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2017年3月

2017年3月31日 (金)

我々は音声聴覚を通した言語コミュニケーションをしなければポーカーフェイスを作ることはなかった?

〇耳で言葉を聞く仕組みがなければ我々は顔の表情や身振り手振りでしかコミュニケーションできない。そうであったなら我々はポーカーフェイスである必要がない以前にコミュニケーションを我々がしている様には(口で伝えることは)一切できなくなる。

 

〇ポーカーフェイスとは言葉で発さない代わりに顔の表情や態度で意志を示さない様にするために必要とされている心得である。つまりポーカーフェイスとは沈黙が我々に強いる我々の表情による感情の解放に対する抑止という要請に基づくものなのだ。

 

〇盲目の人は自分がポーカーフェイスを巧くしているかを確認することができない。よって表情に感情が出やすいし、身振りも視覚健常者より大袈裟になりやすいか、或いは無表情になりやすい(生まれつき盲目の人は人の表情を見て他人の表情を学べないし、他人に受け取られる自分の表情も学べないからである)。

 

〇従って生まれつき盲目に生まれてきた人達は人生の途中でそうなったのでない限り、ポーカーフェイスの意味はアクチュアルには理解し難いだろう。勿論想像で理解することはできるし、そのことは言葉によるコミュニケーションへ障害にはならないだろう。

 

〇視覚的健常な聴覚障害者はポーカーフェイスの意味を全知覚健常者同様理解し得る。しかし聾唖である場合(特殊訓練で音声発声できることがない限り)全知覚健常者よりポーカーフェイスをすることが精神的には苦しいだろう。と言うよりその必要性を重視する以前的な問題に常に直面している。つまり言葉を音声発声することができず、聴き取れもしないので、健常者と表情や態度で真実を告げることこそが大切だからだ。

 

〇しかし我々は或いはポーカーフェイスをすることを音声発声聴覚言語を獲得する以前に、表情そのものを偽装すること、嘘を顔でつくことを覚えていたからこそ、音声発声的コミュニケーションを持つに至ったのだ、とも考えられる。もしそうであるなら言葉こそその場合嘘ではない真実の告白をする為のものであったということとなる。尤もその場合は何等かのポーカーフェイスをしなければ社会的生存を個に於いて脅かされる社会的事実が要因として(もっと原始的状態での人類に於いてだったかも知れないけれど)存在していただろう、とも言い得ることである。

 

2016. 5.26のメモをほぼ忠実に採録

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2017年3月30日 (木)

思想・哲学メモ Part62 客体化と分析をベースで支える自嘲に就いて

〇永井均<ジョン・エリス・マクタガートの「時間の非実在性」の訳の後の注釈と論評」第三部付論Ⅱ矛盾はどこにあるのか 3、端的な現在は語りうるか>の結語である「端的な現在がそれとして事象内容化されて、無内包の端的な現実とその概念とを架橋する」という部分の観念こそ、ハイデガーが脱自と捉えたことである。ハイデガーはテンポラリテートという時間観念を巣食わせることで心に端的であることを一般化させて存在論とするのである。だから彼が<存在と時間>で批判する頽落した世人とは、その作業を何の疑問もなく行うことそのことへの着目なのである。そして重要なことはハイデガーもまた世人としての現存在であるということなのである。それを認めるところから話を進めるという意味では時間というものの存在を前提にして時間を論じ、それを非実在と見做すという例えばマクタガートの作業が起こされていくのである。

 

〇上記のことは自明の事実を前提にして、その不可思議さを検証するという意味で一種の自嘲である。生きていくこと、生きていることは滑稽なことであり、残酷なことである(悪こそが責任履行だからだが)ということを認めるところから未来へ意志を繋ごうとするからである。その点では桜井和寿のMr.Childrenの歌詞も桑田佳祐の歌詞もそういった自嘲的響きがある。当然のことながら、それは世界的にはウッディ・ガスリーの意志を受け継いだボブ・ディランが行ったことである。How does it feel?Like a Rolling Stoneで示したミス・ロンリーの自堕落な資本主義ブルジョワ生活への警告とも言える、路上で彷徨うホームレスになったミス・ジョーンズを想定して歌った、この三人称化させる(つまり事態を客体化させて、真理的に二人称的疑問をぶつける)というメソッドに内在する精神の反復である。20世紀ロック&ポップスの水脈上での全歌曲に、それが示されていると見てもいいだろう。

 

〇存在は存在を第三者的に、つまりその存在の中で生きる我々現存在が現存在であること自体を客体的に見ることから、つまり存在者であればこそ、その存在者として存在忘却して生活していればこそ、その事実(fact)を分かっていたことではなく、初めて分かろうとする態度で見ることそのことが、既に自嘲の持つ内的なメカニズムを利用していることになるのである。してみれば詩とは自嘲的な問い掛けを世界や世界の一成員として詩を書こうとしている自分へ向けているとも言えるし、そのリアルやファクトを解析して定義づけることをしているのが哲学ということにもなるだろう。だからどこかで反省的視点に自嘲が既に含まれているから、存在を存在として、時間を時間として論じ、解析し、結論を出さざるを得ないわけだ。してみれば自嘲のないところでは反省も解析やそれへ向けられた対象化されたものを客体化しつつ解析する思考というものも成立し得ないということとなるだろう。それは後悔というものがなければ反省も過去もないと捉えている中島義道の持論にも関係してくるかも知れない。

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2017年3月29日 (水)

思想・哲学メモ Part61 音楽と時間と空間(特に二つの異質の反転現象を確認できることから考えてみる)

〇時間が時刻を設定していることは、それ自体区切りという意識がある。区切り自体が連続していく、それを我々は時間と呼ぶ。そのことを最も忠実に表現へ置き換えたものこそ音楽で言えばリズム中心のものである。マーチ、ジャズ、ロック等多数存在する。

 

〇しかし音楽にはメロディーの一定の長音を持つ楽曲がある。教会音楽などがその典型である。その長音の持続とはベルグソンの純粋持続に近い。そして持続された「今」は空間と不可分である。教会のパイプオルガン等に典型的であるが、長音を持続させること自体が既にそうである。音が空気の振動であるからには音楽の持つ時間とは空間的性質と不可分のものはない。

 

〇空間に於いて、空間の音が響くことの体験性とその時間表現の持つ時間観念の把捉が長音保持の楽曲が誘い出す最大の効果である。

 

〇マクタガートの時間論では空間やその体験性は無視されている。それは形而上学全般の一つの極めて典型的特徴でもある。観念論であり認識論のメソッドを取った存在論的観念誘因装置としての論文だとマクタガートを位置づけられる。

 

〇だが形而下学、実在論、存在論としての時間論もあり得る。尤もそれは既にその時点で欧米で営まれている哲学とは異質の科学的分析、経験科学的なものとならざるを得ないだろう。だがそこからしか見えてこない哲学も可能ではないだろうか?

 

〇だが興味深いことに、リズム中心の音楽が与える聴く者への心理的効果はプラグマティックであるが、日常的な認識論的内容である。世人的意識を煽る世人向けのものである。対しメロディーの長音中心の音楽が与える聴く者への心理的効果は、非プラグマティック(形而上的)である。非日常的存在論の音楽だと言える。

尤もマクタガート的な哲学論文は概念数式的設定のもの程分節化された時間系列に拠って寧ろ空間の無限性、つまり絶対的不動性、絶対的に変化のない(不変的)永遠性をどこかで連想させる(誘引させる)ところがある。それが哲学論文の持つ究極的に不可思議な性質である。つまりプラグマティックな方法論に依拠した哲学論文は形而上性を強化され、却って存在論的にもなり得る。概念図式的設定の論文は例えばポピュラー音楽のリズム中心のものと正反対の効果を読者に与える。

 

〇上記の同一の方法論とかモードで音楽と哲学とでは反転された効果を生み出すこと、それはここではまず初めに提出される謎である。

そして音楽の成立要素(構成要素)そのものの在り方と、それが聴く者へ与える心理的効果とはリズム(分節的楽曲)中心とメロディー長音中心とでは反転するということを音楽家は恐らく直感的に理解して作曲・演奏を行うのだろう。そのことと音楽と哲学との反転する関係は、ただ音と書かれた文字という違いだけで説明がつくだろうか?

 

〇上記の事実、つまり音を聴くことと、文字を読むことに於ける現存在にとっての構え(立ち合い方)の反転現象とは、音がダイレクトに聴く者に与える効果と、文字を音無しに読む者が得る心の中の効果とが異質であることを物語るが、それ自体も又形而上学的考究価値もあるし、形而下学的解析をする必要性もあるのではないか?

 

〇上記のことはマクタガートとベルグソンの時間論哲学の対極性から考えられる哲学方法的な力学(Mechanism)自体の問題とも無縁でないどころか、この不可思議な反転現象を説明する契機ともなり得るであろう。そこで何等かの公理を見出せるなら、それは今後哲学者達も無視しては進めないものとなるのではないか?

 

〇ベルグソンの時間論哲学はそう書かれていなくても、臨場、空間体験性と無縁ではいられないと考える。対しマクタガートの時間論哲学はそういったことをつゆ程も触れることも連想させることもない。関連づけても当然いない。

 ベルグソンの或る種の唯心論的性格の論文は却って、身体即物的なることを思考的に誘導させるが、同時にマクタガート時間論哲学の分節化された概念図式性の方は逆に永遠なる事実化が持つ不動性、存在の絶対性を喚起するとすれば(ここでも一つの反転現象が確認され得る訳だが)、それは哲学論文の言語の持つ何等かの強制力があると断じざるを得ない。それは哲学論文の言語の持つ力(power, macht, puissance)であると同時に、言語への我々の構え、受け入れ方である、と言えよう。

 

〇上記のことは小説で登場人物に対する説明の仕方の問題、詳しく形容しては却って読者が、登場人物の性格を付与して読む助けになり難いということともきっと無縁ではないだろう。そのことは意味の伝達に内在する何等かの存在論的な性格の問題であろう。

 

〇意味とは表示された語の規定としての概念の組み合わせであるところの文章と、文章同士の組み合わせとによって、或る一つの文章を文章全体の中のどの位置に配置するかの各関係同士の接合とその意図への読み方によって伝えられる。当然そこには各言語とその時代に於ける固有の慣習もかかわっている。つまり一語の選択、一文章の置き方、全文章の構造付与への読者の側の読み=筆者の意図の理解に於いて、意味とは発揮される。

 

〇恐らく音楽を聴くことで把捉される作曲・演奏が与える効果は、この意図によって作られている。つまり読者が文章に於いて慣習的な側面も付与されて理解している様に、音楽も聴き方の慣習が付与されたかたちで音楽メソッドと楽曲毎の差異を聴き取っているのだ。メロディーやリズムは語数と語の配置と概念といった要素に該当するものと思われる。

 

付記 ここで提出されていることは、メソッドとして図式的概念設定した場合、マクタガートの様に却って永遠性を示唆してしまうが、ベルグソン型の記述では日常的身体即物的、つまり形而下的な示唆をするという反転性と、リズム中心の音楽とメロディー長音中心の音楽とで与える効果は上記の反転性と逆の反転性ということだ。ベルグソンは多く現象学的考究に相応しい素材として利用されている。マクタガートは分析哲学で専ら利用されている。

 

 この二つの全く異質の反転現象は、文字と音の性質の違いからなのか、それとも二つの異なったジャンルの表現の仕方が持つ慣習の問題なのかということが未だよく分からない。だからこそ学究テーマとしては捨て置くには惜しいと思われたので提示してみたのである。

 

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プロ仕事としてのファインアートに未来がない理由

〇ルネッサンス以来人類は余りに数多くのアート作品を残し過ぎた。エコ的観点からもアート作品がこれ以上多く人類に必要とされているとは到底思えない。

 

〇誰もが趣味としてアートに容易に関われる以上、プロとして選ばれたアーティスト自体、人々が求めてなどいない。

 

〇現代社会はギャラリー会場で個展をして作品を売るという行為が資本主義のニッチマーケットとして余りに権威依存的性格しか齎していず、事実その性格がアーティスト個人へ固有のデカタンスを与え、多くの人々はそのことに時代遅れ(out of date)な感想しか持てない。

 

〇現代ではyoutubeを通してパフォーマンスをアップし、それに惹かれる人々がダウンして広まるという形式の方がより巨大化しているので、その話題が先行するし、権威的賞をとったプロがアート作品を展示する個展をして、資産家や企業が権威づけのために豪邸やオフィスビルのロビーにそれらを陳列する(飾る)というインスタ形式そのものに多くの人達が惹かれるとは到底思えない。ニーズ自体が弱体化しきっている。

 

〇哲学者と言えば一般人は今もソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲルとかが最大知名度を獲得しているし、画家と言えばレオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ベラスケス、ルーベンス、レンブラント、ドラクロワ、セザンヌ、モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャン、ピカソ等が最大知名度であり、それ以降のウィレム・デ・クーニング、エンツォ・クッキ、デヴィッド・サーレ、ジュリアン・シュナーベルとか言っても、一体誰が関心を持つと言うのだろうか?増して河原温や高松次郎と言ったって、誰も知りはしない。草間彌生、奈良美智、村上隆はメディアが宣伝するので一応知名度があるが、それでも前記の人達程大勢の人々が関心を持つとは到底思えない。従ってインスタレーションワーク等もっとそうである。小池都知事が石原元都知事の四男の活躍を願って設置したアートプロジェクトを廃止させたのは、石原遺産の撲滅意図ではあったかも知れないが、正しかった。会田誠等のタイプのクリエイター達だけが残念がっているに過ぎない。既に世界中でも殆どの人達が古典アート以上の関心を現代アートへ注いでいるとは到底思えない。

付記 2016年秋に日記で書き留めていたことをほぼ忠実に採録した。

 因みに絵本等には大いなる可能性がある。コンパクト且つ芸術的純度且つ文学や哲学等とのタイアップが容易だからだ。尚現代はプロ哲学の時代でもない。そのことは思想の時代シリーズで解き明かす。

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2017年3月28日 (火)

思想史と神学・宗教史・哲学メモPart6

〇実在として恐らく神などいない。だが重要なことには我々は常に物事を考える時起源と言うものを設ける、ということだ。それを飛び越すことはできない。

 例えば原生生物起源的な意味でシアノバクテリアを考えるとかストロマトライトがその残存から形成され、それが何等かの自然環境へ大きな影響を与え続けている、とかそういうことである。又人類は霊長類の或る種の突然変異体が繁殖して今日の様になったとかである。実際一個体が自然選択で有利な条件となって我々は人類として君臨することとなった。それはその過程でそうでない個体群が死滅して淘汰されたことを意味する。

 ビッグバンを誘発した何かが全ての起源であると考えることもできる。

 勿論そのこととイエスへの信仰は違ったことである。だが起源という考えがもしアブラハムやモーゼと違ったかたちにも適用され得るなら、慈愛の起源をイエスに求めてもいいかも知れない。現代倫理学の起源にイエスを据えて考えてもいい。

 

〇起源は神化される。そういう風に考えやすい我々の思考の傾向性がそうしている。神そのものは居ないかも知れない(無神論的にはそう言えるが、それは証明もされない)。だが言葉にも論理にも起源を設定するという余地が常に残存する。それは何か神でなくても一つのことである。全てがそこから開闢されるところのことでもある。それはデカルトにとってコギトであった。

 

〇存在という認識は、起源という事、全ての存在者のベースとなる、開闢させるものとして設定され得る。設定され得るから概念となっている。勿論数字にそれはない。0にはそれに近い何かがあるが、0は起源ではない。もし起源を数字に見出すなら1である。01を起源とすることから逆に据えられている。従ってハイデガー<ニーチェ>で言う様に無とは有(∃)という決定的な起源から逆に生み出されている。

 

〇時間とは或る意味では存在(∃)の有の一つの性質かも知れない。要素よりは大きな何かであろう。存在は存在者を必要とする。しかし存在者は永遠ではない。従って永遠ではない個々の存在者を常住させるために入れ替える必要があり、その入れ替えのサイクルを滞りなくさせるために時間を必要としている。従って時間は存在の要請に従っていることになる。だから時間は存在の性質の一つなのだ。有に変化があるが、その変化が一切無くなっても存在は在り続けられるかもと永井均は考えている(『時間の非実在性』ジョン・エリス・マクタガート 永井均訳・注解と論評)。それが正しければ時間さえ消滅しても存在は在り続けられる。つまり常に∃>時間ということとなる。

 

〇だが本当にそうだろうか?それは有(∃)そのものが生み出している幻想でなないだろうか?有(∃・存在)とはハイデガー的に考えれば確かに無を生み出している。だからその顰に倣えば有・存在こそが時間消滅後も無として(変化も何も無いのだから、それは無であるしかない)それが存在し続けることとなる、という風に。しかし無は存在の一様相とは形而上学が与えているそれも一種の幻想であるとするなら(何故なら言葉というもの、論理というものには起源が必要だし、<数字で言えば1が起源であるという様に>そういう風に進化してきたわけだが、起源そのものの前には無しかない。それは我々が存在してしまったから考えられたことに過ぎないから)、時間が消滅すれば存在も消滅する、と考えることは自然だ。何故なら我々は血液がなければ生命を維持し続けられないが、その様な性質こそが時間かも知れないからである。つまり存在者を入れ替えさせるという自然様相の変化を設定するために時間が必要だからである。だから存在には時間は不可欠なのだ。それは存在が消滅する時点まで存在し続ける存在者とは神の如き力なのだが、それを作ることが起源=神にもないからである。それは生きている我々個々にとって自分こそが自分を助けられるが、自分と同じ自分を自分の中に作ることができないのに似ている。逆に考えれば存在が存在をもう一つ作れるくらいなら、存在は神ではなく、存在に万能の力を与えている別の神が必要になるのだ。だがそれは無限背進を作ってしまう。だから論理的に考えても実は存在が神であるなら、存在は存在よりは常に脆弱な死滅し、消滅する(あらゆる自然現象は一定に固定化されて保存されず必ず鎮静化、雲散霧消する)存在者だけしか作れない様に運命づけられなければいけない。つまり存在を存在者は超えられない様でなければ、或いは存在自体が存在を超えられない様でなければ矛盾するのだ。

