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2016年12月

2016年12月31日 (土)

君は一体本当に生きているって言えるのかい?

流れ流れてどこにも身を寄せる場を見出せない存在が至るところに漂っている。

まるでどこにも落ち着き先を見出せない霊魂の様に。

そうだ、どうせ生きていたって、心が死んでいるなら、生きている本当の意味なんて見出せないのさ。それを分かっていながら何もできずにいる君は本当に生きているって言えるのだろうか?

仮にそう心に問いかけてみても、日々のどうしようもない圧迫の中でただ忙しくしていなければいけない君は、漂っている無数の魂を見て見ぬふりをするだけだ。

世界があたかも予定調和的に全て巧く運用されていっているなんて、本当は世界中誰も信じてなんていやしないのに、それをあたかも皆納得しているって思いたいだけじゃないのかい?

もうそんな問い掛けをする時代は終わったって言いたい君の眼はしかしこう語っている。これでいいんだろうか、生きているだけでいいのだろうかってね。

性善説的にだけ行動したって、何も変わらないって確かに君もきっと知っている。でも何もできやしない歯痒さを君も重々承知している筈さ。

だから時々君は空を見上げて考えてみるんだ。空はずっと境目なく世界中どこまでも続いている。だから天だけは全てを見ているんだってね。

君は僕であり、僕は彼であり彼女であり皆でもある。

どんどん変わって行っているって思える部分は世の中ちっとも何も変わってやいやしなくて、ずっと同じ侭だと思っていることの方がずっとどんどん変わって行っているんだって、君もきっとどこかでは気付いているんだよね。

君が理屈っぽいことを考えられる余裕があるかないか、そういう考えがあってもそんなに可笑しいことじゃないと思えるか思えないかは、きっと君がどんな国に生活しているか、国を持たないかっていうこととはきっと全く違うことなんだ。

関係あるさ、と決めつける人って、そりゃどこにでもいるさ。でもやっぱ、それは問題なんかじゃないんだ。

違うんだよ、そういうことと、やっぱり。

 

君が君であることは、理屈でも実感だけでもないけれど、でも君が君として思う世界の中で、それが本当に生きているって言えるかどうかにかかっている。そしてそう常に問いかけることは立場とか立たされている状況からも変わってくるだろうけれど、やはりそれだけじゃないんだ。

世の中が政治だけでも経済だけでも法律だけでもない様に、きっと君が君であることはいつも変わりなくそうであることと、その時にだけそうであることとが重なってきっとあるんだ。そうに違いない。

流れ流され続けても何かにしがみついていることもあれば、ずっと同じ場所に居続けても流れ流されていることもある。

同じことをしているとか、ころころしていることを変えるとかそういうことでもないんだよ。それは生きていることのきっと表面の何かだけなんだ。

そういうことじゃないんだよ。漂っている魂は、見せかけで漂っている人の姿とは別なのさ。

ずっと変わりなくあり続けているって信じているだけでも魂は漂っているのかも知れないんだ。でもそれだって魂は魂さ。

それがいけないとかいけなくないとか、そういうことでもないんだよ、きっと。

船も列車もいろいろなところに連れて行ってくれるさ。でもずっと同じ船や列車に乗っているっていうことは変わりない。

毎日違うものを食べても、それは毎日同じ様に何か食べることなんだし、毎日違うことを考えても、毎日何かは考えるっていうことなんだからね。

ある状況である気分である考えや気持ちである言葉を聞いたり、その言葉の語りかけ方で感じたりした時いいって思えたり、逆にいいと思えなかったり、可笑しく思えたり、自然だと思えたり、そういうことだけなんだ。

例えばそういうことのあることは自分もだし自分以外のかなり大勢がそう思ったり思わなかったり、自分だけしか知らなくて何か思ったり、その時々で全く違うんだし、それでいいんだ。

全てが全てその時々で全く別々なのさ。

ただどんな時だって、自分は本当に生きているって言えるかっていうことだけなんだ。

君がそうであるかどうかはいつも君自身でどう思うかだけなんだし、それでいい、と言うよりそれ以外にあり得ない、何もね。

君は一体本当に生きているって言えるのかい?

それってきっと、直ぐには君にも分からないし、分かる必要もないんだよ。

だって僕だってよくは分からないんだからさ。

でもそれでも君は君で、僕は僕さ。

だって、それだけでいいじゃないか、それ以外に何も本当には分かることなんてありはしないんだからさ。

今日は、そうさ、漂っていても、どこにも行かずじっとしていても、君も君の、僕も僕の魂の在り処だけを、ちょっとじっくりと見つめてみようじゃないか。

夜は意外と長いんだから。

2016.12.30

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2016年12月30日 (金)

社会批評と思想から導かれるブッダ・ゲームの定義/行く所迄行く日本社会の本質Part1 今年の世相と報道リアルから読み取る

日本には実は国家全体を統一するヒエラルキーは存在しない。唯一皇室を設置していることで外交的な意味で特権的に象徴機能として統一を取り敢えず図っているだけである。日本は宗教対立も歴史上存在した。南北朝時代等である。再度それが大掛かりで行われたのは明治維新であった。だが廃仏毀釈が当時行われたものの、寺院全てが破壊されたわけではなかった。

〇つまり完全な革命を一度も履行しなかったということに於いて特異性は日本史にはある。それは相互不干渉主義的な各コミュニティ共存国家という暗黙の了解がこの国にはずっと存在し続けるという特異な現実を日本に与えてきたのだ。その点が中国の歴史と大いに異なるところである。中国では文化大革命に於いて寺院を徹底的に破壊した。そういった革命的な歴史の移行とは異なった日本史の在り方とは、一言で言えば安定と調和をこそ常に求めるという暗黙の了解で成立してきている。

〇その結果日本人には生活の知恵が異様に発達してきた。それが為政形態にも波及し、集団で独裁者を生まない様に皇室を利用して、調停的政治を中心に据えてきた。だがその常に不穏を生じさせまいとする、つまり革命を起こさせない様にする配慮、気遣いが固有の気兼ねや遠慮を美徳として定着させてきたので、必然的に大らかさには欠けるという固有の民族性を日本人に与えてきた。だから巧く行っている内は或る個人を最大限に応援するも、一度何か失態を起こすと途端に冷たい態度でその個人を集団から弾き出そうとする体質を集団全体にも与えてしまっている

経理等の細かい事務的な精確さには秀でていても、この情に於いて相手へ猶予を与える様な気遣いには欠ける、大らかさに欠ける集団全体の体質が企業から官庁、法人等にまで浸透していってしまい、高橋まつりさんの過労自殺を招聘したりもすれば、三浦九段が将棋ソフトを利用しているのではないかという疑惑を一度持ってしまうと、どの報道機関もマスコミも挙って窮地へと本人を追い込む以外の選択肢を持たなくなっていってしまい、果ては将棋連盟も勝負の出場停止を命じるという決定へと持ち込ませてしまう

そういった異様な一方向にだけ流れていってしまうことの背景には、日本人がエリートを尊敬する心情を持つ一方、他方ではエリートへ強烈な嫉妬をも介在させるという一般市民の感情を異様にくみ取るというメディアの体質もある。これはかなり異常なものであり、ちょっとした不倫さえ見逃さない報道体質を生んでいる。

新海誠監督作品『君の名は。』それ自体は秀逸な作品であると思えるが、一度それが世界的に興行成績を塗り替えると、異様にそれをフィーヴァさせて、それ以外のそこまでの興行成績を齎さない仕事を無視していくという固有の迎合的体質もマスコミにはあるのだ。

〇又敬語で「~させて戴きます」というフレーズを昨今日本人が多用しているが、この謙り過ぎの可笑しな敬語の使用の仕方には、多分に出る杭になりたくはないという思惑だけが見え隠れする。そこまで謙ることがないなら、責任を明示する趣になりはしないかという個人的懸念だけが心に立ち上がっているとしたら、監視国家的様相をどの個人も内心では巣食わせているのではないだろうか?それが異様なる皇室への尊崇的態度を皆が率先して表明する空気を生んでいる。

上記の様な見せしめ的な不倫や覚醒剤使用等の犯罪への措置(それによって仕事量を極端に減らされる人は数多い)には、個人の自由や権利より社会全体のモラルと調和と安定だけを希求する固有の禁欲的な滅私奉公を大きく持ち上げさせている。だが他方不倫も覚醒剤使用も無くなることはない、ということはガス抜きが社会全体で巧く作用していないということの証拠ではないだろうか?どこかで大政翼賛的な全国的規模の恣意的な統一(自然的ではない、いけいけどんどん的な暗黙の了解に起因する)を日本国民が強制的なモラルとして受容していっているということが言える。それは健全な社会という一切の不協和を極度に締め出そうとする空気だとは言えないだろうか?

そう思えてしまうことの方が強迫神経症なのではないかと見ることもできないことはないが、常に最悪のシナリオをも想定して社会全体を見るというスタンスも必要なのではないだろうか?

日本人にも中国人、韓国人、アメリカ人同様行くところまで行かないとなかなか反省しないという社会共同体全体が過熱して一方向へ流れていくという要素がある。それを釈迦ゲーム、或いはブッダゲームと呼ぼう。

しかし今年も明日で終わる。そういった意味では年が移り替われば、全てリセットするという気分にもなる。それが人間の一つの顕著な傾向性だ。だから本記事の様なものは、暫く新年になれば影を潜めるだろう。総括は今日迄である。明日は違う発想の記事になるだろう。それはそれでいい。しかしこの総括を時々読み直す時期も来年もきっとあるだろう。その意味でネガティヴにとことん認識していくというスタンスも(それだけでもいけないが)全く失くしてしまうべきではない

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2016年12月29日 (木)

及川眠子の作詞した『残酷な天使のテーゼ』を解析する

 確か私の記憶では及川眠子は大ヒット曲『残酷な天使のテーゼ』は既に作曲されていた歌に歌詞をつけたのではなかったろうか?

 まあ、それはどちらでもいい。しかし彼女はパチンコ店とかで有線で流れるだけで何円か著作権が入るので、この曲だけで年間数千万を立て続けて稼いだという話も民放の対談番組で聞いた。

 さてこの曲の歌詞は初っ端から「残酷な天使のテーゼ 少年よ 神話になれ」で始まる。だが天使という語彙や残酷という語彙から私はオスカー・ワイルドの傑作童話短編小説である『幸福の王子』を、この歌詞から連想してしまう。

 ワイルドの傑作の簡単なあらすじは次の様なものである。(井村君江訳 『オスカー・ワイルド童話集 幸福の王子』偕成社文庫3154から要約と会話部分抜粋)

エジプトへ飛び立って冬を越そうとしていた一群のツバメの一羽が美しい葦に恋をしてしまったがために他のツバメ達から一羽離れてしまい彼は葦に求愛するが、葦は自分に対してだけでなく風が吹くたびに挨拶し、誰にでも靡くので、ツバメの愛を受け入れずほとほと懲りたツバメが飛んで行った先に幸福の王子が像が立っていた。/幸福の王子は元は人間だったが亡くなって像となり、気の毒な人達を見守り悲しくて泣いているのだった。そこでツバメは王子から気の毒な母親が貧しい一軒家で針子をしながら病弱な息子を寝かしつけて仕事をしていているのだが、金がなくて川の水しかなく、熱を冷ますのにオレンジを欲しがっている男の子のために自分の剣の束からルビーを取り出し彼女のところに持って行ってあげてくれと頼む、自分は台座から動くことができないから、と言うのだ。ツバメはエジプトへ仲間達を追って行かなければいけないと断るが、王子が余りに一晩だけ自分の願いを聞き入れてくれと切望するのでやむなくそれに応じて貧しい母親の手元に王子の束から取り出したルビーを届けて疲れて眠っている母親の手元の指抜きの処にそれを置き、再び王子のいる所に舞い戻る。すると寒い筈の冬なのに暖かいと王子に言うと、それはお前が良い行いをしたからだよと言う。王子は更に屋根裏部屋の一人の若い男が劇場主に依頼された戯曲を書いているのだが、寒さの中空腹でこれ以上作品を書けないでいるので、自分の目に取り付けられているサファイアを持って行ってあげてくれと頼むと、ツバメは渋々承知し実行する。萎れたスミレの花の上にサファイアを発見した青年は大喜びする。早くエジプトへ飛翔したいツバメにも関わらず王子は下の広場のマッチ売りの少女(ここら辺は完全にアンデルセンに対するワイルドのオマージュである)がマッチを溝に落として使い物にならなくしてしまい、帰ったら父親にぶたれるのを恐れて泣いているので、帽子も被らず、靴下も履いていない気の毒な彼女に自分のもう片方の目のサファイアを差し上げてくれと頼む。ツバメは言い付け通り、彼女の掌にそれをそっと滑り込ませて王子の下に戻る。最初は早くエジプトへ行きたがっていたツバメもその頃には王子にすっかり虜となり、王子に色々今まで見てきたことを話してくれと言われ話す。その時王子はツバメにこう言う。「きみはいろいろなふしぎな話をしてくれたけど、なにがふしぎといって、人間の苦しみにまさるものはないんだよ。不幸よりも神秘なものが、この世にあるだろうか。」そしてツバメは周囲を飛んで様子を見て戻って自分に話して聞かせる様に頼まれると、貧しい人達のことを王子に話すと王子は、自分の体に張ってある純金を剥がし、一枚ずつそれを貧しい人達へ渡してくれと頼まれ、ツバメはそれを貧しい人達に一枚一枚渡して皆が喜ぶ顔を見て又王子の下に戻る。/ツバメはやがて精魂尽き果てエジプトへ行けばよいという王子を後目に王子の像の足元で死ぬ。王子の像の中で鉛の心臓が二つに割れ大きな音がする。/市長は彼に相槌だけつく市会議員と連れ立って町を観察しに行くと王子の像を見て、余りの汚さに然として、死んだツバメの死体を見て、ここで鳥は死ぬべからずという触れを出せと命じ、大学美術教師等の意見を取り入れ撤去を命じる。/市長達はやがて代わりの像を作らねばならぬと論議し、市長は自分の像にすべきだと言い張り、他の議員達も自分の像をと言い張り論争となっていってしまう。撤去された像を溶かしていた鋳物工場の監督がどうしても壊れた鉛の心臓だけが溶鉱炉で溶けないので、それを捨ててしまう。そこにはツバメの死体も転がっていた。/「あの町で、もっとも尊い二つのものを持ってこい」と神さまは天使にお命じになった。天使は鉛の心臓と小鳥の亡骸を神さまの下に持って行った。神さまは正しいものを選んだと天使を称え、こうおっしゃった。「わたしの天国の庭で、この小鳥にとこしに歌をうたわせよう。そして、幸福の王子には、わたしの黄金の都で、わたしをほめたたせさせよう。」

 及川の歌詞を見ていこう。

  

 まず「蒼い風がいま 胸のドアを叩いても 私だけをただ見つめて」の部分が『幸福の王子』の王子がツバメにとる態度に似ている。次の「微笑んでいるあなた そっとふれるもの もとめることに夢中で 運命さえまだ知らない いたいけな瞳」も王子にもツバメにも当て嵌まる。それだけでない。続く「だけど気付くでしょう その背中には遥か未来めざすための羽根があること」ここまでも完全に王子とツバメのことだと言ってさえいい。

 

 更に続く「窓辺からやがて飛び立つ ほとばしる熱いパトスで 思い出を裏切るなら この宇宙(そら)を抱いて輝く 少年よ 天使になれ」ではツバメが貧しい母親の手元にルビーを置いて飛び立つ様子とも取れる。

 それにしても思い出を裏切る、の部分は明らかに王子がエジプトへ飛び立とうとしていたツバメに見てきたことを話してくれと頼まれ話す思い出であるが、それを裏切って王子の足元で彼(話の文脈上ツバメは雄である)は死ぬのだ。だから過去を振り切って未来へ羽搏こうとする意志の上では死さえも恐れない。それが最初は王子の依頼を嫌がっていた彼が最後は王子への忠誠を誓うまでになる部分と全く符号する。なにがふしぎといって、人間の苦しみにまさるものはないんだよ。不幸よりも神秘なものが、この世にあるだろうか。この『幸福の王子』の部分は哲学的だ。生とは苦しいが故に生きていると実感し得る。苦しみさえ感じられなくなるのは死によってである。

 更に「ずっと眠っている 私の愛の揺りかご あなただけが夢の使者に呼ばれる朝がくる」、この部分もツバメを意味する要素も強い。

 及川の歌詞の内容を探っていくと、この歌詞がかなり神皇正統期(北畠親房)的、つまり国家神道称揚的な感性に裏付けられているともとれる。

 この歌の歌詞では動詞句と命令形(その品詞的基本は動詞だ)と動詞そのもので終わる文章がメインに構成されていると分かる。

 

 歌詞内容順に示せば

 

命令形

 

🔶少年よ 神話になれ(歌詞二行目)命令形・🔶少年よ 天使になれ(二十行目)命令形・🔶世界中の時を止めて(二十七行目)命令形・🔶少年よ 天使になれ(三十九行目)命令形・🔶少年よ 天使になれ(五十行目)命令形(計5か所)

 

名・動詞句

 

🔶胸のドアを叩いても(四行目)動詞句・🔶運命さえまだ知らない(九行目)名詞句・🔶遥か未来めざすための(十三行目)動詞句・🔶羽根があること(十四行目)動詞句・🔶遥か未来めざすための(十三行目)動詞句・🔶羽根があること(十四行目)動詞句・🔶窓辺からやがて飛び立つ(十六行目)名詞句とも文末動詞とも受け取れる・🔶この宇宙(そら)を抱いて輝く(十八行目)名詞句・🔶思い出を裏切るなら(十九行目)動詞句・🔶ずっと眠ってる(二十一行目)名詞句・🔶閉じこめたいけど(二十八行目)動詞句・🔶もしもふたり逢えたことに(二十九行目)動詞句・🔶意味があるなら(三十行目)動詞句・🔶私は自由を知るための(三十二行目)動詞句・🔶その夢が目覚めたとき(三十七行目)動詞句・🔶誰よりも光を放つ(三十八行目)名詞句・🔶人は愛をつむぎながら(四十行目)動詞句・🔶女神なんてなれないまま(四十一行目)動詞句・🔶窓辺からやがて飛び立つ(四十五行目)動詞句・🔶思い出を裏切るなら(四十七行目)動詞句・🔶この宇宙(そら)を抱いて輝く(四十九行目)名詞句(計21か所)

 

文末動詞

 

🔶だけどいつか気付くでしょう(十一行目)文末動詞・🔶呼ばれる朝がくる(二十四行目)文末動詞・🔶月あかりが映してる(二十六行目)文末動詞・🔶悲しみがはじまる(三十五行目)文末動詞・🔶歴史をつくる(四十一行目)・🔶私は生きる(四十三行目)文末動詞(計6か所)

 

 となる。

 

 つまり全体50行中、32行の文尾に動詞が配置されている、所謂用言止めの手法が採用されているのだ。これは作家、泉鏡花が採った体言止めと正反対の手法である。

 歌詞のニュアンスと内容的にはワイルド『幸福の王子』的悲哀を持たせながら、同時に全体的印象は日本神話・国家神道美学的、つまり『神皇正統期』的印象を与えつつ、文法構造的には動詞を各詩フレーズの文尾に持っていく手法で、より動きを表現しているということと、つまり楽曲のノリをより効果的に盛り上げることに貢献していることがヒットの要因、この作詞を通した高橋洋子というシンガーの声質とキャラクターに巧く合致させている要因ではないだろうか?

 高橋の声質はどこか天空を駆け巡る様な抑揚のニュアンスがそもそも備わっているので、日本神話的な天がけるイメージの歌詞内容と動詞を巧く配置した手法とが、その声質の弾みを心地良いものにしているのが、このアニソンの大ヒットの要因だと思われるのである。

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2016年12月28日 (水)

私の生き方から見える日本人の全体像/深刻さを嫌い、営業的ないい意味での軽さだけを重んじる社会

 今年も残り今日を入れて四日となったが、色々なことがあったが、或る部分私自身は何もここ数年の中で変わったことはなかった。寧ろ私自身は変わり様もないということだけを知らされた一年だったし、かなり前に中島義道氏が「人生を半分降りる」というフレーズで本を出していたけれど、その顰に倣えば私も又、最前線を行く生き方は全くできない人間なんだな、ということだけをまざまざと自分自身に見せつけられた一年だった気さえする。

 日本には欧米の様な聖書文化はない。古事記・日本書紀の文化は根本的に道徳的ではない。これは聖書の世界を知れば知る程実感させられる。聖書はダーウィンの進化論が否定する非科学的発想で書かれているわけだが、重要なことは、それは科学のための書き物ではなく、あくまで道徳的な書き物だということだ。

 これはかなり決定的な意味で欧米文化を規定し続けてきた。つまりその中でアウグスティヌスも聖トマスもデカルトもカントもヘーゲルもニーチェも登場してきたのだ。反対に、道徳的ではない日本文化は一言で言えば耽美的世界観だと言える。

 それが『新世紀エヴァンゲリオン』から『進撃の巨人』から『君の名は。』や、それらとは全く関係ないと思われる様なPPAPにさえ読み取れる。

 つまり日本文化では道徳以前的にまず一番要となる必須アイテムとは美なのだ。だから日本ではドキュメンタリー映画で傑作が出難いし、優秀な監督も育たない。それよりはアニメーターやゲーマーの方の需要の方が遥かに勝っている。

 これは日本に道徳や倫理を中心とした思想が育たない理由となっている。その矛盾を考えることだけに生涯を費やしたいと思っている私もかつてはアーティストをずっと目指してやってきたが、余りに耽美的でなければこの日本ではその世界で生きていけないことを知った私は、その自分では日本の、日本人の耽美主義についていけなさそれ自体を対象化する様な仕事しか出来ないとこれまたまざまざと見せつけられたのだった。

 だから電通が今後どういう風に法的に裁かれるかということにも興味があるけれど、実はあの高橋まつりさんの自殺という衝撃的事実も福島県被災地から転校してきた生徒へ東京近郊の生徒がいじめをしてしまうという悪しき実態も全く同じ背景から齎されていると思われるのである。つまりそれこそ文化として道徳的観念が根付いていないということだ。

 だから日本ではあの傑作歌曲『残酷な天使のテーゼ』を歌う高橋洋子の声を聴きながらパチンコをするという一つのノリ、連動、それだけで国家が運営されてきているのだ。つまり日本文化とは無思想的な固有の営業至上主義なのであり、非道徳的、寧ろそういった厄介な思想的なことを全て排除して美だけを相互に追求する暗黙の了解で成り立ってきているのだ。だから日本から偉大なアニメはどんどん生み出されるけれど、偉大なドキュメンタリーは作られることはない。

 アメリカは違う。マイケル・ムーア監督『ボーリング・フォー・コロンバイン』(2002・カンヌ国際映画賞特別賞、2003アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞受賞)、『華氏911』(2004・カンヌ映画祭パルム・ドール賞受賞)、デイヴィス・グッゲンハイム監督『不都合な真実』(20062007アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞受賞)等を世界に放ってきている。

 この日本とアメリカの大きな違いは、恐らくその社会が抱える問題が根本的に違うということ、アメリカは民族の多様性と、それ故の相互の衝突、経済格差等の深刻さから生み出されているが、日本は民族的多様性とは異質の同質性を相互に暗黙に了解し合う文化土壌の違いということが起因しているという要素が大きいだろう。

 又、日本はアメリカの様に社会問題が常に表面へ際立って顕在化すること自体が少ない(気が付いた時は高橋まつりさんの自殺や豊洲移転問題の様に時間的に取返しのつかない事態となっていることが多い)。同質化させていく教育、つまり出る杭は打たれる式の社会観からは、いじめはアメリカの様なストレートな暴力や差別ではなく、もっと陰湿に行われる。だから気が付いた時には企業から真面目に仕事に取り組んできた高橋まつりさんの様な人を自殺へと追い込む様な事態になっていたということが多いのだろうと思う。

 つまり常に問題を表面化させず、常に全てが相互協力であたかも巧くいっているかの様に皆で偽装し合う習慣が、気が付いた時には個人のあらゆる悩みを聞き出す耳を皆が失って、個が逃げ場の無い状況を精神的に作っていってしまうという、何でも表に正直に出てしまうアメリカと正反対の状況を日本では生んでいるということではないだろうか?

 これは社会全体が『残酷な天使のテーゼ』を大音響で放送しながら回転するパチンコ店の様な趣にしている日本という国家全体の様相が証明していることではないだろうか?

