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2017年1月

2017年1月10日 (火)

目的主義批判論Ⅰ 議論の自由をまず確立させることに就いて

政治的リアル、社会的リアルでは国家主義が市民主義より上回っている時代では、政治家がGDPを上昇させることだけが至上命題となり、精神的充実より数値化目標だけが肥大化する。

韓国の日本総領事館前の従軍慰安婦の像設置に対する日本政府の過剰反応は、しかし韓国の側からすれば、全く理解できない訳でもない。率直に日本に伝統的宗教権威である国家神道の総本山であるところの天皇制を維持し続ける限り、日韓問題も日中問題も永遠に解決しない。少なくとも京都御所帰還と、もし実現させようとしても日本の様な国ではかなり時間がかかるだろうが、皇族の一般市民化をしない限り、この日韓・日中関係が永遠に改善されないということだけは確実に言えることである。

上記のことは全て目的が国家を世界的に上位へ置くということに収斂されているだけである限り、目的主義の悪しき側面だけがいつまでも永続していくということだけを示している。

国内の被災地出身の生徒がいじめに遭うとか、電通の高橋まつりさんの過労自殺等を助長させるものとして各市民の人権が尊重されているとは言い難い、ニュース報道等の事故等で亡くなる市民を死亡とだけ片付け、対し皇族の死去に対しては薨去、天皇陛下の死去に対しては崩御と明示するその差別的待遇を改善しない限り、いつまでも社会ではいじめも責任転嫁も蔓延っていくだろう。

目的主義とはその目的、例えばGDPを上昇させることだけに収斂されている限り、それ以外の一切の価値的充実を蔑ろにしていく傾向だけは否めない。企業も数値化目標だけが常に最優先されているので、従業員の幸福もだし、消費者や利用者のサーヴィスもだが、金銭的価値だけでは推し量れない様々な価値基準を見損なうという事態が招聘される。

実際にはしかし全世界的に国家主義が隆盛を極めつつある昨今、目的主義以外の価値規範を重視する様に人類を持っていくことは至難の業である。結局社会全体がことなかれ主義に陥っていることから目的主義が採用され続けている。それは為政者や各界の管理者にとって管理しやすい状況だけを好ましいものとして社会全体が連動されているという事実に帰着する。

人類全体がそういう傾向を強めていることも言語の壁、文化的習慣の民族毎の著しい差異等が決定的に作用している。いくら翻訳ソフトが進化しても、言語的・文化習慣的差異は克服されないだろう。しかも全市民レヴェルで隣国の言語や習慣を理解することを試みても、せいぜい一か国(日本の場合はアメリカ合衆国だけであると言っていい)しかそれを為し得ることは全市民レヴェルから言えば不可能である。それすら成し遂げられている訳ではない。

上記全ての好ましからざる事態に少しでも対処し得ることがあるとすれば、それは目的主義でない、試行錯誤許容主義を定着させていくしかない。精神的心得として、それを定常させることなのである。

そのためには疑問に思えることを論議することにタブーを設けないことである。しかし日本の場合にはかなりのレヴェルで宗教権威に対してそれをすることは(国家神道の場合だけであるが)困難であるという暗黙の了解がある。それを改善させていくには、主体的に日本史等を多くの国民が学んでいくしかないだろうし、それは古代史からもであるが、同時に昭和史という比較的近い時代の真実を直視していくということであろう。そうすれば現政府が過剰にセンシティヴになっている多くの日韓関係等の問題では、必ずしも現政府が正しいだけでもないという批判精神も生まれるだろう。

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人は何故思い出を作りたがるのか?

 昨日のニュースでどこかの地方の行事に関する報道の中で、地元の子供(小学生だったと思う)にアナウンサーが取材でマイクを向けるとその子が「いい思い出を作りたい」と言っていたが、その時私は何故人とは思い出を作りたがるのかと疑問に思ったのだった。

 よく考えればその時々が楽しければ、一番いいのであり、過去に楽しかったと思い出すことより、常に今が一番楽しければ、それでいい筈なのに、思い出ということに拘るところも我々には確かにあるのである。

 それは一体どうしてなのだろうか?

 そうはたと思いあぐねてみると、そう簡単に理由を論えない。

 しかし一つだけ確実な事実がある。それは我々が現実とか、現実を支える今ということに飽きてしまうことがある、ということである。

 思い出すということは常に覚えているということだけなく、必ず一度は忘れてしまっているという状態が必要である。ずっと頭の中に居座っている過去が必ずしも楽しいものばかりではないと我々が知っているから、せめて一番思い出せやすいものは楽しい思い出にしたいという儚い願望が我々にはあるのだ。

 思い出せる過去とは醜いよりは美しい方がいいと思うのは、今とか現実というものがそれ程楽しいばかりではないばかりか、かなりきつく辛いことの方が多いと我々がよく知っているということではないだろうか?

 思い出は辛いことでもかなり数十年と長く経ってしまうと、そんなに思い出すのが嫌だとまで思えなくなるものだが、やはり自分自身に対して屈辱的な思いを思い出して味わう思い出よりは、余り巧くいかなかったとしても尚それなりに精一杯できたと思える思い出の方が、せめて余り全てが巧くいっているわけではない今とか現実に対して、いい思い出せ方から、気持ちよく一日が過ごせる、とそう思えるからこそ、思い出を作りたいと思うのかも知れない。

 又よく思い出せる思い出とは凄く楽しいこともあるけれど、些細なちょっとしたジョークとか、ちょっとした仕種とか、言い方とか、要するに凄く本質的な意味がある訳ではない、些末なことであることも意外と多い。つまり教訓的であったり、道徳的であったり、正統的な本質に貫かれている様な事態とか出来事だけでなく、凄くどうということのないちょっとした記憶の片隅に残っていることをふと思い出すということがあるのではないか?

 そういう些細な思い出し方が頻繁に出来るとしたら、それはそれ程不幸としか言えない人生を送ってきた訳ではないとも言えるが、仮に人生の大半が受難に満ちていた様な人でさえ、些細な思い出も意外と重要ではないだろうか?

 それはその人が大きな出来事に於いては挫折の方が仮に多かったとしても、尚、それ以外の日常生活での些細なことで可笑しかったり、笑えてしまえたり、微笑んでしまえたりしたことの方がユーモラスな気持ちに引き戻してくれるという意味で、大切だからではないだろうか?

 そのことは人間とは正しいこと、正統的なこと、きちんとしたこと、本質的な理性で判断して妥当だと思えることだけで生きていける生き物でもないということを意味してはいないだろうか?

 思い出せることと言えば辛いことばかりという人生が仮にあったとしても、そういう非本質的で些細なことが却って人生の苦難とか受難を軽減させてくれると思える、そういうほっとした気持ちにさせてくれるというところに思い出というものが、本人にとって他人に説明する時、凄く感動的でなくてもいいけれど、態々人に説明することがしやすい何かでなく、却って説明したりするほど大袈裟なものではないからこそ、微笑ましく思えるということの方に、人は或る固有の人生での安堵を見出す、という部分が我々には本質的に備わっている、つまり非本質的なことの方に憩いを見出す様になっているという我々生きている人間の本質がある、と言えるのではないか?

 だから思い出を作りたい、と人が言う時、それはたとえ幼い子供でも、否そういう風に強い立場にある訳ではない人であればこそ、人に説明しやすい、公的な誉的なことでなく、凄く個人的なことでもいいから、ほっとした気持ちで、今とか現実の辛さを少しでも軽減してくれることの方を人は望むということなのだろう、と私は思うのである。

 思い出だけに頼る人生には誰もしたくはないのは、誰しも分かっていることだけれど、思い出せることで、少しでも微笑ましくなることの方が多いと思えるなら、少なくとも凄く不幸な人生であるとまでは言えない、と思えることを人は望むということかも知れない。

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2017年1月 9日 (月)

成人式を迎える新成人へ贈る言葉2017

 今日は成人の日ですが、昨日成人式を済ませた人も居るだろうし、今日出席する人も居るでしょうけれど、取り敢えず成人式おめでとう。

 今日から正式に諸君は大人の仲間入りを果たし(とは言え、もう選挙とかには行ったことある人も多いだろうけれど)、何か悪いことをしたら、もう少年法では守られることもなくなるわけですが、納税、教育、勤労の国民の三大義務を果たしていかなければいけない訳なのですが、私自身はどれ一つとして諸君に胸を張ってやってきたと言える様な大した人間ではないですし、それどころか何をしても巧く行かず、全く世間的には挫折し続けてきた人間なのですが、それでもその都度常に前へ向かって希望だけは失わず、色々と必死にやってきたと言う事だけは言えるので、何か今日諸君に伝えられればということで、本記事を書くことにした次第です。

 簡単に自己紹介しておきますと、私は若い頃、芸術家を目指して精進しながら必死に色々な仕事をしながら家計を支えて、芸術自体では終ぞ飯を食う事も出来ず、50歳にも手が届こうかという頃芸術家を目指して絵画制作をすることを断念し、それ以前から趣味でやっていた詩を中心にやっていこうと決意した人間です。

 私は恐らく諸君の御父さんとか御母さんとかよりも年齢はずっと上だと思います。後2年と9か月と21日で還暦を迎えます。ですから東京五輪が開催される頃は61歳になっています。

