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2017年2月

2017年2月28日 (火)

思想史と神学・宗教史・哲学メモPart3

🔹カントの言う定言命法とは傾(向)性によって(つまり性格・性質的人の良さ・好さ)人や集団(組織・法人他)を判断しない、理性で客観的に考え判断すべし、しかも権威を借りず、自分自身の考えだけでそうせよ、という意味では基本的に性悪説の側に立っている。恐らく責任論とは須らく性悪説とならざるを得ない(勿論それは時として例えばキリスト教の慈愛の観念とは激しく対立することとなる)。つまりたとえ自分の息子や娘でも罪を犯した時、庇うことをしないという理性の判断を是とする思想は(理性の在り方自体もそうであるべきだが)、人間性とは違うレヴェルで判断せよ、という意味では性悪説的世界観の構成秩序(真理)である。公平とか正義といった観念は全てこの基礎的考えから来ている。昔(80年代後半くらいだったけれど)大学受験をする娘の合格を願ってその父親が自ら女装して娘になりすまそうとして、受験会場に入場して受験しようとした男がいた。当然直ぐ試験官に問い詰められ捕まった、そういうニュースがあったことを、この話をすると思い出す。

 さて現代世界は基本的にこの考えに沿って運営されている。ビジネス資本主義、自由主義経済はそういうことである。相手が自分と違う思想の持ち主だと知っているから、ある商品を売らず、あるサーヴィスを提供しないと拒否することは基本的に許されないからだ。

 翻って日本人の精神的モラルは民族的な感性の傾向からか、性善説的世界観に立っている、と言える。でも日本人は集団になると、対外国人に対しては性悪説的世界観を持ちやすいとも他面では言える。

 

🔶我々には性悪説的世界観で社会を運営させようとすればする程、経済社会的性格の中でビジネスライクに考える事とは違って内的な他者への思い遣りとか心の正義の様なものを持つことがあるし、それは自然だ。つまり社会的正義では賃借関係を清算することは必要でも、心の正義では資産を保有する者だけが正義ではないと思っている。それは何か意見が通るということでも権力があるから通るということにある訝しさも心に抱くことからも分かる。そこで内なる心の正義を自己正当化するための光が必要になる(この心的な手続きも実は性悪説的な世界観の起源でもあるのだが)。私がここで言う内なる光とは、内なる神と言い換えてもよい。そしてこれは宗教教義的でなくたっていい。否寧ろ正式の特定宗教の信者でなければ、そういった宗教権威への随順的な意識でないことの方が多い。有神論的にそこにイエスや仏陀やムハンマドを想定しても、一切無神論的に自らの定言命法としても、そのこと自体はどちらでもいいのだ。人類にとって最重要なことは有神論であるか無神論であるかの選択なのではなく、そのいずれであっても実在的・外在的なイコンとかシンボルとか絶対存在が仮に在ってもなくても、そういうことでなく誰しもが内的な信念を持ち人生の指針とすることができることそのことなのだ。それを私は内なる神と仮に名付けてみただけなのだ。従って神という語は人によって色々別の語に代えてもよいのだ。信じられることさえあれば。

 

🔷レヴィナスは基本的にニーチェ→ハイデガーの生成の系譜からアリストテレスの考えた全体性を超越することにあり、それは極論すれば、部分、しかも全体へ寄与すべき部分でさえない、ディテールの重視というイデア・思想がある。恐らくレヴィナスにとって責任という倫理は顔という概念を提出していることからしても極めて日常的な些細な場面にも適用され、還元され、寧ろそこにこそ真理(という誤謬でもあるが)が見出され得るというイデア思想である。

 