 

 ずばり日本人は深刻なことを考えるのを極度に避ける傾向が強い。それはニーチェの『悲劇の誕生』で描かれている様な悲劇を形成する歴史性に乏しいということもある(歌舞伎ではそういう演目もあるが、それは日本史では割と最近になってからのことである)。これは社会連動という異様なる協調性だけを美徳としてきているということも関係している。いい意味で金儲けを相互にし得る営業的微笑みと朝の挨拶だけが重視される社会風習が却って仇となっている。

 

 その本質はことなかれ主義であり、予定調和的な対人関係的対処法定着文化である。

 問題は常に引き起こされてはいけないのである。だから総会屋のシャンシャン節の様に手打ちにされていかなければいけないのである。それら全ては国家神道的な慣習性(地鎮祭とか棟上げ式とかを含む)、祭りで神輿を担ぐその心意気だけで成立している社会連動なのである。

 日本では一方では真面目な態度を要請されるけれど、他方では不良的な魅力を異様に神様視する部分も強い。

 ビートたけしは或る部分ではそういった日本人の自己矛盾が生み出した逸材である。彼が笑福亭鶴瓶と共に出演した昨日の特番で小池都知事は総理を目指しているとずばりたけしが指摘したが、実際小池百合子氏にもそういった凄まじい野心が漲っている。小池氏がもし総理になったら小泉的な独裁者になるだろう。そして小泉氏を異様に喝采した日本人こそ、或る時代ビートたけしを世に出した不良性へ喝采した日本人固有の要素、理性的に或る人を判断する以前に好感度で判断するという日本人に固有の判断が介在している。

 今後特別法で天皇陛下が生前退位する可能性は高くなったけれど、天皇制を日本は戦後残存させたので、未来には小泉氏や小池氏の様なカリスマ的天皇が登場する可能性もそれほど低くはない。次の更に次の天皇陛下がそういったタイプのカリスマとなって、国民が総理大臣より、天皇の御意の方を重視していく様な時代が到来する可能性も高い。そしてそうなって益々耽美的で、個人の内面を問う時間的余裕を個人に与えない全国的規模の営業至上主義国家の像が仄見える気が私にはするのだ。

 日本には哲学・思想・論理学的発想自体が文化としてない。ないのである。市民レヴェルでないのだ。有識者にだけそれは全て任せておかなければいけないのだ。それ以外の市民は非思想的に技術だけを磨いておればいいのだ。それはかつてアメリカで黒人には白人と同じだけの発言権さえ与えられていなかったかの様に、なのである。偉い人以外の普通の市民はそういう国体的なこととか、思想的なことに興味を持ってはいけないという不文律がこの国にはあるのだ。

 この問題は年末、今年詩や歌詞や哲学書から啓発されて多くの記事を書いてきた私にとって来年以降も継続されていくべき重要なテーマなのである。だから今年いっぱいで方が付く問題ではないのである。

 その思いを継続させながら年を越そうと思っている今日この頃である。

 付記 確かに宇多田ヒカルといい椎名林檎といい、大森靖子といい、そういった社会矛盾から素晴らしいミュージシャンやアーティストは世に登場することは、好ましいけれど、高橋まつりさんが一人で苦悩して自殺していった社会の或る種の冷たさは、そういった天才達を喝采しているだけでも、やはり一歩も前進しないということも言えるのではないだろうか?

 それは理屈っぽいことはよくないことだという大衆ニーズ迎合主義を国家自体が無意識に採用していることにも起因するし、小川侃の『雰囲気と集合心性』で示されている様な何かが歪に日本にはあるということかも知れない。

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2016年12月27日 (火)

空と無Part5 否定を形成する力と無 ニーチェ、ハイデガーを通して考えるⅢ(+アウグスティヌス)

 晩年の講義録である『ニーチェ』は1961年に刊行されている。20世紀の中盤で第二次世界大戦終了後世界秩序が徐々に形成されている、しかも冷戦時代にこのテクストは世に出ている。

 ハイデガーのニーチェに対する読みとして最重要なことは、ニーチェとは真理が彼方に存在するものでなく、あくまで存在レヴェルに存するということを明言したことへの着目である。それは形而上学そのものの一種の陥穽を露呈させることで、形而上学とは価値論であるということを再認識させたことに等しい。何故なら従来型の形而上学ではあくまで真理とは彼方に存するという理念から離れたことなど一度も無かったからである。だが注意深く読むとアウグスティヌスも実は実在自体を透徹した眼差しで見よというニーチェ→ハイデガーと全く同じことを言っている。

わたしたちは、「光が造られて暗黒から分かたれた」のを見るのである。(中略)

ひとの魂において、判断を下すものもまた、男に対して女が造られたのであるが、女は理性的な認識を持つ精神においては、男に等しい本性を持つけれども、その身体の性によって男性に服従するのは、行為の衝動が精神の理性から、正しく行動する能力を受けるために服属するのと同じである。わたしたちはこれらのものを見るのであるが、それらは個々別々に「善である」とともに、「全体としては善である」。(『告白』第三十二章 四七から、岩波文庫 服部英次郎訳)

ニーチェ→ハイデガーと大いにアウグスティヌスが異なる部分とは、アウグスティヌスが聖書を軸とした神によって実在が与えられているとしているに対し、ニーチェ→ハイデガーは完全に神から実在引いては存在それ自体を切り離しているということである。そしてそのことを鮮明にするためにニーチェ→ハイデガーは善であるということを直ちに肯定しはしない態度を貫く。それを素朴であるとして否定する。そこからがアウグスティヌス以降のキリスト教神学大全的な形而上学からの離脱、それら全ての哲学史への批判と疑念、再構築への提言となる。

 

ところで自分で唱える理論や論理に自分で愛着や自然的親しみが持てるかと問われれば、寧ろ全くそうではないと言った方が適切である。

 仕事としての理性は、自分の人間性とは別個であり、率直切り離されている。仕事では敢えて自分が馴染んだ感性に逆らうことを試みることは理性の命令からしてしばしばであり得る。自然的親しみとは我々にとって個人的経験とその記憶に根差している。それは懐かしさにも近い。しかしそれはあくまで心の問題であり、仕事という社会的行為とは別次元の話だからである。

 仕事はその心の懐かしさをも客体化させることである。だからそういう風に客体化できないということこそ、ハイデガーが『ニーチェ』の(形而上学についてのニーチェの≪道徳的解釈≫)で述べていること、とりわけ素朴さへの批判(それは超人ではあり得ないことなのだが)とも深く関係している。

 ハイデガーはニーチェが素朴であることを否定的に捉えている(それ自体は哲学者にありがちなことだが、そういったありがちとは違うレヴェルへ彼は踏み込んでいる)ことを大きく取り上げる。それは次の様な記述に詳述されている。

≪善い人間≫の道徳が、従来の最高価値の根源なのである。善い人間はこれらの価値を無条件な価値として定立する。このような形でそれらの価値は、みずから力を掌握するには無気力で、或る超感性的世界を仰ぎ見る可能性を自分のために必要とする善い人間の≪生≫の条件となっているのである。(中略)≪道徳≫に属する≪善い人間≫とは、形而上学的に思惟すれば、無条件な理想として自分が服従している価値の根源についてはまったく無知でいる人間のことである。したがって価値の根源をまったく感知していないこの無知は、価値は力への意志が自分自身のために定立した条件であるという価値の由来へのいかなる主題的自省からも彼を遠ざけているのである。≪素朴さ≫とは≪心理的な無邪気≫と同じ意味であり、それは前に述べてきたことによれば、存在者を―ひいては生とその諸条件を―力への意志を本位にして計算する態度に少しも染まっていないということである(中略)

素朴さとは、人間が諸価値を定立し、それらの意味と価値基準として働くという点にあるのではない。諸価値をたまたま自分に接してくる≪事物の本質≫として定立し、これらを定立するのが自分であること、そしして定立者は力への意志であることを知らずにいる人間が、まだ素朴であるということなのである。(中略)素朴さの欠点は、事物を人間化することではなくて人間化が自覚的に遂行されていないことにある(後略)。(中略)

価値と人間的な価値定立と万物の人間化との根源への洞察が得られたあかつきには、価値の根源の露呈と価値の崩壊との後で世界が無価値の相を露呈するという状態をそのままにしておくわけにはいかない。(中略)

世界がいかにも無価値であるような観を呈するときには何をなすべきか、従来的な価値の転換は何に存しなければならないか、ということは、実は価値の根源への洞察にもとづいてすでに決定され、そして下描きされているのである。この手記は一八八八年に書かれたもので、われわれには途方もない素朴さに対する極限的な対立を示すものである。その文言は次の通り―

実在の事物や想像上の事物にわれわれが貸し与えてきたすべての美と崇高さを、わたしは人間の固有財産と所産として返還請求しよう。―もっともすばらしい人間の弁明として。詩人として、思想家として、神として、愛として、力としての人間、おお、人間はなんと王者のような気前のよさで事物を贈与してきて、みずからは貧しくなり、おのれの惨さを感じるようになったことか。感嘆し崇拝し、しかも彼が感嘆したものを創造したのは自分であるということを自分に隠すことを心得ていたということ―これこそ今までの彼の最大の無我であった」(≪力への意志≫第十五巻、二四一頁)

 

 素朴さの否定とは、ある意味で何の疑問もなく信じてきたことへ幻滅し、不信を抱き、それまでの信念体系の判断から奈落へ突き落された時の不安が生むニヒリズム(空疎な気持ち・空しい気持ち)を超克し、自ら主体的に信念体系を構築しようと試みることであるが故に、自己責任を請け負うことであり、規制の権威が死守する思考の秩序への否定であり、その限りで無化である。その点でニーチェを解析するハイデガーが『存在と時間』で示した頽落という概念は明らかにニーチェの素朴さへの疑念の無さへの痛烈な批判がベースにあることがよく理解できる。つまり安穏と自己達がかつて自己達へ与えた権威を崇拝することへの批判はその侭キリスト教神学体系や宗教的慣習への批判であり、形而上学へもその批判の矛先は向けられている。だからニーチェの黄色で囲った論述は読む人の受け取り方によって、アナーキズムともナショナリズムともファシズムとも何でもなり得る思想であると言える。ニーチェ思想のこの部分を最もよく受け継いでいるのは『存在と無』時代のサルトルであろう。彼はそれ以後鮮明にある時期から左翼的なイデオロギーへとシフトしていくが、当時の彼には読む人から如何様にも受け取れるアナーキーな書き方をしている。

 だからそのことから逆にニーチェ思想を超人として在ることの中で、自らの意志と責任に於いて善悪の彼方(彼岸)で無を作ること、それこそが力への意志であるのだが、それが価値体系の自己創出というかたちで実現される、ということが生涯を通じて貫かれていると定義することが許されるだろう。

 言う迄もないことだが、ニーチェが素朴さの侭、その素朴であることすら覚醒しないで居ることへ批判を持てる者こそ超人であり、ハイデガー的に言えば頽落していない人のことである。

 さて無を作るとは既存の信念体系の全てへ疑問符を突き付け、疑義申し立てをすることである。それは自らの統制下で別の信念体系を作ろうとする時に為すことであり、そのことのみを意味すると言ってもいい。そして既存の信念体系を無にすることとは、既存の信念体系へ空疎さを認識するからこそ、導引され得るのであり、作られ得る無とは、我々が現存在という存在者として存する有(存在)への一つの返礼であり、それは「そうである」ことが「そうでないこと」を作り、実在としても一切の実在を、或いは一切の存在者の存在をも拒否する無なのであり、我々は常にそれだけを頼りに、既存の信念体系に対して否定する力を生み出してきているのである。

 在ることを無きことにする力への意志こそ無化であり、それは無を空とは別個に我々が認識するから可能なのである。在ることとされてきたことはパウロに始まりアウグスティヌスを経て、延々と引き継がれる形而上学のプラトン主義のキリスト教的改竄のことであり、キリスト教が生を死と無へ隷属させてきたことからの解放こそが、在ることとされてきたことへの無化である。

 素朴であることは明らかに在ることとされてきた価値規範へ疑いを一切持たないことであり、それへ疑いを持つことは素朴さそのものへの抵抗なのだ。

 その意味に於いてハイデガーはニーチェ思想の、より鮮明に善い人間を痛烈に否定することを通して、実は既存の全ての秩序を破壊して、破壊した後に再生させるものにのみ真実の光を見出している様なかなり頽落的視点からすればグロテスクで破壊力と危険性を帯びた提言を、自らの思想の指針にもし得ると認めていると言える。それはニーチェの死から61年経った段階での当時の哲学への挑戦状であったかも知れない。つまり新たな秩序を構築しつつあった現代哲学の行く末に再度ニーチェのアナーキーな提言を正統的視点へと送り返したと言ってもいい。

  

 本記事ではハイデガーが批判しようとした現代哲学とはどういう動向を指そうとしているのかまで論及する余裕はないが、やがてその部分への洞察は本記事の指摘によって重要さを増していくだろうということだけははっきりしている。(つづき)

 

( 『ニーチェⅡ』ヨーロッパのニヒリズム マルティン・ハイデッガー 

Martin Heidegger 細谷貞雄監訳 加藤登之男・船橋弘訳 Nietsche

平凡社ライブラリーをいつもの通り利用している。)

 

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2016年12月26日 (月)

その時々で、その時々の自分であればいい

自分のことは自分が一番よく知っている。

あたかも日頃親しくしている君や貴方や彼や彼女が一番私のことを知っているって、私も君も貴方も彼も彼女もそう振る舞っているだけ。

一人で母の胎内から生まれ出て、一人で死んでゆく私。君も貴方も彼も彼女も同じさ。

自分のことは自分が一番分かっている。

 

これ以上君や貴方と共に居たら、とんでもないことになってしまいそうで怖いから避けている。でも決して忘れた訳じゃない。

 

人のときめきに年の若さなんて関係ない。

 

人と人は巡り巡って、いつか自分に返ってくる。

 

どんな忙しくても仕事と結婚することはできやしない。

本当の自分なんて誰しも君や貴方や彼や彼女との関係を維持する為にとってつけているだけ。

その時々の自分があるだけ。誰が全ての時間の自分を見ていてくれる?

 

人へのときめきに年の若さなんて関係ない。

 

真面目なだけでなんて生きていけやしない。

でもやれることだけはきちんとやるしかない。

そうやって日々はどんどん過ぎてゆく。

 

時に恋することはできない。時はそんなに優しくも暖かくもない。

 

よく思い出すことがよく夢に出てくる訳じゃない。

普段忘れたくないことがよく夢に出てくる訳でもない。

いつも気になっていることがよく夢に出てくる訳でもない。

でも忘れてしまっていることが自分にとって大したことでない、とも限らない。

 

決めたこと全てに満足している訳でない。

でも過去の全てを悔やんでいる訳でもない。

その時々で人の気持ちは変わる。でも変わらない気持ちが一番大切なのでもない。

 

雲は一日、いや一瞬とて同じ姿にない。自分の気持ちだって同じ。ただそれを一々人に言わなけりゃ、それでいい。

本当の自分なんていつもどこかへ置いていけ。

その時々で、その時々の自分であればいい。だって世界も一日として同じである訳じゃないんだから。

2016.12.26

 

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2016年12月25日 (日)

未来展望Part14 本音的に意思疎通し合いたい欲望と人に何も強制できないこと

思想的・哲学的な想念を心に抱き、そのテクストを読むことは自由だが、実際問題リアル社会とは、そういったことを容易に許す程寛容ではない。欧米社会ならそれもある程度可能だろうが、日本では(或いは欧米でも全ての会社や組織がそうであるとは限らないが)全く違った社会倫理もあって、だから個人としての信条とは別に、それを社会活動全般にまで拡張して、ましてやそういったことは人に強制すべきことではない、とは言えることだ。

 例えば夫婦の愛はセックスだという考えで生きている人に、否夫婦の愛は真心だという観念を強制することができない様に、社会で生活している人それぞれの思想を強制することはできない。皆それぞれ思想という語彙で言い表しやすいか否かも含めて違う考えで生きているし、それをああだこうだととやかく(自分に迷惑や脅威を及ぼさない限り)人の考えに干渉することはできない。

〇そういった意味では誠実に生きるということの定義は思想的・哲学的なそれと社会人としてのそれが著しくずれることもある。勿論真理的にはそれは重なっている筈だし、又思想や哲学の側からも、或いは実社会や実生活の側からもそうであるべきだが、食い違ってしまいがちなリアルも又ある。

或る部分思想や哲学の持つ真理的なこと、数学で言えば公理論的な意味での本質論と、実社会や実生活との間を橋渡しするくらいに普遍的なことはお笑い芸人達の芸のスタイルとかメソッドにある、と言えないだろうか?

お笑いとは、笑いそのものの意味をそれなりに(つまり各芸人、芸能人、アーティストと何と呼んでもいいけれど)世界の真理、つまり人間社会や人間の実存に対する自分達なりの解釈で世界そのものの在り方への愛情を込めた自嘲、皮肉、諧謔を示し、それを笑い飛ばすことで、日々の憂さを忘れるという性質のものではないだろうか?

〇だからそれは建前的なことに或る部分では明け暮れなければいけない実生活上でのストレスを、却って本音的部分、だから当然お笑い、つまり漫才やコントで示されることはいい子ぶった教条を一切排除した心の叫びでもあるのだが、要するにそういう部分をクローズアップさせることで、解消させつつも、日々の我々自身の生活を反省的に見る視点を与えてくれるのではないだろうか?

 哲学者永井均はマンガに哲学を見出しているのだが、それも正しい一つの見方だと思うが、私はお笑い芸そのものにそういう真理的な本質論を見出せる気がするのである。

本音的なことはひろゆきの始めた2ちゃんねる的世界でも実現されているし、それは一つのやはり人生や社会や我々の願望とか本音レヴェルの本質を示しているものであると言える。この現代人の自分の心の本音に逆らっては生きてなどいけはしないというかなり真剣な決心(それは全市民がそうであるが)は今後の社会でもかなり長く変わりはないのではないだろうか?

いい子ぶった生き方などできはしないという面から、我々は伝統的な偉大なる思想や哲学をも見ていくべきではないだろうか?お笑いで描かれる頓智やナンセンスなどと、特にコントで示される特異な状況設定で、人がどういう本音を持つかということが、いい子ぶったことだけでは収まりきれないリアル社会、リアル人生でのいい意味でも悪い意味でも本質を描き、それが自分ももし似た状況に陥った場合には、いい判断材料にもなり得るのではないだろうか?

ツイッターでは国内外の人達をフォローし、同時に国内外の人達からフォローされることを通して、本音レヴェルの呟きを相互に確認し合いたいという欲望が実現されているわけだが、そこでもいい子ぶったことを言っていても仕方ないという哲学的な諦念も常に介在しているし、実利的な意味でのストレス解消にも役立っている。こういったスマホ画面に電車の中でも意識が釘付けである様な異様な状況それ自体を私は余り好きではないものの、そういった心のニーズは人類から消え去ることは未来でもかなり長期に渡ってないだろう。

笑いに関してはベルグソンの考察論文が有名だが、本音を呟く習慣は現代社会になって固有の事情でもあるし、同時にスレッド的なことの中にも巧妙な集団同調意識はあるし、それは排他的なヘイトツイート的要素もある。マンガはもう少し歴史が深い世界だし、思想や哲学はもっと古い歴史があるわけだが、マンガ的な発想は恐らく古代からあっただろうし(それはそれぞれ違う在り方だっただろうが)、逆に哲学や思想は現代でも現代社会固有の事情に沿って違う展開の仕方があっていい訳だし、そういった意味ではスレッド等の現代社会に固有の在り方のメッセージ以外はかなり一般的にも論議されるべき範囲は広がり得る。尤もスレッド的なことも実は古代以前から人間が言語行為をしてきた以上、例えば日本では祝詞的なことも含めれば、やはり脈々と受け継がれてきている要素も見出し得るだろう。

 

 付記 ブログは日記を公開するという形式を元々とっているわけだが、これも或る部分ではスレッド等と似た傾向も認められるけれど、スレッドの持つ当てこすり的な対他者的な意識に対し、ブログは対自分的な意味があるとすれば、それはナルシス的なことと関係しているだろう。そこら辺の考察も無意味ではないだろう。それは思想的・哲学的にもである。

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2016年12月24日 (土)

空と無Part4 否定を形成する力と無 ニーチェ、ハイデガーを通して考えるⅡ(+アウグスティヌス)

 重要なことはハイデガーが『ニーチェ』でニーチェ哲学後期に到達した地点からニヒリズムを考えた時、それは長い哲学の歴史がニーチェによって到達した地点に於いて初めて、普遍とは個物であり、何事もそれ自体であることに存しており、それは歴史的歩み自体が一種の現存在の個のナルシスを呼び醒ます装置として機能してきた、その途上で、コギトや神の死へと至る命題がその時々で光を放った、ということである。

 ニーチェ『力への意志』で示されている力とは、それ自体価値をその都度作るものである。真理とは存在だとニーチェは考えているし、価値とは力への意志そのものであるとニーチェは考えている。ハイデガーの読みはそういうことである。従って価値とは固定化されたものではない。ハイデガーはそこまで明示しているわけではないが、ハイデガーの論旨に従えば、明らかにニーチェは価値相対論者であり、実在主義的にニーチェは価値を位置づけている。

 ハイデガーは次の様に述べる。(今回の全引用箇所は三―ヨーロッパのニヒリズム 価値定立と力への意志 から)

ニーチェは(中略)断片一四番の最初の命題で明言している―「諸価値とそれらの変化は、価値定立者の力の増大と連関している」。≪力の増大≫とは、初めに示した力への意志の本質規定によれば、力の自己超揚という意味の力の昂揚にほかならない。ところがまさにそれが力の本質なのである。してみれば、あの命題の趣旨はこうである―諸価値とそれらの変様は、したがって価値定立は―諸価値の無価値化であれ、諸価値の転換であれ、新たな定立であれ―いつも力への意志のそのつどの有様から規定され、この力への意志がまた価値定立者、すなわち人間を、その人間存在の有様において規定するのである。(中略)遺稿断片の編集においてすこぶる混乱している≪力への意志≫という書物は、断片七一五番(一八八八年)で、われわれの問いに答えるニーチェのひとつの手記を載せている―

<価値>の視点は、生成の内部で相対的に持続する生の複合的形態から見た維持=昂揚の諸価値の条件である」。

 こういったハイデガーのニーチェ分析の経緯を見てくると、一つのことが浮かび上がる。それはこのニーチェによって示され、ハイデガーが価値定立している思想の本質とは、平等に機会が与えられている(それはアウグスティヌスの『告白』に示されていることである。後述する。)けれど、それらの力への意志によって当然現存在の個々の存在者間では実践力と成果とによって異なった結果を存在者個へ与え、階級的な開きが生じることの自然さを肯定するということである。だから完全にこの二人の思想家のストリームによって、西欧哲学思想史、形而上学史では完全個人主義が完成されたと見てよいのである。

 個人主義には階級制が必要である。何故なら価値とはその個々の現存在的存在者のその都度持っている能力やそれに伴う成果によって異なった内容や形式を個々に与えているのだから、機会が平等でも報酬は平等ではない。実力主義的であり能力査定的であるが故に、階級制的格差が生じるのは当然であるという思想が二人の哲学者=思想家にあるのだ。

「(前略)価値とは、あらかじめそれ自体で存立していて折にふれて視点にもなりうる、というようなものではない。(中略)むしろ価値は、妥当するから価値になるのである。そして価値が妥当するのは、それが妥当するものとして定立されるからである。

ひとたび価値思想が出現したからには、≪客観≫が≪主観≫にとってのみ存在するように、価値は計算が行われるところにのみ≪存在する≫ということも承認されなければならない。(中略)視点というからには、それは点を設定し、いつくかの≪点≫に従って計算せざるをえない視点にとってしか存在しないものなのである。」「≪価値≫とは、力が力たるかぎり計算に入れなければならない条件である。力の昂揚を目指し、そのつどの力の階段を目指して計算することは、力への意志の本質である。≪価値≫とはまず第一に、力への意志が着眼する昂揚条件である。力への意志は、自己超揚として、決して停滞ではない。

「(前略)力への意志はそれの深奥の本質からして、いつも同時に維持の価値と昂揚の価値とをともに定立しなければならない。力への意志は、相互に関係するこの二つの観点に従って展望し眺望し、このように望見しながら視点を設定し、すなわち価値を定立しなければならない。

「(七一五番)―「<価値>とは本質的にこれらの支配中枢の増減にとっての視点である」。(中略)価値が価値であること、すなわち諸条件であることは、あくまで条件づける可能化としてなのであり、こうして力への意志自身が定立した可能化としてなのである。(中略)≪価値≫は本質的に有用価値である。

 これらの記述に於いて機会の平等というアウグスティヌス的観念から派生した現存在にまで至る形而上学に於いて、その権利の平等故に、力への意志それは権力への意志と、既に邦訳的には誤訳とされてきていることを復活させてさえよいが意志的行為の連鎖から成果として挙げられた状態の諸個人の格差に応じた階級制的なランクづけがあってるべきであるとする見解と相同の思想が読み取れることは一目瞭然であろう。

 機会の平等というアウグスティヌス的観念は『告白』で次の様に示されている。(第三十一章 四六)

「(前略)わたしは教え諭されて、「たしかに神のことは、神の御霊のほかに知るものはない」という。それではどのようにしてわたしたちもまた、「神によってわたしたちに与えられたものを知る」であるか。このわたしの問いに対して、わたしたちが神の御霊によって知るものでさえも、「神の御霊のほかには知るものはない」と答えられる。じっさい、神の御霊において語るものらに、「語るのはあなたがたでない」といって正当である。したがってそれと同じように、神の御霊において見るものらにも、「見るのはあなたがたではない」といって正当である。それゆえ、かれらが神の御霊において善であるのを見るものはみな、かれら自身ではなく、神がそのものの善であるのを見られるのである。(中略)ある仕方で存在するのではなく、絶対的に存在するものからすべてのものは存在するのである。

 茶色で示した部分こそ神が作られた存在者の存在する機会が与えられて在ること付与されてあることハイデガー的(『現象学の根本問題』語彙的)に言えば制作されて在ることの事実問題をキリスト教的に示したものである。対し、赤色で示した部分はその事実のメタ的哲学的解釈である。だからアウグスティヌスは神という一元的な全存在の原初、根源から全ての存在者が派生していると考えていたのだ。

