« 我々は皆権威づけられたものとか本物と保証されたものや天才を求めているわけではない、ただ結果的に後で誰かが天才だと呼ばれるだけだ | トップページ | 意味・数字・言語(文字表記と伝達)そして神Part1 »

2016年11月18日 (金)

無と無限Part4 レヴィナスの無限者を<神・死・時間>・アウグスティヌス<告白>を通して考えるⅡ

明らかに無限とすることで時間と空間の差異はあやふやなものとなる。つまりそれだけ我々は時間を伴った空間、空間を伴った時間的推移を当たり前のこととしているのだ。点に幅も大きさも距離もない。それは率直完全なる無である。だがその無は我々の知る次元や知る世界から、我々の知らない次元や世界への入り口だと思える部分がある。枠があることは全体を形成することだが、枠がないことは無と同化してしまう。無限の広がりはけりがつけられない。つまり終わりがない。ということは始まりもない。だが神という概念設定では始まりがあることとなる(尤も時空間を超越した神と考えるなら、始まりも終わりもないものを神が創造したとしても勿論矛盾しない)。始まりがあって終わりのない世界があり得るだろうか?仮に始まりがあれば終わりがある、が正しいとすれば始まりもなく終わりもないものは存在していかなったこととなる。それは存在し得ないものの別名なのだ。してみれば始まりがなく終わりもない無限はやはり無と同義ということとなる。無とは存在していないことの別名だからである。

無は有、つまり存在者である我々の側から見た一つの主観である。だから向こうからすれば有=存在、有的事実としての存在者である我々はどうでもいいことである。無はそれだけ途方もなく力強い(圧倒的である)。それは死者とは決して死への恐怖を持つことがないことからも分かる。そのことは非力(powerless)が最大の力(the biggest power)であるということと同じことだ。

 レヴィナスは<神・死・時間>(経験の外へ―デカルト的な無限者の観念)(合田正人訳・法政大学出版局)で次の様に述べている。

意識とは、存在によってすでに石化された不眠のひとつの様態であり、不眠はまた独断のまどろみの不可能性なのです。

 このことが、我々が有的事実、つまり存在者であることを意味している。又意識が思考・判断・経験を可能にしている。無意識は認知科学的に見ても意識の中の一様態に過ぎない。既に我々は無意識までも意識の範疇で語ることを許されている。

 レヴィナスは更に次の様に述べている((不在と化すほどに超越的な神)から)

「(前略)情動性や快楽主義的な能動性における<欲望>とは異質な秩序に属する<欲望>である・無限者という語の接頭辞たる無の否定性は、充たされることのない欲望を、みずからの増大そのものによって養われるような欲望を深めていきます。欲望としてそれは高揚し、欲望をそそるものに近づけば近づくほど満足から遠ざかっていくのです。欲求とはちがって、ここにいう欲望は同一化することがありません。飢えなき欲望であり、それはまた終わりなき、目的なき欲望でもあります。無限者のこのような欲望は、《内存在性‐からの‐超脱》〔没利害〕という語によって言表される存在の彼方への欲望なのです。超越であり<善>への欲望なのです。<善>は同時に《無‐関心‐ならざること》を意味しているにもかかわらず、存在を超えた<善>の超越は無関心を、無‐差異を含意している/欲望のなかで没利害が可能であるためには、存在を超えた欲望が吸収ならざるものであるためには、欲望をそそるもの(あるいは神)は欲望のなかで分離されたものにとどまらなければなりません。近きものではあるが異なるものでありつづけなければならないのですが―ちなみにそれが聖潔(saint)という語の意味にほかならないのです。・私に命じられる、欲望をそそることなきものの最たるもの、それが他者なのです。/(前略)自我が徹宵の留意であり、絶対的に暴露され、志向性の脱自から絶対的に目覚めた自己の開放性なのです。/「不在と化すほどに超越的な」―この表現は単に言葉だけのものにとどまってはいません。この表現を倫理的筋立て全体の意味に、神曲に取り戻させなければならなかったのです。ここにいう神曲には責任がはらまれており、責任なくしては神という語が生じることさえなかったでしょう。

 無限者という語の接頭辞たる無の否定性は、充たされることのない欲望を、みずからの増大そのものによって養われるような欲望を深めていきます。欲望としてそれは高揚し、欲望をそそるものに近づけば近づくほど満足から遠ざかっていくのです。はカント<純・批>のアンチノミーである。つまりより先へ先へと意識が持たれれば、必然的に決してなにものからも充たされないという事態が想定される。欲求とはちがって、ここにいう欲望は同一化することがありません。飢えなき欲望であり、それはまた終わりなき、目的なき欲望でもあります。は当然のことながら無限者ということを想定している。無限者はだから善悪を超越している。それは現の迷い事ではないのだ。それは即物的な(つまり絶対的な)無限なのだ。