 ハイデガーが<存在と時間>以来、存在忘却と呼んできたものとは、この存在者が存在の頂点であることを忘却して存在者としてだけ(少しモラル的に言えば感謝の念を忘れ)振る舞うその心が存在を見失わせ、存在者に感けるということだったのである。でもそれをつい忘れ頽落できるからこそ、我々は日々生活できるのかも知れないのである。つまりそういう阿呆、愚かだからこそ自殺せずに生きていられるのかも知れない。

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2017年3月27日 (月)

言葉と意味は心では音の故郷から離れはしない、けれど

異郷の言葉を母語へ置き換える人は、意味を理解しても、幼き頃より慣れ親しんだ母語の響きへ

置き換えなければ気持ちは納得しない。

意味を気持ちに沁み込ませるために異国の言葉を母語に直す。

 

外国語は、自分自身の幼き日々に培ってきた音の故郷の匂い、味とは違った異国の音の響きだ。

 

意味の真理は母語だけでなく、どの外国語も持っている深い、或いは高いところにある。

それは意味を噛み砕く全人類の偉大な真理へ近づくことだ。

でもその真理を親しみを持って噛み締めるのにまず母語の音の故郷は欠かせない。

だから外国語にそれを感じだしたら、第二の母語となりつつあるのだ。

 

意味は細かに掴めるものと大まかに掴むものとがある。

細かさはいつも身近で、自分の馴染みから分かろうとし、大まかさは馴染みから離れて遍くすることから分かろうとする。

心はいつもこの異なって羽搏こうとする二つの分かろうとする気持ちへ引き裂かれる。

この気持ちはあるところでは鬩ぎ合い、別のあるところでは打ち解け合う。勿論直ぐに打ち解けることはなく、意志的にいつも繋げていると、ほんの時々そうなる。

それがいつもそうなれば異国の言葉は第二の母語となる。

だから意味は言葉そのものと違って真理に近い。

言葉が違っていても、意味同士の連なり方はそんなに変わらぬところも大きい。言葉の細かい在り方を支える文化、信じることの仕来りの違いが意味同士の連なり方を少しだけ変えるが、全てではない。

 

考えることは母語で細かく感じて言葉にしながら進めるけれど、意味の連なりのどの異郷でも遍く通じ合うかたちは、どこでも受け入れられる大まかなことで、それが真理で、真理から細かく感じる言葉へ降りてくることもある。

 

感じることは細かくて大まかでも必ず母語がのさばるとも言えない。気持ちもまず母語の言葉が作っているとも言えない。

だから言葉と意味は、いつもすることでは人と語る時は心では音の故郷から離れはしないけれど、一人で考える時は、母語の言葉の故郷からだけ助けられているわけでない。

 

その感じることは大まかだけれど大雑把ではなく、確かな何かなんだ。

真理とか本質と言ってもいいその何かはどんな民でも母語からもどの者たちにとってもの異郷の言葉からも至り着くことができる。それが世界に遍くあることだ。

 

自らの故郷と言葉、地方にだけ根付く方言と母語の絡み合う響きは意味と繋がり、全ての異郷の言葉、全ての異国の言葉もが、地方にだけ根付く方言と言葉、全ての異国の言葉もが、意味と繋がっていることそのことともどこかで繋がっている。

 

日々の行いの慣れ合いの違い、信じることの仕来りの違いは、それぞれの色合い、それぞれの形の違いとなってぶら下がっている。でもそれらがアラヴェスクの様に大きな人類の模様を作っている。それが音の響きともなって言葉と音楽を作っている。

真理はその大きな絵がどの言葉の世界にも落としている影のことなのだ。

2017.2.152.17/3.27修正)

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2017年3月26日 (日)

時間とは何か?⑧

●「時間が過去へ遡行することはない」と言うよりは「(出来事は何かが始まり何かが終わる)ことがひっくり返ることはない」と言うべきでもあり、且つ「出来事Aが起きるという後に出来事Bが起きるという風に、その順序が変更されることはない」と言うべきであり、それは全て出来事(あらゆる行為を含む)の在り方とか起こり方とか展開の細かい部分は、それが起きた、為されたということは変えようがないし、消せない、ということである。つまり起きたこと(為されたこと)は全て事実化され(事実となり)変更されることはない。又同じ出来事(行為)が起こる(為される)ことも、繰り返されることもない。

 

●だから確かにマクタガートの考えている様に時間自体が実在するのではなく、只あらゆる出来事や行為が常に同時的に発生する(起きる・為される)のであり、それらは直接関係し合うこともあれば、間接的にだけ(だから実質的には相互に無関係なこと同士も含めて)関係し合うのであり、その全ての順序は変わらない。そしてあらゆる出来事や行為は必ず空間的に実在(実現)している。その一々の様相や関係やの順序だけが実在し、時間とはそれら一連の間の変化を順序立てて把握する為に、出来事が起き行為が為される間を量的に理解する時、分節的に刻む時刻性(時間の要素として設定されたもの)を伴ったこととして我々は付与したものだ。従ってその出来事や行為の持続する長さこそが時間量ということとなっているのだ。

 

●従って或る出来事(それは同時に起こる出来事の中から恣意的にその時最も印象的と思われることをその都度恣意的に選び出している。それは社会・国家・組織/個人を問わずである。)ABCDEという生起した順の不動、不変性のある幅を長さとするのは言語伝達上の慣習的決まりでしかなく、太さ、多さ、大きさ、高さ(?)と言い換えても、その本質は変更されず、要するに量が大であるか小であるかということでしかない。

 
●そしてその出来事の移り行きや出来事間の生起順序を一つの塊、纏まりとして理解させるものとは立ち会っているのなら、真の知覚的記憶と、その時々の記録(その時リアルタイムで書かれたり撮ったりか、後で記憶を頼りに為されたところの)とによってである。その時重要なのは、どの様な塊、纏まりとして把握するかが恣意的に決定され、それが時節とか季節(自然的なだけでない)とかとなり、それらの幾つかの集合が時代として認識されることだ。又、塊、纏まりの間での出来事や出来事間の在り方は、その長さ自体とは関係ない(つまり出来事の内容が長さに影響を与えることはない)。

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2017年3月25日 (土)

存在よ、ごくろうさん

存在よ、お前は存在すること自体に飽きることはないのかい?

 

俺は存在には勝てない。そんなことは誰しもが分かっている。

でも誰しもが存在の一角に位置していて、存在者として実在者として呼吸している。

 

少なくとも思考する存在者なら誰しも、存在という絶対的事実の中の何等かの生のブランコに乗り続けているということなんだろう。

だって呼吸するということは揺れるということであり、それはいつも不安定ということだから。

 

死は思考の停止、思考の再生されなさであるが故に、絶対的安定である。死者に勝てる者はいない。死者だけが全てへ安定し、整然としている。ゼロの生という意味で。

だから生きていることは世人であれ哲学的存在者であれ、いずれも揺れている、揺れ続けていることだ。

 

存在よ、お前は死者みたいに決して何も言わない。だけどその言わなさが全ての存在者に存在を主張させる。

存在よ、お前は絶対に存在者全てを消滅させない。もしそうなったなら、それは存在、お前が消滅する時だ。その時時間も同時に消滅する。

 

存在よ、お前は一つの神の齎した奇蹟なのか?

そうなんだろう。でもそれを奇蹟と誰も普段は思いもしない。

何故なら全ての存在者はその奇蹟に一々驚かないことで初めて生活しているからだ。

奇蹟は言葉が生み出している。

でも言葉は存在、お前が生み出させている。

存在者が消滅すること、そのことを生者が理解しているから、死滅を意識するから言葉を紡いでいる。

 

死者には絶対勝てない生者たちだけの共同注意としての言葉。

それが存在者としての自覚を齎し、存在へ感謝の念を捧げている。

言葉を持った生者の営みは存在よ、お前への感謝なのだ。

ごくろうさん、存在よ。

 

でも力を抜いてやっていきたいものだよ、いつも力を入れ過ぎていると眩暈がしてくるから。

でも力を温存させてやっていきたいものだよ、いつも力を入れ過ぎていると、いざという時力が発揮できなくなるから。

 

何かを繰り返している様でいて、かなり確実に何かだけは少しずつ変わっていっている筈さ。それを存在よ、お前へ告げたい。

存在は存在する者全てへ何も語らずに何かを告げている。

それはそこに在り続けていることだけが存在者の使命を果たしていることなのだよ、と。

 

存在よ、ごくろうさん、どうか存在すること自体に飽きないでおくれ。

存在が存在自体に飽きないでいてくれるからこそ、僕達存在者は皆此処にこうして居続けていられるのだから。

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2017年3月24日 (金)

思想史と神学・宗教史・哲学メモPart5

〇神とは我々が内在的に(対外部的説明としてではなく)、それが正しいと信じることに導かれることそのことを言う、とは言えまいか?

〇全ては一定ではないという本質は不変である。従って存在(∃)とは変化しない。だからパルメニデスの考えはその意味では正しい。

◎実在の無限と神の無限をレヴィナスは違うものとして捉えている。

「有限で、規定された諸存在は質量の無限へと開かれているが、<一者>の無限からは引き離されたままである。<一者>の充溢は混乱ではなく、より完璧な規定であって、定義によってもたらされる分離の欠如がそこでは欠如することになる。」(『他性と超越』合田正人/松丸和弘訳、法政大学出版局 歴史的所与 から)

 このレヴィナス論述は、ウィトゲンシュタイン<論考>の論理空間をも全て含有した、つまり実在的でない実在(観念を含む)をも存在すると捉えた時に現出することである。そしてそれは先程の内在的な出会い=神を見る事と同じである。レヴィナスは次の様に述べている。

「被造物における無限とは、悟性も含めて何ものにも命令されることなき自由な意欲なのである。」(前述と同じ)

●信仰はしかし神学的認識でもない。神学的認識ではレヴィナスの述べている次の様に哲学論理を展開できる。

「どんな述語も神の無限を制限してしまう(後略)・無限性はわれわれにとって、神の唯一の肯定的な述語である。」「無限性はわれわれにとって、神の唯一の肯定的な述語である。けれども、被造物の有限性と多様性はただの有限性ではありえないし、それが完全性を欠くことはありえない。」(前述と同じ)

つまりイエスへの信仰とは、イエスを神と認め、その神が他の神と違って慈愛に満ちたお方であるという尊崇にある。勿論対象はムハンマドでも仏陀でも孔子でも孟子でもいい。

〇神学は哲学的論理へ置き換えられるが、信仰はそうではない。それは論理ではないからである。

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2017年3月23日 (木)

現代社会をウェブサイトは何か変えただろうか?Part1

●人類は資本主義だけが正義であるというかたちで、例えばラップ等の音楽でもそうだが、情報摂取と商品選択のスピードを上げさせる様な軽いノリだけを正義として、つまり消費社会のフル回転スピードを前提して作られている。そこでは沈思黙考的な余裕を心に与えない危険性を孕んでいる。それはビートルズもマイケル・ジャクソンもその先鞭をつけたと言える。

 

●全世界がウェブサイトのグローバル企業が例えばアマゾンの様な物流ビジネスと結託して全ての賃借関係から収支に至るまで回転率的な速さだけを強いる様に成立している。思想を個が持つ余裕をコンゴロマリットの経営がGDPを支えるという題目の前で全ての個へ与えない様に社会機能が維持されている。だが国家主義が世界中で吹き荒れているのは、単にこのグローバル企業・コングロマリットの異様なる膨張というリアルと、しかしそれが変えられないことへの抵抗なのだ。

 

●ウェブサイトは既に全ての通信行為への盗聴・傍受と同様監視・検閲されているし、知らず知らずの内にウェブサイトを利用することで、一部の経営者達の思惑に乗せられてしまっているのだ。スマホを誰しもが携帯することを前提した社会では時計を設置することを極度に減らした。携帯電話の登場が公衆電話を無くしたのと同じ様に。しかし誰しもが狭い液晶画面に電車の中でも釘付けの状態では、心の余裕を持つことを誰も許されていない。このウェブサイト過剰利用が認識・認知・情報摂取的頭脳の回転以外の全て、要するに存在論的な茫洋とした心の落ち着き・心の余裕を奪うのである。速度と即断だけを求められる社会へ移行させたのはウェブサイトだった。そういうことをウェブサイトを通じて発信することも矛盾しているが、そのリアルだけは念頭に入れて、ウェブサイトと関わらない時間を大切にしてくしかない。

 

●ウェブサイトは世界を変えた。だがそれは世界とは容易に変えられないという諦念と共に、却って全てに関して、つまり経済政策的にも政治形態的にも保守主義だけが正義である様に固着化された思考回路を徹底する様に変えたのである。それはどこか地球に似た環境の星が発見されているけれど、人類と同じ様な高等知性生命体を発見できないことから、或いはそんなものは存在し得ないのではないかという気分と相補的であるとも言える。

●我々は自分の好みの商品を購入する際にもアマゾン等により紹介されるアイテムに誘導させられている。そしてそのリアルを元へ戻すことはできない。だが一つだけ有効な心の余裕、自分自身の判断であると実感させる行為とは、ウェブサイトを通してウェブサイトだけが全てではないと発信していくことである。これは哲学的問い掛けや証明だけが全てではないと思わせる懐疑主義的哲学の態度と同じである。次回はその共通した弁証法的なメソッドに就いて考えてみよう。

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2017年3月22日 (水)

「いらっとする」という言い方が定着している現代日本の世相とは?

 昨日のニュースで世界の各国に於ける幸福満足度で世界一位だったのがノルウェー、次いで二位にデンマーク、そして三位がアイスランドだった。軒並み北欧北極圏の国々である。スウェーデンやフィンランドもそんなに低くないだろう。対し日本では世界で51位である。この差とは一体何なのだろうか?

 日本は国家として構造的に他者への寛容さを維持することが困難な様に機能している。要するに足を引っ張り合う形でしか仕事自体が展開しない様になっている。

 それらの世相の或る種のやりきれなさから我々が「いらっとする」という語彙を使用しているのではないだろうか?つまり男とか女とか性別的なこととは別に、全ての人達が心を安定させきれていない。つまりいつもせかせかしているという世相なのである。「いらっとする」ということの背景には瞬間的に切れるということがある。「切れる」という言い方もかなり以前からこの国で定着した。それは「いらっとする」の前哨戦であった。

 つまり瞬間衝動的な怒りしか持てないということは、もっと大きな怨念的なもの、つまり大きな復讐には決して行けないという諦めなのであり、大きな復讐とは小さな復讐を全て相手にせず、最終的勝利を目指すことであり、他者の足を引っ張ることではない。しかし今の日本人は他者の足を引っ張り、その時だけ小さな勝利を収めればそれでいいという感じなのである。だから他者への寛容さより他者を小さなことで追い詰め撃破させてしまえばすっとする、という悪質なヒューマニズムの喪失をきたしているのだ。

 大きな復讐とは常に創造であり価値転換である。だがそれをするにはあまりにも歴史的にも日本人は個の内部で抱かれてきている宗教的倫理や自己の内的な対話に欠けている。

 集団全体の集合心性と群集心理で生活してきた民族だからだ。国家神道はだから自己内対話の不在を忘れさせる、つまりそういうことこそ危険で赤信号皆で渡れば怖くないと昔ビートたけしが言った様な行動原理だけで生活してきた民族の一つの具現化されたかたちである。

 気が短い人とは大きな復讐はしないということ、諦めているということである。逆に小さなことには寛容であることは、即ち堪忍袋の緒が切れたらかなり激憤するということである。そして大きな復讐を諦めていないことである。

 だが歴史はアメリカの様な世界的大国中心であることを揺るがせない様に歩まれている。

 まず日本史で太平洋戦争はすべき戦争ではなかったし、負けて当然だったし、又アメリカへの復讐心を捨て去ることによってのみ戦後の経済的繁栄は約束されていた。それに対する怨念は今の日本人には希薄だ。ならば江戸期の商人・町人文化が齎した長期の商習慣的慣習からの日本人への呪縛が考えられる。日本では常に集団、つまり会社、組織全体の利益を考える様になっている。だからその部分では個人的利益を追求することを諦めている。そのストレスが溜まっていると考えることができる。だがレジャーとか余暇の過ごし方を有効に利用することに日本人は慣れていない。つまり心に遊びが少ない民族なのである。アメリカ人は違う。アメリカでは通信技術一つだけで世界を制覇するくらいの成功をシリコンヴァレー経由で成し遂げた。それは遊び精神の為せる技なのである。

 だからこそ集団全体の滅私奉公的な義務感だけでなく、個人の心のゆとりを確保することを考えていくべきである。それはやはり最終的には他者への寛容さ、つまり他者への慈しみと信じるということに尽きるのではないか。

 日本では技術的な教育は行き届いているけれど、道徳とか思想教育は行き届いていない。今こそ古今東西の思想書を糧に個人毎に異なった必要性を感じるなら、それに相応しいテクストを選んで専攻して学ぶ機会を幼い内から与えていくべきではないか。自分達の子供にそうするなら、まず自分達もそういうことにもっと積極的に興味を持ち取り組んでいくべきなのである。

 忙しいだけであることは決して一神教宗教文化圏では褒められたことではなく、罪なのである。だから忙しいということをお互いにいいことだと認め合うことをまず止めるべきである。この忙しさ、働き過ぎとはアメリカ人にも充分言えることである。アメリカ人よりノルウェー、デンマーク、アイスランドの人達の方が自らを幸福と感じているのだから。

 イチローは偉大な野球選手だが、日本に帰国して野球界で監督とかとして活躍しないだろうとよく言われる。彼には個が明確にある。それが個滅却しなければいけない日本では通用しないからというものである。だがそれは可笑しい。個を持つ者を重宝しないのは無策である。だからイチローの現役引退後のことは充分配慮すべきである。

 もうあと一つ。芸能界では今や俳優は歌も巧くなくては食っていけないし、ダンスが巧くないとCMで使って貰えない。必然的に一部の役者だけが異様に売れ、そうでない人はどんどん干されていく。この様なことは全ての業界に言えることである。だから過当競争になっていってしまう。だが、テキトーでいい加減だからこそ勤まる仕事もあるのではないだろうか?