 その基本的テーゼから発展してきたキリスト教教義と不可分の思想が、ニーチェに至って神の死を宣言され、その延長線上でハイデガーが次の様に述べる。

「(前略)存在者の全体の外には、この全体にとって条件となりうるようなものは、もはやまったく存在していない(中略)存在者の全体(生成の全体)と力を比べられるようなものは欠けている。≪世界の総体的価値は評価されえない。したがって、哲学的ペシミズムは笑止の沙汰である≫(708番 一八八七―八八年)」「(前略)存在者の全体にはいかなる価値もないという命題は、力への意志の形而上学の趣旨に沿って思惟されるなら、≪価値≫とは、存在者の全体を超えてこの全体に妥当する或る自体的なものであるという信を、もっとも鋭く拒否する命題である。存在者の全体は没=価値であるということの趣旨は、存在者の全体はあらゆる価値評価の埒外に立っている、ということである。なぜなら、部分や条件は全体にもとづいてのみ部分であり条件であるのに、そのような価値評価によると全体的なものと無条件なものは単なる部分や条件に依存せしめられることになるからである。生成する世界は、力への意志として、無=条件なものである。ただ生成の内部においてのみ 力の個々の形象との連関において、これらの形象によって且つこれらの形態にとって定立されて初めて 力の定量の維持と昂揚の条件、すなわち視点が存在するのである。(後略)」

 茶色で示した部分から読む限り、我々はさもハイデガーの言う存在者の全体はあらゆる価値評価の埒外に立っているということはアウグスティヌスの言う様に誰しもが神の視点に立てないということの謂いである「神によってわたしたちに与えられたものを知る」「神の御霊のほかには知るものはない」「語るのはあなたがたでない」「見るのはあなたがたではない」ということから我々現存在全体の平等性、つまり神から生を付与されていることにおける平等、それは正しく(存在する)機会の平等であるけれど、その不可知性と近接しているのではないか、とつい想念してしまいがちであるが、一つだけ決定的にハイデガーに於いてはアウグスティヌス教義と異なるのだ。その決定的部分とは正しく個人というものそのもの、個人自体が一つの世界であるというハイデガーの認識に於いてである。

 アウグスティヌスは神の創造による、全存在者の神への忠信と臣民性を説いているのであるが、だからそこに神のみぞ知り、神の視点に全存在者が立てないと言うのだが、ハイデガーの言う埒外とは全存在者は個としてそれ自体世界であるという認識があり、そのため、全存在者を統括してその全ての個を支配することの絶対的不可能性に於いて、世界を語っているのである。

 これは正しく世界とは個に於いて有であり、他者に於いて無であるという思想なのである。つまりそれなのに、世界を他者を空とすることで(つまり無という絶対性でなく、空疎という相対性に置換することで)世界を政治的に処理するということが、逆に力への意志を持つ全個に与えられている機会であるという認識を我々へ付与するのである。

 現代民主主義や現代資本主義の社会に於ける機会と権利の平等は神への忠信と個の臣民性にあるのではなく、あくまで力への意志を行使する権利問題(だからニーチェからハイデガーへ橋渡しされるこの価値という命題はカントの権利問題)へも遡行し得ることなのである。

 そのことをこのアウグスティヌスとニーチェ→ハイデガーの思想の根本的な世界観の違いから読み取ることが可能なのである。

 付記 凄く単純に言えば自己とは他者ではないという否定論述的なる真理から、他者は世界の埒外であるというかたちで、ハイデガーはニーチェ後期哲学の力への意志の命題力を読み取っているのだ。そしてそのハイデガーのニーチェ解釈は明らかに他者論というかたちでレヴィナスへ影響を与えている。

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2016年12月23日 (金)

世界の真理Part71 全ては始まり終わるが、そうでなく残すことと引き継がせることに就いて

〇始まっていないものは終わらない。始まるものは必ず終わる。あらゆる方法がそうである。

〇残そうとする何かはいつか必ず消える。引き継がそうとする何かは残そうとする何かよりは長く連鎖されることで命脈を維持する。

〇個で専有して個だけに消費されるものではない性格とは、メッセージであり思想であり、言葉の意味である。それは上記の引き継がせとその連鎖を招来する。

〇共有され得るものやことのみが引き継がれ、連鎖というかたちで継続する。

〇上記のものやことは消費されても引き継がれる。例えば情報がそうである。

〇重要なのは個の生存を保証する食糧生産、調達、調理も方法が情報化され伝授されることだ。それは共有されるが故に、一回一回は消費されるが、基本的に食生活とは引き継がせであり、連鎖である。

〇最終的には引き継がせが長期連鎖することとは、方法のみである。

〇方法こそが思想である。

〇全てのものやことは、消え終わるので、残そうとすること(芸術)や残ることへの祈念(宗教)は全て願望であり、未練力である。だが未練とは諦観が支えてもいる。それは願望を非実現・実現不可能性が支えている様に、である。

〇所有という観念も未練力に根差す。対し共有は引き継がせと連鎖であり、それは残そうとする執着や保守性とは異質だ。

〇残そうとすることは残される者に意志を持たせぬが、引き継がせ連鎖を誘うことは、引き継ぐ者に連鎖への意志を持たす。引き継がせと連鎖の基本として在るものは共有なのである。

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2016年12月22日 (木)

顔の印象だけは人それぞれ違うけれど、ある顔で似ていると思える他の人を思い出すことを誰も止められない24

竹島宏(歌手)‐神木隆之介(俳優)

 

岡野昭仁(ポルノグラフィティ)‐哀川翔(俳優)

 

宮原知子(フィギュアスケーター)‐五嶋みどり(ヴァイオリニスト)

 

田川寿美(歌手)‐故・テレサ・テン(歌手)

 

堂本光一(Kinki ids)‐山田涼介(Hey! Say! JUMP

 

村上新悟(俳優)‐野口五郎(歌手) 

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本物主義の危険性は常に潜んでいる/権威追随的保守性批判論② 日本社会に於ける問題編Ⅰ

日本社会には基本的に極日常的な場面で幾つかの本物主義に容易に陥る危険性が潜んでいる。

 一つは合議の際の相場、つまりその場で決めているのではなく、慣例的・慣習的な平均的判断、異例の判断だけは避けたいと願う暗黙の了解が優先されることである。

 もう一つはメディア、とりわけテレビを中心とした暗黙の憩いが挙げられる。

 大衆向けと銘打っている民放ヴァラエティ番組のお笑いタレントを中心とする視聴率を取れるその時節に於いて人気のある者のみを出演させ、一般的見解を述べさせるという趣向のもの。民間活力があるかの如く偽装している。

 NHK固有の似非的なリベラル性吹聴が目的の討論番組、あたかも暗黙の内に国民性なるものがあるかの如く偽装している。

 更に決定的なのは事務方官僚組織の縦型社会にあり、それは東大法学部学閥的人脈で暗々裏に決定事項への判断が委ねられ、エリート(キャリア)階級のヒエラルキーが決定されていて、それに従って全てが決裁されるという慣習である。

日本では精神文化としてはあくまで自然信仰(決して一神教的神ではない)による本物主義、言い換えれば一切の独裁的決裁を忌避するための暗黙の自然主義という本物主義だけが罷り通っている。

日本社会はあらゆる意味で改良・改革は悪であるとして阻む心の性質が備わっている。だから小泉構造改革はその点ではアメリカ型資本主義の精神を導入した画期的なものだったが、急ぎ過ぎた構造改革の負の側面の修正主義として今安部内閣が取り組んでいる同じ労働に対して正規・非正規に関わらず同一賃金を実施する改革も画期的であるが、今も日本では客観的な(つまり全国を統一する賃金規定なるものが欧米社会の様には存在していない、会社毎の丼勘定しか存在していないのだが)査定基準を阻んできたものとは一体何だろう?

〇一つには言語の問題がある。言語は民族毎に固有の自然的態度への暗黙の観念が決定している。日本語では文章自体のニュアンス決定は内容的には副詞、全体的メッセージの差し向け方という意味では助詞に委ねられている。敬語がその中でもかなり大きな位置を占める。「~だろう」「~であろう」「からでしょう」「からでありましょう」「~でいらっしゃいましょう」等、或る内容を告げる相手の社会的立場や身分を、自分との関係で示すということが重視されている。言辞形式的身分制度の実践こそが日本語である。敬語の使い分け(例えば崩御、薨去、鬼籍に入る、死亡する)で相手の立場と自分の立場の関係、ヒエラルキーを明示する。

 これは英語でも敬語would youcould youというかたちで存在しはするが、それ以上に伝達的に英語では動詞の使い分けの方がメッセージ論的には大きい。

〇その日本語の特異な使い分けも、所詮、天地任せ的な自然信仰に根差す。雨男とか雨女という規定そのものに内在する迷信的信仰が今も幅を利かせている。それが会社の神棚等にも残っているのだ。(つづき)

 

 

付記 自然信仰への執着心の強い、それこそが自然であるという暗黙の観念が自由主義的・民主主義的な合理性や近代以降の平等の権利その他の観念にことごとく介入している。それが日本型の信用第一主義である。それは広く商習慣から会社の人事等の決裁、そして正規社員と非正規社員との間の差別等で残っている。この問題は今後も継続して取り組んでいかねばならない。

 

 

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2016年12月21日 (水)

空と無Part3 否定を形成する力と無 ニーチェ、ハイデガーを通して考えるⅠ(+アウグスティヌス)

 ニーチェは『悲劇の誕生』に対する自己批評文を1885年から1886年にかけて執筆された『善悪の彼岸』が自費出版された同じ1886年の8月に発表した。その文章の中で次の箇所は注目に値する。

「(前略)キリスト教は、そもそもの初めから、本質的にまた根本的に、生に対する嫌悪であった。生に対する生の不快感であった。言い換えれば、この嫌悪感、不快感がもうひとつ「別の」生、「より良き」生への信仰という名のもとに自己仮装し、自己隠蔽をほどこしたにすぎない。「現世」への憎悪、情念にたいする呪詛、美と官能からの逃避、此岸をいっそう誹謗するための彼岸の発明、つまるところは無へ、終末へ、安息へ、はては「安息日のなかの安息日」へ至ろうとする欲求―これらすべてが、道徳的な諸価値のみを認めようとするキリスト教の絶対的意志と同様に、私はつねに、「没落への意志」のあらゆる可能な形式のなかでもっとも危険な形式、もっとも不気味な形式であるように思われたのだ。すくなくとも、生のもっとも深い病患、疲労、不満、消耗、貧困のしるしのように思われた。なぜなら、道徳(ことにキリスト教的道徳、すなわち絶対的道徳)を前にしたとき、生は本質的に非道徳的ななにものかであるがゆえに、いついかなる場合にも、不可避的に、生は不当な扱いをうけなければならないからである。しまいには生は、侮蔑と永遠の否定との重圧に押しつぶされて、渇望に値しないもの、それ自体価値のないものとして受け取られるようにならざるをえないからである。

 道徳それ自体は、―どうなのであろうか?秘められた破壊本能であり、衰退の、矮小化の、誹謗の原理であり、終末の発端であるとはいえはしまいか?したがってまた、危険中の危険ではないだろうか?」(『世界の名著46 ニーチェ ツァラトゥストラ 手塚富雄訳・悲劇の誕生 西尾幹二訳』中央公論社刊の悲劇の誕生パート・自己批判の試み から)

 ニーチェは分かりやすい哲学者・思想家である。彼の主張の重要な部分がこの短い文章に全て言い表されている。無を志向することで有(存在)、つまり我々の生という世界を原罪として暴くということの内にキリスト教教条性へ徹底的批判を加えたのがニーチェだったのだ。観念的な善、美、正義がキリスト教の、しかもピューリタニズム革命以降に完成した倫理だった。従ってニーチェはその文化圏で育まれてきた哲学の範疇で、その徹底的批判を遂行したのだった。

 或る意味では無を理想として観念的な絶対美の様に取り澄まさせることは、意外と宗教学的にはたやすい。だからこそそれは悪辣な仕業なのであり、ニーチェの言葉をその侭拝借すれば秘められた破壊本能であり、衰退の、矮小化の、誹謗の原理であり、終末の発端である

 だからニーチェの考えるニヒリズムへの対処は、言ってみれば、そういったキリスト教が教条する善、美、正義の観念がアウグスティヌス以降、教義的完成へ向かう思想体系への信仰と精神的依拠に対して、それが瓦解していく過程に自ら読者と共に付き合うという信条があるわけだ。或いは誰しもの心に巣食うそういった疑問へ直接返答をする形式を彼が選び採ったとも言える。

 そのニーチェが生涯を駆けて挑んだ試みを解析したのが晩年のハイデガーだったわけだ。ハイデガーの『ニーチェ』は後半部徹底してニヒリズムの正体を暴こうとしている。ニーチェが暴いたことを暴こうという試みである。それをする必要に対する問いは哲学者に対しては愚問であろう。

 重要なことは聖書が創世記で語っていることは、一つには善悪の知識の木の実を食したことで知恵・知識・羞恥を纏ってしまったアダムとエヴァが楽園を追放されただけでなく、人は寿命が来たら死なねばならず、その為に子孫を儲け彼等を養うために血みどろになって労働しなければいけないという罪が課せられたということなのであり、だから必然的に人類は失楽園により原罪を背負って生きていかなければいけないという倫理的十字架を背負ってきた。それがキリスト教文化へと継承されてきた。それへの抵抗がニーチェによって哲学史上初めて鮮明にマニフェストされたのだ。

 その背景にはアウグスティヌスの『告白』後半で示された神の定義がその後の西欧思想史に多大な影響を齎したことも踏まえておかなければいけない。

二十八章 四三、神よ、「あなたはその造られたすべてのものを見られたのであるが、ごらんください。すべてのものははなはだ善であった。じっさい、わたしたちもまた、すべてのものを見るのであるが、ご覧ください。すべてのものははなはだ善である。」

第二十九章 四四、(前略)あなたはわたしの神であるから、私に答え、あなたの僕の内的な耳に、強い御声をもって語り、私の声をやぶってこう叫ぶである。―「おお、ひとよ、わたしの聖書が語るところはわたしもまた語るのである。ただし、聖書は時において語るけれども、わたしの言葉には時というものはない。わたしの言葉はわたしと同じように永遠に存続するからである。あなたがたは、わたしの霊によって見るものをわたしも見るように、あなたがたはわたしの霊によって語ることをわたしも語る。しかし、あなたがたは時間において見るけれども、わたしは時間において見るのではない。同じように、あなたがたがそれを時間において語るけれども、わたしは時間において語るのではない」と。

 

 ここで重要なのは世界が神により創造され、それは基本的に善であり、我々人もそれを善と受け止めるという認識と、神の絶対性であり、それは或る部分想念として無にも近い何かでもあり得るが、要するに神は全ての時間を超越し見語れるのであり、観念的な実在だということだ。これこそニーチェが最も手厳しく批判したことだったのである。つまりそれは生、現世への侮蔑に彩られているからである。

 創世記では善悪の知識の木の実を食さなければ永遠の命が保証されていたのに、その禁を破ったことで、人は失楽園の憂き目に遭い、俗世へ送り込まれたとされるが、それは生と現世を原罪で彩り、侮蔑することだったとニーチェは考えたわけだ。そしてそれは神を信じない者にとっては最も順当な観念である。しかしニーチェはキリスト教文化圏で、より教養的なものを積んだ人間だったので、その彼が神は死んだことを告げることは、超度級のチャレンジだったことは想像に難くない。

 ハイデガーがニーチェの草稿等から考えているニヒリズムの正体とは、彼の『ニーチェ』の3ヨーロッパのニヒリズムでは次の様なものとして基本的に考えられている。

 (ニヒリズムと西欧的歴史の人間)の冒頭彼はニーチェ草稿を要約している。

一、 われわれは≪目的≫、≪統一≫、≪存在≫というカテゴリーによって≪世界≫(すなわち存在者の全体)のなかへ価値を嵌め込んできたということ。

二、 これらの世界に嵌め込まれたカテゴリーは≪われわれによって再び抜き取られる≫ということ。

三、 カテゴリーの、すなわち価値のこの抜き取りの後では、世界は≪いまや≫無=価値の相を呈するということ。

 つまりここで彼は、先に引用したアウグスティヌスの信念体系が一つのキリスト教の教義と信者のあるべき態度を決定してきたと言えるのだが、その信念体系の崩壊・瓦解の可能性から論じているのだ。単純である。神が在って、その神の下へ死して参る、だが神は完全善なのであるから、至福が我々を導いてくれるという観念で生そのものの意義を見損なってきたキリスト教の教義へ疑問符を突きつけることとは、とりもなおさず、嵌め込まれた(刷り込まれた、と言い換えてもいい)教義から創出される価値観や幸福観を抜き取られた暁には、全てのそれまでの信念体系が崩壊・瓦解する訳だから我々(ここで彼等が言っているのでは西欧的人間であるが)は信念への安らぎの全てがぐらつき、その憔悴感から抜け出る為にはそれとは別の信念体系を(自ら神となるかの如き挑戦に於いて)創出しるしかない。そうでなければ必然的に我々は我々自身を崩壊させずにはおかない。そういうことなのである。

 従ってハイデガーがニーチェ記述を引用して述べる(歴史としてのニヒリズム)の中の「古典的・脱自的で極限的=積極的なニヒリズムの最高の力強さは、自分の外や自分の上にいかなる基準をも知らず、いかなるものをも基準として承認しないのであるから、そのかぎりでは古典的=脱自的ニヒリズムは≪一種の神的思惟様式である≫(一五番)とも言えよう。」としている記述は、一つの神=父に対する父殺し、先祖殺しを請け負ってまで何か別のことを行おうとする重大な行動論的責任を神の死を担った近代以降の我々が背負うということを意味していたのである。(つづき)

 

 付記 重要なことはニヒリズム(このことは次回以降詳述するけれど)とは、一つの確固たる信念体系(それは疑うことすらしなかったものなのだが)が崩壊・瓦解する時に、何を信じても信じられないという極度の真理不信へ陥る憔悴感のことでもあるし、そこに空疎感が呼び込まれるということだ。本シリーズではその空疎感、つまり空しさに対して、無が絶対的揺ぎ無さとして宗教に於いて利用されてきたことを暴きながら、同時に絶対的無というものそれ自体をも見極めていきたい、と考えている。

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2016年12月20日 (火)

数えさせる空間的実在が設定されて在ることと数えることが作る時間と、量という全体Part2

量とは、その量を知る為に数えた時間を取り敢えず無視している。つまり量という全体はどんな瞬間でも時の移ろいが過ぎゆくとそのことを考えさせない様な一種の永遠化を施されている。

〇従って(数えられた)量によって、量全体とは無時間化され、その量を得るプロセス独自の性格を剥奪されている。その限りで量自体が普遍的真理というものがあるものとされる様な認識をさせる契機となっている。

我々の社会に於けるあらゆる数値目標や生産に於ける数量の設定は、あらゆる個々の不測の事態(全ての事態は厳密には不測である)に目を瞑り、統計的な事態把握をなし、その平均値を常に指標とする。つまり数量決定とは常に暫定的な措置に過ぎない。

その社会的な暗黙の了解であるところの平均値による暫定的設定が支配するリアルに対して、我々は全く原初的な数える行為を持つ。それが音楽である。音楽の持つリズムとメロディの抑揚は、平均律からの逸脱の多様性に支えられている。

数学の演算(algorithmアルゴリズム)では一切のリアルな数える行為が省略され、数えることは全て概念化されている。それを軸に生産量と収益数値目標が掲げられる。従って音楽とは原初的なリアルな数えへの回帰を精神に暗に促す目的があると言える。

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2016年12月19日 (月)

本物主義の危険性は常に潜んでいる/権威追随的保守性批判論①

その時々の流行だけを追いかけることを似非的なことであると批判して、本物とは常にそういうこととは違い別の地点にあるのだ、と言いたい向きには、それも一種の権威追随的保守性であると批判したい。

不思議と自然科学の新しい発見に対して人々とはあれは流行だとは言わない。にも関わらず人々が昨今話題となっている様なフレーズ、文句、言説をしきりに強調すると流行に只迎合しているだけだと批判する。そこには実は本物主義という厄介な代物が介在していることが多い。それはかなり危険な兆候である。何故ならそれが本物だという観念をどんなものにも付帯させてしまうと、その価値観から抜け出ることができなくなってしまうからである。

今掲げられている全ての価値と権威に対しても疑問を持つ自由を封殺してはいけない。

社会の枠組みや国体等伝統として守らなければいけないこともあるだろうが、そういったものにさえ何故それを守らなければいけないのか、或いは時代の変化と共に修正していくべきことがないか否かを検証する誠実さは常に必要である。疑問を封殺することだけは避けるべきである。結局本物主義とは、それが正しいと信じて疑わない権威に対する盲従的態度が生み出しているのだから。

本物主義があらゆる流行を似非であるとして切り捨てていく時見捨てられる態度、とりもなおさず、それはちゃんとしたものではないからというかたちで、あらゆる流行より伝統的に死守された価値だけを正しいとすることにより、逆にだけど自然科学の発見は、それはきちんとしたものだから、決して疑うことは許されない、そして科学の進歩は国や人類の未来を明るく照らすものだから、というかたちで、一切の科学それ自体への疑問なのである。だがそれは極めて危険である。やはり自然科学も又時代時代の悪しき人類の精神的傾向へ積極的に加担し、それに迎合して、その矛盾した性質を隠蔽する性格も充分あるのである。

〇だからアニメとかで技術的進歩を最大限に価値とする傾向も、自然科学とその技術の進歩は正しいと信じて疑わない価値規範によるものだとも言える。だがアニメであれ実写であれ、何を描いているかということの中で我々はその表現をいいと思ったり、それ程でないと思ったりするのであり、その自由を侵害すべきではない。

或る固有の開き直りとは即ち似非的なるその時々での流行を作ったり追ったりするだけでよいのだということである。だが実際資本主義社会とはそういうことなのだ。何故なら永遠なる価値は金銭へ交換不可能だからだ。だから本物主義の価値の側から言えば常に似非的現象だけが実際の社会動向の基本的なエレメントなのである。だからここに本物主義なんて無効だし、何の実利もないのだというかたちで似非主義だけが本論だという観念も正当性を帯びる。だがそれもでは本当に正しいのだろうか、という疑問も常に残る。

〇すると我々には実在的動向それ自体をどうにかしたり、どう考えたりするかということと、価値ということを切り離して考える傾向がある、ということが判明する。(つづき)

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数えさせる空間的実在が設定されて在ることと数えることが作る時間と、量という全体Part1

私達は在る。私達は心臓が鼓動を刻むと知る。だからそれを数える。心臓の鼓動という単位を模倣し(それを単位として認識し、それを模倣し)、それに沿って数える。数えるとは単位を作ることであり、単位を前提に発するということである。

数えると、そこに時間(時の移ろい)が生じる。でも数えられるから、つまり(数える為の)時間が在るから、数えられるとも言える。でも私達は永遠に在る訳ではない。在る、とは常に空間的に、だ。でも必ずその空間的に在る、とは、時間的に限りある範囲内でだ。

時間的に在ると言い得るのは私達が数えるからだ。数えられるのは心臓の鼓動を我々が知るからだ。

数えるのは或る同一のカテゴリーの実在する事物(存在者)に対してだ。それは必ずまず空間的にだ。最初はそうだが、でもそれを以前同じ場所に違う存在者が存在したというかたちで、記憶から同じ場所に居た存在者を空間的に見立てて数えることもできる。でも最初はまず空間的に把握している。

だが数えるには一つの数と次の数との間に必ず間が空く。つまり、そこに時が要るし、必然的に時が移ろう。或いは移ろう時を刻むことこそが数えるということでもある。

〇しかし全て数え切ってしまえば、最後に数えられた数は全体の量となる。そういう風に私達は認識する。つまり量とは、再度一々最初から数えずに済ます為、つまり時の移ろいを多く持たぬ様にする(つまり節約する)為に設けられているのだ。

量とは私達が在る時間が限られていることを知る私達が一々最初から数える為の、その為に費やされる時の移ろい(の量)を節約する為に私達が設けた一つの大いなる全体という認識なのだ。

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2016年12月18日 (日)

空と無Part2 哲学と人生の基本理念提示と、アウグスティヌスからニーチェ・ハイデガーへ至る空と無の認識から

我々は基本的に考え抜いた挙句挙行したことに就いては後々後悔すべきではない。何故なら後悔している暇など短い生の時間経済ではあり得ないからである。だがそれは一つの力への意志そのものであり、それは責任の履行ということだ。責任とはとりもなおさず悪を背負うことでもあるそうでない履行は履行の名に値せず、只の気休めである。何かを為すとは敵対者にとって悪を履行する以外ではない)。

〇だが同時に我々は誰しも自分の為だけの人生として全うする自由もある。つまり何も後々残すことなく、自分自身の殆どそれはエゴイズムであっていいのであるが為だけに人生の全てを自分自身にだけ捧げる自由もある。それは未練を自己の死後にまで配慮するということを一切諦め、死後生前の自己行為が問われるということを一切希求せず、そういった意図そのものを完全否定する生き方でもあり得る。死ねば忘れられていいし、それだけが自然だという考えの生き方で、それをニヒリスティッシュだと言うのは、単に未練を自己の死後まで引き摺り生の意義を永遠の彼方へ託すキリスト教的エゴイズムを正統とする固定観念以外ではないとも言い得る。

力への意志はだから上記のことから言えば未練力以外ではない。ニーチェがそこまで言いたかったのか否かはさして重要ではない。重要なことは、現存在とは全てやがて無に帰するのだが、その際に今は無であるかつての或る現存在がこういうことを意味として示したということを真理として価値しとして認めること自体があり得るという想定の下で人生を送ることであり、それは自己自身で一つの未練力へ同意しており、そういった意志が伝えられること、意味として伝達されること自体を信じているということ以外でない。

自分は生まれてきたということ、そしてその短い生の時間に於いて何か生きている間に伝えられたと思いたい、そういう生まれてきた甲斐があったと思いたいからこそ現存在は、自己の死後にも不滅の真理や価値が伝えられる(それは自己というものを通して見定められたという刻印と共にであるが)と思う(と信じる)からこそ、力への意志が自らに齎される。このこと、つまり未練力が真理や価値を見出させているということに於いて洋の東西はない。

