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2016年10月

2016年10月31日 (月)

未来展望Part11・世界の真実Part30 心がけておく必要のある事項

平均的に邑なく何でも得意な人より、凄く不得手なこともある一方、別のあることに於いては極めて優れている様な人の方が現代社会ではテクニシャン、スペシャリストだけでなくジェネラリストでも巧く生き抜ける。それだけ全てに於いて多様化したニーズが社会に存在するからだ。でも不得手なことも、得手な人のことへ敬意を持ち関心だけは絶やさぬ様にすべきである。その一々に精通していなくてもいいし、そうあるべきだとオブセッションを持たない様にすべきだが、それでも全く無視するだけでもない態度を巧く作れることが大切なのだ。

〇現代社会はかなりハードな情報量で個人を攻めてくる。従ってその大量な情報を或る部分では無視した方がいいし、雑音(ノイズ)と割り切って(人に対しても自分に対しても)一々大騒ぎしない心がけが大切だが、どうしても脳へ侵入してくるものは、SNSなどを積極的に利用してツイートして、心に留め置かずに忘れていくことが大切だ。尤も凄く意識へかかって仕事の邪魔にならない様に逐一を覚えておくのでなく、すんなりと忘れていくことが必要だが、それは完全に記憶から消すという意味ではない。

 つまり全てを覚えておく必要はないが、必要な時は直ぐ思い出せる様な心の在り方を平素から作っておくことが大切だ

 人生で完全に忘れた方がいいこともあるにはあるが、そう多くはない。異常体験を人生で持つ以外ではそういうことは稀である。

 だが大切なことでも全て覚えることはできないので、メモは必要だし、その為に端末やSNS利用することも有益だが、些細なこと、それを聞いた時にはさして重要でないことでも、直ぐ後で思い出せる様にだけしておれば、後でそれが有益になったり、役立ったりすることはある。だから一旦聞いた情報を心に留め置いて、仕事したりする時は、それをすっかり忘れていても、一度留め置いたことは再度聞けば直ぐ思い出せるので、そういう留め置き、忘れ、思い出すということを習慣化することが大切だ。そういう心の在り方を作るには、決めつけ的な拘りを持たず、結論を性急に出さない様に日頃から心がけることが大切だ。その時々で我々は小さな結論は出さなければいけないが、その小さな結論は後で到来する大きな結論には道を譲る、そういう風に決め込まないで、その時々の処理と、先送りしておくべきことを巧く使い分ける必要がある。哲学的にはエポケー(思考停止、判断留保)とも言える態度を日頃から携えておくべきである。それが心に留め置き、忘れ、再度直ぐ思い出せることを巧く活用させるのだ。

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2016年10月30日 (日)

時間の性質Ⅵ 時間と行為・人生

 

未来における何等かの我々による関与とは、今はやはりどうなるか分からない。つまり今は未来をどうするかは常に限定的にしか分からない(つまりその時になってみなければ分からない)し、どうすることもできない。それは過去に起きたことをどうすることもできないのとは、違った意味でそうである。何故なら過去は何か途轍もなく後悔すること以外なら、さらりと忘れていけるが、未来に対しては展望を持たずには居られないからだ。

 

○重要なことは努力するのが最良なのではないということだ。ルティン的な意味での積み重ねだけは重要であるが、肩に力を入れ過ぎないということだけが大切だ。巧くいくとか、それなりにひどくない結果を弾き出すのに必要な心得とは、まず自信を持って、失敗を恐れないこと、仮に多少失敗したとしても再度チャレンジできる心の余裕だけを持っていることと、楽しんで、リラックスして気負うことなく、淡々と全てを行っていくことだけが大切だ。そのためには何かこれだけは信じていられるというものを持つことが大切だろう。それは心の価値の様なものであり、それだけは信じていられると自信を持っていられることである。

 

 成果の如何を常に心配したりすることなく、今やれることにだけ集中する方が大体良い結果へ繋がる焦る気持ちが結果や成果へ気になる精神的傾向を人に作るが、それを持たない様にすることだけがその時にすべき行為へ人を集中させる

 

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2016年10月29日 (土)

ホイットマンの詩が訴えている法則への見方とハイデガー<ニーチェ>の矛盾律と存在論の核心に就いてPart2/アルケオロジーは可能か?Part2 レヴィナス、アウグスティヌス他

 ホイットマンの詩にA Riddle Song(謎のうた)1881年初出)というのがある。それをまず原文と和訳(ホイットマン詩集 アメリカ詩人選(2)木島始編より抜粋)を見てみよう。

A Riddle Song

That which eludes this verse and any verse,
Unheard by sharpest ear, unform'd in clearest eye or cunningest mind,
Nor lore nor fame, nor happiness nor wealth,
And yet the pulse of every heart and life throughout the world incessantly,
Which you and I and all pursuing ever ever miss,
Open but still a secret, the real of the real, an illusion,
Costless, vouchsafed to each, yet never man the owner,
Which poets vainly seek to put in rhyme, historians in prose,
Which sculptor never chisel'd yet, nor painter painted,
Which vocalist never sung, nor orator nor actor ever utter'd,

Invoking here and now I challenge for my song.

Indifferently, 'mid public, private haunts, in solitude,
Behind the mountain and the wood,
Companion of the city's busiest streets, through the assemblage,
It and its radiations constantly glide.

In looks of fair unconscious babes,
Or strangely in the coffin'd dead,
Or show of breaking dawn or stars by night,
As some dissolving delicate film of dreams,
Hiding yet lingering.

Two little breaths of words comprising it,
Two words, yet all from first to last comprised in it.

How ardently for it!
How many ships have sail'd and sunk for it!

How many travelers started from their homes and neer return'd!
How much of genius boldly staked and lost for it!
What countless stores of beauty, love, ventur'd for it!
How all superbest deeds since Time began are traceable to it--and
shall be to the end!
How all heroic martyrdoms to it!
How, justified by it, the horrors, evils, battles of the earth!

How the bright fascinating lambent flames of it, in every age and
land, have drawn men's eyes,
Rich as a sunset on the Norway coast, the sky, the islands, and the cliffs,
Or midnight's silent glowing northern lights unreachable.

Haply God's riddle it, so vague and yet so certain,
The soul for it, and all the visible universe for it,
And heaven at last for it.

この歌を、またどんな歌をも、逃げおおせるもの、

もっとも鋭い耳にも聞かれず、もっともはっきり見る目にも、

もっとも巧妙な心の動きにも、姿を現さず、

学識でも名声でもなく、幸福でも富でもなく、

それでいて絶えまなく世界中いたるところで、あらゆる心と生きているもの、

あけっぴろげなのに、やはり秘密、現実の中の現実、一つの幻想、

値段のないもの、だれにも与えられ、それでいて人が所有者とは決してなれぬもの、

彫刻家がいまだに彫ったことなく、画家が描いたことのないもの、

声楽家がついぞ歌ったことなく、雄弁家も俳優もついに発声したことのないもの、

それをここに呼びだして、今わたしは、わたしの歌にしようと挑むのだ。

淡々と、公衆や、個々人のよく行く場所で、独りっきりで、

山や森の向こうで、

都市のもっとも忙しい諸道路の伴侶、集会のなかで、

それは、そしてその放射するちからは、休むことなく滑走する。

美しい、無心の赤んぼたちの顔つきのなかに、

あるいは奇妙にも棺に収められた死者たちのなかに、

あるいは開けそめる夜明けとか、夜の星たちの眺めのなかに、

夢また夢の融けていく繊細な薄い膜(フィルム)のように、

隠れてはいるものの、立ち去ることがない。

それを成り立たせている、小さな二息の言葉、

二つの言葉なのに、始めから終りまですべてがそのなかに含まれている。

何と熱烈にそれを求めることか!

何と多くの船また船が、それを求めて出航し、沈んだことか!

何と多くの旅人たちが、家から出ていき、帰らなくなったことか!

何とおびただしい精神が、そのために大胆な賭けに打って出たことか!

「時」の開始いらい、いかに至上最高の行為のすべてが、それに由来していて、-しかも最後までそうであることか!

どんなにあらゆる英雄的な殉教につぐ殉教がそのために!

どんなにそれに正当化されて、地上の恐怖や、悪虐や、戦闘のかずかずが!

どんなに輝かしい、魅惑しつづける、ゆらめく炎また炎が、ノールウェイの海岸、空、島々や断崖での夕日のように、

あるいは手の届かない深夜の黙って光り輝く北極光のように、

豊富さをたもって。

おそらくは「神」の謎だ、そんなにも空漠としていながら、そんなにも確実なそれ、

魂はそのためにあり、そして目に見える全宇宙がそのためにあり、

そしてついには天界がそのためにある。

 

 ホイットマンのこの詩では私が字体を変え黄色く囲った箇所が本稿では極めて重要である。つまりホイットマンは矛盾した願い、願いというもの自体が矛盾した一つの心理形態なのであるが、それを書きとどめているのである。

 このテーゼはアウグスティヌスが<告白>で言っている前回の続きの部分(第十二巻 第二十九章 四)の次の箇所の彼の論述と全く言っていることは同じである。

 

むしろ質量は造られるのである。-また時間によって先立つのでもない。わたしたちは、時間上先に形成されていない音声を歌の形式に整え作り上げるのではないからである。じっさい、そのような材料は、時間によっても、それから造られる諸物の形態に先立つのであるが、しかし歌のばあいにはそうではない。歌うときにその歌の音声が聞こえるのであって、先に形式なしにひびいて、後にそれが歌に形成されるのではないからである。じっさい先にひびいたものは過ぎ去ってしまうのであって、そのうちふたたび捉えて、技術によって歌に編むことができるようなものはなにも見出されない。それゆえに歌はその音声によるものであり、歌の音声は歌の質量である。じっさい音声は、歌となるように形成されるのである。そのゆえに音声の質量は、上に述べたように、歌の形式に先立のである。先立つといっても、歌を作る能力によって先立つのではない。音声は歌を作り出すものではなく、身体から発してそれから歌が作られるように、歌うものの心のままになるからである。また音声は時間によって先立つのでもない。それは歌はただ音声であるのではなく、美しく整った音声であるからである。そうではなく、音声が歌に先立つのは起源によってである。音声ができるように、歌が形成されるのではなく、歌ができるように音声が形成されるからである。この音声の例によって理解されるのではなく、歌ができるように音声が形成されるからである。この音声の例によって理解することのできるものは、諸物の質量が最初に造られ、それから天地が造られたのであるから、それは天地と呼ばれたのであると理解するがよい。しかしそれは時間上最初に造られたのではない。諸物の形態がはじめて時間を起こすのであるが、かの質量は無形態であったのであって、時間においてはじめて形成されたものとともに知覚されるのであるからである。しかしかの質量については、あたかもそれが時間によって先立っているかのようにいう外はなにも述べることはできない。もっともそれは-形成されたものは明らかに形成されないものに優るのであるから-価値においてもっとも劣っており、無から創造されて、あるものに形成されるためには、創造主の永遠性がそれに先立たなければいけない

歌うときにその歌の音声が聞こえるのであって、先に形式なしにひびいて、後にそれが歌に形成されるのではないそのうちふたたび捉えて、技術によって歌に編むことができるようなものはなにも見出されないは、明らかに前回のレヴィナスの言っている近さにおいては、言葉はその現在に遅れる言葉はこの遅れを取り戻すことができませんを含意している。それは率直時間論であり、言葉が意味である限り、音声的印象やその把捉より必ず遅れる、そして意味として伝わってしまったものは取り返しが尽かない(引っ込めることができない)、だから言葉は後から言い直しても最初に言ったことが第一印象として残ってしまう(つまりその意味の把捉をした時に言い直しても後の祭りである)ということであり、歌の魅力=威力とは、その臨場で伝わるものだということ、それはメッセージなので、それを意味化(それは把捉に必ず遅れてしまうから)する以上に、その歌が歌われた時の印象で全てが決まってしまう(それがパフォーミングアートの運命であり、強さであり、武器でもある)。だからこそホイットマンの詩で書かれている彫刻家がいまだに彫ったことなく、画家が描いたことのないもの、声楽家がついぞ歌ったことなく、雄弁家も俳優もついに発声したことのないもの、それをここに呼びだして、今わたしは、わたしの歌にしようと挑むわけである。

 因みにこの発せられる音声と言葉としての意味を把捉することの間の時間的誤差、ずれをデリダは差延作用と呼んで、テクスト主義的な観念優先的イデオロギーを正当化するために使っている

ホイットマンの後半の記述「時」の開始いらい、いかに至上最高の行為のすべてが、それに由来していて、-しかも最後までそうであることか!/How all superbest deeds since Time began are traceable to it--and
shall be to the end!
で彼は明らかに世界=宇宙の起源を認めている。この起源こそが時間の起源である。最後までとここで述べているのは世界=宇宙の終焉、死滅・消滅を意味する。

ここには実は大いなる矛盾がある。

音の印象とメッセージ的パワーが伝わることと、その意味の把捉とのずれ、遅れ、又誰も彫ったことのないことを掘ろうとしたり、描いたことのないことを描こうとしたり、誰も歌ったことのないことを歌おうとしたり、発声したことのない雄弁を発声しようとしたりすることは、その形式、つまり彫刻、絵画、歌、雄弁術という枠があるからこそできることなのだが、同時にその枠の中では誰もしてこなかった様なその形式を利用した何かを造るということは、模倣や踏襲と、発明や発見という二義性はあり、それは一つの矛盾を生きるということであり、ハイデガーが述べている世界=存在とはそもそも矛盾なのであり、矛盾していることそのことこそが合一的、つまり合理的なのだという存在論を思い出させる。

ハイデガーは<ニーチェ>で次の様に述べている。

 

臨在するもの、持続的に存立するものは、もしそれの臨在と現在とはいつかほかの時点への見越しによって、そしてそれの持続的存立がいつか或る非持続的なものへの見越しによって軽んぜられるときには、臨在し持続的に存立するものとしては必然的に逸せられる。もしそうなれば、ひとつの存在者について、同一のことが肯定され且つ否定されるようになる。人間には、そのようなことが優にできるのである。人間は自己矛盾に陥ることができる。しかし人間が矛盾のなかにとどまるならば、不可能事は、肯定と否定とが混合されることにあるのではないけれども、人間が存在者そのものの表象から自分を閉め出し、自分がその然りと否において本来何をとらえようとしているのかを忘却することにあるのである。人間が同一のものについて平気で唱えうる互いに矛盾した主張によって、人間は自分の本質から非本質のなかへ身を移し、存在者たるかぎりの存在者への関わり合いから離れることになる。矛盾律は、何かの仕方で拾い上げることのできる現実的なものへの適合ではなく、むしろそれ自身、基準定立なのである矛盾律は何が存在者であり、何のみが存在すると見なされうるかを、先んじて告げる。それはすなわち、自己矛盾しないものであるこの命題が、そもそも何は存在すると見なされるべきかについて、初めて指示を与える。それは《べし》を言い表わし、ひとつの命令法なのである。/真なりと思うことは、何が存在すると思われ、真理として通用すべきかを告げる或る先導基準を、それ自身のうちで且つそれ自身のために必要とするわけである。けれども、真なりと思うことがひとり自分のみを頼りとするからには、この先導基準は、何が存在的で真実だとして通用すべきかを自分ではじめから定立するような、いっそう根源的な信から由来するよりほかはない。矛盾律のなかには何を存在すると認めうべきかについての基準定立が含まれており、この定立はひとつの《命法》であり-したがって、命令(Befeh)である認識は、存在するもの、持続的に存立するものの必然的な本質構成なのである。(中略)生はそれ自身のうちに-それの生動性のうちに‐命令という本質的特徴をもっている人間的生の存立確保は、そもそも何が存在すると認められるべきか、何が存在と呼ばれるべきか、についての或る決断において遂行される矛盾律はひとつの命令なのである。/ニーチェは結びの文章で、こう答えている‐「矛盾することができないということはひとつの無能力の証明であって、<真理>の証明ではない」。/ここでは《無能力》と《真理》とが対置されている。《無能力》という言葉は、行動の中絶という意味でのたんなる不能という表象を示唆するので、たしかに誤解されやすい言い方であるが、それは実はひとつの《ねばならぬ》を、或る必然的な特定の行動を指しているのである。それなのに、ニーチェがなぜ無能力という言い方をするかは、伝統的な真理概念に対してもっとも鋭い対立を置き、こうして認識と《真なりと思うこと》に関する彼の解釈の特徴を、衝撃的に際立たせようとする意図から出たものとすべきである。・《無能力》という強調過剰な表現は、無矛盾性とそれの遵守が、矛盾し合う事物の不在という見方から発源するではなく、或る必然的な命令能力とそのうちで定立される或る《ねばならぬ》から発源するのだ、という趣旨のものにほかならない。

 

 ここで最も重要なテーゼとはハイデガーは矛盾律を命令と捉えていることだ。これはホイットマンの詩A Riddle Songで後半に黄色く囲った箇所の感嘆疑問文の持つ命令的性格、つまりそれを読む読者に肝に銘じさせる意図そのものの持つ矛盾律を思い起こすべきであろう。

何と熱烈にそれを求めることか!何と多くの船また船が、それを求めて出航し、沈んだことか!何と多くの旅人たちが、家から出ていき、帰らなくなったことか!何とおびただしい精神が、そのために大胆な賭けに打って出たことか!「時」の開始いらい、いかに至上最高の行為のすべてが、それに由来していて、-しかも最後までそうであることか!どんなにあらゆる英雄的な殉教につぐ殉教がそのために!どんなにそれに正当化されて、地上の恐怖や、悪虐や、戦闘のかずかずが!How ardently for it! How many ships have sail'd and sunk for it! How many travelers started from their homes and neer return'd! How much of genius boldly staked and lost for it! What countless stores of beauty, love, ventur'd for it! How all superbest deeds since Time began are traceable to it--and shall be to the end! How all heroic martyrdoms to it!
How, justified by it, the horrors, evils, battles of the earth!

