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2017年4月

2017年4月30日 (日)

何故我々は心の中に蟠りや拘りを抱いてしまうのか?Part1復興と頭脳の思考の進化に就いて

我々が生活上で最も信条としているものとは何かと言えば、それは現代社会では明らかに便利であること、何でも時間が節約され、しかも単純な作業程簡単に済ませられるという事であり、その為に必要なテクノロジーの進化は疑問の余地なく必要とされている、つまり昨日より今日が、今日より明日がより便利である必要性である。そして極端なはなし、その使命感に呪縛されている。

 

だからそこで色々な不備を発見してしまうと途端に社会全体の連動の中で問題点を発見して、それを改めようとする。地震が起きると、それによる被害を次に震災に遭う迄に極力小さくしようとする。だからなかなかそうなっていない部分に問題点を発見して、それを克服しようとする。そしてその震災による復興を目指す中でそれを阻む要因を見出すとその蟠りを除去しようと必死になる。

 

機械自体の進化も一つの絶対的目標である。人間同士が行う将棋や囲碁等で何も態々機械、つまりAIを人と戦わせなくてもいいのに、人そのもののより高次の棋士達の技能を進化させる為に人の頭脳が作り上げた機械の進化を見せつけ、それと人間を戦わせて、いずれが現時点で秀でているかを確かめようとする。

 

復興を阻むものへの対処が問題点に関する蟠りだとするなら、そういった機械進化と人間知性との対決に意義を見出そうとすることは、とりもなおさず拘りと言っていい。前者は社会インフラの問題点、緊急事態の対処の仕方の問題点、復興そのものの巧く行く部分に対して巧くなかなか行かない部分の究明であり、後者は頭脳が思考することの良い成果を上げる合理性を様々なタイプの対処の仕方から究明することである。

 

震災等に全く予知なく晒された時に助かった人と絶命してしまった人との間にどんな差異があったのだろうと考えることは、今後も同じ様な予知できない緊急事態の招来に対する心の準備という側面が強いが、後者の様な頭脳それ自体の純粋な思考進化を目指すことは、自然科学や論理思考を一つの社会機能維持や文化活動維持のための一つの使命とするという大前提によって支えられ、その理想的な進化事態を想定している。つまりそこに人類の頭脳思考の究極の目標を見出そうとしている。

 

前者の問題は社会制度や政治、経済の問題であり、それは時代も関係しているが、その時代を構成していることの前提として人々の生活実態とか民族的な思考の問題が絡んでいる。対して後者はそういったことも無縁ではないが、そういったことと本質的に独立した個人の思考の問題であり、より抽象化されている。つまり前者の復興の問題点とはとりもなおさず蟠りが既に顕在化していること自体への対処なのに対し、後者の問題点とはそういった蟠りが現実にはあっても、それとは独立に理想の在り方を究明し、進化させるという一つの理想値への着目なのである。だから後者は前者の持つ対処性より、追究性のものなのだ。

 

 勿論この蟠り対処と、拘り究明とは常にどの時代のどの国家や地方でも必ず両輪として機能しているのだ。

 

 ハイデガーは<技術への問い>(関口浩訳・平凡社刊)で主に前者の問題に関しては(伝承された言語と技術的な言語(1962年))で、そして後者の問題に関しては(芸術の由来と思索の使命(1967年))で解析している。

 今回残りは後者の問題に関して若干の言及を行い、次回以降、前者の問題とこの二つの問題の関係性に就いて言及していこうと思う。

 

 ハイデガーはこのテクストで芸術と呼ぶものは、彼の後期著作である<ニーチェ>で述べているニーチェが芸術と呼ぶ時、そこでは哲学や思想や批評や文学等も含むマクロ的捉え方であるとしていることに倣って、より広範なものとして芸術を捉えていることは明らかである。ハイデガーの論説を示しておこう。

 

 「サイバネティックス的に表象された世界においては、オートマティックな機械と生物とのあいだの区別はなくなる。(中略)サイバネティックス的世界のこの画一性のなかに人間も組み入れられる。」

 

 「人間が化学的‐技術的世界に閉じ込められている〔Eingeschlossenheit〕ということは、どのようなことなのか?おそらく、このように閉じ込められていることにおおいては、人間が閉鎖されている〔Verschlossenheit〕ということが支配している。人間は彼をはじめてみずからに固有の使命へと派遣する〔schicken〕もの〔すなわち命運〕にたいして閉鎖されているのである。みずからに固有な使命へと派遣されるならば、人間は適切なもの〔das Schickliche〕に順応するようになり、科学的‐技術的に自分自身と自分の世界とを、つまり自分自身と自分の技術的自己生産とを、計算することによって意のままにすることはなくなるのである。」

 

 「立ち戻る歩みの意味するところは、世界文明の前から思索が退くこと、それから距離をおくことであるが、しかしけっして世界文明を否定することではない。立ち戻る歩みの意味するところは、西洋的思索の原初においてなお思索されぬままにとどまらざるをえなかったが、それにもかかわらず、すでにそこで名づけられ、そのようにしてわれわれの思索にひそかに伝えられた〔Vorsagen(あらかじめ言われた)〕あのものへと参入することなのである。」

 

 「光が現前するものを明るくする〔erhellen〕ことができるのは、現前するものがすでに開放的に空いている〔ein Offenes und Freies〕ところに立ち現れてきて〔aufgehen〕、そこでそれ自体を広げることができる場合だけである。このような開放性はたしかに光によって明るくされるのであるが、しかしけっして光がそれをはじめてもたらすのでも、形作るわけでもない。というのは、暗黒さえもこの開放性を要求するのであり、さもなければわれわれは暗黒のなかを歩いて行ったり、そこを通り抜けたりすることもできないだろうからだ。」

 

 で示していることは明らかにAIと人間の頭脳思考との境界を曖昧にしていこうとすることで人間理性と頭脳論理性の進化過程を前進させようと画策する現代人の精神の有り様を示している。

 

 で示していることはロボット化される生産機械としての人間が、そういったテクノロジーツールとなっていった場合、逆に自己機械化をコントロールできるから適切なチョイスをその都度取っていける様になることを示している。それはスマホや携帯電話を使いこなす現代人の姿を予兆している。

 

 で示していることは新約聖書のヨハネの福音書に示されているロゴス思想から継承されているキリスト教的倫理をギリシャ哲学へ止揚する意図の中に見られる近代形而上学の意図に既に予兆していた現代社会のウェブサイト駆使情報端末利用リアルから理解することも可能である。

 

 で示していることはAIに導かれている様に見える我々の棋士との対決という試みも、実は明るみの中から、つまり近代自然科学とそのテクノロジー進化以降からだったのではなく、寧ろ古代やもっとそれ以前から既に光を求めたという事の中に存立する人類の一つの進化への神話が介在してきた事実のことを言っている。 

 

 つまりハイデガーはこの様な形で明らかに現代社会を予兆する幾多の言説を1954年の時点で示していた。それは人類が拘りとして示している進化、社会インフラのテクノロジーの進歩とそれに伴う人間理性や頭脳思考の進化という里程標を常に携えてきたのだというメッセージでもあるのだ。

 

 次回はその科学技術を脅威から考える。その際に同じハイデガーテクストから見てみよう。そしてそれは震災に伴う東京電力福島第一原発事故の対処等にも通じる一つの見解として認めることができる性質のものである。(つづき)

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2017年4月29日 (土)

思想・哲学メモPart72/文学・宗教メモPart5

〇最も運命から見離され、神からも救われることさない者こそ、最も幸が訪れるべきなのだ(だがそう展開しないのが実際である)。全ての倫理はそこから出発すると言ってもいい。又そう考えられぬ者に倫理を語る資格はない。(2017. 4.26

 

〇人とはそ「その時だけ」性で生きている。死が人生の結末と知って生きているからだ。今何かを為さねば、それは二度と為されない。生きるとはそういうことだ。何時かしようと思っていることは、決して為されない。

 

〇イエスの12人の使徒たちだけが共有していた数々の事柄(事実)、原始キリスト教だけが共有していた数々の事柄がきっと在った筈だ。だがそれはそれ以外の全ての人々には知り様がない。つまり直に知っていた人達以外の全ての人達の為に記録が、そしてその思想的本質に意味がある。真実とか真理とかはそのことなのだ。

 

〇アテーネーが支配している「遠い近さ」とは一体何なのだろうか?

 

〇自然の実在が余りに多様で、そのことを我々が(全てを見聞きするのでなくても)知っているからこそ、私たちは自分自身の経験を超越したことを真理=真実であると言い切れる(し、それはかなり正しい)。つまり真理とは全てを見聞きすることができないと知ることそのことなのだ。でもそれだけは、人しか知ることができない(と哲学者は考えているが、部分的には正しい。人の様に論理的には他の種生命は知ることはない。だが別の意味では「分かる」だろう)。(2017. 4.28)

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2017年4月28日 (金)

人は何故荒涼とした風景に惹かれるのか?

 天才的な頭脳の人程若い頃に既に老成した考えを持つ。だがそれは自らが若いという負い目への克服と、超然としていなければ軽く見られるだろうという自己防衛も手伝っている。だから偉大な哲学者や詩人が若くして老成した文や詩を書くのは凄く納得のいくことである。それは自分が年を取って若い人たちから見てかなり年配者だとしか思われなくなってくればくる程よく理解できる。自分が若かった頃のことを記憶しているからだ。年を取った人にしかできないことはそれである。やはり20代から30代の人にはできないし、40代の人にも難しい。60歳に近づくと次第に肉体の衰えとか精神的な焦りとかも身に染みて分かってくる。その年頃になると若い人の気負いを理解できる様になる。と言ってそういった気負いを微笑ましく感じている訳でもない。人って若い血気盛んで頭脳明晰の頃も、経験を積んで人生を分かってきてからだって、そんなに簡単に吹っ切れるものではないな、と結局人とは愚かで大自然とか、宇宙とかに敵わないのだなと思えてくるだけのことである。

 

 植物は個人毎に我々がああだこうだと狼狽えたり、死とかを恐れたりしはしない。そして植物全体は、或いは鉱物全体は人の生命の長さ、一個体の寿命とかを遥かに超えるスケールで地球上に君臨する。

 その点では個体として生まれてきた人が、年老いて死が近づくとしなければいけないこととは、個人的な虚栄心とかでなく、うじうじと人生の細かい事に拘って死を只管避けたいと願うよりは、今日死んでもいいから、今この瞬間にしかできないことを精一杯しようということだけであり、それが社会で高く評価されたいとかそういう虚栄心とは別の何かである。

 

 荒涼とした風景を目の前にすると、何故か人の心の奥底に潜んでいる孤独で残酷な一面さえ、自然は既にお見通しであり、とっくにそういった自然全体のサイクルの厳しさの中で全てを体現してしまっている。

 私は埼玉県に住むので適度の自然は見られるし、都会にも比較的近いので、両方の良さを容易に堪能できるけれど、稚内とかに住んでいる人は長い寒さと短い暖かさの中で、室内でじっとしている時間も長いし、かといって外に出ても、冬支度とか、雪害から身を守るためにしなければいけないことに日々追われて、ちょっと街の外れに行けば見られる荒涼とした風景に見とれることなど殆どないだろうが、自分の様に埼玉県に住んでいると、荒涼とした風景と出会うことはそう多くはないので、秩父札所巡りで時折みかける崖等の岩石にそういった感じが延長されていった場合の風景を想像するくらいである。

 その二つの間のギャップは凄まじいに違いない。

 だから荒涼とした風景に憧れたり、郷愁を感じたりするとしたら、私の場合なら、それはきっとそういう景色には滅多に出会えないエリアに住んでいるからだろう。人間社会の浮世から既に最初から隔たったエリアに居住する人達にとって、荒涼とした風景の中に新芽を出す小さな植物にまず目が行くかも知れない。荒涼さそのものを味わうという気持ちにはならないかも知れない。

 長い冬の間炬燵とか布団の中で考えていることはきっとかなり形而上的な意味合いもあるだろう。若い頃(20代の中盤)、北海道に暫く滞在して、寝泊りしていたことを思い出すけれど、その時そんな感じを胸に抱いていた気がする。身体感覚的に広く視界を遮蔽することのない開けた場に居合わせると、身体の色々な痛さ、特に還暦が近づくにつれ増してくるそういった感覚が空間に直接突き刺さっている感じがする。痛ささえ死は失くしてしまうのだから、年老いてがたがきている身体の各所の痛みとか疼きとかは、生きている最後の証の様なものである。

 それが荒涼とした遮蔽されていない空間に立たされると、自分の身体全体がその荒涼とした印象を心に与える空間そのものに突き刺さっている感じに見舞われるのだ。これはそういう風景に出くわした時にだけ感じることである。

 

 過去から現在までの全ての記憶を、そこに投影させて観ている感じになってくる。色々な自然の物質の形が、色々な過去の情景に見えてくる。所詮人はそういった意味では記憶の生き物であるとよく分かる。

 

 でも若い人が天才的な観念操作だけで書いたものでも、その優れていることは否めないと思える自分は、その書いた若い人には未だ感知し得ない身体の疼き(尤も若い成長の只中にある人には固有の身体的な痛みや疼きはあるのだけれど)から感じる形而上的な意味さえ、そこに見出せるなら、結局死ぬまで何もかも吹っ切れることのない人の愚かさの中にも、想像して描くという凄い能力が隠されているのだな、と妙に感心してしまうこともある。

 

 藤井聡太四段は未だ14歳である。羽生結弦が金メダルを五輪でとった時も18歳だったのだ。

 でも面白いのは人は若いとか年とっているということで若い人、年取った人と簡単に二分できないことである。若い人の中にしかない老成的要素もあれば、年取っている人にしかない若さもある。

 又年取って往生際の悪さを示す部分もあるし、若い頃異様に諦めもなく潔さもなかった人が年取って凄く吹っ切れた感じになる場合もあったりして、要するにそういう風に年齢とか性別とかだけで簡単に判断できないことがあるということだ。それは寧ろ人間社会そのものに対処する仕方からでなく、自然界の一部に人も位置しているという事実からであろう。

 

 処世とかそういうことから引き出される妙も勿論あるが、それは大きな人間の身体、それが正に心も生み出しているのだけれど、その自然界的な流れとか移ろいとか、要するに変化の仕方が、そこにも脈打っているということなのだろう。霧島連山が隆起していることが分かったらしいけれど、そういった地殻変動全体の大きなうねりの中に一人の人間の身体とそれを所有する個が立たされているという事の中に何か大きな意味があるのだろうと思える。

 荒涼とした風景の前でそういった事実を思い知らされることがあるとすれば、それは人間も又自然の一部でしかあり得ないということを突き付けられ、知らされるからかも知れない。

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2017年4月27日 (木)

一人称や二人称の言い方に就いて

 日本語では自分の名をその侭呼ぶこと自体が歴史的に少なかった。誰それの息子とか娘という社会的地位的に呼ぶことが多かった。だから名前を呼ぶことは男が女を女が男を言う場合、肉体関係のある親しい間柄だけだったとは<武士の家計簿>でも知られる歴史学者の磯田道史氏による説明だった。

 

 さて名前を直接呼ぶ習慣の国々、主に欧米であるが、そこでは自分ということを英語ではI、格変化でmyme, mineというかたちで伝達する場合に機能的である様な仕様になっている。

 対し日本語では名前を直接呼ぶことが身分階級的にも整然としていたがために、必要性が無かったことから、それでも尚自己主張したい気持ちが残っているので、そこで私以外に、僕、俺、おいら、わし、あっし、わちき等の言い方が多様に発達したと考えられる。だから貴方という二人称でも君、お前等多くの言い方が残っているのである。

 

 でもそのことで日本語ではその時々の何か伝えようとする話者、記述者の気分に応じて或る時は自分、或る時は私、或る時は僕、或る時は俺等と使い分けることができる。伝えようとする相手が砕けた間柄であるなら俺(とりわけ男子同士)、男女関係なく親しい間柄では僕、偉い人に謙ってその人よりは低い社会的地位を意味しつつ何か相手に伝える場合にはあっしと言うという様にである。

 

 自分という自分に対する言い方は客観的に自分自身を捉える姿勢を相手へ伝える場合に有効である。

 

 私は詩で同じ日本人同士とか、同じ感性を持っている者同士の場合には、我々を使い、読む者を詩を書いている自分と対等な関係へ意図的に持っていこうとする時には僕たちを使う。人類全体の一人として皆一緒的に言う場合にも我々か僕たちをその都度使い分けているが、厳密にその使い分けの論理的理由をつけられるかと言えば、完全にその都度感じとしか言い様がない。でもきっと潜在的には何か理由があるのだろうから、分かった時点で報告してみたい。

 今のところその二つが多いけれど、俺たち(俺達)を使った方が一番いいと思える時はそれを使うかも知れない(未だ使ったことはない)し、まあ、拙者という言い方は現代ではしないので、特殊な内容の詩の場合でしかそういう言い方は使わないだろう。

 

 尤も詩では余り私とか僕とかを使うことは少ない。私の場合には、そういう自分自身の日記的な意味合いで書いている訳ではないからだ。と言うより詩は全て日記的意味合いがあるから、逆にそこで書かれる内容を普遍化させようという意図もあるから、却って日記文の様に私とか僕とかを使うことが少ないからだ。でも日記的な詩があったっていいのだから、そういう表記を敢えて使う詩があってもいいとは言える。

 

 英語をはじめ印欧語族では確かに私、貴方、彼(女)は全て伝達意図を機能として捉える仕方の差異化しかしていない。差別化された人称以上の意味を持たせられていないのは、単に個人名を相互に呼び合う習慣がかなり昔からあったからだろう。尤も身分の異なった者同士では役職や地位名で呼び、名前(日本語で言えば下の名前)で呼ぶことは欧州の中世までは少なかったかも知れない。

 だから日本語の自分(一人称)の呼び方が多様であるのは、相手によって使い分けるという意図と、身分の相互の違いに応じた個々が暗黙に相手に自分の自己主張の権利を認めさせる意図もあったのだろう。

 印欧語族的な言語的伝達機能のために一律に相互の人称関係が明確であるためだけに特化されているのとは違った意味合いが日本語にあるのは、それだけ日本語が相手へ謙る対人関係的美学、遠慮とか慎みとかに由来するのだろう。そういった意味では役職的な敬称が韓国語(ハングル)では違うだけでなく呼称も、日本語で言えば陛下、殿下等の様に使い分けている様な意味で使い分けていることは韓流ドラマを観れば分かる。

 

 だが私は詩ではそのややこしい社会的地位尊称的なことを一切避け、書く自分と読む全ての人達との間で共有し合える感性の確認者というかたちで、書いている。つまり自分が書く内容の持つ感性が読む人と共鳴している間だけ私の詩が読まれる筈だという前提で書いているのである。

 だから今のところ共有する事実として我々と僕たちを使い分けているが、もっと他にいい言い方があれば、それを採用してみてもいいな、と思ってもいるのである。

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2017年4月26日 (水)

文学・宗教メモPart4 イエスを生んだ一つの奇蹟的経緯と日本の信仰心の自然被封殺に就いて

〇イエスはガリラヤその他で病人を癒し、死者を蘇らせたとされる。だがこれらは実際どうだったかという疑問はキリスト教信者でなければ自然に沸く。恐らく病人を癒したということは、それだけ慈愛に満ちた眼差しと態度と言葉の人であったという事は確かだし、そのことで気持ちが解れて快方へ向かった病人がいたことも事実であろう。そして死者を蘇らせたのも、実際にはその人は亡くなってはおらず、完全に意識を失って実際にその侭放っておかれたら死んでしまう状態ではあったのだろうが、イエスの暖かい気持ちのこもった手で握られたり、額や頬を撫でられたりしたら、息を吹き返したという様な事が実際に何度もあったのであろう。つまりそれはイエス自身の慈愛に満ちた人柄と行動と、幾分のその時々の幸運(それこそが正に奇蹟と呼んでよいことである)が重なって奇蹟と人々に信じられたのであろうとは想像に難くない。

 重要なことは、しかしそれらは全て幸運が重なった要素もあったので、次第にその幸運ばかりが続く訳ではないので、その後で幸運が続かないと人々は失望し、彼は最初の人々の期待と尊崇が大きかっただけに、その後でその分無能で無力と見做され、人々から疎んじられていき、最後は処刑されるまでに至ったということである。

 

〇しかしイエスが処刑されなければいけない程内心では彼への期待と尊崇が人民の間に広まってもいたということを意味し、最後は散り散りに逃げていった最も近い弟子達にとって、この師匠を見捨てたということが後々ずっとしこりとなって残って、キリスト教団に固有の結束心を与えたということも容易に想像が尽く。

 

〇宗教心理とは同一の対象への愛着、それが高じた一つの信仰心の共有ということである。だからいつも宗教的熱狂とは集団心理であり、動機も集団主義的である。日本の祭りの習慣も大きく言えばキリスト教等の信仰心と同じ部類から発していると思われる。天照大神等の存在は多分にそういった要素が強い。だが重要なことにはキリスト教信仰心は日本では今も危険思想であることである。近作の映画<サイレンス>でマーティン・スコセッシ監督が描きたかったことは実は今も日本は沼であり、イエスやキリスト教信仰を阻むものがあり、それは集団主義的な隠れキリシタンを取り締まる奉行(映画ではイッセー尾形が演じた)の態度、物腰、ことなかれ主義への批判に見られる。