 ま、これはほんの思い付きの提言なのだけれど、いらっとすることのない日常を獲得するには完璧を求め過ぎないという別腹的な価値観が必要なのではないだろうか?一つのことで凄く完璧に行かなくてもいい。他のことで巧くいけばいいのである、というフレキシブルな物事への接し方が必要だということだ。

 いらっとするということはいつも気が張っているということである。そうでなくけろっとしている、すっかり忘れていたということが、ビジネスとか仕事とか要するに義務的なことでなく、余暇の時間で必要なのだ。余暇の時間でも仕事とか義務のことばかり考えていると、すっかり仕事や義務から離れた気分になれず、遊びの時間でも他人の行動にいらっとする様になっていってしまうのである。

 そうは言っても日本はアメリカと同盟国なので、働き過ぎということをやめることはないだろう。ならばそれについていけない人達こそ、率先して働き過ぎる事ばかりが価値じゃないぞという意思表示をしてスト破り的な行為を責めた時代だってあったのだという風に、いい意味で左翼的気分も取り入れ、余暇でこそそういったリベラル的気分を盛り上げる習慣を身に着けるべきだし、コンサヴァ的気分とそれと正反対の気分を常にバランスさせることが重要なのである。

 そうすればケロッとしていたとかころっと忘れていたということを言い合うことが、今よりは価値ある響きになっていくとは言えないだろうか?

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2017年3月21日 (火)

生きていることは心の旅なのだけれど

 どうしても何かしたいという思いは誰にでもある。だがそれがかたちになる様に運ぶのはそうたやすくない。自分にしかできないことはきっとあるだろうが、そういう気負いでは何もできない。要するに全てをいつもどおりにしていくことが大切だ。いつもどおりということは自分の身の丈を超えた跳躍はしないということだ。

 勿論何等かの時点での跳躍は必要なのだけれど、跳躍はあくまで必然的なものでなければならないので、いきなり突拍子もなくでもない。勿論それがいつかは自分でも予想がつかないが、そうしようと気負いこんで作るものではなく、向こうから自分自身へ教えてくれる、つまりそういう瞬間を待つ、それまではそういう気負いを一切持たないということであろう。

 生きていることは常に心の旅である。出会いは無数にある。人との出会いもそうだし、風景との出会い、そして何より自分の心の在り方との出会いである。

 予定通りに一切の迷いなくできる時もあれば、逆にかなり綿密に予定を立てていてもいざ実行に移そうという直前に何もかも予定変更することも決して少なくはない。後者の場合には向こうから、何か違うぞと教えてくれているのである。

 今年は去年から引き続きウォーキングを一時間半から二時間半、三時間位の長さで10キロ前後、10数キロとすることを続けてきていて、そのために色々な場所へ訪れたし、水戸の偕楽園の梅も観にでかけたが、その時訪れた徳川ミュージアム行きの無料送迎バスで乗り合わせた乗客の方から「水戸と言うと皆梅でしか興味ないけど、実は桜も凄く綺麗で見どころは沢山あるのです。」と聞かされた。これも一つの出会いであるし、発見である。だから来月冒頭に観に出かけようと思っているのである。

 心は旅する。旅は心の移ろいそのものである。だから旅は心の旅であり、旅をしていない時も心の旅は実際に旅をしている時とは又違って為されているのである。旅をしていない時の旅こそが実際の旅を性格づけている。

 一昨年から書き始めてきた或る小説を今年秋までには完成させたくて、最近その詰めをどう展開させるかばかり考えている。長編SFホラー小説だが、それ以外に今年の夏までには書き始めようと思っている中編童話小説を考えている。詩もたくさん書きためてきているのだけれど、その二作の小説を完成させることで出会える何かから又違う詩の方向づけが為されるのではないかと期待している。それまでは少し古典作品を読書することと、英詩の和訳等を中心にしていきたいと思っている。

 心の旅はずっと続いてきているのだけれど、心の旅の方向を決めていくことも創作である。創作はやはり神経を異様に酷使する。その神経の遣い方次第で心の旅の在り方は良くも悪くも変わる。普通とか一般的な良識ある人生なんて信じていない。でも跳躍が必要な時には適切にそれができる様な心の平静さは重要だし、向こうから自らへ教えてくれる様な神の声の様な心の中の出会いと、教え導かれる様な心の旅からだけ紡ぎ出される何かとだけ出会いたい。

 それはやはり今からこんなものではないかとは決して予想できはしない、出会ったことのない何かなのではないかとだけは予感する。

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2017年3月19日 (日)

<悪>論 Part3 示すことの責任

ユダヤ人へのローマ帝国と富裕層の重圧から逃れるべく人民がヨハネに洗礼を受けたイエス・キリストへ尊崇の念と意識が傾注していった際、彼等はイエスに奇跡を起こしてくれる救世主的存在を仮託した。だがイエスが説こうとしたことは一時凌ぎ的な民族の安心への道ではなかった。広く彼はユダヤ人を迫害する人達をも含めて人類全体の愛を考えていた。だから極一握りの最後まで残ったイエスの弟子達以外はとおに彼を見放し、関心の埒外に置いていた。そして重要なことはイエスが説こうとしたことは、明らかに悪をも含めた心の貧しさこそ救われるべきだということだった。つまり自分自身で理性的に何もかも判断できる定言命法的現存在はその時点で救われている。だが小悪に始終絡めとられている、例えば遠藤周作の『沈黙』に登場する重要人物であるキチジローの様な姑息な人達、或いはもっと本格的に残忍で凶悪な犯罪者をも彼は救われるべきだと考えた。寧ろそういった心の弱さが引き起こしている悪こそ救われるべきだという観念は親鸞等にも見られる思想である。

 だから女性で言えば大勢の男性へ身体を許してきた売春婦、或いは近寄ることさえ憚られると誰しもが感じてしまうハンセン氏病等の重病患者等と共に過ごす時間をこそ優先した。

 つまり内的な結束を集団や組織の善とするなら、イエス・キリストは明らかに協調性とか全体主義的な合理性からは悪の道を自らの善とした、と言うことができる。そしてその論理からはことごとく爪弾きにされていくあらゆる存在自体がアウトロー的な人達こそイエスにとって救われるべき人達であったのである。そしてそれはユダヤ人だけに限らず、周辺の全ての民族にも注がれるべき愛だったのだ。

 今現在世界中で最も信者数の多いのがキリスト教であるのは、そういったイエスの普遍的な慈愛の倫理を掲げているからであろう。

 イエスは「人間たちはどうして徴を求めるのだろう。」(マルコ、八ノ十二)、「見ずして信ずる人こそ幸なのに….(ヨハネ、二十ノ二十九)と遠藤周作も『イエスの生涯』で引用するこの言葉から何を訴えようとしたのだろうか?

 それは現象的に社会で顕在化されることしか信じないことへのイエスによる憂いではないだろうか?奇跡という目に見えるかたちしか求めないということの持つ人間の弱さ、愚かさへ感け、愛を失っていることへの愛惜である。だからイエスは自らの心に聴いて慈愛を実践せよと説くのである。

 それはまさにカントの定言命法とも通じるものである。つまり自らの判断で善を為せということなのだから。

尤も犯罪者を匿うことを自らの誠実性で否定する(『人倫のための形而上学の基礎付け』)部分ではカントはイエスと対立する。恐らくミシェル・アンリは法より愛を優先するという部分でイエスに通底するかも知れない。

つまり慈愛という倫理は内発的な必然的・自然的情動なのであり、それは集団全体の調和を重んじる社会や共同体では否定されるべき悪以外ではないのだ。だからイエスの示す責任とは慈愛の情動に殉じたものでなければいけないのだ。それは社会現象として一見平和が維持されて見える全体主義的な安定的な状態への肯定(社会人・国民の義務としての納税とか様々な行動的責任)とは全く異質のことである。イエスにとって示すことは内的な慈愛から出た愛の誠だからである。

従ってイエスと同じ行動をすれば今の日本では精神病院に強制的に隔離されるか、刑務所へ服役させられることだけは間違いない。

 だから現代社会はイエス的慈愛を悪として成立してきている。ただアメリカの様な基本的にキリスト教徒が最初に入植した国では、その社会全体の調和と個人の内在的な愛の情動との齟齬自体を対象化する命題だけは個人に委ねられている。

 つまり社会は個としての判断とか二人称的な愛の判断からすれば悪となり得る部分だけで成立しているが、社会の側からすれば個や二人称的な愛の優先は悪である。民主主義も公平の原理も全て個人の善や愛を権利としてだけ規定する。このことはヘーゲルの『法の哲学』で示されていることである。

 だから神対個の対話という観念からしかイエスの善行とは正当性を持ち得ない。高橋まつりさんの過労死を悪とするのはあくまで組織の論理からではなく、個と二人称的な愛の論理なのである。

 それが欠如し過ぎると全体主義へと社会は移行していってしまう。それこそが又イエスに拠れば一人一人の現存在はそこで弱さを実践してしまっているから救われるべき存在となるのだ。つまり悪は悪であればこそ善によって救われるべきである。だからそれは死刑制度等とは対極の思想だということとなる。従って法治国家的善とは対立するものなのである。

 そしてその理念だけを実践するならテロリズムさえ誘発しかねない性質を孕んだ思想でもある。だから現在キリスト教徒にとって脅威となっているイスラム教原理主義的なテロリズムは敬虔なイスラム教徒にとって脅威なのではなく(そのことで入国禁止させられるのだから、それも一つの脅威であるが)、あくまでキリスト教史的な意味での脅威なのだ。そして概ねアーリア系白人による世界統治というリアルに於いて、キリスト教が安全思想とされているだけで、もしそのキリスト教の観念だけをイエスの博愛と慈愛の倫理で実践するなら、全ての共同体的発想は否定されていってしまう。それは多くのアジア、とりわけ東南アジアの宗教思想から言えば危険なことでもあるのだ。

 一週間という発想もユダヤ教発のものだ(旧約聖書創世記から)し、その様に聖書世界によって世界は取り敢えず均衡を維持しているかに見えるが、世界にはユダヤ、キリスト教・イスラム教の一神教以外に多くの多神教(日本もそうだし、儒教や道教、仏教、ヒンドゥー教も基本的にそうだし、東南アジア一帯は一神教文化圏ではない)の占める文化圏があり、その発想に基づいた善という観念が支配しているからである。(つづき)

 

 付記 次回はイエスの思想とそれを体系づけた欧米哲学思想から解釈される善悪に就いて考えていこう。

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2017年3月18日 (土)

貴方は神に対する責任を果たしていると言えるか?

 NHKの大河ドラマとか見ているといつも思うのだが、日本史ではかなりの部分丼勘定的な裁定が幅を利かしている。それは殺し合いとか、要するに粛清とか革命とか謀反ということに於いては日本に限らずどの国でも古代から中世まではそうだったのだけれど、集団合議的な裁定でその都度の丼勘定が相互に幅を利かせているというのが日本史全体を通じての印象である。

 それは恐らく日本に観念としての神、そして神と個との対話というものが全く不在であり続けたからであろう。

 だが全ての日本人がそうだとは言い切れないけれど、もしかなりそういう丼勘定へ疑念とか懐疑的感情を抱いている市民がいるとすれば、きっと表向きは日本社会の調停的ことなかれ主義的な集団合議制的不文律に何とか合わせ、しかし心の中ではあたかも隠れキリシタンの様に信仰心は持っていて、その表に出している態度と、心の中とをはっきり分けたポーカーフェイス的な二重性をもって本音的な自己なりのメッセージは密かに誰にも言わずに生活していることだろう。

 つまりそれだけ日本では表ではそういった内面性を重んじるという宗教思想的な生き方が肯定されてなど決していないからである。

 私は自然科学的意味では神等居ないと考えている。だが心の中の対話を重視する意味では理神論者でもある。心の中の対話なくしてカントの言う定言命法は成り立ち得ない。

 だから自分で信じる信条とか信念とかを曲げて生きていきたくないし、自分で信じる信条とか信念とかは、私にとっては私に与えられた(その私に与えたものは神でも自然でもいい)ことを私なりに必死に応答して必死に具現化させることである。そして世間的な成功とか世人的成功へ全く頓着していると言い切れる程吹っ切れている訳では決してないけれど、そういったことを全てを差し置いて優先するつもりもない。又本当は皆そうであるに決まっているという風にも思っていない。事実世人的俗人性こそが全てであるという生き方や信条・信念の人もかなり多いと知っているからである。

 だから心の中の自己に与えられている何かへの応答ということは、世間的に皆はそういうものだけを求めているのだから、それだけが正しいと思うこととは本質的に違う。誰からも同意も共感も得られなくても、自分ではそれが正しいし、自分でも自分に共感し得ることだけを履行したいと思うことは、世の中が求めていることが正しいという意見とは全く違う。

 私にとってはその違いこそが重要なのである。そしてそれが神の求めに応じることであり、神への責任を果たすことだと思っているからだ。それは日本という国とか、祖先とか家族のために責任を果たすこととも違うのだ。

 私はイエス・キリストを信仰しているわけではない。しかしそういった信仰の全てを否定するわけでもない。でも特定のそういった人類史に於ける偉大な霊感者や預言者、宗教家の信条に共感や殉じているのでもない。要するにそういった自分以外の他者でロールモデルになる人に尊崇の念を捧げることも決して悪いことではないが、それが本論である訳ではないのだ。

 要するに私が信じられることだけが私にとっての神であり、それは世間の要求とかと多少重なっていれば、それはそれで勿論問題はないが、全く重なっていなくても、そちらの方を優先するということである。そのことで世間と衝突がないのなら、それは申し分ないが、仮に在ったとしても、そのことで自分が生活していけなくならない限り、極力世間からの求めより優先するということである。

 そして私にとっては日本国民としての義務よりずっとそちらの方が重要に思うのである。そして又そういう人は成功しているとか成功していないことと関係なく、凄く少ないと思うし、成功している人の中にもきっとそういう人は居るだろうし、まったく無名の人でもそういう人は居るだろうけれど、そういう人と出会うことで何かを得たいということでも全くないのである。

 生涯そういう自分なりに最も正しいと思えることに出会えない人生もきっと多々あるだろうが、そういう思いを一切抱かずに居るよりは、そういう風に生涯悩むことの方がずっと価値があると思える。

 私にとって自分にとって信じられる価値こそが神であり、そのことに対して責任さえ果たしておれば、それ以外のことが全て巧く行っていたとしても、それだけが欠けていることよりもずっと価値のあることだ、と思っているのである。

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懐かしいこととはただ覚えていることとは違う、でも

人にとって恐らく真に辛かったことと楽しくなかったこととは違う。

何故か?それは辛かったことでも、そのことで何かを乗り切った場合、懐かしさも後で込み上げてくるものだが、本質的に楽しくなかったこととは、後で考えればできればそういう局面・場面に遭遇しなければよかったという後悔の方が先立つので、決して懐かしくはならないからだ。懐かしいと思えるということは、懐かしく思い出せる心の余裕があるということなのだ。

だから辛かったことも楽しくなかったことも共に覚えていることであるが、懐かしいと思えることは避ければ避けられたとしか思えないことではなく、避けられなかったことの方が多いかも知れない。何故なら避けられなかったことの方は後悔が先に立つことがないからである。

勿論被災地で巨大地震とか津波に見舞われたことは避けられなかったことの中でも決して懐かしいとは言えないことであろう。だがそういう特別に受難的なことでない限り、避けられなかったこと(例えば極論すれば生まれてきたこともその一つであるけれど)の方が、避けるべきだった、そしてそれは確かにできた、と思えることよりは懐かしく思い出せる気がするのである。例えば旅に出て凄い集中豪雨に見舞われた、とかのことは。

 

 覚えているということだけだったら、辛かったことも楽しくなかったことも何でも覚えているものである。だが記憶されていることの全てが懐かしい訳では決してない。覚えているけれど思い出したくないことは忘れたいことでもある。それでも忘れることもやはりできない。そう都合よくは運ばない。

 懐かしいことは、もっとこうしておけば良かったという後々での後悔の思いが先立たない場合には、起きやすい想起の感情である。何故なら自分には落ち度がなかったのだし、そういう巡り合わせだったので仕方のないことだからである。そしてその仕方のないことでも被災して家族を失ったということではない限り、そしてそのことによって異様にその後の人生が苦境や絶望に陥れられたことではない限り、それは懐かしいと思い出しても可笑しくはないだろう。

 仮に巧く行かず失敗したことであっても、そのしたこと自体に後悔がない場合、或いは自分なりに全力を尽くしたとだけは思える場合には、それは中には懐かしいと思い出されることもあるに違いない。勿論余りにも酷い結末だったなら、そういうわけにもいかないだろうが。

 だから懐かしさとは思い出すことが比較的楽しいと思えることであるというのは一つの重要な条件である。

対し楽しくなかったし、できれば避けられたかも知れない惰性的判断に於いて成立していた過去の出来事とか、当時の日々とかは、懐かしいという気持ちとは異質である。それはしまったという後悔の思いの方が先立つわけだから、できれば、忘れることは決してできない(概して忘れられないこととは、決して懐かしいことばかりであるばかりか、悔しいとか失敗してしまったと自己責任を回想に於いて痛感し得ることでもある)のだけれど、思い出したくはないとしか思えないことである。