 でも兎に角がむしゃらに何かは常にやってきたので、何か社会の入り口に立っている諸君に一言祝福したくてそれなりの年も重ねてきているので、言わせて戴きます。

 一言で言えば人生は、その時々は凄く長く感じるし、辛いことの方がずっと楽しいことより多いし、それでいて過ぎ去ってみると、意外と人生って短いな、というのがどんな人でも(自分位の年齢になっている人だったなら)、そう思うのではないか、ということです。

 私も若い頃は恋愛もしましたし、そういう男と女のこととかも全く語れないということもないのですが、幸福な結婚生活を送るのを或る時期諦めてしまった様な人間なので(と言って今後私の人生でそういった出会いはもう二度とないとも言い切れないのですけれど)、そういったことは違う人の言う祝福の言葉を聞いて貰いたいと思います。

 私自身はですから、巧くやってこられたという訳ではないですが、仕事とか作業のことで自分にとって分かる範囲のことだけを伝えたいと思います。

 もう諸君の中には親にさえなっている人も居るかも知れないですが、違う君も隣に居る君がそうだからと言って、自分も早くそうならなければいけないということは言えないということです。つまり人はそれぞれ生き方が一人一人全く違っていて、大切な他人との出会い方も、仕事との出会い方も全く自分にだけ特別な在り方をしているのです。

ですから自分の生き方を人に押し付けることもできなければ、人から君が何か干渉される謂われもないということです。大人とはそういう風に自己責任でそれぞれ生きているということなのです。

 ただ諸君も重々承知でしょうが、仮に今君がシネコンで映画でも彼(女)と見た後カフェテリアでコーヒーでも一緒に飲みながら見た映画の感想でも語り合っている隣の席に腰かけて君達みたいに談話している同じ年頃の青年カップルが、或いは北朝鮮とか中国とかロシアから来たスパイかも知れない、という様なことさえ決してあり得ないとは言い切れない、そういう時代を生きているということです。

 君が日頃やっているSNSのツイートとか友達とかフォロワーとかとの対話とかも、全て何等かの形でアメリカとかの情報局から傍受され検閲されている、ということも君は承知の上でそういう営みもしていることと思います。

 言うまでもなく私の様ないい年齢の大人も含めて言えることですが、我々は皆そういうシヴィヤな時代に生きている、ということなのです。そして皆或る程度そういうかなり異常なシチュエーションのこういう時代をそういったシヴィアなリアルを受け入れていかなければ生きていけないということを承知している、そういう時代に我々は生きているということです。

 そういったリアルをすんなりと受け入れられるか否かも含めて、世界とか社会とか、国家とか、要するに我々一人一人の個人を取り巻く環境にどういう態度で接するかということ自体、自分一人で決めていかなければいけないのです。

 現代社会は或る部分では(どの国も)着々と国家主義が幅を利かし、世界中が監視盗聴されることに耐えていかなければいけない時代ですし、私自身は世界市民主義者であり、あらゆる差別には反対なのですが、人それぞれ生き方とか持つ思想や信条は異なる訳ですから、そのことを人に強制さえしなければ基本的にはどういった思想を持とうが自分の責任で生活できれば、それは自由です。

 ただ自分とは全く違った思想や信条を持っている人達も大勢居る訳ですし、違った見解の人達や、異世代の人達とも率直な議論をしたりすることも臆せず行って欲しいし、要するにそういった自由と権利だけは自分に対しても他者に対しても尊重して欲しいと思うのです。

 そういった諸々の自由や権利は国民としての義務を果たすことで、得られる訳ですが、世の中には色々な意味で障害を抱えて必死に生きている人達も大勢居ますし、今君が愛を告白しようとしている人が君と同性であることもあり得ますし、又君が生涯誰とも結婚もせず一緒に暮らしもせず一人で生きていこうと仮に決意したとしても、それさえも君がきちんと義務を果たしておれば、誰からも干渉されることはないということです。

 でも君は愛する人を守る為に、他者と対立したり対決しなければいけなかったりするかも知れません。業務上、ビジネスであれ創作や研究であれ、ライヴァルと対立、対決していかなければいけないということもあるでしょう。要するに食うか食われるかということさえ、生きていく上では学生時代と違って(未だ大学を卒業するまで2年ある人も多いでしょうけれど、いずれ)あり得るそういうかなり厳しく辛い決意をしなければいけないこともある、それが人生であり、生きていくということなのです

 私自身は人倫的な意味でグローバリストです。ですから100人に2人は、異なった国同士の両親から生まれてくる国民も居る、そういう時代に我々は居ますが、どんな民族的な違いが隣に座っている君達と同世代の人であっても(スパイとかでなく同じ日本人なら、或いは海外からの旅行者であるなら)差別すべきではないと思います。その国際結婚の割合は今後益々増えていくでしょう。どんなに今後アメリカがナショナリズム的傾向をオバマ政権時代より増していくとしても、アメリカは勿論日本もその民族の融合的傾向だけは増していくということです。

 その意味ではグローバリズムだけがメインである時代は転換期にありますが、グローバルなリアルや、先程述べた様に皆が隣に座っている人がスパイかも知れないとか、自分が友達や仲間とLINETwitterFacebookで交わした会話とかも検閲傍受されている、そういう時代を生きていかなければいけない状況にあるのは、何も諸君の様な若い人達だけではない、ということです。

 ま、一般的なことはそういうことだけを言っておきたい、ということです。

 もう既に明確な目標のある人は、そもそも私の書く様なこういう記事を読まなくてもいいと思いますし、この後書くことはもっとそうですので、後は、そんなに明確な人生の目標を持っていない人だけに読んで頂きたいと思います。

 私は兎に角アートがやりたくて、そういうことばかり他に仕事を持ちながら、かなりいい年齢になるまでやってきましたが、もう気が付いた時には手遅れと言ってもいい様な年齢で、それを断念して、それ以前に趣味でやってきたことを本格的にしだした、そういう人生を送ってきた人間ですが、幾つか私が経験上得たことを伝えておきたい、と思います。

 まず絵のことですが、絵とは絵空事という語彙もある様に、描くことが楽しくて仕方がないと、何かそれで立身出世でも出来るんじゃないかと幻想させる力が、絵を描くことにはあるのです。ですがそれはあくまで幻想なのです。それで出世出来る人等世界にもそうざらには居ないのです。

 又人生経験が酷くドラマチックで、波乱万丈な人生を送っているから、そういう創作が出来るかと言うと、生涯放浪をして、人と決闘したりして人を殺めたりしながら流浪の人生を送った画家のカラヴァッジオの様な天才を除き、殆どそういうことはない、ということも言っておきたいのです。

 逆に全く人生経験的な波乱万丈ささえ無い人でも、凄く才能さえあれば、小説家でも、詩人でも、画家でもそれだけで食べていける、ということです。

 よく考えれば何と残酷なことでしょう。人生とは、特に仕事とか才能と言うことでは、神は我々個々を凄く不平等に造っているのです。

 私は批評的なことも致しますので、批判的対象として宮崎駿氏も故蜷川幸雄氏も山田洋次監督とかもこてんぱんにこき下しますが、それでもメルヘン的なものや人情もの的な作品であっても、それはそれでかなり大変だし、誰でも書けるというものではないのです。

 それは俳優とか歌手が誰にでもなれるという訳ではないのと同じです。

 それでも批評は何等かのかたちで敢えて偏った立場を表明しなければいけないことですので、尊敬していてもこき下したりするということはあるのです。それが仕事ということではないでしょうか?

 心にもないことをお世辞の様に言ったり、思ってもいないのに、人を褒めそやしたりする方がずっと楽なのです。心を鬼にしても批評すべき時は、どんなに大物でもこき下す様に言わなければいけないのです。

 去年末の紅白歌合戦をご覧になった方はよく分かっただろうと思いますが、以前ずっと紅白出場を断っていた宇多田ヒカルが今年初めてロンドンのスタジオから<とと姉ちゃん>の主題歌ともなった<花束を君に>を歌いましたが、かなりあがっていて、声も震えていましたよね。彼女の様な6年前までは百戦錬磨のシンガーでも、天才的な作詞作曲をする人でも、長いブランクの後で自分のファン以外も大勢見る紅白歌合戦で歌うということは、あんなNHKホールとかではない個人のスタジオとかでも緊張するものなのです。

 私も数十人という少人数ではありますが、学会で知らない人も大勢居る前で発表したことが四回程あるので、よく分かるのです。

 宇多田ヒカルはあの歌を歌った後、審査員としてゲスト出演していた高畑充希と衛星で声を掛け合った後、「いい経験をさせて戴きました。」とそう言っていたではないですか。あんなプロでも初出場という体験とは大きな意味があるのです。

 人生は死ぬまでそういうことの連続だと思います。

 諸君は未だ私くらいの年齢になるまでもかなり長く生きていかなければいけないのですが、そうたやすくどんなことでも成し遂げられるものではない、そういう事だけが人生だとだけは心得ておいて欲しいと思うのです。

 そう言う私も未だ人生の途上なのです。諸君が今後長い苦しい道のりを歩んでいく様に私も歩んでいきたいと思います。

 人生の全てに於いてご健闘をお祈り致しております。

  付記 今年は人生の心得的なことだけを書きましたが、私のブログで本記事の表題で検索して一昨年やそれ以前のものも検索して頂ければ、私が多少なりとも経験ある世界でのテクニカルなことも書いていますので、ご覧下さい。