 

〇今も日本では隠れキリシタン的立場に追い込まれるので、たとえ神との対話を心に持っていたとしても、それは巧妙に隠すという事がある筈である。哲学や思想全般へも日本では金儲けや産業活動に直接寄与する訳ではないので危険視する精神的風潮があることは否定できない。それは日本のものではないというかたちで、皆で自主規制してしまって、そういった問いの全てを封殺していこうという深層に於いて呪縛された世間体的な観念なのである。それは根拠のあることなのである。何故そうなっているかは別シリーズに於いて論を展開させたい。

 

 付記 では欧米社会ではキリスト教文化一色かと言えば決してそうではない。アメリカには仏教寺院もあるし、欧州にはフリーメーソン等の組織が今もあるし、それはかつてはアンチクリスチャニティ的な異教信仰に根差していたからである。だから常に相反する異なった考えが犇めき合っているという意味では日本であれ、日本の近隣諸国であれ、欧米であれ、変わるところはないとも言い得るのである。そのことに就いてもいずれ別の記事で触れることもあるだろう。

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2017年4月25日 (火)

無と無限Part9 レヴィナス<他性と超越>から考える

無限と有限はそもそも全く異なる事態である。今回は有限の持つ絶対的アプリオリ性と固定化とそこからの無限的超脱に就いて考えてみよう。

 レヴィナス<他性と超越>で無限に就いて語られる箇所は1 もうひとつの超越 に於ける 無限 である。

 ここで彼は哲学史に於ける無限認識史をベースに無限に就いての彼自身のイデアを展開する。

 彼は「世界の無限性は神の絶対的無限性の模倣である」と語っているが、それは世界が神の創造物であるという観念とだから世界は神の模倣、写像であるという観念の一致から恐らく語られている。

 だがこの章での最大の彼の主張は寧ろ有限なるもの、有限なることの方である。当然のことながら有限性とは無限性との対置に拠って得られてもいるのだが、有限なることの中に脈打つ無限こそが最大限に重要であると彼は示している。それを示す二文を示してみよう。

「神の現勢的無限とは区別された存在の有限性の本義は、これら微小知覚が認識ではなく不分明なものにとどまるということ、どの存在もそれなりの仕方で同一の無限を反映しているということに有している。」(無限の神性 から)「思考についての思考、それが無限なのだ。」(全体は無限である から)尚二文とも 2 歴史的所与 からのものである。

 後者の文は明らかに前者の文の「どの存在もそれなりの仕方で同一の無限を反映している」に対応している。つまりこれはデカルトコギトと捉えても間違いではない一つのレス・コギタンスのことでもある。カントの統覚もほぼこれの中の一つと言えよう。

 レヴィナスは 無限の神性 に於いて「定言命法は、主体が自律的である場合のみ価値をもつ。」と言っている。これはカントの統覚が判断主体である自己の理性や理性への懐疑から発する問いの中で、下す結論への信念、正当であるとする判断のことであるが、「どの存在もそれなりの仕方で同一の無限を反映している」の謂いに於ける真理、つまり対自的問い、自己内在的な自己を他者化することで成立する問いが、無限の反復、つまり自己を私としてと他者としてとの反芻に外ならないこと、つまり問いの反復の中に、正に現存在の一個である私は有限の(空間的占める位置もだし、持てる時間もだが)存在に於ける無限の反芻に見出している点で、彼は神に拠る決定論者ではない。だから如何に彼がユダヤ教・キリスト教から啓発されていても、彼はカント的な自律論者である。

 彼は 1 無限の諸問題 で「本質は、「芸術作品が完成されるという意味で、現実的なものが成就に至るまで現実化されるという意味で、有限(フィニ)〔出来上がったもの〕であろう。」と述べている。そこから読み取れることは有限とは枠を設けられた一つの共同注意に値するもの、こと、或いは要注意事項として心に留め置かれたものであるということだ。

 それは一つの単位の端緒である。命題は必ずその単位としての端緒がある筈だからである。

 レヴィナスは同じ 無限 の中の 無限なき有限 で次の様に述べている。

 「カント的批判は、時間を純粋形式とし、そこで自然が与えるような一方の直観と、無限の観念その存在を確信することなく所有するような他方の理性とを厳密に区別することで有限なるものと無限なるものを新たな仕方で制定した。デカルト的伝統においてとは逆に、有限なものは、カントにおいては、もはや無限なものの光に照らしては理解されない。」

 「(前略)現出する自然は主体の有限性の徴しを刻まれている。」

 「継起的なものは主体の徴しを刻まれている。」→「(前略)全体性はここではまさに時間的継起であって、論理的継起の永遠性ではない。」

 理念の無限は、超越論的仮象と呼ばれる錯覚を代償としてしか現勢化されない。<理性>が時間を不当にも踏み越えることでしか。」

 有限なものは、無限のものには準拠していない。」

 ハイデガーにおいては、存在の有限性は無限の否定と等しくはない。逆に、世界内存在、配慮、死に臨む存在といった実在の肯定的諸構造にもとづいて、有限性は描き出されるのだ。有限な時間点を出発としつつ、また、この有限な時間性の失墜と通俗化を介して、ハイデガーは無限の時間を引き出している。」

 ここで重要なことは無限とは、実は有限であることが、その自己同一性への着目、それはとりもなおさず反省的な自己への認識、自己に対する問いの反復というかたちで、そこから無限が出発する端緒であることから引き出されているということなのである。

 一つ一つ検証していくとすると、まず①はその存在を確信することなく所有するような他方の理性とは不動・固定性を前提すること、合理的実在のことである。それが無限の観念と対置されることがカントに拠って論理設定されたということだ。対し②は有限性の徴しという謂いは明らかに新約聖書でイエスが度々批判している人々が徴しを求める心に対する謂いであるとするなら、イエス的キリスト教倫理への批判である。それはニーチェ発の提言の延長戦上にあるとも言えよう。

 ③はここでレヴィナスが生の時間の所有者たる現存在=世界内存在の一つの決定的運命、つまり論理的継起であるなら永遠に準拠するけれど、それが叶わないこと、つまり生の時間の有限性、そうであればこそ逆に唯一的である様なことを言っている。

 ④は「理念の無限は、超越論的仮象と呼ばれる錯覚を代償としてしか現勢化されない」と「有限なものは、無限のものには準拠していない」は理念の無限が非実現性のものであること、だからこそ我々は思惟し、且つ履行していくのであるが、それは正に有限であることが無限とは異質の事態であるからなのだ、とここで受け取ることができる。我々は無限を体現できない。生の時間が有限だし、力能的にも有限だからだ。だから彼が考える様に有限であることへの我々の自覚と認知こそが逆に無限を生んでいる。だからこそ⑥の「ハイデガーにおいては、存在の有限性は無限の否定と等しくはない」「世界内存在、配慮、死に臨む存在といった実在の肯定的諸構造にもとづいて、有限性は描き出される」「有限な時間点を出発としつつ、また、この有限な時間性の失墜と通俗化を介して、ハイデガーは無限の時間を引き出している」というハイデガー解釈からの謂いが正当性を持つ。

 有限性は直示されていること全てである。全てがまず目に耳に飛び込んでくる。それは全て有限であること、有限そのもの、有限なる事態であらざるを得ない。その事実への決定的なる覚醒こそが逆に無限を生んでいる。概念的理解という意味でもそうだし、理想、理念、願望、希望もそこから生まれている。

 だからまず有限である目に飛び込む耳に入ってくる全ての事態への認識こそが、それを単位(部分、要素)とすることで、全体が設定され、その全体性の中で再度その直示された単位としての有限の事象を我々は捉え直すのだ。

 だから枠ということ、範囲ということもこの直示されている有限の事態が父であり母である。そこから全体が開かれ、開かれた中の一つであるという認識の中に我々は例えば我々の生の唯一性、我々の生が消費する蕩尽する時間の唯一性、それは時間自体の取り戻せなさのことでもあるが、それを見出しているのである。(つづき)

 

 付記 無に就いて一切触れなかったが、実は生の唯一性、私ということを生きるしかない我々の全ての成員の中での唯一性、生の時間の唯一性の死による消滅と、消滅し得る存在者として生を受ける以前の私ということの無、私が誕生していなかったこと、というかたちで我々は無をも通常理解し得る。勿論存在者として<我々は現存在、世界内存在としてなのであるが、我々でなくても>世界に現出していることそのことからでなく、無そのものとして理解し得る我々であるが、原初的には有との対比で我々はそれを理解している。そのことから無そのものも今回の議論には潜在的には全てに介在している、と見ることができる。

  

 尚<他性と超越>は法政大学出版局、エマニュエル・レヴィナス著・合田正人/松本和弘訳として出版されている。このテクストから全ての引用を負った。

 

 

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2017年4月24日 (月)

思想・哲学メモPart71 Part70で言おうとしたことの本質に就いて

〇今日我々は神に対して二つの立場を哲学上で認めることができる。それは引いては哲学以外のことへも大きく関係していくものと思われるので極めて重要である。

 

〇一つはウィトゲンシュタイン型である。これは私的言語はあり得ないとする彼の哲学的考えに顕著に示されている。実在から存在を究明してきた哲学史ではしかしニーチェ以降実在から存在を問うこと、即ちその際に最も中心となる言葉自体の営みそれ自体をメタ的に捉える視点がウィトゲンシュタインによって獲得された。

 これはメタ的なる神との出会い、つまり実在、つまり物証的に確認できる実在ではないものへ価値を与えている。そして言葉が論理として公理として示す正当性への着目という意味では、言葉自体が奇蹟だという考えがあり、それは言葉の中にこそ神が見出されるというタウマゼインがあると言える。

 しかしこれは多分に彼が無意識に(実際はそう意図してでは決してなく)ロゴス中心主義に沿っているので、初めにロゴスありきという新約聖書以来の観念に忠実であるとも言える。

 

〇もう一つの立場はレヴィナス型である。彼はキリスト教神学・倫理学史から哲学に参入している。それは彼がフッサールとハイデガーを師と仰いでいることからも明らかである。しかし彼個人としての感性では、彼はユダヤ教徒でもある。彼は哲学者として以外にもタルムード研究者としてヤハウェ信仰がある。

 そこでレヴィナス的哲学との関わり合いを我々はキリスト教実践論とは異質の内在論と捉えることもできる。尤もこれは同じくユダヤ人であったフッサールにも言えることである。

 

〇心の中の神への向き合い方はカントの考えていた誠実性とも関係しているし、ニーチェ的転回、つまりキリスト教倫理の内側からキリスト教倫理への矛盾摘発と批判を行った事とも当然深く関与している。キリスト教倫理では要点主義的実践論がまず提唱されている。つまりそれがキリスト教の思想だからである。カントの定言命法は明らかにこの路線に沿っている。つまり社会倫理としての神との対話、正義論なのである。

 しかしユダヤ教的な世界観では、個人性としての神との出会い、つまり個の内在的信仰という事が考えられる。それはユダヤ教の神が実践論的なものではないからである。信仰を実践とは切り離すという考えが彼等にはある。

 

〇だがニーチェ的転回以降の歴史では、メタ的なる言語それ自体に奇蹟を見出すウィトゲンシュタイン型の思想以外で、このレヴィナス型の思想が、神との向き合い方として有益であると思われる。それは社会倫理的な義務外のことだから却ってそうである。つまりレヴィナス型は明らかにニーチェの唱えたキリスト教倫理的義務感から解放された心の自由さがある。だからこれは同じメタ的であっても私的言語等一切あり得ないとするウィトゲンシュタイン型とは正反対である。ウィトゲンシュタインは愛着としてのユダヤ教的神からではなく、問うことに含まれる疑うことを許されないユダヤ教律法的神への随順とも同質である、キリスト教ロゴス思想への無意識の接近が見られることから、我々には一切言語から自由になれるということがあり得ないという思想に裏打ちされているからである。故にこれはレヴィナス型の持つ心の中の愛着の自由とは或る部分では対立する。でも別の部分では両立可能でもある。

 つまりレヴィナス型の愛着的な、だから内在的な信仰の自由は、ウィトゲンシュタイン的な言語に呪縛されていて、我々の思考や判断はそこから一切自由でないと思想していても、充分日常生活では保持できるからである。

 

〇つまりこの相反する二つの想念を同居させるところに我々の存在の矛盾と可能性がある。それを理解するにはハイデガーの世人の頽落という観念と、脱自とテンポラリテートという考えを持ち出すことに意味があると思われる。

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2017年4月23日 (日)

思想・哲学メモPart70 神から無神論から心の中の神との対話へ・実在と言葉(言語)、存在の問い

〇一神教の神はユダヤ教の神、ヤハウェから発している。それを最初に心へ抱いたのがアブラハム(エイブラハム)とされる。これはユダヤ人からすればユダヤ教の祖でありイスラエル民族の祖であるし、アラブ人からすればアラブ人並びにイスラム教の祖でもある。しかしイスラエル民族の法典を最初に規定した人が預言者モーゼである。

〇上記の時点で神とは与えられたものであり、その存在を問うことは許されていない。だがイエスの登場によってユダヤ教通史に一つの開闢が齎される。そこで初めて神性は人性と一致する。メシア思想の体現者として一部のユダヤ人、そしてローマ人、ギリシャ人もその観念に賛同していき、キリスト教通史が始まる。その際に最初に経典を体系づけたのがパウロであり、その後学術、つまり神学としてフィロン(ユダヤ人)、クレメンス、オリゲネス、そして聖オーガスティン(アウグスティヌス)が登場する。アウグスティヌスは世界初の言語学者でも修辞学者でもあった。パウロからオリゲネス迄の全通史をアウグスティヌスが体系的に認識し、その後の聖トマス(トマス・アクィナス)が登場する素地ともなった。このアウグスティヌスを経たその後の流れで重要なのはギリシャ哲学を体系づけたアリストテレスをキリスト教と接合させた通史と言えるということだ。

〇その通史の中で哲学はキリスト教世界観と平行して歩み、その中で神学が必ず平行して歩まれているという意識を介在せずには展開しなくなる。その中にデカルトもスピノザもカントもヘーゲルも位置づけられる。

〇だがニーチェが哲学史に於いて初めて有神論的通念へ懐疑的立場を示した。それは彼がどっぷりとキリスト教倫理観、キリスト教的世界観に根差したモラル論から世界を洞察していることに於いて、懐疑したという意味で重要であった。それは有神論から無神論へと命題のメインストリームを移行させたが、それはあくまでキリスト教倫理と平行して歩まれた哲学史の内側からの提言であった。

〇だが上記全ての哲学史、神学史と平行して歩まれてきたところの命題から演繹されたニーチェ発の無神論は、ハイデガーによってより大きく転回したが、重要なことは、その無神論的命題の発起自体に既に理神論的意味合いもあったということがニーチェ以降のストリームの中で徐々に現出していった。その発起がキリスト教一神教的倫理観から根差した無神論であるという固有の人類史的自嘲、自己懐疑精神には、徹底的に人性としての神を否定しなければいけないが、そういう否定には否定を成立させる肯定として人の、つまりハイデガー的に言えば現存在的言及という事態が拭い難く控えてきたという自覚があった。従ってそれはずっと神を実在として疑うことなく信じてきたキリスト教史の中で、非実在としての神から無神論が導かれたとしても尚形而上性として神が疑われた訳ではなかった。その点でウィトゲンシュタインは言語自体が、私性、彼の語に従えば私的言語の不可能性から成立しているのだから、言語思考自体に既に神が内在しているというテーゼを決定的に後世へ植え付けた。それは同年生まれのハイデガーが脱自とテンポラリテートから語ったメタ的な時間観念から現存在の時間の有限性を逸脱しつつ、その逸脱を承知で永遠とか無限とかの観念を喚起していることそのことを洞察してきたことと全く重なる。つまりウィトゲンシュタインとハイデガーは明らかに実在と言語、それは存在自体が実在的な形而下性だけでなく、形而上性を含有してもいるわけだから、存在とは実在と言語の問題なのだ、ということが、彼等が登場する前迄は隠蔽されていた。常に心の藪の中に隠されてきたわけだが、それを露呈させたのだ。これはウェブサイトの登場によって公共空間で私的な時間を平気で楽しむ個人主義的自由を人類が開示したことの予兆であったかも知れない。

〇かくして神は実在レヴェルから当然のこととして現代社会の真理でもある言語(その中に当然プラグラミング言語も存在する)の中に、そもそも神というものは、論理思考のアルケオロジックな前提(premise)として言語行為を行う様になった人類の初期から介在してきていたのだ、と覚醒することとなった。只そうなる前のキリスト教倫理史的な通史を歩んだ人類は二‐チェがパンドラの箱をひっくり返し、蓋を開けてしまって以降、あからさまに隠蔽されてきた実在オンリーの見方から、実在を実在させる存在、つまり言語が実在をも認識させ、認識されてあることとしての実在レヴェルの問いが言語自体をも一つの実在として、全存在者の存在と等価のこととして認識する様になって、数学的・認知科学的・コンピュータサイエンス的要請も伴ってプログラミング言語も参画する様になってここ100年の歴史だったのだ、と今我々はキリスト教通史以降のそこから引き継がれた人類史を認識することができる。それは歴史学的であると同時に人類学的でもあり、哲学史・神学史的でもある通史自体の多層的、錯綜的リアルを証明してもいる、と言える。

〇だから修辞学はずっと哲学や神学と平行して歩まれてきたが、このニーチェの転回とハイデガーの転回から、修辞学的・批評学的な視点から存在論、認識論を認識し直してもいのだ、という観念の大きな動向の中にあらゆるポストモダンムーヴメントが位置づけられ、ソシュール、ヤコブソン、レヴィ・ストロース、レヴィナス、デリダ、フーコー等もそのストリームの中から再認していくべきだという視点も現在我々は持ち得る。それはウィトゲンシュタインをも生んだ数学史・論理学史的なストリームの中からフッサール、フレーゲ、ラッセル、ムーア等(その他にパース等も重要な指針を既に提出していた)も数学史・論理学史だけでなく神学史的にも再認し得る可能性をも開示している。世で言う程ポスト現象学的位置づけのポストモダンと分析哲学や論理学は実は乖離している訳ではなかったのである。

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2017年4月22日 (土)

思想・哲学メモPart69

〇我々は固定化された事態しか想定できない。それはいつもそうであるというかたちでである。いつもそうであるということは、それがずっと変わらない性質があると考えていることである。

 

〇固定化された事態とは、動かないということである。動くということを刹那的な事態としか理解しないからこそ、動いてもそのものの本質は変わらないと考えるのである。

 

〇実在をその様に固定化された、つまり変わることのない性質を保有するものとして理解している。

 

〇空間は常にそこにある、ここにあるというかたちで理解されている。しかし空間は常に時間を伴っている。さっきは今ではないし、これからも今ではない。ただこれからは常に今から発していると思っている。

 

〇さっきのあそこの空間と今のあそこの空間を時間を通してさっきまでは~だったが、今は~であると理解する。

 

〇今は常に変わって行ってしまうので、それは実在とは違う。だからマクタガートが時間は実在しないと言う時、それは今というものを軸にすれば、ということである。

 

〇概念や観念はそういう在り方であるというかたちで変わらない。だからそれは固定化された実在的なものとして捉えられている。

 

〇今を軸にすれば常に今であるが、さっきの今は過去で、これからの今は未来なので、それは明らかに実在的な事態ではない。だがその様に今が刻々と移り変わるという事態は固定化されているし、それは変わらないから、究極的には変化し続けるという性質は固定化されていて、変わらないと言い切れる。だから変化は実在である。実在する、耐えず何らかのかたちで存在し続ける現象である。だから固定化され得ないことはそういうものとして、そういう性質を持つものとかこととして固定化され、一つの事態であり、それもやはり実在である。

 

〇時間は実在するというより、実在するものとして理解しなければ、空間との密着した関係を語れないからである。今は実在するのではなく、常にその都度そうであるというかたちでのみ変化せず、常にそうであるというかたちで実在する。一つ一つその時その時の今は実在しない。

 

〇そういった変化の場は明らかに空間である。空間は存在すること、存在自体の一つのしかし絶対的な背景である。存在とは空間での全事象、全現象、全変化を一挙に実現させられていることそれ自体である。

 

〇存在は従って語彙規定、言語的に理解されているというかたちで初めて実在化する。時間もそれ自体が存在しているのではなく、変化と(ということは、その時々で状態が異なるということである)、常に今であるが、その時々の今は必ず過去に後退するという二つの事態が密着しているそのことが恒常的に展開されていることを言っている。

 