だから懐かしいと思える思い出が多い方が想起という現実に於いては幸福であろう。

しかし人は死ぬ前には懐かしいと思える思い出に浸るのかも知れないので(未だ直ぐ死ぬわけでないから分からないけれど)、思い出したくない過去の覚えていることが懐かしいことを押しのけて迫ってくる場合には、未だ直ぐ死ぬというわけでなく、何等かの改善を自己に施し、もっと巧くやれればいいと、自己を鼓舞することもできるし、要するに未来にはそういった悔しい過去よりはいいことが在り得るかも知れないという希望があるのかも知れない。

勿論悔しい思いだけに満たされた最期を遂げる場合もあるのだろうが。

 でも楽しくなかったことだし、できれば避けるべきだったかも知れないと切に思えてしまうことでさえ、その後悔によってその後にしたことで最終的に何かが巧く行けば、或いは必死に努力してそれなりの心の満足さえ得られているなら、その思い出したくないと思えたことさえ懐かしくなることもあるのだろうか?私はそういう風に思える程未だ人間ができていないからなのか、後悔してきたことさえ懐かしく思い出される程達観してもいないし、又長く生きてもいないのだけれど。

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時系列への体系的認識と言語Part1 人であることとないこと、人称と時制の即時的認識

🔷我々は過去だけが事実だと知っている。とすると事実とは記憶が作っていることとなる。つまり過去=事実とすることで逆に事実化され得ない現在(臨場)と未来(予定・計画・願望・切望等々の仮説的なマインド)を見出していると言える。

 

🔶重要なことは過去とそれが事実であり、事実としては語れない未来とを対比的に捉えられることによって時系列が体系的に把捉されているという一つの事態こそが言語を我々に所有させているところのことである、ということである。言語には必ず時制が伴われており、同時に主語や述語が含まれている。主語には人間であるなら人称が認識されており、そこでは必ず時制が介入し、物質や現象に対してもそれは同じである。だから時制以外に人称という人称をどう持てる様になるかということだけが謎である。

 

🔹ただ常に先にどうなるか定かでない不安自体が(強ち過去が未来を作っているだけでなく)過去を記憶として事実化させてもいるのだとしたら、物質や現象の方が人称を別のものとして認識させているとも言える。つまり過去が未来を生んでいると同時に未来(そのこと自体はこれからどうなるのだろうという不安や期待が生んでいる認識なのであるが)が過去を事実化させているとしたら、人であることへの認識が人ではないという認識、例えば道具であるとか自然とかその現象であるとか、植物であるとか動物であるとかを識別させているだけでなく、まず自分と同じではないそれらこそが自分と同じ人を認識させていることとなり、人であることと人ではないことは一対の即時的なことであるから、そのことと過去と未来の即時的な一対性とはやはり即時的な認識であるかも知れない。それらは個々バラバラに時々で発見されているわけではない、とも言い得る。

🔸時系列への体系的認識はこの即時性に彩られているなら、私と私ではない貴方と、私と貴方にとっての私達と私達ではないこととは、即時性に彩られ、前者の即時性と後者の即時性が同じ一つの何か識別し得ることに於いて即時的に理解されていると見た方が自然かも知れない。

 

 付記 人であることと人ではないことや、個々の自然や自然現象への理解も、それらを個物として識別し得ることから、当然それらへの記憶、~を観たとか~を観たいという認識が要るので、記憶こそが時系列認識だけでなくそれらの識別を生んでいると言えるし、~を観たと記憶しているからこそ、そしてそれが過去だったと知っているからこそ、それを未来にも又観たいと思えるわけである。

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2017年3月17日 (金)

過去時制への志向・死んだ感情の持つ意味とは何か?Part2

 

🔸過去時制は未来時制の不確実性を知るために供せられる。

 

🔶未来へは希望もあるが、不安もあり、不安を紛らわせるためにも過去の不動性を拠り所にする。

 

🔹未来への意志を過去の自己の行状との繋がりに於いて見定めたいのだ。過去の行状を無意味なものにしたくはないからでもある。その繋がりから次に何を為すべきかを考えるために過去を利用する。⇒因果的思考

 

🔷過去だけしか本質的に我々は未来のために参考にすることはできない、ということも我々は知っている。⇒過去だけが事実だからだ。対し現在(今)は事実化しつつある過程に今ある。未来は当然全く推測の域を出ない。

 

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2017年3月16日 (木)

ここ数年の間に特に定着した日本語の言い方から考える日本人の感情的な傾向に就いて

  

 ここ数年定着したものの言い方で最も頻繁に使われ定着したものは「真逆の・真逆な」であろう。以前なら「正反対の」と言っていたところを、どういう理由からかそう言うことが多くなってきた。だから年配者には抵抗を感じる人も多い言い方である。

 

 もう一つ挙げれば、「目力がある」という言い方である。この言い方も以前は全く使われていなかった。通常我々は今日この言い方をすることで意味することは「眼光が鋭い」と言ったし、今でもこの言い方は通じる。だがそれより「目力がある」という言い方を日本人は異様に好む様になってきた。

 

 「現代日本語で此処数年の間に定着した語彙から日本人を精神分析する」シリーズで粗方昨今の日本人のマインドに就いては述べたが、更に付け加えるなら、どこかでこういった言い方を使わないと他の人達から置いてけぼりを食らうと思えてしまう、つまりそういう皆が使う言い方を使わないことで協調性がないと見做されること自体を避けたいという気分が、昨今の日本人芸能人が多用する「出させて頂きました」等の誤った文法の使い方(何故なら「させる」とは使役であり、自己に対して使役を使用することが不自然だからである)をも含めて、同じ様に言わなければ四面楚歌になってしまうという強迫観念を誰もが持ってしまう、つまりそういう世相に今の日本人が感じているということなのだと思う。

 

 「目に力がある」とか「目に鋭さがある」と言ってもいいが、それを目力(me-di ka ra)と発音するところに意味をどうも感じているみたいに思える。

 

 「真逆の・真逆な」も(ma-gyaku no)と発音するところに意味を感じているっ様に思える。つまり濁音化することで或る固有の凄さを示そうとしているのである。

 

 「ですから」「そういうわけで」と言う文脈でも今の日本人は「なので」「なんで」と言うことが凄く多くなった。これも「で」に濁音が混入している。つまりどうも今の日本人の世相的エモーションには凄さを濁音にして示したいという気分があるに違いない。例えばそれ以外の言い方では「がっつり」と言うことが異様に多くなってきているが、これも以前までなら「がっちり」と言っていたことを、ち、と言う言い方の持つスムーズさに対して、つ、と繋げた時の詰まってしまっている感じ、つまり促音としての窮屈感が、やむにやまれぬ切迫感、それをしなければ深刻になってしまうぞというオブセッションを読み取ることができる。

 

 この様な一つの現れとしては、誰かに相槌を打ったり、同意をすかさず(すかさず示さなければ集団がノリを示せないので、すかさず合わせる必要がある)言ったりする場合に「ですよね。」と言う場合も、ここ数年異様に多くなっている。

 

 ここでも濁音が混入している。

 

 今の日本人は、恐らく対北朝鮮、対中国脅威が心的にかなり影響を与えているのだと思う。つまり或る種の集団的切迫感から同一の言い方をしなければ除け者にされるのではないかという相互の疑心暗鬼が増している、と言うこともできる。それだからこそ所謂同一の濁音が混入した言い方を皆が援用しがちだと言うことができる。

 

 だからこの種の同意を相互に確認する言い方が異様にメディア上でも日常生活でも援用されている世相とは、どこかで心的不安が倍増していると言うことはできる。そしてそこに或る連帯感を持ち得るのではないかという直観が日本人に働いているとしたら、ちょっと待てよ、そういう相互に合わせることだけでいいのだろうか、もっと自分なりの言い方を押し通してもいいのではないかという考えを持つ必要も時にはあるのではないだろうか?

 

 その様に私には切実に思えるのである。何故なら余りにも皆が一斉にそういう言い方を連鎖反応的にする様になる様を散見できているので、多少皆に即応的についていくことの不得意な私の様な人間は或る怯えを感じてしまうからである。

 

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過去時制への志向・死んだ感情の持つ意味とは何か?Part1

 過去時制に於いて何か言及することは形式的には事後報告とされるけれど、その事後報告の持つ意味は死んだ感情と言える。死んだ感情とは過去とは変えられないということへの諦念だからである。

 前の記事で触れたこのことだけを今回は掘り下げてみよう。

 過去に於いて今は未来であった。だがいざ過去に於ける未来が今になってしまってみれば、過去に於ける現在・今に対する願いは幾分達成されていたとしても、全く今からすればあの時には思いもしなかった思い通りに行かない状況が支配している。つまり常に未来は何かしらの今とは違っているという楽観性を与えているが、それが実現してしまうと、今度は思ったとおりには全く行っていないということが了解されるが、同時に別の意味では意外と憂慮してきたことは巧く行っているということもあり得る。

 

 つまり予想通りに決して行かなさ自体から我々にとっての常に時の感情はその都度移ろい行くので、無常観、つまりいつも一定に何かが保たれているということは在り得ないということだけをまざまざと見せつけられることそのことが時間の移り行きだということとなる。

 

 過去時制で何かを語ることとは、事後報告から何も過去から今までの間にその言及される過去自体は変えられていないという空しさの表明でもあるし、そういった感慨とは思った通りには全てが展開しないということだけを我々に知らしめることである。だからそれは未来時制的に語る時の展望の或る種の緩さとは対極の想起に固有の死んだ感情と言える。だがこの死んだ感情は未来展望の持つ希望・願望の楽観性とは全く異質の決定的にリアルな、変えられなさの持つ強さがある。だから死者以上に強力な存在はないということとも相通じるものが過去時制に於ける言及にはある。

 

  

 死んだ感情はだから否定的ニュアンスのものであるばかりではない。

 

 つまり未来は今の在り方への自己投企的な意志によって如何様にも変えられ得る。だが過去はそうではない。明日東京へ行くか大阪へ行くかを決定することは今ならできるが、明後日にはそれはできない。既に明後日では明日どこかへ行ってしまっているという過去事実が与えられるだけである。

 

 だから未来を語る時程緩く(それは未だ全て実現されていないので想像の域を出ないからであるが)、過去を語る時程締め付けられている。束縛されている。だから逆に言えば忘却とはこの過去時制への言及に固有の呪縛から解放されたいという欲求が作り出している、つまり生理的にそう作用することによって我々は呪縛への抵抗的感情を幾分は緩めている、忘れている間だけでもそのきつさから逃れられているということである。締め付けられているという感情を反らすことができるということである。

 

 死んだ感情とは変えられない事実への直視が生んでいる。だから生きた感情とは今に於いて意志次第で何とか明日を自分の思い通りに少なくとも自己行動に於いては制御し得る可能性をフルに活用していることなのである。

 

  

 だから未来展望は今それを直ぐ実践していない内は緩い。しかしやがて明日は来る。だからその時に今思い描いている様に行動すれば、それはその時過去の決意に呪縛されていることとなる。しかしその時になってみなければその時にとって昨日考え、そうしようと意志した通りに行動するとは限らない。突如予定変更することもあり得る。つまりこの気まぐれを可能にするものこそ現在、つまり今であると言うこともできる。

 

(つづき)

 

 

 

 

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2017年3月15日 (水)

名詞+助詞・前置詞+名詞、副詞から考えるPart1明日・次に・今度・後で

本シリーズは時間的な表現を日常的に我々が使用する時の慣用句(idiom)を中心に考えていってみようと思う。

 日本語では副詞か名詞+助詞となり、英語では前置詞+名詞となることが多いと思われるが、今回は昨日に対して明日、という未来に向けた慣用句を考えてみたい。

 「明日、それはすることにしようよ。」そう言う場合、それまでしてきたことを一旦中断して続きは明日しようという提案となる。対して「次にそれをすることにしようよ。」となると、今日それまでしてきたことと違う何かを次にしようという提案となる。だが曲者は「今度それをすることにしようよ。」である。

 これは「次に」と同じ意味でも使えるが、今日ではなくもっと後の違う日にしようという提案にもなり、その意味ではかなり使える未来時制の範囲は広い。

 ニュアンス的には「次に」は即物的なそれまでからの継続で、少し違う内容のことをする意味合いとなるが、「今度」となると、それをする時までに経る時間の長さをある程度感じさせる言い方となる。だから同じ今日やろうという意味では「後で、それをしようよ。」となるし、この場合には必ず同じ日とか、深夜であるなら日にちを跨いでも、あくまで継続した意識に於いて使うのが慣用だと言っていい。

 英語では明日(に)、はtomorrowとただ後に付け加えるだけでいいし、次に、もnextと後に付け加えるだけでいい。今度、はin a next chanceon another occasionanother dayとなる。後では、after a few whileとなる。

 未来時制的に付け加える場合、あくまで未来時制に於いて何かすることの方を強調する場合と、少し時間をおいて後でと言う場合とでは微妙にニュアンスが異なることは言うまでもない。つまり未来時制に於いてすること自体への着目と、次にすることは分かっているが、それまで少し時間を置こうということへの着目とでは、やはり意識の持ち方は異質である。

 この総体的に副詞句的機能の慣用句は、意識の持ち方を規定する意味では重要である。文章全体の志向性を決定づけるからである。

 志向性とは意識の向かう先である。文章の志向性は第一義的には動詞だが、副詞句が伝達事実の様相を示す。主語(名詞)に対して動詞が行為を軸として示す訳だが、動詞が関わる目的格・目的語(名詞)という基本的な文章構造に対して、その全体的な事実伝達を伝達する話者・記述者にとっての意識の在り方、つまり文章メッセンジャーの伝達されるべき事実への向かい合いの様相こそ副詞句が担う。

 未来時制へ供せられる副詞句は決定的に過去時制の説明性と異質である。何故なら過去時制での副詞句はあくまで既にしてしまったこと、為されてしまっていることの報告であるが(報告は概して過去時制であり、未来に何かすることが決められていることでも、その決定は過去に於いてである)、未来時制では今の話者・記述者の意志表明、願望、提案、命令等の為されるべき行為、実現されるべき事態への投企的意味合いがあるからである。

 過去時制的報告はそういった投企的性格はない。それは感情移入することではないからだ。この点で未来時制の副詞句の持つ感情移入的意味合いは大きい。

 それでもハイデガーの脱自(ekstatisch)という意識も未来時制のメッセージ伝達にはある。つまり過去の事後報告という事態が成立し得るからこそ、未来の未定的性格に於いて、意志表明、願望、提案、命令等の意識の在り方が決定され得るからである。

 その意味では過去事実事後報告の持つ死んだ感情に対する未来時制的意識の向き合い方の持つ感情移入性の対極的であることに於いてこそ、時間は過去へは決して遡行しないということ、そしてだからこそ常に意識は未来へと開かれるかたちでしか展開されないということを示している様に思われる。

 

 付記 「明日しようよ」より「明日にしようよ」の方が今日はもう止めようというニュアンスだけは強い。(に)にはその後に続くことへ特定的にしておきながら、それ以外ではないと強調して言うニュアンスがある。「明日しようよ」は即物的な物言いである。

 

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2017年3月14日 (火)

<悪>論 Part2 責任の持つ責任が及ばない部外者への悪

 信仰とは現実社会での人間関係、つまり集団(組織、法人、共同体他)の中で機能するコミュニケーションとその是とされるリアルとは必ず食い違っている。何故なら常に資本主義社会とは経済的な個人の力の行使を正当とすることからしか自由が保証されていない。つまり自由主義=資本主義の原点とは個による責任ということだからである。個による責任では必ず個にとって信用のできる安全で無難な選択というものが用意されている。しかしそれは自分と自分が愛する者達だけを守ればいいのであり、それ以上の責任を一切負わない。と言うことはつまり自由主義=資本主義の責任とは個にとっては限定的でなければならず、それ以上の責任は実質的にはどの個人にもない。だが政治はそれを担うという触れ込みで成立している。マスコミ・マスメディアはそこで報じられることは適切な情報であり、適切な事実への認識であると思わせる媒体なのである。

 だから政治に対してもマスコミ・マスメディアに対しても我々どんな個も期待と同時に失望とか落胆というものも常に抱く。

 ある組織に所属している者には最高責任者以外の全ての成員が必ず自分の上司を持っている。その上司についていけば大丈夫と判断すれば、その成員はその上司に従うが、その上司についていったら皆で自滅すると分かっていたら、その上司を叩き潰すと画策する様になるだろう。この点に於いてローマ元老院であれイエスの弟子達であれ変わりない。つまり政治であれ宗教教団であれ、その様な自己責任で個が成立している形態では必ず個はどの個も自分の個とそれを巡る家族や仲間を守る為には、通常であるなら上司に逆らえない場合でも必ずそれより自己と自己を取り巻く自己にとって責任の及ぶ範囲の大切なものを守る為には上司も裏切る。

 それが世界史でもあったし日本史でもあった様々な歴史的出来事、事件を作ってきた基礎的真実である。

 中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺した(大化の改新)もそうであれば織田信長を明智光秀が暗殺した(本能寺の変)もそうであるし、大老井伊直弼を水戸藩脱藩者が主に暗殺した(桜田門外の変)もそうであるし、北一輝の思想的背景を持ち野中四郎陸軍歩兵大尉他八名による高橋是清蔵相他の政治家を暗殺した(2.26事件)もそうである。

 政治であれ、その政治へ不満を抱く者達の心の拠り所である宗教教団であれ、株主・経営者他の資本家と従業員で構成させる会社組織であれ何でもあれ、この個が一個人として自己裁量で参画している全ての集団内では、個の自己責任に於いて下剋上も行われ、攻撃や撲滅的意図の行動が正当化される。

 最初に信仰は社会そのものの動向と食い違っていると言ったが、それは社会成員のどの個も内面を持っており、その内面は内なる信念体系と共に、実生活上での自己保守的な選択を正当化させる責任とが折り重なっていて、宗教教団が本来社会動向への心の側からの齟齬と不満とが結びついて結束していても、その集団自体の運営では政治と全く同じ集団の力学構造を持ってしまう以上、どんな宗教でも対立と抗争の歴史に血塗られてきているのである。