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2017年1月 8日 (日)

音楽と絵にも基礎は色々在って、なかなかそれぞれの違いを克服し難い/個性が最初から在ることを活かすにはどうしたら良いか

 上原ひろみのコンサートをほぼ毎年欠かさず鑑賞した日々がつい数年前まであった。それ以後学会で発表をする日々が続き、6年の間に8回の発表を(ポスター発表4回、口頭発表4回)行ったので、少し音楽鑑賞から離れていた。

 それでも彼女のCDは出れば欠かさず購入し、愛聴してきている。彼女以外に全部の作品を購入する程好きなジャズピアニストは今のところ居ないが、Youtubeではよく色々な人達の仕事を聴いている。

 ひろみはかなり幼い頃からアドリブで作曲して弾いて聴かせていたらしいが、要するにクラシックの楽曲も演奏できても、自分が好きなやり方は幼い頃からジャズに向いていたみたいである。

 クラシックと言ったって色々なタイプのピアノ曲が存在し、得意な傾向のものは人それぞれ違うだろう。だから基礎そのものが色々と多様に存在するのだということである。

 上原ひろみが登場する前にも秋吉敏子、小曽根真、山中千尋、彼女より後からは奥田弦等も登場し、百花繚乱のジャズピアノエイジである。クラシック界でも辻井伸行、大井健、反田恭平、小林愛実、牛田智大と次から次へと俊英が登場してきている。

 ピアノだけでなく全ての楽器演奏で、個々のプレイヤーは独自の基礎がある筈だ。人それぞれ身体の形状も異なるし、腕や掌から指の先までそれぞれ違った条件で生まれついているのだから、当然弾きやすい仕方というのが個々異なっている以上、同じ楽曲の譜面を見て弾いたとしても全く違った音色となるだろう。

 そもそも基礎の段階から多様な在り方が全てのプレイヤーに与えられているのだ。だから本当に才能のある人は基礎段階から既に独自の方法論を身に着けてきている筈なのである。

 シンガー、声楽家が全くそうである。身体の条件が人それぞれ全く異なっているので、当然ながら声の出し方から身体を通した共鳴作用も全く異なっている筈だから、一人一人歌声とはまるっきり異なっているし、それが面白いのだ。

 音楽の場合は身体的条件がかなりストレートにパフォーマンスに反映するが、それよりは少しインダイレクトに作用するのがアートだろう。

 アートは自分の身体と密着したプレーという要素と異なって、完全に自己身体からは切り離され対峙した存在様相での物体の提示なので、理念的にも作品制作上での在り方も大分変ってくる。

 でも絵を描くということに於いてはアートだけでなくマンガでもイラストでも彫刻やインスタレーションや行為性を押し出したパフォーマンス(これはダンスや音楽と共通性がある)とは異なった一つの絵を描くという行為の意味がある。

 だがデッサンの基礎はやはり個々で全く異なっている。イラストやマンガでは描かれる対象の機能や現象が巧く説明されていなければいけないし、そういう意味ではアートのデッサンでも巧い絵はそういう説明もされているのだけれど、アートの究極の目的は抽象化なので、必然的にデッサンの目的が少し違う。

 秋本治氏は40年程こちら葛飾区亀有公園前派出所』を連載してきたが、最近新シリーズを四つ同時に又手掛けだした話がニュースで伝えられたけど、より劇画的な傾向のものを今手掛けているらしい。それを見ると、そのデッサン力は、寧ろ印象派等よりずっと古典であるルネッサンスの巨匠からバロックやロココ辺り迄のデッサンにあった、ダイナミズムを感じさせる。

 劇画のデッサンとは さいとうたか をにしてもそうであるが、どちらかと言えば、近代絵画、印象派以降の観念より、それ以前の観念にずっと近い。だから一般的に美大を目指す学生が習得するデッサンと、マンガや劇画のデッサンとは基礎自体が微妙に異なるし、それは機能的な説明描写を旨とする後者が、前者に固有の抽象化と著しく相反するということだけでなく、そもそもマンガが(イラストと又違った意味で)業界的な営みであり、時代毎の要請への応答が為されていなければいけないということである。それは近代絵画やそれ以降の現代絵画のドゥローイングの持つ物質的な抽象性とも全く異なっている。

 又マンガや劇画のデッサンが或る微妙な動きの説明でなければいけないということは、近代絵画以降の抽象性への一種の抵抗でもあり、それはアート畑では抽象絵画がメインストリームとなってきている歴史的経緯と事実に対するアンチテーゼと批判精神がある、ということになる。そもそもコミック雑誌からスタートしているマンガや劇画にはそういったアートの純粋志向への抵抗精神があるのだ。

 美術教育でのデッサンは明らかに悪弊であると思われる石膏デッサンから始まり、学術的なアートの営みという意識が美術教師にも生徒にもあるそれとマンガのデッサン力とはそもそもの基礎からやはり決定的に異なっている。マンガには吹き出しや動きを示す線等が多用されていて、それは抽象作業とは異なった性質の描画なのである。だからアートの学術的なアカデミズムと最初から異なったマンガや劇画のデッサンにはアンチアカデミズムの伝統があるわけだ。

 そしてその異なった基礎を同時に習得することはかなり困難である(勿論不可能ではない。それは言ってみればヘブライ語とスワヒリ語を同時に習得する様なものである)。勿論アート界にはテクノロジー的にはマンガやアニメの持つものをも応用する村上隆の様な存在もあるけれど(奈良美智は違う。マンガ風であるがデッサンの仕方は純然たるアート流儀である。)、概ねマンガや劇画の描き方に見られる表情を少しオーヴァに描く仕方ではない。抽象的な明暗描写はアート学術性に基づいている。

 現代はニューメディアアート以降様々なライトアートやウェブサイトの動画等のテクノロジーを融合させたりするものまで、かなり多様を極めているので、デッサンやドゥローイングのメソッドも何を利用してもいい時代になっている。だからその点では逆にマンガや劇画でファインアートメソッドを利用する様な漫画家が登場したって、それ自体はちっとも可笑しいということはない

 只同時に異なった基礎を両立させることはかなり困難だと言える。勿論基礎の基礎段階では先程のジャズとクラシックの話で述べた様に、共通するものがあるだろうが、或る段階からはかなり並走していて、それは全く異なった流儀になっていく。あることをするには適しているテクニックは違うことをするには却って邪魔になるということはある。

 それらは表現行為だということから、個々の表現したいことや、それに合ったメソッドが個々最初から異なっていて、早く天才的にそれを発見した人は、固有のメソッドの利用の仕方で進化していくわけであり、個人に固有のメソッドの利用の仕方という個性が、どう表現に活かされるかということが最重要なことなのであり、それはどんなジャンルのものでも基礎自体が一元的なのではなく、多元的であるということを物語っている

 そういった意味ではプロ予備軍の人達はとりわけ形而下的なメソッドの多様な摂取と吸収ということが重要なのである。それを通過して、次第に独自に専門性へと収斂させていくということから、プロとして表現者として歩んでいく訳だ。

 そしてそれは音楽やアートだけでなく、全学術分野でも言えることであり、文学等もまったく同じことが言える。文法とか国語学的なことと、それから引き出される固有のモードや方法論の摂取も、人それぞれ最初から異なった在り方をしているのが自然なのであり、多元的な基礎的基盤が存在するということが言えるのである。

 それと人類という種が一つの起源から派生してきているということとか、生命の起源が一つであるということは又違う問題であるが、種が分岐してきた様に、表現活動でも、個々のメソッドやそれに適合した基礎が幾らでも多様に存在し得るということは、生物学用語で言えば自然選択的な方法論的進化というものから考えてもいいだろう。

 この問題は何か気がついた時点でその都度報告していくことになるだろう。

 

 付記 アートのデッサンとマンガのデッサンとが基礎が或る地点からやはり決定的に異なっていくのは、マーチングバンドのスネアドラム等を基礎とするクラシックのスティックの持ち方と、ジャスやロックの様にその仕方をその侭適用する人とそうでない人とがあることとよく似ている。基礎の基礎は共通していても、少し立ち入ってくるとやはりかなり個々異なっていくわけだ。

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日記的記述EE NHK/eテレ特番日本のジレンマ(再放送)を見て思ったことに就いて

 NHKeテレにて元日未明に放映された<日本のジレンマ>の再放送が今日未明にeテレで放映された。私は当日テレ朝の<朝まで生テレビ>の方に釘付けだったので、同日に若い論客(全員私より若い人達だった)だけの討論を興味深く聞くことができた。

 前半の(post-truthの逆襲 イデオロギーの終焉 内向性のエゴイズム)は主にトランプ政権誕生等に見られるイデオロギーより感情論による政治選択を世界市民が行いだしたことへの危惧により展開していった。特番全体がメディア批評家で大学准教授である大澤聡氏(氏は39歳なので比較的中年に近い)を中心に展開していた。司会は社会学者の古市憲寿である。

