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2016年11月

2016年11月30日 (水)

日記的記述EC 人生はリハーサル無しの本番の連続だが、試行錯誤的放浪も許されるだろうか?

 人はどうコミュニケーションすべきか、ということに関する自己で携える理念に従って人へ何か言葉を発信している。

 予め自分でこれこれこういうことは正しく、あれあれああいうことはよくないことだという信条を設定して人とコミュニケーションしている訳では必ずしもないが、生きている時間に経験的に掴んだ経験則を下に、何等かの他者への判定をその都度試みながら人接する時、相手が知らない人であるなら、自分自身の判定基準を採用して、この人は或る程度信用できそうだ、とか、余り信用しない方が無難だとか判断している。

 相手の言うことを聞いて反応してそれに対する意見を言う場合でも、相手を信用する様なサインを送りつつ話す人も居れば、逆に自分をガードしつつ、相手から自分への批判を封殺する様に話す人も居る。理性的態度を示しつつ、相手への自分への攻撃を未然に阻止しようとする権利を行使する話し方をする人は、年長者と接する賢しらな年少者の採る典型的態度である。

 言葉は手段として誰にでも通用する意味の伝達という意味では心がこもってはいないけれど、建前的挨拶だけに終始して何か素気なく反応する場合でも、心を込めて相手を慮って何か提言する場合でも、通じるという意味では通じる。つまり親和的感情を相互に感知し合えるかということの如何に関わらず意味だけは通じる。

 だからボブ・ディランの歌を歌詞の持つ意味内容とかメッセージと、その歌い方、つまり歌詞への情感の込め方を通して聴く場合、ディランの音楽家としての戦略とか意図を理解していても、いなくても、歌詞の言葉のメッセージを通して何かを感じながら聴く場合、ディラン本人に固有の事情とか、彼の音楽家としての意図とか戦略と全く無関係に自分の感じ方を通して彼の歌声と歌詞のメッセージを理解している。つまりそれはディラン本人に固有の世界への理解の仕方と一致していなくてもいいということを意味する。

 相手と理解し合えていると思っていても、実際には相互に誤解し合った侭、勝手に相互に理解し合えていると幻想しているだけかも知れないし、相手の言っていることを相互に巧く把握しきれいていないと相互に感じ合っていても、実際は相互にぎくしゃくしながらも、意外と<本当は>よく理解し合えている場合もある。

 そういった意味で私の人生は様々な仕事の専門の現場を渡り歩くことの放浪的体験の連続だった。理解し合えなそうな人ではない人が何処かに居るかも知れないと思って、その都度職場や職種を変えてきた。ということは裏を返せば、どこでも余りしっくり理解し合えていないという感触しか持てなかったということも言える。尤もそれは仕事に充実感とかとは余り関係ないことだった。その都度仕事が達成される喜びだけはあったからだ。

人生は実は既に生まれ落とされた時点で、自分で全て何とかするしかなく、人生は生まれた時点からリハーサルをして人生へ立ち向かうということができない。つまり最初から本番である。だから人生に試行錯誤は成立し得ない。つまり全ての瞬間がリハーサル無しの本番なのである。

世界とは現存在をよりハイデガーからレヴィナスへ継承される観点から定義すれば、全て異なった考えの人達が共存して生活するために相互に不干渉を暗黙に認め合う他者=隣人の妥協的共存認定の場所である。それは誰しも何となく理解してきているのだけれど、その事実自体に異様に関心を注ぐ人達が居て、それが文学者とか哲学者とかなのだけれど、そういう風にそういうことに個人的興味を持つことを罪悪視する人達も大勢居る。つまり何故だろうと疑問を持つことを楽しみとして、それを相互に認め合おうという人達の数より、そういうことは決まりなのだから、厳守すればいいだけで、興味の対象とすべきではないと固く信じている人達の数の方が圧倒的に多いだろう。

尤も自分ではさして関心ないけれど、そういう世界の構造に関して興味を持つ人が居てもいいと思える後者の人達も居るし、前者の人達もでも後者の人達が居てもいいし、居て当たり前、居なければ可笑しいと思っている人達も居るだろうし、逆に、皆がその事実に向き合い、真剣に前者の自分の様な生き方をすべきだと固く信じている人達も(きっと余り多くは居ないだろうが居るには)居るだろう。

私自身は完全個人主義者で、それは国家とか社会の固有性とか文化伝統とは関係なく、権利上自分自身の許され得るプライヴァシーは守られるべきだと考えていて、言論の自由や信教の自由は保証されているのだから、個人の選択は保証されるべきだし、思想も自由だと考える。しかしそれはあくまで心の中の自由であり、実際日本ではこれこれこういうことは公的場でも自由に話してもいいが、あれあれああいうことは憚られるべきだという通念がかなり徹底されている。しかも不文律、つまり暗黙の了解としてである。

これは日本という国に固有のことであり、都市空間の様に自分の金を支払って個室の様なスペースで自由に何を話してもいいが、公的空間では慎みを持って話していい内容とそうでない内容がかなり厳しく規定されている。それが日本に固有の一般常識なのだ。

それはそれぞれの時代毎に世相や時節的な判断と共に恣意的にその都度流用されていることである。そしてそれは私が生きた半世紀の間にも時代毎にかなり大きく変遷してきたと言える。

現時点での日本ではもうこの国の国体は変えられないということが前提して考えられてきている。だから逆に昭和という時代は、そういう現在の様な惰性的伝統慣習持続に対して、未だ仄かに違う道もあり得るのではないかと期待する気分を完全には抹消されていない時代だったと言える。だが年号を西暦以外に採用する日本ではこの国体を民主主義によっては改変さえ得ないということがかなり明確になってきている。

幻想を共有し合えた昭和と、それが打ち砕かれた平成、未だに西暦以外のそういった判断を持つ日本は民族国家であると言えるし、それはNationとしての秩序とは違う性質のものであるとも言える。

そして益々このコミュニケーションの在り方を暗黙の了解というかたちで維持してきたことへ疑念を抱くべきではないとする考えと、そうではなく、そのこと自体を論じたっていいではないかとする考えとでは、対立していく気がするのである。

そのことは人生を試行錯誤する様な態度で問い続けて行ってもいいのだという考えと、そうではなく、あくまで大人とはそういう青年の様な問いかけとは違って全てを白黒つけていくべきだという考えとが鬩ぎ合っている様なリアルと並行して存在し続けていると言えるのではないだろうか?

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2016年11月29日 (火)

私達は一体何に共鳴し、何に感動を覚えるのだろうか?

 私達は自分自身の信念をどう形成させているのか、自分でも実はよく分からない。それは誰か特定な人が好きか嫌いかということでも言えることである。

 例えば或る人が客観的に見てそんなに悪い人でなく、寧ろ積極的に慈悲深く温かい性格だと分かっていても、ではその人がだから好きだという風にはならない。逆にその慈悲深さや温かい性格故に、そうでない素気なく通り過ぎていく様な態度全般に対して激しい嫌悪をその人が持つ様な律儀な態度を見て知ってしまうと、途端に幻滅し、二度と顔を合わせたくないという気持ちに陥ってしまうことも稀ではない。

 正義感とか道徳的に正しく清く生きている人が、自分にとって一緒に過ごす時間が有益に思える人物かと言えば、それは決してそうではない。息が詰まってしまうという思いを抱くことの方が多いのではないだろうか?従ってその人と接したり過ごしたりする時間が自分にとって楽しいか否かと言えば完全に後者で、できる限り顔見知りであるなら、距離を取って疎遠にしていきたいとさえ思うことも稀ではないのではないか?

 倫理的な論理に於いて正解だと思える行動だけをとる人を、我々は好きとか、一緒に居て楽しいとか、そういう風には思えないそういう性向(ギリシャ用語で言えば自然の傾向性ということで、ホルメーと言うらしい)を我々はどこかで、その理由とか根拠が何であるか人に説明することは難しいけれど、確かに(実はかなり自分では正しい判断として)持っているのではないだろうか?

 私にも過去に幾つかの人生の節目でそういった出会いがあり、親しくした時期も短期的ながらあったとは言え、最終的には離れていった人達が何人か居る。

 その出会いの中の一人である、もう最初に知り合ってから15年程経つある創作家から私に一通のDMが届いた。個展の案内である。

 だが私は向こうでは私に或る懐かしさを持って私を招待してくれたのかも知れないけれど、どうしても私は又その人と会うのが嫌で結局その会場には足を運ばなかった(確か昨日彼の個展は終了した)。

 15年前あるギャラリーで私は絵画の個展をした。その時開催五日目くらいに私の年長の従妹の女性が鑑賞しにきてくれた。その時居合わせたその創作家が私のことを「未だ、駆け出しですよ。」と私の従妹に説明したのだ。私の大切な親戚に「彼も若いけれど、頑張っていますよ。応援してあげて下さい。」と言ってくれるならいざ知らず、冷たくそう言い放ったその人のことを私は心底意地悪な人だとそう思った。

 そういうことを彼は私に度々言った。余程若い頃そうやって年配者からいじめられたのだろうかとその都度私はそう思って狭量な人だなと思ったものである。

 彼は哲学科出身の創作家であるが、私はその人の作品そのものが昔から一度も自分自身の感性からいいな、と思ったことはなかった。確かに彼は凄く思索する人で、言っていることは正義論的にはいつも正しい。だがその正しさに何かが私は欠けている、とそう思ってもきたのである。それは作品にも表れているともずっと思ってきた。

 確かに技術的には巧いし、よく色々な先人達のことを研究しているし、勉学熱心であるけれど、一番大切な何か、あでやかに綺麗な作品を創作しているのだけれど、見る者の心を鷲掴みにする様な(作品には一番大切な)何かが決定的に欠けていると思ってきたのである。だから私に届けられたDMの作品の写真も、そういう感想を私に再度齎したのである。

 何でそう思ったのかと言うと、(ここから先はその人の私への意地悪な言葉とかとは関係ないが)、一生懸命に、必死に色々なことを学んで、それを成果として示したからと言って、人の心を動かす様な作品になるとは限らないということなのではないだろうか?

 このことはアートとか伝統工芸とか全てに(それには音楽や文学等にも言えるし、きっと研究分野にも)言えることであるし、又同時に凄く哲学的な問題もきっと内在しているのだろう、と思うが、本記事一つだけで解き明かせる程単純な問題ではない。

 つまりよく学んだり努力して研究したりしていることを全て示そうとしても、人は決して感動などしはしないということである。誰しも日々精進はしているのだけれど(それはアート的創造だけでなく、研究等全てに言えることなのだけれど)、そういったことは直にその人の仕事に触れる人にとっては全くどうでもいい、無関係なことだからである。

 逆に全くきちんと伝統とか技術とかを正統的に研究したりしていない仕事でも、いいなと思えることはあるし、結局、只管真面目に仕事をして、人にそれを示そうとすることは、心底自分の仕事を見てくれる人の立場まで慮っているとは言えない、ということではないだろうか?

 本記事で私は最初に哲学的な真理の様なことを書いたけれど、それは今、古東哲明という哲学者の書いた本を二冊程同時進行で読んでいることからも影響を受けてのことでもあるが、氏が考える様に我々の日々取る判断でも、そう簡単に決まりきった善悪とかで割り切って下せるものではないということを言いたかったのである。

 人を感動させる仕事とは、何かが吹っ切れている。私はそう思う。だから短い時間の作品だけれど、ピコ太郎のPPAPには世界中が惹かれるものがあるから、ダウンしてきたのだろうけれど、そういった吹っ切れた何かがよく示されているのではないか?

 でもそれが一体どういう吹っ切り方であるかと問われると、説明は確かにし難い。つまりこういうことである。簡単に説明がつくことに我々は(我々の大脳が進化し過ぎたせいかも知れないが)共鳴したり感動したりすることはない、ということである。と言って凄く努力している、精進していることを示しても、全く何も響いてこない、ということも言える。

 でもそのことはきっと、かなりもっと難しい哲学や倫理学の命題も含んでいるのではないかとだけは、未だよく説明がつかないのだけれど、私は何故か直観するのである。

 そのことに就いて再度後日、何か気が付いたら報告することもあるかも知れない。尤もそれがいつになるか今は皆目見当もつかない。

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2016年11月28日 (月)

無と無限を超えてPart3 完結と放棄の性格に就いてⅡ 納得と非納得

〇自然界は完結と放棄とに分類しやすい様に事態している。それは円や点の様な幾何形態的なことだけではない。

気化(蒸発・沸騰・昇華)、融解、凝固等においてもそうである。それらが完結するとは、自然物理現象の全うというかたちで理解できる。気化熱や凝固熱が発生するという現象をもって、それが完結したと見做すこともできる。

だがそうなりかけて、中途半端に終わる場合も多々ある。それは完結の側からすれば脱力、断念と言える。つまり我々の意志作用に於いて意志を貫徹し得ないことも多々在る様な意味で、自然界でもそういった物理現象の全うと、そこまで行かないという事態との間のグラデーションは存在する。

完結とは自然に心が在るとすれば納得と言えるし、逆に放棄は非納得と言える。

〇だが自然界にも放棄(脱力、断念)的納得、逆に完結的非納得ということもあり得るのではないだろうか?

時間には確かに試行錯誤はない。だがひょっとしたら何等かの自然の側の試行錯誤による経験的記憶があるのではないか、ともし私が言ったとしたらアニミズムだ、とそう決めつけるのが科学であるが、果たしてそう言い切れるだろうか?

上記で述べた完結的非納得ということをかなり信憑性あるものとしている事態こそ、自然選択である。何故なら自然選択とは自然の側の試行錯誤と言えるからである。しかも重要なことには、自然選択では一度獲得した形質が繰り返し採用されることもあるのだ。となると、自然選択から自然の時間的推移の中で読み取れる自然自体の経験的記憶ということも、決して非科学的であるとは言い切れないのである。

〇上記のことから次のことが演繹される。

 試行錯誤の父は、非納得である。

納得ということは完結に伴う全うであり、非納得ということは完結している様であるが、自然全体のバランスの中では巧くその完結が機能し得ない可能性へ放り込まれることであり、その観点から言えば、放棄(つまり非完結的結実)こそが自然全体のバランスの中では巧くその非完結が機能するということがあり得る。

〇しかしそのバランスの中で巧くということはある一定の時間内のことであるに過ぎず、もっと広範な時間に於いてはバランスされていること自体が刹那的現象でしかなかったということも当然あり得る。そう考えていくと、既に完結と放棄、納得と非納得ということさえ、限定的なミクロの時間的裁定ということになる。

 ただ、それさえ円と点の数学的な無限と無の完結性から見れば、自然というものが、惰性的で緩慢な揺らぎの(慣性的な意味での)延長という風に捉えられることとなろう。

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2016年11月26日 (土)

現代人は自分にしか関心ないPart1 現代社会は個人・自分中心主義を捨てる気はない

 神宮外苑のここ数日の銀杏並木の黄色い光景は確かに美しく、大勢の観光客で賑わい皆しきりに写真に収めている。数日前そこに私も居て、私も写真に収めていた。

 さてそうした中自撮り棒を使ってカメラで自分を中心に背景に銀杏並木の写真を撮影している男性が私の直ぐ近くに居た。

 この自撮り棒がこれ程売れるということを最初にこれを発明した人(それを発明したのは確か記憶では70年代か80年代だったが)も今それがこんなに売れるとは思っていなかっただろう。

 つまり現代社会はそういう時代なのである

 現代人は何より自分中心主義なのだ。つまり自らの私生活、プライヴァシーが常に生活で最も大切な価値として中心にあるのだ。

 しかしそれは少なくとも80年代まではそれ程ではなかった。あのバブル期さえ我々はどこかで同世代とか同時代という意識の方がずっと強かった。それはディスコで踊り狂っている女性たち(ジュリアナ東京が懐かしい)さえそうだった。

 しかし今は違う。あらゆる意味で常にスターを追い求めるのでなく、あくまで誰しもが自分自身こそが世界というドラマの主役という意識なのである。

 従って相対的に誰の心に於いても、スターとか大物芸能人の存在の占める割合は低下してきている。スターや大物の地位は相当下落してきている。その時々の好き好きでその都度人気の高い人は変わっていき、次々に興味の対象を変えていくことは悪いことではないのだ。

それくらい皆自分のこと、自分が幸福感を味わうということの比重が増しているということだ。

 このことはエリートやインテリの占める社会の重要度の比重をもかなり下げてきている。役者や歌手の地位が低くなってきているだけではないのだ。

 皆が皆、それぞれが自分自身こそが主役、世界の、人生の主人公という意識を醸成するのにかなり一役買ったのが、槇原敬之が作詞作曲し、今年いっぱいで解散することが決まったSMAPが歌った<世界で一つだけの花>という歌だった。この曲が果たした役割は日本では大きい。

 ところで、今青少年に将来の夢は何かと聞くと、返ってくる答えの二番目くらいにyoutuberとくる。

 これは誰しもが自由に気軽に難しい手続きなく発信できる時代の一つの象徴的な事実である。あらゆるプロ映像作家、映画監督達に出る幕を無くしている時代は今までに一度としてなかった。

 現代人にとって一番大切なことは何か?それは単純で分かりやすいメッセージなのである。

 まず現代人は教養を最も重要なこととして求めてなどいない。知識もそれ程重要ではない。何故ならウェブサイトでググったりして、要するにその都度直ぐ何でも調べられるからである。だから教養や知識というものの持つ、それらを持っている価値が極端に下落している。そんなことを身に着けるよりは、ずっと巧くウェブサイトを利用し、その都度有効な情報をその時のためだけに摂取した方が勝ちというわけだ。

 全人類的に現代人はウェブサイトを利用しながら、時代のサーフィンに打ち興じているのである。そしてその都度一番楽しい気持ちになりたいという欲望が強く、何か永続的な価値を追い求めているわけではないのだ。そしてそういった刹那的な楽しさの持続を得たいという欲望を誰も止めることはできない

 それは或る部分では故小此木圭吾の言葉を使わせて貰えば自己愛的なことだし、正にナルシスの為せる技である。

 フロイト発のナルシシズムが炸裂して誰の心をも占有しているのだ。このナルシシズムは中島義道が唱えている様なエゴイズムとは全く性質が違う。中島には東大出身のエリート意識があるが、通常の現代人のナルシスとは、相互に他者個々が持つ自分中心のプライヴァシー重視主義を守っていこうという意識だからである。

 これは日本だけの現象ではない。トランプ次期大統領へ反抗してデモをするアメリカ人もそうだし、トランプ氏に期待するアメリカ人もそうであれば、パク・クネ大統領を弾劾しようとする韓国国民、その逆で彼女を許せとデモをする韓国国民もそうである。

 自分の心を常に優先させて生きたいという願望を一定程度叶えられる時代に現代社会のテクノロジーやメカやインフラがなってきたからこそ、そういう意識が現代人に共有されてきているのだ、と思う。

 自分の心を見つめたいという潜在的な現代人の欲求が一度はかつて哲学ブームなるものを日本にも生んだ(中島義道や永井均はそういう時代のウェイヴに乗って登場した論客だった)。

 しかし現代人は直接哲学自体を求めているわけでもない。確かにそういったものが読み物として受ける要素が十数年前にはあった。しかし現代でも、より全体数的には理論、論理、理屈を突き詰める哲学を追い求める人は依然少ない。極めてそういった人達は稀である。

 にも関わらず自分の心の充足を誰しもが追い求めていて、それを悪いことだと誰も言わない。かつてこの国にあった滅私奉公ということは、建前的なものとなってしまっている。そして、それを悪いことだと誰も思っていない。言わないだけでなく、思ってもいないのである。

 だから本当はIS掃討作戦に大変なことになっているシリアやイラクでも、市民の感情としてはそうである。そのことは彼等も又ウェブサイトを利用していることからも分かる。

 このことは市民の代表ということに関してもかなり大きく意味を変えてきている。先程述べた様にエリートやインテリの地位の相対的下落という事態も手伝っているが、代表者とはその時々で入れ替わっていいのだという意識も現代人は強い。勿論かなり昔から実際はそうであったのだが、それを表立ってはっきり言うことだけはかつては(特に20世紀中盤までは)憚られたのだけれど、今ではもう代表者を変えようということに罪悪視する市民は世界でもそう多くなくなってきているこれは実質的権力不在時代と言ってよい。

 だからこそ、個々が自分の幸福が中心であって、それは当然の権利なのだという意識はどの国でも大勢を占めているということだけは言える。

 いい意味で自己愛的幸福追求を価値的に誰しもが当然のことの様に追い求めることが自然な時代に今ある。

 そして誰しもがそれを止める気はないのだ。それを阻害するものの方を駆逐しても一向に構わないという意識の時代、それこそが現代社会だと言える。

 現代人は自分にしか関心ない。 現代社会は個人・自分中心主義を捨てる気はないのである。

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2016年11月25日 (金)

無と無限を超えてPart2 完結と放棄の性格に就いて

重要なことは完結も過程を経てそうなる場合と、最初からほぼそういう状態で誕生している場合(性格)とがあるということだ。それ以外でも放棄も様々な性格がある。つまり点と点を設定した引かれる直線でなさの方が圧倒的に自然界では多い。

尤も上記のことは、統計的には数値が粗方平均する場合(例えば直線)では点と点とを設定しているのと基本的に(原理的に)は同じである。

つまり直線の場合、出発と停止が恣意的でない場合、自然に途切れるとか消えるという性格となるからである。つまり意志的でない途切れは基本として在り、それが例えば動物の活動停止、走行停止を呼び覚ましている。

直線と円・点を複合化させた波動の多様性こそが自然の基本の形態と言える。逆に言えば直線や円・点は統制(何等かの全体構成の予定調和的な)の下で収斂される様相と言える。

