« 2017年4月 | トップページ | 2017年6月 »

2017年5月

2017年5月31日 (水)

存在忘却とは何か?ハイデガーが考えていたことに就いてPart1

 ハイデガーの哲学者として最大の功績は存在忘却という概念を提出したことである。これは被投性とか頽落といった重要な概念と共に哲学的に最も重要な一つの真理として取り出された命題である。そして今言った被投性や頽落を存在忘却と重ねることで思想・批評的地点まで到達し、人類の未来に一つの光を投げかけた。

 現在の世界の不安定な状況さえ予感させる幾多の提言や論述を行っているので、追々それらも考えていくが、まず存在忘却に就いて<ヒューマニズムについて>を利用して、1947年当時ハイデガーがどんなことを考えていたか、1927年に書かれた<存在と時間>で既に示されていた存在忘却を再度点検し、それを深めつつあった時期のハイデガーのこのテクストから考えていってみたい。そうしながら随所で同時並行的に<存在と時間>や<ヒューマニズムについて>より後の著作からも抜粋引用して考えを深めていこうと思う。

 率直、存在忘却(Seinsvergessenheit)という概念=命題さえ理解できれば、それ以外の関心、存在の関心、配慮、配視、本来性と非本来性とか、世人と頽落とかテンポラリテートとか脱自等の全てをほぼ明確に理解することができるのである。

 まず幾つかの重要な提言と論述を<ヒューマニズムについて>から抜粋してみよう。

 

(前略)思索は、ほんとうのところは、いつもただ存在者そのもののみを思索していて、存在そのものを、まさに思索していないし、また断じて存在そのものを思索することなどしないのである。「存在の問い」はつねに、あくまでも、存在者への問いにとどまっている。(四 存在の人間への関わり〔22 存在は、あらゆる存在者よりも、より広く遥かでありつつ、最も近いものであり、それでてその知かは、最も広く遥かなものにとどまっているが、ほんとうの存在の光のなかでの存在者も表象される〕より)

 

歴史における出来事的生起は、存在にもとづく存在の真理の運命のありさまで、生き生きとあり続けるのである。運命となって存在が到来するのは、<それ>、すなわち存在がみずからを与えることによって、である。しかしそのことは、運命的に思索されるならば、次のことにほかならない。すなわち、<それ>〔存在〕は、みずからを与えるとともに、また同時に、みずからをも拒む、ということ、これである。

 

 前半の引用箇所は存在忘却を来していることから喚起されるリアルに就いて触れている。存在者への注視を誘引されてしまうことは、それが変化によって齎されているからだ。存在者の変化にのみ注視してしまうことは次の記述からもよく示されている。

 

(前略)生きものの本質は、一方においては、ある仕方で、私たちに最も親近でありながら、他方においてはやはり同時に、私たちにそなわる存在へと身を開き‐そこへと出で立つあり方をするという本質からは、一つの底知れぬ深淵によって、分け隔てられているからである。(三 人間の本質の規定〔15 「存在へと身を開き‐そこへ出で立つあり方」は、人間の本質であって、現実存在のことではなく、その本質ゆえに人間は、動物より神的なものに近く、そこに言葉が実る〕から)

 

 つまり我々が共通性とか普遍性より、圧倒的に個々の存在を、それ以外の全存在者とは異なった「異」性から判断することを彼は述べている。つまり存在者をそれ以前のどの判断した存在とも違う在り方で差別化することを通して我々は存在者の在り方を変化の中で位置づける。以前の彼と今の彼とか、今の彼は今の彼以外の全ての人と違う何かの中で位置づけられる。

 それら全ては共時的にも通時的にも「異」性から判断されているわけだが、その「異」性そのものの長期的変化からも観察される。それは端的に時間的推移と共にここで言う彼という存在者を判断していることとなる。だからそのことから前記の二つの後半<それ>〔存在〕は、みずからを与えるとともに、また同時に、みずからをも拒むということが真実味を帯びてくる。

 つまり存在とは存在をもし一切拒まないのであれば一切の存在者の変化を齎すまい。そうでない、つまり存在は存在者を林立させることを通して自ら存在を顕現させつつも、その与えた瞬時の在り方を否定するからこそ、その全ての存在者を変化させていくのだ。

 これはパルメニデスの一切の動きがないとする見解が存在そのものの側からの命題提起だったことを知らせてくれる。無始、不動、連続、球形は、その基礎が存在に委ねられている。その存在が存在を常に否定するが故に、それは正に我々が今の自己を対自的に否定するが故に未来展望を持つ様に、変化していくのだ。つまり存在は存在者が決して完成しないということを前提に存在を常にその時点だけのものとしては否定する。

 だから彼が『存在と時間』で存在という上位概念を示しておきながら、その現象的な一部である時間を後置したのは、その時間の方に我々が常に気を取られるからである。その時間的推移の中での変化が存在者の現象的在り方であり、正に「異」性なのである。その個々の個々性にのみ意識が釘付けであることこそ頽落的な世人性の父である。それは我々の運命なのだ。

 そういう風にしか平素見られないという事実への覚醒こそが我々を哲学へと誘う。だから彼は次の様に述べる。

 

哲学は、みずからの本質を尊重するならば、断じて、離れ去って先へと歩み進ことなどしない。哲学はつねに同じ事柄を思索するべく、当の場所で足踏みをしつつとどまるのである。(四 存在の人間への関わり〔31 哲学は同じものを思索する。すなわち、存在がみずからを与え、かつ拒む「エス・ギプト」の結果、存在の運命、存在の歴史が生じ、それは本質的な思索者たちの語のなかで言葉となるから、哲学はその同じ存在のしかるべき姿を歴史的に追想的に思索しなければならない〕から)

 

 つまり上記の様な黄色囲いの赤文字的なことが我々に持てるのは、逆に平素は頽落した世界への見方、つまり個々の存在者の「異」性をしか着目しないという習慣が定着しているからなのである。だから思想にまで発展する可能性を秘めたこのハイデガーの存在忘却は世人的な頽落が作っているとさえ言えるのだ。つまり我々の本質直観はそれを否定する日常的習慣が作っているのだし、世人性こそが哲学者を作っているのだ。その事を彼は次の様に明記している。

 

「頽落」という語は「道徳哲学的」に理解され同時に世俗化された、人間の堕罪のことを言っているのではなく、むしろ、人間本質への存在の関わりの内部における、存在への人間の本質的な関わりのことを名指している。(四 存在の人間への関わり〔25 存在忘却という非本来的な頽落やまた本来性の根底には、人間の存在の関わりが伏在し、これに応じて、存在への人間の関わりが成立している〕から)

 

 ハイデガー的に言うなら非本来性=世人的頽落の常習化こそが逆に本来性と哲学的考察者を創造しているということになる。

(つづき)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月30日 (火)

思想・哲学メモPart74 ハイデガーからレヴィナスへ① ハイデガーの存在へのアプローチに就いて

『存在と時間』で言う(だけでなく生涯ハイデガーが考えていた)存在は、時間も含んでいる。ではなぜハイデガーは時間を敢えて存在のうしろへつけたか、その理由は明確だ。我々現存在は存在に含まれる時間の前でさえ太刀打ちできない旨の表示なのだ。従って存在とは或る意味ほぼ神に近い。存在者ではないのに、全存在者に寄り添うものだからである。世界内存在全てへ恩寵を齎すからである。

 ハイデガーは次の様に述べている。

 

もしかしたら、「存在する」ということは、存在についてのみ、ふさわしい仕方で言い述べられることができるだけであって、したがって、あらゆる存在者は、本来的には、「存在する」のではなく、またけっして「存在する」のではないかもしれないのである。(四 存在の人間への関わり〔・30 「存在が存在する」と言うと、存在は存在者のよいに表象されやすいが、パルメニデスは「存在が存在する」と述べ、存在者は存在しないことに強烈に存在のことを思索している〕から)

 

 ここではハイデガーが講義でも取り上げ、彼自身敬愛する荘子の胡蝶の夢的記述が為されている。つまり存在者の存在は刹那であり、それは時間を通して顕現されているものの、死滅するのであり、そこには存在という事実とは違う意味合いがある、つまり仮象的な在り方しかしていないということかも知れないのだ。

 この価値転換は明らかに存在ということを念頭にした、我々が日常生活では世人として存在だと思っている存在者の方が実は決してそうではなく、我々が日常生活では頽落して目にも留めない存在事実とそれを支える存在の方だけが存在している、つまり存在者ではないかという論述である。

 ハイデガーが存在を空間や時間より上位に置いているのは次の文からも明らかである。

 

むしろ、あらゆる空間的なものや、あらゆる時間‐空間は、存在そのものがそれとしてある、この次元的なもののうちに、生き生きとあり続けているのである。(四 存在の人間の関わり〔28 人間らしいあり方において大切なのは人間がそこに身を開く存在の次元であり、そこに時間‐空間も根差す〕から)

 

 彼は次の様にも述べている。

 

存在は、あらゆる存在者よりも、より広く遥かなものでありつつ、それでいて人間には、どんな存在者よりも、より近いのである。たとえ、この存在者が岩であろうと動物であろうと、芸術表現であろうと、機械であろうと、動物であろうと、はたまた、その存在者が天使であろうと、神であろうと、それらにかかわりなく、それらより近いのである。存在は、最も近いものである。しかしながら、この近さは人間には、あくまで、最も広く遥かなものにとどまり続けている。(四 存在の人間の関わり〔22 存在は、あらゆる存在者よりも、広く遥かでありつつ、最も近いものにとどまっているが、ほんとうの存在の光のなかでのみ存在者も表象される〕から)

 

開けた明るみそれ自身は、ところが、存在である。(四 存在の人間への関わり〔23 開けた明るみとしての存在の真理は形而上学に隠されているが、しかし人間が存在に触れうるからこそ、種々の主観性の形而上学も可能になる〕から)

 

存在そのものは関わりである。(四 存在の人間への関わり〔24 存在は人間に関わってきて、人間を存在の真理の場面たらしめ、人間はこの関わりを耐え抜き、引き受けるが、この存在の近さは容易に見失われやすい〕から)

 

存在は、あくまで秘密にみちており、ある押しつけがましくない支配の端的な近さである。(四 存在の人間への関わり〔26 存在の近さは言葉としてあり、言葉を形而上学的‐動物的にでなく、存在への対応にもとづいて捉えねばならない〕から)

 

 これらの論述からハイデガーは存在をどんなに広大な空間を支配している様に思えても、それは必ず一番近しいものである、そしてそれが誰にとっても、人間以外のどんな存在者にとっても、である、ということを言っている。そしてそれは繰り返すが、必ず存在者全ての変化、動き、行為に伴うし、常に全存在者へ寄り添っているということだ。

 

〇重要なことは、存在とは空間・時間の全てを包含するということだ。だから我々現存在にはほんの一部にしか関われないし(だからほんの刹那からしか関われない)、全てを言葉化することもできない。にも関わらず我々は言葉化をやめることはない。だから言葉にし切れぬと知って我々は言葉化し続ける。そのことこそ存在とは言葉の家とハイデガーが考えたことの根拠である。

 そのことを次の文でハイデガーは明確に示している。

 

(前略)人間は、他の諸能力と並んで、そのほかにまた言葉をも所有している生きものに過ぎぬのではない。むしろ、言葉は、存在の家であり、その家のなかに住みつつ、人間は、存在へと身を開き‐そこへ出で立つのであり、その際に人間は、存在の真理を損なわぬように守りながら、その存在の真理に帰属するという仕方を取るのである。

 

(四 存在の人間の関わり〔言葉という存在の家に住みつつ、人間は「存在へと身を開き‐そこへ出で立つ」〕から)

 

 明らかに我々一人一人が極限定的にだけ関わる全生涯の全ての時間・場面にも容易に存在は見出せる。それは結局どの現存在にとっても、どの存在者にとってもである、と我々は容易に知れる。そのことこそ彼は明示していないが、ハイデガーが全生涯を賭けて言おうとしたことである。我々はこのことの把捉からこそ、言葉を生み出している。それはレヴィナス倫理思想の前提なのである。

 

 

 次回はそのハイデガーの哲学思想が持つ真理をレヴィナス倫理学が逆照射させたことに就いて考えてみる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月29日 (月)

Report of my tweet message to US musician friends Part3

Dependent on my experience to watch this Japan society more than half century Ive got an opinion related to obvious difference between Japanese and American, that almost Japanese citizen not elite or intelligentsia hold animistic sensation to hate gene exchanged food, agricultural chemicals, and pills plural use.In Japan sign of not used any gene exchanged disposal is often, probably in the US. this notice is not so grave matter, but in Japan its different.Individually and personally I am not concerned with those notice, but many Japanese is different./However, in the US. pills use for example for avoiding side effect of pills, another pills plural using habit is not rare, in this action, I am not familiar with plural pills using, for deleting side effect is not my habit. I am also in sensation plural taking doesn't fit my sensation of physical and mental mood. /Namely I also hold sensation as allergy many Japanese hold, this fact is caused from Japanese body strength is not so strong as American citizen does. Japanese power of resistance to pills is not so strong, I infer. This situation in the US. is unknown to me, coz I don't live in the US., then if you are interested in those problems, please offer me your opinion.

 

My conclusion

In religious emotion, Japanese often think that occidental medical science order doesn't fit to our body, this mentality originates in probably historical matters or Japanese community's fellowship against outside of Japan.

personally I am not so concerned with those notice, but many Japanese are different.However, in the US. pills use for example for avoiding side effect of pills,

d personally I am not so concerned with those notice, but many Japanese are different.
However, in the US. pills use for example for avoiding side effect of pills,
another pills plurally using habit is not so rare, in this action, I am not familiar with plurally using pills for deleting side effect is not my habit. I am also in sensation plurally taking pills don
t fit my sensation of physical and mental mood.
Namely I also hold sensation as allergy many Japanese hold, this fact is caused from Japanese
body strength is not so strong as American citizen does. Japanese power of resistance to pills is not so strong or habit which takes into allergic refusal reaction is so strong, I infer. This situation in the US is unknown to me, coz I dont live in the US. then if you are interested in those problem, please offer me some your opinion.

 

 My conclusion

In religious emotion, Japanese often think that occidental medical science order doesnt fit to our body, this mentality originates in probably historical matters or Japanese communitys fellowship to outside of Japan.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月28日 (日)

Report of my tweet message to US musician friends Part2

Tweets to my FB friends Bob Marley thing tweet

Bob Marley performed and established and practiced what contemporary citizen usually has forgotten, he held steady dream and belief never swing, it was mirrored to his songs and performance.

 

Impression to my American musician friends tunes

Fetti Freestyle is so good , it gives me strong impression, your tunes which shows anxious feeling are so attractive to now me.

 

Originally life itself is surrounded by so many anxiety, agony, or so negative feelings and emotion, it's so natural, then expressed things with those always make me consider or meditate life itself.

 

A tune you offer here electric baroque is so delicately nostalgic and Goon Style has ennui feeling only city drifters can understand and its message is on Arabic sound, this element raises a feelin' as if I am gadding about corridor in the way slipped away from daily space we are accustomed with every single day and its effect makes me imagine different dimension world. It's so nice.

 

Answering tweet to my American musician friends question to pals what song is your treasure

as a song created in the US. I love Like a Rolling Stone by Dylan, in Japan so many songs enchant me but in nowadays songs I love Tomodachi by Hikaru Utada as a yell to LGBT, in old songs Zankoku na tenshi no teeze(cruel angel's thesis in English as animation drama New century Evangelion theme song so famous in Japan).

 

Delusionis so mysteriously groove. Fuck it is so too. Your offering tunes are so fantasic and tempt me to good sleep at a part, but at another part I am seduced to deliberation, it's so strange. It's a kind of Music Power you know.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月27日 (土)

Report of my tweet message to US musician friends

 

〇opinion

 

Now it's the hot topic that The Beatles masterpiece Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band re-master version was released, originally it was created and released half century ago.
By the way this title's part Lonely probably was impacted by Miss Lonely appeared in Like a Rolling Stone by Dylan as song heroine.
Not only it but also Dylan's tune It's All Over Now, Baby Blue in Bringing It All Back Home inspired The Beatles tune Long Long Long composed by George Harrison as similar melody line and rhythm and atmosphere.
Their creative motivation was so impacted by Dylan, I infer so.

 

question

 

In Japan there are so many famous American as individual, for example,
Brad Pitt, Scarlet Johansson, Milla Jovovich.Or Bill Gates, Steve Jobs, Jeff Bezos, Mark Zuckerberg, Warren Buffett etc.

 

By the way who do you think the most famous Japanese in the U.S.?
But its question doesn
t include politician of now in power, namely Shinzo Abe should be excluded, but past person is okay.

For example. Ichiro(baseball player), Yuzuru Hanyu(figure skater), Kohei Uchimura(gymnast), Takeshi Kitano(comedian, filmmaker, actor, artist), Naomi Watanabe(comedienne, dancer), Kei Nishikori(tennis player)
Akira Kurosawa(filmmaker), Pico-Taro(comedian), Hikaru Utada(singer song writer), Tao Tsuchiya(actress, dancer),
Tadanobu Asano(actor), Kaori Momoi(actress), Yuki Kudo(actress), Yayoi Kusama(artist), Haruki Murakami(novelist), Ryuichi SaKamoto(musician, composer), Takashi Murakami(artist), Naomi Kawase(filmmaker),
Tetsuya Kumakawa(ballet dancer), Hiromi(Uehara)(jazz pianist, composer) etc.

Please cooperate with this question! I’d like to output a data which many Japanese would like to know.

Thank you very much for offering the chance to question like this.or example. Ichiro(baseball player), Yuzuru Hanyu(figure skater), Kohei Uchimura(gymnast), Takeshi Kitano(comedian, filmmaker, actor, artist), Naomi Watanabe(comedienne, dancer), Kei Nishikori(tennis player)
Akira Kurosawa(filmmaker), Pico-Taro(comedian), Hikaru Utada(singer song writer), Tao Tsuchiya(actress, dancer),
Tadanobu Asano(actor), Kaori Momoi(actress), Yuki Kudo(actress), Yayoi Kusama(artist), Haruki Murakami(novelist), Ryuichi SaKamoto(musician, composer), Takashi Murakami(artist), Naomi Kawase(filmmaker),
Tetsuya Kumakawa(ballet dancer), Hiromi(Uehara)(jazz pianist, composer) etc.

 

 

 

 

For example. Ichiro(baseball player), Yuzuru Hanyu(figure skater), Kohei Uchimura(gymnast), Takeshi Kitano(comedian, filmmaker, actor, artist), Naomi Watanabe(comedienne, dancer), Kei Nishikori(tennis player)
Akira Kurosawa(filmmaker), Pico-Taro(comedian), Hikaru Utada(singer song writer), Tao Tsuchiya(actress, dancer),
Tadanobu Asano(actor), Kaori Momoi(actress), Yuki Kudo(actress), Yayoi Kusama(artist), Haruki Murakami(novelist), Ryuichi SaKamoto(musician, composer), Takashi Murakami(artist), Naomi Kawase(filmmaker),
Tetsuya Kumakawa(ballet dancer), Hiromi(Uehara)(jazz pianist, composer) etc.

 

Please cooperate with this question! Id like to output a data which many Japanese would like to know.

 

Thank you very much for offering the chance to question like this.

 

 

 

Impression to my friends offering tunes

 

Impression to my friends offering tunes

〇Impression to my friends offering tunes

Impression to my friends offering tunes

 

Fetti Freestyle is so good , it gives me strong impression, your tunes which shows anxious feeling are so attractive to now me.

 

A tune you offer here electric baroque is so delicately nostalgic and Goon Style has ennui feeling only city drifters can understand and its message is on Alabic sound, this element raises a feelin' as if I am gadding about corridor in the way slipped away from daily space we are accustomed with every single day and its effect makes me imagine different dimension world. It's so nice.

 

Wonder is so bright and fresh, it has a trait as laid-back but it's obviously different from 70th laid-back, namely nowadays it holds a mentality to spiritual purification not to intend to situation oriented, rather to inside not to outside, it siginifies mental implication to evaluate original mind composing.

 

Sunny Podcast is groovy too. This tune mind is so calm and stable as if we can get with Zen experience.

 

For example. Ichiro(baseball player), Yuzuru Hanyu(figure skater), Kohei Uchimura(gymnast), Takeshi Kitano(comedian, filmmaker, actor, artist), Naomi Watanabe(comedienne, dancer), Kei Nishikori(tennis player)
Akira Kurosawa(filmmaker), Pico-Taro(comedian), Hikaru Utada(singer song writer), Tao Tsuchiya(actress, dancer),
Tadanobu Asano(actor), Kaori Momoi(actress), Yuki Kudo(actress), Yayoi Kusama(artist), Haruki Murakami(novelist), Ryuichi SaKamoto(musician, composer), Takashi Murakami(artist), Naomi Kawase(filmmaker),
Tetsuya Kumakawa(ballet dancer), Hiromi(Uehara)(jazz pianist, composer) etc.