🔸ハイデガー『存在と時間』で頽落した現存在の「人」化、つまり個や自分の喪失への批判とは、実は存在者をのみ着目し、存在自体を見ようとしないことへの批判(と言う意味ではそれはまさにカントの行為の正当性だけを見据え、その人の日常的人格から判断しないという『実・批』の主張と全く重なる、とも言えるのだが<それは一種の本質論である>)、存在忘却として知られる命題を反復して、彼のイデアとして登場する他の命題とどう関わりを持つのであろうか?それは現象批判(現象学的方法論を踏襲したそれであるが)であり、本質肯定本質論である。しかし人間の本質を踏まえつつも、顔がのっぺらぼうではない個性とかキャラクターのある具体性を伴った人間としての個への肯定である分、現代社会のサルトル用語で言えば自己欺瞞的日常への危機意識が大きく介在している。

 

 要するに社会の部品としての人間の実在への批判がハイデガーにはあり、そのことと存在者への着目と存在の注視の後退は一つの思想で繋がっているとすれば、存在者の現象自体では成立しない存在というメタレヴェルの認識は、具体性から全く乖離するわけでもないが、さりとて完全抽象性とも違った、何が起きようとも、どの様にそれが展開しようとも、全てが時間の移行に沿っているという一つの存在者の在り方を規定する、つまり決して逆らえない存在の仕方から演繹される(演繹自体が結果したことが既に前提されている必然性に於いて認識されている)何か、と言えよう。

 

 従ってそのことは恐らく「人」化され(世人とされ)平板化されることとは本質的に異なる自分ということが、存在という本質と直結しているのであろう。それは永井均的に<私>と捉えてもいいし、カント的に統覚と捉えてもいいし、デカルト的に座標軸と捉えてもいいであろう。

 

🔹上記で主張されていることから言えば、存在とは暗に現存在全てにとっての個の内在的な把捉そのもの、そしてそれは決して全体として全ての個を世界や社会の部品、部分として還元され得ないことそのこととしての何か、と言うことができる。つまり存在とは超越的視点から語ることが一切できず、つまりその俯瞰不能性、全存在者がそれ自身としてその内的なる主観を通してしか把捉し得ないという、かなり決定的な事実が物語る様な何かであり、時間に存在(全存在)が内包されているだけでなく、存在(全存在)が時間を内包していると言える様な表裏一体の(西田幾多郎的に言えば)相即的関係である。

 

🔸上記のことは、超越的視点とは神の様に俯瞰することができないということそのものであり、人格神的な一者の永遠の不在、そういった視点の成立不可能性を物語っている。だから超越的に真理を把捉しようとすればするほど、メタ的に俯瞰することができないこと、そのことだけが一つの永遠の真理として浮上する。それは絶対的不可知論、つまり全存在者の心や存在者(現存在を含む)として実在していることそのことの内的な事情の様なものは、斟酌し得ても各自、他者に対しては自己、~であることということの内的な全統覚による世界把持、座標軸的な把捉だけであり、自己の心の様にはどの他者の心も手に取る様に理解することは最初から不可能なのであり、従って全世界を一望することなど誰にもできず、する必要もないのであるが、その可能性から考える哲学の或る種の無謀な問い掛けからしか、その当たり前のことは知られることはないのだ、ということも我々に告げるのである。

 

2017.2.17,18,28

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2017年2月27日 (月)

思想史と神学・宗教史・哲学メモPart2

🔷レヴィナスは綜合主義的性格も強く持っている。「知解可能なものとは異なる叡智への愛、超越そのもの」とレヴィナスは語る。「<一者>との結合ないし<一者>との融合としての哲学は、脱自的な行程に刻印されている」とレヴィナスが語る部分こそ、メタ的・超越的なることへの証左である。レヴィナスの言う<一者>とは神であり、隣人としての他者なのである。「<一者>の知性の超越」と「<一者>との結合」を止揚する意図にこそレヴィナスの言う愛がある。だからこそ「勝ち誇った超越たる希求である限りでの愛ではなく、結合である限りでの愛である」となるのだ。つまり彼の言う結合とは他者と隣人への愛と責任なのだ。2017.1.25