社会の統制を意識する社会成員の直線性や円・点性こそが複雑な曲線を体現している成員へいじめを履行する、と言える。複雑な曲線的態度は外部条件の複雑さに対応するために採らざるを得ないことだ。だがそういった受難のない成員は直線的、円・点的態度しか採れなくなっているのだ。

自然の事物が気象条件等により、落雷があったり、台風やハリケーン等によって強風が吹き、木々や土砂崩れと共に大木が倒され、崖の岩が崩れ落ちることで、崖の下の大木が倒れたところに落下衝突し、崖の岩の欠片が川へ飛び散って流れ込む様な一連の動勢は、一々の自然事物自体に意志がなくても、それぞれの転倒や破壊は、その事物に或る固有の強度・圧力を加えられることであり、その時点でその力を加えられた事物が移動したり、変形したりすることそのことは、意志ではないとしても、一つの動きの開始である外はなく、逆に我々の一々の行為が発動される時、意志によってそうしているのも、やはり何等かの外部条件の変化に促されてのことである以上、それらは自然事物の力の発動、移動や変形の開始と言ってもいい。

 従って或る直線的・曲線的動きは或る一点から出立し別の一点へ促され、到達し帰結するという意味で、明らかに一つの直線の点から点への移動であり、意志がないものであるとすれば、一つの放棄である。

我々は一々のことに就いて記憶していても、時間の経過と共にあることを忘れていくことも一つの放棄である。それを又何かをきっかけとして思い出し、二度と忘れない様にして、どんなことが起きても直ぐそのことを思い出せる様になった時その記憶が完結したと言い得る。それは脳神経活動の働きに於ける一つの変化である。

〇そうなのだ。点はそれ自体であるが、円は二次元の球は三次元の原初的な動きであり変化なのである。そして当然有限の切れた直線(出発点と到達点<それは相互に入れ替え可能な場合とそうでない場合があり得る。力が加えられ移動する場合にはそうでない場合であり、破裂して断片となったものは入れ替え可能である>を持つ)も動きや変化から齎された結果である。

〇因みに今回初めて球を登場させたが、球とはそれ自体全方位に二次元の360°が無限に三次元的に積み重なった位相での円の集積と考えてよい。それは二次元からすれば無限の二次元の集積であり、時間を更に加えれば三次元の全変化を包含したそれである。純粋球が完全なものとして時間を経過して変化せずに維持されることはあり得ないから、概ね球に近い事物という風に考えればよいだろう。それは平均的に球であり続けるということだ。その顰に倣えば、あらゆる完結、円も点も直線もそうである。自然界には直線は海岸線の波に侵食された砂浜の痕跡、砂丘を吹き荒ぶ風の痕跡といったことから散見され得るであろう。

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2016年11月24日 (木)

ディキンソンの詩とレヴィナスの哲学から考えるPart2 ディキンソンの自己磔とレヴィナスの善に就いて

 ディキンソンの詩は平明な言葉で書かれているが、その背後の詩人の決意の様なものは、強固な信念に裏打ちされている。短い詩を今回は六編程見ることにするが、それらはいずれも詩人が一人で誰からも見守られることなく言葉を持って生きていく決意が示されているが、それは多分に神(それしか彼女が縋るものはなかったのだが)へ語りかける意味合いがある。

‘“Hopeis the thing with feathers―’

Hopeis the thing with feathers

That perches in the soul

And sings the tune without the words

And never stops at all

 

And sweetest in the Galeis heard

And sore must be the storm

That could abash the little Bird

That kept so many warm

 

Ive heard it in the chillest land

And on the strangers Sea

Yet, never, in Extremity,

It asked a crumbof Me.

254; c.1861

 「希望」は羽根をつけた生き物

「希望」は羽根をつけた生き物

それは魂の中に止まり木に止まる鳥の様に安らう。

そして言葉でない調べを唄う。

そして止むことがない。

 

そして最も美しい歌声が嵐の中でさえ聴こえる。

そして古傷が嵐の様に疼くに違いない。

それで小鳥は狼狽するのは確かだけれど。

でもそうやって歌を唄うことで温まっていられる。

 

私は最大級に寒い土地で、それを聞き届ける。

最も馴染みのない海でも聞き届ける。

どんなに困窮の極みにあってさえ

小鳥は私にパン粉さえ強請らない。

 

 Im nobody! Who are you?

Im nobody! Who are you?

Are youNobodyToo?

Then theres a pair of us?

Dont tell! Theyd advertise you know

 

How dreary to be Somebody!

How public like a Frog

To tell ones name the livelong June

To an admiring Bog!

288; c.1861

私は誰でもない、でも貴方は一体?

私は誰でもない、でも貴方は一体?

貴方も誰でもないのですか?

もしそうだったなら、ここに一組のペアが出来ますよね。

何も告げないで、告げたら見せびらかすことになるでしょう?

 

誰かであり得ることって何と侘しいことなんでしょう。

カエルの様に大っぴらに泣いているみたい。

六月を丸々カエルは自分の名を叫ぶのです。

聞き惚れている沼地に向かってね。

 

 This is my letter to the World

This is my letter to the World

That never wrote to Me

That simple News that Nature told

With tender Majesty

 

Her Message is committed

To Hands I cannot see

For love of Her Sweet countrymen

Judge tenderly of Me

441; c.1862

ここに世界への私の手紙があるのです。

ここに世界への私の手紙があるのです。

それは決して私宛ての自然からの手紙ではないのです。

自然が語り掛けてくれたシンプルなニュースなんです。

でも穏やかな風格があるニュースなのです。

 

自然のメッセージが託されているのです。

私には見ることのできない様々な手へ渡される。

自然が愛する地方の優しさ溢れる男達へ

優しく私を裁いて下さい。

 

 The Poets light but Lamps ―’

The Poets light but Lamps

Themselves go out

The Wicks they stimulate

If vital Light

 

Inhere as do the Suns

Each Age a Lens

Disseminating their

Circumference

833; c.1864

詩人はランプにだけ灯します

詩人はランプにだけ灯します。

最後には自然に自分で消えていくのですけれど。

ランプは蝋燭の芯を刺激します。

もし生命の灯りが

 

その時々の太陽が齎してくれる本来備わっている様なものなら

それぞれの時代のレンズ

太陽のその時々の円周が散布されているみたいです。

 

 A word is dead

A word is dead

When it is said,

I say it just

Begins to live

That day. 

1212; 1872?

ことばは死んでしまう

ことばは死んでしまう。

それが話された瞬間に。

私は唯それを言うだけ。

でもことばは生き始める。

いつの日にかね。

 

 The Hearts has many Doors

The Hearts has many Doors

I can but knock 

For any sweet Come in

Impelled to hark 

Not saddened by repulse,

Repast to me

That somewhere, there exists,

Supremacy 

1567; c.1883

心には沢山の扉があります

心には沢山の扉があります。

でも私はノックしかできません。

どんなにか優しいお入りなさいっていうことばも

私に耳を欹てる様に仕向けてしまう。

拒絶されたって悲しみは致しませんけれど

私にはそれでも心のご馳走なんです。

何処かには必ずや存在し続けている

至高のお方こそがです。

 

 詩の引用は<対訳ディキンソン詩集 アメリカ詩人選(3)亀井俊介編を利用させて貰ったが、対訳は自分で翻訳した。

 

 さてこのディキンソンの短い6編の詩から立ち上がってくるものとは、個としての彼女自身の決意であることだけは間違いない。冬の寒々とした荒涼とした風景の中で囀る鳥の歌は孤独を貫いて、それでも自己の信念を妥協せずに貫く決意だし、言葉を見せびらかすことを憂いつつ、貴方も誰でもない存在だと言いたい気持ちからは、まるで六月一杯泣き続けるカエルは自己主張だけしかしないけれど、自分達は秘密を共有し合える、つまり言葉が共謀関係を作るということを言いたい訳であるが、それは或る部分では悪を生き抜く決意だし、その手紙を書く自分は、神が齎した創造の最たるものである自然への感謝の念を示す、つまり人間社会の些細な相互の感情のやりとりを超越した思念からの発信だし、でも最後にはその手紙を大勢の人達へ読んで貰いたい旨を示しているところに詩人のナルシスを読み取れるし、それは自然からの恩寵にしか感謝を捧げない詩人の人間社会的意味ではエゴイズムの宣言だし、他の全ての人と同じ様に時代に翻弄されている自分の詩人としての使命がランプに火を灯す事だけであり、後はそれを誰もが自由に暖を取るという、詩人の言葉という突っ放した人類の武器との共謀宣言となっている。は基本的にとメッセージの意味は殆ど変わりない。言葉が時代を超越して次代の人達から読み起こされるということを述べていて、死ぬ言葉を再生させるのは作者である自分以外で、その自分以外の後代の他者との共謀宣言である。は言葉を紡ぐ自分自身の内的な対話に於いて、心の支えになるのが神であり、神との対話こそが自己との対話であり、対自だというメッセージである。これも一つの詩人の格闘への決意宣言となっている。

 多分にこの様にディキンソンの短詩には、自己宣言、決意表明的要素が強い。だがその決意を囁きかけるのは一人で静かに詩を読む読者なのである。この個対個という図式で考えられる詩人の言葉の孤独なゲームは、しかしそのことでナルシスやエゴイズムから発しているにせよ、却って他者との共謀と他者への信頼を心底信じ切っている一人の孤独な詩人の、或る部分では自分が孤独の内に書き記した詩が多くの個によって読まれることで救済される意味合いをも自己内で熟知している。

 この点ではユダヤ哲学者であるエマニュエル・レヴィナスの考えている善という信念=命題と重複する部分が大きい。つまりレヴィナスにとって自己とは他者への人質なのであり、その点でディキンソンの持つ自己を言葉という一度死んでしまう固定化された記号へ、自己内の対話を客体視して、プライヴァシーの侭にしておけず、作品化させてしまう意志とは、明らかにの冬の寒々とした中でも人に餌を乞うことなく歌い続ける意志、人間の人生で言えば孤高の逆境に敢えて立って、その姿を文字上へ留めるという言わば自己磔的作業への決意という意味で次のレヴィナスの諸言説(<神・死・時間>の自由と責任より、合田正人訳、法政大学出版局刊)と極めてメッセージ真理的には共通する。

 一切の所有を、一切の対自を放棄せよという要請にさらされながら、私は他人の身代わりになるのです。善性とは、一者のうちに多様性をもちこむことのない唯一の属性です。かりに善性が一者とは別物であるとするなら、善性はもはや善性ではないでしょう。(中略)倫理は私のうちに自由に先立って滑り込んできます。」

  「現代とは発意と選択の場です。しかし<善>は、一切の選 択に先立って、主体を選んでしまっているこの選びは自我の責任という選びであり、自己はそれを回避することができず、この責任からみずからの唯一性を引き出している/自由に対する責任のこのような先行性は<善>の善性を表しています。//自我の奥底には、起源に先立つ受任が、一切の受容性に先立つ受動性が、決して現在と化したことのない過去がある/私の時間の限界を超越する受動性であり、再現可能な一切の先行性に先立つ先行性です。他者に責任を負うた私が記憶不能な過去を有しているかのようです。(後略)」

 <善>から私への関係は他者へと向かわせる指名なのですが、そうした関係のうちでは、神の死後にも生き延びるようななにかが生じます。なぜなら、欲動を引き起こす一切の価値を、価値を引き起こす欲動へと還元しうるようなひとつの「契機」として「神の死」を考えることができるからです。」

 「有限な自由」が有限であるのは、それが他なるものとの関係だからです。それが自由でありつづけるのは、この他なるものが他者だからなのです。

全て記述は登場順に番号を振ったが、は言ってみれば、事実としての自由のことである。我々は決して完全に自由である訳ではないし、自由過ぎることが不自由であることも我々は知っている。又①ではマルチン・ブーバーも考究している我と汝の関係では、明らかに自己とは他者の身代わりという側面がある。それは滅私的な関わりと言ってよい。又善性とは、一者のうちに多様性をもちこむことのない唯一の属性です。かりに善性が一者とは別物であるとするなら、善性はもはや善性ではないの部分の善性は権利問題、つまりカントが<純・批>や<実・批>で述べた定言命法の格率(律)のことである。

③で言っている神の死とは明らかにニーチェの言う神の死であるし、同時にユダヤアイデンティティのレヴィナスは欲動と言って、フロイトへオマージュも捧げている。それが欲動を引き起こす一切の価値を、価値を引き起こす欲動へと還元しうるようなひとつの「契機」として「神の死」を考えることができるという部分である。フロイトはニーチェの神を死を踏まえて無意識の領域へと踏み込んでいったのである。つまりそれがユダヤ人によるモーセの暗殺という<モーセと一神教>のテーゼへと繋がっていったのだ。

 問題となるのは②である。

<善>は、一切の選 択に先立って、主体を選んでしまっているこの選びは自我の責任という選びであり、自己はそれを回避することができず、この責任からみずからの唯一性を引き出している//自我の奥底には、起源に先立つ受任が、一切の受容性に先立つ受動性が、決して現在と化したことのない過去があるの部分を考えてみる必要がある。

 これはしかしディキンソンの詩人としての自己磔を鑑みれば,それ程理解不能ではないだろう。つまり善とはカントの権利問題、つまり定言命法=格律としての自律のことなのだから、主体を善が選ぶとは、自己が自己であるという運命とは、現存在=個々の人間は、権利問題=責任問題に生まれながらに呪縛されて生きている、その呪縛こそが自由の発祥の場でもあるということだ。起源に先立つ受任が、一切の受容性に先立つ受動性が、決して現在と化したことのない過去があるは、現在として経験できない自己の預かり知らぬ過去とは、我々の祖先の辿ってきた道であり、それは一切の受動性、つまり具体的な自己の人生で出会う全ての他者や時代や状況や環境が、まるごと祖先や過去の地球や大地の辿った道を内包しているということである。だからディキンソンの詩人の決意から読み解けば、これは意外と最も単純で分かりやすい真理だと言える。

 このレヴィナスの起源に先立つ受任が、一切の受容性に先立つ受動性が、決して現在と化したことのない過去がある我々の運命がディキンソンが示した世界への手紙や一度死ぬことばを後代に託すという行為を正当化させるのである。

 だからディキンソンが自己を磔にする様な対自的な自己内対話が、受動的である様に思えるのは神との対話だからであるが、それは決して暗いものなのではなく、レヴィナスが言っている様な歴史(自然史的にも人類史的にもであることは言うまでもないが)を背負う、担うという現存在の権利問題=責任問題(内的義務でもある)という極自然に我々が受容し得る我々の生者の運命と言えるのである。

 だからディキンソンが誰でもないと言ったり、ことばは一度死ぬと言ったりしていることこそが、正にレヴィナスが人質と言ったり、身代わりと言ったりする他者存在との関係のことなのである。(つづき)

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2016年11月23日 (水)

意味・数字・言語(文字表記と伝達)そして神Part2

意味を理解しているか否か(という心のこと)は、その成否を精確には証明できない。意味理解に伴う或る人の言動からのみ判断するしかない。それは理解の有無を証明しているのではない。ウィトゲンシュタイン<哲学探究>の理解が使用だということから考えてみるしかない。しかしそれはやはり心の理解の仕方が本人には分かっている様に(尤もそれさえ本人が他人に説明することはできない)他人に証明できるわけではない。ここに自他の壁と言語の限界がある。

意味を意味という概念を通して理解しているのは人間だけだが、どの様な生物種も(例えば哺乳類が獲物として食料になり得るか否か匂い等を通して知る様な意味で)その種なりの意味(理解)を持っている。

 だがヒト=現存在は、唯一(一部数的量の認識は哺乳類の多くの種で可能だし、数字(記号)理解さえチンパンジーなら単純なものは可能であるけれど)文字表記とその伝達を通して意味を理解しているし、そういった表記された一連の文章(ことば)を通して意味を理解する。従って人間にとっての意味とはメタ的理解(それは地図を見て実際の道順を理解することなども含んでいる)を含有した広範なものなのだ。それはかなり稀なことなのである。

詩人はどうしても人には証明はできないけれど、共感だけは得られる心の内のことを言葉化できる。感動などさえ言葉化する(それが詩人の仕事だ)。勿論人により表現の仕方、選択する語彙も異なるだろう。だが哲学者はその共感や感動さえ懐疑的対象にするので、その部分でストレートではない。だから共感回路(認知科学的意味合いでの)を通したメッセージ交信(つまりコミュニケーション)は詩人の仕事であり、それは哲学者にはできない。

神とは、実はその証明できないこと、説明はしようとするが、終ぞ完全には自分が自分の心で理解している様に相手へは伝えられないことそのことの全成員の共有という事実に根差して成立している概念であり、我々の他者との間で通用する暗黙の了解なのである。

 それを我々は薄々知っている。だがその自分の心を自分が分かる様には決して人に説明することができないことも我々は皆薄々知っているので、結局そのことを巡る暗黙の了解は、それぞれ感性も人それぞれ違うので、宗派的な争いの元ともなっていて、宗教さえ全的にどの民族とも共有し合えないという我々人類の運命を、その暗黙の了解に対する感性の違い、つまり理解の仕方の受け入れやすさと受け入れられなさに於いて、我々はバベルの塔を建設したことで神から個々異なった言語を持たされてしまったというあの創世記の謂いの元となっている運命を思い知らされるのである。

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2016年11月22日 (火)

無と無限を超えてPart1 完結と放棄と混乱と

円と点は似ている。円は一点に於いて閉じることで完結し、点は既にそれ自体で完結している。それは完全無である。円は完全無を志向する。そして無限の循環を保証する。

無→点、円→無限、という同一性格が考えられる。トポロジーでどう捉えているかは知らないが、似た発想はきっとあるだろう。

或る有限の直線とは、円と点とまるで性格が異なる。前者はぷつんと切れているという意味で放棄的である。

〇円と点のみ或る部分であらゆる他の枠(範囲設定)を超越している。円と点は内包的にも外延的にも恣意的な枠ではない。円と点は完結そのものを地で行く様な性格がある。ところで性格と言っても性質と言っても、この場合いずれでもよい。

完結と放棄が混在することで混乱が生み出される。混迷と言ってもいいし、混沌と言ってもいい。恐らくどの様な混乱にも必ず完結と放棄とが併存しており、そのことは存在者の不平等性を物語っている。

要素として完結と放棄とが混在することで混乱は、常に完全な混乱でなく、一定の最低限の秩序だけは維持されている。それが或る意味で存在事実の持つ性格ではないだろうか?

全体と我々が言う時統制の取れた枠を我々は想定する。だが常に世界(自然界と言ってもいいし、宇宙と言ってもいいが)は、混乱を平素とする整然でなさだけで成立している。

だからその中で完結を見出すことはしやすいし、放棄も至るところで発見できる。だが全体を統制された原理から理解することは困難である。それは世界のどういった局面から見てもそうである。

〇つまり完結とは常に部分からしか見出され得ず、放棄も発見は出来るけれども、放棄を全部何か統計的に把捉することも極めて困難で、混乱も現象に囚われやすいので統計的に把捉することも統制的に理解することはやはり困難である。

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2016年11月21日 (月)

世界の真理Part69 絶対的真理への可能性推論/無と無限総括そして新しい命題に就いて

世界がいずれ全て消滅し、存在が全て終了し、二度と世界が再生しないとすれば、世界が存続している間に、全てのあり得る可能性は実現されていなければいけない、と考えることもできる。それは正しくないかも知れないが、完全に誤りであるとも言えず、その正否を我々は決して判断することはできない。世界の外に立つことはできないというウィトゲンシュタインの謂いはその点に於いて正しい。

●絶対無とは絶対的相対性である。なぜなら有(存在)が一度生じてしまったからである。それはいつか消滅するかも知れないが、存在してしまった事実だけは変えられない(寧ろ我々はそのことだけを知っている)。

変わっていくものは、変わっていくという性質を含有しているからだが、変わっていくことそのことは変わらない。それは変えられないという方に近い。もし変わっていくものが一切変わらなくなった時、それはそのものが死滅するか、そのものでなくなるということ以外ではあり得ない。尤もそのものが死滅するとかそのものでなくなるという移行過程というものだけは必ず存在する。

移行過程ということはあらゆる存在者の変わる性質にもそれが変わり続ける特定の存在者である時間内に分散されて個々に存在し、それが変わる性質を維持しているとすれば、変わるということは常に小さな死を経ているということだ。

 変化ということは何かの死であり、何かの誕生であるが、恐らく最初にそのものが誕生した時の誕生とは性質も意味も全く異なる誕生なのであろう。その性質は(個々が異なった性質であるということとしてではなく)やはり謎である。それが解明されれば、或いは世界が存在しているということの根拠(理由)さえ解明されるということかも知れない。

 

付記 ●の見解は、再生という意味は違う世界が別に誕生という意味である。そのことに今何等かの共通した見解はない。

 

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無と無限Part5 絶対無の完成

或る時の偶然的生起は過去となれば変えられない。

無と無限という認識が逆に有と有限という認識を教えてくれる。

偶然とは或る時に於いてそうだが、実はその時は「その」偶然的なその一つしか生起しない。

上記事実が絶対的共時性的共存、つまり或る時に固有の諸出来事と、諸存在者の共存を教えてくれる。つまりその事実が同時性的運命なのだ。その運命の性格、存在者の組み合わせはどの瞬間も唯一であり、且つやはり一切の試行錯誤はない。

基本的に全ての瞬間は一切の試行錯誤がない。それが時間の絶対的性質と言える。それは時間の絶対的繰り返せなさが与えている。

時間に一切の予定はない。従って無限の可能性など、どの瞬間にもどの時刻にもない。全てが唯一の選択だけを迷いなく実現させる。

〇つまり心の中の迷い、不安、希望などはあくまで無限という可能性という幻想が生み出しているに過ぎない。或る時刻に於ける同時性的運命は可能性や選択に於ける完全無である。

選択不可能性=選択無の選択こそ、時間の性格である。何故なら選択の躊躇も唯一つの選択以外でないからである。

全ての存在者は選択不可能性=選択無の選択に於いて、絶対的同時性的共存=同時性的運命を付託されている。それは逃れられない。しかも刻々とそれが維持され、各時刻の固有性は死滅し、消滅する。死と物質の消滅は存在の絶対無の受託だが、それは絶対的同時性的共存=同時性的運命という有(存在)からの解放であり、その絶対的棄却である。それは一つの絶対的相対性、つまり有の側から見た死・消滅前の存在者の無の様相の獲得とも言える。

 有(存在)は事実として存する限り永遠だが、全ての存在者・存在の死・消滅は、時間の完全停止故、永遠さえ封殺される。その時或いは無と無限は完全に円環的に一致し、絶対無が完成する、と言えるかも知れない。

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2016年11月20日 (日)

ブレイクの詩をハイデガー<ニーチェ>の論述から読み解くPart1

  ウィリアム・ブレイク(William Blake1757-1827)は一般的には画家(挿絵画家)として著名だが、詩人として偉大な仕事を多く残した。彼は現代ではボブ・ディランにも大きく影響を与えたし、19世紀詩人であるエミリ・ディキンソンにも大きく影響を与えている。

 彼の二つの比較的短い詩をここに示してみよう。

The Little Boy Lost

Father! father! where are you going?
O do not walk so fast.
Speak, father, speak to your little boy,
Or else I shall be lost.