〇空間で展開される変化が一切なくても時間それ自体は成立し得るかということに就いて永井均はあり得ると考えている(<時間の非実在性>ジョン・エリス・マクタガート 翻訳、注解と論評 より)。しかしそれはマインドとしての時間認識、内在的時間を外的にまで拡張しているだけであり、それは形而上性が形而下的であることから生み出されているのと同じことであり、拡大解釈し過ぎているとは言えないだろうか?何故なら我々の内在性、形而上性は明らかに外在的に認識し得ることだけでなく、身体存在自体から喚起されていて、身体がない状態では我々は内在的時間を感知し得ない。従って我々個々にとっては死して身体的存在でなくなった場合、そこでは時間を感知し得ない。だから身体的実在を通して、存在レヴェルからしか時間を語れないとしなければいけないので、存在無しの純粋な時間ということは自家撞着だということになる。心は明らかに身体的な事態の総合なのである。

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2017年4月21日 (金)

現代社会の奴隷であることは社会的地位の高低とは関係ない、でも

 我々日本人は少数民族にしては少し国家が強大になり過ぎた。だから今の政府が東京五輪を成功させたい気持ちや世界各国で吹き荒れるテロを抑止するのに必死でテロ等準備罪等を拡充させようとしている気持ちは水平的視点からよく理解できる。

 だが世界の人口比率から言えば一位が中国、二位がインド、三位がアメリカであるが、アメリカは今も人口増加をし続けているので、遠からず今は三倍程日本より国民の頭数は多いが、日本はもっと引き離されていくだろう。そして我が国の国力もどんどん低下していく。だから近隣の外国とは巧くやっていかなければいけない。色々な分野でどんどん周辺諸国の方が上だという事態がやってくる日もそう遠くない。

 日本ではかたちだけの民主主義とかたちだけの自由主義が標榜されているだけで、基本的にどの職業世界も先に地位に就いていた人にとって有利な様にしか展開していない。お笑いはそのことで生じる日常生活上での憂さを晴らすためだけに存在しており、お笑い芸人自身が思想を持つことは、偉くならない限り認められない。つまり最初からお上の太鼓持ち的芸しか許されていないのだ。それは芸能界全体にも言えるし、家族愛の様なものをNHK朝ドラで表現したいのだろうが、実際的に社会全体がそういう家族像の様になっているとは到底思えない。偉人に関してか、仮想的なフィクションで構成されている朝ドラはNHKが考える、と言うより暗に国民にそうやって片寄せ合って生きていこうと推奨するための像でしかない。それ以上の発想を持てないのがNHKの限界である。

 日本の運命は太平洋戦争をアメリカとして負けた時点で決定されていた。日本は戦時中には一般民間人に竹槍訓練とかをさせていたし、バケツリレーもさせていた。しかしアメリカとはそんなことで何とかなる相手ではなかった。それに気づくのが遅過ぎた。かくして戦争をしないというだけでなく国防も一切疎かにするしかない道だけを歩んできた。だからそれを漬け込まれて北朝鮮にいい様に拉致させたりしてきたのだ。性善説主義がこの国には支配しているからである。

 日本から外国へ諜報員を送り込むということも一切していない。だが実際は日本にやってくるかなり大勢の外国人はそういう目的もあって来ている。だが外国人をもてなすという習慣を日本ではずっと続けている。とりわけ白人の人達にはより親切だ。しかもニュースではどういうわけか白人とのハーフアナウンサーばかり異様に起用する。

 でも自由の御旗を立てている当のアメリカでもNSCは完全に全国民の行動を監視・盗聴している。現代社会とはどの国も狭い見識しか個人には持てない様に機能している。法治国家とは所詮そういうことである。或いはどこかに雇用されること、そこで労働の対価として賃金を貰うということ自体が既に形ばかりの人権だけ与えられた奴隷として生活する様なものである。

 奴隷がアメリカ南部の黒人の様に冷遇されていただけの歴史が人類史であるわけではない。何か戦争があれば駆り出されていても、ギリシャの奴隷はそれ程受難的生活であった訳ではないらしい。我々がイメージしてしまいがちな奴隷とはアメリカ南部の黒人奴隷なのだ。

 でもアメリカでは黒人の地位は向上したけれど、それに不満な白人も今も根強く存在し続けているということだ。

 人種差別や民族間の他民族への偏見も全く消滅しない侭きっと22世紀をも人類は迎えるだろう。つまり我々現代人は日々の常に最新の情報を摂取しようと躍起になっている状態、今働いている状態よりもっといい待遇のいい条件の職場を探し求めたりすることも全て資本主義の奴隷として生活しているということだ。だから私は共産主義が理想だと言っている訳ではない。それだってやはり個人が自由に賃金を稼ぐことでなく、平等に分配されるのだから奴隷であることに於いては変わりない。

 我々はまず言語の奴隷であり、生活習慣の奴隷であり、人間関係の奴隷であり、それでも何とか自分なりのゆとりのある生活を手に入れたいとか、余暇を精神的に充実したものとして過ごしたいとかの自由への希求ということの奴隷なのである。

 死ぬ迄生き続けなければいけないのだから、言ってみれば誰もが人生の奴隷なのだ。存在者は存在の奴隷だとも言えるし、時間の奴隷だとも言える。

 もっといい生活をと暗に常に望んでいくしかないことそのものも一つの願望の奴隷である。欲望、希望の奴隷である。

 だから全く何者からも拘束を受けないということとは死ぬ以外にはないということになる。

 ウェブサイトが何から何迄も世界を塗り替えてしまった。これは確かだ。だが自由とはそういう20世紀迄の一般常識とはかけ離れた21世紀に於いても価値として語られるだろう。だから自由の奴隷だとサルトルが言ったことは正しかったのだ。

 物質的な自由だけでなく、心の自由ということは、だから逆に余りにも多くの今より良い状態を望むということに対して疑問符を突き付けることではないだろうか?現代社会は誰もが個として可能性があるとそれまでの世紀より一層大きく振れ込まれて皆生活している。だが可能性は上から誰かに狭められる様であるべきではないけれど、誰しも実は極めて限られている。最初から全ての可能性を持って誰しもが生まれついている訳ではないからだ。

 心の自由は生活していく現実そのものよりももっと可能性がある。人類は宇宙飛行士にでもなれない限り地球から離れることは一般にはできない。それが可能なのは自らが世界一の富豪になるしかない。しかしそれは誰もが実現できる訳ではない。

 だからこそ心ではどういう思想を持とうと自由である。だがそれを実現させるとなると、どんなに自由な発想を持っていても、所詮限界がある。

 現実とはその様に一切自由が利かない様になっているのだ。それを慣性と呼んでもいいし、惰性と呼んでもいい。

 だから心の自由はその現実の思い通りに行かなさの中に在る。誰もが世界はこうあれと望む。だが結局誰もその通りに世界が実現されていない。その点では大富豪でも低賃金労働者でも平等である。

 大成功して社会的地位が巨大なものになればなる程一切それまでとは違う挑戦を控えなければいけなくなる。常に挑戦し続けられる人とは全くずっと成功しないで失敗だけを繰り返してきた人達だけである。

 そして現実に於いて不自由を感じれば感じる程心の中では違う形ででもあり得る、存在し得る自分ということを想像する様になる。

 だから最終的には最も簡単な自由とは瞑想しながら睡眠をとる時には少しでも気楽な夢を見たいと望むことだけである。

 人類は案外どこかでは常に人類絶滅する時のことを誰もが考えているのかも知れない。その時節に立ち会っているか否かは今これから人類がどういう決断を世界の危機に於いて下すかにかかっているが、世界中がアメリカの様な裕福な国を目指しても、それは実現しないし、そういうことを世界中が望む訳でもない。だから自分ではどういう時代にどういう両親の間にとか、どういう地域や国に、男とか女とかとして生まれてくるのかを選べないということに於いては皆平等であり、誰もが最初からいつか死ぬということだけは知っているけれど、できるだけ先の方がいいとしか思えない奴隷として生活していくしかないのだ。

 ならばいっそその死ぬ迄ずっと自由を求めること以外にしようのない喜劇的な自分を、そういう奴隷的生活の自由への隷従者として楽しんで生きていくしかないのではないか、という結論だけしか導き出せない気もするのだ。

 私の場合には、常に漠然とした計画しか立てずに、その時々の気分で先行きのことを全て決める様な生活の奴隷にならなってもいいとは思える。そして過去は全て切り捨てていくのだ。計画を一切立てず、展望もかなり漠然としか一切持たない様にするということだけを信条に残り少ない人生を全うしようかとだけは思っている。

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2017年4月20日 (木)

思想・哲学メモPart68/文学・宗教メモPart3

〇イエスの言葉(マルコの福音書)から考えてみよう。

 

 

 

 「人の子は安息日にも主です。」(2, 28)

 

②「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」(8, 12

 

③「この天地は滅びます。しかし、あなたのことばは決して滅びることはありません。」(13, 31)

 

④「私は手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる。」(14, 58)

 

 

 

 これらのイエスの御言葉とされる文言が意味するところを一つ一つ経緯から説明するもは大変だが、重要なエッセンスから紐解くと、①の人の子が安息日にも主だとされる言葉には、人間の倫理的権利から一つの主体性がイエスによって与えられている。これは自らが自らの神になるという理念、内在的なキリスト教倫理を示している。

 更に②は権威によって認定されていること、そのことに胡坐をかくことを厳しく戒めた言葉である。これは因みに「あなたがたは、しるしを不思議とみないかぎり、決して信じない」(ヨハネの福音書4, 48)、「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのるしのほかには、しるしをあたえられません。」(マタイの福音書 12, 39)等々が同様のメッセージとして、それぞれ違う箇所で登場する。

 ヨナのしるしはそれなりの正当性があったのだが、その功を我も我もと求めるのはお門違いであるとイエスは言っているわけだ。ヨナのしるしとはあくまで一つの奇蹟だったのであり、それを我もと求めるのは可笑しいというメッセージだ。

 

〇上記の持つ観念とは、①での<祝福されるべきは安息日に休息をとる御身である>ということ、これは内在的なること(immanent)の置き換えである。内在的であることはキリスト教の予型論Typologyによって構築されたパウロ以降の考え方だ。それは旧約聖書に新約聖書で主張するメッセージの骨子は書かれてあるとする説で、ユダヤ教による旧約聖書解釈と対立する。

 

 因みにイスラム教ではスンナ派とはユダヤ教に相当する、字義通りのことで、それ以上の応用を許さない考えであり、シーア派は書かれてあることには裏の意味もあると見做す考えである。だからシーア派の態度の方がこの場合には、キリスト教の旧約解釈に近い。

 

更に③はモストモダン論客グループであるイェール学派が批判するロゴス中心主義、つまり最初にロゴスありきという思想(ヨハネの福音書からのもの)をその侭示している。

更に④は内在的なることのメッセージである。遠藤周作<イエスの生涯>(新潮文庫版、160ページより)では次の様に言っている。

「イエスが建てると言った神殿はもちろん精神的な意味での愛の神殿であり、現実の神殿ではなかった。」

つまりここでもイエスはしるしで批判した権威主義を批判しているのである。

 

ここでイエスの持つ思想を幾つかの語義を与えてみよう。するとこうなる。

 

 Ⅰ、主体的に人間は自己によって自己の行動を決すべし。自らが自らの神になることを神はお認めになられる。

 Ⅱ、ロゴスがはじめにあった。その御言葉から全ての思考も発している。

Ⅲ、内在的なることを奨励する。それは心の中でのロゴスの反芻であり、心の中で噛み砕き理解せよ。

 

Ⅰは明らかにカソリック、そしてその後の宗教改革から出発するプロテスタントへ通底した一つの真理だ。それは預言者の言葉や指導に従うだけのモーゼの十戒的な世界観の呪縛からの解放であり、エゴの持つ効用を逆利用する道への示唆となっている。だがそれはⅡの旧約聖書から発しているロゴス起源論(アルケオロジー)を容認する中でのことだ、というメッセージである。更にⅢはそのキリスト教論理を内的に理解し、日常生活で応用せよということである。

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2017年4月19日 (水)

思想・哲学メモPart67 絶対無とは絶対的自由の別語である

〇無は無という概念と決定的に異なる。無という概念は有であり存在者である。だが無そのものはそうでない。

 

〇無(絶対無)だけが全てから自由だ。絶対的自由とは無以外のことではない。

 

〇存在は存在者から自由ではない。従って存在は絶対的自由ではない。

 

〇無は実在という位相からさえ語られない。それは端的に無だからである。

 

〇実在という範疇で無を捉えるのは単に概念認識上の問題でしかない。

 

〇だが無そのものは概念認識を寄せ付けない。それは端的に端的だと絶対に言えない、つまり認識され得ないこと、絶対認知できないことそのことなのであるから。

 

〇相対的自由しか体験し得ないし、認知し得ないからこそ、絶対的自由ということが、その事実から演繹されるだけである。絶対的自由は何者からも束縛を受けないという事であり、束縛とか規定ということそのことから完全に異なる事態としてのみ認識される。認識されるが、それは実在的に不可能である。従って絶対的自由は無以外のものと相同であることができない。

 

〇死は無を志向するだけである。死そのものは生の最後の出来事であり、有的位相の事態であり、存在者が存在から解き放たれることである。

 

〇志向される無はかつて有であったのでも存在であったのでもない。無から無起源的に無だけであり続け(だが実在的にそうであり続けるのではない)、その事態自体が消滅することもない。起源も終了も登場も消滅も皆無であることそのことのみを無と呼ぶ。

 

〇存在しなったこと、し得なかったことは存在(∃)の範疇で語られるが、その様に語られもしないことそのことをも無は含む。だから存在や存在者の到るところに無は潜んでいるとも言える。だが絶対無とは潜んでさえいない。その実在的語られ得なさこそが絶対的自由たる所以である。

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日記的記述EH 絶対的自由不可能論

 今日未明の民放に西畠清順氏(プラントハンター)の古舘一郎氏によるインタビュー番組があった。その中で西畠氏が「我々人類は農業をする様になり、初めて人為的に地球環境を改造したけれど、ある農作物を生産する土地を作った時点で、その土地は畑として囲われ、それ以外の目的を失い、農作だけのためになり、そこに偶然迷い込んだ農作物生産のための種以外の種の植物を雑草というかたちで必要のないもの、主たる農作物生産にとって邪魔ものとして退けることとなった。」と語ったら、古館氏が「ヨーロッパのある人類学者は、人類が生存のために必要な農作物を生産する様になった時点で、人類は人類生存にとって不可欠なその農作物の奴隷になった、捉えていた。」と返答した。

 ここには極めて重要な幾つかの真理が含まれている。

 それは前者は地球環境に畑として耕す土地を設けた時点で我々は或る固有の枠を地球環境に恣意的に与えた、ということ、つまりそこに社会運営のために必要な国土(国というかたち以前に社会共同体としてスタートしているので、民土でもいいのだけれど)を設定するということ、後者はその土地に住むという時点で、土地で生存するために必要な食物の奴隷となっているということとして受け取れた。

 最近テレ東の開局記念日特別ドラマ<破獄>(吉村昭原作)で、浦田進看守部長(ビートたけし)が言う台詞で、何度も性懲りもなく脱獄する囚人に対して「どんなに脱獄して逃げて行っても、所詮我々は社会というもっと大きな牢獄に住んでいる様なものだ。」というのがあった。

 つまり我々はどんなに誰からも拘束されない真の自由を求めても、何等かのかたちで生活を営んでいかなければいけない限り、絶対的な自由等獲得することはできないのだ。お金を払って食料を調達しなければいけないし、社会成員として認められるためには税金を支払わなければいけない。

 要するに我々は絶対的自由ということを実現することはできないのだ。何故なら自由とは不自由な拘束、足枷からしか獲得できない様になっているからなのだ。

 このことは世界に空間とか時間という単位を設けること、全体に対して部分という認知をすること、つまりそういった枠からしか世界を観察することができないということを意味している。

 ウィトゲンシュタインは自分という個にだけ理解され得る言語、言葉があり得るだろうかと問うたが、それは自分を自分に納得させようとする時点で、既に他者というものを含んでいるということを突き止める為だけに生涯を費やした。

 永井均は私にしか分からないこと、私の身体を通してしか痛みとか様々な感覚が理解できないこと、誰から教わるでもなく痛いとか寒いとか感じることができること、そしてその感覚は他人の身体には感じられないことという事実に於いてはどの社会成員、つまりどの自分にとっての他者にとってもそうであり、そうである普遍的な事実として全ての人間(社会で生活する人達)が並列的に共存する中の一人としてのみ自分で自分を認定することで、初めて我々は言語を理解しているというかたちで、ウィトゲンシュタインの観念を補足している。

 我々は自由ということを常に不自由な状態を自己に感知した時に持ち込むが、それは或る意味ではその足枷から解放されたいと願う一種の幻想であり、仮に一つの義務を放棄しても、そのことで罰せられたりもするわけだし、要するに我々は社会から隔絶して生活していくことなどできない、ということなのだ。

 だから自由という観念、自由という事の価値とは、どんな足枷、どんな枠にも当て嵌まらないということが不可能であるという決定的真理に支えられているということなのだ。

 このことをサルトルは自由という足枷を自らに課した自由の奴隷というかたちで<存在と無>で認識している。

 自由、そこには何と輝かしい価値を我々は見出していることだろう。だが世界に全体と部分という枠を設けずに世界というものを認識し得ない段階で、既に我々は言語という枠の中でしか生きられないということを意味している。

 言語には主語があり、述語があり、目的格(目的語)がある。つまりそこに既に枠があり、枠の内側か外側かという認識が介在している。

 従って絶対的な指標として自由とは常に限定的であり、常に相対的なものでしかないということになる。何故なら或る枠の外側に位置している、その枠の内側にはない、という述定、つまりそういう認識によってしかその枠外のことを認識し得ない以上、我々は全体とか部分という規定の中からしか思考できないからである。

 だから問題とは常にそうった枠、単位を何故我々は設けてしまうのか、それはその枠を設けなければ意思疎通し合えないからだ、とまず答えられるが、では何故意思疎通し合わなければいけないのかというと、それは生存していかなければならず、生存するには社会に関わらなければいけないからである。

 だが同時に仮に完全な自然の山奥深くで生活しても、食料調達のためには自然から何かを摂取していかなければならず、自然全体のサイクルには逆らうことができない(尤も実質的に地球の中で何等かの国家に帰属しないフロンティアとは存在しないので、そういった生活をしてさえ、社会という枠の中で生活することだとは言えるのであるけれど)。

 相対的にしか自由ではあり得ないということ、その絶対的事実から逃れて生きていける者は地球上には何者も居ない。これだけが真理だとさえ言える様に思われる。

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2017年4月18日 (火)

ディランがニーチェから受け取っているIt’s alright Maの歌詞部分を<ツァラトゥストラ>から理解する、だがそれはバイロンとは方向性が異なる/ヨハネの黙示録の記述とニーチェの考えの共通性から読み解くPart1

 ニーチェは偉大な詩人性を持った哲学者だったので、そこから大きなヒントを得ている詩人や哲学者は勿論、ミュージシャンも居る筈である。ディランがIts alright Maという曲でニーチェの<ツァラトゥストラ>から啓発されているとした部分は次の箇所だった。

 馬鹿の持っている窪みが割り込む金のマウスピースから 奴なら生まれるのが忙しいという事は死ぬのが忙しいのではないっていう無駄な警告になり得る言葉を弄びFrom the fools gold mouthporce the hollow hornPlays wasted words, proves to warnThat he not busy being born is busy dying

 勝利を警告する者もあれば、没落を警告する者もあろうAs some warn victory, some downfall

 人類の神達は彼等の徴を狙っているのさAs human gods aim for their mark

 善は門の影に隠れている だけどアメリカ合衆国大統領さえ 時として裸になるんだGoodness hides behind its gatesBut even the president of the United StatesSometimes must have to stand naked

 賢明な者達も愚かな者達の為にも/ご主人様達がルールを作るにも関わらず/僕は何もないんだよ、ママ、頼るものなんてさAlthough the masters make the rulesFor the wise men and foolsI got nothing, Ma, to live up to

 権威に従わなければならない彼等の為に/どんな階級も尊敬なんてしやしないって/彼等の職務を軽蔑し、彼等の運命も軽蔑するのは誰だい?/自由がある彼等に嫉妬して 彼等の花をきちんと栽培しろよ/彼等には彼等が投資する何か特別なものより以上のものなんてないんだからFor them that must obey authorityThat they do not respect in any degreeWho despise their jobs, their destiniesSpeak jealousy of them that are freeCultivate their flowers to beNothing more than something they invest in

 穴に落ちてしまうくらいなら、いっそ最初から穴の中に居た侭の方がいい。But rather get you down in the holeThat hes in

 でも僕が言いたいのは、害悪は無いけど、失敗して責任を取る必要もない。跳躍している誰かの上に居るだけなら。But I mean no harm nor put foultOn anyone that lives in a vault

 金は誓っても一切それを語る事はないものだから、一体誰が猥褻さそのものを取り締まるんだい?宣伝文句(プロパガンダ)なんて所詮全て紛い物なのさ。While money doesnt talk, it swearsObscenity, who really caresPropaganda, all is phony