 私自身彼等の討論を聴いて最も強く印象に残ったのは、大勢の高学歴学者・研究者の持つ意識が、やはり決定的にそこまで高等教育を受けずに社会に出た大勢の普通の市民の意識とは著しくずれているということだった。率直イデオロギーの正統性より一般市民にとっては日々の生活の方が重要であり、アメリカが超格差社会であり、中間層が没落しているリアルは深刻であり、それへの改革を期待する特に白人低所得層、失業者達から大きな支持を得たという観点は彼等の議論からは全く抜け落ちていた。

 言ってみれば彼等は完全にイデオロギー正統論を踏まえて知的な学術性を根拠としたリベラルだけが正しいという信念の下で論議していたからである。

 しかし現実社会の経済生活や政治的要求はもっと実際的なものである。過去の先達から受け継いだ理論も秀逸であるが、そういった観念的論議では片のつかない問題が山積みだからである。

 一つ最も興味を惹かれた推測とは米中戦争は必ず起きるというものだった。数人の論客がそう予言していた。

 私自身の考えでは中国が南シナ海進出を画策すれば、或る程度高い蓋然性に於いて太平洋航行する米海軍と衝突することはあり得る。しかしそれはやはり相互ブラッフィングにとどまり、部分戦争にまで至ることはあり得ないだろうと予測する。

 一つには中国軍は空母を製造して使用しだしているけれど、基本的に世界のパワーリアルでアメリカ合衆国の核兵器等の保有量は世界第二の核兵器大国であるロシアと更にそれに次ぐ中国を足した量より凌駕していた筈である。仮にアメリカの海軍空母を中国が撃沈したとすれば、アメリカは直ちに北京郊外にミサイルを打つ用意くらいは朝飯前である。まして彼等がワシントンへミサイルを撃ち込んできたなら、アメリカ軍は中国全土へ核兵器を撃ち込んでいくだろう。それは相手が北朝鮮軍であれロシア軍であれ同じである。

 ロシア軍が中国軍と結束してアメリカ軍に対決しても、そうなれば当然アメリカ人の6割程度が死亡するだろう(当然日本も消滅の危機に立たされる)が、それでも最終的にはロシアも中国もアメリカの核兵器により、完全絶滅するであろう。ロシア軍がアメリカ軍と結束すれば中国はひとたまりもなくもっと早く戦争は終結するだろう。

 そういった結果が見ている中で敢えて中国がアメリカ軍と全面戦争をすることなど通常の理性から考えればあり得ない。中国はあくまで南シナ海の海洋利権を巡って海域権利を主張するために、海軍を利用するだけであり、決してアメリカとの戦争を望んでいる訳ではない。

 そこら辺のリアルを真摯に見ていればああいった発言へは至らない筈である。その部分では彼等はインテリの嵌り込みやすいドグマに意外と安穏と浸かってしまっているのではないか、とは率直な感想である。

 さて論議全体ではライラ・カセム(グラフィックデザイナー)、文月悠光(詩人)、福原志保(アーティスト)達の発言には見るべきところがあり、観念的論議からでなく、生きているリアルな人間の感情から人間の未来を推し量っている部分に好感が持てた。

 又後半の(違いをいかせ!)ではシンギュラリティ―(AIが人間知性を完全に超え、人間の知性的活動の出る幕が無くなり、人間の行動が100パーAIに制御されていく境界線のこと)に就いての論議では、大澤聡氏等の科学者の幻想には付き合っていられないという素直な感想も印象的だったが、マルチラリティと言って、要するに人間は一元的な知性の査定外の多くの不確定要素が介在して、それに従って完全に人間がAIに支配されることなどあり得ないとする主張も何方からの論客から出されていたが、正にそれこそが正しい。

 機械の最大の欠点とは間違うことができない、常に精確だということである。そこには人間活動固有のゆらぎがないのだ(勿論AIにもそのゆらぎをどんどん導入していくだろうが、人間と同じだけの気まぐれさを機械に持たす意味を我々がその時に見出すだろうか?)。従って人間はAIが進化すればする程人間活動に活かされ得る何かをその都度求めて利用していくだろうが、そのことによって人間に固有の感性が衰退するということはあり得ないと私は確信している。

 明日は成人の日であり、本ブログでも成人式に出席する諸君のために何か記事を書こうと考えているが、NHKのあの様な特番が時々放映されることはいいことである。観念的論議も含めて討論を自由に行うことは民主主義の基本だからである。

 政治や実際の経済活動は学者や研究者の理論通りには決して展開しない。これだけはそうである。何故なら彼等エリート・インテリ論客の討論を聴いて、それをどう感じ、どんな意見や理論を正しいと思うかは、あくまで彼等以外の全市民に委ねられているからである。

 

 その点では今後あの番組にはもっと後ろで聴いている一般見学者にももっと多くの時間を割いて論議に参加して貰うという方法をとった方がいいのではないだろうか?そうすればもっと現実的に白熱した論議へと向かえるのではないだろうか?

 

 

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2017年1月 7日 (土)

何が笑えるか、何が似ていると思えるかは主観的だし、個人差があることの意味とは何か?Part1

  お笑いをテレビで見るのが好きだ。大方のメインのエンタメ番組を年末年始も見たし、それ以外の日々も欠かさず見ている。漫才とコントとは違う趣旨があるけれど、現在の漫才にはコント的要素も強くなっているし、逆にコントにもボケとツッコミがある。

 でも会場に来場している大勢の観客はどのお笑いにもげらげらと笑っている皆一斉にでなく、人それぞれだろうが、どの笑いも合計した笑い声の量はそう変わらないが、テレビで見ている自分には、どれも同じ様にげらげらとは笑えない。凄く笑えるのとそうでないのとがある。

 どうして何もかもには笑えず、しかしある特定のものには凄く笑えるのだろうか?私には凄く笑えるものが貴方にも同じ様に笑えるということでもなさそうだ。自分にとって余り面白くない、可笑しいものも、他の人にとっては凄く面白い、可笑しいということはある。

 これは笑いのツボがどうも一つでなく、かなり多く用意されているということと、笑いを誘う本質も幾つもあって、それは両立し難いということもある、ということを示してはいないだろうか?

 哲学ではかなり大勢の哲学者が同じ語彙を使っていても、必ずしもその語義が一致しているとは限らない(物理学等でもそういった食い違いがあるらしいということは何人もの物理学者と出会って知ったことなのだけれど)。

 ハイデガーは『ニーチェⅡ』(三―ヨーロッパのニヒリズム cogito me cogitareとしてのデカルトのcogito)で次の様に述べている。

 「(前略)人々は≪矛盾律≫をもそれ自身において無時間的に妥当する≪原理≫(≪公理≫)と見なしており、この命題がアリストテレスの形而上学にとってはライプニッツにとってとは本質的に異なる実質をもち、まったく異なる役割を演じていることに思い及ばず、また、それがヘーゲルやニーチェの形而上学においては別の真理性をもっていることに思い及ばない。この命題は、ただ≪矛盾≫についてのみならず、存在者たるかぎりの存在者についいて、そして存在者が存在者として経験され、投企されている真理性の性格について、そのつど或る本質的なことを告げているのである。

又、ニーチェはハイデガーによると、どうも芸術と述べる時そこに哲学も含ませているらしい。

 同じ語彙に対してこの様に哲学者間で異なった語義を与えていることそのことは、実は哲学者に留まらず、我々一般市民にも当て嵌まるし、それはお笑いというものに一体何を求めているかに応じても異なった見解をそれぞれの個人に与えている

 つまりそういう恣意的な語義解釈があり得るということは、笑いという語の本質が一つではないということでもあるし、当然それは同時に、多分にお笑いの可笑しさ、可笑しみの違いを各個人に与えているということは、笑いとか可笑しさ、可笑しみの本質が一つではなく、かなり多様だということとなる。

 その点ではウィトゲンシュタインが語彙というもの、或いはその意味というものが大元の本質から枝分かれしている丁度あのダーウィンの進化の系統樹(family tree)的なものでなく、もっと曖昧で緩やかな類縁性で結び付けられているという『哲学探究』での指摘(命題)も思い出される。

 そのことはもう一つ別の例も呼び寄せる。

 私は凄くモノマネの特番を見るのも好きだ。他にものど自慢とかカラオケコンテストをプロ歌手がする特番も好きなのだけれど、今回は特にモノマネを取り上げてみたいのだが、どういう他人が別の他人の顔に似て見えるか、モノマネの本質とは、似ているとされる人の元のネタである本人の顔を知らなければちっとも面白くない。自分の知らない有名人とされる人とよく似た顔と言われても、その元ネタの本人を知らなければ全く面白くないことだ。でも知っている有名人であれば、登場するモノマネ(口癖や話し方のモノマネから顔真似や、顔の作り自体が似ている人も登場する)は凄く面白い。

 でもいつも思うのだが、皆がよく似ていると思える顔や、話し方も、必ず自分も似ていると思えるとは限らない。これも先程の面白い、可笑しいということが皆で一致しているとは限らないのと同じである。

 それは似ていると思える本質を見る目が人それぞれ違う、つまり或る人の顔を見ていても、皆それぞれ違った視点から見ているということを示してはいないだろうか?

