化している。

中学校とか高校を卒業して何処かに弟子入りして職人になる道があってもいいし、全ての人が学位を必要としているわけではない。にも関わらずそんなに学問に向いていない人達迄大学へ進学する事の方が却って社会全体が「そうでなければ可哀想」という風に差別している証拠である。

婚活という言葉も以前程は多用されなくなっているのはいい事だが、就活でも終活でもキャッチフレーズ化させて話題とするその(一体誰の発案なのだろう?)見え透いた魂胆が気に入らない。

就活でも終活でも婚活でも全て個人の選択の問題だろう。

24

★みんなの党の躍進と、民主党の後退(しかし一応第四党)である事から、自民と維新の会の憲法改正論議に一定の歯止めをかける事とはなった。今国民にとって景気回復、デフレ克服の方が一大事であり、憲法その他の論議はしかる後であってよい、というのが過半数の世論ではないだろうか?

http://www3.nhk.or.jp/shutoken2/senkyo/

★当選者数から言えば自民党が59人、公明党から生活ネット迄の総数が65人である。その後の第7党にやっと維新の会が来る。この事が要するに安倍総理に拠る憲法改正可決を拙速に行えない理由である。

尤も未だ一月は参院選迄にある。それ迄にどういう状況へと向かわせるかが各党に課せられている。国政と地方自治は違うと言えば違う。そして今回の都議会選結果と動向をどう有権者が捉えるかも重要な参院選結果誘引のファクターとなろう。

★★★世界遺産にせよ、オリンピックにせよ、こんな事言っちゃいけないのかも知れないけれど、世界中の大の大人達が躍起になっちゃって、国際政治の子供じみたパフォーマンスとプロパガンダを見るにつけ、人類って本当におバカさんだなって思える感性しか信用出来ないぜっての

★★世界ってさ、どんなにアメリカが世界の生徒会長を一応クラスの全員が認めていても、誰かはそれに毒づく奴が居て面白いみたいなもんで、ハワイ⇒香港⇒モスクワ⇒キューバ⇒エクアドルと逃避行し、亡命申請しているエドワード・スノーデンみたいなアメリカ人が時々登場するから面白いんだよね。ジュリアン・アサンジもだけどさ。これと日本政治で自民党アベノミクスは一応誰しも期待していても、その批判者としての共産党も居ていいんだよねっと誰もが思っているんだよ。

アメリカ人って嫌いじゃないけど、アサンジやスノーデンみたいな人が居るから面白いんであって、全員が政府と国家へ忠誠誓う人だけで、世界中がアメリカ万歳でないから面白いんだよね。

田原総一郎氏の意見じゃないけど、社長の方針に一切社員全員が逆らえない会社がずっと頂点にあるのって凄く不気味で(大体何時かはボロが出るんだけどね)、それと国内政治も国内外の経済も国際世論も全く同じで、批判者が常に何に対しても一定数存在するって事が最大の全体的な健康さのバロメータなんだよね。

 付記 となると、やはりエクアドルもだけど、イラン、北朝鮮とかも世界には必要って事になる。勿論個々の国々の誤りや良くない部分ってあるけど、アメリカが何を言っても通る様でも、それはそれで良くない。国際政治の難しさと国内世論の一つへと纏まらなさとでも同じ構造が読み取れる。大半の国民が憲法改正は然程熱心に考えてはいない事、そしてネット選挙も然程関心を注いでもいないという事はアンケート調査でも見えている。でも一応アベノミクスに期待し、自公連立が過半数の議席を持つ事が良いと概ね考えてはいる事もだ。

 さあ、一体これから日本丸はどうなっていくだろうか?そして世界丸もだけど。

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2013年6月24日 (月)

リスタート形容詞論Part17「等しい」「相応しい」「正しい」/動詞の在り方を考えるPart17「適う」「合わせる」「並べる」「沿う・添う」「従う」

  Part16で示した動詞を動詞グループで認識すれば、次の様になろう。

★「適う」⇒第二グループ:要するに自分にとって良好な条件になるという事である

★「合わせる」「沿う・添う」「従う」⇒第一グループ且つ第四グループ且つ第三グループ:要するに 全て=止す(逆らう) となるし、それは意志的に始めるが故に第一グループであり、止す事を始めるが故に第四グループであり、その状態を続けるが故に第三グループでもある。

★「並べる」⇒第一グループ且つ第三グループ:要するに違うものを同じ線上に配置する事であるが故に第一グループ(意志的に始める)のと同時に、そうし続ける(変えない)という事であるが故に第三グループである。

 これらの動詞を使う意味は、形容詞で「恥ずかしい」「後ろめたい」「後暗い」「疚しい」といったもの、或いは「悲しい」とか「痛い」とったものを「大きい-小さい」「長い-短い」「太い-細い」等の全く言及する事自体に今現在時点では苦痛的にも倫理的羞恥的にも問題のないものと同列化さす事に何かある、と言える。

 それは私的な事や、内的で言及される事を正しいかを外的に確認しようのない語彙を、言及される事をヴィジュアル的に正しいか確認し得る語彙と並列的に同一品詞として扱う処にある、と言える。

 それはコミュニケーションが公的な基準になっていて、その基準の前では私的な事や、内的で正しいか確認し得ない事をも公的基準の方へ同化さす事に拠って、私的、個人的な事を優先させる事を抑制していると受け取る事が可能である。それは個人とか私、つまり現象的世界からすれば羞恥の克服となるし、心理的世界からすれば現象的世界を不問に付す事となる。

 そしてそうやって 現象的世界をエポケーにして、心理的世界の水準でコミュニケーションを統一させようとする事=全く性質の異なる様相の言及を機能させる形容詞を全て統語秩序の上では「等しい」こととする という事自体を我々は「相応しい」と見做し、そのコミュニケーションの秩序を「正しい」と見倣すのだ。ここに「等しい」「相応しい」「正しい」が段階論的に登場する余地が与えられる。

 マルセルの哲学思想の骨子を人類の動詞・形容詞使用を理解する為に利用しているわけだが、マルセルが我々に教えてくれる処の事で最重要な事とは、我々にとって自分自身の生命存在を一体誰のものか(所有)という問いである。当然「持つ」という動詞と「在る」という動詞が基本として我々の心にも内在していると捉えられる。

 ここで問われているのは、自分の世界(一般的意味としての)の中の存在としての存在理由である。価値・倫理に於いて自殺が許されない(とすれば神のものか、世界そのもののものか)という考えがマルセルの中心に在る。

 次の記述は身体、生命、意志の関係をもっとぐさっと抉っている。

 今朝はっきり分かったが、私は私の身体であるか、という問いは、私は私の生命であるか、という問いにおきかえる必要がある。動かなくたった私の身体は、私の死体にすぎない。(中略)その反面、私は身体を持っているという場合、私はまさにこの身体を或るし方で動かないものにし、いわば非生命化しようとしている、ということは明らかである。ここで私は問う、所有というそのことは、いつも或る程度、それが出来かけの奴隷状態に対応するかぎり、このような意味で一種の非生命化を、含んでいるのではないか。(既出書、四月十日、120ページより)

 ここでマルセルは意志的なる事を生命現象そのものと切り離し、生命現象「として」「生きる」我々の事実を哲学的に価値化された視点からメタ認知的に生を捉え直そうとしている。生きるとは生物として生かされている状態に自らに於いて自由の視点から捉え直す時に哲学的生の認識から生きる事となる。

 マルセルは更に続ける。

 私は私の生命であるということが形而上学的に誤りでありながら、私は私の生命を持つ、私は一つの生命を持つ、と結論することは正しくないということがどうして可能であるか、理解することはむつかしい。ここに、この三月二十七日(管理人注。前回のマルセルの記述の引用)に行った省察がむすびつく、と私は思う。今はもう私の身体については言わず、私の生命についていうのであるが、私は、もう決してそれを自由にすることができないような条件の下に自分をおくのでないかぎり、絶対的な意味で、それを自由にすることはできない。それは取り返しのつかない時である。そして、自殺あるいは生命を犠牲に供することについては非常にはっきりしていることのことは、実際にはどんな行為についても真実である。(既出書、同節、120121ページ)

 マルセルは絶対的自由を最期の意志的選択である自殺から考えている。前にも述べたがこの捉え方は自由の在り方を考える視点へ持ち込む意味でカミュの『シジフォスの神話』的でもあるし、サルトルの『存在と無』的でもある。そして全ての行為は死ぬ事も出来るのに、敢えて死なず生きながらえ、その中で執り行うという意味で自由の選択の範疇にあると彼はするのである。病苦でも精神的苦でもそれを自殺という手段に拠って回避する事は可能であるにも関わらずそうしないのなら、我々は必ず哲学的生の認識から生きる事を選択しているのでなければならない。

 マルセルは更に次の様に続ける。

 しかし取り返しがつかないというこの観念は、掘り下げて豊かにする必要があるだろう。それをしなければ、自殺と犠牲とのちがいは、不可解で思量できないままにとどまる。このちがいは全く、希望ということの中にかかっている。希望なしには、犠牲は存在しないし、またありえない。希望を除外するような犠牲は、自殺にほかならないであろう。ここで無私という問題がでてくる。しかし無私と絶望とを同視することが、正しいかどうかを考えなければならない。たしかに、ひとはきっと、次のように主張するだろう。私のために希望するときには、無私ということは問題になりえない。それが問題になるのは、私がそのために自分を殺す秩序ないしは事件に、私の希望が向けられるときだけである、と。この場合ただ問うてみなければならないことは、この私のためにということの意味が、そう思われるほど、あるいはむしろ、ひとびとが自然とそう思いこんでいるほど、はっきりしているかどうか、ということである。この点で、私の三月十五日の省察☆のように、事実もう少し先に進んでみるべきであろう。すなわち、この、自分のための希望が、どういう性質のものであるか、そしてさらに深く、犠牲の核心部に存続している、この自分のためにが、どういう性質のものか、探究してみなくてはなるまい。(既出書、同節、121122ページより)

 

「この場合ただ問うてみなければならないことは、この私のためにということの意味が、そう思われるほど、あるいはむしろ、ひとびとが自然とそう思いこんでいるほど、はっきりしているかどうか、ということである。」、 この部分での疑問と苦悩はその侭カントの倫理学の問いへと直結する。カントの主張する誠実性とは定言命法が条文化された規約の様な他律的なシステムへの追随などではなく、それ自体常に自分でその都度異なる状況や事態へ対処して最良の決断を下すべきであるという、判断に於ける危うい、頼るものなき、寄る辺なき場面での決済を推し進める提言なのである(ここら辺の事は中島義道『悪への自由 カント倫理学の深層文法』を参照されたし)。

これは実は「悲しい」「辛い」「苦しい」が全てその都度性質を違えていて、ある時の悲しさとか辛さとか苦しさとはその時々で全く固有で個別で独自である筈である我々の生の実態から考えれば当然であろう。「恥ずかしさ」「後ろめたさ」「後暗さ」「疚しさ」もその時々で固有である。後悔も遺恨も憎悪も親しみもその都度、全く異なっている。同じ自分にとって親密な他者のある時の笑顔やある時の泣き顔がその時固有で個別的なものである様に。

 これらのマルセルの記述から読み取れる事とは、多くの人達に語られている事であるが、我々は生まれる時を選ぶ事は誰しも出来ないけれど、自由に於いて死ぬ時を選ぶ事が出来る、しかしそれでも敢えて自分自身の選択ではなく(神の、自然の)選択に拠って死ぬ日迄意志として生き抜く事、生きながらえる事は中島義道も度々指摘している(『悪について』『非社交的社交性』他)が、カントが『実践理性批判』で示している完全義務とはとりもなおさず「自殺してはならない」という幸福の原理ではなく道徳的良さの原理に従う事である。我々は死ぬ迄は誰しも生きなければならない。自殺はその使命への背理である。道徳的重罪である(少なくともマルセルの様なキリスト者でなくてもそう言えるであろう)。

 これは信仰の道を選ぶマルセルにとっても、『純粋理性批判』でアンチノミーに拠って神の否定的存在論証明を行っているカント(カント論旨の無神論性は中島義道も永井均も指摘している)の様な哲学者にとっても相同の自由意志選択である。ある部分では有神論も無神論も信仰無信仰も、自由意志の問題の前では哲学的に如何程の違いもない事はマルセル哲学の骨子を示す『存在と所有』でも充分に示されていると言える。

 哲学的自己、哲学的世界、哲学的生命倫理の前での信仰心と無神論思想との間の境界の無化こそマルセル哲学から読み取れる最大の命題である。

 そして形容詞の意味的な様相を考察する事も、動詞を意志的人間、つまり自由と選択に於いて生きる実存的、哲学的人間から考えるという事こそが、人類が言語を使用する事となった根拠を知る最短の、しかし最も面白く込み入っていつつ美的でもあるとも思われる推論の仕方ではないだろうか?

  次回以降はよりマルセルの『存在と所有』中、形而上学日記の中でもデカルトと身体と自己の問題、そして精神性と論理性との関係等からも考えていこう。(つづく)

 付記 ☆の注。この三月十五日の記述が見当たらない。或いは二十五日の誤りではないか?因みに二十五日の記述は次の通りである。

 すべて偽って問題を絶対に解きがたくする神の予知の概念と縁を切ること。どんな意味でも神の眼がそれのかかわる自由な行為に先立つものとされれば、予定は不可避である。しかしまた昨日、A師がベルジャエフの家で語ったように確認を言うべきではない。神は何も確認しない。

 私がきわめて漠然と瞥見することは、何よりもまず私の行為の神による把握は客観的所与としては考えられないことである(たとえば、私が「今誰かが私の言葉をラジオで聞いている」と言うような意味で)。それが私に考えられるのは、私自身が或る霊的な水準にある場合だけである。私はまだこのことの帰結がよくわからないが、しかし重要な帰結になることを感じている。(既出書、三月二十五日、109~110ページより)

 霊的な水準とは、「閃く」flashという動詞で表現され得る。これは動詞第二グループの最も霊的な動詞である。閃く=神の声が来る、としてさえ良い。この事は先に述べたカント倫理学の定言命法の条文化されざる心の内なる神の声とでも言うべき事で、だからこそ「私の行為の神による把握は客観的所与としては考えられない」のだ。神が確認しないのは、私が「直に」神に許しを得て何か行うのではないという事だ。つまり内なる心の声を聴く時、そこに神が現れるという事以外ではないだろう。その時我々は真に「知る」discoverfindknowlearnperceivereadseeknow ofrealizeという事を体感するのだろう。(Nameless-value)

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2013年6月23日 (日)

6月21~22日のFB.(「いいね!」★)

21日

★昼過ぎに池袋へまず出て、ジュンク堂でマルセルのEtre et Avoir原書テクストを探しあれば買い、その足で上野都美術館でダ・ヴィンチを観てこようと思う。

★展覧会の後未だ気力が残っていたら新宿二丁目にでも遊びに行こう

★★中島義道の最近の最大の力作である『悪の自由』で示されているカント解釈が正しければ、カントの定言命法とは必ずダーウィンの自然選択でも証明される。恐らくデネット等はそう考えているに違いない(会って聴いてみたい)。尤も中島はダーウィンを因果論の極致と考えているみたいなので否定するだろうけど(中島は自然科学の本質をよく分かっていない)。

★世の中には藤村という姓の人でも島崎藤村のファンとかがいて、息子に藤村と名づけている人もいよう。藤村藤村なんて姓名が同じで覚えやすいって事でさ。

★★★★ジュンク堂でも丸善本店でもマルセルは見つからず、刊行以降再販されず絶版となっている事が判明。国内の古書店フランス語専門を当たろう。雨が降っていたので新宿二丁目訪問を断念。七月に行こう。丸善では代わりにEmmanuel LevinasAutrement qu'etreDaniel C. DennettINTUTION PUMPS and OTHER TOOLS for THINKINGを購入。デネットものは最新刊の原書。

★★★2010年代現在時点で言える事は、70年代、80年代の映画にあった固有の官能性がすっかり失われている事だ。

これは現代ではノーカット(uncensored)AVネット配信が定着して映画にエロスを求めなくなった事が最大の原因だ。

あの頃は市川崑、鈴木清順、大島渚、寺山修司、神代辰巳、横山博人等エロス的描写の巧い監督が大勢居た。だが今ではエロスよりヴァイオレンスが重要なのだ。井筒和幸、北野武、三池崇史、園子温等エロスより衝撃を最大エレメントとしている監督が主流である。

 エロスの映像美からの喪失は憂うべき事である。だからこそ私はエロスを小説でも、そして他のメディアでも挑戦したいのである。

★★★★今もし『愛のコリーダ』(大島渚監督)をリメークするとして、一般役者にハードコアの演技をさせるとして、私なら阿部定を尾野真千子、吉蔵を桐谷健太という配役でやったら凄く評判となるのではないだろうか?

『赫い髪の女』(神代辰巳監督)の主演は本田翼。神代監督の宮下順子のやった役は却って清純派的な本田翼を起用する事で意外性を追求出来るのでは?

『ツィゴイネルワイゼン』(鈴木清順監督)の配役は中砂(原田芳雄がやった役)を西島秀俊、青地(藤田敏八がやった役)を松尾スズキ、イネ他(大谷直子がやった役)を吉木りさ、品子(大楠道代がやった役)を檀蜜、真喜志きさ子のやった品子の妹役をAV界から矢吹杏を配役したらきっと興行成績が凄く伸びるに違いない。清順は全員脱がせた。ハードコアだった大島映画でのヌード(松田英子)はそんなにいやらしい感じはなかったが、清順映画のヌードは何処か常に猥褻だった。

★★韓国女優の中でかつて一番好きだったのはパク・ソルミ(冬ソナでチェリン役。泣き顔の天才女優チェ・ジウの親友役)だった(彼女最近結婚した)が、今の三十代前半の中ではハン・ジミンだ。『チャングムの誓い』(シンビ役)で頭角を現し『イ・サン』のソン・ソヨン王妃役で成功した。現在放映中の『屋根部屋のプリンス』でもヒロインを演じる。整形疑惑もあるらしいけど、どうでもいいよ、そんな事は。

22日

★鷲田清一の『「待つ」ということ』が文学的で面白い。凄く文体に拘る哲学者エッセイストである。出版企業界では只学説の正しさだけでは食っていけない。その点売れっ子の哲学者の文体は見るべき処がある。

ところでこの本の初めの方に太宰治の小説『待つ』が引用されるが、太宰治こそ文体の人だったと言える。鷲田自身もかなり影響を受けている。スリリングな文体はかなり多くの作家、著述家に影響を与えていると思える。

例えば1977年に芥川賞を受賞したプリントアーティストの池田満寿夫(最近、伴侶だった佐藤陽子が文学界<だったと思う>で一緒になる前に陽子に出した多くのラヴレターを発表した事で話題を攫った)も太宰文体に影響を受けている(試しに『エーゲ界に捧ぐ』『楼閣に向かって』等を読んでみれば分かる)。又昨今の永井均の文体、特に『哲学の密かな闘い』の後半の部分は明らかに太宰的な畳み掛ける文体である。スリリングな展開のさせ方とか所々区切って短文を入れる当たりかなり太宰的である(この二人は『走れメロス』も好きだろうと思う)。

因みに太宰が嫌いだったという三島由紀夫は全く異なった文体である。三島の文体は流れを敢えて断ち切る書き方だからだ。流れで言うなら安部公房の方が意識している。これは止まった情景を積み重ねさせたい三島美学に拠る処だろう。

私にとって読み難い文体なのが大江健三郎であるが、彼も流れを意識させない書き方である。村上春樹も流れ的ではない。

★★私にとって英語は勉強はしてきたけれど母国語ではないから、中々把握するのが難しいけれど、恐らく生物学者のRichard Dawkinsは文体の人である。初期のSelfish Geneもそうだったし、それ以降の多くの学術的内容の著作が文体を意識している。これは文学者のみならず著述家には求められる条件である。Dawkinsの僚友である哲学者(科学哲学、心の哲学)Daniel C. Dennettもかなり文体意識の強い人である。