Please cooperate with this question! Id like to output a data which many Japanese would like to know.

Thank you very much for offering the chance to question like this.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月26日 (金)

思想・哲学メモPart73

我々が知る世界の中で定義することが容易なものやこととそうでないものやことがある。アウグスティヌスは時間とは我々皆が当たり前のこととして知っているけれど、それを説明しようとすると途端によく分からなくなることだ、と<告白>で示している。同じ様なこととしてギリシャ以来数千年の哲学史をひっくり返そうとしたハイデガーは存在こそそういうことだとした。存在は最も身近なものであるのに、存在自体を明確に認識しようとすると途端にその様に認識されることからすり抜けていくことであるということを繰り返し何度も述べている。この繰り返しは彼の哲学に於いては極めて重要である。存在忘却とか頽落とかの概念はそういった我々の生活上での厳然とした事実の持つ意味を考える時極めて重要である(従って本ブログでも別シリーズで今後も取り組んでいく)。

上記の問題は一つには確かに語彙として規定されてあること、語義の問題でもある。それは言葉にして示すとそういう風にしか示せないということ、つまり言葉化させることの一つの限界の問題でもある。しかしハイデガー思想的に言えば言葉の問題とはやはり存在の問題でもあるのだ。何故ならハイデガーは言葉とは存在の家だと表現しながら、存在全体の直観的理解を我々自身が実は誰しも難なく行えることが言葉を生み出しもするし、同時にその言葉によって存在全体の在り方を想念することができると彼は考えているようだからだ。この問題はハイデガー一人で閉じているのではなく、明らかにそれ以後の哲学者にも引き継がれている。レヴィナスの倫理学はその一つの明確な例である。

 レヴィナスは二人称として特定できること、そういった近しい間柄で語れることそのものの奇跡に就いて何度も述べているが、それは翻って考えてみればそういう風に意思疎通する意志が我々に持てるのも、今この地球上に自分の居る場所の丁度裏側にも誰かが居て自分と同じ様に思考していると我々なら考えることができるし、それはやはり人間だけに与えられた想念であるし、それが世界への理解であり、ハイデガーの言う存在という想念から引き出されているものだからである。

 つまり他者論としてのレヴィナスの倫理思想は、存在というハイデガーが考えてきた様な想念を前提しているのだ。存在の諸々の問題は追々示していくつもりであるが、この世界中でのあらゆる相互関係性と無関係性をも含めて、或る時点で一挙にあらゆる存在者を存在させているこの決定的事実への認識こそが存在という観念を我々が理解していることの一つの決定的証拠であり、その理解こそが言葉を使うことを自然なこととしているのである。ハイデガーが言う言葉は存在の家であるという思想は、存在者全体の共時性や歴史を負うことの一つの運命的事実の覚醒こそが言葉をも生み出し、その言葉を利用して世界を、存在として理解するということを意味しているのである。

〇だから神と言う時、他の概念より決定的に説明することが難しいとしか思えない様な事態と同様のことが存在には言えるのである。それは存在論をやはりそう容易に把捉し得るものではないという予感を常に我々に思い出させる。存在は起源的な意味での神に通じる、一つの他のあらゆる概念より上位にある概念なのである。だから我々一個の現存在が存在者であるという事実は、それだけで一つの存在全体の把捉を要請されていると理解すべきであるし、そういった責任で世界へ存在へ対しているのだ、とも理解すべきなのである。でもそういったことも再度ハイデガーやレヴィナスの記述を精緻に解釈していく必要性を我々に与えもする。それは少しずつ前進させていかねばなるまい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月25日 (木)

人類未来展望の論理と真実No. 6 大人主義・本物主義の崩壊の途上で

 

人類が世界中でSNSによって何等かしらネット的に繋がっている。それは分け隔てなくあらゆる階層の人達を繋いでいる。だがそのことは階層や経済的生活の格差を無くす事には貢献していないどころか益々開かせている。つまり人類に経済的格差があることを寧ろ前提にした上で、それを解消しようとか、格差を少なくしようと思わせない方向でのみ全てのウェブサイトの活動は成立しているということだ。

 

誰しもが容易にウェブサイトをスマホ等でアクセスできることで中毒化させ、そのことで却って世界から社会システムや国家秩序を革命によって変えるということ自体を諦めさせる好都合な仕組み、ツールとして巨大な力を発揮しているものこそウェブサイトなのである。容易に中毒になりやすいツールでどんな発言をしているかを権力者側が容易に傍受して検閲しやすし仕組みに現代人類を飼い馴らしていると捉えることもできる。だから人類は益々マゾ的に格差や検閲されていることを承知でその籠、その牢獄の中に自ら進んで突入していっているのである。それは単に世界を変えようと思うことの断念のプロセスであり、世界とは所詮何も変えられはしないのだというニヒリズムがリアルなものとしてどの個人にも押し寄せていて、それが日常的なウェブサイトアクセスで反映されているのだ、と見ることができる。そうすることで益々一部の富裕層の生活を一般市民が守っていると言うことができる。それはどんな宇宙の時代になりつつあると言っても一部の富裕層の人達しか実際にプロ宇宙飛行士以外行けはしないということを誰しも知っているから、外へ外へと意識を向かわせるのではなく、あくまで世界の内へ内へと閉鎖的に繋がっていこうとしている無意識の行動でもあるのだ。

 

〇だからそのウェブサイトビジネスに最も加担して、漁夫の利を貪っているのが通販ビジネスであり、物流ビジネスである。そして物流を円滑にするための輸送ビジネスが繁盛する仕組みになっている。輸送ビジネスが栄えれば、当然舗装やインフラ整備のビジネスが栄える。そういう展開を前提として現代社会は機能している。そしてそうすることで益々思想的に人類は意識が画一化され、益々世界的に均質な情報と行動が齎される様になる。だから昨今吹き荒れている国家主義や民族主義は、所詮均質化していく人類史の途上の断末魔の叫び以外ではない。

 

〇だからそういう時代に自分という個にとって本当の意味で切実な価値や生き方を見つけることは、少なくとも意識の上だけでは画一化されることを防ぐ唯一の道であると誰しもが理解しているので、それを真剣に見出そうとするが、余りにも世界の中で全ての市民が世界的なインフラの進化のスピードの速さについていくことだけに必死で、そういった価値の行為を作るまでには至らないという喜劇的状況も齎されている。だがサボることの中から何かが見出されていくのではないかという直観を誰しもが持ち始めている。それが幻想として誰しもが大金持ちになる可能性だけはあるというかたちで又投稿動画作成とアップに勤しむ様になっているのである。そこで結論せざるを得ない。サボる楽しささえ管理され統制されざるを得ないのだ、と。そして所詮そういう試みの数百万、数千万の内のほんの一人か二人だけが巨万の富を稼ぐことができるに過ぎない。そしてそれを誰しもが知っているのにやめられない。だから益々投稿動画廃人をツイッター廃人同様生み出していくのだ。

 

〇上記の様な喜劇的人類状況は益々大人主義を崩壊させる。要するにそんなに世の中を変えようと思ったって所詮実現なんてしないのだから、せいぜい短い人生をゲーム感覚で楽しむしかないのだと割り切って生きていこうとする姿勢を全市民へ与える。それは本物主義の完全崩壊をも意味する。全てがかりそめの一時的な憂さ晴らしだけでいいのだという固有のニヒリズムである。似非快楽至上主義と言ってもいい精神の到来と言える。そういったメンタル的傾向の推移の中から一部の超富裕層には決してなれない中流層の人々を例えばセックス依存症へ駆り立てている。Orgyやスワッピング、スウィンガー、ダブルやトリプルペネトレーション的遊戯(ギャングバング)へと駆り立てているのだ。それを血眼になって検索してネットサーフィンをする市民も共謀している。でも人類の人口過剰を防止している役割も彼等にはあると言える。

 

〇だが考え様によっては、それら全てを悪いことであると一概に片付けられないとも言える。何かのマニア、オタクであることは決して悪いことではないどころか、結局世界は一部の通信マニア、オタク達によって変えられてきたのだから、どんな拙劣なマニア、オタクも何かは変えるかも知れないからである。勿論悪く変える可能性も高いが、良く変える可能性も決して低くはないのである。只全ては過剰な情報を如何にテキトーに無視し、テキトーに全てを取り入れる様にしていくかが個だけが持ち得る価値創出にもなっていると言える。

 

結局我々は通信と通販と物流とインフラ進化のための奴隷なのかという問い掛けが個人内部で始まる。そうである。我々は全員現代文明、文明化したAIとビッグデータシステムとウェブサイトの奴隷である。それを一度徹底的に肯定するところから問いを発していくしかない。幼稚主義、似非的泡沫快楽肯定主義の意義を一度認めるところから再スタートを切るしかない。奴隷化してしまったスピリットとソウルを徹底的に一度現代文明の落した恩寵として肯定して、そこからそれらをさえコンパクト化させる次のインフラ進化の策略を練るしかないのである。(つづき)

 

 

 

  

  

 付記 どの国でも国家主義や保守主義が猛威を振るっていることも又一つの幼稚主義と似非的泡沫快楽肯定主義によるところだとも言える。つまりメディアや文化人や論壇全体が世界的に画一化して官僚的に堕しているという現状からもそう言える。新聞社も放送局も惰性的な報道垂れ流し主義に堕しているのも大いなる人類全体の大人主義と本物主義の崩壊が後押ししているのである。そして彼等も又テロリストと共謀しているとさえメタ的視点からは語り得るのである。否、北朝鮮の様な国を生み出しているのは現代世界のこの閉鎖的な諦めなのであり、米中露日欧州全ての文明インフラ進化肯定主義が北と共謀しているとさえ言えるのだ。

 

 

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月24日 (水)

決まっていることや巧く行くことの意味とは一体何なのだろう?

 極若い頃ボブ・ディランの歌とその歌詞に惹かれたが、そういう気持ちになるまでに時間がかかった。それよりは中学校の頃は圧倒的にビートルズだった。あの年代でもビートルズは分かりやすかった。でも大学に行く頃にはビートルズは過去の存在になっていたけれど、ディランは解散する必要がない一匹狼でもあったので、更にディランの詩に心酔していった。ジョン・レノンが射殺され亡くなった時期が二浪して大学に入学した私の青春の始まりだった。

 

 ディランの音楽は聴いて直ぐ歌詞が理解できたわけでもなかったし、第一歌い方もストレートに響いてくるには含みがあり過ぎたし、と言って凄く難解なことを言っているのでもないということは直ぐ分かった。

 ただアメリカに固有の歴史や状況を知らないと即座に理解しやすいとまでは決して言えないタイプの音楽だった。要するに彼の詩はポップソングとは違う質のものであり続けていたからだ。

 

 だがそれは一つの価値の転倒を私へと強いた。それは決まっているということ、凄くメッセージが届くことが巧く順調だということだけが価値なのではないという転倒だった。

 

 屈折しているのに素朴であるという形容はディランに凄く当て嵌まる。それは感動というものが常に一直線に届くわけではないという真実を教えてくれた。

 

 その当時から映画も好きだったが、ジャン・リュック・ゴダールの映画は所謂ハッピーエンド的映画は全く少ない。どの映画でも屈折した終わり方をしていた。だから70年代に席捲したコッポラの<ゴッドファーザー>シリーズも、彼の70年代終盤の<地獄の黙示録>も型通りの鑑賞した後の満足感とは違う質の何かを訴えようとしていたということだけは当時から理解できた。

 <地獄の黙示録>で使われたドアーズの<ジ・エンド>他のテーマ曲も、そういった意味で型通りのポップソングとは全く異質のものだったし、当時全盛期だったピンク・フロイドの音楽もそうだった。

 

 だがそういった型通りの面白さとかエンタメとは違った質のものは古くはジャズでも試みられてきていたことを後で知った。

 ジャズをよく聴く様になったのは大学時代に(やはり当時レノンが亡くなる少し前に急死した)ビル・エヴァンスのジャズピアノを聞き出した頃からだった。セロニアス・モンクやチャールズ・ミンガスのジャズピアノには型通りの決め方、グルーヴとは異質の何かが常に混入していた。そのジャズから影響を受けてクラシック楽曲を演奏したグレン・グールドのピアノも屈折したことを経た後に到達する何かを表現している音の様に聴こえた。

 それらはゴダールの映画の不条理、キューブリックの映画の不条理とも相通じる何かだと思えた。

 決まり過ぎてはちっとも面白くないと自分に思わせたことの正体は今でも明確にこうだと一言では言い表せない。つまりそういう風に良さとか、伝わってくることを容易に説明し難い世界が我々の人生では至るところに見られるのだし、発見して驚くこともあるということを知らせてくれた存在としてディランが私にとっては大きかったし、ゴダールやキューブリックも大きかった。<激突>でどこまでも一度追い抜かした大型タンクローリーに付き纏われる不条理を示してくれたスピルバーグも含めて偶然全員ユダヤ系の人達による仕事である。

 

 要するに決まるということから必ずずれること、外すこと、そもそもそういう風に型通りに良いと思わせること自体を最初から拒否した態度が彼等の創作姿勢にはずっと在ったのだ。だからそれは単純なエンタメとは違うものだったのだ。

 

 ドラマーとしてのリンゴ・スターは歌手としでのクリアなヴォイスとは違った少しだけ外すということがずっとテクニックやドラマーとしての信条としてあった。それがビートルズの音楽に一味違ったテイストを加えてきていた。それは他のブルース系ミュージシャンやロックミュージシャンのアルバムにセッションマンとして参加したドラムの仕事でよく示されてきている。

 ジョージ・ハリスンの<ホウェン・ウィ・ワズ・ファブ>という楽曲が彼のアルバム<クラウド・ナイン>にあるが、その曲のバックドラミングには、決まるという定型を敢えて外して意外性を持たせるフィルイン(ドラムのおかず)を入れている。これが実によく効いている。あんな意外な叩き方をするドラマーはジョージ・ハリスンが当時から語っていた様にリンゴ以外ではレヴォン・ヘルム(ザ・バンドのドラマー。バンドで唯一のアメリカ人。彼以外は全員カナダ人。尚彼は2012年に71歳で亡くなった)だけだった。

 

 今回述べたことは言葉で説明し難いことだ。小説や映画ならビター・スウィートという語彙で説明が尽くことも含められるけれど、それだけでもないからだ。要するに予想内で巧く落着することを拒む何か、予想外の展開へと持ち込むこと、完全に決まるグルーヴでなく、賛否両論を巻き起こしかねない展開とでも言おうか?そういうことを試みている人達に大人になってからずっと惹かれてきたのだ。

 

 それはどうしてそういう風になるんだろうという感想をまず私に常に齎してきた。だからこそどうしてそれでも何か痛烈に感じてしまうのだろうという感想を常に私に抱かせてきてくれた。それは素気なく呆気なく終わる音楽などでも言えることだった。外すこと、想定内の満足を与えることを敢えて拒否する姿勢を鮮明に示す、或る部分では意地悪な、鑑賞する人間を試すかの様な表現の試みにずっと何かある、と思ってきた。

 だから今回それをエッセイにしてみた。しかしどうやら、それも又私に強烈な関心を持たせてきた表現の在り方同様巧くさらりと結論を出し、説明することを拒む様なものらしい。何故なら全く本記事には結論を出すことができないとしか思えないからである。

 

 だからそういう予想外の落着のさせ方を敢えて示してきた表現の在り方とは、逆に決まるということ、巧く行くということの意味とは一体何なのだろうということを考え込ませる性質だけは持っている、そしてその点でそういった試みには何か共通するものがあるとだけは言い得る様に今は思えるのである。

 

 だからこの問いは今始まったばかりであり、暫く継続していくのではないかという予感だけはしているのである。

 

 

 

 付記 ネット上の私のアメリカ人のミュージシャンの友人のサイトで私はそのことをimperfect perfectness と言った。その下りのツイートを下記に示しておこう。

 

Ive created poems with perfect groove so much, then next Id like to create ones missed to go in perfect groove intentionally. The Bad Plus has tried some tunes, Thelonious Monk, Charles Mingus, Ringo Starr, Levon Helm are good at this method. In novel, Anti-Roman authors have tried so much that method.
Namely a power only imperfect groove offers attracts me now.
But it needs so high-revel meta cognition to vision of creation and meditative intuition. But with so many trials I
ll get it so skillfully. That adventure is the most interesting in creating life.

 

Bob Dylan is the typical presence to show imperfect perfectness of groove. His genius performance of guitar, blues-harp and vocal or sometimes piano and keyboards tells us what true expression strength is. Its attitude is so enchanting and so persuasive to any audience, that part of himself is very great.
Poem, novel, essay, any kinds of literature have so intriguing enigma which focuses our consciousness in this imperfect perfectness too.

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月23日 (火)

Restart Unit theory chart6/memo can be thought ⑫ point and lineⅢ

 

The God has two ways of grasp, or should I say, on Ontologically two ways to understand as definition.
One is in fact that He is not existence and not the being as present ( Emanuel Levinas said so), it precedes all of beings and if it is the God, it
s Ontological God, Heidegger thought this God.
However otherwise there
s the God Levinas called one being as immanent encounter, which supports our will to be responsible to other persons. It would be Jesus for all of Christians, then Siva, Ahura Mazd
ā, Muhammad, they can be so for some people.
They could be ethical God.

 

 

 

George Harrison wrote Writing on the Wall in Somewhere in England.

 

 

 

The writing on the wall brother
Your life is in your hands
It
s up to you to see the writings on the wall

 

 

 

There we can discover very important point that our each individual life is up to you as George wrote, but we cannot decide when we die except committing a suicide, then how we understand the writing on the wall is up to you, this thing is on the truth that we see our life immanently, then if we see our life which means life of myself (Heidegger grasps it Ex-tatische) in looking it as outside, our each life is just only the writing on the wall written by the God when He faces it.

 

We can watch over other persons life and death as a writing on the wall, namely we grasp this other persons death as a bystander of course including any beloved ones coz formally, they are also other person in philosophically in time transit to anybody but for myself we can understand time immanently and we apply it to outside of this world, and we see anybody can see it.
And person
s life absolutely directs only to the future of which destination is death, absolutely not to the past and we see this transitiona line.
This line can be it which ends some time.
Even myself is also a line if we understand myself in meta-cognition, seeing my life as a line is arbitrary, in daily life we cannot see a life of myself so objectively despite of that life of myself will end sometime as a line.
Because of those fact, we can face the world being subjectively.
If we see even myself as just only a line, it leads the state of which subject has no myself, it absorbs in any other persons except myself.

 

We can understand that all of nature is in a line in transiting time
, because we adopt a vision which the God chooses as our finger.
It is uprising idea if any atheists can deny the God.
Then our cognition, language, idea copy as the God has created any beings almost like He wrote in the wall.

 

Adding truth. Death is a point. And line which never directs to the birth is life. It is a line in which we never stop in knowing that it must end sometime.

 

In this meaning if Miss Lonely meet Hotel California in her mind immanently, she would be fascinated by it and simultaneously would be embarrassed, and its fact shows that she knows the ethical God in her mind.

 

We hold a responsibility to other persons and meet the ethical God. It is different type of ontological God ( it can be so called as Levinas God).

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人生のメモ(人と哲学・文学・宗教他)Part3

〇一つ前の記事を英語にしてロス在住のアメリカ人ミュージシャンがしているサイトへ投稿を少し前からしてもいいということでしてきたので、それをアップしてみたら全く受けなかった。英語力がどうのこうのという以前に、キリスト教徒は死後の世界を信じているらしく、死をそこで全てが終わり後は無になるという観念が少しでも出ると、たとえきちんと通じる英語で書いていても、全く説得力がないということなのだろう。

 

〇長くハイデガーやレヴィナスの哲学を考えてきたが、ハイデガーは実は或る部分ではレヴィナス以上に(レヴィナスはユダヤ系だということも理由としてあるが)極まったキリスト教徒であるということだ。これは晩年に近づくにつれ鮮明となっていくけれど、ニーチェ同様彼等はキリスト教徒としての結束の内部で展開した議論として哲学を考えている。そこに容易には例えば日本人が参入できるというわけでもないのだ。勿論現代では日本は経済大国となっているから、その文明進化度で信用を得ているだけであり、キリスト教徒のことを彼等ほど日本人がよく理解しているという風にはつゆ程も思ってなどいないということも確かである。

 

〇又哲学的な思考の手続きは必ずしもキリスト教が分からない日本人にも理解できないということはないだろうが、哲学的であることがキリスト教一般市民にも通じるかと言えば、欧米の哲学者もキリスト教徒ではあるけれど、キリスト教徒の中の哲学者の地位が必ずしも凄く上位にあるわけでもなく、却って哲学的であるばかりにキリスト教社会倫理からは外れていくと思われている部分もあるだろう。それは詩等文学を創作する人にも当て嵌まるのであり、文学にも固有の文学の神髄を理解できない人達は外して分かる間柄だけで通じる態度の創作も多いのであり、そういうものはどんなに優れていても、直ぐに態度として見抜かれてしまうということもある。結局社会は一部のインテリとか通の為に存在しているのではないということである。

 

〇日本社会はそういった分かり合う人達同士ではいいけれど、そういう人が周囲に居ない場合には、そして初めて行く場所とかではその場で既に出来上がっている場の不文律に合わせなければいけないのだ。だから最初に座っている人に一々「失礼します。」と挨拶しなくてもいいのにと思うのだが、東京メトロとかでは普段からかなり混雑している電車の中では一々座っている人にまず挨拶してから空いた席に座るということはないから、私には気が楽だが、地方の公園とかではベンチにまず既に座っている人へ「失礼します。」と挨拶しなければ無礼だという事になる様である。これは引っ越した先で先に住んでいる住民に挨拶する礼儀と共通するものなのだろう。でも基本的に公園とは先に来ていた人に権利があるわけではないのだ。平等に権利は与えられているのだから先着の人に余計に権利が与えられている訳ではないのである。これは居酒屋等でも常連が幅を利かせているというリアルでよく疑問に思うことである。相手から奢って貰うのでない限り、自腹で飲んでいる者同士に先輩と後輩もないものである。間違っているだろうか?

