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2016年6月30日 (木)

詩性と哲学性の交差点に就いてPart1

 小説は形式的に世相・人生その他全てへ批評性で迫り、ディテール描写が具象的であり、その散文性から我々へ疑似体験させるものだが、それは曰く形而下的である。だが詩はその点形而上的にメタ的に世界を俯瞰させ、我々を反省意識へ放り込む。この部分で詩は明らかに哲学的である。

 散文的な連なりで書かれている詩も勿論ある。パーシー・ビッシュ・シェリーがそうである。或る意味ではワーズワスの自然詩もそうである。だがバイロンの詩は違う。イェーツやエリオットも違う。彼等は形而上的な世界への取り組み方である。

 抒情的であること、リリシズムは確かに詩を流れへと持ち込む。そこに散文性を生じさせる。だが形而上的であることは論理必然性と、仮に凄く不合理であり矛盾していたとしても尚直義的であり、英語で言えば目的格、目的語の明確な指示の仕方と近接する。従ってそれは韻文固有の性質を前面に出す。そこが哲学的という訳だ。哲学は概念規定的に直義的だからだ。逆説的・矛盾的・反証的二分、つまりディコトミー(dichotomy)的な示し方こそ韻文の特徴だからだ。

 だがこの様に示し方によって散文的になったり、韻文的になったりすることそれ自体は実に不思議である。又形而下的な小説の散文性と形而上的な詩の韻文性も同様に極めて謎めいている。

 このことは言葉の配列(メッセージの順列)、示し方(表示方法)が直接心へ届き方を変えているということを意味する。散文性とは一つには筋道が流れの様に理解されることであり、もう一つは小説やエッセイ等での報告的文に於いてヴィジュアルに光景を心に浮かび上がらせることである。それはまず具体的像を現出させる。だが韻文性は真理的な諸関係をメタ的に反省意識の上で再構築させる。それはだから現出されるヴィジュアル性としてはインダイレクト(間接的)である。寧ろ先ず論理(それは多分に音楽的流れのメタ的な本質である)へと誘う。しかしその論理は流れ的に連なるよりは、より直義的であり、要するに真理確定的なのである。だから仮にそれがヴィジュアル的イメージを喚起したとしてもかなり抽象的である。宗教的である場合もあるだろう。

 散文が日常的な感性へ訴え、韻文が哲学的反省的感性へと訴えるからこそ、散文が形而下的で、韻文が形而上的であるという訳だ。

 次回はこの韻文と散文とが織り成す我々の言葉を示す行為それ自体に就いて詩性と哲学性から考えてみよう。

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