フランス哲学はとりわけほぼ全員文体を異様に大事にする。デカルト、ベルグソン、サルトル、メルロ・ポンティ、マルセル、デリダ、ドゥルーズ、フーコー、リクール等一人として文体の希薄な人は居ない。そういう処がフランス思想哲学の凄い処である。哲学者だけでなくヴァンヴニスト、ブルデューとか言語学者系、社会学者系もそうである。

だから本当は英語圏の人達でもエマソンでもカーライルでもジェームスでもムーアでもシジウィックでもノージックでもセラーズもきちんと研究するなら文体を分析すべきなのかも知れない。処で最近Willard Van Orman QuineWords and Objectも再販リニューワルヴァージョンが刊行された。金に余裕のある時に購入しよう。

★話し方ってかなり大事だよね。堺屋太一は語り方が落ち着いていて大物っぽさを醸す。その点では田中均も岡本行夫も、竹中平蔵より語り口調が穏やかだ。竹中氏は小賢しい悪党の話し方だ。

総理では小泉総理以降では野田総理くらいがそんなに聞いていて不快ではなかったが、それ以外の人は聞くに耐えない感じが全員にあった。性急な感じを安倍氏と菅氏には感じたし、よく考えずに言う処が麻生氏にはあったし、総理の懐の狭さを福田氏は感じさせた。鳩山氏は何も考えていない感じだった。

竹中氏の語り方とか物腰は意外と中島義道と似ている(かつての師に対しこんな事を言っちゃなんだが)。二人とも何処か破れかぶれの処がある。ビートたけしにもそういう処がある(尤もたけしは中島みたいに決して両親の悪口だけは言わないけどね)。

話し方、語り方一つで、この人にはついていけるな、とか信じられるなって思えたり、この人はちょっとついていけないなとかってその都度思えてしまう。

★★★男と女はなかなか難しい。要するに巧くやっていけるか否かは全て相互の我慢だけだ。例えば僕の様に若い頃凄く巧く異性と遊んだり熱愛してしかもいい年こいて未だ独身だと、今誰かと出会っても、当然二十代の男性で初心で異性にときめく様な事もないし、と言って凄く相手が魅力的だと警戒心もある(美女の悪女は大勢居ると知っているしね)。となると相手に拠っちゃ凄く知性をひけらかしてくれば弁護士とか医師とか以外なら去なす自信もあるし、相手がブスだったら追い払う(こっちは傷つかず、相手には多少の痛手を負わせて)スキルもある。

結婚なんて凄く定収入さえあれば料理家事洗濯だけ出来れば、それでいいという程度の事でしかない(それは全ての男性の本音である)。

相手が美女でこちらにとって適わぬと思えるなら、必ず向こうが傷つきこちらは無傷の追い払い方を知っている。

今の青年って女性は逞しいけど、男性は童貞がどんどん増えているんだから可哀想だ。女性を神聖化しちゃって、世に出ている人も神格化しちゃってとっても可哀想だ。

 世間も男も女も完全に駆け引きで騙すか騙されるかって事で動いているのにね。

それをさもそうじゃないよって事で綺麗事の御託を並べて聖人君子ぶるのが政治家の仕事だけどね。

★生きる事は誰かを必ず傷つける事だ、とは殆ど全ての偉大なる哲学者、思想家の言っている事だ。綺麗事で人は生きているのではない。誰かが仕事を取るという事は誰かが仕事にあぶれるという事だ。誰かの恋路が巧く運ぶのは誰かが失恋したりふられたりする事だ。誰かが生まれ将来を期待されるとは、誰かが老いてこの世から去る事だ。

誰もが何もかも得て満たされる事は未来永劫ない。それを真摯に見つめる事、あらゆる災厄で不幸な死に方をする人も居れば、生涯そんなに金にも仕事にも苦労する事なく大勢子孫を儲ける人も居る。社会も世間も全て人間不平等を徹底して子供の頃から教育すべきなのだ。そうすれば少しはいじめ問題も解消するものと思われる。

★欠点はないけれど、一つとしてきらりと光ったもののない人と過ごす時間を極力減らして、欠点も大いにあるけれど、一点きらりと光ったもののある人と過ごす時間を極力増やしていきたい。それは老若男女変わりなく言える事である。

★★★昨年亡くなった華道家の中川幸夫は生前暗黒舞踏家等とも組んでパフォーマンスをした。とりわけ大野一雄(三年前に死去)とのコラボは印象的だった。車椅子で踊りをする執念の大野は、戦中迄憲兵だった。その贖罪心理が彼を固有の舞踏の世界へと誘引した。

華道の世界で現代アート的パフォーマンスを敢えて選ぶ処に斬新さがあったわけだが、踊りも華道も日常自然言語の表現ではない。

例えばJ-popは完全に歌詞は日本語だし、映画も所詮日常自然言語である。

人間界にセクトがあるとすれば、たとえ国境を全部取り払っても、最終的にある固有の言語を使用する事でそれが消えずに残るだろう。

大野と中川のパフォーマンスも懐かしいけれど、あれを鑑賞した人が何人でどの民族かによって感じ方、解釈の仕方は変わっていくだろう。

昨年ある哲学界のドンの隣に座って懇親会で話した時、彼は文化とかそんなどろどろした事なんてどうでもいいんです、と言っていたけど、そういう実存のどろどろした事を一切関わらずして哲学と言えるのだろうか?そんな事ならいっそ哲学を数学者に拠る特殊分野として明け渡してしまえばよいのではないか?

私にはある表現の感じ方、そして自分が生まれてきた時に受けた性、生まれた土地と、その人の考え方、感じ方とは不可分だと思う。そしてそれを確認する為にも今年は是非、日本民俗学会の大会にも参加しようと思う(ちょっと参加費用が高いんだけどね)。

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2013年6月22日 (土)

リスタート形容詞論Part16「等しい」「相応しい」「正しい」/動詞の在り方を考えるPart16「適う」「合わせる」「並べる」「沿う・添う」「従う」

 報告に倫理的羞恥を伴う(従ってそれはそう容易には報告し得ない)形容詞「恥ずかしい」「後ろめたい」「後暗い」「疚しい」等を、報告にそれを伴わぬ「大きい-小さい」「長い-短い」等の形容詞へと同列化させることで、他者のマインドは自己のマインドの様に手に取る様には決して分からないという事に纏わる他者と自己との間の絶対的壁(それは個々人として誰しもの間で周知である)を取り払う事こそが言語行為上で我々が常に他者の言及する事実を信用しようという黙約が存する事を証明している。つまり本当は言語行為は永井均の言う様に初めてそこで嘘を付く事が可能なツールなのだが、だからこそそれでも敢えて嘘を付き合わない事を前提として臨むという默約が成立するのだ。

 これは自己と他者とが絶対的壁に拠って全く別物でありながら(そしてそれを誰しもが知っていて)だからこそその別物性を無視して敢えて同じ物として取り扱う態度を相互に生じさせる。それがコミュニケーションの第一義である。この時我々の心的作用として明らかに互いに臨む姿勢は「等しい」equalequivalentidenticalという形容詞が立ち上がっている。そしてそういう風に互いに等しい存在として取り扱う事だけが取り敢えずコミュニケーションでは「相応しい」suitablefitting forappropriateproperagreeablebecomingeligibleと誰しも思う。そしてそれを踏襲する事が慣例的に、慣習的に定着し、そういったコミュニケーションスタンスが「正しい」rightcollectproperrighteoussoundtruthfulという想念が浮かぶ様になっていくのだ。

  だからそのプロセスを今度は動詞で辿ると、相手がどんなに自己と異なっていても、コミュニカント同士であるという意味で「適う」serve as,for、answer to、satisfy、suit、come up toのだし、そういう風に相互に相手へ「合わせる」put O together、join by,with、fit O1 into O2 (up) with O1、fit together、adapt O1 to O2、suit、size to,for、even up,out、square with、tailor to,for、time toのだし、そうやって同列化された相手と「並べる」arrange、line with、place、lay、rank、display、set outのは、或る意味では倫理的羞恥を伴う形容詞と、そうでない倫理的羞恥を醸さぬ形容詞とを同列にして統語秩序の中に組み込む我々の論理思考と全く構造的には同一なのである。

 だから話題とか論題とか会話や対話の目的に「沿う・添う」come up to、live up to事が求められるのだし、そういったその時々の規約に「従う」obey、follow、take、keep、fulfill、conform to,with、bind oneself down1,to、bow to、defer to事が公的なモラルとなっていくのである。

 公的である事はしかし途方もない私的な時間や空間を想念させる。哲学は寧ろ公的である事が私的な誘いでしかないと受け取る処から全ての問いを生み出していると言える。

 マルセルは第一部 存在と所有 一形而上学日記ではその問いの産出のされ方を身をもって示していると思われる。四月七日の記述では次の様に示す。

 この道は追っていくまい。

 私にはっきり分かっているのは、私が苦しみをうけるのは、いつも所有によってである、ということである。しかしこれは、所有が現実には、多様性にほかならないからではないだろうか。全く単純化された存在、言いかえると完全な一は、外からはたらきを蒙る主体であることはできないであろう。しかしこのような絶対的な単純性は、実現されなければならないものであろうか。そこにまちがった神秘主義と、非常に重大な困難の源がありうるように思われる。(既出書、118ページより)

 

 上記の記述より大分後の1933年二月二日にマルセルは「神秘というのは、それ自身が可能であるための内在的な条件(その所与ではない)を侵蝕するような問題のことに他ならない。自由がその基本的な例である。」と書いている。

この事は因果律的なものの見方がそうなってしまった事から遡及して、もっとこうしておけばよかったとか、この様になすべきではなかったという後悔の念こそがあれ(あの時の決断とか行為)が原因だったとする事で得る時間律であるという考えが中島義道の考え(『後悔と自責の哲学』や『非社交的社交性』他の著作に於ける)であるが、その事とも関係がある。マルセルはキリスト教カトリック信者として実存主義哲学や演劇(劇作家として戯曲を多く書いた)に関わった訳であるが、その理念的考えを述べているのである。つまり自由の名に於いて自己信条を選び取っているのだが、その選ぶ、つまり選択する事に纏わる限りない、こうでもあり得た、こうもする事が出来た筈だ、という考えが自由を観念として我々は我々自身へ作っているのだけれど、その限りない自由への見識こそが同時に神秘主義、もっとこうも出来た筈だと過去に対して、或いはこうも出来る筈であると未来に対して思いを馳せる事が可能となる事そのものをそれ自身が可能であるための内在的な条件を侵蝕するような問題と言っているのであり、挿入された(その所与ではない)とは現実に起きた事ではないという意味である。つまりどんなに分析哲学で多世界構造論(David Lewisに拠り書かれたOn the Plurality of Worldsで示された因果論、形而上学的実在論)とか、可能世界意味論(Saul KripkeDonald Davidsonその他大勢の哲学者が考えてきている論理学哲学命題。Possible world semantics)で持て囃されている因果論的な論争も、全てある時間tに於いて生起した事実はAであるという所与の事、つまり実在で起きた事を基準とするしかないのである。

 そして当然の事ながら自由律とはその実在生起的事実に対して後付け的に語られる。そしてそこから派生する限りなき自由という想念それ自体を神秘であると捉える段でマルセルは神学的形而上学者であるよりはプラグマティックなキリスト教倫理学者であろう。だからこそ「この道は追っていくまい。」と最初に書いているのである。

 次回以降マルセル哲学の骨子を多く示すこの『存在と所有』を永井均や中島義道のテクストとも突き合わせて考えていくが、マルセルが懊悩せざるを得ないとする所有とは、彼にとって彼自身の身体を彼自身が前々回に示した彼の記述の様に思い通りにならない部分での付き合いでも言えるし、思い通りにする事が自己の側から身体という所与(selbst gegebenheit、自己所与性。現象学ハイデガー用語)を捉える(つまり有神論者的に言えば神から与えられた、ハイデガーやデネットの様な無神論者的に言えば存在や生物学的機能から与えられた)仕方と、神(とか存在とか自然力とか)自体が我々を規定する(自由に我々<とその身体>を所有し、選択している)という決定論とか運命論を捉える仕方とが所有という一語で集約されている事を意味している。

 そして我々はどんなに自己に拠る自由意志を駆使しても、所詮その意志による成果とは制限もあるし、自然社会人的条件全てに拠って規制もされていて、しかし同時に完全に自己の意志だけに拠る決済も効かなければ、と言って完全に自己にとって外部の条件だけに左右されている訳でもない事は「完全な一は、外からはたらきを蒙る主体であることはできない」の一節に集約されている。

 「等しい」「相応しい」「正しい」といった形容詞は、そういったその都度の自己にとって内在的な事と外在的な事、そしてその鬩ぎ合いで決定されている所与と、所与それ自体への我々自身の反省や未来展望とに拠って使用も過去記述の述懐的意味でも請け負われていて、「適う」「合わせる」「並べる」「沿う・添う」「従う」といった動詞も、行為(行為には必ず自由意志も伴うと先述の様に我々は考える)、事の成り行き(プロセス)、そして結果、成果、結実等を基軸に展開されているのであり、品詞と語彙の意味論も、そういった生のリアル抜きに語られているのではない、とは言い得る事である。

 そして何度となく繰り返してきたけれど、報告する行為でその語彙を使用する事自体を差し控えさせたく思わせるが故に意味構造を持つ倫理的羞恥を伴う形容詞と、そうでない今回登場させた形容詞「等しい」「相応しい」「正しい」等は明らかに相補的である。「正しい」という事はそう語る事で疚しいとか後ろめたいとか恥ずかしいというのが直に誰に対しても臆する事なく言う事のし難さこそが意味規定となっていて、その意味規定そのものを、そういう風に内的に形容詞の持つ意味を感情認知的に理解する我々の一種の迷いとか悩みそれ自体を悪い事ではないとする(まさに中島義道が『悪への自由 カント倫理学の深層文法』でカントが考えていた定言命法とはとりもなおさず、常に~は~であると言い切れなさ、つまりその時々で適切な<つまり「相応しい」>理性使用の立法者たる我々は決意し意志しなければいけないとする条文的規約ではなさとして)事に拠って形成されているのであり、だからこそそれは誰にとっても「等しい」原理である筈だとカント的にも言い得るのである。

 次回以降もマルセルの考えていた所有という事の所与性を、神からの所与と、自己所与性から肯定的意味で如何に自由であるべきかという命題と共に形容詞と動詞の使用の本質を考えていこうと思う。(つづく)

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2013年6月21日 (金)

6月19~20日のFB.(「いいね!」★)

★論理学的秩序に従ってある結論を導き出したとしても、一つ一つの推論や論証が正しくても全体的には誤りである場合もある。これは論理自体の一つ一つの精確性が詭弁論理的に流用される可能性を考えればそんなに不思議ではない。そしてある結論が明らかに誤りだとするものは直観であるが、これはカントの言う定言命法とも深く関係している。人間理性の立法者に真摯に向き合えば、その誤りは直ぐ見抜けるとするカントの考えだ。

しかし理性主義の根幹に位置するパレーシア(パルーシア)は幾分現代の我々から見れば自虐的ナルシシズム的に感じられる。詭弁論理を告発する迄ならいい。しかしそれ以上行くとどうも(究極の真理主義の行き過ぎに恐怖してしまう)と思えてしまう。だが他方ではギリシャ以来遊び(パイディア)として哲学はずっと政治的仕事と対立させてきた。要するに政治的でない事、つまり遊びの究極は自由の極致であるが故に危険性も凄く伴うという事なのだろう。と言って哲学は三島的な行動へは行かない。しかしその言説自体が人生へ丸事応用させてしまう愚行を導きやすい。そういったデカタンスとかニヒリズムとかペシミズムを誘発させやすく語りかけるが故に、接する者に自制的な強固な理性を要求する。その点では文学・アート・音楽・スポーツ芸能でも言える事ではないか?

人を破滅させるものは貧困や疾病だけではない。寧ろ思想、創造性、情感的感動等全ても又人を充分破滅させる。一つの作品や言葉から人生を破滅させてきた個々の存在者の歴史には事欠かないのが人類史と言えるのではないだろうか?(19日)

★芸能人やスポーツ選手はかなり才能以外に努力も人柄も大きく出世に作用するけれど、アートとか学問とか批評等では成功者は総じて政治的勝者でもある。遊び的内容で売っていても、政治性の欠落している者は折角の才能を埋もれさせる。ある部分では複数個のコミュ二ティを渡り歩くフットワークの良さと、それでいて何処か破壊的に俗世的秩序へ不従順である事、それでいて魅力を発散していけるかで決まるとも言える。駆け引きの巧さは求心的な身構えを晒さないという巧さに拠るものと言える。神経質っぽさを見抜かれている者に大きな成功はない。成功しないで且つ凄い仕事が出来る者とは、残念ながらそこそこの対人関係でなく徹底的な孤独主義者、一切の付き合いをシャットアウト出来る潔さからである。と言ってニーチェとかヘルダーリンみたいに発狂する事なく(そうなっても歴史に残る天才等数百年に一人か二人くらいに過ぎない)淡々とマイペースでやっていける図太さ、要するに悪辣さが求められるという訳だ。(19日)以下全部20日

★★本当の意味で高額収入が安定している階級の人達にとって仮にアベノミクスが功を奏しても奏さなくても、例えば民主党政権へ戻ってもそんなに生活は変わらない。同時に最下層の収入生活を強いられている派遣社員とかの人達も恐らくどの政権になってもそう変わりない。只アベノミクスは自営業者とか小売業者へ、本当はアメリカ大企業にとって貿易しやすい条件を整えているだけで、それを表立って言わないでさも生活が良くなるって幻想を与えていると言ってもいいんだよね。ある種政権維持の為のプロパガンダだって殆どの人達は気づいているんだけど、では他党ではどうなのかなっていう思いがあるだけなんだ。 付記 高級官僚、文化人が安定した高額収入者で、会社員はそんなに給料は上がらない。法人税規制緩和で起業しやすくなるけど、千に一つくらいの企業だけが凄く成功して後は挫折、だから最終的に一般民間人はそんなに生活は今迄と変わらないという事は充分言えている。

★★ある文章に接して、その文章を書いた人本人の考えや意向を汲み取る事は大切だが、その本人の人間性やそういった文章外的な事を必要以上に重視し過ぎる事も危険だ。要するに文章で訴えられている事自体に全てを留めておく必要もある。

その点で中島義道の哲学学習者への指南的著作では、哲学を固有のセンシビリティとセンシティヴィティを持つ哲学への適性とか資質のある人以外哲学を語るな的考えは可笑しい。哲学も又アートや文学同様、万人の為のものであるべきなのである。

中島義道の著述作品の魅力は反社会的な哲学探究資質保持者へのエールとしては魅力的であるが、哲学を一部固有の性格の人達(率直に言って中島と似た青年)にのみ限定的に理解されるものとして取り扱っている部分に、固有のデカタンスと流行著述家としての似非的部分が読み取れる処が難点である(きちんとした本以外少し多く書き過ぎているという処に難点があるのだ)。

★★鷲田清一『「待つ」ということ』(角川選書)を読み始める。鷲田哲学(臨床哲学、現象学、エッセイ)を今後少し重点的に読んでその本質を考えてみたい。『「ぐずぐず」の理由』も面白そうだ。

★★★『ハキリアリ 農業を営む奇跡の生物』(バート・ヘルドブラー、エドワード・О・ウィルソン)が最高に面白い。来月の発表で人間とハキリアリを対比させて考える事のヒントをくれた。自然科学的思考へ赴く時間を持つ心の余裕をもっと持とうと思わせてくれる。

NHK時代劇『妻はくノ一』(金子成人脚本)が面白い。主役の市川染五郎が凄くいい(若い頃嫌いだったけど、中年になって味が出て来た。色々とあった事がよく作用したのだろう)。妻の忍者役の瀧本美織も凄く美しくいい。田中泯がダンサー出身の役者だけあって、凄く殺陣、立ち回りがいい。姿勢が凄く良くて時代劇が泯さんには打ってつけである。次回以降が凄く楽しみである。