 

〇上記の疑問があっても、結局その場その時々での場の雰囲気とかがあって、それに巧く会わせておけばよい、そうやって風当りを少なくしていった方が得だということしか日本人は考えていないのだろう。つまり日本ではそういう逐一に至る迄ディベートするという習慣も、そういったことを意義あることだという観念とか思想がないのである。その場その場での丼勘定ということになるのだ。だが、やはりそのことは徹底的に論じたっていいのである。否そうすべきなのである。

 

 付記 最初の〇の部分の英語投稿記事の問題は、初めてその時全く反響がなかったから印象的だったので書いた。それ以前にアップしたどの投稿記事もかなり反響があったのである。だから私はそのサイトで最初から全く相手にされていなかったのではない。そもそもそのサイトのオーナーがFBで友達にならないかと誘ってきてくれたのだった。だがそういったかなり理解し合える間柄でも、相互に通じ合えないこともあるということの発見から書いたまでである。でもそういった些細な発見から導き出される命題もあるのだろうとも確信しているのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月22日 (月)

リスタート単位論chart6/思考できることのメモ⑫ 点と線Ⅲ

神は二つの捉え方がある。と言うより存在論的に二通りに字義的に存在し得る。一つは実在でなく存在者でない(レヴィナスは存在者でないと言っている)という意味で全存在をも超越すること、それが神だとすると、それは存在論的な神と言ってよい。

 だがもう一つにはレヴィナスが<一者>と呼ぶ内的な出会い、他者への責任を負う我々の意志を育むものとしての神がある。それはキリスト教で言えばイエスへの愛と言える。宗教によってシバ神となったり、アフラ・マツダ、ムハンマドとなったりする。それは倫理的な神と言ってよい。

 

〇ジョージ・ハリスンはSomewhere in England(アルバム)中にWritings on the Wallという曲の歌詞を次の様に書いている。

The writing on the wall brother

Your life is in your hands

Its up to you to see the writings on the wall

 さてここで重要なのは我々一個の人生は自分次第だが、我々は何時死ぬかを自殺以外、自分で決めることができない。だから壁の落書きをどう理解するかは自分次第というのは人生を内的に見た時のことである。人生を外的に見ることもできる(それをハイデガーは脱自と捉えた)。その場合我々の生そのものは神自身が対する壁の上の落書きにしか過ぎない。

 

我々は他者の生と死を壁の上の落書きの様に見ることができる。それは自分で感知できる内的な時間の上で外的に自分以外の誰にも推移している時間の中で、特定の他者の死を我々は一つの立ち合い人として理解する。その人の生が線の様に一直線に、決して過去へ向かうのではなく、死を生の最終地点としてその地点、つまり未来へ向かう推移=線として理解する。それはいつか途切れる線である。自分も自分をメタ的に捉えれば線であるが、自分の生を線の様に理解していくのは恣意的なことであり、自分だけは(実は自分も紛れもなくいつか途切れる線の途上にあるのだけれど)そういう風に見ることができない、だからこそ主観的に世界へ対することができる、自分のことさえ線の様にしか見られないとすれば、それは自分はなく、他者全部の中に自分を埋没させることになる。

 

全自然現象は時間的推移の中での線としてのみ我々は理解できる。それは宇宙や世界の全てを創造された神の如き視点を常に採用しているということである。それはどんなに神を否定しても尚立ち上がる思考なのである。だから我々の認識、言語、思考は神が壁に落書きをする様に全存在者を創造した様に、その神の存在への在り方を模倣しているのである。

 

 付記 死は点である。そしてその点まで推移して死へと向かう(決して誕生へは向かわない線こそが生である。それはいつか途切れると知っていて、あゆみを止めない線である。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月21日 (日)

Today and several recent days’ my opinion article on FB’s my US. Friends' site

 

Recently I listen to Bob Dylan music every single day. His lyrics are the most attractive for me. Especially his ironic and philosophic implication which can be read in his lyrics attracts me.
Frank Zappa is also attractive to me, but I love his idea of music more than his voice or guitar, his composition idea is good, and his it is common to Dylan, very critical to contemporary civilization.
Otherwise I love to listen to George Winston's piano tune or William Bolcom's ragtime piano tune, its the most favorite elegic music but it is so contemporary too for me.
Ennio Moricone's Once upon a time in America(movie theme music) is so sentimental too and it's my favorite.
I love the U.S. music very much.(5.9)

 

He who handles a nettle tenderly is soonest stung.

Nettle at our daily life would be chance to succeed something, enchanting different sex person for myself, beautiful good words are also so, it approaches near myself, but grasping timing to make it near is lost, it would disappear soon.

There’s no the most useful method to get it, then we should not hope to get it beyond normal mind, if we are with enthusiastically persistent hope to get it, it would slip away from us. (5.21)

 

 

Now world wave is in some kind of peril, a sort of mental crisis because of probably contemporary globalism contradiction, then message intention in 60s beautiful idealism of Summer of Love has been transformed for example message and idea with Bob Dylan, The Beatles, The Rolling Stones, Jimi Hendrix, Doors, Pink Floyd, or appearing ones after them for example Chicago, Allman Brothers Band, Steely Dan, or any other musicians as messengers’ voice has been deleted in nowadays atmosphere, for instance hate speech, nationalism, wealth distribution’s extreme difference and wall to rich people and have-not. In the US, civil rights movement, Sir Martin Luther King’s message with words and action and anti-Viet Nam war movement supported the Summer of Love and this wave is transported also to Japan. Japan has also so assorted movement of music or any other kind of expression.

Japan as far East is also in heavy wave of culture as the US has held in centuries.

After all, for example rock music had the scene, as like Nirvana few decades after the Summer of Love season, but they (mainly Kurt Coburn) showed some kind of despair after Summer of Love ideology which is said to be deleted in long days of social change and transition.

 

Necessarily in the US many kinds of music scene monuments have been established several decades in latter of 20th century and former of 21t century, for example, soul, rhythm and blues, blues, or heavy-metal, gospel, rap music, electric music, American folk or classics or many streams run together.

This phenomenon is completely mirrored to Japanese music scene. Especially dance scene is obviously in same age spirit of contemporary citizen. In Japan so many musicians and dancers are inspired by Michael Jackson, Madonna has inspired so many divas and actresses.

 

Today’s unstable situation in all over the world has so many factors to bare so, then we have to come together conquering the wall of ethnicity, difference of religion, culture, custom, habit, language or so.

Human-beings are tested by the God or the Omniscient, then we must face it, and come together now.

Dialogue is so important and indispensable to keep up with our mutual understanding, and expressers of any genre must cooperate with each other, and communicate with each other.

It’s a solid and must mission of human-beings I believe. (5.19)

 

Today is cloudy and a little bit humid in my residence area.
Everyday in Japan TV afternoon programs report events of North Korea concern for example missile, coz it
s noisy I put off TV and listened to Bob Dylans Planet Waves and next Hikaru Utadas Fantome and in my brain words came up to my mind. Then when I discovered that listening to my favorite music, so many poetic words appear, today I wrote 4pages of my note. (5.16)

 

 

☆My impression to my friend musician tunes

 

Possibly because I am Japanese, I feel this song is near our ethnic sensation. At something of this song’ taste, I feel Asian(especially South East) feeling or Native American’s feeling. Of course now music scene is mirrored some worldwide, all of ethnic taste. It’s good thing I think.

Some tunes are fusion with rap and progressive rock or other kind of music. Mysterious mood and dry atmosphere co-exist.

That point attracts me.(former sentence is for First song, this article is for from second song)/ Your tune as my favorite one is vigor. It's like very groovy IDM. I love it./ I got mysterious impression with this song, so to say it's song of praise and gospel of living today.

 

☆My opinion to my friend’s question and confession of his mind

 

So many philosophes or poets have suggested so many things. I always look for good words, sentence to tell us something.

Their useful texts with good words or phrases lead us to more considerable wisdom.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月20日 (土)

想念論・時間と線と内的意識Part1

ハイデガーは存在への覚知(把捉)の様なものが言語を誘引していると考えている節がある。それは<ヒューマニズムについて>(渡邉二郎訳)(Brief an Jean Beaufret, paris)の次の様な下りから、そう読み取れる。

 

思索が存在するということは_、次のことにほかならない。すなわち、存在が、そのつど運命的に、思索の本質の世話をしたということ、これである。」「存在が、思索を、可能にするのである。

 

 後者の括弧内の記述はその前後関係からして多分にニーチェの力への意志をも念頭に入れた発言である。そのことに就いては次回以降追々示していこうと思う。

 

 これは基本的にウィトゲンシュタインが言った「語り得ぬものについては沈黙しなければいけない」とは異なった考えである。ウィトゲンシュタインの場合には、言語の限界が思考の限界なのだから、思考の限界は世界の限界である。何故なら彼の場合には言語で理解できることが世界の把捉の基礎の全てだからである。

 

 だがハイデガーが言っている存在が思索を可能にする、即ち成立させることとは、言語で理解できることだけに留まらない。必ず言語外的な把捉をも含む。それは絵画を見た時に感じる想念とか音楽を聴いた時の想念とか、風景に直に接した時に感じた想念とかも含んでいる。

 つまり、それを言語化しようと試みる時立ち上がるものこそ、ハイデガーにとって世界である。従ってウィトゲンシュタインの考えた世界とは認識されること、それは多分に反省的意識に於ける理解を言葉化する際に払われる何等かの総括的な判断に近い認識に違いないのだが、その記号化される事実そのものを狙って語ったことなのだ。勿論それは現代の様なコンピュータが世界を動かしている様なリアルに於いてはプログラミング言語そのものの持つ世界への理解へ接近しているので、有益であるだろう。

 しかしハイデガーは機械を製作する者は感情があり、感情とは知覚的判断に於いても情動的に動員されていて、そのことを問題としているので、例えば同じ電車に乗っていても便意を催しているのに我慢して乗っている場合、しかも満員電車でなかなかドア付近へ接近することも侭ならない時に降りようと思っている駅で焦っている時に見る電車の中の光景と、全くそうでない時の光景とでは地獄と天国との間くらいの差がある様な世界の把捉を捉えるには有益である。

 

 我々の時間意識は何か必ず行為とか思念とか願望とかを伴っている。そういった一切の心の作用の全くぎ取られた時間というものはあり得ない。寝ている時さえ夢を見る準備を脳がしている。

 その時間の進行の仕方をフッサールは内的時間意識と呼んだが、彼の時間論は多分にベルグソンの純粋持続の方へ引き寄せられ得るものだったのではないだろうか?

  

 徒歩で山道を歩いたりする時我々は大地の凸凹を身体全体で感知しながら歩いているので、そのうねりの様なものに引き寄せられなければ歩けない。そういった容易に水平な舗装道路を歩く時とは違った状況での観想とは、端的に線そのものの自由さに身を任せるというに尽きる。水平移動とは線を反省的に見る感じになるが、凸凹の地の移動では反省的に見ている余裕が出てこない。この差は大きい。その質的違いがあるからこそ、身体がメルロ・ポンティが言った様に哲学概念的にも重要な指針となり得るのだ。

 

  

 ベルグソンが言い表したい純粋持続とはそういった時間での受け身的な時間の経過へ引き寄せられることそのもの、と、もし考えれば、我々は山道に歩いている時だけでなく、同一空間内に閉じ込められて、長時間会議をしている時でも、議題とその結論を出すことの進捗状況そのもののうねりに線を感知できるだろう。

 

 どんどんと過ぎ去ってゆく時間の経過は徒歩で移動している時でも、一箇所にずっと居続けている時でも内的には同じである。勿論知覚的にはどんどん周囲の風景や知覚情報として入ってくるものが目まぐるしく変わる様な移動と、一箇所に居続ける時とでは心理的には違うし、空間把捉的な感覚もかなり違う。

 にも関わらず、どんどん変わる知覚情報の世界も、逆に殆ど何も変わらない知覚情報の世界も、経っていく時間の推移自体に変わりはない。

  

寧ろウィトゲンシュタインの言語の限界が思考の限界であり、私的言語は成立し得ないとは、彼は直接時間論を一切示さなかったけれど、この時間の超然とした我々の心理的違いへの非干渉性、つまり全く身体論的様相に於いて頓着をしない、絶対そういう情感を持たないことの上で論じられているので、強ち彼の哲学は時間論と無縁であるとは言えないであろう。

 

正にそういった意味では時間こそ神であるとさえ言えよう。

 

 時間の経過に身を委ねていることは、山道のうねりに身を任せている時も、長時間PCの前で何かしている時も同じなのである。

 勿論空間把捉的な身体論的な意味ではこの二つは全く異なっているし、我々の情動へ齎す効果や影響は全く異なる。にも拘わらず経過していく時間自体は、知覚情報が目まぐるしく変化する時間でも、全くそうでない時間でも内的には線的に決して前には戻らないかたちで、進行している。

 生の時間とはこの様に決して引き戻さないかたちでのみ推移していく。

 これはどんどん全て現在として顕現している事態が過去へ後退し、過去の量が増えていくことなのに、近い過去程は全ての遠い過去は知覚情報を摂取したという意味では薄れていく。勿論強烈に印象に残っていることは残像として常に引き出せる。しかしそのことはあくまで記憶の問題であり、今進捗している事態自体とは全く関係がない。でも記憶は常に知覚から刺激を受けて呼び醒まされているとも言えるので(勿論そうでないこともある)身体で直に感知し得る今という意味では、時間も又身体と分離して語ることはできない。時間の身体との分離不可能性の事実、それ自体から喚起されている、例えば一人称(それは私から見える世界を代表している)とか、それ以外の人称とか、時制とかが認識されている、という意味では存在が言語を誘発していると考えているハイデガーの思想は正しい。その事実こそが存在論を倫理論へ帰属させようと試みたレヴィナスの思想を生み出している。

  

結局自分が過ごしている時間ということからしか我々は公の時間を理解することはできない。当然空間知覚もそうである。だからメルロ・ポンティの身体知覚論の大元にはこのハイデガーの言語に対する存在の優位性があり、ポンティ哲学はそこから来ていると言える。勿論デカルトのコギトも関係している。

 

  

勿論ハイデガーは空間の身体的経験だけを存在という語彙で言い表そうとしているのでは決してない。先程から述べてきた時間の推移、その線的性格、そしてその線のうねりに沿って、引き寄せられて生を全うしている我々の受け身的運命丸ごと含め、又現在とか未来への思いだけでなく、時々で異なった過去への想起や記憶の呼び戻しをも含めて、そして過去を言語化し、概念化して理解している部分をも含めて存在と呼んでいるのだ。

 

 

 

だからそこから形而下的知覚体験から形而上的生の存在に対する認識が発生している、と言える。

 

 

 

 

 次回以降は今回使用した<ヒューマニズムについて>を継続して使用し、頽落と世人の<存在と時間>以来の問題追究に関して、ハイデガー思想を読み解き、それがどうレヴィナスの倫理思想へ橋渡しされていくかを考えてみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月19日 (金)

人は何故荒涼とした風景に惹かれるのか?Part2 廃墟や寂れた街に妙に心惹かれる理由とは何か?

 前回は自然自体の荒涼とした景観へ人が惹かれる理由を考えた。だが荒涼とした感じは自然だけでなく、人工的な都市インフラや人々の作る街でもあり得る。或る商店街ではシャッターが閉まった通りになってしまっていたり、かつての栄華が遠き過去の日々であると実感させる景色に遭遇すると、我々は結局常にどの時代でも、栄えている日向の部分もあれば、逆に寂れている日陰の部分もあるのだと思わざるを得ない。

 

 だが重要なことは全てが予定調和的に巧く行き過ぎていることを決して我々は内心良く思って等いはしないということだ。つまり政治的にも経済的にも全てが巧く行っている様に思える時代は逆に不気味な統制と抑圧の強い時代だと言える。北朝鮮の映像ではいい場面、つまり巧く行っている部分しか紹介しない。そういうファシズム固有の不気味さは中国にもあるし、色々な国々で歴史的にもまやかしの良好さを纏って報じられてきた(かつて日本もそうだったかも知れない)。

 全てが巧く行っていないし、常に何かが補強されれば、別の何かが弱体化するという浮き沈みがあるからこそ自然だと我々は思うのであり、だからこそ凄く廃れてしまっている光景にさえ、昔日の栄光をそこから読み取れるという意味で惹かれることはあり得る。つまり常に日陰となっていきつつある光景もどこかでは存在するからこそ、次にはそれを克服しようというかたちで、誰かが新しい何か、復興とか、復権とかを目指す様な意志が育まれるのである。

 

 だから我々は必ずしも巧く行っていること、良好な状態であることだけを見たいわけではないのだ。勿論常に捻くれて悪しきことだけを見つめたいわけでもないが、先程も述べた様に何もかも丸く収まっていると思えると、ちょっと不気味だぞと思える感性も誰しもが持っている。それはどんなに保守的な人もそうである。だからこそ地方の鄙びた温泉街とかにも惹かれる部分があるのだ。そういう風景を目にすると、人間に或る固有の懐かしさを催させたり、鄙びている斜陽的な状態に人生の在り方を重ねたりして固有の想像力を掻き立てるのだ。

 それは荒れ果ててしまったかつては重厚長大型の工業化社会で活躍した工場の廃墟にも感じてしまうことである。長崎県の軍艦島とかもそうである。今はすっかり作動していない炭鉱とか、その栄えた日々に活気がきっとあったであろうと思える繁華街跡の寂れた地方都市とかもそうである。

 そこに人生の浮き沈みを我々は重ねて想像するのである。そういった寂れた場所にもかつては活気に溢れた人々の笑い声や闊歩する人々による喧噪もきっとあったのだろうと想像し、それがいつまでも続かず、そうでなくなるということの内に、固有の無常というものを読み取るのだ。それはその侭放置させておくべきではないというかたちで、勿論中には魅力的な廃墟として残しておこうと思わせるものもあるだろうが、それにしても少しは手を加えて今そこにそれがある価値を見出しやすい様に修正したりしようと思われるのだ。

 

 そういう風に今ならこれができる、こうすべきだという思惑を意志として育てるからこそ、巧く行っている部分以外に必ず巧く然程行っていない部分も積極的にどんな時代でも必要なのである。

 それは人々の思惑がそれぞれ異なり、必ずしも全てが全ての人々の同意が得られないからこそ、その歪もどこかでは噴出するという事実を目の当たりにして我々は却ってほっとする部分もあるということである。

 だから寂れた、鄙びた、荒廃した場所というものはどんなに全てが巧く行っている様に思える時代でさえ、必ず残存するのだ。そういう不均衡、エリア毎に格差があること自体が自然だと思える我々の精神的性格自体が、それによって証明されている、とも言い得るだろう。

  

 付記 自然の情景でも人の手が一切加わっていないからこそ魅力を感じさせることはある。勿論少し手を加えれば人にとって凄く訪れ甲斐のあるエリアへ生まれ変わると、そう思わせるだけの何かを我々は発見するのだ。それは都市でも街でも何でも実は整備され過ぎていないからこそ、そこで何かしたくなるし、手を加えるということで仕事が生まれる可能性を我々は見出すのだ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月18日 (木)

心のハンモック、魂のトランポリン(2017. 4.29, 5.1,2,4)

一本の鉛筆かボールペンと紙切れがあれば、それでいい。

そこから全てが生まれる。

 

