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2014年11月

2014年11月30日 (日)

11月29日のTwitterとFB. 芸能雑記、右傾化世相批判論他

SONGSのミスチル良かった。歌詞も。桜井和寿はディランからかなり影響受けている。バンド自体ビートルズ的でない(桜井がソロで歌い、他メンバーは歌わないのでビートルズ的でも吉田山田的でもない)。又長い歌詞を短いフレーズに一気に盛り込み走る様に歌う歌い方も。ディラングランドサン桜井だぜ。

◇<ブラックスーツ>が凄く面白い。斎藤工の時代に遂になった。既に小栗旬や藤原竜也を脅かしてさえいる。ドラマの人間模様が面白いし、Bzの主題歌もいい。又満島真之介、石丸幹二、戸次重幸等もいい。毎回次回が楽しみなドラマだ。斎藤工の今後も益々楽しみだ。Retweeted in Twitter

NHK杯男子シングルは村上大介が二位を大きく離して優勝。ゴドノフ(二位)、無良崇人(三位)。

☆羽生結弦がNHK杯ショートプログラムで五位という出だしだった。無良が首位だった。ところで羽生は休ませるべきだったのではないか?それを無理させて出さす(本人の強い希望だろうが)のはいいが、そうする事で選手生命を縮める可能性もあるのでは?こういう恩返し主義が右傾化だと言っているのだ。

◇日本だけでなく韓国も中国もアメリカも多分に国粋主義的な空気に満たされている。それと昨今の地殻変動とが関係あるかも知れない。御嶽山に続き阿蘇山も活発化している。何か火山噴火や地震を誘発する世界的地球環境の変化自体が人類の脳細胞や脳神経を保守的思考へ赴かせる遠因なのではないか?

◇日本は昨今異様に国粋主義的な気分に傾いてきた。恩返しという語が異様に多用される処にそれが表れている。デカタンである事はいけない事だ、きちんとして社会貢献しなければいけないというムードは自由業者への風当たりを強くしている。だが気づいていないのだ。日本が北朝鮮化しているという事を。Favorited in Twitter

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2014年11月29日 (土)

11月28日のTwitterとFB. 音楽シーン、私的・人生雑記、時事、詩他

◇今年一番世界で稼いだのがビヨンセだ。彼女の最新曲を聴くとテクノロジーの音と、宣伝媒体化したエスニシティのみが聴こえる。(Drunk in Love)ヒップホップが登場した時代に音楽の人工化が加速された。日本では小室哲哉がそれを加速させた。フォークブルースが生存し難くなっていった。(29日零時過ぎ)

◇音楽が所詮体制でしかあり得ないのだと確定的にしたのがビートルズだったと言える。ディランも初期精神をビートルズの登場で変質させられた。マイケル・ジャクソンが更にそれを徹底化させた。吟遊詩人的シンガーが出る幕を彼等が無くしたと言える。其処にはテクノロジーの異様なる進化が関わっている。

◇日本では個人の思いを歌う事が現在困難だ。植村花菜<トイレの神様>位がせめての例外だった。これはポップス自体が宣伝媒体、つまりコピー化している証拠だ。だが役者もイケメンは宣伝媒体的だが、そうでない演技派(例えば阿部サダヲ、窪田正孝等)こそ文化を構築していると言える。

J-pop歌詞はかなり内容的には右傾化している。ポップスの在り方自体が経済右翼的営業性を重視している。その典型的例が椎名林檎<NIPPON>だ。日本社会の同質性が生んだ一つの文化例と言える。現実の憂さを晴らす意味合いの強い日本芸能の伝統とは一つは現実逃避性でありパチンコとよく似ている。Favorited in Twitter

J-pop歌詞は英米RP歌詞と比べると、明らかに未来志向であり、ある意味では現実逃避的だ。それは平安貴族の時代の和歌の伝統を受け継いでいる。英米ロックは聖書世界の訓戒的要素がトピカルな現実とどう対応するかで歌詞が書かれている。現実投企的なのだ。芸能の在り方の違いがある。2Retweeted and 3Favorited in Twitter

◇ディランは初期から現在迄一貫し(色々なジャンルを放浪してきたも)トピカルソングから出発した感性は失っていない。日本ではながしに近いし演歌的でもある。アメリカには教会ゴスペル、社歌、労働歌等多くの音楽があり、それ等全てが密接に絡まっている。日本ではながしは絶滅に瀕している。

映画は昔観た時に感じた事と今その頃の映画を見直して感じる事はかなりずれている事が多い(私はそうだ)。その理由とは一体何なのだろうか?

◇ディランやビートルズやジミヘンとかがあの頃どうであったかも大事だが、もっとそれ以上に今どの様に振り返られているかの方がずっと重要だ。そういった意味では常に今だけが最も重要で、過去自体よりある時期の過去にどう今対するかという事の方がずっと常に重要であると言える。

◇過激さはウェブサイトで、テレビやその他公的場ではおしとやかに、という風に現代人は完全に精神的に二面性を巣食わせている。分裂的意識を誰しもが持つ。だがこの亀裂や態度の乖離自体が色々な意味で精神的にもだし、公的な場でも問題を多く引き起こす様になっている。もっとそうなるだろう。Favorited in Twitter

◇英米では今より60年代の歌の内容の方がずっと過激だったと言えるが、それは日本でもある程度言えた。テレビ番組自体もそうだ。かつてはウェブサイト等無かったので、唯一テレビで過激な事を演出する事に意味があったのだ。今ではテレビも其処に登場する全ての人達が過激ではない。

◇人類学的に考えた時、まず数える事と身体を揺すり叫ぶ事の不分明な時期があって、数える事が其処から離脱し、其処から数学が発展し、身体を揺すり叫ぶ事から歌と詩歌が生まれ、文字発明と共に文学が独立し、それ以外が音楽として歌と演奏を持続させてきた、とは言えないだろうか?

◇文学と音楽は人類史的にはある時期以降(恐らく文字発明と特権的階級の文字使用以降)分業してきたが、実際は同根だったのではないだろうか?歌を歌うという行為がまず在って、其処から詩歌と演奏とに分かれていった。そして歌は常にその二つの間を取り持ってきたと言えないだろうか?

◇中島啓江氏(57歳)が23日に死去

◇圧倒的に音楽と映画から影響を受けていきてきた。従って仮に詩を書いたとしても、それは何処かで文学伝統を継承する意識ではなく、文学伝統さえ音楽と映画で培ってきた感性で解釈しようという不遜な態度だと言える。音楽と映画に限りなく魅せられその世界で食えなかった者の歪な足掻きかも知れないが。

◇昔と違って確かに日本のウィスキーは安くて飲みやすくなった。味も変わっているのだろう。

◇最近宅飲みでも居酒屋でもウィスキーを飲む事が多くなったが、これも朝ドラマッサンの影響だろうか?

◇日本に住むある米国人白人に言わせれば日本人はテキサス人に似ているそうだ。ドメスティックな思考法がそうなのかも知れない(だがそれも彼等の印象でアメリカに日本人が行けば、何処かの町の人達が大阪人的だと思うかも)。

◇横浜のブルースは幾分青江美奈の方の歌謡ブルースに近く感じてしまい、寧ろ米国デルタブルース的な感性は大阪の方に持っていかれているという部分は否めない。柳ジョージも米国ブルースと日本歌謡のブルースとの微妙な融合と言えなくもない。Retweeted in Twitter

◇柳ジョージは横浜出身だし、彼も関東地方なのだけど微妙な処で東京っぽさでなさをアピールしていた。横浜銀蠅等確かに横浜には違った風が吹いている。宇崎竜童は京都出身であるが京都っぽさを余り出さない。巧く関東に馴染んでいる。原田芳雄は東京出でブルースを唄ったが彼は役者として演じたのだ。Retweeted in Twitter

◇日本ブルースは例えば憂歌団に代表される様なある種の東京っぽさでなさのアピールであり続けたと言える。新井田耕造以外のオリジナルメンバーは全員大阪出身だし、大阪とブルースは確かに合っている。奥田瑛二もブルース狂で有名だが、彼も愛知県出身で東京っぽさでなさで勝負している。

◇日本ロックは、初期はヴェンチャーズ、ある時期からはディープ・パープル、レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイドからの影響が最も大きかったと思う。ビートルズもストーンズも日本ロックとは全く異なった由来と背景の音楽だったし、それを日本ロッカー達は知っていたのだ。

◇日本ロックは一貫してビートルズ的でなかった(セカオワは少しビートリーだが彼等はロックでない)。四人囃子も紫も頭脳警察も。原爆オナニーズ、電気グルーヴ、クロマニヨンズ等はパンク系譜だし、ニルヴァナ的要素もある。X-JAPANも全く違う世界だった(彼等こそ最も英国プログレ的でもあった)。

◇歌謡曲(演歌も含む)、ニューミュージック、J-popは全部違う。語彙が異なるのは理由がある。中島みゆきはニューミュージック最後の人で、ミスチルはJ-pop台頭期の人だ。勿論少しずつ重なっているが、やはり音そのものが違う。寧ろJ-popの方がディラン的で、NMの方がビートルズ的だ。

◇絢香や家入レオはポップスでもあるしフォークでもあるが、いずれでもない。彼女達の感性も日本伝統芸能音楽の系譜を意識しているが、感性的にはゴスペル的なものもある。このタイプの音楽テイストは英米人には出せないものだ。英米人は今先祖帰りしているのかも知れない。

EXILE等のダンスユニットの源流はソウルやヒップホップだが、それが伝統日本舞踊やお囃子等ともミックスされている。その点でもジャズ演奏家達の世界的飛躍と共通する。AKB等の場合にはそれ等+宝塚的なレビューの世界とのミックスも意識されている。J-popは風俗史的価値の存在と言える。☆「いいね!」in FB.

◇人は何物からも影響を受けたくないと思う時期(表現者にとっては創造に没頭したい時期)もあれば、逆に凄く色々と他者から啓発されたいと願う時期(表現者にとってもだし、それ以外の人達にとっても反省期且つ充電期)もある。だが充電吸収期が長い方が放電期に凄くいいものは出るとは言える。Favorited in Twitter

◇最近ディランのツイートが多い理由は来月初旬に学会で発表するからだが、それだけでなく、詩作を続ける上で何人かの重要な詩創造者のプロセスを辿る事で詩創造の意味を考えたいという主旨に拠る。いずれギンズバーグもケルアックもエリオットも拘っていく時期も到来しよう。

◇椎名林檎や彼女にインスパイアされた大森靖子はポップスよりはかつてのフォークに近い。何処かニヒリズムが漂う処もそうだ。雨宮処凛の存在の仕方を音楽シーンで実現させると彼女達の様になるという感じもある。彼女達とAKB等のダンスユニットは正反対と言える。勿論何等かの共通性はあろうが。Favorited in Twitter

◇日本にもポップス、ロック、フォークと個々異なった系譜音楽は存在し続けている。フォークコミュニティは今もディラン的に一匹狼的な存在の仕方が主流だが、ダンスミュージックシーンでは集団が多い。ジャズは一番日本伝統芸能の延長線で飛躍する。癒しはポップスに委ねられ陽気さはダンスが演出する。

EXILEATSUSHIのヴォーカルの癒しは、音楽は思想的でない方がずっといいという現代ニーズに適っている。癒しは常に時代的世相的な暗さを忘れさせる効果の為に生み出されている。演歌の持つ暗さは怨念的なのに一つの形式的踏襲だが、ポップスは違う。又癒し自体の意味も時代と共に変わる。

英米もある時期迄と比べればそれ程世界を震撼させる音楽は出ていないと言える。又音楽とは憩いだしそれでいいのだという考えもそれなりに説得力がある。要するに地域に根差した音楽が個々楽しませればそれでいいのだ、という訳だ。だが同時に人はそれだけでは物足りないと直ぐに思い始めるのだ。

辛口に言わせて貰えば吉本興業もジャニーズ事務所も日本の戦後芸能を文化に迄したとは思えない。それは非常に活気ある風俗を生み出した、というレヴェルだったと思う。日本の音楽シーンが集団主義的な様相から脱さぬ限り世界的なミュージシャンは出ないと思う。それはそれでいいと言えばいいのだが。

日本が今後今よりもっと深刻な格差社会へ転じていくなら、寧ろ其処で今迄にないブルースやジャズスピリットが日本なりに生じ、安定し格差の少ないほのぼのとした国ではない事で却って感動的な歌が社会へ大いなる慰安を与える事はあり得るかも。だが既存の芸能界からはそういったものは出まい。

日本人が聴く場合、恐らく多くの人達は米国のロックやポップスより英国のそれ等の方にある明るさ、希望の様なものを聴き取るだろう。米国ロック&ポップスは手本にすべきブルースやジャズに出て来る基本素材(ゲットーや貧民窟等の現実)に社会やコミュニティの深刻さが介在するからだ。

詩でも小説でも何を明るく何を暗く感じるかは個人差もあるし文化差もあるだろう。だがどんな作品でも恐らく完全に明るいとか暗いとかは言えない。何故なら全ての希望も夢も絶望や死とも隣接しているし、明るさ自体は暗さを浮かび上がらせるし、暗さも夜明けを浮かび上がらせるからだ。

民族毎に羞恥心の質に違いがもしあるとすれば、人間は言語とそれに伴う慣習に支配されると言える。見栄や虚栄心的羞恥が強いのか、倫理的正義論的な羞恥が強いのか、経済的困窮等の見栄や虚栄心か、潔さへのモラルディレンマが理由かという事だが、それでも尚民族差を超えた羞恥も存在するだろう。

アメリカ人にも日本よりは自殺率は低いが自殺する人は居る。だが彼等の自殺理由は日本人とは少し違うかも。文化差も宗教倫理性差もあるが、社会全体の運命論的深刻さの質は違うかも。自殺理由は民族毎に違うとしたら、哲学が考える様に言語こそ文化や習慣、伝統を支えるという事は正しくなる。

生存自体の深刻さの前では現在だけが重要で、其処から友や敵や愛や本物とは何かの問いやヒューマニズムが立ち現れると言える。社会が同質的な日本では現在という認識が成立し難いのかも。Like a Rolling Stoneや<天国への階段>の怖気を醸す現在の不毛は日本人には描けぬのかも。

プリプリの名曲<>は、それより後にリリースされたミスチルの<Tomorrow never knows> 同様時間論の歌詞内容だ。だが其処では追想は示されるが、現在は余り浮かび上がって来ない。ある部分未来に希望があれば、追想だけで充分未来を見据えられる。だが未来に希望を持てなければ現在だけが重要になる。

アメリカは生存的に日本より深刻な何かが構造的に民族的にも国家的にもある。そういう深刻さは日本では精神的には希薄だ。勿論現代人が多く自殺するのは日本人の表層的な形式踏襲に率直に苦悩する人が憩いや安らぎを見出せぬ故だ。アメリカの生存の深刻さは却ってヒューマニズムを創造するのか?

ビートニックの詩人・作家は表現描写共にかなり大胆にモラル破壊をした。我々はそれを時代的に歓迎した。だが日本人は形式的な雅を求める民族性だし技巧的民族なので、只単にそれを誤解して輸入していただけだったとも言える。ビートルズの意味も欧米では日本語の<ゴキブリズ>に近いものなのだし。

慇懃無礼で無感情な人が多い。一見情がある風を装うかなり用意周到な功利主義者の群れ。社会の実質がそうであると言うと反社会的と言われるかも知れぬが、それを言わな過ぎるのが一つの現代社会の不気味さなのだ。毎日自殺者が出ている事に眼や耳を塞ぐ様に仕向ける狡猾さに慣れていきたくない。

詩は読む人に拠って詩が語り掛ける意味は変わる。従って詩人はどう読まれても自由な様に詩を書いている。詩には基本的にルールはないが、ルールに沿って理解するのでない読み方だけを出来る様に書く、という事だけが唯一のルールとも言える。

詩は社会性を容易に受け入れられるタイプの人には作れない(書かれた詩を理解する事は出来ても)。それは管理職に就いているという事でない。そうであってもなくても管理職責任論を難なくこなせる人という意味だ。

時間をかければいいとは限らないという意味で仕事も恋愛も友情も同じだ。と言って時間を積み重ね初めて理解し合える事もある。人生とは時間の長さより時間の使い方、同じ時間でもどれ位密度を持たせて過ごせるかという事だ。苦し紛れに巧く行く様になる為には失敗を多く積み重ねるしかない。

時間をかければいい仕事が出来るとは限らない。それどころか寧ろ付け焼刃的に切羽詰って何とか切り抜けようというやっつけ仕事の方がずっと巧く行く事も多い。本番ぎりぎり迄練習に余念なくして失敗する事もあれば、逆に最後迄どうしようか決めあぐねて直前に気分(直観)で決めて成功する事も多い。

こんな事をするのはまずいのでは、とか少し突飛過ぎはしないかと懸念する事を思い切ってした時の方がより多く他者から評価される事が意外と多い。逆にこういう事だったなら大丈夫だと思って試みる事は意外と陳腐で誰からも目に留めて貰えないという事が言える。まともさを自分で判定してはいけない。

仕事やビジネスと自然人的友情とは別物だが、人への好き嫌いも又(それが社会人同士の付き合い的でない場合でさえ)年齢や人生経験の蓄積と共に変化していく。寧ろ若い頃より年配になるに従って、自然人的な馬の合う相手より、もし仕事やビジネスで同僚であるならいい相手がいい友人になったりする。

人への好き嫌いと全く無関係に仕事やビジネスは動いている。その意味で凄く気の合う友人同士で仕事やビジネスが出来るかと言えばそうとは言えないとは真実だ。お笑いのコンビ等も恐らく自然人的な友情とは全く異なったタイプの相性なのだ。凄く個人的には馬の合わない者同士がいいコンビだったりする。

プロとして食っていけるかとは自分が得意な事が同時に社会やプロの世界で求められている事が必須条件だ。どんなに得意な事でも社会状況自体からニーズのある仕事や能力でなければ金は取れない。又プロからプロと認められなければ金には換えられない。結局自己資質も才能も社会や他者が判断する。

自分が得意な事で食べていければ理想的だが、趣味や自分の資質として向いている事と、プロとして業界やコミュニティで金を稼いでいけるかという事とはかなりずれている。自己資質としては却って全く向いていない事でこそ食える事もあれば、逆にどんなに向いていてもその世界でプロになれぬ事もある。

ずっと画家としてやっていこうと思っていたので人前で自分を晒す必要が無かったが、研究活動の為に学会に入会する事で初めて人前で話す(説明する)機会を持ち、それはそれで職人仕事にはない大変さを知った。来月の発表で大勢の人前で話すのは四回目(少人数へも含めれば六回目)だが少し慣れた。

人前で歌う事が最も神経の集中を要するパフォーミングアート故、音楽家が他の文化人より多く金を稼ぐのは当然だ。詩の朗読でも歌自体にかけられる集中力程大変ではない。演奏も神経を集中させるが、あくまで楽器本体への制御故抽象化された作業だが、歌は身体本体から直接出されるが故により大変だ。

詩は小説とは全く異なったタイプの虚構とも言える。小説では設定や読者の為の色々なルールがあるが、それに該当するルールは詩にはない(俳句や短歌にはある)。だがその為に構成的に却って厳密な(自分なりの)ルールを設ける必要性がある。その点では詩作は現代アートインスタレーション的だ。

ディランはディラン・トーマスから取った芸名だが、彼の歌詞はランボー、T.S.エリオットやギンズバーグと比較して解析可能な教養深さと意味の重さがある。それでいて寺山修司のアナーキーな詩に近いアイロニーやパロディ精神もある。その正統的な部分と破壊的部分の共存に彼の本質がある。

ディランの歌詞は歌自体のグルーヴ感と裏腹に一度聴いただけで平易に理解し難さもある。ビートルズは売上的なものではトップレヴェルだが、ディランは売上ランキングでは少し彼等より後ろだ。だがプロや批評家から凄く評価が高い。玄人好みだし天才も一目は置く。理解出来れば凄い歌詞だと分かる。

ビートルズの歌詞は初期からかなり哲学的だった。寧ろ成功して誰もが知る曲(「イン・マイ・ライフ」「ヘイ・ジュード」「イェスタデイ」「サムシング」等)の方が理解しやすい平明な詩内容だ。初期や後期でもヒット曲以外でかなり深遠な意味のある歌詞が多い(「ジ・インナー・ライト」他)。

金子みすゞはかなり厳密に韻と語数を調整している。その点では寺山修司の方がずっと大雑把だ。だが彼の場合詩の内容で攻めるので読んでいて違和感はない。その点ではアート的なビートルズの方が韻も語音数も厳密で、却ってディランの方が大雑把だ。でも彼も歌詞内容で攻めるので違和感はない。

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2014年11月28日 (金)

11月27日のTwitterとFB.「いいね!」☆ 日本人へ、追憶の音楽体験、人生、メッセージコミュニティ、音楽雑記、火山活動活発化他

 

◇日本人の最大の欠点は勤勉だけど、息抜きが下手だってこと。金を溜めるのは確かに巧い。でも金の使い方が下手だ。要するに休日でも余った財産でも、巧い消費の仕方を覚えなければ、日本人はいずれ人間精神にユーモアを失っていっていっちまうぜ。favorited in Twitter

 

◇テキトーに息抜きの出来ない奴は、どの社会でもきっと自分ではきちっと全てに対してしている様で、何処かではストレスが溜まって他人に迷惑かけているもんなんだって。だから巧く息抜き出来ない奴は、結局社会では人望も得られぬし、いい仕事も出来なくなっていってしまうんだよ。

 

◇人生かなりいい加減に生きていく事を覚えるべきだって。確かにきちっとしなけりゃいけない場面はある。でも全てにきちっとしていたら、きっと誰も息が詰まって生きていけないぜ。絵も凄くきちっと描かれている部分とテキトーにしている部分が共存しているからリラックスして鑑賞出来るのだ。同じさ。

 

◇札幌五輪て言やあ、当時連合赤軍の浅間山荘立て篭り事件があって、スゲー緊迫した中継映像が鮮烈だったぜっての

 

◇札幌五輪もスゲー懐かしいぜ、カレン・マグヌッセン、ジャネット・リン、笠谷幸生。2026年にもし実現したなら、生涯で五回も日本で五輪を楽しめる事になるぜ(俺も運がいい年回りだったぜって事になるぜっての)

 

◇中国漁船小笠原諸島侵入に関して日本はある部分台湾と韓国を巧く味方につける必要性もあるのではないだろうか?勿論日中関係自体が改善される事が理想ではあるのだが。

 

◇日韓関係でこじれている昨今、仮に日本首脳部への報道で韓国記者が行き過ぎた憶測報道をしたなら、日本政府も黙ってはいないという事も考え併せるべきではないだろうか?favorited in Twitter

 

◇韓国のパク・クネ大統領の私生活に就いて言及した日本人記者を名誉棄損で訴える韓国や大統領サイドに問題はあるものの、その記者の書いて暴こうとした内容も若干まずかったのでは、という思いはある。どんな事でも報道、表現の自由で片付けていいものかというある種の問い掛けは必要ではないか?

 

◇只歌を聴いてもその本質を理解していた訳でなかった。セックスをしただけで女性の本質を知る事が出来ないのに似ている。私の音への旅は長く続いたが、今なら理解出来る部分も多少あるだけだ。死ぬ迄旅は続こう。死ぬとは人生という音楽が鳴り止むという事である。死ぬ迄人は音楽を奏で聴く。Favorited in Twitter

 

◇ディランがLike a Rolling Stone を唄った時僕は六歳だった(前年東京五輪をテレビで観た)。その翌年ビートルズが来日した。僕がポップスやロックに目覚め胸をときめかした時ビートルズは解散していてディランは神格化され別格として扱われていた(未だ31歳位だったのに)。その頃から全ての音を聴き捲る人生が始まった。だが本質を理解するには時間がかかった。

 

◇恐らく誰しも自分の人生に忙しい。暇でも暇に忙しい。人の事なんてかまっちゃいられない。自分の人生にだけしか忙しくなれない、という事が(恐らく誰にとっても)人生であり、人生の本質である。

 

◇ポールやエリックのコンサートを堪能した後、自分の人生に忙しくコンサートに行く余裕がなくなっていった。がその時期人生で得た事で今やっとディランの凄さが本質的に理解出来た(若い頃は今程理解出来なかった)。彼の歌はポップスでない。ブルースやソウルやゴスペルに近い。彼も人生に忙しいのだ。

 

◇ポールのコンサートは13年前(ジョージの亡くなる直後)行き、会場外で1mの距離で彼を観た。思わずポールと叫んだのを思い出す。クラプトンのコンサートは7回行った(殆ど武道館)。ジョンのコンサートは日本では誰も観てない(解散後しなかった)。ディランのコンサートだけ一度も行かなかった。

 

 

役者や演出家(監督)が一人で何かを作っているのでない様に、アーティストも劇作家もミュージシャンもデザイナーもコピーライターも皆他の誰かが何かを発表する度にそれを観て聴いて読んで作る肥やしにする。メッセージコミュニティの一員として参加する事だ。其処から逸脱する天才等一人も居ない。

 

◇マッカートニーが歌えばB・ジョエルもM・ジャガーもP・タウンゼントもクラプトンも駆け付け、ディランが歌えばデヴィッド・ヴァン・ロンクもトム・ウェイツもブルース・スプリングスティーンもパティ・スミスも駆け付ける。作品、パフォーマンス、メッセージは駆け巡り新しい何かが生まれる。

 

 

◇ニューマンが個展をすればF・クラインもウォーホルもリキテンシュタインも観たろう。ウォーホルが個展をすればバスキアもヘリングもキーファーも観たろう。バスキアが個展をすればメイプルソープもヘリングもパティ・スミスも観たろう。パティがコンサートすればメイプルソープもゴダールも観たろう。

 

◇マティスが個展をすれば必ずピカソは観に行った。モンドリアンもカンディンスキーも観たろう。モンドリアンが個展をすればブラックもデ・クーニングも観たろう。デ・クーニングが個展をすればゴーキーもポロックもロスコーは観たろう。ロスコーが個展をすればポロックもニューマンも観たろう。

 

◇ディランLike a Rolling Stone A Day in the LifeStairway to Heaven等に影響を与えた。がディランも、この曲を作る際ビートルズ(ポール作詞作曲)Cant By Me Loveを脳裏に作詞作曲したと歌詞の内容から読み取れる。

 

ラヴリー歌姫メッセンジャー。ベッシー・スミス、マヘリア・ジャクソン、アレサ・フランクリン、サラ・ヴォーン、ダイナ・ワシントン、ビリー・ホリデー、ダイアナ・ロス、ダスティ・スプリングフィールド、ドナ・サマー、シンディ・ローパー、マドンナ、ホイットニー・ヒューストン、レディ・ガガ等々。

 

ミュージシャンは歌を歌い演奏する事で既に一人の思想家であり哲学者でありメッセンジャーだ。チャック・ベリー、リトル・リチャード、レイ・チャールズ、エルヴィス、ジェームズ・ブラウン、ビートルズ、ディラン、サム・クック、オーティス・レディング、マーヴィン・ゲイ、ボブ・マーリー等々。3Retweeted and 3favorite in Twitter

 

日本人はややもすると誰とでも巧くやれる事を美徳とするが、それでは駄目なのだ。敵が居ていいし、敵対者へ妥協するのはあくまで最後手段でしかない。まずそう安易に自分で納得のいかない考えに妥協すべきでない。だから考え方が違っていてそれが気に入らない相手に気に入られる様にすべきではない。

 

シェークスピアもダンテもゲーテもランボーも、セザンヌもピカソも、ケルアックもギンズバーグもディランもビートルズも、美空ひばりも高倉健もビートたけしも、偉大なものはいい影響だけでなく悪い影響も沢山与えてきた。批評はそれを認め、創作はいい影響だけ受けるべきだが、なかなかそうならない。

阿蘇山も噴火し始めたが、或いは来年辺り関東地方にも大地震の来る恐れは充分ある。日本全国の火山が昨今凄く活発に地殻運動をしている様だ。原発がもう一炉壊滅すれば日本はある部分では終わりとさえ言える。そうなってみないと重い腰を上げないのかも知れないけど。3retweeted and 3favorited in Twitter

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2014年11月27日 (木)

ボブ・ディランの歌詞を読み解く別枠篇 <ライク・ア・ローリング・ストーン>の精神を受け継ぐ20世紀後半以降の曲① <天国への階段>

  詩は何か事実を特定する事が目的ではない。そういった意味ではそれは報道ではない。どんなに時事的な事を題材にとっていたとしても。その点ではトピカルソングの影響から出発したディランも御多分に漏れずだ。

 例えば<風に吹かれてBlowin in the wind>の冒頭の歌詞(How many years must a man walk down Before you call him a man? )は、人々は彼を人と呼ぶのにどれくらい歩まなければいけないのか?という意味としても、その彼が黒人(当時黒人への人種差別が激しく公民権運動が吹き荒れていた)を意味するのか、それとも黒人を差別する理不尽な白人も含めた人類への非難としてもっと賢明に人類がなるとしたら、後どれ位歩まねばならぬのか、という問い掛けを意味するのかとは必ずしも決着をつける必要がない。いずれでもいいし、それ以外の別の意味が其処に付与されてもいい。

 それは<ライク・ア・ローリング・ストーンLike a Rolling Stone>でも同様である。 (But you know you only used to get juiced in it /And nobody has ever taught you how to live on the street/And now you find out you’re gonna have to get used to it/You said you’d never compromise/With the mystery tramp, but now you realize/He’s not selling any alibis/As you stare into the vacuum of his eyes/And ask him do you want to make a deal? )の部分は確かに大いに意味的には問題もある。冒頭の(貴方は<大学で>只酔っぱらっていた)は(金持ちのお嬢様が毎日オージーに明け暮れて酔っぱらって遊んでいた)という意味でも実際あり得るし、又仮にきちんと講義を受け優秀な成績で大学を卒業した模範的大学生だったにせよ、それは一部の資産家の息子娘達の間だけの遊戯でしかない、実際には大学等行きたくても直ぐには行けない人達も居る(アメリカでは自分で学費を稼いでストレートの年齢でなく大学へ行く人は日本より大勢居るのだが)という意味で、観念的な論議だけに明け暮れている学生は只理論に酔っているだけだとも取れる。その解釈も間違っていない。

 又その後へ続く(And nobody has ever taught you how to live on the street/And now you find out you’re gonna have to get used to it)の部分を、誰も貴方に路上で生活する術を授けてはくれなかった/そして貴方はあなた自身がそれに慣れきっていると知っている)の後半部分は(金持ちである貴方が路上で生活する術なんて誰からも教わらないできた事に一抹の後悔を持っている)と解釈すべきなのか(勿論そう言う事に拠って人を憐れむ事の出来るお高い身分に収まっている事自体への批判としてだが)、でも(今じゃすっかりそのプチブル的生活に慣れてしまっている事にいずれ貴方も気づくだろう)と貧困や精神的困窮に陥っている人達の姿(例えばベトナム戦争還りでトラウマを背負い込みシンドロームに陥っている若い元兵士とかの姿)を観て初めて貴方は今迄の悪しきプチブル生活への惰性的な馴れを後悔し反省するだろう、という意味で解釈する事も可能だし、いずれであるかという部分は確かに問題としては残る。