ニヒリズムは空の認識が屈折して発展した形態である。だが、他方、無も又ニヒリズムの父である。論理の上では我々全現存在の構成する世界を有(存在)とすることで、無が生み出されているのだが、生命事実である全現存在は死するので、そこに一種の我々自身の有(存在)の、つまり存在者の存在の空しさを発見する。そこに空が生じる。

〇アウグスティヌス『告白』中、第十三巻 二十四章に於いて次の様に述べている。(聖アウグスティヌス告白(下)服部栄次郎訳・岩波文庫)

「三六、それでは、わたしの光よ、真理よ、わたしはどのようにいうべきであろうか。そのようにいわれているのはべつに意味はない、それは空言であるというべきであろうか。敬虔の父よ、けっしてそうではない。あなたの御言の僕がそのようなこということはけっしてない。たとえ、わたしがこの言葉によってあなたがなにを意味されるかを理解することができなくても、わたしよりもすぐれたもの、すなわちわたしよりも理解力のすぐれたものは、あなたが各人に与えられた理解力に従い、それを使用して理解するがよい。しかしわたしは、わたしの告白もまた、あなたの「御眼の前に」美しく見えることを望むであるが、わたしはそれによって、主よ、あなたがそのように語られたものは空しくないと信じるということを告白し、かの句を読むさい、わたしの心に浮かぶものを語らずにおかないようにしよう。じっさい、それは真実であって、わたしがあなたの聖書の比喩的な言葉をそのように考えることを妨げるなにものも見られない。わたしは精神によって唯一の仕方で理解されるものは、物体的に唯一の仕方で現わされるものが精神によってさまざまな仕方で理解されるのを知っているからである。ごらんなさい。神と隣人との愛は単一でありながら、なんとさまざまな秘蹟と無数の多くの言語において、また各々の言語において、どんなに多くの表現の仕方において、物体的に述べられていることだろう。そのように「水」の子も「増して殖える」のである。それからまた、これを読むものはみな注意するがよい。ごらんなさい、聖書が唯一の仕方で述べ、音声が唯一の仕方で伝えるものすなわち、「神ははじめに天地を造られた」ということもさまざまな仕方で、しかも誤謬の誤解ではなく、多様な種類の真実に理解によって理解されるのではなかろうか。そしてそのようにひとの子は「増して殖える」のである。」

 ここでアウグスティヌスが言っていることは「聖書記述は万人に開かれており、その解釈は自由である」ということだ。何故ならキリスト教ではあくまで聖書とは内的に読者が(信者が)自分なりに解釈して教訓とすべきだからである。だがそれはユダヤ教神性とは対立する考えであった。あくまでパウロ以降の新約聖書が加わって以降のキリスト教倫理に於いて体系化したアウグスティヌスの宣言なのだった。

 聖書の意味の伝播が語らえている前半記述では、既に自分より優れた者が更に自発的に意味を解釈する、それは言語理解と意味把握の万民性の主張であり、限られた宗教指導者による特権的な聖書記述占有ではないメッセージとなっている。解釈の自由はそのために必要な布石としてアウグスティヌスが想定したのである。

そのストリームを当然デカルトもカントもヘーゲルも、そしてニーチェもハイデガーも踏襲しているのだ。

 

 尚、アウグスティヌスの記述部分を太字群青色で示した音声と言っている部分こそポストモダン思想に於いてデリダが『グラマトロジーについて』DE LA GRAMMATOROGYで批判した音声中心主義の指針が示されている部分である。デリダはテクスト中心主義へ音声中心主義の持つ精神的理解、内的把握というテクストの解釈の自由を、再度ユダヤ神性的なテクスト自体、テクスト記述客体主義に差し戻そうとしたのである(このことはスーザン・ハンデルマン『誰がモーセを殺したか』The Slayers of Mosesに詳しい)。

その闘争はテクスト主義が内容把握主義と対立するイデオロギーであることを示した彼等の戦略が、より権威をキリスト教からユダヤ教へ返還させる意図でもあったとはハンデルマンの解釈だが、レヴィナスにもそういった意図は確かにあった。それはしかしハイデガーがギリシャをユダヤ化したと捉えたレヴィナスの一つの古典への再解釈、脱構築だった訳だが、そういう組み換えや捉え直しを実現させたのも、やはりニーチェからハイデガーがニヒリズム的な地点から西欧哲学史を編纂し直そうとしたトライアルの延長線上にある、矛盾した展開であるとも言える。ニーチェはギリシャ哲学から西欧哲学史全体を網羅的に把握していたし、その方法論にハイデガーは現代哲学再構築の為の素材として再利用素材の地位を与えようと図ったのだ。

 ハイデガーはニーチェ解釈を通して空疎の一様相であるニヒリズムを無と対立させて考えようとしていたことだけは確かだ。

上記のことを考慮に入れて次回は、更にニーチェに対する解釈を中心に現代哲学の潮流を方向付けようとしているハイデガーの『ニーチェⅡ』中、三―ヨーロッパのニヒリズムから重要箇所を具に見ていくこととしよう。

 

 

付記 私が「同時に我々は誰しも自分の為だけの人生として全うする自由もある。つまり何も後々残すことなく、自分自身の(殆どそれはエゴイズムであっていいのであるが)為だけに人生の全てを自分自身にだけ捧げる自由もある。それは未練を自己の死後にまで配慮するということを一切諦め、死後生前の自己行為が問われるということを一切希求せず、そういった意図そのものを完全否定する生き方でもあり得る。」と述べた箇所の記述は、キリスト教的哲学理念、つまりアウグスティヌス体系化を経由したパウロ発の考えであり、それはやはりギリシャ発の伝統哲学の中では固有の神学として編み直される運命のものでもあり、その相互修正的な歩みが西欧哲学の持つ矛盾した本質であり(それはハイデガーも『ニーチェ』で述べているのだが)、それは何も現代分析哲学の専売特許なのでもなく、アヴィセ(ケ)ンナ(イブン・シーナー)(980-1037)等のアラビア哲学者も既に示していた問題である。独在論として脈々と継承されてきている。そして、それはニーチェやハイデガーの問いとも無論無縁ではないのである。

 

 

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2016年12月17日 (土)

空と無Part1

空(くう)は不在それ自体と、有(存在)自体の空虚さ(空しさ)が生み出す固有の観念である。それは或る部分有(存在)しか生み出せないものだ。だが無は(それも有(存在)が生み出しているのだが)少なくとも実在論的には絶対的なものを持っているだから却って価値や真理とはある存在者が消滅しても消滅しないという永遠性の観念を生み出す端緒となってもいる。このことは最後に再度述べる)。

死者は二度と死なない、とゴダールは映画のセリフでそういわせている。実は死者とは生きていた頃のことを知る者が、かつて存在した者の追想で語る限り、不在者(?)だが、今は無なのであり、それはそれ以上減ることはないと想念するハイデガー(『ニーチェ』ヨーロッパのニヒリズム ニヒリズム、ニヒル、および無より)よろしく、死という事実さえ持たないし、持てない。そもそも無であるということは存在者ではないのだから、持つという事実だから帰属自体があり得ない。

 だからかつて或る死した者のありし日を偲ぶことは、あくまで追想、想起からなのであり、実在の存在者へ向けたことと全く異なる。故に不在者とはあくまで今目の前に居ないだけで、何処かには今も居る者を(或いはいっと居ると信じることでその者を想起しつつ)指すべきであり、死者に適用すべきではない。死者とは無なのであり、存在者としての実在を与えられない。

上記のことから空とは有であるのに、生気を失っていることに対してと、あたかも死者を存在者の様に語る不在性故を死者へも適用することそのことを指すと言えよう。

 そのことをハイデガーは上記引用箇所で更にこう言う。無は無≪である≫と言うに過ぎない場合ですら、われわれは無≪について≫、見かけの上でやはり一種の≪である≫を語り、無をひとつの存在者にし、すなわち無には否認しようとしているものを無に認めることになるのである。」(『ニーチェⅡ』細谷貞雄監訳 加藤登之男・船橋弘訳 平凡社刊)

 従って無とは語られるものではない。一切何も語らないことだけがせめて無を意味し得る。そして何も語らなくても現存在としてそこに居る限り、その事実は有(存在)である。従って無を体現するにはどの現存在も死する以外にはないのだ。

 だから逆にハイデガーも考究している価値や真理への問いが必要となるのだ。何故なら死しても尚現存在であった時分の信じて疑わない真理や価値は不滅だと我々は思うからである。

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2016年12月16日 (金)

日記的記述ED 生まれて初めて自転車転倒事故で骨折してしまったのだが

 一昨日近所のエリアをいつもの様にサイクリングしていたら、何と、後方に大型ダンプの姿を確認したので、その時居た地点で風景写真を撮ろうと思ってカメラを出していたのを、自転車の前の籠に入れていたリュックサックにカメラをしまい込もうとしながら自転車を漕ぎ出そうとした時、自転車のバランスを崩し、前のめりに転倒事故を起こし、その拍子に右側面を強く地面にぶつけてしまった。その時手をついたので何とか頭と顔は大丈夫だったが、その代わり右胸の肋骨を骨折してしまった。骨折をする経験は生まれて初めてである。尚腰は打撲だけで済んで骨折には至らなかった。

 今年の暮れと来年の正月は一切酒を飲めない大人になってから初めての機会となった。まあ、それは仕方ない。自分の過失なのだから。

 しかし最近かなり詰めて毎日ウォーキングやサイクリングをしてきたので、少し休むのにいい機会である。読めなかった多くの本もこの機会に読もうと思うし、執筆にも身が入りそうだとも思っている。

 しかし転倒した瞬間のことは全くクリアに記憶している。地面に右胸や右腰をぶつけた瞬間視界も一瞬紫色一色になってしまい、脳震盪を起こした。

 事故で死ぬ時はきっとこんな感じに見舞われるのだろうと思った。これは一種の極めて稀な臨死体験に近い感覚の経験と言える。

 今後二か月程バンドを胸に巻いて生活しなければいけないわけだが、食欲は充分あるので、他の内臓に損傷がなかったことと、整形外科でレントゲンを撮って貰った以外に念の為脳外科でCTスキャンも撮って貰った結果、脳には全く損傷が無かったことが判明しただけでも良かった。

 肋骨を一本完全骨折してしまっているので、深呼吸や咳や痰が絡んで喉を振動させるのも笑ったりするのも痛みが走るので控えなければいけないが、こういうことも今後繰り返さない方がいいに決まっているが、死なないで済ませられたのだから、いい経験だったと思うしかない。自転車に乗った儘別の作業をしようとするのは危険なので、二度としない様に心がけなければいけない。

 昨日の記事でも書いたが、ボブ・ディランは19667月にNY郊外のウッドストックでオートバイ事故を起こしている。彼は当時ヘロインにも手を染めていた、かなり精神的にも肉体的にも、Like a Rolling Stone等で大成功を収めた後、金銭的には潤っていたが、やばい時期にあったことだけは確かだ。ディランもジミヘンやマッカートニー等同様覚せい剤に関してはかなり負の側面も持っていたということだけは忘れてはいけない。何もかも彼のことを神様視するのは危険である。カウンターカルチャーとは覚醒剤とは切っても切れない関係にあったのである。

 そこまでのトリップ体験とは行かない迄も、自転車が転倒する時一瞬身体が宙に舞って、それから地面に叩き落とされたので、脳神経が異様な快楽を一瞬齎したことは確かである。きっとどんな大事故でも、その瞬間には似たトリップ的な体験を我が身に齎すのであろう。

 それがよく理解できただけでも、貴重な経験だったとさえ言えるかも知れない。今後は何か手を動かす作業をする時は必ず自転車を止めてからしなければいけない。一昨日は運悪く後ろから大型ダンプが目に確認できたので、急いでいたことが最悪の結果へ縺れ込ませた。一瞬でカメラをしまい込めるズボンを履いて自転車に乗る時にデジカメを携帯すべきだということだけは骨身に沁みて分かった。

 又自転車を走行させながらデジカメで写真を撮るのは危険である。(今回は逆にどこかにカメラをしまおうとしていたから、それとは違うけれど)それだけは今後止めようと思う。

 だがこういった負の生活経験では詩を書く題材にだけはなるとは言い得ることである。

 負の経験を正の価値に換えられるか否かが創作家の力量だとも言えよう。

 付記 後方に確認できたダンプはそれより少し先で、私の居た位置より後方で左折したので、その点は良かった。もっと接近していて左折せずそこに来ていたら危なかった。

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2016年12月15日 (木)

ボブ・ディランの歌詞を読み解くPart10 Tangled Up in Blue(ブルーに縺れ込まされて)

 1975年の15枚目の正規スタジオ・アルバムBlood on the Tracks(血の轍)に収められた冒頭の曲Tangled Up in Blueの歌詞を今回は取り上げる。

 

 

 この頃のディラン(当時33歳)は既に世界的に著名であることを通り越して新たな音楽性を更に追求する心の余裕があった。レコーディングは1974年プロデューサー、フィル・ラモーンによって9月にNYで行われ、11月にはリリース予定だったが、ディランが気に入らず直前にキャンセル、12月に弟デヴィッド・ジンマーマンが集めた地元セッションミュージシャンと共にミネアポリスで数曲録り直しし、5曲差し替えて翌年1975117日にリリースされた。ビルボード200チャートで1位、全英アルバムチャートで最高4位を獲得し、RIAAよりダブル・プラチナ・ディスクに認定されており[2]、ディランのスタジオ・アルバムの中でもベスト・セラーとなったアルバムである。(概ねwikipediaから引用)

 

 

 歌詞の日本語訳を試み、下記に示しておこう。

 この曲は邦題は<ブルーにこんがらがって>とされているが、私なりに下記の様に訳した。

ブルーに縺れ込まされて

ある早朝 太陽が照っていて僕はベッドに横たわっていた。

彼女が心変わりしているんじゃないかって思い惑いながら。

もし彼女の髪の毛が未だ赤毛だったなら

彼女の分岐点は彼等が僕達の生活がそれと一体だって言っていた様に確かに辛いものだったかも知れない。

彼等は決してママのホームメイドのドレスを好きになれず、パパの銀行の預金通帳だってそんなに余裕があった訳じゃない。

そして僕は道の脇に突っ立っていた。

雨が僕の靴に当たった。

その時イーストコーストの方に向かって出発していたんだ。

神はご存知でいらっしゃる、僕が何とか生活を切り抜けていくために支払った税金のことなら、

ブルーに縺れ込まされているのさ。

 

彼女は僕達が初めて会って直ぐ結婚した。

でも直ぐ離婚する羽目に陥った。

僕は彼女が困難に陥らない様に助けてあげたとは思う。

でも僕は力を全く使い切れなかった。

僕達はその車に乗って西から抜け出しに行ける所迄行こうと出かけたんだ。

暗い悲しい夜に僕達はお互い別れた方がいいし、それが一番だって意見が一致したんだ。

彼女は僕を見ようと振り返った。

僕がその時歩いて去って行こうとしていた。

僕は肩越しに彼女が言うのが聞こえた。

又いつかアヴェニューでお互い会いましょうね。

ブルーに縺れ込まされているのさ。

 

僕はグレートノースウッドで仕事にありつけた。

暫くの間コックとして働いた。

でも僕はその仕事が完全に自分に合っているとは全く思わなかった。

ある日僕は首になってニューオーリンズに漂流して辿り着いた。

そこで何とか僕は巧い具合に雇用して貰えたんだ。

暫くそこで僕はフィッシングボート(釣り船、漁船)で働いた。

ドラクロワとは正に正反対だった。

でもその間ずっと僕は独りぼっちだった。

過去はすっかり後退していってしまい、

僕は大勢の女性達と擦れ違った。

でも別れた彼女は決して僕の心から去っては行かず、そして僕は只ブルーの中に縺れ込まされてしまっていたって訳さ。

 

彼女はトップレスバーで働いていた。

僕はビールを注文し飲もうとそこに立ち寄っていた。

僕は丁度彼女の横顔を、スポットライトではっきり照らし出された処で見入った。

そして少し経って客がまばらになってきた時、

同じことをしようと

彼女は僕の座る椅子の背もたれの辺りに立っていた。

そしてこう言った「貴方のお名前を知らないものですか。」

僕は呼吸が乱れて不明瞭な声で何か呟いた。

彼女は僕の顔の輪郭を覚えていたことで

僕はきっと心穏やかではなかったと認めなければいけない。

彼女が僕の靴紐を結ぶために屈んだ時

ブルーに縺れ込まされたのさ。

 

彼女はストーヴの炉に火を点けた。

そして僕にパイプを渡してくれた。

「私は貴方ってハローって挨拶すると思っていなかったのよ。」と言って「だって貴方って寡黙な人って気がしたのよ。」と言って詩の本を開いてそれを僕に渡してくれたのさ。

それは13世紀のイタリア人の詩人の本だった。

そしてその詩集のどの言葉も真実の様に響いた。

そして炭火が燃えていく様に思えたんだ。

全てのページから字が零れ出て

あたかも僕から君へ僕の魂に書き込まれていたかの様に思えた。

ブルーに縺れ込まされたのさ。

 

僕は彼等と共にモンタギュー通りで生活した。

地上でなく地下室でなんだ。

一晩中そこでは音楽が鳴っていた。

そして気分は全く革命そのものだった。

そしたら彼が奴隷を扱い始めたって訳さ。

そして彼の中の何かが死んでいった。

彼女は彼女の持ち物全てを売り払ったのさ。

そして中身は凍てついちまったのさ。

そして底辺へとうとう落ちて行って

僕は離れていったって訳さ。

僕がどうすべきか知る唯一のことは、

飛んでいく鳥の様にずっとずっと居続けるっていうことなのさ。

ブルーに縺れ込まされてさ。

 

そして僕は今戻ろうとしているのさ。

僕は彼女の下に何とかして行かなければなんない。

全ての知人の下にもね。

今はそれら全てが幻影だったと僕には思えてしまう。

何人かの数学者達だって居る。

何人かは大工の妻達なんだ。

どういうつてでそれを実現させるべきか分かんない。

僕は彼等が今彼等の人生と共に一体どうやって暮らしているのかさえ知らない。

でも僕は、未だ道の途上なのだ。

違うジョイント(酒場)をあてに

僕達はいつも同じことを感じていたんだ。

僕達はただ違う意見から、それを見ていただけなのさ。

ブルーに縺れ込まされてさ。

 

 本曲は1975117日に米国でリリースされたが、先述のとおり本アルバムBlood on the Tracks自体が演奏と録音の撮り直しで成立しているのでミネアポリスで19741230日というリリース直前と言っていい日時の録音だったことが分かる(リリース翌年1975年1月17日)。息子のジェイコブ・ディランはこのアルバムが言ってみれば恋愛沙汰とかも含む私小説的世界をシンガーソングライターが書くことの一つの傑出した例であると述べている(The album has been viewed as an outstanding example of the confessional singer-songwriter's craft, and it has been called "the truest, most honest account of a love affair from tip to stern ever put down on magnetic tape" from wikipedia Blood on the Tracks in English

この曲のブルーは明らかに憂鬱な意味であり、当時ディランは創作的にもだが、家庭的にも19667月初頭に既にそれ以前に秘密裡に結婚していたサラ・ラウンズとの間に子を儲けており、家庭的にも極めて充実した日々を送っていた。恐らく彼自身のスターダムに乗った半生に於いて、出会った人達や日々の追想的意味合いもある歌詞なのだろうと思う。だからこそ、若き日々ニューヨークに一人出てきた頃のことをこの曲ではコックになってそこも直ぐ辞め漁師になるといったストーリーへと仮託している。勿論デビュー当時彼は未だ結婚していなかったけれど、正式の結婚をする前に共に暮らした恋人は居たので、そのことと、スターとなってから自分の顔を知っていたバーの女性との出会い等を思い出して重ねて書いたのかも知れない。

英語のwikipediaでも指摘されていることだが、そしてこの曲では文法的にも、例えばLike a Rolling StoneでもHow does it feel?と三人称にして二人称疑問文を屈折させている様な意味で、人称もかなり曖昧である(Jasrac規定で英語全文を掲載できないので、是非原文を検索して確かめられたい)。だから肝心のTangled up in blueという「ブルーに縺れ込まされて」という訳詞を与えている部分も、実際人称的に曖昧である。又歌詞叙述内容の面からもこの曲は明らかにLike a Rolling Stone的要素が鏤(ちりば)められている。

 それは「彼女は彼女の持ち物全てを売り払ったのさ。・そして中身は凍てついちまったのさ。・そして底辺へとうとう落ちて行って・僕は離れていったって訳さ。/僕がどうすべきか知る唯一のことは、飛んでいく鳥の様にずっとずっと居続けるっていうことなのさ。」という部分である。英語原歌詞では次の様に歌われている。

She had to sell everything she owned

And froze up inside

And when finally the bottom fell out

I became withdrawn

The only thing I knew how to do

Was to keep on keepin on like a bird that flew

Tangled up in blue

 実はこの最後の部分飛んでいく鳥の箇所は明らかにザ・ビートルズ<ラバー・ソウル>(このアルバムリリースの1965年ディランは<Highway 61revisited>を彼等に先駆けてリリース、そのアルバムにLike a Rolling Stoneが冒頭に収められている)の中のNorwegian Wood(This Bird Has Flown)の歌詞の引用であるし、それより前の本歌詞の「全てのページから字が零れ出て・あたかも僕から君へ僕の魂に書き込まれていたかの様に思えた。」という部分も英語原歌詞では

Pourin off of every page

Like it was written in my soul from me to you

であるが、このfrom me to youの部分はザ・ビートルズの初期名曲From Me to Youの引用である。

 ディランがノーベル文学賞を受賞したことで、確かにかなり数多くのビートルズの楽曲が実はディランからインスパイアされて書かれたという研究も今後期待できるところだが、同時に彼も実はかなりビートルズを意識してきた部分はあったのだ。

例えばBringing It All Back Homeからエレキサウンドを導入して、最初にそのトライアルとして行ったコンサートではHighway 61revisitedから歌ったLike a Rolling Stoneでも大きくエレキギターをフィーチャーして演奏し歌ったことを受けて観客がブーイングを痛烈に飛ばすという事態となったことは有名であるが、ビートルズが居て同時代を席捲していなかったなら、彼をエレキサウンドへ誘うことはなかったかも知れない。

 勿論同国で大活躍していたザ・ビーチ・ボーイズもディランへインスパイアしたことは確かだが、彼等が名作であるPet Soundsを発表したのは1966年だったことを考え併せると、ビーチ・ボーイズの方がそのアルバムではディランやビートルズから影響を受けていることも充分考えられる。

勿論ポール他の証言からビーチ・ボーイズのPet Sounds<ペット・サウンズ>(リリース1966 5.16、録音1965 1.13-15)の存在がビートルズのRevolver<リヴォルヴァー>(リリース1966 8.5 録音1966 4.6-6.21)Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band<サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド>(リリース1967 6.1録音1967 2.1,2,3.3,6)へ影響を与えたことは確かである。

 だがディランのBringing It All Back Home<ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム>(リリース1965 3.22、録音1965 1.13-15)がペット・サウンズへ(上記のリリース、録音日時からしても)影響を与えていることも又確かなのである。ビートルズのRubber Soul<ラバー・ソウル>(リリース1965 12.3 録音1965 6.17, 10.12, 11.1)方がディランのアルバムより後の仕事なのである。だからこそ逆にそれより以前のFrom Me to You<フローム・ミー・トゥー・ユー>(リリース1963 4.12 米国5.27 録音1963 3.5)から拝借することを躊躇わずにディランに歌詞を書かせたとも言える。初期ビートルズをディランは或る部分では羨望の目でも見ていたとは想像されることだ。

 ディランは当時初期傑作である二作目のスタジオ・アルバムThe Freewheelin' Bob Dylan<フリーホイーリン>(Blowin in the Wind<風に吹かれて>を冒頭に収録。リリース1963.5.27 英国11月 録音1962 4.24-1963 4.24)を世に問うた直前だったと日付から分かる。そして何と米国でのFrom Me to You<フローム・ミー・トゥー・ユー>の発売日が自身のアルバムの自国でのリリース日付と全く同じだったのである。そのことをディランが追憶の中で蘇らせない訳がない!