何かが始まることは何かが生まれることだ。

心は常に何かに取り組み、どこかでそれを終わらせようとする。

何かを終えることが別の何かを始めさせ、生み出された何かを糧に別の何かを生む。

何かと出会うとは、別の何かとは出会わぬと決めることだ。

 

一本の線が引かれる。一枚の絵が立ち現れる。

一文字がそこに書かれる。一篇の詩が立ち現れる。

一つの音の重なりが心の奥底に鳴り響き、一つの曲が立ち現れる。

 

一つの線は空間を切断する。広がりを遮断する。

数字の間のつながりも心に一つの絵を現わさす。

 

言葉に囲まれた実在。

言葉に囲われた知覚。

 

心は心のざわめきや胸騒ぎを鎮め、日溜まりに吊るされたハンモックに、それ等全てを横たえる。

 

魂は魂の叫びや静かな決意を受け留め、構内に置かれたトランポリンに、それ等を放り投げ、跳び跳ねさせる。

 

音が言葉になり、言葉が絵になり、絵が音になる。

 

心の中でハンモックがゆっくり揺れている音がする。

心の奥底にぴんと張り詰めてトランポリンが振動する。

 

一本の鉛筆やボールペンはそこここに忘れられた侭置かれている。又いつか握って貰えるだろうと期待しながら。

 

考えを感じ、感じを考える。

置いたら勝手に動き出したり、ひどく揺れ動いていたのに、止まったら、二度とびくともしないで、どっかとどこかに据え付けられたりする。

 

音で仕切られた実在。

音を仕切る知覚。

 

何かが動き始めることは、何か彷徨ってきたものが照準を合わすことだ。

心は常に何かを動き始めさせ、どこかへそれを連れて行こうとする。

何かを止めることが別の何かを動かし、移された何かを糧に別の何かを動かす。

何かへ合わせるとは、別の何かと合わせぬと決めることだ。

 

一連の音を鳴らす。一曲の調べが仄浮かぶ。

一記憶が甦る。一つの思いがそこに寄せられる。

その思いが絵になって夢の中に現れる。(4.29)

 

生に安らぎはない。日々自己に対しても社会に対しても闘争に充ちている。

全ての試みが戦いである。

 

だから心のハンモックは常に明日へと先送りされる。

余暇の寛ぎも余暇の後の準備だ。

魂を再び高く上昇するトランポリンに乗せるために一時だけ休息するに過ぎない。

 

魂はいつも高く跳び上がろうとする。何かへの没頭、熱中、没我。(5.1

 

何かし始めれば、それ迄とは違う時間へ移ってゆく。

心はいつも何かの魂を用意している。

魂はいつも何かに向かい、それ自体がそれを始めさせ、それ自体がそれを中断する。

トランポリンの弾みを使って、どうやって跳ぶか、どれ位高く跳ぶかは、その都度の魂が決める。

心はハンモックでゆっくり休めた後トランポリンへ魂を送り込む。

5.2

 

心は弾む。魂は叫ぼうとする。

手を動かし文字を書けば浮かんでくる考え、あらすじ、その全てを心は受け留める。魂はそこで立ち上がる。

トランポリンで跳び跳ねた後ゆっくりハンモックで日向ぼっこをしよう。

魂たちは示し合ってそう囁く。

 

一本の線を引く鉛筆やボールペンが文字も記し、心がそれをつかまえ魂を呼び醒ます。

 

紙は心を誘い、一本の鉛筆やボールペンは魂を突き動かす。

5.4

()

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月17日 (水)

人類が共通して持ってきている精神的傾向と世界共通の展望Part1 世界的に人類が大人主義に懐疑的になり幼稚化していることが判明している現状に就いて

トランプ大統領が弾劾される可能性が五割となってきている、という。さてこのことは大統領自身によるメディア批判(と言うより全くメディアの意見自体を聞く姿勢を持たないだけでなく、最初から自分の意見に合わないメディアを存在否定している)、そしてロシアとの親密な関係を国民に知られたくないが故にFBI前長官コミー氏を解任したことが、弾劾裁判へ持ち込まれることを加速化したということだ。時事ブログでは「弾劾裁判は裁判所ではなく連邦議会上院で行われるが、まず下院の司法委員会が弾劾裁判を開くかどうかを決める。/そのためには、国民の声が醸成されなくてはいけない。そして司法委員会が調査を始めるべきかの決議案を採択させるところからスタートする。」ということらしい。

 私自身はトランプ大統領が法的措置に則って全てをしていたら、世界は益々混乱していく、だから全て独断でやって北朝鮮問題も解決したいと考えているのではないかとは思っているのだが、そういった一切の手続きを経ていないやり方はアメリカ合衆国では一切認めないという通念と良識を国家として持っているということだけは判明した。だからどんなにグローバリズム経済による国際社会を考えてきたアメリカも自国中心の法秩序と良識の方をいざとなったら重んじるのだということもよく分かったとは言える。つまりアメリカは今国家的危機状況だとかなり大勢の国民(トランプへの熱狂的支持者以外)が思っているということだ。

〇独裁的政治家が大勢登場してきているということ、トランプ、プーチン、ドゥテルテ、メイ等、要するに世界秩序自体への何等かの人類の懐疑的気分がそういった為政者を登場させることを暗に誘引している。それはどこか人類全体の幼稚化がいよいよ顕在化してきているということでもある。

ところで日本国内ではお笑い芸人として世に出るにはかつてビートたけしもそうであった様にかなり拙劣な下品でも印象にだけ残る様な芸や言葉をぶつけることからしか打開されないということが不文律としてお笑い界全体にあって、それはお笑いという仕事が社会や世相全体の太鼓持ちに徹していなければいけないという営業至上主義が日本にあるからだが(昨今も裸になることだけで売れようとするお笑いタレントも何人か登場してきているが)、それはアイドル路線のタレント達にもお金がある企業から依頼された仕事は断れないという芸能人節操を失くす仕方だけを暗に強制する社会システムとなっていることでも言えることだ。

同じことが世界中に蔓延しているのだ。つまりメディアも報道機関も国家主義的な不文律には逆らえないということ、だから傀儡的な元首で居てくれた方がどの国家のメディアや報道機関もずっと便利でいいという本音をどの国のメディアも報道機関も持っているのだ。それは大勢の独裁的為政者の登場で証明された。そしてその事実を巧く隠蔽してくれる元首だけを彼等は常に望んでいて、彼等が一般国民の味方というのはあくまで建前であり、本音ではないということだ。それを直接批判するトランプ大統領は彼等の秩序を破壊する危険分子でしかないということとなる

上記のことは誰もが個人とは幼稚でなければいけない、そうでなければ独裁になるから危険だ、という不文律が世界的に支配していることを意味する。金正恩が北朝鮮国家全体で世界へ謀反を起こそうとする気運を示していることもその一つである。確かに徐々にアメリカ合衆国へも到達して破壊力を持つミサイルを彼等は保持しつつあるとだけは言えるからだ。幼稚でなければあそこまで世界全体を敵に回してもいいぞという態度にはなれない(戦時中の日本と似た要素はある)。

〇この世界全体を覆う幼稚化現象を支える人類精神とは、大人主義を信用できないという気分である。これは世界中の誰もがスマホを片手に公共空間で自己だけの世界へ浸り込むことを肯定する気分と相補的であり、同時的なのだそれは個人もそうあるなら国家もそうであるということである。つまり世界を変えたいと誰もが思っていても(勿論そんなこと考えもしない市民も6割は常に居るだろうが)、世界全体が理想どおりにいかないのを誰しもが知っているから或る部分では北朝鮮の様にミサイルを立て続けに発射して世界から孤立していったっていいぞという態度を敢えて示させているのだし、そのことは20世紀冷戦時代にあった国際的なデ・タント、つまり核による抑止力(deterrent)を前提とした国秩序への信頼が世界的に高まってきていることの一つの具体的な表出であると言える。

オバマ大統領は世界的にリベラリズムを定着させようとした功績はあったが、シリア撤退によってロシアへ対外的進出基盤を与えてしまった。そしてそのことで米ロは国家主義的建前としては対立していくこととなった。その反省的意識は無意識にアメリカ国民にあったからこそ、トランプ大統領は選出されたのだ。だがいざ彼が就任してみると、その変えたいという気分だけではアメリカ合衆国の理念が揺るがないということだけがはっきりしたというわけである。

 件の53日(憲法記念日)の安倍総理によるヴィデオメッセージはそのリベラリズム全盛期の世界秩序の方向転換をトランプ政権誕生と共にフルに活用しようという目論見であったことだけは確かだ。既に世界は抑止的世界秩序へと移行したのだという宣言でもあったのだ。しかし本来なら憲法は正にドイツの様に数年置きに変えられるものなら変えた方がいいのだ。しかし戦後の日本社会の70年とは只管アメリカへ追いつけ追い越せだけをスローガンとしてきた性質のものだったので、憲法を不可侵のものとし過ぎたので、一度変えたら二度と元へ戻せないと大半の国民(政治家から学者や専門家まで)は思ってきているのだ。だがそれはそれだけ国民が議論をずっと放棄してきた、そういう国民性、民族性を戦後の70年が定着させた、そういう70年を我々が望んでいきたということである。だから憲法を頻繁に変えることを可能にするためには、その都度皆国民が(勿論四割位の国民は国などどうなってもいいとさえ思っても居るだろうが)憲法がどうあるかということを日頃から相互に真摯に論議し合う様な習慣が定着していなければいけないのであり、そうならない限り、一度変えたらなかなか元へは戻せないだろう。

〇確かにトランプ大統領の行動は全ての不文律を否定し過ぎている。しかし彼の独裁によって一時的に世界が均衡を取り戻すなら必要な措置かも知れない。尤もそれは終わり良ければ全て良し的考えであり、大人主義的なインテリやエリートが一番否定したい感性なのである。だが終わり良ければ全て良し的な考えで安倍総理もトランプ大統領の行動や決断に逐一歩調を合わせていることからも彼等の意図だけは分かる。しかしそれは危険だとリベラル的思想は今考えているというわけだ。(つづき)

 付記 安倍総理の場合、自らの任期中に憲法改正を成し遂げたいという野望が国民に見え見えなので、憲法改正する必要性は認識している国民も2020年迄というのには難色を示しているということだろう。トランプ政権がもし弾劾で途中で終了したなら、又一挙に世界情勢は変わってしまうので、それだけはどんなにトランプ大統領を全面的に支持している訳ではない世界市民は望んでいないだろう。尤もアメリカ国家運営を司る大勢の保守的市民はそれでも彼を倒したいとは思っているかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月16日 (火)

リスタート単位論chart5/思考できることのメモ⑫ 点と線Ⅱ

線がA, Bの二点間で引かれれば、その線上のどの地点でも無限分割的に点を設定し得る。しかし点をどれだけ無限に並べても線にはならない。勿論それは概念上ではである。実際は点も面積も長さも実際引く場合には生じるから線を作ることはできないとは言えない。だが概念上では点は面積も長さもないのであるからそうなる。そのことが重要である。だから概念的には次の様になる。

 

 Aを線、Bを点とすると、ABは成立するが、BAは成立しない。

 そうだろうか?前者も成立しないかも知れない。何故なら点には面積も長さもないのだから、それを長さから抽出することができるだろうか?線には幅はない。ないのでなければいけない。だから線からは、点は位置だけは決定できる。その線上のどこかにという意味で、である。

 さてAが未来Bより過去であるとした場合、時間ではABは成立するが、BAは成立しない。そのことと上の関係は似ている。しかもAB(線→点)はどの時刻(時間上のどの時点)でも成立するし、空間上の同一地点でも無限に(何度でも、どれほど時間が経っても)成立するが、時間の時点ABという事態は一回限りである。

 

空間の線は全て任意である。或る地点から見える地平線とか水平線と言う様なことを除けば、そうである。だが時間では或る時点Aから別の或る時点B迄の指定は(我々にとっては)任意であるが、時間それ自体は途切れることがない。空間の線は途切れる。その違いは大きい。従って時間の推移自体は決して任意ではない。存在全体を外から嘲笑う様な強さがある。厳然と時間は経つ。止まることがない。空間の場合、地平線や水平線は自然による任意と言い換えてもこの場合はよい。

 

時間の場合、行為、状態に添わせてどう区切るかだけが任意であり、それ自体に区切りがあるわけではない。時刻から我々の生活を区切ることとは我々にとっての行為や状態の区切りでしかない。つまり実在的に頭痛が昨日の七時位から今朝の八時位迄ずっとあった、と言う場合、それが私のことであれば、私の頭痛が、であって、時間が区切られているわけではない。それらは我々が時計・行為・状態を通してそれらの総合的な連動に対して言っている(表現していると言ってもいい)に過ぎない。それらがどんな風であれ、それとは無関係に時間とは推移する。従って時間とは決して任意ではない。自然の全形象の様な任意性(自然の気まぐれとか粒子のブラウン運動による結果とか)とは全く無関係である。

 

にも関わらず我々はあらゆる事象、現象を通してしか、つまり存在に於ける様相を通してしか時間の推移を体験できない。と言うか、事象、現象は一種の点的な設定に近い。それに対して時間はその点的設定の全てを成立させる背景と言ってもいい。だがここでも空間も出しゃばる。つまり空間はその時間の背景でもあるからだ。前回はあたかも空間は任意だし、時間はそうではないから、時間こそが神的だとしたが、よく考えると、その全時間も空間という全事象・全現象を顕現させる場がなければ成立しない。存在なしに時間もあり得ない、という意味で、である。だからその全事象・全現象の一挙性を成立させている空間はそれ自体、神でもあるが、その神さえ時間という黙々と過ぎ去っていき、止まることはないことそれ自体には敵わないと、前回は結論しただけのことだ。事実そうだ。時間は永遠に全ての事象・現象と全く無関係に、無頓着に冷酷に過ぎ去ってゆく。でもやはりそれは過ぎ去られていく全事象・全現象を成立させる空間が存在して初めて成立することでもあるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月15日 (月)

リスタート単位論cahrt4/思考できることのメモ⑪ 点と線Ⅰ

〇重要なことの一つとは、任意に平面上で区切られた空間に於いて、どの地点に点を取っても、複数の点では個々違う点へ全て線で結ぶことができる。最短の線は直線である。だが、このことはそれ自体かなり凄いことではないだろうか?

 

二点を結ぶ直線とは、空間内のどの地点に点を設定しても必ず成立するということ、そのことが凄いと言いたいのだ。つまりそれは同一平面上ではその地点の位置がどこにあっても、二点は直線で結べるという一つの大きな性格が付与されている、ということだからだ。これは平面上で二次元空間を成立させる上で絶対的条件である。

 

〇してみると、空間に於いて同一平面上にあるという事実は、どの地点でも直線で移動できる(少なくとも障害物さえ取り除かれれば、であるが)という性質自体が一つの空間の性格である、そうでなければ、それは逆に同一平面と呼べないし、又空間の性質に逆らう、矛盾するということである。

 

空間のこの或る種絶対的付与性格条件こそ、時間と全く性質が異なることを示している。とすれば逆に時間とは同一空間と言う様に、同一時間ということ自体が言えないことにならないだろうか?つまり常に空間とは一挙に開示されているのに、時間とは決してそうではないというかたちで示し得る。

 

〇神という概念からもし考えるとするなら、どうなるだろう?

空間の全位置の一挙性に時間は要らない。勿論それが継続するという意味では時間が要るが、確認するには時間は要らない。或る瞬間(時点)で一挙に開示されていることは確認可能だからである。

その一挙性ということを我々に分からしめているということに於いても神の決定性は見ることができるが、時間の非一挙性、つまり時点の移動が絶対、空間の様にABBA双方がどの時点でも成立し得ること自体が時間ではあり得ないこと、これは神の決定性と言えるだろうか?寧ろ神さえも時間には逆らえないということになりはしないだろうか?

 

〇つまり時間とは絶対ABに対して過去であるなら、絶対一回性としてABが成立するだけで、一度成立してしまえば、決してそれは繰り返されないということ、そして一回とてBAは絶対成立しないという性格が付与されていることとなる。

 

 この様に点と線は空間でも時間でも成立し得る。そのこと自体は我々の概念の比喩的転送が可能であることを物語るが、空間では同一地点はAにせよ、Bにせよ、同一地点同士の往復がどの時点でも可能だし、又同時的にABBAを成立さしめるという絶対的性格も有していると言うこともできる。だからもしこのことを神的であると言うなら、時間の様な不便な性格は神的とは言えないとも言える。或いは神さえも時間を制御し得ないということにもなる。となれば、時間のこの絶対的不便さこそが神という絶対的に無能さの片鱗さえ持たないという事態(全知全能)の不可能性だということは、時間の点と線、つまり絶対的一回経過性としての時点と、絶対的一回通過性としての時間の推移によって初めて与えられる、とも言い得る様に思われる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月14日 (日)

文学メモ④  『ドン・キホーテ』から読み取れること・聖書とそれと近代小説、現代小説との間の推移と変化に就いて

 

〇『ドン・キホーテ』は現代文学の定石とは全く異なった物語である。それは或る部分では現代人にとって難しいと感じらせるも、別の角度から見れば現代文学よりずっと分かりやすいとも言える。まず主人公とその取り巻きを中心とした物語進行とはまるで関係のない逸話が途中でかなり長い分量で挿入されている。これは一つの文章の中に何度も埋め込み文が挿入され、なかなか一文が終わらない様なものである。だからこの作品と近代以降の文学作品を比べてみた場合、明らかに違う。『女の一生』も『走れメロス』も『永遠の零』も近代以降の小説は軸となることがずっと貫かれており、挿入されたエピソード自体が自立した意味を持つことはあり得ない。全てを全体へ奉仕させている。しかし『ドン・キホーテ』は違う。その意味ではこの作品の物語性は明らかに聖書の方に近い。ギリシャ神話にも近い。

 

 

 

〇現代社会は小説だけが娯楽であるわけではない。これは近代社会以降の特質なのだが、要するに選択肢が多い。テレビドラマ、アニメ、映画、ゲームソフト、パソコンゲーム等多様な娯楽が犇めき合っている。だからそれでも尚小説を読ませようとする場合、軸となることを現代では設定しなければいけない。小説を態々読む気にさせる必要がある。しかしセルヴァンテスの時代はそうでなかった。映画もテレビもPCも当然全く存在していず、娯楽と言えば小説くらいだった。と言っても近代の曙の近世にあたる時代なので、小説を態々読ませる為の軸設定より、この時代には今存在するあらゆる娯楽の全ての要素を小説一作に盛り込む必要があったのである。

 

 だが現代小説では全てを盛り込んでいては、読む方が退屈極まりないとしか思えない。その為に或る部分は詳しく書いても、違う部分は大幅に省略し簡略化する必要がある。だからこそそこに主人公を中心としたパースペクティヴを読者が理解しやすい。それは同時に作家の訴えたいこととなる。だが近世の小説はそうではなかった。作者のメッセージよりも物語自体の面白さを随所にふんだんに盛り込む必要があったのだ。勿論その時代は未だ近代以降の、つまり産業革命以降の社会インフラが整備されていたわけではなかったので、科学技術も機械技術も進化を遂げていなかったので、社会全体を生活者個々のプライヴァシーを守るための合理主義思想自体がなかった。従ってもっとのんびりとしたものだったのだろう。だから人の噂をして楽しんだりすること自体を小説にも盛り込むことが自然だったのだ。だから『ドン・キホーテ』では主軸からどんどん外れる余分なエピソードが異様に膨れ上がっていっても一向に読者は頓着しないどころか、却ってそのサーヴィスに喜ぶという需要と供給が成立していたのだ。又人々の心には迷信的なことも多く未だ残っていたので、そういった逸話や、それに就いての言及、物語上では身の上話や噂という形で多く登場する。つまり当時は近代以降の小説の暗黙のルールである何かの為に書かれているものを読者に提供するというのではなく、明らかに書かれていること自体をメインにして読ませるということだったのである。それは前半の中盤に登場する第33章と34章に顕著であり、この小説の主要命題である騎士道精神(chivalry)や貞操(chastity)等を主題とした展開が臨めるのだ。

 

 この一種の逸話それ自体がどんどん膨らんでいく予想不可の構造はアンチロマン的な文体の中でヘンリー・ミラーの小説世界では応用されていて、現代文学でもその閑話休題的、つまり余計な無関係なことの挿入は近代合理主義的な整然さへの批判テーゼとして巧く取り入れられている。又それが同時に作家の主張となってもいる。尤もその作家の主張であることは『ドン・キホーテ』で変わりないのだが、そういった挿入が一つのメッセージであるということへ読者は当時はそれ程覚醒してはいなかっただろう。キホーテは使命感と義憤の人なのであるが、それが宗教改革以降の欧州社会で次第に時代遅れになっていきつつあることを見てとったセルヴァンテスが自嘲的に欧州史自体を批評的に捉えていたのであろう。それが理由で全てが何かの為に書かれているのではなく、それ自体を楽しむ為に書かれているということを前提とした当時の読者にとっての愉しみ提供者、つまり戯作者として自分を隠しているけれど、よく読むとセルヴァンテス自身の批評的意図も理解出来る様には書かれている、そこにこの小説の面白さがあったのだろう。だからこそ聖書に次いで読まれた文学作品ということとなっているのである。

 

 

 

〇現代文とは情報過多の時代であるが故に却って必要以上の情報を相手へ与えないというマナーがあり、それは小説を読もうとする読者に対しても同様なのである。現代文学で秀逸な書き方が巧い省略の仕方として日常的に我々が利用することは多い。太宰治の『斜陽』から我々は斜陽産業といった言い方をしてきた様に、である。だが17世紀のスペインはそうでなかったのだろう。だから何を書くにしても、まず社会全体に情報が満ち溢れている訳ではない時代だったので、一々全ての出来事をその枝葉迄紹介し、説明する必要があったのである。一言だけ語を示せば、それで状況を説明できる様な時代ではなかったからである。その点では聖書は違った。聖書では書かれている内容が宗教宗派的信仰の為に読むという絶対的目的があるので、宗教倫理思想の常識の前では全てをその都度説明する必要そのものがないので、個々のエピソードでは説明はかなり大胆に省略されている。だが個々のエピソードの隣接や共存それ自体への合理的説明はない。それは聖書の執筆者が一人の作家によるものではなかったからである。

 

 聖書と『ドン・キホーテ』と近代小説や現代小説との間の時代的な推移や変化の問題は、『神曲』から『ファウスト』、『マンフレッド』からホイットマンやディキンソン等の詩から、更にギンズバーグやディランの仕事への推移や変化の問題同様極めて、それ自体は解釈学的にも修辞学的にも研究する価値のあることではないだろうか?