 しかしそれはいずれでもプチブル的高邁さや欺瞞的偽善的態度自体への批判にはなっている。

 更に続く(You said you’d never compromise/With the mystery tramp, but now you realize/He’s not selling any alibis/As you stare into the vacuum of his eyes/And ask him do you want to make a deal? )を(貴方は決して妥協しないと言っていた/貴方は自分で知らない世界へ放浪する事なんてすまいと/だが貴方は今知っている<理解している>、彼(貧困に喘ぐ人達、精神的に困窮する人達)にはアリバイなんて持てない、彼の空ろな瞳を眺めていると、貴方は彼に何かしてあげられないかと尋ねるに違いない)と訳すと、要するに我々皆が差別と格差のある社会に覚醒する様に貴方も又自分のこれ迄の贅沢を反省するという意味となるか、結局社会の現実を知る事に拠って貴方も又若い頃の理想通りには行かず人生を精神的な反省で彩り放浪する事になるし、若い頃知らない世界へ踏み込む事なんてしないと非妥協宣言したものの、そうはいくまいて、という意味でかも確かに問題であるが、それはいずれでもそう変わりないと言えるが、後続するリフレインの(How does it feel/How does it feel/To be on your own/Like a complete unknown/ Like a rolling stone? )をそのそれ迄のフレーズの貴方こそが貧しく精神的に病んでいて、アリバイさえ持てない人達へ(どんな気分なのですか?貴方自身は、誰からも顧みられず、石の様に転がり落ちていくのは)と問うているとも解釈し得るし、逆にそういう風に高見から(上から目線で)人へ自分からの救援を欲しいのですかと尋ねる事自体が、一種の社会的高邁で堕落で、そういう風に貴方が何時迄経っても富裕層的奢りから抜けきれないで居る事自体なのであり、それこそが転がる石として生きていく事の比喩でモラル・ディレンマやremorse(深い後悔、悔恨、良心の咎め、自責の念)を持つ事を暗示している、或いは気づかせる様にディラン自身がミス・ロンリーへ語り掛けているのかも問題である。

 しかしいずれでもいいとは言えるし、そういう風に両方に取れる部分こそ詩の、歌詞を通したポエジーの面白さだとは言える。

 参考ブログ記事、ボブ・ディランの歌詞を読み解くPart5 <ライク・ア・ローリング・ストーン> http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/part5-7d94.html

 しかしこの楽曲がリリースされてから6年後の1971年に当時既にかなり人気のあったロックグループ、レッド・ツェッペリンはグループの全歴史でも恐らく最高傑作と呼ばれる<天国への階段Stairway to Heaven>をリリースする。この楽曲こそディランのLike a Rolling Stone が示したメッセージへの一つの返答ではないかと私は考える。

Stairway to Heavenの歌詞をまず見てみよう。

Theres a lady whos sure

All the gritters is gold

And shes buying, a stairway to heaven

When she gets there, she knows

If the stores are all closed

With a word, she can get

What she came for

Ooh ooh ooh ooh ooh ooh

And shes buying, stairway to heaven

Theres a sign, on the wall

But she wants to be sure

cause you know sometimes

Words have new meanings

In the tree, by the brook

Theres a songbird who sings

Sometimes. All pf our thoughts, are misgiven

 

Ooooh, it makes me wonder

Ooooh, it makes me wonder

 

Theres a feeling I get

When I look to west

And my spirit is crying for leaving

In my thoughts, I have seen

Ring of smoke, through the trees

And the voice of those, who stand looking

 

Ooooh, it makes me wonder

Ooooh, it makes me wonder

 

And its whispered, that soon

If we all call the tune

Then the piper, will lead us to reason

And a new day, will dawn

For those who stand long

And the forests, will echo with laughter

 

Oh oh oh oh oh

If theres a bustle in your hedgerow

Dont be alarmed now

Its just sprinkling for the May Queen

Yes there are two paths you can go back

But in the long run

Theres still time, to change, the road you re on

And it makes me wonder

Oh oh oh

 

Your head is humming

And it wont go

In the case you dont know

The pipers calling you, to join him

Dear lady, can you hear the wind blow

And did you know

Your stairway lies on whispering wind

Oh oh oh

Ah ah ah ah (Repeat)

 

And as we wind on down the road

Our shadows, taller than our soul

There walks a lady we all know

Who shines white light

And watch it show

Our worry beads, will turn to stone

And if you listen, very hard

The tune will come to you, at last

Now Im wondering, what is wrong

Yeah 

To be a rock, and not your own

And shes buying the stairway to heaven

 

 簡単に訳詞しておこう。

全ての光るものが金だと信じる婦人が居る

そして彼女は天国への階段を買う

其処に彼女が着いたなら彼女は気付く

もし全ての店が彼女でも分かる言葉で書かれ閉まっていたなら

彼女が何を買いに訪れたかって事を

オウオウオウオウオウオウ

そして彼女は買うのだ、天国への階段を

 

壁に文字が書かれている

だが彼女は信じたい

貴方が時々気づく様にと

言葉には新たな意味があるんだという事を

小川の傍の木に

歌を囀る歌い鳥(歌姫)が居る

時々貴方の全ての思いは不安にさせられる

 

うーん何てこった、僕は混乱してしまう

うーん何てこった、僕は混乱してしまう

 

僕が西の方へ向いて感じてしまう気持ち

そして僕の精神は離れていってしまい咽ぶ

僕が出会った僕の思い

木々の隙間に揺蕩う煙の輪っかとその声が立った侭眺めている

 

うーん何てこった、僕は混乱してしまう

うーん何てこった、僕は混乱してしまう

 

そしてそれは直ぐに囁きかけられる

もし全ての曲を呼ぶんだったなら

その時笛吹が僕を理性へ導いて行ってくれる

そして新しい一日、そして夜明けが来る

ずっと立った侭待っている人々の為に

そして森は笑いの木魂に満たされる

 

オウオウオウオウオウ

貴方の家の生垣が騒めいても

直ぐびっくりなんてしちゃいけない

メイクィーンに浴びせる花弁なだけなんだからさ

貴方が戻って行ける小道は二通りだよ

でも凄く長く続く逃走だよ

変わるつもりなら未だ時間はあるよ、貴方の立つ道には

うーん何てこった、僕は混乱してしまう

 

貴方の頭は鼻歌混じり

そしてそれは終わらない

貴方の知らない状況で

笛吹は貴方を呼んでいる、彼と一緒になれって

どうかご婦人、貴方は風が吹いているのが聴こえないのかい?

そうだ、貴方は知らなかったのかい、

貴方の階段が囁く風に乗っているのだってことを

オウオウオウ

アアアアアア

 

僕達は道に絡みついている

僕達の影が僕達の魂より高く延びている

僕達が知っているご婦人が歩いている

 

一体誰が白い光を発しているのだろうか?

それが光っているのを観よう

不安の数珠が石に変わってしまう

もし貴方が凄くちゃんと聞いてみるのなら

曲は貴方に忍び込んでくる、最後に

僕は困り果ててしまうぜ、どうなっているんだってさ

ヤア

岩になってしまえば、もう貴方じゃないんだ

そして彼女は天国への階段を買うのだ

 

 あらゆる意味でLike a Rolling Stone へのアンサーソングと言える歌詞である。それだけでなく<風に吹かれて><エデンの門>の二曲へのアンサーソングでもある。つまり欲に取りつかれ金品、つまり最終的には金自体を得ようと奔走する人生のブルジョワ婦人とはその侭Like a Rolling Stoneの歌の主人公であるミス・ロンリーである。不安の数珠が石に変わってしまう、という一節さえ転がる石に引っ掻けてある。僕達に理性の声の呼び覚ましに気づかせてくれる笛吹はハーメルンの笛吹のパロディ(的な比喩)だし、笛吹が一緒になれと勧める彼とはLike a Rolling Stoneのアリバイの無い貧困で苦悩するHave-notの彼である。

 (壁に文字が書かれている/だが彼女は信じたい/貴方が時々気づく様にと/言葉には新たな意味があるんだという事を)の下りは明らかに理性を呼び覚ましてくれる言葉であり、文字であり、だけど木々の鳥達の囀りに気を取られ、その美しい音色に魅せられる我々は知覚の亡者である。それは健康な精神に於いてならいいけれど、疲れ果てた末に理性を奪ってしまうエデンの蛇に唆されて林檎を食してしまう木への誘いでもある。

 (僕が西の方へ向いて感じてしまう気持ち/そして僕の精神は離れていってしまい咽ぶ/僕が出会った僕の思い/木々の隙間に揺蕩う煙の輪っかとその声が立った侭眺めている)の西の方とは西方浄土であり、(木々の隙間に揺蕩う煙の輪っかとその声が立った侭眺めている)は蛇に唆されるエヴァの比喩である。誘いをかける蛇という欲望の亡者への誘いを受けてしまう現代のエヴァであるご婦人はミス・ロンリーである。

 (貴方の家の生垣が騒めいても/直ぐびっくりなんてしちゃいけない/メイクィーンに浴びせる花弁なだけなんだからさ/貴方が戻って行ける小道は二通りだよ/でも凄く長く続く逃走だよ/変わるつもりなら未だ時間はあるよ、貴方の立つ道には)は人生で我々が関わる習慣や慣習である。メイクィーンはメイデイの慣習的花の冠掛けである。だから死ぬ迄に時間があって、金の亡者になる事を断念する時間なら未だあるよ、と此処で諭している。それはHow does it feel to be on your own というディランの言う(どんな気分なんだい<貴方自身に置き換えてみたら>)という一節自体がこの<天国への階段>の一節で集約されている。

 多分に英米のロックの歌曲の歌詞は聖書の比喩である。ある時はこの曲やディランの本歌Like a Rolling Stoneでも、其処で示される比喩は聖書である。この点だけは忘れてはいけない。

 聖書由来の比喩は全て自嘲である。人類全体を懐疑論的に観る眼差しである。それは哲学者パスカルが「哲学は阿呆の殿堂である」と哲学者自身を自嘲する意味合いである。そうする事で自らの悪に目覚めさせる仕方であり、それはパスカルからウィトゲンシュタインへも受け渡されている。梯子とは知恵を得る為のツールだが、それを登り切ったなら、それを外して仕舞い、梯子自体を忘れていくべきである(論理哲学論考)。そして哲学も歌詞もそういうものである。哲学書は何時か読み終えるし、歌も何時か終わる(どんなに長い本でも歌でも)。

 其処から貴方の時間が始まる、と我々へ歌が語っているのだ。何時かそれでも我々は死ぬ(大森靖子の歌ではないが)。その時我々は木々となり石となる。岩になってしまえば、もう貴方じゃないんだ、と作詞者のロバート・プラントが最後にもう一度言うのは、転がる石(Rolling Stone)になってしまわない内に引き返せ、未だ時間があるんだから、と歌の中盤で言っている事を思い出させているのだ。

 71年にリリースされたこの楽曲は70年の段階で構想されていた。プラントは22歳、相棒のジミー・ペイジ(レッド・ツェッペリンのリーダー)は26歳であった。プラント主導の下二人で完成させたこの歌の歌詞は彼等に拠ってプラント23歳、ペイジ27歳の時にリリースされ、その年からコンサートで数え切れぬ程歌われ演奏された。

 石の比喩、風が吹く等の表現、天国等、全て<風に吹かれて><エデンの門><ライク・ア・ローリング・ストーン>へのアンサーソング、ディラニズムへの回答という形を取っている事だけは間違いない。

 私自身は揶揄や過激なメッセージ性ではディランの本歌Like a Rolling Stoneの方がずっと上であるが、ある種のメルヘン、時代へのメッセンジャー的意識よりもっと深層レヴェルへ囁きかける趣きのアートという意味では、ビートルズの<ア・デイ・イン・ザ・ライフ>と共にこの歌の方が優れていると思う。

 只ディランの本歌は凄く軽快なリズムに乗って歌われるという意味でロックの頂点を築いている。対しその後に活動し始めたピンク・フロイドが<狂気Dark side of the Monn>という傑作の後<炎Wish You were Here><アニマルズAnimals>等文明批評、文明批判的プログレッシヴロックへと70年代に突入していくのは、<狂気>はビートルズの<サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド>のトータルアルバム性とディランの文明批判とが接合されて展開していると言えるし、<炎>以降のピンク・フロイドのアルバムは<天国への階段>のヒットを受けたアンサーアルバムという趣きもある。

 ロックが最も哲学化した20世紀の時期とは65年にディランがLike a Rolling Stone を唄った時点から70年代迄を言うのだ、としても決して間違いではない。そしてロック哲学は同時にロック的聖書、ロック的宗教倫理学である、と言っても過言ではない。

 次回はLike a Rolling Stone(ディラン)からもA day in the Life(ビートルズ)からもStairway to Heaven(ツェッペリン)からも大いに啓発されている日本のバンド、サザンオールスターズから一曲とミスター・チルドレンから二曲に就いて考えてみたい。尚その後でディランのLike a Rolling Stone以降の代表曲を幾つか分析してみる。(つづき)

参考wikipedia 天国への階段(レッド・ツェッペリンの曲)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%9A%8E%E6%AE%B5_(%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%9B%B2)

付記 英文翻訳(英語⇒日本語)を請け負います。特に人文科学分野や手紙、ビジネス関係でも一般的なことです。哲学・言語学・修辞学・批評も請け負います。自然科学的なこと(或いは日本語の英訳)も場合に拠っては相談次第で請負います。連絡先⇒ jun.west@nifty.com

 

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11月26日のTwitterとFB.「いいね!」☆ 座と神輿、地方格差、日本芸能の形式主義と個人発信力の不在、アメリカ、60年代追想、人類未来展望、世相ぼやき、人生哲学、大人主義営業至上主義批判論、アート・文化・思想雑記他

◇元々は中国起源だが、座という意識がこの国の文化も支えている。座興、座が白ける、一座、座頭等の語彙に示される。俳諧はそもそも集団でする行為だったし、和歌も俳諧より古くからそうだった。貴族であれ庶民であれ協調性の無い者は爪弾きにされる。日本の協調性は民主主義より実質的には優先される。

◇集団で神輿を担ぐ事は日本人の得意技であるが、個人の発信力はどの国よりも弱い。それに輪をかけて経済右翼中年青年がこの国を支えている。文科系が凄く軽視されるのもこの国の特徴だ。日本が世界に冠たる国家たるには技術力しかないという訳だ。そう考えると文学さえ日本では個人発信力ではない。

◇議員定数の削減、一票の格差が違憲である事が問題視される事自体はいい事だが、地方部の過疎化自体はその正義の踏襲で却って進むだろう。益々ローカルなエリアでは不便になり、老人は色々と不便を味わう事にはなる。地方部は地方創生大臣を設置しているが、国家的業務にするしかないとは言える。

◇決まりに従う、これこそ日本人の常識だが、決まりを作ろうという気概は小さい。結局決まりを作るのは民主主義が必要だが、民主主義自体が日本ではそれ程精神的には定着していないのだろう。決まりは偉い人に任せておけという訳だ。だが後でそれではまずいと焦っている感じがある。favorited in Twitter

◇日本芸能は戦後特に英米やラテンミュージックの模倣がメインで、形式に拘った。多くのビートルマニアも楽器演奏やコードの研究はするが、歌詞研究はそれ程しない。日本の音楽は古くは神楽から中世以降は歌舞伎等の様式美、形式的所作(踊りを不可分である)とお囃子的リズム感が優先されている。favorited in Twitter

◇多くのグループで活動するJ-pop芸能人は居るが、J-pop70年代歌謡曲やフォーク、その後のニューミュージックに比べれば明らかに歌詞で訴える部分は劣化している。そもそも歌とは何故歌うものかという問い掛けが全く無い。その点では経済右翼であるジャニーズ事務所が齎した弊害は大きい。favorited in Twitter

◇~する事は御法度だ、という言い方は少なくとも徳川家光(三代将軍)に拠る武家諸法度以降定着した言い方だろう。江戸幕府の時代に日本ではやっと全国的規模の統一された法律が登場する。それ以前の戦国時代には全くそういうものも存在せず、秀吉の施政に於いてやっと全国的統一の姿が見えたらしい。

◇ミズーリ州ファーガソン発のデモが全国規模で拡大し、さながらかつてのロス暴動の様相を呈している。アメリカ合衆国では十数年置きにこの様な事が繰り返される。アメリカで歩く時ズボンのポケットに手を突っ込んで歩く事は絶対に避けるべきだ。拳銃携帯を許す国のマナーは我々には理解し難い。Retweeted in Twitter

◇仲良く仲間同士でやる、という事の意味も日本の様に言語もほぼ統一され民族的にも然程複雑でない国と、そうでないアメリカ、ロシア、中国とでは大きく異なるだろう。グローバリズムは広い国家群が結局世界的論議では常に中心になる傾向はずっと在ったが、この国家形態の相互の差異では統制は困難だ。

◇米国は余程居住経験が長くないと分からない階級、職種、民族毎にかなり異なるアクセントから使う語彙迄が存在するらしい。ビートルズの英語はある程度分かっても、米国ミュージシャンのロック&ポップスの英語をネイティヴの様に深くは理解出来ない。どうしてこういう歌詞になっているとかを。

◇米国は州法がそれぞれ固有で、合衆国全体の憲法以外での強制力も強いし、民族居住分布も州や地方に拠り大きく異なる。思想宗教全てに於いて極めて多層的だ。アメリカ以外でもロシア、中国等広大な面積の国家の国防や外交、治安維持の政策は日本やイギリスやニュージーランドの様な国々とは大きく違う。

☆☆日本芸能界はカヒミ・カリイやシシド・カフカ等、一見では無国籍で民族アイデンティティのよく分からない芸名が多い。それは裏を返せば民族多様性が希薄である事のコンプレックスを示している。日米関係は相互誤解に拠る処も大きい。アメリカ合衆国の民族的歴史的政治的複雑さを日本人は実感し得ない。

☆マルコムX65年にハーレムで演説中に射殺された。チェ・ゲバラは67年にボリビアで政府軍に射殺された。キング牧師は68年(4/4)にメンフィスのホテルバルコニーで射殺された。ロバート・ケネディは同年(6/6)ロサンゼルス遊説中に射殺された。毎年重要人物達が若くこの世を去った。

◇現代人はかなり怒りを抑えている(私は時々怒りを爆発させる事にしているけれど)。日本人はここ数十年の間に怒りを炸裂する姿を公的に見せない様になってきた。その代り不健康なストイシズムと保守主義が罷り通る様になった。大島渚や野坂昭如のメディアでムキになる姿が妙に懐かしいぜ。retweeted and favorited in Twitter

1972年に北爆再開させた米軍はベトナム戦争の泥沼に陥っていった。ベトナム戦争が隣国で行われていた事でカンボジアを刺激した部分は大きかっただろう。ある日突然自由が奪われポルポトが毛沢東の再来として君臨した。スターリニズムとマオイズムが接合された形でカンボジアは暗黒時代に入った。

◇キング牧師もロバート・ケネディ上院議員も68年に暗殺された。その二年前にフランスは水爆実験をしている。アメリカはその頃毎年砂漠で核実験していた。緩やかに公民権運動の時代から推移してきたアメリカは今もそう変わりない部分と変わりつつある部分とが共存している。

☆日本は立憲君主制なので英国ファッションから影響受けやすいと言える。フランスは共和制故日本と大分感性は違うが、一定の尊敬が日本人にはあるので影響を受けやすい。だがアメリカは根本的に日本人には理解し難さがある。意外とロシアとアメリカは面積が異様に広いという意味で共通性はある。2Retweeted and 2favorited in Twitter

☆ボブ・ディランもデビュー当時は紅顔の美青年だった。だが時代の変遷と共に薄汚い印象でステージに登場する様になった。ステージパフォーマーは時代に敏感だし、芸能全般にも目配せしてきた。ところで日本のステージパフォーマーは圧倒的に英仏から影響を受けアメリカナイズされないという性質はある。

NHK杯に出場する事となった羽生結弦はある意味では昨今の青年世代の文化芸能的なヴィジュアル系の中性性を世界的にシンボライズして宣伝に大いに貢献してくれていると言える。ある種の現代青年の特質を彼程象徴している存在はそう居ない。

アメリカの警察は公民権運動の時代から殆ど変っていない事だけは確かだ。その点では日本の警察は一頃よりは大分まともになってきた。まあ、もう少し観てみたいと何とも言えないけどね。

文藝は二十世紀前半に出尽し、音楽や映像は中盤に出尽し、現在のウェブサイトに直結するパイオニアも後半に出尽した。恐らく文藝も音楽や映像もウェブサイトも暫く凄い天才は登場すまい。或いはこれから暫くは法曹界、ジャーナリズム、不動産業等の世界で凄く天才的発想の異才が登場する可能性はある。

一見天才的に見える大半の青年は時代の危機感に急き立てられているだけだ。率直に言って20世紀中盤に続出した様なエリートは後二三百年もう出ない。そういう時代は三百年に一回位しか訪れないのだ。だが天才が余り登場しない時代も後に天才を登場させる為に凄く重要なのである。

芸大がエリート養成の為に幼い頃からエリート教育をして特別な生徒だけ面倒を見る方針だと言う。この傾向は飛び級とかの延長戦のものだが、社会全体がエリートを出さなければいけないという危機感にある証拠で、青年を老成させる事は助長しよう。少しずつ固まっていく様な余裕を青年に与えない。

沖縄県知事は戦後初めて戦中派ではない世代(65歳)が就任するという事は一つの大きな事実である。尤も氏は当然の事ながら占領時代の沖縄は知っている。

沖縄県知事に翁長雄志氏が当選した事は徐々に来年の統一地方選挙その他国家運営にボディーブローの様に効いていく事だけは間違いない様に思われる

結局共産党が一番躍進するのではないか?何故なら野党の中で民主党には未だ幻滅から覚めていないし、維新の党は全体像が把握し難いし、次世代の党は右派過ぎるし、それ以外も取り立てて明確に実践的価値を見出し難いからだ。そして自公が又四年も続くと思うと何故か気分的に希望も持てない。

日本と周辺諸国を客観的に見ようとする外国人はそう多くなかろうが、韓流ドラマが凄く多く放映されていた頃に比べずっと少なくなっている昨今、逆に韓流放映全盛期より、日本はより韓国的同族主義的になったと外国人は思うだろう。今香港や台湾の方がずっと進歩的だ。日本は退歩の道を歩み始めた?

恩返し、感謝という語をよく使うのは注意して観察すると、メディア、とりわけNHKや民放の報道特番だと分かる。誰か特定の既得権的な黒幕がそういう言説をそれとなく言う様に仕掛けているとしか思えない。ウェブサイトが余りにもアナーキーである事の反動としてメディアが作用しているのか?

国家という語が嫌いだ。何故他人達と同じ家族でなければいけないのだろうとさえ思う。そう思うと何処か可笑しい、そういう事を言う奴は非国民だとさえ、言われそうな世相だ。民族はある程度仕方ない運命だが、それだって殊更声高に主張する様な事ではない。

☆☆☆最近とみに日本人は恩返しをするとか感謝の気持ちとか言う様になってきたが、凄く不気味だ。そういう事は公に人に示す事でなく心の中の問題ではないか。この風潮はここ数年凄く強まった。こういう変化はある程度懐疑的に国家や社会を俯瞰する癖がついていないとなかなか気づけないのだが。

率直誰とも一緒にして欲しくないとずっと思い続けてきた人間なので、ある部分凄く一般的に言って他者からは嫌な奴であり続けたのだろう。相手が自分にとってかなり尊敬出来る人とでないと、誰と一緒にされても嫌だ。だがそう思うのが普通で、簡単に誰かに準えるのは凄く無思考的だとは言える。

私は富裕層ではなく浮遊層であるfavorited in Twitter

平家物語とサルトルの<存在と無Etre et Nean>とディランのLike a Rolling Stoneは存在の仕方が似ている。盛者必衰の理は虚無的見方故だ。と言って一度そういう存在の仕方に納得すると、そうおいそれとポップなものを容認出来なくなる(素直にいいポップさもある)。

◇非常識も常に徹底して貫き通せば、立派な常識になる。だがその常識にも次第に飽き飽きしてくる。と言って非常識ではない元々の常識的生き方もしたくはない。非常識は徹底すべきだが、常識になり其処に安住しない非常識を追い求めていくしかない。

◇人間は自分自身へ嘘をつき続けると表情が曇ってくる。表情は嘘をつかない。だから自分に正直で素直でない者の表情は欺瞞が立ち込める。

◇凄く嫌いな奴に限って、意外と生き方が自分と似ている等を発見する時程気持ちが萎える事はない(だが意外とそうだ)。大体馬の合う他人とは自分とは一箇所共通性はあるが、実際は正反対の場合の方が多いのだ。Favorited in Twitter

◇ブルースミュージシャンにはブッカ・ホワイトとかタンパ・レッドとか凄く粋な名前の人が多い。多くは綽名を其の侭芸名にしている。仏花白、短波赤等漢字におふざけ的に変換しやすい。

◇世の中大半の人達は色々な付き合いをこそ生甲斐に生きているんだなあ、とつくづく思う。付き合いに費やされる時間と金の厖大さを思えば、もう一切そういうものを無視して生活出来るなら、それこそ理想だと思う。又付き合いが嫌いな人しか基本的に信用出来ないし、何か語り合いたいとも思わない。Favorited in Twitter

◇会社員とも話が合わぬが、公務員ともっと話が合わない。と言って公務員も多少は誰しも関わらなければならぬので仕方なく接する。要するに誰とも深く関わりたくない。正直生涯所謂色々な付き合いを断って生きていきたいという思いが強い。研究者同士の懇親会(忘年会代わり)だけは出るけど。

☆今年初めてマンションの理事会で副理事をしたが、もう2度としたくない。尤も輪番なので後20年近くしなくていい(その頃生きていたならもう一度しなくてはならないが)。ああいう集会や理事会という性質のもの自体に生涯関わりたくない(が輪番で仕方ない故3月迄は務める)。

◇老いとことなかれ主義とは相性がいい。大人主義で一切の闘争を拒み、それでいて功利主義的で、しかも凄く無感動な民主主義絶対主義者達に多いこのタイプは感動やときめき自体がない。そして意外と日本にも凄く多い。彼等のスピリット(そういう語彙を彼等は極度に嫌う)は老いに占領されている。

◇自分と同じ大学同学年卒業生の中には何人もかなり出世して名を挙げている人達も居る様だが、彼等と組んで若い人達を統制しようという気には一切ならない。社会とはそういうものだという通念で生きている同学年性達だけが出世している様なので、彼等の批判者である青年と組んで奴等より長生きしたい。

◇日本の右翼は昔苦労人で凄く労働経験豊富な人も多かったが、戦後右翼は観念的だという性格的違いがある(今の若者の右翼はもっとそうだ)。アメリカのリヴェラルは日本のリヴェラルと全く違ってもっと全員愛国的だし、日本の右翼の様な観念的な右翼はアメリカには居ないだろう。

◇リンカーン、ガーフィールド、マッキンリー、ケネディと四人の米国大統領は暗殺された。44人中4人なので11人に一人殺されていたという事になる。

◇フランクリン・ルーズヴェルトは三期目の途中で死去した民主党大統領だった。アメリカという国は一方では愛国主義者達も多いが、他方リヴェラルや反体制的な人達もかなり尊敬される(キング牧師、ディラン他)。思想の違いを超えた友愛という意味では彼等は優れている。

◇アメリカ大統領で民主党なのに名大統領だとアメリカ人から思われていたのはクリントン大統領だけだったとも言える。日本人にとってはブッシュ前大統領の方が親日的で良かったが、アメリカ人にとってはクリントン大統領時代の方が少数派の民主党なのに多数派の共和党とも巧くやったので良かっただろう。

◇民主党は基本的にアメリカ合衆国の徴兵制を施行する際に多数派だったので大きな役割を果たしてきた。人種差別を最初に否定したリンカーンは共和党だった。共和党が躍進する方がより社会全体への目配せが注目される事はある程度正しい。事実アメリカの歴史では共和党大統領の時の方が安定している。

☆☆天才とは須らく勝利者であるが故に天才と呼ばれる。従って彼等は凡人よりはずっと悪党だ。歴史に残る人間も時折慈愛に満ちた人達も居るが、大半は悪党なのだ。凡人は皆気の小さい善人であり、死ねば忘れられる。偉大な人は太っ腹な悪党であり、死んでも名前は残る。ある意味では悪だけが残る。Favorited in Twitter

◇青年や若い中年はどんなに頑張っても人へ本音が見抜かれやすい。もっと年取っている人の方がずっと本音を隠すのが巧い、と僕も若い頃はそう思っていた。だが違うのだ。年取ると人へ本音を示す程若いエネルギーが無くなり、本音と建前等どうでもよくなるのだ。事実本音と建前という二分法は幻想なのだ。

◇人生は最高に調子づき幸福である時期は凄く短く、死ぬ迄の間すっかり全盛期を過ぎてからの方がずっと長い。それはどんな天才でもだ。この極めて不条理な事実を生き抜く為に人々へ考えさせる有効な哲学や思想も極めて少ない。所詮大半それ等は天才の頭脳の遊戯でしかない(宗教思想も意外とそうだ)。Favorited in Twitter

◇僕にとって純粋な個人主義者は異性のパートナー一人でいいけど、要するに自分に無関係な人達全てが社会や国家へ従順主義者に見える。平和な時代に暗く沈み、不穏な時代に生き生きする部分も純粋な個人主義者には多い(だから悪人も多い)。自分とは適度に悪人だと思っておいて丁度いい。

◇基本的に完全に心から個人主義でしか生きられない人達と、心の中から社会、国家、集団全体に従順にしか生きられない人達って居るみたいだね。個人主義者は当然悪人も大勢含まれるけど、個人主義者ですっていう態度を普段は示さないけど、従順主義者ってそれを意外とアピールするよね。

◇世の中の大半の人達が自分とは無関係であり、敵も極めて大勢居るし、結局味方等殆ど居ない。味方が欲しいから家庭を持っても妻も夫も子供も所詮完全な味方ではない。味方等誰にとっても自分だけなのだ。と言って孤独でどうしようもないという事すらない。そう思えるなら未だ若い証拠である。

◇僕ももう会社員とも経営者とも規制の権威づけられた文化人とも誰とも話も合わなくなってきた。自分と似た様な境遇、そして要するに一切の権威に阿る事のない人達とだけしか話も合わなくなってきた。幸福な家庭の人とも話が合わないのだから、もうこれ程狭い社会性の人生も無いだろう。

◇東洋人=モンゴロイド、ドラビダ系民族、太平洋オセアニア民族全般は決定的にコーカソイドともニグロイドとも異なっている。そもそも幸福感情から社会性意識に至る迄異なる。相撲力士はモンゴルからは横綱を出すが、恐らく曙の様な太平洋民族も混入する出身者以外の欧米人からは出せないだろう。

☆☆中小企業経営者の大人主義は概ねリヴェラリズムと最も相容れない。寧ろ大企業の経営者の大人主義の方がずっとリヴェラリズムを受容する精神的余裕がある。とは言え彼等は決して表現者ではない。世界でも表現者且つ経営者等はジョブズとか一部の例外以外あり得ない。

◇世の中の大半の人達は大人である管理者と自分と同僚という図式だ。家庭はその社会性の報償として存在する。其処で求められる大人性とは巧くリードしてくれる人。日本人は特にお上に従順なのでリヴェラリズムは危険思想以外ではない。管理職的大人主義の大人とリヴェラリストは本質的に相容れない。

◇最近詩人と名乗る人が多くメディアに登場する。彼等は同時に経済学者やアナリスト、社会学者とか社会活動家だ。純粋に詩だけ作っていると言うと、何処か危険思想の匂いを嗅ぎつけられる事を予め想定し、巧く社会的地位アリバイを確保して活動しているのだ。メディア利用というかなりあざとい遣り方で。Favorited in Twitter