宮部みゆきとかもそうだけど、難しい学術的本とかばかり読んでいると、大衆的読み物の真の価値が凄くよく理解出来る気がする。小説家、シナリオライターには鑑賞する人、TVなら視聴者を癒しへ運ぶ力量が問われるのだろう。小説は書いていきたいので、その部分でいい仕事を見ると色々と学べる。NHKの大河ドラマ枠でない時代劇は大体何時もいい。『御宿かわせみ』とか色々と名作も多かった。江戸期以前のものを書くには詳細な時代考証を要す。

歴史書とかを年とって今の仕事が一段落したら、じっくりと読んでみたい。老後の楽しみは歴史考証である。

大衆向けドラマは日本の場合、人情ものというジャンルがある。これは江戸期ものとしてかなり根強く人気がある。

対し韓国ではどうも李氏朝鮮期の人情ものや、その時代の人達がタイムスリップして現代に迷い込むパターン(『屋根裏部屋のプリンス』『イニョン王妃の男』他)が人気がある様だ。私自身は妓生(キーセン。芸事をする朝鮮半島の女性)を描いた『ファン・ジニ』が凄く印象的だ。ハ・ジウォンの当たり役で、夭逝する若い頃の最初の恋人役にチャン・グンソクも出演していた。ところで今放映中で佳境の『シークレット・ガーデン』ではハ・ジウォンも凄くいいが、このドラマでは幾分アメリカ映画の懐かしい名作『プリティ・ウーマン』のリチャード・ギアとジュリア・ロバーツの組み合わせを参考にしている様に思える。

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2013年6月20日 (木)

日記的記述BM 作者、著作者本人との出会いより作品、著作(仕事)との出会いの方がずっと重要である

 ある作品、著作(仕事)との出会いと、そこから何かを得る事以上に、その作者、著作者本人との出会いとは、意義という観点から言えば瑣末な事でしかない。恐らくある仕事との出会いをした人が全くその仕事をした本人との出会いがなくても、仕事との出会いそれ自体はそこそこで仕事をした本人と出会って、その人柄とか性格とか人間性から大きく啓発される事があるという幸運(?)が別の人にあったとしても、仕事自体との出会いという意味でそんなにその本人と出会った人の事を羨む必要などない、と私は感じている。仕事をした本人との出会いがないからと言って仕事自体と出会えれば不幸だとも言い切れない、と考えている。

 要するに仕事の質とか意義とか存在理由と、その仕事をした人とは全く切り離されている、という事だ。

 寧ろ積極的に言って、仕事をした本人との出会いがなく、仕事自体(著作者であれば本、画家であれば絵画作品、演出家とか映画監督とか俳優であれば舞台とか映画)との出会いだけ持っている方が、その仕事をした本人との出会いも持っている人より却ってよくその仕事自体を理解している事の方が多いかも知れない。

 そう思えるのは三年前から少しずつ入会した四つの学会を通して、或いはそれ以前からYNの私塾やカルチャーセンターその他でのHNKMTYMIKNSTSG等々といった人達と実際に話したりする機会を得る事が出来、学会入会後も数百人程の有名無名の学者、研究者、医師といった人達と実際に会合等で出会う機会を得てから特にそう思う様になったのである。

 そして概して有名人とか著名人は本人に出会って話したりするとがっかりする事の方が正直多かった。勿論中にはTIの様に東大の総長に迄推挙されるだけあって好感の持てると思える出会いもシンポジウムとかワークショップとかでもあったけれど、特に出版企業界という処のある種の虚栄的な虚妄性を知っているものだから(私は三十代前半に出版社にも勤め、その会社を辞めた後も色々な場で出版関係者とは会う事もあった)、尚更、仕事自体の意義とか存在理由と仕事をした本人のそれとは全く別だと思う様になってきている。

 だから逆に著述家とかでなく一般人であっても(どういう人を一般人と呼び、どういう人をそうでない呼び方にするかという事も凄く恣意的なのだけれど)、たとえ文章に拠る表現力の全く無い人でも凄く偉大な思想の持ち主は居るだろう、と私は考えている。否大勢の著名人と出会う以前に出会った普通の人達の方が今から考えると、日常的思想等ではずっと偉大なものを持っている人が多かった、とそう思いさえする。それはある程度根拠のある感じ方であって、作品とか仕事で感銘を受けると、その筆者や作者を神格化させてしまいやすく、そういう仕事との出会いなく出会うある人物の人間性へ感銘を受けるよりも、より厳しい評価を仕事との出会いを持った後にその仕事をした当人と出会うとしてしまう、という事があるからである。

 ともあれ東京近郊に住むという事は、それだけでかなり著名人とも直に会う機会も多く持つという事であるとは確かに言える事である。

 ハイデガーは世人と哲学者を分けて、世人は頽落していると捉えているし、ベルグソンは寄生的自我に絡め取られていると普通の人の事を蔑み、哲学者を根源的自我を問う一段崇高な部類であるとしている。要するに彼等は完全なる上から目線の思想の持ち主なのである。

 そういった意味では古来より哲学者とは極めてデカタンで極めて哲学者の集団とは悪質なコミュ二ティであり続けてきたとさえ言える。

 同じ上から目線とか冷たい視線とかを生物学者や物理学者、数学者、論理学者等からも別の場所で嫌という程晒されてきたのだけれど、もう一々そういう事に対して敏感に反応するという事自体が大分前から無くなっていた。要するに場馴れしてきたのだ。一々つまらない事を気にする事がなくなった代わりにかつて持っていた純粋な気持ちも薄れてきた。そしてそういう純粋な向学心みたいなものは失ってはいけないとそう思いつつ、しかし同時に俗世を渡っていくにはこちらも悪辣でなければいけないとも思ってきている。

 俗があるから聖を求めるのが人間であるが、俗であるとは戦略的であるという事でもあり、例えば中島義道は『非社交的社交性』(講談社現代新書)である中年の塾生(氏の主催する哲学塾カントの)がある記述に対し、それはへーゲル的だと言及するとすかさず「きちんとヘーゲルを理解していない貴方がそんな事を言ってはいけない」と窘めた話を書いている。同書で中島は一般的に塾生になる人達が純粋過ぎて(悪い意味で)、哲学で食っていくという事は要するに悪になりきるという事だ(だから大半の塾生はプロの哲学者にはなれない)と言い切っている。その様な言及は中島の尊敬するカントやニーチェ等の哲学者の主張する誠実性に遵守した嘘のない記述だ、とも言える。

 しかし塾生として真摯に哲学に向き合う時いい加減に哲学史通説を鵜呑みにするのはいけないと教授したい中島の気持ちは理解出来るが、我々の社会とは定説とか世間一般の通念で動いていて、それは当の哲学者も(中島の崇拝するカントさえヒュームを取り扱う際等には)その哲学者本人の思想より、その思想が哲学史的に後代の、或いは共時的な他の哲学専門家全てからどう受け取られているかという事それ自体を、例えば我々はデカルトとかカントとかニーチェとかフッサールという固有名詞を利用する時に主眼としている。それは一般的受け取られ方であり、自分が真摯にデカルトを精読する事で得る何かに就いてしか語ってはいけないというのなら、まさに全ての一般的な歴史的な記述を差し控えねばならなくなってしまう。

 中島的主張は一面では正しいが、それはユニヴァーサルではない。世の中は常に他人の意見というものに満ち溢れていて、自分自身ではそう思えないという事の方が哲学的には重要で、それこそが誠実性であるという主張は正しいとしても、我々は日常的に全ての言説を誠実性にのみ依拠させて語るわけではない。先程述べた様に戦略的にも語るのだ。

 そして客観的にある筆者、ある作者を語ろうとする時却ってその当人の事をよく知り過ぎている事は弊害となるだろう。寧ろその当人がどんなタイプの人であるか知らずにある舞台を観てその演出手腕を批評したり、映画を観て批評したり、音楽作品を聴いて作曲の仕方を分析する事の方が、それら作者の有様を知ってするよりも有効に作用する事は多い。と言うよりそちらの方を本人、当人の人間性より重視すべきなのである。

 中島が塾生に諭す事は、それとは確かに意味が違う。ヘーゲルをきちんと読みもせずそういう受け取り方をするな、という意見は塾長としては正しいであろうが、世間一般がヘーゲルをどう受け取っているかという事で、「そういう考えはヘーゲル的ですね」と言って、その世間一般の通念と合っているのなら(合っていなかったのかも知れないが、そうでないなら)、その意見そのものを封殺する理由もないとも言えるからだ。

 我々は筆者、作者当人がどうであるかという事を知れる出会いより、作品との出会いを求めるべきだとは、私が経験的にその本人と出会って後に、その本人の仕事へ関心が強い場合には、本人と直に出会うチャンスを少なくさせる事からより多くをテクストからは得てきて正しいと思う、という事を本記事で言いたかった。

 その点では中島に拠る塾生への叱責はそれとはレヴェルの違う事ではない。にも関わらず塾生の一般的通念としてその意見が間違っていないのなら、その意見も封殺すべきではないという別の考えは、私の筆者、作者と作品とか仕事とを切り離すべきだ、という考えと両立し得るものだと思えるのである。

 何故なら我々は作品や仕事それ自体とも出会うのだけれど、そしてそれは極めて自分史的には重要なのだけれど、それ程重要ではない出会いとして、ヘーゲルならヘーゲル自身とではなく、一般にヘーゲルとはどう受け取られているかという事実(世間一般の事実)とも出会うからである。

 そして前者の出会い、きちんとヘーゲルのテクストと向き合うという重要な出会いと、後者の惰性的にヘーゲルに関する知識を得る事という非重要な出会いとが人生ではどんな場面でも、どんな領域でも共存している、そしてその事実全体へどう志向するか、どう向き合うかが重要であると、そうも思えるからである。

 そしてそれは筆者、作者と出会うよりその作品、仕事自体と出会う出会いの方が重要であるという真理を支えこそすれ、排斥する問題ではない、とそう思えるのである。

 付記 きっと中島へのその塾生の発言の仕方が独断的なもので適切ではなかったからであろう。そしてその発言内容の実際にヘーゲル的だという事自体が適切ではなかったのだろう。私が本文で述べている世間一般の通念を語る事は無意味ではないという事と、その事は別の事かも知れないが、話の筋として利用させて貰った。(Nameless-value)

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リスタート形容詞論Part15「悔しい」、「疚しい」「後ろめたい」「後暗い」②/動詞の在り方を考えるPart15「悔やむ」②

リスタート~Part12/動詞の在り方~Part12/時間と空間Part76 http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/part12part12par.html で述べた事でもあるし、極めて重要なので再度考察するが、「恥ずかしい」「後ろめたい」「後暗い」「疚しい」といった感情はそれを報告する者にとって、その感情が鎮静化され過去となった時点でのみ告白する事はそれ程不自然ではなく(当然告白する相手は信用している相手である)、今まさにそう思っているのなら、そう報告し得ないだろう。つまり報告しなければいけない状況を避け様とするだろう。だから逆に今そうであると容易に告白し得るのなら、それはそれ程恥ずかしくも、後ろめたくも、後暗くも、疚しくもないのだ。そう言わなければ体裁が悪いので一応そういう事にしておこうと形式的にいい子ぶっているに過ぎない。

  「悲しい」も「痛い」もそう語れる内はそれ程ではないと言えるけれど、この場合後悔の念と自責の念とが入り混じっている「恥ずかしい」「後ろめたい」「後暗い」「疚しい」とは本質的に性格が違う。悲しい時でも気楽に会話する事は出来ないけれど、自分自身の責任的な後悔や贖罪心理で人と対したくはないというのとは基本的に異なっている。だから疚しく思わず「今は一人にしておいてくれないか」と相手へ請求出来る。又、痛い場合は今は話したくはないと要請する意味で使えるし、相手が医師であるなら治療請求となる。

 又「大きい-小さい」も仕立て屋から貴方の身体のサイズは以前仕立てた貴方のお姉さんより貴方の方が大きいですねと言われても、「はい、姉より私の方が大きいです」と返答する際に羞恥は伴わない。仮に男性から「君の乳房は君のお姉さんより大きくて立派だね」と言われたとしても、それはそう言われる事に羞恥は伴うけれど、「恥ずかしい」(これは倫理的意味での「恥ずかしい」である。そしてそれは後ろめたかったり、後暗かったり、疚しかったりするから「恥ずかしい」のである)「後ろめたい」「後暗い」「疚しい」という場合に伴う、そういう感情を抱いている事を極力他者から気づかれずに居たいと願う羞恥とは本質的に異なる。裸を見られる羞恥に自責的、贖罪的なものは伴わないが、倫理的、責任後悔的な事は自責的、贖罪的であるが故に、それを報告する事は過去となった時点であの時は、という形以外でなら報告機会そのものを避けたいと我々は願う。何故なら今直ぐに誰かと会い現状を報告しなければならないのなら、その時その会った相手から近状を質問され、「変わりなくしていますよ」と嘘をつかなければ格好悪いと思い嘘をついてしまい、今現時点でちょっと前に何かがあって責任後悔的、贖罪的である事を誤魔化してしまいそうで、そういう風にたとえ会う相手と社会責任的な関係になくても嘘を付く事は後々好ましい事ではないと思う(だからこそ責任後悔的、贖罪的心理に我々はなる)からである。

 「悔やむ」「悔いる」とは過去に於いて責任を果たせず、理性の声に逆らって(或いはそれを聞こうとせず)贖罪的心理となる事それ自体を意味する動詞である。それは偽証したり嘘を付いたりした事を我々は決して忘れないという事を意味している。

 永井均は言語とは思う事と違って嘘を可能にするミニマルなツールだ(そういう語彙を使っているのではないけれど意味的に)とそう『哲学の密かな闘い』で述べている。第八章 語りえぬものを示す(2)で永井は<嘘がつけない言語としての私的言語へ>と題打って一節に当てている。重要な箇所だと思われるので長いけれどそのまま引用しておこう。

 偽なることを言うことも、嘘をつくことも、もちろん可能である。しかし、嘘なることを思うことは可能だが、嘘を思うことは不可能である。もちろん、嘘である内容のことを思い浮かべることはできるが、それはただ思い浮かべているだけで、そう思っているわけではない。嘘を思うことができないのは、嘘が定義上「思っていることに反すること」だからである。したがって、嘘を思うとは概念矛盾となる。(注管理人。要するに「思う」という事の定義は「それが正しく実在的にも価値的にも存在すると思う<知る>事へ思いを照準し得る事」なのである。)もちろん、思っていることに反することを言うことはできる。すなわち、その林檎は青いのに青くないと偽なることを思ったり、青いと思っているのに青くないと嘘をついたりすることはできるが、青いと思っているのに青くないと嘘を思うことはできない、ということである。

 このことを偽という観点から見ると、世界に生起するさまざまな事象のうち自分の思いという特殊な事象に関しては、それを謝って表象することができない、ということになる。

 しかし嘘を思うことができないというのは、必ずしもこういう誤表象の不可能性ということではない。表象の必然的な正しさは前提しても、その上でなお、その表象に反することを思うことができない、ということである。すなわち、偽は世界の事象との不一致だから、(その世界の事象がたまたま自分の思いでない限り)それを思うことも言うこともできるが、嘘は思いとの不一致だから、もはやそれを思うことはできず、ただ「つく」ことしかできない、ということである。

 この観点から自己を定義するなら、世界の事象を表象してそれが真だったり偽だったりでき、それを他者に向かって語ってそれが本当だったり嘘だったりできるが、その表象様態は偽であることができず(すなわち捉え損ねることができず)、またそれについて自分に嘘をつくこともできないもの、となる。ここで言う自己は私ではない。自己概念がすでに成立していれば、私は諸自己の一例である。しかし、私がその例であることは自己証明できるが、他人がそうであることは私には決してわからない。それはそれぞれ自己証明されるだけである。

 だから当然、嘘は他人に対してしかつけない、と思われるかもしれないが、実はそうではない。時間を隔てた自己は、ただ言語によってのみ伝達可能な他者であって、したがって嘘を「つく」ことが可能な関係を構成するからである。(管理人注。とは言え、それはその嘘をついた事を忘れている限りであろう。何時迄も過去に自分の日記とかに後で読む自分へ嘘をついた事を覚えている場合もある。尤もそんな日記を後で読もうと思うか否かは又別である。)カントが自己触発と呼ぶこともこのことに関係しており、また、このことの結果として、この意味での他者を統合した人間的自己が成立するわけである。(334336ページより、ぷねうま舎刊)

 この部分で永井は最終的には他者を統合した人間的自己という信頼関係とか信用という社会的な心的作用を通した自己同一性へと問題を拡張している。そしてそれは何故我々は何かに対して倫理的に気恥かしさを感じ取っている時には人と会いたくなかったり、後ろめたい気持ちを他者から察知されたくなかったり(まさにそれが恥ずかしい気持ちの極致なのだけれど)、後暗さ、疚しさを他者へ報告する事それ自体を躊躇させるのかと問われる自己ではないだろうか?それを平気で出来ないという処に自己へ嘘をつけない(嘘とは他者に対してだけであり、時間を経過してかなり過去となった事に関して過去の自分に拠って欺かれるという事の可能性<ところで私は殆どそういう事はない。過去の自己の悪事をきちんと記憶している>だけしか自己へは適用され得ない)というアクトゥアリテートが存するのである。

 この部分の永井の論述は倫理問題と社会問題との接点で語られており、しばしばライヴァル的なポジションとして出版企業界で知られる中島義道の『悪への自由 カント倫理学の深層文法』での『実・批』その他でのカントに拠る偽証の訴追として語られるパレーシアを通した誠実性の命題をも俎上に乗せる事を可能にする問題提起であるので、次回以降中島の問題提起共々、倫理問題としての嘘や偽証と、それを回避する自由因果性としての理性的判断に就いて動詞、形容詞論として考えていきたい。

 尚今回の結論として考えられる事とは、要するに嘘をついてしまったり、偽証したりしてしまった自己への責任的後悔や贖罪から引き出されている「恥ずかしい」「後ろめたい」「後暗い」「疚しい」といった感情形容とは、「大きい-小さい」と違ってその形容を自己に関する言及として他者へ示す事に羞恥が伴うという事は、羞恥という感情が人間理性に拠る良心と不可分の関係にあるという事を物語っているという事が一点である。

 そしてもう一つの重要な点とは、この様な対自己言及的な事を告白し難い羞恥を伴う形容詞も、そういった贖罪心理を一切伴わない形容詞も共に言語行為上では文法規定的に同一機能のものとして語られる言語認識に於ける合理思考がある、という事だ。これは特筆すべき事である。

 何故なら「形容詞の在り方を考える」シリーズで定義した①分類の悟性判断形容詞と、③分類の内的心情、内的感情形容詞とは、統語(syntax)的な文法解析として以外であるなら、そのセンテンス全体への統語秩序奉仕以外ではまるっきり意味的に発話者・記述者が聴者・読者を内的に刺激する機能は明確に異なるからである。

 確かに対自分の事なら永井の言う様に我々はそれが自分自身に関する言動に於いて決して只ならぬ気持ち以外さらりと受け流す事は外面的に平静を装っていても不可能であるが、その事を他者から告白されても、それは相手のその告白を嘘ではないと信じる事以上にアクトゥアリテートにその真実を証明し得ない(上記文章で永井も言及しているけれど)。その意味では③分類の形容詞の内的な事に於ける自他の絶対的壁とは即ち他者記述とは心理的な事以上ではない(決して現象的な意味では自分、自己しか分からない)という事だ。

 そしてその事はとりもなおさず、だからこそ永井に拠っても最終的に引用文章で示されている様に内的自己を社会的自己へとメタ転換する事で、他者をも自己へ統合し、相手の気持ちを分かった事にするという信頼、信用という心的作用こそが、言語行為上での不可欠的作用だという事を物語っていると言えるのではないだろうか?

