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2017年5月11日 (木)

何故我々は心の中に蟠りや拘りを抱いてしまうのか?Part7 哲学の態度 哲学者が自ら生きる時代とその超克・超越に関して⑥ レヴィナスの他者論からⅤ・ハイデガーの芸術論からⅡ

 分析哲学は概ね分離主義であり、それは一つにはウィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」という思想命題が大きく影響を今日まで齎していると見ることもできる。

 だが言語自体へ着目していたのはウィトゲンシュタインだけでなく、既にニーチェもそういうアプローチをしていたし、もっと古くはデカルトもそうだった。寧ろ哲学は最初からずっと言葉を発する我々自身の現実にずっと拘ってきていた。

 

 ハイデガーのテクスト<「ヒューマニズム」について>副題として(パリのジャン・ボーフレに宛てた書簡)とされている原題がBrief an Jean Beaufret, Paris1947)で冒頭彼はこう述べている。

 

「(前略)あらゆるものに先立って「存在している」ものは、存在である。思索というものは、その存在の、人間の本質に対する関わりを、実らせ達成するのである。(中略)思索において、存在が言葉となってくる(中略)言葉は、存在の家である。言葉による住まいのうちに、人間は住むのである。思索する者たちと詩作する者たちが、この住まいの番人たちである。(中略)思索は、みずからが思索することによって、行為しているのである。(中略)思索は、みずからを、放棄して存在によって語りかけられ要求されるままの状態にして、まさにその存在の真理を発語しようとするのである。」

 

 ハイデガーがウィトゲンシュタインの論考期の言語の限界が思考の限界とする考え(それはやがて<哲学探究>に於いて私的言語とはあり得ないというかたちで結実するのだが)と明確に異なる部分とは、存在と言語とを対置させていることである。ハイデガーに於いては思索と言語がほぼ重なり合っているので、その部分はウィトゲンシュタインが到達した地点での問いを前提していることになる。尤も前提されていないことを究極としてウィトゲンシュタインが到達した回路は、それとは別に偉大だったと言える。だからハイデガーはウィトゲンシュタイン的アプローチと異なった哲学者と詩人を言葉の番人とすることで問いかけていたということだ。

 今回は最後にレヴィナスを持っていこうと思っているが、ハイデガーの<芸術作品の根源>では明確に頽落という重要概念を<存在と時間>で提出していたことを反復する問いかけを行っている。

 

 例えば次の様な箇所である。

「(前略)ただ単に、物、道具、作品にかんして個別的に思索できるだけでなく、存在するものの一切にかんして一般的に思索できる思索様式が生じる。このような長い周知のものとなっている思索様式が、存在するものについての直接的な経験の一切を先取りする。この先取りがそのつど存在するものの存在について省察することを防げる。その結果、支配的な物概念が、われわれに対して物の物的なものへの道を、また道具の道具的なものへの道を、そして作品の作品的なものへの道に至ってはなおさら、それを遮断するということが起こってくるのである。」(中略)

目立たない物はもっと頑固に思索から身を隠す。」(中略)

「(前略)個々の道具は使い古され、使い減らされる。しかし同時に、それとともに使用することそれ自体さえもが使い減らされ、すりへり、習慣的なものになる。そのようにして道具存在は荒廃するに至り、単なる道具へと沈む。道具存在のそのような荒廃は信頼性の消失である。そして使用物はあの退屈で押し付けがましい習慣性をこのような消滅に負うのであるが、しかし、この消滅は道具存在の根源的な本質にとっていまやわずかにたった一つ残された証しである。(中略)いまやわずかにむきだしの有用性だけが目立っているにすぎないのである。そのようなむきだしの有用性は、道具の根源は、道具の根拠は質量に形相を刻印する単なる製造にある、という見掛けを呼び覚ます。それにもかかわらず、道具はその真正な道具存在においては〔製造ということよりも〕さらに遠方より由来する。質量と形相、そして両者の区別は、さらにいっそう深い根源をもつのである。」

 

 このハイデガー論述箇所抜粋中、前半赤字部分は明らかに頽落した物への見方、習慣化されて惰性化する観察的意志、省察への警告と取れる。

 しかしその後の後半茶色字部分は、より深く根拠へと迫っている。とりわけ「そのようなむきだしの有用性は、道具の根源は、道具の根拠は質量に形相を刻印する単なる製造にある、という見掛けを呼び覚ます。それにもかかわらず、道具はその真正な道具存在においては〔製造ということよりも〕さらに遠方より由来する。質量と形相、そして両者の区別は、さらにいっそう深い根源をもつ」という部分は極めて後期ハイデガー思想に於いて重要な認識である。