◇戦時中を描くドラマや映画で最大悪を描かかぬのは、今も日本は原爆投下で被害者としての免罪符を手中に収め、自らの悪へは耳を塞ぎ、日本の戦後が軍需産業で栄えバブルを迎えた事を誰しもが知っているからだ。日本は(否どの国も)国家の在り方も思想も一切伏せて生きてきたし、これからもそうだろう。Favorited in Twitter

◇昔よくいた戦争へ行って亡くなった若い青年達を見習え的な訓示と、危険ドラッグ等を撲滅する事だけに躍起な大人の態度は何処か似ている。戦時中を描くドラマでも戦争に愛国心で命を捧げるという事が美であり善であると描くと危険だが、殆どのドラマでは戦時中の最大悪を余り多くは描かない。Favorited in Twitter

◇日本やアメリカの様な国々の方が圧倒的に合法ビジネスも危険ドラッグも多いだろう。北朝鮮やかつてのポルポト政権下のカンボジア等ではそういった事は成立し難いだろう。それでも共産主義の恐怖政治、元首の完全独裁よりはずっといい。必要悪への異様なる否定のムードもそれはそれで危険である。Favorited in Twitter

☆細かい事に気づき、発見しそれを問う事からしか創造性は見出されない。全て崩壊していくものとは、細かい事なんてどうでもいい大義だとか言う様になる人間の奢りから崩壊の序曲が始まっていたのだ。Favorited in Twitter

☆☆よく人の細かい事を気にするなと言う人が居る。だが細かい事なんてどうでもいいとするのが営業至上主義、国家主義、右傾化という経路を辿る。率直日本の商習慣や慣例は多く海外では否定的に捉えられている筈だ(日本に友好的な国の人達からさえ)。それを忘れてはいけない。

◇社会機能維持の為には必要最低限の社交辞令的営業主義は必要かも知れぬ(世間とは大学や研究所ではない故)が、それだけで全ての価値観を持っていこうとする気質の人には耐えられない。自由業者やLGBTへの差別意識が営業至上主義にはある。唯慣習的行動故改革という語は彼等には通じない。

◇おもてなし価値論はとどのつまり営業至上主義と(汚く稼ぐ式の)浪速商人気質の肯定、北陸男尊女卑論の肯定で、形式的前例主義を増長させるから嫌いなのだ。人は余りとやかくサーヴィスして貰ったり構って貰ったりしたくない時もあるし、人にとって公的マナーより孤独を味わう権利の方が大事なのだ。

◇関西商人的なマナーである営業至上主義的な態度が嫌いなのは、それが結局親方日の丸、敗者切り捨て主義、極度の成果主義、果てはお上への従順主義、国粋主義へ繋がるからだ。営業マンがよく軍歌を唄う感性だ。アメリカや過去から現在迄の日本の営業至上主義は思想哲学を危険視する無思想なのだ。

◇ウォーホルの絵画は色彩が鮮烈で美しいという事は、彼の絵のメッセージ性を損なわず却って強調する。それはビートルズのロックが聴きやすいポップスでもあったからこそ、アヴァンギャルドなメッセージもよく伝達されるという事と同じだ。スキルやメディアの効果は思想を体現する一つの重要な武器だ。

☆ウォーホルはポップアート文脈で語られるし括られるが、その本質は痛烈な現代文明批判なのだ。それは一番ポップだと思われるフォト肖像に顕著に示される。現代偶像性自体への皮肉が彼の絵にはある。アイロニーとシニシズムこそポップアートという場を借りたウォーホルのメッセージだったのだ。

☆ポップスは楽しければよく、エンタメ性が価値だ。その点ではきゃりーもレディ・ガガも同様だ。だがエレジーはブルースでもフォークでもタンゴでもフラメンコでもシャンソンでもポップである事は良くない事だ。辛口でなければいけないエレジーではアート性以上に歌詞メッセージ性を重んじる。

◇アイロニーとシニシズムはゴダール、ディラン、キューブリック、ウォーホル、アレン(偶然全員ユダヤ出自だ)等に拠って20世紀は鮮烈にメディアに乗った。だがメディアに思想がノる事はある部分成功と引き換えに批判精神を失う事を意味した。だが生涯批判精神を失わずに居られたとしたら好奇心の故だろう。

◇どんな偉大な仕事でも多分に時代が生み出した要素が強い。サマー・オブ・ラヴのロック&ポップスも20世紀後半から21世紀にかけてのウェブサイトビジネスの全てもそうだ。同時代に犇めき合っている人達の仕事とメッセージの応酬から全ての偉業は生み出される。時代と無縁で成立するものなんてない。

20世紀にエルヴィス、ビートルズ、ディラン、マイケルのした事はそれぞれ性質の異なる世界で初めてした事だった。とは言え恐らくそれ等は世界で最初に(経済的にも)大成功したという事であって、似た様な試みは恐らくもっと過去でもしていた例があっただろう。只それは不発に終わっただけなのだ。

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2014年11月26日 (水)

11月25日のTwitterとFB.「いいね!」☆ ディラン、詩的私的雑記、時事雑記、歌詞、転がる石、日米歴史他

☆ディランの曲を歌詞カードを見ず一回聴いただけで幼少の頃にコピーして歌えたなら僕は日本版トム・ウェイツ、ブルース・スプリングスティーン、パティ・スミス(例えば日本では桜井和寿や椎名林檎)位にはなっていただろう。それが出来ない人は、ああこういう凄い歌い方もあるんだと思うしかない。

☆今迄150篇程の詩作をしてきた。来秋位には下北沢の劇場を一日借りて自作の詩の朗読会をしようと思う。それ迄に後50作程作り、その中からいいのだけを選ぶのだ。ここ数年研究者的発表がメインだったが来年も研究発表も一度はするが、それ以外は極力詩人活動をメインにするつもりである。FAVORITED IN TWITTER

☆今迄詩と歌詞をブログで分析してきた。与謝野晶子の短歌、寺山修司やビートたけしの詩、プリンセスプリンセスや一青窈の歌詞、ディランの歌詞等を。詩が一番読んでいて面白いし、歌も聴いていて面白い。詩と歌詞は殆ど同じものだ。只歌詞は歌曲自体でノリやすいのがいい。兎に角ポエジーは最高だ。

☆白人警官の黒人射殺事件で不起訴に決まった日、佐村河内氏が訴えられた。彼は戦うと言う。だが彼が目指したのは栄光だけで裕福な暮らしだけだった。自分の努力で人々を感動させようとしなかった。感動とは何処かでは必ず強靭な意志が感動させる人に要るが、凄く楽しくやっていなければ感動させない。

☆ビートルズの歌詞は難しくない。誰にでも理解しやすい。それが彼等の偉大さだった。だがディランの歌詞は直ぐには理解し難い。歌詞の内容もメッセージも難しい。でも分かればその凄さに段々脱帽していかざるを得ない。歌は言葉をリズムとメロディに乗せて言うだけなのに全てを聴く事で変えてしまう。

◇僕がもし十代の前半迄にディランの歌詞をきちんと全て理解していたなら、今みたいな生活でなくかなり豊かな生活を享受し、詩人として有名になってアメリカの大学へ呼ばれる位にはなっていたかも知れない。でもそうならずこの年になってやっとその凄さが分かったって事で転がる石にはならずに済んだ。

◇今年黒人青年を白人警官が射殺した事件があったが、同じ様な事件が65年に血の日曜日事件という形でアラバマ州セルマで起きた。2.18に撃たれた青年は2.26に感染症で死去した。アメリカはその事件から49年経つが、本質的に変わっている訳ではない。極富裕層一部で改善されているだけなのだ。

◇ベトナム戦争の最中、戦線で戦死した米軍兵士の遺体を母国へ送還させる前一度日本に停留させた。その時米軍兵士の遺体を出来る限り綺麗な形で遺族へ引き渡す為に遺体を拭く仕事が山谷で特別に設けられた。その作業に携わった労務者達は一週間程遺体の損傷を思い出し食事さえ喉に通らなかったらしい。

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2014年11月25日 (火)

ボブ・ディランの歌詞を読み解くPart5 <ライク・ア・ローリング・ストーン>

 

  この曲はどんな人でも一度は耳にした事があるのではないだろうか?1965720日にシングルとして発売され、B面には<エデンの門>が収められた。この曲が発表された時には既に37日に血の日曜日事件が起き、この曲を含むアルバム<追憶のハイウェー・Highway 61revisted>が発表された830日には811日に起きたワッツ暴動も起きた後だった事も手伝ってか世界中で大きな時代をシンボライズした曲だという認識と軽快なリズムと美しくキャッチーなメロディでヒットを放った。

 

 Wikipediaに拠ると「現在では、ロック史上でも最も重要な曲の一つとされ、2004に『ローリング・ストーン』が選んだ「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500」では1位となった」。

 

 さて早速歌詞を翻訳で見てみよう。

 

 

 

かつて貴方は綺麗に着飾って

 

物貰いする様な奴にダイム(米国・カナダの10セント白銅貨<或いは10ドル>)を投げてやっていたよね、一番いい時期にはさ、そうだろう

 

注意を怠んなさんな、お人形さんよ、貴方は必ずこける、って人々は貴方に声をかける

 

貴方は彼等が只貴方をからかっていたって思っていたろう

 

貴方はそれに笑って応えていたよね

 

どんな貴方にぶら下がっている奴等へでも貴方は今声高に語り掛けはしない

 

今貴方はそれ程誇りなんて持っちゃいないみたいだよね

 

貴方自身の明日の食事の為にたからなくちゃならないんだからね

 

 

 

どんな気分なんだい

 

どんな気分なんだい

 

家もない様だってのは

 

全く誰からも振り返られないっていうのは

 

転がる石みたいだっていうのはさ

 

 

 

貴方は最高にいい学校を出ているんだろう、ミス・ロンリーよ

 

でも貴方は大学でさ只酔っぱらっていただけだって分かっているよね

 

そして誰も貴方に道端で生活する仕方なんざ教えてはくれなかったもんな

 

でも今じゃ貴方はそんな生活にすっかり慣れきっちまっているのを自分でも気づいているよね

 

貴方は絶対に妥協なんてしないって言っていたよね

 

未知の放浪者になんてなりはしないって、でも今じゃ貴方は立派にそうだよね

 

彼は一切アリバイ工作しなかったよ

 

そして貴方は彼の瞳の空ろなのをじっと見つめたもんだから

 

貴方が何とかしてあげられるか彼に貴方はつい尋ねるんだ

 

 

 

どんな気分なんだい

 

どんな気分なんだい

 

貴方自身であるっていうことは

 

全く誰からも振り返られないっていうのは

 

転がる石みたいだっていうのはさ

 

 

 

貴方はジャグラー達や道化役者達を観る為に引き返したりはしなかったよね

 

彼等が皆してやってきて貴方にトリッキーに仕掛ける様にしようとする時だってさ

 

貴方はそれが決していい事じゃないって分かってなんかいやしなかった

 

貴方は他人に貴方自身を蹴っ飛ばす様な事をさせはしなかった

 

クロム合金でメッキしてある馬に貴方は乗っていたっけね、社交的な人を一緒に乗せてさ 彼は肩にシャムネコを乗っけていたっけね

 

貴方って、彼はまるでそれが彼の肩に乗っているっていう事すら気にもしていないって事を気づくチャンスさえ無かったもんね

 

 

 

どんな気分なんだい

 

どんな気分なんだい

 

貴方自身であるっていうことは

全く誰からも振り返られないっていうのは

 

転がる石みたいだっていうのはさ

 

 

 

教会の尖塔の上に居る王女や全ての愛しい人々

 

彼等は飲み、考え、それ等を作って貰う

 

全ての貴重なギフトや財産を換えてでも貴方が手に入れたダイアモンドの指輪を誰かにあげちまうべきなんだよ

 

それを質屋に入れるべきなんだよ

 

貴方は面白がっていたよね

 

ボロボロになっていたナポレオンや、彼が貴方に使ってきた言葉

 

今こそ彼の所へ行って彼に連絡してみろよ、貴方は拒めない筈さ

 

貴方は全て失った時こそ、もうそれ以上は何も失うものなんてないんだからさ

 

今貴方は全く誰からも目に留められない、貴方はもう何にも隠す必要さえない

 

 

 

どんな気分なんだい

 

どんな気分なんだい

 

貴方自身であるっていうことは

 

全く誰からも振り返られないっていうのは

 

転がる石みたいだっていうのはさ

 

 この歌の歌詞は明らかにミス・ロンリーという一人のアイヴィーリーグにでも通っていた富裕層の女性を設定し、彼女の地位や名誉の様なものが転がり落ちる一種の比喩(実際に道端で生活するという意味でなく、前と変わりない生活する事自体が、その裕福さを捨てられはしなさ自体を揶揄して)語られているし、これは同時にアメリカ人、引いては人類の富裕層全体への呼びかけ、囁きとなっている。

 

 つまり今お高く留まっている全ての人達が明日どうなるか分からないという想定の下で語られている。

 

 この曲の人生の転落は全ての人に当て嵌るからこそ歌詞としてリアルである。この曲から発想を得て作られたと思われる曲は枚挙に暇がない。サイモンとガーファンクルの<ミセス・ロビンソン>(映画<卒業>の主題歌として使われた)、ビートルズの<ア・デイ・イン・ザ・ライフ>、レッド・ツェッペリンの<天国への階段>等々である。とりわけ最後の<天国への階段>は歌詞の内容さえ完全にパクリと言っていいものである。次回その事に就いて本シリーズの別枠として取り上げる。

 

 日本人ではまさにディランの歌い方、つまり短いフレーズの中に多くの歌詞を盛り込み、それを唄い切る一種の詰め込み的な定型のメロディに対するドライヴ感ある<走って詰め込ませる仕方>としてはサザンオールスターズの桑田佳祐やミスター・チルドレンの桜井和寿等の人達が挙げられる。歌詞の内容も完全に風刺的な意味合いを持たせている処等がまさにそうである。

 

 ディランはこの曲を発表する事で世界的にシンガーとしての地位を神格化レヴェル迄押し上げた。レオン・ラッセルはロール・アウェー・ザ・ストーン等のタイトル迄ぱくった曲を歌ったし、ローリングストーンズも自分達のグループ名と同じこの曲をカヴァーしている。カヴァーをしている人達も枚挙に暇がない。

 

 ディランは結局この曲に拠り巨万の富も手にして富裕層になってしまった。その事自体は彼の様な思慮深く、こういう風に自由主義経済社会の富裕層を嘲笑する様な歌を作って歌った人であるからには、自己矛盾を彼自身へ与えたであろう。彼はエルヴィスの様に軍隊経験を持たずにこられた、という意味だけでも幸運である。このディランの神格化された成功物語自体が、より精神的に初期迄に持っていた作詞のモティヴェーションを維持し続ける事自体の困難さの自覚の中から新たな自己創造に於ける哲学を見出していこうと彼を促した事も想像にかたくない。事実そういった記述が中心に若い頃全てが新鮮だった時の事を前後に挟み、執筆された自伝CHRONICLESも、その様なテクストを書く事に拠って前進しようとする彼自身の一つの創造モティヴェーションの一つと言えよう。

 

 次回の更に次にはこの曲以降の幾つかの代表曲を検証するが、彼自身は今も尚歌い続けている。多分にムード歌謡的な趣も<モダン・タイムズ>以降は滲み出て来た。かつてのプロテスト色が老齢と経験に拠って変質してきた。それでも彼は死ぬ迄旅を止める事だけはないだろう。

 

 我々は多分に20世紀以降、彼の登場に拠って為されたディラン的メッセージとアイロニーとシニシズムとプロテステーションに見つめられて生活してきた、と言える気がする。勿論それは歌った当の本人も又過去の自分に見つめられている気がするのである。(つづき)

 

  付記 ディランは<風に吹かれてBLOWIN' IN THE WIND>を唄った時21歳だった。この曲が発表された523日の翌日彼は22歳になった。又今回の<LIKE A ROLLING STONE>を発表した当時彼は24歳だった。その若さで世界的神格化された神話構造を生きる人生とはさぞかしそれ以後が精神的にはきついものがあったであろう。でも彼はマイペースでずっと音楽を続けてきた(その部分では敬意を払ってよい)。彼は単独のシンガーなのでビートルズの様に解散する必要がなかったから、一貫して歌い続けてこられたのかも知れないけれど。ディランの時代に生きる我々自身が個々のこの数十年を追想する事も無意味な事ではないだろう。

 

ライク・ア・ローリング・ストーン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3

 1965年に起きたこと 血の日曜日事件 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9B%9C%E6%97%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1965%E5%B9%B4) 尚この血の日曜日事件はアメリカ以外でも多くの国で日曜日に起きた事件に命名されている。→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9B%9C%E6%97%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6

ワッツ暴動 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%84%E6%9A%B4%E5%8B%95 第37回アカデミー賞 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC37%E5%9B%9E%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BC%E8%B3%9E <マイ・フェア・レディ>が作品賞も監督賞(ジョージ・キューカー)、主演男優賞(レックス・ハリソン)等他のスタッフも大挙獲得したが、主演女優のオードリー・ヘップバーンのみ受賞しなかった。

 参考wikipedia アメリカの徴兵制の歴史 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E5%BE%B4%E5%85%B5%E5%88%B6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

 1965年のアメリカ合衆国 http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:1965%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD

 上記の血の日曜日事件とワッツ暴動以外にジョンソン・ドクトリンも注目しておきたい。 ジョンソン・ドクトリン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3

 今日のニフティニュースも参考にされたし。黒人射殺で白人警官不起訴=住民が暴徒化-米ミズーリ州 http://news.nifty.com/cs/world/worldalldetail/jiji-2014112500345/1.htm

付記 英文翻訳(英語⇒日本語)を請け負います。特に人文科学分野や手紙、ビジネス関係でも一般的なことです。哲学・言語学・修辞学・批評も請け負います。自然科学的なこと(或いは日本語の英訳)も場合に拠っては相談次第で請負います。連絡先⇒ jun.west@nifty.com

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11月24日のTwitterとFB.「いいね!」☆ 事実、ディラン学、私的雑記、エレジー志向とアート志向他

◇実利的でない考える楽しさは所詮危険思想だという想念が日本では圧倒的に強い、と言うよりアメリカでもロシアでも中国でも韓国でも何処でもそうだろう。ところで台湾の昨今の学生運動は香港に触発されている。ある部分対中国への批判的思想が香港と台湾との二元的展開である事の可能性に注目。

☆自分の頭で考えるという事を一切認めず、金儲けをする人だけが偉いという不文律が極まっているという意味では天皇制を現人神的にだけ捉えておけばいい的感性と抱き合わせて今の日本を覆っている。其処では戦後七十年が一切無かったかの如き様相だ。インテリやリヴェラリストにとって辛い時代になった。

現政権は議員定数削減もそれ程の速度でないし、公務員給料カットもしてきた訳でないし、原発再稼働を安穏と決断し、色々な意味で本当に何も実質的な事はしてこなかった。その意味でやはり今回の選挙で審判を下す必要だけはある。尤も野党が選挙自体の無意味さを叫ぶ程自分達に自信がないのが難だ。

☆ディランと同年生まれのジョーン・バエズ(発音的にはジョアン・バイエズ)はスコットランドとメキシコの血も引くディランに拠ると未成熟さのない素晴らしいシンガーだったらしい。彼がバエズとの出会いでフォークシンガー路線を決定的にした下りは自伝でも書かれている。出会いが方向を決定する。

ディランはソロデビュー前にジョン・リー・フッカーともビッグ・ジョー・ウィリアムズともステージ共演し、サニー・ボーイ・ウィリアムソンとも出会い、且つロバート・ジョンソンのレコードから凄く啓発されている(自伝に書かれている)。ブルースが一つの故郷である事は確かだ。

☆☆☆<ボブ・ディラン自伝>CHRONICKLES・菅野ヘッケル訳を読了。最後の文「私はまっすぐにその世界に進んだ。世界は大きく開けていた。ひとつたしかなことがあった。そこは神がつかさどる場所ではなかったが、同時に悪魔がつかさどる場所でもなかった」だ。感動的一節だ。読み応えあった。

◇どんなに皆がいいと言うものでも自分はちっともいいとは思えないと自由に言える空気を殺ぐ事こそ最も社会を淀ませる最大の要因である。感動は決して周囲や社会から強制されない。又されてはいけない。

◇ちっとも感動出来はしないものでも大勢の人がいいと言えば感動した風を装わなければいけないのが日本人なのだ。だがそういう風にちょっと合わせておけばいいという仕方をずっと日本人が取り続けて来たからこそ昨今日本は色々な意味で大分立ち遅れているのだ。

◇謙虚さを美徳とするのはさして実力のない人が胸を張って生きていく為の日本人固有の戦略なのだ。だから「感謝の気持ちを」と公的場で強調するのだ。だが感謝の気持ちはポーズではない。実力のある人は錦織みたいに「勝てない相手は居ない」と言えるのだ。でも彼も負けが込めばそうも言えなくなる。

◇来月の学会発表は六日だが、クリスマス前のプレゼント的発表にするつもりだったのに、直ぐ後で選挙があるという展開になってしまったので、クリスマスプレゼント効果はない(まあ、忘年会的な意味での懇親会になる事はなるだろうけど)。今年入会した学会の二度目の発表となる。

◇主観ということは本来一番分析し難い。しようとすると必ず擦り抜ける。感じがする、という事だが、と言って余りにも何時も根拠を問い詰めない侭にしていい訳ではないが、と言って全く主観を否定しては何も出来ない。反省という語も哲学的反省と自己反省とは違うが、これもどうすべきかも実は難しい。

☆好きでも嫌いでもなく何とも感じないものは、要するに把握しようという気持ちになっていないので、印象に残る筈もないし、又忘れる事もないが、さりとて特徴を示し難い。と言って特徴がない訳でもない。とりとめがない、という語彙で示されるものだが、これは多いとも少ないとも言えない。

☆特に好きではないけれど嫌いではないものがある。これが一番多い。逆に凄く好きなものもある。だがそれは何時もではなくやはり少しずつ時期に拠っても変わる。嫌いだったものでも段々好きになるものも時々だがある(だが極めて少ない)。好きでも嫌いでもなく何とも感じないものもある。

☆絵でも観ていてすかっとする絵、すっきりと心地良い絵と、ずっしりと記憶にこびりつく絵、観ていてぞぞっと震撼させる絵とがある。どちらが高級だとか偉大だとかは言えない。でもやはりその質的違いが私には感じられる。当然それは文章でも論理でも何でもあり得る違いと言える。

◇アート志向がアーティストでエレジー志向が詩人だと言うのではない。当然アート志向の芸人もエンジニアも居るし、エレジー志向のアーティストも哲学者も居るだろう。恐らく世界には全てのタイプが存在する。只アート志向とは解消させる美、エレジー志向は心を塗り替える美とでも言おうか。

◇分析してはいけないと考える表現者も居るが、私は違う。分析する必要があるし、創造しつつ、それを分析したい。その点では哲学メソッドを否定しないし、そういう風にすると創造的になれないタイプでない。と言って全て分析し尽せる訳ではない。し残してしまうものも意味あるし残しなのだ。

◇単体主義と複合主義と名付けるなら、エレジー志向は単体主義でアート志向は複合主義だ。だがメソッドとして単体主義を使ったアート志向のもの(ニルヴァナ、エンニオ・モリコーネ)もあれば、逆にメソッドとして複合主義を使ったエレジー志向のもの(ニーノ・ロータ、リズ・オルトラーニ)もある。

☆ツェッペリンの<天国への階段>は危うい処でアート志向なので聴いた後意外とすっきりと解消される。フロイドの<狂気>がそのタイプで、逆に<ウィッシュ・ユー・ワー・ヒア>が後でずっしりと残るタイプのアルバムだ。イーグルスもエレジー的なのに聴いてすっきりする部分がある。

◇敢えてアート志向Aとエレジー志向Bとに分けると次の様になる。Aポール・マッカートニー、セロニアス・モンク、ベン・フォールズ、上原ひろみ。Bボブ・ディラン、ビル・エヴァンス、エリック・クラプトン、椎名林檎。それは解消させるタイプの音(A)と刻印的に残そうとする音(B)の違いではないか?

◇表現者は自分がしている事を論理的に理解している訳ではない。恐らく全ての表現者には意図はあるが、その意図が何に突き動かされているか即座に答えられないだろう。自分と正反対のものにも惹かれ、似たものにも惹かれる。又鑑賞する場合、鑑賞してすっきりするものと後に残るものとがある。

◇自分は詩情にエレジーがあるものを何処か目指しているのかも知れない。エレジーはエンタメ的でない部分がある。上原ひろみのプレーはエレジー的要素もあるが暗くない。彼女自身が凄くポジティヴで明るいから、それが伝わる。その点でひろみはアート志向と言える。エレジー志向はアート志向と少し違う。Favorited in Twitter

◇吟遊詩人は道化師にも近い部分があるが、純粋なエンタメでない。其処には固有の癖がある。フォークもブルースもそうだ。ゴスペルも近い処があるが、ジャズは違う。ジャズは純粋の音のアートを目指す。当然ジャズも祈り的要素はあるが、やはり純粋アート志向なのだ。ブルースやフォークは違う。

◇詞を本格的に書く様になってらディランの良さが分かってきた。彼は同じ天才でもポール・マッカートニーと異なったタイプだ。音楽の目指す傾向が詩とメッセージでありそれが歌と演奏と重なっている。ポールの目指すものは純粋な音のアートなのだ。それとディランの音への問いは違う。

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2014年11月24日 (月)

ボブ・ディランの歌詞を読み解くPart4 <イッツ・オーライト・マ>(アイム・オンリー・ブリーディング)

 今回は前回の歌<ゲイツ・オブ・エデン>の後に続くアルバム<ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム>の曲である<イッツ・オールライト・マ>を解析する。

 まず歌詞を翻訳で見てみよう。

 

 

昼間が陰った暗闇

影達が銀の匙を平にする

手作りの刀や子供の風船

太陽と月の日食や月食

君なら直ぐ分かるのを知る為に

何かする必要なんてない

 

辛辣な脅し、彼等は嘲りを持ってこけおどしする

自殺の見解は決裂する

馬鹿の持っている窪みが割り込む金のマウスピースから

奴なら生まれるのが忙しいという事は死ぬのが忙しいのではないっていう無駄な警告になり得る言葉を弄び

 

誘惑の章は扉の外へ飛び出し

君は追う、戦争で君自身を見つける

滝の憐れに吠える様な音を観察せよ

君は以前とは違って喪に服す様に感じる筈だ

君はもう一人の君になって泣いているのを見つける

 

だから恐れるな、もしそれを聴いたなら

外国の音の様に君の耳には届く

大丈夫さ、ママ、僕は只溜息をついているだけ

 

勝利を警告する者もあれば、没落を警告する者もあろう

個人的な理由だ、多かれ少なかれ

呼んでいる彼等の眼は見えているのだろうか?

殺されるだろう皆を這わせる為に

何にも恨むんじゃないと誰か他の人達が言っている間

憎しみを除外せよって

 

錯覚の言葉は弾丸の炸裂音の様だ

人類の神達は彼等の徴を狙っているのさ

炸裂するおもちゃの銃から何でも作れ

暗闇で発光する新鮮な色のキリスト達へ

大して遠くを見つめなくても簡単に見える

もんって本当は怖いもんなんだって

 

説教師が悪魔の運命を説教している間

百ドル銀貨へ導いてくれる知識が待っていると教師は教える

善は門の影に隠れている

だけどアメリカ合衆国大統領さえ

時として裸になるんだ

 

道路交通法が抗議されるにも関わらず

そりゃ只人々に拠る人々が隠れ蓑にする為のゲームなんだ

そして大丈夫だよ、ママ、僕はしないからさ

 

広告のキャッチコピーってのは騙しさ

君こそがそうだって君に思わせる

それは決して実現しない事が出来るんだから

それは決して負かされない事に勝ち得るんだから

そうしている内に自分の人生の外側はどんどん変わっていく、君の周囲の全てがさ

 

君は自分を見失い、もう一度現れる

君は突如怖いものなんてないっていう風に自分が思えてしまう

君は傍には誰も居ない状況で一人立っている

離れた場所で声がぼんやりとだが震えているのが君の眠っている耳をぎょっとさせる

その声の誰かが君を本当に見つけたって君には聴こえる

 

君の神経の中の問いは燃えている

未だ君はどんな答えもそぐわないと思う

満足させてあげるけど、君が止めないってことを請け合うぜ

よーく心に刻んで忘れるなよ

それは彼か彼女か彼等か君が所属している何かかどうかって事じゃないって事さ

 

賢明な者達も愚かな者達の為にも

ご主人様達がルールを作るにも関わらず

僕は何もないんだよ、ママ、頼るものなんてさ

 

権威に従わなければならない彼等の為に

どんな階級も尊敬なんてしやしないって

彼等の職務を軽蔑し、彼等の運命も軽蔑するのは誰だい?

自由がある彼等に嫉妬して

彼等の花をきちんと栽培しろよ

彼等には彼等が投資する何か特別なものより以上のものなんてないんだから

 

誰かが自らの信条で自分を厳格な政党に入党する間、綱領は身近である。女装趣味のソーシャルクラブ。部外者なら気楽に何とでも言える。そして彼等は彼に神の御加護あれと言う。

 

 

 

誰かが熱心に方言で歌っている間、鼠のレースへ掛けるガラガラ声の掛け声が合唱の様に響く。社会のペンチから作られた形かで逸脱してしまえば、責任なんてちっとも高まらない。でも穴に落ちてしまうくらいなら、いっそ最初から穴の中に居た侭の方がいい。

 

 

 

でも僕が言いたいのは、害悪は無いけど、失敗して責任を取る必要もない。跳躍している誰かの上に居るだけなら。

 

大丈夫だよ、ママ、僕は彼を喜ばせるからさ。

 

 

 

年老いた貴婦人はカップルを観れば、セックスに関してだけ観察する。図々しくもさ。

 

似非的なモラルを強要する為に、尊大な事にも侮蔑的にじろじろと相手も観るのさ。

 

金は誓っても一切それを語る事はないものだから、一体誰が猥褻さそのものを取り締まるんだい?宣伝文句(プロパガンダ)なんて所詮全て紛い物なのさ。

 

 

 

紛い物が理解する事の出来ないものを猥褻さが守っている間、殺し屋の沽券である安全を持っているんだけど、安全ってのは一番心に辛く一撃を加えるもんだ。

 

死ぬ事が最も誠実だって考える人達の為に、彼等には自然と襲撃出来ない様になっちまう。

 

人生は時として寂しいもんなのさ。

 

 

 

僕の瞳が、墓場や偽の神をぎっしりと詰め込んで真っ向からそれ等と正面衝突してしまう時、僕は足を引き摺ってしまう。

 

荒っぽくしてしまう様などうでもいい様な事で、手錠の中でひっくり返って歩く。そいつを粉砕しようと足で蹴ってやる。

 

そして言ってやるんだ、もううんざりだぜって。

 

一体君は僕に何を見せてくれるって言うんだい?