 付記 過去に他者へついた嘘やいい子ぶり(これも立派な嘘である)や偽証を何時迄も忘れないというのはPart13/Part13/Part76での過去化された自己言動を「大きくする」(overestimate)事でもあろう。そしてそのベーシック動詞の使用こそが常に人間に羞恥を感じさせる事を通して自己反省へと誘う良心という理性的な判断が我々に備わっているのだと言える事なのではないだろうか?(Nameless-value)

リスタート形容詞論Part13「悔しい」、「疚しい」「後ろめたい」「後暗い」①/動詞の在り方を考えるPart13「悔やむ」①  http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/part13-c510.html

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2013年6月19日 (水)

6月18日のFB.とTwitter(「いいね!」★、favorite●)

★自然科学を批判する大きな存在として文学と哲学が考えられるけど、要するにこの二つは宗教倫理性と不可分な部分があるのだ。セラーズは科学とは宗教の一部が具現化されたものだと捉えたけど、論理学はそういったどろどろした一切の論議を避け推論だけにかまける。でも人間は一方では科学的合理性の名の下に快適な生活を送りたいけど、人間の自然界への謀反やら他の生命への無慈悲を激烈に贖罪心理で糾弾したいのだ。

★結論として人間は常に進歩と進化という未来への可能性で自己内部の青年性に目覚めている瞬間と、徐々に年老いていく事でどうしても得てしまう保守安定的気分の瞬間とが交互に立ち現れ、その二つのいずれかだけが全面を支配する事なんてないって事だよね。

★★空梅雨の曇り蒸す空仰ぎ見る

★人間の前向きな感情と後ろ向きの感情は、別々にあるのではなく、恐らく表裏一体のものとして常に矛盾して一つの塊となって、ある時は前進を命じ、ある時は後退を命じる

★神という論理と、宗教感情とは全く切り離されたものだ、と捉える必要性もかなりある、とは言える

●実在を起源から考える時存在の神の様なものを設定する事は思考的にはしやすい。要するに起源を零から一への移行と捉える時、それを誘発させたものを神と捉えるのだ。だがこれは思考の癖とも言うべき事で、宗教感情が実在(として)の神を尊崇する事とは違う。

○自然の偉大なる力を精神的にメタ認知する時、神がかった力という形で立ち現れるものこそ、論理形式としての神と言えるかも知れない

★★★アートでも詩でも数学でもそれしか能のない人は、未来に天才として残る人も含め(そんな事言ったって誰が残るかなって誰にも分からない)、大半がそういった事を一切分からない人達以上に差別的目で見られるという事だけは覚悟する必要はあるね。

★職業哲学者って、喧嘩辻説法師って事で、要するに文章の上でも論議の上でも言葉で勝利する事の出来ない人は目指すべきでないね。僕は論議は下手だから大学で教鞭を取れないタイプなんだけど。

★★ロジカルシンキングもアート作品制作も虚栄心で結構な処迄行けるけど、詩とかって絶対に虚栄心では書けない部分がある。って言うより、そういう部分で勝負するしかないちょっと普通の野心ではない部分での仕事だよね。

★★★★★アーティストとか詩人に対して他人はそこに悲劇を読み取れれば取れる程神話化出来て嬉しいし、興味も関心も持てるけれど、当事者として食えない彼等(僕も混ぜて)にしてみれば常に生きるという事自体が死活問題以外ではないのだ。

★★政治でも経済でも何でも人が何か必死こいている姿って何処か滑稽でしょう。要するに他人に対して、当事者でない限り全ては滑稽で、喜劇なのだ。が少しでも自分の事になれば、指先一つ痛い事だって悲劇以外ではないのだ。人間の本質的なエゴイズムとはこれでもよく分かる。

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動詞の在り方を考えるPart14「感じる」⇒「迷う」⇒「焦る」⇒「疑う」⇒「悟る」・「感じる」/リスタート形容詞論Part14「可笑しい」⇒「痛い」・「歯痒い」⇒「辛い」・「苦しい」

 我々は「裏切りがこの世界の本質かもしれない」というマルセルの言葉(既出書、1223173ページより)を待つ迄もなく、ある部分かなり期待、予想、希望、願望、予測を裏切るものとして世界を理解している。これはニヒリズム以前的にそうである。どうにもならなさという世界のリアルの前で我々は死を自身の死としても、世界の死としても直観する。要するに我々はあらゆる不可抗力、不条理、理不尽を承知でこの世界を何とか泳ぎきっていこうとその都度決意している。

 「感じる」事は常に我々のしている事である。しかし感じる感じ方はその時に拠って大きく違う。つまりある感じが別の感じになっていく間に様々な我々の人生上での経験がある。だから今ある感じを得ているとして、それを誘引したある悟りとは、そう悟る前迄は違う感じに満たされていたのである。

 その点を考慮すれば「感じる」という事がある時、その感じ自体へ迷いを得てしまう事があって、その迷いとは焦りを生む。しかしその焦りを鎮静化させる為に我々は何故と問う。そこで疑い、やがて悟る。これが多くの哲学者の行ってきた事である。だから「感じる」⇒「迷う」⇒「焦る」⇒「疑う」⇒「悟る」・「感じる」というプロセスがあって、最初に持っていた「感じる」と最後に悟る事で得る「感じる」感じ方は異なる。最初の「感じる」はあくまで迷い焦り疑い悟る為の発端であり前哨戦であり、最後の「感じる」はそのプロセスの末に得られる別種の感じである。

 そしてこのレヴェルの違う感じを体得する事の反復こそが生である。人生である。

 この迷い焦り疑う事の最大のものは明らかに魂と身体との関係である。私とか私としての意識とか想念と身体とは一致している時もあるけれど、不一致にしか感じられない時もある。この事を古来より哲学者はずっと懊悩し続けてきたのだ。

 「魂は希望によってのみ存在する。希望とは、おそらくわれわれの魂が造られている材料である。」とマルセルは述べている(317日)。しかしその翌日魂、或いは身体と一体化しつつも、乖離する私や私の意識に就いて懊悩する様を記述する。

三月二十七日

(前略)

 付随性という観念を、まえに「私の身体」について書いたことと関連させてみること。

 私は、身体性とは、誰かの身体と考えるのでなければ、生きたものとして身体を表象できないようにさせる特性である、と考えたい。

 身体性は、存在(ある)と所有(もつ)の緩衝地帯である。あらゆる所有(もつ)は或るしかたで、私の身体に関連して定義される。私の身体は、絶対的な所有(もつ)であることによって、どんな意味でも所有(もつ)であることを止めるものである。所有(もつ)ということは、((持つ物))を自由にすることができるということ、((持つ物))に対して力を所有するということである。この自由にすること、あるいはこの力をもつということには、必ず有機体の介在がふくまれている。ところが、この有機体自身は、まさにそのことによって、私が自由にできるとは言えなくなるということは、明らかだと思われる。おそらく、私に事物を自由にすることを得させるこのものを、私が現実に自由にすることができないという点に、付随性ということの形而上学的な神秘があるのであろう。しかし、何といっても、私には私の身体を自由にすることができるではないか、なぜといって私は自殺する物理的な可能性をもっているから、と反対する者もあろう。しかしながら、このようにして私の身体を自由にすることは、直接、それを自由にできないことに終わるので、結局はそうした不可能性と一致する、ということは明らかである。私の身体は、それを自由にする可能性がもはや全然ない状態に投げこむことによる以外に、絶対的な意味で自由にできないものである。したがって実際には、絶対的に自由にできるこの場合は、それを使用できぬものとして棄てることになるのである。

 私はたとえば身体を動かすという範囲内で、私の身体を自由にする、といって反対したいと思うだろうか。しかし別の意味では、この同じことの範囲内で、私が私の身体を頼りにし、そのおかげをうけている、ということも明らかなことである。要するに、私が私の身体を自由にすると考えることができるような条件をうちたてたいと、私が切に願っているということは、明らかである。しかし、それにおとらずはっきりしていることは、私の身体と私との間に、このような一義的な関係がいつか確立されうることに反対する何ものかが、私の構造自体の中にはある、ということである。このような事情は、私の身体が私に対して、いわば侵蝕してくるのをさまたげることができないことによるのであり、これは、私の人間として、あるいは、被造物としての条件に根ざすものである。(既出書、111~113ページより)

 

 ここで触れられている自殺の自由は、「動詞の在り方を考えるPart11」で自殺に就いて考察した様に、自殺する=生きる事を止める であるが故に自殺する(commit a suicide)とは第一グループ(自殺しようと決断する自由の時点のみ)且つ第四グループであり、その結果死ぬのであるから第二グループとなる(自分が無くなる事が自分に到来する<くる>)、という事だ。しかし第二グループになる事は自分で決断し自分である事ではなくなる事であるが故に、第四グループの止すという事が自由を失う事に拠ってだけ得られる最期の自由となってしまい、その矛盾は「その決断(意志)とは真に自由と呼べるのか」という命題を突きつける事をマルセルは示し、最終的に自己身体に拠って自由な意志と決断を為す場を得ている(つまり身体のおかげである)ので、我々は生き続けようとする限り、つまり身体に拠って完全自由ではない我々はその制限の中から私の自由を見出すしかないという現象学的(メルロ・ポンティ的)な理念と実在の相互補完性的な実在へと帰着させている。

 従って被造物の条件を請け負って生きる事とは、とりもなおさず絶対自由でなく相対自由を請け負う事であり、相対自由を不服とするなら絶対自由の最期の行使として自殺するしかないというテーゼをマルセルは突きつけるのである(尚この身体を通した相対自由の意志問題は反復してこの書に登場するので、その事に就いては次々会で再び触れる事とする)。

 もう少し日常的に卑近な例から考えてみよう。

老いに拠ってずっとこんな単純な身体的動作なんて造作なく出来るものと思っていたのに、ある日ちょっと何時もの様に足を持ち上げようとしたら、それが凄く容易でなくさっと動かなかったという様な事は年配者になればなる程頻繁に起きる事である。脳内(記憶から引き出そうとする身体的所作)では何時迄も自己身体への感覚は若い頃抱いていた侭であるのに、身体それ自体がその若い頃の記憶の侭には決して動いてくれないという形で老いとは身体の隅々に立ち現れてくるのだ。

哲学者とは実際の人生経験の年数に拠らず人生で会得する真理を直観で若い時期から成し得る(少なくともその名に恥じぬある程度偉大な人であるなら)。マルセルも又それを二十代後半から付け始めた日記的記述でそれをしていたのだ。

ところで少し違う内容の話に一旦逸れる。

哲学それ自体がそうだし、推論全体がそうなのだが、結局我々が何かを面白いとか退屈しないと読んでいる間に、観ている間に、聴いている間にそう思える事とは論理的充足性に依拠している部分がかなり大きい。読んでいる時、観ている時、聴いている時退屈せずかなり熱中して(集中して)それを読破したり鑑賞したりしても、読後、鑑賞後に迄ずっとそれが素晴らしいと思い続けられるかと言うと必ずしもそうとも言えないとは言える事だ。それは恐らく論理的作術性とか推論の完全性とかそういう事がもし充足されていても、それを必ず食み出る何か、それは直観的なもう一つの自分自身の声なのだろうけれど、それが、言われている、示されている、作られている事それ自体はかなり説得力がある(面白い)のだけれど、それでも何かしっくりと来ないんだよな、とそう囁く。

それが「面白さ(説得させられてはいる事)=感動させる事」とは言えない何かを我々に与えている。

そういう感慨が凄く心にどかっと顕在化する時とは、先程述べた老いに拠ってずっとこんな単純な身体的動作なんて造作なく出来るものと思っていたのに、ある日ちょっと何時もの様に足を持ち上げようとしたら、それが凄く容易でなくさっと動かなかったという様な事は年配者になればなる程頻繁に起きる事でも言えるのではないだろうか?

要するに心と身体とが必ずしも一体化していないという事実とは、面白さが必ずしも感動に迄は直結しないという事と関係がありはしないだろうか?それは「思う」に内在する決意と、その決意を自然に感じさせ得るかという事との間のずれとでも言える何かではないだろうか?

 もう一度動詞、形容詞という言葉に拠って記述される事自体へと問題を引き戻そう。

 焦るからたじろくのか、たじろぐから焦るのかはその時に拠って違うかも知れないし、同時的である様にも思えるし、そうでない場合もあるかも知れない。躊躇うのもそうである。そもそも焦りの感情とは躊躇いも含んでいるし、躊躇いとは焦りが生んでいる場合もある。だからたじろぎ躊躇うから疑うとも言い得るし、疑えばたじろぎ躊躇うとも言い得る。

 焦るからその焦る何かに対して疑いを抱く事もあるし、何かに疑いを持てば、その疑い始めたものへ信じ続けてきた事へ焦りを持つ事もあるだろう。だから感情を示す動詞はその時々の気持ちの赴く先を追跡しようとする対自的な意識が生み出してきたと言えるので、動詞毎の関係はどちらが先でどちらが後だと立ち現れる順を示す事は難しい。

 疑う=悩む+考える=躊躇うor引き延ばす{導く(結論)}

 上記の動詞式は我々が何かを感じる、感知するからこそ何かを何かだと信じる(信念を抱く)のだ、と言い得るけれど、何かを信じているからこそ、何かを見たり聞いたりした時、そのものに対して固有の感じを持つ、固有にその何かに対して感じるとも言い得る。そしてその全てに対して感じた事それ自体の確かさを疑う(不確かさを信じる)とか、信じてきた事それ自体の確かさを疑う(不確かさを信じる)という思いをふと持つ事はそんなに我々の日常生活上でも不思議な事ではない。その「その時はそう感じそう信じた事」自体へ懐疑の目を持つ事を促すものこそ反省意識である。その反省意識は過去を最早今はその時の状態ではないというあらゆる現在での観測データから導き出されている。

 「感じる」⇒「迷う」⇒「焦る」⇒「疑う」⇒「悟る」・「感じる」という本記事タイトルでの順序はだから必ずしも常にそう言い切れるものでもない。そして形容詞をその時々の感情に当て嵌めると「可笑しい」と感じ、迷い、焦るので事態の進行へ歯痒いと思える(或いは疑うので可笑しくその疑うものやことを感じ、それが続き事態が良く進行しないと焦る)のだし、それが長く続くと心が痛くもあるし、逆に何かへ心を痛く感じると歯痒い思いが立ち現れそれがなかなか消えないという事もある。それがずっと続くから辛く苦しいのだ。従って「可笑しい」⇒「痛い」・「歯痒い」⇒「辛い」・「苦しい」という順序も暫定的な事でしかない。

 そしてこれら一連の心の動きの中から再度改めてその段階で何かを感じ、悟ると言える。だから形容詞で「辛い」・「苦しい」の後に来るものも又「可笑しい」という思いかも知れないし、その可笑しさを正しく感じる(そう信念的に抱く)のなら、「辛い」・「苦しい」⇒「可笑しい」「可笑しい事が正しい」となるかも知れない。つまり正しいという信念は経験的に反復された事態から鑑みて一応そう結論して良いものとその段階では判断し得るという事に拠って引き出されている(当然その判断さえもっとロングスパンでは懐疑対象となり得るのだけれど)。その意味では「正しい」という形容詞は只単に名詞(指示対象)を修飾しているのみならず、誤った結論を正しいと思い込もうとする事とか偽証等全ての自己欺瞞的な事も含めて、それらは一つの決意である。又記述される限りでは「悟る」は同様に「感じる」という反復経験に拠って「正しい」と思う事であるが故にやはり一つの決意である。(つづく)

 付記 英語で今回登場した動詞、形容詞を記しておこう。

動詞「感じる」feel⇒「迷う」losestraywander⇒「焦る」be impatient about(of,at)be in hastebe in hurryhasten⇒「疑う」doubtsuspectwanderquestion⇒「悟る」realizeseesensediscoverbe awokenbe taught・「感じる」feel、「たじろぐ」shrinkflinchstaggerwince atunder)、draw back・「躊躇う」hesitatewaverpause on(upon)shy at(about)doinghold back fromfalter at(in)・マルセル引用部動詞「在る」bebe present・「持つ」haveownpossess/形容詞論Part14「可笑しい」strangefunnyridiculousabsurdcomicalunusualodd⇒「痛い」painfulstiffsore・「歯痒い」be impatient with⇒「辛い」hardbitterheavytryinglaborious・「苦しい」roughtryingtellingdistressfulpainful 尚マルセルの原書 Etre et Avoirはフランス語であるが、仏語語彙は次々回以降付記していく。(Nameless-value

 「動詞の在り方を考えるPart11」

 http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/part11-34ef.html

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2013年6月18日 (火)

6月17日のFB.(★「いいね!」)

文化人類学的見地と社会学的見地も自然人類学と切り離して考える事も本質的にはかなり難しい。専門性という分業システムが社会全体にどう作用するかは、それが適切な時もあるが、そうでなくトップダウン決定者(要するに為政者)の判断が適切でない時には危険である。

★哲学者の言う様に確かに全てを数値化する事で判断する事の危険性を科学は持っている。しかし哲学の持つ大いなる危険性とは心の問題それ自体が余りにもそれを論じる主体にとって茫漠としていて掴み処が無く哲学者の独善的主観へ陥りやすい事だ。その点では科学のいい処とは端的に必ず観察対象とか実在のデータ算出の為の素材がある事だ。

私の研究エリアは言語だが、この様に特定の素材という実在をある時には客観分析をして科学的に把握しつつ、哲学的、論理学的な原理を利用していくという仕方が最も極端なドグマを回避するメソッドではないだろうか?

その点で言語は自然科学的根拠(生物学、進化学、生理学、自然人類学的)と社会科学的根拠と哲学論理学的根拠が交差する研究エリアと言えないだろうか?

★要するに哲学にはどうしても拭い難くニヒリズムが漂ってしまう事が多いのだ。その点科学は人類の知の進歩とか進化に対して能天気である。全てへ懐疑的なタイプの者も必要だが、楽観的に人類全体の未来へ希望を持つタイプも世の中には必要である。

★以前各国でサミットが行われる度に各国首脳に混じって勝手に首脳同士の記念写真にさえ収まる白人のおじさんが居たけど、こういう時日本人は欧米人以外の数少ない参加者なので紛れ込めないよね。でも中国、韓国とかのアジアのサミットとかでなら可能だよね。いけない事かも知れないけど微笑ましくて罰する気分にならないね。

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2013年6月17日 (月)

言葉の慣用性とは何か?Part100 「丸―」にネガティヴミーニングが多い理由

 丸何とかという語彙の繋がりはどういう訳かネガティヴミーニング或いはネガティヴな事態を文脈的に意味するケースが多いと直観的に大分以前から発見していた。⇒ 言葉の慣用性とは何か?Part92 マネーと「丸め込む」 http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/part92-87fb.html

今回はその事に就いて述べてみよう。

 まず辞書(岩波書店刊の広辞苑と新潮現代国語辞典)でティヴミーニング或いはネガティヴな事態を文脈的に意味する語彙を列挙し、その丸の意味を分析してみよう。

丸写し、丸抱え、丸切り、丸腰、丸損、丸出し、丸っきり、丸潰れ、丸で、丸取り、丸投げ、丸呑み、丸剥ぎ、丸裸、丸秘、丸負け、丸々、丸見え、丸め込む、丸める、丸儲け、丸焼き、丸焼け

 上記では丸写しは論文とか答案用紙等ではコピペ、盗作、カンニングの意となるし、丸腰は決闘したり自己防衛したりする時に役立たぬという文脈で使われる。

丸取り、丸剥ぎ、丸裸、丸秘、丸儲け、丸焼き、丸焼け等は全てそういう被害に遭った場合に文脈的に使用する事が大半だし、自分で丸秘にしたり丸儲けしたりする場合でも陰謀とか策謀とか後暗い自覚がある場合が大半である。

丸切り、丸っきり、丸で等は必ず否定形に付く否定辞である。又丸め込む、丸める等では使役でも魂胆があり、受動態でも被害報告となる。

丸々も被害を受けた報告として使われる。そうでなくても魂胆がある。丸出しはバカ丸出しとかに拠って使われるし、丸潰れも面目丸潰れ等に拠って使われる。又丸呑みはよく考えずに納得するという否定意である。

 丸―の丸は新潮現代国語辞典では「欠けたところのないこと、完全、全体」という事項に該当する。英語ではcompleteperfectflawlessである。要するに全くもって駄目だという文脈から丸―が否定意である事が頻度として多いという事なのだ。

 121語中、22語が否定意の文脈で使用される事が大半であるので、ほぼ六分の一の語彙が否定意だという事だ。新潮現代国語辞典はコンサイスな辞典なので使用頻度の高い四十六語しか載っていない内のこの数なので日常慣用的にはこの頻度はかなり高いと言える。

 丸―の示す処の事とは、要するに疚しい、後ろめたい、後暗いという事は自分にとってはアクトゥアリテートにそうであり、自分の心へ嘘を付けない旨をこの全てという意味に付帯させているという事であり、他人に対しては、そういう自分への嘘の付けなさを加害者も重々承知している筈だという処から、丸を接頭辞として選択せしめているのである。陰謀、画策、策謀、魂胆を持つ自分の側から語る時のその直に心へ後ろめたさを忍ばせる現象的な心の在り方を、他者一般、第三者へも適用するという魂胆がこの丸―の語彙にあるものと思われる。そうする事でこの丸―を使う我々自身の他律的な悪へ誘引されやすさを、無意識の内に未然に防止しようとしている、とも受け取れる。

 能動態としてなら魂胆と陰謀があり、その為の後暗さが付き纏うという事と、受動態としてなら被害報告に供せられるという意味で、この丸―の持つ機能は日常的には多用されていて、こういった使い方の語句としては他には狂や乱があるので、次回以降はそれらに就いて言及しよう。

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6月16日のFB.(★「いいね!」)

★★今日の日曜討論の模様が痛快だった。古典経済学者と思しき高橋伸彰氏に拠る発言に対する竹中平蔵氏の憮然とした表情が滑稽だった。本田悦朗氏は明快な成長主義者だった。熊野英生氏は理想提唱論者だった。カムバックを果たしつつある竹中氏ではあるが、依然周囲からの批判は大きいだろう(日銀候補では最初に篩い落とされた)。さて日本経済の舵取りはどうなるだろう?