 これこそ正にディランにBlowin’ in the WindHow many roads must a man walk down Before you call him a man ?と言わしめ、Like a Rolling Stoneで彼にHow does it feel?と言わしめた一つのリアルへの詠嘆である。悲嘆である。

 だが、その詠嘆・悲嘆は他者があってこそのことである。この他者という観点=命題に於いてハイデガーは不十分であるし、それをレヴィナスは知っていた

 だからレヴィナスはホイットマンが自身詩人の側から他者である人類全体への共感誘引的な詠嘆・悲嘆を行うことの意味を解析する

 彼によると、「世界あるいは存在のなかで通用する機械的な連帯は身代わりによって断たれてしまう」のだし、「他者との関係においてリビドーは存在しない。それはエロス的な関係の最たるものなのだ」し、「自我はエゴであるよりも古くから、そのすべてが人質であり」、「自我は起源に先立って他者へと結びつけられている」し、「こうした人質の無条件があってはじめて、赦しや慈悲や憐憫がありうる」のだし、「パウル・ツェランの言葉を思い起こしておきましょう。「私が私であるとき、私はきみである。」」 のである。

 ホイットマンの疑問文は多分に命令文的様相であることは既に述べた。それはバイロン<マンフレッド>で実践されていたメソッドであり、それがニーチェの<ツァラトゥストラ>で結実した。その流れをも意識の上でか無意識にか、はともかく、ホイットマンにも受け継がれている。その命令文的疑問文で詠歎・悲嘆するメッセージで、世界の矛盾を問うそれがハイデガーに言わせると正に命令形なのであるが)、そのスタンスから時代的要請を蝕知した個的な呟きと囁きと叫びをボブ・ディランが実践した、と見ることは極めて自然であろう。

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2016年10月28日 (金)

アルケオロジーは可能か?Part1 レヴィナス、ホイットマン、アウグスティヌスから

 

 エマニュエル・レヴィナスは<神・死・時間>(合田正人訳・法政い大学出版局 叢書ウニベルシタス449)で、(無‐起源としての主体性)という一章で起源性と無起源性ということを他者と自我の問題から論じている。

 

 そこで彼は次の様に述べている。

 

他者は尺度をはみ出すのではない。他者には共通の尺度をあてがうことができないのです。言い換えるなら、他者は主題のうちには存しておらず、意識に対して現れることもありえません。それは顔なのです。強迫と化すような顔の不可視性のごときものがあるのです。ただし、この不可視性は接近される者の無意味さに由来するのではなく、現出ないし顕出、ひいてはヴィジョンとはまったく異質な、意味する仕方に由来するのです。

 

 

 

(前者)意識のうちにあるものすべてが意識によって定立されるわけではありません。強迫は意識を逆向きに貫通し、異質なものとしての意識のうちに刻み込まれて、他律を、不均衡を表すことになります。起源の不意をつく錯乱です。それは起源より先に出現し、アルケーに、始まりに先立ち、意識のいかなる微光にも先立って生起します。存在が失われては再び見いだされるような存在論的戯れを停止させるのも、そうした無起源性なのです近さにおいては、言葉はその現在に遅れる。アナクロニズムですが、しかも言葉はこの遅れを取り戻すことができません。このような無起源性が迫害(persecution)なのです。それは自我を他者が掌握することであり、そのとき自我は言葉を奪われた状態に遺棄されるのです。

 

 レヴィナスがここで述べていることは、哲学的には明確に輪郭を持っている。他者は尺度をはみ出すのではない。他者には共通の尺度をあてがうことができないのです。(中略)他者は主題のうちには存しておらず、意識に対して現れることもありえません。は他者という存在の絶対的自我参入不可能性のことを言っている。主題とはあくまで自我を持つ自己内の命題のことなのであり、それとは本質的に無縁のこと、その無縁性としての絶対的存在不可避性が他者なのである。だから共通の尺度をあてがえない他者とは自己内命題と不可分の自我からはどうすることもできない、つまり他者の心を自己とはどうすることもできないということを言っている。

 

 このことは三つ前の記事(ホイットマンの詩が訴えている法則への見方とハイデガー<ニーチェ>の矛盾律と存在論の核心に就いてPart11025日記事)と更に(詩に於ける命令文と疑問文Part1 ディランとホイットマン① ディランの<ライク・ア・ローリングストーン>の歌詞疑問文の命令文的意味合いと先人ホイットマンの詩に於けるそれ/1022日記事で扱ったホイットマンの詩Who Learns My Lesson Complete? で示されている The great laws take and effuse without argument, I am of the same style, for I am their friend, I love them quits and quits, I do not halt and make salaams. の黄色部分の詩メッセージに該当する。自然の偉大な法則は存在を一挙に示す。一個の存在者である自己にとって、自己内命題=自我でどうすることもできない他者は存在を自己という存在者を自我的な特殊性を棚上げして初めて得られる世界全体の中の一部である私の獲得(<不在の哲学>で中島義道はそのことを脱自己中心化と呼んでいる。この論理は永井均により<私・今・そして神>で言っている累進構造の最初の<私>からの逸脱とも一致している。)でもある。だから自己にとって他者とは他者にとっての他者に自己を不可避的にしてしまう、自己からはどうすることもできない存在であり、存在はその一々の、つまり私にとっては私自身の自己内命題=自我を干渉することのできなさ(神さえそれができないということを永井均は<私・今・そして神>でも述べている)からquits and quits するのである。

 

 つまり存在自体が諦めるとは存在はどの存在者の特定の味方にも立場にも立てないというこの不干渉性を意味しているのである。

 

 だがレヴィナスの次のパラグラフの主張は今まで述べた最初のパラグラフの主張と関係しているが、その中島義道の言う脱自己中心化された最大のものである時間、つまり時間は誰のものでもあり得るが、私だけのものでも貴方だけのものでも、彼や彼女だけのものでもない、つまり特定の誰かの所有でも支配下にもないものである、という観点から語られている。

 

 時間に始まりがあるなら、それはカント<純粋理性批判>のアンチノミーを無効化させることとなるが、それは後で述べるアウグスティヌスにとっては自然なことだった。だが現代物理学では130億年前にビッグバンがあったとされるので、カントのアンチノミーを無効化させる形で現代の時間の始まりへの考えは展開していると言える(尤もそのことでカントのアンチノミーの存在理由が滅却する訳ではない。論理的道筋としてその見方は今も有効である)。

 

 <告白>の第二十九章で次の様にアウグスティヌスは述べている。

 

 

 

、「はじめに造られた」といわれているのを、「最初に造られた」という意味の外ならないと解するものは、天地というのを天地の質量として、すなわち万有のいいかえれば可知的ならびに物体的被造物全部の質量として解する外はない。もしもかれがそれをすでに形成された万有として解しようとするなら、かれにむかって、「神ははじめにそれを造られたのなら、つぎになにを造られたのであるか」と当然問い質すことができるであろう。そしてかれは、万有ののちにはなにものも見出さず、こうして不本意にも、「神はその後なにも造られなかったのなら、なにゆえそれを最初に造られたのであるか」という質問を受けることになる。しかしもしかれが神は最初無形態なものを、つぎに形成されたものを造られたのであるというなら、かれが永遠によって先なるものと、時間によって先なるものと、選択によって先なるものと、起源によって先なるものとを区別することができるかぎり、それはけっして不合理ではない。すなわち永遠によって先なるものを区別することができるかぎり、起源によって先なるものとを区別することができるかぎり、それはけっして不合理ではない。すなわち永遠によってとは、神が万物に先立つようなものであり、時間によっては、花が果実に先立つようなものであり、選択によっては、果実が花に先立つようなものであり、起源によっては、音声が歌に先立つようなものである。わたしがここで挙げた四つの場合のうち、第一第四とは理解がきわめて困難であり、第二第三はきわめて容易である。

 

 

 

 ここでアウグスティヌスは永遠と起源が対立する様相であることを直観している。つまり永遠であるなら終わりがないということであり、それは即ち始まりもない無限の過去があり得るということであり、起源があるとは始まりがあり、それは即ち終わりがあることを示唆している。

 

 だが時間は始まりがあり終わりがあっても、そのいずれも無くても、成立するし、選択も時間が存在し続ける限り成立する。

 

 更にアウグスティヌスは次の様に続ける。

 

 

 

じっさい、主よ、それ自身は不変でありながら、変易する諸物を造り、それゆえにそれらに先立つあなたの永遠性を見ることはまったくまれで困難な直観である。つぎにまた、どうして音声が歌に先立つかを、大した苦労なしに見究めることができるほどその理解力が鋭敏なものがあるであろうか歌は形成された音声であり、形成されていないものもなお存在することができるのであるが、しかしまったく存在しないものは形成されることもできないからである。そのように質量はそれから造られるものに先立つのであるが、しかし先立つといっても、質量が造るからではなく質量は造られるのであるまた時間に先立つものでもない

 

 

 

 最初に黄色にした部分主よ、それ自身は不変でありながら、変易する諸物を造り、それゆえにそれらに先立つあなたの永遠性を見ることはまったくまれで困難な直観であるは明らかに神が永遠であるなら、それを我々は確認できない、つまり神の永遠の時間を共有し合える存在者はこの世界には只の一つさえないということである。

 

 次の黄色にした部分は歌を歌うために音声を我々は持ったのでなく、と言って歌は音声を使わずには歌われない。だからまず神によって造られた音声を、次に間を置いて神によって歌が造られたと考えてよいのかという懐疑がアウグスティヌスにはある。つまりそれが最初のパラグラフ(実際の文では続いているが、私は初めに示したパラグラフの意味である)の冒頭の二つの黄色にした部分どうして音声が歌に先立つかを、大した苦労なしに見究めることができるほどその理解力が鋭敏なものがあるであろうかの叙述の問いの延長だということが分かる。

 

 だからその後で彼は三つ目の先立つといっても、質量が造るからではなく質量は造られるのであるまた時間に先立つものでもないと言って彼の結論を示しているのである。つまり性質と言い換えてもいい質量を作ったからこそ、その指示に従って(ここら辺は遺伝子に置き換えてもいい部分である)世界の存在者が構成されていったということだ。

 

 だから最初に質量だけ全て作られているので、後はその設計図どおりに何もかも作られていくということだ。そしてそれは世界(宇宙)が神によって造られてから時間ができたのであるから、時間と共に質量を神が造ったと捉えることで、時間に先立って質量が形成されているとは彼は考えていないことを示している。つまり時間と質量とは同時的、相補的だということを彼は言っている。そこら辺は彼の考えは現代人の考えを先見している、と言える。

 

更にレヴィナスはアウグスティヌスの指摘しているのと同じことを上の記述に於いて存在が失われては再び見いだされるような存在論的戯れを停止させるのも、そうした無起源性なのですで示している。つまり彼はここで存在=宇宙の誕生の一回性を示唆している。その点ではアウグスティヌスの起源への提言をレヴィナスは認めていることになる。

レヴィナスとアウグスティヌスの今回示した論述は(続きも含めて)重要なので、再度色を変えて示した場所を含め重要箇所は次回以降も触れる。(つづき)

付記 ところでレヴィナスは確かにここで何度もころころ世界=宇宙=存在が誕生し死滅するのを阻止するのは一度起源を無くさせるしかないと考えているが、物理学者はどうやら起源があり、起源があるからには死滅、消滅もある、と考えている様だ。レヴィナスはカントのアンチノミーを認めつつ、一回性というより、唯一性の永遠を認めている。その点では神をアウグスティヌス的でなくユダヤ的に捉えているとも言える。だが本当にレヴィナスが過去が無限で未来、つまり存在は消滅しないと考えているとはこの記述だけでは判定出来ない。その辺はゆっくりと考察していきたい。

 

 

 

 

 

 

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2016年10月27日 (木)

情景・静止画像―時間・時刻/時間と空間の相互依存性Part1

ここ一年ほどウォーキングに参加している。西武鉄道や秩父鉄道主催のものである。歩きながら風景を見ていると、色々な想念が心に湧いてくる。

 空間の広々と感じられるエリアを歩いていると、遠景として臨める山々は動いていずじっと佇んでいるし、川は集中豪雨の時以外は静かに流れている。川並を変えずにその指定されている様な流れだけを見せてくれる。

山々や川と近景の木々が見える。それらはそよ風で揺らめいている。でも台風の時以外はそれらが根幹から揺さぶられることはない。

基本的に静止していると感じられる情景は確かにある。

だがそれを写真にしようとしてシャッターを押すと、そこには静止画像が映るが、自分が見ている情景は微妙に揺れている。動いている。その感じが写真では一挙に剥奪されてしまう。

当然である。自分はじっとそこに居ても呼吸して身体全体が微動しているので、静止画像そのものを見る時には、自分が直に写真に収めた情景を目の前にしている時の印象とはまるで違って見える。臨場とは微動であり波動そのものである。だが写真とかの静止画像にはそれがない。それは決定的差異である。

写真の静止画像とは全体の中の一瞬を切り取られたものであるに過ぎないけれど、全く今目の前で根幹は動きのない情景であっても何かは必ず微妙に動いている。その違いは決定的である。自分の身体も呼吸と鼓動と共に微動しているし、人が歩いて通り過ぎて行ったり、風が吹いて木々の葉が揺れたりして、要するにどんな情景でもその時間的経緯の中で基本的に静止している臨場に自分が居る限り、完全に静止しているわけではない。完全静止とは時間が切り取られ剥奪されている場合以外にはあり得ない。

その点では今目の前に臨場として展開する情景はどんなに静かに落ち着いて、佇んでいても、それはやはり少しずつ変化しつつあり、動いている。しかしそれをデジカメで撮った静止画像は完全に止まっている。だから前者は時間(やその推移と小さなものでも必ず介在する変化)というものを吸収した空間情景なのであり、後者はそういった微動そのものを剥奪された部分的に切り取られたものとしての静止画像なのである。そして後者は時刻的である。

(日記的記述DZ作品化し難い体験はある)でも示したが、この前者の空間的臨場には時間経緯を吸収している性格が不可避的に付帯しているので、確かにそれを静止画像的な絵や写真で撮って展示しても伝わってこない。それだけでなく、臨場ではちょっと身体全体を移動させたり、視点や視線を変えることで更に全体の性格に豊穣さを生み出すが、静止画像にはそれが一切ない。変更自体が不可能なのである。

表現として静止しているものは須らく時刻的である。恣意的に静止させられている。

当然映画が発明されるまでは人類はそういう表現しか物質では持たなかった。動きが、行為経過を示すものは舞台芸術だけだった。本は文字を読む体験のものだけれど、その文字自体は静止しているので、メタ的な動きを脳内で文字を拾うことで我々は作っているだけである。そこでは主役はあくまでも自分で読みながら考えるということである。それは臨場的体験とは異質のものである。

今は映像を動画で簡単にアップできる時代となった。だから動きそのものは表現できる。でも臨場、つまりある開けた空間でそこに吹いてくる風とかを肌、身体全体で感知して体験することは芸術表現では不可能である。つまり時間自体は映像・動画ではある程度可能だが、時間そのものも切り取られた視界の一部を覗く感じでしか映像・動画は体験できない。つまりそれは時刻推移的である。

ウォーキングして目の前に展開する情景はそうではない。空間的臨場や、視点や視線をちょっとずらすだけで印象を刻々と変え、しかし同時に全体としては安定した臨場全体の印象を多層的に持つ経験ができる。それは、その場でしか味わえない。

だから表現化されると、臨場そのものの体験に備わっている全体的な体験、心理的・身体的、読み的であると同時に蝕知的体験というものは剥奪される(ところでそういう臨場的な文章というものは古東哲明や永井均からは伝わってくるが、中島義道の文章ではそういった感じを得られない。存在論的な感性が彼には欠如しているからだろう)。

時間というものは空間があって、それが実在物、つまり存在と存在者の織り成すドラマがあるからこそ、そこに現出する。それが時刻の刻々とした刻みという観念には欠けている。それはどんな性質の異なった臨場も、長さという意味で一緒くたにしてしまう。その平板さがあらゆる豊穣な臨場の性格を剥奪する。

 だから絵や写真とはとどのつまり一瞬の情景を記念碑的に残そうとする人類の欲望を具現化させた一つの知恵でしかないのであり、そこには内的な時間とか空間全体の中に立たされている臨場的体験性や実感が剥奪されている抽象的な表出の喜びだと言える。

だから最近よく理解できたことだが、プロの画家はよく観察するということに於いて、或いは臨場そのものを把捉するだけの心の余裕は全く無い。これは事実だ。彼等は自分で作る作品を観察する程には臨場も自然も観察などしはしない。

写真家とは臨場はよく知っているが、臨場全体から受ける体験性をさして重視していないからこそ、時刻的な表現である写真で食っていこうという気になるのだろう。

 本記事で言いたいことは、要するに空気感とはその場に居なければ決して把捉し得ないのだ、ということと、時間自体も空間的臨場を伴っているということ、そして何より変化とか動きというものは基本的に静止しているものにも宿っているということ、波動があるのだということ、そして空間という広さということも(それは変わりないことなのだけれど)、やはり決定的に時間的推移と共に成立しているのだということ、そしてそれを教えてくれるのは臨場だけだ、ということだ。

だから情景=臨場であり、それは時間的でもある空間的実在で、それを記録に留め様とする写真や表現である絵画は、あくまで時刻的に閉じ込めているのであり、それは切り取られた恣意的な操作だということ、又映像・動画も覗く感じでしか体験できず、臨場を想像することしかできないという限界があるのだ、ということである。(つづき)

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2016年10月26日 (水)

未来展望Part10・世界の真実Part29

本という形態のものは次第に需要がなくなっていく。ただそうなるまで未だ本格的な電子書籍がない。電子書籍が本の代用的なものでなく、本よりももっと有用性のあるものへと進化していって、それが普及した段階で本そのもののニーズが消滅し、そちらへ全面移行するだろう。

〇学術的な読み物は時代的展望に立ったものだけがニーズを増すだろう。実用的な意味では節税方法等を詳細に記述したものが現時点では有効だが、シェアリングエコノミー等へ人類全体が移行していきつつある様になれば社会学的な読み物がニーズを増し、農業関係の技術に関するもの、健康産業的な指南のものもニーズを増すだろう。

〇実は人類が資本主義社会をメインとして協働していく限り、貨幣経済を前提しているが、貨幣自体がまず仮想通貨をメインにする時代へ移行することは考えられるが、現在までの資本主義の在り方の侭次代へ向け進化するとしたら、仮想通貨移行が最大のものとなるだろうが、貨幣経済外的な経済活動への着目を人類が志向する様になったら、仮想通貨移行メインの進化の仕方とは違う様相へと経済は移行するだろう。

文学とマンガ・アニメ・絵本・ゲームソフト等との距離は益々縮まり、サブカルチャーと言われたものの方が純文学やファインアートを引率していく時代に益々なっていくだろう。

性悪説的な社会を前提とした資本主義社会に最もマッチしたスポーツとして野球があり、ゴルフ、テニス等があるわけだが、スポーツはより娯楽性を追求するもの(スカッシュ、ビーチバレー)、より過酷なレース性を追求するもの(トライアスロン、競歩)等と進化の分業がなされていくだろうが、資本主義社会の産業構造として人類エンタメの最大のものはスポーツ産業であることは変わりないだろう。スポーツ施設等の建築・スポーツ飲料等を含め、巨大なグローバルな進化を益々遂げていくだろう。

農業が地下農場を多くしていくことで地下文明的な様相を人類は今後より以上に持っていくだろうが、地震対策的なことはその点では益々地震学や地質学、地球物理学等の協働と共に世界的にニーズを増していくだろう。

プログラミング自体の進化と、AIそのものの進化の協働性が顕著になっていくだろうが、それらと遺伝子組み換え技術に要す工学やオーソロジー・パレロジーの学術的進化が協力し合う時代も近い。要するに数学・数論理学の生物学・遺伝学・認知科学化、或いはその逆という協働性が重要性を増していくだろう。

自動運転が実施されていくにつれ、逆にラリー等の古典的なドライヴィングテクニックを競うレースエンタメも進化していくだろう。これはホラー映画やホラー小説が消滅しないのと似た理由がある。人はスリルを味わいたいので、バンジージャンプやハンググライダーやスキューバダイビングが無くならない様に、あらゆるレーシングカー運転を競うものも益々進化を遂げていくだろう。

芸能関係の役者達は医学・生理学・薬学的な意味でのモデルとしてのロールを担い、健康管理のエリートだけが生き残っていく競争社会となっていくに違いない。テレビは益々ヴァラエティ化とドキュメンタリー化していくだろう。メディアは報道競争がメインとなっていくだろう。

歌とは演奏だけのものと違う意味で永遠に無くならない。それは男女の性がある限り無くならない。そしてコンピュータを使って作曲する様なことが多くなったとしても尚、その使い方に人それぞれの個性がある限り、完全にAIによって作られた曲だけに移行することはあり得ない。最終的に(恐らく調理さえ)人間によるアナログ的な手仕事性も消滅しない。

経済学は部分的な共産主義を導入する資本主義社会実現の観点からも、経営学的所見を導入するシステムへと改変されていくだろう。分配その他の概念認識も多層的な視点が必要とされていく様になり、哲学や心理学も経済学の新機軸に協力する様なものが認知科学等と同様に進化を約束されるだろう。この新しい経済学的な進化志向性の中から学際的な文化も発展を遂げるだろうし、ビジネス構造自体がそういう裏付けを持つものとして進化していくだろう。

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2016年10月25日 (火)

ホイットマンの詩が訴えている法則への見方とハイデガー<ニーチェ>の矛盾律と存在論の核心に就いてPart1

  

  

 三日前の記事(詩に於ける命令文と疑問文Part1 ディランとホイットマン① ディランの<ライク・ア・ローリングストーン>の歌詞疑問文の命令文的意味合いと先人ホイットマンの詩に於けるそれ)で示したWho Learns My Lesson Complete? の一節である次の箇所に注目してみよう。

 

The great laws take and effuse without argument,

 

I am of the same style, for I am their friend,

 

I love them quits and quits, I do not halt and make salaams.