 

そして僕が頭で考えている夢が実現しちまったなら、それで僕の首はギロチンに掛けられちまうだろうぜ。

 

でも大丈夫さ、ママ、それが生きていくって事、まさに人生なんてそれだけなんだからさ。

 

 

 まず前半の紺色の文字の部分から解説すると、この歌はベトナム戦争激化に伴う反戦運動が学生の間で喧しい世相でディランに拠って歌われた。其処ではかなり辛辣な権力者層、ブルジョワ階級への批判が歌われている。戦争で兵士や戦争に巻き込まれ死んでいく若者達への哀歌ともなっている。当時のアメリカ大統領だったリンドン・ジョンソンへの批判が裸の王様に彼を仕立てる事で為されている。戦争へ若者を誘い込むキャッチコピー等の宣伝媒体への批判も描かれている。資本主義、自由主義の欺瞞的な幻想への批判が痛烈に示されている。

 この歌詞はそれ程多く説明する必要はないだろう。この曲は完全なるプロテストソングなのだから。

 そして現状のアメリカ(2014年時点での)は明らかに黒人少年を警察官が闇雲に射殺したりして全国規模の騒乱へも発展したり、とにかくディランがこの歌で歌っていた時代とそう変わりないリアルが噴出していると言える。国内の富裕層と貧困層の極度の乖離と居住区域の乖離(中間層の消滅)は昨今のアメリカの世界経済へも影響を与えるとも思われる一大問題である。

 後半の紫文字の部分の歌詞に就いて触れると、この曲は反戦歌でありプロテストソング性を最も如実に示した初期ディランの傑作である。ゴスペル研究家もこの曲がゴスペルシンガーに少なからずインスパイアした事を認めている。

  

 この曲が歌われた時点で既にサム・クック★1は非業の死を遂げていたし、キューバ危機★2は<風に吹かれて>が歌われる(‘63)一年前に起きていたし、この歌詞の痛烈なるニヒリズムを理解するには、やはり時代背景を知っておく必要があるだろうが、それ以上にこの歌詞で描かれるアイロニーが痛烈で、例えば「社会のペンチから作られた形かで逸脱してしまえば、責任なんてちっとも高まらない。でも穴に落ちてしまうくらいなら、いっそ最初から穴の中に居た侭の方がいい。」等は青年固有の正義感的な気分が無ければ歌えない(この歌を歌った当時ディランは24歳の血気盛んな青年だった)し、又その後で出て来る「年老いた貴婦人はカップルを観れば、セックスに関してだけ観察する。図々しくもさ。/似非的なモラルを強要する為に、尊大な事にも侮蔑的にじろじろと相手も観るのさ。/金は誓っても一切それを語る事はないものだから、一体誰が猥褻さそのものを取り締まるんだい?宣伝文句(プロパガンダ)なんて所詮全て紛い物なのさ。」は血気盛んな青年を上から目線でじろじろと見つめる電車内や駅校内の老婦人とかへの敵意が剥き出しである。きっとこの歌を歌ったディランはこの後沢山のアルバムを出し、キャリアを積み重ねていく訳だが、これ程過激な歌詞はこの頃が頂点ではないだろうか?確かに金は青年も老人も持っていれば同じ様に使えるし、使う人を差別しないけれど、猥褻だと思える様な周囲から顰蹙を買う青年の態度を誰が取り締まるんだと言って、それをモラル論的にプロパガンダにする事の方を彼は揶揄しているのだから、プロテスト性真っ盛りと言っていい。

 

 だから「紛い物が理解する事の出来ないものを猥褻さが守っている間、殺し屋の沽券である安全を持っているんだけど、安全ってのは一番心に辛く一撃を加えるもんだ。」という一節は明らかに安全とか平和とか安定とかの語句が持つ欺瞞的偽善的な事、その平静さを保つ為にどれ程の若者の血がヴェトナムで流されていくのかという疑問符が突き付けられている。

 

 だから当然「死ぬ事が最も誠実だって考える人達の為に、彼等には自然と襲撃出来ない様になっちまう。」は愛国心の名の下にアメリカ合衆国万歳と言って死ぬ若者に文句なんて言えなくなってしまう、と反体制的気分を封じ込める国家主義へプロテストしている訳だ。だから「人生は時として寂しいもんなのさ。」とディランが歌う箇所はプロテストをする自分だって、それが一切通じない相手に対して空しさを感じざるを得ない愚痴としても響く。

 

 従って「僕の瞳が、墓場や偽の神をぎっしりと詰め込んで真っ向からそれ等と正面衝突してしまう時、僕は足を引き摺ってしまう。/荒っぽくしてしまう様などうでもいい様な事で、手錠の中でひっくり返って歩く。そいつを粉砕しようと足で蹴ってやる。/そして言ってやるんだ、もううんざりだぜって。/一体君は僕に何を見せてくれるって言うんだい?/そして僕が頭で考えている夢が実現しちまったなら、それで僕の首はギロチンに掛けられちまうだろうぜ。/でも大丈夫さ、それが生きていくって事、まさに人生なんてそれだけなんだからさ。」はプロテストをしている自分や仲間だって、結局思いの丈を全てぶちまければ死刑になるかも知れない、という恐れに似た痛烈なメッセージでもある。結局「一体君は僕に何を見せてくれるって言うんだい?」は保守主義者へ向けたぼやきとなっているし、反戦思想で投獄されていき、手錠を嵌められてじたばたしている姿をまず見せておいて、その尋問での問答を揶揄的に死刑(ギロチン)を出汁にして語っている。

 

 だから最初に戻ると「誰かが自らの信条で自分を厳格な政党に入党する間、綱領は身近である。女装趣味のソーシャルクラブ。部外者なら気楽に何とでも言える。そして彼等は彼に神の御加護あれと言う。」は守旧派国家主義者であれリベラルであれ、厳格な規則の世界に入会する事で、その入会イニシエーションは奇妙な女装趣味であっても(それは当然軍服であれ、反戦思想で投獄されて囚人服を着せられるのであれ、結局仲間に強引にさせられる事でもあるから)それに合わせていかなければいけず、ぷっとその秩序自体に可笑しみを感じて噴き出す事なんて許されない、という主張となっているのだ。どんな偏った信条でも思想でも、一旦入会してしまえば、それを「彼等は彼に神の御加護あれ」と言わねばならない、そういう皮肉が込められていて、その皮肉からこの後半の歌詞は始まるのである。

 

 この曲はワイルドに歌われる。ギター一本でかなりブルースっぽい骨組とコードの曲である。この頃のディランのメッセージ的激しさと、歌唱だけで唸らせる凄さはとりわけ、次の<Highway61 Revisited>迄で最高度だと言っていい。次の<Blonde on Blonde>以降、70年代迄は凄く音楽的には完成度も高いし、それ以降の80年代ロック調のディランの基礎ともなっているが、このメッセージ的歌詞と歌唱だけで唸らせる趣きは一枚目の<Bob Dylan>からこの<Bringing it All Back Home>を含む<Highway61 Revisited>迄が最高度だと言っていい。

 

 これ以降ディランはレイドバックしたスタイルをも身に付けて、一時期かなり歌声もマイルドに変化するが、それはそういう声の方が普通で、それ迄の声の方が意識的に作っていた声である、とも受け取れるも、LSD等の薬物を使用する頻度が増えて、ある種の攻撃性を失っていったとも受け取れる(それを堕落であると捉えるか、一人のスーパースターの苦悩と捉えるかは主観の違いが生じる処であるけれど)。

 

 反戦歌でもあるけれど、反戦を訴える自分の弱さや、存在の儚さ迄描き切っている処にこの曲の凄さがある。一度も耳にした事の無い方は、是非検索した動画やCDでこの曲を聴いて欲しい。(つづき)

 

 次回はいよいよ歴史的名曲として現代へと歌い継がれているLike a Rolling Stoneの歌詞分析を行う。この曲の歴史的意味と後代のミュージシャンに与えた啓示に就いて考えていこう。(つづき)

 

 

 

 

  

  

  

 付記 今回の歌の歌詞はアイヴィーリーグ等に行く富裕層の白人青年が僕は大丈夫だよ、デモなんてしないからさ、と道路交通法に拠りデモ学生を検挙する警官に捕まる様な事をしないよ、とお坊ちゃん青年が母親へ安心させる事を語る形式で描かれた「道路交通法が抗議されるにも関わらず/そりゃ只人々に拠る人々が隠れ蓑にする為のゲームなんだ/そして大丈夫だよ、ママ、僕はしないからさ」でより鮮明に兵士として最前線に送られる黒人達とブルジョワ白人達との暗黙の差別構造にも巧く言及している。

  又「君は自分を見失い、もう一度現れる/君は突如怖いものなんてないっていう風に自分が思えてしまう/君は傍には誰も居ない状況で一人立っている/離れた場所で声がぼんやりとだが震えているのが君の眠っている耳をぎょっとさせる/その声の誰かが君を本当に見つけたって君には聴こえる」は戦争へ赴く兵士のアドレナリンに拠る恐怖消滅作用と人命軽視への警告、そして「彼か彼女か彼等か君が所属している何かかどうかって事じゃない」とは正義論で振り翳される国家や大義に対する皮肉として自分自身で考えよとディランは若者達へメッセージを送っている。尚ビートルズの<リヴォルヴァー>中のジョン・レノン作詞作曲のアイム・オンリー・スリーピングはこの曲の副タイトル(アイム・オンリー・ブリーディング)<僕は只血を流すだけ>と、曲中のsleepという語彙から啓発され作ったと観る事も充分可能である。(Nameless-value

 

 

 

参考Wikipedia ベトナム戦争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89

 

 

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11月23日のTwitterとFB.「いいね!」☆ 世相学術評、時事・人生論雑記、人類学的思考、詩と世相、文化・音楽・映画・アート評、私的雑記、詩と思想他

◇北野武監督のアウトレイジシリーズは高倉健独立後の真摯な生き方という位相とは正反対の戦略記号化された生き方を描く意味で完全に現代政治への風刺的意味合いも込められている。現代政治は医師で言えば医は算術でなく仁術と言われた時代とは正反対の動機より成果主義になっているからだ。Favorited in Twitter

◇現代の政治家は色々な意味で戦略が表に出ていて、その様に行動が戦略的に説明出来ない者は信用されない。この点では江戸期から明治期を経て昭和初期から戦後直ぐに政治家と現代の政治家は明らかに違う。一度モティヴェーション的な情熱をシラケさせなければ信用されない戦略的時代に現代はなっている。

◇芸術家はLGBTでも何でも理解出来る人が多いというのはとんでもない勘違いだ。そういう一切差別のない芸術家はほんのマイノリティであり、多く彼等は保守的だし学者や研究者と変わりない。哲学者もLGBT的マイノリティは余程の天才でない限りなかなか受け入れられ難い。フーコー程天才でなければ。

◇汝の敵を愛せよは中年以上に普通に生きてきた男性には理解しやすい事だが、女性でそれを理解し得る人はかなりの人格者だ。女性は同性の敵対者へはその感情が持てるが、異性の敵対者にはそれは持ち難い。男性でもそうでない人は勿論居るが、社会的に訓練されている人は多くはそうでない。

◇女性が考えるしっかり自分を持つ男性とは自分を大切にする(扶養すら厭わない)男性だ。その点では女性とは男性と違って社会的に完全なるエゴイストだ。男性にとって他者、他人とは巧くやるべき対象だが、女性は必ずしもそうではない。自分の夫にとって利益になる他者のみ彼女等にとっては味方なのだ。

◇公明党は大方の予想通り、かなり票を落とし議員数も減じる事だけは間違いない

◇民主党代表が海江田氏でなく岡田、枝野、細野各氏の何方かであれば維新の党との連携も可能だったろう故来月総選挙での勝利もあり得たかも。だがこの三氏も脱党して維新の党へ合流するのは損だと踏んで実行しないだろう故、反自公票は分散し結局自公のぎりぎりセーフ(必ず票は減らすが)だろう。

◇要するに古代から人類は貨幣経済的な決裁や行動と人倫・人民政治的位相での選択と行動は並行して存在していたが、ずれていた部分もずっと在ったのだろうと思う

◇人類はしかし原始共産制的だったのだろうか(かつてのポルポト政権時代のカンボジアを思い出させるぜ)?そういう時期は常に一時期だけだったのではないか?と言って今の様な民主主義も全く無かった訳だから、その都度の丼勘定的な決裁が横行していたとは考えられる。貨幣経済は別だっただろうが。

◇民主主義の理念が実は全てを並列化させる様に作用し、高度な分業と専門抽象化を促進している事も事実だ。民主主義がイデオロギーの方を優先させ過ぎると、それはそれで弊害も大きくなる。資本主義経済、自由主義経済と思想が民主主義の理念と結びつき動脈硬化的思考を招聘している部分は否めない。

60年代以降世界の素朴な家庭観を覆してきたものは良くも悪くも核家族化と同性愛容認だろう。尤も現代ではLGBTとかなり多様化された性嗜好選択になってきている。その意味では全てに関して素朴なものを取り戻すというモットーを困難としている。高度に全てが抽象化され分岐しているからだ。

◇本でも日記、自伝、エッセイ等が最近面白い。色々なものを読んでいる。宗教啓蒙家の書くものもそれ自体一つのエッセイ的な思想書になっていて興味深い。

◇アート表現形式的に言えば現代の文化創造や学術分野は余りにも象徴主義的、表現主義的なのだ(だから様相としては異様に難解に形而上的となってしまう。それは形而下学の自然科学さえそうなのだ)。自然主義や素朴で具体的なモティヴェーションが余りにも少ないという事が言える。

◇現代詩、現代思想、現代哲学全般に決定的に欠けるものとは具体的思考である。大半のものが高度に抽象化され過ぎている(その点ではラムダ計算等の数論理学系、コンピューターサイエンス系はそれ自体独立して実用的であるが、それは専門的な世界である)。具体的な発想は培っていくべきである。

◇一つの詩が生まれる過程には人間生活もあるし、世界や世相や時代等の全てが関わる。純粋な詩学とか詩の理論や形而上的な価値だけで作品が生み出される訳ではない。つまり全ての我々の生活感情が詩を書くモティヴェーションとなっている。それは歌詞であれ映画であれ同じである筈なのだが。

◇大半の思想家や哲学者は本の上での理論の解析に終始する。その点では大学教育者であれ出版界の論客であれ同じである。彼等は大半が社会全体の動向にも地域主義的な市民運動とも関わらない。そして文化全体へも凄く音痴である。この部分は彼等の職業的性格上変わらぬかも知れぬが、其処に限界がある。

◇原発再稼働等の施策も実は日中国交が正常化する事でかなりがらっと風向きは変わるだろうとは思える。意外と日中韓の国交的な改善が齎す効果は未来に向けては大きいと言える。

◇原発再稼働はある部分ではアメリカが自然エネルギー供給システムにそれ程真剣でもなく依然低コストの原発依存を良しとしている事への自民党の歩調合せの(と軍事開発的)側面もある。アメリカだって原発施設が地震等で壊滅し多大の被害を地域住民が蒙ればがらっと世論も変わるかも知れないが。

◇日本社会のある種の閉塞感(毎日自殺者が出ている)は、一つには高度に抽象化された分業化が徹底し過ぎていて、融通が利かない様になっている(それは政治経済、官庁等の組織全体に言える)事ではないだろうか?毎日何処かで電車に飛び込む自殺者を出しているという事だけでも異常である。

◇今回の選挙で感じる事は意外と世界で日本人が最も故郷とかそういう事を信じていないのではないかという事だ。日本人はある部分かなり観念的理念的に全国民がなり過ぎていると思える。それは欧米や他の東南アジア諸国の様相を知るにつけそう思う。今回の選挙も世界の七不思議的に捉えられているかも。

◇ガスリーの伝記動画を観ているとアラン・ローマックスやピート・シーガーも出て来る。其処で感じる事は、我々はフォークとかブルースとか分けるが、意外とこの二つはかなり近接しているし、ゴスペルともこれ等は接合しやすいし、要するに全ての米国音楽は底流では繋がっているのだ(ジャズさえ)。

◇美空ひばりも高倉健も高度成長期の日本人を鼓舞、叱咤激励してきたのだ。だがその後出たビートたけし達は徹底的にリアルの中で夢の喪失をメッセージ化した。だが今は更にそれ等全てが過去化された位相で眺められる。真の意味で変わりなさとは何かを考え始めている。その中から又新しい文化芸能が出る。

◇哲学的、思想メッセージ的である事の価値はあるが、だからこそ却って憩いを損ねているという事はある。何でも本質直観的、本質探求的、イデオロギー的である事だけがいいとは言い切れない。その意味では現代日本の大半のメディアで最新鋭とされる文化は鑑賞していて疲れるとは言える。

◇呉美保、大森立嗣、熊切和嘉がいいと思う理由は却って彼等の方がずっと変わらない日本を描いている気がするからだ。黒澤明、市川崑、木下恵介それ以外の大勢の監督達(大島渚、鈴木清順、大林宣彦、相米慎二、市川準、是枝裕和等監督達)は変わりつつある日本だけを描いてきたとは言えないだろうか?

◇文化芸能の全てが思想化、思想メッセージ化しない方がいいとも言える。昔ながらの良さを残す事も又同じ位意味ある密やかなメッセージだとは言える。全てが一元的な価値論で括られない方が多様で面白いし、安らぎ得られる、とは言える。

◇現代アートは全てを一度破壊して構築しようとしているので都市空間には確かに合うが、地方部の蔵造等の家屋を開放してギャラリーにしている様な空間では地方部の牧歌的な絵がよく見えたりする。確かに現代アートも60年代以降のロック&ポップスは観ていても聴いていても疲れる部分はある。

◇どんな音楽も十年二十年周期でかなり様相を変えている。歌謡曲もジャズもラテンも全てに言える。だが日本でも地方部では長く演じられなかった神楽等の演目が再度誰かの音頭に拠って復活したりして、忘れられていたものが発掘される事もある。全てが時代と共に並行して存続する訳ではない。

50年代迄在った牧歌的雰囲気や友愛的社会の気分は60年代以降失われ、急速にラディカル思想イデオロギーと保守層の対決色に社会が染まり、ロックは時代をシンボライズしたし殆ど全ての文化が塗り替えられた。暖かい家庭から都市空間の一匹狼的気分へ移行した。テクノロジー進化もそれを助長した。

◇ウディ・ガスリーの曲を聴いていると牧歌的なフォーク、それは都市ではながし、工場では労働歌的に響き色々な意味で差別された理由も分かる気がするが、やはり自然への郷愁は感じる。ディランも初期はそうだったが<ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム>以降は急速にロック化した。

◇現代社会は確かに都市空間が変貌した。だが日本もだしアメリカでも何処でも目まぐるしく変貌を遂げるエリアと、かなり極端に言えばずっと60年代頃から本質的にはそう変わりないエリアとが同じ国内でも両方存在するのだ。選挙の争点なるかどうかだが、地方部と都市部とで抱える問題の質は確かに違う。

☆アメリカは60年代以降公民権運動とベトナム戦争の泥沼に嵌り込み収集が付かなくなる。その中でモンタレーポップフェスティヴァル、ウッドストックコンサート等が開催されていく。サマー・オブ・ラヴの気運の中でビートルズが受けた。だが彼等は解散するし、時代は移り変わっていく。

◇昨日の<ぶらり途中下車の旅>でジョンソンタウン(入間市)の50年代のアメリカに魅せられていたおじさんが出て来たが、気持ちは分かる。確かにあの頃のアメリカには今にはない夢があった。日本人も憧れた。ビル・ヘイリー、エルヴィスやウディ・ガスリー、ハンク・ウィリアムズとか懐かしさを誘う。

◇安倍総理の宮沢経産大臣を指名した任命責任もかなり今回の選挙の有権者にとって原発再稼働と共にキーにはなる。意外な選挙結果になる可能性もかなりあるな。

◇ライク・ア・ローリング・ストーン(ディラン)、アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー(ビートルズ)、天国への階段(ツェッペリン)、サタデー・イン・ザ・パーク(シカゴ)、ウィッシュ・ユー・ワー・ヒア(フロイド)、Gift(ミスチル)辺りが今スゲー繰り返し聴きたい気分だぜ。

◇今の気分でスゲー繰り返し聴きたい曲。Like a Rolling Stone(Dylan), I want to tell You(Beatles), Stairway to Heaven(Zeppelin), Saturday in the Park(Chicago), Wish You Were Here(Pink Floyd), Gift (Mr.Children)

◇ビートルズ<リヴォルヴァー>の中のジョージのチューン<アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー>が聴きたい気分だぜ

◇哲学者が本質的なメッセージを携えて生き残るには大学組織で教育者としてだけ安住するのでなく、下北沢等の小劇場でエンタメ的に講義パフォーマンスするくらいの何か全く今迄の哲学者のしてきたのと違うメソッドで攻めていく必要だけはある。詩の朗読と哲学エンタメ講義の融合とかも面白い。

◇文化芸能的には英米のロック&ポップスシーンでも一定程度の伝統的マナーの中でサマー・オブ・ラヴの時代にはかなり大胆な革新的試みをした。それは過去のマナーを無視する仕方だった。だが80年代以降はその尻馬に乗る仕方のプロが大勢を占めた。今こそ以前とは異なる革新メッセージで攻める時代だ。

◇映画でも今も尚色々な意味で差別や貧困に喘ぐ人達も大勢居て、其処にスポットライトを当てた作品を作る監督も居るだろう。だが逆に一般市民の根源悪的な安穏とした日常を揶揄的に風刺し作る監督も居るだろう。何か一つのタイプの社会メッセージだけが受けるよりは、多様なそれがある方が面白い。

◇芸術家や哲学者は社会全体のムーヴメントには一切無頓着であるが、それでいてどの職種の人達より全てを達観して特権的な態度だ。この点では思想的には全く説得力のない生き方だ(物理学者や数学者は彼等より社会全体のニーズには沿っている)。文化(音楽を含め)でもメッセージは必要だ。

◇与党は1710%への消費税切り上げだけは確約したので、その間に景気回復、財政再建その他で失政すれば、必ず再政権交代となる。その時に交代出来る健全な野党を構築し得るか否かにもある程度将来の日本の命運はかかっている。その為一定数の野党勢力拡充が必要と考える有権者も少なくないだろう。

◇民主党政権は経済政策で適切ではなかったが、この時期にリーマンショックと東日本大震災が起きた。この事は仮に自公政権であっても(或いはその場合の方がもっと適切でない措置だった可能性も含め)さして変わりなかっだだろうと考える国民も決して少なくない。従って選挙では民主は票を伸ばす。

◇昨日の長野県の地震により、東北被災地等を含めた巨大地震経験県での投票行動に反自公的選択を促す可能性は充分にある

衆議院総選挙、投票当日迄に巨大地震が起これば、間違いなくがらっと有権者の投票行動とその結果の様相が変わるだろう。又ブログ記事には書かなかったが、共産党が一定程度躍進する事はそうでなくても想定し得る。

詩と思想は意外と近い。と言うより笑いもときめきも言葉化すれば思想になるという事だ。思想はイデオロギーも含むが、もっと広く美の生活への導入や情感(当然文学も芸術も含む事になるが)も含んでいる。人が考え感じる全てを生活の中で認識する事は、即ち思想なのだ。詩はそれを簡素な言葉で囁く。

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2014年11月23日 (日)

11月22日のTwitterとFB,「いいね!」☆ ディラン・ビートルズ・クラプトン考①

◇ディランはマイナーレイスとしてスカンジナビア、イタリア、スロヴァキア人等の行く学校やコミュニティ(中間層以下)で育ち、ジミー・ディーンやマーロン・ブランドに強く惹かれた(それは彼の格好からもよく分かる)。ビートルズも同じ様にマーロン達に惹かれていた事も実に興味深い。

◇ディランはハンク・ウィリアムズ等のヒルビリー以外ハウリン・ウルフ、マディ・ウォーターズに影響を受け、ロックンロール(ビル・ヘイリー、チャック・ベリー、エルヴィス、リトル・リチャード)に憧れた。ビッグ・ジョー・ウィリアムズやジョン・リー・フッカーと共演を経てソロデビューした。3favirited in Twitter

☆ディランはユダヤ系ロシア移民の子で祖母はトルコ人だ。彼の歌詞や歌のエレジーは日本人受けする部分はそれが理由か?彼の自伝ではガスリーのレコードを知人の家迄聴く為に出掛けた話が出て来る。当時はPCで容易に何でも聴ける時代でなかった。だからこそ初めて聴いた時の感動は今より大きかったろう。

◇クラプトンはある時期迄はギタリストを主軸にプレーし歌を付随的に歌ってきた。だが<ティアーズ・イン・ヘヴン>で弾き語りに目覚め、それ以後ヴォーカリストとしても意識しだした。私自身はデラニー&ボニー&フレンズからデレク&ドミノス時代の彼のリードギタープレイが重厚で好きだけど。

☆☆ビートルズはポップスの王道でロックをしたが、クリームは違った。だがエリックはクリームが最終的にポップ路線に行くと悟って解散へ縺れ込ませた。エリック自身ブルースをしたかったがその後数グループを経てポップス色の強い仕事も多くした。エリックが多くポールと最近仕事をするが、その表れだ。

◇ビートルズにとってストーンズもフーもフロイドもそれ程の脅威でなかったに違いない。自分達の方が上だと余裕を持って思っていた。がディランだけは違った。一筋縄に行かぬと。まるで秀吉にとっての家康、三成にとっての如水であるかの如く。当然ディランにとってもそうだった。

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2014.12.14の衆議院総選挙に就いて(選挙戦の始まりに於いて想定されえる可能性に就いて)

昨日のNHKスペシャルでの各党代表者に拠る討論から読める事を書いてみよう。箇条書きにして示そう。

●今回の総選挙では来年予定されていた消費増税10%への切り上げに関してはどの党も一致して切り上げ見送りを主張する(中には共産党の様に切り上げ自体を引き延ばすのでなく止めるという主張する党もある)。従ってその事自体は争点にはなり得ない。

●では何が争点になるか?それは一つには景気が上昇するかに国民の最大の関心事があり、アベノミクスを今後も続行させていくか、それともそれ以外の政策を打ち出すべきかに関して各党党首の意見を聞きたいと国民は考えている。

●上記の至上命題に比較すれば自公政権への批判的見解の中でかつて喧しかった特定秘密保護法案や集団的自衛権行使容認閣議決定は多分に先送りすべき議論であると多くの国民は思っている。

●上記の根拠は一つには昨今の小笠原諸島への中国漁船到来問題に於いて必要最低限の国防的措置を望む国民の方が多数派を占めると言えるからだ。

●となると自公政権への批判の矢面にあった集団的自衛権その他の国防的政策は争点にはなり得ない。その政策に関して仮に一致しない党があったとしても、その党が景気対策やアベノミクスの是非に関してきちんとした意見があるのなら、今はそれを優先すべきと考えている国民の方が多いと察せられる。

●上記の理由に拠ってNHKの討論では最低限の水準を保つ意見を述べたのは民主党、維新の党、次世代の党に限定される。それ以外の共産、生活の、社民各党は現実的な経済政策として今一つ説得力を欠くと言える。

●上記の理由に拠りみんなの党の解党決定に拠り民主党へ立候補議員が流れる事も勘案すると、必然的に民主党は今よりは議席数を増加させる可能性は高い。

●しかし依然前政権の色々な意味での経済政策の失策へのトラウマを持つ国民も多いので、民主党との連携自体は望み薄になったとしても尚、維新の党の議員数を拡張させるべきと踏む有権者も少なからず居るという意味ではアベノミクスへ懐疑的な有権者の中には維新の党へ投票しようと考える国民も少なくないので、維新の党も一定程度議員数を伸ばす事は考えられる。

●又次世代の党は未来の人達の為に政策を長期的視野で持つべきという意見は正しく、仮に国防その他で石原氏の保守的思想に懸念を持つ国民でさえ、今現在の景気回復とデフレ脱却を望む事を第一と考えた場合、今は自公政権と代わり得る勢力拡張の為に次世代の党も躍進すべきと考える有権者も少なくないと思われるが故に、民主、維新の、次世代の各党へ分散して投票する有権者が一定程度出る可能性が高いので、この三党が何等かの形で連携を模索する可能性も無くはない。

●上記可能性に於いて民主党が生活の党や維新の党と連携模索の場合、次世代の党が外される可能性はこの三党間では充分考えられるが、民主、維新の、次世代の各党が同じ位の躍進を果たし、生活の党が伸び悩んだ場合には、当然この躍進三党間で連携の動きへ、自公政権に代わり得る勢力構築の為に三党が模索する事で実現する可能性は高い。

●上記全ての事を勘案して結論的に言えば、自公政権がどれくらい継続的に彼等へ全てを委ねる方が、野党が政権交代をするよりずっといいと踏むかに依存するとは言えるも、今の多少なりとも民主政権時より景気が上向いている指数結果の状況では、自公へ継続的に依存しようという形で自公へ投票する有権者がかなり居るという事だけは想定され得る(少なくとも今回の総選挙で完全政権交代はほぼないだろう。仮に自公がぎりぎり過半数を取れないとしても尚、次世代の党との連携で自公次世代政権になる可能性が高いし、そうなるくらいなら自公政権の侭の方がいいと踏む有権者も多いだろうから、必然的に自公政権がぎりぎりセーフの政権維持、そして民主、維新の、次世代の党の一定程度の躍進に於いて、次代の連携可能性を示唆して落着するという可能性が最も高いとは言えよう)。

 上記が私の想定、見立てであるが、選挙とは何が選挙戦で起きるかやはり分からない。従って今後の政策論争の展開次第でかなり今回の予想が変わっていく可能性も充分ある。日を置いて再度考えてみたい。

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2014年11月22日 (土)

ボブ・ディランの歌詞を読み解くPart3 <ゲイツ・オブ・エデン>(エデンの門)

 

 

 ディランの歌詞は歌う時必ずメロディから外れて歌われる。その分ではディランのスピリットはジャズマンに近い。レコード(CD)では同じ歌い方に決まって聴けるが、コンサートに拠っては毎回歌い方も変わる。アドリブはあくまで彼のその時々の歌詞の内容の解釈気分で進行する。其処に彼のシンガーとしてのスリリングなドライヴ感がある。

 

 歌詞の内容の読み込み方に拠って外し方が変わってくるという意味でGates of Edenは歌詞が長く内容が多く盛り込まれ、それをどう短い時間内でこなすかというディランの力量を自ら問える作品となっている。レコードではB面の前回の<ミスター・タンブリンマン>の後に続く構成となっている。

 

 歌詞を翻訳で見てみよう。

 

 

 

 

戦争と平和とは真実では捻じれている

 

その戒厳令は進行を鈍らせる

 

四足の森の雲の下で

 

カウボーイエンジェルは馬に乗る

 

太陽に向けられ灯された蝋燭を携えて

 

その白熱が黒ずんでも

 

エデンの木々の下では例外だ

 

 

 

街灯柱は腕を組んで立っている

 

赤ん坊が泣き叫ぶ穴の直ぐ下に

 

その鉄の鉤爪が付いている

 

メタルバッジにそれが映っているけれど

 

全てそして全ては只落ちるだけ

 

エデンの門からは何も聞こえてこない

 

只激しいだけで無意味な一撃以外は

 

 

 

狂暴な兵士は自分の頭を砂に擦り付ける

 

そして不平を言う

 

耳の聞こえなくなった裸足の狩人に

 

刺青の入った帆のある船はエデンの門を目指す

 

 

 

時間が錆びついたコンパスの刃

 

アラジンとそのランプが

 

ユートピアの宗教的隠遁者である修道士と一緒に其処に在る

 

金色の子牛に載せられた女性用の横鞍

 

そして天国の誓いに貴方は笑いを聴けないだろう

 

エデンの門の内側でない限り決して

 

 

 

オーナーの関係を

 

彼等は翼で囁く

 

何かに従って行動する為に非難する彼等に

 

そして王位を継承する王を待ち

 