🔸ハイデガーは「形而上学の超克」七 に於いて次の様に述べている。

「自由にたいして理性と自由が対置される。自然のほうが存在するものなのだから、自由と当為とは存在とは考えられない。依然として対立しつづけているのは存在と当為存在と価値なのである。結局、存在そのものも、意志がもっとも極端な非本質に達するとただちに、たんなる「価値」になる。価値は意志の条件として考えられているのである。」(М・ハイデッガー『技術への問い』平凡社 関口浩訳、111ページより)

 意志の条件としての価値は、実際的には実現され得そうもない理想であり、それはあらゆる当為の志向の果てにある。そのこと自体が自由ということなのであり、それを維持し続け、ハイデガーが言う非本質という非実現的理想をも育むのが理性である。それらは全て存在への足掻きであり、存在への足掻きだけが理性と自由を育み、その中で当為が発揮され、価値を次々と生み出す。一度実現し以後容易に実践されたものは価値から現実へと後退する。後退と見做すものこそ理性であり、それは当為を通した自由が支え、自由がその本質たる意志を維持し得る志向という目標としての理想なのである。存在を存在するその侭ではなく、存在という現実への足掻きこそが自由を存立させ、当為を通して意志を明証する。(行為化という存在への足掻き)2017.1.26

🔶自由が意味を作っている。意味を存在全体へ与えることを自由と受け取り、その様な意味付けの当為を価値とする、と我々は思える。従ってそれをも祖存在の足掻きとするなら、その見方も一種のニヒリズム以外ではない。だがニヒリズムは、それを克服するために一度通過しておく必要がある。それは自由がニヒリズムをも利用する、そしてそれを価値とする、ということだ。(意味・価値)2017.1.27

🔷ハイデガーによるニーチェ再考からの<意志への意志>とは力への意志が本来生成(それ自体がそれ自体を組み換えつつ在ろうとする)から生み出されているのに、完成した形而上学というかたちで、非歴史的に史学に

支配させ歴史主義として固定化させてしまうと、頽落した日常を招くとハイデガーが規定すると、或る種の権威主義批判へとなっているのだが、それはニーチェの力への意志の(存在=生成)という大いなる未来へと橋渡しされる展望と可能性が、同時に無思考・無思想的ニヒリズムの固着をも招くという諸刃の剣的な真理への言及ともなっている。

ハイデガーは真理それ自体のアンヴィヴァレンツな我々への晒され方に就いて言及しているのだ。(ハイデッガー『技術への問い』形而上学の超克 から)

🔶形而上学はニヒリズム(神の無の)をもって完結する。哲学はこのことで完結し、終わるが、それは別のもう一つの何かの始まりでもある、という意味でニーチェは永劫回帰を初期から晩年に至るまで一貫し述べている。ハイデガーは『ニーチェ』で形而上学の出発に既にそのニーチェによって閉じられる完結が兆し、予告されていた、というかたちで循環論法によって説明しようとしている。<力への意志>となる<意志の意志>を生み出すことそのことこそ(存在=生成)ということだ。

 存在とは固定化されているものではない、というニーチェ思想は、真理も不変ではないという予告でもある。(真理=誤謬)

 或いは真理化させずにはいられない我々の存在の存在への足掻きが、頽落した歴史主義的反映論へ我々を誘うが、歴史は決して繰り返さないのだ。ニーチェの意志の本質とハイデガー解釈

2017.1.27

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2017年2月26日 (日)

謙り過ぎの言い方が主流となる変な時代Part1

 テレビをつけるとヴァラエティ番組でも旅番組でも何でも、人々は「~させて頂きました」という言い方を連発する。果ては国会中継でも議員達が同じ口調で謙る。その正体とは一体何なのだろうか?