★★哲学は数学ではない。にも関わらず一定の論理法則を倫理学でさえ求めようとする。哲学的思考に純粋なオリジナリティが可能だろうか?疑わしい。では文学やアートにはそれがあるのだろうか?根源的にはそこにもそれはないのかも知れないが、出来上がった作品が何とかその体裁を保っている。では数学にオリジナリティがあるか?数式の展開のさせ方、関数その他の設定の仕方とかにあるのだろう。がそれは記号配列故アートのそれとは違う。人間自身のオリジナリティも遺伝子配列から考えれば根源的にない、となるが、具体的な顕現の仕方に唯一無二性を我々は見出す。

★一般的に現代の都会人は適当にその場その時をやり過ごす仕方は巧いが、思考は緻密ではない。そもそも本当に緻密な思考が出来るなら、都会になんて住めない。緻密な思考の塊の様な人間は必ず都市空間では精神的に変調を来す。そうでなければ異常な変人になる以外ない。では何が異常なのか?異常でない現代人等居るだろうか?

 付記 と言う事は精神に変調を来たしていぬ普通の人の方がずっと異常で、精神に変調を来す事自体が正常だとも言える事となる。

★緻密な思考の得意な人間は必ずそれ程ではない人なら持っているいい意味でのいい加減さを失う。神は二物を与えぬ。それは偉大なる哲学者には決定的に「何か」が完全欠落している事でも分かる。それは人間精神に極めて重要な「何か」だ。しかしそれが何かとは永遠に特定されないに違いない。恐らく科学に拠っても。

 付記 そんな「何か」とは論理の上では幻想となる。だが恐らくその都度複雑に色々な心的作用とか外界との接触とで作られる(セレンディピティとかも含めて)偶発的作用に対し一々反応しては驚いたり冷めたりする事それ自体が「何か」なのであり、全てを斉一的に合理で解釈しようとすると論理至上主義的な歪さが目立ってしまう。

★★音楽は緻密な技巧を要するが、緻密な思考だけでは演奏も歌唱も出来ない。作曲も緻密な思考とは少し違う。決定的にルーズな部分と決定的に厳密な部分が奇妙に同居しているものが音楽である。だが言葉に拠るメッセージはそうでない。その言葉を出す者はルーズでも言葉自体は百%厳密に作用する。(retweetも)

★★★ウィトゲンシュタインは音楽的哲学者である。ニーチェもそうだが、音楽の質が随分ウィトゲンシュタインと違っている。と言って彼等が音楽家を目指しても二流で終わっただろう。(retweetも)

★原発、核兵器、ウェブサイト。それ等全ても完全廃棄が不可能ではない。誰かが言い出し、皆がそれに同意すれば。三百年後がそうなる可能性のある時期ではないか?(勿論今生きている人は一人も居なくなっている) 付記 アメリカで深刻な原発事故が地震に拠って引き起こされるとか、核兵器が先進国へ発射される等の不穏な国際政治上の不穏等に拠って原発と核兵器を撤廃しようと人類全体が騒ぎだしたり、先程の「何か」がウェブサイト過剰利用では精神的に見失われていくと人類全体が覚醒する時期が原発、核兵器撤廃より後で齎されたりする気がするのである。

★日々欧米の宗教的文化遺産の良さとか意味とかが感性的に理解出来ない、という度合いが深まってきている。と言って凄く日本の古典文学がよく理解出来る様になってきたという事もない。と言って現代の文化遺産となると言われるものの多くに対してもうんざりしてきている。

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2013年6月16日 (日)

世界の真理Part27 日本人の像、世界の像他

☆日本人は能天気な虚栄心の持ち主である。アメリカ人も違う意味でそうである。尤も日本人は小権力のいじましい貪欲主義者であるが故に悪も小悪であるが、アメリカ人は大権力の貪欲主義者であるが故に悪も大悪である。共に中国人や韓国人には通用しない。北朝鮮人にも別の意味で通用しない。

☆韓国人は陰湿な虚栄心の持ち主である。中国人は本能的功利主義者である。

☆何十冊本を出しても大半の著述家は死後数年で歴史から消える。それでもいい、生きている間だけでも名声を手に出来ればいいという日本人の生き方は小享楽主義であり、大享楽主義には終ぞなれない。小享楽主義的成功者は、それでも無名の侭で居て声なき声として死んでいくよりずっとましだ、とそう頑なに考えている。何も語らず何も残さず死んでいく全ての人々の声は歴史には残らないけれど、生きている間だけ名声を獲得していた人達の声と声の間から読み取るしかない。しかしそれが恐らく一番大きな声として歴史には残る(勿論名前とかそういう事ではなく)。 注. 歴史に残る様な仕事をしている人が生きている間日本に世界に貢献しているとは限らない。歴史に残る事などないと知っていて(或いはそう幻想していて)今人々を楽しませている人の方がずっと今は日本に、世界に貢献している。

☆上記の日本人への記述は、全てそれを語る私にも当て嵌る。

☆現代世界は偉大なる天才を輩出させない様に機能している。偉大なる天才を輩出させる為に必要な偉大なる悪を輩出させない様に世界が構造的に機能しているからである。

☆日本人とか現代人とかへ罵詈雑言をする事は、有効な精神安定確保の為の方法である。鬱積している人は一日に一回はこういう風に日本人や現代人全体を罵倒しよう。

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6月14~15日のFB.

14

★★最近、林真理子が頻繁にTVにも登場して、売れ行きの良い『野心のすすめ』とかに就いて触れている。尤もかつて対談番組に出た時に自分が就職しようと活動して断られた企業から来た面接結果通知書を四十四通とか取っておいて、成功後にそれを示そうと考えていたという事は説得力がない。私も百数十社から断られた(父が暫くそれをとっていた)。

今の青年は百から二百どころかもっと多くの社を受け断られている人などざらである。こういう処がバブル期に世に出た林などの鈍感な処である。

バブル期にはそれ以外も大勢世に出た。林同様バブル期を彷彿させる存在は、吉本ばななであろう。椎名桜子とか消えた人も混ぜれば新井素子とか沢山が世に出た時代だった。

しかし彼女等にはっきり言いたい。今個に必要なのは野心以前に現実、そして要するに生き抜く知恵である、と。

 マスコミ、マスメディア全盛期に青春を送った成功者の言う事など相手にしてはいけない。

★これから風呂へ入って、市立美術館にアメリカンポップアートを鑑賞してくる

 付記 アメリカ現代アートのメッセージの明確さとそれを支える支持体等の確かなアートスキルには改めて感服した。日本アートは一つ前の記事でも書いたけれど水彩表現的なものの方がずっと得意であり、油彩その他の伝統的な西欧アートの水準には太刀打ち出来ないと思った。

★あらゆる意味でエンジニアの時代、コピーセンスのある絵文字発明者やウェブデザイナーの時代となっている。対し学術性はビジネスへ転用し得るもの以外非力である。思想自体が旧態依然的stanceで行っていても限界がある。人類はクリエーションとビジネスとエンタメと思想の境界を無化させていく方向でのみ進化していくだろう。学者バカ的なセンシビリティやセンシティヴィティのアカデミズムの通用する時代は哲学ブームの衰退と共に終焉を迎えた。

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★★★何かを面白いと思える時は、その何かを分かっている時とは限らない。何だか分からないのに、否そうだからこそ面白いと思えるのだ。と言って必ずその理由を探さねばならぬと思えぬ時もあるけれど、それが重要であるとかそうも思わないのは何故か?と問う事も可笑しいだろうか?

★実はアーティストのコミュ二ティに舞い戻って彼等に取り囲まれている時も、何か途轍もなく論戦を彼等なりに張ってお前はちっともアートを分かっていないという態度を随分取られてきた。同じ事を科学者のコミュ二ティでも商売人とか経営者と話していても、哲学者と話していても経験する(尤も哲学者コミュ二ティでは巧く仲間として潜り込め、それが却って災いしている部分もあるんだけど)。

 付記 時々あらゆる対人関係での苦悩など吹っ切っているかの如く吹聴する人も居るけれど、そんな事そんなに簡単に出来る事ではない。そう言い放つ事自体、そんなに吹っ切れていない証拠である。他者と他者全体が形成する集団、組織、共同体、そして世界の在り方こそが自己の在り方を規定している。その際に派生する様々な俗的な余分な付属物を一つ一つ剥ぎ取る事を哲学者は確かに試みてきたのだけれど、その様に取り組んでいかなければいけない一事で彼等も又決して対人関係で全てを吹っ切っている訳ではないと言えるのではないか?(Nameless-value)★数は「いいね!」の数

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2013年6月15日 (土)

Nameless-value流実践術・近未来予想/絶対儲かる文化ビジネス篇①

 今回はかなり巧くやれば儲かる可能性のある仕事内容に就いて考えてみたい。第一回目は文化的な仕事に限定する。例に拠って箇条書きにして示す(中には私自身が試みてみようと思っているものもあるので、それに関してはヒントを示すに留める)。

☆アートとは端的に完全にアート精神それ自体がテクニック(作品を仕上げる技術)に収斂されていなければいけない。その点で日本アートで世界的レヴェルのものは日本画、山水画、版画だけである(アクリリックは可能性があるが、油彩画は欧米とは太刀打ち出来ないと心得るべきである)

 しかしいずれの分野も現代なりの高水準で独創性のある仕事しか海外に迄は通用しない。しかも日本画も山水画も版画もモティーフ的に現代社会を反映したものでなければいけない。そういった処は俳句で東京ヘップバーンが現代の習慣や事物に対して季語を設定したのと同じ工夫を要す。版画に関してはコンピュータグラフィックスの高度なテクを融合させ、且つ日本の伝統美である和紙に木版画等に大いなる可能性がある。

☆文学は既に作家のクリエイティヴイデオロギーをナルシス的に示す時代は終わりを告げた。従って芥川賞や直木賞作家達だけが世界的に翻訳される時代も終焉している(例えば村上春樹はどちらの賞も受賞していない)。

 そこで今後文学で作品を提示しようと思えば、あらゆる学術的知識を駆使して作品化させていく事が正統となっていくだろう。事実、村上春樹は哲学、精神分析、生物学等の多様な知識を登場人物やストーリー、文体へ応用している。

☆又文学ではアートが実践してきた工房システム(それはマンガ等ではさいとうたかを等に拠っていち早く実践されてきているが)がずっとタブーだった。しかし今後は作家名とは最終的にスタッフを束ねる最終統括責任者の名であるだけで、かつてハーレクインロマンスが行っていた様な企業包みでPC等を駆使してストーリーや文体を決定する仕組みのものが伸していくであろう。

 つまり作品を一人だけの手に拠って書く事が絶対基準であった時代はじき終わるだろう(そういうものも残るが、絶対数的には作品のヴァリューと持続が困難なのでマイノリティとなっていくに違いない)。要するに制作現場自体が完全にアニメ、ゲームソフト等と境界が無くなっていく事だろう。

☆文学で形式的に世界的に制覇していく可能性があるのは俳句である。俳句は短く簡潔なので世界で教科書でも紹介されている。そこで翻訳ビジネスでは日本の俳句の仕事を紹介する事、そして俳句精神の内実を歴史と現状把握に於いて文化論、技術論的に日本語原語と翻訳とを兼ねて電子書籍化すれば当たる事は間違い無い。要するに俳句文化を翻訳ビジネスと翻訳文化と融合させる処に文化的にもビジネス的にも可能性があるものと思われる。

☆これはゲームソフトでも小説でもアートでもアニメででも何でもいいのであるが、現代生活でPC、スマホ、携帯、タブレット端末等の電子機器利用それ自体が生活を激変させた。その人類の今後百年から三百年位のスパンの近未来的テーマの内容のもの、そしてそこに人類学的、哲学的、思想的内容を盛り込んでいくものが伸していく可能性は極めて大きい。しかしそういった秀逸な作品をものすには、歴史的な知識と歴史観的素養を大いに要す故、ありとあらゆる分野での研究も欠かせない。アートであれ文学であれ何であれ人間自体をよく理解していないものはたとえ形式的な独創性があっても作品としては持たないだろう、とだけは容易に予想する事が出来る。

Jポップはきゃりーぱみゅぱみゅ等に既に実証済みであるけれど、ステージ衣装、メイクアップ、照明、舞台美術、ダンス振り付け等と作詞作曲等がティームプレイで臨み、尚且つモブフラッシュ的な営利非営利の境界のない戦略で宣伝している。この戦略はありとあらゆるジャンルで適用されていくであろう。そういった意味ではアートギャラリーや美術館の戦略も多様化してくであろうし、出版ビジネスも多角メディア戦略化せざるを得ないであろう。

☆芸能に於いてより昨今目覚しいのは物真似芸とカラオケ点数競い合いのシンギング等との境界が無化されつつある、という事である。純粋なカラオケ芸としてさくらまやが居るし、物真似ではミラクルひかるが居る。とりわけミラクルひかるは、最初は宇多田ヒカルの物真似芸で売り出した。しかしヒッキー自身の賞味期限もいずれ切れると察知した彼女は、今では既に多様なタレントの物真似をしているし、持ち前のグラマーさから水着等のグラビアモデル等も兼用している。

 この様に当初のstanceを時代の変遷と共に変更させていく事をミラクルひかる戦略と呼ぼう(今の処彼女以上にその戦略で成功しているタレントは少ない)。

 要するに、当初のstanceを何時迄も拘るという仕方は既に時効となっていると考えた方がいい。戦略等その都度ころころと変えていくべきなのである。一つの仕方へと拘っているのは無能者のする事である。

 これからのクリエイティヴィティは常に新しい情報を摂取しつつ、伝統的な良さを活かす柔軟性、そして何よりあらゆる既成の鋳型へと自己を嵌め込むステレオタイプから如何に脱出していくかが成功・非成功の分かれ目となっていく事だけは間違い無い。

 その意味でもミラクルひかる戦略から学べる処は大きいと言わねばなるまい。

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2013年6月14日 (金)

6月10日のFB.とその事への付記

中島義道『真理のための闘争 中島義道の哲学課外授業』を大分前に買って十ページくらい読んでほっぽらかしておいていた続きを今日一日で全部読んだ。読み進めればかなり面白く一気に読めたし、色々と参考となった。

尤もこの種の本はかなり育ちのいい人だけしか関心を示さぬだろう(中島義道<我が最初の哲学の師は若い頃実に大学と院とを合わせ十六年の学生生活を送っている。この長さは茂木健一郎の十二年をも上回る。私が師と出会った時六十二歳だったので実にその人生での四分の一以上を学生生活に費やしていたのだ)。

世の中ではビッグダディとの二年の結婚生活でようやく人生のオアシスを獲得した(尤もその後離婚するのだが)林下美奈子の本とかの方を多く関心を注ぐ人達も居る。尤も苦労話的本はその時しか読まれない。

震災以降中島節を緩めぬ事は一部哲学愛好者や哲学者の一部を除き賞賛せぬだろう。それでも中島節を緩めぬ処にヨシミチストにと.って快があると言える。

そして恐らくカントが今でも読まれる様な意味でこの種の中島の本も未来では読まれぬだろう。

尤も現代のカント解釈家としての哲学者には故・ウィルフリド・セラーズと、南アのジョン・マクダウェルが居る(分析哲学では)。

中島はマクダウェルを現代のカントとしているらしいが、カント専門家はマクダウェルを流行哲学者だと一刀両断にする。一体現代哲学者の誰が歴史に残るだろうか?カント等程残る者は殆ど居まい。

世の評価は常に何に関しても二分している。

例えば徳川慶喜(十五代将軍)の歴史的評価は真っ二つに分かれている。第二次長州征伐撤退にせよ大政奉還にせよ、英断説と卑怯説とに二分されている。

日本史とは要するに古代での天皇家の内紛、南北朝時代の分裂等の陰謀を除けば、概ね天皇家の体面とそれを支える公家の利害関係に沿った形で武将が官軍となり、賊軍にならぬ様に葛藤する武将間での闘争に明け暮れたと言っていい。

その点では平安時代では公家間の陰謀と画策が顕在化したが、鎌倉時代以降は完全に武将主体の陰謀と権力闘争へと移行した。

対し朝鮮史では、比較的最近(日帝時代迄)ずっと王朝内での陰謀が跋扈し続けた。それは『トンイ』『イニョン王妃の男』で描かれるスクチョン(粛宗)の時代にせよ、李氏朝鮮王朝時代から現代迄一貫している。不正と賄賂と裏切りの連続なのである。その点が日帝に付け入られた最大の原因でもある。

さて現代日本へ目を移すと、芸能界ではAKB48のセンターポジション獲得が総選挙に拠って指原莉乃へ確定したが、一度彼氏を作ってHKTへ左遷されての返り咲きであった。

面白い事に多くのメンバー達は上位に選ばれると「ファン、そして私達を支えて下さった方達、そして仲間のお陰です」と挙って演説する。このいい子ぶりは日本芸能界の殊に若い世代の競争主義的世界で通念化している。これは哲学用語で言えばベルグソンの「寄生的自我」、或いはハイデガーの頽落である。サルトルの自己欺瞞と言ってもいい。カントの理性の私的利用と言ってもいい。

この営業的卑屈的態度の肯定的押し売りは果たして韓国でもなのだろうか?(中国では決してないだろう)

そこら辺の文化人類学的考察を哲学的な考察と重ね合わせると読み応えあるものが書けるかも知れない。(「いいね!」)

付記 中国人も韓国人もビジネスとか学術的仕事、水商売とかで来日している人達は皆個人的には友好的だしいい人達である。そして韓国スター達はKポップでもドラマの役者でも日本では日本人の色々な習慣に合わせて(模倣して)日本人の機嫌を取るのが巧い。しかしだからと言って向こう(韓国でも、中国人なら中国でも)でもそういう態度で居るとは限らない。

これは中島の件の本でも触れられているが、日本では「すみません」「すいません」というのが慣用句なのである。しかしアメリカでは容易に人に謝ってはいけないとされる。肩が歩いている時擦れ違った人とぶつかり合ってどうという事がない時のみExcuse meと言うくらいが関の山である。

中国では「皆さんのお陰です」等と言おうものなら、それ迄奢ってあげた人がその分を請求さえしてくるのかも知れないし、そういう風に言う事はあたかも賄賂とかを貰っているという事の告白と受け取られかねないのかも知れない。兎に角何を言い合ってもお互い性善説的な世間である処の日本では若い人が年配者へ謙ってそういう言い方をする事が普通であるが、年配者が絶対である韓国では、そういう言い方は白々しいと受け取られるのかも知れないし、中国の様なドライな商売根性の民族国家では公衆の面前でそういう美辞麗句を言う事は潔い事ではないのかも知れない。兎に角彼等は日本人ほどそういう慣用句を使わない。これは確かである。

何か名誉ある賞を授賞した時アメリカ人もThank you very muchladies and gentlemen等と言うけれど、I think that my success owes to your cooperation等とは決して言わないとは言えぬけれど、何時も慣用句的には言わないとは言えよう。

要するに慣用句的に(と言う事は決まり文句の様に。それは「つまらないものですが」等と言うのと同じ事である)言うという事自体が極めて誠実さが伝わらないとアメリカ人なら考えているかも知れない。

又アメリカ人とは相手が誰であれ儲かればビジネスを一緒にするし取引もする。それは長年の付き合いで相手を信用するという事とも違うもっとドライな割り切り方である。その点では日本人より中国人はそうであろうと思われるし、韓国人はそれ程ではなく日本人と近い処があるだろうけれど、昨今着々と中国、アメリカ化している、と考えた方がいいかも知れない、とは言い得るのではないか?(Nameless-value

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いじめ問題の本質とは?