 恐らくそれは自分にとって愛着の持てる顔とか、好きな顔であるかそうでないかということも関係してくることなのだろうと思う。好きなタイプの顔かそうでないかというのも関係しているし、人間的に好きな人であれば顔も好きになってくるということもある。

最初の問題に又戻るが、ビートたけしのお笑いは、彼のセンスが好きな人はいつもげらげら笑うが、そうでない人はちっとも可笑しくないらしい(私も彼の才能は愛しているが、お笑いとして彼が凄く面白い、可笑しいとは思えない)。

 去年末、笑福亭鶴瓶と共演して浅草のフランス座で抜き打ち漫才をした時かなり笑い転げている人達と全く笑えていない人達と両方が観客席に向けられたカメラによる映像ではっきりと分かった。

 このことは一つの真理を突いている様に思える。

 或る人の笑える基準と、別の或る人の笑える基準とは全くずれていることもあり得るということだ。これは最初に提示した問題の一つの結論である。

 だがそれはどこかでは或る人の顔を見て、持っている印象が人それぞれ違うので、その或る人の顔が別の或る人と似ていると思えるか否かは人それぞれでずれるということと、やはり繋がっている様に思えるのである。

 今回の問題は哲学的には倫理的、或いは論理的なハードプロブレムではない。完全に一種のソフトプログレムである。しかし面白いことに我々の日常生活ではこの種のソフトプロブレムの数の方がずっと多いということである。そして何故そうであるのかということそれ自体はやはり一つのハードプロブレムなのではないか、ということである。

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2017年1月 6日 (金)

メディアの偏向的弱者特権論/似非的な正義に就いてハイデガー論理から批判する

 メディアはどんな時代であっても常に特定の人達だけしか取り扱わない。その時々でメディアを操作する特権的な人達が恣意的に取材対象を選んでいる。そして登場する人達の顔ぶれはかなり固定化されている。テレ朝等は確かに時々特番的に若い人達や普段余りメディアに登場しない人達も登場させたりはするが、それは概ね年末年始に限られている。

 ところで国家機密でも最高度のものである軍事機密情報は一部の担当国家公務員しか知らされていない筈だ。勿論彼等は自分の部署の機密しか知らず隣接する別部署の機密は知らない。そしてそれが一括して報告される立場にあるのは恐らく総理大臣と官房長官と都知事位であろう。副総理や副知事等にも非常時には説明がされる様に命令系統は配備されているだろう。

 しかし見方によっては、ほんの一握りの国家公務員や担当業務の民間会社の責任者(管理職)にだけしか、例えば送電システムの配備状況が知らされていないということは、仮にそういった責任者に狂人が出てしまった場合には国家治安が保証されないという意味で不気味ではある。

勿論通常では総理や官房長官や都知事に就任した直後、彼等が全員専門部署の機密情報保持者による説明会が為され、非常時、有事の際の対応に就いて綿密な合意を相互に確認し合うだろうし、又仮にそれらの専門部署の人達がその機密情報を悪用することはし難い様に専門分化と細分化が構築されているだろうし(それが豊洲に盛土問題なども派生させたとも言えるが)、又違反罰則は国家公務員でも民間法人責任者でもかなり重いだろうから、もし悪用できるとしたら総理や官房長官や都知事だけであるが、彼等は余りにも複雑な機密事項を全て記憶することはできない。政治に忙しいからである。

だが民間のメディアにはそういった規制自体が無い。それは表現の自由や言論の自由によって守られている。しかしそのメディアの影響力は一般市民への影響ということを考えればかなり甚大なものがある。

しかしメディアは信頼性という意味でいつも同じ人達ばかりを起用するという欠点もあるのである。だから或る時代には同じ人達ばかりが登場する。それ以外の人達はまるで何もしていないかの様な錯覚を読者や視聴者へ与えながら。それは単に担当プロデューサーが一度視聴率で番組を当てるとその人ばかりを起用し、その人にとって依頼しやすい人ばかりを選んでしまう傾向があるからだ。

 メディアは各新聞社もNHKも民放も、そこで就労する人達に対してだけ気を遣う人達を特権的に扱う。メディア関係者等は言ってみれば、彼等自身を固有の弱者として意識していて、それだから逆に特権があるのだと錯誤していて、それを正義だと信じ切っている。そういう心理に最もなりやすい職種だからである。

 だから特に文化面では彼等自身がメディアに救済して貰わなければ自分達だけでは生計が立てられないと踏んだ人達だけを特権的に取材し、扱うのだ。だから或る時代にはメディアに頻繁に登場する人達とは常に限られてきてしまうのだ(それこそがかつて佐村河内スキャンダルを生じさせたとも言える)。

 この救済ということに就いてハイデガーは次の様に述べている(『ニーチェⅡ』の三―ヨーロッパのニヒリズム 形而上学と擬人化から)。

「(前略)よく見れば、doctrina christiana(キリスト教の教義)は存在者に関わる知、すなわち存在者とは何でもあるかについての知を伝達しようとするのではなく、この教義の真理はあくまで救済の真理である。個々の不死なる魂の救済を確かめることが眼目となっているのである。すべての知識は救済の摂理に関係づけられ、救済の確保と促進に奉仕している。すべての歴史は、創造、堕罪、救済、最後の審判という救済史になる。これによって、知るに値する事柄を規定し、伝達する唯一の様式(すなわち唯一の方法)も初めから決定されているのである。Doctrinaに照応して、schola(学習)がある。信仰と救済の教義の教師が≪スコラ学者≫と呼ばれるのは、このためである。」(383-4ページより)

 私が赤字と太字にした箇所が最も重要である。つまりハイデガーがここで言う救済という目的がメディアにはあるのだ。

これはその歴史的経緯からも日本社会でより大きな意味を持っているが、要するに戦後の財閥解体や農地解放と憲法とがセットになって出発していることと関係している。詳述は避けるが、新聞社と放送局には固有の憲法神話もあるし、固有の戦後社会論があるということだ。

 だからメディアが採用する人材の偏りという、この固有のえこ贔屓はメディアへ批判的な人達を一切無視することだけで成り立っている、とだけは言える。

 必然的にメディアとは一人でも何とか生計を立てられる人達は決して(どんなに貧困であっても)救済しないのである。その偏りは異様なるものがある。世間というものを死守していかなければいけないという幻想に彼等は取りつかれている。

 その意味では対社会的処世的手段以外のものはメディアには率直不要なのである。当然その意味でメディアでは個人主義というのは絶対的敵なのだ。彼等には身を寄せ合っている人達だけが尊いのである。それが日本社会の一つの大いなる弱点となっていて、恐らくアメリカもロシアも韓国も中国もそのことを見抜いているだろう。

 その彼等の精神的本質とは、かなり容易に彼等にとって特定の彼等によって選ばれた人達の心だけは読み取れると信じていることである。それは性善説主義に裏打ちされている。メディアを操作することからそういう結論が演繹されるのだ。それはメディア報道を信じやすい日本人の一般市民に対する一種のメディア担当の人達の驕りでもある。

 だから彼等は彼等が特権的に選ぶ人達の心だけは読めるかの様に常に装い振る舞う(それは記者やアナウンサー等の総意として伝えられる)。

 しかし他者の心とはそう容易には絶対に読み取れるものではないのだ。そのことをハイデガーは『ニーチェⅡ』(三―ヨーロッパのニヒリズム プロタゴラスの命題から)で次の様に述べている。

「(前略)人間はその存在がもっとも確実な存在者たることを、みずから無条件に確知するのである。人間は、すべての確実性と真理のための、自分自身で定立した根拠と尺度になる。(385ページより)(中略)/人間がἐγὠ (エゴ・管理人補足)になるのは、その制限によってであって、自分自身を表象する自我がそれより先にすべての表象可能なものの尺度と中心点へのし上がるというような制限撤去によってではない。ギリシャ人にとって≪自我≫とは、この制限にみずから帰順し、こうして初めて自分自身にもとで自分自身として存在している、そういう人間を表わす名前なのである。(390ページより)」

 ハイデガーの言説から読み取れることは他者の心は他者自身が決定するしかないということであり、だからこそエゴイズムとは他者の心を踏み躙ることとは対極の個人主義に近いものなのだ。

しかしそれをメディアは越権しているのである。

 他者の、しかもメディア固有のえこ贔屓的感情で特定の他者の心のみよく分かるとする報道や特集番組のスタンスは極めて危険である。

 端的に日本のメディアは仲間同士で結束する人々しか決して取り上げない。しかし何かメディアが取り上げる人が失態を演じたら、即座に彼等と距離を取ろうとする。あらゆる場面で彼等をメディアに一切登場させまいとする。彼等は彼等固有の性善説主義を隠蔽する為に失態者を即座に追放するのだ。彼等はメディアを味方にしている失態を一切演じない人達だけが正義であり、その実彼等自身に何かあったら直ぐ見離すのだ。

 それは外部から社会一般的見識を読み取れる人達だけが正しく、それ以外の人達は存在さえしていないという印象を多くの市民に与えがちである。これは端的に全体主義であり、メディアファシズムである。

 ハイデガーは次の様に述べている。(『ニーチェⅡ』三―ヨーロッパのニヒリズム 近世における主体の支配から)

「(前略)人間が真理の根拠を自分自身で発見し確保しようとする権利主張は、聖書的=キリスト教的な啓示の真理と教会による第一級の拘束から人間が離脱してきたあの≪解放≫から発源するものである。しかし、いかなる真の解放も、桎梏からの脱出や拘束の破棄につきるものではなく、それより先に、自由の本質の新たな規定なのである。/(中略)われわれが重視しなくてはならないことは、それの反面が啓示信仰からの解放であるような自由は、ただ漫然と或る必然的なものに訴えるだけでなく、人間がこの必然的な拘束を自分からそのつど定立するという仕方でその必然的なものに訴える、ということである。(395-6ページより)」

