« 言葉の慣用性とは何か?Part196 「言い・言う」に接続する語彙に就いて | トップページ | 思想の時代Part4 »

2016年3月10日 (木)

時間・誕生と死滅・永遠Part7

◎時間にもし起源(アルケー)が在り、終わりが無いのなら、常に過去は有限で、未来は無限であるが、起源が無く、終わりが在るのなら、常に過去は無限で、未来は有限である。

 又起源が無く終わりもないのなら、過去も未来も共に無限である。

◎アウグスティヌスの言う様に時間の上で動きが在り、動きが時間を作っているのではない(時間は物体の運動なのではない)という考えは正しく思える。何故ならある他者の死、つまり死に拠ってその者は永遠に不在=無なので、動きは無いにも関わらず、その者の死から現在迄の時間はどんどん延長されていく。つまり動きの全く無いもの(ある他者が自己にとって死したという事実への認知と記憶等もそうだが)にも時間が関わるからである。

◎死者は永遠に生き返らない。このことが永遠という概念を無限という概念の即物性から解放している。

 しかし、死者を追想出来る存在者も有限の時間を生きる(永遠には生きられない)。故に死者を永遠に追想し得るかの如く、想定するということは、<我々>の魂が死しても永遠である、という暗黙の前提が在る。この永遠ということを、ヘーゲル的に普遍的と言い換えてもいい。つまり普遍性とは永遠性を前提にしている、とも言える。

 付記 後に詳述するつもりだが、ラッセルはヘーゲルの考えへ批判的である(<西洋哲学史>History of Western Philosophyに於けるヘーゲルの記述から)。つまりヘーゲルが世界とは個物の集積(完全に自己充足的な固い諸単位から成るところの、集合体<市井三郎訳、みすず書房>)ではない、と言った時、ヘーゲルがラッセルの言うことが正しいとすれば、ヘーゲルは、(その全体を一つの単純な実体ではなくて、有機体とも呼ぶべき複合体系であると考える点で、パルメニデスやスピノーザとは異なっていた。<市井三郎訳、みすず書房>)訳だから、ラッセルの言う様に、(この見解は当然、時間および空間そのものの実在性を信じないことを随伴している。なぜなら時間や空間は、完全に実在的なものであると考えれば、分離性や多岐性を含意することになるからである。<市井三郎訳、みすず書房>)。となればラッセルはどうもヘーゲルが時間が動きとは別に既に用意されているのではなく、あくまで動き本体が主体で世界が構成されていると考えていたと捉えていることとなり、それはとどのつまり上記のアウグスティヌスの考えと対立することとなり、又そのヘーゲルの考えを全て誤りであるとラッセルとはしているので、本質的には動きと関わりなく時間はそれ自体自立して存するというアウグスティヌスの考えには同意していることだけは明らかな様に思われる。

 又死者を弔うことをヘーゲルは<精神現象学>で力説していることを、レヴィナスは<神・死・時間>で説諭しているが、死者を永遠の相から考える習慣はヘーゲルの言う家族主義的な弔いの習慣(そのことはデネットが<解明される意識Consciousness Explained)>でも述べている)と死者の物化への抵抗という観念で捉えていることとも充分関係している。それは又別のシリーズで考えてみたい。

|

« 言葉の慣用性とは何か?Part196 「言い・言う」に接続する語彙に就いて | トップページ | 思想の時代Part4 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/540889/63325453

この記事へのトラックバック一覧です: 時間・誕生と死滅・永遠Part7:

« 言葉の慣用性とは何か?Part196 「言い・言う」に接続する語彙に就いて | トップページ | 思想の時代Part4 »