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2017年1月 1日 (日)

零時(刻)とは一体何か?時間的な点を問題にする

 

 2016123124時と2017110時は同一時刻である。しかしそれは点なのだから、必然的に長さがない。従って前者24時はそこまでという観念であり、後者0時はそこからという観念である。

 

 だからその時刻とはそこまでとそこからが重複しているが、重複という言い方は可笑しい。何故ならそこには幅がないからである。

 

 思えば去年もそのことだけを延々考え続けてきた。だが一向にそれは解決していると言い難い。益々謎は深まるばかりである。

 

 つまり簡単に言えば何かが始まった瞬間、別の何かが終わったのであり、終わったものはどこにも今は在る訳ではない。しかしそれは何かが始まったから同時に終わったのであり、その始まった何か自体も、それが始まる前はどこにも在った訳ではないのだ。

 

 だから今在るこの2017年の一年の間の時間も、きっと後たった364日経てば終わる訳だから、どこかに在り続けるのとはきっと全く違う在り方をしているのだろう。それは空間的事物として在る訳ではないのだ。

 

 でも空間的事物、例えば今私の目の前に置かれたPC端末も永遠に世界に君臨し続ける訳ではないだろう。となれば実際の実在的事物も又、その時間のどこかに在るという訳ではないという性質(性格)を併せ持っている、と考えてもやはり間違いではない。

 

 だから人の生涯もそうである。今確かに私は生きている訳だが、それ(私の生)は、いつかは死んで消えて無くなるという性質(性格)をも併せ持っているのである。

 

 だから基本的に時間というものを事物存在から切り離すことはできない。又事物存在が在るから時間が在るとも言い得るが、同時に時間が在るから事物存在が在るとも言い得るし、それはいずれの方が先行していると言い切れないという又一つの特殊な性質(性格)によって共存しているとも言える。そして共存はいつかは消えて無くなるという性質(性格)を常に持っているということである。

 

 例えば時間だけが在り続けて実物存在は全く消滅することもあり得るだろうか?或いは逆に事物存在だけが在り続けて時間は完全消滅することもあり得るだろうか?

 

 世界=宇宙が消滅すれば一切の時間も無くなるとずっと私はそう考えてきたし、それはある意味では正しいだろう。しかし同時に一切の事物存在が最近流行している動画の様に静止立像の様に存在し続け、一切の変化がそこにないのなら、それは本質的に時間がないと言ってもいい。そういう場合とは想定はし得るが、実際可能なのだろうか?

 

 それが不可能であるなら、我々は変化し続けるという必須の性質(性格)をもっていつか消滅するという性質を作り続けていると考えてもいい。しかしそれが可能であるなら、静止した時刻というものが(実際に)存在し得るのだということとなる。それは想定ということだけなのだろうか?それとも(我々は)実際に経験することはないけれども、変化せずその侭保存されるという事態自体が存在し得るということなのだろうか?もしそうであるなら、それは我々自身が知る世界とは全く違う性質(性格)の世界が併存しているということとなる。

 

 それをただの想定であるに過ぎない、と我々は言い切れるだろうか?もしそれがただの想定でないとすれば、確かに2016123124=2017110時という両義的な或る時刻とは、それ自体永遠に存在し続けることとなる。当然201612312359分もだし、20171101分も同様に存在し続けるだろう。

 

 もしそれが本当にそうであるなら、移り行く、どんどん在ったものが無くなっていく切り換わりを網羅した一つの時間というもの以外に無限の変わるということのない、実在的にも時間の移行ということもなり停止的時間=無時間というものが無限に併存しているということとなる。前者が縦軸なら後者は横軸となり、前者が横軸なら後者は縦軸ということとなる。

 

 しかし重要なことは2016123112312359分には未だ来ていない2016123124時とは存在していないのなら、それは成立し得ないけれど、逆に来ていないけれど、やはりそれは(どこか<我々の知り、感じることのできない世界>に)存在はしている、ともし捉え、その捉え方が正しいとすれば、逆に未だ来ていないが、やがて来て点という時刻の性質(性格)から直ぐ消滅するという我々にとって馴染みのこの普通に我々が考えている時間の方が一つの現象でしかなく、一種の実在的幻影であり、実際には無限に未だ今の時点では来ていない20171224=2017130時とは来ていないと思っているだけで(実際には)どこかに存在し続けていて、それが我々の知る時間で過ぎ去っても永遠にやはり(どこかには)確保され存在し続けると、そう考えることもできる。

 

 その証拠にその時刻は必ず我々が経過する実在として(来る)ではないか!

 

 そう考えてみると、現象と本質ということから言えば明らかに現象的な時間は最早過ぎ去った時刻は永遠に再到来することはないけれど、どこかには存在し続け、未だ来ていない時刻はどこにもないのではなく、やはり我々の知る世界的な実在とは違うかたちで、やはり(どこかには)今も既に、と言うより時間が始まった時点以降ずっと存在し続けてきているということとなる。

 

 となると、今度は時間が始まる前、時間はないけれど、それは現象なのであり、本質としては存在し続けていたということになり、世界=宇宙が消滅しても本質として永遠に消滅することなく存在し続けるということとなる。

 

 この問題は重要なので、今年も去年から継続して持続的に考えていこうと思っている。

 

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