The night was dark, no father was there;
The child was wet with dew;
The mire was deep, & the child did weep,
And away the vapour flew.

1789

The Fly

Little Fly
Thy summer's play,
My thoughtless hand
Has brush'd away.

Am not I
A fly like thee?
Or art not thou
A man like me?

For I dance
And drink & sing;
Till some blind hand
Shall brush my wing.

If thought is life
And strength & breath;
And the want
Of thought is death;

Then am I
A happy fly,
If I live,
Or if I die.

(1794)

 二つの詩を岩波文庫<対訳ブレイク詩集 イギリス詩人選(4)>(松島正一編)から翻訳をその侭掲載してみよう。

失われた少年

「父さん、父さん、どこに行くの。

ああ、そんなに速く歩かないで。

父さん、話して、この小さなぼくに何か話して、

そうしないと迷子になっちゃうよ」

夜は暗く、父さんないなかった。

子どもは露でぬれた。

泥沼は深く、子どもは泣いた。

そして夜露は飛び去った。

 

小さな蠅よ、

おまえの夏の遊びを

私の思想のない手が

叩きつぶした。

 

私もおまえのような

蠅ではないのか。

それともおまえは

私のような人間ではないのか。

 

なぜなら私は踊って

飲んでそして歌う、

ある盲目の手が

私の翅を叩きおとすまで。

 

思想が生命であり

力で呼吸であるならば、

思想の欠如が

死であるならば、

 

その時、私は

幸福な蠅である、

私が生きていようと、

死んでいようと。

 

 前者の詩は32歳のときのもの、そして後者の詩はそれから5年後の37歳のときのものである。

 前者はポーランド・ストリート時代(1785-1790)に書かれており、後者はランベス時代(1790-1800)に書かれている。

 <失われた少年>はこの詩が書かれる1789年より二年前の17872月に最愛の弟ロバートが19歳で死去しており、そのことも何等かのかたちでブレイクの胸中に去来した内容だと解釈することも、それほど矛盾してはいない。とは言え、その私小説性を大きく飛び越える何かをこの詩は感じさせる。

 この詩作の前年1788年、ブレイクは最初の彩飾印刷本<自然宗教というものはない><すべての宗教は一つ>を出版する。

 彼の装飾芸術家としてのキャリアも益々乗ってきている時期の思索であった訳だが、詩の内容は迷子にでもなった子どもが父を探して泣いていると最後にThe mire was deep, & the child did weep,
And away the vapour flew.
 という箇所で示されている様に、夜露が消えて無くなるという結末になっている。これは自然全体へのブレイクの感性が、自然と人間の会話という側面から捉えられているということを示している。子どもの泣き声を聞いた夜露が、子どもの行く末を見守る様に退却し、子どもの夜の不安を取り除いてあげたという風に解釈できる。

 更に次の詩<蠅>はランベス時代という最も彼の人生で多産な時代に書かれていて、この詩を書いた年1794年に彼は<経験の歌><無垢の歌>と合本の形で<無垢と経験の歌>という本を出版しており、詩人として最盛期を迎えていた。その頃の詩であることは、この詩の蠅を叩き潰す自分自身を叩き潰される蠅と同化させ、自嘲的に蠅化させた自分を蠅への屈折した共感と共に、If thought is lifeAnd strength & breath;And the want
Of thought is death;
//Then am IA happy fly,If I live,
Or if I die.
 という結末で、自己知の意味を思想を持つことが価値であると見做せる生き方であり、それが幸福だと言い切るかたちで、蠅であれ人間であれ、歩留まりよく生きるのなら、たとえ今自分が、自分で叩き潰した蠅であったとしても、そんなに変わりないのではないかという死生観を示している。

 この二つの詩はブレイクの詩の中でも最も分かりやすいものの部類に属すと言ってよかろう。

 前者の結末は子どもの未来、行く末に自然が見守るという趣旨、後者の結末は自分の周囲を徘徊する蠅と自分を同質化させることを通して生の意味を問うという趣旨であるが、前者では恐らく自分の幼児の頃の記憶で迷子になって不安であることなどを思い出しつつ、その迷子である状況の打開こそが大人へ一歩近づく道標だったことを示しているし、後者ではそうやって大人になっている自分自身のややもすると惰性的に全てを処していく日々の態度への自省を促す調子となっていて、要するに両詩とも、言ってみれば対自的な自己奮発的意志が介在している、と見ることができる。

 ハイデガー(1889-1976)は晩年に近い1961年、彼が72歳のときに<ニーチェ>を書いている。この本は1939年夏学期の講義が主体となって編纂されている。

 そのテクスト後半に収められた(認識としての力への意志)中(力への意志の本質―生成の臨在性への持続化)に於いて彼は次の様に述べている。

 「ニーチェは(中略)意志とは命令である、と言う命令することにおいては、《優越性のもっとも深い確信》が決定的である。したがってニーチェは、命令を優越存在の根本気分と理解しているが、その優越性は、単に他の人々、服従者たちに対する優越性だけでなく、いつもそれより先に自分自身に対する優越性でもあるのである。このことは、自分の本質を超越的に高め、それより高く掌握し、しかも自分の本質がこのような超越的昂揚に存するようにすることを意味する。

(<ニーチェⅡ>マルティン・ハイデッガー/細谷貞雄監訳 加藤登之男・船橋弘訳 平凡社ライブラリーより)

 ここでハイデガーがニーチェ思想を通して言説することとは、命令が或る部分では(ハイデガーは無神論者だったのであるが)神と同列の何かからの自然な内なる声に付き従って自制・自省すべしという観念から、対自的に命令する戒律的な心得を持っておくべしという訓戒的言辞をここに示していると見ることができる。

 それは子ども時代に社会の周囲が行く末を祝福してくれていたことへの回想からブレイクが弟の死をも経験し、その中で生きていくことの不可解さを自己解決していかざるを得ない思いの中で、夜露が話し相手である様な(実際前者の詩では迷子になっているのは、それを書いた当時の自分かも知れない)錯覚を、寧ろ自然からの恩寵であると理解することを通して困苦を打開する意思を持とうとするという側面が垣間見られることと、後者の詩では自分によって叩き潰される蠅も、蠅の立場から見れば必死に生を全うしているのだという観点から、自分も何ら蠅と変わることのない存在に過ぎないという視点を持つことで、生命を全うしようする自己意志の肯定と確認を果たすという意味合いも含有されている。

 前述のハイデガー著作の同じ個所でハイデガーは「人間的生は、混沌の中への差し向けにもとづいてのみ、人間的生として存在するこの混沌―存在者の全体―は、力への意志という根本性格をそなえている。ここで見なくてはならないことは、《力への意志こそ、無機的世界をも導くものであり、あるいはむしろ、無機的世界は存在しないということ》(第八巻 二四番、一八八五年)(《》内はハイデガーが考究しているニーチェの<力への意志>中のテクストの引用。筆者加筆)と述べている。

 <蠅>は<失われた少年>の持っているほのぼのとした回想的気分よりはずっと辛辣であり、後に席巻するフランスの実存主義文学的ですらある。実際サルトルは<蠅>という初期傑作を書いている。

 つまりブレイクは極限にまで追い詰められた地点である混沌の中に於いてこそ、自己知というもの、或いは対自的問いというものが命脈を維持していくということが言いたいのだろうと思う。

 蠅は今自分によって叩き潰されるが、その運命は明日の自分でもあるかも知れないのだ。それを知っていて初めて、蠅を叩き潰す自分とその行為を正当化し得る。

 ハイデガーは前述著作の同じ個所で更に次の様にも言う。

転回とは、存在者―存在であり、その転回の転回点は、存在の真理である。その転回(Drehung)は、逆転(Unkehurung)ではなく、深淵(Ab-grund=根拠の不在)としての新たなる根拠のへの転入である。存在の無=根拠性(Grund-losigkeit)は、歴史的には、存在の遺棄となり、これは存在が存在として顕わになることが訪れずにいるということに存する。このことは、われわれが忘却を追憶の不到来という意味でのみ理解するかぎり、存在忘却を出来させる。人間を単なる人間として原理視することの根拠、存在者を人間化することの根拠は、始源的にはこの存在忘却の領域のうちに求めるべきである。

 又彼は次の様に更に続く論述で次の様に述べている。

力への意志に至るニーチェの思索の道程において、近世の形而上学だけでなく、西欧的形而上学が全体として完成に至るこの形而上学の問いは、その初めからして、存在者とは何であるか、ということであった。ギリシャ人たちは、存在者の存在を、臨在の持続的存立として想定した。存在のこの想定は、形而上学の歴史全体を通じて微動だにしなかったのである。

 後半の引用の臨在とはパルーシアである。到来ということは意図的に為し得ることではない。それは或る部分では運命任せとさえ言える。その謂いはその侭ブレイクの<蠅>を書いている彼の精神状態を表している。つまり彼は先行きどうなるか分からない一匹の蠅と何等変わりない自分の立ち位置から人生を俯瞰すると、却ってそういう思念を持たない時にはあれこれ苦悩してきたことがバカバカしくなるということを本能的に知っていたのだろう。

 ハイデガーの言う転回とは視点の逆転を自然なものとする世界観の獲得と言い換えてもいい。このことは、われわれが忘却を追憶の不到来という意味でのみ理解するかぎり、存在忘却を出来させる。人間を単なる人間として原理視することの根拠、存在者を人間化することの根拠は、始源的にはこの存在忘却の領域のうちに求めるべきである。と語る部分のハイデガーの論述は肝である。これは要するに予定調和的・出来レース的な生でなく、或る種のチャレンジを肯定する意見である。存在忘却とは言うならば、追憶の彼方で人生全体を過去からの継続として見て、その連綿とした因果律から結末を想定することを止めて、追憶には終ぞ訪れなかった、或る部分では夜睡眠中に見る悪夢のリアルの方を選びとる様な決心をも意味する。追憶には到来しない観点からのみ未来を見据えるということだからだ。存在者を人間化することの根拠は、始源的にはこの存在忘却の領域のうちに求めるべきと語る部分のハイデガーの論述は、その侭<蠅>で自己未来をも完全な他者のそれの様に見ることで、超越した視点から世界を眺望する突破口をブレイクが掴んでいくプロセスをその侭説明しているかの様である。

 ブレイクのこの短い二つの詩の間に横たわる意識の変遷から、詩人としての意識の完成というもののプロセスを読み取ることもできる。つまり彼は弟の死という一つの人生上での象徴的な出来事からの克服から、新たな位相へと詩作そのものの置き方をシフトさせてきていたのだろう。前者作品の或る種の自然礼賛的な感傷から、より透徹した残酷な眼差しをさらりと採用する詩作態度への変遷から、私には詩人の哲学的・思想的な熟成を読み取れる思いがするのである。

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2016年11月19日 (土)

意味・数字・言語(文字表記と伝達)そして神Part1

自然科学は実在が確認され得るもののみを相手にする。物理学の最前線のみ、その事実自体をメタ的に見る傾向があるので、唯一の例外と言える。だから概ね実在が確認され得るものはモノであり、モノではないものを実在と自然科学的に捉えることはできないし、それは大方一般的社会の常識と言えよう。

だが実在として確認され得ないモノではない多くのことを我々は実在同様の重みを持って見る。価値として見る。従って前記事で述べた様な意味・価値・倫理は明らかに心が判断しているものであり、それ自体をかたちにすることはできない。勿論心の判断自体を形象化することは可能であるとしても、それは自然実在を確認できる(観察できる)こととは違う性質のことである。つまりそれら(今回は価値と倫理を意味に収斂させて捉えていこう)は或る部分では存在しないもの、モノとしては観察し得ないことである。怒りや焦りの態度は観察できるが、それは怒りや焦りを隠していないその態度から観察できるだけであり、その場に居ない人のそれらを観察することはできない。だが凄く侮辱的言葉で相手を揶揄した手紙を誰かに送ったとしたら、それは今目の前に本人が居なくても想像はできる。だからこの想像も想像していること自体をサトラレ的に観察・確認することはできない。だからこれも意味の範疇に入れてもよいであろう。

数字は人間しか使用しない。だが数えることは人間以外の哺乳類でも行える。だから数覚(フランスの心理学者、スタニスラフ・ドゥアンヌがこのことに関する専門書を刊行している)を持っていることは意味、つまり数えることで量という意味を哺乳類でも持っている種が多いということとは違って、数字という文字に限れば、数字の理解は観察・確認して(つまり数えて)その多さを或る固有の数字という文字に対応して理解できるという意味では、これも意味と基本的に構造は相似である。だから意味は個々の文字でも置換し得るので、意味が対応して捉えられる言語も意味や数字と同じ範疇に入れてよいであろう。

世界は宇宙の誕生以来形成されてきている、と今の自然科学の知で言い切れるとしたら、それは誕生という事実に於いて、その誕生を促したものという仮想的存在を想定し得る。それを神と取り敢えず呼んでおくと、その神という観念は起源(アルケー)を司っているものということになり、神は因果律的な意味での必然的な論理係数ということになる。つまりカントのアンチノミーのその先、更にその先ということの持つ論理思考的必然的思念の埒外である、つまりカントのアンチノミーを誤謬だと見做す唯一の思念が神であるなら、神は明らかに実在を観察・確認し得ない今まで述べてきた意味・数字・言語と同列の、同系統の範疇(カテゴリー)へ入る筈だ。

 つまりだからこそレヴィナスは既に(無と無限)他で示した様な論述を行っているのである。

 ★栄光は始原をもたない

②★<無限者>はあまりに高き背面思考なので、それが前面に、あるいは主題の地位に押し出されてくることはない/神が証しされる最初の文―われここに―では、神は言表されていません。「私は★神を信じている」とさえ言えない

③(前略)★無限者は、その要請に応える「われここに!」の対格の法外さのなかで証示される私に命じる命令は、主題のなかで定立された名前や名辞に遡るのと同様の仕方で★無限者へと遡る可能性を、いささかも私に残してくれません。/★神は第三人称あるいは<彼性>でありましょう。

④視線は相関関係のうちに★神を探し求めるのですが、★神はそうした相関関係のうちにはいないからです。/そのような構造の外に、<彼性>はある。

⑤ここで続けられている探求は、存在‐神‐学なき★神を探求しようとする不遜な探求です。(中略)★栄光はひとつの語のなかに閉じこもり、そこで存在と化すのですが、しかしそのときすでにこの語はその住居を解体しているのです

⑥★神という名づけられないものが★神と名づけられ、★神学ないし存在‐★神‐学によって、哲学は★神を主題化します。(中略)哲学はその思考と思考の宿る場たる存在との合致を要求するのです。思考は存在するという能作にもとづくものを超えて思考する必要はないし、存在の過程への思考の先行的帰属を変容するようなものに向けて冒険する必要もないということ、それをこの合致は思考に告げているのです。

⑦★無限者という語の接頭辞たる無の否定性は、充たされることのない欲望を、みずからの増大そのものによって養われるような欲望を深めていきます。欲望としてそれは高揚し、欲望をそそるものに近づけば近づくほど満足から遠ざかっていくのです。欲求とはちがって、ここにいう欲望は同一化することがありません。飢えなき欲望であり、それはまた終わりなき、目的なき欲望でもあります。

 

〇上記の★の後に来る全ての語彙(栄光、無限者、神)は全てメタ的な概念であり、実在ではない。その点では意味・数字・言語とも何等かの形で置換可能である。それをここで試みてみよう。

 

①意味・数字は始原をもたない

②意味・数字はあまりに高き背面思考なので、それが前面に、あるいは主題の地位に押し出されてくることはない/意味・数字が証しされる最初の文―われここに―では、意味・数字は言表されていません。「私は意味・数字を信じている」とさえ言えない

③(前略)★意味・数字は、その要請に応える「われここに!」の対格の法外さのなかで証示される私に命じる命令は、主題のなかで定立された名前や名辞に遡るのと同様の仕方で意味・数字へと遡る可能性を、いささかも私に残してくれません。意味・数字は第三人称あるいは<彼性>でありましょう。

④視線は相関関係のうちに意味・数字を探し求めるのですが、意味・数字はそうした相関関係のうちにはいないからです。/そのような構造の外に、<彼性>はある。

⑤ここで続けられている探求は、存在‐意味・数字‐学なき意味・数字を探求しようとする不遜な探求です。(中略)意味・数字はひとつの語のなかに閉じこもり、そこで存在と化すのですが、しかしそのときすでにこの語はその住居を解体しているのです

⑥意味・数字という名づけられないものが意味・数字と名づけられ、存在-意味・数学ないし存在‐数‐学によって、哲学は意味・数字を主題化します。(中略)哲学はその思考と思考の宿る場たる存在との合致を要求するのです。思考は存在するという能作にもとづくものを超えて思考する必要はないし、存在の過程への思考の先行的帰属を変容するようなものに向けて冒険する必要もないということ、それをこの合致は思考に告げているのです。

⑦意味・数字という語の接頭辞たるゼロの否定性は、充たされることのない欲望を、みずからの増大そのものによって養われるような欲望を深めていきます。欲望としてそれは高揚し、欲望をそそるものに近づけば近づくほど満足から遠ざかっていくのです。欲求とはちがって、ここにいう欲望は同一化することがありません。飢えなき欲望であり、それはまた終わりなき、目的なき欲望でもあります。

 

 どうであろう?かなり的を突いた言表となっているとは言えないだろうか?