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月13日 (土)

書かれなかった詩、そして書かれなかった小説(後編)

書かれなかったからこそ心の中でいつまでも蟠り続けている詩の韻と展開、小説の結末。

でも詩も小説も終わらせたくない気持ちだけが、それらを書かさずにもいる。

 

永遠に書かれずに終える詩と小説だけが永遠の理想かも知れない。

 

誰もが書きたいのに書かずに済ませている心の詩と小説だけが常に永遠なのかも。

 

 

永遠に書かれないもののみが、誰にとっても如何様の言葉にも換えられ得る普遍の価値なのかも。(2017.5.1)

 

 

これから書かれる全ての詩、全ての小説の為の言葉は、どこかにひっそりと眠っている。どこにもないけれど、どこかにはあり得ることとして。

 

でもきっとそれらは誰かが発見するのだ。

誰かが一度それを発見して書いて示すと、そうだ、こんなこと考えたことがあるぞ、と多くの人が感じてしまう。

 

でもそれはどこかで誰かが一度は考えたけれど、書かれずに終わってしまったことなのだ。(2017.5.2

 

考えられたのに書かれない侭に放っておかれたことを見過ごせない魂が、きっとどこかで待っている。

待ってばかりじゃなくて、きっと探してもいる。

 

書かれればきっと素晴らしいのに書かれずにいる無数の考えがきっとあちこちに散らばっている。

 

だから僕たちはいつも宝の山、宝の海を頂いているのだ。(了)

2017. 5. 4

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月12日 (金)

書かれなかった詩、そして書かれなかった小説(前編)

かつて書こうと思って書けずに終わった無数の言葉たちが呻いている。

書きたいと思い、思いついた幾つもの詩が呻き声を上げている。

かつて書いていて途中で中断した数々の小説が悲鳴を上げている。

でもその書かれなかった詩の言葉や書き上げられなかった小説の文が互いに引き合い、今別の言葉となり、別の作品にして貰うのを待っている。

書かれなかった詩の言葉は、心の中に引かれた記憶のある線だ。

それは今も心のしじまを引き裂いている。

小説にするつもりだった文が詩になり、詩にするつもりだった言葉から小説が浮かぶ。

 

あの時考えたことはいつ迄も消えない心の線として、いつも頭の中を空間の拡がりの中でずばっとその拡がりを遮断する音を立てている。

それは目を瞑れば、鋭利な像が浮かび、キーン、ビーン、ギーン、ピーン、リーン、ミーンと音を立てている。

何度も何度も襲ってくるあの時心にはっきりと浮かび上がって突っ切ったこと。

心の中で音を立てて聴こえてくる絵。心の目に浮かび上がってくる見て感じられる音の連なり。

書かれなかったからこそ、いつ迄も鳴り止まず、いつ迄も像が消え去らない。

書いてくれ、書き続けてくれと叫ぶ途中迄書かれた文。

生々しく完成されない侭放置され続けている。

言ってくれ、話してくれと叫ぶ終ぞ口にしなかった言葉たち。

考えられもした筈なのに考えられずに終わった理屈。

生々しく発見されることなく、ひっそり、しかし確実にどこかに居座っている。(2017. 4. 29/修正5. 12

(後編へ続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月11日 (木)

何故我々は心の中に蟠りや拘りを抱いてしまうのか?Part7 哲学の態度 哲学者が自ら生きる時代とその超克・超越に関して⑥ レヴィナスの他者論からⅤ・ハイデガーの芸術論からⅡ

 分析哲学は概ね分離主義であり、それは一つにはウィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」という思想命題が大きく影響を今日まで齎していると見ることもできる。

 だが言語自体へ着目していたのはウィトゲンシュタインだけでなく、既にニーチェもそういうアプローチをしていたし、もっと古くはデカルトもそうだった。寧ろ哲学は最初からずっと言葉を発する我々自身の現実にずっと拘ってきていた。

 

 ハイデガーのテクスト<「ヒューマニズム」について>副題として(パリのジャン・ボーフレに宛てた書簡)とされている原題がBrief an Jean Beaufret, Paris1947)で冒頭彼はこう述べている。

 

「(前略)あらゆるものに先立って「存在している」ものは、存在である。思索というものは、その存在の、人間の本質に対する関わりを、実らせ達成するのである。(中略)思索において、存在が言葉となってくる(中略)言葉は、存在の家である。言葉による住まいのうちに、人間は住むのである。思索する者たちと詩作する者たちが、この住まいの番人たちである。(中略)思索は、みずからが思索することによって、行為しているのである。(中略)思索は、みずからを、放棄して存在によって語りかけられ要求されるままの状態にして、まさにその存在の真理を発語しようとするのである。」

 

 ハイデガーがウィトゲンシュタインの論考期の言語の限界が思考の限界とする考え(それはやがて<哲学探究>に於いて私的言語とはあり得ないというかたちで結実するのだが)と明確に異なる部分とは、存在と言語とを対置させていることである。ハイデガーに於いては思索と言語がほぼ重なり合っているので、その部分はウィトゲンシュタインが到達した地点での問いを前提していることになる。尤も前提されていないことを究極としてウィトゲンシュタインが到達した回路は、それとは別に偉大だったと言える。だからハイデガーはウィトゲンシュタイン的アプローチと異なった哲学者と詩人を言葉の番人とすることで問いかけていたということだ。

 今回は最後にレヴィナスを持っていこうと思っているが、ハイデガーの<芸術作品の根源>では明確に頽落という重要概念を<存在と時間>で提出していたことを反復する問いかけを行っている。

 

 例えば次の様な箇所である。

「(前略)ただ単に、物、道具、作品にかんして個別的に思索できるだけでなく、存在するものの一切にかんして一般的に思索できる思索様式が生じる。このような長い周知のものとなっている思索様式が、存在するものについての直接的な経験の一切を先取りする。この先取りがそのつど存在するものの存在について省察することを防げる。その結果、支配的な物概念が、われわれに対して物の物的なものへの道を、また道具の道具的なものへの道を、そして作品の作品的なものへの道に至ってはなおさら、それを遮断するということが起こってくるのである。」(中略)

目立たない物はもっと頑固に思索から身を隠す。」(中略)

「(前略)個々の道具は使い古され、使い減らされる。しかし同時に、それとともに使用することそれ自体さえもが使い減らされ、すりへり、習慣的なものになる。そのようにして道具存在は荒廃するに至り、単なる道具へと沈む。道具存在のそのような荒廃は信頼性の消失である。そして使用物はあの退屈で押し付けがましい習慣性をこのような消滅に負うのであるが、しかし、この消滅は道具存在の根源的な本質にとっていまやわずかにたった一つ残された証しである。(中略)いまやわずかにむきだしの有用性だけが目立っているにすぎないのである。そのようなむきだしの有用性は、道具の根源は、道具の根拠は質量に形相を刻印する単なる製造にある、という見掛けを呼び覚ます。それにもかかわらず、道具はその真正な道具存在においては〔製造ということよりも〕さらに遠方より由来する。質量と形相、そして両者の区別は、さらにいっそう深い根源をもつのである。」

 

 このハイデガー論述箇所抜粋中、前半赤字部分は明らかに頽落した物への見方、習慣化されて惰性化する観察的意志、省察への警告と取れる。

 しかしその後の後半茶色字部分は、より深く根拠へと迫っている。とりわけ「そのようなむきだしの有用性は、道具の根源は、道具の根拠は質量に形相を刻印する単なる製造にある、という見掛けを呼び覚ます。それにもかかわらず、道具はその真正な道具存在においては〔製造ということよりも〕さらに遠方より由来する。質量と形相、そして両者の区別は、さらにいっそう深い根源をもつ」という部分は極めて後期ハイデガー思想に於いて重要な認識である。

 質量と形相というギリシャ以来の根本的哲学命題に於いて、自らの提唱した道具存在への着目を根拠化しようと試みている。そこには知への愛というフィロソフィーの起源的な問い掛けがある。感性的に初期1926年に既に<存在と時間>で到達していた全命題を、より形而上化させることで晩年へと至る中で彼は思索を重ねた。それはギリシャ以来の根本命題への回帰をより深化させることだった。それはウィトゲンシュタインの言語行為の事実論的な在り方というハイデガーとは別種の言語存在論とも言うべきアプローチから初期到達点であった言語の限界が思考の限界である(思考の限界は世界の限界ということである)から、言語では私的なるものは許さないし、そもそも成立し得ようがないという到達点を晩年に向けて深化させたことと異なった深化の道筋だった。それは起源には既に結果が齎されているというあの有名な<ニーチェ>に於けるハイデガーの循環構造を体現した哲学的道のりだったと言えよう。

 

 その点では明らかにウィトゲンシュタインは心論的である。そういう部分は偶然的に同じユダヤ系であるレヴィナスもそうである。レヴィナスはフッサールとハイデガーに深く負っている後発組の天才だったが、内なる出会い、神を内なるものとして出会えるか否かが生の究極の命題であるという意識で哲学した人だと言える。それはウィトゲンシュタインの様に心論でもあるが、倫理的根拠づけという意味では究極の宗教思想でもある。この点ではハイデガーのより科学合理主義的なメソッドでは到達できない別の地点で生涯哲学した人だとも言える。

 その意味ではレヴィナスはハイデガーの固有の拘り、それが道具論を通した頽落的生活実践的なリアルと対照的な現実世界の時事的リアルへの蟠りから発している提言だと言える。次の論述を見てみよう。

 

「(前略)いうなれば、他人は単に論理学的意味で他なるものではないのだ。このような他なるものの他性は、カント的「われ思う」によって遂行される綜合に委ねられることで、論理的な意味での共通の類へとそれを乗り越えることができるような他性、超越論的に乗り越え可能な他性にすぎない。平和は、他性の吸収もしくはその消滅に固執する代わりに、それとは逆に、他人の近さの兄弟的な様式であり、この様式は単に他なるものとの一致の不調ではなく、まさに孤独に対する社会性の剰余_を意味しているのではないか、と考えてみなければならない。実にしばしば濫用されている愛というこの語を、われわれは軽く口にしているのではない。」(<他性と超越>2対話の哲学と第一哲学中 他者の近さから)

 

 ここには明らかにニーチェが躍起になって批判したキリスト教倫理へのより回帰的思想も仄見える。他者へ人質となる程の究極の自己犠牲を提唱するレヴィナス倫理学では、上記の文の「他人の近さの兄弟的な様式であり、この様式は単に他なるものとの一致の不調ではなく、まさに孤独に対する社会性の剰余_を意味している」で示されている箇所のメッセージに全てが込められている。そもそも孤絶した存在である個の内面世界を相互に認め合うという倫理思想がここには読み取れる。それこそが社会的剰余だとする観念は幾分はマルクス的でもある。事実レヴィナスは<他性と超越>2対話の哲学と第一哲学中、他者の近さに続く(社会主義とユートピア)で「社会主義思想は不可避的に倫理的である。」と宣言している。しかしレヴィナス思想がマルキシズムには行かない絶対的意志とは、管理社会的な発想とはそもそも彼の哲学の出発点が対極だったということもある。又社会的剰余を社会的なゆとりに求めているのでもないという事からそうだと言える。

 だが同時に彼は上記箇所の論理的帰結として「実にしばしば濫用されている愛というこの語を、われわれは軽く口にしているのではない。」と言い放ち、人倫的に普遍(不変)な愛の倫理を通時態的にも共時態的にも人類全体の思想の行く末へ二ヒリスティッシュに構えていない。ここが蟠りという現実への批判的対処から生み出される平和思想的認識論、存在論の倫理学止揚性の持つ彼独自のヒューマニズムである。そしてこのヒューマニズムの観点ではハイデガーとの対比的な考究をも意味あるものとする、と思われるのである。

 

 次回は上記レヴィナス論述の続きから引き続きハイデガー哲学との対比(特に<「ヒューマニズム」について>と<芸術作品の根源>というハイデガーテクストと、レヴィナス<他性と超越>との対比的認識から考えていってみよう。(つづき)

 
 付記 分析哲学を分離主義だと前回同様今回も述べた。しかし重要なのは、現象学もポストモダン思想と目される人達も単純に綜合したのではないという事である。この点は追々重要なことなので解析していこうと考えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月10日 (水)

何故我々は心の中に蟠りや拘りを抱いてしまうのか?Part6 哲学の態度 哲学者が自ら生きる時代とその超克・超越に関して⑤ レヴィナスの他者論からⅣ・ハイデガーの芸術論から

 レヴィナス哲学の倫理学優先主義は、彼固有のモティヴェーションから恐らく発していてイデオロギー、理念から示唆しているのとはきっと違う。だがその理念型とそうでない内発的要求の二つを明確に分離することもまたできない。

 レヴィナスが他者全体へ許し的意味を注ぐことの内には、タルムード世界の研究者でもありユダヤ教徒でもある彼が同時にキリスト教倫理(それは欧米世界全体を実質的に支配する)をも当然無視できないし、ギリシャ思想由来の精神も当然前提されている(<他性と超越>3平和と権利中、平和と近さ4で彼は「(前略)ヨーロッパにおける聖書の遺産はギリシャ的遺産の必然性を含んでいるのである。ヨーロッパはこれら二つの文化的潮流の単なる合流点ではない。それは観照的なものと叡智と聖書的なものの叡智が単に一致するより以上の関係にある具体性なのだ。平和とは他者ならびに唯一者との関係であるが、そうした関係が、主題化し共時化し綜合するような理性、世界を思考し、存在について省察するような理性を要請するに至るのであって、ここにいう世界や存在も人間たちの平和には不可欠な概念なのである。」と述べていることからもそれは明白である。)。

 レヴィナスはユダヤ系人であり、ユダヤ民族史が凄絶な侵略と侵略されることの応酬に明け暮れ、しかも彼自身は肉親をホロコーストの犠牲者とされる受難を経ている。だから彼の場合完全なる人類へ性悪説的見方をする。にもかかわらず絶対的無抵抗主義も貫く。其処に壮絶な決意がある。

 長い文章だが、重要な一節を全文掲載する。(平和と近さ2より)

「(前略)戦争や暗殺や苦しみが理性的思考それは政治でもあるの展開のなかで不可欠である限り、論理と理性的完成だけが重視されるような概念形成のなかで、それが不可欠である限り、この企図は戦争や暗殺や苦しみには無関心である。疚しい意識は、ヨーロッパのドラマそのものであるような現実の支離滅裂によって否認された体系の知性的失望ではない。各人を怯えさせる死の危険だけがあるのでさえない。概念同士が一致しているところでさえ、犯罪をなすことへの不安がある。他人の死もしくは苦しみのなかで各人に課せられている責任の不安があるのだ。誰もが死ぬがゆえに各人が自分のことを心配すること、この心配も、犯された殺人の重大さや他人の苦しみへの無関心という破廉恥を吸収するに至ることはない。安全性なき世界のなかで各人が自分のために冒す危険の背後で、ある文化と歴史の直接的な背徳性についての意識が起き上がる。だから、われわれはヨーロッパの使命のなかに―それがもたらした真理の音信に先立って―、十戒と聖書にいう「汝、殺すことなかれ」を聞くことになるのではなかろうか。『創世記』三二章で、ヤコブは、兄のエサウ―敵なのかそれとも味方なのか―が、彼と会うために、「四百人の男たちの先頭にたって」やってくると聞いて困惑する。八節の聖句は「ヤコブは大いに恐れ、不安になった」とわれわれに告げている。恐怖(エフロワ)と不安(アンゴワス)のあいだにはどのような相違があるのだろうか。ラビ注解者でかの有名なラシはわれわれにこう明記している。ヤコブは自分の死に恐怖したが、しかすると殺されなければならないということに不安を覚えたのだ、と。

 だからこそレヴィナスは「顔とはこのような殺人の可能性であり、存在のこのような無力であり、私に「汝、殺すなかれ」と命ずるような権威なのです。」とこう語る訳だ。

 彼が<他性と超越>からの引用を記述した二回目以降示してきた「(前略)マルチン・ブーバーは、存在するところの事物と、私にとって「それ」であるような事物、私が認識できる対象との区別を思いついた最初の人物でした。その際、彼は「それ」に他人の関係を対置したのですが、他人は対象ではなく、事物ではない。そうではなく、他人に対して私はきみと語りかけるのです。」とは、正にハイデガーの<芸術作品の根源>(Des Ursprung des Kunstwerkes(関口浩訳、平凡社ライブラリー)の次の記述と全く重なる。

「(前略)われわれは神を物と呼ぶことにもためらいを感じる。同様に、畑に居る農夫、かまどの前に居るかま焚き、学校に居る教師を物と見なすことにもためらいを感じる。人間は物ではない。なるほど、われわれは、大きすぎる課題に遭遇している年若い少女のことを、まだ若すぎる物〔ein noch zu junges Ding〕と呼ぶ。しかし、それはただ、この場合われわれは或る仕方で人間存在の欠如を感じ、むしろ物の物的なものの特徴をなすものを見出すような気がするからにすぎない。さらにわれわれは、森の拓かれたところにいるノロジカ、草のなかにいる甲虫、草の茎を、物と命名することにもためらいを感じる。むしろ、われわれにとってはハンマーが物である。靴、斧、時計が物である。しかしそれらも単なる物ではない。われわれが単なる物とみなすのは、石、土塊、木片にすぎない。自然と使用されるものとのなかで生気を欠いたもの。そういう自然物と使用物とが通常言われるところの物なのである。」(〔一〕物と作品から)

 レヴィナスはハイデガーが<存在と時間>以来継続的に道具的存在と呼ぶテーゼをずっと引き摺って考えている。彼はハイデガー存在論を倫理論へと止揚させようとしているからだ。

 だから彼が(表象の禁止と「人間の権利」<この箇所の記述は違う機会に詳しく扱う>)で「人間の権利は、絶対的で根源的なものとしては、他人のうちで、他なる人間の権利としてのみ意味を得る。」と語っているが、これは「ジャンケレヴィッチは見事にこう言っています。「われわれは権利をもたない。さまざまな権利をもっているのはいつも他者である」〔「徳論」1949〕と。」という一文と主張が相同である。自己は自己を取り巻く全他者との間で成立する自分であり、その自分は正に自分にとってはかけがえがないし、特別の在り方をしているが、その特別の在り方自体は自分以外の全他者にとってもそうであるという、これは永井均も継続的に主張している累進構造論の理念でもあるが、そのメタ的な自分、正に自分という語の概念的設定条件を加味した上で、その中の一人と自分を貶めることで言語が成立していることを「人間の権利は、絶対的で根源的なものとしては、他人のうちで、他なる人間の権利としてのみ意味を得る。」とレヴィナスは言っているのである。他人全体の権利であるという自己存在の他への預けこそが自分を自己として社会に於いて成立させる原初的な振る舞いであり態度であり、それが言語を習得しているということなのだ。

