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2016年3月10日 (木)

思想の時代Part4

 

◎哲学と思想は最も遠い。哲学はそれ自体必要だが、私は思想を持たない哲学を認めない。その理由は後で述べる。

 

◎思想は哲学よりは遥かに科学に近い。

 

◎アート・文学・科学には固有の思想が在る。

 

◎自然界はミクロに近い程、威力を発揮する様に作られている。メスの蚊が産卵期を迎える時だけ動物の血液を摂取するが、それは彼等の体重と同じ位の量なのであるが、そういったことが可能なのは彼等の体重より空気の方が重く、それだけ彼等の体重が軽いからである。それだけとっても自然界とはミクロに近い程威力を発揮する様になっていると言ってよい。

 

◎詩は圧倒的に思想に近い。仮に哲学的発想で書かれていても、哲学の思想化・文学化こそが詩であるので、哲学性とはあくまでパーシャルである。

 

◎政治・経済も固有の思想だが、政治は認知科学的・統計学的に全貌を解析可能だが、当事者には文学的・哲学的人生を政治家としての生き方に読むことが在るが故に、怨念めくとも言える。

 

◎哲学と論理学とは、一種の袋小路的学術である。それはハイデガーも言う様に進歩するものではないからである。因みに科学は進歩する。尤も科学の進歩はほんの一ミリずつということは言える。だがそういった進歩と哲学・論理学の営みは異なる。その点でそれ等が特殊なロマンと見られるのもある程度仕方ない。

 

◎物理学の法則(正にミクロの法則であるが)の集積こそが自然選択である。当然其処には偶然性も在る。

 

◎生物学とは生物界の一種の統計学である。

 

◎物理法則に忠実な自然選択には何等かの数学的秩序(公理)が在る筈である。只それを明確に図式化されていると迄は言えない。

 

◎進化論と進化学は物理法則に従った固有の事実学である。

 

◎数字は特殊な自然言語である。つまり限りなく人工言語の装いの様に我々に認識させる(印象させる)自然だからである。

 

◎詩は全て数式にも置換可能で、数学的にも解析可能である。

 

◎分類は思想=技術である。

 

◎詩創造は分類思想が支える。

 

◎数学も数自然の分類学である。

 

◎コンピュータ・サイエンス/遺伝子工学は情報工学的視座から、言語学が見落としてきたことを補正し、且つ哲学・論理学を限りなく引き寄せ、言語の謎の解明と数学の進化を齎すだろう。

 

◎因みに論理学やある種の分析哲学は哲学も又進歩・進化するという可能性に賭けていることも又事実である。反事実的条件法Counterfactuals等もそうである。

 

◎宗教に関しては別に考える必要は在るが、アート・文学・哲学等に内在する宗教性と宗教は異なる。そして宗教は思想ではない。又政治と宗教には共有要素が在るとも言える。

 

◎ところでアートや文学にも科学の様な進歩・進化は無いと言ってもいいが、当事者達はそうでない可能性を分析哲学者達の様に模索している部分も在ると言っていいだろう。その是非や成果に就いては未だよく分からない。尤も何等かの可能性だけは秘めていると言っていいだろう。

 

◎哲学は技術論をもっと明確にすべきだが、哲学を一つに纏めきれないくらいに分化してしまっていて、それが困難なのである。だから哲学に思想的意味付けをする必要があると思われる。それをしながら各技術論を明確にしていかない限り、何時迄もそれは袋小路的学術に留まるだろう。

 

◎哲学(とりわけ伝統的所作のもの)の限界とは、最終的には根拠を一元化させて求めるところだ。だが全ての現象に根拠が在ると考えなければいけない理由(根拠)は無い。それがメタ的に哲学を分析する際の一つの真理だ。

 

◎哲学が他の全ての学への批判をすることを正当としても、哲学へそれをする学が殆ど見当たらない以上、哲学が内部からドグマに支配されることを未然に防止する術は今のところ見当たらない。

 

◎批評は思想にかなり近いが、批評を批評するだけの体系も出来上がっていないので、必然的に批評も哲学同様の内部のドグマに支配される可能性は他のものより高い。批評を批評する体系はやはり哲学を批評する体系同様必要である。

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

記事の方を読ませていただきました。
「詩は全て数式にも置換可能で、数学的にも解析可能である。」
これは詩が書かれた言語の生成文法などに限って言えばそうですが、おそらく芸術としての詩が全部数式になるかというとそうではないと思います。
「哲学と論理学とは、一種の袋小路的学術である。それはハイデガーも言う様に進歩するものではないからである。」
後期ハイデガーの考えですが、寧ろこのころの論理学は様相論理や多値論理等で袋小路から脱却しつつあったと思います。このころのハイデガーの立場というのは従来の科学を発展させてきた理性とは異なる「大いなる理性」なるものに立脚しているのですが、そもそも科学や論理は「大いなる理性」とは違い、冴えた「小さな理性」のなせる業なのでハイデガーはちょっと
カテゴリーミスをしているのではないかと私は考えます。

投稿: Lo Mlatu | 2016年3月11日 (金) 16時28分

様相論理学も多値論理学も袋小路から脱出出来ているとは私には思えませんが、数式化とは視覚的に説明可能という意味で、芸術も演算もそう変わりないという立場で考えています。数式化され得ないのはある詩なり何なりを鑑賞する心の内であり、作品は意外とそれが出来ると私は思います。日本語の詩が英語にも翻訳出来る様な意味で、ですが。
 ハイデガーの言う大理性に対し、小理性というご意見はその通りだと思います。

投稿: 西村純 | 2016年3月11日 (金) 21時38分

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