だからディラン自身のこの名作アルバム制作時点ではビートルズは未だそれ程気になる存在ではなかっただろう。当然ビートルズのことを彼は知っていただろうが、今後ディラン研究に於いてディランのファーストアルバムBob Dylan<ボブ・ディラン>(リリース 1962 3.9 英国1962 7月 録音1961 11.20, 22)、そしてビートルズのファーストアルバムPlease Please Me<プリーズ・プリーズ・ミー>(リリース 1963 3.22 録音1962 9.1, 11.26, 1963 2.11)といったディランに続きビートルズがデビューして両者が決定的な名作をリリースする60年代中盤予備期までの彼等の動向、彼等以外のミュージシャンは社会動向全体への緻密な研究が為されていくことだろう。

その際には本人さえ大分忘れている(ポール・マッカートニーはビートルズ解散後のビートルズ時代の細かい色々な仕事分担に就いても忘れていて、彼等の研究家に聞いて確かめるということも十数年前に在った)ことを考え併せるとディランに関しても既に半世紀が過ぎ去っているので、かなり本人の口から確認するだけに留まらない慎重な研究が求められていくことだろう。

 今回は歌詞内容を中心に考えたので其処ら辺の研究分析仕事は別の機会へ譲ろうと思う。

 因みに本曲に引用されているNorwegian Woodのリリースは英国では1965 12.3であり、米国では1966 3.15である(因みに録音は1965 10.12, 21である)ので、ディランは当時ヘロインに手を染めていて、翌年そういった悪習慣も手伝ってか1966729日にNYウッドストックにてバイクの事故を起こしている。だから今回の歌詞に登場する冒頭のベッドに横たわっている部分はそのバイク事故と瀕死の重傷を負って(一説にはかなり深刻だったとも言われる)、それが追憶としてふいに出てきたと考えることも自然である。

 ビートルズにマリワナ吸引の習慣を教えたのはディランだとされる。ディランはそういった現代社会では負の部分でも当時のカウンター・カルチャーの雰囲気の中でビートルズにそういったことも教えて、後ジョン・レノンもジョージ・ハリスンもビートルズ時代逮捕されているし、解散後にはポールはスウェーデンと日本とで逮捕されていて、そういった負の連鎖も彼等へ譲り渡したとも言える。

 この曲は大勢の著名ミュージシャンにカヴァーされている。例えばグレート・ホワイト、ジェリー・ガルシア(元グレートフル・デッド<彼等は後にディランと共演しアルバムも出している>)、ディッキー・ベッツ(元オールマン・ブラザース・バンド)、バーズ等である。

 さて長々と余計なことも書いてきてしまったけれど、実際Tangled Up in Blueという曲の曲風(作曲や演奏)はカントリー&ウェスタン調であり、リラックスして聴ける。

 これは当時の米国音楽シーンでエリック・クラプトンがレイドバック(ゆったりと寛いだ雰囲気のこと)ということを世界的に普及させたとも言い得るが、彼の仕事の中でとりわけ<エリック・クラプトン・ソロ>Eric Clapton(リリース1970.8録音1969.111970.3)、<レイラ>Layla and Other Assorted Love Songs(リリース 1970.11 録音1970 8.28-10.2)、そして再度ソロとなってからの<461オーシャン・ブールヴァード>(リリース 1974.7 録音1974 4-5)の三作品がアメリカロックからレゲエに至る迄多くのエッセンスを彼が引っ提げて世界に影響を与えたと言い得るが、そのウェイヴをディランも意識していたと思われる。

 今回のディランの曲の紹介は、既に70年代以降はディランも60年代中期的なカリスマ性から徐々に自分自身でもそうだし、世界中の人々も違う時代へ差し掛かっていき完全に世代も移行していく流れの中で一ミュージシャンとして自分以外の全ての人達と協働していくという意識がより鮮明となって、それはデビュー当時の彼自身も持っていた筈の初々しさを取り戻していく時代だったという視点から書いてみた。

 又いずれディランの歌詞だけをメインに時代と相補的な意味で取り上げる機会も訪れるだろうが、暫くディランの歌詞の詩としてのメッセージを彼より先人との間の関係から探ってみたい。

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2016年12月14日 (水)

夜の力・闇の深さ・黒の強さ、美しさ・無の絶対さから世界全体を見直せ!

ニーチェは言った。昼と世界よ。お前はあまりに不器用だ、と。昼、とりわけ日光が充分地へ届く時余りにも全てがあっけらかんと明らかだ。何も隠すことなんてできない。

翻って夜を見てみよう。

何をしでかしても闇の持つ黒の中に打ち沈められてしまう。全てがあたかも無かったかのように。

夜の闇の黒が隠す全ては、善も悪も等価にする。

その余りに惰性的でやりきれなく明らかに見え難さの強さを何で人は避けたいと思うのだろう?

夜、その暗い闇こそが、全てを生み出す力、その強みが潜んでいるのではないか!

確かに闇に蠢くものは見分けられない。

でもそれは闇に存在するものが単純であることを意味しない。

どこまでも暗く深いこと、黒々として他の全ての色を吸収してしまう底知れなさ、無へ同化する力の余りに安穏とした変わりなさ。

それは恐れ避けつつも吸い寄せられたくなる何かが決定的にある。

夜はあらゆる悪、邪心への誘惑を作る。

闇は疚しい者へ隠れ潜む惑溺を作る。

それでも黒は美しい。まるで無そのものの無限の力強さを含んでいる。

余りにもあっけらかんとして無頓着で、それでいて全てを受け入れつつ、全てへ放任し、何に対しても深く関わり合わないのに、どんなものにも容易に宿る闇と黒。それは夜でなくても。

※黒はだが、昼間は空やそこここへ宿ってはいないからこそ引き立ち美となる。

黒の美には白を基調とした明るみの安定が必要なのだ。

だが無には色はない。それは透明でさえない。

無には形がない。

でも夜と闇が存在者の識別を困難にするから無を黒と我々はややもすると連想する。

でも無は白でも連想できる。となるとそれは透明とも近くなる。

黒と白は透明が結ぶ。

だが無はやはり黒でも白でも透明でもない。

黒と白より透明は高次で、無は更に高次だ。

白は他の全ての色を引き立て、黒は全ての色を吸収し無化する。

透明はその前にも後ろにも存在を気づかせない。だから無に感性的に近い。でも透明は必ずその向こうに何かを見えさせる。

無はそれさえもない。無は具体的想像の全てを最初から拒絶し無効化する。

無色透明は全的な他の色への依存の別名だが、無は他へ一切依存しない。

昼は白の分量の黒への勝利、夜は黒の分量の白への勝利。昼の闇は夜の可能性を、夜の明かりは昼の可能性を示唆し、無は一切の示唆を拒否する。だが拒否する主体でさえない。

主体の絶対的不在、不在という過去の存在の記憶さえ無い無に、我々は生きている限り到達できない。

有は無の前ではどんな偉大でも儚い。

夜も闇と黒も所詮有の一幕でしかない。

だからそれらは昼と灯りと白と仲良くするしかない。

2016.8.19,12.13,修正12.14

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2016年12月13日 (火)

去年暮れから今年考えたことの幾つかの核心に就いて再度確認する

〇「空間を選ばず、どの空間でもそこに展開される情景と無縁の即物的なスケールだけなら、それは永遠の蘇生されなさ、つまり死に近い。」と「時間の性質Ⅱ先送り論・死は存在を純粋空間化する①」で述べた。そのことの背景にはメモされていた続きがあった。それは「それは量そのものである。或いは単位的単一化(画一化)である。単位と単位が生み出すことこそ、それである。範囲設定が世界を我々にとって画一化させるのだ。」である。

〇だがよく考えてみると、空間が完全に展開される情景と切り離されておらず(そう思うのは我々の思考の習慣でしかないかも知れず)、そこここの空間には情景や事物や自然条件と密接に繋がっているとしたなら、自然の斉一性そのものが完全なものではないということになるし、それは大いにあり得ることである。<科学ではそんな筈はないと決めつけているだけかも知れない。>

形には意味はないと言えるが、意味に形を付与したくなるのは、視覚的な識別で意味を理解したいという我々の欲求からである。だが意味に形を付与できるなら、形にも意味を付与できるのではないかと思いたくなる。つまりそれだけ我々は形の違いから何もかも識別して判断しているということだ。あの人の仕事をしている時の恰好(身嗜みや服装)は適切ではない、とか。

空間を量化するのも所詮我々の思考の習慣の為せる技でしかないとも言える。それが真実なら、我々が空間を量化するのが形には意味がないという決めつけからだということにもなるが、空間を量化できない質の様なものがそこここで個別性としてあるなら、形にもやはりそれぞれ意味があるということになる。ここで堂々巡り的な真実の謎が見えてきた。哲学に於いても物理学に於いても形の問題にはやはり大きなことがある。生物学形態論でも生命個々の形には意味がある。だから記号として理解する形と、そういった存在者個々の形態論的条件とはやはり分けて考えていかなければいけない。と言うのも、記号理解は相互に意思疎通し合える為に分かりやすい便宜性が必要だからであり、それは社会習慣の問題だからだ。となると、やはり言語論としての形と物理学や生物学の形とでは大きな開きがあるということとなる。当然と言えば当然だが、そうなると何故我々の脳が何かを理解する時、分かりやすい図示を必要とするかということ、それはやはり言語的な我々固有の意思疎通が関係していることだけは確かだが、愛着には生命固有の形態論的なことに対してと、理解する為の便宜的仮定に対してと、全く相反する二つへのものがある、ということにもなる。

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悲しいって気持ちは避けたくない

生きてゆくことは辛いことだ。

楽しいこと、嬉しいことは、ほんの時々しかない。

次から次へと襲ってくる難問。

悲しい別れや人生の喪失が到るところで待ち構えている。

どんな切実な時間も、愛しい瞬間も、全て過去となり、今程の大切さは失われる。

愛しく思う気持ちさえあの時のこととなり、悲しくて引き裂かれそうだと思っていた気持ちさえ、時間が経てば只の事実となる。そのことが悲しい。だから悲しいって気持ちは避けたくない。

悲し過ぎる時は、悲しくても食べなきゃいけないので、食べる時少しだけ忘れたくなる。

悲し過ぎると、悲しくて仕方なさよ、飛んで行けって心で叫ぶ。

でも悲しさを持てなくなり過ぎると、もう一人の僕が心に叫ぶ。悲しさや切なさを持てな過ぎると、やばいぞってね。

悲しいって気持ちは忘れたくもない。

悲しくなれない自分を悲しむことくらいならできる。

だから悲しくなれないことを悲しむなら、いずれ悲しい気持ちを取り戻せるだろう。

悲しいって思える時は思い切り悲しんでいい。

その悲しさに感謝できる時も来る。

だからどんな小さな悲しさでも、悲しいって気持ちを避けたくない。

2016.8.11,31 12.12☆)

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2016年12月12日 (月)

歌詞が誘発する哲学思想と宗教史的解釈Part4 宇多田ヒカル<Fantôme>から考える 哲学の禁欲性と相補的なエンタメ的詩人のクリエイティヴィティと宇多田の詩的哲学直観

 

宇多田ヒカルはNYで生まれ育っているので、アメリカ社会を知っている。だが同時に両親が日本人なので日本文化も肌で知っている。それだけではない。母、藤圭子の父は浪曲歌手阿部壮(つよし)、彼女の母は三味線瞽女竹山澄子(2010年に享年80歳にて死去)であり、宇多田の歌唱力や作曲的感性、歌詞の感性には親子三代に渡る綿々と続く音楽素養が脈打っている。

 

例えば<花束を君に>の「眩い風景の数々をありがとう」のありがとうの部分のメリスマ(独特の小節で抑揚をつけて上げたり下げたりする浪曲・歌謡曲・都都逸・ゴスペル・リズム&ブルース等の歌唱法)が使われているし、メリスマは<真夏の通り雨>の「これでいいんだと言い聞かせているけど」のけどの部分でも活かされている。これはアメリカ的ではない。

 

 又同時に彼女の詩人としての感性を見てみると、<人魚>の美しいメロディと歌唱と相俟って「水面に踊る光に誘われて」「水面に映る花火を追いかけて」では日本的な伝統的風情と情緒を醸し出している。<花束を君に>では「毎日の人知れぬ苦労や淋しみも無く」でも日本語固有の(日本人でなければ発想しない)言葉の選びをしている。

 

だが彼女は更に同時にその同じ曲<人魚>で「シルクのブラウスが濡れるほど」と歌っているし、「真珠のベッドが揺れる頃」等と歌っているし、<二時間だけのバカンス>では冒頭で「クローゼットの奥で眠るドレス 履かれる日を待つハイヒール」としっかり経済生活に決して疲弊することのない先進国のブルジョワ生活からしか出てこない歌詞も披露する。それは彼女や彼女を天才と持て囃す全ての日本人の世代がリッチな感性を見せないと満足しないと知っているそれは美輪明宏の<ヨイトマケの歌>的世界が現代青年が育った日本とは違う世界だと知っていて、美輪の歌にも感動するけど、ヒッキーにはそういう歌を歌って欲しくないという暗黙の要請に従っている)からでもあるのだ。

 

だが彼女が通常の日本人には書けない歌詞もやはり示している。それは例えば<道>の中の「人は生きてるんじゃなく生かされてる」とか<真夏の通り雨>の中の「自由になる自由がある」等の歌詞は明らかに同世代の他の日本人アーティストと異なっている。キリスト教文化も肌で知っているからこそ、こういった歌詞が出てくる。この曲で彼女が「揺れる若葉に手を伸ばし あなたに思い馳せる時 いつになったら悲しくなくなる 教えてほしい」と歌っているのは明らかに藤圭子へ向けてである。<道>で「転んでも起き上がる 迷ったら立ち止まる そして問う あなたなら こんな時どうする」と歌っているのもやはり藤圭子へ向けてである。<花束を君に>では「世界中が雨の日も 君の笑顔が太陽だったよ 今は伝わらなくても 真実には変わりないさ 抱きしめてよ、たった一度 さよならの前に」も自らを父か、圭子を慕った日本の男性に準えてやはり藤圭子へ向けて発せられている。

 

このアルバムは一つのレクイエムでもあるし、母へのオマージュなのであり、それと同時に彼女の再出発の狼煙となっている。

 

 

 

本シリーズは宇多田ヒカルの歌の歌詞の持つ意味に触発されて、誰しもが心に抱いている宗教倫理性と哲学思想性を炙り出していくことが目的であった。それは同時に宗教・哲学・思想の持つ禁欲性と対比的に捉えることで一見自由に見える歌の歌詞も、又別の意味で固有のストイシズムの洗礼も受けているのだ、ということの発見の意味もある。

 

復習しておくと、ニーチェが称揚した軽いものの価値にはダンスがあった。ダンスの持つ音楽性は宇多田ヒカルの持つ<ともだち>のリズムのラップ性と重なる。それは学術としての哲学には為し得ないことなのである。何故なら哲学の限界とは、明らかに哲学自身はよく心得ている示唆と提言という可能性そのものなのであり、その点で哲学はやはり決定的に教育なのである。

 

そしてそれは本記事で最も私が主張したいことなのであるが、それはあくまでポストモダンを文学批評として捉えたイェール学派の持っていたイデオロギーが宇多田ヒカルの<俺の彼女>と同時にそれと対比的に<ともだち>の様な異なった性的志向を示す自由を歌詞が持っている様な態度を歓迎し、促進したいと願うその事実を、客体化することで、学術的信憑性を齎すことの方を、哲学というものが上位に置いていて、イェール学派の学者達の試みた批評行為の学術化とは異なった懐疑主義を常に維持し続けなければいけないからである。

 

つまり哲学とは現実社会の責任論的視点での共感を無視してかからねば哲学足り得ないということなのである。何故ならそれは学術だからであり、学術の目的は社会実践される場を提示し、提言するに留まっていなければいけないからである。

 

その点完全に学術としての目的自体が哲学は教育なのである

 

だがそもそも舞踊、音楽、そして歌で音楽と結びついている文学は断じて教育ではないのである。

 

だからそのことへの自覚こそが逆説的に、反省的に哲学自身をぎりぎり学術の快楽主義へと結びつけることをニーチェ、そしてポストモダンと徐々に創世記記述の羞恥の克服を志向し、意図させてきた訳であるが、あくまでメソッド的に哲学とは、世界を叙述で一般化させようと欲する文学と違って世界を客観的論述で記述しようとする特殊化の行為であり続けたからなのだ。

 

それはあくまで現実社会へのメッセージとして機能する商品としての共感と受け取られることを拒否する教育理念からの姿勢の為せる技である。

 

だからこそ私達は例えば宇多田ヒカルの音楽がサビのリフレイン等にミニマル・ミュージックの痕跡、と言うより彼女の恐らく意図的戦略を読み取ることが可能である(<道><ともだち><真夏の通り雨>等でリフレインを効果的に使っている処に、それが見られる)けれど、その音楽楽理性から一々理解する以前に、それを文学の持つ表現娯楽性、物語的設定的快楽を音楽に接合させてきた歌をエンタメ(純粋娯楽)として楽しむという習慣の中で聴くことができるのである。

 

それは他方で哲学の様なだから例えば宇多田ヒカルを本記事の様に解析することを通して、彼女の音楽や歌を愉しむのではなく上記で私が述べた様なミニマル・ミュージックからの咀嚼等への分析をしようとする教育を意図する学術が存在し続けているからこそ、その教育的義務は哲学に任せて、その専門家ではない一般市民である我々はヒッキーの音楽と歌を愉しむことができる、とも言い得るのである。

 

そして宇多田ヒカルの今回のアルバムでは唯一全くエンタメ的要素だけでは推し量れない楽曲こそ<荒野の狼><忘却>である。

 

最後にこの曲の歌詞と楽曲自体の持つ構造から宇多田ヒカルの歌詞を中心とする哲学思想的エッセンスに就いて解析してみよう。

 

<荒野の狼>では「まずは何でも仲間に相談する男 カッコいいと思ってタバコ吸う女の子」とか「偽物の安心に悪者探し」とかの世相的人間模様を論ってから「誰にも消せない痛みを 今宵は私に預けなさい」等とシリアスな歌詞へと移行させたり、「言葉にできない想いを 今宵は歌にして聴かせたい 荒野の狼 二匹の月夜舞台」でクライマックスに持っていくかと思えば、「涙は見せない主義でも 今宵は私と濡れたらいい」等とどきっとする歌詞を登場させ、でも歌っているのは荒野をさすらう狼同士なので、あのことではないのだなと思わせたりする手腕はなかなかのものである。

 

誰だって同じ 帰る場所が欲しい だけど 無いものは無い」それが或る部分現代人の本質かも知れない。

 

この曲ではやはり宇多田自身の人生を重ね合わせているし、<忘却>では更に現代社会の矛盾を生きる私達の姿を抉って見せてくれる。<二時間だけのバカンス>は現代人にとって都市ビジネスオフィス空間で就労を全うするには、労働を軽い気分でこなしていかなければ持続は不可能であり、そのことをあの軽快なメロディと二時間だけ車を飛ばすランデブーで示したのだった。だからあの曲は現代の子守歌である。対し<真夏の通り雨>では「勝てぬ戦に息切らし あなたに身を焦がした日々 忘れちゃったら私じゃなくなる 教えて 正しいサヨナラの仕方を」では仕事に邁進する自分と彼女の母への追憶から語っていた。

 

それが<忘却>では自分自身だけでなく、現代人全ての思いへと切り替わる。

 

3歳の記憶 23年前のいい思い出も 思い出せないけど 忘れられないこと 汚ないものでも 美しく見える」という意味深な歌詞が冒頭近く登場する。とりわけ「思い出せないけど 忘れられないこと」が重要だ。思い出したくないから何時も考えているわけではないけれど、折につけ不意に思い出されてしまう(つまり向こうから勝手にその時々の今に押し寄せる)忘れられないことが誰にでもある。でも「汚ないものでも 美しく見える」と言っているのだから、それはトラウマ的なことではないのだろう。「記憶なんてゴミ箱へ捨てる ガソリンかけて燃やしちゃえ」の後に「喪服に着替え お迎えがくるまで 生きてんのは死ぬ為」は生きている者は死者を弔うことと、死ぬまで生きていくのは死ぬ為だというニヒリスティッシュな感慨をぶちまけておいて、「そんで産まれてくる それだけ お墓ん中へ 行ければ幸せ」ととどめを刺す。

 

これはブラックアイロニーだし、「全部忘れたらいい 過去にすがるなんてださい もういらない」とここ迄は全てフィーチャーしたKOHHの歌詞で、宇多田がその後で返答の様に「明るい場所へ続く道が 明るいとは限らないんだ 出口はどこだ 入り口ばっか 深い森を走った」で一番が終わる。出口無しの現代人の状況をさらりと言っておいて二番に入ると、「強い酒と吐いたゲロ 二度と戻らない 出来ればもう一回 飲んだ唾を吐きたい」とサルトルの『嘔吐』的な歌詞を登場させたかと思うと、「男にも二言あり 大好きだから嫌い」「幸せなのに辛い」とアイロニカルにパラドキシカルにさらりと世界の真理を言ってのけて、宇多田の返答歌詞は「カバンは嫌い 邪魔なだけ 強いお酒にこわい夢 いつか死ぬ時 手ぶらがbest」で歌は終わる。強い酒を飲むのはこわい夢を見たくないから、夢さえ見れない様にしたいからなのかも知れない。

 

最後の歌詞はビジネスでも身軽な方がいいということと、ビジネス的な時間に野垂れ死にする現代人の姿を皮肉っぽく締め括りに利用しているのだ。エリオットの『荒地』的な都会空間の人間の姿を描出させながら、宇多田ヒカルは自分の母藤圭子への思慕を、より現代社会全体の問題へと置き換えようとしている。

 

哲学は教育だけど、歌詞は教育ではないし、歌を歌うことも聴くことも教育ではない。だから教育は問うことを問う哲学に任せておけという意味で、宇多田ヒカルの歌詞には現代人の簡素な環境に優しい気遣いが、輪廻的に忙しいサイクルを独楽鼠の様に回転し続ける様への愛おしさがよく表現されている。それは哲学では示せない言葉の連なりである。でもそれはやはりポストモダン等の思想潮流が怒涛の如く走り去った後に成立する現代固有のヒッキーによる実存主義的ポエムの為せる技なのかも知れない。

 

 

 

 

 

付記 ニーチェの<ツァラトゥストラ>は警句や物語的要素からして極めて文学的要素も強い。だが彼が多用した重要箇所第一部<まむしのかみ傷>Vom Biss der Natter等は短い64行で19パラグラフ中実に14か所もの命令文であること(勧誘文であるが半ば強制的な使役に近いものも1か所含めればであるが、それ以外も訓戒的要素の強い平叙文が多く登場することをもってしても)は、明らかにニーチェの文章が論述であり、哲学思考誘引的形式のものであることは明らかである。

 

尚、宇多田ヒカルのアルバムに就いて言えば、初回扱った二曲に関して<俺の彼女>は典型的なリズム&ブルースであり、<ともだち>は軽快なラップ調で共に曲風は暗い感じではない(人それぞれ感じ方は異なるだろうが)それ以外で椎名林檎をフィーチャーしコラボしている<二時間だけのバカンス>、軽いジョーク的な韻律を重視した<人生最高の日>を含め、この四曲はややもすれば全体的トーンが宗教巡礼的な瞑想性へ沈潜していく趣きなので、救いとなっている。そして今回扱った以外でも哲学的歌詞が宇多田の世界では主流となってきている。その意味では批評的・修辞学的解釈も同時にしやすい素材だとも言える。

 

いずれ他の歌詞に就いてもヒッキーに就いては触れる機会が訪れるだろう。その時も今回の様にダイナミックに哲学テクスト等と突き合わせていこうと考えている。

 

 

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2016年12月11日 (日)

世界の真理Part70

〇理由とか根拠のはっきりしていることは、無視出来ないし、踏まえておく必要があるけれど、それらはやはり最も大切な何かでもない、少なくとも創造や学究に於いて。つまり理由や根拠がきっと何処かにはあるに違いないと確信しているにも関わらず、それがこれだと言い切れない、どうしてもはっきりとは分からないが、だが無視できない何かを決定的に持っていることが最も大切な何かなのである。

〇少ない資源からしか始められないことはあるが、それは一つの大いなる可能性にも繋がる。少しずつ資源を増やしていけばいいのだけれど、少ない資源の時にしか想像できない色々なこともあるし、少ない資源であればこそ、それだけをできる限り利用し尽くし、あらゆる可能性を探ることから、何か重要な発見が齎される。

素朴なこと、それはしばしばその素朴さ故に魅力を放っているのだけれど、そこに性急に何かその理由を見出さない方がいい。そういう付け焼刃的な根拠の結論は、やはり素朴な魅力の持つ存在理由を見失わせる。分からないことを分からない侭にしておいた方がずっと性急に辻褄を合わせ理解するよりも、もっと深い何かを発見することに繋がる。本当に価値あるものとはいつまでも心に引っかかっている様なことの中にだけあるのだ。

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2016年12月10日 (土)

無と無限を超えてPart4

時間は惰性的延長、継続と言える。最も無反省な持続である。

上記のことを或る動作の延長(同じ状態の維持)とは模倣する。自転車を力一杯漕ぐ(最初の何回転かペダルを回す)と、後は何しなくても暫く自転車は勝手に走り続ける。それは自然が動作にだけ集中し、一切の試行錯誤も躊躇もない。その点直線とは最もそれら試行錯誤や躊躇の無さを示す痕跡である。例えば風(遮蔽物により屈折する等の地形条件を度外視すれば、完全直進になり得る)、一定程度の固体的重量を持つ物体の引力による落下等々。

曲線には自然の意志がある。直線の一切の試行錯誤の断念(放棄)とは対極の捩れた軌道へ沿う意志がある。我々の蛇行はそれを模倣する(序に我々の心的意志も、それを模倣する)。

氷結する時、不完全なマイナス温度である限り、不完全凝固となる。それは自然の側からも非納得である。完全凝固(納得)を志向しながら、断念するプロセスには試行錯誤や躊躇がある。

延長・継続には空間的にも時間的にも惰性的性格がある。

直線は自然の側から言えば力学的完全委任がある。それは試行錯誤や躊躇の返上と言える。全面委任と例えば氷結が貫徹され得ない自然のジレンマの間には、明確な差、性質的異性がある。全面委任には自然の承認、自然のジレンマには検討、つまり決定し得ない試行錯誤がある。

力学的な全面委任や検討には無と無限を超え得る自然の述語論理外の何かがある。それは命題論理には違いなかろうが、意志の起源的な性格がある。それは自然には現存在の思考に対して原思考・現存在の意志に対して原意志がある、と思われるからだ。

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映画『アズミ・ハルコは行方不明』の持っている現代映画潮流の中での意味

 映画に造詣の深い大阪芸大の美術学生だった36歳の作家・エッセイスト山内マリコの単行本小説『アズミ・ハルコは行方不明』を三年程前に映画化の企画が持ち上がり、昨年撮影を終え、今年上映される運びとなった映画『アズミ・ハルコは行方不明』は主演の蒼井優(七年ぶりの映画単独主演)、そして俊英監督の松居大悟にとって七本目の長編実写映画、そしてプロデューサー枝見洋子この三人が31歳同年ということもあってアラサーの人達や彼等の目線から見た女子高生や二十歳のそれぞれ少しずつずれた世代の青年達の群像を描いている。