 このことは或る意味では、我々の世界とは、実在事物を通してつまり観察・確認され得ることAと、そうでなく我々の意思疎通・文字伝達によってのみ観察・確認され得ることBとが個々役割分担しつつ、世界に両者をしっかり繋げられている様に我々が認識し、その認識Bを糧に或る時には実在物Aを理解しα、或る時には実在物Aを通して認識Bを理解するβという反芻を行っている、と見ることができる。

 存在論とはαであり、認識論とはβである、と言える。

 ハイデガーは明らかにαを行い、レヴィナスは明らかにハイデガーのαを基軸に、自己の使命を、そのハイデガーα自体を一つの実在事物Aとして自己によるB解釈を経てβを行った、と見ることができる。

数字は番号という語彙に置き換えてもいい。さてでも認識Bはだが、実在物の様な観察・確認によってではなく、違う形では観察・確認し得る。心の有様の形象化によってだ。皆が理解していることは意味が皆に通じているという事実によってだし、或る人が怒っているか否か(という事態の意味)は表情によって観察・確認し得る。それは事物の性質や状態を把捉することとは違うが、やはり一つの把捉であり、理解である。測定的事実ではないかも知れないが、やはり確認し得る(勿論演技という可能性はあるが、演技も又本音であるとさえ言える)。

神は或る部分では幸福を是とする人間の願望と意志、価値的な高次レヴェルの推定、倫理的絶対性から考えることも可能だ、と言えるであろう。だから先程の語彙の置換可能性は、更にこの高次レヴェルの推定や倫理的絶対性ということから言えば置換不可能になる事態も想定され得るであろう。

 これは神が崇高な存在と見做されているからでは決してない。神という概念が起源性の絶対性を意味し、時空間を超越した何かという想定が我々に可能であればこそ言い得ることであるに過ぎず、寧ろあらゆる宗教教義的絶対性はそこから生み出されているということだ。そして重要なことは神の絶対性は相対に対し絶対という概念が成立する様に、誰しもが理解し得るということである。そして誰しもが理解し得るという意味では意味と数字にも全く当て嵌まる。そして重要なことは、誰しもが同じこととして理解し得る(その点ではやや意味より数字の方が勝るが)という意味で、それはやはり人類による捏造であるとか、恣意的判断だとは決して言えないということだ。その意味では自然実在や人工的に製作されたモノではないものの、やはりもう一つの心の内部での普遍的実在だ、とは言えるだろう。

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2016年11月18日 (金)

無と無限Part4 レヴィナスの無限者を<神・死・時間>・アウグスティヌス<告白>を通して考えるⅡ

明らかに無限とすることで時間と空間の差異はあやふやなものとなる。つまりそれだけ我々は時間を伴った空間、空間を伴った時間的推移を当たり前のこととしているのだ。点に幅も大きさも距離もない。それは率直完全なる無である。だがその無は我々の知る次元や知る世界から、我々の知らない次元や世界への入り口だと思える部分がある。枠があることは全体を形成することだが、枠がないことは無と同化してしまう。無限の広がりはけりがつけられない。つまり終わりがない。ということは始まりもない。だが神という概念設定では始まりがあることとなる(尤も時空間を超越した神と考えるなら、始まりも終わりもないものを神が創造したとしても勿論矛盾しない)。始まりがあって終わりのない世界があり得るだろうか?仮に始まりがあれば終わりがある、が正しいとすれば始まりもなく終わりもないものは存在していかなったこととなる。それは存在し得ないものの別名なのだ。してみれば始まりがなく終わりもない無限はやはり無と同義ということとなる。無とは存在していないことの別名だからである。

無は有、つまり存在者である我々の側から見た一つの主観である。だから向こうからすれば有=存在、有的事実としての存在者である我々はどうでもいいことである。無はそれだけ途方もなく力強い(圧倒的である)。それは死者とは決して死への恐怖を持つことがないことからも分かる。そのことは非力(powerless)が最大の力(the biggest power)であるということと同じことだ。

 レヴィナスは<神・死・時間>(経験の外へ―デカルト的な無限者の観念)(合田正人訳・法政大学出版局)で次の様に述べている。

意識とは、存在によってすでに石化された不眠のひとつの様態であり、不眠はまた独断のまどろみの不可能性なのです。

 このことが、我々が有的事実、つまり存在者であることを意味している。又意識が思考・判断・経験を可能にしている。無意識は認知科学的に見ても意識の中の一様態に過ぎない。既に我々は無意識までも意識の範疇で語ることを許されている。

 レヴィナスは更に次の様に述べている((不在と化すほどに超越的な神)から)

「(前略)情動性や快楽主義的な能動性における<欲望>とは異質な秩序に属する<欲望>である・無限者という語の接頭辞たる無の否定性は、充たされることのない欲望を、みずからの増大そのものによって養われるような欲望を深めていきます。欲望としてそれは高揚し、欲望をそそるものに近づけば近づくほど満足から遠ざかっていくのです。欲求とはちがって、ここにいう欲望は同一化することがありません。飢えなき欲望であり、それはまた終わりなき、目的なき欲望でもあります。無限者のこのような欲望は、《内存在性‐からの‐超脱》〔没利害〕という語によって言表される存在の彼方への欲望なのです。超越であり<善>への欲望なのです。<善>は同時に《無‐関心‐ならざること》を意味しているにもかかわらず、存在を超えた<善>の超越は無関心を、無‐差異を含意している/欲望のなかで没利害が可能であるためには、存在を超えた欲望が吸収ならざるものであるためには、欲望をそそるもの(あるいは神)は欲望のなかで分離されたものにとどまらなければなりません。近きものではあるが異なるものでありつづけなければならないのですが―ちなみにそれが聖潔(saint)という語の意味にほかならないのです。・私に命じられる、欲望をそそることなきものの最たるもの、それが他者なのです。/(前略)自我が徹宵の留意であり、絶対的に暴露され、志向性の脱自から絶対的に目覚めた自己の開放性なのです。/「不在と化すほどに超越的な」―この表現は単に言葉だけのものにとどまってはいません。この表現を倫理的筋立て全体の意味に、神曲に取り戻させなければならなかったのです。ここにいう神曲には責任がはらまれており、責任なくしては神という語が生じることさえなかったでしょう。

 無限者という語の接頭辞たる無の否定性は、充たされることのない欲望を、みずからの増大そのものによって養われるような欲望を深めていきます。欲望としてそれは高揚し、欲望をそそるものに近づけば近づくほど満足から遠ざかっていくのです。はカント<純・批>のアンチノミーである。つまりより先へ先へと意識が持たれれば、必然的に決してなにものからも充たされないという事態が想定される。欲求とはちがって、ここにいう欲望は同一化することがありません。飢えなき欲望であり、それはまた終わりなき、目的なき欲望でもあります。は当然のことながら無限者ということを想定している。無限者はだから善悪を超越している。それは現の迷い事ではないのだ。それは即物的な(つまり絶対的な)無限なのだ。

 無限者のこのような欲望は、《内存在性‐からの‐超脱》〔没利害〕という語によって言表される存在の彼方への欲望なのです。は存在の彼方への欲望という意味で、意味・価値・倫理にも適用される一つの真理である。没利害とは現生的欲望とは違うレヴェルだということを言いたいための指示である。精神的な清々しさなどもこれに当る何かだと言えよう。

 だから<善>は同時に《無‐関心‐ならざること》を意味しているにもかかわらず、存在を超えた<善>の超越は無関心を、無‐差異を含意しているは私が即物的な(つまり絶対的な)と言ったことを意味している。つまり無関心ではないので関心を集中していることそのことが、善の態度の究極が却って存在、つまり現生的レヴェルを超え出て、あらゆる差異を生じさせられている存在者同士が存在する(ということは死滅、消滅するということである)という事実に於いて一切の差異を剥奪されているのだから、だ。

 だからこそ私に命じられる、欲望をそそることなきものの最たるもの、それが他者なのです。とレヴィナスは言うのだ。それはその即物的・絶対的事実の前で初めて倫理としての他者との共存、そして他者へ絶対的責任を負うという事実が明るみに出るのだ。それが最後部の黄色く囲ったメッセージを有効にしている。つまり彼の言う神曲とは、他者への責任、つまりあらゆる他者全体それは自己知に於いては無限そのものである<前回そう述べた>への責任、つまり共存している事実を或る奇跡として捉えることから派生している)が同時的に自らの生のある限り存在し続けていることの絶対的共時性の存在論的な解釈は、ハイデガー的存在論を超えレヴィナス的認識論へ問題意識を移行させていくべき何かであると、レヴィナスはここで言っているのだ。

レヴィナスは明らかに存在論を相対的な(相対性理論を生じさせているものも含む)世界知ではなく、絶対的な世界知へ求めている。それは私が無と無限を相同のものとする見方の基盤となるものだと言える。絶対的世界知の中にこそ倫理・価値・意味は息衝く。それは自然科学的所見ではないのだ。又数学的所見★でもない。ここに初めて哲学命題論的な所見が成立する。

 ★ 無と無限は数学的ゼロと∞と同義ではない。それは無や無限の一つの数式化可能な定義でしかない。だからゼロ・∞ということを成立させる為に我々はその背後にある我々自身の知の正体を見極めなければいけない。

〇アウグスティヌスは黄色く囲ったレヴィナスの言辞と同じ趣旨で次の様に<告白>で記している。

「(前略)「夜と暗黒の子」とわたしたちを分かつものは、「わたしたちの心を試み」、「光を昼と名付け、暗黒を夜と名付けられる」あなたのみである。あなたをおいて、だれがわたしたちを世の人と異ならしめるものがあろうか。わたしたちのもっているものであなたから受けていないものがあるであろうか。わたしたちは、「他の卑しい器が造られたのと同じ土塊から尊い器に造られた」のである。」(第十三巻 第十四章より)

 レヴィナスの言う絶対的共時性的共存は、正に彼によるとその同時性的運命という存在の一つの決定的事実が、神と同義になるということを示しているが、その神と同義である同時性的運命、絶対的共時的共存という奇跡が、人間を人間以外の生命と分け隔てることをここでアウグスティヌスが言っている。そしてそのことこそが無と無限への途方もない思考へと我々を誘っているのだ。

 とりわけ上記のアウグスティヌスの文で重要なのはあなたをおいて、だれがわたしたちを世の人と異ならしめるものがあろうか。という箇所だ。この箇所のアウグスティヌスのメッセージはレヴィナスの言う私に命じられる、欲望をそそることなきものの最たるもの、それが他者なのです。を意味・価値・倫理(それらは全て他者を絶対的に必要とする)を生み出している認識なのである。同時性としての共存は、我々が神以外では皆平等だという観念を付与されているからだ。

 無と無限は恐らくこのレヴィナスとアウグスティヌスのメッセージから察すれば、この絶対的共時性的共存と同時性的運命を我々に自覚させる一つの拠り所となってもいるものと思われる。つまりそういうものを想定し得る我々の力(power, Macht, puissance)であり認識なのである。

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2016年11月17日 (木)

我々は皆権威づけられたものとか本物と保証されたものや天才を求めているわけではない、ただ結果的に後で誰かが天才だと呼ばれるだけだ

重要なことは何かが凄く面白いということで受けることがあるとしたら、それは理屈ではないし、権威づけられているからでもない、ということだ。これは決定的だ。古坂大魔王という芸能人がピコ太郎に扮して世界中で動画が次々にダウンされるくらい大反響を呼んでいるが、これはpen, apple, pineappleというpの音の連続するのがラップ調のBGMに乗せられて軽快なダンスをしながら発せられることそのことの、一つの聴き心地良さと見心地の良さによってである。Eaの音とpの音が連続することで得られる音の快楽がダンスの所作と相俟って絶妙の効果を上げているからだ。しかもアップされている動画には多くのヴァージョンがあり、かなり細かく戦略的に練られて発表されている。

〇次期大統領ドナルド・トランプ氏の孫娘の女子もこれを真似ていることが投稿動画されている。映像に於いて何にも増して現代社会は実はこの投稿動画こそが全世界のムーヴメントを作り出している。プロの映画監督や映像作家の仕事でなく、素人投稿動画こそが世界の映像をどんどん塗り替えているのだ。

〇だから世界は何を求めているかということに於いてそのネックとなるものは決して権威ではない。寧ろそういった色が一切ついていないものだけを一般市民は好む。勿論ピコ太郎の動きは素人のものではない。しかし素人がただであらゆる動画を投稿できるその仕組みを彼は利用している。だからニーズそのものは権威とか天才として承認されたものに対して向けられているのではない。その点が重要だ。

〇勿論こういった世界的流行は止む時は止む。だがそれでいいのだ。飽きられたら又彼も違うことをし始めるだろうし、あの仕事に影響を受けた違う何かが次にヒットするかも知れない。そういうことの連鎖があるということだけが重要である。天才を求めている訳ではないのだ、我々は。面白いことをし始める奴がいて、彼がその反響の大きさを持続していった時彼は結果的に天才だったと後で言われることもあるというだけのことだ。実は今まで世界でヒットしてきた全ては何等かのグルーヴをそれが持っていたからこそ、誰かが発見し口コミだったりして広まってきたのだ。それが今の時代はウェブサイトで検索ヒット数が大きい数であればある程注目を集めやすいということだ。

文化は明らかに世界中の全ての人達が関わる通信の送受信によって変えられてきているし、それこそがメインストリームになっている。文化自体が何によって席捲されても、何によって皆が熱中してもいいという枠を設けなさそれ自体が牽引していることが面白い。

ピコ太郎の動きはバイセクシュアル的であるピコ太郎が化粧をしてゲイバー的な扮装をしていることも効果を倍増させている。ストレート志向だけが正統であるという観念が徐々に崩れていけば、こういった文化ストリームが益々多様化していくに違いない。又成功の要因はp音の持つ響きの印象的なこと、そこに美を見出させていることである。

正統的なこととか、伝統的なことも一方では維持され続けるだろうけれど、何か途轍もなく惹かれるということの正体は我々自身が気軽さとか、イージーで真似しやすく思える所作や言葉の羅列やその全体的発想そのものなのである。勿論ピコ太郎の所作をそっくり忠実に再現するのは難しい。だがそういう風に自分でも真似して楽しめると、そう思わせることが一つの重要なポイントなのだ。

理屈で理解しているのではないからこそ、何か理由はよく分からないけれど、魅力がある、マネしたくなるということの内に論理や理性や教養とは全く違うレヴェルのグルーヴというものが生み出される。ボブ・マーリーもマイケル・ジャクソンもそうだったし、ゴールデンボンバーが受けたのも何等かのグルーヴが彼等にあったからである。

ヴィジュアルでは今日本全国紅葉が美しい季節だが、これらもやはり理屈とか理性とか教養としていいと思えるのとは訳が違う。そういうことが音やリズムやダンスのヴィジュアルにもある、ということだけでいい。何かそれに明確に説明できる理由をこじつける必要そのものがない。逆にこういう風に考えてもいい。論理とか理性とか教養とかそういったものも実は、それ自体は個々固有の何等かのグルーヴがあり、後付け的に意味づけしているだけのことである。演説の巧さとか印象に残る様なメッセージとかキャッチコピーとかもそういうことだし、理屈や論理だけを特別視する必要もない、ということだ。

我々は後で意味づけしたくなるだけで、まず理屈抜きに何かに魅かれてしまうということがあるだけのことなのである。その惹かれることそれ自体が、極めて重要な事実だ、とだけ言えるであろう。

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2016年11月16日 (水)

無と無限Part3 レヴィナスの無限者を<神・死・時間>・アウグスティヌス<告白>を通して考える

我々にとって無限とはとりもなおさず有限、つまり枠を設けること、範囲設定が生み出していると言えるが、無限とは時間と空間の差異や区別を霧散させる何等かの意味的効果がある。その実体が一体何なのかは今直ぐには説明できない。だが問題にすべきことと言ってよかろう。

〇レヴィナスは(語ることの真摯さ)で「栄光は始原をもたない」と言っている。栄光を時間的枠、有限の時間でない何かと見做しているからだ。彼にとって栄光とは神との同化に近い意味合いなのだろう。

〇レヴィナスは(証しと倫理)で<無限者>という謂いをしている。これは神にほぼ等しいし、栄光を生み出している何かだと言える。彼は言っている。

<無限者>はあまりに高き背面思考なので、それが前面に、あるいは主題の地位に押し出されてくることはない/神が証しされる最初の文―われここに―では、神は言表されていません。「私は神を信じている」とさえ言えない

つまり彼は信じたり主題化させる様な日常的事物や概念をそれが超えている、と考えている。そのことはそれより後にも記述内容として繰り返し出て来る。例えば(意識から予言へ)での次のようなものである。

「(前略)無限者は、その要請に応える「われここに!」の対格の法外さのなかで証示される私に命じる命令は、主題のなかで定立された名前や名辞に遡るのと同様の仕方で無限者へと遡る可能性を、いささかも私に残してくれません。神は第三人称あるいは<彼性>でありましょう。私自身の<語ること>をつうじて命じる戒律は支配でも強制でもありません。なぜなら、この種の戒律を私はその源泉との一切の相関関係の外に放置するからです。視線は相関関係のうちに神を探し求めるのですが、神はそうした相関関係のうちにはいないからです。/そのような構造の外に、<彼性>はある。無限が描出されるようなこの関係の非-停止のなかに、こうして停止がしるされるのです、そうした停止から美しきものの偶像崇拝が生じます。存在論と固く結ばれた神学によって、神は概念として固定されるのです。神学と芸術が記憶にない過去を固定化してしまうのです。(改行)ここで続けられている探求は、存在‐神‐学なき神を探求しようとする不遜な探求です。(中略)栄光はひとつの語のなかに閉じこもり、そこで存在と化すのですが、しかしそのときすでにこの語はその住居を解体しているのです、ただちに言い直されるがゆえに、この語は文法的範疇と適合することはありません。(中略)神という名づけられないものが神と名づけられ、神学ないし存在‐神‐学によって、哲学は神を主題化します。(中略)哲学はその思考と思考の宿る場たる存在との合致を要求するのです。思考は存在するという能作にもとづくものを超えて思考する必要はないし、存在の過程への思考の先行的帰属を変容するようなものに向けて冒険する必要もないということ、それをこの合致は思考に告げているのです。」

 

無限者は、その要請に応える「われここに!」の対格の法外さのなかで証示されるは明らかに私・私達・貴方・彼(女)の持つ法内的なことではない何かとの霊感的出会いを意味し、視線は相関関係のうちに神を探し求めるのですが、神はそうした相関関係のうちにはいないからです。/そのような構造の外に、<彼性>はある。神を概念として理解する場合明らかに相関関係で捉えたくなるが、私自身が神と名指す時、実はその概念間の相関性で語っている訳ではないということと、<彼性>である三人称としての神は理解とか理解されることとは違うレヴェルである。だがそれは意外と一度も会うことのない他者(の存在)全般と何処か似ている。今どの世界にも私が生涯出会わない大勢の他者が存在していると私は知っているが、そのリアルを与えているのが神であるとするなら、無限とは今リアルであると知っていつつ、それと出会えない全てから発しているとも言える。その先ということ(カント<純・批>のアンチノミー)は他者の圧倒的多数性から引き出されているとも言える。これは自己知を超えているリアルだからだ。

神学と芸術が記憶にない過去を固定化してしまうとここで続けられている探求は、存在‐神‐学なき神を探求しようとする不遜な探求です。とは実は偶像崇拝を生んだ無限が描出されるようなこの関係の非-停止のなかに、こうして停止がしるされることなのだが、要するに無限性を生んでいる神への問いはあらゆる範疇を逸脱してしまうので、その際限のなさにけりをつける意味合いで、概念化させてしまう我々の性状を語っているのだが、停止されて固定化された神への探求は本来あらゆる固定化を阻むのが神であれば、不遜な探求であるにも関わらず我々はそれを止められない。ここにレヴィナスの無限性への(勿論それは無<性>にも等しい何かであるが)敬虔さ、不遜でいられない襟元を正さずにいられなさが示されている。これはレヴィナスの有神論的証示となっている。

 哲学はその思考と思考の宿る場たる存在との合致を要求するのです。思考は存在するという能作にもとづくものを超えて思考する必要はないし、存在の過程への思考の先行的帰属を変容するようなものに向けて冒険する必要もないということ、それをこの合致は思考に告げているが意味するところとは、認識を生み出させている思考それ自体は存在するものとは違うが、存在の中に意味を永遠化させようとする、価値化させようとする我々の性状では、無限性とは存在の起点となる何かへの着目では説明がつかない。つまり起点も終点もないものだけが永遠であり、無限性だからだ。先行的帰属という枠を超えたところに存する合致こそが、価値・理想・意味の我々による永遠化願望であり、無限がそうさせているけれど、そうさせられている我々こそが無限者を想定し得る唯一の存在だということも、ここでレヴィナスは言いたいのである。

 ここでつの結論として無とは無それ自体、つまり名詞化された永遠であるが、無限とは無それ自体へ挑もうとする我々の行為を前提した概念だと言える。行為者の側からの把捉されなさ、到達・完結不能性のことを無限と呼んでいるわけだ。

〇レヴィナスは(不眠を称えて)で次の様に述べている。

覚醒―それは平静の不在であり<他>による<同>の攪乱です。指名であり自己のうちに逃げ込むことの不可能性であり、それが不眠(insomnie)なのです。/(前略)不眠の形式性は、現前へと閉じ込めるような形式の形式性より形式的なものです。それは空虚の、穴の、亀裂の形式性なのです。なぜなら、志向性なき不眠ないし徹宵の留意、それも没利害の撤宵の留意(ここでは、内存在性からの超脱という語源的意味で没利害という表現を用いている)は形式を呼び求めるものではないからです(それは形式を呼び求める質量ではないのだ)。ここでは形式は、内容を包摂しないのと同様に、形式としてのそれ固有の輪郭を固定化させることもありません。そうではなく、形式は絶対的に内包されざるもの(ないし無限)を意味しているのです。」

 

 ここでレヴィナスは他者存在が自己を死す瞬間まで覚醒させることだけを強いる、つまり不眠こそが我々の生だと述べている。脳科学(認知科学)でも実証済みであるが、我々の脳は睡眠中にも決して休まない。内存在性からの超脱という語源的意味で没利害という表現を用いているという箇所で、利害のあるなしに関わらず生が不眠不休であること、つまり内存在にのみ特権的なる心の問題を超えた運命的身体論、運命的身体実在付与論をここでレヴィナスは示しているのだ。それは我々は光・明かりを与えられてしまっている、ということだ。この光・明かりこそが有限性を運命づけられた生ということだ。

 この点に於いてアウグスティヌスは<告白>で次の様に述べている(第十三巻 十章)。

「一一、それがあるのとは異なった状態を知らない被造物は、なんと幸いであることよ。しかしそのような被造物も、すべての変易的なものの上を覆うているあなたの賜物(聖霊)によって、創造されるやいなや、なんらの時間間隔なしに、「光あれといわれて、光あった」その御言とともに、高く上げられなかったなら、それがあるのと異なったものであったであろう。じっさい、わたしたちにおいては、わたしたちが「暗黒であった」のと、「光になった」のとは、時間的に区別されているのであるが、しかしかの被造物については、もしもそれが照明されなかったなら、いかなるものであったろうかということのみが語られている。そしてそのことは、それが前に不定で暗黒であったかのように語られているのであるが、それはかの被造物が前とは異なったものと、すなわち不変の光に向けられて光となったその原因が明らかにされるためである。このことを理解することのできるものは理解するがよい。あなたにそれを乞い求めるがよい。あたかもわたしが「この世に来るすべての人を照らすもの」であるかのように、わたしを煩わすことがあろうか。

 ここでアウグスティヌスは、意識を持つ我々が誕生した時世界は光と共に誕生したのだが、それは暗黒、つまり光を与えられていなかった時とは異なるという形で我々が世界を知ることだ、と言うのだ。世界はまず光に満ちていればこそ、光のない暗黒を想像できる。暗黒は夜が来れば幼子にも分かる。無限は闇に於いてより、我々に多くを悟らせてくれる。先の無さというかたちで。つまり無限とは余りにも先が見えない闇の不安(余りにもの有限性)こそが逆に教えてくれる。それは先述の知られざる多数の他者と同じである。

光は夜、明かりとなって復活する。無ではないかたちでのみ光を自覚する我々は、光ではない闇にこそ無を知る。有を無化する深い闇こそが我々の生を、どんなに苦渋に満ちたものでも、光として自覚させてくれる。それを我々現存在の実在を通した存在論をアウグスティヌスは言っているのである。

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2016年11月15日 (火)

リスタート単位論chart3 ハイデガー<ニーチェ>から読み取れる生の只中に死を挿入する意味から

 