数々の歌をハモってみよう

 

一匹の逸れたスズメが唄う

 

エデンの門には一人も王は居ないと

 

 

 

バイクに乗った黒いマドンナ

 

二輪車のジプシークィーン

 

そして彼女の銀の飾り鋲を打ち込んだ幽霊が

 

灰色の綿布(フランネル)の小人を大声で叫ばせる

 

邪悪な鳥の祈りに咽び泣くので

 

彼のパン屑の罪を拾うのは誰だ

 

エデンの門の内側には罪なんて無い

 

 

 

経験の王国は

 

滅多に吹かない風を役立てない

 

白い貧困者は所有を変える

 

誰もが他人が得ている物を希い

 

又王女と王子は何が現実で何がそうでないかを論じる

 

だがそんな事はエデンの門の内側ではどうでもいい

 

 

 

外国の太陽が私のものでは決してないベッドへ脇目の様に差し込んでいる

 

友達や見知らぬ他人の様に

 

彼等の運命が辞めさせようとする事から

 

逃れる人々は全て、遍く自由で

 

何でも願えばする事が出来る、死ぬ以外なら

 

エデンの門の内側にはどんな試練も無い

 

 

 

私の恋人である夜明けが私の下へやって来る

 

そして彼女の夢を私に語る

 

ちらりと眺める事を何とかしようとして掻き集める様な事は一切せず

 

それぞれが意味する事の溝へ

 

時々私には言葉がないと思える

 

だが何が真実であるかを告げる言葉、そして真実なんてエデンの門の外側になんてない

 

 

 

 ディランはユダヤアイデンティティのアメリカ人であるが、必ずしも彼の歌曲全部がそういったアイデンティティを示す訳ではないが、この歌ではそういった旧約聖書世界(聖書世界は何もユダヤ人に限った事ではないが、この歌で言うエデンとは旧約世界の叙述であるが故にそのユダヤアイデンティティを加味して考えても自然である)からの啓示的暗示的歌詞が余す所なく伝えられている。

 

 エデンの園でアダムとエヴァは木になる林檎をエヴァが蛇に唆されて食す事で相互に裸で居る事へ羞恥を持つ様になる下りは余りにも有名であるが、エデンでは悪も善も無く全てが自由であるという事はモラル教条論的には許されざる全てさえ許容させてしまう現実の過酷さ、つまり残酷さをも世界が含有させている性悪説的な内容の歌詞である。「全てそして全ては只落ちるだけ」はその事実への悲嘆的な叫びとなっている。エヴァが知恵の実である林檎を食した瞬間から人は罪を背負った。だから「エデンの門からは何も聞こえてこない/只激しいだけで無意味な一撃以外は」とは知恵の実を授かって羞恥に拠って子を儲け、育児をしなければいけなくなった人類の理想や夢想的な天国的想念の全てを反故にしてでも生きていく上で背負わなければいけない善悪を超えた現実、それこそが神ではない我々の運命であるという事だ。

 

 ジョン・レノンが天国も地獄も無いとImagineで唄った夢想的別天地であるエデン自体が其処では何も自由を阻むものはないが、それが地上では幾多の生存者達が犇めき合っているが故に自由を無償で得られる訳ではなく、労働をしなければいけないし、自由を闘争に拠って勝ち取る必要がある。

 

 従って「刺青の入った帆のある船」はノアの箱舟であり、「ユートピアの宗教的隠遁者である修道士」とは人類社会を嘲笑する頃合いの語彙だ。アラジンと魔法のランプとは現実逃避的な願望が逸話化されたものであるからだ。「天国の誓いに貴方は笑いを聴けない」は天国は善悪を超えている神の故郷であるが故に、善悪を超えてはいるが、其処に善悪をつけなければいけないルールの世界である地上の現実がその自由への闘争の末の勝利で(それは物理的勝利だけでなく)笑いを獲得し得るものと違って、天国では俗自体が抹消されているので、俗悪を含み込む現実の有象無象での笑いが存在し得ない事を言っている。ディランはこの行で現実逃避的願望を嘲笑する。

 

 「オーナーの関係を彼等は翼で囁く」は私有財産制の事を言っている(こういう指摘にはマックス・ヴェーバーの「古代ユダヤ教」的世界観を彷彿させる)。ディランは凄まじいインテリジェンスの持ち主であるが故に唯単なるポップソングの様な単純な(それはそれで価値であるが)歌詞に収まり切らない。確かに鳥は私有財産制で土地を分割する事はしない。しかし彼等は仲間にエサを教え合ったりする為に囀り、土地分割とか違う仕方で食を争う。

 

 「経験の王国は滅多に吹かない風を役立てない」はあらゆる改革を阻止する保守的な経験則への批判である。この批判の前に「何かに従って行動する為に非難する彼等」という表現で保守的伝統主義者達への揶揄が示されている。彼等こそ陳腐な経験則に従順で一切「滅多に吹かない風を役立てない」、つまり改革を阻止するのである(この点では公民権運動喧しい状況でこの歌詞を唄う事はかなり勇気の要る事だっただろう)。

 

 その意味では「一匹の逸れたスズメ」とはディランの事かも知れない。つまり私有財産制ではない土地へ降りて来てエサを啄む鳥は自由かも知れないが、決してそれは獲得された自由でなくそういう行動をする様に神に拠って(遺伝子的に)書き込まれているに過ぎない。そしてだからこそネイティヴアメリカンから土地を奪った白人が「白い貧困者(精神的な貧困者の意味である)は所有を変える」と揶揄され、「一匹の逸れたスズメ」は「エデンの門には一人も王は居ない」と唄うのだ。エデンを目指す様な宗教的夢想自体への揶揄も其処で示されている。だが現実は王でなくても政治には為政者、権力者が存在するし、我々はそれを欲する。夢想を語り現実逃避させる宗教への批判も此処で示される。この「バイクに乗った黒いマドンナ/二輪車のジプシークィーン/そして彼女の銀の飾り鋲を打ち込んだ幽霊が、灰色の綿布(フランネル)の小人を大声で叫ばせる/邪悪な鳥の祈りに咽び泣くので/彼のパン屑の罪を拾うのは誰だ/エデンの門の内側には罪なんて無い」は件の「経験の王国は滅多に吹かない風を役立てない/白い貧困者は所有を変える/誰もが他人が得ている物を希い/又王女と王子は何が現実で何がそうでないかを論じる/だがそんな事はエデンの門の内側ではどうでもいい」へ対応する。「誰もが他人が得ている物を希い/又王女と王子は何が現実で何がそうでないかを論じる/だがそんな事はエデンの門の内側ではどうでもいい」は欲望に感ける人々と王女王子の机上の空論的な観念的論議への揶揄、そしてそれはエデンの内側ではあり得ない、つまりそれは現実世界ではないからだという風に宗教の現実逃避性への批判と相俟って現実から宗教に逃げ込む我々だが、同時にそのエデンから追放された我々は今は現実でなくなったエデンでは現実であった観念的論議等超えた素朴な感情が摩耗されている事を批判する。エデンに先祖帰りしたい気持ちを持つ我々だが、其処に逃げ込もうとする事で却って他人の欲しいものを自分も欲しいと欲望剥き出しになり、エデンから遠ざかる。

 

 従って「外国の太陽が私のものでは決してないベッドへ脇目の様に差し込んでいる/友達や見知らぬ他人の様に/彼等の運命が辞めさせようとする事から逃れる人々は全て、遍く自由で/何でも願えばする事が出来る、死ぬ以外なら/エデンの門の内側にはどんな試練も無い」という終章は明らかに自然への讃歌にもなっているが、「私のものでは決してないベッド」とは神から与えられし大地という意味だし、「彼等の運命が辞めさせようとする事から逃れる人々」とは「何でも願えばする事が出来る、死ぬ以外なら」で示される自由の獲得の為に何でも出来る権利と、行動が、運命に付き従う天命他力論的な想念からの自由への脱出という観念を示している。保守主義者達、経験の王国はそうではないからこそ、この最後の一節前で示された自由への闘争は意味があるとディランは歌っている訳だ。

 

 「彼のパン屑の罪を拾う」は人と同じ様に人の欲しがるものを欲しがる事であり、欲しがる事で闘争が始まり、其処に首謀者への罪が課せられるが、エデンにはそもそもそんなものはなかったのだ。「バイクに乗った黒いマドンナ/二輪車のジプシークィーン/そして彼女の銀の飾り鋲を打ち込んだ幽霊が、灰色の綿布(フランネル)の小人を大声で叫ばせる」は現代社会への風刺的な表現である。現代人は生きた侭幽霊になっている。それが銀の飾り鋲で却って強調される。それが煌びやかであればある程。小人とは彼女等の子供、未来の人類なのだろうか?

 

 最終節は「私の恋人である夜明けが私の下へやって来る/そして彼女の夢を私に語る」は夜明けに拘るディランの一節に相応しい最終節である。夜明けという未来は自分に夢を語る、それは「ちらりと眺める事を何とかしようとして掻き集める様な事は一切せず」なのだ。ちらりとで、なくじっくりと見られるリアルを作る必要があるが、そうする為に小さな事を掻き集めたりするのでなく、「それぞれが意味する事の溝へ/時々私には言葉がないと思える/だが何が真実であるかを告げる言葉、そして真実なんてエデンの門の外側になんてない」で終わる一節は淡々と一つ一つの行為をしていくしかなく、それは一箇所に集結させる事でなく持続していくべきだという人生時間論である前節を受けて、でも言葉を必要とする我々は時々エデンを懐かしみ真実等ないエデンに憧れる(例えば宗教的現実逃避する事で)ので言葉を失う、例えば美しいものを観たり聴いたりする時にはそうである、我々はうっとりする、そういう事を否定せずにこの歌は終わる。その点では決してこのディランの難解でもある歌詞は観念的ではなく現実的・具体的である。何故なら「「それぞれが意味する事の溝へ」とは我々が意味を個々でその時々で与えていくべきものだという一節で自由への闘争と権利獲得の中での行為の意味、意義を認めているからである。迷いも宗教的現実逃避も時々エデンを懐かしみ、もうそんなものはとっくにないのであるが、エデンには苦しみも善悪もないのだから、それへ目指して(事実我々は最後は死ぬのだから)いくと安堵する心の隙間を最後にディランは否定しないのである。

 

 ディランの歌詞はかなり込み入った揶揄や皮肉が入っているが、決定的に最終的には教条的ではない。ある優しさが、優しい眼差しが込められている。

 少なくとも私にはこの楽曲の歌詞からはそう伝えられるのである。

 

 

付記 ジョン・レノンの<イマジン>がこの曲をベースに書かれたと迄は言わないが、かなり彼の脳裏にはこの曲への意識が手伝っていたと捉える事は自然ではないだろうか?私有財産制への揶揄をジョンはディランよりもっと直截に語るが、ディランは素朴に唯それを否定しない。寧ろ肯定も否定も超えた地点で考えている点で極めて哲学的である。(Nameless-value)

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11月21日のTwitterとFB.「いいね!」☆ 相撲雑記、詩と小説の両立、ゾンビ語義、芸能音楽文化雑記(ディラン<と寺山とビートルズ>、ツボ当てとツボ外し、破壊と正攻法、時事、現代人類学他

◇鶴竜は昨日の一番の変化勝ちで今日の一番を落としたと言える。今回は白鵬へ行くだろう。一番で境目になる、そんなものである。北の富士の予感通りだった。

◇詩を書く事がノッテくると小説は書けなくなる。二つの両立は至難の業なので、結局小説を書きたい時には暫く詩作を断念するしかなくなる。エッセイや批評や研究仕事は詩とも小説とも両立しやすいが、詩と小説は至難の業。来月の学会発表を終えたら今年残りは小説の書きかけから始め今年は終えたい。

◇小説と詩の最大の違いは小説は描く内容に拠り文体やスタイルが決定するが、詩は文体やスタイル自体が内容にも形式にもなる。その点では詩の方がずっと自由で、詩作とエッセイ、批評、研究は両立しやすいが、小説はそれとは質の違い仕事で両立が難しい。長編小説は特に計画性が大事なのだ。

◇かつてビートルズのアンソロジープロジェクトで彼等当時の三人が未公表の楽曲の多くを紹介した事は意味があったが、Free as a bird他の新曲は歴史には残らない仕事だったと思う。その時それらの曲をゾンビの様な曲と言った人が居たが、言い得て妙。ゾンビとは悪あがきで成仏し切れないという意味で使う。

◇家入レオの歌は聴いて直ぐ分かる。完全に独自スタイルがある。彼女が主題歌を歌う<Nのために>は湊かなえ作だが、内容は暗い。現代社会の汚点の様な全てを描く。只横山克の音楽も印象的でヴィジュアルオーディトリー両面で秀逸。展開も構成も工なのは流石。retweeted in Twitter

◇ビートルズは解散したけど(他にツェッペリンとかもだけど)、ディランも寺山修司も生涯解散しなくていいんだから、そういう部分はいいよねfavorited in Twitter

◇寺山修司とボブ・ディランの世界のある種の奇妙な共通性等も実は意外とし甲斐のある研究テーマなんだけどね

◇評論家は多く<Mr.Tambourineman>はByrdsのポップスヴァージョンがいいと言う。確かにギターワークや垢抜けた感じは好感が持てるけど、ディランの歌う凄みは無い。後年大勢がポップスヴァージョン編曲でコンサートで唄い、ディランとも共演している。でもやはりディランのテイクがいいと思えるけどな。

◇ディランの自伝をここの処読んできたのだが、僕として一押しで彼こそまず(村上春樹さんとかより先に)ノーベル文学賞を取るべきだと思うけど、彼もビートルズに教えたマリワナとか吸っていた過去があるから、それが受賞にネックになっているのかも。別に取れなくたって彼の価値は変わらないけど。favorited in Twitter

◇<ブリンギング・イット・オール・バック>中の<オン・ザ・ロード・アゲン>のギターワークにホワイトアルバム中のポールの<ホワイ・ドント・ドゥー・イット・オン・ザ・ロード>がそっくりだし、タイトルからしてポールのディランからのパクリである事は明白。その次の曲の失敗も録音する部分も。

ピアノ一つ取ってもジョージ・ウィンストンとチャールズ・ミンガスとミシェル・ペトルチアーニとでは、これが同じ楽器から出る音なのだろうかと思う。それは全楽器に言える。クラプトンとジョージのギターはソロを弾けば直ぐ分かる。キース・ムーンとサイモン・フィリップスのドラムスの叩き方等も。favorited in Twitter

音楽遍歴に予定はない。ビートルズからクラプトン、ビル・エヴァンス、モンク、グレン・グールドの弾くバッハ、サティ、フォーレ、ドビュッシー、再度ジャズに戻りマイルス、レイ・ブライアント、更にベン・フォールズ・ファイヴ、ニルヴァナ、ジュールス・ホランド、上原ひろみ、全てがその場凌ぎ。favorited in Twitter

音楽の好きなものはかなり誰にとっても幅が広い。正反対のものに同時に惹かれるという事は常にあり得る。そしてそれら一つ一つの収納する脳の箇所は異なっているのかも知れない。これと好きな異性も無関係ではないだろう。なのに一人に絞らなければいけない社会の方に本質的には色々な問題があるのだ。Favorited in Twitter

個人史としてのシンガーの人生と歴史的意義は確かに違う。だが哲学的には個人史自体も歴史的意義と無関係に成立しないし、歌を皆の為に歌うと言う事と自分の為に歌うと言う事は結局同じ一つの事の表裏でしかない。反社会的に生きるのも社会的生き方の一つである様な意味でもだし、その逆の意味でも。

☆衆議院解散の時のあの万歳の習慣もかなり世界の七不思議的部分に属すね

日本でも戦後直ぐでもそんなに悪い生活をしていない人達も居たし、逆にアメリカでも戦後直ぐ凄く貧しい家庭も多く存在した。恐らく貧困や困窮は被爆国である日本だけの特権ではなく、世界中に存在していたし、今もそうだ。歌を歌うという意味が豊かさの中で享受するのと違う意味が貧困ではある。

マイケル・ジャクソンが全盛期は世界的にテクノロジーが一気に進化した時代だった。テクノロジーの進化がビートルズもマイケルも生んだ側面もある。日本でもX-Japanは似た状況で世に出ている。戦後直ぐのアメリカ大衆音楽も日本のものも今聴けば音への取り組み方、歌う行為の在り方も違った。

ガスリーやジョンソンやジョー・ヒルの時代には音質の良くないレコードがあるくらいで、現代の様にあらゆるデジタル機器の無い時代だった。今は全てが超高速で全人類が次第にエンジニア的感性で生きていく様な感じだが、昔はもっと素朴な分業的な生活があり、それに不自由自体を抱いていなかった。

☆ウディ・ガスリーの歌を聴いていると素朴に何かが心に響いてくる。ディランの歌の方がかなり精緻だ(精緻に外す)が、ガスリーの歌い方は外すのでもツボを当てるのでもない歌い方だ。彼は恐らく最低限の生活だけ出来ればよいというモットーで生きて歌っていたからかも知れない。

忍耐力を喪失している日本人像も浮かぶが、それを言うと今は戦後社会なのだとなる。思想やイデオロギーだけで語ればそうなるが、我々の生活感情は実はもっと単純で素朴なものだ。何を一番欲しいのかを見極める個人力も要る。現代社会は利便性自体が不安を煽り立てている。不便性に立ち返る必要もある。

日本はあの80年代のバブル期がなければ又今全く違った国だったかも。あの時代は異常だったし、その成り上がり的な社会で日本人の精神は大分いかれた。率直日本人は一度堕落へ突き落とされた。どの国でもそういう幾つかの経験がある訳だが、今の色々な意味での停滞の遠因はあの時代にあったと思う。

ディランの心の父ウディ・ガスリー(白人)は労働歌的、ながし的な吟遊詩人だった。工員達からギターを壊され危険視され殴られ転々とする。55年の生涯だった。クラプトンの心の父ロバート・ジョンソン(黒人)も27歳で死ぬ迄放浪を強いられている。アメリカの魂はブルースフォークだと言っていい。

サラ・ヴォーンの歌い方はツボを敢えて外すジャズの中にあっては、敢えてポップスやゴスペル的なソウルを取り入れて歌うという意味で聴く者に安定感と安心感を与えた。日本では辛島美登里等は安定感を与える歌い方をしている。それはそれで外すのとも違い難しさがある。

ツボを当てながら歌うという意味で植村花菜が典型的で、敢えて外して歌うのは椎名林檎や、彼女にインスパイアされている大森靖子だ。今意外と後者の方が多くなっているのがJ-popのリアルだ。ツボを外すのはブルースやジャズでは当たり前なのだが、それをポップスでやるのはそれなりの勇気が要る。Favorited in Twitter

ポールの歌い方ツボを決して外さない。ディランは敢えてツボを外す様に歌う。これはジャズプレイヤーではビル・エヴァンスよりセロニアス・モンクに近い。質問者の質問に真っ向から答えずはぐらかす、正攻法から外す訳だから。役者で言えばマーロン・ブランドはそうだった。ジミー・ディーンは違った。

セザンヌもピカソも駄作も描いた。だが恐らく誰しも駄作をも描く勇気のない所では真の傑作も描けない。失敗を恐れているだけの人は凄くいい創造も出来ないのだろう。その点では発明家や研究者でも全く同じかも知れない。

バッハもモーツァルトもベートーベンも駄作も沢山書いてきたと思うし、ビートルズもディランも誰もが凄く大した事ない粗悪品も多く作ってきたのだ。何を価値ある作品とするかは聴く人達が各々決めていけばいい。どんなに権威的に素晴らしいとされるものでも自分に合わなければ聴かなければいいのだ。

ロッカーでディランくらい破壊的なのはフランク・ザッパだった。彼に凄く影響を受けているジャズピアニスト上原ひろみはマイケル・ジャクソンが音楽とダンスでした事をピアノでしている風だが破壊的でない。破壊的な所に詩情を感じさせる才能とは正攻法プレーとは本質的に異なっている。

ディランの歌詞研究発表の為参考にディラン動画を聴き捲っているが、こんなテキトーに歌う人は居ない。調子もリズムも曲の始まりも終わりもテキトーな人は居ない(その点彼程ジャジーな人は居ない)。感性はベートーベンやブラームスより圧倒的に綾小路きみまろ、所ジョージ、志村けん全ての総合に近い。

現代政治は既にどの国も直接市民の民意を慮るのでなく、利権団体の利害調整的な議員等の代理機能としてのみ国会運営も為され、その間接性、メタ性をどう国民が個々利用するかに重点が置かれている事から、政治自体が何かのメッセージになるのでなく、あくまで政治とは読むべきものとなっている。

クリス・パッテン元香港総督が学生へ街路封鎖を解けと諭したが、彼の中国批判と学生への語りがどう中国や世界へ伝わり、どう解釈されどう今回の動向が落着するかが意外と今後の世界戦略的な意味でどの国も大きなインパクトがあるとだけは考えているだろう(日本も本当はそっちの方が重要とも言える)。

人間は皆他者や社会に対して行動、実践(的行為)を通してのみ何かが伝わる。だが一人位考え込み自分だけの世界こそが楽しいと言い続ける奴が居てもいい、という形で何か発信する奴こそ詩人で(別の意味では哲学者や思想家で)、そういう表層協働的でない協働性を示す事も一つの在り方と言える。

総選挙に七百億円かかるんだそうだ。日本が如何に金持ちの国だからと言って(別の国ならそれだけ支出するだけで国家予算が破産するだろう)、やはりうーんと唸ってしまう。どうせするならして良かったと一般有権者達が適切に(どういうのをそう言うかは難しいが)投票するしかない。

つい先だって辞任した二閣僚の代わり着任した二人の大臣達は仮に現与党が勝利しても再組閣でリセットを現総理が目論むならそれで終わりだが、一体一人の大臣が交代する事で国費は幾ら位かかるのだろうか?選挙自体も莫大な費用がかかるが、その事と選挙後にも離合集散があるのでは、と想像される。

日本人で497円の品物を買う時、10円玉が無い時レジで507円出し釣りに10円貰うのは普通で、そうせぬ者の方は居ないが、アメリカ人はそうでない。ではアメリカ人は頭が悪いかと言えばそうでない。日本人は一億総器用頭の民族なだけで、その特徴を活かした発明は出来るが、だからこそ出来ない事もある。

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2014年11月21日 (金)

詩を書くとはどういうことであるか?

 詩を書く事は恐らくそれ程大それた事ではない。何故なら我々は皆心臓の鼓動を自ら知っており、その鼓動から今日一日の体調を慮っているからだ。それは既に詩を読む事、詩を書く事に近い。

 確かに私も又20世紀の中盤にこの世に生を受け生きてきたが、20世紀だけが特殊な世紀だった訳でもないだろう。勿論テクノロジーの進化に拠り生活の利便性を享受する我々は、実は戦争に明け暮れ、大勢の世界的な数で言えば億単位の犠牲者を20世紀以降出してきた尊い命の数と引き換えに幸福を得ていると言える。だがそれはもっと以前には医療等の発展段階では大勢の犠牲者達を出してきたのだろうから、何に於いて考えるかで、一番幸福であるとか不幸であるとか判断する事の答は変わってくる。と言うより我々はそもそも二つの異なった時代に生まれてくる事自体が出来ないので、全て自分と異なった時代に生まれてきた人達の事は想像でしかないのだ。仮に50年代や60年代の動画をyoutubeで観る事が出来たとしても、その臨場を自ら立ち会っているのでない限り大まかに推測するしか出来ない。

 来月私の所属する学会で関東地方の支部大会があり、其処でボブ・ディランに就いて発表する予定で、その為に学会員の前でどんな話をすべきか考えている所なのだが、彼の動画を60年代から比較的最近のもの迄観ていると、彼がロック界を泳ぐ一人の詩人であると知らされる。

 斯く言う私はどちらかと言うとずっとビートルズチームやクラプトンの音楽を聴いてきた口であり、ポール・マッカートニーやエリック・クラプトンのコンサートは行ったが、ディランは一度も行かなかった。勿論彼の歌は何曲も知っていたし、特別代表作とされるアルバムも幾つかは持っていて時々聴いてきた。

 しかし格別彼にだけ意識を注いできた訳ではない。にも関わらず画家としてプロとして食っていけないと知った時、小説を書き続けていこうと何度も投稿するも全く審査員達(それ以前に出版社の人達)から認められず、結局プロのクリエイターとして食べていける事は無さそうだと思った時詩を書いてみたくなり、それから10年余りが経った。ブログに150篇程の詩を発表してきたが、そうする内に次第にディランの歌と歌詞それ自体に関心が向かう様になってきた。

 彼の歌詞に就いては既に二度本ブログで更新したが、彼の自伝を読むと殊更思想的なメッセージを送ろうと彼が若い頃から考えていたのではない事は容易に理解出来る。しかし彼の存在は20世紀のポップス&ロックシーンでは神格化されてきた。二億円でLike a Rolling Stoneの歌詞のメモが落札された事もそういった事を如実に示している。だがそういった神格化は既に私がロックに目覚めた時点ですら既に当然の事になっていた。Like a Rolling Stoneが唄われた時点で私は六歳で、十二歳の時にジョージ・ハリスンの企画でバングラデッシュ救済コンサートが開催された(師匠ラヴィ・シャンカールの地元であるバングラデッシュがインドから独立する印パ紛争等の煽りでの難民救済の為だった。ジョージがチャリティコンサートの第一号だった)が、其処に招かれたディランはMr.Tambourineman等の曲を唄った。件の曲ではバックでリンゴ・スターがタンバリンを叩いている。まさに歌詞のタンバリンマンになりきって。この時私が彼の歌詞を全て理解していたなら、私は英語の詩も書いて世界的に出版されて有名な詩人になっていたかも知れない。しかし有名になるとか成功するという事は詩のクリエイティヴなスピリットからすればどうでもいい事だ。少なくともディランの歌詞自体がそれを教えてくれる。

 ややもすると思想的メッセージとして受け取られがちなディランの詩世界は、しかしもっと素直なポエジーと歌の精神に貫かれていた筈だ(それは彼の自伝でも示されている)。だが重要な事には、彼自身が殆ど無意識に行ってきた作詞の創造自体が結果的に歌詞となって歌われる時作用する事の方が彼自らの気持ちがそれを作る時どうだったかより重要という事だ。

それは何もディランの歌に対してだけではなく、全ての歌と詩に言える事だ。

詩と歌を隔てるものは臨場的状況を設定されている事と、文字を読むという事(前者は時間が同じだが、後者はずれている)という時間差の問題だけである。

 つまり詩は書かれた時、歌詞は他の人達に拠って歌われた時既に作者の所有から解き放たれているのだ。その作者から離れて全ての人達に共有されるという事実以上に詩を書く事の意味はないし、詩を発表する事の意味は恐らく無い。

 詩人は恐らく我々が自分自身の心臓の鼓動を把握する様に詩の言葉を紡ぎ出すが、それがどういう脳神経の回路から心となって伝わってくるかとか、どういう記憶回路である言葉が浮かぶか迄客観的に理解してはいないだろう。だからこそ詩を言葉にする事が出来るのだ。だが作られた詩を理解する我々は感じ取る事での素晴らしさを生み出しているものは何なのだろうと問い掛ける自由もある。其処で色々な詩を分析したりするのだ。日本の詩歌、つまり和歌、短歌、俳諧、俳句でもそうだし、現代詩でもそうである。

 詩で描かれた世界に没入して、其処から自由に想像の翼を広げる(まさに<花子とアン>で示されていた様に)事こそが詩を読む楽しさである。だから詩を読む楽しさがあるから詩人は詩を書く。それは歌を歌う楽しさがあるから作詞する人が居て、それを唄う人(二つがディランやビートルズの様に同じ人の場合もある)が居る。

 それはある部分共同注意を臨場的には誘うものであるし、読書や動画やCDDVDで鑑賞する場合にももしこれを皆と共有し得て鑑賞するのであれば、という臨場を想定して想像して鑑賞するものではないだろうか?

 表現上の時間差の問題は直にパフォーミングする事と、その記録を鑑賞する様に仕向ける事(本やブログ記事はこちらであるが)という一つの戦略の問題であり、その戦略を選ぶ事はそれ程思想的な何かがあっても無くてもいいものである。

 唯何かが詩人に詩を書く事を促していて、その正体を突き止める事が詩人の仕事ではなく、只書いていけばいい、それは画家がどうして自分で描こうとする風景とか花とか人物とか抽象的イメージが必要なのかを問う事でなく、それを平面に定着させる事であるのと同じである。

 勿論詩人だって詩人の作品の研究家がしている様に詩の言葉が何故生み出されるのかそれ自体を研究したっていい。まさにそれをも私は含めて詩作と考えている。尤も自分で詩を書く時には何故という問いは後回しにして、出来上った後にそういう事を考えるという時間差がある事が、詩人が詩を生み出す言葉の正体へ関心を持ち研究する事である。

 詩人は詩を書く事は誰しもが今日一日の体調を心臓の鼓動の自覚と共に為す事、それは誰しもがしている事であるが、その事を形にしようとする、つまり誰しもが持っている詩とか歌の心を具体的な別の形にしておきたいと願う事が詩人の心であり、それは特別な事でなく、誰しもが詩とは別の形で(生産に関わる仕事かも知れないし、ビジネスであるかも知れないし、警備や運転からも知れないが)している事をたまたま言葉とかでする事なのだ、と思えばいいのではないだろうか?