 

 この箇所を私は次の様に訳した。

 

偉大なる法則はどれも有無を言わさずに根を下ろして、発散するんだ。

 

僕だって同じやり方なんだよ。僕も彼等の友達なんだ。僕はそれらが諦めて諦めきるのが好きなんだ。でも僕なら止めないで朝の挨拶をするけどね。

 

 この部分はこの詩の中でもさり気なく語られているけれど、かなりメッセージとしては重要である。I love them quits and quits僕はそれらが諦めて諦めきるのが好きなんだ。、の箇所が肝である。

 

 自然の偉大なる法則は変化を諦めているとも言えるし、最初から何かしようと思い立たない。そういう気持ち自体がない。そういう気持ちは我々の様な短期間生きて死んでいく現存在の心の一種の気まぐれであり迷いである。

 

 このことをハイデガーは<ニーチェ>でギリシャ語のアシュナトンということを軸に次の様に詳述している。

 

 

 

ασυνατονアシュナトンとは、存在者の存在に潜む或る無能力(ein Unvermögliches)なのである。存在は、或ることを(なし)能わないのである。」(ニーチェによる認識の働きの《生物学的》解釈、159ページより)と述べている。

 

 存在はそれ自体は存在者にどうもしない。何故なら存在とは個々の存在者やそれら同士の接近、接触、関係すること全ての一挙性のことであり、その一挙性自体が個々の存在者の動きや個々同士の関係することに干渉するわけではない。言ってみれば、ここでは存在は見えている全てという知覚把捉し得る一挙性を意味する。その意味ではviewそのものを一挙に個々の情景へ与えることそのことが存在だと言えるので、それ自体は静止であり、不干渉であり、能力という個々性の無化された即自性だ、と言えよう。

 

 このことをハイデガーは矛盾律と絡めて延々と論じている。そのことに少し踏み込んでみよう。

 

 Who Learns My Lesson Complete? 以外にホイットマンの詩にその詩と前後する時期に書かれたAre You the New Person Drawn toward Meという詩をまず見てほしい。

 

Are you the new person drawn toward me?

 

To begin with, take warning, I am surely far different from what you suppose;

 

Do you suppose you will find in me your ideal?

 

Do you think it so easy to have me become your lover?

 

Do you think the friendship of me would be unalloyd satisfaction?

 

Do you think I am trusty and faithful?

 

Do you see no further than this façade, this smooth and tolerant manner of me?

 

Do you suppose yourself advancing on real ground toward a real heroic man?

 

Have you no thought, O dreamer, that it may be all maya, illusion?

 

(邦訳)<岩波文庫/ホイットマン詩集 アメリカ詩人編(2)・木島始編>から

 

きみがわたしに引きつけられた新しい人か?

 

まず警告しておくから聞きたまえ、わたしはきみの想像しているのとは確かにはるかに異なった人間だ。

 

きみは、わたしのなかに親しい仲間にするのがそんなにたやすいと思っているのか?

 

きみは、わたしの友情が純粋な満足すべきものだと思っているのか?

 

きみは、わたしが信頼に値し誠実だと思っているのか?

 

きみは、この見かけ、わたしのものやわらかな寛大な態度より先を見ないのか?

 

きみが、現実の基盤の上に立って、本当の雄々しい男のほうへ歩んでいると思っているのか?

 

きみは、おお、夢みるひとよ、そんなことはみな妖光(マーヤ)か、幻影かもしれないという考えを抱かないのか?

 

 

 

この詩に列挙されている疑問文は、何かを能天気に安穏に期待する向きへの一つの痛烈なる皮肉となっていて、その願望は儚く失望へと変わるよ、という趣きなのであり、それはそんな儚い希望を抱くなという意味から一種の間接的命令文である。期待を打ち砕くものとして暗黙の命令文がここで使用されている。

 

このホイットマンの命令文を通したメッセージは、先のWho Learns My Lesson Complete? の中のI love them quits and quitsという箇所の存在の一つの典型的な偉大な法則の諦念性と完全に一貫したメッセージがある。それは存在自体が充足し、完成された矛盾であり、それはハイデガーが言う「矛盾律は、何らかの仕方で拾い上げることのできる現実的なものへの適合ではなく、むしろそれ自身、基準定立なのである。矛盾律は、何が存在者であり、何のみが存在すると見なされうるかを、先んじて告げる。それはすなわち、自己矛盾しないものである。この命題は、そもそも何が存在すると見なすべいかについて、初めて指示を与える。それは《べし》を言い表わし、ひとつの命令法なのである。」という解釈を呼び起こす。

 

つまりAre You the New Person Drawn toward Meでの貴方にとって私は他者である。他者の心は自分からはどうすることもできないという意味で貴方にとっての私も、私にとっての貴方も、その期待には沿えないということを言いたいこの詩は、偉大なる法則であるところの自然の大実在の一要素として貴方や私を置いているのだ。

 

つまり簡単に言えば偉大な法則を持った自然実在としての存在とは、それ自体我々はそこに矛盾を発見しはするが、それ自体は完成されているのだ。だからそれはquits and quitsするのだ。抗うということが自然=存在にはない。それは法則に従っているのみである。だからそれ自体は自己矛盾などないのだ。そのことは貴方と私との関係でも言える。期待に沿えない貴方にとっての私は、期待に沿えない私にとっての貴方であり、それは私からすれば矛盾である様に貴方からしても矛盾だが、現象的に私にも貴方にもあること自体は矛盾しない。だから却ってそこ(法則自体が、法則に抗えないということや、私にとっての貴方や貴方にとっての私の思い通りに行かなさ)に矛盾を発見してしまう我々本体の方こそ、矛盾しているという突き付けがある。

 

ハイデガーは矛盾律をニーチェが<力への意志>で彼が示している矛盾律への考え方として次の様に述べ解釈(再定義)している。(<ニーチェⅡ細谷貞雄監訳 加藤登之男・舟橋弘訳・平凡社ライブラリー>より抜粋)

 

ニーチェの趣旨はこうである。われわれが矛盾することのできない場合がある。すなわちわれわれが矛盾にゆだねられることができず、矛盾を避けねばならない場合がある。われわれはこのような場合に臨んだ、同一のことを肯定し且つ否定することはできない。われわれは、肯定か否定かのどちらかを取ることを余儀なくされている。もっとも、われわれは同一のことを肯定し且つ否定することもできるが、それも同じ時間と同じ観点からはやはり不可能である。そのような不可能の中、或る強制が働いている。それはいかなる種類のものであるのか。

 

 肯定か否定かへの強制は―ニーチェによると―或る《主観的》なもの、人間的主観の性状に含まれているものであり、そして、そもそも対象について思惟しうるためには矛盾を回避しなくてはならないというこの主観的強制は、《一つの生物学的強制》だというのである。

 

 

 

ホイットマンがAre You the New Person Drawn toward Meで投げかけている懐疑的な他者への偶像化とは、肯定したくなるものとは否定したくなるものとほぼ近接していて、その危うい均衡にこそ我々が魅力を感じ取ってしまい、危険なものを愛するということへ繋がる、だからこそ疑問文が命令文にもなる様な幻想を片手に人を見るなという訓戒にも近い詩を通した教条を一つの詩人の戦略へと落とし込むことにもなる。つまりそれが主観的強制=生物学的強制ということである。

 

更に次の様にもハイデガーは同書で述べている。

 

 

 

矛盾律が存在するというのは、ひとつの経験命題である。われわれがこのように、同一のことを肯定し且つ否定することを、あまりに容易に仕出かすということは疑う余地はなく、したがってまた、矛盾を回避せよという《主観的強制》が容易にしばしば効かなくなるという事実も、疑う余地がない。だとするとそもそも強制などは存在しないのだということになる。強制ではなくて、一種独特の自由が存するのであって、この自由がおそらくは自己矛盾の可能性の根拠であるのみならず、さらには矛盾回避の根本命題でもあるのである。

 

 

 

 この下りに示されている命題から一つのことが読み取れる。

 

ホイットマンのAre You the New Person Drawn toward Meで示していることは正に今ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞して脚光を浴びているにも関わらず本人は憮然とせずにはいられない気分に近いことである。ディランは時代の代弁者の様に思われること自体へずっと違和感を抱いてきていることは彼の出した自伝にも綴られている。そういう或る種の他者へ抱く幻想を打ち砕くことをホイットマンは詩にしたわけだが、ハイデガーが言う自由とは解釈の自由とも読める。そしてだからこそ矛盾を回避したくても、人それぞれ異なった理想から一つの人物の行動や考えや例えば上記の様なホイットマンの詩からも異なった解釈をしてしまうという矛盾自体を回避することはできない。そのことをハイデガーは哲学的に言っているものと思われる。

 

今まで述べてきたことは次のハイデガーの記述で新たな相貌を帯びることとなる。

 

 

 

アリストテレスが(中略)次のように定式化した。(途中ギリシャ語部分省略)《すなわち、同一のことが臨在すると同時にまた臨在しないということは、同一のものについて同一の視点からは、不可能である》。

 

この命題においては、ひとつのασυνατονが、或る不可能(ein mögliches)が思惟され述べられているのである。その不可能なことが、いかなる性格の不可能性をもっているかということは、明らかに、それの不可能性がここで指摘されている当の事柄からも明白に規定されている。それはすなわち臨在すると同時に臨在しない(ギリシャ語省略)ということの不可能性である。(中略)ところが、ギリシャの思索者たちのことをさらに言い現わされるまでもない根本経験によると、臨在性とは存在の本質である。矛盾律とは存在者の存在が問われているのである。

 

臨在とはあるブログによると次の様に解説されている。

 

「臨在」と訳されている元のギリシャ語はパルーシアで,これはパラ(傍らに)とウーシア(いること; 「いる」を意味するエイミから派生)から成る語です。したがって,パルーシアは,字義通りには「傍らにいること」,すなわち「臨在」を意味します。この語は,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で24回使われており,メシアによる王国に関連したキリストの臨在を指す場合が少なくありません。―マタ 24:3。新世,付録,17681769ページを参照。」(ものみの塔 オンラインライブラリー)

 

つまり臨在をここにハイデガーを出してくることの意図はレヴィナスが<神・死・時間>(主体性の問題)で次の様に語っていることを引き合いに出せば、その本質はよく分かるかも知れない。

 

 

 

<語られたこと>がコミュニケーションに先立ってあるような、第三の可能性をさらに思い描くことができます。ハイデガーのうちにはそれは見いだされるのですが、そこでは人間のものならざる黙した言葉のうちに意味を有している。言い換えるなら、かかる言語のうちで現出するのです。これがあの「言葉が話す」(Die Sprache spricht )の言わんとするところです。存在の治世においては、存在は言語である、それも黙した言語、あるいは存在の声(Läute der stille)であります。(こう述べることで、ハイデガーは知らず知らずのうちにギリシャ人たちをなんと「ユダヤ化した」のかもしれない!)

 

 

 

ハイデガーの言う臨在とはレヴィナスの言う様にユダヤ化されたギリシャの概念である可能性は高いが、その原意は傍らにある一種の他者、他者性そのものでもある。そして自分自身の実在をも他者として規定してしまう我々がこの身体を通した全体験(それは結局何処へ行っても何処へも行けない、つまりこの身体から離れることができないことであるが)を他者として見る我々の性向をホイットマンがWho Learns My Lesson Complete? で「The great laws take and effuse without argument,I am of the same style, for I am their friend, I love them quits and quits, I do not halt and make salaams. 」と示しているのかも知れない。

 

つまり、ホイットマンはイスラム教の挨拶を借りてそれを言っているのだが、Are You the New Person Drawn toward Meではヒンドゥー教のmayaとは、現象の世界を動かす原動力、幻影としての現象の世界、マーヤーを象徴する神のことである(研究社 リーダーズ英和辞典 監修 松田徳一郎から)とするなら、ホイットマンはここではヒンドゥー神を持ち出し、Who Learns My Lesson Complete? ではユダヤ的なる臨在を持ち出すに当たってイスラム教の習慣を使って、ユニヴァーサルな人類の性向(傾向性)を示していると読むことができる。

 

だからこそ自然実在としての存在=偉大な法則と同化したい自分とは、ホイットマンにとっては、他者、しかも永遠に死ぬまで、否死んだ後も自己にとっての自己というかたちで離れることのできない運命的他者である、という表現となっている。そしてそれはそういう運命だからこそI love them quits and quits, であり、その自然実在としての存在=偉大な法則であることこそが諦めること、逃れられないからこそ、そこから逃れることを諦めることという意味合いから、Who Learns My Lesson Complete? を理解することができる様に思われるのである。それはハイデガーが言っている不可能性のことであり、臨在とは、その諦念から呼び覚まされることである、ということを、ホイットマンの詩が教えてくれるのである。(つづき)

 

 

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2016年10月24日 (月)

現代社会を生き抜くための幾つかの条項Part1 非体系的にだけ世界を理解し、遣り過ごし、日々過ごせ!

 

現代社会を生き抜くためには近代的な意味でのバランスの取れた体系的知性が却って仇となる。何故なら現代社会では全ての分野で世界を俯瞰したり、全てを見渡したりする様な神の如き視点を個が獲得すること自体が不可能だからだ。全てを眺望することも、網羅的に把握することは断じて不可能である。

 

上記のことを裏付けることとして、全く自分が生計を立てられる世界以外の常識に対して一切疎い様なタイプの市民の方が、より安定して幸福な生活を(就業的意味でも地域社会でも)維持し得る。つまり他人のプライヴァシーに関心がある下種が転落的人生になる様に、或る種の覗き趣味(peeping Tom)は現代社会では命取りとなる。他人ということは、自分が生計を立てる世界以外の専門の世界とも言い換えられる。

 

中島義道は<「思いやり」という暴力>PHP文庫再販(<<対話>のない社会>改題)にあたっての、文庫版へのまえがきで次の様に述べている。

 

(前略)いまや猫も杓子もIT化している。このことで「2ちゃんねる」はじめ、人々の猛烈な「言語活動」が始まった。日本人が言葉を控えるなどというのは大嘘であること、匿名であり証拠さえ残らなければ、相手を死に至るまで叩きのめそうという欲望に燃えていることが判明した。そして、どんな怠惰な者でも頭の悪い者でも、「ウィキペディア」をちらっと見るだけで、ブリタニカ大辞典級の知識を得ることができるようになった。こうして、どんなアホでも、どんなマヌケでも、虚栄心と他人を蹴落とす執念さえあれば、しっかりとした文章が書け、しっかりした論文さえ書ける様になったのである。

 

 この文章の前半は正しい。しかし後半の二か所の字体を変えてある箇所の中島の語彙選択には言外に、近代的教養主義的な体系的な知性がある人がそうではないという主張があるが、現代社会を生き抜くには余程の頭脳で世界を変革させるくらいの人か、巨大な権力者以外では(恐らくどんな有産階級の人達でもそんなものは持っていない。皆部分的にスーパーパワーであるに過ぎない)その様な(昔風で言えば東大に合格する様な学力の様な)ものなど、全く欠如している方がずっと巧く世の中を渡っていけるのである。

 

 従って中島の言う様なバカとかマヌケとか怠惰な者とか頭の悪い者の方が、変に頭のいい輩より、寧ろ戦略的には有効な生き方だと言ってさえいいのである。

 

上記のことは、非体系的でないと、どんな世界でもいい眺望を得られないということを意味する。それは世界全体がそう容易に理解しきれない複雑さを何の世界でも現代社会は抱え込んでいるということである。これは日々加速度的にそうなっているのだ。政治、経済、経営、文化、宗教、科学、メディア、何に関しても部分的な視野から見たある観点でしかない、という意識を持たないと、必ず足を掬われる様な悪意に現代社会は満ちているのである。いい眺望とはかなり多くを諦め、少ない情報量と深い知によってのみ得られる。それこそが現代社会を有効に利用し、充実した生活を送る最も重要な心得なのである。それは変化の激しい時代であればこそ、であり、つまり一度得た体系的理解を数年以内に全てリニューワルしなければいけない時代なので、必然的に最初からきっちりと固定化した価値観に基づく体系的理解等携えていない方が全ての不測の事態に対処し得る、そういう生活と態度が身に着くからである。

 

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2016年10月23日 (日)

Flowers in the streets

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2016年10月22日 (土)

詩に於ける命令文と疑問文Part1 ディランとホイットマン① ディランの<ライク・ア・ローリングストーン>の歌詞疑問文の命令文的意味合いと先人ホイットマンの詩に於けるそれ

 ボブ・ディランのLike a Rolling Stoneの歌詞に登場するHow does it feelはそう質問する相手に、それくらい想像が尽くだろうという相手への挑発が含まれている。質問する相手はプチブルであり、彼等の精神的退廃を、彼等より下流社会でのたうち回る人達のことを例に出して、それに対し、彼等はどんな気持ちなんだろう、つまりそういう状態って、どういう感じなのだろうと、畳み掛けているわけだからだ。

 それは質問文でありながら非難の調子があるから、必然的に想像してみろよ、それくらい分かるだろう、という意味があり、命令文的様相をしている、と言える。

それは例えば「お前そんなこと一体誰がするっていうんだい?」 Who can do it so? と言えば、そんなことをしでかした相手へ、誰がこんなことをするのだと非難していることになり、形式的に疑問文でありながら、お前の非をよく噛み締めろという命令文的様相だということからも、よく分かる。

 だがこの様な歌詞をロックではディラン以外でも大勢の人達が書いてきているけれど、詩の世界でもロックの世代よりずっと前の時代にとっくに示されていた。今回から何回か、その中でも特によくそういった言い回しを使用しているウォルト・ホイットマンを取り上げてみよう。

 Leaves of Grass(1885)はホイットマンの中でも代表作中の代表作で、その詩集の後半の最後から一つ前の詩、Who Learns My Lesson Complete? から今回は考えてみよう。

 まず詩の全文を掲載してから和訳を掲載しよう。

 

Walt Whitman

 

Who Learns My Lesson Complete?

Who learns my lesson complete?

Boss, journeyman, apprentice, churchman and atheist,

The stupid and wise thinker, parents and offspring, merchant, clerk, porter and customer,

Editor, author, artist, and schoolboy- draw high and commence;

It is no lesson- it lets down the bars to a good lesson,

And that to another, and everyone to another still.

 

The great laws take and effuse without argument,

I am of the same style, for I am their friend,

I love them quits and quits, I do not halt and make salaams.

I lie abstracted and hear beautiful I nudge myself to listen.

I cannot say to any person what I hear- I cannot say it to myself- it is very wonderful.

It is no small matter, this round and delicious globe moving so exactly in its orbit for ever and ever, without one jolt or the untruth of a single second,

I do not think it was made in six days, nor in ten thousand years, nor ten billions of years,

Nor plannd and built one thing after another as an architect plans and builds a house.

I do not think seventy years is the time of man and woman,

Nor that seventy millions of years is the time of man and woman,

Nor that years will ever stop the existence of me, or anyone else.

It is wonderful that I should be immortal? as very one is immortal;

I know it is wonderful, but my sight is equally wonderful,

and how I was conceived in my mothers womb is equally wonderful,

And passd from a babe in the creeping trance of a couple of summers and winters to articulate and walk-all this is equally wonderful.

And that my soul embraces you this hour, and we affect each other without ever seeing each other, and never perhaps to see each other, is every bit as wonderful.

And I can think such thoughts as these is just as wonderful,

And that I can remind you, and you think them and know them to be true, is just as wonderful.

And that the moon spins round the each and on with the earth, is equally wonderful,

And that they balance themselves with the sun and stars is equally wonderful.

(和訳)

一体僕の体験した様に誰か体験できるのだろうか?

一体僕の体験した様に誰か体験できるのだろうか?

