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2017年6月

2017年6月29日 (木)

思想の時代Part11

思想に於いて重要なことは、思想は閉鎖的アカデミズムとして権威化してはいけないということだ。しかし同時にあらゆる学術も一つの思想として取り上げ、解析することも憚ることがないということだ。

 

思想に於いて重要なのは言語それ自体と、その営みであるところの諸言語使用民族、国民の生活それ自体である。

 

思想に於いて言語同様極めて重要なのは宗教的慣習性と、その聖典等からの人々の思考順路の様なものを把捉することであり、そこから読める思考の形態や構造が重要な単位として我々にとって利用すべきものとなるだろうということだ。

 

宗教的慣習性はしかし同時に神学的な倫理・論理の裏付けを要すと言える。神学的裏付けはそれ自体各言語の持つ意識構造を証左する決定的なものである。

 

〇そもそも人はどこから来てどこへ行くのか、皆自分でもよく分からない。いつの間にか生まれて気が付いたら居なくなっていたという様なことを養老孟司が『バカの壁』で述べていたけど、生そのものが失ってしまってから後でそれを追想することのできないことの様なので(尤も死んでいないから未だ分からない)、益々もって生とは正体不明な事態である。それを敢えて言葉化させようと人類はしてきたのだが、人生そのものが荘子の言う様に胡蝶の夢、つまり泡沫の夢かも知れない。だけど、その中で齷齪と我々は常に何かに向けて足掻いている。それは一面凄く喜劇的でもあるが、生きていること自体が滑稽であることは確かだし、滑稽でない悲劇も一切ない。だから思想は何かとってつけた様なものでなく、自然と湧き出ることでなければ敢えて思想と名乗る必要もない。アイディアと言ってもいいし、案と言っても勿論いいわけだが、学術的権威と無縁に行われなければ意味がないとだけは言える。その点は宗教家や神学者が考えている真の教徒とも極めて近接している。

 だから何か見定めて、真理に向かって生きているなら、その人は敢えて思想家と名乗らなくても、思想家だと言える。

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2017年6月28日 (水)

アルケオロジーは可能か?Part3 ハイデガー『存在と時間』に於ける神学的思考順路に就いて①

 

  

 ハイデガーの哲学は或る部分では極めて現代社会に固有の問題を扱って、その或る深刻さから発言していることも事実だが、同時にその語らいの中に或る起源論的な意味合いが込められていることも又明らかである。暫くそのことを中心に考えてみたい。

 

 ハイデガーでは存在とは、存在者と切り離されている訳ではない。存在は存在者でもあるし、時間でもある。その意味ではハイデガーは言語の規約自体を(あたかもウィトゲンシュタインが言語ゲームと呼んで探究した様に)問い詰めているという解釈も当然成立するが、彼はしかし存在の家を言葉としながらも、言葉ならざることをも多く示唆している。

 

 『芸術作品の根源』Der Ursprung des Kunstwerks(関口浩訳、平凡社)では次の様にハイデガーは述べている。

 

 

 

 われわれが、ここでいつも、真理を不伏蔵性と捉えるとき、われわれはただ単に一つのギリシア語の単語の逐語的な翻訳に逃げているのではない。われわれは、われわれがよく知っていて、したがって利用し尽くしてきた正当性としての真理の本質の根底に、経験されず思索されないものとして横たわっているものを思い起こしているのである。

 

 

 

 さまざまな物が存在する。人間たちが、贈り物が、犠牲が存在し、動物と植物が存在し、道具と作品が存在する。存在するものは存在の内に立つ。神的なものと神に反逆するものとの間において定められる覆い隠された宿命が、存在を通して下される。存在するものに関する多くのことを人間は自由に処理することができない。わずかなことが認識されるにすぎないのである。よく知られたことは大まかなことにとどまり、よく習得されたことは不確かなことにとどまる。(後略)

 

 

 