 売れっ子役者である坂口健太郎が<鶴瓶の家族に乾杯!>で地方を訪れれば、「~ったりしても、よろしいですか?」とか「~とかって、いいですか?」等と執拗に本音をあからさまに言わない様に極度に相手を警戒する言い方を連発する。「今って大丈夫ですか?」といった言い方もよくする。或いは「~するなんて、いいですか?」等と言ったりする。

 これは一種の極度のニュアンス重視の本音隠蔽的形式的美学を国民が異様に忖度し過ぎる世相から来ている。

 英語とはそもそも主格と目的格との関係と、5W1Hが最重要な言語なので、必然的にどの動詞を利用するかでニュアンスを決定する。しかし日本語は違う。日本語では助詞や補助動詞を如何に活用するかで相手への心象が決まってしまう言語なのである。

 それは内部閉鎖的共同体に顕著なコミュニケーションの姿勢が反映されたものだ。対し英米では(独仏よりも)意味伝達、要点伝達が最重要であり、必然的に動詞選択から成果主義、軍事戦略優先的思考の社会と言える。

 日本人は恐らく英米人よりも、或いは中国人や韓国人よりも感情は薄い。個人的愛情も決して濃い民族ではない。だから集団熱狂的に他の民族よりなっていきやすいし、韓国人の様に感情自体が濃いので個人主義的になるということ自体があり得ないのだ。

 日本人のモラルは節度をもって感情が淡泊であること、個人主義を抑えることが至上命題なのだ。だから必然的に一見理性的な風であることがモットーとされやすく、そういった人員の集合体なので、偶像崇拝的になりやすいのだ。それは言い換えれば扇動者に扇動されやすい、独裁者に誘導されやすい、ということでもある。なぜなら協調性、祭りを共に成功させることに血道をあげているからだ。

 そのことは主体性をもって自由を希求する欲望が希薄だということでもある。必然的に感情豊かな人間は精神障害という烙印を押されやすいし、逆に無感情な人間の方が正常であり理性があると見做されやすい。しかし理性とは主体的に自己意志を貫徹させなければいけないことなので、時としてパッショネイトでなければいけないのであり、決して常に冷静であれ、ということでは本来ないのである。要するに日本では事前に全てを対立なく捗らせる為に一切の自己主張を抑えるということだけが理性と考えられているのだ。

 また、何の反省もなく善というものがあるものだ、と考える傾向も強い。しかしその善を基本的なところで支えている公平であることそのことが、そもそも極めて主観的な一つの丼勘定でしかないのである。つまり純正な公平さとは、それ自体強烈な主観的なドグマでしかあり得ないのだ。

 それは悪が決して一種類ではない様に、善もまた一種類ではないからである。なぜなら異なった善同士とは必然的に対立していかざるを得ず、そのことで互いに異なった善同士が互いに対して悪を発揮するしかなくなるからである。

 欧米やユダヤ、キリスト、イスラム教社会ではだからこそ、そういう風に完全善というものが人間同士では決して成立し得ないと知っていたからこそ、完全善である神を一神教の礎として携えてきたのだ。

 翻って丼勘定である純正な公平さという善的な観念を信じてきた日本人は欧米やイスラム世界の様な唯一の絶対神を求めたことが一度もなかったので、多神教的な自然観と宗教観だけで国家を運営させてきたのだ。

 日本の様な多神教では原理的には(中東等の様な)神話戦争が神々の間で起こり得ようがない。そもそもそういったことを予め避けるためにこそそれぞれが調和して共存してきたという神話体系を作り上げてきたのだ。

 しかしユダヤ、キリスト、イスラム教では違う。そもそも一神教とは中東で多かった邪教である多神教での神話戦争を予め完全に抑制させるための合理主義的な発想で作られてきたからだ。それは日本の様に同時多発的共同体を横の連帯と連携で協調性を発揮させるものではない。完全な階層的・階級的なパースペクティヴが社会構造に組み込まれているからだ。そこでは自然と責任倫理が個人主義的に求められる。

 しかし日本ではそういった個人主義がそもそも必要ではなかった。なぜなら性善説的に最初から公平さというものが、ちょうど列に並ぶ客の様に決まっている社会だからである。それは競争ということとやはり決定的に異なることかなかれ主義である。