棟梁、日雇い職人、見習い、或いは聖職者とか熱心な信者、無神論者、或いはどうしようもない思想家、賢明な思想家、或いは両親や子孫、或いは小売商、事務員、ボーイとか得意客、

編集者、著者、芸術家、男子生徒、皆で集まって、始めろよ。

それは体験することじゃない。そんなのはいい体験に水を差す様なことなんだよ。それは違うことなんだ。他の皆だって違うことしかしていないんだ。

偉大なる法則はどれも有無を言わさずに根を下ろして、発散するんだ。

僕だって同じやり方なんだよ。僕も彼等の友達なんだ。僕はそれらが諦めて諦めきるのが好きなんだ。でも僕なら止めないで朝の挨拶をするけどね。

僕は気を逸らす様に仕向けて法則の話を聞き、法則の理由を聞くのが好きなんだ。

皆それらって美しいし、僕はそれらに聞き惚れる様に自分をエロス的な興奮へ誘い込むんだ。

僕は聞こえたことを誰にも告げられないんだ。それどころか自分にだって告げられやしないんだ。それって素晴らしいことじゃないか。

それは小さなことじゃないんだ。このまあるくて美味しい地球、いつまでもいつまでも正確に軌道に沿って動き、ちょっとでも揺さぶられることもなければ、ものの一秒でもそれから逸らされることなんてないんだ。

それってたった六日間で作られてきたわけじゃないし、一万年でも百億年でもないし、何かの後に計画されてできたものでもないし、まして建築家が家を作る様にしてできたんじゃないんだ。

男も女も70年ぽっちの時間なんかじゃないと思うんだ。ましてや七千万年って時間でもないと思うんだ。

年月が僕の存在や、他の誰の存在をも消し去ることなんてできやしないんだ。

 

僕がいつまでも死なないって素晴らしいことなのかな?神がそうである様にさ。

 

それって素晴らしいことだし、僕の視界だって同じ様に素晴らしいことなんだ。僕が母の子宮に宿っていったことだって、同じ様に素晴らしいことなんだ。

そして赤ん坊である時期を超えて、這う様な夏と冬の組み合わせの恍惚の中で言葉で明確に示し、そして歩くってことの全てが同じ様に素晴らしいことなんだ。

そして僕の魂が今宵君を抱きしめるのだ。そして今まで出会ったこともない様な感じで、一度も理解し合えなかった様な感じでお互いに影響し合うんだけど、それって全部素晴らしいことじゃないか。

こんな風に僕が考えることができることって素晴らしいじゃないか。そして君がそういうことを考え、それらが真実なんだって理解させる様に思い出させることも、やっぱり素晴らしいことじゃないか。

月は地球の上で軌道を描いて回っている、それも同じ様に素晴らしいことだし、そういったことが太陽や星々と均衡が保たれているってことも又同じ様に素晴らしいことじゃないか。

 

 この詩でホイットマンが述べていることは聖書記述への批判、そして永遠な時間へも同時に批判し、分析哲学で問うところの私ということの変換不可能性、つまり自分自身でしか分からないし、それは言葉にもし難く(そういったところが着眼的に永井均の<私>を先取りしている)、しかも赤く示した箇所は明らかに性的愉悦と視聴覚体感的愉悦とが合致している。これは後で君として登場する愛のエロス関係としての相手と理解し合うことの言葉に出来なさ、つまり他者へ告げられなさ、そしてそれが自分でも自分に説明できないということから、生きているエロス的な感性の世界への蝕知ということが、現象的な私を証明しているし(ただこの赤い部分では君は未だ登場していないので、君を想像して自慰している風情さえ伝わる。)、そういった意味での自分にしか分からない体感への恍惚感がよく示されていて、それが自然の法則の妙なのであり、自然法則そのものへ恍惚としている自分の赤ん坊から大人へ成長する過程で感知してきたことの(ヰタセクスアリス的な)告白ともなっている。詩中の茶色の箇所がエロス的体感の知覚的感動の告白としての絶頂である。

 多分に視聴覚と体性感覚(特に性行為的なオルガズム)とが合体されたマントラ的世界観、密教的な体感神秘性を示している詩である。彼が後代のアレン・ギンズバーグに影響を与えたことは、この詩だけからもよく分かる。

 詩人は生涯独身だったが、だからこそあからさまな性的愉悦と視聴覚的な感動とが一体化される世界を現出させ得たのかも知れないが、恐らくこの当時は現代と違って同性愛やバイセクシュアルはより倫理的にも社会的通念と不可分な常識人的感性からは背徳的であったろうが、彼自身はきっとそういったことへも感性的にはずっと一般市民より寛容だったことであろう。今読むと聖心な感じを受けるこの詩の体感的エクスタシーを示す様な詩は彼が生きた時代(ウォルト・ホイットマンは1819年生まれ、1892年に死去した)ではかなり社会的規範を逸脱していたのだろう。そういった時代からディランの様な痛烈な歌詞を通した歌が人々の感動を誘うまで、実に(彼の死後)70年ほどの年月を経なければいけなかったのである。

 男女の平均寿命でも最長の記録である様な70年では男女はないのだというこの詩の説諭では、もっと悠久の時間で形成されてきている男女の性の営みということがあるのだというメッセージがあるし、七千万年という時間でもないということは、言ってみれば地球ができた頃まで遡れるという自然史的意味合いと、それよりずっと後になってようやく男女という人間の性が形成されたという意味合いとが重なっていて、一人の人間の寿命よりはずっと長いけれど、自然史的には長くも短くもあり、両義的であることをさらりと言ってのけている。

 冒頭で既にこの様な気持ちって自分にしか分からないことなので、他者と共有し合えるだろうか、という分析哲学で言うところの現象的なことの(永井均的には正に<私>としての体験性)告白からこの詩は始まっている。この詩だけでなく、ホイットマンはこの種の命令文的な様相も兼ね備えた疑問文(一体誰と共有し合えようというニュアンスの疑問文なので、他者をその時点でシャットアウトしているので、分からぬのか、分かれ、という命令文的である)をしばしば冒頭に置いている。次回もそういった典型的な詩作品を取り扱おうと思う。

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2016年10月21日 (金)

日記的記述EA 人の意識も関心も完全に一つに統合しきれないし、そうなったとしたら危ない

 人の意識や関心とは常にたった一つのことへ向けられているわけではない。かなり同時に幾つもの興味が抱かれている。勿論何かに没頭している時には、その何かに対してだけ意識がかかりっきりであるけれど、同時にそれが一定程度進展したら、今度は全くそれとは別のことに取り掛からなければならない。またそうしなければ生きていけない様に我々(や我々の社会)はなっている。

 それは自分で稼いだ金を使うことに於いてもそうだし、仕事的にもそうである。どんな消費行動でもたった一つの関心志向性に釘付けになるということはあり得ないし、どんな仕事の現場でも常に幾つもの課題を抱え、依頼されていることでも何でも幾つも同時に何とかしていかなければいけない。

 研究として今私はここ数年来ずっと品詞、人称、文の形式(平叙文、疑問文、命令文)等から詩と哲学を考え、詩作は平明な語彙だけを使ったライトポエム、シンプルメッセージだけを狙ってきているが、小説では専門的知や学術的な知とかをふんだんに盛り込むエンタメ小説(SFホラーとかミステリーとかマイナー文学にして、ラノベ的感性や要素をそこに盛り込む意気込みで)を目指している。

 つまりそれら個々の間には少なからず分裂的に思える距離もある。でもそれでいい。それを無理に何か一つへ統一させようとしたって、息切れしてしまう。統合される様な筋合いのものは、向こうから勝手に私をそういう方向へ誘う筈だからである。

 だから統合されない侭ずっと継続している分裂した関心や意識があるなら、それはその侭同時並行的に行っていけばよいのである。

 無理して統合しようとすると、牽強付会的な屁理屈的な粗さが顕在してしまうだろう。つまり全てを自然に並列的に行っていけばよいのである。

 そういった意味ではかなり全てが流動的である。人の社会そのものがそうである様に。つまり一つ一つの関心はやはり私自身からすれば他者であり、幾人もの他者と交流するが、中には短期間で終了してしまうこともあり、又中にはずっと継続していけるものもある、という風に考えればいい。

 又向こうから私に完全に一つに統合せよ、と命じてくる様なことは確かに短期的には必要であるが、常にそうなって、何か一つ以外の全てを完全に切り捨てよということとなったら、それはそれでかなり危ない状態だと言える。

 それは或る種のオブセッション以外ではない。短期的には何か一つに集中する必要は絶対あるが、それだけでずっと長期的になっていったとしたら、生活自体が破綻する。

 現代社会はたった一つのことだけに集中する機会が持てるのは、かなり成功して、あることに特化して依頼が来る場合だけであり、それ以外では、あらゆる多くの事項を同時に目配せしていかなければ生活していけない。

 情報的な摂取もそうだし、対人関係的にもそうだし、移動する場所と場所に関してもそうである。そういう風にしていかなければ社会自体へ順応できない。

 意識や関心がたった一つのことに焦点化されることも長い人生では一度か二度は到来するだろうが、それはそういう集中によって達成される何かのためだけであり、それが一定程度達成されれば、切り替えていく必要がある。

 そういうフレキシブルな対応が全てに対して求められている一つに拘るのも恣意的にそうするのではなく、自然に何等かの輪郭が形成される様に何かに特化して関心が焦点化されることが理想ではないだろうか?

 そうでないのに無理してそうすると、却って焦点から遠ざかってしまう。つまり急いてはことを仕損じるというわけだ。気楽に構える部分がなければいい仕事もいい余暇の過ごし方もできない。だからこなさなければいけない多い分量の仕事とかを前にした時ほど、全体的な仕事の順序とかを時間をかけて考えなければいけない

 そしてそういう風に贅沢に切迫した仕事に対してこそ、計画をあれこれ考える余裕を持てるか否かが何かの達成には必要だとは言えないだろうか?

 私には昨今そういう風に感じられるのであるけれど。
 
 付記 あまりにも一つ一つが乖離し過ぎているのも危険だが、適度に分裂していて、その分裂に翻弄されない限り、その分裂を適度に楽しむというのが平常だと言える。一つ一つの無関係性だけが異様に意識され、その異様さに翻弄されていくなら、それは統合失調していると言える(尤もそういう経験を人生で一二度味わったからと言って、それだけで人生は破綻ということにはならない)。
 適度な分裂と無関係なこと同士の並走ということは決して悪いことではない。

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2016年10月20日 (木)

思想の時代Part9 近況から考えたことに就いて

 あらゆる意味で思想の時代だと思う。学術が学術だけで社会を支えられたのは近代までで、現代社会は技術革新にしても、精神の充実にしても、要するに社会全体の動向や変化のめまぐるしさに対応しきれるアイディアやポリシーを捻出するためにどの民族も頭脳の限りを尽くさなければ世界の複雑な動きについていけない。だからこそ思想という根幹の個人の判断こそが重要なのである。だが実際そういった意識を持っている民族は完全な態度としてはどこにもないし、個人でも極めて少ない。

 日本では科学者がノーベル賞を受賞することは誉だが、ノーベル賞という存在自体への批判はとんと聞けない。ジャン・ポール・サルトルは64年に文学賞が決定した後受賞拒否し辞退した。ノーベル賞受賞作家としてだけ見られたくなかったということと、アルフレド・ノーベルがダイナマイトの発明者だったということが拒否理由だとも言われているが真相は分からない。かつての僚友である実存主義作家と言われたアルベール・カミュはサルトルより先に(57年)受賞していた。

 サルトルは充分著作の印税で食べていけていたし、却って受賞して体制に取り込まれることでファンが半減することの方を憂慮したのかも知れない。

 哲学者でノーベル文学賞を受賞した人はアンリ・ベルグソン(27年)とバートランド・ラッセル(50)という前例がある。

 ボブ・ディランは音楽家としては初めての文学賞受賞であるが、仮に彼が受賞辞退したとしても、彼のことをよく知るファンや理解者なら、それ程驚嘆しないだろうし、そういう風に権威ある賞をこけにすること自体、従順な性格の日本人には奇異に思えるかも知れないが、反体制的詩人、カウンターカルチャーの旗手であるディランのすることなら充分納得することである。勿論そうでなくすんなりと受け入れても(今のところすんなり受賞を受け入れているとは言い難いけど)それはそれで、ジョン・レノンとかももっと長寿を全うしていれば受賞していたかも知れないし、そういった今は亡き天才達を代表して貰うというくらいの意識で受け入れたと思えるし、特別な目で見られることを彼が嫌がるということもよく分かる。既にアカデミー賞、グラミー賞、ピューリッツァー賞も受賞して、大学の名誉博士号も授与されているので、今更ノーベル賞を貰うということが余分な重荷だという気持ちも分かる。

 日本人は従順に個性を持たず、体制が敷いたレールを素直に滑ることだけが社会全体の美徳と考えている。一切権力者や権威者の言うことに逆らわないということが一般市民の慎みである。だから天皇陛下の御意もその代弁者である皇后陛下が政治に天皇陛下が関わってはいけないという大義名分を全うする為に発言することを取り敢えずモラル的に聞いておくべきだと感じている市民は圧倒的に多い。要するに自分で正しいと思うことを判断するのでなく、まず上の者にお伺いを立てるということが慎みで節度で正義なのだ。

 だからやはり日本人は決定的に個が希薄である。意識的にそういうもの自体を持たない様にしていて、常に全体の調和の為に奉仕し、協調性は最大の美徳なのである。では何故逆らってはいけないのかということを聞かれると、それが社会の常識であり通念だからだと返答するだろう。つまりこれこれこういう態度を取っていくことが正しいということを一切自己へ問わず、既に前例のある全体的な社会的常識だけを優先するし、そうしないと仕事も取れないし、生活ができない。だから日本では自己判断というものを持たない成員しか上手く社会を渡っていけない。

 今まではそれでよかった。しかし今日本は完全に少子化、人口減少社会となっていて、国際競争力も益々強度を増している。そういう主体性のない、全体的な連動だけを重んじている限り、日本全体の各技術も文化的発展も全て先細りしていくに違いない。

 思想が、だから大切だ、と私は言いたいのだ。突飛な発想をすると、そんな突拍子もないことを言うな、現実に地に足がついた意見だけ言え、という暗黙の意識の強制がある限り、日本はいつまで経っても、真のエリートをどの世界でも輩出させられなくなるだろう。

 つまり日本は真に優れた人を押し出す社会でなく、中間的で控えめでさしてエリートではない凡庸な人達が発展しようとする個人を圧殺する空気の国であり、そういった意味では原始社会主義社会なのである。

 だからボブ・ディランの歌詞の持っているアイロニーやパロディやパラドックスやシニシズムを真に理解して彼から影響を受けたミュージシャンはそんなに大勢は居ない。吉田拓郎はディランからスタイル的には影響を受けているが、ディランの持つ毒のあるメッセージや投企的な態度(アンガージュマン)はないし、高田渡も酔いどれ的な感性でディランの日本での継承者たらんとしているけれど、哲学的なディラニズムを継承しているとは言い難い。寧ろミスチルの桜井和寿の歌詞の方がより、ディラニズムを継承していると言えよう。

 別にディランだけが偉い訳ではないし、ノーベル賞を受賞したから全てが肯定されるわけではないし、科学者だってイグ・ノーベル賞の方がずっとメッセージ的にはユーモアもあったり、存在理由があったりしても、可笑しくはない。

 つまり全てに対して批判的であることは創造的な態度なのだ。それは決して悪いことではないのだ。何かを絶対視することが権威を増長させ、その権威を寧ろ長期的には腐らせるのだ。だから斜に構えて観察し、判断することも大切なのだこの点では哲学の懐疑論が必要である。

今度は、哲学の最大の欠点は学術的に閉鎖的で、外部の知性を受容しようとしないこと、形而上学は益々現実社会での有用性から乖離していることだ。認知科学と接点のある心の哲学や、法学と協働している法哲学、倫理学には可能性があるが、分析哲学の言語哲学はデッドロックに突き上げていること自体を内部のプロ達が気が付いてもいない。

 カントは定言命法を道徳法則というものに関して、君が君にとって最高だと思う(つまり自分の頭で考え、それが正しいと信じる)格律に従って行動せよ、と<実践理性批判>で切々と述べている。それは日本社会に蔓延する人様一般はこうだから、その顰に倣うということだけで行動原理が決定されていることと画然と異なる。そこに主体性を持たなければ生まれてきた意味はない。それは決して他者を圧倒する自己主張ではない。人は人のために生きているのではない。自己が信じる格律のために生きているのだ。それなしに社会や国家や人類や世界全体へ貢献できるわけがない。

 自己信条は世間体を維持するために持つものではない。人からはどう思われてもいいのだ。人からどう見られるかということだけを判断基準にすることから日本人は卒業していかなければいけない。

 人に迷惑さえかけなければ、自己の信条から正しいと思う選択肢だけを選び、それ以外を一切無視していっていいのだ。だからディラン的な態度が奇異に感じられる内は、日本では未だ真の個人主義というものが一切成立していないということなのだ。

 スポーツアスリートとして前人未踏の四連覇を成し遂げた伊調馨氏が国民栄誉賞を授与されたが、こういったスポーツの権威とは無縁に切磋琢磨してきている人達へは今かなり日本では厚遇されているけれど、それ以外の地味で目立たないことにももっと目を向けて欲しいとは思えるが、ま、そういう権威的な厚遇ということは、やはり一番大切なことではないということだけは言っておきたい。

 そして権威ある厚遇が悪いと言っているのではなく、人に於いて偉いということは表に立って目立っていることだけではないということも、またディランの歌詞のメッセージが教えてくれているところのことであろう。

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2016年10月19日 (水)

日記的記述DZ 作品化し難い体験はある

自転車で中長距離行くのが好きだ。ウォーキングも定期的にしている。そこで風景と出会う。それらは車でどこかへ行く時と明らかに違う。視界が違う。自分で運転する場合フロントガラスの範囲しか見ないし、助手席や後部座席に乗っていても、見える風景は車という箱の中から覗く感じになるけれど、ウォーキングしている時には、前後に人が居なければ360度見渡せる。その視線の移動の自由は全く他の時ではあり得ない。

自転車は前部に何か無いと分かっている場合には自分の身体の側面へも目を走らせられる。そこで開ける眺望はまるで車で見る時と違う。自分の身体が丸ごと外界に接しているから、見え方が違う。又ウォーキングの時はゆっくり移動することになるので、風景の切り替わり自体がゆっくりだが、自転車だと車よりは遅いが、徒歩よりは早いので、風景が切り替わる段階への身体的・心的な感じ方が最も心地良い。それは身体が丸ごと外界に晒されているので、その爽快感はウォーキングとも又一味違うものである。自転車での移動では風景は映像的である。ウォーキングの方がずっと絵画的である。

風景は当然のことながら、見る角度の違いに応じて見え方がまるっきり違ってしまう。それが面白い。又上記の様に徒歩とサイクリングと車の車窓とでは見え方がやはり全く違う。それも面白い。

風景の切り替わりはサイクリングで最も感動的だとは述べたが、それは何で表現できるかと考えると、動画撮影をカメラでして、投稿するという仕方がある。尤も自転車の運転をしながらなので、かなり危険は伴う。先程述べた風景の切り替わり自体を表現するのは絵画では難しいし、写真でも連続写真にしなければ不可能だし、そうしたとしても自転車に乗っている時に感じる感動を伝え難い。

確かに投稿動画なら自転車でよく出かける習慣のある人にはある程度伝わるけれど、乗らない人には伝え難い。

つまり表現して巧く表現する人が得ている感動が伝わるかどうかということはかなり難しい問題である。何に表現すればそれが最もよく伝わるかを考えるわけだが、なかなかしっくりと行く表現メディアは見つからない。それが自転車で移動してそこで見えてくる風景の切り替わりである。

風景が切り替わり印象ががらりと変わることは何に促進されているのだろうか?

一つには地形的なこと、建造物や田畑や要するに地上に何があるかということ、してみれば、それは自然条件的なことと、政治・文化的なこと、ということになるだろう。明らかに住民の意識が切り替わる境界線の様なものもあるし、エリアの果たす役割自体が地方自治体の境界を挟んでも重なっている場合もある。要するに切り替わりと、重複とが恣意的にエリア毎に異なっているのだ。

その切り替わりを色々なエリアで自転車移動しながら体験すると、よく分かる。徒歩でもそれは分かるが、徒歩だと時間がかかるので、もっとそれぞれの地上の事物を丹念に見ることになるので、幾つもの境界を行き来することは難しいので、自転車で三つとか四つの切り替わりを知った上で、そこを再度ウォーキングすると細かく境界線の持つ意味が理解できるので、交互にそれらをしていくということが理想的である。

だから切り替わり自体を表現しようと思ったら小説とかエッセイとか散文ということになるのだろう。映画ではずっと長回しすることになるので、限界がある。短歌や俳句で、その体験自体を意味化させられないこともないだろう。詩だとそれはもう少ししやすいかも知れない。

映像、つまり投稿動画、或いは絵画や写真の連続的表現でもできないことはないけれど、身体的なこと、それは自転車の場合でもウォーキングでも充分体感できるのであるが、それを何かで表現することはかなり困難だ、とはサイクリングやウォーキングをよくしている人にはよく分かることではないだろうか?