 さてこの私が曲から抜き出した部分と全く同じことをニーチェは<ツァラトゥストラ>で次の様に述べている。順不同で解説するので、該当するディランの歌詞部分を上記の番号で文章の脇に示しておこう。

 あなたがたの能力以上のことを望むな。能力以上のことを望む者たちには、邪悪な欺瞞がやどる。

 とくに、かれが巨大なことを望むときに、そうだ。なぜというに、かれらは巨大なことに対する人の不信を助長するからだ、かれらは巧みな贋金造り、俳優であるにすぎないからだ。

―そしてついにかれらは自分自身に対してもいつわり者、正規の目を向けることのできない者となり、強力な言葉、看板用の徳、輝かしい贋の事業などのマントを着て、上塗りばかりがぎょうぎょうしい虫食いの品となる。⑨

高所に登ろうとするなあ、自分の足を用いよ。他者の力で運ばれてはならない。ひとの背に乗るな、頭に乗るな。

 しかし、あなたは馬に乗ったのだな。そして急いであなたの目標に向かって登って行くのだな。よろしい、わたしの友よ。だが、あなたの弱い足も、あなたと同道して馬に乗っているのだ。

 目標に到達して、あなたは馬からとび下りる。高人であるあなたよ、すると、ほかならぬあなたの高所で―あなたの足は、つまずくだろう。⑧

これらの決定的類似はニーチェやディランがそうであると意識して引用したとも勿論言い切れない。それは日常的思考習慣の中から自然に引き寄せ合うということが欧米社会全体の持つ文化圏的性格から浮かび上がるのだと言える。

次回はバイロンの騎士道精神的な態度がディランの自然と引き出していたニーチェ的エレメントと拮抗していく部分を考えてみよう。

2016年秋口から年末くらいまでに執筆)

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2017年4月17日 (月)

バイロンと二-チェ① バイロンは躍起にはキリスト教を批判しないけれど、ニーチェは違ったからこそより聖書的なのだ

 さて重要なことにはバイロンは決して熱心なキリスト教信者ではなかったものの、無神論者と言い切れる程ではなかった。率直彼は母親から受け継いだカソリックの伝統を色々な自己感性で実現している。と言って彼は熱心な信者でなかったし、反逆の詩人であり、キリスト教倫理的に教義に反する生き方であったろう。又彼の僚友であるシェリーが無政府主義者だったのに対し、バイロンは決してそうではなかった。勿論現政権等への痛烈な批判があったことは若き日々貴族院議員としてラッダイトムーヴメントを積極的に支持したことでもよく示されているけれど、彼自身は英国貴族としての誇りと行動の自負を持っていたのであり、感性や異性との付き合いという意味ではアナーキストだったが、彼は政治的なアナーキストではなかった。その点では無神論者として徹底していたシェリーの方が政治的アナーキストに近かったものと思われる。

 次の<ヨハネの黙示録>の記述をまず見て頂きたい。

不正を行う者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ聖なるものとされなさい。

(中略)

わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めてであり、終わりである。

 これらの記述を下記に示すニーチェ<ツァラトゥストラ>の記述を見比べて頂きたい。

 善い者たち、正義の者たちは、わたしを道徳の破壊者と呼んでいる。つまり、わたしのした話は道徳を教えるものではない。

だが、わたしの言いたいのは、こうである。君たちに敵があるなら、その敵が君たちに対してした悪に、善をもって報いるな。それは敵を恥じさせることになるからだ。それよりは、敵がそのことによって君たちに善いことをしてくれたのだ、ということを敵に立証してやるがいい。

 相手を恥じさせるよりは、むしろ怒れ。敵が君たちに呪いのことばを発したとき、君たちが祝福のことばでそれに応えようとするのは、わたしには気に入らない。むしろ、君たちも多少は呪いのことばを投げかけよ。

(第一部 まむしのかみ傷より)

われわれが自分の知恵にむかって「真実をいう」ときほど、意地の悪い答えになることはない。

(前略)心からわたしが愛しているのは生だけだ。―そしてまことに、わたしは生を憎むときこそ、生を最もつよく愛している。

(第二部 舞踏の歌より)

一瞬一瞬に存在は始まる。それぞれの『ここ』を中心として『かなた』の球はまわっている。中心は至るところにある。永遠の歩む道は曲線である。

(第三部 快癒しつつある者 中 生き物たちのことばより)

 そして次の様なニーチェの記述があるからまず見て頂きたい。

 屈服するよりは、絶望せよ。そしてまことに、高人たちよ、わたしがあなたを愛するのは、あなたがたが今日に生きるすべを知っていないからだ。そうであればこそ、あなたがたは―最もよく生きているのだ。

(第四・最終部)

 この部分の記述は明らかに「貧しき人は幸いである。」(マタイ53節の「真福八端」の「心の貧しいもの」)を強く喚起させる記述ではないだろうか?では次回はそのマタイ53節の「真福八端」の「心の貧しいもの」の箇所を手持ちの新約聖書から抜粋してみよう。(つづき)

 付記 「不正を行う者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ聖なるものとされなさい。」という箇所は明らかに新約聖書で最も古い記述であるマルコの福音書の「持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」(425)に対応している。聖書記述は違う章で同一の志向を持つ記述が何度も登場する。その相互対応性に目をとめることが重要である。尚バイロンの或る種のデカタンこそディランの自嘲性(それは旧約聖書から延々と反復されてきているのであるが)へと直結するものと考えてよい。これは同じ詩人でも、ブレイクは全く違った展開を見せる。そのことは別の機会に考えてみたい。

 

2016年秋口から年末くらいまでに執筆)

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集団生活に馴染めない成員への救済に意味があるのか?

 今日のNHK7時台のニュースで高校生がクラスの他の成員と巧くやれないで登校拒否になる中で、そういった生徒を救済するための特別クラスを設けて、そこに居た生徒が同じ特別クラスの生徒との共同意識だけは持っているという内容のものがあった。

 でもそれはやはり完全に孤立して人は生きていけないということを示しているだけの様にも思えた。そしてもっと問題なのは同化できないその特別クラスに入っている生徒達ではない通常のクラスの生徒達の普通に何の問題もなく同化し得ている方の意識がどれ程のものであるか、果たしてその通常のクラス自体に同化するだけの価値があるのか疑問だというのが自分の持った感想だった。

 昨今の日本人は感謝の念を表明することが多い。だがそこで示されている感謝の念とはあくまで生きている人達だけではないのか?自分の祖先、死に別れた人達のことは含まれていないのではないか?

 日本では常に現生を生きる人達の横の関係だけで全てが判断されている。だが死者への想念は一切社会で語られない。つまり内的な対話というものを一切問題にせず、常に現生を生きている人達の間だけで育まれる横の関係だけを重視する。でもそれはやはり形而上性も宗教倫理性も全く顧みられていない証拠ではないだろうか?

 何の疑問もない集団協調性を遂行し、そこに現生で集う人達だけの間の正義とか横の連帯ということにどれ程の意味があるのだろうか?

 敵対することは悪であるという発想と思想がそこからは読み取られる。それが自分に付与されている天性というものを蔑ろにしていることではないのか?自分にはそう思えるのである。

 率直私は孤立しても他者と敵対してもいいし、そうでない方が可笑しいと考える。周囲に一人も味方もいない(尤もそれでも周囲全体を敵に回さない様にすることだけは年齢を積み重ねれば出来る様になる)ということであってさえ、自分の中に内的な対話があれば、別に問題はないのではないか?そこに神との対話ということを必ずしも想定しなくてもいい。又想定しても勿論いい。

 自分以外の全ての成員から孤立するということは一つの大いなるチャンスだと捉えるべきではないだろうか?私ははっきりそう思うのである。

 だがそれを良くないこととして完全に退け、集団に同化することだけを正しいとして、そういう同化意識を植え付けることがその特別クラスであるなら、それはそれで一つの完全なるファシズムではないだろうか?

 個がある、とは内的な対話があるという事である。しかし日本ではそういうことは偉い人だけに任せておけばよく、そうでない人はそういう意識は只のエゴイズムだと考えるのではないだろうか?だがエゴイズムというものさえ持てない自分というものに価値などあるだろうか?

 自分本位という自我をまず持つからこそ、そこからそれだけではいけないという倫理も生まれるのではいだろうか?

 だから特別クラスに編入されることで矯正されるだけなら、そういった配慮は一種の強制的暗示だとは言えないだろうか?

 この様な報道姿勢自体にNHKに固有の個の主体性を否定する集団同化だけを至上目的とした管理主義、つまりお上への従順な体質を植え付ける意図さえ感じるし、何より集団協調性のある人間だけの社会とは、率直独裁国家そのものである。一人だけで生業する人達も必ず一定数居て、社会とはバランスが取れるのである。早朝はどうしてもNHKしかニュースを見ないので、民放のニュースも見て又NHK批判はし直そうと思っているが、実際NHKは中途採用を東大、京大、早稲田、慶応からしか取らない。それだけとってもその範疇に帰属しない成員への差別意識、それ以外の人達はお上に従順に逆らわずに生きていけと言っている様なものである。

 この問題は日本社会で根が深いけれど、NHKの報道姿勢や内容が正しいと思ってはいけないということである。会社員や公務員等組織に帰属しない者は人間ではないと思わせる様な報道内容自体、それが自然と思わせる傾向が見え隠れするということ自体が危険である。

 再度取り組んでいこうと思う問題である。

 

 付記 NHKはお上主導への従順奨励型、民放は一般企業宣伝媒体、地方局やマイナー放送局は通販宣伝専門といった棲み分けへの無反省性にも問題があるのだが、このことも今後考えていこう。

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2017年4月16日 (日)

世界への提言/政治と経済社会Part1 コスト削減に関すること他

〇人件費が高くつく国とそうでない国がある、というリアルがまず極めて矛盾している。相場という観念がそういうリアルを齎している。

 例えば最近観た映画<ゴースト・イン・ザ・シェル>はアメリカ映画(製作)だが、原作も製作者自身も日本人も多く加わっているので、実質的に多国籍映画だった。配給は中国資本、製作スタッフの大半も中国人だった。これは単に人件費が中国人を使用する方が安くつくからだ。何故アメリカ人は高く、中国人は安いか、それは歴史的経緯にのみ依存していて、必ずしも個人の実力への評価ではない。資本主義社会では人件費の安くつく雇用へと常に傾いていく傾向が否めないが、相手がアメリカ人でも中国人でもいい仕事をした人に対する評定が定着していけば、その人の国籍に関係なく安くしなくてもいい仕事をする保証ある人を雇用した方がいい。だがいつも現代社会で問題となるのは、そういう一つ一つの仕事の評定より利潤が上げられるか否かの方が優先されてしまうという経済社会での経営原理があることである。

〇重要なことは現代社会が常にテクノロジーや考え方の進歩のスピードが速過ぎることなのである。上記の例で言えば映画等は常に時代モードに沿って製作され鑑賞されるものでは、あくまで中国人スタッフがいい仕事をして、その人は今度は従来までのアメリカ人並みの給料を支払い、その助手以下の労働者はもっと安いインドネシア人、フィリピン人、タイ人を雇用すればいいし、その人達の中でも腕のいい人には後進の人達として技能を伝授して、更にその人達がもっと安く雇用できる国の人達に、という風になれば、そんなに問題はない。だがそこで求められた技能は現代の様に変化の激しい社会では、一回だけしか有効でない場合も多いのである。

PCを買うことは現代社会でもそんなに安い買い物ではない。にも拘わらずPCの利用を巡るウェブサイトのテクノロジーの進化のスピードは異様に早い。色々なソフトをDVDROMでインストールするタイプのPC機器は今殆ど売られていない。外付け的にしてインストールするか、そんなことをしないでウェブサイト上でダウンロードしたものに対応してインストールする仕方へ完全に切り換わっている。だからそういう変化を予め知っていれば、タイプが切り換わる少し前の時期に旧タイプでないPCを買うことを予測して少しだけ機器を買うのを待てばよい、そう思える。だがこの変化が余りにも激し過ぎて、業界関係者さえ予測がつき難いのである。それはサーヴィス自体の進化にも言えている。つまりもっと便利なサーヴィスが登場したとなると、誰もが挙ってウェブサイトでそれを知り、挙って利用する様になる。するとそれが登場する少し前にそれを予測し得ず、不便なサーヴィスの方を選択した人は酷く損をすることとなる。つまり便利なサーヴィスの進化を保証しているものは、それを知ることの可能なスピードの速さなのである。そしてそれを保証しているものこそウェブサイト利用のリアルとその進化なのである。

〇上記全ての例で重視してよいリアルとは、サーヴィスを利用する側は少しでも安くあげたいと思うし、経営する側も少しでも安い人件費で雇用したいと思うということである。つまりコスト削減ということが資本主義社会の至上命題となっているということである。そしてこれは基本的には恐らく変えられない。だが時には損して得取れという選択も混入させていくべきではないか、ということもある。思い切り或る部分では贅沢をして、安心するという選択肢を混入させるということである。最初の例で言えば助手以下のスタッフをアメリカ人を雇用し、逆にもっと重要なスタッフのチーフをアメリカ人でなく最初から安く雇用できるのに、例えばインドネシア人やフィリピン人でもいい仕事をする可能性があるのなら高く雇用するという様に変則的な(相場に纏わる原則論に拘らず)判断も混入させて製作していくという経営理念を定着させるとかである。

〇サーヴィス進化に就いての情報の速さを、それに伴って切り換わって以前の状態へ戻れなさに関しては、もう少し考えで何か結論が出た時に報告してみたいと思う。

(つづき)

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21世紀中盤以降の未来展望/音楽・映画・アート等文化、文学・哲学・主要産業他に就いてPart3 テクノロジーの進化と相補的な表現の在り方とそれと違う表現の質の追求・音楽編

〇ポピュラー音楽は資本主義経済を前提にしている。クラブやバー等の慰安、娯楽施設営業向けの有線や、歓談する為の空間のBGMとして選曲される様な配慮として創造目的が設定されている。だが人はそういった営業、営利目的だけで生きている訳ではない。全ての大衆音楽はその範疇から抜け出られない。我々は資本主義経済に貢献する営業目的のものだけに意識を特化させている訳ではないのだ。寧ろ高橋まつりさんの様に当時の電通の過酷な労働要求に抗しきれずにメンタルに苦悩している、そういう成員を大勢抱えている。そういう人達の心を一瞬でも解き解すことのできる音楽は営業目的の音楽ではない。それは資本主義経済が営業的気分をあたかもパチンコ店の軍艦マーチの様に盛り上げる為に設定された強制的文化でしかない。ロックもジャズもソウルもその点では同じだ。でも既に我々は19世紀迄のロマン派でも何でもクラシックや純音楽を教養的レヴェルでしか認識し得ない。そこで必要とされる音楽は純音楽でも大衆音楽でもない、労働従事者から余暇の精神安定を希求する全ての市民のニーズに直結した慰安と精神的安定を与える音楽なのである。それは欧米のクラシックの楽理をも踏まえつつ、同時に中東、インド、東南アジアの楽理をも取り入れた純音楽でも大衆音楽でもない別種のアンヴィエントミュージックである。それは一部では教会で実現しているし、仏閣でも実現している。

〇だから基本的にクラシック、現代音楽、大衆音楽の全ても依然存在していていい。だがそれだけでないムーヴメントが必要なのだ。そしてそのムーヴメントに今挙げた全ての音楽が参画することで、別種の位相へと音楽を昇華させていくことの中で音楽シーン全体に進化を齎すことが私が望むところなのである。今挙げたエレメント以外にラテン的要素、アフリカ的要素、ロシアやギリシャ的要素等様々な要素の中から現代人のその都度の精神的安定へ直結する楽理を見出すことで、過酷な頭脳・精神労働の従事者向けに(肉体労働への慰安は大衆音楽で充分である)音楽を提供することが今求められているのだ。

〇小室哲哉も中田ヤスタカも資本主義経済主導型のアンヴィエントミュージックをこれからも開拓していくだろう。それは大衆音楽も現代音楽も取り入れていくだろう。それはそれでいい。しかしそれ以外の現代人が一人になった時聴く音楽も求められているのだ。大衆音楽もクラシックも現代音楽も概して集団全体の共同注意に則している。しかしそれはあくまで集団協調性に於いて実現される。そういう音楽も常に必要である。しかしそうでない一人で居る時に心を鎮静化させる音楽も必要なのである。

〇人類は常にロック、ソウル、ラップと時代時代の録音テクノロジーに随順した大衆ニーズの進化に忠実に音楽を制作してきた。勿論人類にはウェブサイトと通信手段の一般市民への解放に伴ってその都度のテクノロジーの進化に沿った新しいソフト、ツール、メディアに飛びつくし、そういった新奇的なものへの好奇が表現したい欲求やそれらを鑑賞したい欲求も作られていることは否定し得ない。にもかかわらずそういったテクノロジーやスキルの進化に伴った表現形式が触発する感性の欲求だけが全てでもない。もっと日常的に根源的な感性、宗教倫理的でもあれば、祝祭娯楽的でもある様な日常的感性に優しく癒しを齎す音楽は、それらとは別に進化されていくべきである。

〇つまり常に自然科学の進化に伴う進歩するという意識を前提にした音楽表現のモードや形式の進化だけでなく、心の個的な充足を満たす音楽も同時並行的に進化してくべきなのである。それはかなり以前に忘れ去られた民謡や讃美歌等の再検証から齎される部分もあるだろうし、世界中のハレの舞台的な晴れやかさの音楽だけでなく、心を鎮静化させる目的に音楽からも約束されて然るべきなのである。ゴスペルにもブルースにも例えばそのハレ的集団協調性促進性と、個人精神鎮静化の目的があった筈なのである。それがテクノロジー進化とツール進化による音楽進化と相補的に展開されていくべきだ、と私は考えているのである。

〇大衆音楽(ポピュラー音楽)には固有のノリがあり、それは商業主義的な媚びであり、営業的に惹きつける態度である。それがジャズやロックに固有のグルーヴを与えている。だがそれはそういう風に仕掛けられ誘われることが楽しい内だけであり、実質的に関心ない人へ関心を惹きつけさせる術は言ってみれば娼婦性のことであり、それは過剰な営業サーヴィスでもある。もっとほっておいて欲しいと思うこともある。対しクラシックや現代音楽では前者はより誰しもが素直に受け入れられる伝統的な音感性に訴えていて、それは楽理的にも保証されたもののツボを狙っている。後者は楽理自体への懐疑的な問い掛け姿勢のものであり、創造動機的な思想性が目立ち過ぎるという意味では主知主義的な冷たさを感じ取られてしまうという陥穽もある。だからそのいずれでもない音とは、媚びを売るのでも過剰な営業サーヴィスでもない、だからパチンコ店の軍艦マーチの役割を日常生活で提供するのでもない別種の憩いと癒しを提供するものであるべきであり、それでいて従来のクラシックを聴く場合に得られる安心感だけでもない新しい発見を齎すそういういい意味でのアンヴィエントミュージックであるべきであり、それは聖歌的な部分もあるだろうし、民謡的部分もあるだろうし、同時に現代テクノロジーを応用したものであってもいいが、それが意図的な現代性を表示する様なものでもない何かであれば、より適切であるとは言えないだろうか?