 メキシコの安価な労働力として期待されている労働者にとってみれば本国アメリカ人へは高い給与を支払わなければいけない経営者がメキシコ人を従業員として大勢雇用することは好都合だし、感謝の念を持つだろう。しかしアメリカ国内でその安価な労働力で安価な物価で大量に売られる商品を買うアメリカ人市民のおかげで、同じエリアで昔から小売商をしていた人達にとってみれば、その安価なスーパーマーケットの巨大チェーン店の経営者は悪魔に思えるだろう。安くどんな品物でも買えることで地域の一般的な市民は恩恵を被っていたとしても、その同一エリアで個人で商売しようと思う人達にとって、その一般市民にとって便利だと感謝する巨大スーパーチェーン店の経営者は悪魔になってしまう。 

 だから必然的に責任とは必ず部外者を作ってしまうということだ。責任が及ぶ範囲は上の話だと当然安い労働力で膨大な量を生産している安い商品を売る経営者の側からすれば、自分達の供給する品物を喜んで買ってくれる消費者への責任だけであり、その売買で消費者を奪われた小売商に対しては何ら責任を果たす義務はないのだ。

 宗教でさえ同じことは言える。心の拠り所で成立している集団も人数が増えれば組織化されざるを得ない。そういった組織が結成される以前のイエス・キリストにとっての使徒達の間にあってさえ、イエスへの疑心暗鬼も渦巻き、最後にイエスを裏切り密告するイオカリステのユダ以外に最後まで行動を共にした使徒達さえ完全に人心が一致していたわけではないのだ。

 先程日本史で述べた暗殺事件に於いてはそれを履行した人(達)にとってその暗殺される対象である人物が行う政治的手腕や責任に対して、自分(達)は炙れたと感じたからこそ決起したのである。つまり今回の結論は責任とはその責任によって恩恵を被ると自覚できる人達によって維持されているが、その責任から部外者的立場に追いやられていると感じた人達があれば、その責任が本来全うすべき何らの効力を発揮していないという判断に於いて責任者の名に値しないという行動が、正規のことであれ、暗殺の様な非正規のことであれ成立するということであり、それは要するに責任とは責任の及ぶ範囲内ではどんなに最高善であっても、その責任が及ばない部外者にとっては悪以外のことではない、無関係ということでは済まされない(外国であれば無関係で済まされる場合があってさえ)ということなのである。

 次回はイエス・キリストの放浪の中での失意等から考えてみる。

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2017年3月13日 (月)

<悪>論 Part1 発動するタイミングの問題

 「人間の本性が悪である証拠とは?」シリーズは本ブログでかなり好評である。それは悪に皆関心があるからだし、事実悪の多少の履行なしに人生は生きていけない。つまりそれが社会で生活するということだからだ。そこで本シリーズを立ち上げようと思う。悪そのものの力学的構造を解析してみようと思うからだ。

 完全善である場合、その現存在は死ぬしかない。楽しみの全てを犠牲にするしかないから、それに耐えられず自殺するしかなくなるからだ。

 楽しいことは全て小悪である。大悪を阻止するために必要悪として全ての娯楽がある。賭博も余りひどくなると犯罪めくが、それでも賭博的行為は社会の人生の全ての局面で必ず部分的には介入する。賭博的意識のゼロの人生などあり得ない。

 自らで自分の理想が人民全ての理想として実現し得ると確信し、その履行のためには他者を犠牲にしても、それは許されるという、それ自体は誰しもが歪だと思える様な正当化を本当に実現させてしまい、それを真実に正義として多くの人民から思われる様に持っていく者を革命家、並びに独裁者と呼んでいいであろう。

中大兄皇子(天智天皇)、織田信長、豊臣秀吉は部分的には全員それを実践したし、吉田松陰もその思想内容はそういうことを示している。

 現代ではマスメディアがそれを履行している。メディアで多く報道されることはどんなことでも、それが一番大勢の人達にとって関心があり、問題としなければいけないと思わせられているが、全てメディアの思惑である。メディアはメディアにとって都合の悪いことは決して報道しない。これを悪と呼ばずして何と呼ぼう。

 アメリカのシリコンヴァレー発の全てのIT系の起業家、実業家の全て、金融業界や投資ビジネスの人達も悪以外ではない。それが世界をいい意味で変える、と一般市民に思わせ、実際に成功した資本力でそれを実践してきているからだ。

 ウォルマートストアでは安くどんな品物も扱うので、地域社会ではどこも必然的にあらゆる小売商が失業する。何故ならそこで買う方が誰しも安くて便利だからである。皆から求められていることへのサーヴィスを提供する者のみが、その担い手がすることは正しいと思わせられる。そういった実業では安価な労働力の従業員をアメリカ国外で獲得しているから、どんな小売商も太刀打ちできないのだ。

 PCが粗方売れて一般市民の所有が定着すると、今度は各種サーヴィスとかソフトのインストールの仕方等を伝授するサーヴィスが有料となって、PCが以前程売れなくなってきた穴埋めをしている。いずれそのサーヴィス自体も徐々に競争で安価な競争となり、それを過ぎれば、もっと便利なサーヴィスが安価で供給され、それまで有料だったサーヴィスは無料となるだろう。

 そして一部のそういった業界のウォルマートストア的存在だけが独占的に資本力を獲得していくのだ。

 このかわりばんこに新たなサーヴィスが供給される時、それ以前までのサーヴィスより新しいサーヴィスの方がずっと便利で役に立つと思わせることを考えることは、それ自体はそれまでのサーヴィスを滅ぼすが、そういった古いサーヴィスが有料であることを望んでいないのは一般市民なのだから、必然的に古い無思考的なビジネスを終わらせる悪とは、一般市民の大勢が願っている便利さなのである。

 だからそれはそのことで齎される恩恵という善がある以上、古い体制を崩壊させる意味でテロ的な行為であっても相殺されて、小悪化されざるを得ない。

 だがその方向づけだけが正しいわけでなく、他の方向づけも常に可能であった筈なのである。しかしその時に古い体制を崩壊させる力はその古い体制にとってテロ的脅威だった人達だけだったのである。

 その意味では変革者とは皆須らく実行者である。理念を抱いているだけではダメなのである。だから実行者とは投資ビジネスと同じでいつどんな時期とか状況の時にその行為を発動させるかということなのである。それは他のサーヴィスより自分達が提供するサーヴィスの方が便利だと思わせる技術なのである。それはそのサーヴィスを提供し始めるタイミングの問題でもあるのである。(つづき)

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2017年3月12日 (日)

人生のメモ(人と哲学・文学・宗教他)Part2

🔸何かにしがみ付く生き方に意味を感じない。そしてそういう人が少なくない。世人として、それだけなら、それは結局過去の慣例、過去の決意、過去の価値評定や価値基準から一歩も進展していないこと、そして一切の変化をきたしていないこと、つまり惰性的に固定化された価値基準にだけ随順していることに外ならない。人は常に変化し続けられるし、要するに当意即妙に予め決めておいたことを覆すことも、諦めることも、もっと違ったその時点で適した別の選択や決断へと変更することができる筈なのだ。なのにそれをせず一度決めたことや、それまで慣例化してきていることにのみ拘るのは全く無意味である。

🔸~という生き方だけが正しいという観念に何でも過去に固執する人は固着しやすい。例えば根無し草は良くないという価値認識もその一つだ。いつもそうであることは良くないこともあり得るが、根無し草だからこそ自由にいつでもどこにでも飛んでいけるということもあり得る。違う選択肢とは全ての瞬間であり得る。全て予定通りに行ったとして何が達成されたというのだろう?

🔸何かにしがみ付く生き方とは、何かに拘り、固執し、執着し、取りつかれ、要するに未来志向でなく過去志向だということだ。一度嵌った枠から一歩も出ようとしない臆病で保守的なだけの生き方である。そういう生き方の人は決定的にいつも普通ということがある。だが一体普通の生き方とは何だろう?そんな決められた普通ということがあり得るのだろうか?その常識や通念とは言ってみれば幻想である。かなり変化の激しい時代に生き抜くには常に予定変更と、弛まぬ改良や軌道修正や調整、現時点でのそれまでの行程の反省が必要なのである。

🔸リアルとして我々の時間、我々の人生は過去へ遡行することができない。昨日はもう戻ってこない。着々と常に明日へ向けて時間は進行し、後戻りすることは決してない。だから全ての過去を捨てて生きていくしかない。これは事実的に決定的だ。だからその超越的事実に対して空しさを感じ取った時だけ、我々は過去志向になりがちだ。つまり時が止まって欲しいと暗に望むのだ。だが実際それは可能ではない。だからそういった想像は想像の範囲内でのみ意味があり、事実的に実現し得ることとして考えることに意味はない。

🔸死を必ず迎える我々は実は、年齢的に長く生きれば生きる程、無限小的なその都度の判断に於ける瞬間的な適切性とか、当意即妙であることの意味を見出していく。この決定的な有限性にこそ、変更に変更を重ねることの意味が見出される。時間が誰しも無限に続くのなら、一度決めたことのとおりに全てやっていったらいい。しかし実際はそうでない。だからこそあらゆる仮設的決定事項外の可能性を捨てない様にして生きていくべきなのである。

🔸過去は未来を今より何等かの進展を齎す様な仕方でのみ利用し、活用すべきであり、それは過去の読み替え、過去の反省的な認識による未来のための素材としてのみ認識すべきである。それが社会とか世間とかへの責任ではなく(勿論それは一定程度誰しも義務として抱えているのだけれど)、本質的な内的な自らの神(内なる神とは言ってみれば自分自身での最も信頼できること、最も信じられる何かの在り方であり、宗教教義的なこととか一神教的なことでなくてもいい。勿論それらであってもいい)との出会いを果たすこと、つまり内なる神への責任を果たすことであり、それが実現されることこそ世人的ではない哲学的現存在の生き方であり、在り方ではないだろうか?そしてそういう実現を、責任を果たす生き方は少ない。だからこそ自己なりに求めていくべきであろう。

 

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2017年3月11日 (土)

2011年3月11日のあの日、そしてそこから学べることに就いて

 あの東日本大震災が起きた日に私は箱根にあるポーラ美術館でアンリ・ルソー展を鑑賞した後、芦ノ湖で遊覧船に乗り、元箱根発着所に着いて、これから小涌谷のユネッサンの奥に位置する旅館へバスで赴こうとしているその時大きな揺れに見舞われた。かなり長くその揺れは続いた。だが何とかバスは発車し旅館へ到着したが、着くなり早々テレビでは東北地方の惨状を一時も休まず報道していた。NHKも民放もそれ一色だった。

 旅館では大きな揺れを感知して自然温泉が自動ストップしてしまい入ることができず、仕方ないから一般の浴場だけは開放されていたので、その時日曜日で特別の温泉割引の利用することを断念し、そちらに入り、終夜何度となく(6,7回は在ったと思う)余震に戦々恐々だったことを、よく覚えている。

 翌日は月曜日だったが、なるたけ早く埼玉県の自宅まで帰ろうと思った。ああいう時は帰宅困難になることは目に見えているからである。それでも私の場合は、東名高速も何とか時間通りに新宿迄辿り着け、そこから西武新宿線で一時間程で帰宅した。その当時私はそれまで使っていたテレビがダメになっていて新しいテレビを買う前だったので一番報道が見たい時に殆ど震災の報道を観ていない。近所の中華料理店に昼食べに行った時だけ、そういう報道を目にしたというていたらくだった。

 やがて計画停電が何度となくその年は実施され、震災当日から数か月は米等さえどこかで買い占めておかなければ危ないという状況も続いた。

 深夜かなり煌々と光り輝いていた歓楽街が全く暗く沈んでいるという有様は自分の住む町に越してきて27年経つが、あの時が初めてだったし、そういうことに関して通常どおりになってからも二度と似た様な状況はなかった。

 私は幸い東京都心に通勤している者ではなかったので、帰宅困難という状況に見舞われることはなかった。しかしかなり長期に渡って色々な意味で不便を首都圏の生活に支障をきたしていたことだけはよく覚えている。当然のことながら福島第一原発倒壊事故の煽りを食らった事態であった。

 そういった異常事態を生まれて初めて経験したということがまず思い出される状況であったが、あの震災から丁度6年経ってその間に震災に直接被災した人達大勢の中でも幾つかの立場の違いを生じさせていたことは色々な報道からもだし、一昨年3月初めて福島第一原発近辺の帰宅困難区域から宮城県北上してから帰宅した旅と、昨年の4月訪れた宮城県から岩手県へと北上した旅とでよく分かった。

 まず自分以外全ての家族・親族を失った人達も大勢居たし、家族は助かったけれど家を失った人達が居た。家が助かっても仕事をそれまでの様に続けていけない人達(例えば福島県の酪農家とか)も居た。

 致し方なく故郷と就労してきた土地を離れていった人達も居たし、ずっと地元にとどまった人達も居た。

 かなり重要な違いはそれまでの仕事を続けていけなかった人達と、その侭続けていけた人達との差がついたことだった。それは昨年石巻市に訪れた時まざまざと地元の人達から聞かされた。

 それでも一つの大きな救いは自分自身は自分以外の家族全員を失った人でも(勿論それでも尚居住・就労地自体から離れざるを得なかった人達も大勢居るだろうが)何とかそれまでの土地に家を失っても失わなくてもとどまっていられた人達の中でも、自分以外の同郷の人達が復興に奮闘する姿に鼓舞されて、未成年で両親を失ってしまった様な若い世代の人達の未来と幸福を願って一致団結したり、或いは自分が不幸に見舞われても、何とか家族全員が助かった人達のあの時以降の職場復帰や幸福を願って協力してりしてきた人達も大勢居るということだった。

 我々はあの時以来そういった無私の心を一つにする様な人間の理性とか気高さを感じることができたのだ。どんなに自分自身が不幸でも、自分の周囲の他者全てが自分の様に不幸であるよりは、何人かでも幸福であり続けられるなら、そちらの方を願うという心理が人にはある。それは自分自身の直接の幸福ではないが、人の不幸は見たくないし、中でも少ない数であってさえ自分とは違って凄く幸福になっていける人達が居るのであるなら、全ての人達が不幸であるよりはずっと幸福だという気持ちは人間にはあるのだ。

 このことは太平洋戦争で敗戦を迎えた時の日本人の気持ちでも同じことがあったであろう。

 勿論青森県に最後に訪れた昨年の旅で、青森県から岩手県に親族の下を訪ねてきた人が、八戸近辺でも亡くなったり、仕事ができなくなったり、家屋が倒壊した人達も居たのに、政府等の助成は完全に福島、宮城、岩手の方に偏っていたことがとても辛かったと告白した、という話も伺った。つまり復興でも場所によっては後回しにされた区域もあったのである。

 それでも自己中心的なことだけを言い続けなかった人達の方がこの国では多かったし、その部分では日本人のあの東日本大震災の時の態度は適切なものだったと思う。

 仮設住宅も籤で選ばれ、何とかそれまでどおり地元で暮らしてこられた人達も居るが、それに漏れて何年も地元に戻れず遠く離れ生活してこなければいけなかった人達も大勢居た。仮設店舗で店を持てる人達(それも抽選であったので)とそうでない人達も居た。つまり全てが決して平等ではない、運不運の格差が生じたということが震災後の最もシヴィアなリアルだったのである。

 にも関わらずそれ程不平を言わず、復興全体へと協力する姿勢の人達の方が多かったということは称えるべきことであるし、人間の気高さを私は感じた。

 昨今かなり大きな報道対象となった被災地出身の生徒が首都圏でいじめに遭ってきたことはとても大きなショックを私も受けた。

 そこに、つまりいじめをする被災地の人達の気持ちを理解できない生徒だけでなく教諭も居たということも、大きなショックだった。

 しかし恐らくいじめを受けた人達、生徒もそうだし、その親達も、恐らくずっと地元から離れて生活していかなければいけないので、今住んでいるエリアの人達を恨むということはないに違いない。つまり彼等は自分が不幸のどん底に陥ったからこそ、自分達の逆境を差別すらする不届きな人達をさえ、許すという機会を与えられたのである。このことは人間理性と倫理的な意味からも、宗教信仰心的な意味からも、極めて重要である。

 つまり復興へ向けて地元民だったからこそ協力するということと、被災地民ではなかったけれど、同胞だから、そして国土の一部だから協力するということ、そして長年住み慣れた土地を離れて生活していかなければいけなくなった人達も又長く住み、愛する家族がかつては居たその故郷が復興することを共に願い、何等かのかたちで協力するということの中に、やはり極めて大切な人間の心の尊さがあるのではないだろうか?

 そしてそういった尊さとか思想信条の個人差を超えた何かが、やはり厳然と存在するのだ、ということを私達全てへ教えてくれた、という意味であの東日本大震災をあの日、日本が経験したということは、私達日本人は勿論であるが、世界中の、つまり人類全体にとっても大きな意味を持つのではないだろうか?

 私は再度被災地へ、今年は二度に分けて(最初は福島・宮城県、二度目は岩手県と青森県)訪れる予定であるが、その時に又その思いを新たにするだろうと今から想像されるのである。

 

 付記 私はこの国で昨年の熊本地震やそれより前に起こった広島の土砂崩落災害等で被災した人達を含めた被災者の中から、とりわけその若い世代で大きな家族・親族の犠牲を経験された方の中から、真に偉大な思想、それは専門性とか学術的なことだけにとどまらない人間性(humanism)のかけがえのない価値を見据える人材が輩出するに違いないと、確信する。日本の未来はいじめを受けた人達を含めたそういった受難を経た人達にかかっていると言ってさえいい。

 

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2017年3月10日 (金)

遺産としての言葉からの強迫、でも生きよ!