 青字の部分のハイデガーの教説とは、黄色に囲った部分の自由の本質の新たな規定という責任論に帰着する。赤字部分はそれを詳述しているのだ。つまり我々は宗教的呪縛から離脱して自己固有の観念を構築する必要があるのだ。それは欧米社会でなく日本社会にも必要なのである。

 日本のメディアは確かに色々な自然災害の情報等も詳しく報じてくれはするが、論客達の顔ぶれが日常的には大体決定されているし、MCから番組全体を取り仕切る人達も常連的であり、異動がそう頻繁ではない。民放の場合特にそうだが、NHKでも視聴率が重要なので、それに沿って同じメンバーばかりを使用するという傾向は否めない。そしてそれはハイデガーの言う自由の本質の新たな規定という自己責任論に悖る。

 あのASKA氏や三浦九段の潔白にも関わらず一方的に報道してしまったことに対して謝罪した人達も居るだろうが、かなり一方向へどどっと同じ見解で押し流されてしまう体質も改善されている様には思えない。その点は今後も注視していきたいが、メディア自体も、そのことで購読数や視聴率が下落していくことも充分予想されるのである。

 日本社会には固有の反権力的意識があり、それは戦後日本史と関係している。しかしそれにしてもメディアは救済という観念の呪縛から自らを解放しない限り、この自ら歪な偏向をしていると気付くことはないであろう。

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時間の性質Ⅹ 時間の本質と私達

時間とは我々が作っているのか?そうではない。我々の身体は生命科学的にも哲学的にもその様な主体性で作られている訳ではなく、あくまでそういう宿命を背負わされている。時間と共に誕生した後成長して老化する様になっている。

 しかし時間という軸に我々は参画している。と言うより参画せざるを得ない。しかし時間そのものの過ぎ去り方(去来)はどうすることもできない。これを操作できる者は居ない。

時間は全現存在に平等という意味では圧倒的に外である。外と言っているのは身体を軸とした単純な捉え方である。身体の外という意味だ。勿論身体の内側も時間に浸食されているが、我々自身が主体的に行動する時、それは自分自身と切り離された客体的実態として我々が時間自体を認知・感知するという意味である。

 フッサールは『内的時間意識の現象学』で内的な意識の持続から時間を捉えた。これはベルグソンの純粋持続からも恐らく啓発されている。しかしその視点では時間の全現存在への平等な到来性を捉え損なっている。

 だが同時に個々の現存在が全て等しく時の去来に対応し、参画する意志に於いて圧倒的に時間とは内にも在る。と言うよりどの個にとってもそうである。

我々は個人的に時系列的過去の事実を変えることができない。その点だけからでも時間とは個人的なことではない。それが基本としてある。しかしその時系列全体への感慨に於いて個人的な思いしか立ち上がり難いという要素もある。だからその点でも時間とは相反する様相の鬩ぎ合いで成立している、つまり普遍的であり且つ同時に誰しもにとって個人的であるということだ。

〇前回の復習として再度取り上げるなら、時間の方が我々個々から影響を受けることはない。だが我々全現存在にとって時間それ自体を無視して生活し得る者はいない。この点の不平等性・非対等性とは絶対的である。時間こそが神と言い切ってさえよい。

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2017年1月 5日 (木)

時間の性質Ⅸ 平等と不平等

時(時点・時刻)とは全てへ平等だ。或る時刻が或る特定の現存在だけに訪れ、別の全てへは訪れない、とか、逆に或る特定の現存在にだけ訪れず、それ以外の全ての現存在には訪れるという様な事自体がない。生者にとって時とは完全に平等に訪れる。

〇だが時そのものの受け取り方、取り込み方、つまり認識の仕方や感慨の持ち方は別々である。つまりその時そのものへの認知・感知のちぐはぐこそ、時の平等性と裏腹の時の在り方の異質性を物語る。だから逆に言えば時とは全く感情を持たないということだ。感情を持たない、とは、時に感情がないという、時が待たず、待たせずという性質自体へ、我々がどういう心持で臨んでいるかということから作られている。

時間が同じに与えられていても個々の現存在では一切他の現存在に心を読み取られることはないが、かと言って、その時間の長さの感知・認知の仕方が個別的であり、個々異なるということを誰しもが言えないと言うこと、その固有性は誰も主張できないということに於いて平等である。

〇この規定されてしまっている、そこにうだうだと個が自己主張することを許さないが、しかし個内部であらゆる個人的事情が孕まれてあることという非情性と個人的なる絶対的事情との交差が、しかし外部では一切頓着されず、内部ではそれが全てであるという対極性全現存在に於ける心の本人以外からは見えなさと裏腹の、時間の過ぎ去り方自体は誰しもに絶対的に見えている、知られているという二義性に於いて、時、時間と現存在の絶対的運命がある。つまりその外でしかあり得ない時、時間と、内でしかあり得ない個の内部という事実の相反とは、絶対的相互干渉不能性と、絶対的無関係性がありながら、個に於いては時間しか関係していないという相互の不平等もあるからである。

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何に向けて詩を書くか?

 昨年末30日くらいからずっと考えていたことは一体詩とはどんな人へ向けて書くかがかなり重要だということだ。

 一つには名も知らぬ人へ向けて書くか、これは名も知らぬ自分への理解者、つまり友であるが、その未だ会っていない友へ向けて書くということがあり得る。或いは愛する者へ向けてなのか、実際に既に知遇を得ている仲間へ向けて書くかということ、つまりそういう意味での誰に向けてかということが重要である。

 だがそれ以外にももっと抽象的な対象もあり得る。

 例えば人類へ向けてか、或いは自分と同じ民族へ向けてかということもある。

 それだけでない。相手は人でなくてもいい。自分の住む町とか、訪れた町とかに対して書くこともできる

 都市そのものへ向けてか、或いは地方部の自然の豊かな環境そのものへ向けてかということも書く相手としてはあり得る。

 自然でも、空へ向けてか、雲や風へ向けてか、森や林や平原や海や川へ向けてかということもそうである。

 或いはもっと別の意味で抽象的である自分の心へ向けてかということもある。神に向けて書くということもそうだ。

 何に向けて詩を書くかに応じて詩の意味合いがかなり変わってくる。

 勿論何に向けてであっても、その向けた言葉を読む全ての人へ向けて書かれていることも又言うまでもない。

 詩とはどういう詩になるか分からないから書く。こういうことが考えて分かったから、それを示すというかたちのエッセイやメモと少し違うところだ。少なくとも私にとってはそうだ。

 性質的にはエッセイやメモは論文と同じである。だから既に分かったこと、分かっていることから、どれだけ新たな発見ができるかというのがエッセイ、メモ、評論、論文等であり未知の領域への開示可能性に賭けることこそ詩作だ、と言える。

 

 付記 天才でないと自覚する者にとって、迷いや自信の無ささえ書いてもいいし、それを誰に向けて書くかも大切だが、一つの詩に必ずきちんと明確に何に向けてか、誰に向けてかだけは示す必要もあるし、そういう気持ちで書いていくことが重要だ。

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2017年1月 4日 (水)

「考えていこうと思っている」は可笑しくないが、「思っていこうと考えている」は何となくしっくりこないのは何故か?

 新年初の記事で私は「考えていこうと思っている」と締め括った。だがそれを逆さにして「思っていこうと考えている」と言い換えると日本語では何となく可笑しいと感じられる。何故なのだろうか?

 英語だったら思うも考えるもthinkで済んでしまう。

 だからI will think~だけでいい。或いはI am going to think~でいい。

 だが日本語で思うと言うと、どこか意志的なことを優先させる時で、考えるは類推的な判断に対して使うというニュアンスがある。

 意志的なことを「考える」で示さず、「思う」で示すところに日本語固有の情緒性がある。日本語では左脳的判断は心に決めることでなく、あくまで右脳的に決心したことを逐一履行するための一つの方法と感じる部分があるのだ。 

 日本人は自由ということを重んじる民族ではない歴史を辿ってきた。現代人は大分様変わりしてきたけれど、どこか地方部や地域社会では今も根強く日本では自由を言い過ぎないということが慎みとなっている。

 英語でI feelと言えば感性的なことだから、それこそブルース・リーの<燃えよドラゴン>で小僧にリーがDon’t think, feelと言ったのはあくまで東洋的な感性で言っている訳だから、欧米人にその侭納得されるとは限らない。意志的なことは左脳的判断で、それが正義的にも正しいとするのが欧米文化だからだ。それが聖書由来のロゴス主義というわけである。

 それに対し日本では仏教からの影響もあるかも知れないが、身体的なことの中に心というのは在って、欧米の様に頭脳的な判断より、身体全体から感知して判断することが正しいという感性が民族的にあるので「思っていこうと考えている」とは言えないと思えてしまうのかも知れない。

 思うのはあくまで身体的な事情が絡んでいるのだから、意志してもその時そういう気持ちになれるかは分からないと我々は考えるのだろう。対し考えることは意識的なことだが、意志的には思うの方をよく使うのは、それだけ意志が身体全体の事情に関わっているという観念が日本(や中国や韓国等)では強いのかも知れない。