 質量と形相というギリシャ以来の根本的哲学命題に於いて、自らの提唱した道具存在への着目を根拠化しようと試みている。そこには知への愛というフィロソフィーの起源的な問い掛けがある。感性的に初期1926年に既に<存在と時間>で到達していた全命題を、より形而上化させることで晩年へと至る中で彼は思索を重ねた。それはギリシャ以来の根本命題への回帰をより深化させることだった。それはウィトゲンシュタインの言語行為の事実論的な在り方というハイデガーとは別種の言語存在論とも言うべきアプローチから初期到達点であった言語の限界が思考の限界である(思考の限界は世界の限界ということである)から、言語では私的なるものは許さないし、そもそも成立し得ようがないという到達点を晩年に向けて深化させたことと異なった深化の道筋だった。それは起源には既に結果が齎されているというあの有名な<ニーチェ>に於けるハイデガーの循環構造を体現した哲学的道のりだったと言えよう。

 

 その点では明らかにウィトゲンシュタインは心論的である。そういう部分は偶然的に同じユダヤ系であるレヴィナスもそうである。レヴィナスはフッサールとハイデガーに深く負っている後発組の天才だったが、内なる出会い、神を内なるものとして出会えるか否かが生の究極の命題であるという意識で哲学した人だと言える。それはウィトゲンシュタインの様に心論でもあるが、倫理的根拠づけという意味では究極の宗教思想でもある。この点ではハイデガーのより科学合理主義的なメソッドでは到達できない別の地点で生涯哲学した人だとも言える。

 その意味ではレヴィナスはハイデガーの固有の拘り、それが道具論を通した頽落的生活実践的なリアルと対照的な現実世界の時事的リアルへの蟠りから発している提言だと言える。次の論述を見てみよう。

 

「(前略)いうなれば、他人は単に論理学的意味で他なるものではないのだ。このような他なるものの他性は、カント的「われ思う」によって遂行される綜合に委ねられることで、論理的な意味での共通の類へとそれを乗り越えることができるような他性、超越論的に乗り越え可能な他性にすぎない。平和は、他性の吸収もしくはその消滅に固執する代わりに、それとは逆に、他人の近さの兄弟的な様式であり、この様式は単に他なるものとの一致の不調ではなく、まさに孤独に対する社会性の剰余_を意味しているのではないか、と考えてみなければならない。実にしばしば濫用されている愛というこの語を、われわれは軽く口にしているのではない。」(<他性と超越>2対話の哲学と第一哲学中 他者の近さから)

 

 ここには明らかにニーチェが躍起になって批判したキリスト教倫理へのより回帰的思想も仄見える。他者へ人質となる程の究極の自己犠牲を提唱するレヴィナス倫理学では、上記の文の「他人の近さの兄弟的な様式であり、この様式は単に他なるものとの一致の不調ではなく、まさに孤独に対する社会性の剰余_を意味している」で示されている箇所のメッセージに全てが込められている。そもそも孤絶した存在である個の内面世界を相互に認め合うという倫理思想がここには読み取れる。それこそが社会的剰余だとする観念は幾分はマルクス的でもある。事実レヴィナスは<他性と超越>2対話の哲学と第一哲学中、他者の近さに続く(社会主義とユートピア)で「社会主義思想は不可避的に倫理的である。」と宣言している。しかしレヴィナス思想がマルキシズムには行かない絶対的意志とは、管理社会的な発想とはそもそも彼の哲学の出発点が対極だったということもある。又社会的剰余を社会的なゆとりに求めているのでもないという事からそうだと言える。

 だが同時に彼は上記箇所の論理的帰結として「実にしばしば濫用されている愛というこの語を、われわれは軽く口にしているのではない。」と言い放ち、人倫的に普遍(不変)な愛の倫理を通時態的にも共時態的にも人類全体の思想の行く末へ二ヒリスティッシュに構えていない。ここが蟠りという現実への批判的対処から生み出される平和思想的認識論、存在論の倫理学止揚性の持つ彼独自のヒューマニズムである。そしてこのヒューマニズムの観点ではハイデガーとの対比的な考究をも意味あるものとする、と思われるのである。

 

 次回は上記レヴィナス論述の続きから引き続きハイデガー哲学との対比(特に<「ヒューマニズム」について>と<芸術作品の根源>というハイデガーテクストと、レヴィナス<他性と超越>との対比的認識から考えていってみよう。(つづき)

 
 付記 分析哲学を分離主義だと前回同様今回も述べた。しかし重要なのは、現象学もポストモダン思想と目される人達も単純に綜合したのではないという事である。この点は追々重要なことなので解析していこうと考えている。

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