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2016年10月18日 (火)

存在と存在者に就いてPart2 永遠と無・必然と偶然について

中島義道は<観念的生活>で「(前略)ニヒリストは、神の存在、永遠の魂、(善悪の根拠としての)自由ないし道徳法則を無批判に受け入れることはないのである。」と言っている((ニヒリズム)から)。

でも我々は慣用的に「我々は死んだら永遠に無だ。」などとも臆せず言う。だが時間が無くなるということを意味する死を永遠にと形容するのは語義矛盾である。永遠に生き返らないと言っても、自分以外の誰かがこの地上に生を全うしているという意味付けがあるのだろうが、やはり生き返れないのは死んでいるのだから、永遠にという時間が無限に続くことを死に例えるのは可笑しい。

だが時間さえ無限に、つまり永遠に永続するとは限らない。宇宙そのものが消滅するということは、衰え死滅する(という変化する)なにものも存在しないということだから、必然的にそれは無をしか意味しない。宇宙や存在すら無である絶対無である。

永遠に無だ、ということはある存在者が死んでも(消滅しても)、時間そのものは永遠に持続するということを存外に述べている。だが時間すら永遠でないとすれば、世界や宇宙の存在、つまりその悠久の時間すら刹那ということになってしまう(という見方は時間の消滅した後も時間が存在し続けるという暗黙の了解を前提してしまっているから、実はこれも矛盾する)。

実際はこの世界に(今は)世界の終わりを確認できる者は只の一人も居ない。

存在は宇宙を前提している。宇宙が消滅すれば存在を保証するものは何もなくなる。宇宙が消滅すれば永遠に存在も復活しないという言い方は、先程も述べた様に時間だけは永遠だということを前提している言い方なので、矛盾する。

存在者ということから考えれば、実は我々の心の在り方は必然的である。何故なら自分以外の現存在は全部他者であり、他者の心は自分(私)にはどうしようもないからだ。これは必然的な真理である。

対し存在とは必然ではない。それは或る意味、偶然の中の偶然、つまり奇跡と言ってもいいからだ。

神は自分の心を作ったものとして考えられるけれど、他者全部の心をも作ったものとして、存在が生み出している我々に固有の観念・ 認識だ。勿論これは日本にはない観念である。日本人は同胞との間の対人性しか観念として存在せず、神が自分たちを作ったという観念はない。大国主神とか天照大神という観念も国を作ったのであり、存在を作ったのではない。

だがそういう歴史的経緯である民族である日本人である私にも一神教的な神を概念として理解することができる。それは必然的であることが存在者の心の在り方、それは自分以外誰からも支配を受けないという意味でそうであるが、それは神を一定程度前提したものの見方である。だが神が存在を作ったということそれ自体は必然ではない。作られてしまっていることに於いて必然である存在者の心現存在は心を有し、只の物質は心があるとは言えない。植物にも我々の様に脳があるわけではないから同じではないだろうが、何か心に類するものがあるのだろうか?あるかも知れないは、神という奇跡が作ったものと言えるだろうか?否神こそは必然ということになるだろうが、神が(この世界)を作ったことは偶然、つまり奇跡かも知れない。

しかし何かを作ることそのことは神に於いては必然になるのだろうか?

つまりこの辺りのことは、簡単に必然とか偶然とか言い切れないのである。だが存在者は存在に於いては必然であるが、存在は必然ではない、それはやはり或る種の奇跡であると言ってもいい様に思われる。

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2016年10月17日 (月)

存在と存在者に就いてPart1 中島義道のハイデガー解釈への批判

 中島義道は<観念的生活>(文春文庫版から読んでいる)で、ハイデガーが大仰に言うところの「存在と存在者との存在論的差異〔ontologische Diffrenz〕」なるものは、「存在するものと存在することとの文法的差異」に過ぎず、存在するものをどんなに精緻に調べてもそこから存在することは導かれないのであって、存在することは「存在する」という言葉の働きから探求するほかはないということである。」と述べている(同書(懐疑論)から)。

 だがこの捉え方は極めて一面的である。断じてハイデガーは中島が言う様な単純なことを複雑にして考えただけではない(つまり中島が暗に主張したい様に、それ程大したことないことを大袈裟にハイデガーは考えていたのではない)。

 ハイデガーが存在者と存在を明らかに違うものとして認識しているその理由とは次の様なものである。

ハイデガーが言おうとしている存在者とは自分自身も含めた個々の存在であると取り敢えずしたとして、それらは全ての存在するものであるから、要するに個として他に取り巻かれている存在である。だがハイデガーが存在と呼ぶものは、そういった個々の在り方ではなく、全てが全てにとって個である(ということは、個々の個にとっては他の個は他者としてしか存在し得ない)そういった全てを提示、陳列、列挙しているその全体的在り方のことである。

 要するにハイデガーが<存在と時間><現象学の根本問題>他で執拗に述べている様な存在者と存在との存在論的な決定的差異とは、個は神ではあり得ないが、そういった個から見て全ての他は個に於ける出来事でしかあり得ない様な決定的な単一の視線(それは他の視線と入れ換えられない)そのものを只の存在事実として後退させてしまう様な、言ってみれば神の如き全部の創造に起因する存在の在り方のことなのだ。

 従ってハイデガーが言う存在者と存在の決定的差異とはタウマゼイン(存在することそのもののへの新鮮なる驚き)から引き出されている命題なのである(ところで永井均も古東哲明もしきりに述べているタウマゼインという存在論的な驚きと、何と中島義道という人は無縁且つ決定的に理解していない哲学者であることだろう)。

 だからハイデガーが存在ということを個々の存在者と決定的に異なった在り方として認知、把捉していることの最も重要なこととは、個々を一同に世界に於いては存在させているその奇跡的な事実のこと、そういった事実が、世界が存在し続ける限り永遠に存在し続けることそのことそのもののことなのである(このことから同じ時代に他者と出会うその奇跡的な出会いの事実という想念も生み出される)。

 中島義道には、彼が文法という語彙を使用する時明らかに言語学的な実用性だけから考えている様なので、文法自体に、実は存在者である我々(ハイデガー的に言えば現存在)の新鮮な世界へ接した時の驚き、つまりタウマゼインこそが文法へ反映して、文法を実用的に我々に(無意識の内に)構成させている、という神的とでも言っていい様な固有の視点への洞察が欠落しているのである。

 その点では中島は徹底した無神論者かも知れないが、それは神があたかも居るのではないかとしか思えない様な存在それ自体の絶対的な存在性への驚きは彼には全く欠落している。だから中島義道は唯認識論者だ、と言える。

 尤もそれはそれで一つの徹底した生き方だとは言える。只存在そのものはそういった認識論的な割り切りで論を進めていくことを躊躇させる絶対的な(圧倒的な、正に永井均に<私>という概念を考えさせた大本であるところの)在り方をしている、という主張はハイデガーからは(永井均や古東哲明等の考えからも)、少なくとも私にはよく伝わってくる。

 

 一連のこの種の中島自身のハイデガー解釈から読み取るに、恐らく中島義道は文法を規則として平明に理解したいのだろう。ウィトゲンシュタインからクリプキへと受け渡された規則への懐疑という観点から言えば、それも決して間違った解釈ではない。しかし規則としての文法とは、そういうものを作ってきた我々の経緯の中に、恐らく我々でも説明不可の、純粋に我々自身が客観的指標だと思いたい規則とか文法とかの合理性さえ、実は我々が無意識の内に抱え込んでしまっている一つの世界への謎、存在そのものへの驚嘆が喚起しているのだ、という視点を持つ時、私には存在者と存在を決定的なる存在論的差異で見るというハイデガーの見方は極自然なものに思われるのである。

 

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2016年10月16日 (日)

世界の危機の諸相Part1

出版の形態が紙と印刷に拘っている限り、文字文化は衰退する。本という形態は物質文明の一つの終焉を象徴した知の配送形態だからだ。ゴミ問題に頭を悩ませる人類にとって文字文化はあくまで液晶画面の彼方に瞬時登場し、瞬時で消え失せて貰うことで、却って大きな印象を我々に与える。文字文化は書籍に拘っている限り、現実の空間で膨大なロスを生む書籍空間(図書館その他)への拘りが知とはビジネスライクではないかたちで、ゆとりある空間を使って享受することで得られるものであるという近代的感性が、ゲームとプログラミング的な言語的感性と衝突していくこともかなりあるということに関して解答を出してくれるとはとても思えない。まず個人レヴェルでは大量の図書所有することは、地震その他の危機管理上も著しく危険である。

芸術家がアナログ的な手仕事を尊いと考えていると、彼等はプログラミング的感性から置いてけぼりを食らう羽目に陥る。手仕事的なアウラに拘っていると、世界の連動から著しく乖離していく。何故今手仕事が尊いと考えているのかの説明を、手仕事を別に尊いとまで考えていない一般市民にどう伝えるかに於いて、彼等が研ぎ澄まされた知を共有しているとはとても思えない。

棋士が勝負の時にスマホでソフトを利用することを仮に禁じたとしても、尚彼等の日常にソフトが彼等プロに与える影響を無視することはできない。つまり頭で考えることは、即ち人類が頭で考え作った機器を通して考えることも既に含んでいるだけでなく、AI的な思考能力を逆に人類の方が体得していかなければ、プロとして成立しなくなってきていることを示している。危機は自分の頭で考えることの範囲を旧態依然的に認識したままでいいと決め込んでいることの方に寧ろある。

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2016年10月15日 (土)

世界の真実Part28 人と人の間

〇人は人に対してどういう態度をとるかで、相手から色々な反応を得る。その時相手を見縊っていることで齎される災厄と、相手を買い被ることで齎される災厄とがあるけれど、意外とこの二つは共通したところがある。

〇見縊っている場合、明らかに相手へ過剰に信用し過ぎているからでもあるが、信用ということは親しさを露骨に乱用することで、相手の領域に土足で踏み込むこととなってしまう。これは親しさからくる甘えが原因である。

〇逆に相手を買い被っていると、相手へ敬遠的気分もあるから、勢い相手へ信用していない者の言い草を相手へ浴びせかけることとなり、そうすれば相互に疑心暗鬼になる。所詮相手もただの人間であり、こちらが過剰に相手の度量を高く見積もり過ぎると、親しさが故の甘えとは反対なのだけれど、結局失礼な態度を相手に取ってしまうことで、この二つは齎す結果に於いてと、相手から下される自己に対する評定や判定で著しく似通ってものにしてしまう。

〇敵対者とは後者(買い被っている、つまり過大評価し過ぎることで齎される敬遠的気分が失礼な態度を呼び起こす)によって引き起こされる相互に気まずい関係である。悪女とかもそうだ。そもそもそういった女性が居るわけではないのだ。どんな態度や生活信条の女性でも男性にとっては天使にも悪魔にもなり得る。つまり相手への接し方と、対し方、つまり態度如何でいずれにもなり得るのだ。相手を人格的に高く見積もり過ぎると、女性固有のヒステリー等を相手に呼び覚まし、こちらの下心を読まれて、泥沼の心理戦へと持ち込まれるという筋書きだ。相手を必要以上に手強いと認識し過ぎると、結果相手を実際より軽く見下している場合と似た相手からの反応を得てしまう。相手が異性なら猶更である。ただ一般的に仕事関係での対人関係は公的な性質を帯びているので、公的に敵対関係として位置づけられやすいけれど、ラヴアフェア的なことは、私的・個人的であるが故に周囲がその関係を分析することはないし、当人同士も感情の行き違いだけに終始することが多いだけで、ことの本質は、相手を買い被り過ぎることから得ている脅威論であることに変わりはない。

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2016年10月14日 (金)

現代社会の問題点・コミュニケーションメソッドギャップから考えるPart3 機械そのものの魔力と機械の用途との乖離に就いて

現代機器は当初の目的、例えば電話機能の利便性から携帯電話等を開発したわけだが、実際写メールなど副次的商品購入のインセンティヴを多用して、結果機械の利便性のアップグレード加減自体が主題化していってしまい、本来の用途から徐々に乖離していっても、そのこと自体に誰も不平不満さえ言わなくなってきている。

◎だが電話で話すということの最初の用途は明確であり、その利便性はスカイプ等にも引き継がれているが、どんなツールも、次第にマシーン開発者たちに固有の機械自体の応用可能性や、その込み入った多機能性へ魅せられ、最初の用途よりも、複雑な機能の追求の方が主眼となっていくことで、要するにマシーンユージング自体の快楽追求と本来の用途とが次第にどの機器でも副次的になっていってしまい、そのこと自体へ憂慮する側の市民と、マシーンアップグレード自体を一種の現代社会の文化様相として理解する市民とが感性的にどんどん分離していき、次第に両者がコミュニケーションすらしなくなっていってしまうという事態も決して夢物語ではなく、現実になりつつある。

この問題はマシーン開発のエンジニアの商品開発の倫理問題でもあるし、マシーン利用に固有の快楽追求は箍が外れると武器使用にも通じる性悪説的な人間性を露呈させてしまう。便利であれば何だってあっていいのだろうかという問いかけと、常にその問いかけ自体を野暮ったく感じてしまうモード的な流行追求の人類の本性とが著しく対立していってしまう。それはAI等が囲碁将棋のゲーム等の対戦者にもストレスフルにメンタルな影響を与えていく。既にAI進化自体を見越したゲームプレイヤーのプロフェショナリティが棋士としプロを目指す人達の指針となっていった時、自分の頭だけで考えるという伝統的な精神と、新しい時代に対応する戦略との間に齟齬を生じ、当事者たちに一種の二極分裂的な状況を認知させる結果ともなる。その乖離的状況に慣れて順応していける成員と、そうでない成員とでコミュニケーションメソッドギャップを生じさせるということが充分あり得る。(つづき)

 付記 日本の棋士がスマホでAIのソフトを閲覧していた疑惑で大問題となっているが、これからの棋士は恐らくAIの持っているアイディアを無視しては自己戦略も立てられなくなるだろう。

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2016年10月13日 (木)

ボブ・ディランの歌詞を読み解くPart9 <ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア>

この曲は大勢のミュージシャンに歌われている。エリック・クラプトン、アヴリル・ラヴァイン、ガンズ&ローゼズ等枚挙に暇がない。映画<パット・ギャレットとビリー・ザ・キッド>(邦題ではビリーの名だけだった)の主題歌として歌われ、映画音楽のトラックを収めた同名のディランの正規アルバムに収録されている。

 他のミュージシャンに拠って歌詞が余分に付け加えられているが、今回はディランの歌詞集(英語原文)に掲載されている部分のみを扱う。

 まず英語の原歌詞の翻訳を掲載しよう。

 

ママ、僕のバッジを外させておくれ

 

僕はもうこれは使えない

 

もう暗過ぎて何も見極められない

 

まるで天国の扉をノックしているみたいな気分だ

 

天国の扉をノックする(四回)

 

 

 

ママ、僕の銃を地面に置いてくれ

 

もうそれで撃つことなんて出来ないんだ

 

あの長くて暗い雲が降りて来る

 

まるで天国の扉をノックしているみたいな気分だ

 

天国の扉をノックする(四回)

 

 

 

 ビリー・ザ・キッドの生涯を描いたこの映画を昔テレビで放映されていたのを殆ど真剣にではなく斜めに観ていたが、大半のことを忘れている。従って映画のストーリーからこの歌詞を解析出来ない。

 

 だがwiki検索等をしてみると、映画はパット・ギャレット(ジェームズ・コバーン)が最後にビリーを射殺するところで終わっている様だし、実際其処は覚えている。元々友人だった保安官のパットの再三の無法者的行為から町を出る様に催促されるが無視してギャレットに逮捕され、脱獄して放浪し、ある時ギャレットに闇討ちに遭って死ぬ(享年二十一歳)。ビリーはシンガー、クリス・クリストファーソンが演じている。

 

 歌詞は心の中のパット(前半)とビリー(後半)の良心の叫びを其の侭示している。ビリーはかなり教養もある母への追慕とは裏腹に人を射殺し捲った(伝説的な一説には21人、実際は9人だったという定説もある)。

 

 暗過ぎて見えないというのはあくまで心が最早何も罪を犯していなかった時には戻れないという気持ちの問題であり、長くて暗い雲はあくまで人を殺した人の亡霊に悩まされることであり(黒田長政は秀吉の命に拠り成敗した城井鎮房(宇都宮鎮房)一族郎党を全員殺した後、夜な夜な亡霊を幻視して悩まされたとの説もある)、その天国の扉を叩くかの如き気分を描いている。それ程この歌詞に難解さは無い。

 

 だがそれをディランは軽快なリズムとメロディに乗せて歌う辺りにアイロニーが読み取れる。アメリカの在る時代、開拓時代のスピリットを象徴している。<アメリカン・スナイパー>(クリント・イーストウッド監督)の様なタイプの映画を今も製作する国のスピリットには無法者を歓迎する気分も強い。尤もそれは日本も似た処がある(特に若くして討死した様な武将<例えば源義経>や、処刑された思想家<例えば吉田松陰>等を美学的に高く持ち上げ、伝説的偉人にする処等である)。

 

 アウトロー、無法者であればこそ宗教的告解的歌詞になる。その点ではこの曲は<オール・アロング・ザ・ウォッチタワー>とよく似た傾向の歌詞である。

 

 ディランは本映画に水先案内人的な役で出演している。リタ・クーリッジ等ディランとも親しいシンガーも出演しているし、他にも色々有名な役者も出演している。<ゲッタウェー>等でも有名なサム・ペキンパー監督の作品である。

 

 wikipedia ビリー・ザ・キッド http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%89

 

 Billy the Kid http://en.wikipedia.org/wiki/Billy_the_Kid

 

 映画、ビリー・ザ・キッド/21才の生涯 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%89/21%E6%89%8D%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF 

 

 Pat Garrett and Billy the Kid http://en.wikipedia.org/wiki/Pat_Garrett_and_Billy_the_Kid

 

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ボブ・ディランの歌詞を読み解くPart8 <アイ・シャル・ビー・リリースト>

この曲は長いことライヴでディランに拠り歌われる(BUDOANに収録)か、バックバンドを務めていたザ・バンドに拠る演奏(初めは<ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク(1968)>でリリースされる)しかCDでは聞かれなかったが、ブートレッグの<ザ・ベースメント・テープス>(レア)がリリースされることで初めて正規盤としてディランの歌声で聴く事が出来た曲であるが、大勢のミュージシャンにカヴァーされ、曲自体はかなり以前から有名だった。ピーター・ポール・&マリー、ベッド・ミドラー、ザ・ホリーズ、ザ・バーズ、ニーナ・シモン、クリッシー・はインド等に拠っても歌われている。

 さて歌詞を翻訳でまず見ていこう。

彼等は全てが置き換えられ得ると言う。

全ての距離さえ未だ近くなんてない

だから私は全ての顔を覚えている

私を今此処に居させている男の顔なら

私は私の光が輝き出すのを知っている

西から東へと

今がどんな日であれ、今がどんな日であれ

私は必ずや自由の身になるだろう

 

彼等は全ての男が保護を必要とすると言う

彼等は全ての男が倒れると言う

私は私の姿を知っていると誓える

何等かの場所が壁の上高くにある

私は私の光が輝き出すのを知っている

西から東へと

今がどんな日であれ、今がどんな日であれ

私は必ずや自由の身になるだろう

 

私の隣に寂しい群衆の中で立っている

のは自分は非難しないと誓った男だ

日がな一日中私は彼が大きな声で叫ぶのを聴いている

彼は自分が形作られていると抗議している

私は私の光が輝き出すのを知っている

西から東へと

今がどんな時であれ、今がどんな時であれ

私は必ずや自由の身になるだろう

 

 一見したこの歌詞が宗教的であることは明白だが、その宗教性は戒律的なユダヤ教の教えを受けた男が自立していく際に、真に自分の力と体験に応じた知で世界を切り開く事の決意と展望や予感を語ったものである。