我々は死を自覚し、生の有限性を自覚しているからこそ、範囲設定を行い、時間を分割し、単位をその範囲設定と分割のために設置している。それは刻むことなのだ。刻むことで有限性を克服しようとしている。

 

〇ハイデガーは<ニーチェ>で研究対象であるニーチェを後期<力への意志>を中心に考察対象にしている後半(一-認識としての力への意志/正義としての真理)で次の様に述べている。

 

 

 

真理は Ομιωσις(オモイオシス)としてはニーチェが《正義》と名づけているものであらざるを得ない。/《建立》とは、現存していないものの作成を指すだけでなく、起立させ、直立させること、高みへ行くこと、もっと厳密に言えば、初めて或る高さに達して、これを堅固にし、こうしてひとつの基準を定立することを言うのである。そのかぎりで《建立》は、一種の命令であり、これがそもそも命令権を主張したり或る命令領域を創造したりするのである。建立的思惟は、同時に《裁断的》である。建立的、裁断的思惟は、同時に破壊的(Vernichtend)である。/建立と裁断と破壊という三つの規定は、正義がそれとして把握させる思惟の様式を性格づけている。しかしこの三つの規定は、一定の位階に従って配列されているだけでなく、同時に且つ何よりも、この思惟の内的動態について告げている。すなわちこの思惟は、建立しつつ(高みを初めて起立させつつ)みずからこの高みに向かって立ち上がり、こうしてそのように思惟する者自身は自分を超え出て、自分に対してみずから決断し、固定化されたものを自分の下に突き落とし自分の背後に放棄する精力とは活動点であり、そのとき《点》という言葉は、拍動的に流動しながら流動の領野で初めて存在するに至る或るものへの集中を示唆している。

 

 

 

ハイデガーはここで正義、つまり正しい定義という固定化させる行為こそ真理だとしている。ニーチェからその思想を読み取ってそう見做すことの内には、生の有限性というハイデガー的観念からすれば、ニーチェの生の哲学が意味するところとは、真理につき従って行為が成立するのでなく、あくまで行為こそが真理を生み出しているのだということである

 

 重要なことは単位とは我々の刻むという意識が生み出しているのであり、それは即ち我々の日々の全ての行為こそが刻みを意味しているということである。一日を24時間に区切っているのもそういうことだし、あらゆる限られた範囲を設定された時間のそれぞれを何かに割り当て、何かのための時間とするのも刻むことであり、行為することが逆に範囲設定された有限の時間を刻むことでもあることだ。

 

 だからこそここでハイデガーが言う建立とは創造のことでもあり、創造とは恣意的・意図的な目的・目標設定なのだ。だからハイデガーの言う建立とは特定の方向へと設定された目的・目標を指示することは指令であり命令である。それは自己が自己に対してもそうだし、自己が他者に対してもそうであり、他者が自己に対してもそうである。だからこそ建立的思惟は、同時に《裁断的》であるのだ。

 

 この裁断的とは数学的に言えばデデキントの言う切断に近いことである。刻むということは、その刻まれたゼロ時点からは間が剥奪されている。それは生という有限の時間内の幅に於ける恣意的・意図的なる死の設定である。死は或る意味では無限である。その無限性を無限分割し得る個々の点に与えているのだ。

 

 思惟する者自身は自分を超え出て、自分に対してみずから決断し、固定化されたものを自分の下に突き落とし自分の背後に放棄するとハイデガーが言うことは、脱自しているメタ的反省意識の内にある、思惟にある我々が対自的に命令し、正義=真理として固定化された、つまり決定された自明の生に於ける指令において、問うべきことから既に躊躇的に考えあぐねることを放棄して、実践していくのみであるという決意の表明なのだ。

 

 精力とは活動点であり、そのとき《点》という言葉は、拍動的に流動しながら流動の領野で初めて存在するに至る或るものへの集中を示唆していると述べている部分の活動点とは行為の成り行きや意味を無限分割することで個々の目的・目標へ供せられることを意味化(それは固定化であり生きられた時間に死を挿入することである)させることなのだ。だからこそ、それは行為の没我・一如なので、集中ということになるのだ。

 

各瞬間の各時点の集中とは一連の連なりである行為を意味づけることで点化させていることだ。これは或る行為が別の或る行為を志向する(それを目的・目標として達せられる)ことであり、或る時間が別の或る時間の為に奉仕させられることである。それは即ち単位的に時間を認識する我々の性状を意味しているのだ。

 

上記ハイデガーの記述を通してハイデガーがメッセージしようとしていることは、要するにニーチェの考えていた力への意志とは、そういった目的・目標的な意識を持った行為が各瞬間、各時点で集中されていることそのことが、生の中に永遠なる無でもあるところの死を敢えて生に挿入することで、生を意味化・意義化させることで行為を正当化し、行為を生の中に確固として位置づけを行おうとすることを意味していると言いたいのである。

  

 付記 使用したテクストは<マルティン・ハイデガー ニーチェⅡ ヨーロッパのニヒリズム Martin Heideggaer細谷貞雄監訳 加藤登之男・船橋弘訳 Nietzsche>であり、それを本文中の箇所から引用した。

 

 

 

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2016年11月14日 (月)

Today Autumn Red Leaves in Hidaka City in Saitama Prefecture 2

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Today Autumn Red Leaves in Hidaka City in Saitama Prefecture

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2016年11月13日 (日)

世界の真理Part68 世界の成員の存在理由の変転とは自然で健康である/そして所有できるものなんて誰しも限られている

トランプ次期大統領の総資産等世界の真の意味での経済的ビッグからすればさして大きなレヴェルではない。例えばビル・ゲイツ等はトランプ政権がどんな手を打ってもびくともしない(因みにロシアにもサウジアラビアにも彼を凌ぐ資産家が大勢居る)。彼はだから好きな様に出来る限界を最初から知っている。だからこそ政治家という道を選んだのだ。尤も彼の登場によって多大のロスを被るということで戦々恐々としているのは一部インテリ階級だろう(特に日本のメディアや大手株主はそうかも知れない)。インテリ的既得権者はそもそも固定化した価値観だけを求める。その点生産者や時代に必要なサーヴィスを提供するビジネスパーソンは全く違う。だからいい意味で生産者や求められているビジネスパーソンだけはどんな世相でも生き抜けられる。既得権構造が壊滅するとしたら、それはそんなに悪いことではない。

文化人とかメディアで知名度を獲得している人達はほぼ数年置きに面子が変わってきている。それはメディアとはその都度或る固有の世相にマッチした人達だけを使いたがるからだ。それでも数年でも売れれば彼等は何十億という資産を手にする訳だから、それで消えて行っても、そんなに困ることはなく、次から次へと荒稼ぎ出来るメンツが交代するだけである。現時点ではきっとかなり高収入を得ている林修も、恐らくここ二年以内には姿を消すに違いない。でも彼等はきっとそれより少し前に売れていた人達と同窓会みたいに集い高いワインでも飲んでいればそれでいい。東浩紀とか宮台真司とか茂木健一郎とかと非生産的な思い出話でもしていればいいさ。でも世界はそういったころころと頻繁に登場する人達が数年置きに変わることの方が都合いいという訳である。

インテリ階級の没落はもう既に数年前から萌していた。最終的によく働く人達だけが潤える時代は直ぐそこまで来ている。サーヴィスの在り方はその時代毎に人は何を精神的に求めているかに応じて変化する。それだけを常に見極められる様にしていけばよい。

世界の資本主義は今後恐らく所有という概念を人類全体が軌道修正しない限り遠からずデッドロックに乗り上げ、終焉する。つまりそれは共有ということの方が都合のいいことは所有を諦めるということ以外ではない。共有し合えるものに於ける所有を諦めれば後は、真に所有した方が価値あるものだけが必然的に残る。それだけが真に追い求めるべき価値という訳だ。それは人によって違ってよい。愛でもいいし、ゲームでもいいし、民主主義でもいいし、余暇のゆったりとした時間でもいいし、金にならない例えばボランティアとかにだけ生涯打ち込むとかでもいいのである。その人によって異なる価値ということだけが重視されていけばいいのだ。

〇要するにもう何十年も前にとっくに普遍的価値や認識等というものは崩壊していたのに、あたかもそれらが残存しているかの様な幻想を一部の既得権者達だけが必死に一般市民へ提供してきただけなのである。そしてそれは完全に今年暮れ迄に終焉するのである。

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未来展望Part13・世界の真実Part32 生き方と仕事の戦略に就いて

日本では紫綬褒章とか文化勲章とか、要するに皇室から授与されるという形式の褒章が存在するが、そういった褒章を授与される人達は率直大半がその道一筋的なことに付帯する栄光で評価されている。しかし現代社会は一般職を主軸に考えれば、そういう生き方では生計を立てられない。あれらの栄光に預かる人達は氷山の一角と言っていい。これはあらゆる学術的仕事や職人仕事にだけ通用する栄光なのである。

現代では目的も目標も一つにだけ絞っていてはリスキーである。それは途轍もなく大きな権威的な賞や職種に就いて一生が保証されている場合にのみ可能な生き方であり、又経済力的にかなりの収入と貯蓄がある人にのみ可能な考え方である。

確かに成功者でその道一筋で成功した人なら、そういう生き方以外認めないだろう。だが逆に幾つもの異なった傾向の仕事を同時にこなして生きてきて、それで何かに成功した人なら、そういう複眼的生き方の方を他人には推奨することは多いだろう。勿論いずれのケースでも人は人、自分は自分と割り切っている人なら、きっと何かを人に推奨したり、人から尋ねられても、自分ではよく分からないと、自分が何かを人に薦めること自体に躊躇したりするだろう。そしてそれこそが正しい。成功への道筋で正当なるものは存在しない。人それぞれだし、一人の人にとってもその時々の事情や複雑な人生の状況や精神状態にもよる、とだけしか言えないからだ。

〇一つだけ決定的な真実を言いたい。それは人とはイデオロギーや理想で動くわけではないということだ。だから理想として世界とは~であるべきだというのが仮に真実であっても、それでは食えない。だからここに一人の理想主義者が居て言っていることは正しいとしよう。だが理想は理想として現実は現実だと受け取る人がたとえ人種差別主義者であっても(それを言うなら日本人はれっきとした人種差別主義者が大半だ。在日への差別を含め、どんなに頭のいい人でも相手が中国人や韓国人やフィリピン人なら嫌悪感を持ち、日本人同士みたいには扱えない。そして全世界のどの民族も全て人種差別主義者たちなのである。実はアメリカの白人が人種差別するのも、例えば我々東洋人を理解できないからだけなのだ。そのことと交渉したりするビジネスパートナーに出来るか否かとかとは別のことなのだ。そういう割り切った考えで行こう!)、交渉で相互にwin-winの関係を保持出来るなら、その方が相互に幸福だという考えは説得力を持つ。そしてこの考えは一つの価値や理想に拘らない柔軟な発想転換を常に出来る人だけが容易に持つことの出来ることであり、相互関係重視だということだ。理想主義者とは往々にして、理想実現だけに殉じる傾向が強く、却って現実には自己理想に適合しない他者全員を軽蔑する冷たい性格的傾向があるのだ。

上記の事実を踏まえるなら、却って一つに目的や目標を収斂させて挫折するより、もとより何をしてもそんなに巧く行くわけではないのだから、試すなら何でも試そうという選択肢の方が仮に全てで失敗したとしても借財さえ背負わなければ清々しいとは言えないだろうか?

〇今回書いたことは全て、あくまで私の生き方を示したに過ぎない。でも来場者諸氏よ、人生は短い。従って自分で後悔しない生き方だけしたいと思わないかい?私が言いたいことはそれだけである。

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2016年11月12日 (土)

性悪説的政治力学から考えるPart1 自衛隊の抑止に就いて

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 私は埼玉県の奥武蔵にも比較的便利な地の利のある或る市に住んでいる。私の家から自転車で行けば程なく入間基地が見える。フェンスが張り巡らされ、周囲はランニングコースが回廊の様に巡らされている。大井通信所も私の自宅からそう離れていず、ここは米軍元将校が管理を協力している。市には固定資産税を払っていないけれど、地震その他で停電する時もこの基地の周辺は決して送電がストップすることはない。そういう特別な送電設備と管理が国家予算から割り当てられている。(従って大井通信所の正門には表札もないし、記念撮影をすると嫌な顔をされ、いいカメラで基地内部を撮ろうものなら、警察沙汰になるかも知れない。警戒厳重である。ここでも周囲はランニングコースが設置され回廊の様に張り巡らされている。これは要するに凄く神経を遣う業務なので、体調を整えるためと、外部から侵入者を防ぐ為の監視目的<カメラが数メートル毎に設置されている>との両方の意味合いがあるに違いない。尚入間基地は施設の中央本部的場所が入間市なので、そう呼ぶが、敷地面積の大半は狭山市に所在する。)

因みに自衛隊の基地・駐屯地の正門には棍棒を持った警備が必ず居るが米軍正門の警備兵が携帯するのは自動機関銃や小銃である。 

 入間基地は年に一回航空祭というのをやり、今年も三日文化の日に行われたが、基地のすぐ脇の西武池袋線の稲荷山公園駅には基地へ入場する為の特別改札口を設け、西武鉄道共々収益のために自衛隊に協力する。

 航空自衛隊のブルーインパルスのダイナミックな操縦ショー(パラシュート落下も行う)は大きなこの祭りの見どころである。私も見学に行ったが、皆カメラで必死に撮影していた。

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上と下は入間航空祭のブルーインパルスの飛行操縦ショー。本記事最上段の写真も。

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 さて例の朝霞市にある送電設備が炎上して、半日以上首都圏の交通機関が麻痺したニュースも記憶に新しいが、こういった特別のインフラは報道でも詳しくは所在地を報道しない。そういうことをしたら、過激な思想を持つテロリストが送電設備を破壊する為にやってくるかも知れないからだ。

 つい先日栃木県宇都宮市で起きた自爆テロ犯は元自衛官だったし、そういう不届きな者も時には現れるが、概ね彼らは一般市民よりは国家機密を漏洩したりする人は少ない筈だ。青年期よりそういう教育を受けてきているからである。

 勿論アメリカでエドワード・スノーデン氏の様に国家機密を外国に漏洩した人も登場したので、そういう人物が日本でも現れないという保証はない。それでも尚そういう行動に踏み切る大義の様なものがある場合だけ、そういう行為は許されると言えよう(スノーデン氏の行動がそうであったか否かは未だもう少し時間が経ってみなければ分からない。最近アメリカでは俳優のスティーヴン・セガール氏の様にロシア国籍を取って移住する人も増えている。その理由はよくは分からない。アメリカ市民でいることに固有のストレスからかも知れない)。

 又アメリカがトランプ大統領就任によって、意外とロシアと親密的になる可能性はやはりある。それはそれで世界に安定化を齎すだろうし、日ロ関係にとってもそんなに悪い話ではないだろう。

 日本の情報機密保持は情報本部(防衛省管轄)が取り仕切っていて、英語のSIGINT(シギント。Signal intelligenceの略)とOSINTopen source intelligence)と言って、前者は国家的に敵対する外国の軍事暗号解読が専門であり、後者はメディア報道(恐らく投稿動画等も含む)等映像動画全般から国防的利害に関する情報を収集する。専門的に分かれていて、中には両方できる人も居るのかも知れないが、分業されている。

 埼玉県ふじみ野市に存在する大井通信所は自衛隊管轄であり、米軍将校も関わっているが所沢市の米軍通信基地は米軍管轄である。所沢住民は保守系政治家以外では、基地の土地を日本へ返還することを主張しているし、そういう市民運動もあるかも知れない(そういう立札は見たことがあるが、市政や運動の内情までは知らない)。

 東京都の調布市には駐屯地があり、埼玉県では朝霞駐屯地が有名である(だから和光市駅や朝霞駅<東武東上線>の上りホームは、一説には有事の際には戦車を軍用列車で輸送するために、下りホームと比べて異様に広く作られているとされる。又防衛省のある市ヶ谷駅地下鉄有楽町線ホームも異様にホームの幅が広く、これもやはり戦車を輸送するためにホームを広くしてあるという説もある)。

 又入間航空祭では陸上自衛隊のヘリや、埼玉県警のヘリも停まっていて、要するに国防、治安安定化のために彼ら組織は相互に協力し合っている。又自然災害など緊急事態のためにも、即対応できる様な準備を日頃から行っている。

 そういった装備が国レヴェルで完備しているからこそ、我々は日々安心して過ごすことができる。従って私はリベラル的考えの人間だが、彼等防衛省と自衛隊、或いは総務省と警察が我々市民の生活を脅かす様な事態にならない限り、国家保全のために彼等が我々にしてはいけないと考えている、或いはして欲しくはないということはしない様に心がけているし、私にも何か協力できることがあれば、してもいいと思っている。

 つまり政治とはそういった性悪説的な抑止力によって成り立っている、それは国内的にもそうだし、国際的にもそうだ、ということは言える。

 このことは結局戸締りを我々が日頃からするということを同じことではないだろうか?

 今自衛隊の存在自体に異を唱えている政党は共産党だけである。入間航空祭の式典(関係者しか入場できないが、私は間違って入り込んでしまったが、関係者だと思われたらしく、咎められなかったので、少しだけ見学させて貰った)で自衛隊幹部の方が入間基地の倉庫に仮設置された舞台で挨拶した時そう説明していた。柴山衆議院議員や佐藤参議等も挨拶に登壇した。

 私は余りにも軍事的に国家が邁進していく様なら共産党と共に反対するかも知れないけれど、今あるくらいのかなり進歩した科学技術での自衛隊の装備はやはり必要ではないだろうか?

 抑止力(deterrent)ということはどの国でも必要なことなのだ。それだけが肥大化することは確かに左派政治家の言う様にいいことではないし、きちんとシヴィリアンコントロールを効かせる必要性はあるが、だからと言って完全丸腰で国家毎推進されることには今のところ反対である。

 勿論いずれそういう時代が来るかも知れない(それは百%不可能とは言い切れないが、今のところかなり実現性は希薄である)。だからNPT等ではもっと積極的に日本は国家として参画すべきだとは思っている(だから日本が今回反対票に投じたのは、アメリカの立場を慮り過ぎたと考えている)。

 要するに我々は完全に性善説的観念だけに焦点化すべきでもないし、完全に性悪説的観念だけに焦点化すべきでもなく、その配分をその都度調整していくという配慮が必要なのではないだろうか?

 付記 私の自宅から程ない場所にアマゾンの倉庫会社があるが、こういった物流や輸送のシステムは埼玉県は他県より恐らくかなり装備されている。物流の基本はlogistics(兵站学)である。それは戦争の際に物資輸送をしていた歴史的な知と技術の集積である。

 現代社会は一個人で全ての市民がウェブサイトを利用できる。これもハッキング同様、完全に世界戦争史的人類の知(暗号等の神経戦)の応用なのだ。我々はそういった性悪説的なテクノロジーを一切使わずに生活することはできない(アメリカに居住するアーミッシュAmish()Amische(独)という人達は電気さえ利用しないで、19世紀以前の生活をしているけれど<アメリカ・ペンシルベニア州やカナダ・オンタリオ州に在住する>)。

 要するに我々は人類自身自傷してきたテクノロジーを現代社会の利便性維持のために皆、実はどんなに性善説主義者でも利用して生活してきているのである。

 尚横田基地(福生市)も東京都内では全国でも最大規模の基地であるが、米軍と自衛隊の共同管理である。ここには鉄道ファンには全国でも珍しい電化されていない輸送のための引き込み線があり、そこまでは電気機関車で輸送するが、そこから基地まではディーゼル機関車が輸送する。

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上は横田基地への輸送用引き込み線。電化されていず牽引はディーゼル機関車が拝島駅構内でそれまでの電気機関車と切り替えて行う。

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2016年11月11日 (金)

無と無限Part2

 

〇前回存在する物質を全て取り除いた空間それ自体は無だとした。だが空間それ自体にも存在的(つまり物質と同じでなくても物質と共有する何かがあるものとして。真空であっても)な性質があるかも知れないのでやはり空間それ自体は無と同義ではない、としておこう。つまり空間と物質(という実在)は不可分の関係がある、と見做しておこう。

 

〇前回無限には枠がないとした。枠がない無限は空間的でも時間的でもないと言える。つまりそれは超越した何かである。枠がありそれが全体だと規定し得るものは全て存在であるが、枠のないそれは存在ではない。アウグスティヌスの次の言葉はそれを示唆している。

 

わたしたちがそのうちに没し、それからまた現れ出るのは空間的な場所ではない。これよりも似て非なるものがあろうか。そうするのは情念であり、愛である。わたしたちの不浄な霊が世のものに煩らう愛によって、わたしたちを下方に引き下げ、あなたの聖なる霊が確固不動のものを求める愛によってわたしたちを引き上げるのである。こうしたわたしたちは、わたしたちの心をその「霊が水の面を覆うている」あなたのもとに高めるのであり、わたしたちの心が「なんらの実体性を持たない水」を乗り越えたとき、あの卓越せる休息に到達するのである。」(第七章、精霊のはたらき <告白>服部栄次郎訳・岩波文庫 より)

 

 空間的な場所ではない、は、時間的推移でもない。空間を作り出しているものは(物理学者が考える様にビッグバンであっても)決して空間ではない。時間を生み出しているものも時間ではない。

 

 このことが極めて重要である。

 

 

 

〇レヴィナスは<神・死・時間>で次の様に述べている。(合田正人訳・法政大学出版局)

 

<無限者>はあまりにも高き背面思考なので、それが前面に、あるいは主題の地位に押し出されてくることはない/神が証しされる最初の文―われここに―では、神は言表されてはいません。/「私は神を信じている」とさえ言えないのです。」(証しと倫理 より)