 

 付記 ポピュラー音楽の媚び的なノリは、それに共感し得る人達同士の連帯を生むが、同時にそれにノレない人を除け者にする要素がある。それは現代メディア社会では視聴率のいいドラマを観ていないと恥をかく的なことと同じであり、それは音楽の持つ本来の役割と違ったエンタメ(芸能娯楽)の持つ固有の悪しき強制だという考えが私にはあるのだ。と言って誰もが納得するだけの伝統的な音以外のものを希求する部分も我々にはある。だがそれでも既に現代音楽の理念型の実験はもう飽き飽きだという向きも多いのではないかと思って、こういうことを書いた次第である。

 

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2017年4月15日 (土)

思想・哲学メモPart66/文学・宗教メモPart2

〇欧米人の思考形態は一神教的な眼差しが支柱となっているので、必然的に善悪、褒章懲罰に関して神・天使対悪魔という図式でモラル論も言語発生基盤も形成されている。従って偉大なる善を為すことは偉大なる悪を為すことに匹敵するし、それはそういう能力を保持することからくる責任論である。これはビートたけしの常々の理論でもあるが、要するに性悪説的な責任論が実践論と重複する部分で形成されている思想であるが故に、生への執着がその分計り知れない。彼等は例えば日本人や北朝鮮人の持つほぼ全員鬱である性質からすれば、平均的にほぼ全員が躁である。感情の起伏が強くても、その分大いなる抑制力に拠って制御されている。その発想の中から初めてカントの定言命法も意味を持つし、デカルトコギトも意味を持つ。ハイデガーの言うテンポラリテートもその善悪の相殺的エネルギーの中から考えられており、悪実践能力のない者に善的責任を負えないという発想は須らく欧米社会の一つの精神的な常識である。

 日本の場合江戸期の儒学移植による孟子の性善説主義が武家社会のモラルとして徹底化されたせいで、荀子の性悪説主義的な観念を韓国社会が同族主義的に折衷されている実態とかけ離れている故に、どうしても社会全体が頭打ち的発想へ陥り、それが東芝問題等を喚起したことは間違いない。つまり性善説主義が集団合議的不文律と結託して、日本では個人の能力を最大限に発揮させずに集団内協調へと落着させることで、出る杭を打つ式の思考慣例が常習化され、日本からもスティーヴ・ジョブズを輩出する可能性を塞いでいる。

 

〇<ドン・キホーテ>を読んでいるが、自分にはルネッサンス期のダンテ<神曲>より理解し難い部分がある。率直キホーテを通して描かれる騎士道精神の根拠を理解することは難しい。キリスト教倫理がカソリック中心的時代から大きく宗教改革以降のプロテスタンティズムへと移行しつつある世相で書かれているので、物語の持つ意味、筋立ての持つ意味も、セルヴァンテス(1547-1616)は我々が一般的に考える常識とは大きくずれている。明らかに近代以降の社会の通念とも違う。16世紀後半から17世紀前半の人であるセルヴァンテスは後の時代にスペインが異端審問にスピノザ(1632-77)をかけた予兆的時代背景も当然ある。スピノザはユダヤ人だったこともあった。

 だが<神曲>は近代へ突入したキリスト教の倫理的な高揚感に満ち溢れているが故に、バイロンの<マンフレッド>や<ダンテの予言>へと受け継がれる一つのスピリットを読み取ることができる。又、それはイタリアというカソリックの本場からの発信だったということもセルヴァンテスのスペインとの違いとして際立っている。

 

〇アートでは基本的に絵解き的な意味で中世アート迄しか思想を表現できない。だからこそ現代アートでは近代アートより以上にデザインと分離していった後の余波として、創造モチヴェーションが重要となる。アートと違って文学は不純なものなので、思想は表現しやすい。と言うよりそれしか文学にはできない。それは言語の持つ一つの性格、伝達ということに起因する。それは情報的表示だからだ。アートは絵で一瞬で世界の模倣であることの認知の快で共通表示注意から納得し合えることであるが、それと、基本的に異なる。それは内的な理解を直接言語が誘引するからである。外的な表示である絵とは、それ自体視覚的(visual)な一つの共通認知の快なのである。だからそれは思想以前的なものなのである。だから現代アーティストは創造する動機が重要となるのである(cf. ピカソの<ゲルニカ>、河原温の<浴室シリーズ>)。

 

〇デニーズ、ガスト、サイゼリアは性悪説的(資本主義原理的)経営のチェーン店である。そこでは安居酒屋の持つ常連性を払拭する意味合いがある。常連性、京先斗町(京都市中京区)、祇園(東山区)の持つ一見さんお断り主義の持つ馴染み客筋といった文化的権威主義に対する否定が底流にある。日本はデニーズ、ガスト、サイゼリアの持つ性悪説主義に対して、特権的性善説主義であるところの京先斗町、祇園の一見さんお断り主義とが併存している奇妙な社会である。それは政界、芸能界、経済界にも在る。その併存には暗黙の了解ということが脈打っている。だがこの問題は江戸期儒学移植、武家社会と皇室との関係、明治期以降の本地垂迹思想と廃仏毀釈、大日本帝国憲法、教育勅語、日中戦争、太平洋戦争、戦後日本国憲法公布、日米安保条約等の歴史的経緯が絡んでおり、そう簡単に正体を一言で言えない部分を常に残す。だがその一言で言い切れなさに一つの決定的欠如がある。それは理念主義ではないということだ(韓国社会は違う。アメリカも韓国とも違うが、やはり違う)。事実日本人の思考法は中国人の論理学思考とも韓国人の理念型思考とも違う要素が強い。性善説主義的な右翼の理念型のみ、例外的であるが、それはそれとは相反する折衷主義と併存しているという事実の方が重要である。

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2017年4月14日 (金)

日記的記述EG 考えと感じることがずれていることに就いて

 小説や童話等は全てフィクションである。詩も実は全くそうだ。だからいい創作物とは皆用意周到に張り巡らされたトリックであると言ってさえいい。

 だからアンデルセンの<マッチ売りの少女>を読んで如何にそういう境遇の子供達も大勢居ると思っても、それはアンデルセンによって書かれたそういうフィクションの主人公の少女に感情移入しているに過ぎない。

 だからかつて鈴木清順が「映画は迫真の真実性より微細な虚構の方が大切なのだ」と語ったことはその侭文学創作にも当て嵌まる。

 つまり創作家とはそういう論理的な仕掛けを張り巡らす一種のトリックスターである。だから観念的にはそういう策術に長けていることは創造の世界ではいいことである。

 だが他方人生では私も如何にその様な優れた創作家でありたいと願っていても、心の安らぎとか、安心できるとか、人間的な温かみの様なものに関しては、そういう仕掛け的な策術ではない別の良さを求めてもいる。

 私が詩で目指す方向は寧ろそういった子供心に近い何かである。

 

 話は違うが、私が時々立ち寄る居酒屋があるのだが、その居酒屋で従業員として働く或る二十代の青年は最近恋人が妊娠して、正式に籍は入れていないそうだし、相手の両親も結婚を認めていないらしいのだけれど、同じ居酒屋を居抜き譲渡した今の店長の前の店長の時代(彼は以前の店長の時に一度その店を辞め、違う場所で働いてから再度違う店長となったその店に戻ったのである)、前の店長が私に「あいつは本当にバカなんです。僕は生まれて初めて四捨五入を知らない人と会った。それがあいつなんです。」と言ったのだ。

 彼(前の店長)が二十代の青年に就いて私にそう言ったのはその時期いきなり別の店の店長をやらないかと誘われて、その二十代の青年が退職した直後だったのだ。その店の今の店長も私に二十代の青年をバカだとこき下ろしたその前の店長も三十代である。

 その四捨五入を知らないという事実に私は、それで店長を任されたという事は凄いことだなとも思ったのだけれど、勿論長くは続かず辞めさせられたか自分から辞めたか、それも私は知らないのだけれど、今は前の店長から今の店長へと居抜き譲渡された店に戻って働いている訳であるが、接客態度からしても私はその二十代の青年が今までで一番好きだった。

 つまり仕事能力とか責任者として業務を遂行し得るか否かという様な判断と、その人の持つキャラクターとか人間性とかとは全く違う次元の問題である、ということだけを私は言いたいのである。

 

 私は創作では仕掛けは大切だと思うし、そういう仕掛けを張り巡らした創作も沢山するのだけれど、やはり決定的に大切な何かとは、その素朴な青年の持つ人間味の様なものの方であると思っているのである。

 だから要するに仕掛けだけのものに人は感動しないと思うし、仕掛けを仕掛けても、それ以外の何かがそれを誘引していなければ、読んでいて唸る様なことへは到らない気がするのである。

 

 アンデルセンの童話には仕掛けもあるけれど、やはり仕掛けだけではない何かに引き寄せられて彼は書いていると思えるのであるし、事実そうであろう。

 そういう書き手の息遣いがよく分かる様な書き方があるのではなく、やはりそういう息遣いが人生の上で自然と出されていく様な状態で書いたものこそ、人の心を打つのだと、私は思っているのである。

 それは論理的仕事だと思われている哲学等でも同じではないだろうか?

 

 ただそれは方式化、方法説明をすることが困難なことである。だがその説明して納得し切れない何かこそ、何事でも最も大切だとだけは言える気がするのである。

 それは私が愛するその二十代の青年の持つ生き方とか、物腰とか、人への接し方とかとも関係しているのではないか、と思うのである。

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2017年4月13日 (木)

俗語が齎している気分に就いてPart2/踏んづける、踏ん反り返る、ふんだくる、打ん殴る

 踏ん付けるは「踏み付ける」が訛った言い方であり、「踏ん反り返る」は「踏み反り返る」が訛った言い方であり、「打ん殴る」は「打ち殴る」の訛った言い方であるから、それらは俗語ではない。しかし「ふんだくる」は俗語である。又その俗語の強奪する、乱暴に奪い取る、高く支払わされる(ふんだくられる)の意味の俗語の「ん」の挿入等の気分が正式の言い方を訛らせて「踏ん付ける」「踏ん反り返る」「打ん殴る」という言い方へと転じたとも受け取れる。

 似た発音のもの同士で引き寄せ合うということがあるからだ。

 これは前回の促音と同じで或る気分、かなり投げやりな気分を示す仕方だ。「ん」を挿入することで、前後関係に或る固有の弾みがつくので、その弾みを利用して、やばさを表現していると言える。

 

 我々は「ふん」と言うのを意味的に「相手を軽蔑したり、そっぽを向いたり、不満の意を表したりする声」(新潮現代国語辞典)から理解することができる。「うん」と同じ返答の場合には、語尾は下がるが、軽蔑、そっぽ、不満には語尾を少しだけ上げて発音する。

 これはdenialnegationの意思表示である。この否定することを「踏ん付ける」「踏ん反り返る」「ふんだくる」に応用していると見ることもできる。

 だから「打ん殴る」も「打ち殴る」と言えば文法的には良さそうにも思えるが、相手を否定する、攻撃することを正当化する為に「ふん」の軽蔑、そっぽ、不満を導入しているのだ、と受け取ることもできる。

 

 結局言葉は言葉を発する側の感情を示すものでもあるので、俗語の方が文法的に正しい言い方を変形させるということもできる。

 

 だが同時にもっと語の起源的にはまず話者の感情を伝えるという意味合いがあっただろうから、正式な言い方の方が、その後で言語を社会進化と共に整理し、調整していったという経緯があって、然る後に感情的な気分をよく示す言い方が俗語から影響を受けて訛らせるという事態へ至ったと捉えることもできる。

 だがこの最初は感情を伝えるだけの感動詞的な在り方だった言語を統制すること、つまり調整し、整理していった時期に、恐らく人類は過去形ということの重要性、記録とか、想起される出来事を現在や、未来と対比的に捉えるという必要性に迫られたからこそ、文法的秩序は形成されたのだ、と捉えることができる。

 つまり過去形を整序する必要性があり、逆に常に人は今を生きている(永井均の独今論、唯今論<倫理とは何か>を参照されたし)が、今を成立させているのは或る意味では過去でもあって、その過去を整序するプロセスで意味が統制されていった(形成され、定位置に或る語彙が或る状況で使われるという設定が定着した)と考えることもできる。

 

 だからその形成された語彙の意味と、過去形を形成させることと相俟って成立してきた文法をきちんと脳内に整序させられた後に、遊び的気分で作られる俗語を、正式の言い方へ適用したものが、訛った言い方であり、概してこの訛った言い方はぞんざいに相手を非難する感情を示しやすいので、目的語に来る第三者(他者)への否定的気分と相補的に形成されていったと見ることもできる。

 

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2017年4月12日 (水)

アンデルセンの童話から哲学を読み解くPart1 マッチ売りの少女

 アンデルセンの童話の傑作中の傑作の一つである<マッチ売りの少女>は短いけれど、最もその文学的主張がよく響く作品である。

 少女はスリッパを寒い夜空でどこかへ落してしまって、裸足で歩いている。彼女はマッチを売って金を家へ持ち帰らないと父親にぶたれる。だが余りにも寒いので彼女はマッチを一本ずつ擦っては温まり、その一瞬だけ過去の楽しい思い出に浸る。そして全部マッチを擦ってしまって、凍えて亡くなってしまうという、それだけの話である。

 だがそこに何と数多くの文学的主張、そしてそれこそが例えば分析哲学等の命題を多く我々は齎してくれているところのエッセンスが込められていることだろう。

 確かに文学は政治の道具ではないし、人々の心を文学でしか描けないことで温めるという役割がある。だがマッチ売りの少女に登場するデンマークの風景でなくても、戦場となってしまっているシリアの街角ではこの童話に登場する少女の様な悲惨な、短い生涯を閉じてしまう子供達は大勢居るだろう。

 事実大勢の子供達を犠牲にしたアサド政府軍の化学兵器爆撃だけでなく、その報復としてのアメリカの59発のミサイル発射空爆でも二人の子供が犠牲となっている。

 勿論文学にこの様な現実の悲惨さを重ね合わせるのは批評行為としては失格かも知れない。だがそういうヒューマンな義憤を誰しもが持てるのは、こういったアンデルセンの名作が世に存在しているからだとも言える。それは文学にしか我々へ考えさせはくれないことでもあるのだ。

 

 だがそういうウェットなことに感けていず、本文(矢崎源九郎訳・新潮文庫)からもう一度捉えなおしてみよう。

 

 最初に擦ったマッチは「なんだかピカピカ光るしんちゅうのふたと、しんちゅうの銅のついている、大きな鉄のストーブにすわっているような気がしました。」ということだけで直ぐ消えてしまい、だからもう一本擦って点けると「光がかべにベールのようにすきとおって、少女は中の部屋を、すかして見ることができました。部屋の中には、かがやくように白いテーブル・クロスをかけて、食卓があって、りっぱな陶器の食器がならんでいます。しかも、そこにはおなかにスモモやリンゴをつめて焼いたガチョウが、ほかほかと、おいしそうな湯気を立てているではありませんか。けれども、もっとすばらしいことには、そのガチョウが、ぴょいとお皿からとびおりて、背中にフォークやナイフをつきさしたまま、床の上を、よたよたと歩き出したのです。そして貧しい少女のほうへ、まっすぐにやってくるのです。」

 当然のことながら、もっとすばらしいことには、の後の描写は一種の空腹と寒さが少女へ齎した妄想的な空想で、願望が幻影を観させていることである。

 少女はこのあと次々と異なった幻影をマッチを擦る度に見るのだ。

「すると、今度はたとえようもないほど美しいクリスマスツリーの下に、すわっているのでした。それは、この前のクリスマスのときに、お金持の商人の家で、ガラス戸ごしに見たのよりも、ずっと大きくて、ずっとりっぱに飾りたててありました。何千本とも、かぞえきれないほどの、たくさんのろうそくが、緑の枝の上で、燃えていました。そして、商店の飾り窓にならべてあるような、色とりどりの美しい絵が、自分のほうを見下ろしているのです。思わず少女は、両手をそちらのほうへ、高くさしのべました。-」

 その後マッチが消えて「たくさんのクリスマスの光は、高く高くのぼっていきました。そしてとうとう、明るいお星さまになりました。その中の一つが、空に長い長い光の尾を引いて、落ちていきました。」と続くが、この部分が最もこの童話の中で文学でしか表現できない比喩、空想のリアリティを示している。

 「「ああ、だれかが死んだんだわ」と、少女は言いました。」という叙述の後で少女は「いまは、この世にはいませんが、世界じゅうでたったひとりだけ、この子をかわいがってくれていた、年とったおばあさんが、よく、こう言っていたからです。「星が落ちるときにはね、ひとりの人の魂が、神さまのみもとに、のぼっていくんだよ。」とおばあさんの言葉を唯一の良き思い出として思い出すのである。

 次に擦るマッチで明るくなった中に少女は「あの年とったおばあちゃんが、いかにもやさしく、いかにも幸福そうに、光りかがやいて立っているのでした。」と祖母の幻影を見る。

 その後少女は残ったマッチ、結局誰も買ってくれなかったマッチを一気に全部擦ってしまう。彼女はもっと大きな祖母の幻影を見る。「おばあさんは、小さな少女を、胸にだき上げました。ふたりは、光とよろこびにつつまれながら、高く高く、天へのぼっていきました。もう、少女は、寒いことも、おなかがすくようなことも、こわいこともありません。-ふたりは、神さまのみもとに召されていったのです!」

 「(前略)寒い寒いあくる朝のこと、あの家のすみっこには、小さな少女が頬を赤くして、口もとにはほほえみを浮かべて、うずくまっていました。-ああ、でも死んでいたのです。」(中略)「この子は暖まろうとしたんだね、と人々は言いました。けれども、少女がどんなに美しいものを見たのかということも、また、どんな光につつまれて、おばあさんといっしょに、うれしい新年をむかえに、天国へのぼっていったかということも、だれひとり知っている人はありませんでした。」

 

 (中略)以降のこの結語こそ決定的である。人が見る世界は自分では誰も見ることができないのである。それは実際に見えているものだけでなく、幻影もなのである。それはどんな人も他の人と共有し得ない何かである。でもそれが誰にとっても極めて切実な何かである、と誰もが知っている。

 このことは永井均が口を酸っぱくして語り尽くしていることでもあるし、分析哲学でさんざん語られてきたことでもある。でも語り尽くしても語り尽くし得ないことなのだ。

 

 現代社会では電車に乗るとする。すると座っている乗客は大半がスマホ画面で一人の世界へ閉じ籠っている。こういう光景はかつての日本でも、他の国でもあり得なかった。何故なら一人で誰か離れた人と会話することは電話ボックスとかでする行為だったからだし、一人で何かを観たいなら、そういうルームを金を払って楽しむべきことだったからだ。だが既に誰もがそういう一人の世界へ閉じ籠ることを公共空間で可能にした。スマホの普及がそういう日常的光景を当たり前のことにした(だから私の様にスマホ等考えられもしなかった時代に青春を送った者にとっては異様に感じられる)。

 だがそういった一人だけの世界へ閉じ籠ることが恒常化された日常とは、マッチ売りの少女が貧しいが故に、そういう倹しさにだけ取り囲まれている者にだけ特権的であるべき(倫理的にそういうことである)リアルを完全に覆してしまっている。つまり誰もが貧しくもないのに、公共空間に居る時にさえ一人だけの世界へ閉じ籠る自由を認めてしまった世界とは、アンデルセンが<マッチ売りの少女>で表現した文学の世界の切実なるメッセージを、完全に現代空間のシラケ切った合理主義の中に閉じ込めてしまうとも言える。

 

 私はこのアンデルセンの童話を読んで、きっと今でもどの国にもそういう思いで絶命していく少年少女がいるのだろうと思い巡らせながら読める。でもそういう想像が他人事にしか思えない様な日常としてこの現代社会の世界中の市民が公共空間で一人だけの世界へ閉じ籠る自由をスマホは現代人に許した。そしてやがて今は悲惨なシリアや北朝鮮の様な国でも当たり前の日常になる時代も来るのだろう(どうなのだろうか?)。益々そういったリアルは当たり前になっていく気が私にはするのである(つまりもう昔の公共空間の雰囲気に戻ることはないのだろう)。

 

 それはアンデルセンの時代には極自然にこういう話を童話にできたリアルとは、実際に生活が貧しいから童話内容も貧しいとは決して言えない、或るリアリティを別種の形而上性へ送り込む。それは益々アンデルセンの童話創造の純粋さを際立たす。でも現代人の生活習慣とそのアンデルセンの童話創造のリアリティとの距離はどんどんと開いていく。そのリアルも決して凄まじさが止むことがない。

 

 この奇妙な亀裂の中に人類という生き物に固有の残酷な運命を私は感じない訳にはいかない。それは極素朴にそう思えるということである。

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2017年4月11日 (火)

俗語が齎している気分に就いて/ばっくれる、ぼったくる、おったまげる、ぶったまげる、ぶっ飛ばす他

 我々が学生時代だった80年代前半から既に定着していて、今も一部では使われている俗語、隠語といってもいい言葉に「ばっくれる」というのがある。

 これは「しらばくれる」が「しらばっくれる」と変化して、その接頭辞を省略した言葉であり、しらばくれる、という意味もあるが、概して大学の講義等の出席をしないでサボるという意味がある。だがこの「ばっくれる」は促音にすることで、この場合ならばっくれられる側への無視感、相手にしない感、とことん従わない感、つまり抵抗と反逆の意図を強めている。

 この種の隠語に近い俗語では「ぼったくる」というのがある。これもかなり際どい言い方に聴く側には響く。つまり悪辣に違法に金を所有している客を騙して金を巻き上げる感じがこの促音でよく示されている。

 これは一種の人間の俗的なこと、俗悪さ、不良的な人物の魅力、不良行為の魅力から生み出されている言い方だと言える。

 

 促音を使う言い方では「おったまげる」「ぶったまげる」というのがある。今回挙げた例は多くは関東地方で頻繁に使われてきた言い方ではないだろうか?

 関西では叩きのめす、関東ではやはり促音で示す「ぶっ飛ばす」という言い方の意味は「しばく」である。だから促音を利用することで検閲的な権威や権力へ抵抗を示す意味合いの音は関東発かも知れない。或いは東北や北海道の方が中部地方より近畿寄りよりは起源的に近いと言えるのではないか?

 東北では「だっぺ」「よかっぺ」という様な言い方をするから、そうであるかも知れないと思ったまでであり、きちんと調べて言っている訳ではないが、関西弁では余り促音を多用する様には聴き取れないと思うのだが、どうだろう?