 男とは他者であると同時にその中に居る自分自身でもあり、又隣の男もそうである。戒律的なコードを身に付けて大人になった男は、しかし様々な局面で全く戒律通りに行かないこと、教えられた通りには現実が動いていない事に覚醒する。その時教えられたこと、神から作られていることを再構築する必要性に迫られる。自然自体は日が西から東に移動する様に思える我々地球環境の中に居る者にとって、克服する以前的な運命であるが、その運命の過ごし方は人それぞれであり、要するにその運命を生き抜く上での自己体験から会得する戒律や決まり、信条は既に只神から与えられ、戒律を教え込まれた段階のものとは違う。

 男の旅立ちの決意の歌である。だからディランが書いて自分で歌った姿を耳に出来る今に感謝しているが、何故最初<ベースメント・テープス>(録音は67年だったが、この正規アルバム自体は75年発売だった。ジャムセッションだったので正規録音アルバムの様に録音直後には出されなかった)でこの曲が削除されたのだろうか?人種差別的な奴隷制度を彷彿させるということで、公民権運動やヴェトナム戦争終了から未だ日が遠くなっていない時期の発売(1975)だったので、物議を醸すことを恐れレコード会社が削除を指示したのかも知れない。しかし自由の身になる、はやはりディランの念頭では黒人奴隷の歴史も踏まえ、人種差別の国アメリカの全男子の自立、つまり奴隷主を祖先に持つ男子も奴隷として過ごした人達を祖先に持つ男子をも自立し、自由の中で権利を行使し、男子としての責務を果たす事を促す内容のものとして書かれていたのだろう。だがこの曲の素晴らしさ(メロディやリズム)は巷へ引き止めることは出来ず、どんどんカヴァーがなされ、ディランの最初に歌ったヴァージョンのみ知られず、しかし曲は一人歩きして行った訳だ。

 スピリチュアルソングにして宗教性を背景にしながらも神や戒律からの自立、責任と自由の権利を歌ったこの曲は曲想自体は荘厳だが、曲のメロディとフレーズのニュアンスは明るい。この荘厳で思念的思想的でありながら明るく楽しいという部分の両義性にディランという作詞家、シンガー、ミュージシャンとしての本領がある。

wikipedia アイ・シャル・ビー・リリースト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88

 I shall be released http://en.wikipedia.org/wiki/I_Shall_Be_Released

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ボブ・ディランの歌詞を読み解くPart7 <オール・アロング・ザ・ウォッチタワー>

この曲はディラン通算8枚目のスタジオ録音正規アルバム<ジョン・ウェズリー・ハーディング>(68年発売)に収められている曲である。短い曲だが、ジミ・ヘンドリックスがカヴァーしている事でも有名な曲である。

 歌詞を翻訳で見ていこう。

 

此処から出て行ったらかなりあるよ、とジョーカーは泥棒に言った。

余りにも混乱し過ぎているし、どうしようもない。

ビジネスマン、彼等は僕のワインを飲む、田舎もんが僕の地球を掘る。

誰も其の中にはどんなものが価値なのかなんて知らないでいる。

 

 

興奮するのに理由なんてない、泥棒は優しくそう語る。

我々の周りにだって大勢人生なんて所詮ジョークだって感じている人達が居るぜ。

でも君と僕はそんな事を無視してきたし、それは僕達の運命なんかじゃない。

だから今嘘を謂うのは止そう。もう時刻も遅いぜ。

 

監視塔の周りで隈なく、王妃が見張っている。

全ての女性達がやって来ては去って行く、裸足の給仕だってそうだ。

 

かなり離れた所でヤマネコが吠えている。

二人のライダーが近づいてくると、風が唸り始めた。

 

 

 この曲はカントリー&ウェスタン調だし、描かれている情景も西部の荒野と思しい。ディランの曲は放浪の民ユダヤ人に似つかわしいタイプの歌詞が多く登場する。これもその一つだが、最果ての荒野を彷徨う泥棒と、彼に囁くジョーカーはまさに彼自身の人生での一人で居る時の物思いを象徴しているかの様である。

 ビジネスマンはきちんとビジネスをして金を稼ぎワインを飲むが、その彼等の方が泥棒である自分のワインを飲んだり、農夫である人達がまさに泥棒の土地である畑を耕す、という逆転の発想、悪であり、怠惰の極致である側が、真面目に働く側を所有するという発想こそがアイロニカルでディラン的なジョークでありパロディである。「誰も其の中にはどんなものが価値なのかなんて知らないでいる」とする部分こそ、泥棒という反社会的行為に赴く者であればこそ抱ける哲学的達観を示している。

 ディランはこの15年後の1983年に<インフィデル>(背教者、宗教的異端者、異教徒の意味)というアルバムで再度<ジョーカーマン>という曲でジョーカーを取り上げている。ジョーカーとは言ってみれば悪への誘いを受け持つエヴァに快楽の実を勧める蛇の様なものである。

 泥棒が独白する(ジョーカーは彼の心の中に居るので実在ではない<歌詞中の君と僕の君はジョーカーの事だ>)「興奮するのに理由なんてない、我々の周りにだって大勢人生なんて所詮ジョークだって感じている人達が居るぜ。でも君と僕はそんな事を無視してきたし、それは僕達の運命なんかじゃない。だから今嘘を謂うのは止そう。もう時刻も遅いぜ。」はまさにこれから泥棒をする時間帯だという事であり、嘘でなく誠を生きて来た人達が人生は所詮ジョークだって笑って苦悩を紛らわす事自体が、悪を貫く自分にはなく、運命じゃない、それは嘘であり、嘘で生きているのが自分ではない、何故なら自分は悪を履行する事で現実を生き抜いている訳だから、という自己弁護が為されている訳だが、悪の哲学、悪こそ救われる浄土真宗開祖である親鸞の唯円に書かせた歎異抄的世界観、悪であるが故に根源悪、根本悪とカントが言った事を否定し批判し得る地点に自分が居る事で、社会生存という事を哲学的に俯瞰する事が可能である事をこの短い歌詞でディランは端的に示しているのだ。

 「かなり離れた所でヤマネコが吠えている。/二人のライダーが近づいてくると、風が唸り始めた。」は荒野の情景だけれど、その前に出て来るタイトルともなっている監視塔は監獄の事だが、となると夜になった(もう時刻が遅い)という下りは監獄で消灯の時間だという事になるし、又王妃とは権力の象徴である。恐らくディランは娑婆で暗躍するケースと監獄にぶち込まれているケースとを運命的にダブらせて夜を意味づけているのだろうと思う。つまり最初のフレーズが監獄からの脱走を意味し、又泥棒をして逃げる場合でもある、という訳だ。

 しかし「全ての女性達がやって来ては去って行く、裸足の給仕だってそうだ。」はかなり意味解釈的には難解である。恐らくやって来ては去って行く女性とはディランにとっての女性という存在の在り方、出会い方であり、裸足の給仕とは貧乏で金持ちにたかる人達の事だろう。それもディランをスーパースターとして持ち上げる人達への揶揄かも知れないが、この様な私的なメッセージをさり気なく挿入する辺りに彼のユーモアも漂っている。

 

 ボブ・ディランは哲学的詩人だと思う。そして民族宗教的な韻喩や比喩、説諭的なジョーク、換喩がふんだんに盛り込まれていて、まるで「もう一つの聖書」を読んでいるかの様な錯覚を齎す。

 <イッツ・オールライト・マ>や<エデンの門>の様な大作でなくこういった小品の中にこそ、寧ろ気の利いたウィットとアイロニーを読み取る事が可能である。こういうタイプの資質は努力して獲得し得るものでは決してない。

 

 付記 尚この曲は旧約聖書イザヤ書が出典であることも知られている。従って壁というと、どうしても嘆きの壁(Wailing Wall)と解釈する仕方も当然であり得るが、この歌詞ではもっと日常的な意味での心の壁と解釈した。

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世界の真理Part66 文学と哲学の最大の違いはここにある

◎重要なことは、文学は文学世界の提示なのであり、作者の思想の開示、宣言の場ではないということだ。従って文学では詩歌であれ、小説であれ、描かれている表現世界そのものが想像されやすい様な記述であるべきであり、そうでなければ読まれることはないだろうが、要するに文学では作者と作者の手になる表現世界そのものとが切り離されていなければいけないのだ。対し哲学はそうではない。哲学では論述され提示される説明世界自体が筆者の思想そのものであるから、それはしつこく何度も同じ真理を違う語彙に変換して届けられなければならないのだ。この粘着質的な態度は哲学に固有であり、文学ではそれは不可能である。何かそういうテーマのものでない限り、執拗なる思想の反復は表現世界には相応しくないからである。

◎哲学者の自己顕示欲とは、言ってみれば、その思想の宣言と、その正当性への説得にほかならないのだ。文学は説得ではない。文学は端的に表現であり、くどくどとした説明を省略し、簡略化した叙述に徹しなければいけないのだ。叙述とは、余分な要素を盛り込み過ぎず、必要な要素だけに還元することが秘訣なのである。

◎表現する人であれ研究する人であれ、社会に生なかたちで関わっている以上、社会全体の動向や空気を感じないで過ごしている者はいない。そしてその社会全体のある種の不可避的な滑稽さに直面した時に、その事実をメタ的に捉えようとすると、哲学的にならざるを得ない。リアルのフィクシャスな部分を解析しようとすると、どうしても哲学が前面に出てくる。しかしその不可避的な社会全体の動向や時代に自己が侵食されていく気分を、解析ではなく、より表現的に示してみたい、象徴化させてみたという欲求を抱く時文学が恰好の素材となる。だからこの二つは実はどんなに哲学寄りでも文学寄りでも両輪として作用して自己に内在している筈なのだ。

◎現実を突っ放して、一つの自分と無関係な赤の他人であるかの様に見做し、愛着を持ってではなく冷徹に見ようとすると、哲学的態度となり、その滑稽さそのものを何等かの個人的願望の中で生き抜こうとする時、そういう人の生き方そのものを何等かのフォルムで定着させたいと思うと、詩歌や小説等の表現手段で示しておこうということとなる。きっとどんないずれかの専門家であれ、この様に自己内では矛盾せず、相克的な二つの態度が錯綜しているだろう。だからこそ、哲学的態度も文学的態度も、同じ生活人の心的な世界全体への反応として立ち現れるものなのだ、と言うことができる。寧ろ哲学的態度はやはり文学的発想や観念が後押ししているとも言えるし、文学創作的態度は哲学的思惟や想念が精神を支持していて、相互に相互の影に隠れているけれど、内的には例えば一人の哲学者が文学的創造性に魅せられていたり、一人の小説家が哲学的観念と思想に気分的には没入しているということも、意外と充分にあり得ることなのだ。

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2016年10月12日 (水)

時間の性質Ⅴ・数と未来/究極の時間論は空間化するPart5

どんな場合(つまり、いつ)でも常に実現(到来)してしまっている時刻とは過去から今までであり、今以外は全て過去である。未来は常に先に実現(到来)すると想定される時刻でしかない。従ってそれはやはり一種の仮説である。

(時間の性質Ⅱ 先送り論 死は存在を純粋空間化する①)で述べたこと「空間を選ばず、どの空間でもそこに展開される情景と無縁の即物的スケールだけなら、それは永遠の蘇生されなさ、死に近い」とは、量そのものである。或いは単位的単一(画一)化である。単位(始点)と単位(終点)が生み出す範囲設定は、死そのものであり、普遍(抽象)事態が死化に等しいこととなる。

我々は過去→現在→未来と変化していくことを一挙に体験することはできないし、見ることもできない。そこに時間が介在しているから。でも記憶が過去と現在と仮説的未来を同一化させる。であるが故に時刻(年月日、時計の時間)を作った。これは時系列の空間視覚化である。

過去が現在へ執着することはない(し、できない)。何故なら過去に於いて現在(過去の現在でなく、今まさにの今)は未来であり、実現していなかったからだ。実現していないことへ持てるのは希望、願望、自らの未来に向けた意志だけであり、執着ではない。そうであるならいつかは必ず良くなる、という思いだけに呪縛された精神病理的状態である。

基本的に精神的に我々が健常であるなら存在していないものとは執着できないことである筈だ。かつては存在していたものと今存在するもの以外に我々は執着することはできない。

我々は夢、希望、願望を実現していないことへ持つが、それら自体実在的なかたちを持ったものである。だから夢や希望や願望には執着できる。しかしそれが叶う未来そのものは、実現(到来)していないので、執着はできない。夢、希望、願望、予定などは、未来の事実として実現していない現在の思いというかたちあるものであるが故に、執着できる。それは一つの観念的な絵なのだ。

数と未来とが違うところは、どの数字も必ず実現するが、行為や出来事はそうとは限らない、ということだ。しかし時刻は今のところ世界基準は西暦となっているけれど、西暦外の暦に統一され直されても、なお地球が消滅しない限り、千年後の暦は何等かのかたちである筈であり、必ず実現・到来する。つまり未来の時刻は必ず来るが、行為や出来事はそうではない。だから数と時間とでは後者の内容の不確定さに於いてはまるっきり異なる。だが数と時刻とでは相互に相似であると言える。

未来が現在へ執着することも、未来が現在として実現(到来)しない限り不可能である。つまり未来が未来でなくなることが現在であるが、それは過去となった現在だったことの継続から意識される。その継続を保証するものは我々にとって記憶だけであるから、想起された過去のみが常に現在へと繋げられると我々は認知する。だが未来から見て過去である現在は過去に執着できるので、未来が現在となった時には、その未来が過去となった現在へ執着することはできる。従って未来が現在へ執着することは、未来が現在となり、現在が過去になった暁には可能なのだ。だから未来への仮説か推測としては未来が現在に執着することはあり得る。ただそれは今ではない。

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2016年10月11日 (火)

時間の性質Ⅳ 過去の執着の限界に就いて/過去へ影響を与えられないのは何故か?②

我々は常に今忙しく、過去を振り返ってばかりはいられない。

過去は昔になればなる程、今=自己から見て他者化される。リアルでアクチュアルな切実さが薄れる。

大過去のことに就いてはおぼろげにしか記憶していず、かなりきちんと覚えているつもりでも記憶違いが生じていることも多い。

比較的近い過去が今へ齎す影響の方が、大過去が齎す影響より遥かに大きい。

過去の意味は常に過去に~であったことが、今はそうであるかに応じてその都度変わる。大過去は小過去よりそうでないことが多いが、科学的に何かが証明されれば、大過去が長く語り継がれたのと違う意味の相貌を見せることも少なくない(生物学的にも人文科学的にも歴史学的にもである)。

我々は自分の人生の大過去も比較的今に近い過去(小過去)ほどの価値はない様に生を持続させている。

従ってずっと忘れずにいようと心がけていてさえ、古くなればなる程、無意識の内に大過去への執着を薄めていく傾向すらある。

そして常に今こそが最大の価値であり、懸案である様に我々自身の意識を持っていくのだ。

従って怒りは言うに及ばず、どんな憎しみや恨みも大過去に起きたことであるなら、徐々にその情動的動揺が縮まっていくことは、我々が大過去に対しては忘却していく様になっているからであろう。

今、現在は過去へ影響を与えられないのは、今、現在の方こそが既に過去へ執着する様にしか意識を向けられないからである。そして何より、常に今、現在しか存在せず、過去とは記憶の中にだけ常に存在し、アクチュアルには今、現在の様に存在しないからである。

 だが同時に本質的にはどんな衝撃的な過去すらも、今、現在のアクチュアルな強さ、そのリアルさに比べれば、記録としてのみ過去はそうであったというアクチュアルなことの観念としてのみ君臨せざるを得ないのである。だから逆に大過去を小過去より重視するとしたら、それは因果論的歴史観、歴史伝統的価値観に意識が傾注しているからであろう。

 従って過去が今、現在へ与えている影響がどんなに大きくても、それは今、現在そのもののアクチュアルなこと以上に過去が大きく立ちはだかっていることはない。自分の肉親が殺されているとしても、殺されたこと以上に、そのことで今、現在肉親が不在であることの方がより切実なのだ。そしてその場合でも過去の執着の維持・持続の限界があるからであろう。何故なら、それは冒頭で述べた様に、我々は常に今に忙しいからである。

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2016年10月10日 (月)

時間の性質Ⅲ 過去へ影響を与えられないのは何故か?①

 

現在起きることは過去へ影響を与えることはない(し、できない)。

 

現在することで過去そのものを変えることはできない。

 

未来とはその時になってみなければ分からない。よって今しか今ある何かや、今する何かを変えることはできない。要するに今しか今を変えられない。過去も未来も今を変えることはできない。しかしそれはあくまで今から見た場合である。ある過去が今だった時の何がしかの行為や出来事は、今の何かへは(それは小さいかも知れないが)影響を与えている(筈だが我々はそれに気づき難いと言える)。

 

現在起きること、することは、未来へは影響を与えられるし、そうなることはある。

 

現在の捉え方で過去への見方なら変えることはできる。それは過去に起きたことは変えられないからである。

 

◎逆に過去に起きたことが現在幾らでも変えられるなら、それは過去ではない。また、仮にそれが過去だったとしても、過去(に起きたこと)への見方そのものが成立しない。

 

記憶しているからこそ過去そのものを認識できる。だが記憶していることは、過去に(実際)影響を与えることはない(し、できない)。

 

過去→過去の記憶は常に成立しているが、過去の記憶→過去は一切成立しない。<この→はその方向へ影響を与えるという意味である>

 

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2016年10月 9日 (日)

現代社会の問題点・コミュニケーションメソッドギャップから考えるPart2 都市空間と居住環境とライフスタイルの変貌から考える

 

◎首都部以外の関東近郊の首都圏中規模都市を回ってみると、よく分かるけれど、現代社会では益々駅周辺の歓楽街以外の商業施設、つまり小売商にとって商売がし難くなってきている。その理由の一つは郊外型の大型ショッピングセンター(各種ホームセンターの拡充がめざましい)が車で来店することを目的に作られて、そちらに消費行動の回転率が吸収されているからだ。勢い駅前小売商商店街は軒並みシャッター商店街となってきている。

 

歓楽街でもチェーン店的な店舗の方がずっとのしていて、昔ながらの中年夫婦だけで経営する居酒屋は老齢者の憩いの場としては時折成立していても、水商売全体の過当競争にはなかなか太刀打ちできずに苦戦しているし、段々先細りとなってきている。

 

上記の最大の理由は人間関係自体が大きな職場で年功序列的なシステムで動くという様相から、より個人主義的・個人選択的な職業形態が定着していき、大人数で飲み会をする機会を持つ以外は大半個人が一人で寛ぎながら飲む様な憩いを現代人が多く求めているということがある。それともう一つは引っ越しが多い青年層から若い中年層の社会的な異動の現実が長期郊外都市のアパート街や都市部のマンションに定住する人達が大半という事態でなくなってきていることがある。腰掛的な一時的収入源を長期安定的収入源より多く求める自由市民と、そういうシステムに順応しなければ生計を立てられない一般市民の生活実態が、長期安定的な対人関係より、一時凌ぎ的で、浅い付き合いの方を地域社会全体が歓迎する様な社会の雰囲気が、一所に長期安定的な商売を可能にする様な都市構造では益々なくなってきているということが言える。

 

上記の社会環境の激変の時代は既に日本が向こう三軒両隣的な感性では生活していけない国家となってきている(要するにアメリカ都市部化してきている)ことを意味する。

 

◎そういったライフスタイルにとって欠かせない生活実態とは、商店や歓楽街の経営者が回転率を重視する様なタイプの短期決戦型的な生活戦略であり、もの持ちに関してもいい品物を一致程度の高価な価格で購入して長期利用するのではなく、安くて便利な品物を頻繁に買い替え、役立たなくなったら即捨てるという、物質所有に関する回転率をよくしていく、つまり消費社会の循環の方に人の生活やそこに付帯する感情を添わせるというタイプの、昔の日本に求められた長期信用型のコミュニティから短期移動を促進するコミュニティへと変貌してきている、ということも言える。それはあらゆる職種で長期安定的な戦略が既に一切成立しなくなってきているからである。

 

これらの現実で最も憂慮されることはごみが大量に都市空間で発生し、その処理に国家全体が翻弄されることである。このまま突き進めば恐らく遠からず東京湾は全てゴミ投棄の為の施設で埋まってしまうだろう。だからこそ再生紙等の循環的な消費システムを全分野で開発していかなければいけないのだが、自然崩壊自体はなかなか歯止めをかけることができなくなりつつある。(つづき)