 いじめ、体罰問題が表面化している現状に鑑み安倍政権が文科省を通し道徳授業の生徒への成績評価を義務づけようとしていると言う。フジテレビのワイドショーで乙武洋匡がそれに反対の意を唱えていたので、今回はその問題からいじめ問題と道徳を考える。例に拠って箇条書きにする。

☆いじめ問題はいじめる側からばかり考える傾向が強い(つまりいじめは良くないと諭す様に)。しかしいじめを克服するのに必要なのはいじめられる側がどうしていじめられるのかという事を考える事であり、そこからしか実践的には役立たない。何故ならいじめとは未来永劫無くなるものではないからである。

☆いじめとは誰かをいじめたくなる心理に拠って引き起こされているけれど、いじめたくなる心理とは誰からいじめられたくないので未然にそれを防止しようと思って誰かをいじめるという選択をいじめをする者に取らせる事に起因している。

☆上の事実とは誰からいじめられたら不利だとか、集団では巧くやっていけないと、そう思えてしまう事に起因するという事である。従ってもし道徳でそれを教えるのなら、我々人類は皆集団へ同化しようとするという心的傾向があるのだ、という厳然たる人類学的事実へ向き合う事を生徒へ促すしかない。それは何故かという哲学的問いを生徒へ関心を持たす教育者の技量が問われる(だから道徳のみ専門の学者なり作家なりを呼んで行うという事も一つの方法である)。

☆いじめ問題を複雑化させているものの一つは明らかにいじめられた経験を持つ者同士が結託すると、いじめられた事のない者を除け者にするという凄く強い傾向を有す事である。いじめられっ子とは過去には本当はいじめられていた者に対しても今はそうではないと除け者にしていく。端的に哲学者のコミュ二ティも生物学者のコミュ二ティもどちらかと言えば決定的にいじめられてきた者の集まりである。そしていじめられっ子に拠る結束に於ける、いじめと無縁であった様に思える者へのいじめは、いじめっ子のコミュ二ティより悪質である。じめられっ子に拠るいじめ以上に厄介なものはない。それと同じ事が学校でも繰り返される。これは深刻である。

☆上の事実に拠り、いじめっ子への対策と、いじめられっ子への対策は未然に分けて考えていく必要がある。つまり皆に同じ事を教えても、それは算数、数学、国語、英語の様にはいかないと最初から認識しておく必要がある(従って安倍政権の教育施政方針も見守っていくしかないのだけれど)。

☆イジメっ子に対しては孤独に強い人間になる事を理解させていくしかない。いじめられっ子に対しては孤独に弱い人間は事の他多いのだ、そして強いからいじめられるという事を理解させ、いじめられない様に巧く逃げる方法を授けるしかない(後で述べるが、それも個々の生徒に拠って違う方法を考えるしかない)。

☆日体大でも問題とされている体罰防止的考えに就いてであるが、体罰とは教育者自身の実績を上げる為の焦りが生んでいる。だからそもそも強化学習をさせて実績を上げなければ給料も未来の出世も覚束無いという事への恐怖が体罰を生んでいるので、そもそもそういう風にスムーズに何もかも運ぶ事を期待する者は教育者になどなるものではない。もう一度教育者になろうかと考えている者は、かなり苦労しても報われない事を楽しんでやれるか否かの自己資質を問うてみる必要があるだろう。

☆人生は挫折の連続である。教育者であれ親であれ自分が育てなければいけない若輩を巧く指導出来ない事で得る挫折感だけが蓄積するという厳然たる事実をよく見据えて、巧くいかない事の方が当然であるとまず考え、それでも尚一つくらいなら何かを指導に拠って相手に得させる事が出来るという希望だけを胸にそういう職務に就くなり、子供を育てるなどしていくべきであろう。

 

☆要するに教育する者は辛抱強く、そしていじめられている子はいじめをする者の心理をよく読む様にして相手へいじめたくなる様な隙を見せぬ努力をすべきであり、イジメっ子はいじめをする以外何か心の捌け口がないのか、真剣に問う様な、つまりいじめをする事が空しいと理解する様なチャンスを教育者は授けるべきであろう。

 尤もそう何もかも巧く行かないので、教育者や親等は世間一般の通念とかTVやマスメディアで言説化されているいじめに纏わる真理を鵜呑みにせず、個々の事例を固有の事として一般的な解決法に頼るという事自体を早々に諦めていくべきである。いじめも体罰も画一化された理由で生じているのではない。個々の事例に即した個々の解決法をその都度勘案していくしかないと心得るべきである。

☆子供も又悪い大人の態度を真似する雛形であり、大人も又未成熟の子供でしかないとまず全ての人達が認識していく必要がある。その厳然たる事実へと向き合う(天使の様な子供も神様の様な大人も一人としていやしない)事から全てを考える機会を教育で生徒達へ与えていくべきである。点数をつけるとかそういう事はその後でゆっくりと考えていくべき事であろう。

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2013年6月13日 (木)

6月13日のFB.(「いいね!」★)

★僕自身では色々と文章を書く事をしているけど、自己評価として冷静に見つめると、そもそもが創作家なので価値度、優先順位的にはまず詩人(詩作家)、そして文藝評論家、次いで語彙研究者、世相批評家、時々作家、殆ど最後に哲学者と言える。要はまずクリエイター、そして散文家或いはエッセイストってことかな。

★職業哲学者とか論理学者を沢山見てきたけど、殆ど僕自身が彼等から得る処はないというのが正直な印象だ。科学者の方が得られる部分は大きい気はする。数学者とかになると、優劣を僕自身が判定しきれないしね。精神科医とかもだけど(とりとめなくどういう人達か分からない)。詩人の知り合いなんて一人も居ないけどさ。

○大学に残って教育者になるという道筋の人しか殆ど学会には居ないというのも面白くなくさせている。勿論一割弱くらいは会社員とかフリーの人とかも居るけどね。居酒屋とか飲食店経営者も随分見てきたけど、固有のプライドがあるけど、要するに美味くなければ行く気がしないしね。

★★テレビの欠点って、タレントでも役者でもアナウンサーでもコメンテータでも殆ど何時も出てくる人が決まっているじゃない。あれが衰退させているよ。もうテレ朝とかワイドショーとかで山本晋也とか黒鉄ヒロシとかもう呂律が回っていない(ああいう世界では滑舌とか言うみたいだけど)。少し出てくる面子の人員整理が必要じゃないかな。吉本とジャニーズと出て来るタレントの顔ぶれが決まり過ぎているのが観ていて圧倒的に退屈だ。宮根もみのもんたの後を受けて出捲っているけど、余り顔が頻繁に現れると辟易としてくるんだよね。

SNSもスマホもタブレットも人類はいい処、百年で飽きてくるとは思えるな。テレビよりは長く持つとは思えるけど、取り敢えずは。

★世間では絵って言えば圧倒的にマンガとアニメだ。それに引き換え現代アートの絵ってもう敷居が高過ぎて普通の人は関心さえない。哲学だって質の悪い純文学をもっと上から目線にした程度の印象しか誰も持っていない。だから当然詩歌もそうだけど。

それよりはJ-popのよく売れている歌の歌詞の方がずっとアピールしていると言える。

意外と本田圭佑のCMが最近では印象に残るよね、どれも。CMは可愛こちゃんもいいけど、意外とイチローとかアスリート達で所作の巧い人のが記憶に残る。

★★★何処か旅行するとするでしょう。その時グーグルマップアプリとかでA地点からB地点迄最短距離を探り、それに沿って行く。点から点の旅だ。

でも風景とか空間移動で面白いのは、圧倒的に少しずつ変化していく事と、その途中経過とその点から点迄の繋がりだ。それを現代人は失っている。折角の余暇での旅でさえ、日頃ステーションとかでスマホ画面に意識が釘付けなのの延長なんだ。

こういう現代人の情報摂取オブセッションは遠からず人類の思考力を衰退させる、と多くが気づく様になると思うけどね。

★★アベノミクスへの期待値から急上昇し過ぎた株が急速に乱高下を繰り返しだしている。結局株式操作も株の売買もある種の群集心理に拠って行われていて、それは大企業とかグローバルマーケットとか大口投資家ほどそうだ。重要なのは個人投資家の質的な向上と、そっちの方が大口投資家を誘引させる事だけど、日本では圧倒的に小口投資家(個人投資家)が少ない。アメリカの個人投資家はもっとクールだと思うけどね。それはバーナンキ議長の決済とか観ていると理解出来る気はするけど。

資本主義のある種の群集心理は今後、どう変質させていくべきか、真剣に経済学者だけでなく心理学者とかもっと思想家や哲学者が考えていくべき命題だって思えるけどね。

★★株式取引とか売買ではディーラー筋とかで情報摂取に利用している各種メディアの画一化の様な事がある種の群集心理を構築しているっていう側面は否定出来ない気はするな。

政治でもそうだけど、巧く纏まるバイラテラルな関係でも全て情報メディアの画一的報道とかが台無しにしてきたっていう歴史がある事は否めないって気はするな。

★本当はきっとビジネス的側面から見ればGDPとか国家とか政府っていうもの自体がもう盲腸の様な存在だって言っていいのに、未だにそれが足枷になっている事だとは言えるよね。

今更ながらにアナーキズムには凄く説得力があるよ、グローバルな意味でも。

★ウェブサイトとかサイバースペースの現今でも最大の問題点とは、グーグルにせよ何にせよ、Twitterとかに顕著だけど、要するにグローバルに統括してタックスヘイブンとかも問題となる様な意味で帝国主義化している事だ。

例えば京都市に入ったらそこ独自のネットがあって、京都府でもそういうのがあって、近畿全体とかと少しずつ拡充していき、それは大まかな情報だけを上位概念になればなる程取るだけにしていくとしよう。だから基本は東山に居る時には京都市内オンリーのネットを使うとかして、自分が関わる世界とか興味ある世界でのネットだけグローバルなものがあればいいんで(経済でも文化でも時事ネットでも)、それは東京でも杉並区や世田谷区では住民も旅行者もそこに居る間は独自のネットを利用する様になればタックスヘイブンの問題は解決するし、第一SNSでも必要以上の情報はどのユーザーにとってもノイズでしょう。それも避ける事が出来る。

SNS上では何処でも今現在は著名人が圧倒的にフォロワー、友達数が多いじゃない。そして著名人と知り合いになれる幻想で結局下らない情報をそういう処から得てネット帝国主義に加担している。これって可笑しいよ。そういう悪い意味でのミーハー主義が却ってSNSを悪質の流言飛語的ネット空間にしている。その悪い幻想から皆が卒業すれば、本当の意味で折角地方の時代とか言っていた橋下市長を血迷わせた中央政府的野望をいい意味で打ち砕く、そしてサイバースペース帝国主義を打破する道筋が出来ると思うよ。

それって昔ケーブルTVを試みていた頃の事をもう一度考え直してみようよって事だよ。

★今度参議院議員選挙に立候補するんだって、山本太郎って面白い処あるよね

○安倍政権になってからなし崩し的に雲散霧消させられているのが地方の時代のキャッチフレーズだ。結局自民与党の国家管轄主義的発想で、色々な意味での道州制とかのアイディアが何処かへ隠れて橋下市長とかも最初は持っていたいい何かを(中田氏もだけど)、すっかり後退させて、彼等の言う事を劣悪化させてきている。

中央政府統括主義的発想では経済もその内息詰まるんだって。

TPPでも何でもそうだけどユニラテラルな関係での色々な取引でも、最終的にはバイラテラルな関係が個々で巧くいっているか否かで決する。その意味では米中関係だって良好な方がいいのであって、維新の会の中田氏の意見みたく、米中接近が日本にとって損失みたいな言い方って古い。日本は日本で中国と韓国と二国間関係を良くしていく方がアメリカにとっても歓迎なんであってね。

★トルコの政情不安で却って東京オリンピック開催可能性は出て来たとは言えるけどね。そりゃ出来るんなら東京で開催される方が日本にとってはいい。

★維新の会では唯一、東国原氏のみ今でも地方の時代を言っているから信用出来るね。

僕が橋下氏だったら、ここは一回市長だけに戻ってもう一度出直すけどね。その方が長い目で見れば政治生命を延命させると思うけどな。

21世紀以降の人類に必要な精神のアイテムとは、要するに悪い意味での上から目線である管理職的発想を全ての人員が捨て去る事である(殆どそれをしていないけど、未だ)

★これからの世界で求められている学的な知とは情報学、情報哲学だ。情報工学ではない。その点を重視していかなきゃ人類のサヴァイヴァルは覚束無い(エネルギー供給問題もそこに存する)。

 付記 情報工学者はコンパイラとかでもう凄く優秀な人達は大勢居る。対しもっと経済社会的なインフラを前提とした必須アイテム的でない心の問題から人類の未来を読み解く情報哲学、情報そのものを問い詰める人達が今必要とされている、と私は考える。

★日本男子サッカーは本当によく進歩したと思うよ。頑張ってWCでいい成績残して貰いたいよ。

★人間はどんなに些細な出会いでも付き合いでも、自分自身にとって害悪となっていく可能性のある他者との接触を極力避けていくという事だけが自分をいい意味で愛する最大のメソッドである

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2013年6月12日 (水)

形容詞から読み取る言語行為の本質/新シリーズ 言語の本質とは何か?(2)

 人は本当に悲しい時余り他人、他者と気楽に話したいとは思わないだろう。本当に恥ずかしいと思う時は人から見られたいと思わないだろうし、自分の事を考えて欲しくはないだろう。とりわけ裸を偶然見られてしまった様な恥ずかしさではなくモラル的に偽証をしたりした時、モラルに反した裏切りとか横領とかしたりして罪を問われている時には、疚しさ、後ろめたさ、後暗さが付き纏うので、他人、他者からそういった内心の感情を抱いている事自体を知られたくはないものだし、悟られたくはないと思おう。

 するとそれらの感情は「悲しい」「恥ずかしい」「疚しい」「後ろめたい」「後暗い」とそう容易に人に言えないからこそそれぞれの感情である筈である。

 であるにも関わらずそういう語彙が形容詞として存在するという事は、要するにそういった感情の最中に人に説明する為でなく、そういう感情の内的な迸り自体が鎮静化している時に、その迸りの過去に就いて説明する為に存在していると考えた方がいい。

 痛い、と叫ぶ時のみ痛い事を引き起こしている張本人にクレームをしているのだから叫ぶ権利もあるし、そういうレスキューディマンドとは、社会内での権利であるから、悲しい、恥ずかしい、疚しい等よりは口に出す事が不自然ではない。

 となると、言語行為とは助けを求める時とか、誰か危機に瀕しているのに、それに気づかない人に対して助け舟を出す時等の緊急性のある場合以外は、寧ろ内心の感情がその形容詞で示されている場合には、出来る限り他人、他者と関わりを持ちたくはないという事なので、当然、説明するという事がそれ程苦ではない状態で使われる語彙であるから、要するに事実への客観的説明、事後的説明、感情が内心で蜷局巻いている状態ではない冷めた状態でこそ伝達される行為だ、と言える。

 従って分析哲学ではある感じをした時叫ぶ事を言語とは捉えていないのだ。勿論ある固有の感じAを外部に知らせたい時は痛いと叫ぶ様に唸って声を出す事それ自体が起源的な事なのだろうけれど、そのAという感じ⇒唸る叫びという一連の具体的行為を、メタレヴェルで説明する時に、その固有の感じが、「痒い」とか、「擽ったい」とか語彙が当てられるだけの事である。そしてそれが長文の中の事実報告の一部となれば必然的に「その時の痒さが」とか「その時擽ったかったので」という様に名詞化されたり、基本的に名詞化と同様の作用を持つ過去化されたりするわけだ。

 そしてそういう風に叙述の一部の説明語彙になる事で感情の充溢、感覚、体感の充満は今まさにそうではない場合を頂点に、今まさにそうである時も、その感じを伝える為に一時的にその感じに支配されている感情を紛らわせていると言える。

 要するに言語行為の本質とは、感情の充溢、充満を逸らす、説明し報告する事でその為に要す叙述に払われる客観的な伝達意識が、感情の迸りを抑制する、という事にある様に思われる。

 だから言葉とは須らくどんな語彙であれ、全て冷めた感情に支配されている。感情の内心での迸りがある時人は他人、他者と話したい、語りたいとは思わない。話せるという事が既にだから感情の迸りを過去の事としていられる、感情の迸りを鎮静化していられる、という事なのだ。

 だから言葉とはある部分では全てを客観化し、冷めたものとするのでパワフルではあるが、危険でもある。どんなに残酷な事実でも一つの文章で示し得る。どんなに酷い仕打ちでも一言で片付けられる。その意味では冷めた感情に拠る暴力という意味で如何なるメッセージよりも言葉は冷酷で、無表情である。「お前が嫌いだ」「お前って本当に嫌な奴だ」「もうここへは来るな」「臭いんだよ」「あっちへ行け」といった一言はそれだけでいじめとか精神的暴力へと直結する。それが感情を鎮静化した報告であればあるほど取り返しがつかない。寧ろその冷静さこそが却ってそれを伝えられる者にとって決然とした語り手の決意を読み取れる。

 形容詞は富士山の麓で頂上迄仰ぎ見る時傍に居る人に「高いですね」「大きいですね」と言う場合にはストレートな感嘆を伝え得るけれど、そういった外部の物理的客観的形容以外の内心の感情の迸りとは、今そうであると容易に告げられぬからこそ精神的な志向自体の事実認定的意味合いがあるのであり、それはそういう語彙が生活、人生全般を説明する為に必要とされているのだけれど、報告をしやすい事ではないからこそ、報告出来る時には感情が鎮静化されているわけだから、精神を安定させる為に人類が或いは考案したものこそ言語だったかも知れないのだし、しかしその考案したもので先述の様に同時に酷く人を傷つける事も容易いという意味では、言葉を持つという事は凄く便利だけれど、凄く誰かへは残酷で冷酷な事もあり得るし、又言葉それ自体も鎮静化された時「あの時は辛かった」と報告し得るのだから凄く軽くもあるけれど、ずっとある親友とか切実な他者が亡くなっている事を知らされていなかった者が、ある日突然「彼ならもうとっくに亡くなっているよ」と告げられた時に途轍もなくショックである様なケースで考えられるけれど、凄く冷酷で残酷な作用もし得る、と言い得るのである。

 だから結論的に人類は伝達、報告、説明等の鎮静化された感情の保持の為に編み出した言語行為に拠って情報を共有し合えるのだけれど、その情報が伝えられる側への伝える側からの悪意に満ちたものであればあるほど凶器にもなり得るという事実に於いてずっと有用なものでもあると同時に悪用もされやすいものとして軽く便利でありながら、重く危険なものでもあり続けてきた、と言えるのではないだろうか?