 

あらゆる言葉の試みが楽しい時代があった。

 

でも全ての言葉の試みが永遠に、と言っていい程保存され閲覧できること自体が、全てを繰り返しに思わせてしまう。

 

言葉を綴ること、言葉を発することが却って全ての自由を奪うことになるから。

 

でも全てから縛られて雁字搦めになりたい自由もある。

 

古代から、中世から、近世から、近代から、前世紀から一瞬にして言葉が送られてくる。

 

それは贈り物でもあるけれど、枷でも罠でもある。

 

 

 

言葉の呪い、呪い、呪い。

 

言葉の怨念、怨念、怨念。

 

言葉が伝えられることが悪魔の囁きに聞こえる。

 

言葉の意味が伝わってしまうことの恩寵は、同時に自らの首を締め付けることでもある。

 

 

 

 

 

普通って何だ?

 

正しいって何だ?

 

それらへ向けて直すって何だ?

 

全ての現存在が自らの保守の為だけの態度と言葉で武装する。

 

 

 

何で取り乱してはいけないんだろう?

 

何で泣き喚いてはいけないんだろう?

 

生きるから言葉が要るのだ。

 

生きないで保守する為だけの言葉が言葉を死なせる。

 

言葉を生かすには、生きることを強迫から解き放つことだけ。

 

 

 

空間の広がりの中、澄み切った大気の中に静かに佇んでいる時だけ聴こえてくる言葉がある。

 

心の中に突然浮かび上がってくる言葉がある。

 

その時のことを思い出して自室で、何処か自宅以外の別の建物の屋内でだけ聴こえる、浮かび上がる言葉がある。

 

その時にだけ仄浮かぶ特別の言葉。

 

それに伴う特別の感情。

 

感情の記憶と言葉の記憶って

 

どう関係しているんだろう?

 

きっと何処かでは繋がっている。

 

言葉が感情を、感情が言葉を呼ぶ。

 

空の彼方へと言葉が飛んでゆく。

 

心の中の、脳の中の言葉が駆け巡るスピードと、空へ言葉が駆け巡るスピードが競い合う。

 

 

 

又あの日がやってくる。

 

あらゆる人々の喜びや悲しみを一瞬にして飲み込み、流し去った地の強烈な振動と、鉄をも曲げてしまう波とによって全てが変わったあの日が。

 

 

 

それでも自然の脅威は、私達の心と私達の言葉に換えることを無くすことはできなかった。

 

果てないと思える程開けた空間の圧倒的な広がりも、あらゆる自然の天変地異も、僕達から心と言葉の連なりと、その営みを奪うことはできなかった。

 

 

 

言葉だけ見ていると、古代から、中世から、近世から、前世紀から、あらゆる文字列を通して送られてくる。

 

遺産としての言葉からの強迫。でも生きよ!

 

どんな言葉も文字を通して生きている私達にだけ伝えられる。生きていることの中にだけ言葉がある。

2017. 3. 10

 

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2017年3月 9日 (木)

マイナーな表現が正統である理由

 世界は真実や正義や正しさで動いているわけではない。寧ろ小さな悪だけで動いていると言っていい。もし世界に一切の悪がなければ社会も運営されていなければ人間は生活もきっとできない。

 勿論悪だけで動いているわけではなく、小さな悪には皆が目を瞑り、大きな悪を発生させない様にしているだけである。大きな悪は当然モーゼの十戒で示されている七つの大罪とかである。暴食、色欲、強欲、憤怒、怠惰、傲慢、嫉妬。キリスト教モラルはこのグレゴリオス一世の定義に精神的に呪縛されてきている。

 だがよく考えると現代人はこの全てを履行してきている。どんなものでも人間は食べるし、暴飲暴食も好きだし、色欲も益々現代人は盛んである。切れやすい人は電波がそこら中飛び交っている現代社会ではかなり多くなっている。昨今のヘイトスピーチ的言動の全てもそうであろう。怠惰なのは惰性的な集団的な人間関係や相互の利益供与的な組織同士の癒着、社会的地位の高い人の驕り、自分より出世したりする人達、裕福な人達への嫉妬。

 この七つの大罪の全てを現代人は実現させているし、社会全体もそれを前提としてあらゆる娯楽、賭博等もそうだし、行われている。

 その点では純文学という語彙そのものが一種の幻想なのであり、因みにこういった定義の仕方は日本独特であり、文学に純粋も不純もないと欧米では思われているだろう。明治期の文豪達から引き継がれたある気負いが純文学という語彙には漲っているし、それは万葉集以来の和歌の伝統も関係しているだろう。それ以降の様々な文化に於ける、とりわけ現代社会のサブカルチャーから影響を受けているものを大衆文学とか呼ぶ場合もあるし、直木賞はそういったスピリットのものと一応されている。

 小説の場合は18世紀のフランスから世界的に近代文学の代表的形式として育まれてきた。スタンダールやバルザック達の後衛として現代の小説家は位置している。

 それ以後世界史的に鉄道や情報網が拡充され、その経済的な豊かさ、産業革命以降の市民生活の変化、とりわけ科学工業技術の進化に伴う都市文化等の興隆により、推理小説等が英国発で世界的に広まり、それ以外でもSFとかミステリーとかホラーとか、所謂マイナー文学が一つの流れと伝統を作ってきた。その中からアニメ映画やゲームソフトの様な内容の娯楽が生み出されてきたと言ってもいい。

 要するにマイナーな発想のものこそが新しい表現メディアを作ってきたと言えるのだ。そして社会が性悪説的に運営されてきている、倫理的な正しさとか真理的なテロスとかで社会が運営されているわけではない、つまり資本主義も自由主義もそういう題目が仮にあったとしても、あくまでそれは題目にしか過ぎず、人は恋愛も結婚も清く正しい人に対してするのではなく、あくまで自分の好みの相手を選ぶのであり、就く職業も長期間耐えられる仕事を選んでいるのである。

 太古から真理に殉教する様な人はソクラテスの様な最期を遂げたし、愛と倫理的な正しさだけを貫いた人はイエス・キリストの様な最期を遂げたのである。そして凡庸で全てに正しさだけで生きていこう等と思いもしない人達だけがのおのおと生きてきた、それが人類史である。偉大なる清らかさや慈愛だけで生涯を通そうとした人達は何等かのかたちで社会の生贄となってきたのである。

 だから全ての娯楽は、これまでたまたま文学のことを述べたけれど、スポーツであれパチンコの様な実質的な公営ギャンブルをも含めた全ての競馬・競輪・競艇等の賭博娯楽は、小悪を認める形で、大悪を発展させまいという人類史的な一種のプリヴェンション的措置なのである。

 映画ではアクションやヴァイオレンスを描写するものを観てすかっとした気持ちで又仕事へ向かう様に人類はしてきているのである。

 だから現代社会では小説よりはずっと文学的純粋さを維持してきている詩は本来は歌とそう変わりない在り方だったのだけれど(日本では歌会等でメロディや抑揚をつけて短歌を読み上げてきているけれど)、今ではすっかり明治期以降の文豪の気負いから純文学的になり過ぎてしまい、娯楽から学術的な雰囲気を纏っているけれど、本来は言葉遊びなのである。そしていい詩とは常に反逆的な精神なのである。それこそ小悪を認め、大悪を阻止する様な人類の暗黙の配慮が育んできたものなのである。遊びとか娯楽とかの精神のものであったのだ。

 政治学とか経済学とかは実際に実践するには政治的改革や革命を要すものなので、どんなにシリアスなものでも、内的な他者への慈愛とかと違ってかなり危険なものである。だから思想や哲学だって真理に殉教するとしたら、殺人にまで行くかも知れないし、本来かなり危険なものなのである。

 何を言いたいかと言うと、表現するという人間の行為は須らく遊び的精神の産物であり、従って正統的なる純のつくものでなく(昔は純喫茶というのがよく在ったけれど、そういう風に態々命名しなければいけないくらい、ああいう場所で集うことは如何わしいと社会ではされてきたのだ。だが人はそういうことが好きだ)、マイナーな発想を歓迎する、そういう態度のものを我々は尊んできたということなのである。

 不良性、反逆性こそが表現の正統である。又そういうものでなければ(北朝鮮の様な国では不良性や反逆性は一切無いだろうし、中国でもそういった表現をする文学者は投獄されるだろうけれど)鑑賞したいという気持ちにはならない、というのが我々人類一人一人の、勿論個々好きなタイプの表現形式やジャンルとか傾向の差はあるだろうけれど、一つの決定的な気持ちの傾向なのである。

 今後マイナー的発想のものから自分も創作することが多くなるだろうし、推理小説やミステリー小説、SF小説、ホラー小説だけでなく、子供にとっての娯楽である童話や絵本、或いは童歌(英米ではマザー・グース)等のカルチャーの正統性を活かしたものに取り組んでいこうと思うし、気になったものに関しては研究もしていきたいと思っている今日この頃である。

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2017年3月 8日 (水)

思想・哲学メモPart60 思想史と神学・宗教史・哲学メモPart4の考えから引き出されることに就いて

 

存在・時間が無限である場合→無限大世界

(存在とは空間と物質とする)

全ての実在・事象は空虚でない

⇒一直線(一元世界)実現

起源も消滅もない。全て出来事は偶然(偶然を保有する余裕がある)

可能性は存在し得ない

 

存在・時間が有限である場合→無限小世界

(存在とは空間と物質とする)

全ての実在・事象は空虚である

⇒無限多層(多元世界)実現

起源があり消滅がある。全て出来事は必然

全可能性が必然的に展開する

 

 

さて起源があるが消滅がないという特殊な在り方の(半)無限

或いは

起源がないが、消滅があるという特殊な在り方の(半)無限

という☆存在・時間(存在は空間・物質とする)が在り得るだろうか?

 

 

 さて上記のカテゴリー認識は恣意的に操作されているという批判に耐えられるだろうか?つまり考え、論理的な都合による一種のパラドックス捏造であるという誹りを免れ得るだろうか?

 

 全てが偶然だ、と言い切る(仮定する)と、ニヒリズムに陥るなら、それは全てが必然だと言い切る(仮定する)のと殆ど違いが判らなくなる。少なくとも価値論的にはそうだ。

 存在(∃)自体が全て偶然なら、神は認められぬが、それは絶対∃を必然とする、絶対∃必然論となる。ここで再度神の意志(意思)という可能性が生じてしまう。

しかし我々はそれをも神の気まぐれで∃を作ったと考えてしまうし、少なくとも論理的にその可能性を示唆してしまう。神の気まぐれも立派な意志(意思)である。つまりいつまで経っても神そのものが外延へと追いやられ尚且つ可能性として永遠に消滅しない、ということを招聘してしまう。このジレンマを解消する方法をも考案しなければいけない。

 

2017. 2. 19,20,3. 1,8

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2017年3月 7日 (火)

通信が制覇する世界の真実から読み取れることPart1

🔶個人の通信行為が全てアメリカのNSCにより監視・盗聴・傍受されている以外、どの国も一切それ程の検閲を仮にしていず、又それだけの解析力を行えない低レヴェルだとしても、尚現代ではどの国からも通信機器自体は容易に、入手可能であり、その実物に対してリヴァース・エンジニアリングをすることで、少なくともそれと同じだけのものを作ることも可能である。その様にして解析ラボのシステムさえ完備させてしまえば、どの国もアメリカ並みの検閲力を持つことは決して不可能ではない。そういう意味では完全に通信戦の時代に人類は突入したと言える。

 そのことは即ち軍事的テクノロジーの援用であるが故にそれ以外の全ての軍事的テクノロジーの進化をも促進させている。兵器ロボット等を筆頭にコンピュータ制御室から世界中に武器を散在させて、自由に敵方へ攻撃することが可能となっている。

 従って自由経済活動自体に、国際的同意に基づいた制限がかけられない限り、仮にアメリカが保護主義的貿易へと移行したとしても尚、本質的にそれにも限界はある。つまりこのグローバル経済システムこそが軍事防衛テクノロジーの進化を大幅に加速させている。そしてそれは同時に戦争抑止力ともなっているのだ。だから常に緊張状態を維持しつつ、一触即発になっていきつつ、決して戦争にまでは至らせないという時代を我々は生きている、と言える。

 仮に一切の思想的基盤を持たないメディアがドメスティックな愛国心を、例えば中国軍事脅威論的装いで国民の人心を煽っても尚、相互にどの国家間も戦争へ突入することを難しくしている。

 今や中国も自国の起業家によるポータルサイトをグローバルに世界から利用されることを望んでいる以上、たとえ政府が反米的スタンスをメディアを通して世界へ発信しても、そのことで直ちに軍事衝突へと持ち込まれることはないだろう。

 従って結局領空・領海的警備と相互の国防システムの利害衝突にのみ限定的に今後人類は翻弄されていくだろう。

🔷従って現代人類の唯一の危惧とは狂信的為政者の登場と、国防システムの誤作動である。つまり抑止力的テクノロジーの進化それ自体の悪用と、システム制御自体の不具合という不測の事態の到来可能性である。事実一般市民にも差別的偏見的意識と態度の人というのは居るし、そういった感性の人が為政者として選ばれることも決して稀ではないということは歴史も証明している。それどころか正に今そういった傾向は世界中で一般化しつつある。

 尤もツイッター内容を一々論うメディアの態度の方が無策だと言える。まず一つにはどんな重い職責を担った為政者でも現代社会では本音を呟く権利はある。つまりそういった私的なぼやきや独り言的なことを一切許さないというメディアの在り方があるとすれば、そのメディアの監視性の方こそ問題にすべきだからである。

 一人の為政者の本音的呟きと政治行動の決定とはそもそも別次元であるべきであり、そう認識していなければいけない。一々メディアが些細なツイートに過剰反応する方が全体から見れば異常なのだ。つまり為政者が超越的超人でなければいけないという無思考的な似非倫理的呪縛に却ってメディア呪縛型社会の危機が潜んでいる。

🔸そのことは去年の三浦九段の対局中の中座の頻繁であったことにより当時の谷川会長に三浦九段の出場停止処分を促したものこそメディア報道だったとも言えるからだ。私が実際に本人から伺ったある高齢者のご意見だと、李下に冠を正さず的な意味で三浦九段の行動にこそ問題があるということだったが、三浦九段が挙動不審であったことは、現代社会に将棋ソフトが進化した状態で誰しもが利用できるという現実を我々が所有してしまっていることからくる固有の過剰な疑心暗鬼にあるということにこそ寧ろ問題があるのである。

 又このことにこうして触れているのも、私の考えでは、実際対局者とは異様なる緊張状態に立たされており、その張りつめた精神を緩和させるための中座その他の自由は保証されてあるべきだからでもある。つまり気持ちよく精神を対局者に集中させることを可能にする、つまり対局者の対局中の行動選択の自由を保証することこそ、よい対局を可能とすると考えた方がいいのである。

 最善の状況で次の一手へ迎える状況を相互に付与する努力を協会は怠るべきではないのだ。協会の義務とは対局者の精神の安定を保証し得る様な対局環境の整備なのである。

 そのことへの意識の不備と先程述べた固有の疑心暗鬼(それは棋士達を現代社会が追い込んでいるとも言えるが)こそ谷川会長を誤った出場停止という判断へ追い込んだのだろう。寧ろああいった全ての状況がグレーにしか思えない三浦九段への判断を持ってしまっている事態でこそ、AI的知性を将棋ソフト使用の有無の可能性証左に利用すべきであった。その検証結果を待たずして拙速な出場停止処分を下したことは名棋士でもある谷川会長の経歴にも傷をつけたし、何より三浦九段と谷川氏双方に大きな心の傷を負わせた。

 従って谷川会長の辞任は当然のことだったが、協会全体がまず棋士対局者を信じることから何事も(論議も決裁も)行わなければいけないと思うのである。

 システム化されつつある我々の論理思考が、それを要請した人間理性を大幅に凌駕し(つまり棋士の言い分を聞くことを疎かにし)、個人の人権(この場合プロ棋士対局者)を無視して組織と将棋界のことなかれを本義とした拙速な決裁を会長へ促したメディアや風評の過激さを生み出したネット社会とAI進化のフルスピード、誤った事実であっても、それをあたかも本当であると思わせつつ情報伝達の過剰に広まる速さの異常さが一つの大きな批判対象として浮かび上がってきた、と言えよう。

2017.1. 17-18

🔹メディア誘導型社会そのものへの反発心を露骨にツイートすることであくまで個人=私人としてのキャラクターを前面に押し出し公人としての節度とか慎みを一切考慮しないという意味で全くプロ政治家としての経験も兵役もないトランプ大統領の一挙手一投足を報じるメディアさえもが、ウェブサイト通信過剰のリアルに飲み込まれている。しかもその現代固有の通信過剰のリアルを逆手にとってフルに利用するという意味でのアメリカ建国以来史上初の大統領であるトランプ氏の動向が、現代情報社会の特質を逆用した一種の独裁であるか否かはもう少し時間をかけて観ていく必要はある。つまりヒトラーの再来を彼の登場が意味するのかどうかということに於いてである。

 何故そう言うかと言うと、独裁者登場と危機感を煽るトランプ氏批判の急先鋒である報道メディアもまた異様に画一的であることも間違いのない事実だからだ。この大統領選挙中からクリントン候補が勝利することだけが国家としてのアメリカの理性の最後の砦ででもあるかの様な一方向だけに偏重した報道スタンスの持つ脅威も充分自覚しておくべきだからである。

 つまり百歩譲ってトランプ氏の日ごろからの言動が不道徳極まりないとしても尚、メディアの一律的な報道傾向も又一種のメディア独裁、独善、メディア誘導型社会実現のための固有のファシズムであるとも言えるからだ。

 そして世界市民の大半は自ら率先して巨大なメディアシンジケートを通して発信することを許されてなどいない。メディアの方こそ巨大なファシズムだと感じている世界市民も決して少なくなくても、そのこと自体を一切メディアは報道しないのである。世界で最大の勢力とはどの国でもどの地方でもサイレントマジョリティなのである。

 この点でもキリスト教文化圏での最大権威であるローマ法王がトランプ候補を批判したことも大いなる問題ではあるが、少なくとも当選後にメディアよりは、その動向への批判を差し控えていることは順当な態度であるとだけは言えよう。メディアにはこのローマ法王の態度保留の持つ意味も考えて欲しいものである。

🔶これから先は少しこの通信システムとAI進化のシナジー的な脅威に対する提言をメインとして進めていこう。

 何もかもAIやスパコンのビッグデータ管理システムに人間は委ねていていいのだろうか?それ程までに絶大な信頼をそれらに置いてよいのだろうか?まずそういう疑問も持たざるを得ない。

 やはり機械は機械でしかないという割り切りというか、一つの単純な真理の見直しも必要ではないだろうか?機械はまず決してバカになれない。それに加え、人間固有の主観も持てない。そういう割り切りも必要なのではないか?