 

無限者は、その要請に応える「われここに!」の対格の法外のなさのなかで証示される私に命じる命令は主題のなかで定立された名前や名辞に遡るのと同様の仕方で無限者へと遡る可能性をいささかも私に残してはくれません。こうして神は客観化、客体化をまぬかれる。/神は三人称あるいは、<彼性>でありましょう。私自身の<語ること>をつうじて命じる戒律は支配でも強制でもありません。なぜなら、この種の戒律は私をその源泉との一切の相関関係の外に放置するからです。視線は相関関係のうちに神を探し求めるのですが、神はそうした相関関係のうちにはいない・<彼性>は、それは無‐限者(有限者ならざるものであり、また有限者のうちにあるもの)であります。視線がかかる無‐限者の衝撃を受け止めてロゴスのうちに包摂してしまう、そのような構造の外に、<彼性>はあるのです。/無限が描出されるこのような関係に非‐停止のなかに、こうして停止がしるされるそうした停止から美しきものの偶像崇拝が生じます。存在論と固く結ばれた神学によって、神は概念として固定されます。神学と芸術が記憶にない過去を固定化してしまうのです。」(意識から予言へ から)

 

 レヴィナスが言う無限者とは永遠という想念、永遠に存在し続けること、永遠に時間が永続すること、と言うに等しいこと(事実)である。故にそれは存在ではない。それは意味に近い。意味は永遠に変わらないし、それは相関的なことをまぬかれる。意味と意味の間には相関性があるが、個々の意味はそうではない。しかしそれは存在それ自体ではない。寧ろ(全ての)存在そのもの(存在者全て)をも意味づける様な何かである。

 

 我々の深層の文法では明らかに三人称という<彼性>は神のことである。それをレヴィナスは、自分自身で主体的に「それは自分だけでなく、自分以外の全存在者にとってもそうである」ということ、つまり皆で一斉に拝める彼だと考えている。この点では彼の無限者という謂いは、明らかにカント<判断力批判>の中の美や崇高に近い。レヴィナスの言う無限者とは神そのことであり、時間を超越した永遠である。だからこの彼は別格なのである。

 

 勿論只の存在者である彼(一般的彼)も又、誰から見てもそうである。だから神なら尚一層そうである、という思想がレヴィナスにはある。

 

 してみるとレヴィナスの言う格別の彼=神とは理想や記憶にない過去を固定化してしまうと言っている記憶にない過去は明らかに永遠に遡及され得る過去であるから枠がなく時間を超越しているし、固定化してしまうのは我々が単位を設定すること、語彙や言葉を持つことと同じ、一つの意味規定のことである。

 

 それは例えば<無限>がそうであるし、<無>もそうである。しかしレヴィナスの言う無限者とは神であり、絶対無に近い何かである。

 

 次回はやはり<神・死・時間>から哲学と言語に就いて、無と無限からレヴィナス記述を通して考えていってみよう。

 

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未来展望Part12・世界の真実Part31 グローバリズムの推進とそれへの抵抗に就いて

EUの歴史は1949年ブリュッセル条約に端を発し、パリ協定(1951署名・1952発効)、ローマ条約(1957署名・1958発効)、統合条約(1965署名・1967発効)、単一議定書条約(1986署名・1987発効)、マーストリヒト条約(1992署名・1993発効)、アムステルダム条約(1997署名・1999発効)他を経過してユーロが199911 日に決済用仮想通貨でスタートし、更に200211日に現金通貨としてスタートした。マースリヒト条約から24年、そして現金通貨発足から14年という歴史的経緯を持っている。

 だがこの24年の間に実質的にこの欧州グローバリズムの結束を乱す政治的動向は筆頭してはネオナチによる外国人襲撃(2006)等が勃発、要するにここ10年の間にかなりグローバリズムへの懐疑は顕在化してきている、と言うことができる。

 只アメリカにはKKKの様な人種差別結社が18651224日のクリスマスに発足して以来、実に141年の歴史を誇る。つまりアメリカには一方で世界経済の覇者としてリーダーシップを取ってきた歴史がある一方、こういったヘイトクライムを率先して行う組織もずっと併存してきたのだ。

〇重要なことはグローバリズムはその動向へ同化しきれない大勢の脱落者を出すということだ。全ての人が経済観念は優れているわけではないし、又全ての人が外国人とコミュニケーションをとれるだけの社交技術や語学が優れているわけではないからだ。

〇人類が共通言語として経済レヴェルでは英語とするという確約は自然と出来上がっていったとも言えるが、NYのウォールストリートFRBを中心に変動相場制として維持されてきた経済グローバリズムも、実際それぞれの国では固有の歴史的経緯やそれに伴った考えが存在し続けてきた以上、常に亀裂や分断が散発的に発生してきた歴史であり続けたとも言える。

〇上記のグローバリズム常識は必ずしも全市民に共有されてきているわけではないということは数々のヘイトクライムがここ十数年延々と繰り返されてきていることからも明らかだ。そしてそのことを助長してきているのがアメリカ一国のリーダーシップが崩壊しつつあったここ十数年である。リーマン・ショック(2008)がそれをより助長したことは言うまでもない。我々は既にバブリーな不動産錬金術サブプライムローンの限界をその時点で徹底的に思い知らされた。新自由主義台頭と共に進化してきた世界的な金融システムの瓦解はアメリカ合衆国当事国に最も大きな自信喪失感を与えた。

〇そもそも全ての国家がアメリカ主導型の資本主義社会を実践しなければいけないということはない、という一つの不平等感はかなり多くの欧州諸国からも持たれてきたであろうし、ロシアや中国等も猶更である。それに加えてアメリカ合衆国の弱体化は、世界戦略的な分散拠点的支配がアメリカ人自身のノブレス・オブリッジを肥大化させ、徐々に精神的疲弊を招聘したことが原因であることも間違いない。それを決定的にさせたのはイラク戦争(2003320日~2010831日)の75か月と11日の後遺症を精神的に負ったアメリカ合衆国の中間層の消滅と、経済的な覇者だけが異様な収益率により富み栄え、代わりにかつての中間層が低所得者層、下層階級へと転落して、二極分離構造が顕在化してことである。

世界はリーダを不在にしたまま今日に至っている。その間に中国が経済的な巨大なパワーを獲得してきた。そして今年623日の英国EU離脱決定により、ユーロの一角が確実に崩れ、欧州グローバリズムの未来に暗雲が垂れ込めた。これが世界的に大きな影響を与え、保護主義的政策を打ち出してきたドナルド・トランプ大統領誕生となったとも言える。

グローバリズムの一つの大きな欠点とは個々の国々の言語や文化の違いに応じた利便性を勢い無視し、よりユニヴァーサルなことだけを追求していく様になることだ各民族に応じた異なったアイテムを提供する(それは農産物から一般耐久消費財に至るまで全てに対してであるが)ことはさして難しいことではない。だが労働力自体は空洞化してしまう。これは資本主義の持つ帝国主義的傾向が国家間から企業間へとシフトしてきた経緯がある。

〇国家への歳入ではウォルマートはオーストラリア一国の歳入を超えているし、そういった巨大企業のパワーは優に国家を超え、それがかつての帝国主義的性格を帯びてくると、国家という存立基盤が脆弱となってしまう。そこでシェアリング・エコノミーの様な発想の社会創造的観点が打ち出される。つまり巨大国家というシステム自体の限界を人類が見出し始めたということだ。

グローバリズムが却って企業間の帝国主義戦争的傾向の強化から未然に人類を救うには、部分的なマルクス主義的発想のシステムを導入するしかない。マリナレーダ村(スペインアンダルシア州セビリア県のムニシピオ(基礎自治体)では土地や食料に関する競争主義原理を放棄し、共産主義的発想で村の政治が維持されている。これは或る部分では地方主導的な政治形態の一つの例である。勿論これらも又一つの官僚主義的腐敗へ転じないという保証はない。だが人類は食料需給に関して危機的状況に今後陥らない保証もない地球温暖化とその為の厳冬その他による食料生産への危機等)。そこで我々はあらゆる経済モデルを参考にする必要性に迫られる。或る部分ではかつてのソ連の存在した冷戦時代の様な四つくらいのブロック(例えばアメリカ・カナダ・メキシコで一つの連合体を形成する様な)同士で世界が構成されるか、EUが英国離脱を許していきそうな意味で、より細かく分かれていくかという岐路にあるとも言えるが、この二つはやがて一つに収斂されていくのではないだろうか?(経済ブロック毎の分割化ということは或る程度現在でもそうである)

人類は完全に一つの価値観でユニヴァーサルに運営していくことの不可能性を自覚するだけの21世紀冒頭の歴史だったと言ってよい。イスラム教文化圏と欧州キリスト教文化圏の意識の分断は全く克服されてこなかったのだから。それはアジアでもアフリカでも同じである。ただ政治形態や食料需給システム自体はコンビニ等のインフラがユニヴァーサルになれる様な意味でユニヴァーサリズムを追求することが可能である。そこに着目していくしかないだろう。

次回はその打開策として食料需給システムの改変に就いて考えてみよう。

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2016年11月10日 (木)

2016年とはどういう年だったか?Part1 英国と米国

今年623日に投票により議決された英国EU離脱は一つの時代の終焉を実感させた。それはグローバリズムということの万能性への懐疑が世界的に波及していく予兆としてであった。

英国のかつての基幹産業の衰退は、英国だけの問題ではなく、世界中で同じ様な現象を垣間見られることである。

要するに重厚長大型の産業構造はスリム化され、倉庫等に大量の物質を保管しながら機械産業によって物流や生産を執り行ってきた近代と違って20世紀後半以降先進国はアフリカやアジア等多くの発展途上国に生産や物流拠点を移すことで、国内は実質的な労働力が空洞化し、国内ではそれら海外拠点を管理するといったマネージメントとビジネスが主体となり、頭脳労働的なニーズが増長し、それまでなら必須であって様々な技術を中間層の人達がフルに発揮する機会を失い、あらゆる近代産業を支えた工業が衰退していったという時代背景がある。

昨日のアメリカ合衆国大統領にドナルド・トランプ氏が当選したビッグニュースも同じ背景から齎されている。Rust Beltと呼ばれる州では低賃金の白人労働者が集中して居住しており、かつてはその技術が国内で活かされてきたのだが、現在は金融ビジネスとウェブサイトビジネスが最大級のニーズを国内で奨励されていて、ホワイトカラーで高給を取るという特権的な資産階級を生み出し、その煽りで多くの近代産業革命以来の技術者達が仕事を炙れていくという矛盾が社会に突き付けられた。移民を積極的に入れていたオバマ政権で、彼等仕事を炙れた技術者・労働者達の怒りは頂点に達し、人種差別を撤廃させる為にマイノリティレース出身の人達への一定数雇用しなければいけない等の優遇政策が、生活難に喘ぐ白人市民達への逆差別となって作用していたということが、トランプ新大統領への支持へ繋がった。トランプ氏はかつての栄光のアメリカ白人のプライドを擽り、現代グローバル社会の欠落点である空洞化自体を撤廃させるという意気込みを彼等へ語ったのだった。

だから英国中部の近代産業工業都市の衰退から誘引されていたEU離脱決定と、アメリカ新大統領の誕生は一直線で繋がった社会問題と背景があったとも言える。

それとは少し違う今年のビッグニュースはボブ・ディラン氏のノーベル文学賞受賞であったが、ディラン自身ミネソタ州(大統領選ではクリントン氏が勝利)で生まれ、その周辺の都市は古い白人移民の多いエリアであり、ディラン自身祖父母がリトアニア人、父母がユダヤ人アシュケナジム(ドイツ語圏及び東欧に居住してきたユダヤ人の総称)であった。だからと言ってエスニックな白人達はリベラル色が強く、そうでない白人はコンサヴァだとは言い切れないが、彼の出生と生育エリアとアメリカ人の近代以降のメンタリティの確立には深い繋がりがあるとだけは言い得る様に思われる。

ディランの歌を聴いて育った世代はもう還暦くらいにはなっているが、彼等の息子や娘の世代の40代は多くトランプ氏に投票したとされることから考えれば、この世代の断絶も何等かの歴史的なこのエリアの工業の衰退と無関係ではないとも言える気がする。

対しカリフォルニアやネヴァダ等の州ではクリントン氏が勝利しているが、それらはシリコンヴァレーをはじめとする新興産業が確立していく20世紀後半の歴史を象徴するエリアだということ、それらとそういった時代を象徴するロールから外されたエリアとでは考え方は全く違うという意味では、日本のメディアはまずクリントン氏が当選することは間違いないだろうと多くが踏んでいたわけだから、それだけ日本のメディアはアメリカ合衆国の内実を生活しながら実感しているわけではないので、よく分かってはいなかったということなのだろう。

つまり恐らくグローバリズムとは一部のリベラル的思想の世界市民の発想であり、それらの考えによって必ずしも自己生活に恩恵がある人々ばかりではないということが一挙に噴き出してきたのが今年2016年だったと後世歴史家が判断することになるかも知れない。

グローバリズムの思想的な発想の多くはホワイトカラーで頭脳労働者によるものであり、それは端末を駆使して捻り出したものなのでもあり、一部のインテリによる創造だという欠陥はあるのである。それらが勢い金融のビジネスのからくりを世に送り出し、ウェブサイトのあらゆる技術を発明させてきた。それは貨幣と通信という言わば重厚長大型の工業とは性質の違うものだったということだ。そしてアメリカ本国を含む多くの国のメディアはトランプ氏が当選することをどこも予想しなかったのだ。

一方ではビットコインの様な仮想通貨が進化していくということもある程度約束されている現代社会ではあるが、それは国という形態を副次的なものにしていく危険性は充分あるし、AIによって、次第に人間にしかできなかったことがどんどん機械に委ねられるという不気味な様相を世界中に招聘してきているとも言える。

このことは世界の人類の仕事を減らす危機とも言える。そして全てを経営管理する一部の階層の人達だけが異様なる収益率で資産を増幅させ、益々世界は資産保持力の格差に伴う階級差を決定的なものにしていく。

それらへの直観的危惧こそが英国のEU離脱とトランプ大統領の当選という事態を招いたと捉えることも可能である。

トランプ氏の演説の暴言とも取れる多くの発言は、しかし日常生活で鬱憤を募らせていた中間層以下の市民達には強いアメリカをもう一度という彼等の潜在的願望を代弁していたとも言えよう。要するにアメリカ人は単純なメッセージの方を今回は選んだのだ。そしてそのメンタリティを理解してきた日本人が(世界でもそんなに多くなく)凄く少なかったということもできる。

恐らく未来永劫人類はこの種の保護主義的なコンサヴァと、進歩主義的なリベラルとが繰り返し立ち現われ、或る時は前者が、或る時は後者が勝利するという様な世相を反復していくのであろう。

今年在った全てのニュースの中で英国EU離脱と米国大統領選挙が極めて似た背景を抱えているということだけが言えることだが、ではそのことで英米がより緊密な関係(民族的にはそれは充分継続してきているのだけれど)を政治的に実現させていくか否かは又全く違った政治力学的ファクターが絡んでいるので、何とも未だ言えないというところではないだろうか?

次回は文化的なことを中心に考えてみたい。

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2016年11月 9日 (水)

アメリカ合衆国大統領選挙から読み取れること

 ドナルド・トランプ氏が大統領選挙で勝利したわけだが、実際彼の様なタイプの政治家が登場する必然性はアメリカにはあった。

 つまり政治経験や軍属経験の有無ではない指標で選ぶということにアメリカの民主主義の伝統が色濃く反映しているからだ。

 問題としたいのは日本のメディア報道だ。恐らく市民自身は個々この結果を憂えている人達以外にも冷静に受け止めている人も多いだろう。その点を報道カメラ自体がキャッチしているけれど、論説委員(これはNHKに固有のことだけれど)は懸念を表明することに終始している。この点はインテリ・エリート的世界観だけからしか論説できないある限界を私は感じる。彼等は原則論でしか何も語らない。しかしそれは民主主義国家であるアメリカへの侮蔑であると同時に、日本もまた民主主義国家であるが、そのことへの卑下に繋がる。

 今世界は混沌の中にある様に一見思える。しかしそれはあくまで今までアメリカの核の傘の下でぬくぬく過ごしてきた日本人固有の感慨であり、寧ろ中国も韓国も北朝鮮もそれぞれの国家の内部では市民はそれぞれ主体的に考える様になってきている。朝鮮特需とヴェトナム特需で巧くやれた日本と殆どの国家は違う歴史的歩みの中で、今アメリカが転換点を希求しているとのと同じ意味合いがある。

 エリートやインテリには痛烈な批判を加えるべき時節である。こういうこと(誰がアメリカ大統領に当選しても)があっても哲学者も科学者も大半が我関知せずを通すだろう。こういうエリート・インテリ層の無策は、国家予算的な無駄遣いと言っても過言ではない。学者や官僚達は率直自分たちの安泰しか考えていない。その点ではNHKの論説委員以上の官僚達も同様である。

 トランプ氏は言ってみれば変化を求める一般的中流アメリカ人の心を掴んだわけであるが、未知数への期待はその侭民主党政権を八年維持し続けたオバマ大統領の政策への不満でもある。

 オバマ大統領はしかしイラク戦争を始めさせた前ブッシュ大統領の世界警察官的アメリカのポジションからの転換を図った最初の大統領だった。その点ではトランプ新大統領はその路線を引き継ぐ意志を選挙戦で既に示していた。だから彼を型破りとだけ認識するのも一つのお門違いであろう。

 サンダース候補を熱狂的に支持した大勢のアメリカ人青年達も恐らくクリントン候補が大統領就任すれば為しえなかっただろうことに対しても期待を寄せているに違いない。

 経済界はいずれの候補が大統領になっても何とかやっていく決意はずっと前から持っていただろうと思う。だからこそメディア報道の予定調和を批判すべきである。それくらいクリントン候補当選だけが順当な判断だと報道してきたのであるから。

 私も実は七割くらいでクリントン候補勝利を予想していた。でもトランプ候補に勝利が渡ってもそれ程憂慮すべきことではないとだけは思っていたし、キャラクターだけ取ってみればクリントン氏よりトランプ氏の方に魅力があることも確かだとは思ってきた。

 日本の政界は或る部分では固定化した一定数の支持者を持つのは自民党と公明党と共産党だけである。民進党はまだそこまでの地盤はない。そして国防的な部分では自民党の方針を大半の国民が支持してきたのは事実である。それは自民党員とか支持者だけではない。又経済政策的にも自民党を大半の市民は支持してきた。

 日本維新の党くらいが、せいぜい自民党以外の代案を提出し得る党だとは大半の国民が思っている。後は維新勢力に於いては具体的政策と議員の優劣だけが問題だとも思っている。

 確かに安倍総理には暗黙の内に国民を右傾化する路線へ引きずり込む術だけは心得ていると大半の国民が思っている。しかしそれも、今の国際政局ではある程度仕方ないとも思っている。

 だが中国との関係が今の侭でいいとも誰も思わないだろう。そしてその懸念を払拭し得る有能な政治家はまだ登場していない。既成の政治家ではないタイプの人の登場が今日本には求められている。その点ではトランプ氏へ新しい風を期待した米国民が多かったのと基本的に事情は同じである。

 トランプ新大統領の手腕は静観していくしかない。しかし日本がどういう態度で世界へ臨むかは、我々一人一人にかかっている。そして中国との関係も今の侭でいいと誰も思っていない。対中的政策では自民党の今の姿勢でいいともきっと多くの国民は思っていないだろう。でもロシア外交では少なくとも四島一括返還に拘る民進党より、自民党の方が現実的である。まずは二島からでもいいのだ。

 そういう具体性が民進党には欠けているのだ。

 だから我々は今(勿論日本だけでなく、アメリカを含む世界中のことであるが)全てに対してこれからだ、と言うことができる。全ては人類全体がどれだけ理性的に判断できるかだけにかかっている、と言うことができる。

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2016年11月 8日 (火)

音楽の聴き方とその良さへの理解や好きであることに就いて

〇音楽でいい曲だと思うものには色々な種類がある。よく知られていて、その調べが印象的だということで、その中で特に好きな曲はある。又余り多くの場面で使用されないけれど、人と一緒にいいと思うのでなく、個人的に好きな曲もある。

〇上記の違いは要するにこういうことだ。皆がいいと思うし、自分でもそのいいということに納得するから好きだということ、そして多くの人はそれ程いいとまでは思わないけれど、自分では凄くいいと思えるということである。だから或る部分では皆で感動を共有したいという場合と、そうでなく一人でじっくり聴きたいという場合とがあるということだ。

 その二つが見事に重なっている場合もあるけれど、分裂している場合もある。

上記のことは、スポーツでも団体競技と個人競技とがあって、その楽しみ方も、プロや五輪等に出場するアスリート達にとっての心得が違うことがあるということと似ている。人は個人的に仕事をして、個人的に行動することが好きな人でも、時には皆で楽しむのもいいと思ったり、逆に皆で常に行動したりするのが好きな人でも、時には一人になって楽しみたいこともあるということとも似ているだから人をコンサヴァとかリベラルとかどっちかという風にはなかなかそう容易には決められないのである)。

曲そのものにも一人で静かに聞きたくなる曲、或いはそういう風に作られている曲(宗教ミサ的曲等は特にそうだ)もあれば、逆に皆で聞いて楽しんだり、一緒にそれに合わせて踊りたくなったりする曲、或いはそういう風に作られている曲もある。でも基本的にどういう風に聴こうが本人の自由である。