 だがそのたまたまとは一体どういう事なのか、という事も実は又興味をそそられ研究したくなる処の事だが、それを詩に出来ないかなと何時も私は考えているのである。

参考youtube Like a Rolling Stone

https://www.youtube.com/watch?v=OTIMtxZ7qrs

https://www.youtube.com/watch?v=RHOdoJDgtrk

https://www.youtube.com/watch?v=isFYn9cBAmo 

 真ん中くらいから後にディランが登場する。此処での彼の歌い方なんてもう年老いて旅だけに費やされた人生を語る琵琶法師に近いぜ。このクリップを最初に見た人は彼のファンにはなれないかも知れない。でも恐らくこういう歌い方しかしない所に彼の凄さはあるのだ。そう詩とは志と言うが、生き方自体がブルースでジャズでゴスペルって事な訳だから。僕のディランへの旅で又僕自身の詩が書けるだろう。

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11月20日のTwitterとFB.「いいね!」☆ 時事、政治芸能今昔、映画・お笑い今昔、高倉健追想他

◇エアバッグ部品製作会社、タカタは今回の死亡事故クレームで倒産へ追い込まれる可能性があるな FAVORITED IN TWITTER

youtubeで話題騒然となっているロシアの閃光、意外と北朝鮮の空中核実験だったりして RETWEETED IN TWITTER

◇天才を既に世界や人類全体が求めない時代に突入してかなり経つ。これからは飽くなき密やかな情熱と持久力、持続力だけが勝負である様な時代に益々なっていくだろう(事実LED開発自体も途方もない時間と労力が接ぎ込まれた)。地道な努力だけが求められるも成果が出なければ元も子もない時代だ。

◇昔の様なほのぼのした時代だったからこそ大スターや偉大な政治家を大衆が欲したが、現代では大衆とエリートの差が限りなく希薄となっている。従って昔の様な銀幕スターも強烈にカリスマ性ある政治家も二度と出ない。見た目は全てが小粒な存在だけが犇めき合う時代がかなり長期続くに違いない。

◇政治家は昔(吉田茂、佐藤栄作にせよ)長期に政権を維持し得たし、そうする必要もあった。が日本社会はその後高度に複雑化した。一人の総理のカリスマ性で全てが切り盛り出来る単純な時代でない(その意味で小泉純一郎は最後の長期政権総理だった)。現政権も長期としても人気はどんどん下がるだろう。

◇山田洋次監督の<男はつらいよ>シリーズ、フーテンの寅さん的映画を今地上波で放映してもちっとも面白いと思わないだろう。映画はかなり批評性のある映画(ウェルズ、ゴダール、キューブリック、フィンチャー等)以外は時間と共に(特に普通の娯楽映画は)廃れていくものだし、それでいいのだ。

80年代にはお笑いブームが二度程あり、さんま、タモリ、たけし等を輩出した。が今youtube等で彼等の芸を見てももう笑えない。今の笑いの方がずっと高度なのだ。恐らくダウンタウンや数年前の波田陽区の芸等さえ今観たらシラケるだけだろう。それ位にお笑い自体が高度に進化してきているのだ。

◇確かに梅宮辰夫の言う様に今高倉健の様な大スターは居ない。だが時代は全ての人達が容易に発信出来、あらゆるクリエイティヴ表現が可能な時代に今あるので、必然的にその中で一人だけ目立つという事は困難だ。だが亡くなった人達には失礼かも知れぬが、今の若い人達の才能の方が全体的に昔より上だ。2FAVORITED IN TWITTER

◇小説家や画家等はかつてする人達が少なかった。だが高度成長期が収束しバブル期になって一気にそういった自由業を目指す人達が増えた。俳優でも文化人でもそういった職に就く事が会社員と違って少なかった時代と違って今は雨後の筍の如く多い。必然的に今の方がそういった職の競争は激しい。

◇高倉健が名優になったのは独立後であり、それ以前はかなり今観たらそれ程ではない駄作にも沢山出ている。と言うよりどんな駄作でも映画でさえあればかつては有名役者が出ているだけで稼げたのだ。だが現在は違う。映画でかなりいい演出を監督がしなければ稼げぬし、役者も競争が熾烈だ。FAVORITED IN TWITTER

◇一昨年亡くなった山田五十鈴、今年亡くなった山口淑子等の世代にとり映画は唯一の娯楽だったので当然かなり本数的には多くの映画に出た。高倉健もだし、存命の小林旭、特に宍戸錠等は出演本数が異様に多い。現代では映画産業自体がゲームソフト等に比べればマイナーなので役者は本数を稼げない。

☆ある種の不器用さという意味で高倉健と同質の現役俳優は阿部寛辺りだろうか。演技派という意味では緒形拳、原田芳雄、夏八木勲、米倉斉加年等ここ数年の間に亡くなった俳優達の方が上だったかも知れぬが、存在感では圧倒する。その点では存在感と演技力双方備わっていた三國連太郎も得難い存在だった。FAVORITED IN TWITTER

◇高倉健は若い頃多くのシリーズものに出演し脇役もなかりこなした(佐々木小次郎役も数回演じる)。寧ろ東映から独立し<君よ憤怒の河を渉れ>出演以降、作品を選ぶ様になってからヤクザものも含めて年を経る毎に名優になっていった。若い頃はそれ程の渋味は無かったが、次第に凄みのある演技をした。FAVORITED IN TWITTER

◇高倉健主演<冬の華>(78)(降旗康雄監督)、<四十七人の刺客>(94)(市川崑)も<鉄道員(ポッポや)>同様忘れられない。三田佳子の発言「健さんは映画スター高倉健を演じていたのではないか」は言い得て妙だ。健さんは確かに人生を観られる役者に徹した。その意味では不世出役者だった。FAVORITED IN TWITTER

☆高倉健主演映画では宇津井健(今年亡くなった)や千葉真一、山本圭等が印象的だった<新幹線大爆破>とビートたけしが鬼気迫る演技で共演し、健さんが暴れるたけしを止めると、かつてヤクザであった徴としてもみ合いの末腕の刺青が露出しぞくっとさせられる場面が印象的な<夜叉>も懐かしい。FAVORITED IN TWITTER

<君よ憤怒の河を渉れ>は中国で初上映された日本映画(佐藤純彌監督)で高倉健氏の死去が大きく中国で報じられた。中野良子、原田芳雄が助演で原田氏が亡くなった時も報じられた。故西村晃(悪役)や田中邦衛、故池辺良、故大滝秀治等以外にも下川辰平、岡田英次、内藤武敏等物故俳優が大勢出ている。FAVORITED IN TWITTER

今年は大勢の役者も亡くなった(林隆三、蟹江敬三、米倉斉加年)が、高倉健氏は役柄自体を生涯でも演じ切った生き方だったので感慨一入の人も多いのだろう。尤もそういう映画的人生に夢を見るのは昭和で終わっていたと言える。今の方がずっと娯楽も多様化し、皆と同じ趣味でない事が恥で無くなった。FAVORITED IN TWITTER

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2014年11月20日 (木)

ボブ・ディランの歌詞を読み解くPart2 <ミスター・タンブリンマン>

 ディランのアルバムワークはデビュー作である<ボブ・ディラン>(カヴァー主体)、<フリー・ホイーリン>(オリジナル主体最初のアルバム)、<時代は変わる(タイムズ・ゼイ・アー・ア・チェンジング)>、<アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン>迄を初期とするなら、この時期はギターと弾き語りを主体としたシンプルな楽曲提供であり、続く<ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム>、<ハイウェー61リヴィジッティッド>、<ブロンド・オン・ブロンド>迄を歴史的メッセージ絶頂期とするなら初めてエレキギターやその他多くの楽器を使用してバンドスタイルで活動していた時期と言える。この時期は多分に英国のビートルズと並走していた時期とも言える。今回の詩の解析は主にこの時期に焦点を当てる。

因みにこの時期以降ディランは<ジョン・ウェズリー・ハーディング>、<ナッシュヴィル・スカイライン>、<セルフ・ポートレイト>、<新しい朝(ニュー・モーニング)>、<(パット・ギャレット・アンド・)ビリー・ザ・キッド>、<プラネット・ウェイヴ>、<血の轍(ブラッド・オン・トラックス)>、<地下室(ザ・ベースメント・テープス)>(ザ・バンドとの完全共演)、<欲望(デザイア)>、<ストリート・リーガル>迄の時期かなり音楽娯楽完成期を迎え、カントリー&ウェスタン調のものも混入され、その後更に<スロー・トレイン・カミング>、<セイヴド>、<ショット・オブ・ラヴ>(この三作はゴスペル追求)、その後代表作だけ挙げれば<インフィデル>、<オー・マーシー>、<タイム・アウト・オブ・マインド>、<ラヴ・アンド・セフト>、<モダン・タイムズ>、<テンペスト>等円熟期を迎えている。

さて今回は<ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム>の中の<ミスター・タンブリンマンMr. Tambourine Man>の歌詞解析をしよう。

まず歌詞を翻訳で見て貰おう。

 

 

ようタンバリン男さんよ、僕の為に歌を歌ってくれや、僕は眠くなんてないんだし何処に行く予定もない ようタンバリン男さんよ、僕の為に歌を歌ってくれや、電話地獄の朝に、僕は君について行くよ

 

今宵の帝国は僕の手から消えて砂に戻ると知っていながら

立った侭眠りはしないでずっと居る為に此処に盲目に連れてきてくれ

僕は疲労でどうしようもなくて、まるで自分の足元にへたり込んでしまいそうだよ

又祖先の空っぽな道は夢見心地に居るには何と死に絶えちまっているぜ

 

ようタンバリン男さんよ、僕の為に歌を歌ってくれや、僕は眠くなんてないんだし何処にも行く予定もない ようタンバリン男さんよ、僕の為に歌を歌ってくれや、電話地獄の朝に、僕は君について行くよ

 

君のマジックの様に旋回する船の旅に僕を連れて行ってくれよ

僕の感覚は剥ぎ取られ、僕の手は握る力を失う

僕の爪先は足を踏み出せないくらいに痺れる

ちょっと待ってくれよ、僕の靴の踵がぶらついているぜ

僕は此処から消えて僕自身のパレードに引き込まれ何処にでも行く気だぜ

だから僕の道にダンスする呪いをかけてくれよ、僕はその通りにやるからさ

 

ようタンバリン男さんよ、僕の為に歌を歌ってくれや、僕は眠くなんてないんだし何処にも行く予定もない ようタンバリン男さんよ、僕の為に歌を歌ってくれや、電話地獄の朝に、僕は君について行くよ

 

君が太陽を横切って笑い、くるくる回って、旋回するだろうと分かっていながら、それは誰に対してでもない、それは只逃げ回っているだけなんだ

そして只空に向かって接しているフェンスなんてない、そして君は只詩の韻のリールを素っ飛ばすぼんやりと残る残響音を聴いている 君のタンブリンに合せて、まるで襤褸を纏った道化師の様に後ろに居る

でも僕はちっとも気にしてなんていない

それは君が出会う詩の韻が追い駆けてくる影なだけなんだから

 

ようタンバリン男さんよ、僕の為に歌を歌ってくれや、僕は眠くなんてないんだし何処にも行く予定もない ようタンバリン男さんよ、僕の為に歌を歌ってくれや、電話地獄の朝に、僕は君について行くよ

 

だから僕の心の煙った輪っかから僕を消し去らせてくれよ

霧の立ち込めた時間の廃墟からも、そして昔の凍った葉っぱからも遥か遠くへ取りつかれた様に恐れ戦いている木々からも、そして風の強い海浜からも

又とんでもなく捻り込んだ悲しみの広がりからも

そうだ、自由を振り翳す手でダイアモンドの空の下で踊る為に

海に映し込まれた、サーカスの砂の輪っか、そして全ての記憶と海の波の下に深く沈み込み動かされる運命からもさ

明日になる迄今日である事を忘れさせてくれよ

 

ようタンバリン男さんよ、僕の為に歌を歌ってくれや、僕は眠くなんてないんだし何処にも行く予定もない ようタンバリン男さんよ、僕の為に歌を歌ってくれや、電話地獄の朝に、僕は君について行くよ

 

 この歌で重要なのは歌を歌ってくれと切願する自分は空虚な毎日を都市で送っているという事だ。そして自分にとって印象的なタンブリンを叩く男の歌、つまりバンドでは縁の下の力持ちであるタンバリン叩きへ歌を要請しているという部分に底辺的な人の心を示した部分である。

 四度目のサビの部分で自由を振り翳す手でダイアモンドの空の下で踊るという下りがあるが、これは自由主義や資本主義自体をアイロニカルに表現したとも言えるし、その空の下で一切の柵(心の蟠り)から逃れる様に自分を導いてくれとタンブリンマンに切願する赴きは、それだけ空虚さに満たされ、自己願望の一切を実現させられない男の心境となっている。その部分ではバラードであるが、この歌曲はプロテストソング的要素も強い。

 尚このダイアモンドの空(diamond sky)はビートルズの<サージェントペパーズ・ロンリーハーツクラブバンド>の中のジョン・レノンの名作Lucy in the Sky with Diamondsの歌詞のヒントになっている可能性は濃厚だ。「1966のある日、ジョン・レノンの息子ジュリアン・レノンは保育園から帰ると、ルーシーという名のクラスメートについてジョンに話した。ジュリアンは、ジョンに絵を見せながら「ルーシーがダイヤモンドを持って空にいるんだ」と説明した。」とwikipediaでは示されているし、それは事実だが、ジョンはディランの歌詞の記憶がジュリアンとの会話と結びついてあの曲の歌詞のタイトルになったのではないだろうか?

 ディランの歌曲では自由主義や資本主義自体をアイロニカルに示そうという意図がある。それがjingle jangle(電話地獄、オフィス空間の揶揄)等の語彙だし、ダイアモンドの空という表現も虚飾の自由への謳歌という意味合いがある。アルバム<ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム>は初めてエレキサウンドを取り入れたという部分では明らかにビートルズから影響を受けているが、多くの歌詞のアイロニーは明らかにビートルズへ影響を与えている。ビートルズが哲学的な歌曲を書く様になったのはディランに会う少し前からであるが、64828日にコンサート会場に近いホテルでディランの訪問を受けた。その後で彼等は傑作<ラバー・ソウル>を発表するが、このアルバムからビートルズは只のロックンロールバンドではない哲学的歌詞を書くバンドへとイメージを世界的に変えた。その一つ前のアルバム<ヘルプ>で既にポールの<イエスタデイ>やジョンの<涙の乗車券><悲しみをぶっ飛ばせ>等の意味深な歌詞内容の歌曲を送っている。それ等全てがディランと会った後だという事も全くの偶然ではない。ビートルズとディランは相互に尊敬し合い、影響を相互に与え続けていくのだ。ビートルズの側で最大限に文明批評性が発揮されるのは<ラバー・ソウル>の後の<リヴォルヴァー>と<サージェント~>であるが、その後のアルバムでもこの哲学性、瞑想的な思想宗教性は益々磨きがかかってくる。

 ディランのビートルズからの影響は<ミスター・タンブリンマン>の入っているアルバム<ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム>の後の<ハイウェー61リヴィジッティッド>(追憶のハイウェー)、そして更に次の二枚組のアルバム<ブロンド・オン・ブロンド>でもエレキサウンドという意味では強くなっているが、ディランはコンサートでエレキサウンドを使用した事でカルト的な初期ディランファンから帰れコールを貰う事になったが、ディランの真骨頂はビートルズと出会った後に在ったのだ、と寧ろ今では定説となっている。

 次回はやはり同じ<ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム>の中から別の曲を解析する。

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11月19日のTwitterとFB. 「いいね!」☆ 世界の残酷な真理他

○表現と思想や信条はずれる。と言うより別物だ。表現は過激である方が面白い。だが過激な表現をする者が思想的信条的に過激であるとは限らない。表現的に凡庸な人が過激な思想信条である場合もある。両方とも過激な場合も極めて稀だがある。思想信条も表現も共に凡庸なものが一番数は多い。

○メディアで著名な論客や批評家等は全員顔や表情でも売っている。純粋に論理や思想だけから人を判断するなら古典に限る。歴史に残る思想哲学と今受けているものの性質は違う。メディアで受ける事と思想哲学や批評が優れている事は乖離している。歴史に残る思想哲学はエンタメ的でなく面白くはない。

○エルヴィスがブサメンだったらビートルズも憧れなかったろう。ディランの若い頃はイケメンだが歌い方は正しいだけの歌い方でなかった。マイケルは黒人として整っていたが、何度も整形を繰り返し、違った印象になっていった。彼は自分で自分を神格化させようとした。エルヴィスとは異質の晩年だった。

○余り決まりきった美や正しさは気持ち悪さを催す部分がある。それは要するに大衆的とか庶民的とかでない。凄さは決まりきった事でなさであり、美的に整ったものでなくアンバランス的なものへの憩いだし安心なのだ。凄く正しく巧い演奏家や歌手が凄くイケメンや美人ならある部分興ざめする。

○ブスやブサメンが必死に努力する姿は滑稽で、それで彼等彼女等自身が充実しているなら微笑ましいが、それで不幸だと気の毒に見えるとしたら、そう観る者が自己愛的に自己をブスでないと彼等彼女等と一線を引いている証拠だ。結局滑稽さは優越感であり、哀感は相手へのエゴ的な差別で作られている。

○面白味のあるものは滑稽で正しさから外れ、糞面白く無さは正しく退屈だ。正義や理性に人は寛がない。人は醜く逸脱する変形にしか寛がない。訓練、鍛錬、忍耐は全て楽しくない。楽しさは全て堕落的である。芸と言うものは全て逸脱的であり非常識であり、まともでなさだ。まともとは退屈以外でない。

○面白さは残酷さと皮一枚で背中合わせだ。夢は歪で正義的でない。面白くなさは正しさであり当たり前さであり正義であり客観であり、それしか認めない事で、それは残酷だ。常識程残酷なものはない。何故ならそれは逸脱を許さぬからだ。哲学者が退屈で残酷なのは事実だけからしか全てを判断しないからだ。

○美は決まりで客観だ。対し醜は親しみやすさで決まりからの逸脱だ。正しさは退屈であり、少し正しくなさこそ魅力である。枠にきちんと嵌ったものに人は感動しない。愛着的感動は不幸を生きる人への憐れみとも確かに違う。不幸なのに気丈である事の感動は生きていく上での愛着的肯定とは違う。

○美が退屈で醜が飽きないとすれば、エロスは必ず醜への愛着だとさえ言える。どんな美人でもイケメンでも顔にも表情にも欠点がある。それを見出し人は安心し、其処を愛する。親しみが持てるとは相手の欠点に対してであり完璧さにではない。つまり愛着も愛情もエゴイスティックな醜さで成立するのだ。

○人の後ろ姿は多分に記号的だ。それだけ我々は正面から見て顔や表情が確認出来る事で相手への認知という意味で安心する。全ての都市空間で出会う他者、擦れ違う他者が後ろ姿であるなら、これ程不気味なものはない。相手の顔に見えなさは蓄積されれば恐怖を齎す。人の認知=顔と表情は事実である。

○圧倒的に自分の美観からして美形でない人の方が自分を安心させる。対し美形だと思う相手は同性異性に関わらず緊張させる。美人は三日見たら飽きるとはよく言ったものだ。だが安心させる相手が凄く自分にとっては気にする事を平気で言い、自分から見て美形な人程そういう事は言わないものだとは言える。

☆芸能では美人女優は冬の時代だ。男のイケメン役者は受けるが、イケメンはあくまでイケメンでない個性的キャラクターに支えられている。又何が美形かは人が決めるし、人それぞれ美形とブスやブサメンの定義が違う。全ての嗜好ニーズに照応されるタイプがそれぞれ登場していると言える。

○役者の世界では圧倒的に女優等はブスと言っていい人達の方が主役に抜擢されている。つまり何処にでも居そうで理想としての敷居の高くないキャラクターの方が親しみやすくていいという視聴者の感性に従ってキャスティングされているのだ。イケメンでも親しみやすくないと受けないと言える。

○何が正しく何が尊く何がそうでないかを誰も決めつけられない。只それが何かだと断言しようとする全てを拒否したいだけだ。正義も倫理も本質的に人生を生きていく上では曖昧で空しい。最終的には心の充足だけだとも言えるが、その心自体は人と比べられない。全ての判断が主観でしかないと言える。

○人生は長さも質も何もかも人それぞれだ。早く死ななければいけない運命の人生もある。だが死ぬ時自分なりに精一杯生きてきたかそうでないかの違いはあるかも知れない。死ぬ時になってみなければ分からない事を知る為に人は生まれてくるのかも知れない。人の生涯は空に見える一片の雲に似ている。

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時間と空間Part109 永遠という観念と実在

 空間では様々な自然や社会の(と言っても社会とは人類の住む地球くらいで、少なくとも太陽系には地球の様な社会は他にない)動き、蠢き全てを包摂している。要するに全ての変化を見守っている。だから空間自体は一切変化しないという事であり、空間という語はその別語である。

 重要な事には時間とはその空間とは違う意味合いで我々が使っているのだ。或いは時間等無いのかも知れない。と言うのは空間という一切変化のない場自体と自然(社会も含め)の全変化だけが全てだとも言えるからだ。だから時間はフッサールが言った様に内的時間意識の別語かも知れない。

 だから一切事物や存在が変化しないとしよう(マネキンは人間の様に動かないが、少しずつ酸化し物質的に摩耗している。それは空気、つまり酸素や二酸化炭素等があるからだ。しかし今それ等一切の素粒子を含めた全物質が一切変化しない侭止まってしまっているとしよう)。そういう事はあり得ないかも知れないが、要するにそういう風に仮定された状態こそ永遠の停止と言っていいかも知れない。そういう永遠の停止自体を時刻と我々は想念している。時刻には幅がない。それは線や点に近い(線も点もリアル世界では指示し得ない)。

 永遠とは永遠の停止という形で考えられている。だから死者とは今はもう物質的に存在しない(かつて存在した存在者)という形で過去自体が一切変えられないので、彼等の全生涯がもう済んでしまった事実であるに過ぎず、そういった意味では過去自体を自己で想起する事自体が無いという意味で、変化しなさ、という意味では永遠である。死者は永遠に蘇らない。永遠に全的に過去なのだ。

 従って空間とは何時も、どんなに激しい自然現象の変化があろうと只それを見守っているという意味で一切の物質的変化のない空間の幅とか広さとか奥行とかのスケール的な基準だけで存在し、変化するものは全て物質であり、物質の変化を見守る我々に拠る変化の推移自体を我々は幅的に捉える時に時間と、その幅を呼ぶだけだ。すると時間自体も実は場(空間)での様相変化を推移として見守るだけで、それは実質的には一切それ(時間)自体が変化する訳ではないので、空間と全く変わりないという事になる。

 永遠という観念は実在が自然現象として絶えず変化するという事自体を完全に事実化させ、動いている事自体が過去となった時「動いていた」という事実となり、その事実はどんなにその後で何が起きようが変化する事はない、つまりある失敗は後で名誉挽回をして人生的には仕返しが出来たとしても失敗した過去事実自体は変える事が絶対に出来ない。だからこそ小さな失敗は自分も周囲の他人も忘れていくべきだと我々はするのだ。

 つまり時間が変化するのでもないし、時間が変化させるのでもなく、あくまで物質間の相互影響こそが事物や自然現象自体を変化させるに過ぎない。そういった意味では多分に時間という観念は我々自身に拠る過去への想起、記憶自体が過去から現在へと繋がるという認識に於いて今着々と幅を持って感じられ、今迄も今に繋がる様な形で着々と幅があった、という風に記憶自体が作ってきた観念である、と言い得る。だが少なくとも実在とは、常に移ろいゆくものであり、変化し続けるものとして我々は捉えている。一枚の写真の様に一切動かない(この場合写真という物質<例えば紙>が摩耗していくという事を無視して、ウェブサイトでのデジタル画像として捉えて)ものの様に実在を捉えても、それは実在像であるに過ぎず、実在それ自体は変化し続ける事を必ず要素として含有する。

 だから永遠とは我々にとってウェブサイト上でのデジタル画像とか、動画でも一度撮影されて映像化されてしまえば、摩耗する事なくウェブ上で確認出来る、という一切の変化しなさ(一個のPCは物質であるから何時か壊れるし摩耗するが、画像や動画は何度も繰り返し我々に拠って観られるなら実質上何時も<同じ様に>検索出来る)それ自体の事を我々は語彙的に指示している。

 と言う事は、像自体は変化しないという意味で永遠と言うのなら、永遠とは記憶が齎した概念だと言える。観念だと言える。

 しかし人間主体は一つの過去事実自体は一切変えられないが、その変わらなさそれ自体への観想は少しずつ変わる。数年前の失敗は事実としては変わらないが、事実自体への向き合い方はどんなに恥ずかしい失敗であっても徐々に癒える。だから我々自身は永遠ではないからこそ(何時か死ぬからこそ)今は過去から少しずつ遠ざかっていき、未来が着々と押し寄せる感じの中に居るのだ。死ねばそういう推移自体が消滅するのだ。そして全てが永遠に密閉された事実だけの空間となる。

 生きているという事とは永遠ではないからこそ、今まさに推移を感じる事が出来、恣意的に過去を事実化させたり、今の事の様に思い出させたりするのだ。それは我々自身が実在だからである。

 従って死者は実在ではない、只の永遠に変わらない過去事実なのだ。そしてそういった生者と死者との質的な大いなる差異の中で我々は実在と永遠をやはり大いなる差異、つまり全く正反対の観念、概念、想念として捉えているのである。

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11月19日のTwitterとFB.「いいね!」☆ 出会いの偶然、文化未来展望とサマー・オブ・ラヴ以降の音楽史と現代テクノロジーとかつてとの違い、映画スターシステムの終焉他

 

 

○好きな異性や親しい友人と同じで好きな音楽も偶然聴いて惹かれるので又聴きたくなるだけで、タイプで好きになる訳でない。同じタイプの曲でも、同じタイプの小説やエッセイでもあるものは好きになれ、別のあるものはそれ程でない。つまりタイプで好き嫌いや出会いがあるのではないのだ。

 

○人と好きなタイプとはと異性に就いて語っても、出会い好きになるという事実の前ではタイプ等全く作用していない。好きになって愛し合ってしまう相手が好きになるだけで、タイプとかで相手を判断するのではない。出会いは全て事実として一緒に何かを共にするという形で突然訪れる。

 

<ビートルズ 二0世紀文化としてのロック>(和久井光司著、講談社選書メチエ.2000年発刊)を読了。かなりビートルズと同時代の周囲の音楽状況や分析が秀逸で、資料的価値もあるし、何より20世紀ポピュラー音楽の批評、歴史書としても読める。この本から14年経つが、今更音楽の変化に驚かされる。

 

○ギンズバーグもディランもゴダールもキューブリックもスピルバーグもアレンもユダヤ人だが、ゴダールはグランジロック以降世代が思想や批評と並行し音楽メッセージ送信するという意識を映画で既に50年代に行った。ディランが歌でした事をゴダールはもっと早く映画で行っていたのだ。彼等に注目すべき時代だ。

 

○ロックがポップスやワールドミュージックを含有させるムーヴメントになった時代サマー・オブ・ラヴ世代と批評や思想、哲学と並行して音楽があるべきだとする世代(グランジロック世代以降)では明確に分離する。今後は民俗性、地域性等も加味した各種ジャンルの邂逅、混淆、協働が顕著になるだろう。2Favorited in Twitter

 

○エルヴィスもビートルズもディランもマイケルのABBAも、ある種一つの大きな円を描いた人達で、既に一度その円は閉じている。U2、ボノボ、ニルヴァナ等はその円からは外れている。ポップスのエンタメ的マーケット至上主義へ懐疑的という意味ではティモシー・リアリー思想的メッセンジャー達だ。

 

○ビートルズは破格の人気スターだったが、エルヴィスと違い自らがクリエイトするエンジニア的感性の総合芸術家だった。ディランはアンチスターだった。カルト的ファンだけを相手にするタイプだった。マイケルはエンターテナーとして彼だけのものを提示した。エルヴィスだけが昔ながらのスターだった。

 

○ミュージシャン、次いでデザイン系の人達が現代機器、端末利用の達人になりやすいと言える。常に楽器やメカと対峙する音楽関係者は現代のディヴァイスやツールに順応出来るが、昔ながらの職人仕事の人達はそれも凄く得意な人とそうでない人とには分かれるだろう。個人的なスキル上達の才能もあるが。Favorited in Twitter

 

○表現娯楽は仕事でウェブサイトとリンクする端末を日常的に利用する人達と、そういった利用をせずに生活している人達とでかなり現代では面白さの意味が変わってくると言える。とは言え今は端末利用しない人は殆ど居ない。すると若い頃一切そういったものの無かった世代とそうでない世代が分離する。Favorited in Twitter

 

○私はゲームソフトが話題となる時代に青春期を迎えた人間でないが、既に昔の映画に夢を見る事自体にすっかりリアリティがない。一度徹底的に虚無的に白けた表現を通過した後の感性システム化された表現や人間心理がメカニズム的に示される記号的表現の方に故郷を感じる。古い映画に郷愁を持てない。

 

☆昔が良かったと高倉健の死を巡り今はスターが居ないと言ったりしたかつての人気俳優も居たが、そういう風に昔こそが理想と言いながら生きていく事は死者として生きる事に近い。結局古が理想という観念は年齢や性別で得るものでなく個人性だ。そういう言説をメディアで平気で言う無神経極まれり。Favorited in Twitter

 

○特定の映画スターや歌手だけが浮世の娯楽でお上に代弁し彼等に夢の全てを託すという事がない現代社会はそれだけ精神的に豊かになって、選択肢も多くなった事を意味する。映画は益々かつてのスターシステムでは作られず次から次へと様々なタイプの人が演じ監督の代謝も激しくなる(いい事である)。Favorited in Twitter

 

○高倉健が映画で演じる男はこの世には決して居ないヒーローだった。現実には彼は家庭的な人生でなく孤独だった。そもそも映画で現実社会では決して居ない偶像を演じる姿のスターに夢見て映画鑑賞するという通念自体が既に現代映画にない。中年以降の現代人は偶像に願望を仮託する事自体が無い。Favorited in Twitter

 

○現在は音楽、ファッション、アート、映画等メディアを通して観る事の可能な全てが各ジャンルの細分化とそれら個々の先鋭的な進化が優先され、総合化や共時的ウェイヴを作る構造で世界は動いていない。無数の小さなクラスターが犇めき合い、時々衝突もして離合集散を繰り返す状況が今後も続くだろう。

 

○ロック&ポップスの世界的ウェイヴを支えたものはレコーディングや配信を巡るテクノロジーの進化とその予感だった。だがDVD、ウェブサイト、各種端末進化に拠り世界は一つのウェイヴで共時的に全人類が注目する時代を終焉させた。ウェイヴとして纏まらず小さなクラスターが林立する時代に入った。

 

○エルヴィスに始まりマイケルで終える一つの大団円を象徴するものとしてWe are the worldプロジェクトがあった。マイケルやライオネル・リッチー以外、ディランやビリー・ジョエル等多彩なメンバーが集結した。ロック&ポップスがサマー・オブ・ラヴ以降ウェイヴ足り得る最後の企画だった。

 

○ゴスペルとブルースとジャズが融合したリズム&ブルースにポップスを取り入れソウルが誕生し、ディスコが黒人と白人との競合で進化しダンスユニットが大勢輩出した。マイケル・ジャクソンはロック&ポップスのウェイヴが最終的には(エンタメ的)個人芸へ収束し落着すると予感させる仕事をした。

 

○サマー・オブ・ラヴは英米を中心としてロック&ポップスの一大ムーヴメントだったが、才能的にはディランの歌詞とそれに触発されたジョンやジョージと音楽発信構造をアートと捉えたポール等ビートルズの面々が後世へ大きなヒントを与えた。エルヴィスや先輩のした業績を彼等が総合化させた。

 20世紀は産業革命以降のテクノロジーの進化と戦争とその後処理とを繰り返した世紀だった。文化的にはロック&ポップスが他ジャンルを巻き込み世界的ウェイヴとして作用した。だがこれからの文化は、例えば音楽でもジャンル毎の細分化が更に進化し、総合的なウェイヴはかなり長期に渡って不在だろう。

 

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2014年11月19日 (水)

11月17.18日のTwitterとFB.「いいね!」☆ 高倉健悲報、今の映画界、雑記、日本歌謡とラテン、トレンド

○美空ひばり、渥美清、島倉千代子といった既に亡くなった大勢のスターや名優達の存在は思い出す度に昭和を思い出させる。そう遠くなく昭和を熟知する全ての人達が社会から居なくなる。過去の偉大な人は亡くなる事で大きく感じる。生きている人達の中にも今は気づかないが存在感のある人は大勢居る。4retweeted and 4favorited in Twitter

○亡くなった高倉健は映画主役に百%感情移入して鑑賞する銀幕スター最後の人だった気も。渡哲也、武田鉄矢、ビートたけしは健さん世代の尊崇世代だし、今も映画は脈々と継続するが、かつてのスターシステムの様な作り方自体をしないし、そういう昔風の映画に今の中年以降世代がリアリティを感じない。Retweeted and 2Favorited in Twitter

○高倉健は享年83歳だった。共演をした武田鉄矢、ビートたけし等はどの様な感慨を持つのだろう。私にとって印象的な彼の作品は<昭和残侠伝>シリーズ、<網走番外地>シリーズ、<八甲田山><幸福の黄色いハンカチ><遥かなる山の呼び声><ブラックレイン><ミスターベースボール>等々。2favorited and retweeted in Twitter

高倉健氏が亡くなった。合掌。10日だったそうだ。Favorited in Twitter

○有村架純の時代になりつつあるし、二十代前半役者逸材が犇めき合っているのはいい事だが、映画監督も松居大悟も含め二十代から三十代も競合しているのが活気を呈していいと思える。四十代はかなりいい線行ったいい監督が大勢居るが、五十代監督達もうかうかしていられない様相だと言える。Retweeted and 2favorited in Twitter

○広瀬香美にはエネルギーがある。(NHKスタパでピアノ演奏し歌った)<ロマンスの神様>も懐かしいし、全てに体当たりする様な女性(とその才能)が凄く好きだ。上原ひろみ、二階堂ふみも広瀬香美に通じる魅力の人達と思うが、香美と言えば僕がTwitter始めた頃弾丸的にツイートしていたっけ。Favorited in Twitter

○昨日下北沢の小劇場で先行上映された<ワンダフル・ワールド・エンド>を観た。松居大悟監督、大森靖子音楽、橋本愛、蒼波純主演、共演稲葉友。瑞々しい映像に大森の音楽と歌が効いている。蒼波の母を演じる町田マリーと共に撮影当時12歳の蒼波の演技が光る。松居監督とプロデューサーの挨拶有り。Favorited and retweeted in Twitter

18日、↓17

○日本歌謡やJ-popの感性は英米ロック&ポップスよりはずっとタンゴやフラメンコ等の哀歌的ラテンに近い。中島みゆき、松任谷由美等の大半のヒット曲がそうだ。ニューミュージックやJpopと呼ばれる様になっても日本歌謡の戦後史は継続している。そうでない日本のものは売れ行きはそれ程でない。2Favorited and retweeted in Twitter

○経済消費活動が、個々の個人の選択や自由意志である以前的に一つのトレンドとなってきたここ十年位ではないか。つまり個々の意志や嗜好自体がトレンドで作られてきたのだ。だが人間は自由経済社会維持の為のツールではない。人間がまず存在し、トレンドは二義的な事の筈だ。本末転倒的経済社会だ。

☆音楽シーンがファッションシーンの一部みたいにヴィジュアル映像の画像検索対象となっている事は寧ろ音楽家や歌手のメッセージよりウェブサイトビジネス経済流通を第一としている昨今の傾向と言える。表現者個性を積極的にメディア効果が消す志向が続いている。だが表現はビジネスではない。

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2014年11月18日 (火)

どうして今若者にゾンビが受けるのか?