 「(前略)(中略)何もしていないというこの感情、この意識こそがわれわれに、罪なき者、無辜な者の責任と共に、人質という位格を与えるのです。無辜な者と言いましたが、何という逆説でしょう!(中略)それは他者のために、他者の代わりに支払う者なのです。」はその意味では意味的には、自己とは常に社会的規約としては他者の代理として存在し、その存在者としての資格とその義務から権利を享受しているのだ。だから前述の「何もしていないというこの感情、この意識こそがわれわれに、罪なき者、無辜な者の責任と共に、人質という位格を与える」は彼の民族的出自であるユダヤ史自体が何もしていないということを言わなければいけない程の残忍な侵略史だったことを物語っており、その非暴力・無抵抗主義に於いて初めて愛が成立すると考えている部分でもキリスト教、とりわけ原始キリスト教のイエスの復活をもユダヤ教以外に信仰している証拠となっているとも言えるのだ。人質概念は勿論ユダヤ史からのものだが、何もしていないという謂いはホロコーストを経た彼の人倫的思想がキリスト教からも摂取されている時代的意義を感じさせる。

 だから当然「(前略)罪がないからといって、あなたたちの責務は軽減されるわけではありません。」も原罪観念に呪縛されたかたちのキリスト教史とその批判でもあったニーチェ由来の近代的原罪批判論以降の、戦後秩序の中から生み出された人倫思想がキリスト教もユダヤ教も混在させるかたちで示されるべきだということは(彼はイスラム教のことは書いていないし、述べてもいないのだが、それはエドワード・サイードを待つまでもなく、言外に示されていると見てよい)、思想の中で通史観的観想の持つ多層性、つまりイデオロギーとして宗教改革者達の様に分離させていくのではなく、総合させていくという決意が読み取れる。分析哲学は分離主義的な傾向を強めているが、レヴィナスは言語解析的要素も強い哲学者なので、分析哲学的意図も介在するのだが、それだけでなく宗教思想史文献学者としても修辞学者としても卓越していたので、彼固有の総合、要点主義的な総括ではない、一つの止揚というヘーゲル的意図がそこに脈打っていたと考えてよい。兎に角彼の言う責務はホロコースト以降の世界秩序の上で語られているのである。

 初回の引用箇所に戻るが、「自己からのどんな脱出も、<他>へと向かう<同>のうちに生じた亀裂を表している。」とレヴィナスが述べている部分は、明らかに私がSNSで顔を晒さないで他者と交信し合うことを逃避的だとしたが、逃避さえも実は、その言語行為が成立しているのであれば、哲学的に見た場合、<他>へと向かう<同>のうちに生じた亀裂こそがメッセージだということになるだろう。つまり我々は自己を自分という唯一性を普遍化させることでその中の一人、成員であると自分唯一性を貶めつつ、その中で言語行為を規約どおりのものとして、概念使用しつつ日常生活を送っている。だがその中で他へと同化しようとしても、自分の中で必ず齟齬が平均的通念や一般常識の中で発見されるからこそ、その亀裂を埋めようと躍起になる。それが意見であり、思想である。だから<同>のうちに生じた亀裂とその穴埋め作業こそが執筆であり創造であり、社会奉仕であり貢献なのである。それがなければ個人主義も成立し得ない。

 だからこそレヴィナスが言う「(前略)善の名のもとに実現された悪による腐食、その拡がりがいかなるものであれ、人間的なものは、ある者から他の者への関係における「ある者は他の者のために」のかたちをまとって存続する。(中略)人間的なものの倫理への到来はこのような倫理的苦しみを経由するのです。」という箇所の善の名のもとに実現された悪による腐食とは、明らかに自己欺瞞的な社会的責務遂行に纏わる、社会全体の連動の中での矛盾、全体的軋みや不備(正に豊洲移転問題や森友学園問題で都政や国政へ影響を与えた様な事例をも生む温床なのであるが)を知っているからこそ、そこで世界へ対峙し、対処しようと試みる個人の正義が語られている。「悪による腐食、その拡がりがいかなるものであれ、人間的なものは、ある者から他の者への関係における「ある者は他の者のために」のかたちをまとって存続する。」はだから前述の「それは他者のために、他者の代わりに支払う者なのです。」とジャンケレヴィッチの言葉「われわれは権利をもたない。さまざまな権利をもっているのはいつも他者である。」〔「徳論」1949〕での主張と全く相同であり、彼が人質と呼ぶ概念もここから出立し帰着する。

 レヴィナス思想に於ける他者への責任とは、許しの(正にゴルゴダの丘で処刑される前にイエスが弟子達の罪を許し給えと言ったことへ回帰する)思想なのであり、即ちイエスの御言葉への敬意の意味が全ての記述に重ねられており、だから当然キリスト教倫理思想へのユダヤ教徒の側からのオマージュでありエールであるとも言えるのである。

 だから彼が「(前略)約束なきものとしてあることが神の最初にして最後の現出であることになりましょう。」と語る部分は、約束の地カナンという旧約世界の意味と、そのユダヤ教世界から出立してきている思想の中で、哲学史的にギリシャ思想が混入していき、その果てにニーチェが全哲学史を転覆させようとし、その意図の継続としてハイデガーが試みた転回があったのであり、そのことが反語的に約束なきものとして、というかたちで示されているのだ。これは否定神学的な手法である。だから恐らくレヴィナスの言う神の最初にして最後の現出とは、我々が定言命法的に各自の格率の中から、自らの心の誠実性に従って、と言うことは自らの心に出会う神、その神との出会いで生を全うしようとする意志のことを言っているものと思われるのである。つまりそういった出会いのない存在者は少なくともレヴィナスから言えば哲学的存在者、頽落しているのではない現存在ではないということとなるのである。

 このハイデガーの頽落は<存在と時間>で登場する重要概念であるが、それをレヴィナスは継承しているのだけれど、次回以降はハイデガー<芸術作品の根源>(前出のテクスト)とレヴィナス<他性と超越>を往復させながら、ハイデガーの欠落点をレヴィナスが自覚しつつも引き寄せられていく像を手掛かりに考えていってみよう。次回は特にレヴィナス叙述から愛の倫理を軸に考えていこう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 9日 (火)

何故我々は心の中に蟠りや拘りを抱いてしまうのか?Part5 哲学の態度 哲学者が自ら生きる時代とその超克・超越に関して④レヴィナスの他者論からⅢ

 レヴィナスの思想の中の他者への慈しみは或る部分では肉親や自らが愛する他者とそうでない他者を等価に扱う意味で、禁欲的なものであり、そこに哲学者=思想家としての彼の決意がある。それはカントの定言命法にも当然関わる決意である。

 とりわけ彼の二人称的認識には見るべきところがある。

 

「(前略)<私>と<きみ>との関係のこの見かけの単純さは、まさに非対称的なものでありつつ更に、第三の人間によって攪乱される。他者たるきみのかたわらに位置する第三の人間によって。第三者はまた隣人でもある。顔であり、到達不能な一個の他性でもあるのです。

二人称〔第二の人格〕と三人称〔第三の人格〕とのあいだでは、一方が他方に対して罪を犯しているような関係もありうる。

 

 上記の記述の中で最後のものでは、完全に自らを他者への人質として捉えている。自分が他者から犯される立場であっても、他者への責任を免れることが我々にはできない。それは他者にとって自分も又他者だからである。

 それは前回記した次の一節でも明らかである。

 

ある意味では無限のものが私に差し出されるのですが、この無限は、他者への私の関係において私が「無関心‐ではありえないこと」を示しており、そこでは、私は決して他者と決着つけることがありません。(中略)(前略)私は決して他者から放免されないのですから。

 

 又最初に示した三つの文例に於ける最初のものは第三者規定に就いて述べているが、それはまずきみを選択することから始まるとレヴィナスは考えている。きみ、貴方という二人称が成立していない状態での彼や彼女はやはり心の中の観念でしかない。しかし私が仮に今この文章を読む貴方に対して、彼とか彼女と語りかける時、その彼、彼女という存在者は実在的意味を付与される。つまり三人称は二人称を経ることで初めて哲学的意味を持つのである。

 

 無関心ではありえないことこそがレヴィナスが考える倫理的起源である。そしてそれは敷衍すれば言語行為全体をも規定する事実なのである。

 

 「私は、自分と係わらない者さえが私と係わるような責任の次元、憐憫の次元から、われわれの出発点たる他人の初発の優位を制限するような正義の次元へと移行する」は明らかに「他者への関係のうちには融合はなく、他者への関係はそれ自体が他性とみなされます。他者とは他性である。 顔の他性においては、「他者のために」が自我に命令を下す。 顔を覆い隠すような正義を、顔に対する、顔の異常な外部性に対する責務の上に築かなければならない」と係わっている。つまり憐憫の次元から正義の次元への移行とは定言命法的な理性による判断である。だからカントを咀嚼したレヴィナスの決意には親しい間柄だから大目に見るということを否定しなければいけない使命的な決意が介在する。だからそこにナチスに殺害された肉親を持つ彼が同時に会えば殺したいその相手をも自らの責任の範疇に組み込むことで、愛すべき汝の隣人へと彼等さえ昇格させる地点での愛を彼は提唱するのである。それを次の一節が要約している。

 

人質とは、自分がしなかったことに責任を負うた者です。他人の過ちに責任を負うた者。私は原理的に有責である、配分的正義に、正義の数々の尺度に先立って。

 

 顔がレヴィナス命題に於いて極めて重要であることは既に述べたが、次の記述ではその現象学的な顔の持つ意義を読み取れる。

 

頼みの綱もなく、安全性もなく、弱さと「死ぬということ」ゆえに私の眼差しに曝されたこの他者の顔は、私に「汝、殺すなかれ」と命令する顔でもある。」「顔はそのすべてが弱さであり権威なのです。

 

 顔は不可避的にその顔の所有者の対他的な願望が出てしまう。あっちへ行って欲しいと思う時も、そうでなくずっと傍に居て欲しいと思う時もである。だからそれは権威の表であると同時に、その他者へ不可避的に曝され嘘がつけないという意味で誰もが平等に持つ弱さでもある。別の個所でレヴィナスが語る前回記した次の一節「欲望が、外部性への開かれた態度に変身する」こそ

如何に巧く偽装しても尚顔とは他者へ顔の所有者の感情を読み取れてしまう事態の深刻さを示している。

 それは前回私が述べた「愛とは虚栄心(他者に認められないと悩み、理解されないと悔やみ、愛されたいと望む気持ちもこのきみの設定が生んでいるをも同時に抱え込む我々自身の定言命法的な意志による虚栄心の克服に外ならない」に関係してくる。つまり他者存在を自覚していればこそ、自己を別格的な事態として認識できる我々は、他者に於いて自己をどう思われるかというかたちで、虚栄心をも含めた社会的自己をより良い形で願望する。でもそれは顔があり、顔で自己にとって全他者への感情を表出することを運命づけられた我々だからであり、顔を晒さない相手に対するより良く自己を思われたいことは、感情であるより観念であり、それはSNS上で一切顔を晒さなくても可能である。しかしそれは文字同士だけのやり取りであっても、文字に示される感情から我々は文字に浮かび上がる顔を想像してしまう。だから顔は直に曝さなくても内的にも我々は察知してしまう性質のものでもあるのだ。

 だからこそレヴィナスは資本主義社会とか国家とか民主主義社会の成員として「相互性を期待しつつ私が寛大でなければならないとすると、この関係はもはや寛大さには属さず、商業的関係に、相互儀礼に属することになる」と述べているのだ。これはサルトルの<存在と無>で冒頭に述べている有名な命題である自己欺瞞と全く重なる。だからこそと言うべきか、我々はこの商業的関係があるが故に、真実の関係を見出そうとするかも知れないのだ。

 

 だからこそ次のレヴィナスの一節が重要な意味を帯びるのだ。

 

私が自分をそれへと差し出すところの他人とは、まずもって、最も弱き者に対するような関係を私が結ぶところの者ではないでしょうか。

他人への関係においては、他者は、私がその人物に何かを負うている者として私に現れます。そこから、<私>‐きみの関係の非対称性が、<私>ときみとの根底的な不等性が帰結する。

 

 最も弱き者とは自己意識から発動される意志、感情さえ示し難い障害を抱える様な他者の中にこそその意志や感情を読み取ろうと意志する部分でこそ、我々は他者存在の自己との非対称性から学ぶ余地があるということである。きみ、と誰かを名指した瞬間その非対称性を相互に理解し合う我々は、そこから倫理が発生すると暗黙に了解し合っている。だからこそ次の一節に意味が発生するのだ。

責任に立脚した「他者のために」〔対他〕のこの無償性を強調しておきたい。責任はすぐさま眠りについてしまうが、「他者のために」は自我によって聴取された命令として自我のうちに起き上がる。

 つまり責任という理念は、自己を他者一般やきみと名指す二人称選択から発生しているが、同時にそれが自己にとってそうであるのは全ての他者、あなたとかきみをも含む、それ以外の全現存在成員にとってもそうであるということから発生している。責任に立脚した「他者のために」〔対他〕のこの無償性とはそういうことなのである。

 だから「責任はすぐさま眠りについてしまうが、「他者のために」は自我によって聴取された命令として自我のうちに起き上がる。」とは睡眠中でも 過去に背負った責任=過去の記憶とその追想 から完全自由になれず、夢でその気にかかることが表出してしまう我々の運命をも暗示しているかの様である。自我と夢と記憶は繋がりがある。それは正に社会成員として私以外の他者にとって一個の他者でしかない自分=私とは、そうであることで誰しも性を帯びるので、他者に負うている全ての他者の中の一人としての自分=私とは「他者は、私がその人物に何かを負うている者」としてしか位置づけられないことに誰しもが覚醒するのだ。

 

 だからこそ「このように決して放免されないことのうちに、無限の「配置」が、汲み尽くせない具体的な責任が存しているのです。否と言うことの不可能性が。」「このような無秩序・無起源(アナルシー)が、「われここに」、他人へ向けて「私を遣わせ」と私に語らせます。」という記述へと移行し得るのだ。この二つの記述は社会起源論的意味がある。否と言うことは直接他者との間の問いかけへ自己を放り込んでいることであり、それ自体が責任である。だからこのような無秩序‐無起源(アナルシー)とは、起源を設けて考えていた自己と他者とか社会との関係が起源性を失って浮遊してしまう、何故なら自己と他者とか社会と問いかけているこの自分さえもその中の一部でしかないとしか知らされないからだ。

 

 次回は前回記した残りの記述から読み取れるレヴィナスにとっての他者である哲学者や宗教家との相関性から考えてみよう。(つづき)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 8日 (月)

何故我々は心の中に蟠りや拘りを抱いてしまうのか?Part4 哲学の態度 哲学者が自ら生きる時代とその超克・超越に関して③レヴィナスの他者論からⅡ

 引き続き<他性と超越>(エマニュエル・レヴィナス 合田正人/松丸和弘訳・法政大学出版局)の中の(他者の近さ)からレヴィナスの他者論の本質を抉ってみよう。

 本章はインタビュー形式となっていて質問者に対してレヴィナスが返答する体裁で語られる。抜粋してみよう。

存在の意味を問う哲学さえ他人との遭遇にもとづいて存在の意味を問うているのです。」

「自己から脱出して、他者に、異邦人に訴えること。遭遇、それは異邦人のあいだで生じるもので、そうでなければ遭遇は同族関係になってしまうでしょう。どんな思考も、倫理的関係に、他人としての無限に他なるものに従属させられ、私はこの無限に他なるものに郷愁を抱いている。他人を思考することは、他なるものへの還元不能な動揺に属しています。愛は意識ではありません。コギトが可能なのは、目覚めに先立つ徹宵の留意があるからで、それゆえ、倫理は存在論に先行することになります。人間的なものの到来の陰には、すでにして他人への徹宵の留意がある。」

たとえ他者の側に悪意があるとしても、他者への注意、その迎接は、他者の承認と同様、悪に対する善のこの先行性を記しているのです。」

「自己からのどんな脱出も、<他>へと向かう<同>のうちに生じた亀裂を表している。欲望が、外部性への開かれた態度に変身するのです。この開けは他人への呼びかけであり、他人への応答である。他者の近さなのですが、それが一切の自己審問の起源にあるのです。」

「(前略)マルチン・ブーバーは、存在するところの事物と、私にとって「それ」であるような事物、私が認識できる対象との区別を思いついた最初の人物でした。その際、彼は「それ」に他人の関係を対置したのですが、他人は対象ではなく、事物ではない。そうではなく、他人に対して私はきみと語りかけるのです。」

社会的関係は知識ではありえない。なぜなら、この社会的関係の相関者は人間存在であって、私はこの人間存在に「きみ」と語りかけるのですから。」

私が自分をそれへと差し出すところの他人とは、まずもって、最も弱き者に対するような関係を私が結ぶところの者ではないでしょうか。

「(前略)相互性を期待しつつ私が寛大でなければならないとすると、この関係はもはや寛大さには属さず、商業的関係に、相互儀礼に属することになるからです。他人への関係においては、他者は、私がその人物に何かを負うている者として私に現れます。そこから、<私>‐きみの関係の非対称性が、<私>ときみとの根底的な不等性が帰結する。

「(前略)責任に立脚した「他者のために」〔対他〕のこの無償性を強調しておきたい。責任はすぐさま眠りについてしまうが、「他者のために」は自我によって聴取された命令として自我のうちに起き上がる。

「(前略)<私>と<きみ>との関係のこの見かけの単純さは、まさに非対称的なものでありつつ更に、第三の人間によって攪乱される。他者たるきみのかたわらに位置する第三の人間によって。第三者はまた隣人でもある。顔であり、到達不能な一個の他性でもあるのです。

二人称〔第二の人格〕と三人称〔第三の人格〕とのあいだでは、一方が他方に対して罪を犯しているような関係もありうる。

ジャンケレヴィッチは見事にこう言っています。「われわれは権利をもたない。さまざまな権利をもっているのはいつも他者である」〔「徳論」1949〕と。」

私は、自分と係わらない者さえが私と係わるような責任の次元、憐憫の次元から、われわれの出発点たる他人の初発の優位を制限するような正義の次元へと移行するのです。」

他者への関係のうちには融合はなく、他者への関係はそれ自体が他性とみなされます。他者とは他性である。(中略)顔の他性においては、「他者のために」が自我に命令を下す。要するに、顔を覆い隠すような正義を、顔に対する、顔の異常な外部性に対する責務の上に築かなければならないのです。」

どんな言語表現にも先立って、私が死ぬという事態のなかで、私の弱さの奥底から、ある声が私のうちで上がるのです。(中略)他なる人間を独りで死に委ねる権利は私にはないのです。」

顔とは主権でありかつ無防備そのものです。(中略)私の眼差しに曝されたこの顔は武装を解除している。(中略)この顔は裸で曝された同一者である。装われた平静を顔のまったき弱さが突き破り、それと同時に、「死ぬということ」が顔のうちに出来する。それほどにも、私は顔を清算したいと意欲しうるのです。(中略)頼みの綱もなく、安全性もなく、弱さと「死ぬということ」ゆえに私の眼差しに曝されたこの他者の顔は、私に「汝、殺すなかれ」と命令する顔でもある。(中略)顔とは神の言葉の場所なのです。他人のなかには神の言葉がある。主題化されざる言葉が、です。顔とはこのような殺人の可能性であり、存在のこのような無力であり、私に「汝、殺すなかれ」と命令するこのような権威(autorité)なのです。

顔はそのすべてが弱さであり権威なのです。

「(前略)ある意味では無限のものが私に差し出されるのですが、この無限は、他者への私の関係において私が「無関心‐ではありえないこと」を示しており、そこでは、私は決して他者と決着つけることがありません。(中略)(前略)私は決して他者から放免されないのですから。(前略)このように決して放免されないことのうちに、無限の「配置」が、汲み尽くせない具体的な責任が存しているのです。否と言うことの不可能性が。

「(前略)このような無秩序・無起源(アナルシー)が、「われここに」、他人へ向けて「私を遣わせ」と私に語らせます。

「(前略)人質とは、自分がしなかったことに責任を負うた者です。他人の過ちに責任を負うた者。私は原理的に有責である、配分的正義に、正義の数々の尺度に先立って。(中略)何もしていないというこの感情、この意識こそがわれわれに、罪なき者、無辜な者の責任と共に、人質という位格を与えるのです。無辜な者と言いましたが、何という逆説でしょう!(中略)それは他者のために、他者の代わりに支払う者なのです。

「(前略)罪がないからといって、あなたたちの責務は軽減されるわけではありません。

「(前略)善の名のもとに実現された悪による腐食、その拡がりがいかなるものであれ、人間的なものは、ある者から他の者への関係における「ある者は他の者のために」のかたちをまとって存続する。(中略)人間的なものの倫理への到来はこのような倫理的苦しみを経由するのです。」

「(前略)約束なきものとしてあることが神の最初にして最後の現出であることになりましょう。」

 

さてここで前提とされることはレヴィナスは存在論をも倫理学、倫理的問い掛けの中で行われるべきだという思想があること、そして倫理的なる存在論が可能だと考えていたことである。