 

 映画は安曇晴子が或る日失踪する車の運転シーンから始まる。映画は時系列がかなり錯綜していて、出来事が起きた順番に鑑賞することを観客に許さず、恐らく監督と脚本家瀬戸山美咲の主観による時系列の錯綜から、ストーリーを追うのでなく、あくまでその時々のエピソードの叙述、役者の演技や映像を見せることが目的で作られているということが映画の冒頭から語られる。

 

 主演の蒼井優は全体量としては極めて数少ない台詞と表情と所作だけで強烈な印象を残している。助演の高畑充希はおキャンな二十歳の女性木南愛菜を演じ、成人式やその周辺の時期での男性との交友等で羽目を外す現代女性を好演している。彼女が主演安曇晴子と共演するシーンは僅かだが、映画全体のトーンから言えば古い映画の話で恐縮だが、『第三の男』(キャロル・リード監督)でオースン・ウェルズがジョセフ・コットンと出会う観覧車の下のシーンくらいの重量がある。

 映像がとても美しく、破天荒な青春群像を表現する駒となっている助演の太賀(富樫ユキオ)、葉山奨之(三橋学)、映画の中では唯一主演蒼井演じる安曇晴子と同世代である男性として彼女とセックスシーンを演じる石橋ひゅーい(曽我雄二)<彼は映画初出演らしい。ミュージシャンが本業の彼が意外と最も強烈な助演役者としての印象を残している>といったラインナップで映画が進行する。

 

 実はこの種の青春群像映画はかなり大昔から存在した。

 監督名から挙げるとジャン・リュック・ゴダール(『男性・女性』)、ミケランジェロ・アントニオーニ(『太陽はひとりぼっち』『欲望』)、藤田敏八(『赤い鳥逃げた?』『スローなブギにしてくれ』)、東陽一(『もう頬づえはつかない』)等の括弧内の作品とこの映画は同系列である。

 

 だが重要なことはこの映画では現代日本社会の矛盾をきちんと描いていることである。

 とりわけ安曇晴子が勤務する会社の社長(国広富之)と晴子の先輩社員である吉澤ひろ子(山田真歩)とのやり取りで浮かび上がらせる(この部分は映画では極めて重要だし、丹念に描かれているけれど、恐らく原作小説でも重要な箇所だし、脚本家も監督も納得づくで作られたのだろう)。

 それは現代日本社会がこの映画に登場する地方で大型ショッピングセンター等が充実している利便性にも関わらず今も尚女子社員をお茶汲み程度の存在理由しか大半の男子社員が見做していないという現実である。

 だから先輩独身女子社員吉澤ひろ子が結婚退社する際にブルキナファソにフランス人と結婚して移住するということを社長に告げ社長とその補佐役の社員が目を丸くしているシーンの後、さんざん低賃金で使いっ走りとしてこきつかわれた腹いせに、社長達は結婚相手が黒人だけど、そのことは告げずフランス人というだけで目を丸くするのだからいい気味だとそう告げる吉澤ひろ子と晴子が二人で笑い転げるシーンが連続しているのだが、このことが伏線で映画冒頭の晴子の失踪が納得されていく仕掛けになっている。

 

 日本社会の女性蔑視は今も根強く、それは地方では殊更そうである。それを描いているだけでもこの映画は見る価値がある。

 

 それ以外ではアラサーの晴子や二十歳の愛菜の青春と性、そしてその取り巻きの助演役者達、特に富樫と三橋のストリートアーティストよろしくペンキでガードレールや橋梁やブロック塀等にスプレーして失踪者安曇晴子のステンシルで落書きをして回る下り、そして世間を騒がせる男性を襲う女子高生集団の暴力的逃避行の描写である。

 この映画には現代社会に於ける特に女性を取り巻く社会環境への警告、そして青年世代とそれを利用しようとする中年世代との確執がきっちりと描かれている。

 

 今年は日本映画を随分鑑賞したが、一方では現代日本映画では『I AM A HERO』『秘密 THE TOP SECRET』『クリーピー 偽りの隣人』『ミュージアム』等現代社会の猟奇性をクローズアップさせた主題の映画が目白押しの中で、本映画の様な古典的なテーマを取り上げ、尚且つ現代日本社会の実質的病巣を抉るという意味で、特に本映画で既に七本目の映画となる監督松居大悟(福岡県出身、劇団ゴジゲン主宰者として既にかなりの舞台演出も手掛け、役者としても活躍する)の手腕に拍手喝采したい。

 

 私的なことであるが舞台挨拶等の機会で直に話をすることができた監督は過去に三人居る。かなり大昔80年代初頭に早稲田大学文化祭と映画『陽炎座』上映舞台挨拶で鈴木清順監督と、そして次いで昨年末『ワンダフルワールドエンド』上映の際の舞台挨拶でこの松居大悟監督と、そして今年『木屋町DARUMA』上映舞台挨拶で榊英雄監督である。その三人からサインも頂いている。

 

 松居監督の今後に大いに中年映画ファンとしては期待したいものがある。尚本映画は東京エリアでは新宿武蔵野館、渋谷シネパレス、お台場シネマメディアージュ、シネ・リーブル池袋、ユナイテッド・シネマ豊洲で上映中である。上映時間100分。

 

 久しぶりにもう一度上映館で見てみたいと思わせる映画と出会えて幸運であった。

 

 付記 この映画でも現代社会の猟奇性は、とりわけ女子高生による一連の男性襲撃事件の描写で描かれているのだが、それは一つの現代社会の底流にあるリアルとして踏まえられているのだが、主要なテーマはやはり安曇晴子にみられる現代社会を生き抜く女性像であり、それと並行して描かれる木南愛菜や彼女達と同世代の青年達の日常である。その部分で本映画は他の現代社会の猟奇性を描く映画とは一線を分かつと思われる。又役者演技や存在感から蒼井や高畑、そして太賀、葉山、石崎をクローズアップさせた点でも本映画のヴァリューが他の映画より群を抜いているということは特筆すべきことである。

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2016年12月 9日 (金)

尚問題となり得ることを再び、そこからもっと普遍的な問いになり得るだろうか?①

今年は去年に引き続きハイデガーを読みつつ、前半はニーチェの<ツァラトゥストラ>を中心に、それ以前の著作、それ以後の著作を幾つか当たって重要だと思われる哲学的問題を掘り下げてきたが、とりわけその二人以外ではレヴィナスとアウグスティヌスを中心に考えてきた。それらの学究的態度が詩作や詩を中心とした批評にどう繋がるかも未来展望的には極めて重要だが、哲学それ自体の問いが他の分野の諸問題とどう繋がるかも重要だ。

(無と無限Part2/1111日記事)で示したことはずっと引っかかっている。例えば空間が無と同義ではないことは明らかだということ空間には物質が必要だからだ。空間だけが完全自立することは恐らくあり得ないのだろう。だから宇宙全体が一つの生命の様な何かを考えた方がいいのだろう。

 では無とは何か?

それは語彙であると返答するのはたやすい。文法的に理解したりすることや、語彙意味規定を規則として社会的法と理解することは多くの分析哲学者、法哲学者から中島義道の様な論客も試みてきている。だが実際そうだろうか?やはり有(存在)ではないという否定形だけでない何かがあるのではないか?

 それは言葉の法体系が生み出している幻想だと決めつける人もきっと多いだろうが、そうとも思えない。勿論無は有でないなら、元々あり得ない事態なのだ。語彙規定的にはそうだ。

 例えば宇宙がビッグバンで出来たとするなら、その宇宙のできる前の状態(と言ってもそこに時間が在る訳では勿論ない)にも有、つまり宇宙を生み出すパワーが秘められていた筈だ。それは物理学者も考えている(例えば対称性の崩れとかで)。誕生があり死滅があるとされる宇宙を生み出す磁場としての無は完全無ではないのだろう。してみると完全無は更にその宇宙を生み出す無そのものをも無化するメタ的な観念となり、やはり言葉と思考の仕組みが生み出しているということになってしまうのか?実在への問いではなかったかと、ここで立ち止まって苦悩してしまう。でもやはりそういうことでしかないのだろうか?完全無は実在的に完全に有でないという(かたち)であり得ることと言えないのだろうか?

(無と無限Part2でも述べたが、レヴィナスにとって、自分自身で主体的に拝める彼こそが神無限者=彼という三人称、それは要するに三人称の起源が神であるということだなのだ、とは彼の記述を読めば理解できる。これは確かにカント<判・批>の美とか崇高の観念に近いのだが、やはりいずれにしても、神は皆で共通して彼と指せる何かなのだけれど、その理解は一人心の中で出会える何かなので、(人間は本質的に一人なのだ、だからこそ/123日記事)で示した様な神という語彙、概念、観念、意味は、そういう一人自分でしか感知し得ない出会いという意味で取り敢えず、それが相互に同じことを指しているのか否かを問い続けるのを中断して、そういうもの全部を同じ一つの出会いと致しましょうということなのだ。だからそれは言葉による解決なのだけれど、それは心の問題が解決したことにはならないのだ。

色々なジャンルの表現を鑑賞することが我々にはできるのだが、音楽の好みは演奏の場合、巧い下手の判定も含めあるし、選曲の好き嫌いもある。だがそれ以上に恐らく聴きたいとか聴き心地がいいと感じられるか否かが主観に異様に左右されるものは歌であろう。歌声だけは生理的な好き嫌いで或る特定のシンガーの歌を聴くという決定が個人で下されている筈だ。

 音楽よりもっと主観が抑えられた鑑賞したいか否かの基準を持つものは絵画であり、それより写真の方が更に主観が抑えられ、鑑賞しているのではないだろうか?同じプロの技術でなら、悲惨な現場の写真は見たくないという様なことを除けば、好きな写真という主観はシンガーの声質への好き嫌いよりずっと主観が抑えられているのではないだろうか?

 その理由は何か社会的歴史的なそれらを鑑賞する時に粗方相場的に決定された我々の態度の慣習性と関係しているのだろう。だからそれはかなり太古から存在する歌や絵、もっと人類史的には最近になって発生した文明である写真との違いもあるだろうし、絵の好き嫌いの主観を司る部分と、歌(音楽は又少し違うけれど)という声で示すものの好き嫌いを司る部分との違い、それは身体的生理学的なこともあるだろうし、鑑賞する制度の問題もあるだろう。

 勿論、そういった複雑な理由からそう簡単に結論づけるべきではない問いだろう。ただもう少し絞ったテーマから再度洞察していくべき価値だけはある様に思われるし、それは批評とも大いに関係しているだろう。

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2016年12月 8日 (木)

単位論chart15・時間の性質Ⅷ・無と無限Part8・思考できることのメモ⑩ ゼロ理解と終わりの理解の不足他

 

前回示した様に、幅がある一つの動き等が完全停止する時刻からゼロである時点として点を理解するということは極めて重要である。それは地点にもなるし、地点に停止する時刻(時点)という意味で、正と否、有と無の結節点である。

 

それは空間的に実在するものから考えれば、すぱっと水平に切り取られた二次元平面を想像することを許す。垂直にすぱっと切り取られた何等かの物質の断面と捉えても勿論構わない。それは(取り敢えず水平や垂直で断面から見れば直線状の方が理解しやすのであるが、仮に凸凹があったとしても接面ということである。それがゼロポイントとなると接点であるだが接面より接点の方には矛盾がある。それはゼロだから接していない筈だからだ)。尤も接点のゼロ的理解とは、接面の始まりと終わり、直方体でも立方体等の角を考えてもいい。それは実在観察的にはそういうことで得られるが、それが接するという事態には矛盾があり、それは解消されているわけではない。

 

〇要するに我々は常に点や線等面積や幅のゼロであることを、そうやって幅のあるものの終わり、縁、或いはその始まりという風にしてだけ何とかして理解できる。このことは我々の思考の基本がまず必ず厚みを持った何か、それが空間であれ時間であれ、幅、間に一定の距離とか時の隔たり何かが始まり終わる間という意味から考える習慣があるそれは存在者、存在物からしか非存在を考えられないからであるが)し、そうやって逆により抽象的な点とか線の様なゼロを要素として内包する概念を理解している、ということだ。

 

始まりと終わりとには、同じ一つの行為や動作や状態等であるなら、一貫した性格の中で語られる何かがある。だが「何かが」始まっていない状態とその「何かが」終わってしまった状態と、その「何かが」為されている状態との間にはそれぞれ固有の正と否、有と無の関係が成立する。だがこの場合「何かが」という叙述を意味する正や有の方が文法的には主格なのであり、否や無は、その主格に対して、そうではない、それがないという(否定形を通した)かたちで理解され得る。

 

上記のことは世界全体、実在全体、宇宙全体、要するに存在者の全体、つまり存在すること、存在に対して、そうではないというかたち迄敷衍され得ることである。先程の二次元平面に関しても、その平面でない空が存在している二次元平面という主格に対する補足的意味になる。その空の接面はゼロ理解の基準となる。一次元とは線であり、ゼロ次元が点である。線は延長、継続等の要素で成立する。

 

点の持つゼロ性は、そこから我々の住む世界・宇宙・空間とは違う異世界、つまり未知の世界の入り口ということを連想させずにはおかない。何かがワープしてそこから我々の世界へ入り込み、我々が我々の世界から離脱して違う世界へ入り込む時も、その点へ吸収され、ワープすると考えたくなる。それだけゼロには固有の感慨を齎す何かがある。ゼロは始まりであり終わりでもあり、全ての二義性に於いて、全ての世界がそこへ吸引されて無くなる(ブラックホールは正にそういう構造で理解しやすいものとも言えるが)ということを意味している様に思える。ゼロ=点が全ての始まりであり終わりであることを付託している我々は概念以前的に感性的にそれを理解している。

 

無限とはゼロ=点が世界・宇宙の空間に無限に存在し得るということではない。点には面積がないから、そういうわけにはいかない。寧ろ広い世界・宇宙のどこにでも(anywhere)我々が点を重ねられるという意味で世界・宇宙を点は超越している。どこにでも重ねられるが、どこにもないからである。空間の所定の場所に存在するなら、それはゼロではなく1であるからだ。つまりどこにもないということが無・ゼロの意味だが、それが点となると、無限小が理想であるという測定上の事情からたちまちどこにでも重ねられるという便利さを我々はそこに見出している。

 

無は有(存在)が生み出している我々の知る世界に対する異世界だが、点も線や面等他の全てが生んでいて、それは要するに有(存在)が生んでいる最も抽象的な概念である(もっと言えばメジャーな概念への直知こういう言葉はないが、永井均が<私><今>等で示している何かに近いと考えてよいこそマイナーを理解する基礎となっているとも考えられる)。だが縁に接触する、つまり接面、接点には距離的な観点からゼロの意味がある。それ以上は無いというかたちで。有(存在)から我々は存在しないという否定形を利用することで無(非存在)を理解し、接面と空間の間には距離がゼロ=無であると理解する。接面とは空間に直に接しているから、その接しを距離ゼロと捉えているわけだ。

 

だが無限は違う。無限は明らかに限界、限度(limit)がまず与えられ、それがないという否定形で成立しているからだ。つまりそれは命題論的な在り方である。

 

厳密にはゼロとは何かの断面からすれば離れていないということで接触を意味する。これは物質ではあり得るのだろう(物理的には水平垂直な平面よりそうでない方が接触は容易だろう<自然にも容易や困難とはあり得るだろう>)。だが数字ではこれはあり得ない。勿論1.999…2とは限りなく接しているに近いが、どこかで切る場合には厳密にはそうでない。数字にはこの様に切断という性格がある。数学ではこれを同一と見做すこともある様だが、或る種の矛盾がそれで解消されているわけではない。1.9.2と同一視することで、その矛盾を解消させているだけのことだ。

 

色々な意味で我々は始まりより終わりを理解していない処がある。誕生や成長より衰退や死滅をよく理解しているとはお世辞にも言い難い。これは空間的な始まりと終わりの様に理解の便宜上恣意的に決めていることではなく、生命等の、或いは自然現象における或る固有の現象の始まりと終わりという意味だ(時間や変化自体をそこに含めてもよい)。

 

医学的にも治癒と再生にだけ意識が傾注されている。終わり・死への関心を高める必要はある。それはかなりの程度活動停止や移行に対する関心と洞察から導かれ得るだろう。

 

付記 真核生物染色体末端(テロメア)の特異的反復配列を伸長させる酵素の一つであるテロメラーゼが癌細胞にも個体老化にも関係している、と幾ら説明されても理解しきれない。それは生命の死のシステムに関してのことであり、死滅全体(それは宇宙の死滅も含めてだが)の根拠が生物学的にもだし、それを踏まえての哲学的にも全く解明されているとは言い難い。それはよく分かっているつもりである誕生や生命や事物の発生自体も本当のところは全く理解されていないということに等しい。

 

 

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2016年12月 7日 (水)

歌詞が誘発する哲学思想と宗教史的解釈Part3 宇多田ヒカル<Fantôme>から考えるⅢ 永井均他を検証しつつ考える哲学の禁欲性から見えてくること

前回私は創世記で善悪の知識の木の実を齧って食べてしまったことで人類の祖は未来永劫死ぬことなく生きることができなくなり、自らが裸であると知り、羞恥を持ち、しかし生殖行為を行い子孫を儲け、家族を養うために働かなければいけなくなった、という下りを示したが、現代社会に於ける労働の意味は創世記記述の根拠となる古代以前とは明らかに違う。それを宇多田ヒカルの『Fantôme』中4曲目の<二時間だけのバカンス>が表現している。

この曲は全体的に宗教巡礼的要素の強い楽曲で占められている中で唯一現代社会エンタメ性に彩られ、アルバムを聴く者の気分を和らげてくれている。メインヴォーカルに椎名林檎をフィーチャーし、聴く者に軽快な爽快感をアルバム中最も抱かせる楽曲だ。アレンジも美しい。この曲の歌詞を見てみると、忙しい毎日にほんの二時間だけ息抜きを派手にしようという趣きで、車で飛ばすというストーリーとなっている。その点でドライヴ感はポール・マッカートニーの<Take It Away>とかの雰囲気に近く、宇多田のファーストアルバムの<Time Will Tell>等の路線の曲である。

サビ部分の歌詞は

 

朝昼晩とがんばる 私たちのエスケープ

思い立ったが吉日 今すぐ連れてって

二時間だけのバカンス 渚の手前でランデブー

足りないくらいでいいんです

楽しみは少しずつ

 

お伽話の続きなんて聞きたくもない

 

 それが二番では「家族のためにがんばる 君を盗んでドライブ 全ては僕のせいです わがままにつき合って 二時間だけのバカンス いつもいいとこで終わる 欲張りは身を亡ぼす 教えてよ、次はいつ?」となるのだが、この下り全部は現代人のストイシズム、つまり勤労的なビジーネスがよく示されている。創世記の記述とそう変わりない。高望みをしないレジャー精神にコンパクト化された現代人のささやかな愉しみを描いている。

 だがそれへ抵抗する気分などこの歌詞と曲のメロディにはない。だから現代人はささやかな愉しみで留め節制していく気構えを楽しんでいる。何故なら現代社会は利便性では創世記の頃とは余りにもかけ離れ、一人の人間の環境への消費エネルギーが桁違いに巨大だから、節制ということが重要となるのだ。

 

 さて宇多田ヒカルの歌詞には多分に哲学者で言えばポストモダン以降の人達の試みを歌で示せばこうなる、という実例的要素がある、ということを最初に本記事で私は示した。だが学術である西欧哲学・形而上学では既に示した彼女の歌った二曲の歌詞の様なダイレクトな表現はできないということの根拠をキリスト教文化のプロテスタンティズム的禁欲主義(ストイシズム)へ求めた。そして最初に例示した様なミシェル・アンリ的な叙述までは確かに哲学でも可能である。だがそれは宇多田ヒカルの歌詞程の直なものでは全くない。

 それは或る部分哲学という学術行為が持つ一つの限界であるし、又それは別の意味での可能性でもある。

  そのことを念頭に入れて貰うこととして、最後に述べたいことのために、一先ず別のことから始めたい。

 

 日本の哲学者永井均は存在驚愕(タウマゼイン)ということを長年<私>という概念を通して考えてきている。永井の考究はいい意味でも悪い意味でも哲学の限界と、それゆえの可能性を示している(それは永井も当然熟知している筈であるが、必ずしも永井が著作で意図していることではない)。

 永井の最新著作の一つである『存在と時間 哲学探究Ⅰ』で永井は次の様に述べている。(第五章 「私である」ことが成立するための異なる二つの基準 その前に復習を 75-77ページから)

 

「(前略)前回の議論をちょっとまとめてみよう。

 繋がりの仕組みによる<私>や<今>と、むきだしの<私>や<今>とがある。

 後者の「むきだし」のほうが、他の諸々の存在者とまったく違う異様なあり方をしており、「実在する」と認められるための形式に従っていないので、じつは存在しない。しかしこれらこそが世界の現実性を初めて作り出している。

 他時点の私は、今の私と同一人物であるにすぎないから、私ではないかもしれない、といえるのと同様、今にいる他者は、私の今と同時点にいるにすぎないから、今はないかもしれない、といえる。

 

このうち③は、前半は間違いなく正しいと思うが、だからといって後半まで正しいとは限らない。私と今のあいだには、私が存在するのに今が存在しないことは考えられないが、今が存在するのに私が存在しないことは考えられる、という非対称性があると考えられ、それは「私の今」という想定自体を拒否する根拠となりうるからである。

②が「物自体」に関係しているわけで、(中略)ここで言えることだけは簡単に言っておくことにしよう(後略)。

 感性の形式(つまり時間空間)や悟性の形式(つまりカテゴリー)の適用を経ていないため、まだ現象を構成していない、つまり実在していないが、その素となっているものを「物自体」と呼ぶとすれば、<私>や<今>は物自体である。とはいえしかし、ほんとうに物自体だとすれば、<私>だとか<今>だとか、何らかの内容的規定を示唆する呼び名で呼べるはずがない。だからたぶんそれらは、このような超越論的な(=実在を構成する)形式が適用された後に、そのような形式をすり抜けて生き残った(そのような形式によって変様させられながらも現象界の中に生き残った)物自体のお零れのようなものなのであろう。そのあり方をこれまで論じてきたのはまた別の観点からひとことで特徴づけるなら、法則性や規則性、一般性や普遍性をもちえないということ、すなわち同じ種類の他のものの存在をどこまでも拒否するということ、だといえる。

 逆に、同じ種類の他のものの存在をどこまでも認めることこそが、そのような超越論的な形式の役割であり、それをするのが超越論的統覚の仕事であるといえる。それゆえ、それは最後には、同じ種類の他のものの存在を認めることになるだろう。(後略)」

 

 ここで示されている永井が言いたいカントの「物自体」を通した、物自体のお零れのようなものと永井が言う(超越論的な(=実在を構成する)形式が適用された後に、そのような形式をすり抜けて生き残った(そのような形式によって変様させられながらも現象界の中に生き残った)ものとは、もし仮に文学者がひとことで言い表すとすると、自分が在るということの「かけがえのなさ」、しかも言語習得する以前のフロイト的口唇期等の持つ、世界へ初めて触れることの自愛的な切実な感触を意味する「かけがえのなさ」であろう。勿論それは永井が②で示している様に「実在する」と認められるための形式に従っていないので、じつは存在しない。この部分で明らかに永井は西欧哲学のキリスト教的ロゴス解釈の禁欲主義の慣例に従っている。だがその後で示されたしかしこれらこそが世界の現実性を初めて作り出しているの赤字部分こそ永井哲学の真骨頂なのである。

 つまり永井は、慣例的な西欧哲学のキリスト教的ロゴス解釈の禁欲主義に従い、そうでない哲学の可能性を開示させようとしているのである。

 従って何故哲学では敢えて文学者ならそう言っても決して的外れではないそのことをそう言わず「物自体」とか永井がここで言っている様な(形式が適用された後に、そのような形式をすり抜けて生き残った)という様な持って回った言い方をしなければいけないのだろうか?

 それこそが本論で論究してきたことの核心の一つである。それをダイレクトな歌詞メッセージと対比させようということだからである。

 哲学とは永井均も主張している様にギリシャ哲学発欧米諸国(とりわけドイツ、イタリア、フランス、イギリス、デンマーク、そして現代ではアメリカや英語圏)で通用する学術思想なのであり、それ以外のイスラム教圏や中国やインド等の思想を言うのではないということがまず一つ押さえておくべきことである。

 しかし同時に確かに宇多田の描く様な歌詞を称揚するに吝かでない旨を示そうとしたポストモダン哲学者やイェール学派の様な研究者達の試みも存在しはする。しかしこれは特に哲学に言える(批評は少し違う)が、それはそもそもロック&ポップスやソウル等の歌詞の持つストレートさまでは決して行かない。

 何故なのだろうか?