 

 勿論今の様に全国から発信しやすく、しかも全国的規模で何もかも流通してしまう時代では四国でも九州でも中国(山陽・山陰)でも近畿地方でも、そういった促音的言い方は関東で流行れば全国区的になって広まるだろう。

 促音がこの様に利用される例は関東地方で特に多く見受けられるけれど、全国区的にも江戸期より「すっからかん」「ずっこける」「擦った揉んだ」「すってんころりん」「すってんてん」「すっとこどっこい」「すっとぼける」「素っ頓狂」「酸っぱい」、要するに「すっかり」「すっきり」「ずっしり」等の副詞と類似した印象の与え方の語彙としてかなり沢山存在する。多くは江戸発だったのだろう。 

 

 「ばっくれる」と「ぼったくる」の共通性はそれに濁音が加わっている点である。「おったまげる」「ぶったまげる」「ぶっ飛ばす」も促音と同時に濁音も混入している。この二つが同時に音的に実現されていることで、仰々しい様が異様に目立つ仕組みとなっている。上記では「ずっしり」「ズッコケる」は明らかに重々しいことと、重々しい感じなのに外してしまったり、転んだりしてしまう感じなので濁音を利用している。

 

だから逆に「すっからかん」「すってんてん」は「すっかり」「すっきり」と同様無感、つまり何もない感じを示すのに敢えて濁音を混入させていないという無意識の我々の発音選択の意図がある。

 

この微妙なる使い分けに我々が正式の言い方ではない俗語的言い方に巧妙なるお上への抵抗の意図が感じられる。「ふんづまる(ふん詰まる)」「どんつき」「どんづまり(どん詰まり)」等の様に「ん」を間に入れて行く所迄行って、それ以上先へスムーズへは行けなさ、突き当り感を示す言い方も促音と濁音の併用と似た効果を持っている。

 

 それらは言語が意味より先にそれを発音することで相手へ心理的効果を与える、衝撃を与える意味合いも当初から持っていることを証明している。

 意味の伝達に発話者の事態への向き合い方の感慨を同時に伝えるという側面があることも物語っている。

 つまりその伝える内容である現場に居合わせた、臨場したことの衝撃を同時に伝えることで、相手の話者自身への共感を誘うという目的も、これらの無意識の語音の選択に宿っている、とは言えないだろうか?

  

 付記 ウルフルズの<ガッツだぜ!>などもそういった音感を巧みに利用している楽曲だった。勿論お上からの検閲に対する抵抗的気分の歌だった。

 

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21世紀中盤以降の未来展望/音楽・映画・アート等文化、文学・哲学・主要産業他に就いてPart2 サマー・オブ・ラヴとその余波以降の音楽シーンと映画の意外な関係に就いて

 先日のアメリカのシリア基地ミサイル空爆攻撃のニュース(6日)は全世界へ衝撃を与えた。アメリカが世界の警察官であることをやめようということがオバマ大統領の題目の一つだったし、トランプ大統領も当初はそれを継続させようと言っていたが、あの双子の赤ん坊の遺体の映像を見て気が変わったらしい。

 シリアのアサド大統領の政府軍が化学兵器を一般市民へ使用した(4日)ことも物凄く世界へ衝撃を与えたので、アメリカの行動が度肝を抜くことだったとしても、理由としては納得する人も少なからず居るだろう。

 現代人類はアメリカのオバマ大統領の8年で異様なる兵器ロボットの進化を経ていて、既に戦争能力はあの第二次世界大戦をアマチュアの戦争と思わせるくらいに進化を果たしてしまっている。核兵器の時代を我々はデ・タント的に生活しているわけだ。

 

 音楽でその不気味な時代の幕開けを告げたのはボブ・ディランだった。彼は水爆実験等の諸リアルから触発されて歌詞を書いた。実際そういった不気味な事件が頻繁に起こる中で彼はレコーディングしていた。

 だがヴェトナム戦争が終結した後も、そういった世界の核武装的リアルは鎮静化するどころか益々進化を遂げた。だから70年代初頭に花開いたプログレッシヴ・ロックはディラン的なモチヴェーションを持った世界全体への抵抗の意図のものだった。とりわけピンク・フロイド(65年デビュー)とキング・クリムゾン(68年デビュー)がそういったテーマの音楽を次々と放っていった。

 

 しかし音楽ビジネスが次第に音と歌詞だけでなく映像を中心とする時代が到来する。それが80年代以降だった。そのウェイヴがスターにしたのがマドンナとマイケル・ジャクソンだった。そのウェイヴの予兆としてソウルの台頭とディスコブームがあった訳だが、次第に動画をDVDで再生して楽しむということと、駅前等の大型画面で映像を堪能する時代が作られた。

 

 だが今度はウェブサイトが世界を支配しだすと、次第に皆で同時的に大型画面を見て楽しむより個人個人が小さなスマホで動画を見ることがメインの時代となった。だからこそ大型画面は映画を時々観に行けばいいというかたちで展開することとなった。つまりスマホはあくまでyoutubeで例えばPPAPを見て楽しべばいいのであり、そうでない違う形での映像のメッセージは映画を時々見ればいいという形でサブカル市場が動く様になった。

 

 その際に映画ではプログレッシヴ・ロックの中から登場したピンク・フロイドが近未来のネガティヴで二ヒリスティッシュな世界のイメージを描出した思想性(例えば<アニマルズ><ザ・ウォール>)を継承するタイプの作品群がどんどんと作られていく様になった。勿論ピンク・フロイドのデビューした時代にもスタンリー・キューブリックが居たし、彼はA Space Odyssey<2001年宇宙の旅>(1968)を放っていたし、その余波としてピンク・フロイドが人類の近未来を警告したのだとも言えなくもない。核兵器の想像力とは大江健三郎の語であるが、正に世界人類はそれを肌で感じながら生活してきたこの半世紀だったのである。

 

 勿論映画では他方ではずっと<アニー>の様な心温まる家族愛物語も作られていた。しかしスティーヴン・スピルバーグが切迫する人類像を<激突><ジョーズ>で描き宇宙人到来を<未知との遭遇><ET>で描くと、アメリカのレーガン大統領時代にはスターウォーズ計画を軍事的に推進した時代背景もあってジョージ・ルーカスの<スター・ウォーズ>シリーズが製作されていった。最初の作品が77年なので80年代以降そのシリーズがどんどんと台頭してきたのがよく分かる。

 だが<スター・ウォーズ>はスペース・ファンタジー的要素も強い作品だったので、このシリーズに人類滅亡の危機感はメッセージとして込められている訳ではない。だからピンク・フロイドが演奏して歌ったネガティヴィズムやニヒリズムは個人の心情としてはグランジロックの急先鋒であるニルヴァーナによって引き継がれたが、音楽シーンはラップ中心にリズムユニゾン的傾向を強めるので、ネガティヴとニヒルなことは娯楽映画へ委ねられる結果となった。又ニルヴァーナはインディヴィジュアルな命題が主だったので、必ずしもその後にモードを継承させることはなかったし、要するに連作されていく為にはもっと人類全体の未来展望が必要だったのである。

 

 その現在までのSF近未来ネガティヴでニヒルなものをサヴァイヴァル映画だとすると、明らかにキューブリックの<2001年宇宙の旅>が魁であり、それは正にAIが支配しつつある現代社会を予感させるものだったし、その流れを決定的にした作品としてミラ・ジョヴォヴィッチの出世作であるリュック・ベッソン監督<フィフス・エレメント>(1997)が位置する。ジョヴォヴィッチはこの作品出演を期にその後に続く<バイオハザード>シリーズへと赴くこととなる。

 個人的にはこのサヴァイヴァル映画の最高傑作はアルフォンソ・キュアロン監督Children of Men<トゥモロー・ワールド>(2006)を挙げておきたい。この映画では人類が子孫を儲けられなくなる、つまり不妊となっていってしまうが、奇蹟的に一人の黒人女性だけが妊娠し、その子を密に生もうと決意する下りとなっていくのだが、未だ観ておられない方には一見をお勧めする。この映画で羊が暴走するシーンがあるが、あれはひょっとしたら日本人の比喩ではないかとさえ思えた。又ラストシーンは明らかにノアの箱舟を連想させるものだった。

 

 さてサヴァイヴァル映画は当然日本にも影響が波及し、<進撃の巨人><寄生獣><暗殺教室><ストレイヤーズ・クロニクル>等多くがマンガ発の表現を映画化する傾向が作られていった。多くがシリーズ化されている。

 昨今のアメリカ映画ではスカーレット・ヨハンソン主演、ビートたけし助演の<ゴースト・イン・ザ・シェル>が押井守のアニメから実写化(ルパート・サンダース監督)されている。

 

 つまりこの様にマンガ→アニメ→実写というサイクルでリリースされるサブカル文化の一翼という意識が映画に大きく影を落としてきたのがここ十数年だったとも言える。

 つまり最初はディランによるフラワー・チルドレン向けのプロテストソングであったものが、次第に核兵器と共存せねばらなぬ人類の無意識の自嘲が、より高度なテクノロジーを駆使したプログレッシブ・ロックとしてレコーディングされた後に少し経って(その間に多様な展開をソウル、ラップ、ダンスシーンを中心に音楽では見せて)、キューブリックのサヴァイヴァル的テーマを復活させて製作されてきたここ十数年のサヴァイヴァル映画が位置する、と考えてよいのではないか?

 それはあたかも核兵器と共存していなければ生存できないこの悲喜劇的なリアルを、ちょっと先の人類の展望からネガティヴィズムとニヒリズムで浄化させようという我々人類全体の無意識の願望が、全個人が通信手段を持って何でも発信可能な時代であることと相補的に表出しているのだ、と観ることも可能なのではないだろうか?

 

 この問題は音楽と映像・動画と通信文明の三つ巴の時代的思潮であると言い切っていいと思うので、今後も継続させて細かく分析していこうと考えている。

 付記 実は新世紀エヴァンゲリオン等が後世へ与えた影響も大きいので、世界はアメリカやイギリス発の文化だけでなく多層的となっていて、今後は益々東南アジアや中東発のものなども多くなって、世界的に複雑さを増していくだろうと想像されるけれど、それはウェブサイトが世界的に拡充されて以降の一つの顕著な現象と言えるだろう。だがSF的なサヴァイヴァル表現以外のものもずっと継続してきているというリアルも当然見逃すべきではない。その点は又違う観点から論じる必要もあるだろう。

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2017年4月10日 (月)

思想・哲学メモPart65/過去・現在・未来と私と他者

〇過去・現在・未来を永井均は現在→一人称、過去・未来→三人称と対応させて考えている。その点に関して詳しく考えてみることとする。(注★永井均は人称の場合の私は時制に於ける現代の様にそれが過去からそうなりやがて未来になるという様なことにはならず、あくまで私はずっと私の侭であり、彼や彼女も貴方も決して私になることはないと述べ、要するに時制と人称は近さに於いて確かに私と現在は似ているけれど、それが本質的に異なる事態であるとも言及している。)

 過去も未来も現在を私・自分とするなら、彼(女)となり得る。しかし過去と未来には極めて重要な本質的差異がある。それは過去とは何等かの痕跡を常に現在から発見できるが、未来は常にそういうことは決してできないということだ。

 つまり我々が知る世界とは常に現在「在る」世界であり、それは現在(今)認められる過去の痕跡をも常に含んだ現在だけを残し、(しかし未来は常にそれが現在・過去とならねば、それさえできない)それ以外は我々個々の記憶と記録だけにしか存在しない(実在しない)。

 

〇確かに過去の自分は永井均の考える様に一個の他者(三人称)である。しかし過去の第三者(自分以外の全ての彼(女)、他人)と本質的違いがある。それは自分のことなら過去にどんなことを考えていたかを即座に思い出せるが、他人(第三者=彼(女))はそうではない、ということだ。

 してみると、過去時制に於いては次の様な他者の親密度があることとなる。

 

〔過去の自分>過去の他人〕

 

 勿論親しさ(よく分かること)のグラデーションはそれぞれ他人の間にもある。良く知る人とそうでない人との間にである。

 では現在を含めると、どうなるだろうか?

 まず基本的に次の図式が成立する。

 

〔現在の自分>過去の自分>過去の他人〕

 

でも現在の他人はどうなるのか?

或る部分(例えば共同注意的には)次の様になる。

 

〔現在の自分・現在の他人>過去の自分・過去の他人〕

 

 だが自分自身の記憶を軸に考えれば次の様になる。

 

〔現在の自分>過去の自分>現在の他人>過去の他人〕

 

 これらは全て自分にとってよく知る度合い、親密度の問題である。重要なことは、ここには一切未来のことは介入できない、ということだ。しかし自分のことなら例えば最も近い未来(ところで何故「最近」と言う時は必ず過去のことなのだろうか?最も近い未来は一秒後とか一分後だし、明日だが、何故それらを「最近行くつもりだ。」等と言えないのだろうか?これも一つの大きな疑問である)、つまり明日のことをどうするか、という予定・計画・意志があるが故に

 

〔未来の自分>未来の他人〕

 

ということも当然成立する。でも途中で気が変わるかも知れないので、

 

〔現在の自分>未来の自分>現在の他人>未来の他人〕

 

となる。これは未来に於ける(未来は現在にとって他者である)命題なので、必然的に過去が介入することはない。

 結論としては、常に最も確実なのは現在だけだ。そして常に「在ったこと」として振り返られる、思い出せるのは過去だけだ。未来を思い出すことは当然ながらできない。

 だから永井も述べているが、常に未来は到来するだけである。つまり未来とは常に実現されていないことだけを示し、次々と到来する未来は現在になるから、そうなることで常にその都度の時点で到来していない今が先送りされ次々と作られ、全ての実現(到来)していないことの総称を常に未来と呼ぶということである。

 

〇ちょっと纏めると、やはり他者という意味では過去の自分も過去の他人も同等にそうだが(それは今<現在>は実在しない)、過去の自分は過去の他人よりはずっと思い出せることは多い。と言うより基本的に思い出せることとは自分という身体についている目や耳で見聞きしたことだけなのである。

 だから今現在の共同注意的なことに於いては、過去の自分と過去の他人は同等だが、親しさ(よく分かること)は常に〔現在の自分>過去の自分>現在の他人>過去の他人〕となるが、現在の他人は外見だけなら(心の中を無視すれば)確かめられることという意味では、

 

〔現在の自分>現在の他人>過去の自分・過去の他人〕

 

となり、記憶を含めれば、つまり内的な了解事項から考えれば

 

〔現在の自分>過去の自分>現在の他人>過去の他人〕

(注★最も自分の姿は常に自分の顔の目から見ることのできる身体だけであり、手足であり、胴体だけである。自分の後ろ姿も後頭部も鏡でしか確かめられない。自分の顔も鏡では常に左右逆に見ているだけである。この他者と自分の大きな違いは特筆しておいてよい。)

となる。しかし他人の感情くらいは何とか今なら認められるので、

 

〔現在の他人>過去の他人〕

 

というのは常に成立し得る。

 尤も今の感情が過去の記憶と接合されている部分に関しては完全に他人というのはブラックボックスである。自己同一性が他人(他者)には成立し得ないからである。

 

〇ここでも過去とは現在だけが空間的であり、未来は空間でさえない、ということだ。つまり痕跡さえ認められる訳ではないからだ。尚今認められる過去の痕跡とは全て現在(今)である。だから未来だけは常に想像・想定・予想しか成立しない。であるが故に未来だけが完全に観念的だ、とも言える。

 2017. 4.8, 10

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2017年4月 9日 (日)

何を描くかはジャンルで決まるか?

 今日から始まった今年度のeテレの日曜美術館はピカソをテーマに北野武氏をゲストに放映された。そこで北野氏は<泣く女>の複製を前に、悲しいという感情と腹立たしいという怒りの感情とが同時に心にあり、それが泣き方にも出ている、そういう女性の仕種を絵にしていると語った。しかもそれは庶民の女性なのだ、と自分が知る足立区の棟梁の妻とかの女性のことを例えに出した。

 流石アーティストである北野氏の発言である。そうなのだ。ピカソは絵でしか描けないことだけでなく、絵では通常描かないことまで描いた。それが心の内面では悲しさは怒りと同居しているし、その同居自体を描くには通常の泣いている表情の具象だけでは描き切れないと知っていたのだろうと思う。だから彼はそういった悲しみとか怒り自体の哲学的意味を一枚のキャンヴァスに定着させようとしたのだ。

 そういった意味ではどんなジャンルの表現でも通常~(ここには絵とか歌とか小説とか詩とか映画とかどんな語彙が来てもいいのだ)ではこういうことは描けるが、違うああいうことは描けないとされる、そういう通念はある。だが天才はその通念を敢えて侵犯し、こういうことも絵でも描けたのかということを見る人へ訴えるわけだ。

 昨今芸能界では大勢のマルチな才能を発揮する人達が居る。

 歌手兼女優とかだけでなく、他の仕事を並行させてするタレント(才能)のある人が大勢居る。北野武以外でも品川祐、松本人志、田口トモロヲ、佐藤二朗、深水元基、ディーン・フジオカ、星野源といった人達である。

 要するに~者とか~家といった枠に留まらないジャンル侵犯的なプロ達だ。

 かつてはマルチアーティストという語彙も流行った時期もあるが、マルチであることがそんなに珍しくない現代ではそういう言い方自体をしなくなった。

 だがそういうことが自然になってきた理由には、例えば私も勝手知った分野である哲学でも極めて多彩に細分化されてきていて、あることは凄く得意でも、違うことはそれ程ではないということがあり得る状況にあるので、必然的に昔哲学と一つに括っていたことの中のある専門だけを専攻し、別の言語学なら言語学も同様に凄く細分化されてきているので、その中のある専門だけを専攻するという様なことが領域侵犯的に為されなければ個人の能力を発揮できない様な状況に学術全体がある、という事情があるのである。

 だから何を選ぶかが個人毎にかなり異なるということがある。

 勿論哲学を専門にやっていくには形而上学に固有の時間論とか言語論とか倫理学に固有の誠実性とかそういうことは踏まえておかなければいけないけれど、同時にそこで使用する論理的な証明方法は背理、二律背反、対偶、換質、直接推理、間接推理、換位、全称論、単称論、特称論、複称論等も踏まえておく必要がある。つまりそういうことを踏まえて初めて得意なことをこなせるのだ。だがその全部を専門にすることはできない。だからその中で得意なことを選択して専攻していく必要があり、それは一つの哲学という枠だけの中に嵌り切らないということが実際に何かを研究していくとあり得るのだ。

 それは全表現ジャンルでも言える。それは別の記事で考えを展開させるつもりだが、要するに昔設定された枠に何かがすんなりと嵌り込むということ自体が困難になっている時代なのである。つまり専門性の在り方が横断的でなければ進化が齎されない様になってきているのである。

 だからタクシーの運転手等をしていたビートたけしがビートきよしと出会い漫才をし始め、最初はきよしがネタを書いていたが、たけしが書く様になり、ヴァラエティにも出る様になり、司会やオールナイトニッポンのディスクジョッキーもする様になり、漫才ブームからタレントとしての知名度から映画に出る様になった彼が、或る時自分主演の映画の監督をする筈だった深作欣二が降板しなければならなくなったので、急遽それでも映画を実現させたくて北野武が名乗りを挙げて彼の監督デビュー作である<その男狂暴につき>が実現し、北野武の映画監督としてのキャリアがスタートしたというわけである。

 当時はそういうマルチタレントは珍しかったが、今はそうではない。アーティスト出身者でも大宮エリー等多彩な活動の人達も多くなったが、それだけ個人の関心が素晴らしいものであれば(それが一番大切で特別に誰をも納得させられるくらいに素晴らしくなければいけないけれど)、それをジャンル内での通念や相場に嵌り切らなくても、個人の選択を優先させてもいいというかたちで社会が新しいジャンル内の挑戦は暖かい目で見る様になってきたとも言える。

 その点では監督も必ずしも助監督からスタートしなければいけないということでもない時代にはなってきたが、それはそれ相応のそれに見合うだけのものを要求されるという実力主義の時代にもなったということである。

 私自身は元々ずっと絵を描いてきた人間だが、幼い頃からお話を書くことも好きだったので、ずっと小説も書いてきたし、ここ十数年は詩作も続けてきた。要するに表現したいのだし、哲学的な問題にも関心があるから昨年まで6年程哲学学会にも所属し、2回程口頭発表もしたし、生物学進化論系学会でも3回、それ以外でも文科系学会で2回、発生論研究会でも1回発表した。そういう横断的な活動をしてもとやかく非難されることだけはない時代になったということに対しては感謝している。

 だがこの横断的でなければ説得力がないという時代は別の意味で熾烈であるのは、どんなことをしても大勢の人達に喝采されることはかなり難しいという時代でもあることも物語っている。つまりそれだけ人類全体が未知の領域に踏み込んできたということが言える。

 そのことに就いては思想の時代シリーズでも書いていこうと思っている。

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2017年4月 8日 (土)

詩が面白い/哲学では語り切れないこと、でも

 中島義道は<哲学の教科書>で哲学は人生論でもないと言っている。そうなのだろう。だから哲学では形而上学でことに顕著なのだが、言葉の意味や規約自体、つまり言葉のルールに於いて一々明文化されていないことを掘り起こす作業なので、過去とはあくまで過去であり、その過去が私にとってのここニ三年の過去と貴方にとってのニ三年の過去とでは全く異質である、私にとってはこういうことに於いて辛かったとか、楽しかったということとまるで人のそれは食い違うと言うことそれ自体を全て無視することで成立している問いとその時々の返答の反復が哲学なのであり、それはやはり正に人生論ではない。

 

 だが他方人生こそが面白いと言える。それを離れて我々は何も語れない。そして詩は人生そのものと切り離して書くこともできなければ、読むこともできない。だからそれも人生論ではないかも知れないが、人生論的な語りとも無縁ではない。

 

 哲学で過去と言うと過去一般のことであり、そうでなければいけない。だからこそ語れることを俎上に載せている。だが語れることと言っても、それは真理的なことだけなのであり、でも我々は人生を真理として生きている訳ではないのだ。だからこそ哲学ばかりでなく詩等の文学が人の心には必要なのではないだろうか?