 テレ東の深夜ドラマはゾンビが好きだ。<セーラーゾンビ>もだし、今放映中の<玉川区役所OF THE DEAD>でもゾンビが重要なアイテムとして登場する。前者の監督は二十代(しかし企画者は五十代)、後者の監督は四十代、しかしテレ東が踏んでいる対象視聴者層は恐らく若者(二十代前半)だろう。

 何故そうかと言うと若者にとって死とは忌み嫌う対象であり事実だからだ。

 哲学で言う処の哲学的ゾンビはこれとは全く関係ない。それは認識論的な心を持たないが、心を持った風な行為をする存在で、現象的である事自体が無いという存在であり、哲学命題論的仮説である。

 しかし劇映画やドラマで描かれるゾンビには固有のイメージがある。つい先日観た先行上映映画<ワンダフル・ワールド・エンド>(松居大悟監督)の中でも主要登場人物が後半ゾンビになって再登場するという仕掛けだった。

 既に述べた様に若者にとって死は遠い事である。しかし実際には若者は直ぐに老いて中年となり、老人となり死は身近になる。だから若者が死を汚らわしいものとして遠ざけたい気持ちは其の侭固有の化け物のイメージにしやすい。今よく描かれるゾンビは死んでも尚しぶとく成仏さえせず、生きている者の精神を脅かすものである。それは死んでしまえば二度と生き返らず、二度と死ぬ事もないという観念を誰しも持っている事の象徴として描かれる。だからゾンビはそもそも死んでいて心がないので、ロボット的にも描かれる。心が無いという部分では哲学的ゾンビも又昨今の劇映画やドラマのゾンビのイメージ作りに貢献している(若者には分析哲学で言う処のゾンビにも関心がある人が多い)。

 死は確かに二十代に特に哲学的に考えてしまう命題だし、それ以降もずっと関心事ではある。死というより死者と生きている我々との関係と言い換えてもいいし、死者が生きている人達へ齎す我々とは違うものでなければいけないという観念でもある。

 死を忌み嫌うという部分では日本の神道がまさにそうである。死を忌み嫌い、生から遠ざける意図から古墳は人々が容易に進入出来ない様にしてある。神社はあくまで生きている人達の為のものである。死者供養は仏教の役割だ。

 台湾には中国では既に文化大革命時に破壊された寺社も多く残り、かつての中国の宗教的在り方を彷彿させる。日本では神社に相当するものは向こうでは道教神仙思想の神社であり、大きな社は神宮と日本で言う様に向こうでも宮である。対し日本で言う一般の神社は向こうでは廟である。道教も又神道同様死者を忌み嫌う現世ご利益主義であり、死者供養は台湾でも仏教に委ねられている。

 日本の若者世代のゾンビ描写志向は幾分無意識に日本の神道の古代風習を準えているとも言えるし、若者固有の死を親しいものとしては見られないという事とも関係している。

 老人だって生への執着はあるし、死は恐ろしいかも知れないが、体力や持久力自体が減退してくると、死と眠りは何処かで同化していく。だから若いという事は疲れを知らないという事なので、その疲れを知らない生きている真っ最中的な感性が死を遠ざけたいという気分は老人や中年よりは切実にあるのだろう。又そういう気分を象徴する一つの記号として劇映画やドラマ、マンガ等でそういったゾンビを登場させるという事が表現上での一つのモードとなっているとも考えられる。

 ゾンビは心を持たないという分析哲学命題が劇映画やドラマや漫画では固有のかつてのフランケンシュタインの様なメークアップの姿となって体現される事は、現代の記号化されたウェブサイト社会では極めて自然な事である。

生きていくということは、それ自体凄く辛い事である。だから生きていく事に疲れた時、ふと死者と話しが出来ればいいなと誰しも思い、そうすると、しかし死者とはかつて生きていたというだけで、今は生きているのではないので、何か生きている人とは違った固有の姿形、雰囲気を携えていなければいけない。其処でロボット的歩き方、そしてフランケンシュタイン的な生きている人ではない化け物感、偽物感を持たせられている。死体一般の雰囲気を其処に加えている。そういう風に瞬時に生きている人達とは違うという感じを観ている人に持たせる必要があって、昨今固有の雰囲気でモード化されたゾンビが拵えられたという訳なのだろう。

これはアメリカの<バイオハザード>シリーズでも言える事である。と言うより日本のゾンビ自体がそれらのシリーズを好きで鑑賞している日本人向けに考案されているものなのだろう。メイク術の先進国アメリカでは日本人の優秀なアーティストも大勢進出している。つまりゾンビメイク自体が日米のアーティスティックなプロ業界の文化交流のツールでもあるのだろう。

ところでこの文章をCOMASHOT OF LOVEを聴きながら書いている。このCDはディランの同名タイトルのアルバムをアマゾンで購入しようと思って間違って購入したものだが、聴いてみるとかなりいい。そうである、このCOMAの様な音楽には映像動画的にはテレビドラマや映画で描かれるゾンビが人間と共存しているという描写は凄く合っていると言える。

この様な表現モードでなくても実は我々生きている者達は全員死者に見守られているのかも知れないのである。そしてそれを今の若者が昔の若者より敏感にそういった事を創造上でも察知して表現に盛り込んでいるのだろう。

27歳の大森靖子の<ワンダフル・ワールド・エンド>で使用されているテーマソングでも何度となく「人は何時か皆死ぬ」という様な歌詞がリフレインされる。死は身近なものだ、しかし死には未だ近くあって欲しくないという気分は何時の時代でも若者には共有されていて、それがたまたま昨今ではゾンビの形で示されているのだろう。

だったら我々アラフィフをさえ過ぎた世代にとって若い頃死とはどういう感じで忌避されるものだったのだろうか?ちょっと思い出せない。でもきっと当時我々が表現していた事に対して大人達はきっと貴方の表現の~という処が死を無意識に忌避している部分なのです、という印象を持ったかも知れない。そしてそれは自分が結構いい年齢になっていくと忘れていくものなのかも知れない。

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混沌でも完成でもないサイテーにしぶてエ何かだけを

ズマズマズマズマしゃぶりつく

ぬめぬめぬめぬめ絡み付く

鼻糞をほじることだけに情熱を傾け何時も鼻血を出しているオヤジ

嬉しい時に泣くのは日本人だけなの?

そんなことないっしょ。同じ日本人って思うから、それが目立って思えるんじゃない?

無意味なことに拘ろう。有意味って分かってることをまず無視してかかれ。

ぐぬぐぬぐぬぐぬ頬擦りし、ぶにゅぶにゅぶにゅぶにゅ撫でくり回す。

すったもんだの末断ち切られねえんだ。

花や草は花や草である演技をしているだけかも知れないって?そりゃ存在が存在の演技をしているだけであるかも知れないなら全てそうさ。演技でない行為なんてあるのかな?

脈絡のない意味の切れ端だけを所々繋げていきたい。

それが何か特定のポエジーになっちまう様なんじゃない。

もっと何か強烈に記憶にどかっと残る様なスゲーしぶてエ何かだけを求めて

シャバシャバシャバシャバ

精魂込めて作った料理を食ってくれるなよ。

だぼだぼだぼだぼ余った心の空間

発見しようって思うな。

存在が存在ぶるっきゃねエ。

作為や演技をも存在って言い包める俺達の悪意を存在は見抜いてるなんて言ったら、ちとシャーマニスティックだんべえ。

ぴこぴこぴこぴこ警告音が鳴る。

ずくずくずくずく催してきちまったぜ。

実際の雲の形が雲って文字や言葉の音に収まるなんてない。なのにそれ等は全部雲には違いない。寧ろあらゆる雲の形が只の雲って文字と「くも」という音に収まっちまった方がずっと楽でいいぜって言っちまいたい気分に満たされるってのが世界ってなもんだぜ。

るぷるぷるぷるぷ何も極めるな!唯食い散らかすだけでいい。世界は広いし、どうせ全てなんて初めっから知ることなんてできゃしない。

じくじくじくじくぶつぶつぶつぶつするれりすられりちょまきょらちょまきょら 

世界は個々で動いているから全て同じ時の船に乗っているのか?そんなこたあ知っちゃいねエか、それだけが真実だってか?

人それぞれでいいのか、そのそれぞれってことで一つのことなんじゃないのか?

何か胸や背中や色んな処がむず痒いぜ。存在の演技に唯飽き飽きしちまっただけなのかも知んねエよ。

耳の中をかっぼじって世界の音に耳を澄ませようぜ。

2014.2月初旬~1118日)

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2014年11月17日 (月)

11月16日のTwitterとFB.「いいね!」☆ 時事○、私的雑記△、音楽と歌詞□

○沖縄県知事に翁長氏が当選した事は来年の統一地方選挙には大きな影響を与えよう

△もし缶詰になって長編小説を書くならマカオ、マルタ、サンマリノ等がいいと思える。ブータンもいい。要するに広くなくて、それでいてエスニックな自由とか伝統的な静けさと風景がいい。

△アメリカよりオランダ、デンマーク、スイス等にある種の文化的な注目をしていくべき何かを感じる。フランスもドイツもイタリアも過去の栄光に縋っていると思える部分は強い。フィンランドは過激だしイギリスも尊大だ。アイルランド、アイスランド、グリーンランドとかも注目したい。

○△日本に真のインテリは少ない(居ない訳ではないが目立たない)。曖昧な文化人は大勢居る(似非的な作家達等)。真のインテリだけが世に出て指導する時代になって欲しい(がこの国では無理だろう)。

○△無自覚なエスノセントリストを英米人は性差別主義者達と一緒くたにしてショーヴィニスティックアスホールと言うのだ。ショーヴィニズムが跋扈する社会世相、時代様相は必ず国家も民族も衰退するのだ。今こそ過激なリヴェラル論客が必要な時代なのだ。

△自然に愛し合うという事が在り得ないとしか思えない。愛も理性も意志的なものだ。それを自然と言い切る感性に耐えられない。自然に出来ない者を差別する無自覚な(最低の)倫理だ。意図的、意志的な行為以外人類にはない。自然って一体何なのだ?そういう事を言う奴は自然界を知らな過ぎるのだ。☆

○△今日本中にエスノセントリスト達が増えている事、安易なコンサヴァが増えている事に耐えられない。リヴェラルはコンサヴァと違って暗殺をしてこなかった。暗殺をすればリヴェラルにならないからだ。だが世界秩序に不要なコンサヴァは何とか駆逐すべきだとしか思えない(同じマンションにも大勢居る)。☆

□日本語の中には多くポルトガルとの交易で商人達が使用したピジンのクリオール化された語彙やイディオムが見られる。言語はそれ自体全てフュージョンなのだ。音楽と言語はこの点で似ている。音楽も全てフュージョン(時代と地域との)なのだから。

□△最近<消えた画>(カンボジア映画)を鑑賞したが、其処で演奏されていたカンボジアロックに惹きつけられた。東南アジアにも南アジアにも色々なエスニックなロックが存在するのだ。ワールドミュージック位相のロックはそれ自体全てフュージョンなのだ。世界にはジャズも国に拠って少しずつ違うのだ。8retweeted and 10favorited in Twitter

□ジミヘンは黒人とネイティヴアメリカンのハーフだったが、ロックもブルースもネイティヴアメリカン的要素も色々と見られる。米国音楽自体が些細な部分では全てエスニックなのだ。マイルスはジミヘンとも親しく葬儀にも参列した。ロバート・ジョンソンから影響を受けた白人はかなり多い。米国は複雑だ。

□ブルースとゴスペルが融合しリズム&ブルースとなり、リズム&ブルースとポップスが融合しソウルとなり、ディスコティークへ進化したソウルがレゲエが融合しヒップホップ、ラップとなり現在へ至るとすれば、白人の長いキリスト教音楽を黒人が受け入れ、白人が黒人を模倣しといった協働作業が見える。

★<軍師官兵衛>の今迄の名台詞、石田三成の<命に代えてお守り致す>(致しますでない処がミソ>、黒田如水<殿下は信長候に拘り過ぎたのです>。なかなか脚色がある事を認めてもいい大河だったのでは?未だ最後迄目が離せない。FAVORITED IN TWITTER

○翁長氏沖縄県知事当選ニュースは、普天間移転反対意見が通過した事に等しく、自民党には打撃、それだけでなく民主その他の野党共闘を加速化する。その意味では総選挙前のこの選挙結果は微妙に自公政権運営にも影響を与えよう。仲井眞氏落選で自公中心の国政にも影響を与えた。

□歌謡・J-pop私の選ぶ10曲。ちあきなおみ<喝采>、新井由美<飛行機雲>、尾崎豊<Oh my little girl>、小林明子<恋に落ちて-fall in love>、プリンセスプリンセス<M>、中島みゆき<空と君との間には>、レミオロメン<粉雪>、一青窈<ハナミズキ>、Mr.ChildrenTommorow never knows><ギフト>。

□ディランは米国人だがユダヤ人でもあるし、凄く繊細なインテリでもあり歌詞が繊細だ。これは英米の通常ポップスとは違う感性だ。英米人の歌詞は抽象的な美を狙うに対し、日本語の歌詞は情景が仄浮かぶ様に書く。だがディランはどちらでもない。彼は語りかけるからだ。日本人に理解しやすさもある。

□英米人の喜怒哀楽はextrovert。対し日本人はintorovert(粉雪<レミオロメン>)を聴けば即座に理解出来るが、繊細且つ細やか。Hey JudeRemember to let her under your skinの後半部の即物性は日本人には決して書けない歌詞だ。

It’s a kind of hush, all over the worldHerman’s Hermits)のListen to that carefullyのサビ部分の美しいが力強いメロディを、日本人ならこの歌詞内容ではしとやかなメロディを持ってこよう。

□レディ・ガガときゃりーぱみゅぱみゅのポップスを比較すればよく分かるが、J-popでは自分のキャラクターは自分の外側の印象で決定されるきゃりーの歌詞(ファッションモンスター)に対してガガの歌詞ではBorn this wayという自己主張の大いなる差異。英米と日本のポップスは違う。

□今迄何の気無しに聞いてきた英米ロック&ポップスから日本人として切に感じる事は喜怒哀楽の持ち方や音楽でのそれ等の表現の仕方が明らかに英米人と我々は違うって事。今のJ-popでもきっと英米人が聴くと感情の示し方も表現の仕方も全く違うって思うんじゃないかな。Bzもミスチルもさ。

60年代名曲It’s a kind of hush, all over the worldHerman’s Hermits)の、静けさが世界を満たす、詞と歌の楽しさがちぐはぐ。Listen to the carefllyとサビで来る美しいメロディの楽しさと歌詞のずれに英米ポップスの日本歌謡やJ-popとの感性の違いがある。

○日本の学生運動の活動家の話を聞くと、何処か金持ちのお坊ちゃんの観念的論争趣味的なものしか感想として持てない。肯定はしないがかつての連合赤軍はよど号ハイジャックして北へ亡命した(先日年老いた彼等がテレビにも登場した)。国を捨てるとか命を賭ける位の事をしないのでは彼等は只の学生だ。

○野党が躍進する総選挙になるなどとはとても思えない。ならば自民党内での勢力地図構成を巡る熾烈な闘争と化す今回の総選挙という様相が予想される。石原、小沢、仙石氏の引退も囁かれるが、世代交代実現に拠り党内、野党共闘全体での構図も一気に移行を加速化させるだろう。

○イスラム国等の活動家達が例えば日本国内の学生過激派とされる人達と連携するだろうか?しないだろう。日本や韓国からも大挙してISに参与する動きがあった時初めて世界的連携でテロリスト達が欧米や中東以外諸国の国内反体制派へ注目するだろう。ISはグローバル経済全体への批判を動機としている。retweeted in Twitter

○時代は一見60年安保当時のモティヴェーションを学生が獲得しているかに見える。だが様相はかなり異なる。当時はあらゆる機器(情報通信、映像その他全て)のない時代だった。今は違う。中核の人達も恐らく全ての機器を使いこなす。だがそれは自由主義経済と資本主義社会が生んだものなのだ。

○自民党内での分裂(谷垣・二階その他と安倍取り巻きグループとかの)が今回の総選挙以降の政権存続の時期内に起きる可能性もある。その際に橋下、細野、前原辺りの人材が野党と自民内分裂一派と共闘する可能性も充分にある。只再政権交代を牽引するには政策的バックアップ(政策と後援者)が要る。

○アベノミクスは失敗したのだ。だがその失敗を補完するか別の方法でデフレ克服景気回復へ持っていけるだけの政策もない。恐らく緩やかに衰退する自公政権与党時代が更に四年延長される可能性が強い。だがその間に米国、韓国は首脳が交代する。野党が次の機会に政権奪取する為の時間へも突入する。Favorited in Twitter

△私はどちらかと言うと大人になりきれないアラフィフさえ過ぎたいい年のおじさんだ。ある部分では未だに学生の頃持っていた理想を捨てきれない。にも関わらず限りなく老いは訪れているし、大人主義的大人の行動や思考や態度を否定もし切れない(と言って同調も出来なければマネもしない)。

○以前法政大学で起きた頃が今回京大で起きた。中核活動の活発化に拠り公安警察の偵察が学生の槍玉に上がり、その報復としての機動隊出動となった。だが彼等の主張はグローバルに展開する可能性は希薄だ。国内的思考だし観念的学生的思考だ。スノーデン程の世界的影響力がない。Retweeted and Favorited in Twitter

○経済界は自民党存続を望んでいる。彼等(一般的大人社会)は安倍総理に拠る今回の解散総選挙時期決断を高く評価するだろう。尤もそれは経営者等の人達以外の通常市民にとって蚊帳の外的印象だろう。社会構造と言うより政治への意識が二極分離している現在の世相に一つの問題の核心がある。

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ボブ・ディランの歌詞を読み解くPart1 序と<風に吹かれて>解析

 ディランは20世紀ロックに多大の功績を遺したアーティストとして今も存命で活躍している。だがその歴史的意義として語られる歌は初期から絶頂期に至る迄にほぼ集約されている。一人の歌手で音楽家であるディランが考えていた音楽とはウディ・ガスリー等に触発された(ガスリーチルドレン等ともディラン達は呼ばれた)素朴な弾き語りであると言える。トピカルソングを戦略に60年代初頭に打ち出して彼は世に出た。当時のアメリカは公民権運動が全国的規模で展開される時代で、人種差別自体も(今も無くなっている訳ではないが)今以上に激しかった。そういった世相と彼の歌が時代的メッセージとして符号した事で彼は一躍時の人として躍り出たのだが、彼自身の自伝を読んでみるとかなり戸惑いもあった様だ。一人の歌手、音楽家としての人生は彼の様な特殊な才能の人間にとっては思いも寄らぬ形で進行していかざるを得ない。何をしても初期から絶頂期の彼のメッセージを通して語られてしまうという事は彼自身にとっては大いなる困惑を齎すものであり続けたであろう。

 だがそれでも我々はディランと共に歩んだ歴史を携えている。

 其処で今回は彼の二枚目のアルバムである<フリー・ホイーリング ボブ・ディラン>冒頭の曲<風に吹かれて>Blowin’ in the windから考えてみよう。

 

 まず歌詞を翻訳で観てみよう。

 

(男は一体どれ位歩き続けなければいけないのか、彼が男と呼ばれる迄、そう白い鳩は一体どれくらい泳がなければいけないのか、砂の上で眠る迄、そう弾丸サーブは一体どれくらい飛ばされなければいけないのか、それが永遠に禁止される迄 友達よ、答は風に吹かれて、答は風に吹かれている/山は一体どれくらい其の侭で居られるのか、海に洗い流される迄、そうある人々は一体何時迄居るのだろうか、彼等が自由になる事が許される迄、男は一体何時迄頭を下げ続けなければいけないのか、彼が見えない様にしてそうするのは 友達よ、答は風に吹かれて、答は風に吹かれている/男は一体どれ位見上げ続けなければいけないのか、彼が空を見上げられる迄、そう男は一体どれだけの耳を持っているのだろうか、彼が人々が泣いているのを聞き届ける迄、そう一体どれくらいの死が彼を振り向かせる迄必要なのだろうか、大勢の人達が死んでいるという事に振り向く迄 友達よ、答は風に吹かれて、風に吹かれている)

 

 さてこの楽曲の歌詞で重要な事は風に吹かれるとはどういう事を意味しているか、であろう。

男は一人前になる前の男とも取れるが、時代的には黒人男性を意味しているものと取れるし、白い鳩は白人で、黒人が白人達とビーチの砂の上で寝る事はないし、(白人と共に)泳げるという事は社会で大手を振って歩く事だし、弾丸サーブは比喩であり、テニスや野球でデッドボール的なものを意味し、山は人間社会の偏見、海は人々の偏見を洗い流す良心、自由を許されない人々はその侭黒人、頭を下げ続ける相手は白人、彼等は白人の背に隠され空さえ見上げられない、最後の男とは虐げられた人々の泣き声を無視する白人男性であり、大勢の人々の死に耳を塞ぐのも白人男性である。

 この歌で歌われる風とは時代でもあるし、人々が吹けば忘れてしまう気持ちの移ろいやすさでもあるし、風とは<吹かれていってしまえば其処に何があったか忘れてしまう塵であり、塵とは他者の心であり、塵が風に吹かれる事は他者の心が其処に確かに在ったのに、在る時には目を逸らし、耳を塞ぐ事の比喩として無為な真実を観ない時間>を意味している。

 63年とは公民権運動が高まりを見せ始める時節であり、リトルロック高校事件(54年)から九年、モンゴメリー・バス・ボイコット(55年)から八年が経ち、それでも尚黒人への人種差別が無くならぬ状況があった。

 確かに歌それ自体は歌を聴く心地良さの中で解消されればそれでいい。しかし歌を心地良く感じさせるのは歌を理解する心であり、歌が示す世界や時代へのメッセージと、それへの共鳴である。その事をこの単純なフレーズだが印象的な楽曲は教えてくれる。

 又昨今民族主義や国粋主義、隣国同士の衝突や不和が喧しい現在の世界情勢、国内情勢から我々はディランがデビューした翌年に放ったこの歌の持つ意味を噛み締めてみる事は無意味な事ではない。

 ディランの歌詞創造のモティヴェーションは決して肩肘張った思想的メッセンジャーたらんとしてのものではないだろう。事実彼は自伝でも普通に歌を歌いたいから歌って聞かせてきただけだ、と告白している。しかし歌とはそれを感じ、理解する人達の心へ直接響く。その心の残響音こそ歌の、歌詞の持つメッセージの意味である。

 私はディラニストではないし、詩を書きたくて書いている一人の人間に過ぎないが、歌も詩も同根であり、起源的には人類の持つ音楽的衝動(それは多分に詩的衝動でもある)に根差すと考えている。

 次回はディランの続く幾つかの作品解析とロック史的な意味に就いて考える。(つづき)

 

 

付記 白い鳩の下りは白人が黒人と共にビーチで寝そべる様に法制化させても、白人は黒人の泳ぐ海では泳がないだろうという意味であり、白い鳩は平和の象徴だが白人が欺瞞的にでっち上げたものだとのアイロニーもあるし、冒頭の男は(歌全部の総括をまず語る意味で)人類という意味としても受け取れる。人類は何時になったらまともに歩めるのかという比喩としても受け取れる。

 

 

 

 参考wikipedia

   公民権運動 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%B3%BB%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA%E5%85%AC%E6%B0%91%E6%A8%A9%E9%81%8B%E5%8B%95

 風に吹かれて http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E3%81%AB%E5%90%B9%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%A6_(%E3%83%9C%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%9B%B2)

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2014年11月16日 (日)

11月15日のTwitterとFB.「いいね!」☆ 素直な心□、日本社会批判論◇、人生哲学●、駅鉄と頭端式ホーム○、エリア考◆、事実∞

□どんなに好きで尊敬する音楽家や画家等の仕事でも心底素晴らしいと思えて好きな作品と、そうでなくはっきり言って駄作と思える作品もあって、その様に自分の中でどんなに贔屓にしていてもきちんと自分なりに判断するという事が極めて重要ではないだろうか?相手がどんな偉い人であっても。

□かつてスピルバーグ監督が映画で一番大事な事は技術ではないと言っていた。アートでも何でも技術はプロ条件として必須だ。だがやはりそれが第一ではない。表現は技術より重要な何かがある。それは恐らく何かを誰かに伝えたいという気持ちで作っているか否かではないだろうか?

NHKプロフェッショナルで五嶋みどりさんの障害者の人達の演奏へ耳を傾ける姿が感動的だった。巧さ、プロとしての条件よりもっと大事な直向に演奏する音を聴き分けられる彼女の天使の様な瞳と心こそ、プロになって巧さへ加担していきがちな人の忘れている処だ。彼女には真実の音が聴こえるのだろう。2Favorited in Twitter

◇自由主義、資本主義の論理や正義と集団協調主義や癒着同調主義は完全矛盾する。其処に日本社会の民族感性的不文律と戦後民主主義社会と自由主義経済イデオロギーとの間の相克がある。

◇集団協調主義が日本の美徳の様にマスコミ、文化人、芸能他は触込むが、それはあくまで情報発信上での幻想でしかなく、都市空間を歩くと直観的に癒着同調的社会行為者とそうでない人が嗅ぎ分けられるものだ(錯覚もある)。だがメディアが与える幻想より実際自立アウトロー型が日本では多いのではないか?

