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2016年6月28日 (火)

時間・誕生と死滅・永遠Part13 哲学は哲学史を通した対話である、だが実は詩も別の意味でそうである②

◎<テロス・誠実性・生と死Part2>で私が言おうとしたことは、協調性とか友愛的な相互理解ということとは違うということは注意深い来場者にはもうお分かりあろう。つまり断絶や対決をも含んで相互意思疎通ということを言いたかったのだ。それは和気藹々等とは対極のもっと熾烈な自由への闘争なのである。

◎現代社会は数値化された目標に雁字搦めになっている。結局自然科学的な実証性に於いて客観性が維持され、その上で国家目標的に到達すべき値が算出されている。しかしその社会全体を動員する合理性には、我々個人が個として矛盾を感じたりして、生きているということの不合理性へ覚醒することを考慮には入れていない。その点では認知科学もコンピュータサイエンスも共に数値化されたことから理解するということと、社会連動的な情報管理や情報流通のシステム管理的側面からニーズが生じ、その時代的な意義を認められ営まれている。だがそこでも例えばAIと勝負する棋士達一人一人の心で苦悩する様なことまで考慮に入れているとは言えない。

◎現代社会はギリシャの時代から中世、近世、近代と経て、既に産業革命の時代に決定的となった資本主義社会の資本の流通と経済循環システムの完備こそが絶対的正義だという形で運営されていて、その反省的地点へビジネスパーソンを誘うことは決してない。だからこそそれらの営みとは別の地点で純粋に自分の小さな頭で考えて、その都度結論を出すという作業に重要な意味を齎しているのだ。

◎哲学思想から言えばギリシャ・ローマ以前にはユダヤ思想があったし、東洋では仏教、ヒンドゥー教、中東ではイスラム教等の教義と相補的な固有の宗教的文化コードが成立してきた。儒教、道教、神道等もそうだし、世界中の宗教教義的文化こそが国家形態や固有の法体系を生じさせてきたと言える。だが、それでも尚現代人は思想的にそれらの間に介在する無理解や偏見を克服する形で未来へ向かっていくべきだと考え始めている。

◎文藝的な営みが仮に或る国や民族に固有の何等かの形式や、その形式を愛好する感性を我々に発見させるものであるなら、日本語には日本語に固有の性格や性質があって、それに敵った形式や感性が進化してきたと考えていい。それでも日本人でも日本語以外の言語に接して、そこで理解出来ること、感性的なレヴェルでも精神的な出会いを成立することが出来る。そういった意味でも固有の文化コードや形式的美とは、人類全体に共有し合える財産と認識していい。

◎つまり人類は言語を介在して、相互に異なった文化コードや形式を理解し、自分のものにして、更にそれをその形式全体の営みへと寄与し得るということをどの民族も知っている。そのことが極めて重要である。だから俳句も日本語だけで行われている訳でなく、英語でも可能だし、日本人だけによる表現形式である訳ではない。そういった意味であらゆる詩形式が人類全体の共有財産として認識されるということの中から、相互創造的交流の可能性を見出し得るだろう。

◎意外と人類は異人種や異民族の表現をいとも簡単に咀嚼し、吸収してきたのだし、今もそうなのだ。時間は或る民族にのみ固有に永遠である訳でもなく、或る民族にのみ誕生ということが聖なるものである訳でもない。詩は古今東西死滅する詩人自らの肉体や精神への自覚から生み出されてきた。哲学者が生や死を考えてきたのも片方では詩人達が営々とそういった詩作を繋いできたからでもあるのだ。哲学は詩を憧憬し、尊敬し、詩は哲学を内に取り込むのだ。

◎現代人類にも固有の神話的な精神構造がある。それこそが数値化された資本主義経済社会と自由思想の意見交換、そして自然科学、とりわけ医学・医療の進化と長寿化による死生観の再考という意識である。実はどんなに自然科学のテクノロジーが進化しても、死生観全体が簡単に理解されている訳ではなく、寧ろ人は死ぬ最期迄生とは何で、死とは何かということをよく分からず生き死んでいく。

今回は最後に一つ重要なことを述べておこう。

 それは人とは健康に満ち溢れ自信満々でいる時よりも、少し疲れている時とか、何かを(それは日々のルティンであってもいいのだが)し終えてほっとしている時、放心状態の時、辛いことや嫌なことがどっさりあってうんざりしている時ちょっと待てよと、はたとじっくり考える時等の意欲や精神状態も必ずしも万全ではない時にこそ、寧ろ冷静沈着に思索的であり得るし、却って創造的でもあるということである。それは或る意味では死が接近してきて初めて何かに開眼するということと似ている。

 そのことをより深く理解して創造的仕事や作業を行うということが意外と重要であり、そのことこそ個々に与えられた文化とか民族とかの個に於ける特殊性、個別性を超え得る真理であると言っていいだろう。そしてそれは与えられた時間を均等に使うということでもなく、ずっと考えてその後一気にアウトプットするということでもあるのだ。

 そのことは反復して考えていってみよう。(つづき)

付記 詩を読むのも或る時一気にという呼吸も重要なのだ。哲学も然りである。つまり力の入れ方の配分も、どの時間も均等にではない。徹底的にぼおっとしていたり、力をふっと抜いたり、或る時は異様に集中させたり、ということなのである。

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