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2016年11月19日 (土)

意味・数字・言語(文字表記と伝達)そして神Part1

自然科学は実在が確認され得るもののみを相手にする。物理学の最前線のみ、その事実自体をメタ的に見る傾向があるので、唯一の例外と言える。だから概ね実在が確認され得るものはモノであり、モノではないものを実在と自然科学的に捉えることはできないし、それは大方一般的社会の常識と言えよう。

だが実在として確認され得ないモノではない多くのことを我々は実在同様の重みを持って見る。価値として見る。従って前記事で述べた様な意味・価値・倫理は明らかに心が判断しているものであり、それ自体をかたちにすることはできない。勿論心の判断自体を形象化することは可能であるとしても、それは自然実在を確認できる(観察できる)こととは違う性質のことである。つまりそれら(今回は価値と倫理を意味に収斂させて捉えていこう)は或る部分では存在しないもの、モノとしては観察し得ないことである。怒りや焦りの態度は観察できるが、それは怒りや焦りを隠していないその態度から観察できるだけであり、その場に居ない人のそれらを観察することはできない。だが凄く侮辱的言葉で相手を揶揄した手紙を誰かに送ったとしたら、それは今目の前に本人が居なくても想像はできる。だからこの想像も想像していること自体をサトラレ的に観察・確認することはできない。だからこれも意味の範疇に入れてもよいであろう。

数字は人間しか使用しない。だが数えることは人間以外の哺乳類でも行える。だから数覚(フランスの心理学者、スタニスラフ・ドゥアンヌがこのことに関する専門書を刊行している)を持っていることは意味、つまり数えることで量という意味を哺乳類でも持っている種が多いということとは違って、数字という文字に限れば、数字の理解は観察・確認して(つまり数えて)その多さを或る固有の数字という文字に対応して理解できるという意味では、これも意味と基本的に構造は相似である。だから意味は個々の文字でも置換し得るので、意味が対応して捉えられる言語も意味や数字と同じ範疇に入れてよいであろう。

世界は宇宙の誕生以来形成されてきている、と今の自然科学の知で言い切れるとしたら、それは誕生という事実に於いて、その誕生を促したものという仮想的存在を想定し得る。それを神と取り敢えず呼んでおくと、その神という観念は起源(アルケー)を司っているものということになり、神は因果律的な意味での必然的な論理係数ということになる。つまりカントのアンチノミーのその先、更にその先ということの持つ論理思考的必然的思念の埒外である、つまりカントのアンチノミーを誤謬だと見做す唯一の思念が神であるなら、神は明らかに実在を観察・確認し得ない今まで述べてきた意味・数字・言語と同列の、同系統の範疇(カテゴリー)へ入る筈だ。

 つまりだからこそレヴィナスは既に(無と無限)他で示した様な論述を行っているのである。

 ★栄光は始原をもたない

②★<無限者>はあまりに高き背面思考なので、それが前面に、あるいは主題の地位に押し出されてくることはない/神が証しされる最初の文―われここに―では、神は言表されていません。「私は★神を信じている」とさえ言えない

③(前略)★無限者は、その要請に応える「われここに!」の対格の法外さのなかで証示される私に命じる命令は、主題のなかで定立された名前や名辞に遡るのと同様の仕方で★無限者へと遡る可能性を、いささかも私に残してくれません。/★神は第三人称あるいは<彼性>でありましょう。

④視線は相関関係のうちに★神を探し求めるのですが、★神はそうした相関関係のうちにはいないからです。/そのような構造の外に、<彼性>はある。

⑤ここで続けられている探求は、存在‐神‐学なき★神を探求しようとする不遜な探求です。(中略)★栄光はひとつの語のなかに閉じこもり、そこで存在と化すのですが、しかしそのときすでにこの語はその住居を解体しているのです

⑥★神という名づけられないものが★神と名づけられ、★神学ないし存在‐★神‐学によって、哲学は★神を主題化します。(中略)哲学はその思考と思考の宿る場たる存在との合致を要求するのです。思考は存在するという能作にもとづくものを超えて思考する必要はないし、存在の過程への思考の先行的帰属を変容するようなものに向けて冒険する必要もないということ、それをこの合致は思考に告げているのです。

⑦★無限者という語の接頭辞たる無の否定性は、充たされることのない欲望を、みずからの増大そのものによって養われるような欲望を深めていきます。欲望としてそれは高揚し、欲望をそそるものに近づけば近づくほど満足から遠ざかっていくのです。欲求とはちがって、ここにいう欲望は同一化することがありません。飢えなき欲望であり、それはまた終わりなき、目的なき欲望でもあります。

 

〇上記の★の後に来る全ての語彙(栄光、無限者、神)は全てメタ的な概念であり、実在ではない。その点では意味・数字・言語とも何等かの形で置換可能である。それをここで試みてみよう。