 

 付記 要するにウェットな対人関係や人間観では現代社会では生き抜けない、言ってみればドライで、クールな対人観、それは多分に性善説的社会観から性悪説艇的社会観へと意識変更を我々日本人に迫っているのが現代社会だとも言えよう。

 

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リスタート単位論chart2

★思考できることのメモ シリーズに於ける円と直線特集を思い出してみよう(9/29/8

出発のないもの(出発を持たないもの)は帰着もない。しかし出発のあるもの(出発を持つもの)は帰着もある。

 要するに始まるものは必ず終わり、始まらないものは終わりもしない。しかし後者は自然界ではあり得るだろうか?観念的には確かにあり得るし、言っていることはよく分かる。

円には基本的に出発点と終点がない。それは閉じた三角形、四角形、五角形等とも基本的に異なる。何故ならそれらには点がある(角がそうである)が、円にはそれがないからだ。

切れた直線には出発点と終点がある。

円は閉じているが、前後に無限に開かれ切れているということがない永遠の直線(或いは曲線)と同質性がある。但し後者は仮想的全点を一回しか通らないが、円は違う。

円は中心を持ち、外部から操作され形成される。しかしそれは無限の線も同様だ。只この二つとも永遠にどこにも到達しない。

範囲設定とは出発点と終点(この二つは相互に入れ替え可能である)を設けるということである。

出発点と終点の範囲設定に於いてのみ、移動という行為(動作)が成立する。

実は円は出発点を終点とする、という意味以外では範囲設定された直線と同質である。しかし円は予めそういう移動と停止の位置が相同である。つまり帰還の指示が必要であるが、直線はどこで止まっても、何時止まっても、それが一度だけ止まりさえすれば(二度と動くことはしかしない)、特定の指示なしに成立する。任意の曲線に於いておやである。この違いは極めて移動(動作としての行為)に於いては大きい。

円と直線とでは、移動の際の移動者の恣意自由度は圧倒的に直線(や任意の曲線、但し出発点と終点を必ず分ける)の方が高く、円は著しく低い。任意の曲線では、出発点と終点を一致させるとしたなら、この両者の中間の恣意自由度の高さである、と言える。

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2016年10月 8日 (土)

ビートたけしの詩を解析する/<ビートたけし詩集 僕は馬鹿になった。>(祥伝社 黄金文庫)から Part1 孤独

ビートたけしの文学としての仕事はエッセイや小説以外にも詩にも及んでいる。彼は時代の寵児としてメディアを席捲し、同時にフライデー襲撃事件等の不祥事を起こし、バイク事故で瀕死の重傷を負ったことなど全てのプロのメディア寵児としての日常から紡ぎ出されるエッセイと、それと不可分なモティヴェーションで作られている映画の合間にアーティストとして多くの芸術作品を作り、同時に詩も書いてきた。

本シリーズは<ビートたけし詩集 僕は馬鹿になった。>から抜粋して特に注目すべき詩を解析する。どの詩も短詩であるので、ブログ記事として一回分としてちょうどいい長さである。

今回は(孤独)を取り上げる。まず全文を示しておこう。

孤独

人知れず何か良い事をする

良い事?

人が知らずして、なぜ良い事と分かる

そっと彼女を愛す

彼女が知らなくて、なにが愛だ

釈迦が飢えたトラの前に身を投げ出した、という

誰も見ずして、そんな話が残るか

自分が生きる事、死ぬ事

誰も振り返らない自分はどうやって存在する

だから人間は人の代わりに、神を作った

神に知ってもらおうか

 この詩は個人的な思い、それは彼女をそっと愛す控え目でシャイな男の心の孤独なロマンと、その様な思いを大勢の特に男たちが抱いてきた人類全体(女でもそういったタイプの人たちもきっと大勢居ただろうということをたけしはそれとなく、ここで示している)の一つの儚い願望から神が作られていったのではないかという人類宗教学的な感性的意見とが合致されている。

 つまり私的そのものであることが暗黙の内に公的な観念の形成に結びついているのではないかという閃きが控えめでシャイな男の呟きから示されているところが優れている

 この詩を目にした時、たけしが女に生まれていたなら、金子みすゞの様な詩人になっていただろうと私は直感した。それは強ち間違いではない。

 この詩集は私にとって数少ない個人的なバイブル的な書である。この詩集と同じくらい感動した詩集は恐らくみすゞの詩集と寺山修司の<少女詩集>くらいである。

 この種の詩はやはり短歌でも俳句でも表現できない。詩だけで表現できるものである。

 しかもとりわけ(人知れず何か良い事をする/良い事?/人が知らずして、なぜ良い事と分かる/そっと彼女を愛す/彼女が知らなくて、なにが愛だ) の冒頭の箇所だけで日本人の男の詩だと理解できる例えばイタリア人はこういう詩を一般には書けないだろう。勿論良さは理解できるだろうけれど、恐らくスペイン人もポルトガル人もブラジル人も含めて、ラテン的熱情では、こういう誰も見ていないところで密かに思いを募らすということを、部分的には彼等はきっと奇異に思うだろうし、日本的な愛を理解してくれる人たちもきっと居ないということはないと思うが、彼等自身の日常とは違うものとして認識するだろう。

 だがきっと彼等も後半の部分、神を人間が作った理由の記述に至ると、最初に抱いた奇異な印象から溜飲を下げる思いへと変えるだろう。

 北野武監督<監督・ばんざい!> はほのぼのとした情感と、どぎついパロディが共存している趣きの映画だったが、この映画の中で内田有紀演じる高級ブティックの店員に恋い焦がれ、高級乗用車で店の前で待っているシャイなヤクザ風の男をビートたけしが演じていたが、この映画のこの部分(恋愛映画)の北野武脚本は、きっとこの詩のテイストを踏襲したものだったのだろう。

 他にも色々と、この詩集には北野武映画の脚本のベースになっている詩が多く登場する。(つづく)

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リスタート単位論chart1 時間と時刻

 

時刻とは時間を一瞬止める志向だ。時間を切断させられると仮定して成立している(そういう一つの究極の単位である)ある一瞬を永遠に閉じ込めたい欲求が時刻を生み出しているとすれば、それは死への自覚からであろう。

 

だが時間は止まらない。とは言え宇宙が消滅しない限り、ではあるが。

 

時間の止まらなさは、空間での光の移動に似ている。

 

時間はある時刻から別の(ある時刻 からすれば未来の)時刻まで、という範囲設定に於いて初めて成立する。認識上そうである。そこに一つの量を認識できるからだ。しかしその様に範囲設定しない限り、どこまでも未来へと行こうとする時間は、量化とは何か別の<今の移動>とでも言える様なものとなるであろう。

 

認識上、今そのものが時間の出発(宇宙の誕生)から発したとするなら、つまり過去が無限でないなら、そこで初めて時間が量化される。何故なら出発(点)があるなら、常に今までが範囲化され、時間を量として計算できるからだ。

 

範囲というものがなければ、時間は量にはならない。それはあくまで常に永遠の今である様な、今の特定(それは時間を止める志向である)とは対極のずっと延々と続く未来へと移動する止まらなさであるから、それは量にはならない。あくまで量とは範囲設定をした後に反省的意識の上で成立するものだからである。

  

 

付記 要するに量とは全体として規定し得ることなので、範囲設定のない移動、動きの持続自体は量でなく現象でしかないということである。量化とは固定化ということである。そうされていないものは基本的に無秩序な現象でしかない。だが実際全ての動きは秩序とは違う性質のものでもある。そう考えれば、秩序とは常に範囲設定された極めて限定的な事態のみを指すこととなる。秩序とは、それ自体言語、言葉の規定(=固定化)としての性格を有しているとも言える。

 

 

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2016年10月 7日 (金)

数と未来/究極の時間論は空間化するPart4 数自体と時刻自体

数はどの数もそれ自体である性格を有しているのであり、別のどの数ともその性格をその数に固有の事情としては共有してはいない。にも関わらずある数と別のある数が偶数であるとか3の倍数であるとか約数であるとかの意味で共有する性格があるが、それは我々の様に全ての数を全体的・体系的に理解する様に見る視点からであり、その数自体がそう判断できるわけではない。

時刻ということから考えれば例えば2016108日の午後1159分という時刻は、その時刻、つまりその瞬間しか到来せず、二度と同じ時刻はやってこない。だからその時刻自体は他の全ての時刻から切り離され存在している(存在することになるだろう、から、存在する、存在したと移行することをそう示しておこう)。だが、それは時刻から時間を考えた時なる論理であり、時間自体は切れ目があるわけではない。ずっと連なっている。それは何かあることをしていて、時々その何かあることとは全く直接は関係ない違うことをその合間にすると、何かあることに別の意味を与え、仕事が捗るということと似ている。要するに何かあることをする自分と、その合間にその何かあることとは全く関係ない違うことをする自分が自己同一性的に一致するということと、或る時刻そのものと、あらゆる時刻を連なった一つの筋、或いは線の様に我々の生に沿っている時間との関係、つまり前者が私にとっての何かあることとか、その何かあることとは全く関係ない違うことであり、後者が私ということだからである。

時間は只管そういう時刻が以前存在したというかたちで、全時刻を過去にしていく様に進む、という意味では明らかに未来にだけ向かっている。だがそれは存在者たる我々が既に去ってしまっている時刻を認識し得るからにほかならない。時間自体がそれを記憶しているわけではない。その意味では時間自体が我々の生によって生み出されている、そういう認識としてそれ自体与えられている、或いは我々自身にそう認識させている、とも言い切れる。だが同時にある個別の時刻が過ぎ去ったことは我々が作っている訳ではない。やはり自然全体の環境全体の移ろいの中で時間そのものは経過している。してみると、時間とは見えないものとして全ての存在者の移ろいを見守る様に介在しているが、それ自体は何か実体を伴っているわけではない。そして時間自体を発見しているのが、少なくとも認識的に理解しているのが我々現存在(人間)だけだとしたら(尤もイルカはイルカにとっての時間や時刻があるのかも知れないけれど)、介在しているけれど、それ自体に実体がないものに実体化させる様に認識し理解している我々が問いとして、それを作っているとも言える。にも関わらず過ぎ去った時刻へ立ち戻ることが誰にもできないという意味で、介在している実体のない時間とは、全存在者とは全く違う在り方として存在している。その存在している、と言うその存在は全く存在者と異質な何かとしてである。永久持続するその向きは未来にだけ向かって、決して過去へ向かうことがない。

上記の時間の異質性は確かに数字の連なりの絶対的変更不可性と酷似している。数全体(無限に続くので、全体と言うのは矛盾するが、外延の存在し得ない永久持続の全体としておこう)も数が増す様に並び、数の行く先は未来の様に数を増すけれど、数の大きさが減る様には決して進行しないからである。

時間は決して時刻を記憶しない。全ての過去を記憶しないという意味で忘却する。忘却とは記憶したことを忘れることなので、それを相対忘却とすると、絶対忘却である。在ったこと自体を一切記憶しないのであるから。

忘却しない存在者とは或る限定的時間を生きる全ての現存在のその生の時間内でのみである。数も又或る個別の数はそれに隣接する個別の数を認識してもいないし、自分より小さい数を記憶しているのでもない。この点でも数と時間とは似ている。そして数にも未来へ進む仕組みそのものは備わっている。だが個別の数は勿論数の進行自体を期待しているわけではない。

今回の結論を言おう。個別の数自体が別の数字に加算され減算され変化するのではない(35を加えれば8になるが、それは5が自発的にそうしているわけではない。外部操作的に我々がそうしている)し、同様に隣接する数を作っているわけではない或る個別の数字とそれに隣接する大小の数字は数それ自体からすれば外から与えられている。だがその与えられている現実を我々が捏造しているかと言えばそうでもない。それは捏造であるなら誰かが違和感を持つだろうが、世界中でそういう人は居ない。つまり数の並びは誰でもが理解できる。従ってそれは捏造ではない。一つの自然である。時刻もそうだ。その時刻自体がその前後の時刻を規定したり決定したりしているわけではない。あくまで時刻の並びは外側から与えられている。にも関わらずそれはやはり我々による捏造ではない。自然に実在している、極めて固有の在り方をしている一つの現象である。だがその現象に関わらずに生きていける現存在も、それ以外のどんな存在者も居ない。時間それ自体以外は。或いは数それ自体以外はとも言える。

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世界の真理Part65

A.J.エアも言っている様に、実はどんなことにも最良の方法とはある筈なのだ。最適な解答は常にある。どんな大きなことでも小さなことでもである。それは我々が人間だからであろう。全てに正解というものはある。だが一々それを皆で見つけることはできないから、人は自分でそれを見つけるしかないのだ。何故なら人それぞれ抱える問いが異なるからだ。

親しさとはしばしば相手の進歩や進化を阻む。人は嫉妬と羨望から自由でないので、親子であれ親しい知人であれ、そういった人の存在で却って自分にとって最適な判断から遠ざけさせる。親しくない人に対して我々は意外と正しい評定を下せる。だが親しい相手だとそれがなかなかできない。その人となりを知り過ぎているために、却って客観的に見ることができないからだ。だから親しさとは別のクールに観察できる視点を自らに取り入れる様にするには、温もりのある対人関係から一度自分を意図的に遠ざける必要もある。

最も精神的に遠い場所とは意外と身近に存在し、逆に最も精神的に自分に近い場所とは世界のいたるところにある、というのが世界の真実である。身近なものは却って虚心坦懐に観察し難い。例えば自転車で何時も訪れる場所を徒歩で行くと全く違った風景に見えるし、車で訪れても、それは自転車や徒歩とも違う風景になる。逆に一度も見たことのない風景でも、デジャヴュということであるか、そうでないかは分からないが、それが最も自分の精神に近い何かだと感じることがある。

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2016年10月 6日 (木)

現代社会の問題点・コミュニケーションメソッドギャップから考えるPart1

 

現代人の一つの顕著なメンタル的傾向とは、ビジネスライクさと対人的ウェットな情感とが相互矛盾をきたし、精神のバランスを崩しやすいけれど、すんでのところで便利さという恩恵がそれを阻止しているということだ。

 

現代社会は誰しもが自由に事業を展開できるし、益々個人の労働時間は短縮できる。だがそれが益々時間短縮のニーズを膨張させ続けている。つまり全市民は個人の余暇をより多く求める権利を行使するが故にビジーネスも益々拡張していってしまう。

 

◎他方マシーンユージングのスキルアップが誰しもに求められている。一々のコミュニケーションの細々としたマナーの省略がユーザーの側からサービスが悪いという小さなトラブルの元となり、それが鬱積すると、そのことでメンタル的にささくれ立ち、衝動的犯罪へ多く誘い込む。それはハッキング行為などの行為とリア充的な殺傷事件へと二極分極的に犯罪のケースを多様化させていくだろう。

 

便利さというものが現代社会にパンドラの箱を開けさせたのだ。今後人類はあの世田谷一家殺害事件の様な未解決事件を頻出させていくに違いない。それはストレスフルな現代社会の利便性追求主義が齎す一つの必然である。マシーン全般の扱いに疎い古風な情感的対人ネットを希求する人たちと、益々それらから遠ざかり、ビジネスライクさの中だけに埋没する人たちとのコミュニケーションメソッドギャップそしてマシーンユージングのスキルのディヴァイドが拡張されていく。それは人類を二極へと分極化させる。完全乖離させていく。

 

コスト削減と時間短縮への決死の義務感が現代人を覆っている限り、二極の分極化構造はより深刻さを増していだろう。現代棋士たちはAIとの格闘に熱を帯びてきている。だがその天才たちの熱情を嘲笑うかの如く、AI開発推進者たちは、人的天才頭脳を機械化させることだけに白熱する開発者と棋士との間の発想の乖離は象徴的に、人間自体が現代社会から求めようとするものの性質をも二極へと分極化させていくことに寄与するだろう。

 

◎一つには人類はのんびりとしたいという気分を常に今の自分に隣接させている。しかしそれを時代が許さないというかたちで、益々メディアもウェブサイトも猛威を振るって現代人をビジーネスへと誘い込む。つまり転寝をする気分的余裕を誰しもが恋い焦がれ、時間短縮させようとすればする程、ビジーネスから逃れられなくなるという寸法である。だから一方では余暇のゆとりを求める心理と、他方ではそれを実現させるために加速度的に時間短縮へのニーズが拡張され、それを実現させるためにハードスケジュールをこなすことだけの日々への愛着がワーカホリック的な心理となっていくこととが、乖離しつつ、相互に癒着もするという状況が恒常化していくのである。(つづき)

 

 

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日記的記述DY 宇多田ヒカルの<真夏の通り雨>から読み取れる生の時間論

 さっきまであなたがいた未来 たずねて明日へ//ずっと止まない止まない雨に、ずっと癒えない癒えない渇き、これらの歌詞の言葉が耳から遠ざからない宇多田ヒカルの<真夏の通り雨>は既に哲学者の想念を裏書きしつつ、それを超えている。

 初っ端から我々聴衆を惹きつけてやまないヒッキーのこの曲の歌詞は(夢の途中で目を覚まし/瞳閉じても元には戻れない/さっきまで鮮明だった世界 もう幻)と、哲学者が考えてきた想念を難しくない語彙で全て示している。

 さっきまで未来だったことは今過去に想像した未来へと後退しているけれど、今はそのさっきまで想像していた未来になっていない今かも知れないし、さっきまで想像していた未来のとば口に今自分はいるのかも知れないという思いが最後のリフレインのずっと止まない雨、ずっと癒えない渇きを支えている。何故なら常に想定する未来は幅というものがあり、今もさっきにとっての未来であるなら、今にとっての未来もさっきにとっての未来でもあるからだ。そして未来も永遠に続くだろうから、想定する未来も常に先送りされる想定へと引き継がれる。

 未来は過去に於いても常に想定されていた。だがその未来は過去に想念した未来であったから、丸ごと過去の未来である。でも過去に未来であったことは今でも未来でもあり得る。何故なら未来も又永遠に先まで指しているからだ。100万年先だとさっき思っていた未来はいつかはやってくるし、それは今から見てもやはり100万年先である。一年後には999999年先になり、二年後には999998年先になり、少しずつ接近していくけれど、恐らくそれを今生きている誰も見ることはできないだろう。だが今から継続している、つまり我々の子孫の誰かはその時のことをきっと目撃する。人類が絶滅していない限り。

 宇多田ヒカルと桜井和寿は現代J-popで固有の存在感を示してきた。私はその二人に現代詩人としてビートたけしを加えたいところだ(ビートたけしは映画監督、俳優、アーティスト、小説家としても活動しているけれど、凄く鮮烈な詩も多く書いてきた)。

 時代は目まぐるしく変転しつつある。それは恐らく誰も予想しない方向へと常に舵を切っている。時代自体が我々に舵を切らせている。

 今ニュースに毎日安倍総理より多く登場する、登場しない日というものを持たないのは小池百合子都知事である。だが彼女も一年前にはそういった未来を想像はしただろうが、実現するとは思ってもいなかっただろう。だが選挙活動を走り抜けた時に、その未来が実現すると実感しただろう。

 宇多田ヒカルにとって<花束を君に>でも<真夏の通り雨>でも語り掛けているのは実母、藤圭子である。誰かに手を伸ばし あなたに思い馳せるとき 今あなたに聴きたいことが いっぱい いっぱい溢れて)と歌う部分のあなたとは藤圭子のことだとは、昨日の日テレNews Zeroの山尾アナとの対談でも明らかである。

 過去を我々は変えることはできない。しかし過去に想定した未来を変えることはできる。だから常に未来を想定する心的事実を見据えれば、実は変えられる過去とは、過去に想定していた未来だけであるが、それは意志ということから考えれば最大のものである。

 その意味で現代J-popで駆け抜けてきたヒッキーの歌詞には一つの意志論が控えている。時間そのものは全ての現存在にとっての意志とは無縁に進行していく。過去だけを作りながら、永遠に未来へ向かって。でも過去を想起するのは現存在だけであり、時間自体が想起するのではない。多分にジョン・マクタガートや彼を翻訳している永井均の求めてきている時間論は、時刻論であるけれど、ヒッキーの歌詞は時刻論だけでない、未来想定論、未来創造的意志論を含んでいる。それは意志に於いてのみ時刻の進行だけにとどまらない変更ということができるからだ。それを成し得るのは我々の行為である。行為は常に未来へと進行する時間に沿っている。しかし行為に於いて我々は未来を想定し得るし、行為から過去を追想することもできる。