 人間性ということをよく検証し再認識する必要があるのではないか?

2017. 2. 12

🔷通信は交通、情報を制御し、それを不可欠にする株式市場、金融、物流、流通、軍事・国防の全てを一手に取り仕切っている。通信自体が世界を支配していると言っても過言ではない。文学、芸術、音楽やアニメ他の全部のサブカルは思想・宗教のパラダイムに入ると言っても、現代社会の在り方から言って可笑しくはない。そしてそれらも又通信と共謀せざるを得ない。

 政治だけがその二つの、つまり通信の支配する社会国家インフラと思想・宗教の間を取り持つということだ。その点では政治への期待は現代社会ではいや増す。哲学は現実である通信にイデア的に協力しつつ、思想・宗教にもヒントを与える。

 だが政治の場合、知性とか頭脳が優れた人がいい治世が行えるとは限らないのである。それは歴史的にも証明されている。天才的頭脳の為政者が暴君だったり、逆に異様にひ弱な非現実政治履行者であったりしたことは決して過去に於いても珍しいことではなかったからである。インテリ過ぎて独裁的なフィクサーに踊らされていただけという君主や政治家も居たのだ。或る意味では現代社会もマイクロソフトやアップルやグーグルが政治家を躍らせているだけだ、とさえ言い得る。否国家さえもである。

🔶社会インフラとしての各種サーヴィス、保険クレジットカードがプロヴァイダーの細かな契約条件や手続きの煩雑さ自体が社会全体への個のストレスを生じさせている。社会が合理化されればされる程、個人主義的選択肢は益々膨張し、そうなればなる程細かい手続き上の煩雑さと、それをぬかりなく行う個人の些細なスキルの向上が瞬時に求められ、そのことへのストレスも増大する。

 つまりその手続き上での履行へかけられる神経的ストレスが心のゆとりを奪っているのだ。だからそのことで又益々余暇的時間、オフタイムでも寛ぎ、息抜きの選択肢を多くさせ、それを提供するサーヴィスとコミュニティとの接触機会を精神的に重要なものとする。しかし或る部分では益々過剰なサーヴィス提供社会自体が、余暇まで気分的に人々の慰安的要素にまで介入し、束縛している様な奇妙なリアルも作り出している。つまりサーヴィスを受ける側は、少し放っておいて欲しいと思う場面も多くなっていくだろう。

🔹通信がそのリアルタイム共時性を全分野へ波及させると必然的に世界は一つの巨大なシステムとなり、各民族、国家へ宗教的モラルや経済格差を実感させ、そう容易に異なったモラルや異なった経済富裕性を巡る階層性を越えられないという絶望感も容易に我々に植え付ける。

 世界中の全ての位相に於ける対立や不協和は瞬時に世界を駆け巡り、益々グローバル・オーダー(世界秩序)が最優先され、必然的に世界は狭くなり、しかし個々の個人の間には見えない壁もしっかりと設置されていて、地表活動者としての人類はその外を意識し難くなってきている。しかし地球外生命体としての高等知性生命体への期待は心理的にはかなり高まってきている(地球と似た惑星が七つも見つかった)。そしてその探査はロマン化される。だが人類と同じレヴェルの高等知性生命体との邂逅に対しては、余り期待し過ぎるべきではないとも言えないだろうか?

2017. 2. 18

🔸現代人類は科学兵器から通信傍受システム、ビッグデータ、AIに至るまで過剰に科学技術を乱用しているとも言える。これはGDPの向上だけを至上目的としているからでもある。科学テクノロジー最優先主義は無意味だ。人類の各個人を幸福にしない国家や社会、或いは企業など言語道断である。心の充実を図らない国家運営姿勢があるとすれば、やがてそれらはそっぽを向かれるに違いない。今こそ内的な心の充実を図る思想普及の時代である。数学も自然科学もそのために奉仕すべきだ。

🔹人類全体が右傾化し殺気だった現代世相では、精神的充実とその至福の幸福を追求していく季節へ人類は差し掛かっているのではないか?!

 熟読、精読、分析、解析を伴わない時間節約と社会機能の合理化へだけ一直線で進行させ、そのサーヴィス過剰な風潮が余暇をも我々の精神を束縛し、科学テクノロジーと利便性を時間節約のためにだけ利用する考えへ少し疑問符を突き付けるべきである。

 つまり進歩、調和、進化と言うことを無反省に価値とすることに待ったをかけるべきなのである。結局社会連関の全てが兵器ロボット、核兵器開発へと人類を駆り立てているのだ。人類はこの先引き返し不能地点へと自らを追い込み、益々その泥沼に追い立てていくのだろうか?

 何かが可笑しいと誰しもが感じているのに、誰も何もしようとしない。否違うかも知れない。余り頑張り過ぎない様に、惰性的な真剣になり過ぎない態度が必要なだけなのかも知れない。日頃からの精神のテキトーさ有効利用が、そしてそれはあくまで数式化したり、法則化させたりするのでなく、個々が自分のその都度の判断で勝手に選択する様な態度が必要なのかも知れない。

 つまりシステム、テクノロジー、マシーナリーリアルの奴隷になり過ぎない様な安息日的認識の重要さが見直されて然るべきだし、そういったイージーな判断の有効利用が積極的に求められているのだろうと思う。

 勿論考えな過ぎて核兵器発射ボタンの誤作動を招く様なことをしてはいけないのだけれど、それでも同時に余りこの異常な世界の状況へ深刻になり過ぎない様な鈍感さも、やはりこれも余り分析し過ぎない法則化させ過ぎないかたちで必要なのだろう。それは個の内部で熟読、精読、分析、解析する必要性と決して矛盾しないのである。何故なら個に於ける判断を優先すべきで、一律的に誰しもに当て嵌まる効用のことを言っているのではないからである。

2017. 2. 23、3. 7

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2017年3月 6日 (月)

思想・哲学メモPart59 2月以降考えてきたこと

🔹どんな哲学者もAという人に顕著なイデア・思想を他のBCDといった別の哲学者も必ず一度は同じこと述べている。だが我々は往々にしてそれぞれの哲学者の考えの違いの方にばかり気を取られ、共通した見解を真剣に見直さない様にしがちである。つまり一人の哲学者はどの哲学者も述べていること(それは詩の手法やテーマ等と変わらない何かである)の反復の中からどれを最優先させるかという選択によって、最重要な命題となっているに過ぎない。それは差別化戦略でしかなく、全体の中で最も豊かな部分であるとまでは言い切れない。

 このことは意外と重要なのであるが、個々の哲学者の違いにだけ目が行きがちなためにしばしば忘れられがちなのだ。つまりどの哲学者にもどの科学者にも共通することの様に、共通した捉え方や認めるべき真理の把握方法や最重要の前提(premise)があることは忘れてはいけない。

2017. 2. 18

🔸2. 14にも述べたが、分析哲学の手法は数学基礎論発であるが故に、神学・宗教的痕跡はないが、そのことは逆に神学や宗教教義の進化があったればこそ純粋に数学として進化を遂げられたのだ。その意味で現代数学と論理学、分析哲学は神学・宗教史と密接である。

2017. 2. 20

🔷ハイデガーの言う世人の頽落は、哲学的には全く正しいが、一般社会ではそうでなければ生きてゆけない。つまり哲学とは、別の意味で宗教がそうである様に反社会的だ。社会では僅か小説くらいが許容されているに過ぎない。それが法治国家と自由主義社会の現実である。世人であることを世人としてではなく、常識人として生きる決意だけが正統と見做される、それが社会だからだ。

2017. 2. 23

🔶時間論となると途端に形而上学的且つ極めて観念論的になるが、空間は形而下的・実在的に論を進めやすい。このことは一体何を意味するのか?それは空間が時刻の瞬時性と異なり、位置固定、測定がしやすい、つまり過ぎ去り、無にならないからだろうが。

🔹空間的比喩で時間を語るしかない。これは田辺元も中島義道も述べている。西田幾多郎の言う当為は意外とベルグソンの純粋持続と近いのではないか?

2017. 2. 24

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2017年3月 5日 (日)

人生のメモ(人と哲学・文学・宗教他)Part1

🔶人生は急ぐことである。なぜなら人生は余りにも短いからだ。胡蝶の夢の如くである。そしてそれを楽しむしかない。アッという間の人生を楽しむしか。

2017. 3. 2

🔷哲学的思考は代数的な論理思考であるが故に、常習し過ぎると空間幾何的感性が磨滅し、方向感覚も損なわれるかも知れない。

2017. 3. 5

🔸『奪い愛、冬』で水野美紀(悪役)が言う台詞で「私の方が百万倍もずっとシンさんを深く愛している」に対し倉科カナが「どうして自分の方が深く愛しているって分かるんですか?」と返す台詞があった。これは恋愛修羅場ドラマの定番であるけれど、哲学的である。つまり文学や芸能の方が哲学的要素も含むのに対し、文学者や劇作家と違って逆に哲学者が文学や芸能を理解できるかと言ったら、それは全くそんなことはない。つまり専門の哲学者はそれ以外を含んだ中で哲学を考えてなどいない。それはだが、少し危険なリアルではないだろうか?

2017. 3. 5

🔹名刺に「愛欲探究者」とか「愛欲研究者」(それはそれ程でないから)「愛欲実践者」等と印刷してあったら、渡された人がどう反応するだろうか?名刺を渡された相手は何か渡した相手へ問い質すだろうか?もしそうだとするなら、どんな質問だろうか?

2017. 3. 5

🔷行政・司法・立法に携わる者は(時代の)反映を生業とする。報道もそうだ。だが表現は違う。表現は反映ではない。何なのだろう?

 学術は反映せねばならぬ部分もあるが、それでもそうでない部分もかなりあり、その異質のこと同士の止揚と言える。

🔶詩は安易に書き過ぎると作者の感情や気分の反映になりやすい。でもそれは本物の詩ではない。それは創造とは言えないからだ。詩の創造は小説と違って、そうとは思えない些細な部分に注がれるのだ。フィクションかノンフィクションかという位相とか次元とかとは異なる創造なのだ。でも、それは一体何なのだろうか?でもそれはやはりある。

2017. 3. 5

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2017年3月 4日 (土)

文学・宗教メモ(音楽・映画他を含む)Part1

🔸聖書に次いで読み継がれた『ドン・キホーテ』はセルヴァンテス(15471616)によるテクストにだけ意味が偏重する時代への抵抗の気分、宗教改革以後の隣接するスペインの対カソリシズムへの風当たりという現況に対する一種の風刺もあったのだろう。マリア・マッテロ・ボイアルド(1441頃~94)、ルドヴィコ・アリオスト(14741533)(二人とも伊詩人で『ドン・キホーテ』の記述に登場)、マルチン・ルター(14831546)、ジャン・カルヴァン(150664)といった人達のセルヴァンテス以前の時代的意義は極めて重要である。

🔹『ドン・キホーテ』は自らの拠って立つ文化基盤への批判と愛着という案ヴィヴァレンツな気分と、自己肯定と自己否定、或いはキリスト教史的肯定と否定、及び愛着と批判とが一挙に噴出した一つの結実である。従ってドン・キホーテの奇行は欧州文化史・キリスト教史への痛烈なるパロディでもある。我々が当たり前だと思っている一週間とは聖書に基づいているし、日本では明治期以降定着したものなのだ。そしてそれを内側から自嘲を込めて風刺したのが

セルヴァンテスの『ドン・キホーテ』である。サンチョ・パンサは市井の常識人で、ドン・キホーテを窘めもする。従っているが、完全服従ではない。ロシナンテ(老馬)だけが酷使される。

🔶アンデルセン『眠りの精』は一週間の主人公オーレ・ルゲイエの行動に就いて書かれている。それを聴く少年にとってとても興味深い展開で、月曜から日曜まで続けられる。曜日の指定は旧約的手法である。

🔷『精霊の守り人』(上橋菜穂子作)の世界観は完全なるフィクションによる或る種の現実の歴史や民族史文化からの逃避的心理へと我々を誘う。要所要所では中東史や中国朝鮮史をも彷彿させる展開を持っている。この種のドラマ化は他の現実社会の問題を扱う(例えば『就活家族』とか)ドラマなどと同時期に放映されている。現実逃避的フィクションが流行るのは、現実社会に不可避的不安と圧力が高まっている証拠だし、その反映であるが、現実社会問題から描かれるドラマには、そういう時代でも希望を見出せるというメッセージが底流にはある。尤も『精霊の守り人』には多分に八百万の神の持つ神道の神秘的非合理的な精神の郷愁的気分も反映されている。それをより異民族同士のフィクションとすることで、日本的なるものの国際化を目論んでいるとも言える。

2017.1.18

🔶バイロンの詩はデオダティ荘滞在以後、益々死を生きる、死した魂の側から生を俯瞰する立場をとる様な書き方が際立ってくる。それは生を死の影として観る世界観であり、それはラッセルの『西洋哲学史』の記述を待つまでもなく、ニーチェへも大きくインスパイアしている。

🔹方法的にブレイク、バイロン、ポー、コンラッド、エリオットからニヒリズムの水脈を辿り、再度ニーチェ、ハイデガー、ブーバー、レヴィナスへと回帰しつつ、詩と哲学に跨っている人間の本質を探る必要がある。それは意味があるだろう。

🔸バイロンの詩の叙述は哲学的公理論、命題論的性格が備わっている。ブレイクの詩にもディランの歌詞にもそういった性格は読み取れる。

それは今後取り組んでいく必要がある。

2017.2.8

この時期からProphecy of Dante(『ダンテの予言』Lord Byronの英語原書)の日本語訳を始め一週間かけて完訳する。

🔷スティーヴン・スピルバーグ監督『激突』A duel をテレ東で久しぶりに又観たが、このフィルムは西部劇的要素を兼ね備えたホラー映画の祖だ。逃げ惑うデヴィッド・マンはナチスに追われるユダヤ人、巨大タンクローリーはナチスや戦時中に日本へ襲来した敵機米軍などを観る者に連想させる。

🔶バイロンは使命感が強く、義憤的詩人だ。その義憤的部分は確かにニーチェもディランも受け継いでいる。

2017. 2. 9

🔹ジョージ・ハリスンは物欲に感ける現代人への警鐘を発し続けた表現メッセンジャーであり、その点では盟友ディランとも共通していたが、All Things Must Passの中のArt of Dyingでは「それを手にした時は既にそれが要らない時だ」という歌詞が登場するが、要するにそれが本当に欲しい時には手に入らず、要らなくなった時には転がっているというわけだ。それは痛烈なるニヒリズム、願望とは本当の意味では実現され得ないというメッセージなのである。

🔸バイロンの詩は感情の起伏が激しい。だから刺激的で面白いが、精神の安定は希薄である。生涯が激情的である。ブレイクの詩の方が彼の絵と同様ずっと精神は安定している。ディランの歌詞はバイロンの様に激情的でなく、極めて思索的且つ静かに戦略的だ。

2017. 2. 11

🔷バイロンが『ダンテの予言』で貴方(thou)と語るものとは国であり、民族国家(英国)であり、英語という言語である。これはキリスト教ロゴス思想(ヨハネの福音書・新約聖書)を如実に示している。或る種ドン・キホーテ的妄想的な騎士道精神(chivalry)にも相通じる。若干の身体障害を足に負った美男の貴族政治家に固有の気負いとナルシスが詩文に立ち現れている。

🔶バイロンの詩は(ブレイクやポーの詩と異なり)書くその時々の衝動的気分、つまりパトスに忠実である。又その様なものとして恣意的に詩を扱っている。それは多分に誇大妄想的な自負と気負いを持つドン・キホーテ的であり、死を受け入れ、自らの思想の誠実性を証明しようとしたソクラテスの持つテロス的である。それは独我論そのものを生涯の地で行く生き方の系譜とも言える。

🔷文学や哲学は一般的に芸術や音楽同様、幾ら青年期に熱中しても、社会に出ると同時に卒業していくべき、そうでなければいけない列に入る。それを楽しめるのは子育ても終えリタイアした後なのだ。しかしそうできない一群の人達が少なからず世の中には居続けてきているのだ。その意味で表現者とは一種の社会的反逆者に外ならぬ。自らの自己理想と現実の大きな亀裂を見極められない人間心理への批判としてセルヴァンテスは『ドン・キホーテ』を書いたと言えるが、それは数奇な運命とも無縁で書かれたのではない。セルヴァンテスの生涯に就いてももっと研究していくべき時期が来た。

🔸ケヴィン・コストナー主演映画『フィールド・オブ・ドリームス』も、『ドン・キホーテ』十八章に登場するキホーテの妄想の二つの大群からヒントを得ている可能性はある。夢見心地の過ぎた空想の妄想性。

🔹ディランの歌詞にはプロテスト・メッセージは在るが、バイロン的な騎士道精神とはやはり異なる性質である。吟遊詩人では共通するが、ディランの方が物質的に淡々としている。傍観者的視点もディランには常に在る。尤も静かな哀愁はディランの方に在る。

🔶自嘲という精神活動の創作的利用はセルヴァンテス→バイロン→ニーチェ→ディランに充分読み取れる。

2017.2.143.4

🔷ブレイクは思考そのものがきっと静寂だろう。それは画家としてのプライドが激情的であるのと対比的で、彼にとって詩作は絵画的激情を鎮める意味合いもあったであろう。対し詩人バイロンはパトス的志向性の人であり、精神は常に粗ぶっている。エートス的志向のブレイクと対照的なこの二人の志向性の差から何か重要な真理の発見が為されるに違いない。+3.4