 欧米ではあくまで身体的事情やそこから派生する感性とは別個に理性的に判断してからしていこうと考えていると言っても全く可笑しくないということになる。そこに例えば動詞のfeelを置くとやはり決定的に可笑しい。

 つまり英語は責任の明示という要素がかなり強いが、日本語はそれは却って無責任ということとなるのだ。

 未来の自分の思いを考えたって、未来のどんな時でもその時になってみなければ自分がどう思うかは、今からは分からない。その部分では日本人の未来の意志に関しては神頼み的要素が強い。責任の明示自体を避けようとするからだ。

 日本では自分の未来での気持ちを百パー自分で制御できるかどうかという確信が自分に持てないというのが一般的ではないだろうか?近い未来(例えば明日)のことはそれでも何とか決める場合も多いが、健康状態や気分(物心両面)は急に変わることもあるから、今から明言できないということを明示する必要があると日本人は考えるのだ。だから決めていないことをしたいと思う等と気楽に欧米人は返答せず、I have no plan of it.とそういう風にきっぱり返答するということが彼等にとっての責任の明示なのだろう。

 日本人には雨男とか雨女等という迷信的な他者依存的な態度を採る部分があるから、それと「考えていこうと思っている」という曖昧な未来の意志の表現は関係しているのだろう。

 日本語では意志を明確にする場合は「考えていくつもりだ。」である。それが英語のI will thinkに該当する。でもつもりというのも或る部分ではその時になったら気が変わるかも知れないし、又不可抗力的にできなくなるかも知れない(自分が死ぬかも知れないということも含めてそうである)。

 だから私なら「未だ何も決めていない」と曖昧な場合には返答することにしている。そしてそういう風に未来の意志では曖昧なこともかなり多いのだ。それを敢えて何か言おうとすると、願望としてならいいけれど、責任を明示することになるのは、やはり歓迎ではないので、それを避けようということで、日本では「考えていこうと思っている」という様な言い方が自然だと思われるのだろう。

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2017年1月 3日 (火)

零時(刻)とは一体何か?時間的な点を問題にするⅢ

 前回の論議では全て未来も含めて決定されているという想定から演繹される自由の論議への要請が予告されていた。今回はそこから始めよう。

 未来とは現存在にとってどの来るべき時点に於いても、自己へ何がその時発生するか分からない。この外的要因の不確実性から、たとえ自己のみで何か為すと意志しても尚、どうすることもできない。

 又意志の上では全て未来も予め来る前に決定されてしまっていると我々は考えたくない。それは確かだ。そうでなければ自由と我々は生の時間を思えないからだ。そう思えなければ何も意志を持ちたくなくなる。だから自由とは外的要因の不可抗力性に対する唯一の希望なのである。

 対し過去はどの時点に起きたことも、それは既に起きてしまったことであるが故に、あらゆること、その時の自己決定をも含めて全て必然だったとそう思えてしまう。その時は不確実であってさえ、今となっては必然だったと思える。

 それは現在が絶えず何か不測の事態へ対処しているので、時間が幅としか感じられないが、起きてしまったこと、為してしまったことに対しては、どの過去の時点へも決定されたこととして、時刻的に認識しやすくなってしまうという即時性の有無に於いて、現在は幅としか認識し難いにも関わらず過去は客観的に即時性で認識しやすいという違いを与えているのである。

 だから現在に於いてのみ時点とか時刻とは些末なことでしかないものの、それが過去となった暁には時刻的にその時はどうだったかと反省しやすいのである。

 それらから鑑み、零時(刻)性(時点性)とは反省意識が生じさせていると言える。だから逆に未来に対しては、時点とは、その即時性よりは、その時点迄というかたちで、最低目標として掲げられる。その時点迄に何とか何かを達成しておけば無難だというかたちで考えられる。それは現時点での自己能力の査定によって立てられる実現可能性への判断なのである。

 ところで前回鏡の表面である現在が左へ客観的に見れば移動するということで、時間の移り行きを観察してみた。その場合鏡の表面に絶えず居る自己にとって鏡の向こう側は常にブラックボックスである。

 しかしそれは空間的比喩であり、実際時間は後戻りできはしないけれど、空間はどの地点から別のどの地点も何度も行ったり来たりすることが可能だ。しかしこの場合でも或る時点に於ける地点とは唯一なのであり、その点では空間も試行錯誤ができない、と言い得るのだ。瞬間移動も我々は侭ならぬ。空間で時間と違って即時的に可能なのは、一瞬で或る程度遠く迄見渡せるということだけなのである。しかしそれすら視界の角度からすれば限定的だと言える。

 又その事実は、同時に異なった地点に自己とは居ることができないという自己同一性の問題、つまり身体の大きさとそれに見合った「居る」ということの事実の持つ空間的存在可能性から引き出される同時的唯一空間実在性を抉り出す。

 付記 前回示した時間の視覚的追認の不可能性は、一見絵画等の静止画像的なことへは適用できない気がする。しかし映画で一人の人物の顔をクローズアップしても、顔の在る位置、カメラと顔の位置関係は変わらなくても役者は呼吸していて微妙に動き変化があるし、たとえ静止画像の絵画を前にしていても、その絵画を見ている時間自己は呼吸して変化し続けているのだ。だからどんな場合でも時間それ自体を視覚的追認が不可能である、つまり時点と時点の間で構成される時間とは、明らかに聴覚的システムからしか感知し得ないのである。

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2017年1月 2日 (月)

零時(刻)とは一体何か?時間的な点を問題にするⅡ

 我々は時間軸と言う時必ず直線をイメージする。よく考えればそれも凄く可笑しな話で、何も曲線であってもいい。我々の人生に於いては必ず紆余曲折があるからだ、とか文学的な理由をそこに見つけてもいい。でも何故直線で理解しようとするかというと、時刻という観念を持っているからだ、と言える。曲線にしても横軸に対して縦軸を一々全ての時点で設定することは不可能でないが、全体的に見渡すそれは時間では決してできないけれど、それが可能になる、空間化することで我々は空間的図示不可能な事態を克服している見やすさのために取り敢えず(これが重要だ)直線で横軸的に示そうとする。空間的に比喩するしか我々は一見して時間の長さやその量を理解する方法を取り敢えず見出せないからだ。

 だが時刻はそれぞれの時刻は全て点であるから幅がないけれど、我々は今と言う時必ず幅がある。それは一秒位の場合もあれば、一分から十分位の場合もあるし、一時間とか二時間から一日の場合もある。

 直線的時間軸は或る部分では時刻という無限分割が生じさせているとも言える。だがもっとざっくりと過去と現在と未来という風に考えれば必ずしも無限分割し得る時間と、定刻という無時間性、つまり幅のないゼロ時点がそのざっくりとした区分を作っているとは言えない。つまり時間を直線で示すことは時刻が造っていると言うよりは、移り行くその事態自体が造っている。だから時刻はその後に整除的意図から造られている。

 或る意味では時間の移り変わりは世俗的には時代の推移とか人員等の交代とかの事態で我々は実感するが、それを抽象的に図解的に理解する時直線の横軸ということを取り敢えず我々がしているだけだ。

 ここに一枚の垂直に立てられた鏡があったとして、その鏡の裏には決して行けない。何故ならそこは何も無い、無だからだ。取り敢えずその無を左側としておこう。つまりそれが未来だ。そして鏡に映っている右側だけが存在したこと、つまり過去全てであり、存在しているのは鏡の表面だけである。つまりそれが今である。人の生活から言えば意識して何かしているとか、自分が今ここにあると意識しているとかのこととしておこう。

 鏡に映った世界を見ていると近くにあるもの程よく見え、遠くなるほど暈ける。それを記憶の比喩としておこう。そして鏡はそれまでは無かった左側をずんずんと移動していく。そしてその都度振り替えられる右側に映る、鏡の前に居ることからすれば鏡の向こうの一切見えないのが未来、鏡に映って見えているのが過去、そして近くに映るのがさっきとか昨日、もっと遠くに映るのがそれより前、ずっと向こうが一年前となる。

 だがそうやっても実は全てあくまで空間へ例示を適用しているに過ぎない。時間とはやはり鏡に映って見えている過去と、どうなるか分からないから見えていない鏡の向こう側とは違う。それは視覚的に追認するものではないからだ(時間は視覚的追認も聴覚的追認もできない。だが想像する場合聴覚的システムに近い感性が動員されるただ話としては今挙げた例から或る性質は理解しやすい。つまり記憶や記録に於いてどんどん過去が増していき、だが未来は一向にその様にはいかないということを理解するには、である。

 だから鏡がどんどん前へ移動していっている、その移動ということ(これも時間の空間的例示の一つの仕方であるに過ぎないが)だけから考えれば、実はそういう風に時間が推移していくことそのことは、我々の世界の自然や生命の、或いはそれらを取り巻く環境の変化が造っている。それが時代(原生代・中生代・原生代等もだし、古代・中世・近世・近代・現代もである)の元となっている。そして過去とは今という意識が未来の見えなさと別に既に起きてしまっていることという対比で理解している。