 付記 富士山を目の前にして高いとか大きいと言うのも体験と臨場の共有なら、今日は暑いとか寒いと言うのもそうであろう。そういう事なら平静な感情で言えるけれど、悲しさとか恥ずかしさとか疚しさとは、そういう形容詞と性質が違う故、それを容易に誰にでも言えなさそれ自体が語彙の意味を支えていると言える。この部分は「リスタート形容詞論」でも極めて今後重要な事実である。(Nameless-value)

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2013年6月11日 (火)

性と言語の関係/新シリーズ 言語の本質とは何か?(1)

 20世紀の哲学者・現象学者であるミシェル・アンリ(仏)に『身体の哲学と現象学』(だったか晩年の『受肉』だったか今直ちには思い出せないのだけれど)に『恋人たちの夜』と呼ばれる有名な一節がある。要するに肌と肌を触れ合わせ性の睦言に臨む一組の男女の心と身体が一体化していく様を描出している秀逸な一節である。

 生物学的にも恐らく人類は性の睦みを身体的には感じられても言葉では表現し尽くせない快楽なしに子孫を繁栄させてくることなど出来なかっただろう。つまり生物とは子孫を繁栄させてこられたのは、一重にこの生殖に纏わる快楽という体感である筈だ。

 しかしその快楽だけは、その快楽の質、つまり「あの時」どう感じるかは言葉では伝えられない。伝えようとは色々な人達が試みてきた。エロスやリビドーとか色々な語彙で我々はそれを試みてきたけれど、我々は自分のその感じ方を他人、他者へ譲り渡す事も、逆に他人、他者から譲り渡される事も出来ない以上、全ては想像の域を出ない。つまり他人、他者はどう感じているのか、という事は。

 そして言葉はそれを承知で営まれている。結局病や怪我をして感じる痛みも失恋とか挫折での心の痛みも自分と他人、他者との間では交換出来ない事を皆知っていて、その究極の部分では伝えられず交換出来ず、どんなに愛する他者のそれも体感する事も実感する事も出来ないという事を前提に、そしてその事実は誰しもなのだから、その事を最大の周知の事実として、その事実自体には触れずに言葉に拠って、あたかも全てを「それで」伝えられるかの如き幻想を他者間相互に後生大事にしつつ人類史を構築してきた。

 件のアンリの論述、と言うよりもう表現と言っていいその描写は、そのどうしようもない壁、自分自身と他人、他者との絶対的壁こそが、相互の快楽の一致とか、他者の心とか体感とかを理解するとかの事をモットーとしてきた人類の希望的な何かを全て集約して伝えていた。

 分析哲学は現象学よりは幾分その事実をシニカルに伝えてきたけれど、伝えられなさを伝えるという事に就いてはそれなりに伝えてきたのである。

 生殖に纏わる体感的な快楽は様々な層があって、個々の快楽はそれぞれ性質も違って、それは痛みの様なネガティヴなそれと同様、あの感じ、この感じと色々と自分では形容出来る。それをウィトゲンシュタインは『哲学探究』でEと名付けるとかの事を記して問題化させたのだった。

 永井均はあっ、この感じだと思った時に声に出して叫ぶだけなら、それは言語ではないと言っている(『哲学の密かな闘い』)けれど、私はそれこそまさに言語の第一歩だと考えている。そして次回から取り組んでいく形容詞の心のどうしようもなく他人、他者への伝えられなさも、体感的な事も全てこの第一歩から始まっていると考えている。

 小説家はエロスを描く時自分自身の経験を下に書く部分があるだろうが、どの職業の人達よりも言葉へと置き換えられなさ、伝えられなさを実感しているだろう。しかし同時にあの感じ、この感じを何とか伝え続けようという意味では、その自己の無力を打ち消すくらいには鈍感であり続けられるという事でもあるだろう。

 詩人はあの感じ、この感じは具象的に示そうとするのでなく詩全体から仄浮かぶ様に試みるだろう。

 哲学者はその伝えられなさを何とか命題化しようとするだろうし、論理的な文章の運びの中から伝えられなさへのディレンマを伝えようとするだろう。

 我々が今此処に存在するという事は、そういう個々の人間達に拠る、自分自身では言葉では伝えられない、しかし決定的に生きている全瞬間の中でも記憶として刻印されているあの感じ、この感じを例外なく携えてきているからである。もう一度あの感じを得たいという思いが恋愛へと人類を駆り立ててきたのだ。しかしそれは誰にとっても決定的に他人、他者とは交換出来ないし、どんなに愛し合っている相手の「それ」も確かめる事が出来ない。

 そしてそれを全ての人類の個は知っている。そしてその伝えられなさを噛み締めて全ての言葉を発し、記しているのだし、交換出来ず、確かめられぬ事を承知して相互とか、協力とか、理解といった心的、行為的な概念を承知しているのだし、又何より他者の気持ちを理解し信じる(他者とか他人の存在を信じる)という事も、その交換出来なさ、確かめられなさへの重々たる承知の上で為されているのである。

 だからその事は一切生涯触れずに終える人達が絶対多数である。しかし哲学者でもそういった事をうっちゃった侭にしておけないタイプの人達、そしてエッセイストでも詩人でも歌人でも俳人でも作家でも、そういう事を捉えずに生涯を終える事を潔しとしないタイプの人達が、まさにその「伝えられなさ」の中で、あっ、この感じはあの時の感じだという事を何とか伝えようとしてきたのである。

 次回は形容詞で、どうしてもその「伝えられなさ」だけしか顕在化し得ない性質のものを「リスタート形容詞論」の続行の為に考えてみよう。(つづく)

性と言語の共通性 http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-b9e6.html / 

性と言語の共通性Ⅱ http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-18bb.html

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2013年6月10日 (月)

リスタート形容詞論Part13「悔しい」、「疚しい」「後ろめたい」「後暗い」①/動詞の在り方を考えるPart13「悔やむ」①

 形容詞や動詞の本質的性格を個々の語彙から探るなら、個々の語彙を使用する事が、言わば我々自身の自由と責任に於いてある語彙に我々が付帯させてきた固有の性質を選択し利用しているという事だから、人間実存の地平でアディアフォラ(日常的な日々の膨大な量の取るに足らぬ振る舞い)を積み重ねつつある我々の存在を存在論的に考えつつ、片や我々の日々の知覚を投射している形容詞と我々の日々の行為を投射している動詞にアプローチするべきであろう。

 マルセルはカソリック実存主義哲学者であるが故に神への信仰を自ら意志的に選び取っている。それはカント的な自律に拠ってであり、自然因果的な選択でもなければ他律的な選択でもない。選択とは本来意志的、自律的な事のみを言うのであり、自然因果的選択とか他律的選択という語彙は説明原理として適用された仮想概念でしかない。

 マルセルは人生を選択であり、(以前も取り上げたが)賭けである以外ないと考えている。それは次の内容的に連続して語られる2パラグラフからも読み取れる。

 人生に賭け金をかけることを拒絶することは、必ずしも、このような麻酔状態、いわば意識的な受動性の状態に沈むことにはならぬ、という反射は出るかもしれない。しかしながら、この拒絶は少なくとも、もし或る若干の条件がみたされなかった場合には、人生からのがれる権利をみとめることになる。なぜなら、他でもなく、まさにこの場合、人生ということが絶対的なもの(言いかえれば、何か他のものと関連して存在するのではないようなもの)として、考えられているからである。ここで問題は非常に複雑になる。事実、人生は一種の充溢、或る喜びの意識と同一視されている。この充溢、この喜びが生じえないところでは、この人生を内在的に正当づける理由がなくなってしまう。私はわれとわが身を滅ぼすほかない、と考えてもいいはずだ。ところで、この私とは何であるか。それは私の人生のほかならず、この場合、私の人生は、自分自身に対立し、自分自身を否定する特別の権能をもつのである。ここから、賭け金などはないものと自ら考えもし、またそのように望む人生の中心部には、自殺の考えが巣くうことになる、という結論が出てくるものと思われる(それはちょうど、どんな誓約も含まず、また何者の面前で結ばれたのでもないような結婚の内奥に、離別が或る意味でまた生じてくるのと同様である。私の考えでは、この比較はもっとおしすすめることができるであろう)。

 この点においても、自殺の主張者たちの説を、純粋に論理的に反駁する緒口を見つけることは望めない。賭けを考えるように、私たちを強制するものは何もない。私たちが、自殺するのを妨げようとするものは、客観的には何もない。私たちが立っているこの地点は、自由と信仰とに共通の根源である。(既出書、127128ページ、第一部 存在と所有1931412日より)

 この部分の最終部の自由と信仰の共通根源性に就いて再度マルセルは別の形で述べている。「希望と予言との共通な根源、それは信仰である」(131ページ、第一部 存在と所有19311210日より)、と。

 希望は万人に未来へ非充足に拠って齎されている処の現在に於ける未来志向であり、予言は宗教的心理に於いて希望と裏腹の不安に安直に答えようとするベルグソン的に言えば寄生的自我への囁きである。その二つを分節する事を不可能にしながら存在する未来への我々の心的志向を纏めあげようと決意させるものとしての根源にマルセルは信仰を考えている。

そして自殺を禁じるカソリシズムを他律的でなく自律的に選択するからこそ前文では自殺を他者に止めさせる事の不可能性に就いても言及し(こういった処はカミュの『シジフォスの神話』的でもあり、サルトルの『存在と無』的でもある)、だからこそ信仰という形で生きる事を決意させる事(そう人生を纏めあげようと意図的になる事)そのものは自由と不可分だ、と言いたいのだ。

 だからその根源的自我へ忠実であろうとすると、我々は寄生的自我と他律へ感けて無思考となっていってしまい、その挙句安直に自殺する事を究極の原罪とする事に拠って、それ以外のもっと単純なアクラシアに見舞われると「悔いる」こととなる。

 悔いるのは、悔いない様に自律的に生活しようとしない事から(努力しても駄目な時もあり、そういう場合でも悔しいとは思うが、それなりに最善を尽くしたなら挫折しても未来志向へ切り替えられる。しかし努力しないで他律的でだけあったなら、その悔いは深く凝りとなって残る)であるが、後から振り返って後悔する事は過去を反省的視点で見続ける事であるが故に、この「悔いる」(悔やむ)は動詞グループとしては第三グループ「続ける」の範疇である。過去=¬今の時点 である故、悔いる(悔やむ)=思う¬{(そうなってしまった状態)←(過去の行為)}である。そうでなかった状態を想念すればこそ、そうしてしまった行為を歯痒く思うのだ。

 勿論只もっとこうしておけばよかった、という事であっても、取り返しのつく事であれば、未来へ志向する事で切り替えられる。しかしその取り返しの効かなさのレヴェルでマルセルは常に語っている。

その意味では「悔しい」と思う事が対自己的な事であるなら未だしも取り返しが効くけれど、他者へ傷つけてしまった事であるなら取り返しが効かない事もある。そこで「悔しい」は「疚しい」「後ろめたい」「後暗い」へ途端に変貌する。と言うより「疚しい」「後ろめたい」「後暗い」からこそ何時迄も「悔しい」思いは未来志向へと切り替わらないのだ。

 アクラシアを生じさせてしまう、とそう思うのは、我々が自己の魂とか意識とか自己が自己である事と身体を実在に於いて同一であると認識しつつ、形而上的には別物であるとして自由と責任の名に於いて仮想界的にアディアフォラという現象を追認するからである。その点でマルセルは自己存在を身体との連関で理解しようともがいている。

 次回はマルセルの自己意識と身体との間でのたうち回る記述からアクラシアに拠る「疚しい」「後ろめたい」「後暗い」という感情から、この形容詞を、そして「悔いる(悔やむ)という動詞の本質的構造を考えてみよう。(つづく)

 

リスタート形容詞論Part12「痛い」「恥ずかしい」「悲しい」/動詞の在り方を考えるPart12「大きくする」「小さくする」/時間と空間Part76  http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/part12part12par.html

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2013年6月 9日 (日)

6月7~8日のFB.で「いいね!」が付いたTW.

★最近のメディアでは大橋巨泉の様にAKB48を批判する者はどんなに優秀でも頻繁にはメディアに登場し難い様になっているかの如くだ。大分以前から(恐らく戦中戦後ずっと)日本ではイメージとしての無垢さ、お上への従順さ、応援したくなる風情のみをピックアップしてきた。彼女等は処女でなくても整形でもいいのだ。要は一部のメディア関係者を潤わせればいいのだ(秋元氏の総収入は五十億円を超えている)。

対し他者へ批判的、自分の意見を言う人は日本では出る杭と見做され干されるのだ。恐ろしきメディア生贄主義的日本!

白鵬を異様に愛し、朝青龍を異様に憎んだ日本人!(6日、以下全て7TW.

★批評を書いたり哲学を研究したりすると、日頃から社会の全てに対して自分の事は差し置き、異様に上から目線になる。近所の大型スーパーやコンビニの店員の所作へも評価が厳しくなる。ちょっとした気遣いが出来ぬ店員に頭が悪いと見下す(例えばちょっとした別の店舗での買い物袋に、そこで買った品物を常に入れてくれる店員とそうでない店員を予め覚えておき、その時々で今日は気の利く店員、今日は気遣いの出来ぬ<サーヴィスの悪い>バカな店員とその都度判断する)。自分の若い頃の至らなさを差し置き若者に厳しく、買い物をする時の老人ののろい仕草にも内心腹を立てている。要するに世界の中心に自分がいて(愛があるのでなく)エゴイストになりきっている。

でも舞の海が横綱に迄なれなくてもいざ相撲を評論するのなら、相手が横綱でも厳しく批評すべきで、そうでなくてはテレビを視聴している人にとっては面白くないだろう。それと同じだ。批評する事、哲学する事に共通する事は、その点では上から目線でエゴイストになりきる事だ。それは政治家になれぬ全ての市民が現政権や政治家全員へ厳しく審判する事と似ている。

★ちょっとした所作で気が利いた事の出来ぬ者はやはり頭が悪いと見做していいだろう。そういった意味でスポーツ・芸能・音楽に携わる者は所作に就いては普通の職以上に気が利いている筈である。

その点ではアートの世界、物書きの世界は違う(バカな奴が多い)。勿論例外はあるけど。

★乳癌発生率の高さからなる前に乳房除去手術を受けたアンジェリーナ・ジョリーの事を世界中のマスメディアは大きく報じたけれど、そういう検査をするのも、乳房除去後の整形にも凄くお金がかかり、そういう事を未然にし得るのはジョリーの様な資産家だけである事はマスメディアでは報じない

★歴代の総理も支持率や好感度アップの為に言ってきた女性の能力を活用云々の事も、本来ならそう言う事で逆差別だと男性と対等に力を発揮し得る女性の権利とかも考慮していかなければいけないし、そもそも産休育児休暇も認め、その上実務復帰した女性をも昇進の可能性を他の社員同様与えるとなると、現今での法人、会社等の利潤追求全体の資本主義モラルの見直しを図る事なくして実現不可能だろう。

又男性同様の力を発揮するという事はかつて男で居た独裁者を女性でも登場させるという事に他ならず、結局その都度思う事は、政治家の美辞麗句でしかないし、NHKでも態々問題として取り上げる割には何時も型通りの論議にしか終始していないという事だ。

★高度成長期の日本と違い今は誰しも新しさや個性を何をするにせよ価値としなくなっている。と言うのも過去でそう思えたものも只頭角を現す者に対し新しさと個性を見出していただけと我々は気づいているからだ。又かと思われぬ事だけ皆目指すが、新しさや個性を目指すと途端に陳腐な事しか出来なくなる。

★人類はあと百年は只管今より利巧になる事に執心する時代が続くだろうけれど、その時点で利巧な者の数の方がバカな者より多くなっていれば(そうなったなら何時でも)却って積極的にバカであろうと意識的にする、バカである事こそが価値となっていくのではないだろうか?そうなるにはでも百年じゃ無理かな?(尚Twitterでリプライされ以下の如し)

@olivlove 単なる逆説ですね、それはないと思う

@mister1up バカという事の意味が無知蒙昧という事でなく、何か知識とか専門的スキルだけでない何かという意味で、つまりいい意味でバカという事、それは何処か抜けた魅力に近いものですが、そういう事はあると思えますけれどね。/うん、でも抜けた魅力って、結局抜けていない大勢が作っているんだから、そんなに変わらないっていうTTさんのご意見が真っ当だとは言えるかも知れない。要するにそんなに人類は今と変わりないとは言えるかも。でも求められる頭の良さは時代と共に大きく変わるでしょうね。

@olivlove ニュアンス的な事ですかね(^^)?魅力の焦点の当て方次第でそう見える的な!だとしても、完成度の高い社会性を求める事のほうが徳な気がしますね(^^)

★速報。AKB48総選挙、昨年に引き続き第五位、篠田麻里子次回のコンサートをもってメンバー卒業を宣言。(Twitterでも2retweet)

★★只単に美貌というのなら、九位に輝いた小嶋陽菜がサイコーの美女である

★世の中にはきっとAKB48とその系列のNMBHKTSKESNHJKT等と、モーニング娘のメンバーの違いさえよく分からないおじさん、おばさん、否青年さえ居る。そういう人達を決して差別する様な空気を作るべきでないなんて言ったら一層日本人的って言えるかな?

 付記 AKB48への批判も自由なら、楽しむのも自由で、要するに好みとか何を鑑賞するとかの選択も自由で、只異様に今彼女等を話題にしなければいけない様な空気を作り上げる営業至上主義的感性は嫌いだ。私は私なりの楽しみ方をしていいのであって、何かずっと私より前から追っかけをしているオタクとかマニア的ファンだけが特権的に彼女等を語る資格がある訳ではない筈だけど、往々にしてそういう輩が初心者を排斥する空気は作っていってしまう。そしてそれはどの世界でもある。三人寄れば派閥が出来る、と言うけれど、三人寄ればいじめも特権階級も出来ると言ってもいい。そういった性悪的人間の行状に対し異議申し立ても自由であるべきだ、とだけ思う。(Nameless-value)

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2013年6月 8日 (土)

人は何故、感動したり共感したりしていいと思った事に就いて書く時のみ読み手を素直に納得させられるのか?