 

 曇った天気の時と、晴天の時とでは明らかに私達へ与える心理的・精神的な在り方は違う。でもその私達一般のことに於いてしか哲学では語れないから、個人にとって曇りと晴れの日の齎す気分を叙述することが哲学ではできない。何故なら哲学では曇りの時と晴れの時とで気分が変わることそれ自体をどう生の中で、哲学的真理の中で位置づけていくかということだけを考えるからである。

 だから人生そのものと決して無縁でそれが決定されるわけではないが、人生の諸々のことを例に出してはルール違反となるのだ。そのルールは人生を情感的に考えるのでなく、客体的に捉えなければいけないということなのである。その理由をここで簡単に説明することは勿論できない。

 ただ、ここではっきりしていることは、だから逆に言えば文学では客体的に捉えるのも自由だが、情感的に捉えてはいけないとされるルールは存在しない。その部分では文学の方がずっとアナーキーであると言える。

 

 でもこういう風に書くことはでは文学なのだろうか。哲学なのだろうか、と問うと、どうもどちらでもなさそうだとも言える。だからそれが評論なのかも知れない。評論は文学と言えば文学でもあるが、特殊な哲学、特殊な人生論とも言える気はする。でもいずれが最も適切であるかは即座に返答できない。凄く曖昧なポジションにあると言えばあるし、全く特殊なエッセイとして位置付けることもできるとも言える。

 

 エッセイに凄く共感することもあるし、小説に凄く共感することもあるだろうが、それは書き手の書き方によると言えるだろう。だから実は哲学でも書き方で違った観想を齎すことができるのであり、その部分では情感とも哲学は決して無縁ではないのだが、その情感が読者心理に与える効果となると、一つの特殊な科学ということになるのだろうか?となると、何等かの叙述が評論では可能な様な気もするので、評論を一つの特殊な科学と捉えることもまんざら誤っているとも言い切れないこととなる。

 そこに或いは哲学と科学の示し方とか、方法の在り方の違いも潜んでいるのではないだろうか?

 

 でもやはり私は個々の、と言うより、誰しもが人生から離れて物事を考えることができないということの方に、それによって哲学が考える様に人生と切り離して考えられないことのメタ的真理としてではなく関心があるのである。

 そういった関心とは、個々違うということもだけれど、人生から何故そういった問い、どう生きるべきかとかそういうことと、別の観点からは全てを客体化させて真理を導き出そうとする試みが共存しているということそのことにもあるのである。

 でもその思いを文章化させるのはそんなにたやすくなさそうだとも同時に思えもするのである。

 

 でも詩が面白いのは、文章化させようとしてそうなっているのではないかたちで、何等かのその思いが自然と伝わる時がある、勿論それはいつもではない、そこにあるのではないだろうか、とも思えるのである。だからきっとそれは方法とか意図とかそういうことだけではない何かなのである。

 

 でもそれを明証的に示せと言われると、それもやはりそう容易に文章化することができないことの様に思われるのである。だから詩が面白いのは、そういう説明を超えたところにある何かを語ろうとしているということなのだろうと思う。

 でもそれはきっと誰かが語り尽くそうと決意し試みることでもある気もするのである。それは私かも知れないし、貴方かも知れない。

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世界の動向から読み取れることとは?①

〇アメリカがシリアの基地へ59発のミサイルを撃ち込んだことへ批判的であるのは案の定、ロシアとイランだけだった。北朝鮮へ軍事的支援をしているのはロシアなので、必然的にこの三国が今後協力し合うことは可能性としては高い。

 

〇中国の習近平首席との会談中にトランプ大統領はミサイル発射決断をした。このことは中国に対する一種の威嚇的意味合いも論者の言う様にある。だがこれで或る程度米中が対立していく要素が弱まったとも言えるので、日中関係も改善していく可能性はある。要するに北朝鮮を貴方達で諫めよ、というアメリカからの警告であると中国は即座に受け取ったであろうけれど、中国はロシアと対立していくことも避けたい気持ちはある。米韓が北を完全制圧したなら、中国と国境を接してしまうので、中国首脳は人民が米韓化していく気持ちを抑えられなくなることを恐れ、その時話し合えるのはロシアしかいないからだ。

 

〇中国の人民は都市部と農村部で全く生活レヴェルの差があり、農村部にはウィグル族やチベット族も居住する。彼等には隣接するイスラム諸国群やインド等へ亡命したいと願っている人々も決して少なくないだろう。そうやって国中が分裂していくことを中国首脳は恐れている。だから北朝鮮の完全崩壊と韓国への併合は最も今の中国の恐れていることなのだ。

 

〇トランプ大統領がオバマ大統領と最も異なる点は、オバマ氏がアメリカ一極主義、つまりアメリカだけが世界をリードすることを否定しようとしたのに対し、トランプ氏はアメリカこそが世界をリードし、一極的なリーダーとなることを目指しているということだ。にも拘わらず保護主義的政策も同時に取ろうとしている。しかしオバマ氏によるシリアからの撤退は失策だった。それがロシアにクリミア併合を急がせた。今こそが期だとプーチン大統領が踏んだのだ。だからその失策の穴埋めを今トランプ大統領は行おうとしている。

 

〇尤もそのこととアメリカの経済を保護主義的に立て直そうとすることとは又違う問題である。だが経済政策的には国内の議会の承認も要すので即座に転換されることはないだろうし、もう少し時間をかけて観てみなければ何とも判断することはできない。

 

〇国内に目を転じてみよう。安倍総理が即座にアメリカを支持すると明言したことは正しかったのだろうか?一国の総理が完全にいつでもアメリカへ追随すると表明することは国益に常に繋がるのだろうか?野党の反応を伺いたいものだが、それが裏目に出ることに繋がらないとも未だ言い切れない、とだけは言い得る。

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2017年4月 7日 (金)

21世紀中盤以降の未来展望/音楽・映画・アート等文化、文学・哲学・主要産業他に就いてPart1 ロック&ポップスの全盛期から現代へシフトしてきたことから

 昨日千葉テレビで夕方から放映された木曜スター劇場で<ビートルズ・シークレット・ストーリー>を観た。彼等の簡単な生い立ちからデビューまで、そしてその後の快進撃から解散の時期までの彼等を追った当時の関係者の証言を交えたドキュメンタリーである。

 アメリカに行ってケネディ大統領暗殺から半年位しか経っていない時期での公演で凄く喝采を浴び、溢れんばかりの観客数を獲得、5位迄全曲ヒットチャートでビートルズが独占したことなども映像で紹介された。その何度目かのインタビューでジョン・レノンが「今やビートルズはキリストより有名だ。」と発言してしまったことによりアメリカ南部のバイブルベルトでファンだった人達が激怒ビートルズレコードの不買運動をしたり、ビートルズグッズもろともそれらを焼き払ったりすることも大勢の市民がしたことも報じていた。ユダヤ人を両親に持つ裕福なビジネスパーソンであるブライアン・エプスタインがデビューさせたビートルズだったが、彼等が成功して多くのコンサートをこなしながら巨大な資産を築き上げるにつれて、次第に見世物にだけなっている自分達にうんざりし始めた彼等がコンサートを止め、レコード制作だけに没頭する様になっていくにつれエプスタインの存在理由が希薄になり、彼は自殺未遂の末オーヴァードーズで死去してしまう。

 彼等は音楽性を深める瞑想のためにインドへ旅立つ。そしてそれがジョンもポールも当時の妻と恋人(婚約者)との最後の旅となってしまった。

 彼等は成功するにつれ初期にあった結束が余所余所しいものとなっていく。そしてポールは婚約者(ジェーン・アッシャー)がありながら浮気の虫で一時の快楽で別の女性と関係を持ってしまい、婚約破棄、ジョンも最初の妻(彼女との間にジュリアンという息子がいた)と離婚、小野洋子と暮らし始める。

 ドキュメンタリーはビートルズ初期から親友だったアーティストでミュージシャンのクラウス・フォアマン等によるインタビューを挟んで進行し、解散後まで踏み込んだ内容だった。

 とりわけヨーコと別居し始めたジョンがヨーコが紹介した秘書のメイ・パンと三年共に暮らした下りが凄かった。実際に現在のメイ・パンが出てきて当時の愛の獲得と、最後にはヨーコの許へ戻って行ってしまったジョンへ涙を浮かべて証言するところが凄かった。当時のメイは美しい東洋女性だった。

 メイと暮らしていた頃、ポールがリンゴ等と相前後して訪れ、再度ビートルズ結成をお互いに話し合った下りも面白かった。結局実現しなかったけれど、メイにジョンがそういう話がポールとあったと告白して、どう思うと聞かれたことも新鮮な事実だった。彼女はきっと素晴らしいわと答えたと言うが、結局実現せず、その6年後にジョンは殺害されてしまう。

 彼等が若く性欲も盛んで、そういった普通より少し過激な無軌道な若者達であったからこそ、ああいった天才的な音楽を創造し得たという事がよく分かる。

 又そのことはあの1965年~1967をピークとするサマー・オブ・ラヴの時代というのが、ほんの一握りの、彼等以外ではボブ・ディラン、ジミ・ヘンドリックス、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、エリック・クラプトンといった人達だけに世界中の音楽ファンの意識が釘付けになるという同時代共時性が凄まじく強い時代だったという事を物語る。

 今ならゲスの極み乙女。の川谷絵音がたった一回不倫をしただけで一年以上仕事が干される程、一般世間の常識の範囲内でしか若いエネルギーを発散できない時代とかなり開きがある。

 つまりあれから50数年の間に世界的に、ほんの一握りの天才のエゴイズムに世界中が共鳴し、あたかも王国か帝国の様にそういった特権的人達にだけは無軌道でハチャメチャな恋愛遊戯も許されるという時代(現に当時はほぼ全員が覚醒剤もやっていた)は完全に過ぎ去り、皆が誰しもが好きな自分の音楽を選び、自由に視聴する時代になったということである。

 勿論ロック&ポップスの時代にもジャズの好きな人達もゴスペルやソウルが好きな人達も当然居た。だがビートルズの7年間と、その後の数年は上記のほんの一部の人達だけの天下だった。

 それがそうでなくなるのは70年代後半からで、それ以後ロック&ポップスだけが王道ではなくなり、様々なジャンルが犇めく時代へ突入していったのである。

 つまり音楽に対するニーズがトップに君臨していた時代は完全に終焉し、ゲームソフトとか違うメディアやツールの為に奉仕するロールへと移行してきていると、つい先日も小室哲哉がインタビューで答えていたが、そうなのである。つまり時代は音楽文化の喝采が牽引した時代から半世紀、ウェブサイト、正にビートルズビジネスモデルを模倣することから始めたスティーヴ・ジョブズとスティーヴ・ウォズニャック、そしてビル・ゲイツ等によって世界中に拡充されたウェブサイトが個人毎にカスタマイズすることを世界へ決定的にしたのである。

 従って天才によってのみ世界の文化動向が牽引され決定された60年代から半世紀、我々は正に誰しもが容易に世界中に張り巡らされたウェブサイトにアップできる時代となったのだ。

 そしてそういう時代には一部のロック&ポップスが発信することに世界中が反応するという(共鳴だけでもなかった筈であるが)図式は全く成立せず、あくまで人それぞれ違う好みを自由に選択する時代へと完全に移行したのだ。

 従って現代社会は一部の文化的天才が初めて行って発信した多くの実験と、それをやはり一部の通信の天才が初めて行ったウェブサイトの世界的な仕組みの上で、誰しもがそれを利用することに関してはマルクス主義的な在り方で平等に発信できる時代へと完全に移行したのである。

 それはだから全てのここ100年位の音楽の歴史が、現代音楽(十二階音楽や無調整音楽等)、ジャズ等の大衆音楽の普及と、その後続的存在であったロック&ポップスが敷いたレールを、今全てが等質な存在理由を持つものとして、誰もが自由にどの時代のものをもチョイスできる時代となったのだ。

 だからビートルズ達より一つ前の時代、更にもっと前の時代から直接(ビートルズ自身もそうしていたわけでもあるが)引っ張ってくることもできるし、20年代の音楽を80年代の音楽へ接合させて現在蘇らせることも可能である様な、個々が、これまでの様に一つの大きなウェイヴに皆が協働して乗って進むのではなく、個々ばらばらに自由に勝手にやっていくという時代になったのである。

 ロック自体はグランジロック(ニルヴァーナ等)とオルタナティヴロック(REM等)が隆盛を極めた前世紀の80年代後半から世紀末の97年位迄で完全に終焉し、それ以後はエレクトリック・ミュージックがラップ等と接合された(フュージョンされた)形態のものがメインストリームとなっていく。

 そしてその間にはリズム&ブルース、ソウル、レゲエ、ゴスペル等多くのジャンルが犇めき合ってきたが、ここにきて、俄かに欧米<英米が中心であり続けた>から、そうでないエリアの中東音楽、60年代からビートルズやローリング・ストーンズが取り入れていたインド音楽もだが、それ以外の多くのアジア諸国の音楽、インドネシアのガムランとか、要するに民俗音楽が無限に取り入れられていくウェイヴとなっている(現にシカゴも中東の旋律を取り入れた楽曲を発表している)。

 その点では小室哲哉も山口一郎も中田ヤスタカも椎名林檎もYOSHIKIHYDEもかなり以前からそういった試みを行ってきている。2011年に亡くなったレイ・ハラカミはそういった先駆的存在だったし、現代音楽のテリー・ライリーはロックやジャズや中東音楽を60年代からフュージョンさせて様々な試みを行ってきていた。その試みは今正に花開いているということである。

 つまり音楽モードの世界的なエリアからの摂取が世界中で共時的に行われるという、サマー・オブ・ラヴの様に英米中心ではない世界的に多元的なエリアからの発信を可能にしてきているのもやはりウェブサイトによる世界中の通信コミュニケーションによるものと言える。

 

 

 それは音楽市場が一つの特異なムーヴメントから、多元的な発信元から林立する様に交差する時代へシフトしてきたということだ。そしてそのことはとりもなおさず一部の天才だけのエゴが特権的に許される時代が完全に終わったということなのである。

 

 それは音楽で特にそうだったと言えるが、映画でも、他の全ジャンルでも同じ様に全てに於いて言えることなのである。つまり或る部分では創造動機的には一人の勝者が全てを獲得する様なa winner takes allという方式、つまり勝敗といった20世紀資本主義画一的方式のルールではなく反一極主義的マルチハブ方式のルールへと完全に移行してきたということが言えるのである。それは当然世界市場での中国の参画とか世界市場の多元的変化も関係している。このことは重要な事実なので、次回は映画を中心にこのことも考えるが、是非念頭に置いて次回以降の記事にも接して頂きたい。

 

 

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2017年4月 6日 (木)

時は切ない、存在はそうでないのか?

存在自体が奇蹟だ。

 

とすれば存在者は存在の奇蹟を証明するために作られ、全ての生命は死していく。植物は実も花も個々は死滅する。同じ木に次の年に違う桜が咲いても、それは昨年迄の花ではない。

 

人も社会という木になる実であり花である。

 

だから存在の不滅を確かなものにするために個々の存在者があり、現われては消えてゆくと思える。

 

でもそうなのか?存在も又時が儚く過ぎ去りゆく様に儚いのではないか?

 

若い人は時の儚さと切なさをセンチメンタリズムだと思うだろうが、年は人を存在していることの儚さと切なさへ気持ちを連れていく。

 

時は切ない。

では存在はそうではないのか?

そうかも知れない。

でも誰もそれを確かめられない。

だから全てを見ることのできない全ての存在者と存在者を成立させるための全ての存在者が無ければ、それは全くの無、全くの非存在だけが残る。

それはきっと切なくもなく儚くもない。

だから確かなのは時の切なさと存在はそうでないと思わせる非存在だけなのかも。

 

でもそれは僕達の言葉が作っている。

そしてその非存在を我々は目にすることも確かめることもできない。

生きている限り。

 

生きていることは怨念なんかじゃない。死んでいくことで怨念が芽生えるのでもない。生きている限り非存在を確かめられないことの中に切なさがあることが分かるだけ。存在だって存在者の道連れなのだから。(了)

 

 

2017.4.6

 

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テレビがオワコンである理由/テレビはウェブサイトとの関わりなしには必ず消滅する、と言うよりテレビがウェブサイト化しなければ皆誰も見なくなる

〇午前中や午後夕方くらいまでよりはずっと普段から夜はテレビを点けていることが多い。と言ってもPCをしながら音だけテレビを点けて内容を確かめているだけのことが多いが、四月になり新編成の番組が続々と登場するが、いつも登場するアナウンサーや司会者が時間帯だけ換えて登場しているに過ぎないといった印象である。つまりテレビは既に登場する人の顔ぶれがいつも決まってしまっているということだ。だから必然的にいつも極一部の人達だけの間で営まれていることとなる。

〇上記の事実はテレビに一切登場しない無数の市民の思惑はちっとも反映されていないことであるから、必然的に誰もが利用するウェブサイトの方により社会全体の注視は為されていくだろう。今テレビで双方向と銘打っていても、実質的にチョイスはあくまでテレビ局の幹部が決めているだけである。

〇もしテレビが半世紀以降も存続しているのなら、市民全体がどんな形ででも一度はテレビに登場する様な仕組みによってのみだろう。或いは多チャンネルで選択肢が凄く多くなっていき、どこが或る時間帯には中心ということがなくなっていくことによってだけだろう。多チャンネルになればなる程街角の全市民が意見を言いやすくなることによって初めてテレビが維持されていくことだろう。

〇だがそうなっていったとしても生涯大勢の市民に姿を晒すこと自体を嫌がる大勢の市民はずっと居続けるだろうから、テレビに登場する人達はいつも一部というリアルは変わらないだろう。表方とはだからそういった常に存在する無数の裏方の代理として登場しているに過ぎない。それは政治でもそうである。政治家だけが全てを決定しているのではなく、あくまで市民全体の意向を彼等は汲んで活動しているに過ぎない。だからどんなに予想外の展開をしたとしても政治は必ず何等かの形で市民の総意として具現化されているのだ。

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2017年4月 5日 (水)

日記的記述EF 漂流する都市空間と地方部ウォーキング

 今日は久しぶりに美術館巡りをすることを目的として、又昨年訪れずに終わったけど、それまでは毎年訪れていた靖国神社と千鳥ヶ淵エリアの桜の探索を兼ねて東京へ出向いた。纏まった時間がある時にしかそういう贅沢な時間の使い方はできない。だから今日はウォーキング日和だったし、そういった意味では久しぶりに東京を満喫した。

 いつも思うが、東京を地下鉄で移動するといつも何等かの工事をしていて、それはメンテナンスに関してもだし、都市計画的な改良工事もだけれど、要するに都市空間自体が、その地下迷路を彷徨い漂流する我々と共に漂流しているということである。とりわけ大手町から丸の内まで10分程歩いたが、都市を闊歩する人達の表情自体が一種の漂流者なのだ。そして美術館は必ず立って移動するので、美術鑑賞もまた一種の漂流である。

 自然の地形に忠実に作られた道路を歩くウォーキングは西武鉄道が主催するもので、それを一年半程参加してきているけれど、そこでは山や川等の自然の情景を背景に歩くので、感性が自然の中で浄化される様になって気分的にも或る寛ぎを得ている。だけど東京の都市空間を闊歩していると、そこではさながらカプセルからカプセルへと移動する感じになっていくので、必然的に都市空間の迷路の様なルートで人工的な刺激に包まれていく。その感性は正に漂流と言うに相応しい。自然条件に沿って歩くことは放浪であるが、それは自然の必然的な形に添っているので漂流とも違う。明らかに自然はカプセルとは違う質である。

 都市自体がカプセルであるということは、人工的な仕組みが、いつ、例えば首都圏直下型大地震でビルや地下街が倒壊するかも知れない可能性の中を彷徨うので正に漂流となる。それは放浪ではない。放浪する余地を都市空間は我々に与えない。

 今日は三菱一号館美術館でオルセーのナビ派展(モーリス・ドニ、ビュイヤール、ボナール他)、渋谷BUNKAMURAでこれぞ、暁斎展(河鍋暁斎)を観たのだけれど、美術品とは全て人為的なものである。だが道路の人為性とも異質である。アート創造の感性は人為的なのに、自然な空間把握を誘引するので。必然的に人為的に自然を作ることである。

 だが地方部のウォーキングは自然自体に沿う人為(としての道路、橋梁他)を歩くので、自然と人為の対話である。対し都市空間では全面的に人為の中に居合わせるので、大勢の人々の思惑に巻き込まれ漂流するのである。

 だからこそアート展が心のオアシスとなる。美術館とは都市空間漂流者にとってのオアシスなのである。

 やはり人は自然条件に沿った人為を歩く時と、都市空間を歩く時と、アート展に浸る時と、コンサートとかで音楽に直に触れ合う時と、映画を鑑賞する時と、どんな場所であっても読書する時とでは全くそれぞれ違う精神状態になる。

 音楽会を鑑賞する場合、意識が瞑想へと沈潜するし、映画を鑑賞する場合にもそういう感じになるが、音楽では空間に共鳴する音に浸るのに対し、映画は平面の空間に意識を釘付けにさせていくので、前者は空間的瞑想、後者は時間的瞑想を掻き立てる。いずれも過去の記憶を蘇らせるが、音楽では身体的生理的な体験や、幼児体験まで遡る全ての原体験、映画では出来事的な思い出、つまり事、事実的記憶を蘇らせる。

 読書は読む本のタイプによってやはりかなり変わる。分析哲学書を読む場合、都市空間の人工的なカプセル移動で齎される漂流と似た精神状態になるが、童話や詩を読む場合には地方部ウォーキングで得られる観想に近くなる。因みに音楽を直に体験する時の原体験は身体内在的な成長や老化の記憶を立ち上げるが、童話や小説の場合には出来事の人生上での内容、つまり事実の、だからそういった意味では映画を見る時に近いが、それよりは一人で考えていたことを蘇らせる。映画でもそういうことはあり得るが、映画の場合には一人で考えていたことよりは、外在的に自分や周囲の人に起きたことを想起させやすい、と言える。

 尤もそれらは全て私の場合は、である。人によって当然異なることはあるだろう。でも少なくともそれら違った体験を一人の人間の人生には必要としている、ということだけは誰にとってもそうなのではあるまいか?