前記の抜粋の中で一際我々の意識を釘付けさせる言葉は「顔とはこのような殺人の可能性であり、存在のこのような無力であり、私に「汝、殺すなかれ」と命令するこのような権威(autorité)なのです。」であろう。

 

まずレヴィナスが父母や兄弟ほぼ全員がナチスにより殺害されたユダヤ人被害者であったこと、そしてそういった戦争犯罪を前に哲学する自分が同時にキリスト教倫理とも不可分の歴史を辿った哲学史・形而上学史の中で、本来自分の肉親を凄絶に殺害した相手である元ナチス党員を目の前にしても尚、その殺すなかれという倫理が適用され得るし、殺したい相手こそ愛を持って接すべしという倫理的信念に基づくものであると思われる。

 

ハイデガーの存在論はレヴィナスにとってニーチェ経由のゲルマン民族の民族的誇りと優越意識の賜物でもあった。しかし彼は哲学者なので、同時にどんなモティヴェーションで書かれたものでも、それ自体に価値があれば哲学的に尊敬に値すると考えていただろう。だからレヴィナス倫理学とは、言ってみれば許しの思想だし、慈愛から倫理を構築すべしという絶対的な無抵抗主義的存在論と言ってもよい。

 

彼固有の存在論とは倫理学、倫理的問い掛けを先行させる形でのみ初めて効力を発揮すると考えていたことは「存在の意味を問う哲学さえ他人との遭遇にもとづいて存在の意味を問うている」と「どんな思考も、倫理的関係に、他人としての無限に他なるものに従属させられ、私はこの無限に他なるものに郷愁を抱いている。他人を思考することは、他なるものへの還元不能な動揺に属しています。愛は意識ではありません。コギトが可能なのは、目覚めに先立つ徹宵の留意があるからで、それゆえ、倫理は存在論に先行する」の部分でも明らかであろう。意識は或る意味では夢を見ている睡眠中でさえ途切れることはないからこそ(コギトが可能なのは、目覚めに先立つ徹宵の留意があるから)と言わしめられているのだ。「どんな思考も、倫理的関係に、他人としての無限に他なるものに従属させられ」とは倫理的関係は親しい人達の間でだけ成立するものではない、つまり公的な言語や国家や社会から繋がっている自分と面識も知古もない人達全てを含んでいるのだ。無限に他なるものとはそういうことである。だからこそ家族を殺害した仇でも倫理的関係が適用されると彼は黄緑で示した部分で言っているのだ。

 

最初の黄緑部分「それほどにも、私は顔を清算したいと意欲しうる」は現代人には分かりやすいのではないか?つまりスマホ片手にSNSで自分の顔を晒さずに何でもディスれる今日の生活では、それが個の内側に沈潜する時間で要請されている理由として、顔を晒して発言することがそれだけ危険だからである。様々なイデオロギーや社会制約から本音的トークを一切できない社会であるのは原始共産制的狩猟生活を営んでいる訳ではないからだ。visage)が極めてレヴィナス倫理学では重要なアイテムである。それは一つの独立した命題でもある。本音が一挙に表出しやすい顔を晒していること自体が責任論的に他者の人質として我々が生活している証拠である。清算したいのにできない最も人格的にも社会的記号としても他者を欺けない顔を持って生活してきている人類の命運とは、欺くことの困難さと、責任倫理的な過酷さを示している。顔つきでその民族的出自さえ露呈してしまう我々はヘイトクライムとかヘイトスピーチも基本に顔を隠せないという事態を運命的に背負っていることに由来していると我々は自覚しているし、実際にその顔を示してしか我々は生活できない。だから逆に言えばSNS上だけでの付き合いとは言ってみれば現実逃避的愉悦でしかないと言える。 

 

 「たとえ他者の側に悪意があるとしても、他者への注意、その迎接は、他者の承認と同様、悪に対する善のこの先行性を記している」は先の言説「愛は意識ではありません。」と相補的である。何故なら彼の無抵抗主義的存在論はニーチェの力への意志の持つ野性的な攻撃性さえも駆除しないタイプの存在論とは異質だからである。悪に於いて他者が存在しているのは資本主義社会の利子とかコストといった経済学的命題にも明らかである。だからこそそれは社会機能維持的観点からだけ論じられるべきであり、そのことは意識して為されるものが義務だとすれば愛は義務ではないと彼は言っているのだから、彼自身の肉親を大勢殺害した元ナチス党員と対面しても尚彼は「たとえ他者の側に悪意があるとしても、他者への注意、その迎接は、他者の承認と同様、悪に対する善のこの先行性を記している」は赤字的事態であっても適用されなければいけないのだ。それは彼が哲学者であり思想家である一つの理念的な信念である。それは一番殺したい相手である肉親の殺害者にも適用される決意なのである。

 

 

「自己からのどんな脱出も、<他>へと向かう<同>のうちに生じた亀裂を表している。欲望が、外部性への開かれた態度に変身するのです。この開けは他人への呼びかけであり、他人への応答である。他者の近さなのですが、それが一切の自己審問の起源にあるのです。」以降彼は二人称というものを人称問題から問われる倫理学の基本としている思想が読み取れる記述が多い。一切の自己審問の起源とはデカルト的コギトをも含めた自己や自己意識、或いは一人称的認識、自覚の全てなのであり、それらが基本的に二人称関係の保持という心的事態を発端としているという倫理学的存在論の礎ともなり得る想念、或いは根本的哲学的気分がレヴィナスにはある。だからこそ彼は「社会的関係は知識ではありえない。なぜなら、この社会的関係の相関者は人間存在であって、私はこの人間存在に「きみ」と語りかける」と言い切っているのだ。きみ、と語りかける時既に人間存在を愛を差し出す対象として規定した彼の倫理では迎接や歓待を自然なものとする決意の只中にある。だからこそ「顔とは主権でありかつ無防備そのものです。(中略)私の眼差しに曝されたこの顔は武装を解除している。(中略)この顔は裸で曝された同一者である。装われた平静を顔のまったき弱さが突き破り、それと同時に、「死ぬということ」が顔のうちに出来する。」死ぬべき存在、死が不可避的存在である存在者だからこそ、我々は他者と共有し合う時間が現存在にとっての有限の時間であるからこそ、愛を相互に差し出す対象として認知するからこそ、「どんな言語表現にも先立って、私が死ぬという事態のなかで、私の弱さの奥底から、ある声が私のうちで上がるのです。(中略)他なる人間を独りで死に委ねる権利は私にはないのです。」という言説が正当性を持ち得るのである。他者の死とは彼にあっては、自己の死と等価であり、他者の死の責任は自己にあり、ナチスに殺害された愛する肉親も、彼の肉親を殺害した元ナチス党員もその場合の他者という意味では等価なのである。ここに彼の壮絶な決意が読み取れる。

 

 だからこそ「顔とはこのような殺人の可能性であり、存在のこのような無力であり、私に「汝、殺すなかれ」と命令するこのような権威(autorité)なのです。」と言わなければいけない、そう宣言しなければいけないのである。殺してやりたいとしか思えない相手も肉親と同じ他者なのである。哲学的他者は肉親と他人ということではないのだ。

 

  

 (この開けは他人への呼びかけであり、他人への応答である。他者の近さなのですが、それが一切の自己審問の起源にある)は確かにそれ自体、虚栄心のオリジンでもある。つまり(顔とは神の言葉の場所なのです。他人のなかには神の言葉がある。主題化されざる言葉が、です。)とは言葉の起源、それは自己意識をきみの設定、つまり二人称と共に一人称的自己を保持することとなっているのだが、その時に同時的に言葉の起源を抱え込んでいるということなのである。だから愛とは虚栄心(他者に認められないと悩み、理解されないと悔やみ、愛されたいと望む気持ちもこのきみの設定が生んでいる)をも同時に抱え込む我々自身の定言命法的な意志による虚栄心の克服に外ならない。

 

 だからこそそれは意識となりやすいが、愛は意識ではないと彼は言うのだから、そこには壮絶な決意、つまり自分の肉親を殺害した元ナチス党員にまで適用されなければいけないというところに、ユダヤ教徒としての彼が同時にイエスの処刑される時に自らを裏切り見捨てた弟子達に向けて語った「主よ、彼等を許したまえ。彼等はそのなせることを知らざればなり.」の意義を認めていることとなるのだ。ここにユダヤ教徒でありながらナチスにも積極的に協力したハイデガーの論旨に決定的に傾注してきたレヴィナスの決意、つまり汝の敵を愛せよ的なユダヤ教ならざるキリスト教倫理をもその相互の異質性、歴史的対立要因を克服して止揚すべしという思想が漲っているのである。

 

 

 

次回以降、今回触れられなかった引用箇所の解析と、それ以外の<他性と超越>の重要箇所を更に抜粋して論を進めていこう。(つづき)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 7日 (日)

人は死ぬまで人に話さないことを抱えて一人生きて一人死ぬ。

人に話せることはほんの一部だけ。

でもそれでも道は人と人を結ぶ。

 

道は必ずどこかにはつながっている。

道がつながっている限り、どこかには人が居る。

 

人は出会う人の全てを知ることはできないし、知る必要もないし、出会う人全てに自分の全てを知らせる必要もない。

でもそれでも人は道を通って人と必ず会う。

 

人は死ぬまで分からないことを沢山抱えて一人生きて一人死ぬ。

分かったと思えることはほんの一部だけ。

でもそれでも人は分かろうとして道を作る。

 

道は必ずどこかへは我々を導いてくれる。

導かれている限り、何かは見えてくる。

 

人は出会う全てのことをよく分かることはできないし、分かる必要もないし、出会う全てのことに自分の全てを捧げる必要もない。

でもそれでも人は次々と道を作り、必ず何かを見極める。

 

人は死ぬまで見られず見極められないことを沢山抱えて一人生きて一人死ぬ。

見えて見極められたと思うことはほんの一部だけ。

でもそれでも人は何かを見たくて、見極めたくて道を作る。

 

道は必ず何かを我々に見せてくれる。

見せて貰える限り、何かは分かる。

 

道よ、君のお陰で人と出会え、何かが見られて本当に君に感謝しているよ。

道だけが後で懐かしくなる。

そんなものさ。

 

道だけはずっと残したいと思える。

僕たちと道の出会いはとても尊いのさ。

2017.5.4

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 6日 (土)

哲学・思想②/文学・宗教メモPart6

〇自己の心の中に神を見る、神と出会うという体験から初めて人は個というものを持つ。個の目覚めは自らの中に神を介在させることである。個の目覚めから人は初めて主体的となる。

 

〇上記の体験を大半の日本人は持っていない。従って大半の人には個はない。主体を持たないことが日本人同士の暗黙の了解である。主体的でない人程日本社会では巧く順応し、しかも幸福だろう。尤も幸福ということは人生全体に適用できるだろうか?

 幸福等所詮、刹那的、瞬間的なことである。よく分からなかったパズルの解答が分かって、嬉しいと思う気持ち、皆でずっと苦境に陥っていたのに、その間に何等かの打開策、つまり苦境を脱する手立てが見つかって皆に報告したら、皆が喜んだとかそういうことをこそ幸福と言うのであって、家族生活を営み、人並みの給料を貰うということだけを幸福と呼ぶのだろうか?それも幸福の内だろうが、もっと単純なことにこそ幸福という気持ちは現れるのではないか?人並みの生活だけ全うしていても、心は空白ということはあり得るのではないか?

 勿論そういうささやかな上記の様なことも幸福感情を構成する重要なことである。でもそういうことだけではないのではないかとも思える。幸福は人並みな生活とかそういうことではない。やはり自分にとって価値だと思える生活とか、自分の仕事をできるということではないか?とすれば、それはやはり自分の心、つまり自己の内部で神と出会えるか否かにかかっていると言えるのではないか?

 

〇日本文学は荘子を起源としていると思えるのは、天翔るイメージの起源を荘子の説話だと思えるからだ。これは古事記も参考にしているだろう。初期日本立国者達はきっと荘子辺りを参考にしたのだと思う。胡蝶の夢という荘子の説話こそ無常観世界観の起源と言えないだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 5日 (金)

世人として生きていくことと哲学的人間であることPart1

〇人は百%教育者であったり、百%警察官であったり、百%公務員だったりできるわけではない。そこにはサルトルの言う自己欺瞞が必ず介在してしまうからだ。だからもし百%自分の職業を全うしている人がいるなら、その人こそ狂人である。この種の狂人に苦悩はない。悩まずに社会的責任だけを履行できるからこそ、その人を狂人と呼んでよいのである。

 

〇上記のことから言えば百%の世人も、百%の哲学的人間も共に狂人だということとなる。ここで言う狂人とは精神疾患者という意味では決してない。寧ろ逆である。決して精神的に患っていると見られることも、自分で自覚することもないという事態、そういう状態だけの維持こそが狂人と言ってよいのである。

 

〇自分が病んだ部分があるということに対して決して認めない、決してそうだとは思わないということ、そして決してそういう人ではないとしか対人関係的にも見られないということそのことこそが狂人の最も顕著な条件なのである。

 

〇従って完全に百%世人である人も、百%哲学的人間である人も、そうであるしかない、それ以外では決してあり得ないということそのことが狂人の条件を百%満たしているのである。この考えは性善説主義が極めて危険で病的な考えであり、その国家的実行とか(正にナチス時代のドイツがそうだったが)、政治的実現に於いては危険極まりないということだけは言っておきたい。逆に普通であることとは誰しもが幾分は世人であり(哲学者さえ)、誰しもが幾分は(全く非哲学的人間、つまり世人さえ)幾分は哲学者なのである。

 

〇清廉潔白、聖人君子ということは或る種の病理的状態以外ではないのだ。人間は適度の世人で、適度に誰しもが部分的には歪であり、正確ではないのである。完全に正しいとか完全に清いということはそれ自体かなり悪質な悪である。悪以外ではあり得ない。このことは完璧なる協調性とは、どんなタイプのものでも、例えば完全なる正義意識の集団でも、逆にそういったことを一切信用しないデカタンな吹き溜まり的な場のそれでも所詮同じである。そこに一切の衝突のない事態だけが維持されている集団の協調性は不気味且つ危険極まりなく、それは一種の凶器且つ狂気なのである。その場に居合わせない全ての人にとってそうなのである。そしてそのことにその内部に居る人達は一切気づいていないということが大いなる問題なのである。

 

〇これは我々の社会に於いて指摘され難い事なのである。そして誠意とか誠実であるという態度の示し方も又、今迄述べてきたことと近接しており、そういう大いなる危険性を秘めているということだけは言っておきたい。要するに使命感の全てにそれはある、と言い切ってよいのである。

付記 今回述べたことは理性論とか責任論とか正義論は違うレヴェルの問いである。その三つであるなら、今回の結論は当て嵌まらない。しばしば聖と俗の混交的なリアル論は理性論、責任論、正義論と対立していく。しかし常にこの三つと聖俗混交リアル論は並置させていかなければいけないのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 4日 (木)

世界の真実Part29

〇そもそもマイクロソフトもアップルもグーグルも完全にプライヴァシーを守ることのできるツール等一切一般市民に提供しないからこそアメリカ合衆国でビジネス展開できたのだ。通信のプライヴァシーが完全に守れる様なツールを提供するビジネスをアメリカ合衆国政府が容認する筈がない。

〇従って我々は決して完全なプライヴァシーを得るなら、一切コミュニケーションを取らない生活を維持するしかない。そもそもコミュニケーションとはプライヴァシーを維持できないことを前提している。

〇完全なプライヴァシーを守りながら通信することが可能であるなら、世界を核兵器で壊滅することが容易になってしまう。だからそれが決してできない様に緩いプライヴァシーの尊重だけを我々は認めざるを得ない。つまり誰からも一切監視されない、盗聴されない、傍受されない通信が可能なら、世界はその時点で消滅するだろう。通信とは、コミュニケーションとは完全なるプライヴァシーというものが実現不可能であるということを前提に成立する行為なのである。

〇だからその点でOne Driveも基本的には同じ筈である。それはお金を銀行に預けることと基本的には同じである。我々はどれくらいの金額を預金しているか、金を預ける銀行には知られているからこそ預金できるのだ。完全なプライヴァシーを守りたいなら現金を自分で隠し持つしか方法はない。

〇上記の真実とは、ウィトゲンシュタインが生涯を賭けて私的言語の不可能性を証明したことと決して無縁ではないどころか、基本的には同じである。

〇安倍懸案の自民党日本国憲法改正草案が現行憲法より性善説的であるのは、戦争放棄をした後に考えている世代によるものだからである。70年前の日本人はつい最近までアメリカと全面戦争をした人達だったのである。だからこそ性悪説的な契約の様に米軍並びにアメリカ合衆国政府が日本へ提示したのだ。それは太平洋戦争をした時期の日本人が基本的に残虐な行為も平気でできたことを彼等が知っていたからである。結局性悪説履行に於いてこそコミュニケーションとは取れるし、完全プライヴァシー確保をさせないからこそマイクロソフトは世界一の企業として君臨していることと、基本的原理は同じなのだ。だから現行憲法を超える普遍的な文言を今の日本人が作成することも又不可能なのである。それは完璧を目指すからである。完璧という概念は性善説が生んだものなのである。
 付記 因みに夫婦とか友情とかも全て性悪説的に成立している契約関係である。これらが完全に性善説的に成立しているなら、我々は相互に決して信頼し合えないだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

通信が制覇する世界の真実から読み取れることPart2

●我々のウェブサイトを通したコミュニケーションは性悪説原理に基づく米国のNSAの全て傍受対象である。従って一切のプライヴァシーを知られたくなかったならそもそもウェブサイトを利用しない様にするしかない。だからその点では一切ウェブサイトを利用しないで仲間内だけで成立する学術的世界の住民でいるなら、それも生活としては可能である。つまり専門家の間だけで成立するコミュニケーションをすればいい。そしてそれを傍受されたくなかったなら、全て直書きの手紙のやり取りだけに特化させた方がいい。だがそういったやり取りだけしかしないなら、それを思想的生活と呼べようか?勿論思想的に生きる必要は必ずしもない。

 

●重要なことはLINEにせよ、Twitterにせよ、どんなツールでもそれを利用するということは、全ての通信内容を傍受されていると知って、それでも何か誰からも怪しまれない様に自己偽装するしかないけれど、偽装すればする程通信傍受のプロは見抜いてしまう。となると結局自己偽装を一切しないで、当たり障りのない内容だけを心掛け、それでいて同時に必ず全ての通信行為が露呈してしまっていることを承知でマゾヒスティックに網に引っ掛かっていることを楽しむしかない。既に現代社会の利便性を享受するとは、アマゾンであれ何であれ通販でショッピングすることも、全て嗜好を企業に読まれていて、向こうが紹介するアイテムを買う様に仕向けられている。そしてその事実を一々深刻に考えていては一切の他者を信用すまいという精神病理的状態を維持していくしかなくなる。だから騙されていることを承知で、そのマゾ的事実を愉しむしか我々の精神を正常に保つことは出来ない。正にその事実を注視するだけで一遍の叙事詩が書けてしまうだろう。

 

●相手の網に引っ掛かってしまうことを前提に愉しむのは時として悲惨な事故が起きることもあると知っていてジェットコースターに乗って恐怖を愉しむことに似ている。怖いもの見たさから完全に離れることができないということだ。これは利便性から離れて思考することが不可能である現代人の運命なのである。だからその点では一切のそういった社会インフラが我々を呪縛するシステムへの懐疑だけで成立する論理を振り翳して思想することも可能ではある。しかしそれだけで一切の網に引っ掛かることを避けていようものなら、我々はやはり現代社会の資本主義社会のリアリティから極端に遠ざかっていくだろう。そういう浮世離れした生活者の言うことをまともに取り合ってくれるのはホームレス位であろう。勿論それが悪い、間違っているとは言えない。しかしそういう思想生活に我々は実際耐えられるだろうか?耐えられるとしても、それはあくまで一般的に引っ掛かることを肯定した上での些細な試みにしか過ぎまい。

 

●それはあたかも学術のための学術という閉じたコミュニティを生きることと同じである。勿論それを否定することはできない。だが特権的な閉鎖社会を生きることすら、きっとそうでない世界、つまり主体的にマゾヒスティックに市場原理に引っ掛かるという生活選択そのものが支えているという厳然たる事実は変えようがないのである。そういう野生主義自体が文明主義と相補的であるしかないからである。この問題を実際哲学がどう考えてきたか、これからはどう考えていくべきかを真剣に私は考え始めている。しかしそれを一挙に解答することは出来ない。それ程率先的なマゾ生活の獲得欲求の真理を見極めることはたやすくない。それはエイブラハムやモーセの様な預言者の生きた時代から変わらない我々の生活の本質に根差すことだからである。(つづき)

 