 一神教では必ず起源ということが考えられる。だから神とは宗教教義よりも上位のものである。しかし日本では例えば国家神道では宗教教義的なものの方が最上位である。だからそれは国家権威の問題なのである。

 文化人類学者でもある上橋菜穂子の『精霊の守り人』が国内外で小説もそのNHKの大河ファンタジードラマ化でも大変な評判であるが、その基本的な人間関係描写は文化人類学者らしく国家神道象徴性をとっている新ヨゴ国は日本がモデルで、それ以外の国々が周辺王国なのである。それに道教的味付けをしているから、かなり創作手法としては巧い。

 そして米英仏伊とナショナリズム政党、極右政党が席捲し始めている昨今の世相と、その感性はマッチしているのだ。

 この傾向は<バイオハザードシリーズ><進撃の巨人シリーズ>、Ghost in the Shellシリーズ等でも言える傾向である。完全フィクションなのであるが、必ず現実世相とマッチングする要素があるから受けているのである。

 それらの流行は一種のナショナリスティックな運命共同体的な熱狂と陶酔である。そしてそういったナショナリズムの世相気分的な波と、自らを自虐的なまでに謙り過ぎなければのけ者にされるのではないか、という個人の内部での集団協調性への強迫観念が生み出している率先してそういった言い方とか口調に合わせておかなければまずい、という気分はマインドの中では巧妙に結託しているのである。(つづき)

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2017年2月25日 (土)

思想史と神学・宗教史・哲学メモPart1

🔹倫理的命題の中に言語的営み全てが包摂されている。しかし理念的にはそうであっても、より悟性的判断を相互に可能にする日常生活上の実用性を無視することはできない。しかし理念(イデア)を熟知せず、いきなり日常実践が可能だとは言えない。いくら実践的に言語が営まれていても、理念的信念が希薄であれば、形骸的な意思疎通が横行し、現代社会の資本主義社会、ネット社会、メディア利用社会の欠点だけが反映したコミュニケーションが具現化されてしまう。

🔶レヴィナスが言う自我の徹宵(『神・死・時間』、徹宵の留意(『他性と超越』)とは、我々は睡眠中でさえ、一時たりとも自我の運命的関係と、その性質的な断層、それらから逃れることはできないという現存在の実質のことを告げている。

 我々はこの他性と自我(自我には他性が深く分け入っているのだが)の自と他の断層を大きく介在させていつつ、その事実が反映しているレヴィナスの言う顔とは、一方では無意識の判断をも含め、一瞬たりとも完全孤絶することのない個と、公的顔での仮面的振る舞いそのものが既にプライヴァシーの秘匿性を権利として死守したい本音となって、公的態度そのものの個的私秘性、裸の自分性とを同時に意味している。つまり前者が後者を後者が前者を相補的に、理念的には嘲笑う相同性を表明している、と受け取れる。

 自分とか私と公的であることが、表層的・社会評定的、現象的には二分されやすいことそのことこそが寧ろ積極的に秘匿的なることを抱える我々の羞恥の本質を言い当てている(このことは別の機会に現代通信人類社会に関して考えていく)。

🔹柏原啓一が新岩波講座哲学、中、現代のニヒリズム で語る(神の無のニヒリズム)はハイデガーのニーチェ解釈(『ニーチェ』や『技術への問い』中、形而上学の超克)から読み取れる存在者の影に隠れた存在を神より優先させることを基本とする。存在は我々の言語を常に完全なる力能の前に小さくする。従って神という概念を持たざるを得ない論理の起源的な意味での神というメタ性、それは宗教家や信者からすればメタ性を遥かに超え得る何かなのであるが、真理性(これなら哲学・思想・宗教の壁を越え得るだろう)を「我々のもの」でしかないとする存在は、ニーチェ的生成、ハイデガー的時間の歴史としても、共に言語での超え得られなさとして顕現する。我々は存在と真理(つまり論理・言語を成立させるもの)という二元性から自由になれない。