 本ブログで圧倒的な来場者数を獲得した記事には幾つかの傾向がある。それは心底自分でこの考えは正しいと思って、それに就いて書くか、何かを見たり聞いたりしてそのものが(それが特定の出来事であれ作品とか他人の仕事であれ)凄く何処か自分自身を感動させた(或いは共感させた)という体験として私が語り得る事に就いて書くかといった事等である。

 要するに人は文章を読む時、どういう心構え、身構えで(それは挑戦的であるか否かという事でなしに)寧ろ愛着を持ってその文章を書いているか否かで、面白い文章、読み進めながら読む事を楽しいと思わせる文章であるか否かをその都度判断しているという事だ。

 だから評論家が編集者に自分では余り気の進まない批評対象を批評して欲しいと依頼されて書く文章では、その批評対象が余り進んで書きたいと思える程愛着があるわけではないのだから、それでも尚その批評対象に就いて編集者とかへの義理とかで書かねばならぬ時には、より一層の工夫を(好きな事とかものに就いて記述する時よりも)要するとは言える事である。

 私ならそういう時は正直依頼されているから書くのだけれど、本来この事(もの)に就いて書くのは気が進むわけではない、と予め断っておいてから、その理由を述べ、その事やものへの愛着の持てなさ自体を詳細に分析して読み進め様とする読者を惹き付け様と努力するであろう。それでもその事やものを好きな人がそれを読めば不快な思いを味わう読者も必ず現れるだろうから、その文章は余程全てに対して懐疑主義的なものの見方が出来る哲学思考志向タイプの読者しか惹き付けぬという事も充分あり得る。

 だから私なら私へその事(もの)に就いて書く様に依頼してきた編集者に余りそれを好きではないと予め断った上で、そしてその余り好きでない理由を書くのなら引き受けると言って、それでも尚私にその編集者が書いてくれと依然頼み続けるとしたなら引き受けるかも知れない(就いて書くものに拠っては必ず断る場合もあるけれど)が、そうして余り多くの読者の注意を引かないのであっても、それは私の責任というよりは、その編集者の依頼先の選択の誤りだったと言ってもいい部分は責任逃れ的ではあるけれど私にはある(尤も嫌いな事やものに就いて書いても尚人を惹き付けるという部分で筆力が問われるとは言い得るのだけれど)。

 これは評論とか批評とかでは言い得る事なのだけれど、哲学とか論理学となると少し事情が違うとは言える。要するにそれらの学問ではそもそもその学問が拠って立つスタンス自体を受け入れられる人しかそういった論文を読む事がないし、そういう読者の方を筆者が篩にかける事自体をそもそも前提した行為として論文を書くという事が位置づけられるからである。

 哲学等では実在がどうであるかという事よりも、寧ろ実在そのものをどう捉えていくかというstanceの部分をこそ重要視する。ある場合にはそのstanceそれ自体が矛盾を来たしていると思える根拠に実在がどうであるかを引き出したり、或いは論理矛盾自体を回避し、そうなっていった場合に修正する為に実在がどうであるかを引き出したりするくらいに実在がどうであるかを記述する事を差し控えるべきだという哲学倫理がある。その点では哲学は社会学や人類学や心理学と少し毛色が違う部分が最初からある、と言える。

 だから言語哲学者が考える様な意味の自立とは、あくまで観念的解釈の範疇に留まるのだ。実在がどうであるかという事は少なくとも哲学自体が問う処ではない(と哲学者は考えている。要するに哲学とは世界<と言う事は実在する世界>へどういう構造モデルを提示するかに命を賭けている)。

 人はしかし一般的に真理に依拠して物事を理解するのではない。真理とはあくまで分析して得られた観念でしかない(と一般的には言える。だが哲学者はそう言わない。そう言わず自らの提示した世界への構造モデルを正しいと思わせねばならない)。だからそういった堅い論文以外では往々にして、筆者が伝えたいと思う感情のみを読者は読み取ろうとする(だから堅い哲学論文等では哲学自体の持つ今述べた様なルールに如何に親しみを込めて取り組めるかを誘う様な書き方をする永井均とか中島義道とか木田元の様な著作者のみ大勢の読者を獲得し得ると言える)。

 要するに素直に納得させられる文章とは自分の好み、趣味に合ったものに就いての文章のみである。そしてそういう好き嫌いのレヴェルでものを読む事に飽き足らぬ懐疑主義的精神の読者のみ巧く書かれた批判、反論、否定的内容の文章を好んで読むとは言い得る事である。

 それでも尚、最初に述べた反感、批判、否定より肯定的感情、共感とか感動の方が伝わりやすいという事の理由も考えてみねばなるまい。

 これは一般に人は他人から他人の悪口を聞かされるより褒めたり、好きだという告白を聞かされたりする方がずっと精神的には気楽で快がある、という事に帰する。だからこそ共感、感動の弁の方が概してよく他人には伝わる。つまり共感とか感動をする事自体に人は共感し感動する様に脳自体が判断する傾向があるのだろう。何故そうであるかは単純に喜びとか楽しみを理解する事の方が、怒りとか反感とか疑いを理解するよりも精神的に心地よいからであろう。

 だから人は他者、他者の態度、言動、言葉、文章等を批判し、否定する場合には細心の注意を要する、と言える。もしそういった文章でも共感や感動を述べた文章と同じくらい読者を惹き付ける事が出来るのなら、その文章では只闇雲に批評対象を揶揄したり、ボロクソに貶したりするだけでない眼差しの暖かさとか、要するに批判する対象への愛情が込められていなければいけないだろう。

 つまり反感や激怒や義憤、否定でも、そうする対象への眼差しの真摯さとか、それなりに時間をかけてそれを観察し、分析対象に対して取り組んできた軌跡を文章から読み取られる様に配慮すべきであり、従って結局そういう風に真剣に向き合っている対象への記述のみ読者の共感を得るという事は言えるだろう。だからこそ批判したり否定したりする対象への理解はいい加減なものではまずく、要するにかなりきちんと時間をかけて理解しておく必要があるのである。そういう態度と真の理解で臨むのであれば自ずと批判とか否定にも凄く説得力が持ち得るという事が言えるのだ。

 つまり共感したり感動したりする事は、その共感や感動を誘う事を少なくとも批評対象とした事やものや人へ同じ様な感情を持つ者へは比較的容易いと言える。だから逆に凄く好きなものを批評する場合、それが嫌いでたまらないとしか思えない読者をもどう取り込めるかで勝負が決まるとも言える。

 それに対し反感、激怒、否定等の場合には、読者を読んでいながら何時の間にか共同戦線を張る事を読者が選んでいきたくなる様な気分へ持っていく文章力、文章の流れと内容とで説得する力を要するとは言えよう。要するに否定命題とはそれ自体精神的に固有の否定する対象への身構えを強制するものであるが故に、その身構えさせる事それ自体に対して読んだ後で、途方もない精神的労苦を背負わされたと思わせず、成程そうだ、そう言えていると思える様な文章の書き方と、そこで述べている論理的説得力(reasoning)を要するのである。

 基本的にエッセイでも言える事なのだけれど、文章に拠ってある感情とか考えとか思いの方向へと読者を誘引していくという事は須らく、筆者に拠るナルシシズムとエゴイズムに拠って牽引される事以外ではないのだ。

 評論はエッセイと批評の中間なので、愛着ある対象へと絞って書いていくべきだし、好きでないものは客観的批評とか哲学と違って多くの読者に文章全部を読ませる様に誘う事は難しいだろう。同一の嗜好対象を持つ読者へ誘うという事が第一義であるとも思える。

 対し批評はもう少し客観的なので批判とか反感とか共感出来なさといったメタ的な否定感情それ自体を巧く読者へ説得する力量を問われるとは言い得る。

 かつて本ブログでも書いたけれど、面白いものとか惹き付けられるものの何故そうであるかという理由は模索しやすいけれど、逆に何故面白くないか、何故退屈でつまらないか、感動出来ないかという事は模索し難いし、第一そんな事を分析してみようと通常人は思わない(哲学者等を除き)。そんなつまらぬ事に時間をかけてなどいられないと通常は思われている(本当はそういう問いの方がずっと哲学的 には面白いのだけれど)。

 そして今述べた事は詩歌でも言えるし、小説でも言える。自分で愛着の持てる作品のモチーフでなければ読者はついて来ない。先程も述べたが、常に同じモチーフに興味や関心を持ち、共感し得る読者を誘う事はしやすい。しかしそうでない人にも一度こういう事に就いても読んでおこうと思わせる書き方とか内容の選択とかをする事が文章を書く上では重要である。そういった意味では結局どういう文章がどういう風に読者へ伝えられるかは常に書き手にとっても不確実で、面白い読み物も面白くない読み物もその都度それなりの理由があるのであり、何をしても普遍的な法則それ自体は只単に幻想かも知れない(中島義道に拠るとカントは「定言命法に沿って行為し格律に適う道徳的法則に沿った行為とは何か決まりがあるのではなく、その都度心の声へ耳を澄ますしかない」と考えていた<『実践理性批判』その他>様であるが、後に分析哲学のA.J.エア(エイヤー)が『言語・真理・論理』で述べていた、どんな状況でのどんな判断でもその時なりに一番適切な判断はあり得るのではないか、という言及は、そのカント的考えへの応答だとも捉えられようが、その事とも大いにこの問題は関係あるものと思われる)。

 付記 哲学では認識論のみか、存在論さえ論拠も明確にしなければいけない。そこで感性を知性へと文章化する際に置き換える作業を要す。しかしそこで得られた文章化する事に拠って完全に伝えきれなさが必ず残る。それが彼等を更に別の問いへと誘う。それは学の持つ表現性への欠如だと言えるかも知れない。その学固有の表現性の欠如に拠って伝えられなさを実感させる部分で読者の溜飲を下げるものこそ表現的な文章、フィクションとか詩歌であると言えよう(詩歌や俳句はダイレクトに共感や感動を伝えられる故存在論的形式とも言えよう)。

 だが、詩歌やフィクションにも哲学的要素があるし、論文にも表現的要素がある。そして何故この様に文章が色々と形式的に区分けさせられているのかという命題は、何故世の中には色々な職業が区分けさせられ役割分担させられているのかという社会哲学、人類学的命題へも繋がろう。この区分けの問題もかなり以前から少しずつ取り組んできたが、又もう一度考えてみるべき時期も来た様である。

 又、本記事タイトルにある様に自分にとって好きな事やものや人に就いて書いた文章で素直に納得させられたいと望む時と、そうでなく屈折して理解したいと思う事は哲学者程は懐疑主義的精神の鋭くない普通の読者でもある。そしてその様な読書の気まぐれとは何故起きるのかという事も問うべき命題であるとは言えないだろうか?

Nameless-value

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2013年6月 7日 (金)

言語の違いが齎す国家、民族間の壁とサイバースペースの在り方

 サイバーテロがウィルスアタックとして猛攻を世界中のウェブサイトで仕掛けられ、大問題となっている。しかしその事は時代がサイバースペース上で展開される新たな局面を迎えたと言うよりは、そもそも言語の違う民族や国家間の軋轢が止む事はないという保守的な人類の状況が延長されているだけだ、と捉える事が出来る。

 どんな個人でも生まれた時に周囲で話されていた言語は一つである。 勿論臨界期にその言語を習得すれば母国語だが、極稀に両親が違う民族同士で二つの言語を習得する場合もあるし、比較的幼少の頃に第二国へと引越しして数年住むなどしてバイリンガルとなる場合とか、トリリンガル(トライリンガル)とか、もっと稀には四カ国語以上を母国語としてこなすポリグロット、マルチリンガルな人も居るかも知れない。しかしそういう人達の圧倒的少なさそれ自体がサイバーテロリズムとウェブサイト上でのハッカー攻撃、ウィルスアタックを生んでいると言える。

 現在71億千五百数十万人を超えた人口で最も多く使われている言語は中国語、次いで英語、ヒンディー語、スペイン語、アラビア語、ベンガル語、ポルトガル語、ロシア語、日本語、ドイツ語という10位迄の順位となっている。それ以降は広東語かパンジャブ語であるらしいが、統計に拠って多少ばらつきがある。

世界の人口 http://arkot.com/jinkou/

世界の言語ランキング http://www.translator.jp/rank/language_rank.cgi

ネイティブスピーカーの数が多い言語の一覧

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%95%B0%E3%81%8C%E5%A4%9A%E3%81%84%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

 これらの言語圏での個々固有の言語的事情が民族性とか国家運営での様々な特色を生み出している事は間違いないが、概して現代の言語学者は無頓着である。今の言語学はグローバルスタンダードに固執し、戦勝国で世界のリーダーたるアメリカ、要するに英米文化圏的発想へ右へ倣え式に合わせているものだから、当然英語は屈折語なので、量化子(quantifier)等の概念把握で論理実証主義以降の分析哲学とそれと親和性の高い生成文法理論の普遍文法理論を基軸に展開されている。

 しかし第一位被使用言語たる中国語はチベット語等同様、孤立語だし、日本語とかスワヒリ語、朝鮮語(ハングル)、ハンガリー語、フィンランド語、トルコ語等は膠着語である。そしてそういった大まかな統語モード以外に多くの個別的性格が各言語に備わっていて、それがそれぞれ固有の機能と日常的働きで異なった利点を持っている以上、グローバルスタンダードよりも内実的には個別言語学的な認識で臨む方がずっと実践的であり、プラグマティックで実用的なのである。

 恐らく後千年経っても世界の言語が一つに統一される様な事はないであろう。何故そうなのか?それは単純に言語とはそれが使用されているエリア毎に固有の地理的、自然環境的、それ等に拠って開示され得る文化的、民族習慣的な事が異なっていて、その固有の事情に最も適した形で育まれているからである。

 だから文化は生活様式や習慣、社会慣習が異なれば異なってきて、それと共に言語も異なったものが使用されるという事が人類学的な真理であるので、哲学的・論理学的真理というグローバルスタンダードは言語の持つ個別性と、それに伴う民族感情等を救い取る事が出来ないのである。

 言語学はある時期から論理学方式一辺倒となってきているが、私自身、所詮言語学は語学を基礎としているもの(Wissenschaft)へと収斂されるべきだし、そうなっていくのが自然であり、個別言語学の時代へそろそろ戻るとそう考えている。何故ならリアル社会では国際通用語を幾ら英語としてみたところで世界中の人口の大半の人達は(日本人もだけれど)学者や研究者の常識に従う事はないからである。要するに民族感情が無くならないという事とは言語の壁も未来永劫無くならないという事以外でない。

個別言語学 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8B%E5%88%A5%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6

 <注、これに対し世界標準で研究される言語学を普遍言語学universal linguistics と研究者達は言っているし、それが現在の国際会議で常識化している。そして私はこの能天気なグローバリズムに破綻が来ていると考えているのである。>

 現在の言語学は論理学と共謀していて、そこではラッセル、クワイン、クリプキといった哲学者やレネバーグ、グリーンバーグ、カッツ、チョムスキーといった言語学者の理論がスタンダード化されているが、これらは全て英語圏の人達であり、その英語スタンダードから全てを考えている。そういった意味では中国が尖閣列島その他の事で必死にアメリカ文化圏へ抵抗を示しているけれど、それだって日本は必ずアメリカの肩を持つ様に運命づけられはいるけれど、中国の言い分が完全に誤りであるとは言えない(沖縄や台湾全てを含めて中国だという考えが誤りであったとしても、総体的なアメリカ一辺倒主義への抵抗という意味では)のである。

 サイバースペースは極一握りのハッキングテクニックに秀でたエンジニア達に拠って世界全体の動向を握られている。しかし必ず人類はこのサイバースペース至上主義の在り方自体へ疑問符を突きつける時代をも経験するだろう。その時もっと各エリア毎に有効活用し得る新たな今とは別種のサイバースペースを確立する時代も到来するだろう(恐らく数十年後には、それは顕著になっていき、一つの世界ネットからかなり多層的で個別的な世界ネットが並走する様になるだろう)。その時言語毎に使いやすいPCやタブレット等全てが開発されていく事だろう。

付記 国家間の軋轢は多くが異文化摩擦由来だ。だが現代の哲学者は殆ど文化には全く無関心である。その点では民俗学や文化人類学の方がリアリスティックだ。彼等だけに文化摩擦問題を任せておいていいのだろうか?もっと哲学も思想化していくべきではないだろうか?(Nameless-value)

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2013年6月 6日 (木)

家族の肖像・父/母/息子/娘から考える①母親編

 母親を構成する家族の他者から母親を考えてみよう。箇条書きにして示そう。

                母親は夫たる異性との交渉を通して子を儲ける事で息子か娘の親となる。注★

                母親は夫たる異性である配偶者(かそれに類する異性)に対して自らの精神的アイデンティティそれ自体を息子にも娘にも託す。

                ②の事実はある意味では夫の持つ精神的アイデンティティへの復讐的な性格を持つ事もある。勿論感謝の念もある。しかしその感謝の念も復讐的色合いに於いて変形されている。そこに性的葛藤がある。

                母親は娘と共謀する事を通して夫へ復讐する。娘が夫に似ていれば、娘に夫への愛を仮想しもするが、同性であるが故の共謀を通して異性たる夫への復讐を遂げる。つまり夫に似た(娘からすれば父親から似た)娘さえも自らで取り込もうとする事に拠って間接的に異性たる夫を自己所有しようと欲する。

                母親は息子を精神的に取り込もうとする。息子をパートナーたる異性の夫にはない精神的アイデンティティを息子の中に脈打つ自分の精神的アイデンティティから継承された部分に於いて発見するにつけ、夫から継承されている部分を自分から継承された部分に拠って制覇しようとし、その鋳型から自らの夫を自分の息子にとって他者化させる事を通して、結果的に息子を父親から自立させる事へと貢献する。要するに母親は息子を自己の精神的アイデンティティで取り込み精神的に所有しようとしつつ、それを果たしえず、もう一人の夫をそこに作っていってしまう。

                母親の放棄とは夫との間で夫にとっての異性としての自己のみを肥大化させる事に拠ってである。育児放棄もその一つである。しかし育児さえして子供に手がかからなくなれば、どんな母親でも息子や娘の父親である事へ執心している夫を、自己自身の為だけで存在し得る、つまり息子や娘の父親としてではなく自分を妻としてのみ認識してくれる異性として求めたいという気持ちを常に持ち続けている。それは息子や娘にとっての母親という像からはかけ離れている。従って息子や娘が自立するとは、この自らにとっての母親が「一人の女性」、つまり母親にとっての異性たる夫から見た異性としての女性であると認識し、母親の幸福を切に願う事から達成される、と言ってよかろう。

 

★ 上司は部下を指導する事で上司として成長し、教育者は生徒、学生を指導する事で教育者として成長し、先輩や祖先は後輩や子孫を指導する事で成長する。否育成され自己も見出させられると言ってさえよい。その逆である様に見えるけれど、実はそうではない。そこに人類の個としてのエゴイズムがある。(Nameless-value)

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2013年6月 5日 (水)

6月3日から4日のFB.で「いいね!」が付いたTW.

★★俺、まあ凄く長くアートの世界とかでやってきて趣味でしていた哲学とか生物学とかを本格的プロと付き合って学んで色々活かして詩を言葉のアートとしてやっているけど、凄く若い社長の下で手配師とかスカウトマンとかする方がずっと向いていると思える時もかなりある。亀梨和也とか山下智久みたいなイケメンの天才的社長の片腕とかならなってもいいね。サポートするのは男でも女でも絶対に美がなければ駄目だけどね、おっさんとかおばさんとかでは。

★世界自体が世界の絡繰りにある種の興ざめをして、すっかり白けきって必死になる事を止めぬ限り、世界の凋落と消滅は早い、とそう直観しない鈍感な人間を信じる事が出来ないし、何よりそういう輩だけが闊歩するそういう世界にうんざりしていない人の方が少ないという事だけは確かではないだろうか?

★★★★★どういう理由か納得の行く説明をせよと言われると困るが、どういう訳かいい意味でバカな奴だけが凄く金回りもよくどんどん仕事が舞い込み、凄く頭がいいのにどういう訳か一向に仕事も舞い込まず生涯貧困という事の方が多い。それでも死に際に偉大な人生だったとウィトゲンシュタインの様に言える人は凄く少ない。

★★そもそもある種の自然科学者が目的とする様な意味で哲学者とは合理を目指しているのではない事だけは確かである。と言って何も目指さぬのでもない。では何を目指しているのか?それはあらゆる合理を通しても最終的に最も知りたい何かとは合理では説明がつかないという事を知る事である。

表現者は哲学者が目指す様なそういう明確な知る為である様な何も目指さない。そもそも表現者は知る事など所詮幻影でしかないと思っている(と言うより感じている)。その部分では(主知主義的解釈に拠れば)表現者以上のニヒリストは居ない。表現者に啓蒙が要らないのは、この固有のニヒリズムに拠ってである。

★★私の哲学に於ける二人の師、中島義道と永井均はあらゆる意味で対極である。

もし哲学的独創性で言うなら永井均が上だが、彼は哲学的疑問を表現する。その段で中島より数段上のニヒリストである。対し中島は哲学的疑問を表現せず解釈する。その段で中島は徹底した哲学の徒であり探求者であり合理信頼主義者である。彼がニヒリストぶるのは哲学的共感誘引での戦略であり、永井の様なニヒリストはそもそも共感誘引する事を最初から放棄している。

★頭を垂れる稲穂の如く年を増す毎に謙虚になる事を美徳の様に言う人間を信用出来ない。年を経る毎に往生際を悪くしていって何が悪い。年取るにつれまるで死を受け入れるかの如くこの諺を遵守した犬の様な人間に非ずという抵抗の精神を持て!(Twitterでもretweet)

★受身的部分の一切ない強靭な人間の事を鈍感だと私は言っているのだ。それは狂人でもある。強靭な事が狂人なのだ。こういう鈍感な感性の人間にとっての天国の世界で安穏と暮らせ、その事実に懊悩し精神的に病む事がないという事を鈍感だと言っているのだ。

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2013年6月 4日 (火)

リスタート形容詞論Part12「痛い」「恥ずかしい」「悲しい」/動詞の在り方を考えるPart12「大きくする」「小さくする」/時間と空間Part76

哲学的に考えた時「痛い」と言う事は医師の前で患者が訴える事、人混みの中で急に腹痛となって誰かに助けを要請する事とか、要するにレスキューディマ