 それこそがどんなにイェール学派が文学批評運動でデリダの着想と思想から誘引させてロゴス思想から哲学を解放させようとしても、所詮哲学という学術範疇でロゴス思想から脱却することができないという普遍的な運命的な真理論が介在している。

再度繰り返すが、ロゴス中心主義を批判したポストモダンの代表格であるジャック・デリダはレヴィナスの<神・死・時間>の先述した<語ること>はそれ自体が証しであるという文言の持つ意味と相同である論旨(レヴィナスこそ、このデリダの著作が動かした思想潮流を解釈して、この赤字部分の主張を行っているのであるが)の『グラマトロジーについて』DE LA GLAMMATOLOGIEで世に出ている。それはあくまでユダヤ神性の携えているコトバの内に安らうという思想から発しているのである(そのこともいずれ違うシリーズで取り扱おうと思っている)。つまりロゴス中心主義批判ということの内に、彼は暗に禁欲主義的なハイデガー<ニーチェ>的な表現を借りれば遠近法的な(それはスーザン・ハンデルマンの先述の著作から言えばアリストテレスに端を発していると既に説明した。)世界凝視システムが持っている一つの反エロス論的限界への提言があったと捉えられる。

だが同時にデリダ発イェール学派的なハイデガーがニーチェへの解釈として批判していた意味と理想へと邁進するしかない事態である音声中心主義への批判では、その批判のための代案として、テクスト快楽主義的側面が重視されていたし、それは宇多田の歌詞<ともだち>の二重の禁欲性へと更に近づいてしまうからである。音声を剥奪され、読むためのものと化したコトバとは更に二重の禁欲と言ってもいいからである。

 だが本来イェール学派の持っているイデオロギーとはニーチェによって開眼させられている軽いものの価値の持つ意味をポストモダン的に再解釈し直す試みでもあった。しかしそれは文学批評だからこそ行えた、のである。つまりここに哲学・形而上学の軽さを志向することの限界があるのである(だが当然、それが哲学の可能性でも勿論あるのだ)。

 ここで上記のことを証明するためにニーチェ<ツァラトゥストラ>の持つ思想を如実に示している一つの傾向を踏まえておこう。それは第三部に登場する(重さの霊)Vom Geist der Schwereと(新旧の表)Von alten und neuen Tafeln23に示された記述は、ニーチェが携えていた軽さ・軽いものやことの価値を十二分に示している。

 後者だけ全文邦訳を掲載しておこう。

 

わたしが男と女に望むことは、男は戦闘に長け、女は産むことに長けていることである。そして両性ともに、頭も足も舞踏に長けていることである。

 一度も舞踏しなかった日には、失われた日と思うがよい。そして一つの哄笑を引き起こさなかったような真理は、すべて贋ものと呼ばれるがいい。

 

 ニーチェ哲学の中期完成形であるツァラトゥストラの持つ思想性にはイデオロギー的な軽さを示しておくことにアイロニカルな意味がある。宇多田ヒカルの<ともだち>は本来なら(つまり近代的常識から言えば)暗いテーマになりがちである。にも拘わらずコミカルにリアルの深刻さを笑い飛ばす雰囲気も曲のラップのリフレインには感じられる。

 確かに男女ストレートだけが正統であったニーチェの過ごした19世紀後半と現代とでは様々な点で通念も心得ておくべきことも異なる。だがもしニーチェが21世紀前半に生活していたなら、宇多田ヒカルの持つリアルの深刻さを笑い飛ばす様な戦略も採用したであろう。

 その意味では宇多田ヒカルの<ともだち>のテーマの深刻さに生きている人間の滑稽さとして温かみで包もうとするメソッドは、現代社会に固有のニーチェ的軽さの価値の転用と言えはしないだろうか?

 又そのことで期せずして宇多田の採った戦略がよりポストモダン論客達が意図してきたニーチェの捉え直しと現代社会での応用ということと一致している部分もある、と言えるのではないだろうか?

 

つまりポストモダンとは宇多田の<ともだち>の持つ二重の禁欲性、つまりストレートの同性へエロス的感情で愛してしまっている歌詞の語り手が持っている充足されない従って<俺の彼女>の持っている性欲自体は充足されている生活から、その事態を聖化させる目的として位置づけられ得るので、それと対照的な事態を宇多田は想定している愛の行為への悶々とした告白の持つ一般社会的タブー性へ挑戦する意図も読み取れるからである。又重要なことに相反する愛のかたち(ストレートとLGBT)を宇多田は同等に扱っていることだ。いずれを正統とするという意識もなく、個が実存として存在者の使命を全うしているという観点から歌詞が歌われるのだ。

 

 事実ミシェル・フーコーはポストモダンの代表格であり、デリダ同様ニーチェとハイデガーから多大のインスパイアを得ていた哲学者であるが、彼自身はゲイであり、同世代の著名なビートニック詩人アレン・ギンズバーグと似たジェンダー的な位置を持っていた。彼がポストモダンに中心人物として加わっていたことは、確かに他の論客達への多大の影響を与えたであろうことも想像にかたくない。

 ポストモダンはニーチェの男女の役割分担に留まった軽いものの価値をもう一段進化させてみたことで却って宇多田の<ともだち>に見られる様な二重の羞恥の克服を哲学が求めざるを得ない時代に突入したことを私達に理解させてくれたのだった。

 その意味では宇多田ヒカルはそのポストモダン精神を、彼女が哲学書を直に読んでいたという様な意味ではなく、彼女自身の体験からくる想像でそういった性の哲学をよく理解している、と捉えることが可能なのである。

 

 しかし古東哲明が『現代思想としてのギリシア哲学』で「ストア哲学を現代風に味付けなおしたものだった」という解釈を打ち立てている。

 古東は「かれのとくに後期思想は、おどろくほどストアの教説にちかい。永劫回帰思想は万物世界は同じように繰り返すという「アポカタスタシス思想」の焼直しだ。力への意志の考え方は、「根源力としてのピュシス(自然・神・種子的ロゴス)」論や、(中略)「ホルメー」論の正確な現代版だ。運命愛を「ヘルマルメネー(宿命)論」へ、超人思想を「ソフォン(賢人)論」へ、認識の遠近法主義を「すべてはヒュポレープシス(主観的な思い込み)だ」の認識論へ、また善悪の彼岸論を「プロエーグメネン(のぞましいこと)」とアプロエーグメネン(のぞましくないこと)に対するアディアポロン(無関心・善悪無記)思想」へそれぞれおきかえると、すっかりストア哲学の骨格ができあがる。」と述べている。

その論点を正しいとすれば、確かにニーチェは軽いことの価値を軽く語っていた訳では決してなかった。

 それは恐らく真理の誤謬というかたちで伝統哲学・形而上学の持つ真理への疑いなさへ懐疑を突きつけることで、その一度徹底的な崩落を促進させることに吝かでなかったニーチェには、強かな戦術性があったと言わねばなるまい。

 しかしそれにも増してニーチェの生きた19世紀後半とは全く世界の様相の異なる20世紀後半に登場したポストモダンは、ニーチェ哲学の動機的部分より、結果的に示された構造的部分をより大きくクローズアップさせたと言える。つまり軽さの価値をレトリカルに流用することを彼等は試みたのである。

 従って現在である21世紀前半とはポストモダンの余波の時代だと言える。その意味では宇多田ヒカルをはじめ多くのミュージシャンやアーティスト達が知らず知らずの内にポストモダンの反芻を行っているのだ、捉えることもできる。

 ピコ太郎のPPAP等もその顕著な例である。

 

 彼の動きはラップにバイセクシュアル的なセクシーさ(容姿もゲイバーママ風なのが印象的である)で身体をダンサブルに動かし、PENAPPLEPINEAPPLEだけの組み合わせで、最も語呂のいいPEN PINEAPPLE APPLE PENという語順で歌うことで聞き心地良いグルーヴを作り、しかもこの二つの形容詞+名詞をドッキングさせることが性的暗喩となっていて、しかもそれが創世記のエヴァからアダムが勧められ食してしまった善悪の知恵の木の実林檎なのである。それが日本人だけでなく欧米文化圏でも受けた(彼等の無意識のタブー的なチャレンジを感じさせる琴線に触れた)理由である。要するに成功の要因とは分かりやすいということと音的感性とノリ(グルーヴ)なのである。

 

 最後に述べておきたいのは、確かに哲学は多くの実験的な試みも行ってきた。しかしその禁欲性は或る限界も持っていると述べた。

 言語習得以前の<私>に焦点化させた永井均が奇しくも哲学の使命の限界に突き進んだことをいともたやすく詩は簡単な語彙だけで飛び越えてしまう。歌詞も同様である。この歌詞メッセージの直接性は私達に衝撃を与えずにはいない。だがそのことも実は哲学の持つ学術的堅さ、禁欲性が齎しているとも言えるのだ。

 宇多田の歌詞が現代人なりの「かけがえのなさ」こそ息抜きということを示していて、あらゆる巨大なパワーを持つマシーンを手にしてしまっている現代人は高望みしないでささやかな二時間だけのバカンスをして、次の業務に備えるということが大切なのであり、それは言ってみれば巨大なパワーを誰しもが持ってしまっている現代人のモラル的な軽快で爽快なストイシズムの履行ということなのだ。我々は専門家でなくても或る程度学術的禁欲性を知っているからこそ、自制的にパスタイムを謳歌できるのだ。

 次回は一応一回結論を出しておこうと思っているのだが、そのことに就いて述べよう。

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2016年12月 6日 (火)

無と無限Part7

絶対無とは絶対的相対性である。何故なら有(存在)が一度生じてしまったからである。それはいつか消滅するかも知れないが、(何かが)存在してしまった事実だけは変えられない。

絶対無として世界が完結してしまえば、存在事実も完全忘却される。否、忘却は対語として思い出すということがあるが、そうでないから完全に何もかも無となる。

無は形而上学的概念である。無が無限も生み出している(終わりが決して来ないという意味で、或いは始まりが決して無かったという意味で)。だが有(存在)がなければ無も概念化されなかった。にも関わらずプラトンは死の側から有(存在)を考えた、と古東哲明が『現代思想としてのギリシア哲学』中 ギリシアの霊性―プラトンにて述べている(つまり有が無を生んでいるのに、無が有を特殊化している様にプラトンは見たということだ)。

無にはない不在の意味がところで死にはある。

時間軸に時刻という点を設けるのは、時間が止まるという仮定に基づいている(一つ前の記事を参照されたし)。過去から或る時点迄、或る時点から未来、という区切りをつけるために我々は時刻を設ける。つまり区切りのために時刻を必要とするというわけだ。だが時間が区切りを持つのではない。行為と動作こそが区切りの母なのである。

 又或る時刻の過去と未来とでは全く意味が異なる。両方とも幅があるわけだが、或る時点では過去は既に無いし、再現できないが、未来は必ず来るし、時間の幅を体感し得る。つまり過去は想起の中でだけ幅を想像で再現し得て、それは体感されないということであり、未来は体感を期待できるということだ。

(存在)とは一つの奇跡(奇蹟)なのである。だがその奇蹟こそが無をも生んだのである。

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単位論chart14・時間の性質Ⅶ・無と無限Part6・思考できることのメモ⑨ 点・線、視点の切り替え、応用・適用他から

点とは空間に於いても、時間に於いても、空間や時間の構成要素では決してない。何故ならそれは長さ・幅・大きさを持たないからだ。

〇だから時間に於いて或る時刻とは時点として時間を恣意的に止められている。或る一連の動きのある時刻に於ける状態とは動きというものを恣意的に止められている。それは時間の性質を裏切る一つの仮定でもあるのだ。

〇だから時間自体は止まるということが、存在者個々全て(粒子であれ分子であれ何であれ)完全静止ということがあり得ないのに、あたかもそうであるという仮定に於いて、恣意的に点(時点・時刻)を設定している。つまり動いているものを恣意的に止まったものとして、移り変わっているものを永遠にその一点で移り変わらないものとして仮定した単位でしかない。

全ての時刻を集積して(集合させて)一連の時間が構成されるのではないどの時点も幅=長さがあるのではないから、それは実在的に不可能である)。あくまで時刻、つまりどの時点も全て一連の時間を分割することで得られている。つまり時間自体は止まることがないのだから、それがあたかも止まると仮定して設定されている時刻とは、動きが止まること、或いはその逆で動いていなかったものが動き出すことで、つまり異次元の状態へ切り替わることをもって、その瞬間(その時点)を時刻としている、と見做すことができる。時間に動きの止まりと始まりの原理を適用しているのだ。

〇つまり時刻とは移り変わらないでは居られない時間が、そこで停止したり、それまでは発生していすらしていなかった時間が発生したりするという過程の下で得られている認識である。それは一連の時間の間のどの時点でも可能であるという認識で得られているのだ。

〇上記のことは時間とは移り変わらないでは居られないのだから、必然的に空間的広がりと全く性質を一致させている(同時的だ)と捉えられる(尤もこれは宇宙の誕生<ビッグバン>と宇宙の膨張ということで物理学では常識となっていることだ)

〇上記のことは電車や自動車が或る所定の位置に所定の時刻に停止する、或いはそこに止められていたことが動くという状態へ移行するという仮定の下で空間と時間が同時的に地点=時点になり得る。つまり恣意的に停止すること、動き出すこと、その地点=時点という認識によって点とは得られている。それは状態でもよい。或る電灯が点けられていない状態から一斉に点ける(実在的には完全に同時には行かないが、概ねそれは可能である)とか、電灯が点けられていたのに、営業時間とかが終了する所定の時刻に一斉に消されるという事態を想定して、時刻というものが得られている。

〇上記全てのことを勘案すると、要するに時刻とは、動きが止まる時点、動きが開始される時点という、前者に関しては動き続けている(続けてきた)間という幅があり、後者に関しても動き続けている(止まることがない)間という幅があり、その幅がそこで止まる、それ以上拡張しないということ、前者はそういうことであり、後者は動きというものがない状態から、動くことで発生するというへ移行する、つまり幅が発生する、という状態の変化・切り替えという切れ目が与えられることで時点=地点が与えられ発生していると(実在的には)捉えることができる。

これは動きだけでなく、元々動いて成された結果として、痕跡としても得られる。何か平面に溶かした物質を塗る(平面に絵具を塗るとかの)ことで、塗られていない領域に対して塗った領域には必ず縁ができるが、そのエッジこそ点であり、線である様な認識を持つことは可能だ。だからそれは無からの誕生や、その状態の死滅(拡張の停止)という風に捉えることができる。線に関してはもっと単純に、その原理を理解することができる。引いていたものがそこで止まるか、そこから引かれ続けていくか、なのであるから。

〇つまり点とは時間に於いては時刻が時間の構成要素としてではなく、あくまで停止と動作発生の時点を全ての一連の時間の<どこにでも>適用しているに過ぎない。恣意的にどこでも停止点にも出発点にもなり得るということである。直線でも曲線でも正円でも楕円でももっと無秩序な形態でも輪郭が縁となり、その線を辿れば論理的には全ての地点が出発点でも帰結点でもあり得る両端が切れている場合には、そうでないが、閉じているなら正三角形も正四角形もそうであるし、それは要するに無限分割をその輪郭線に適用しているだけのことなのだ。

〇上記全てを纏めると、点とは縁、マージナルな停止とは、それらがそこから発生するということを空間であれ時間であれ、そのどの地点でも時点でも、そこが縁、マージンになり得るという想定・仮定の下に成立させられている、のである。だから断じてそれは構成要素ではない(何故ならそこには大きさ<時間では長さ>がないからである)。

〇従って点や線の大きさ、幅のなさ等の概念とは、幅があるものがそこで無くなる、動いているものがそこで止まる(無くなる)、か、そこからなかったものが発生、誕生する、そこから動き(違った状態)が始まるという異次元の状態への切り替わり自体が齎している認識だと捉えてよい。それを一連のどの地点=時点でも適用可能だということで考えられていると捉えられる。

〇上記のことは、要するに有が無になる(動き、移動、拡張(大)や縮小)、無であることが有になるという切り替わりの地点=時点に区切り、切れ目というものを設けていることから点が発生し得る、或いは測定に於いては、或る幅を無限に分割し得るという認識から発生し得る(それはどの地点=時点も終点にも始点にもなり得るという仮定が生んでいると捉えることができる。だから点・線・面とは、構成要素が集合されれば全体が構成されるということではないのだ。

〇上記のことで定義しておこう。点とは切れ目、区切り、移り目ということから発想され、それを或る幅に対してどの地点=時点でも、それが適用されるという位置認識が作っていると言える。事実一人の人間の生涯の長さということでも言えることである。(医学的には二百歳迄生きることは現時点では不可能だが、仮に取り敢えず寿命を百歳とすると、どの時点でも我々は死ぬことが可能である。)

〇今回述べたことは、視点の切り替えの自由が我々に点とか線とか面といった概念を齎してきているのだ、と結論してもよい。これは、時間自体は試行錯誤がないが、その一定の時間内(我々の個で言えば生涯の中で)試行錯誤、つまり行ったり来たりが空間的に可能だということから得られている。それを思考自体に適用していることが概念を生み出している、ということになる。

〇つまり我々は脳内で何事かを理解する時に、必ず空間を行ったり来たりする様な移動的な事態を、時間への認識や理解から、視点の切り替え等にも(瞬時に)応用しているのだ、ということだ。これは認知科学的にも重要な視点ではないだろうか?

 

 付記 要するに点、線、面等はそれぞれ異なった文脈から導き出され、実在認識に於いて単純にその集積や集合で全体を構成するという様なことではないのだ、ということである。

  

 ところで数学や物理学などだけでなく、生の哲学や現象学や一般的に文科系として考えられている全ての分野の学究も、この視点の切り替えだけで成立している。つまり全ての文章がそうなのである。これは論理学的にも重要な事実を示唆していると言える。

 

また、今回の論議では、無限小とゼロは違う。だから点は線の無限縮小ではない。つまりゼロ=点は最初から与えられている異なった認識である、ということも重要である。

 

また、点そのものを抽出が不可能なのが、縁(際、切れ目)という認識がそれを理解可能だし、事態を点として生きさせることが可能だということも極めて重要である。

 

 

 

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2016年12月 5日 (月)

歌詞が誘発する哲学思想と宗教史的解釈Part2 宇多田ヒカル<Fantôme>から考えるⅡ 創世記、ハンデルマン解釈によるイェール学派の果たした意義

  

 前回宇多田の<ともだち>が満たされない愛の告白だと私は言った。それはまさにそうなのだが、付け加えておくと、この歌の自分(男でも女でも)が愛す彼or彼女はストレートだとしても、恐らく彼(女)からの愛に気付いている。でもストレートだから素直に応じはしない。だが恐らく受け入れたくなる気持ちも幾分は持ち合せている。少なくとも歌詞からはそれが読み取れる。友達ならそばにいておかしくない、でだ。

 

 でも告白はしない旨も示されているし、性行為への欲望を抑えて墓場までもっていくとも言っている。そこにこの歌の歌詞にも羞恥が読み取れる。背徳であると知っているからだ。確かに現代社会は以前の時代より、そういったタブーは少なくなってきているけれど、それでも未だ完全に前時代のモラルは消えて無くなっている訳ではない。

 

 前回最後に示した創世記に羞恥の誕生は示されている。そのことについて少し長いけれど、日本聖書刊行会刊 『聖書』 新改訳 注・引照付 から引用しておこう(尚一部語彙を変更してある)。

 

 

 

創世記では「土地のちりで人を形造り、その鼻に命を吹き込まれた。そこで人は生きものになった。/神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。」とされる。「食べるのに良いすべての木を生えさせ・園の中央には、いのちの木、それから善悪の木とを生えさせた。」(中略)「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。/神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。/しかし、善悪の木からは取ってたべてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」/その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(中略・神はその後野の獣とあらゆる空の鳥を形造り、人がどんな名をつけるかを見るために人のところへ連れて来られた。人が生き物(家畜、空の鳥、野のあらゆる獣)につける名が名となったが、助け手が見当たらなかったので、その人へ深い眠りを神が下され、彼は眠り、その肋骨を一人の女に作り上げ、その女を人のところへ連れて行った。(ここら辺のことがシモーヌ・ド・ボーボワールをして『第二の性』を書かせる元となっている)人はアダムとなり、その肋骨から神が作り給うたエヴァが蛇に唆されて園の中央にある木(善悪の知識の木)の実を食べてはいけない、なぜならそれを触れたり食べたりすれば死ぬからだと仰せになったと蛇に告げるが、蛇は死ぬなんてことはない、それを食べたらあなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っている、とエヴァを唆すと、エヴァはその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与え、夫アダムもそれを食べた。「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らはいちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(中略・主の声を聞いたアダムとエヴァは神である主の御顔を避け園の木の間に身を隠した。神が彼らの居所を知ろうと尋ねると、アダムは「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」と答えた。羞恥の獲得の瞬間である。神は食べてはならないと命じた木から食べたのかと仰せになり、エヴァがアダムにその木から取って私にくれたので、私は食べたと返答した。神がなんてことをしたのだとエヴァを責めると、エヴァは蛇に唆されたと返答した。神は蛇に今後あらゆる家畜から呪われ、一生腹ばいで歩き、ちりを食べねばならないと言い、蛇とエヴァとの間に、そしてそれぞれの子孫との間に敵意を置く(それが女性が蛇を忌み嫌う元となったと創世記は語っている。)。そしてアダムは彼女を守るために蛇の頭を噛み砕き、蛇をアダムの踵に噛み付く様にさせ、エヴァには身籠りの苦しみを増させた。神はエヴァが苦しんで子を産まねばならぬし、尚貴方は夫アダムを恋い慕うがアダムはエヴァを支配することとなると仰せられた。そしてアダムには妻の声に従い食べることを禁じられた木から食べたので土地は貴方の故に呪われ、貴方は一生苦しんで食を得なければならず、額に汗かき糧を得、最期は土に帰る。貴方はちりだからちりに帰らねばならぬと仰せ、アダムは初めてエヴァと妻の名を呼んだ。神である主は人は我々の一人の様に善悪を知る様になり、今アダムが手を伸ばしいのちの木からも取って食べ、永遠に生きない様にと仰せになった。神である主はエデンの園から二人を追い出し、人は自分がそこから取り出された土を耕す様になった(労働の始まりである)。「神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」と述べている。

 

 その後アダムはエヴァにカインとアベルの兄弟を生ませる。

 

 

 

 この特に労働の部分に関してアウグスティヌスは『告白』Confessions397-400頃(下)第二十一章 中、二九~三服部栄次郎訳・岩波文庫/国内でこの邦訳以上の名著は未だ存在しないで次の様に述べている。

 

「かれらの魂は、かつて、「快楽のうちに生きて死んでいた」が、主よ、それは死をもたらす快楽であった。あなたこと、心の清らかなものに生命を与える快楽なのである。/(二九から三へ移行)それゆえ、いまやあなたの奉仕者たちは地上で働かねばならないのであるが、不信の水においてのように、奇蹟や秘蹟や神秘的な言葉を通じて示したり語ったりすることによってではない。驚嘆の母である無知は、かくれたしるしを恐れてこれらのものに目をみはる。あなたのことを忘れたアダムの子等にとって、かれらがあなたの聖顔から姿をかくして、暗い深淵となるかぎり、これが信仰に入る道なのであるが、しかしあなたの奉仕者たちはむしろ、深淵の渦巻きから分かたれた乾いた地においてのように働かねばならない。(後略)」

 

 これはアウグスティヌスが聖パウロから継承した原罪(エデンの園を追放され神の加護からでなく神の様に自ら考えなければいけない)の観念に関する前述の創成期記述由来の記述である。

 

 創世記由来の羞恥の獲得=善悪の知識の木の聖書比喩は、現存在の神化を意味する。それは一つの神という父への父殺しでもある。善悪の知識を自身で身に着けることとは、悪の背負いでもある。

 

本来アルケオロジーでは人は無知であるべきだった。エデンの園で従って神の仰せにだけ従って裸であることを把捉することなく暮らせば良かった。しかし蛇に唆されたエヴァから貰った木の実(つまり林檎)を食べたことでアダムは神のみが履行し得る悪をも兼ね備えた自然全体の自然はいいことだけでなく悪いことをも人に齎すということである善悪無記ギリシャ哲学ではアディアフォラと言う。その様な性格であるものをギリシャ哲学ではアディアポロンと言う)を地で行く人は神に自らなってしまい、その悪、つまり責任を行使する様になった(つまり創世記七日目迄は、未だ人類は善悪の知識の木を食べていなかったので、(労働と育児の)責任ということを神から課せられていなかった)。人は素朴さを失い賢しらさを身に着けた。

 

 

 

 ここから先は先述のハンデルマン『誰がモーセを殺したか』で述べられている論説を中心に暫く解釈してみることとする。

 

 今迄創世記をはじめとして述べてきたこと、これが一連の西欧哲学・形而上学の背景に脈打つロゴス思想である。それはそもそも旧約聖書世界をキリスト教的に解釈することを通して始まっている聖パウロが初めて採用したキリスト教不況のための戦略だった。(つまり新約聖書の側から解釈することを予型論typology, typological interpretationと言う・予型論とは新約聖書で書かれている記述が旧約聖書に既にその本質から予兆する様に書かれていると新約聖書を正統化する為に旧約聖書を解釈する仕方のこと。

 

勿論ポストモダン思想ではそれを否定した。だからこそギリシャに関してはアリストテレスが採った実在の遠近法的方法から脈々と受け継がれた西欧哲学・形而上学史への批判を行ったのだ。

 

遠近法的方法とは要約すると◎ことばよりものを重視。◎全ての判断を真偽として確定。これを解釈へも波及させた。/矛盾対立の法則◎命題は常に主語の定義、属性、類か、偶有性。主語に対する賓辞の関係が主体。◎主題をlogos(言説)の次元で扱うこと、と、それをPhysikos(自然のプロセス)の次元で扱うことの間に決定的な区別をつけた。◎自然哲学であり、その論理学はことばの研究でなく、ことばが単に記号となる思想の研究思想とは事物の本性を理解すること。◎のちのキリスト教神学へも影響を与えた。聖書解釈等が教義を肯定し一般陳述を抽き出したギリシャにおける哲学と修辞学との対立は、哲学の勝利に終わった。The struggle between philosophy and rhetoric in Greece ended in philosophys conquest. 参考記述 ギリシャ人にとって存在者とは、おのずから無為にして萌えあがり現れ来たり、そして内に帰り籠もり過ぎ去っていくもの、現れ来たり帰り籠もりゆく世界の脈動である。/ハイデガーニーチェ

 

 

 

イェール学派と呼ばれる人達が1970年代に活動し始めた。ジャック・デリダ<19302004>の著作『グラマトロジーについて』DE LA GRAMMATOLOGIE1967)を指針としてポストモダン思想全体を文学史・文学批評として認識し論理を展開する学派である。ポール・ド・マン<19191983>、ジェフリー・ハートマン<1929―>、ハロルド・ブルーム<1930―>、ジョセフ・ヒリス・ミラー・Jr1928―>、バーブラ・ジョンソン<19472009>といった人達が中心である。この学派は、要するに世界を上記の様に認識することを採用しつつ、それをキリスト教神学化させつつ、その経緯の中では聖パウロを経て、アウグスティヌスに於いて完成するキリスト教神学体系に対して、その全体をロゴス中心主義としてデリダが批判することを最前線に位置付けることとなった。彼等は語ることが意味内容を咀嚼していることへの抵抗を試みたのだ。つまり彼等はポストモダンでのデリダの思想を基軸としながら、元祖的なるユダヤ神性をキリスト教から解放することが目的だったのだ。

 

彼等の解釈(スーザン・ハンデルマン先述著作の説明によると)そもそもパウロに馴染みある古典的修辞学では<寓意>とは<あることを言って別のことを意味すること>を示すことだった。これがポストモダンで主張される直義的解釈(Literalism)復活の狼煙を誘引する。つまり彼等にとってキリスト教神学大全的世界観は明らかに直義的でなく、違う語彙へ置換することだったからだ。スーザン・ハンデルマンは、ユダヤ人とは文字(letter)を盗み霊を通して文字を超克することによって文字を廃棄し、イエスはユダヤ人にはメシアと思えず、ギリシャ人には旧約聖書は認められず、ユダヤ・ギリシャ両民族からの抵抗に直面した。と捉えている。

 

だからこそパウロは回心した後死刑となったイエスの形而上的重要性をユダヤ人とギリシャ人両方に説明する為に旧約聖書は表向き見えることと全く異なったもののことを語っているという論理を駆使し、そこで予型論typology, typological interpretationと寓話の方法を採ったのである。 

 

 

 

ポストモダンを咀嚼したイェール学派を研究したハンデルマンの著作『誰がモーセを殺したか』から読み取れる西欧哲学・形而上学のキリスト教神学化プロセスは粗方理解されたのではないだろうか?