 付記 NSAは日本であれ、どこの国であれ、全ての世界市民のヒューマンネットさえ通信傍受とAI利用でアウトプットしている。その網から逃れられる市民は居ない。居るとすれば都市生活を一切せず一切通信をしない人だけである。そういう生活をしていてさえ、ショッピング傾向さえ把握されれば、大体の生活形態だけは把握されているのだ。だが、そのリアルは変わらない。世界の不平等性は永遠に消滅しない。そのことの悲喜劇自体は表現のモティーフにはなり得る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 3日 (水)

私のツイートに対するTetsuya Kitahata氏とのツイートリプ対話

 

●憲法の場合、それを読む国民の理性や良識を信用して起草者が書いているか、そうでないかという意味では現行憲法の方がより、信用していて、自民党草案では書いている人が読む人を管理したいという意志が明白だ。勿論そういう憲法の方がいいと思っている人も居るだろう。この問題は難しい。(本日の私のTwitter ツイート)

 

リプ(キタハタ氏)

●自民党の憲法草案には「天皇は国民か」が明記されていない。にも拘わらず、102条(憲法尊重擁護義務)において(現在の憲法には記述されている)「天皇又は摂政(略)は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」が抜け落ちている。従って天皇及び摂政は憲法擁護の必要が無いと言う事になっている。 

 

 付記 現行憲法では九十九条に相当する自民党改正草案での百二条では確かに天皇及び摂政に憲法擁護義務がない(と言うより、そういうこと自体を明記していない)ことは大いなる問題である。何故なら天皇で為政者を凌ぐ人気とか権力を持った時にそれを歯止めさせる機能が皆無だからだ。勿論幼少期から公家的教育を受ける彼等ではあるが、彼等に政治的野心が絶対にないとは断言できない。法律とはそういう時のためのことも考慮して編まれるべきだからである。

 

リプ(西村)

●大半の国民はそのことを観ようともしない。勿論自民党草案がいいところもある。だがそれは専ら為政する立場から書かれている部分に問題はある。天皇制を悪用する余地が充分為政者に見出しやすい。それでいて国民を信用していない感も強い書き方である。この問題はやはり見過ごせない。おおさか維新案は/それなりに書かれているが、彼等は基本自民草案を肯定した上で付け加える意図として書かれている。その点では自民党案を再検証する意図はない。それも国民は大して考えていない。天皇機能の悪用は今後本質的には問題となるべき要素が多い。

 

リプ(キタハタ氏)

●太平洋戦争がなぜ起こったのか、その時の天皇陛下はどのような立場だったのか・・・こういう事を思い起こせば、かような「穴」はあってはならないのでしょうが、そこに思い至ることも出来ない草案を堂々と出せてしまうあたり、”現代病”に似た何かを感じてしまいますね。

 付記 一つ前の本ブログ記事と関連があり、私がブログ<何か叫ぶ為のブログ>に収録しているTwitterツイートに対するTetuya Kitahata氏によるリプから始まった対話を採録している。この問題は小さくないと思われるので敢えて記事化させた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自由民主党日本国憲法改正草案を解析するPart1

 平成二十四年四月二十七日決定されている自由民主党日本国憲法改正草案に就いて憲法記念日の今日幾つかの論点から解析したい。

 重要なことは世界の全ての国家に憲法がある訳ではないということだ。アメリカ、フランス、ドイツ、韓国には憲法があるが、英国や中国にはない。ないならないなりに何とかなると考えている国もある、という事がまず重要である。

 さて現行憲法に対して自民党草案がどう違うかという点を挙げれば、第一に現行憲法は示唆するにとどめているところを自民党草案ではより明示しているということ、そして一々に対してより詳述しているということだ。

 第一章天皇、第一条は現行憲法では「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づく。」であるが、自民党草案では現行憲法に最初の一節に余計に次の文言が入っている。「日本国の元首であり」がである。

 これが意味するところは自民党の意図としては、恐らく世襲に基づく天皇制の場合、総理大臣を元首にしていては、政局が安定していない状態ではころころ元首が変わってしまうことを懸念しての考えなのであろう。

 尤もその場合、重要なことは日本では元首とは絶対に主権の存する国民としての個人ではなれないということになる。しかも天皇は憲法でも皇室典範でも政治に直接関わってはいけないことになっているので、必然的に政治に直接関わらない人物だけが元首足り得るということになる。

 第三条は現行憲法では「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う。」となっているが、自民党改正案ではそれは第五条に回され、それより前の第三条では「(国旗および国歌)/国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。」が挿入され、しかも「2 日本国民は国旗及び国家を尊重しなければならない。」が加入されている。

 これは今までかなり頻繁に起こってきた公務員等の小中学校高校等での卒業式で教諭が君が代斉唱を拒んだりして制裁を受けた場合に裁判にまで持ち込まれたケースが今後起こることを未然に阻止する目論見だと思われる。そして第四条では「(元号)/元号は法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する。」も挿入されている。

 さて今回はそれ以外に重要だと思われる信教の自由と表現・言論の自由に関する条項の改正案と現行憲法との差異に就いて触れておこう。

 現行憲法ではこの二十条と二十一条は次のとおりである。

「第二十条 信教の自由は何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。②何人も、宗教上の行為、祝典、儀式、又は行事に参加することを強制されない。③国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動をしてはならない。

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」

 対し自民党改正草案では次の様になる。

「第二十条 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。②何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。③国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のためのその他の宗教教育をしてはならない。ただし、社会的儀礼、又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

第二十一章 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。2前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的とした結社をすることは、認められない。

 一見基本的条項の変更がなさそうに見過ごしがちであるが、ここで重要なのは信教の自由を認めつつも自民党草案では国家神道、つまり天皇陛下の関わる国事は例外的に認められる旨を明示していること、そしてその出席参加も国家が強制できること(少なくともその可能性は除去していない)、そして表現の自由や言論の自由も、国歌が憲法を通して承認している国家神道儀礼的なことへの批判を許さないという事も又明示しているということである。

 この赤字部分は極めて自民党草案の特色である。そしてそれはより自民党政治を円滑に進行させるために極めて有利な改正草案であるとだけは言い得る。

  

 この部分の改正草案の一つの大きな特徴とは、天皇機能をフルに活用して、それ以外のいかなる宗教も個人としては信仰自由を保障するけれど、国歌レヴェルでは儀礼性とは仏教であってもイスラム教であってもキリスト教であってもならず(その点では現行憲法ではそもそもそういった明示された規定そのものがない。その点では曖昧にしていると言える)、又そういった信教の自由の立場から国家神道を批判することは許されないということ、従って表現・言論の自由や結社結成の自由も極めて明瞭に制限を課しているという事が言えると思う。

 

 一つの大きな国家神道儀礼性と天皇機能を元首化し、儀礼参加を強制することも(必ずしも何時も何時もではないにせよ、或る場合には明確に)可能であるとしているところに大きな特徴がある言えるだろう。

 多くの日本国民は仮にそういう改正がなされても、それ程困るということはないに違いない。その点では常に独裁者による強権政治を天皇制の介在により、コントロールしてきた日本史の本論に沿った改正草案であるとも言えるが、逆に言えばアンチ国家主義的発想の政治的活動の全てを未然に封じ込める意図も明瞭に察せられる改正草案であるとも言える。

 従って国民の思想そのものの自由には、内的にはキリスト教を奉ずることがあっても、そのことによって神道を批判することは国家レヴェルの祭事、習俗に於いては許されないということを明記した草案であることとなる

 この点では国民個人の集団レヴェルでの扇動を未然に阻止する意味合いの強い条項規定へと変更されていくこと、つまり日本国家の体制を肯定する為政者にとって国民行動をコントロールしやすい仕方で条項が成立しているということも一つの大きな特徴である言えよう。

 次回はもう一つの最大の懸案である国防、自衛に関する冒頭に近い条項へ戻って考えていってみよう。

 

 付記 上記の真理から言えば、私の様な完全無神論者でも神社では拝礼や拍手を等閑にしていたら責められるという事態があり得ることとなる。

 尚、本シリーズと平行して日本維新の会(草案はおおさか維新の会時代に纏められた)の改正草案も考えていきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 2日 (火)

何故我々は心の中に蟠りや拘りを抱いてしまうのか?Part3 哲学の態度 哲学者が自ら生きる時代とその超克・超越に関して②レヴィナスの他者論から

 レヴィナスの<他性と超越>(合田正人/松本和弘訳、法政大学出版局)2対話の哲学と第一哲学の中の(対話を超えて)(私という語、きみという語、神という語)から幾つかの論述箇所を抜粋してみよう。

 

 

 

すべてが等質化されたときにも、還元不能であり続けるものと画定し、そうすることで、平等と兄弟的友愛の精神そのもののなかで、より遠くへ、より徹底的に進まなければいけないのだ。」(対)

 

「「歴史的権利」や「根づきの権利」といった安直さを、「異論の余地なき原理」を、「譲渡不能な人間の条件」を断固として自分自身には拒絶しなければならない抽象の錯綜のなかに自分が捕らわれることを拒絶しなければならない。」(対)

 

ブーバーの『私ときみ』がそこで通じているところの主張は、<私>‐<きみ>の関係は<私>‐<それ>の連関には還元されないことを確証している。きみはそれを前提していない。逆説的論理であり、反自然的な構えであるが、中性的な「ある」としてのそれにきみが立脚することのないこの仕方は、意味することが存在にもとづかないような次元の開けである。神は、世界の外で、存在の彼方で、内存在性の‐利害の‐超越のなかで思考される。」(私)

 

 

「(前略)神という語は、世界と宇宙論の無条件な基礎を語って生活を指揮することをやめ、その代わりに、他なる人間の顔のなかで、その意味論の秘密を啓示しようとするのである。」(私)

 

 

 最初の「すべてが等質化されたときにも、還元不能であり続けるものと画定し、そうすることですべてが等質化されたときにも、還元不能であり続けるものと画定し、そうすることで、」の部分は明らかに(私という語、きみという語、神という語)の前哨戦的意味を備えている。つまり等質化された成員全体、つまり成員の集合は、しかし貴方という二人称を構成する場合には、還元不能な他者と化すということであり、「平等と兄弟的友愛の精神そのもののなかで、より遠くへ、より徹底的に進まなければいけない」というのは、平等ではどの成員も権利を同じうして保持するけれど、私が誰かを貴方と呼ぶ時、それはその誰でも同じであることではない仕方で特定していることなので、当然のことながら、それは平等からは逸脱した観念で接しているということだ。

 次の「「譲渡不能な人間の条件」を断固として自分自身には拒絶しなければならない」は汝の隣人を愛せよ(マルコ12-31)という聖書訓戒の持つ倫理性を踏まえた観念を(レヴィナスはユダヤ教徒でもあるのだが)引き出すかたちで考えている。つまり汝というかたちで、私が貴方を特定する時、そういった全成員の平等性の上で接しているのではないからだ。それは一つの意志的な与えるということである。イスラム教の喜捨という概念も関係してくるかも知れないが、資産家が寄付をすること以上のどんな貧乏人でも何かを人に与えるとは、もっと大きな意味がある。それは自己権利をその段では放棄してもいいという決意だからである。「抽象の錯綜のなかに自分が捕らわれることを拒絶しなければならない」のは明らかに貴方とは意志的にも運命的にも出会っているという事を意味している。それは一般的な事態ではないということだ。

 そして次の「ブーバーの『私ときみ』がそこで通じているところの主張は、<私>‐<きみ>の関係は<私>‐<それ>の連関には還元されない」は当然のことながら、それという一般性を離れていることを前提した貴方、きみとは、出会っていることで特定された関係性にいることを意味し、「きみはそれを前提していない。逆説的論理であり、反自然的な構えであるが、中性的な「ある」としてのそれにきみが立脚することのないこの仕方は、意味することが存在にもとづかないような次元の開けである」とは、<それ>を前提していないからこそ言えることである出会っていること、出会っていない人に対しての様に無視できない関係性に於いて、中性的な、つまり一般化された「ある」ではない、固有の主観的愛着を注ぎ注がれた関係性としての貴方、きみとは「存在にもとづかないような次元の開けである」とレヴィナスが語る時明らかに存在を軸としたハイデガーと異なった経路を行こうとしてきた自分を意味している。存在論から言えば、ハイデガーは頽落した世人性を自らも生き、その事実の自嘲的響きの中からテンポラリテートと脱自を心に立ち上げることまでしか示さない。しかしレヴィナスはそのから先に踏み進もうとするのだ。それは後半に登場する「神は、世界の外で、存在の彼方で、内存在性の‐利害の‐超越のなかで思考される」で顕著にその意志を示されている。存在の彼方とはレヴィナスにとってハイデガー的脱自世界を前提にしつつ、そこから超脱する意図でもあるのだ。それは存在論が存在に関する認識論である部分を、更に他者性論を推し進める中で他者との出会い、無視できなさに於ける特定の関係性の選択とは、存在論自体の認識論であり、即物的唯物的事実関係からの超脱を意味するからである。

 これらのレヴィナス論述は明らかに拘りである。

対し、東日本大震災に直面した日本人が復興へ賭ける意志とは蟠りによる意志である。しかしそれは或る部分では昨今の北朝鮮の脅威に直面しつつある日本人が完全に菅元総理の宣言した様な脱原発へは移行できず、却って原発再稼働を率先することで、核兵器へも即座に応用可能な状態を維持することを選択せざるを得ない現状の日本の持つ国際情勢的意味を復興以外に見出している一つの自己矛盾を我々に想起させずにはおかないが、その自己矛盾自体を摘発できるものこそ、この我々の論理解析的な拘りではないだろうか?

 前回迄の論理からすれば、この拘りとは明らかに福島第一原発に隣接するエリアの住人の方々こそが貴方、きみなのであり、それは等質化された人員数のメジャーさで示される国民全員のために、つまりその国防的安全性確保のために、原発再稼働も含めて脱原発には決して踏み切らせない政治的暗黙の相互了解と、福島県汚染区域、除染必要区域の住民を貴方、きみとして見る見方、つまり第二の福島を国民へ体験させまいという意志と矛盾して共存している国防的蟠りへの対処法と国土の原発汚染区域の再燃への阻止との矛盾として厳然と我々に、そのどうしようもない溝を認識させる。

 だが二つの間には必ず溝を埋められる何かを発見できる筈である。と、少なくとも思想的には結論させたい。未だそれは見つかっていない。しかし国防的に抑止力を上昇させる以外の道筋さえ見つかれば、脱原発を推進しつつ、国土の保全も両立可能でないだろうか?

 だがそれは本シリーズで取り上げているハイデガーもレヴィナスも(序に言えば、レヴィナスが示しているマルチン・ブーバーやガブリエル・マルセルも)示せなかったことなのである。そしてその二つの相矛盾する並走をどこかで繋げるためには、哲学解析以外の方法も導入せざるを得ないとだけは今言い得る。

 次回以降はその模索に就いて書いていこうと思う。

 

  ただ、レヴィナスの論述の最後の節から「神という語は、世界と宇宙論の無条件な基礎を語って生活を指揮することをやめ、その代わりに、他なる人間の顔のなかで、その意味論の秘密を啓示しようとする」こそ、この溝を埋められ得る何かを示唆しているとだけは今言えると思う。それは少なくとも唯物的存在論からの提言では決してないとだけは言える。だから生涯或る愛着的示唆だけを書き続けたレヴィナスはその乖離した二つ、つまり蟠りと拘りとを繋ぐ回路だけは示唆していた、と言うこともできよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 1日 (月)

何故我々は心の中に蟠りや拘りを抱いてしまうのか?Part2 哲学の態度 哲学者が自ら生きる時代とその超克・超越に関して①ハイデガーの技術論から

 20世紀以降の我々にとって最も深刻な問題とは技術それ自体の加速度的進化が我々に猛威を振るっているということだ。この点でもハイデガーは一つの論説で明確に示している。『伝承的な言語と技術的な言語』では、その技術自体の猛威とその歴史的根拠、そして言語と技術の関係性に就いて詳述している。今回はこのテクストから読み取れることを考えていってみよう。

 

 ハイデガーが「現代技術の際限のない支配がなにものにも制止できなくなっている」と表現している。

 更に「技術の歩みは抑えられなければならない。(中略)人間がその完遂を阻止することもできず、それどころかその全体を見渡すことも、それを克服することもできないような要求Anspuruchが現代技術のうちに語っているsprechen〕のかもしれないという懸念がそこで述べられている、ということである。(中略)危機を訴える叫びはしだいに沈黙しがちになっている。(中略)沈黙が表しているのはむしろ、技術の権利要求にたいして人間がなすすべもなく助力もない状態に追い込まれていることを承知している、すなわち、技術の支配がなにものにも制止できなくなっているということを、表明するにせよ表明しないにせよ、端的に肯定せざるをえないところに追い込まれているということを承知している、ということである。(中略)なんらかの目的設定に向かうことなしに、たえず手段を準備することだけに限定されるような過程の支配を肯定するということである」「この要求は人間によるあらゆる目的設定より強力である。この要求を肯定することは、まさに、<今日存在するところのもの>の支配における秘密を承認することにほかならない。」と述べている。

  

 ハイデガーがここで言っていることは我々現代人には理解しやすい。つまり我々は既にあらゆる便利さに慣れ切ってしまっていて、二度と今より不便な状態に戻りたくないと切に誰もが願っているということだ。だから多少もしものことがあれば危険であっても、便利な方を常に選ぶということである。そしてその進化へ向けた社会全体の連動それ自体を反省的視点で見られる個人が一人も居ないという事である。つまり誰もが進化へ向けた社会全体の連動の一翼を担わなければいけないからである。だから誰もがそんなに便利さだけ追求していても、仕方ないのではないかという提案ができなくなっているということである。ハイデガーが言いたいのはそういうことなのだ。

 

 2011311日の東日本大震災では地震と津波からの被害だけにとどまらず福島第一原発の倒壊事故により放射能汚染で帰宅困難区域並びに汚染除去必要区域による甚大な被害に見舞われた。単に東京へ送電する利便性のために福島県が犠牲になったかたちである。本来国民一人一人の幸福を追求することが本筋であるべき政治が、送電システムの利便性とコスト削減のためにいざ地震となってメルトダウンその他を起こした場合、とんでもない取返しのつかない事態へ陥ることを承知でどんどん国内に原子力発電所を建設してきたつけを国民、とりわけ福島県民が支払わされたかたちであるが、資本主義経済にとって死活問題と化しているコスト削減が人命や生活者の日常生活より優先された顕著な例としてこの事故が挙げられるし、それは前例としてチェルノブイリ原発事故やスリーマイル島原発事故に並んで人類の負の遺産となってしまった。

 

 なぜ我々はこの様に同じ様な事態を繰り返すのだろうか?又コスト削減と経済活動を円滑に執り行うための方策だけがなぜいつも優先され、もしもの時のことが等閑にされていくのだろうか?

 

 それは或る部分では社会インフラを設定させておいて、後はゆっくりしたいという欲望を誰しもが持っていて、その誰しもが利便性を享受することだけが頭にあるから、もしものための非常時的発想が二の次にされていくからである。

 

 誰しもが楽をしたいし、それを享受する権利があるから、勢い社会全体の進化へ向けた連動それ自体を誰も批判もチェックもできなくなる。神の様な俯瞰的視点を持つこと自体が誰にも許されておらないことが、益々機械的な便利さへコスト削減使命感と相補的に人間をその輪廻的システムへ巻き込んでいくのである。

 

 ハイデガーは同時代の他の哲学者よりこの問題を真剣に取り組んでいる。レヴィナスはその点ではより形而上的な信仰心と言語に呪縛される我々の生活実態と不可分の起源的な問いを重点的に行った哲学者である。しかしレヴィナス的視点からハイデガーが取り組んだオートメーション化される現代システム社会の危機と問題点を解決させるための方策を導き出すことはできない。何故ならレヴィナスの問いは、仮に世界の全エリアが福島第一原発メルトダウン事故の様になっても(正に<バイオハザード・ザ・ファイナル>や<ゴースト・イン・ザ・シェル>的リアルが実現しても)尚形而上的足り得るかという地点での問いだったからである。従ってハイデガーの指摘した現代社会の危機とレヴィナスの問いはいつまで経っても平行して並走するだけだからなのである。

 

 この異なった二つの問いを繋げる地点と、その方策を探ることが今思想と哲学に求められていると思われて仕方ない今回ハイデガーが述べた赤字で示した部分とは、ひょっとしたら危険かも知れないということを黙認し、もしもの時の危機的状況を隠蔽しようとさえする我々の個々人の個人主義的幸福追求を否定し得ない性悪的性質に就いて述べていることだ、ということを特筆して筆を置きたい。それは哲学と思想を結ぶ最重要な視点だと思われるからである。

 

 その突破口を探ることに就いて次回以降考えていってみたい。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年4月 | トップページ | 2017年6月 »