●最初から必ず一定の金にはなると分かっている仕事は大して価値ある仕事ではない。ひょっとしたら一切金にはならぬかも知れないぎりぎりの仕事のみ成功した時価値ある仕事と言える。その意味では仕事の質獲得にはギャンブル的感性も要る。

◇私から言わせれば純粋な個人主義者とは集団内協調性は欠落していても、何かあったら親身な人間も意外と多いのだ(勿論全くそうでなく心底冷淡な人も居る。しかしそれは集団内協調性だけ優れている人でも同じなのだ)。

◇日本では人の事を第一に考えるというのは表向き、つまりマナーなのだ。営業至上主義(それは神道に由来する)故の慣習なのだ。その事と何かあった時に人を助けてあげるという事は全く切り離されている。いざとなったら普段は全く冷淡な様な態度の人が意外と優しいという事もあるのだ。

○川越線は川越を境に大宮~と高麗川迄と運転が分離している。だが日に三本だけ南古谷~八王子行き二本、高麗川行き一本が始発時間帯に運転されている。これは操車場が南古谷にある関係で車両整理の事情からだ。逆に埼京線方面へも南古谷発が一本始発時間帯にある。指扇発は日に17本ある。

○ホームとホームとの間が広く開いており、間に線路が犇めているという意味で拝島も魅力的な駅だが、地上改札部分は意外と平凡である。高麗川は意外と小さい駅である。駅舎が立派という意味では駅ビルと商業施設がある東飯能だ。

○意外と魅力的な頭端式ホーム駅は豊島園(改札もその侭、その点では本川越と同じ。但し豊島園は駅ビルの中に吸収されない開放型)、西武園、そして高崎の八高線ホームだ。西武園は地上改札(と言うよりホームが両面の坂の間に沈み込んでいる)の作りが魅力的だ。

○頭端式ホームで素晴らしいのは西武球場前だ。この駅の広々とした感じは野球の試合の時の混雑を想定しての作りだが、凄く駅全体が魅力的である。

○つい先日、波久礼と寄居間だけ秩父鉄道を利用した(昨年は御花畑~羽生迄、それ以前は数回御花畑~三峰口迄利用している)が、駅舎の風情や列車が凄く魅力的なローカル私鉄である。蒸気機関車がかつてのブルトレ車両を牽引して走るのが見られるのも魅力だ。

○頭端式ホームという意味で上野、天王寺、京都、豊橋(名古屋はどうだったろうか?時間が無かったので覚えていない)等が凄く魅力的だが、上野は今後、東京へと宇都宮線、高崎線、常磐線が乗り入れる為にホームも多少変わるかも知れない。かつての東急渋谷駅は印象的だった。

○ホームの多さという意味では上野、品川、大宮(それ以外では小倉、水戸、高崎)だろう。赤羽はそれ程多くないし、最近行った地方駅では駅舎は小さいが小川町と寄居はホームとホームとの間隔は線路が多くて意外とゆったりしている。川越はどうしようもなく狭い。八王子も意外と狭い。

○駅が広々とした感じでないという意味ではセントラルステーションの体裁を取っている駅では横浜と池袋だ。新宿は地上改札なので全体的に暗い。あか抜けた感じに変わったのが上野と品川だ(新幹線の発着駅という威力は強い)。渋谷は改善するそうだが、そうしないと今のでは不便過ぎる。

○横浜駅に行くと何時も気づくが、地下サブナード(改札と券売機その他の広い通路)の床がかなり凸凹している事である。なかなか硬い地盤で真っ平にする事が工法上困難だったのだろう。東京では余りそういう例を私は知らない(あるのかも知れないが)。

◆赤羽が気分は埼玉県である様に亀戸は気分が千葉県、蒲田は気分が神奈川県(と言うより川崎市)っていう様にエリア毎に気分が違う。重要な事は東京マナーとはあくまで山の手線圏内を軸にそれより少し先迄に限定される事だ。これは大阪でも名古屋でも京都でも別の在り方であれ似た処があるだろう。

◆●人は人、一切人には自分の人生観を押し付けない、教条的な事は一切言わない、というのが一定程度東京マナーだと言える。だが埼玉県でも何処でも一歩東京から踏み込むと、そうでないマナーは脈々と流れている。

∞基本的に芸術家はいい作品を作れ、それを確実に購入してくれる人さえ居れば、一回も個展をしなくても生活が出来る。個展をしてアピールするのはあくまで世間全体からの評価を想定しての事だ。だが芸術家の生活を支えるのは世間的評定より実質的な購入者が居るか否かなのだ。

∞歌手もよく歌詞を間違える事はある。そういう時でも間違えていない態度を取れるのがプロだ。プロは鑑賞している人に不安を与えてはいけない。

∞ステージでの演奏家は間違えても間違えてないふりが出来なければいけない。素人でも三回間違えれば三度目は気づくと言われる(プロは一度でも見抜き、批評家は二度目に気づくと言う)。それでも白を切れるくらいの図太さがプロには要る。勿論間違えない様にする事は一番であるけれど。

□よく一言謝れば済む事じゃないかと言うが、中島義道はそれをも否定するが、それは正しい。ビジネス等でも誤り事はよくあるが、それは精神誠意反省の色を示す事でない。其処を巧くするのがビジネスだ。平謝りとか反省の色を無条件に示すのと陳謝とは違う(と少なくとも私は思う)。

∞◆●反省している態度を他人に見せるのは都市部では駄目だ。それは地方部の極内内の間でだけ通用する。そもそも子供とは反省している態度を素直に大人に見せるものである。それをする人も時々居るが、それはビジネスでも会議でも絶対まずい。それだけは一定程度鉄則と言ってもいい。

∞政治等も議員を選出するのは選挙、議会で法案を通すのは多数決等民主主義原理が重要だが、ある部分ではリーダーが率先してどんどん独断で進める部分も必要だ。只そのするべき事が多くの国民から信任を得ている必要だけはある。それさえあれば適度の独裁は必要だ(何時も何時も民主的では駄目だ)。

∞総理とは日本全国にある期待とか夢を持たす立場だが、安倍総理は少し真面目過ぎる感じはある。意外と景気とかも総理の人柄のいい意味での能天気さが齎す部分はある。小泉総理は(色々失策もあったが)少なくとも野党からの追及に微笑んで返す等のユーモアがあった(それは誰でもでない)。

∞景気とは金とは貯める事がいい事なのでなく使う時は使うのだと国民全員が少しずつそう思える様になったら自然に少しずつ上向くのだ。皆が財布の紐をきつくしている内は何時迄経っても景気は上向かない。

●∞山登りはたとえもう少しで頂上だったとしても体調が悪くなったなら、無理をせずその時は下山するという決断力といい意味での諦めのある人しかするべきでない。無理して(折角此処迄来たのだからと)登る事は全くすべきではない。

∞◆東京という町は金を溜めるのにはかなりきつい町だが、金を使うならこれ程楽しい場所はない

∞◆関西モード(伝統的封建的)が意外と関東地方部では強いと言える。関東モードが少なくとも全く卑屈に感じずに済むのは都市部のみである。

∞◇努力美徳論を否定的に展開させると、あいつは危険思想者だという空気は確かにこの国ではある(羽生選手の例の衝突事故にも関わらず出場し二位だった事を尊いと感じる国民性だから)。

●努力とは凡人の美徳で、天才は努力しない。全てその時々の気楽な気分でいい仕事が出来る。勿論彼等だって色々苦労はするだろうが、それは凡人の努力と違う。又いい仕事を評価すべきで努力を評価するのは危険だ。第一どういうものを努力と言うか曖昧だし、努力しても空回りのものを評価すべきでない。

●うちのテレビはeテレもBSも一切映らない。却って全て映ったらそっちを観るのに忙しく本を読まなくなっているだろう。金をかけてDVDやいいテレビを購入するくらいなら資料となる本やCDとかを買いたいので殆どテレビその他の事には金は使っていない。映画を時々観ればそれでいいからだし。

◇日本社会の下手に動くくらいなら何もしない方が得策だし低く見られないという風土は独特である。会議でも下手は発言をするくらいなら黙っていた方がずっと高く評価されるという気分はこの国では強い。そういった風土の中で出る杭は打たれるという言葉も出ていて、皆出る杭になりたがらないのだ。

∞晩年になればなる程いい絵を描いたという意味でフェルディナント・ホドラーやピエト・モンドリアンは出色だ。ピカソは晩年衰えているし、音楽家も晩年程いい人は一部クラシック作曲家には居るが、ポップス&ロックには居ないと思う。全盛期とそうでない時期の作品を比較される事は耐え難い事だろう。

∞●全盛期を過ぎたかつての大スターが何時迄も仕事をし続けるのはせずにはおれぬからだろう。精神的には偉大な人程大変で、凡人程全てに気楽だ。世の中の99%は凡人だ。理屈を捏ねるのも人を批判するのも(勿論私も含め)天才や偉大な人のする事でない。精神的にきつい晩年を過ごすのは天才のみである。

∞日本では首相より県知事の方が退職金は上だそうだ。退職金で安定した老後を送れるという事こそ著名人が知事になりたい理由なのだろう。最終的に何の職業でも給料やボーナス等を魅力にそれぞれの職に就くという思惑があるのだ。その点ではどの国でも変わりあるまい。

∞●◇若い事特別天才として扱われた人でない限り、たとえ生涯それ程重要な仕事をしなくても何とか生きていけるのが日本だが、逆に凄く天才的な仕事をした人にとってはかなり才能が衰弱するときついだろう(アメリカは日本よりもっと大変だろう)。スポーツは後進育成があるが、スターはそうもいかない。

∞◇相撲でもスポーツでも力士やアスリートはいい成績を残せた人はその後の人生でずっと日本では優遇される。尤も現役時代はそれ程優遇される訳ではない(相撲では横綱になるとかスポーツでは五輪でメダルを取らぬ限り)。対し文学者も芸術家も現役引退自体が出来ない。その点では自由業者は全員そうである。Favorited in Twitter

∞来月の総選挙では意外と共産党、社民党、生活の党等が躍進する可能性は高い

∞アメリカ人も学界国際会議等では一番傲慢な態度だ。国際会議では中国人も韓国人も意外と謙虚である(これはビジネスでは又一味違うだろう)。欧米人でもオランダ人やドイツ人はそれ程傲慢な態度ではない(それは彼等も英語が母国語ではない事も手伝っている)。

∞習近平主席の安倍総理への態度と物腰は中国の首脳とは世界の覇者だという意識の現れだ。だが中国は色々な意味で共産党一党独裁に拠る多数少数民族への抑圧と覇権主義の態度で世界へ臨んできた。これは日本人のドメスティックな大人主義とも違う。もっと大陸的な傲慢さだ。これは未来永劫変わるまい。

∞◇日本には基本的に精神的な意味での個人主義はない。これは全くそうだ。その事と宗教的信仰心がない事とは関係がある。個人という発想は神と自己との対話に根差すからだ。集団組織全体の歯車にのみ自己を従事させるのは農民が大半だった日本人の季節と収穫というサイクルが生んできたのだろう。

∞集団内で仕事をしてきた人達がそうでない自営業や自由業で生きてきた人へ知っている者が知らない者へ諭す様なものの言い方(相手への態度の取り方)に閉口する。会社や役所、集団、組織の歯車で仕事をし業績を上げる人達だけの天下である日本。日本社会の色々なモラル的な不文律はそういう前提なのだ。

∞◇ノーベル物理学賞の中村氏がかつて発明に拠る恩恵を巡りう争った会社と和解し巧くやっていきたいとした事へ会社は会見を突っぱねた。その意味では日本は個人の業績や自己主張より、完全に集団内秩序埋没型のみを正当とするという意識が今も根強い事を立証した。中村氏の様なご苦労を思うと溜息が出る。

∞◇会社を務めリタイアした人が一番どの職業の人達より自分達こそ当然の義務を果たしたという意識が強く、謙虚さがない。他の職よりその大樹の影的な優越感が強い。そういう日本人の集団主義的メンタリティが日本の外交的国益を色々と損じているというのに。

∞◇私は20代から個人契約仕事が中心で、数社で社員もしたが30代半ば以降個人仕事をしてきたので思うが、社会には社員以外実に多くの職があり専門職の人は自分が特殊な生き方と自覚しているが、会社員が一番その意識がない。自分達こそ当然の生き方と思っている。企業戦士なんて死語なのに。

●夢を見るとは純粋に時間的か?目を瞑って考えるのと夢とは違う。夢は一瞬なので空間的記憶(記憶は空間感知と海馬では極めて相同的だ)に近いかも。目を瞑って考えるのは時間的と言えよう。☆☆

●旅人とは何かの目的の為に旅するのでなく、旅する事自体が目的だ。世界が一つの部屋だけの家だとすれば全ての壁に隣接する沢山の扉があるとすれば、このドアルームハウスを全ての扉から入ったり出たりしようとする決意の者こそ旅人だと言える。

●全ての願望は非合理だ。未来に何が実現するか分からないからだ。願望を正当と認めるのは人間の脳固有のエゴかも知れない。

◇日本人の落ち着き払った慇懃無礼な態度は地方部なら大人として扱われるかも知れぬが、グローバル社会では一切通用しない。日本人の大人主義は世界では昨今大勢の日本人が忌み嫌う韓国人とそんなに違わないと思われているんじゃないか。少なくとも韓国人より落ち着き払った態度が残酷に見えるだろう。

●好きなミュージシャンをコンサートで見て聴くのもいいけど、一人でじくり聴きたい時にCDはいい。Youtubeでもいいが、そのコンサート映像では聴衆の熱狂を確認するという意味合いも強い(スタジオ録画以外では)。一人で聴きたい音楽(やミュージシャン)もあるし、皆で聴きたいのもある。

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絶交論/現代社会を有効に利用し生き抜く為の知恵

 

 私は意識的に何年かおきに知人、友人を整理している。率直に言って付き合ってみて有益ではないと思われる知人、友人と意識的に絶交する様にしている。相手は老若男女様々である。長く付き合っていようが、最近知り合ったばかりであろうが、一切関係無しにである。

 

 絶交の仕方は、余りこちらからそれとなくもう貴方とは付き合いなくないというサインを示し、それでも一切そのサイン察知に疎く気付かない相手には直にか電話等かで「貴方とは付き合えない」と言う事にしている。其処迄しなくても大半の人はそんなに頭が悪くないので察知して離れていくものだ。そうでない相手はそれだけで付き合う価値はない。

 

 人はちょっとした世間話をすれば相手がどれくらいの知性を持ち合わせているか分かるものである。その査定でそれ程の相手でないと察知したなら地域コミュニティ等でどうしても頻繁な顔合わせ相手であるなら仕方ないので儀礼的な事に留め一切本音的トークを差し控える様に心がけ、初対面の人は自分自身の経験上それ程深く交流する価値がないと見做せるなら、名刺交換も差し控え、二度と会う事がない様にすべきである。

 

 長く付き合って来た知人、友人とも五六人私は絶交してきた。電話でお互いに絶交したケースと態々相手へ伝える事なく、連絡を一切取らなくなっていったケース(自然消滅)とがある。中には(殆ど実際はそういう事はないが)ずっと連絡していず、偶然街中等で再会して付き合いが又始まる場合もあるが、大半は態々相手に絶交の意思を伝える事なくても相互に何となく求め合っていない事を察知して疎遠になっていくものである。

 

 SNSでは毎日頻繁にフォロワーや友達のメンバーは変わっていく。中にはそれを始めた時からずっと付き合いの続く稀なケースもあるし、逆に長く交流し、喧嘩別れする場合もあるし、全体の面子は常に誰にとっても流動的である。そして又それでよい。復活する相手とか学会とかサークル等も稀にはある(私は一度離れた集団とは二度と接近する事は殆ど無い<がこれからは多少あるかも知れない>)が、要するにそういう風に全てを固定化する必要はないし、そういう風に流動的である事自体を悪い事だと思わない様にしている。つまりそういう風に人的ネット等その都度必要なものだけをピックアップしていっていいのだと割り切っている。

 

 勿論中にはそういう風にドライには割り切れない相手も居るが、それすらもそう決めつける必要もない。

 

 現代社会を生き抜くには相互に相互の一定程度の自由と幸福の為には、何となく嫌な感じがしたなら、たとえ長く付き合ってきたからとて大切にしようと決めつける事もないし、逆に仮に最近付き合い始めたとしても長く付き合っていく事になる場合もあるし(それは私的にも仕事上でもそうである)、その事を何か信条的な自己法則にする必要もない。そういう風に決め付ける事で却って色々な出会いや別れの可能性(それはそうする事で相互に前進出来る。それは当然離婚も含まれる)を封鎖する事になるので、私は全てを~であると決め付ける事なく、人的な関係は処理している。それを悪い事であるとする人生観自体を修正していく必要があるのではないだろうか?

 

 こういう私自身の処世観に疑問を持ったり関心を持ったりされた来場者はこの記事の周辺のTwitterFBのツイートを集めた記事辺りから調べたい内容と共に検索して来場されたし。

 

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時間と空間Part108 今と想起で蘇る臨場と言葉の意味

 今と私の在り方とは似ている、としたのは永井均だが、今とはその都度その都度であるより、寧ろずっと継続している一連の何かの意識の在り方でもあり、それは逆に後で区切ってあの頃から別のある頃迄は~だったという風に捉える事で明確化される。

 今とはある部分ではここ一年位でもあり、ここ数年の間の事でもあり、もっと十年位変わらずに居る自分の要素やあり方を指す事もある。その点では中島義道の捉え方は自然だ。要するにどう区切るかによって今の意味はそれぞれ変わってくる。何年何月何日の何時何分何秒のある点だけを今としている訳ではない。その意味では永井の言う私とは私としての記憶とか自己同一性的な事を証明する全てであり、それと中島の言う様などう区切るかに拠って変わって来る自分像に伴われているそれぞれの今とは確かに相同である。

 つまり永井均の今と私の類似性と、中島義道の今の指定の恣意性とは容易に接合し得るという事だ。

 さて重要な事は、我々は過去に対してはふと思い出す事があるという事だ。それは何の脈絡もなくある時ある人の語った一言であったり、言葉であったり、その言わんとする処の意味であったり、である。勿論映像的、画像的ヴィジュアルな想起もあり得る。

 その想起はある時に自分が確かに誰かと居合わせた臨場の様なものの記憶が伴っていて、それは空間的でもあり時間的でもある。

 ある時に他者から耳にした言葉が凄く印象的でふと思い出してしまうという事は、その想起する時に考えている事、人生や仕事や色々な事、家族や友人や他者の事等が想起される内容をその都度恣意的に脳(心)が選択している、という事を意味する。

 臨場経験自体の意味はその時思っていた事と、後で振り返る時とではその侭同じである事もあれば、想起される過去の時の気持ちも、想起する時がその時より大分隔たっておれば、かなり思い出すのも恥ずかしい思い出であっても、逆にその時は誇らしくあったとしても、時間とその間での自分自身の心境や気持ちや性格や人格の変化に拠って意味が変わってくるだろう。

 臨場体験、臨場経験とは、他者と共有される空間的記憶と其処に居合わせた事自体の意味づけに拠って形成される。それはその時と今との間の変化の内容に拠ってその侭である部分と想起する事で齎される部分の内容も違ってくるだろう。かなり辛かった思い出も想起する今なら微笑ましく思える場合もあれば、逆に以前迄なら微笑ましく思い出されていたにも関わらず今となっては憤慨を伴ったり、思い出したりするのも不愉快になる事もあるだろう(かつては親しかったが、今となっては既に絶交した友人や知人との間ではそうだろう)。

 結局空間的な臨場的記憶でも、その時に流れていた時間的、経過的な内容でも全て想起する時と、想起される過去の時との間の時間の長さとか、その間の色々な意味での自分自身の変化に拠って想起される時の気分は違うだろうし、よく思い出す様になる事と、前迄ならよく思い出していたのに今となってはそれ程よく思い出さなくなるという事もあるだろう。

 又人から聞いた言葉で印象的な事でも、いい意味で微笑ましく印象的に思い出される事(それはその時の空間臨場的記憶でもあり、その言葉を聞いた時の時間の推移記憶でもある)もあれば、そうでなく不愉快な思いに包まれる様な思い出され方をする場合もあるだろうし、それ自体も同じ事実の想起でも先述の様に様相を変えていくし、ふとよく思い出す事の内容や過去事実自体もどんどん変わっていく。その変化が余り無いという事なら、人生は只管安定へ向かっていると言えるし、どんどん変わっていく事が激しいならどんどん人生の行く末が放浪的な旅の様に変わっていきつつある、という事だろう。

 その意味では言葉もその時々での聴覚的経験でも視覚的な印象的像でも、ふと思い出す内容がどんどん移り変わっていく事自体は未だ未来へ可能性を残しているという事だろう。そしてこのふと思い出す事の変容とよく見る夢の傾向とは無関係ではないとだけは言えるのではないか?

 夢と時間や空間に就いては又少し時間を置いて考えてみたいと思っている。

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2014年11月15日 (土)

11月14日のTwitterとFB.「いいね!」☆ 向いた仕事、アイロニー、truth、時事身辺雑記他

◇絵を見ていると気楽に描けるタイプの画家と、深刻にしか描けないタイプの画家が居ると直ぐ分かる。とは言えその事とその画家の生きた長さは余り関係ない。数学者の様に発狂するタイプは恐らくプロの画家には大勢は居ない(勿論居るには居る)。結局自分にとって気楽に出来る事を皆職業にするのだ。

◇長生きだけしたいなら、絵を描いたり学問等したりしない方がいい。能天気に商売でもしていた方がずっといい。でも商売をする事が能天気に出来るタイプの資質の者は限られる。ビジネスで精神を病んでいく人は多い。何をすれば一番長続き出来るかだけを真剣に個々で考えるべきだ、と言える。2Favorited in Twitter

◇若さの仮面を装着した数多の保守主義者が跋扈する現在の様な世相では、これが本当に戦後七十年も経った国かと思うが、却ってその年月が戦中的モードへ連れ戻していると言える。だがそれもかなりのレヴェルで米国の保守層の先祖返りにつられていると言える。オバマ大統領は時代の潮目の犠牲者か?

◇日本ではリヴェラルからコンサヴァへの変節とはそうする方がずっとこの社会では生きやすい故だ。と言うより全てのリヴェラルがこの国に蔓延る大人主義では受け入れられない。だが日本的大人主義は日本でしか通用しない。それへの抵抗の持久戦は余りにも精神的若さが要る。

◇重度精神障害者は障害年金も出る(大半は十代に発病)が、軽度の障害者は出ないし、それでいて生涯保持を只管隠さなければ生きていけないストレスを抱え込む、という意味では現代社会は意外と変な処で差別的と言える。そういった面にさえ日本的美徳(慎ましさ)が弊害として作用している。

We anticipate groove in no reason but sensibility. Groove is always in unexpected sequel.Astonishingly changeable process only send a true message in poem or something.

Only remembering cannot to be controlled,it can never be censored by moral.Impressive message are always in anarchy energy out of anticipation.

何かしようとする者が爪弾きにされ、黙って何もしない者だけが得をする様な不文律が覆っているコミュニティに進歩もなければ何等創造的な生産はない。意外とアート界がそうだし、多くの学界もそうだ。公官庁もそうだろうし、要するにそういう空気は自己反省の無さが生んでいる。Favorited in Twitter

Free idea can be hard to be done in daily life well,coz many prejudice surround us changing it into another form.Pursue of it is hard to do.

Song words are different from now pure poem, they need a groove in singing joy, but by nature poem seemed to be a rhyme and sound joy. Now songs tell it to us.

◇固定化されたイメージが付く事をよしとする感性や常識と、それを極力避けたいとする感性と常識は決して巧く溶け合う事はない。前者を善とするタイプの市民は日本ではかなり多いが、それはグローバルビジネスシーンの常識とは相容れない。日本式資本主義は欧米のそれとやはり決定的に異なっている。

◇中国首脳が小笠原諸島等での中国漁船規制を約束したとしても尚不当漁業者は後を絶つまい(中国以外の漁港から幾らでも來る事が可能だ)。こういう時こそ日米安保条約を活用すべきだと言えるが、それを渋らせる態度をアメリカに取らせたのは民主党だとは言える。どんな政策でも一長一短だと言える。

◇思想的政治的ツイートをする度フォロワーを失い、文化芸能的ツイートをする度にフォロワー数を回復する。だが思想的政治的なだけの人格も文化芸能的なだけの人格もない。只フォロワー数確保の為の戦略なら何か一つだけに絞るべきだが、それは自分に素直にツイートする行為ではない(只の戦略だ)。Favorited in Twitter

◇かなり可能性は低いが、来月の解散総選挙で自公政権が政権を奪取される、という一点にのみある種の日本の潜在的パワーの未来がある、と言えるが、そういう展開にはさせたくないと思っている国民の方が多いだろう。

◇消費増税に於ける当時の民主自民の確約から今回の総選挙迄国民の期待や必要性の認識と政治自体のそれが極度に乖離してしまっているという事を感じない国民なんて居るのだろうか?実際我々は政治にリードして貰おうと思っていない。だが憲法その他の法秩序自体が政治を国民から乖離させている。

◇自由に表現し難さがあるとすれば、その不自由さを生きる事自体を詩にするしかない。結局詩を書くとはそういう事だ。つまりどうして自由に精神が羽搏けないかの理由が自由を希求するスタンスで詩の内容が決定される。そういった意味でならどんどん(いいか否かはともかく)詩だけは書ける状況にある。

◇私は文化人でも文化指導者でも文化政治家でもない。只の表現者だ。だから一年中詩や俳句だけ作っていたい。だがそう出来ず文化を表現で生きる事の正当性を思想的に主張しなければいけない状況が存在する。それは政治ではない。一般社会に巣食っている固有の偏見だ。自由に表現し難さが社会にある。

◇日本では文化人という呼称への印象が反体制的で理屈っぽい歪なイデオローグという事から文化自体への印象を悪くしている。文化とは文化人と呼ばれる人達の玩具ではない。文化とは全市民が主役である筈だ。だが却って文化人とされる人達こそ文化への取り組みを歪な思想めいたイメージにしている。

◇思想が文化を理解し掬い取り取り入れている風はない。哲学はそれ自体文化であるにも関わらず文化を無視する。思想が文化を咀嚼し得ぬ限り思想は何時迄も一部のインテリの玩具だけであり続けよう。宗教の方が未だしも文化を意識する。思想史とは宗教史に限ってしか論じられない。文化理解も一つの思想だ。

◇音楽と言えば英米だけでなくロシア民謡も中東音楽も中南米ラテンもアフリカ音楽も東南アジア諸国の音楽も全てフォークでありワールドミュージックだ。シャキーラの様なエスニックアイデンティティからだけでなく、各種民族音楽の交流から生まれる何かを期待するには余りにも政治経済が遅れている。

◇欧米先進国や日本に共通する処とは、どんなに巧く行っていない場合でさえ公的には巧く行っている風を装うという営業至上主義がビジネスシーンでも座興的場面でも漲っている事だ。だがこれは北朝鮮国民の感情の表裏とどう違うのだろう(それを巧く論理的に説明する事が誰に出来よう)。

◇日本社会は商売の自由という意味では一見自由だが、かなり多くの人前では言ってはいけない事が存在する。それは恐らく欧米でも同じだろう。つまり自由主義とはあくまで経済活動の自由しか保証せず、民族宗教的不文律はそれと本質的に別箇だという認識が全国家に存在するという事だ。

◇我々日本人を精神分析すると、アメリカと同盟国という意識では民主主義肯定だが、それはあくまで神道的現世主義が天皇制を賛美し民族的結束と謙遜感情を育んでいる事を前提にしている。しかし時としてこの二つが極端に分裂的に双方で対立し合うという処に民族感情と先進性への意識の葛藤がある。

◇私のブログに「日本語のうちから敬語が無くならぬ限り、日本に民主主義は育たない」と検索し来場した人が居るが、日本の敬語は謙遜に由来し、それは神道からの影響で、天皇制が存在する限り民族感情は無くならず、民主主義も達成しないと言うに等しい。だが今回の解散は民主主義の亡霊が唆している。

◇解散総選挙で喜んでいるのはテレビ局と新聞社だけかも知れない

◇欧米人の視点に立つ事は私には当然出来ないが、彼等は日本を中国や韓国とは違うと見ているだろうか?それともどっちもどっちと見ているだろうか?半々という処ではないだろうか?余りにも欧米寄り過ぎてもまずいとも余りにも欧米から離脱し過ぎるのもまずいと我々が思っている様に。

☆イスラム国に日本人参加者が大挙して集結し、彼等と結託して日本放送局や国会を占拠して革命を起こす等の小説を書いたら売れるだろうか?

◇小選挙区制の導入以降、地方後援会等での資金運営的な問題で閣僚辞任へ至った事を併せて考えれば明らかに選挙制度の矛盾さえ一気に噴出していると言える。選挙制度自体を考え直さなければいけない時期に来ているとも言える。

◇日本経済運営や景気回復とデフレ克服への巧く行かなさは明らかに現在のアメリカ経済全体の問題がある。それに対し中国とロシアの経済的政治的台頭も手伝っている。新たな経済秩序と政治的枠組みの再考が求められている。だがそれに見合うだけの思想的潮流が生み出されていると言えるだろうか?

◇テレビが意外としぶとく滅んでいない。それどころか未だウェブサイトでもSNSの話題提供はテレビだ。新聞は確かに衰えた。だがテレビパワーは盛返しつつある。スポーツ中継がそれを支えている。解散総選挙もテレビが支えている側面も強い(とんでもない時期での慌しさにはうんざりだけれど)。

◇世界的に民族主義が吹き荒れているが、どの民族も自分達に関してだけ理性的客観的に見る事が出来ない。神道はお祓いをするからには現世主義、死病へ穢れとしか見ない。先祖死者供養は仏教の役割だ。その二つを巧みに使い分ける処に日本文化の曖昧さ志向がある。まず自分自身を客観視すべきだ。

◇香港問題では米中も対立している。今世界で人類理性を維持しようと思ったなら文化の出番だろうか?そういう時代もあった。だが思想の出番かも知れない。宗教学や人類学の出番かも知れない。お笑いでも音楽でもない別の何かがアメリカの指導力低下とロシアの野望を和らげるのではないだろうか?

◇カタルーニャで独立是非投票があり、過半数が独立を支持した。法的手続きの問題で難航するだろうが、独立可能性も出て来た。スコットランドでも何処でも寧ろEU統一以降ドメスティックな市民感情が炸裂し始めている。英米ロックシーンが時代指針となる時代は遠い昔、民族主義は暫く吹き荒れよう。

◇日中首脳の初会談があったが、韓国もだが、中韓自体に問題もあるが、昨今の日本人(ここ数年特に)も海外から訝しく思われる要素に満たされている。一種の自民族中心主義的ヒステリー、歪な精神論が幅を利かせ始めている。それは国内でも憂う声を出しているが、中韓米人もあざとく気付いている。

◇文化芸能的な意味での娯楽(エンタメ)的な詩や音楽が圧倒的に楽しい。そして学術的な哲学より人生哲学、つまり人生論の方が圧倒的に面白い。学術的であっても数学の神髄的な思考なら面白いけれど、安易な学術哲学より人生のその都度での真理の方がずっと生きていく上で有益である。

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2014年11月14日 (金)

時間と空間Part107 時間の濃縮と無為

 

自然科学は安穏と時間も空間も永遠に続く、其処から無限性認識が出て来る訳だが、それを前提している。しかし誰しも何百年も生きる事は出来ないし、仮に三百年等生物学的時間ではほんの一瞬だとダーウィニスト達が言ったとしても彼等とて決してその何百年というスパンを感覚的に理解し得ている訳ではない。

 

 要するに自然科学での時間認識は物理的に数量化されているだけである。しかしその数量化には我々の意識とか心といったものは度外視されている。それは一人の人間の人生には何の役にも立たない。二十年とはどんな人間にとっても極めて過ぎてしまえば短いと思っても重要な長さである。一人の赤ん坊が成人に迄達する時間でもあるし、一人の青年を立派な中年にするし、一人の中年を立派な老人にするだけの長さだ。

 

 だが重要な事は同じ物理的時間でも精神的な長さは全く別個だという事だ。濃縮された三年は一人の人生に於いて四十年位の密度があるのかも知れないし、無為に過ごされた時間は長くその時は感じられるが、後々振り返ってみればやはり極めてあっと言う間だったとも言い得る。

 

 長い一日は一日中意識が張りつめていた場合であるし、短い一日は無為に精神を遣り過ごした放心的に過ごした場合であろう。勿論切迫した意識の張りつめた時間が後々あっと言う間だったとも言えるし、逆に無為に過ごした時間が後々振り返って凄く長く退屈だったとも言える。全てが逆に振り返られる。その意味では意識の在り方自体が極めて曖昧で、凄く長時間何かに没頭した割に何も進展しない事もあれば、逆に短時間で何もかもあっと言う間に片が付く事もある。要するに時間に於ける意識の在り方と成果とは又別である。これはビジネスでも言えるし、クリエイティヴな創造でも言えるし、スポーツでも遊び(娯楽遊興)でも旅でも何でも言える事だ。

 

 只凄く真理的な事として言えるのは、濃縮された意識ではプロセスの在り方(仕事の捗り具合でも一定時間内での進展状況でも何でも)は明確に振り返られるし、説明しやすいのに対し、皆目先行きへの見通しが立たず、闇雲に焦りだけに支配されて何事も巧く捗らない時の反省意識では振り返る事も苦痛である無為に満たされ、それが酷いと精神的に錯乱的な気分へ落ち込む事もある。

 

 思い出したくない過去というものがそういう場合では立ち上がる。それが記憶の中の想起でのトラウマ的な感知かも知れない。

 

 説明しやすい様に我々は過去を振り返るべきだし、そうする事で先行きの態度の持ち方も何となく明確化されていくものであるから、何とかそれなりの過去の無為な時間も意味づけていく必要だけはある。偶然を必然へ換える作業こそ意識の在り方を説明するという事である。

 

 意外とどうしようもなく不安である事は難なく進展し、逆にどうっていうことはないと高を括ってきた事が竹箆返しを食らう結果へ縺れ込む事は多い。油断が悪い結果へ齎されるという事だ。不安である事は緊張を解除しない事であるから、その時は辛抱の要る精神状態かも知れないが、そういう時間、つまり意識の在り方を一切持たないよりずっと結果的には振り返った時成果のある時間の過ごし方かも知れない。

 

 それはストレスを抱え込む事自体が悪い事ではない、という事を示している。ストレスは恐らく何処かで脳内状態が開きっ放しである部分もあるし、ある種の先行きの不安から気持ちが萎縮してその苦悩に耐えるのに必死である部分もある。勿論同じ緊張でも色々とその時々で性質が異なるだろう。精神とか意識の在り方とは自分で自分があの時その時どうであったかを振り返る時冷静に自分自身へ説明し得るか否かに依存する。どんなに気持ちが動揺していた状態での過去の一定時間でも冷静に振り返り、その時間での過ごし方を反省し、認識し直す必要がある。それを常に怠っていると、そのつけもやがて巡って来る。自分で自分の成果の出せなかった事や巧く捗らない侭で居た事自体をどう意味づけ、プロセスを振り返り、プロセスへ持ち込んだそれ以前の作業を振り返るかに拠ってその後の未来での過ごし方に於けるいい判断が出せるか否かも決定されると言っていい。巧く行ったと思っ