 

 付記 漂流者にとってのカプセルからカプセルの移動的要素の強い都市空間闊歩は、だから核戦争とか大震災等の非常時を常に想定して歩くという精神状態にもさせる。その点では自然環境豊富な地方部ウォーキングだとそこにずっと居てもいいという移動なのに対し、都市空間は生活上の実利的目的の為だけに特化されていて(例えば銀行等のATMの前に居る時の様なことの連続である)、そこではずっと居てはいけないという都市空間の不文律に囲まれているということである。

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2017年4月 4日 (火)

春の調べ

昔、風に全てを聞いた男が居た。

昔、風に全てを囁きかけて女も居た。

男は風に聞いて進む道を決めた。

雲を見て何時家路に就くかを決めた。

女は風に囁き男の帰りを待った。

女はその日食べるものだけを用意する。

 

木々は揺れる。

様々な実は風に運ばれ、

鳥たち、虫たちを引き寄せ、

人が生まれても死んでも、その声や息をじっと聞き、

年輪に刻み付ける。

 

男は道端に置かれた地蔵や道祖神に挨拶し、古の男たち、女たちの歩みから教わる。

歩めば自ずと見えてくるものが在る。

 

林が、森が行く道を教えてくれる。

古の人たちが大地の奥深く

ひっそりと眠るその小さな丘に

行き交う人々も、鳥たちも、虫たちも

何かをじっと聴いている。

 

所々に花が咲き、小川は流れる。

小川の水は雲を映す。

 

雲もじっとその有り様を見ている。

時は待たない。

空は叫ばない。

男は又歩む。

女な何時も何か用意する。

 

歌が聴こえてくる。

誰が歌っているか分からない。

誰に歌っているか分からない。

誰の歌かも分からない。

林も、森も、小川の水も、空も、雲も。

只風だけが知っている、

とそう男は何となく思う。

女は知ろうと思わず、只手を動かしている。

きっと今も昔の様に何時でも。(了)

 

2016.3.212017.4.4修正

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思想・哲学メモPart64 空間・実在・時間②

〇変化とは日々少しずつのもの、例えば一人の人の老化の様なものもあれば、植物等の枯れてゆくまで等のそれよりは早く切り換わるものもあるし、乗り物に乗って刻々と風景が切り換わる体験的なことや、視界の背景が切り換わる様なこと(映画を見る事もこれに入る)という比較的速やかに変化することに伴うスピードの変化もある。それらの、正にグラデーションを個々の変化毎に意識しやすい体験の諸々がそれぞれ異なった変化スピードで、異質の時間の長さを持つ変化同士として多層的に生活空間に於いて顕現されている。この異なった性質の変化の重層性への認識こそが時間全体の把握と繋がっている。つまり変化のスピードの差、ミルクをグラスに注ぎこむことに要するスピードと時間、電車で東京から大阪迄新幹線で移動することに要するスピード、桜が満開になっていくスピードと時間、一人の人間が10年の間に老けていくスピードと時間という様な個々異なった時間枠の多層性への認識が生活空間に居住する我々の最も基本的な時間性への認識となっている。

〇上記の異なったスピードの変化の事態が常に併存している。その変化を齎すもの同士が常に一定の同一空間内に異なった事態同士として併存している、共存しているということが空間を場とした世界である。

〇上記の空間=場に於いて同時的に異なった事態に内在する変化のスピードと時間枠を理解することこそ生活人としての認識の最大のものである。

〇だがそれらは常にもう一つ別の時間を生きている現存在の事実から投射されているとも言える。つまり内在的時間、内的時間とは常に過去にあったことを追想しつつ、未来への意志として繋げる様な考えであり、考え自体は直接空間と関係するわけではないから、記憶と予想(未来への展望、願望、計画等)と絡む固有の時間である。それは一つ一つの行為に関しては行為の開始と終了というかたちで切れ目があるが、かなり長く持続していくことである。

〇上記までのことを総合すると、時間の推移は異なった変化スピードの異位相の事態の一定空間内の併存・共存と、それらへ同時的に把握していることと、そのことを糧に長期持続する考え、未来への意志(それはニーチェ的に力への意志と言ってもいい)とを重ねる、いずれもがいずれもへの投射である様な事こそが現存在の時間と言えるということだ。

〇従って時間とは常に反省・想起・記録されたものの確認(文字情報を摂取すること全般から、何等かの観察<庭の手入れとか>)、それらをチェックすることで得られる総合的意志が関係しているし、そういうものを実際の実在の時の推移に重ねることが現存在の時間への対処の仕方である。

〇マクタガートが時間を非実在として理解していたのは、反省・想起・記録閲覧といった行為の長期持続性ということ、つまり同一の未来への(力への)意志の持続(彼が言うことではB系列的時間)から見れば、刻々と時刻を刻み、それより過去とそれより未来を作るA系列的時間は固定的に実在しているのではない、という観念から発起されているのだろう。

〇我々は睡眠中は少なくとも視知覚的には実在の時間を把捉していない(だが音というものは睡眠中も完全に遮断されていず、どこかでは聴いている)。睡眠中の脳活動の一つが夢なのであり、夢は当然実在空間把捉と直接連携していないので観念的な内容に思えるのは必然である。

〇夢では言葉の意味や視知覚像の残像(記憶像)の混沌とした寄り合わせこそが実態であろう。文学的創造はこの覚醒中と異なった把捉を一つの叙述に混ぜ合わせることに於いて成立しているとも言える。覚醒中も我々は何等かのかたちで妄想的なことも随時混入させている。つまり夢で見た像の残像が実際の風景や室内の臨場に投射されることがあるからだ。

〇だが我々は夢に出てくる非実在の像を全く必要としていないかと言えばそんなことは全くなく、それらは実在の像とはどういうことであるかを理解するために必要なのである。又そういった夢想的な観念やその像も必要なのである。

〇上記のことが例えば絵画等の芸術を成立させている根拠でもある。絵画は明らかに過去の臨場への記憶を投射した表現でもあるからだ。だから美術展を鑑賞したいとか、自らの資産から絵画を購入したいとかいう欲望も、その夢想的観念と重なった記憶、記憶を成立させる実際の、実在の風景や臨場という現在に投射された過去、過去の記憶によって引き出される現在の像の意味等を把捉する我々の精神的傾向を象徴する一つの心の志向性だと言える。

〇上記以外にも写真に風景の像を収めたいとか、美味しそうなケーキを見て食べたいとか、冷えたビールを飲みたいといった欲求も、そういった過去が投射された現在、過去の体験・経験の記憶が引き出している現在の意味が関わっているのだ。

〇全ての願望は実在の(健康状態や生理的状態と不可分のことであることの)事態が喚起してもいるが、現在の空間での事態や臨場へ過去の記憶を投射させているということとそのことの相補的な譲り合いと協力で成立しているのだ。

〇文学的創造動機はそういった過去⇒現在、現在⇒過去ということの相補性と葛藤が生み出している。その二つの回路そのものも一つの観念であるが、それらの観念的な心の操作こそが実在を実在として認識させている、これは幻ではないのだ、と。未実現なこと総体は、未来への展望、予想、想像、計画の実現への願望等に置き換えられているが、それが着々と現在へと切り替わることそのことに於いて時間という枠をその都度認識していると言うこともできる。その時間枠の体験そのものへの認識や、記憶によって総合される観念も又文学等の創造動機となっている。つまり記憶は必ず未来展望とセットとなって顕現されているわけであるが、その時間枠が再度繰り返されることはないと我々は知っているので、現在⇒過去ということの引き戻せなさこそが、記憶を生み出しているとも言えるし、未来を常に展望する様に我々を仕向けているとも言えるのだ。そして重要なことにはそれら全てに空間が必ず場として君臨しているということである。そしてその空間の生活人としての我々から見た不動性こそが時間枠を逆に認識させていもするし、時間枠での多層的諸事態の変化という事実を、その不動性が支持していると見ることもできる。従って空間という実在の場であり存在の提供する現象であるところの諸変化の背景である存在という、変化しなさ(空間実在の不動性)と変化が常に非変化⇒変化、変化⇒非変化という双方向性が覚醒⇒睡眠、睡眠⇒覚醒と同様に我々の心の認識上で反復されていることから、我々は時間枠とその長さの諸事態に於ける差を空間という場から理解し得ていると言える。又空間の不動性から存在自体への認識は間近なものなのである。

 

2017.3.25, 4.4

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2017年4月 3日 (月)

思想・哲学メモPart63 空間・実在・時間①

〇空間とは全ての出来事・行為、そして自然現象(それらを実在としよう)の全てを成立させる場である。時間がカントの言う様に感性の形式だとすれば、空間は実在の場であり、現象の生起する場であり、存在の現象であり、事実の背景である。時間はこの背景の場である。

〇アクトゥアリテートとしてのB系列を生きるとは、常に空間把握的(たとえ視覚が不能でも体表・体温から可能だ)に知覚していること(事実)である。

〇我々は或る意味では或る遮蔽された空間に居る時と、そこから外に出たり違う部屋へ移ることで気分は変わる。そして今居る部屋(場所)とさっきまで居た場所という違いこそが、現在と過去を明確に分けている。この認識は哲学がとりわけマクタガートの様な観念論が見落としてきていることである。或る空間の場所だけから見える何かと、それ以上のどの空間の場所からも見える同じ何かとは明らかに違う。その何かが俄かに変化していく様なものでなく固体状のものであるなら、同じ像が知覚できることの確認は一つの把握となり、それ以外の把握と並列される。そこから事物の認識もなされている。例えばそれを右から見た時、左から見た時がまず右、次いで左だとしても、まず左、次いで右だとしても、その行為の順序は体験的にいつも見慣れているものでなければ、それ程重要ではない。つまり知覚の意味とは、そういうこと、その違いを把握することだからなのだ。(見慣れたものをどちら側から見るかは、その見慣れたものの意外性<気づいてこなかったこと>に着目しているのだから、意外と重要だが、初めて見るものに対してどちら側から見るかは、右利きとか左利きの癖の問題に過ぎない)

〇上記のことは知覚的には場面が変わることが、時間に一つの切れ目を入れている、と言うこともできる。ものが止まるといった状態の変化で、その動きや停止を一つの出来事・生起事実として、その前を過去化し、それを現在、その後を未来とする。又或る同じものがずっと見えていたのに、それが視界から消え違うものが視界に入り見えていたのに、その代わり目に時間の切れ目を感知・認知し、より順序的にC系列的に時系列を把握する。

〇つまり我々は一つの出来事の移り変わりを物語的に理解することで、時間がそれ自体物語の場である、と認識している。

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2017年4月 2日 (日)

夜は広い(後半)

夜はそれ自体はあっさりしている。

でも夜に抱く心の闇はしつこい。

闇が悪を思い出させるから。

闇が思い出させる自らの悪、他者(ひと)の悪。

あっさりと深い闇が夜をとってもとっても広くしている。

蘇らせた罪の記憶は一方で悔いを

他方で悪の行使の正当化を誘う。

猶予された罪の悔い改めが大きな責任の自負の正当化へ生まれ変わる。

 

夜は長い。

長いから広い。

闇は緩慢だ。

緩慢だから夜を惰性的にする。

夜は惰性的夜に包まれる全てを曖昧にする。

夜は夜間存在する全てを羞恥で意味付ける。

夜になりさえしなければそもそもなかった羞恥で。

でも人の心の疚しさは夜の味方をするから

悪への誘惑に夜も唆されやすい。

夜は唆されつつ唆す。

闇が夜を支配するから。

暗みは暗みに包まれる全てを脱力させる。(2017.1.17

 

夜だけにしか作れない数多くの神話は、

人間界にも自然界にもきっとある筈だ。

それは翌朝から世界を大きく変える。

夜の帳が世界に節目を作る。

一夜明け何かが成長し、何かが衰退する。

一晩で生み出される命、一晩で白髪になる人。

 

夜の記憶は私的で内的だ。でなければ秘密だけだ。

昼間の公的な全てを遮断し、隠微なやり取りとその秘めた記憶だけを翌日以降の日々の陰に残す。

夜になるまで忘れていて、夜になった時だけ思い出す世界がある。それは裏の理だ。

明るい日差しの下、その全ては忘れ去られる。

夜だけが広がる空想や妄想は昼日中には全て死ぬ。

昼負ける者が夜勝ち、明るみに負ける者が闇で勝つ。

全てに負ける者は、しぶとく細く生き残る。

いずれかで大きく勝つ者もいつかは負ける。

 

昼日中闇の中の記憶は浮かされない。

夏の涼み以外の闇は嫌われる。

 

でも夜も闇も消滅しない。

しないのに昼日中それは無かったかの様に振る舞われる。

闇は花を咲かせる力を蓄えるが、昼日中は決して表に出ない。

無意識へとしまい込まれる夜と闇。

不気味な広さの一切ない昼日中の平地。

昼の平地の見やすさが人を真っ直ぐにする。

真っ直ぐさの陰に闇夜はすっかり引っ込む。

昼の無反省な意識。全てが明るみに出る昼。

 

でも夜のあの底知れぬ深い広さが

きっと昼の真っ直ぐさを作っている。

誰にも知られない闇夜の全てが

昼の迷いなさの父だ。

全ての存在は、その存在を隠す闇夜で

全てを明かす昼の力を得る。

 

闇。見えなさ。沈黙。

それを昼語る者は居ない。

 

夜の広さは夜にしか分からない。

でも心の何処かは誰もが何時も夜で闇だ。

行動でない全てがそうだ。

 

夜の闇を心のどこかに引きずる人。

誰にも見せず、生涯表に出すことのない心の影。

裏だけ全て隠し通す見せかけだけ昼は浅い。

明るみが全てを平板化するから。

深い夜の広さは、でもずっと明るみの中でも待ち構えている。昼の浅さの中でも。誰からも呼び留められることもなく。(了)

2017.1.18

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夜は広い(前半)

夜は何処迄続くのだろうか?

夜は長いが、夜の闇は何処迄続くのだろう?

夜の闇を何処迄も疾走すると

やがて光へ到達するのだろうか?

夜の闇は昼光に照らされた大地を

限りなく不気味に広くさせる。

先が何処迄続くか分からない平地を行くと、

山裾が見え、うっすらと明るみを帯びる闇が見える迄は未だちょっとある。

疚しい心があるならいつ迄も夜が明けぬ侭であれと願う。

広さは視界の在り方でがらりと様相を変える。

暗さが見通せなくし、明るみの中の広さを「無限」に変える。

何処迄も闇は続く感じなのに、それはよく見えない。

夜は自らの罪の記憶を蘇らせる。

疚しさが罪を見え難くさせる夜の闇を味方に、悪の悔い改めを猶予させる。

夜よ、闇よ、全ての罪と疚しさを見え難くし、全ての目からわすれさせておくれ!

声は夜が闇をどっかと居座らせている限り、そう叫ぶ。

夜の叫びは何処迄も内へ内へと向かう。

夜は全ての動きを緩慢にし、全ての突拍子もない動きを奇異にする。

夜の闇を突っ切れ!

心の声で闇夜をつんざけ!

闇を突っ切った先にきっと何かが見えてくる筈だ。

闇は厳然と在るのに、あたかもそんなもの無いかの様に常に錯覚させる心の壁が、今直ぐ目の前に在ると思わせる。

夜は無限の想像力を、闇は多様な不安を作る。

不安と想像力は絶えず交差し、対話する。

結託し、密着する。

心が不安でいながら想像する時、夜は果てしなく広い。

夜の広さを闇は知っている。

闇は壁を突破するにも忍び込むしかない。

最初はゆっくり進み、徐々に加速し、最後は突っ切れ!

夜の闇の中の疾走の友は自分の心の内なる声と、体表の肌寒さとの対話だ。

闇夜はいつも過去と現在と未来を混沌とさせる。

様々な異なった過去がまるで闇の到る所に飛び交って見えてくる。

それは今突き付けられしそれぞれ異なった未来の選択肢の様だ。

その一つだけは選んで後は無視するか、二つか三つの選択肢の中間の全く別の選択肢をもう一つ何処かに浮かび上がらせ、それに跳び乗るか、

そう迷って彷徨いながら、闇夜の肌寒さが眠気を誘う。

今眠ってはいけない。

そう自分に語り掛けながら闇夜を緩慢に疾走する。

そう移動する果てには何処迄だ。何時迄は副次的だ。(2017.1.12

 

闇夜は何処迄も何処迄も続く。

闇ができるだけ長く続くことさえいつも望む。

考えが冴え渡っている時は。

だって闇夜の平地は何処迄も続き広いんだ。

闇夜の先は闇夜の疾走者を待っている。

明るみの只中の先は決して待たないけれど

闇夜の先は何処迄も奥まってひっそりと待っている。(2017.1.13

 

昼間思い出せる夜と闇はぼんやりしている。

夜に固有の闇だけがありありと思い出し難い深さだ。

夜の広さは深い広さだ。

明るさは、広さを浅く感じさせる。手が届きそうに。

夜の闇を昼間思い出すのは、忘れていきそうな、その時は印象的だった或る考えや情景みたいだ。

でも思い出した時は変形されている。

感じは見、聞きされても、思い出す時はかたちがぼやけている。

ぼやけたかたちばかり思い巡らすと眠気が誘う。

眠気が昼間の明るみを無意味な現実に思わせてしまう。

自体だからだけど、そこに広い深さが実現し難い。

狭い深さしか持てない昼間の闇。

部分的にたまった埃みたいな昼間の闇の意味。

昼間の闇にばかり気を取られ見逃す明るみの中の絶景。

誰もが浮き立ち出掛ける時、晴天の日の室内の闇へのこもりは他と切り離した自分だけの秘かな愉しみに近い。

でも一人になっても他も皆も消え去りはしない。

夜は広いのも自分にとってだけでない。

夜の広さを知らぬ者は、明るみの広い浅さも知らない。(2017.1.15

(つづき)

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2017年4月 1日 (土)

憎しみを呼ぶ者を愛せ

自らへ悪を運ぶ者を愛せ。

自らを憎む者を愛せ。

 

悪魔は天使と同じ位愛を知っている。

愛の愚かさから。

愛の自分勝手を。愛の愛する者以外の邪険を。

溺愛の暴力と呪縛を。愛の妄信の甘やかしを。

愛の猛進が友を敵へ変える。

陽光の中で臆病さで躊躇してきた胸にいっぱい大気を吸い込んで、全ての蟠りを吐き出せ。

吐き出された憎しみは宙を舞い、花粉と共に風に乗る。

 

全ての汚れた魂を愛で清めよ。

その者たちの狡い行いの中に誠実さを見出せ。

取り出した真実以外の全てを風に乗せて吹き飛ばせ。

 

陰謀渦巻く世界の影に信じ疑うことのない愛を咲かせよう。

悪に固有の自嘲を見逃すな。

悪こそ持つ誠実さを掬い取れ。

本質的侮蔑の持つ根源悪的臭みでない屈託のない意地悪を愛そう。

 

自分のことは見えない。人だけが目立つ。

悪は他者だ。だから真の悪は他者の悪だけ探す自分だ。

 

愛は怨念であり、復讐だ。

 

空を駆け巡る憎しみを嘲笑う空。

雲は俗世の悪を顧みず疾走する。

雲ののほほんを学べ。

 

2017. 3.31,4.1

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