好きとか楽しいということはかなり人生では(どんな人にとっても)種類が多い。つまりかなり多様なことに人は感動したり、喜んだりするということだ。例えば今回は音楽の好き嫌いで考えてみた訳だが、実際音楽だけでなく、風景とか好きな場所とかも同じことが言えるし、好きな映画やドラマとか小説とかにも言えることなのだ。そして人そのものに対しても、である。厳粛に尊敬出来る人もいれば、一緒に居て楽しい人とかもいる。友達にしておきたい人、同僚とか仕事仲間としていい人とかもいる。そういう違いと関係している、と言えるだろう。

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2016年11月 7日 (月)

ディキンソンの詩とレヴィナスの哲学から考えるPart1 他者と自己

 エミリー・ディキンソン(183086)の詩は生涯無名で過ごした彼女の人生に於いて、その時々の彼女自身の未来への不安と希望の入り混じった観想を綴ったものでもあり、そこには仮想的・超越的な意味合いが含有されている。

 1862年に書かれた詩‘I died for Beautybut was scarceには死後の自分を想定して書かれた詩の中で他者との関係を示している。

 詩は次の様なものだ。英語に続き和訳(対訳ディキンソン詩集 アメリカ詩人選(3)亀井俊介編 岩波文庫から)を示そう。

died for Beautybut was scarce

died for Beautybut was scarce

Adjust in the Tomb

When one who died for Truth, was lain

In an adjoining Room

 

He questioned softly Why I failed

For Beauty, I replied

And I for TruthThemself are One

We Brethren, are, He said

 

And so as Kinsman, met a Night

We talked between the Rooms

Until the Moss had reached our lips

And covered upour names 

わたしは「美」のために死んだ-が

わたしは「美」のために死んだ-が

墓に落ちつく間もなく

「真」のために死んだ人が、横たえられた

隣りの部屋に-

 

彼はそっと疑問をもらした、「どうして失敗したんだろう?」

「「美」のためよ」とわたしが答えた-

「いやぼくは-「真」のため-けれどこの二つは一つ-

兄弟だよ、ぼくたちは」と彼はいった-

 

それで、ある晩会った、親類として-

わたしたちは部屋ごしに話し合った-

やがて苔が唇にせまり-

おおいつくすまで-わたしたちの名を-

 

 ディキンソンのこの詩では自分が死後隣の墓の死者と自らも死者として語るという想定であるが、この詩では美のために死んだと豪語する自分(ディキンソン)が隣の死者である彼をもそうだと決めつけると、彼は「「真」のため」と彼女の発言を否定する。だが同時に、それは「美」と同じものだと彼は言う。

 Why I failed「どうして失敗したんだろう?」の部分を、亀井氏(翻訳者)は「彼は死んだことをfail(失敗)と表現している」としている。その後にディキンソン本人が彼へそれは美のためだったのだと決めつけている。

 この詩はかなり想定も対話もグロテスクだが、ブラックユーモア的でもある。

 一方、レヴィナスは1995年最晩年に<神・死・時間>(合田正人訳・法政大学出版局)に収められている内容の講義を行った。その(存在論からの出口としての倫理的関係A)と(責任の常軌‐逸脱B)の中で次の様に述べている。

A 自由が最初にあるのではない自己は自由であるよりも前に責任を負うている。(中略)自己に対してあること、すなわち対自性におけるかかる対格は自由であるよりも前に責任を負うており、しかもこの転嫁不能な責任が対自を唯一無二のものにする/ここでは自由は、私の代わりには誰もなしえないことをする可能性として考えられています。//関係の非対称性は、私を他人とは比較不能なものにします。身代わりによって確証されるのは私の特異性ではなく、その唯一性なのです。人質たる私というこの状況の固有性は概念を逃れることにあるのですが、概念はただちに私に骨組みを与え、私を定立するのです。

B 身代わりはあくまで他者との関係です。そのようなものとして、身代わりは不連続性のうちに、隔時性のうちに一致なきものとしてありつづけるのです。身代わりは帰結ではないし、経験されたある状態を意味してもいません。存在することは自分を定立するのですが、身代わりはそうした存在することとは逆向きの過程なのです。ですから、身代わりにおいて責任が絶えることはなく、身代わりは《存在するとは別の仕方で》ありつづけるのです。/責任という常軌逸脱は、存在論の水面上を漂うことを禁じられているわけではありません。なんとしてもこの常軌逸脱に一個のあり方をあてがわなければならない、というわけではありません。責任という常軌逸脱は総合を表しているのではなく、《ある者は他の者のために》のうちで、差異という合間ないし間合いによって他の者から分離されたある者のうちに存している/《無‐差異‐ならざること》、すなわち《無‐関心‐ならざること》がこの差異を抹消することはない/責任は体験(Erlebnis)ではありません。体験はつねに存在論的なあり方をしているからです。/それは啓示に帰着するものでもなく、認知するものとしての性格を有してはいません。責任は知識ではないのです。

 

 レヴィナスはハイデガーの存在論に多大にインスパイアされているものの、基本的に存在論からの脱却を試みている。彼は存在論の安穏から他者‐自己認識論へと問題意識を変換させている。

 しかも彼は中島義道が主張する様な対話を目指しているのでもない(それはBの部分の最後に明示されている)し、増してや意志の発動や欲求をそういうものとして捉えているのでもない。

 彼の言う唯一性とは分析哲学で言うところの現象性のことでもあるし、同時にアリバイ的な意味で自己がある時点である地点にあることの唯一性である様な自己同一性のことでもある。

 先述のディキンソンの詩で示された美のために死ぬことと真のために死ぬことは、レヴィナスの<神・死・時間>(1995)より先立つこと39年前の1946, 47年に行われた講義録<時間と他者>の次の論述を想起させる。

 

慈悲(シャリテ)〔慈悲、隣人愛、愛徳〕と正義のあいだの本質的な差異は、まさに正義の観点からすれば、正義にはもはやいなかる優先順位も不可能であるのにひきかえ、慈悲のほうは他者を優先する、ということに由来するのではないだろうか。(原田佳彦訳・法政大学出版局より)

 ディキンソンの言う美は正にこのレヴィナスの謂いでは慈悲に該当し、真は正義に該当する。だが隣の死者はそれは同じものだと言う。ディキンソン本人はきっとそう思ってはいない。

 レヴィナスが言う関係の非対称性は、このことでもある。勿論それは自が他と絶対的に代換不能だとするレヴィナス(彼はAで「一切の一般化を棄却したものとして私を考える」という表現をしているし、Bで「人間は代換不能な者としてのその自同性のうちにあることになります。自己には帰還することなき「他のために」としてあることになるのです。」とも述べている。)は、他者を未来と似たものとして扱っている。

 <時間と他者>でレヴィナスは次の様に述べている。

どうやっても捉えられることのないもの、それは未来である。未来の外在性は未来が全く不意打ち的に訪れるものであるという事実によって、まさしく空間的外在性とは全面的に異なったものである。(中略)未来の先取り〔予測〕、未来の投映は、未来というかたちをとった現在にすぎず、真正の未来ではないのだ。未来とは捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれを捉えるものなのである。未来とは他者なのだ。未来との関係、それは他者との関係そのものである。単独の主体における時間について語ること、純粋に個人的な持続について語ることは、われわれには不可能である。

 先のBにおける身代わりは不連続性のうちに、隔時性のうちに一致なきものとしてありつづけるという部分は、或る固有の(特定の)他者との出会いが隔時的だと言っているのである。それは他者全般とか他者一般と違う他者との出会いのことなのであり、隔時性に関しては、同じ<神・死・時間>では(時間を起点として死を思考すること)で次の様に彼は述べている。

 

 時間における「つねに」、それは<自我>と<他人>との同一化の不可能性であり、<自我>と<他人>との不可能な総合である。隔時性である。弛緩(diastole)である。同じ土俵のうえで組み立て、世界において共に措定することの不可能性であり―つまり私の足場が崩れ去っていくのです。/このような差異としての「間断のなさ」。隔時性。いま述べたような不可能性ゆえの忍耐、時間の長さとしての時間の経過は回収不能なものであり、それは時間の隔時性に対する記憶の無力を浮き彫りにしている時間の隔時性を強調する流れのイメージは、時間の経過がまったく記憶の手に負えないものであることを示しているのです。

 ここでレヴィナスが言いたいことは明瞭である。つまり彼は隔時性ということを、ハイデガーの<存在と時間>の忘却とも密接な、記憶の不確かさに於いて、時系列上で諸所の諸々のことを記憶していても、それが起こったのはその時間の移り行きに於いて如何に退屈で冗長な時間であったとしても、一旦それが過去へ退行してしまうと、途端にその時感じた退屈さや冗長さが消え失せ、全くそれとは異質の思い出せる事実、それしか脳裏に浮かばないという、時間の流れとか移り行きそのものの、その時だけ性とでも言える儚さである。

 つまりその隔時性の様に特定の他者は退屈で冗長な時間、緩慢な全体的な流れとは別個に、一際出会いとして印象的で、他の全ての雑多で希薄な印象を押し退け前面に出ているそれが記憶されている特定の他者との出会いであり、その出会いから自己や自我が形成されている。そしてその出会ってしまった一つの過去事実としての他者は、大勢の中の一人ではないのだ。やはりそれは特別なのだ。だからその特別さを生み出させているものは、自己でも計り知れない自我的、自分的な意志であり欲求であり、世界への投企なのである。

 そしてディキンソンは、明らかに死後の自分が隣の墓所の死者と対話することで、そういった特定の他者との出会いとそれによる自我形成が永遠に続くことを想定しているのだ。勿論それは詩からの一つの想定であり、仮定である。だから実現可能性の範疇で語られる実在的な真理ではない。その詩性こそが詩が願望ということを提示することだという真理を説得力あるものにしている。

 そのディキンソンの詩の死後の世界での願望は、レヴィナスの言う隔時性、つまり印象的な過去の出来事は、緩慢な時間の流れのその時だけ性とは隔絶した自己・自我の意志と欲求が生み出している何かである。

 だからディキンソンにとっての死後の自分の隣の墓所の男はきっと、生前彼女の出会った特定の誰かが反映したものでもあるだろうと、容易に推測し得るのである。

 そして生前書かれているディキンソンのこの詩に於いて死後の自分とは未来の自分なのだから、未来が他者であるというレヴィナスの謂いから読み取れる他者と自己の代換不能性から、彼女は詩を紡いでいたと捉えることが可能である。

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2016年11月 6日 (日)

世界の真理Part67 虚心坦懐な学徒性の哲学とフェイク的な態度の文学と

〇前回述べた様に文学と哲学の違いは願望の有無、願望をさらりと提示する文学として、それを拒否し、あくまで願望を隠蔽しようとする懐疑的態度それは多分に自己韜晦的なシニシズムでありダンディズムなのだがのものを哲学と呼ぶとしたのだが、実際詩人の仕事の方がより主観自体を客観的真理へと昇華させる意図でもあるので、必然的により込み入った懐疑主義があると言える。要するに哲学の態度は学術的な眼差しと態度それはしばしば凄く自己抑制的で、テクストを読む場合にも、主観的解釈を極力退けようとする虚心坦懐な態度であるなのであり、それは結論を性急に出そうとしたり、理解したと思い込んだりしてはならない戒めに満ち満ちた態度なのである。だが詩では既に結論は全て出揃っているし、その結論をどう伝えるかに主眼が置かれているのだ。

〇つまり文学という言葉による芸術表現の創造に於いては、或る固有の心のフェイクがかまされていると言える。それはすかした態度でもあるし、宗教的にまで反逆的態度が高められているとも言える(つまり真剣に不良ぶる<実際に不良だといい子ぶるわけだが、不良が不良ぶると却って神々しくなる>)。それは社会的俗人性に於いては完全に逸脱したアウトロー的な立場(従って殺人犯も又文学者たり得る)にある孤絶した個による内的世界の様相の提示なのであり、その生きていることそのものの壮絶なるきつさが、結晶され、人に異常体験性としての生きている人の心理や精神を垣間見させる。小説はそれを分かりやすく散文的な流れで伝える術である。

〇要するに哲学は学徒性を徹底して表明しなければいけないが、文学は徹底した落第生、中退生、落伍者としてのアウトローポジションから発せられなければいけない。前者の厳かなる徒弟としての殊勝さは、それ自体一つの悪辣な戦略ともなり得るけれど、文学者はそういった戦略を持たない。何故なら文学は専門の徒の内部で閉じた営みではないからだ。だから全てが最初から全読者へ開放されている。明け透けな真理に対する心情暴露的要素が、結晶化され、一つの固有の(ある詩人なら詩人の表明スタイルの)フォルムとなっているのが文学作品だ、と言える。

〇だが例えば公的場所では決して語ることのできない様なエロス的感受、身体的快楽そのものから発せられることは哲学でも充分提示可能であり、レヴィナスなどはそれを堂々と行っており、同じユダヤ系の詩人アレン・ギンズバーグの持つ性的な連想、彼にもインスパイアしている前時代のウォルト・ホイットマンの持つ性的な連想と、レヴィナスの持つ体感感受的現象性への示唆には、深い共通性がある。エミリー・ディキンソンはその提示行為への宣言(マニフェスト)的な意味での壮絶なるアウトロー宣言で詩作が成立しているし、事実詩作品が全てそのマニフェスト文になっている。

今後取り組むべきテーマはこの公的タブーへの認可と、だからこそタブーへと挑戦する哲学史への敬虔な学徒たる哲学者の学術的客観合理性という回路からの発信と、詩人のアウトロー的生き方そのものからの発信(それは主観的非合理性への開き直りであるが)との奇妙な結節点への着目がクリエイターとして批評家、思索家としてのテーマとなっていくだろう。

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2016年11月 5日 (土)

「させて頂きました」という奇妙な敬語の頻繁な使用から読み取れる日本人の昨今のメンタリティに就いて

ここ数年異様に大半の日本人が使用する様になった「~をさせて頂きました」という敬語に就いて少し考えてみよう。

ここ数年日本人は異様に遜る様になった。以前なら俳優が何かの映画の出演したのなら「~に出演致しました。」もっと「~に出演しました。」だけであった言い方を敢えて「~に出演させて頂きました。」と言う様になった。

これは文法的にも可笑しい。やらせて頂くという遜りには、主体性は微塵も感じられない。まるで何もしないでじっとしていなければいけないのに、敢えて何かをさせて貰うという風情である。つまり深層の心の文法では今日本人は率先して市民性(そこには権利主張や、自ら主体的に何か行う、つまり意志も含まれている)を反故にしてでも、臣民として上位者へ捧げるという暗黙の意識が介在している。

これは一種の国家強制的な皇室への尊崇、つまり国家神道への従順を率先して示すニュアンスの遜りではないだろうか?

そうしてきたのもより安倍政権の右傾化路線であるとも言える。

この兆候の危険性はざっくばらんに何かを行おうとする者や個人主義的考えの市民の態度を生意気だと封殺していくことにある。

そういう遜った言い方をできない者を非礼と判断することを通して、益々日本は国家主義、つまり排外的な観念に凝り固まっていく危険性がこの言い方の右に倣え的な昨今の日本人の風潮からは読み取れるのである。

遜ることを暗黙に相互に強いる空気は正に戦前的雰囲気である。今日本人は周囲の国家群、とりわけ大統領の不正によって国中が騒乱となっている韓国、そのことをそれ見たことかと喜ぶ北朝鮮等の振る舞い、そして中国の海洋進出を含めて全てに対して異様なる平和保全的な意味での警戒感から、無意識の内に日頃の態度にまで禁欲性を相互に強制しているのだ。

そういう風に相互自主規制することを暗黙のことにしていくことは実に危険だ。そうしない社会成員を爪弾きにしていく空気さえある。それは個人主義を圧殺するし、自由に意見を言うことを阻んでいく。

最近薨去された皇族のお一人も実は軍属経験のある方だったが、恐らく殿下の中にはその深い反省もあっただろうが、皇族であればこそ戦争責任を免れたことへの鎮痛な思いもあっただろうが、そのことを批判する自由は一般日本人市民には与えられていないかの様な空気もある。それもやはり少し可笑しい。

皇族を存続させているのは憲法規定でもあるが、やはり国家による支出なので、回りまわって国民の税金によることだからだ。

或る部分でこういった禁欲的空気を醸成するのに一役買っているのが、ジャニーズ等のイケメンタレント質や報道全体の示し合わせたかの様な禁欲的空気である。スポーツアスリート達にはそもそもそういった軍隊経験に通じる様な過酷な訓練から派生する禁欲主義があることは昔からそうだったが、彼等はそういった態度なので、一切態度的には批判されず、そうでない市民がもし禁欲的でないというかたちで、例えば不倫等で完全に仕事を干される等のことを奇妙な世相でないと思わないのであれば、それはそれでかなり偏った世相の渦中に我々が居ると判断してもいいだろう。

恋愛も離婚も全て自由であるべきであり、禁欲的でなければ批判されるという世相空気はもっと積極的に批判されるべきである。

今日本は五輪を四年後に控え、異様な国家主義、国威発揚的使命感の中にあるということは、或る程度は分かるが、それが極端な禁欲主義的相互自主規制へ繋がっているのなら、言葉遣いそのものも、世相反映的であるだけでない、もっと冷静な分析も必要ではないだろうか?兎に角、遜り過ぎというのは決して美徳的でなく背徳的だということだけは言っておきたい。

この問題は又何かあったら、再度きちんとしたかたちで取り上げてみたいと思っている。

 

付記 この極度の遠慮は、そうしない成員を外へ放り出していく一種の差別主義的全成員の同意だというところに、私は世相全般に危惧を感じる。あの電通の過労自殺女性社員の問題も、そういった禁欲主義と無策の大企業経営倫理が生み出したことでもあったのではないかと思われる。

 

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2016年11月 4日 (金)

無と無限Part1

点には原理的に面積(つまり幅や長さや広さ)がないとされ、線にも原理的には一切の幅がないとされる。だが線には長さはある。つまり長さにだけ抽象されたものが線であるとされる。

〇さて、だが我々は点にある確約たる存在感を覚知する。それは絶対的にある位置に存するという観念しか我々に思い起こさない。つまり絶対的ゼロ量である点こそ、最大の刻印を印象として我々に植え付けるものなのだ。

点の無量性とは、それ自体一つの全てへの可能性である。それは余りにも極論的に全てを剥奪されている。であるが故にその一点に存在する全てが集約され得るある焦点の様な存在感を我々は把捉し得る。

無はその点では全く面積も距離も全てを剥奪されているのにも関わらず意外と無限に近い。無限の広がり(二次元・三次元)、無限の長さ(一次元)とは、有限であるが故に全体ということを把捉し、設定(措定)し得ることなき、一切の枠を得られなさにおいて、寧ろ積極的にあらゆる意味で、無そのものに近い(だからこそ我々は永遠に蘇らない死、等と表現する。永遠とは無限の文語的謂いと言ってもいい)。

無限は枠、つまり全体を構成し得ないという一つの大いなる矛盾である。だからそれは点の持つ絶対的ゼロ次元性と却って奇妙にも同質性として重なる。

〇このことは大きさ、広さ、長さ、幅等を我々は有限であり、枠として全体を把捉し得るもののみに確認し得るということを意味している。だからそれを取り外された無限には、我々は一切の大きさ、広さ、長さ、幅等の、要するに量を感じ取れないということである。だから無限はニーチェの(<ツァラトゥストラ>的な)感性で言えば円環、円で閉じてしまうことと似た<何か>として我々は知覚、判断してしまう。円の出発点と終点の無さと点の絶対的ゼロ次元性とに無限にある相同な何かを我々は覚知してしまうのである。

我々はゼロという認識を、それは存在しないものだと知っていても、その存在しないという一つの事実(つまり概念として在る=有る、つまり有)として記憶し忘れない。このことは、我々はたとえ無であっても、その無固有の何等かの性質を、有=存在(すること)等との対比で抱いてしまう。つまり我々は基本的にゼロの原理を無としつつも、それを有=存在の一様相(一様態)として把捉せざるを得ないのである。

〇そして点=ゼロ(次元)を、無限と同質化させてしまう(その様に感じ取ってしまう)ということの内に、全体という枠、その枠内では空間が存在するということ(数字の場合には必ずしも実在空間ではないが、数を量として(量化)して我々は捉え様とするので同じことである)と全く異質の全体性の成立され得なさとしてそれを認識してしまう。そういう様相の下に理解する(しようとする)。

〇ここで極めて重要なことは次の2点であると言える。

一つは、我々は全体性を確約されている枠、つまり範囲が設定されていることに対してと、そうでないこと、つまり範囲設定され得ないこととでは違う印象を持ち、異質性を把捉するということだ。だから後者に属す無や無限を同質的に把捉することは極めて自然だ。

もう一つは、無に対して我々はどこか茫漠たる広さも感じ取ってしまうということだ。それは全く無であるからには実在ではないと知りつつ、何等かの実体化したイメージしか持てない我々には、あやふやで、とりとめのない全てに対して無をイメージするという意味付与性がある、ということだ。だから点の持つ「無」性に対しても、時間を横軸とするなら、縦軸的に(無限の横軸があり得るとしたら、それは無限の縦軸ともなり得る。勿論有限であるならその同じ量を横縦に認知する)理解しがちだ、といことだ。それは同時刻に全ての存在者が並列的に実在していたし、しているし、するだろうという暗黙の理解と似ている、とも言える。 

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2016年11月 3日 (木)

今・生/死・存在/存在の埒外=意味・有限/無限Part2

 

昨日私は次の様なツイートをした。

 

対自的な問いとは、時刻の持つ「点」性、つまり幅のなさという死が時間に挿入されていることで得られる存在の意味化によって得られている。つまり対自性とは、それ自体生を意味化するには、生を死の側から俯瞰するしかないということの個々の心の現れなのだ。

 

 このことから少し考えてみたい。

 

 時刻には幅がない。だからそれは逆に静止を前提している。それは無時間化されたものであり、そこに変化はあり得ないので、必然的に死を意味する。前回のレヴィナスの言葉はそれを示している。