 

①意味・数字は始原をもたない

②意味・数字はあまりに高き背面思考なので、それが前面に、あるいは主題の地位に押し出されてくることはない/意味・数字が証しされる最初の文―われここに―では、意味・数字は言表されていません。「私は意味・数字を信じている」とさえ言えない

③(前略)★意味・数字は、その要請に応える「われここに!」の対格の法外さのなかで証示される私に命じる命令は、主題のなかで定立された名前や名辞に遡るのと同様の仕方で意味・数字へと遡る可能性を、いささかも私に残してくれません。意味・数字は第三人称あるいは<彼性>でありましょう。

④視線は相関関係のうちに意味・数字を探し求めるのですが、意味・数字はそうした相関関係のうちにはいないからです。/そのような構造の外に、<彼性>はある。

⑤ここで続けられている探求は、存在‐意味・数字‐学なき意味・数字を探求しようとする不遜な探求です。(中略)意味・数字はひとつの語のなかに閉じこもり、そこで存在と化すのですが、しかしそのときすでにこの語はその住居を解体しているのです

⑥意味・数字という名づけられないものが意味・数字と名づけられ、存在-意味・数学ないし存在‐数‐学によって、哲学は意味・数字を主題化します。(中略)哲学はその思考と思考の宿る場たる存在との合致を要求するのです。思考は存在するという能作にもとづくものを超えて思考する必要はないし、存在の過程への思考の先行的帰属を変容するようなものに向けて冒険する必要もないということ、それをこの合致は思考に告げているのです。

⑦意味・数字という語の接頭辞たるゼロの否定性は、充たされることのない欲望を、みずからの増大そのものによって養われるような欲望を深めていきます。欲望としてそれは高揚し、欲望をそそるものに近づけば近づくほど満足から遠ざかっていくのです。欲求とはちがって、ここにいう欲望は同一化することがありません。飢えなき欲望であり、それはまた終わりなき、目的なき欲望でもあります。

 

 どうであろう?かなり的を突いた言表となっているとは言えないだろうか?

 このことは或る意味では、我々の世界とは、実在事物を通してつまり観察・確認され得ることAと、そうでなく我々の意思疎通・文字伝達によってのみ観察・確認され得ることBとが個々役割分担しつつ、世界に両者をしっかり繋げられている様に我々が認識し、その認識Bを糧に或る時には実在物Aを理解しα、或る時には実在物Aを通して認識Bを理解するβという反芻を行っている、と見ることができる。

 存在論とはαであり、認識論とはβである、と言える。

 ハイデガーは明らかにαを行い、レヴィナスは明らかにハイデガーのαを基軸に、自己の使命を、そのハイデガーα自体を一つの実在事物Aとして自己によるB解釈を経てβを行った、と見ることができる。

数字は番号という語彙に置き換えてもいい。さてでも認識Bはだが、実在物の様な観察・確認によってではなく、違う形では観察・確認し得る。心の有様の形象化によってだ。皆が理解していることは意味が皆に通じているという事実によってだし、或る人が怒っているか否か(という事態の意味)は表情によって観察・確認し得る。それは事物の性質や状態を把捉することとは違うが、やはり一つの把捉であり、理解である。測定的事実ではないかも知れないが、やはり確認し得る(勿論演技という可能性はあるが、演技も又本音であるとさえ言える)。

神は或る部分では幸福を是とする人間の願望と意志、価値的な高次レヴェルの推定、倫理的絶対性から考えることも可能だ、と言えるであろう。だから先程の語彙の置換可能性は、更にこの高次レヴェルの推定や倫理的絶対性ということから言えば置換不可能になる事態も想定され得るであろう。

 これは神が崇高な存在と見做されているからでは決してない。神という概念が起源性の絶対性を意味し、時空間を超越した何かという想定が我々に可能であればこそ言い得ることであるに過ぎず、寧ろあらゆる宗教教義的絶対性はそこから生み出されているということだ。そして重要なことは神の絶対性は相対に対し絶対という概念が成立する様に、誰しもが理解し得るということである。そして誰しもが理解し得るという意味では意味と数字にも全く当て嵌まる。そして重要なことは、誰しもが同じこととして理解し得る(その点ではやや意味より数字の方が勝るが)という意味で、それはやはり人類による捏造であるとか、恣意的判断だとは決して言えないということだ。その意味では自然実在や人工的に製作されたモノではないものの、やはりもう一つの心の内部での普遍的実在だ、とは言えるだろう。

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コメント

≪…数‐学によって、哲学は意味・数字を主題化します。…≫的な発想で、自然数を眺望する絵本・・・

自然数は、[絵本][もろはのつるぎ]で・・・

投稿: | 2020年3月11日 (水) 06時27分

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