🔶神なき無のニヒリズム(神の無のニヒリズム)に於いて、存在は神を超越する。しかし存在者として顕現された全事象から我々は真理を得る。その論理的手続きでは神を残存させる。つまり神の不在を知る為に論理は神を必要とする。そして言語を通して我々は論理を援用し、存在者から存在の真理に到達しようとする。

🔷存在という言語化不可のものへ、真理化という言語化を企図する我々のメタ的な欲求は、或る種の存在への足掻きと言える。ならば存在への足掻きこそが人類の文明、文化を作ってきたと言えるし、足掻きの変化が時代の推移であり、歴史なのである。

🔸存在への足掻きこそが、全哲学の目的であり起源である。存在のみ神を超越し得るが、存在を存在たらしめる物理学的にはビッグバンを齎したものは、それでも尚神へ再度置換し得る何かだ、とは言い得る。

 

2017.1.17-18

 

本シリーズで利用しているテクストはレヴィナスに関しては『他性と超越』法政大学出版局 合田正人/松本和弘訳、ハイデガーに関しては『技術への問い』平凡社 関口浩訳を基本的に中心とされている。それ以外のものはその都度明示することとする。

 

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零時(刻)性とは一体何か・時間的な点を問題にするⅤ 次々にくる現在は、それまでの現在を全て過去にするⅡ  

 時間では、点は時間の停止という仮定に基づいている。だが時間は決して停止せず、我々も一時たりとも変化しないことはない。動き行為は続けられる(睡眠時さえ呼吸し眠るという行為がなされる)。

 だが空間上は、勿論これも大地そのものが地殻運動により動いているものの、我々が作った純粋平面上では何かと別の何かとの境界は設定できるし、それ自体が動くわけではない。

 このことは時間が固有の存在者の主体性、それは常に先へ先へ意識が、向かっていることで感知されるのだが、それに伴っている。

 時間そのものは動く何かを待ったりすることで、それまで「かかる」のだ。

 だが事実上、実在上空間でも点は存在し得るわけではない。だが点を設定された位置そのものは(下村寅太郎は『近世における幾何学の生成―空間の数学と形而上学―』では幾何学で点を考え始めた近世では、位置の幾何学を開示したと捉えている)、あくまで固定されて在る(点とは位置ということの概念上で理想値であり、それが空間上実在し得るか否かを問題としているわけではないということなのであろう)。

 時間にはそもそもそういった位置自体が成立し得ない。それは断じて位置ではない。

 勿論厳密には大地も動いているし、地球も自転公転していると、絶対的には言える。だがそれは我々生活者の世界とは別個の事実である。我々は動かないもの、固定的に永続するものとしての点・線・面を時間に応用する。そういうものとして時間を理解しようとする。

 時間の位置固定化不能性は逆に、空間に於ける位置固定化をも相対的でしかあり得ない可能性を示唆する。

 つまり空間上で固定化された全ての位置も、それを計測するメタ的な全ての尺度の或る種の絶対不変性に比して実在固有の、それは存在の絶対性とも異なる(それを物理学的にゆらぎと呼んでも差し支えないか否かは、今言い切れないけれど)或る儚さ、脆弱性を主張する。

 要するに全ての位置情報とは、その都度の相対的判断でのみ固定性を維持している。

 点示とは、それ自体恣意的(意図的)固定化である。だがやはりそれは空間的にも時間的にも厳密には不可能である。

 そして時間が完全固定化不能であるからと言って、直ちに空間より先験的であるとは限らない。我々は既に先験的に時間を伴った空間に投げ出されているからだ。

 要するに存在とは、その時点で時間と接合された空間での全事象を直接的には意味するのである。

 だが、どの点示もその都度恣意的であっても同時に、その固定的点示を促すメタ的なる尺度そのものは、或る種不変的な目盛り=尺度であり、スケール自体は、その関係性、相対性に於いて絶対である(そういうものとして常に設定されている。それは尺度の在り方をその都度変更させることとは別のことである)。