 それはやはり時間自体には全くできないことである。

 宇多田ヒカルの歌詞には初期からその思いがずっと託されてきた。それは時期が来たら取り組みたいビートたけしや桜井和寿の詩や歌詞からも読み取れる何かである。

 だがそのことへ触れる前に、私自身もまた詩作者として取り組んでいかなければいけないことが沢山ある。そしてそれが一定程度成し遂げられた時、再びヒッキーやたけしや桜井の歌詞や詩と向き合い時もくるであろう。

 だがその時私にもまた今想定している未来とは違う未来がやってきているだろうし、そのことにその時驚嘆もすれば、そんなものであると諦念を抱くかも知れない。想定される未来は時刻論的には必ずくるけれど、その色合いや様相を決定するものは、その時までになされる我々の行為なのである。そしてそれは今ある意志を常に出発点としているのである。

 

付記 (勝てぬ戦に息切らし あなたに身を焦がした日々 忘れちゃったら私じゃなくなる 教えて 正しいサヨナラの仕方を)は実母との年齢の違いや世界観の違いから、人の死の避けられないことへの諦念であり、(立ちつくす見送り人の影)は死者を弔う生者の存在の証明であり、この二つからこの曲が無常観と死生観を漂わす趣向となっている。勿論勝てない戦は生の時間の有限性、見送り人の影はそれも弔う死者同様いつか地上から消えねばならないという諦念を意味している。

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2016年10月 5日 (水)

小者論Part1

◎世の中では人を見ると、大物は悠然としていて、小者はせかせかしている。だが悠然としている人は概して小さなことには冷淡で、せかせした人は細かいことでは親切である。勢い我々はどうしても大物と接触するより、小者と接触する時間の方が長くなってしまう。そして次第にその小者固有の教条に支配されていく様になる。小者とはどういう人のことを言うのだろうか?ここで一度きちんと定義しておこう。

精神論を常に振り翳し、理想論だけを常に人に語り、能天気で、絶対的権威を自分の上に聳えさせ、その者にとっての忠実な僕(しもべ)であることを自認し、自負し、それを尊崇しない者をやたらと軽蔑する態度を取る。

人と人の和を気遣いだけに傾注し、自分の幸福を追求しようとはしないで、無意識に実は蓄積されてきている鬱憤を更に自分より恵まれない人へ向けて、教条的な訓示を垂れ先輩面をする。

◎彼等小者にとって大切なことは、自分同様無自覚で無能な人同士の信頼である。だが彼等には悠然とした自尊心がないので、必然的に形式的な何の責任も伴わないその場凌ぎの情緒的温和だけが価値となり、実益を伴った模索は自分でも怠っているので、必然的に性善説的な理想論と、机上の空論だけに終始し、精神論者としての生を全うすることだけが幸福だと勘違いする様になる。

◎こうやって見てくると、右翼思想者ややくざに典型的なタイプの人間像が浮かび上がる。努々我々は彼等のちょっとした気遣いや優しさに心を許してはいけない。こういった似非的なヒューマニズムを標榜し、粋を自認し、地で行く様な輩と如何に少なく接触するか、人生の時間を無駄にしないかだけが豊かな我々の人生を保証する。

小者は総数から言えば大物より遥かに多い。そして近年年々増加の傾向を示し、且つ巧妙に自己を大物に見せるスキルだけは向上してきている。小者に足を掬われない様に人生くれぐれも注意したいものである。

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気分論Part1

なぜ転寝(うたたね)は気持ちがいいのだろうか?それは転寝が義務的に就寝しなければいけないという状況ですることではないからだ。

生理主体的に眠たいという気分がまずあって、それからいつの間にか寝入っているのが転寝なので、その自然さが気持ちいいと思えるのだ。

◎或る部分人生とは常に転寝をしてもよい様な状況を如何に拵えるかというところに醍醐味がある、と考えてもよい。そういった余裕が一切持てないということは憂えるべきことだ。だからそういう余裕ある状況が持てているのなら、それはかなり幸福なことだ、と言い切ってよい。何故なら一切そんな余裕のない生活というものもあるからである。

◎人はどんなに食通であっても、通常食後には直ぐ別の食べ物のことを考えたり想像したりすることはない。空腹でこそ、そういった食べ物を渇望する想像が見事に花咲く。ご馳走とは空腹が作るのであり、さしてご馳走でないものでもいったん食べてしまい空腹が満たされた状況では、ご馳走を想像することはないし、ご馳走の有難味もない。食べ物が充分補充されている状況ではないことに於いて、それを渇望することが生じる。

気分とは何等かの欠乏に於いて、それが満たされることで得る快楽と常に関係がある。気分とはだから満足感と不満感とに大別されることを言うと言ってもよい。

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2016年10月 4日 (火)

アレン・ギンズバーグの詩を翻訳し読み解く ① Song

 

Song by Allen Ginsbergを今回は翻訳して解析してみよう。この作品はHOWL AND OTHER POEMS1956, 1959)に出ているので、それ以前に書かれていた詩ということになる。

 

歌 アレン・ギンズバーグ

 

世界の重さこそ愛である。

 

孤独を背負うおこと、不平不満を背負うことなのだ。

 

重さ、我々が運ぶこの重さこそ愛なのだ。

 

 

 

一体誰がそれを否定できよう。

 

夢でそれは身体に触れる。

 

考えの中で奇跡を育む。

 

生み出されるまで人間の中で苦悩する想像の中で、だ。

 

 

 

心の外の姿形は清らかさを伴い燃え尽きる。

 

人生の重荷のためにこその愛。

 

 

 

でも僕たちはうんざりとしながらも重荷を運ぶ。

 

一隊は休まなくてはならないし、最終的にはそれは愛の腕の中でなのだ。

 

そう、愛の腕の中で休息するのだ。

 

 

 

愛がなければ休息もない。

 

愛の夢がないのなら眠りもない。

 

それらは天使やら機械やらに悩まされて狂っていたり、震えていたりしても、最後の祈りは辛いわけがない。否定なんてできない。否定されたじろぐこともない。

 

重荷とはとても重いのだ。

 

でもそれは決して後戻りさせてはくれない

 

まるで考えがその過剰さの中の全ての美徳の中で

 

孤独の中で齎されるかの様に

 

 

 

暖かい身体は共に闇の中で輝き、手は肉体の中心に向かって動く。

 

身体は幸福の中で震え、魂が瞳の中の喜びを作る。

 

 

 

そうだ、そうだ、それこそ私が望んだことなのだし、私は何時も望んでいた。何時も望んでいたのだ。

 

私が生まれた場所へ身体を戻すことを。

 

 

 

 アレン・ギンズバーグ(1926-1997)はロマン派的でないし、又象徴主義的でもない。彼の詩は単純な真理を綴っている。それは朗読の名人だったと言われる彼の人柄も偲ばせる。

 

 アマンダ・マクブルームの<Rose>(映画主題歌として歌われた。ベッド・ミドラーが主演と主題歌を担当した。)の持つ詩のニュアンスもこのウォルト・ホイットマンとウィリアム・カーロス・ウィリアムズから啓発されたとされるギンズバーグの傾向の方に近い。

 

 ビートルズ最後期の名作である<Carry that weight>辺りも、案外この詩にヒントを得てポールによって書かれていたのかも知れない。実際ビートルズは(特にジョンは)ギンズバーグに強く関心があり、ポールもギンズバーグの最晩年まで交友があった。ポールはギンズバーグの朗読会でギター伴奏もしている。

 

 

 

僕たちはうんざりとしながらも重荷を運ぶ。一隊は休まなくてはならないし、最終的にはそれは愛の腕の中でなのだ。そう、愛の腕の中で休息するのだ。/愛がなければ休息もない。愛の夢がないのなら眠りもない。それらは天使やら機械やらに悩まされて狂っていたり、震えていたりしても、最後の祈りは辛いわけがない。

 

 上記の箇所がこの詩の肝である。重荷を背負う運命である我々は休息が必要である(ギンズバーグはユダヤ系なので、休息日という観念が自然に持ち出される)し、愛の腕の中という家庭的な雰囲気が示される。休息には愛が必要だとは説得力がある言説ではないだろうか?意外と同じユダヤ系ということでギンズバーグはレヴィナスとも何等かの共通性が見出しやすいかも知れないので、レヴィナスも並行して学んでいるので、見つけ次第報告したい。

 

 ところで上記の詩の英語部分は次の様なものである。

 

but we carry the weight            wearily, and so must rest in the arms of love
            at last,
 must rest in the arms            of love. No rest            without love,
no sleep            without dreams
 of love—            be mad or chill obsessed with angels
            or machines,
 the final wish            is love

 

 重要なことは前半では一人称的に我々の実生活上でのことを述べ、後半でそれを三人称的に真理化させていることだ。

 

 これは詩に於ける哲学的手法だが、後半の言説が回りくどかったり、哲学的過ぎたりすると興ざめしてしまうが、この点ではこの詩では実にその辺の配慮が行き届いていて、聴き心地も良いし、祈りに辛さを否定する部分で重荷を背負い続ける我々にとって救いがあり、日常的な愛がよく表現されている。

 

 何時も望んでいたのだ。私が生まれた場所へ身体を戻すことを。I always wanted,            to return to the body            where I was born.の部分は宗教的である。ユダヤ教神性的なものなのか、定かに理解できないが、バイロンのEuthanasiaでも最後に生まれてこなかった可能性から自らの生を考える節が登場するが、それよりずっと素朴に心の故郷として死後の休息を考えているところが、ユダヤ的であり、バイロン等との感性の大きな違いかも知れない。

 

 

 

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2016年10月 3日 (月)

入れ替わるテーマに就いての一つの提案

 昔から魂と本体とがすっかり他人と入れ替わるというテーマは多くのドラマで描かれてきた。その魁的作品が大林宣彦監督<転校生>だった。女子校生と男子高校生の身体が入れ替わってしまうというテーマだったし、韓流ドラマでも<シークレットガーデン>もそうだったし、舘ひろしと新垣結衣の父親と娘の体と心が入れ替わる<パパとムスメの七日間>もそうだったし、田中美佐子主演でそういったドラマも確か最近あった。深海誠監督の長編アニメである<君の名は。>も正にその定石を踏襲した作品だった。

 ここで重要なことはそれらのドラマでは必ずABとが登場して、Aの心はBの体に、そしてBの心はAの体に乗り移るというパターンであることだ。しかしこういうパターンは決まり切って、二人だけの特例なのだ。だからこそありそうなことではあるけれど、あり得ないとも思えてしまう。

 では次の様なパターンはどうだろう?

 今ここに東京駅行きの路線バスに乗ろうと10人の見知らぬ乗客同士がバス停でバスが来るのを待っている。その時世界に異変が起き、一挙に向こう側に右に向かって直進するバスの方向に最後に並んだ客から順に前の客に心と体が入れ替わり、相互にではなく、世界的に最初に並んだ客はそれより少し先の歩道を歩く別の人に心と体が入れ替わり、そうやって延々世界中がそうなったとしたら、どうなるだろう。つまりお互いにではなく、順繰りに隣や一番近くに居る他人の体に心が入り込み、ずれて移っていく世界的連鎖が起きるというものである。

 これだとまるっきりこれまでのドラマや映画で描かれてきた二人だけの運命的入れ替わりとは性質が違うと言える。ある意味で二人の男女や親子等が入れ替わる方式は愛とか運命的結びつきという様なニュアンスを表現上醸し出すけれど、私が提案する様なものは空間の歪とか、もっと自然の気まぐれ的な偶然的な突発性的性質の入れ替わりと言えないだろうか?

 だから私が提案するパターンの方が人類的規模の共産主義的平等性に裏打ちされている。

 これまでの入れ替わりパターンのドラマや映画だと、どうしても人という存在に対する感謝の念を喚起する内容が多かったし、他者との向き合い方自体に反省を強いる様な教条性も多分に強かった。しかし私が提案する様なパターンのドラマがあるとすれば、もっと究極の人類全体が何とか講じなければどうしようもないという危機感が溢れているとは言えないだろうか?つまり隣り合った二人同士なら何とかなる問題も、こちらでは決してけりがつけられない。何故なら世界中で自分と一番近い距離に居る他人とだけ入れ替わり、それが相互ではないのだから。しかもドミノ倒しの様に全てが右か左か(それはいずれかでよい)に全て滑る様にずれ込んでいく様相なのだから。

 これは笑いごととかメルヘンにもならない。ある種のパニック映画やパニックドラマの部類に属すこととなるだろう。

 そして個人の世界観のストーリーとは本質的に異なった性質の入れ替わりパニックものとなることだけは間違いない。未だ今のところ誰も試してきている人が居なさそうなので、そういった類のパニック小説とか映画の脚本を書くことに意味があるのではないだろうか?

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2016年10月 2日 (日)

世界の真理Part64 非哲学的態度の重要性に就いて

我々は日頃から全ての生活の場面で熟考だけをしている訳ではない。寧ろ寛いでいる時、余り深く考え込まずに只管何かをし続けるだけの時、意識的に頭の中を空っぽにする時などを持つが故に、そうでなく沈思黙考したり熟考したりする時間もまた大切になる。だからただ考えあぐねる時間だけしか持たないことは創造的な態度ではない。

哲学では熟考を旨として世界の全てを根拠化する。だがジル・ドゥルーズも<差異と反復>で述べている様に脱根拠化ということも重要なのだ。勿論脱根拠化は、根拠化を通過せずには達しえない境地であり、意識である。でも時として理屈で考え過ぎずに心を疾走させる必要すらある。つまり根拠からは見えてこない相貌もある、という認識が重要である。

我々は駄洒落に打ち興じたり、全く本質論とは関係ないジョークに喝采したりする。そういった心の剰余こそが極めて重要である。そういったことは可惜哲学的にし過ぎて却ってことの最も重要な本質を見失うことを防ぐ。積極的にバカになりきることは何かを成し遂げる上でも極めて重要である。バカになりきれない者は悧巧にも怜悧にもなれない。悧巧であることは逆に言えばバカになりきれる者のことだとも言える。

人の気分は理性や目的意識や計算にだけ基づいているわけではない。それらを大切にしつつも、全ての時間をそれだけに費やしているわけでもない。従って長期的な目的意識やそれを実行するための予定や計算や、それらを価値づける理性も重要だが、気分にだけ任せて余剰の時間を巧く活用することも重要だ。レジャーもそうだし、余暇の寛ぎ方もそうだ。ゲームやウォーキング、サイトシーイング等も重要である。そういった時間の活用の仕方、つまり気分転換こそが、目的意識や価値ある生き方を支える。

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2016年10月 1日 (土)

そうだった世界はそうであったかも知れない数知れない世界の内の中の一つなのか、それともそうであったかも知れない世界はそうだった世界が作り出しているだけなのか?④

 我々は日々あらゆる場面で自己決定に於いて無数の選択肢と出会っている。そして幾つかある可能性の中から一つだけを選び出し実行してきている。だから前回までに述べた様に小さな選択肢は、いずれを選んでも(たとえ5つも6つも選べる可能性があったとしても)人生全体へはきっと大きな違いをそれぞれに与えないであろう。

 にも関わらず習慣的なこととは、室内の仕事ばかりしていて、一切外に出て身体を動かすことを怠っている人と、そうでない人とでは体力や健康面で差がつく様に、小さな習慣の長年の積み重ねではかなり大きな違いが人生で出てくるだろう。つまりその時は小さな選択肢の決定であっても、それが長期的に習慣化すれば、かなりの差が出てくるだろう。つまりあることをずっと続けているか、そうでないかということに於いては、である。

 小さな選択とは今日のおかずは何にしようかということでも言えるが、仮に今日秋刀魚を食べなくて、鰯を食べたとしても、明日か明後日に秋刀魚なら又食べられる。何か特別の理由で秋刀魚が異様に供給されなくなっているということさえない限りは、である。それは長期的に大きな影響を与えない。今日にするか明日にするかの選択が、入れ替わっているくらいの差でしかないだろうからだ。

 だが後々考えてみれば、その小さな選択肢でいずれかを選んでいたということが凄く大きな意味を持つとしたら、凄く偶然の出会いをその小さな幾つかの選択肢の結果、自分が選んだことから齎されたと結論できる時であろう。従って過去の自己選択とは、その時からすれば未来となる或る出会いとか展開の仕方自体を、それをも過去として振り返る時に、それが凄く運命的であったと神の恵みと感じる時と、逆にそのことを選んだがために不幸へ繋がっていったと認識される時とがあり、後者であれば疫病神的な選択肢だったと後々後悔の種になる様に認識される。

 それでもその選択が誤りであったことも、もう少し長期的な人生から振り返る、つまりもっと未来となって、それすらもかなり過去になっていった時点では、あの時失敗した、つまり悪い選択をしたことで、却ってその後はよく気をつける様にして、その逆境から今はいい結果を導き出せたと思える場合もある。だから人生は有為転変の連続であり、その長さによって凄く価値評定が変わってきてしまう。

 だからその価値評定を著しくころころと変えていってしまう時間の経過自体に我々は或る不思議さを感じ取ることができる。

 ちょっと纏めてみると、こういうことになるだろうか?

小さな選択はもう少し長い時間ではそれ程大勢に影響を与えない。

しかしその小さな選択が長期的に積み重ねられれば、それをしてきているということと、それを一切してこなかったということの間では大きな結果の違いを齎すことは大いにあり得る。それは習慣化されることで、いいことも悪いことも、その後で大きく人生へ影響を与える、という意味では小さな選択可能性もばかにはできない、ということだ。

ある選択が自己意志による決定だった場合、後々、そのことで大きな人生の展開の違いを齎した場合のみ、我々はそれが運命だったと感じる。それがその選択で凄く感謝し得る展開に人生がなっていった場合には、神への感謝に近い感情を持てるが、逆にその選択で人生が転落していった場合、後悔だけが先立つという事態となる。

 ところで昨日アニメ映画<君の名は。>を鑑賞した。原作・絵コンテ・脚本・編集・監督が新海誠であり、話題を呼んだ作品であるが、時系列的な選択肢に対するその都度の自己決定が重要な要素として描かれていた。最近の映画全般の一つの顕著な傾向とは、時系列的な錯綜、つまり過去に対して未来である現在から、その過去を運命論づけるという手法が多用されていることである。

 <君の名は。>では美しい風景自体が、阿蘇山や河口湖、箱根仙石原等をモデルにしたのではないかと思わせる緻密な描写で鑑賞者を楽しませてくれたが、人生のあの時の選択がその後を大きく変えたと思えることはかなり多いのである。

 実写映画ではその時系列的錯綜を多用していたものとしては<僕だけがいない町><世界中から猫が消えたなら><秘密>などもそうであった。この様な時系列的な組み換えを一つの映画内で頻繁に行う表現者の意識とは、恐らく人生での岐路に立たされているという実感からか、時代全体への既に引き戻せなさに対する感慨、つまり未来への不安と期待とが入り混じった感情ではないだろうか?

 そのことは又別の機会にじっくりと考えてみたいと思っている。

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顔の印象だけは人それぞれ違うけれど、ある顔で似ていると思える他の人を思い出すことを誰も止められない23

 

ケンブリッジ飛鳥(五輪陸上走者)-永山絢斗(俳優)

 

 

水谷隼(卓球選手)‐浜口京子(元五輪レスラー)

 

エドガー・アラン・ポー(アメリカの作家・詩人/故人)‐チャールズ・チャップリン(アメリカの俳優・映画監督/故人)

 

ロバート秋山(お笑い芸人)‐舞の海秀平(元相撲力士・相撲解説者)

 

木村剛(フィナンシャル社長・金融コンサルタント)‐安美錦(相撲力士)

 

伊藤裕康(築地市場協会会長)‐今東光(作家・僧侶/故人)

 

チャールズ・ダーウィン(英国の進化学者・博物学者/故人)-ウォルト・ホイットマン(アメリカの詩人/故人)

 

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