🔸バイロンの詩は自然への賛歌(ワーズワス的伝統に則った)と激情的な愛国心や義憤、騎士道精神が混在している。その顕著な例が『ダンテの予言』である。

2017.2.17

🔹詩で独我論は可能だろうか?と言うより詩人は独我論から必ず出発する。しかしその独我論を詩創造=文筆によって表現する。その時点で独我論を封印する。だから誰かも言っていたが、最も独我論的生き方を全うする人とは一切詩を書かない詩人であろう。

2017.2.19

🔶『沈黙』を少し前に読み終え『イエスの生涯』を読み始めた。若い頃(二十代後半か三十代前半)に読んだ時、その意味は分からなかった。父が読後私にくれた本を再度読んでいる。今なら当時より理解できる部分があるだろう。預言者への期待とは、実は個人主義ということの原初的な体験と言えるのではないか?それは果たして日本という文化=民族共同体に存在するだろう

か?(この問題は別のメモで考える)

🔷言語とはそれが発生した時点で神学的な痕跡がある。してみれば我々の論理思考自体に神学的発想が在る(備わっている)と捉えることは自然である。

🔶「ヨハネの福音書」は「はじめにことばがあった」とロゴス思想宣言から始まる。近代の科学主義は言葉から実在へと比重を移行させたが、21世紀以降、20世紀のワトソンとクリックの二重らせん発見が示していた生命起源の四文字記号性でもそうだし、近代幾何学の代数化(群論等)が持つ意義から現代プログラミング言語に至るまで、益々記号性が先験的に語られるに至り、「ヨハネ福音書」的世界観(それはユダヤ神性の典型的特徴なのだが)が、世界人類運営で益々肥大化しつつある、と言える。

2017. 2. 20

🔹213日鈴木清順監督が亡くなった(享年93歳)。清順美学は不滅である。妖しい生死の境界的世界を特に表現した。私が見た監督の映画は『全てが狂ってる』『くたばれ悪党ども』『関東無宿』『野獣の青春』『河内カルメン』『肉体の門』『けんかえれじい』『東京物語』『殺しの烙印』『悲愁物語』『木乃伊の恋』『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』『カポネ大いに泣く』『春桜ジャパネスク』『ルパン三世・悪のり協奏曲(脚本)』『夢二』『ピストルオペラ』『オペレッタ狸御殿』。監督とは早稲田大学大学祭の時に<ツィゴイネル~>に就いてと、<陽炎座>のテント上映(シネマ・プラセット)の時に二度直にお話をすることができた。光栄であった。

2017. 2. 22

🔸バイロンの詩を翻訳していて思うことは、彼の詩は天才的閃きはあるが、余りにパトス的で疲れる部分はある。それはランボーと共通する。それはビートルズの音楽が元気を与えもするけれど、疲れもすることと似る。ディランの曲の歌詞やメロディの方が癒す力はある。それは静かなエートスではないか。勿論どちらも曲にもよるけれど。

2017. 2. 23

🔷『方丈記』鴨長明の隠遁生活の持つ自嘲性、自蔑性は、セルヴァンテスの『ドン・キホーテ』の持つそれと関係があると言えるだろうか?

 無常観と自虐的ナルシスと表裏一体の騎士道精神に対するパロディとは無縁ではないのではないか?!

🔶西行の人生の方に鴨長明(1155?1216)の人生は近い。藤原定家(11261241)とは正反対である。

2017. 2. 28

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2017年3月 3日 (金)

映画『彼らが本気で編むときは、』が描いているシヴィアなリアルと家族愛的なファンタジー

 今年も早1/6が過ぎ、桜の季節も目前となってきた。今や梅は満開、外吹く風もどこかしら、冬の底冷えを感じさせる肌を突き刺す冷たさから、心地良い温めの穏やかさを含んだそれに代わってきつつある。

 今年に入って丁度八本目の映画を今日鑑賞した。荻上直子監督/脚本の『彼らが本気で編むときは、』である。

 結論から言うと再度映画館に足を運ぶ価値を見出した今年最初の映画であった。

 映画はまず母子家庭のアパート(か、それ程高級とは言えないマンション)での母親であるそれ程年老いていない年齢の女性(ミムラ)が泥酔して朝帰り的に帰宅する風情、それを横目で見て学校へ行こうとする小学生の娘のシーンから始まる。そのトモという女の子(柿原りんか)は実母の弟である叔父マキオ(桐谷健太)の勤務する書店へ行って、又自分の母親が家をほったらかしにして出かけ始めたと自母ヒロミの弟である叔父の店の本をレジで購入しながら、レジで会計をして本を包む叔父と(きっとそれまでも何度も似た様なことがあったのだろうという)会話をする。

そしてその時点でまだ紹介していなかった同棲相手であるリンコ(生田斗真)のことを、トモを(きっといつもの様に)連れて帰る際に、ちょっと変わった人で、いや変わっているっていうのは違うかな、と口ごもりながら表現するマキオの表情の或る種の切なさから物語は進行していく。

 年頃へ徐々に移行していくだろう娘への気遣いに対して無頓着な若い子連れの母子家庭の母親の元で育つ小学生の娘がトランスジェンダー(身体の整形手術は受けていて、表面的には女性の身体となっている、しかし未だ性別を戸籍上では男性の侭にしている)の介護士を将来の妻として同棲する男性が別の職場である書店で働くという状況の家族へ一時避難所として紛れ込んで営まれる日常を主題とした物語内容の映画である。リンコとマキオは彼の実母である(昨年1111日に逝去した女優で歌手の)りリイ演じるサユリを老人ホームに入所させており、その介護を担当するリンコと出会ったという設定となっている。

 映画では女性監督ならではの肌理の細かい演出も際立っているが、その要請によく応えている生田斗真とその相手役で、全ては自分のパートナーのトランスジェンダーであることから、姪を引き込み三人の奇妙な家庭を持とうとするマキオを演じる桐谷健太とその奇妙な家庭を牽引するトモ演じる柿原りんかの人物像と演技的な掛け合いで進行するのだが、確かにちょっとした感情の行き違いで本当の母親ではないのにとついリンコに言い放ってしまうトモが学校から帰宅して他の二人と会話したくないので、押し入れに閉じこもっているところを帰宅したリンコがトモにそっと「そこ暑いでしょう」と言ってサイダーを差し入れしてあげ、一緒に糸電話をも添えて置いて、ややあって二人で会話するシーンとか、それより前に登場するキャラクターをあしらったデザインを盛り込んだ創作弁当を作ってあげて、夏の日にそのキャラクターを直ぐ食べてしまうのがもったいないと思って眺めていたら弁当を腐らせてしまい、ちょっと匂っていた弁当を無理して食べてひどい下痢をしてしまうトモと、無理して食べなければよかったのにと言うリンコのシーン等、印象に残る名シーンが連続する。

 映画の経糸がそれら一時避難所である疑似家族の一見穏やかなファンタジーにあるとすれば、横糸は明らかに母子として大型スーパーでショッピングをするリンコとトモを同店で発見するトモの同級生であるトモへ声をかけようとする自分の息子カイに「あの家族とはつきあっちゃいけない」と言い諭す保守的な世間体主義者である母親ナオミ(小池栄子)、或いはリンコの回想シーンとして登場するリンコの母フミコ(田中美佐子)が自分の胸が一向に膨らまないことが最大の悩みであるリンコが「胸が大きくなりたい」と苦悩を打ち明ける場面で、そっと彼女である息子に買ってきてあげたブラジャーを渡して、彼女が試着するのを優しい眼差しで見守っていてあげるシーンであろう。

 その横糸で最も映画前半でキーとなるシーンは、介護施設でトモが初めて対面する、仮の父親役となって生活している叔父マキオのパートナーであるリンコの母親が新しい夫、つまりトモをマキオの娘とすると義父となる男性(柏原収史)を伴って母親であるサユリを見舞いに来たシークェンスで、トモに面と向かって「もしリンコのことを差別したら、私はあんたが子供でも許しはしない」とはっきりと言うシーンである。

 このサユリのトモへのきつい一言は、それより前に既に映画で登場している学校であくまで友達としてトモに接触を常に図ろうとしている男子生徒カイが年長の小学生の男子生徒へ恋をしていることをトモに告白するシーンで、それに対して彼女がつい「キモイ」という様な一言を浴びせかけてしまう下りがあったればこそ、一層強い印象となって観客へ刻印される。

 そしてこの映画の最大の見せ場にして最大の横糸である場面こそ、長らく家をほったらかしにして、娘のトモのことも一切面倒を見てこなかったトモの実母、マキオの実姉であるヒロミを連れてトモも一緒に住む自分の家庭へ向かい、そこでマキオがトモを自分の養子にしたいと申し出る一回撮りの長回しのシークェンスである。

 そこで名演技を披露するミムラが「貴方、そんなこと言って、私の娘が初潮になった時どうやって彼女に何か言ってあげるの?自分の娘のおっぱいが大ききくなってきた時どうやって声をかけてあげるの?」と詰問するシーンは映画全体のあらゆる経糸的ファンタジーを打ち砕くリアルの残酷さの表示である。

 確かに世間的には例えばメイプル超合金のカズレーザーがバイセクシュアルであることを告白したりして、大分世間一般の差別意識はかつてより、このそういった意味では保守性の強い日本でも和らいできた様に見える。しかしそういった昨今でも、いざ自分の息子がゲイである兆候を発見したなら、この映画で最も保守性を発揮する小池栄子演じるナオミの様に息子が恋する同性の生徒へ送ろうとした恋文を自宅で発見し息子の居ない時に、それをびりびりに破り息子の勉強机の下のごみ箱に捨ててしまったりすることの方が今でも普通ではないだろうか?

 カズレーザーはいつもクイズ番組でも凄く優秀な回答者であり、それだけ優れた頭脳を持っているからこそ、そういったカミングアウトが自然に響くけれど、それほどのギフトを持っていない青少年だったら、どうだろうか?

 そして映画終盤最大の見せ場での件のミムラ演じるヒロミが疑似家族的な母親であるリンコに対して本物の母親の立場から真実を告げる横糸こそ、現実社会の実相に於いては最も説得力のある一言ではないだろうか?

 してみるとこの映画に於ける横糸のサユリがトモに対して自分の息子=娘を差別したら貴方でも容赦しないという一言と、このトモの母親であるヒロミがトモの初潮や乳房のふくらみという思春期の時期の接し方を自分以外の誰ができるかというリンコへ向けた(というそのパートナーであるマキオに対しても、同席している娘のトモに対してもの言葉なのであるが)真実の持つリアルな強さということが持つ保守的性質こそが、経糸のファンタジーさを打ち砕くリアルな台詞という意味では立場こそ違えども、完全に親の子へのエゴイズム=肉親の愛情という意味では全く相同ではないだろうか?

 つまりイデオロギー的にはLGBTとか、もっとそれさえ差別的響きがあるのでSOGIsexually oriented and gender identity)と言い換えたりする一つの時代の悪しきコンサヴァティズムへの提言がある一方、しかし現実にはあらゆるセックスアイデンティティ、ジェンダーロール自体があらゆる形態がその侭何の対立もなく共存できると言い切れるほど生易しいリアルでは決してないということをまざまざと突き付けた脚本と演出の映画だ、と言えるだろう。

 個人的なことだが私は話題としてはこの荻上直子監督のことは知っていたが、実際鑑賞するのは初めてだったし、この映画一本見るだけでも、並々ならぬ演出家・表現者・メッセンジャーであることは誰しも理解できるだろう。

 監督・脚本家は言ってみれば現実をシヴィアに見るアイを携えており、その意味では情感的描写ではフランソワ・トリュフォー的でありながら、メッセージイデオロギー的にはジャン・リュック・ゴダール的、リアル描写では大島渚的であり、先日213日に逝去された故・鈴木清順監督の様な暗喩的な描写も一切避けるという意味ではオリヴァー・ストーン的であり、抒情性を持ちながらリアリストでもあるという稀有の視点の監督・脚本家である、と言えるのではないか?つまりそのことこそがこの映画の結末を説得力ある仕上げにしているのである。

公式サイト

 http://kareamu.com/

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2017年3月 2日 (木)

顔の印象だけは人それぞれ違うけれど、ある顔で似ていると思える他の人を思い出すことを誰も止められない25

☆林家ペー(タレント)‐木下ほうか(俳優)

☆カズレーザー(メイプル超合金)‐瀬戸大也(スウィマー)

☆丘みどり(演歌歌手)‐高畑充希(俳優・歌手)

☆りゅうちぇる(タレント)‐仲里依紗(俳優)

☆奥田瑛二(俳優)‐松山ケンイチ 松山が似ているのはごく若いデビュー当時の奥田

☆チェ・スンシル(崔順実・韓国で罪に問われている影の支配者)‐稲田朋美(防衛大臣)

☆本郷理華(元宝塚俳優)‐安藤和津(エッセイスト・奥田瑛二の妻)

☆道端アンジェリカ(ファッションモデル)‐西内まりや(俳優・歌手) 西内の顔を作りだけもっと大き目にすると道端の顔にそっくりになる。

☆有田哲平(くりいむしちゅー)‐天知茂(物故俳優)

☆天海裕希(元宝塚俳優)‐佐々木蔵之介(俳優)

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2017年3月 1日 (水)

思想史と神学・宗教史・哲学メモPart4

🔸全存在・全時間さえ神が見ている一瞬の夢でしかない、ということを我々は否定できない。たとえ仮に何百年も生きることが可能な現存在が居たとしても、人生の終焉期には一生とはほんの一瞬のことだった、とそう思うだろう。それは存在・時間の、つまり宇宙の有限性から演繹される。

 無限であるなら全存在・全時間が神の見る刹那の夢という様にはならない。だが実際我々人類は宇宙がビッグバンによって誕生し、やがて膨張してから収縮して消滅する、と考えている。

 下村寅太郎は『近世における幾何学の生成』でもっと即物的な定義を施している。しかし数学と違って自然科学的には宇宙は今述べた様にいつかは消滅するとされる。このことから数学、或いは哲学・形而上学の作り出している無限という観念は刹那としての有限の存在・時間に対する一種の足掻きが生み出している妄想であるとも演繹される。

 円周率の様な無理数を含め、数学の持つ無限性の形而上的性格とは、有限の刹那のニヒリズムを克服する為の我々の無意識により発動された気休めが生み出したものである、ということを我々は完全否定し得るだろうか?存在・時間とは神の見る一瞬の夢にしか過ぎないということが真理化され得れば、そのことは一つの真実味を帯びてこざるを得ない。

🔹上記の議論で最重要なこととは、有限という一つの決定的な枠を持ち込めば、どんな膨大な広さ・長さが空間(存在)・時間へ与えられようと、たちまち刹那性を帯びてしまう。

🔶近世以降の数学(とりわけ幾何学)に点という位置・指標以外に無限という観念が齎されたのも、実は宇宙の存在・時間の有限性の直感的な予感が有限の中の無限性(無限小)を見据えることで無限大の不可能性から齎されるニヒリズムを克服しようという我々の無意識の意図が在ったのではないだろうか?

🔷独我論的な私とは、少なくとも一人称指標として一般化された私ではない。それは独我論として語られた瞬間、私(ワ・タ・シ)という風に指標し、指示し、他者へ伝えることそれ自体が不可能となり得るものではあり得ないのだ。

つまり独我論が真実に独我論であり得る為には言語行為として相手(他者)へ意味が通じるということ自体が不可能化されなくてはならない。意味は通じ理解されるが、意味が指示する感じがそう伝える本人以外には真実分からない、感じられない、というのでは不充分なのである。言語行為=意味の伝達さえ成立しない、ということでなければならないのである。

2017.2.19

🔸『私という迷宮』(大庭健・専修大学出版局)から。「大庭健を含め、世界になんの異変もないまま、大庭健が私でなくなる」という事態が可能だとしたら、そのばあいの私は、特定のどの人物の視点からもなく世界が現われてくる原点だ、ということになる。つまり”私は大庭健という人物の身体と精神を離脱し、まったく超越的な視点から、現にいまボードを叩きつづけている大庭健をも含む世界全体を、まったく客観的に眺めうるようになる。“もし、そんなことが可能だとすると、私は「世界全体を超越的な観点から、まったく客観的に眺める存在」、つまりすべてを一挙に観望する神のような存在だ、ということになる。」

 さてこの大庭の記述が的を得たものとすると、その様な全てを遍くお見通しの存在(?)ということとなる。それが神成立要因、或いは条件として正しいのなら、A時点で試合をしたabaが勝利する展開のリアル、bが勝利する展開のリアルが無限(分割)の分岐点から全てが分岐し、全可能性(例えば私が二歳、十歳、二十歳で死んだ可能性全てを含める様に)が成立し、平行して世界が存在する可能性へ道を拓くこととなる。

 逆にその様な可能性は一切妄想でしかあり得ない、と言うなら、あらゆる起源(世界・宇宙そのもの)さえ疑ってかからねばなるまい(つまり世界・宇宙が誕生し得なかった可能性をも考慮に入れるということである)。つまりそれは絶対的無神論とも言える。

 起源がなく過去も無限で未来も無限だという世界・宇宙の誕生も消滅もない代わりに、必ず一つの世界だけが(他の世界が平行して存在することなく)過去へも未来へも無限という世界・宇宙の在り方が想定される。

 してみると、起源が明確に在り、消滅も何時か在り得る世界・宇宙とは、それと逆にその間には全ての展開可能性も同時並行し(その全てを見られるのは神だけである)成立し得る、という認識の二元性が与えられる。つまり前のパラグラフの一直線無限性は無神性、この同時多層【平行】無限性を持つ有限性、神性を示し得る、と言える。

 

2017.2.20

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