 重要なことは、相対的スケールの絶対性はあらゆる位置関係に於ける空間的移動や時間の推移を容易に飛び越す。

 しかもそのことは空間的位置関係の相対性と或る時刻の絶対的再到来不能性を、その事実自体が絶対的に不変であることを逆に証明する。

 つまり空間的スケールの絶対性が、位置の相対性から空間の、同一時刻の絶対的再到来不能性を決定的に証明する。

 しかし翻って考えると、同一時刻の絶対的再到来不能性とは、あくまで全事象の(全物理状態の)変化を基調とした存在性質から見た一つの性質であるに過ぎず、ひょっとしたら存在、それをハイデガーは無をさえ維持する絶対性と規定するが、実はそれさえもが、存在を存在たらしめる前提たる絶対無があり得るとしたら、刹那的なるものかも知れない、という仮定さえ成立する。

 

  付記 (ハイデガーの言う様に)絶対無は存在からしか仮定も想定も不能なので、そのことを考えるなら刹那からしか想像し難い。なぜなら広大な無限の無であるなら、それは広大な実在的広さを伴った充実したものであり、空虚ではないからだ。下村寅太郎の言う有限に於ける空虚とは、存在の有限性(無限の存在であるなら、それは空虚ではないが)は刹那的であるが故に空虚だということとなる。

さて我々はしかし常に存在の側からしか非存在=絶対無を成立させられない(ハイデガーの言うことは正に正しい)し、事実上その様な完全無を知ることも存在証明(それはそもそも存在ではないが故に)することもできない。その点でもウィトゲンシュタイン『論考』の世界の外側に立てないということは、この問題でも適用できる。

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2017年2月24日 (金)

零時(刻)性とは一体何か・時間的な点を問題にするⅣ 次々にくる現在は、それまでの現在を全て過去にする

 時間は、未来が現在を過去にする、と言っても語義矛盾する。だからそれは「常に」今が次の今へ置き換わり、置き換えられたこと=今は全て過去になる。

 それは今の上塗りと言っていい。

 今はどんどん先へ先へと移り変わり、進んでいる。勿論空間的には一所に在ってさえ。

 つまり時間は一連の行為にかかり、しかしその中でなく、次の異なった行為に於いてさえ、さっきまでの行為が過去になる。

 となれば、現存在にとって行為の連鎖を伴ったその都度の意識(の傾注)が今を作り、今を今とすることになれば、現存在の行為とは過去を作るという結果を作る。

 しかしそれは強ち結果そうなっているだけではない。

 

寧ろ我々は皆無意識には過去を作る為に行為するとさえ言える。

 それは常に未来へ向けて志向することが行為だからである。

 

 そういった意味では、形而上学的には未来が新たな現在を作っている、というのが我々の実である。

 或る一連の持続こそが、常に先へ先へと逸る意識の持続の果てである。最果ては死かも知れない。人間(現存在)の全行為は死への準備とさえ言える。

 逸る気持ちの向かう先は、常にもっと先(後)なのであり、そこに至るまでの時間が大いなる長さとして実感させられる。

 時間の中にある区切りとは、先の時間を大いなる過去にするが、何かの実現(誕生)或いは、終了(死滅)が、瞬時時を止める。その止まること=区切りが過去から一気に未来へ飛ぶ感じを今(現在)に与える。

 過去は現在の中でも何かの実現や終了に於いて常に定立されているし、未来も何かを振り返りつつ、達成した後の放心と過去からの解放に於いて、同時に定立する。

 一つの時間に過去と未来が入り混じっている何かの終わりと何かの始まりを予感させるものが在る場合、我々はそれを固有の現在として認める。

 

 次回は今回示した上塗りと最後に示した過去と未来の重なった現在=今と〔区切り零時(刻)性(時点性)=区切り〕との関係を考える。

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