 

 それは我々の時間が有限であることを前提した観念なのだ。つまり有限の時間を意味化するために、無限分割し得る時間を想定するわけだ。レヴィナスは対自を次の様な論述で使用している。

 

「(前略)自由が最初にあるのではないという点をここに強調しておかなければならないでしょう。自由は自己であるよりも前に責任を負うている。社会的な上部構造へと導くいかなるものであってもです。自己に対してあること、すなわち対自性におけるかかる対格は自由であるよりも前に責任を負うており、しかもこの転嫁不能な責任が対自を唯一無二のものにするのです。ここでは自由は、私の代わりには誰もなしえないことをする可能性として考えられています。つまり自由はそうした責任の唯一性なのです。」(<神・死・時間>合田正人訳・法政大学出版局中、自由と責任より) この部分の論述は極めて重要である。

 

 分析哲学で言うところの現象的であるという意味合いさえ含有したこの私の、主体の他者や他の主体になり得なさ、なり代われなさ、そのことこそレヴィナスには自由なのである責任は正にその点に存しており、そのことで生み出されている、或いは成立し得るのだ。

 

 ここでは生の一回性、ある個として生まれた以上他へ代わることができないという自己同一性の絶対性が示されているそれは生の有限性であると同時に、自己同一的な有限性をも、その生の一回性が保証していることを意味し、時間が決して試行錯誤的に繰り返すことの出来なさを示している。

 

 だからこそ我々は責任を自覚し、他者への愛や責任を負うている、と言える。生の有限性が死を前提していることは言うまでもない。だから死への自覚こそが生を意味化させているとも言える。

 

 一本道的な生では時間は取り返せない。従ってその取り返せなさこそが時刻というものを生んでいる。つまり幅のない点としての時刻には静止を前提した我々の想念が反映している。美しきもの、素晴らしき状態である存在者の実在を固定化させたい欲求が例えば写真を生み出した様に、我々はその止まった時間を想定することで、それらを永遠のものとするのだ。

 

 レヴィナスの言に戻ると、ここで言われている対格とは目的格と同義と考えてよい。それは他者へ対峙すること、存在者へ対峙する主体としての存在者の様相を示している。対自は自己の他者化であり、自己内で自己を一個の他者として取り扱う(認識・把捉する)ことである。

 

 そこに我々現存在固有の責任を有した(そのことで当然権利というものを持つ)存在者としての思惟からあらゆる我々の行為の正当化が為される。自己行為を意味あるものとするために責任が付帯し、権利としてそれを行使するのだ。

 

A.J. エアが言っている様にどんな行為でもその時々で最も適切な行為の在り方とはある筈だという考えには、時刻という無時間化された静止、その時点での実在の永遠化(価値固定化)、その時点での最大の歩留まりを求める我々の行為の正当性への希求が如実に反映している

 

 即自的・即物的には行為は動作でしかないが、人間学的な意味では我々の行為は主体的動作を超越して、意味化、価値化、つまり倫理化され得る。それがレヴィナスも言う様な存在の埒外の、つまり形而上的認識なのだ。

生は時刻を時間の要素として認めた瞬間、有限性の中でのたうちまわる我々の生の行為を意味化、価値化、倫理化することを我々は我々自身に強いて、そのことの中に責任と権利を保持することとなったのである。

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2016年11月 2日 (水)

今・生/死・存在/存在の埒外=意味・有限/無限Part1

 

今を時刻的に捉えれば、常に今に幅はない。だが今と言う時我々はその幅のないものから逆に幅があることを示唆しもする。それはどうしてか?この両天秤的な認識上での把捉が単位を生み出してきたとも言えるが、どうしてかと問う疑問は個々の心でやはり成立してしまう。それは単位に塗れて生を全うする我々も懐疑的マインドも持ち合わせているからだ

 

どんどん移り替わってゆく今。今は動く、と言う因みに、永井均は<存在と時間 哲学探究Ⅰ>で大半動くという動詞を使用しているが、一か所だけ移る、という動詞も利用している。より移りゆくという感じだ

 

いつも私は今に乗っている。それは私が生きているからだ(尤も睡眠時にそれはない)

 

〇だから何かを思い出す時だけ、その思い出されるものは過去になる

 

〇どこにも行かなくても(一か所にじっとしていても)、どんどん移り替わってゆく今、どの「今」たちも、その時だけで全てがあたかも幻の様でさえある。今に確かに長さはないが、長さそのものをも今が作るとも言える

 

今という点には長さはないにも関わらず、点が無数に集積されて長さになる様な幻想を心に抱くからこそ、今に乗っている感じがするのだろう。

 

今とは結局意識が作っている。他方今も又意識を作ってもいる

 

〇レヴィナスは<神・死・時間>の(根底的な問いーハイデガーに対するカント)でを「ハイデガーの実践哲学は、ハイデガー的な還元が不可避のものではないことを示しています。哲学の歴史のうちには、有限性とは異なる意味があるうるということを、カントの実践哲学は示したのです。」と締め括っている。このことは法政大学出版局の本の翻訳者の合田正人がやはり彼の手になる翻訳(講談社学術文庫版<存在の彼方へ>(正式には日本では<存在するとは別の仕方で>として通用するテクスト)の中の一文から、「意味は存在によっても非存在によっても測られることがない。存在が意味を規定するのではなく、逆に、意味を起点として存在が規定されるのである。」を引用して解説している。このことは重要だ。

 

〇上記のことを<神・死・時間>でレヴィナスは後半の章(存在論からの出口としての倫理関係)で次の様に更に詳述している。

 

人間的なものを存在論によって測定することなく、カント主義は人間的なものに意味を見いだしました。「これはどのようなものか」という、存在論的問いにほかならないような問いの埒外で、人間的なものに意味を見いだしたのです。それと同様に、ここでは私たちは、不死ならびに死という問題の埒外で意味を探求しています。不死と神学は定言命法を定めるものには属していないということ、それがコペルニクス的転回の斬新さの意味です。意味は、存在することや存在しないことをとおしては規定されません。逆に存在のほうが、意味を起点として規定されるのです。

 

 さて、このことが我々が単位というものを持ってしまったことを裏付けする様な論理だ、と言える。

 

意味とは単位が作っているのだ、と即自的には言い得る。それは心から語るのでなく心を度外視した見方から、そう言えるということだ。

 

単位とは心臓の鼓動のメタ的な模倣である。

 

この刻み、区切りへの本能的なる我々の蝕知こそが単位を生み出し、そこから意味を派生させている。そして何故今に幅を持たせない様な時間の間の単位に意味づけさせるのか?それは端的に、我々の生の時間が有限だからである。有限な時間に或る豊穣さを与えるために、無限分割的時間観念を導入することと、今という点に幅を持たせない様にして、時間そのものに死の意味を与えることで、有限の時間に奥行きを与えているのである。

 

〇今という点は縦軸であり、縦軸には幅がないので、死を意味する。生には無限の死が挿入されているけれど、挿入されていることに我々は(通常は)気づくことはない。何故なら時間は無限分割される時刻の集積で成立する訳ではないからだ。

 

〇上記全てのことをレヴィナスは先述の<神・死・時間>後半の章(存在論からの出口としての倫理関係)で次の様に述べている。

 

「(前略)制限なき近さをつうじての接近は死に意味を付与します。かかる接近においては、有責者の絶対的特異性が死の一般性を包摂してしまうのです。生は存在によって測れるものではない。死も生に不条理に導き入れることはできない快楽に対しては、死は否認をつきつけます。

 

 赤字部分は私が上記で述べた単位としての時刻とその一々の無限分割され得る時刻全ての幅のなさ、「点」性のことであり、点に幅がないということは、そのものには生がないということである。それは死が(先述の様に)挿入されていることを意味する。

 

 又緑字部分は、生は即物的・即自的な認識で捉えきれないというカント主義的な意味理性論に立脚した意見である。だから表面的には確かにレヴィナスの言う様に、生には時刻という幅のないものは挿入されていない。だからそれは、我々は認識上死を想定することで生を理解しようと(私が上記の様に)試みた場合初めて明らかになる。

 

 青字部分は、その様に死を我々は無意識になのか、今に乗っていると私が述べた様に解釈することなどを通して、認識上挿入することから、生を即自性から解放して、対自的に捉え直す時、禁欲的な倫理論として快楽を否定することを我々に強いる。生きていることは快の追求でもあるのだが、その快の無化そのものが死である(死も又快楽の追求たる生の即自性により開示されている認識である)、ということだ。我々は死に同化する様に生に倫理的意味付けをする、つまり生をメタ的に意味づけする(つまり生を意味として捉える)ことで、倫理を生み出していると言える(これは一種の死への準備とも言えよう)。

 

レヴィナスの言うカント主義的な意味とは、無限を想定している。それは<純・批>のアンチノミーにも色濃く反映されている。つまり意味は存在という即自を超越するという観念がカントにある、ということだ。これはカントが無限という語彙の持つ即自性を解放させる永遠ということを想定していた、と捉えられる。それは間違いない。カントの倫理学にはこの永遠の意味、価値という層から語られていると、レヴィナスの言からも伺える。それは私が長々と述べてきた単位、時刻ということの措定とは別の位相の問題なのだ。それは言語とか言葉という単位を超えた(即自的でないレヴィナスも言っている対自的問いから生み出された)問いでもある。

 

 

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日記的記述EB 遠い過去と近い過去

 今朝方ひさしぶりに八年前に在籍した哲学塾カントで教えを請うた中島義道氏が夢に出てきた。あの塾に居たのは中島氏が塾を開始した初年の八か月だけだったが、近い過去(私は現在57歳なので、ここ10年くらいは比較的近い過去である。遠い過去とは30年以上前のことである。)では最も頻繁に夢に登場した人が中島氏である。

 夢の内容は毎回大体決まっている。ヤクザの喧嘩っぽいディベートで向こうがこちらにけしかけてきて、それに巧く応答できないと、更に相手がそれを詰るというものである。実際にあの八年前の八か月の間にそういったやり取りは入塾してから時間が経つ程増していった。

 人生に於いてさして長い時間ではなかったが、私にとっては極めて印象的な時期だったのだろう。だから毎回あの激しいやりとり、つまり必死に応答できなければ、相手から蔑まれるので、いつも緊張していたことを今でも思い出す。

 私はディベートとか弁論術的なことが元来得意な方ではないし、まして人前で話すこともそれ程得意ではない。にも関わらずあの八年前の入塾から退塾までの八か月の間の経験がその二年後に学会に二つほぼ同時に入会し、その学会から紹介される幾多の発表会、シンポジウム等ではディベートに参加する時に如何に役立ったかということは今でもよく分かる

通算6年の間にその二つの学会以外の三つの学会にも入ったり出たりした。5つの学会に今迄在籍したが、その二つの学会が一番長く居た。

 結局六年在籍したその二つの内一つの学会を最近退会したので、未だ在籍している学会は一つだけだし、それも創作を中心にしていきたい最近の私の生活で負担になる様だったら、今年一杯で退会しようかとも思っている。

 私は文学創作を中心にここ10年程は費やしてきたので、学者でも研究者でもない。批評には関心があるが、学術的なプロではない。だからその中で出会った一人の哲学者の印象はひと際強かったということである。

 若い頃もっと長く交流した年配の人達は大勢居た。でも今は(当時はそうではなかったが)殆ど夢になど出てくることはない。そういった年配の(中には凄くお世話になった方も居た)人達は大半が鬼籍に入っておられる。

 つまり(何か特別のことさえ若い頃無ければ)遠い過去とは、自分自身の今の人生にとって近い過去よりそんなに精神的にも心理的にも重要ではないということだ。

 哲学塾カントに入塾した頃は講義に出席するのに毎回心がわくわくしていたが、実際眠ると、未だ絵を描くのを辞めてからそんなに時間が経っていなかったので、それより少し前にはしたくて仕方なかった広い会場に自分の絵を埋め尽くして展示する個展の夢を頻繁に見た。しかし絵を辞めてから10数年経った現在、そういう夢を見ることは殆ど無くなったし、又その当時は自分にとって重要だった他人の夢も殆ど見ることも無くなった。そうしたのはあの哲学塾での八か月だったのだろう。

 生活環境が変われば、変わる前の現実に居た過去の自分にとって重要な他者のことは徐々に忘れられていくのだ。

 これは凄く哲学的に、例えば哲学塾カントとかで中島氏の前で言ったことがないのだが、大勢の哲学者が指摘している様なことではないと知っているので、哲学者が関心を多く持つことではないかも知れないが、普通の人生を送る人にとっては誰でも意外と印象的に理解できることである。

 つまり遠い過去とはそれがどんなにその当時には印象的なことであっても、次第に忘れられていったりもするし、忘れまではしなくても、次第に今の自分にとってはさして重要なことではない、どうでもいいことへと退行していくのである。それと同時に最近あった印象的なことの方がずっと今の自分には切実な過去、思い出になっていくのである。

 増してそれが生活上で大きな変化をその後に齎した契機的なことであれば猶更そうである。

 永井均の言う唯今論とは意外とそういうことがベースにあって考えられてきているのだろう。

永井氏との出会いもあったが、物理的時間として中島氏と共に過ごした時間より長期かかわりがあったが、集中して過ごす時間は中島氏と程長い時間ではなかったので、氏が出てくる夢も当時何回かは見たが、今は殆ど見ることはない。永井氏とももう数年お会いする機会はなかったし、これからもないだろう(私が最近退会した六年在籍した学会は永井均氏に紹介して貰って入会したという経緯がある)。

つまり論理的、哲学的考えという意味では永井均氏の方が実際に私にはぴんと来ることが多かったし、今もそうであるが、人間的な生き方とか生き様的なことに於いてはずっと中島義道氏の方が近い過去の中では強烈な印象となって記憶に残っているということだ。

人生はどんどん前に向かって過去を捨てていくことである。その意味では私にとってプロの哲学者と最初に出会ったあの八年前の哲学塾カント発足当時の私の同窓生を交えた中島義道氏との時間が今後もそんなに小さくない経験として(あの塾に居た塾生たちも、今は在籍しないらしいということはどこかでかなり前に耳にしたけれど)立ちはだかっていくのかも知れない。

あの塾には長く居た塾生もその後には何人も居るらしいことも風の便りでは聞いているが、今は殆ど居ない筈の当時の塾生達(今は中には亡くなられた年配の方もおられるだろうが)との時間だけが繋がりを絶ってしまった過去に於いて一際大きなものとなっていくことだけは間違いないそしてあの市ヶ谷の英会話塾を間借りしていた当時の様子だけが繰り返し思い出されるのだ(今は調布の方にもっと大きな幾つもの部屋へとっくに引っ越している)。

 

 

 

誰にでもそういった一陣の風的な忘れられない過去(の一時期)というものはあるだろう。

 

 

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2016年11月 1日 (火)

詩を書くとはどういうことであるかPart3 現代社会で成立する詩とは何か?

 さて詩を書くことを形式から語るのは無為なので、詩を書く志から考えていこう。

 映画で描かれている現実の変遷から考えると分かりやすいので、それを少し見てみよう

 アメリカ映画で<タクシー・ドライヴァー>(マーティン・スコセッシ監督・1976というのが昔あった。これはデ・ニーロ演じる元ヴェトナム戦争兵士の男がふとしたことで知り合うあるジョディ・フォスター演じる少女が未成年(確か14,5歳という設定だった)売春婦だと知って、彼女を酷使しているブラックワールドの幹部をことごとくラスト近く射殺するという猟奇的内容だった。

 だがこの頃のアメリカ映画は(実は日本映画も、なのだが)体制ということが政治的にも経済的にもまずあって、それに対する抵抗という意識が表現者にあった。つまり反体制的気分というのが70年代までは支配的だったのだ。それは人種差別と公民権運動、ヴェトナム戦争という時代背景もあった。ロック等の季節は正にその時代性が生んだものだった。

 だが今年封切られた日本映画<クリーピー 偽りの隣人>(黒沢清監督・2016かなり猟奇的な映画だったが、この映画は体制と反体制という意識では作られていない。出てくる登場人物は全て体制側である。つまり前記のアメリカ映画から丁度40年経って封切られたこの映画は普通の隣人が猟奇的犯罪者だったという設定のものであり、そこには体制と反体制という意識はない。<タクシー・ドライヴァー>ではブラックワールドとそれを放置する国家への怒りが主人公にあったが、後者の映画は誰しもが犯罪に巻き込まれ得る恐怖と、誰しもが自分自身で猟奇的犯罪者になり得る恐怖がベースにあるメンヘラ的猟奇性を誰しもが容易に持ってしまう感性の時代、ということが黒沢清作品にはあるのだ。

 さてこのことは40年経って我々が体制に対する反体制という意識を持ち得なくなったことを意味する。つまりコンビニの定着やアマゾン等の巨大輸送システムのネットショッピング、ウェブサイトとSNSの利用といった日常生活に於いて、我々は資本主義社会の矛盾とか、社会全体の矛盾を意識などしはしない。つまり悪というものが滅ばないことを知っていて、そのリアルを放置するという意識で、自らもネット上で様々な発信もすることで、体制=悪という図式の中に自分自身も入り込んでいる。つまり悪へ自分自身が共謀する時代に我々は80年代以降36年の間に突入してきてしまっているのである。

 このことは表現上でも映画などでは顕著に変化を遂げてきていることでも明白であるが、そういう時代にロックの季節、つまり前者の映画の作られた時代背景の只中から世に出たディランへも大きな影響を与えているアレン・ギンズバーグが影響を受けたウォルト・ホイットマンやほぼ同時代のエミリー・ディキンソンといった19世紀中盤から後半にかけて活躍した詩人の魂が、清貧であって、どこか倹しく清らかであるという生き方の提示、つまりそういった信念に裏打ちされた詩作行為へと人生を埋没させていったのとは違う意識を現代社会では持たざるを得ない。

 ディランは62年にデビューしてトピカルソングを中心にテーマとして発表してきたが、80年代以降は大きく変貌を遂げた。それはより宗教的になっていったということだ。更にその後も彼は変貌を遂げるのであるが、重要なことは彼も又後発組の我々と同様時代の変遷は理解しているということだ。

 我々は既にどんな一個人もウェブサイトを利用する限り、かつては戦争のために利用された通信を利用している段で、体制というものに個人で率先して加担しているのだ。だから体制=悪ということへの共謀を前提とした性悪説的社会の成員という意識で臨んでいる

 このことを詩でどう表現すればいいのだろうか?

 そのために考えておかなければいけないこととして、一つはホイットマンやディキンソンの持ち得た清貧とか倹しい生活というものは、現代社会では既に物質文明の中で得られているインフラ的なリッチさの中でのみ成立しているということだ。

 これはシリアやイラクの様な今も戦闘状態にある国家を除いて全世界的傾向である。既に未開拓なエリアは地球上ではロシアのシベリア平原とかヒマラヤ山脈等の様な荒地的な自然環境を除いて残っていない。

 それは必然的に世界が均質化されていくことを前提している。こののっぺらぼうな社会インフラ的整備の均質化こそが、詩人に与えるプロテスト性とは、体制と反体制という図式の受容ではなく、自らの中に誰しもが抱える悪と善との対立、矛盾を矛盾として、つまり自己内分裂を余儀なくされる日常的に潜む不安を抉り出す様なメソッドの発見しかないのだ。

それはある部分では18世紀後半から19世紀前半に活躍したウィリアム・ブレイク(彼にはディキンソンもディランも影響を受けている)的な象徴性に立ち返ることをも意味する

さて次回はその為に私が今迄どういう手法をとってきたかということと、今後どういう方向へ行こうとしているかということに就いて考えていってみたい。(つづき)

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しょばのしゃぼんの一瞬の理想だけの現実でええの?

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シャボン玉しぼんだ。

 

しょぼいしぼみはしょぼくれる。

 

娑婆じゃしょぼいシャボンの商売に

 

ぽしゃる理想は嘘っぽい。

 

それに引き換え肉ジャガじゃが、おいしいのお。

 

嘘にそっぽ向き、美味い肉ジャガが邪魔な奴なんていねエ。

 

理想より現実

 

現実に雁字搦めの理想を売りそう。

 

肉ジャガの現実、実現されりゃ、

 

理想は理想、そう理で何(なん)もかも

 

動きゃしねエ。

 

華奢な理想よか、今日の肉ジャガ。

 

 

 

 

 

シャボン玉はどんなしょばでも

 

儚く綺麗。

 

冷気に綺麗にシャボン玉浮かんで

 

どこにも行かんでえエって言っても

 

どっかへ消え、しょばはシャボンの幻だけ

 

浮かんでる。

 

シャボンは一瞬の理想

 

永遠の理想って幻なの?

 

永遠なんてええのって

 

言ってええの?

 

 

 

理想って要りそうなのに

 

現実に席を譲る。

 

現実って狡い。

 

永遠の理想って麻婆豆腐みたいな幻なの?

 

良き現実だけが永遠の理想っていうのもありなのかい?

 

でも、それって何かを無視して通り過ぎて行っているだけなんじゃないのかい?

 

うじうじして、何もしでかせないのも困りものだけど、

 

さらりと受け流すシャボン玉遊戯みたいなのって、それはそれでやばいんじゃないのかい?

 

しょばのシャボンの一瞬の理想だけの現実でええの?

 

しょばのしょぼい商売の理想だけで現実ってええの?

 

やばいやばいなんて言っている場合じゃないだろうって、さらりと理想を捨て去り現実だけ取って進んでええの?

 

紅(くれない)の夕陽に染まった伝統にだけ安住していてええの?

 

しょばの萎んだ一瞬の理想だけ懐かしむ現実でええの?

 

 

 

でも見せかけの光だけ纏って、

 

闇はずんずん迫ってきている。

 

2016.10.110.31, 11.1

 

 

 

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