 無限者のこのような欲望は、《内存在性‐からの‐超脱》〔没利害〕という語によって言表される存在の彼方への欲望なのです。は存在の彼方への欲望という意味で、意味・価値・倫理にも適用される一つの真理である。没利害とは現生的欲望とは違うレヴェルだということを言いたいための指示である。精神的な清々しさなどもこれに当る何かだと言えよう。

 だから<善>は同時に《無‐関心‐ならざること》を意味しているにもかかわらず、存在を超えた<善>の超越は無関心を、無‐差異を含意しているは私が即物的な(つまり絶対的な)と言ったことを意味している。つまり無関心ではないので関心を集中していることそのことが、善の態度の究極が却って存在、つまり現生的レヴェルを超え出て、あらゆる差異を生じさせられている存在者同士が存在する(ということは死滅、消滅するということである)という事実に於いて一切の差異を剥奪されているのだから、だ。

 だからこそ私に命じられる、欲望をそそることなきものの最たるもの、それが他者なのです。とレヴィナスは言うのだ。それはその即物的・絶対的事実の前で初めて倫理としての他者との共存、そして他者へ絶対的責任を負うという事実が明るみに出るのだ。それが最後部の黄色く囲ったメッセージを有効にしている。つまり彼の言う神曲とは、他者への責任、つまりあらゆる他者全体それは自己知に於いては無限そのものである<前回そう述べた>への責任、つまり共存している事実を或る奇跡として捉えることから派生している)が同時的に自らの生のある限り存在し続けていることの絶対的共時性の存在論的な解釈は、ハイデガー的存在論を超えレヴィナス的認識論へ問題意識を移行させていくべき何かであると、レヴィナスはここで言っているのだ。

レヴィナスは明らかに存在論を相対的な(相対性理論を生じさせているものも含む)世界知ではなく、絶対的な世界知へ求めている。それは私が無と無限を相同のものとする見方の基盤となるものだと言える。絶対的世界知の中にこそ倫理・価値・意味は息衝く。それは自然科学的所見ではないのだ。又数学的所見★でもない。ここに初めて哲学命題論的な所見が成立する。

 ★ 無と無限は数学的ゼロと∞と同義ではない。それは無や無限の一つの数式化可能な定義でしかない。だからゼロ・∞ということを成立させる為に我々はその背後にある我々自身の知の正体を見極めなければいけない。

〇アウグスティヌスは黄色く囲ったレヴィナスの言辞と同じ趣旨で次の様に<告白>で記している。

「(前略)「夜と暗黒の子」とわたしたちを分かつものは、「わたしたちの心を試み」、「光を昼と名付け、暗黒を夜と名付けられる」あなたのみである。あなたをおいて、だれがわたしたちを世の人と異ならしめるものがあろうか。わたしたちのもっているものであなたから受けていないものがあるであろうか。わたしたちは、「他の卑しい器が造られたのと同じ土塊から尊い器に造られた」のである。」(第十三巻 第十四章より)

 レヴィナスの言う絶対的共時性的共存は、正に彼によるとその同時性的運命という存在の一つの決定的事実が、神と同義になるということを示しているが、その神と同義である同時性的運命、絶対的共時的共存という奇跡が、人間を人間以外の生命と分け隔てることをここでアウグスティヌスが言っている。そしてそのことこそが無と無限への途方もない思考へと我々を誘っているのだ。

 とりわけ上記のアウグスティヌスの文で重要なのはあなたをおいて、だれがわたしたちを世の人と異ならしめるものがあろうか。という箇所だ。この箇所のアウグスティヌスのメッセージはレヴィナスの言う私に命じられる、欲望をそそることなきものの最たるもの、それが他者なのです。を意味・価値・倫理(それらは全て他者を絶対的に必要とする)を生み出している認識なのである。同時性としての共存は、我々が神以外では皆平等だという観念を付与されているからだ。

 無と無限は恐らくこのレヴィナスとアウグスティヌスのメッセージから察すれば、この絶対的共時性的共存と同時性的運命を我々に自覚させる一つの拠り所となってもいるものと思われる。つまりそういうものを想定し得る我々の力(power, Macht, puissance)であり認識なのである。

|

« 我々は皆権威づけられたものとか本物と保証されたものや天才を求めているわけではない、ただ結果的に後で誰かが天才だと呼ばれるだけだ | トップページ | 意味・数字・言語(文字表記と伝達)そして神Part1 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 無と無限Part4 レヴィナスの無限者を<神・死・時間>・アウグスティヌス<告白>を通して考えるⅡ:

« 我々は皆権威づけられたものとか本物と保証されたものや天才を求めているわけではない、ただ結果的に後で誰かが天才だと呼ばれるだけだ | トップページ | 意味・数字・言語(文字表記と伝達)そして神Part1 »