 

次に日本人である宇多田の歌の歌詞に示されたキリスト教神学ともクロスする要素に就いて今回は最後に述べておきたい。

 

宇多田ヒカルは今回のアルバムをフランス語の霊を意味する『Fantôme』にしたのを母藤圭子への追憶からだとしているが、このアルバムで冒頭に流れるのが<道>である。この曲の「悲しい歌もいつか懐かしい歌になる 見えない傷が私の魂彩る」という冒頭の箇所には過去が追憶としてよみがえる時、痛みは現在形ではないから、癒されてきているけれど、それは却ってそのことで今の自分の個性や考え方の軸になっているという意味であると同時に、過去が戻ってこないものであるが故に、どんな悲しい歌も今では懐かしく響くことで、生の空しさをも作っている、と読める。だがその空しさこそが、実は「転んでも起き上がる 迷ったら立ち止まる そして問う あなたなら こんな時どうする」という今の意志と、その確かさ故の迷いを生んでいる。

 

それが冒頭の「黒い波の向こうに朝の気配がする」を未来への希望だと分からせる。

 

この曲では「一人で歩いたつもりの道でも始まりはあなただった」で再度あなたが登場するが、これが母藤圭子であると同時に神にもなっている。それは次の部分で最高潮に達する。

 

 

 

どんなことをして誰といても

 

この身はあなたと共にある

 

一人で歩まねばならぬ道でも

 

あなたの声が聞こえる

 

 

私の心の中にあなたがいる

 

いつ如何なる時も

 

どこへ続くかまだ分からぬ道でも

 

きっとそこにあなたがいる

 

 

 

 ここで宇多田はアウグスティヌスの『告白』の持つ神と共にあるという観念を引き出している。この歌のこの部分こそ『Fantôme』というタイトルの元となっていると思われる。

 

  

  

 次回は今回述べた創世記の労働の起源に関してヒッキーの現代労働歌とも言える<二時間だけのバカンス>に就いて、と一応これまでの纏めとして哲学の持つ禁欲性と、詩・歌詞の持つ自由さの理由に就いてその根拠を探るための布石として、永井均、ニーチェ、ニーチェの古東哲明の解釈、ピコ太郎の世界的ブーム等から考えてみよう。(つづき)

 

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2016年12月 4日 (日)

歌詞が誘発する哲学思想と宗教史的解釈Part1 宇多田ヒカル<Fantôme>から考える

 宇多田ヒカルのニューアルバム『Fantôme』に収められた二曲目の<俺の彼女>と六曲目の<ともだち>の歌詞には性的な愉悦を通してでなければ書けない内容がある。

 これは文学との接点を持つJ-popの歌詞であればこそ自由に表現できることである。

<俺の彼女>は男が自分の彼女のことを他の男性の友達か何かに自慢している歌詞から始まり、その男の告白に対して、その彼女である女が胸の内を告白し返すという形式を採っている。

女の独白的箇所だけを書き出してみよう。

 

<俺の彼女>

あなたの隣にいるのは

私だけど私じゃない

女はつらいよ 面倒と思われたくない

あなたの好みの強い女

演じるうちにタフになったけど

いつまで続くの?狐と狸の化かし合い

 

本当に欲しいもの欲しがる勇気欲しい

最近思うのよ 抱き合う度に

 

カラダよりずっと奥に招きたい 招きたい

カラダよりもっと奥に触りたい 触りたい

(この後フランス語で上の二行の翻訳歌詞が歌われる)

カラダよりずっと奥に招きたい 招きたい

カラダよりもっと奥に触りたい 触りたい

(上記同様フランス語)

 

 この歌詞では女らしさ(つまりジェンダー)を演じ切るオーソドックスなストレート男女関係での女の態度から入り、「本当に欲しいもの欲しがる勇気欲しい/最近思うのよ 抱き合う度に」で身体での相互慰安獲得という夫婦生活を保証する利便的な性生活だけでない愛の様なもの(愛とは実在的には実体のない一つの価値論的幻想かも知れない、愛の永続という観点からは自己納得するためにも必要である)を求めるという内容へ移行する。

そして次に、触るという行為動詞が使用されている。これは現代ポップスではそんなに珍しいことではない。英米のソウルでもロックでも既に完全に定着した一つの愛撫的語彙と言える。だが宇多田の歌う(触る)は価値論的に実体を帯びた愛撫の永続的確認、つまり男女の営みがいずれかの死で分かつ関係ではあるものの、それまでは別れない理由としての愛の希求である。だから意味的にはコトバ化された価値を歌っているのだ。

 だが次の六曲目<ともだち>は更に進化を遂げている。

 やはり、サビの部分の心情吐露告白部分のみ抜き書きしよう。

 

<ともだち>

Oh 友達にはなれないな にはなれないな Oh

Oh 何故ならば触りたくて仕方ないから Oh

Oh 友達にはなれないな にはなれないな Oh

もう君の一番じゃないと意味がないから Oh

Oh 友達にはなれないな にはなれないな Oh

Oh 今すぐに触りたくて仕方ないから Oh

Oh 友達にはなれないな にはなれないな Oh

もう君に嫌われたら生きていけないから Oh

最後に再度*上部の歌詞がリフレインされる

 

 この歌はLGBT、とりわけレズ、ゲイ、バイセクシュアルをベースとした愛の告白となっている。その点では感触と言っても前者の<俺の彼女>の持っている歌詞シチュエーションより、もっと内的な意味も含まれている。それは他人としての友達ではなく、愛人としての他者への愛おしみという意味で、しかしそれが幾多の社会的諸条件で実現し難い状況での告白となっているとも思われるが故に、恐らく相手はLGBTでないストレートの可能性が高い。そうでなければこのサビの部分の歌詞は成立しない。愛が実現しているなら、この様な思いを告白する必要がない。だから既に実現している愛の充実とは程遠いが故に前者<俺の彼女>とは対照的な歌詞内容である。

 因みに前者<俺の彼女>の「カラダよりずっと奥に」の部分は、意味的には明らかに「心よりずっと奥に」とは異質である。

 「心よりずっと奥に」であれば、身体的実在全体を指す可能性が高いが、カラダよりずっと奥、という謂い自体が、身体では既に愛の充実が実現されているからこそ、それをメタ的に(つまり形而上的に)意味づける必要がある、つまり例えば彼との思い出という風にコトバ化させる必要があるからである。

従って後者<ともだち>はそれが肉体的には成就しない、つまり同性同士の性行為が実現しないからこそ、直にプラトニックへと移行してしまわざるを得ない運命の吐露となっている。

前者に関しては蝕知自体を対象化させているという意味で、オーガズム(オルガスムス)を経ている女の体感する愛の喜び、充実をコトバ化している。また後者に関しては自慰としてだけ相手への想像で実現する身体的エロスの欲求充足が、却って禁欲的な相手への思いとならざるを得ない状況から、悶々とした非欲求充足的な体感をその侭示すという意味でポストモダン以前の通常の学術である哲学では実現し得ない表現である。

ポストモダン以降ではミシェル・アンリの有名な(恋人たちの夜)等の『身体の哲学と現象学──ビラン存在論についての試論』(法政大学出版局にて邦訳刊行されている)での論述がまず思い出されるし、そもそもポストモダンとは西欧形而上学が拠って立っているキリスト教文化からの受肉という観念への懐疑からスタートしている要素が歴史的経緯から読み取れるという意味では宗教哲学者・修辞学者であるイスラエル在住のスーザン・ハンデルマンの『誰がモーセを殺したか』The Slayers of Mosesの論旨がその侭該当する。

それはエマニュエル・レヴィナスの『神・死・時間』中 神と存在‐神‐学 中、証しと倫理 中の次の論述からも読み取れる。

 

「言語は思考と重なり合っているのではありません。<語ること>はそれ自体が証しである。語の体系としての<語られたこと>に組み込まれたのち、<語ること>がどのような運命をたどるとしても、です。」

 

ここでレヴィナスは語ること自体の快楽・愉悦、つまり語りそのものの身体論的エロスのことを言っている。それは即ち、西欧哲学・形而上学のストイシズムへの抵抗をも意味している。

そのことを理解するためには、ポストモダン思想が復活させようと目論んだことが、新約聖書解釈から誘発されてきた禁欲主義が、より『キリスト教要綱』に示されてきているカルヴァンの宗教改革で徹底したプロテスタンティズム(ここら辺はマックス・ヴェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神で培われた論理が実証している)、つまりピューリタニズム以降のキリスト教思想の正統性への懐疑に裏打ちされた身体的生命と感性的なものの復権(ハイデガー<ニーチェ>での解釈。後で詳述する。)であったということも押さえておく必要がある。

禁欲主義が聖書で示されているのは専ら新約聖書による旧約聖書への解釈である。だがその起源は当然創世記にまで遡る。

ハイデガーが考えた様に存在とは、西欧哲学・形而上学ではロゴスを基調としてきている。これは決定的な事実である。

 

 

だがその存在の比類なさ(ハイデガー『技術への問い』Voterage und Aufsatze (関口浩訳、平凡社刊)からの語彙、付記参照のこと。)は、西欧哲学・形而上学への懐疑、ニーチェの言う真理の誤謬<ニーチェ>Nietzsche(細谷貞雄監訳 加藤登之男・船橋弘訳、平凡社ライブラリー刊Ⅱ)中、一―認識としての力への意志 中、形而上学的に把握された真理の極限的な転化185ページ に展開するニーチェ晩年代表著作『力への意志』の四九三番、一八八五年からの記述、意味が目標と理想なのであるということの倒置、倒壊と大地の復活先述同著中、―同じものの永遠なる回帰と力への意志254ページに展開する詳述)、つまり身体的生命と感性的なものの復権一つ前の括弧内と同じ254ページに展開する記述と共に消え失せた。永井均が『存在と時間Ⅰ 哲学探究』で考えている<私>はロゴス以前的なことであるが、これは少なくとも西欧哲学・形而上学では成立する根拠がない(このことは後で詳述する)。

 

 存在するものの真理の没落先述の『技術への問い』中 形而上学の超克 103ページ記述とは、西欧キリスト教文化圏での西欧哲学・形而上学でのニーチェの試みが示している様なギリシャ哲学以来の問いかけだ。創世記のロゴス神話性への遵守と抵抗という矛盾した相反する心的志向性の同居から由来する、反芻的な振り子的反復を意味する。

 これは<形而上学の超克>でハイデガーが言う「形而上学は過ぎ去ったものであるが、それは同時に形而上学が終わりつづけること〔Ver-endung〕に達したという意味でそうなのである。終わりつづけることは形而上学のこれまでの歴史よりも長く継続する。」というあたかも死後現存在が永遠に死を不在として生きる中島義道『不在の哲学』(ちくま学芸文庫刊)を参照されたし。ことを根拠化する。

 

西欧哲学・形而上学が先述カルヴァンの『キリスト教要綱』の持つピューリタニズム、禁欲主義からの浸潤を全うしてきた中に例えばヘーゲルが居る訳だが、それへの批判として西欧哲学・形而上学が羞恥の克服を意図していたなら、羞恥の獲得を意味する創世記以来のユダヤ教→キリスト教宗教思想は、物語性をもって選民を啓蒙した創世記まで遡らなければいけない。(つづき)

 

 

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2016年12月 3日 (土)

思想の時代Part10

時代に疎いということを誇らし気に語る人が数十年前には居た。70年代まではかなり居たし、80年代や90年代にも少なくだが残存していた。だが今の時代そういうことを言っていたら生活自体が成立しない。昔気質、つまり阿久悠が作詞して川島英五が歌った<時代遅れの男になりたい>という曲の持つメッセージが反社会性を帯びてしまっている。

現代社会はどんな社会成員もそれなりに、人の代わりになるのではなく、自分なりに自分でしかできないことを追求して社会貢献をしなければいけない状況を各個人へ植え付けている。

自己解決社会、つまりどんなことでもサーヴィスの拡充している時代であるが故に自己解決を促進される社会に生活している。確かにそれは今ではまだ都市部だけだが、地方部でも徐々にそうなっていくことは必至だ。だから淘汰されてしまう利便性に於いて真の過疎地が生じていった場合、過疎地で生活するとはどういうことかという問いかけも必要となる。

福祉や介護等のビジネスは重要となっていくが、終末医療が充実しても人の心の空白はそうたやすく解決しない。生活を維持するための利便性やインフラ(社会機能)維持業務外の精神性を追求する業務は無くならない。

人それぞれ信じられる何かは違う。だから当然自分と同じものを信じられる他者(完全に一致していることは少ないが、概ね近いと言える他者は居る)とのコミュニケーションと、そうでない一般的他者とのコミュニケーションとを両立させていく必要がある。それは混同できない違うことの両立である。だがそれでも一致していたつもりの人とそうでなくなったりすることもあれば、全く接点のない人と一致点を見出していくこともあり得る。その意味では人生は生涯セレンディピティの旅である。

情報は益々量を多くして我々各個人に押し寄せる。それを嫌がっては生きていけない。だから情報処理自体が一つの重要な生活維持のためのメソッドとなる。工学的見解を人それぞれ人生の在り方の哲学に応じて、異なった独自のメソッドを見出していく必要がある。

古代ギリシャ思想、ユダヤ思想、中国や朝鮮等の思想から読み解けるもの、つまりそれらの現代社会なりの読み替えも重要となってくる。我々はどんな国の市民でもそれぞれ違う経路から異なった文化圏からも精神的影響を受けている。宗教的にも17億存在するイスラム教徒の考え方が欧米や日本等の市民とどう違い、どう接点を持つかという認識も備えておく必要があるだろう。

上記の現代人に必須の教養の様なことは、しかし忙しい現代社会生活で忘れがちであるが、自分達同族にとって当たり前のことは、同族外の人達にとってはそうではないという意識は実はどの民族にも必要なのだが、そのこと自体は改めて意識に上ることはやはり圧倒的に少ない。そのこと自体を見直すだけでもかなり意識の切り替えには役立つ。

私等は、実は機械への恐怖がずっと巣食っているのだが、機械を利用することへの恐怖心を無くすことも重要である。機械とは恐らく一つの手続きである。只現代社会に特殊に存在する手続きなのである。

上記の日常生活での常識の異なった異なる民族間の問題、そして機械への恐怖等も、実はそれらの対処としてヘルプ、レスキューとなることは文字情報、言葉だ、と言える。最終的に信用できる文字情報と言葉とを選別する習慣を身に着けることから、それらの困難を克服していく必要がある、と言える。

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人間は本質的には一人だ、だからこそ

 人は本質的に一人である。だからこそ逆に色々な繋がりを求めている。でも繋がりから見えてくるものは、人はやはり大勢で集っていても一人ということだけだ。

一人で彷徨うあてのない旅を続けるのが人なので、人は旅を続けながら何故その自分を生きているのかと問いかける。人と共に居ても、その問いは駆け巡る。

 神との対話はきっと人が自分自身へ問いかける究極の問いのことを言うのだ。勿論人は(どんなに信心深い人でも)常に神と対話しているわけではないだろう。だから皆で集まって何かしようとする。祭りもそうだ。だが祭りは終わるととても寂しい。一人でしか人は生きられないことだけを知るために祭りをしているみたいだ。だから祭りの喧騒が一人の意味を我々に思い知らせてくれる。神は皆の上を漂っている様なものではない。

 一人で心の奥底に沈潜していった時必ず見えてくる、或いは聴こえてくる何か、それが本当に神なのだろうか?

 言葉は頭の中を駆け巡る。でもいつもいい言葉が浮かんで覚えていられるわけでない。だから書き留める。書き留めきれなかった言葉は、書き留めることで覚えている言葉より貴重な何かだと幻想させる力がある。忘れるということがあるから思い出すのだが、思い出せない何かが一番神秘的に輝きを放っている様に思えてしまう

 一人ではそういうことしか頭には巡ってこない。それでもどんなに人と集まって何かしても、どんなに孤独に弱い者でも、人は一人になってしか考えられないこと、どうしても一人だけになりたい時もある。そして一人でしか浮かんでこない言葉がある。それは何だろう?

 寂しいというのは人と一緒に居られないからではきっとない。それは人と一緒に居てもやはり痛切に感じてしまう何かなのである。それは人が恐らく人へ何か伝えても、それが自分で感じている様な意味で伝わっているのだろうかといつも頭を抱え込んでしまうことと関係ある。

 神とはきっと、その自分のことは自分でしか分からず、それは伝えられないということの別名なのだ。

 旅は終わらない。死ぬまで(いや、死んでも旅は続いていくのかも知れない。それは死んでみなければ分からない)。

 歌は終わる。曲は終わる。終われば聴いていた時間が過去になる。過去になることを知るために、何かを終わらせる。

 本は読み終えてしまう。読み終えてしまえば読んでいた時に何を考えていたかが過去になり、その過去の思いが今に重なる。あの文を読んでいた時に考えていたこと、それらが一気に頭の中に押し寄せる。

 過去が現在を作っているけれど、切れ目が作っているとも言える。一度忘れていたことを思い出すことで、思い出されたことを持つ過去が、それを忘れていた時間の長さを違う意味で実感させる。それを忘れていたその時間と、忘れていたことを思い出した後に振り返るその忘れていた時間とでは大きな違いを感じてしまう。

 だから過去は忘れていた何かを思い出すことで作られるとも言える。過去が違う意味で過去になっていくということだ。

 いつも一人で自分の心の奥底の世界へ覗き込むのは確かに辛いと普通の人は思うだろう。だからと言って大勢と一緒に居ても、何も考えずに過ごすことができるだろうか?

 旅(それは実際にどこかへ行くという意味での、である)は終わって初めて旅に行っていた時のことがそれぞれの瞬間として思い出される。旅の途上で何かに出会っている時には、それは現実で、旅なのだけれど、普段見慣れていない何かに気持ちが釘付けになっている。

 だけど旅が終わって訪れた場所のことを回想する時には旅をしていた時間が旅の終わってからの時間と対比的に捉えられる。その時旅が過去を作っている。だから過去を作るために旅をしているとも言える。

 歌を聴くこと、曲を聴くこと、映画を見ること、本を読むこと。それらは全て旅である。聴き終わり、見終わり、読み終わり、全行程を終わり、それが現在だった時間を振り返ることで過去を作る旅である意味では、それらも実際に足で出向く旅と本質的に同じである。

 人は本質的に一人である。それは振り返られることで作られる過去の意味、時間が経過していくことの実感が人と共有し合えると思っていながら、やはり自分にしか分からないことへの不安からもそうである。不安は人と共有し合えない。共有し合えるものは不安ではない。不安であることの確認だけである。

 人は本質的に一人である。だからこそ、一人でしか味わえない、一人でしか感じ取れない心の奥底、そこから湧き出るものと出会わずに居られず、それはその度に全く違う何かなので、その常に違うことの驚愕を神と取り敢えず名付けてきただけのことなのかも知れない。

 湧き出てくるものに出会わずに居られないことにそっぽを向けられない、仮にそうしても向こうから追いかけてくるものだけが心を占めることから逃れたい時、縋りたい気持ちが神を作ってきたということなのかも。

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2016年12月 2日 (金)

理論や論理より協調的納得を重視する社会の危険性に就いてPart1

  日本社会はあらゆる国家的権威から地方の権威に至るまでその時代時代の時節に応じた相場というものが<暗黙に>存在する。それはその時代の有識者なる存在によって確定的となっている。

 その事実に対して殆ど一般的に批判は許されない。そういう試みの全ては黙殺されていくし、育つことはない。

 それは日本社会の決定的な不文律が論じることや、理性論的に結論を導くことにはないからである。

 この国では大半の合議は真剣に理詰めで考えて出す様な意見を無視して、逆に丼勘定的なその場凌ぎの居合わせる成員が感覚的に納得することを相場として、それで決めている。一つには、それは常に多数決を取ることを省略したい意図からでもあるし、一つには小さいことに一々関わることを嫌うという生理的傾向からでもある。そういうところは精神的な意味で法治国家的ではない(これはかつて井沢元彦も述べていたことでもある。<天皇になろうとした将軍>だったと記憶している)。

 だからそういった不文律は社会の隅々にまで浸透し、会社全体の個々の部署の空気から、所謂趣味の集いに至るまで対話をするのでなく、その場の雰囲気(集合心性。小川侃の<雰囲気と集合心性>という著作がある。)で決定されるのを習慣化させているのだ。

 日本人は理屈で論理的に結論を出したり、理屈でことの経緯を詰めていったりすることが要するに嫌いなのである。そこに介在しているのは阿吽の呼吸だし、相互の配慮なのである。配慮とはお互いの論点の相違とか食い違いを明確にせず、暈すことなのである。だからそこでは相手への斟酌以外の要素がない。

 民主主義とか自由主義ということとは違う不文律が支配しているのだ。だから民主主義とか自由主義ということの方が建前となっているのである。

 だからメディア報道でも恣意的に国民にとって最も重要なことより、よりその都度視聴率が取れる内容だけを選択している。それもその都度の相場によるものなのだ。確かに税率に関して等、色々な法律的なこともよく報道はされているが、なかなか普段仕事をしている一般職の人には、そのことが簡単には理解できないことの方が多いし、そういう特別番組等を一々録画して見ていくしかないのだ。

 それよりは手っ取り早い皆が好奇心を持つニュースの方に時間を割く。その方が単純に視聴率が取れるからである。

 つまり根拠を示すということを日常的なコミュニケーションで行おうとしないし、それを行おうとする者を積極的にのけ者にしていく、そういう社会なのである。

 そのことの本質的理由とは一体何なのだろうか?

 このことを協調的納得という風に取り敢えず定義しておくと、協調的納得には固有の性善説がある。まず相互の信用ということがそうである。何か意見を通す時も土地を買う様に指定された価格を支払う様にはいかないのだ。どの社会でも長い者に巻かれる式の儀礼性が存在するからだ。

 このことは日本では小さな独裁を容易にしやすい社会環境へと隅々のコミュニティの空気が持っていっている。つまりそういった積み重ねが例えば電通等の大企業で東大を卒業した優秀な頭脳の社員を酷使しても平然としている空気の中で高橋まつりさんの様な精神的な過労自殺等の悲劇を生んでいるのだ。彼女が優秀でも若い社員だからこそそうなっていったのである。

 それは日本では真に実力主義が採用されていないということを意味する。

 又皮肉なことにはSNS等のツールがそういった虐げられている人達にとって唯一の精神的な捌け口として機能し、却って、そのことで社会全体はそういうものがあるのだからということで、一切それまでの企業風土とか習慣等を変えない様にでんと居座っているということも言えるのである。

 この様な時節毎のイデオロギー(理念)が一切介在しない雰囲気で相互の協調性が決定される社会体質だからこそ、かつて戦争へと突き進んでいったのではないだろうか?

 つまり今の社会の空気とは異分子を積極的に排除していくという意味ではアメリカやフランス等と本質的には変わりないものへと変質してきているのではないだろうか?

 まず先の世界大戦での日中戦争から太平洋戦争へと突き進んだ日本史への反省というものがすっかり五輪前の国威発揚で掻き消されてきている様な感触を私は持つ。それはメディア報道でもそうである。

 勿論国家プロジェクトを成功へ導く為に皆が協力することは大切だが、そういった過去の歴史の反省的地点に立った展望的な論議も全くしないでいいということにはならないのではないだろうか? (つづき)

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