 でも時刻という認識は必ずしもこの移り行きそれ自体が造っているのではない。だから基本的にもし時間の始まりがなく、と言うことは終わりもないとすれば、どの時点に居ても過去の方が未だ短く、未来という残り時間の方が長いとか、逆に過去の方が長く、最早未来と言う残り時間はずっと短いという様には言えない。

  

 つまり時間が過去も未来も無限であるなら、どの時点に居ても我々は一人の現存在の生存する時間から考えるのでなく、人類全体が立たされている時間<やがて人類も絶滅する(だろう)>から時点というものを考えるとしたら永遠に同じ時点に立たされているのと同じとなる。

 勿論物理学的にも生物学的にも、要するに自然科学的にはビッグバンというものがあったのであり、太陽の膨張と宇宙の死滅ということがあるとされるから、やはり我々人類の立たされている時点はやはり過去と未来の限定的範囲の中で確定的に位置づけし得る。だから円環的であるのと同じどの時点に居ても所詮本質は同じ(変わらない)ということはあくまで時間が過去も未来も無限であるということに於いて成立する。始まりはあるが、終わりがない無限の場合にはどの時点に居ても必ず過去の方が短く、未来の方が長く、逆に終わりはあるが始まりがない場合には、必ずどの時点に居ても過去の方が長く、未来の方が短い。

 だがその様にしばしば我々は過去と未来の長さを比較してしまう習慣とは、単に我々がいつか必ず死ぬと知っているからだろう。

 今回は点それ自体を成立させるための条件に就いて考えてみた。時点(時刻)はだから基本的には直線的図示を習慣とする我々の時間軸が生み出しているが、それはまず移り行くことに対してであり、移り行かない或る時点での、という認識は、我々が無意識に永遠に或る時点を残しておきたいという願望が直線を形成させた事後、恣意的に(無限分割可能であることの発見と共に)生み出してきたと言える。だが実は既に時間では未来は用意されており、過去も残っているという風に言い得る為には生命ある我々の様な存在が記憶する、記録するという事実も要るが、それ以上に論理的には過去はそういう事実があったという事実自体が永遠に不変であるから事実が変えられないという事態が存在する、という意味で過去は存在する。未来は存在しないが、必ずいつか存在するというかたちで存在する。

 前回は過去の或る時点(時刻)も未来の未だやってきていない時点(時刻)も共に存在するという可能性に就いて考えてみた。それは時間の性質を一見裏切るかに思える。だが違う。

 何故なら時間軸として我々が認識する直線的だと我々は見立てる(それは実は長く感じる一時間もそうでない一時間も、実在的には同じ長さだと言い切るために我々が直線的図示なら、それが自然に思えるから、そうしているとも言える)その未来が必ず何等かのかたちで実現するからだ。それが一切そうでないということは時間の消滅を意味するし、存在の消滅を意味するが、そうでない限り、必ず過去→現在→未来という構造は不変であり、従って「どの時点も必ず一回は実現すると永井均が言う」様に、構造を踏襲する意味では、過去のどの時点も現在も未来のどの時点も平等であり、その意味でどの時点から見ても過去も未来も平等にあるという観点から言えば、全時点(時刻)は時間が消滅しない限り、永遠に存在する、と言ってよい。存在事実=存在とすればそうなる

 だから私が先述した「論理的には過去はそういう事実があったという事実自体が永遠に不変であるから事実が変えられないという事態が存在する、という意味で過去は存在する。未来は存在しないが、必ずいつか存在するというかたちで存在する。」とは存在事実を実現する可能性としての時間という認識が与えているが、それは言い換えれば、全時点(全時刻)は時間軸を分割した時点で永遠にメタ的には存在すると言える。それが実在ではなく、メタ的認識でしかないと言い切ったとしても、それは我々が過去に戻れないという事態の現実の成立だけで、直ちにその時点が存在していないとも言い切れないということは、言うまでもない。それは未だ過去へ行けないというだけで、永遠にそうだとは言い切れないからだ。

 仮に永遠に過去へは行けないとしても、既に全て未来も過去の様に予め決定されているとしたら、起きてしまったことも未だ起きていないことも全て等価となり、永遠に存在し続けるということとなる。なぜそうかと言うと、それを今証明することはできないが、証明できないことは、決してあり得ないと言うことも又我々はできないからなのである。

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2017年1月 1日 (日)

零時(刻)とは一体何か?時間的な点を問題にする

 

 2016123124時と2017110時は同一時刻である。しかしそれは点なのだから、必然的に長さがない。従って前者24時はそこまでという観念であり、後者0時はそこからという観念である。

 

 だからその時刻とはそこまでとそこからが重複しているが、重複という言い方は可笑しい。何故ならそこには幅がないからである。

 

 思えば去年もそのことだけを延々考え続けてきた。だが一向にそれは解決していると言い難い。益々謎は深まるばかりである。

 

 つまり簡単に言えば何かが始まった瞬間、別の何かが終わったのであり、終わったものはどこにも今は在る訳ではない。しかしそれは何かが始まったから同時に終わったのであり、その始まった何か自体も、それが始まる前はどこにも在った訳ではないのだ。

 

 だから今在るこの2017年の一年の間の時間も、きっと後たった364日経てば終わる訳だから、どこかに在り続けるのとはきっと全く違う在り方をしているのだろう。それは空間的事物として在る訳ではないのだ。

 

 でも空間的事物、例えば今私の目の前に置かれたPC端末も永遠に世界に君臨し続ける訳ではないだろう。となれば実際の実在的事物も又、その時間のどこかに在るという訳ではないという性質(性格)を併せ持っている、と考えてもやはり間違いではない。

 

 だから人の生涯もそうである。今確かに私は生きている訳だが、それ(私の生)は、いつかは死んで消えて無くなるという性質(性格)をも併せ持っているのである。

 

 だから基本的に時間というものを事物存在から切り離すことはできない。又事物存在が在るから時間が在るとも言い得るが、同時に時間が在るから事物存在が在るとも言い得るし、それはいずれの方が先行していると言い切れないという又一つの特殊な性質(性格)によって共存しているとも言える。そして共存はいつかは消えて無くなるという性質(性格)を常に持っているということである。

 

 例えば時間だけが在り続けて実物存在は全く消滅することもあり得るだろうか?或いは逆に事物存在だけが在り続けて時間は完全消滅することもあり得るだろうか?

 

 世界=宇宙が消滅すれば一切の時間も無くなるとずっと私はそう考えてきたし、それはある意味では正しいだろう。しかし同時に一切の事物存在が最近流行している動画の様に静止立像の様に存在し続け、一切の変化がそこにないのなら、それは本質的に時間がないと言ってもいい。そういう場合とは想定はし得るが、実際可能なのだろうか?

 

 それが不可能であるなら、我々は変化し続けるという必須の性質(性格)をもっていつか消滅するという性質を作り続けていると考えてもいい。しかしそれが可能であるなら、静止した時刻というものが(実際に)存在し得るのだということとなる。それは想定ということだけなのだろうか?それとも(我々は)実際に経験することはないけれども、変化せずその侭保存されるという事態自体が存在し得るということなのだろうか?もしそうであるなら、それは我々自身が知る世界とは全く違う性質(性格)の世界が併存しているということとなる。

 

 それをただの想定であるに過ぎない、と我々は言い切れるだろうか?もしそれがただの想定でないとすれば、確かに2016123124=2017110時という両義的な或る時刻とは、それ自体永遠に存在し続けることとなる。当然201612312359分もだし、20171101分も同様に存在し続けるだろう。

 

 もしそれが本当にそうであるなら、移り行く、どんどん在ったものが無くなっていく切り換わりを網羅した一つの時間というもの以外に無限の変わるということのない、実在的にも時間の移行ということもなり停止的時間=無時間というものが無限に併存しているということとなる。前者が縦軸なら後者は横軸となり、前者が横軸なら後者は縦軸ということとなる。

 

 しかし重要なことは2016123112312359分には未だ来ていない2016123124時とは存在していないのなら、それは成立し得ないけれど、逆に来ていないけれど、やはりそれは(どこか<我々の知り、感じることのできない世界>に)存在はしている、ともし捉え、その捉え方が正しいとすれば、逆に未だ来ていないが、やがて来て点という時刻の性質(性格)から直ぐ消滅するという我々にとって馴染みのこの普通に我々が考えている時間の方が一つの現象でしかなく、一種の実在的幻影であり、実際には無限に未だ今の時点では来ていない20171224=2017130時とは来ていないと思っているだけで(実際には)どこかに存在し続けていて、それが我々の知る時間で過ぎ去っても永遠にやはり(どこかには)確保され存在し続けると、そう考えることもできる。

 

 その証拠にその時刻は必ず我々が経過する実在として(来る)ではないか!

 

 そう考えてみると、現象と本質ということから言えば明らかに現象的な時間は最早過ぎ去った時刻は永遠に再到来することはないけれど、どこかには存在し続け、未だ来ていない時刻はどこにもないのではなく、やはり我々の知る世界的な実在とは違うかたちで、やはり(どこかには)今も既に、と言うより時間が始まった時点以降ずっと存在し続けてきているということとなる。

 

 となると、今度は時間が始まる前、時間はないけれど、それは現象なのであり、本質としては存在し続けていたということになり、世界=宇宙が消滅しても本質として永遠に消滅することなく存在し続けるということとなる。

 

 この問題は重要なので、今年も去年から継続して持続的に考えていこうと思っている。

 

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