(前略)全体としての存在するもの〔Das Seinde im Ganzen〕のただ中に、或る開けた場所がその本質を発揮する。空け開け〔Lichtung〕が存在するのである。それは、存在するものの側から考えられるならば、存在するものよりいっそう存在する。この開けた中央は、したがって、存在するものに取り囲まれているのではなく、空け開いている中央そのものが、われわれがほとんど知ることのない無のように、一切存在するものの周囲を取り囲んでいるのである。

 

 

 

 上段の引用記述は全て〔二 作品と真理〕に収められている文である。ハイデガーはここで明らかに不可知論に就いて述べている。赤字と黄色枠で囲った部分は全てそうである。従って言語の側から言えば、彼は明らかに語り得ないものが存在として認められ、それが存在を規定している(存在全体への直観もだし、言葉そのものもである)という考えでいることは確かである。

 

 存在自体もそうであるなら、存在を何とか言葉化させようとする我々の言葉の営みとか言葉自体も、一体どういうものであるか、どうしてそれが我々自身を納得させているのか自体も謎であるということを認めていることである。

 

 そうである。存在が謎であるという事は、存在を語る言葉そのものも又依然謎だということなのである。

 

 ハイデガーが存在忘却〔Seinsvergessenheit〕と被投性〔Geworfenheit〕に就いて語る時、何等かの創造されたこと、存在そのものとして決定されたこと(されていること、でもいいが)として前提されていることも又確かである。

 

 この部分は『存在と時間』で既に大きく取り上げられていた。この仕事でハイデガーは被投性が中盤に差し掛かる前半の後半部、第三十一節で初めて登場し、到来は第六十四節(後半部)で初めて登場し、続いて忘却は第六十八節(後半部)で初めて登場する。この順序が意外と重要である。それは後で詳しく述べるが、被投性も忘却(∃忘却)、到来も、共にアルケオロジー的視点から理解するとよく分かる。

 

 つまりハイデガーは明らかに神の視点を脱自的に〔ekstatische〕借りて、世界を理解しようとしているからである。(つづき)

 

 

 

 付記 次回は『存在と時間』のハイデガーによる極めて重要な命題規定のある語彙を中心に、どう扱われているかから、そしてそれ以降の彼のテクストを随時参照しながらアルケオロジックな視点を彼がどう導入してきたかに就いて考えていくこととしよう。

 

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海外現代大衆音楽の持つ一つの傾向に就いて

 アメリカではサマー・オブ・ラヴの時代から既に大勢のミュージシャンが悪に就いて歌っていた。歌は神を讃える歌から、協働的な賛歌、一人で居る寂しさを歌うもの等昔から人間のあらゆる感情をずっと表現していた。しかし重要なことは、それらは全て誰かの心の中に起きたことを別の誰かに伝えるということが最大目的ということだ。

 そしてサマー・オブ・ラヴの時代には悪に就いて歌ったとしても、それは常に外部だった。社会だったり、国家だったりという様に。

 

 しかし現代のロックやラップ等ではそうではない。あくまで心の内側に起きることを示している。その悪とは悪魔の囁きであり、黒魔術的な妖しい誘いの世界である。そういう悪魔からの誘惑を君も持ったことがあるだろうということである。

 レイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』の世界である。

 

 勿論今も素朴な失恋の歌や恋心を歌った曲もある。だがより悪ということを実直に見つめる曲は多くなっている。黒人のヒップホップではfuckという語彙も頻繁に登場する。

 これは外側への反抗等していても所詮追いつけない何かに急き立てられていることを意味している。音楽より実はそのことを早く嗅ぎ付け、表現したのは絵の世界だった。欧州で起こったシュールレアリスムからアメリカで起こった抽象表現主義がそうである。

 アートでは比較的早かったそういった内側の悪からの囁きは、音楽ではかなり時間がかかった。それは音楽が公共空間で人間の肌とか生理的な反応をダイレクトに齎すものだからである。だから健全な音楽を聴いて欲しいという管理者層の思惑もあって、それはなかなか難しかったが、サマー・オブ・ラヴの時代以降次第にそういったタブーが打ち破られていった。

 

 内側の心の悪からの誘いを吹っ切るには身体を動かすことしかない。そこでダンスシーンがソウルの台頭(70年代初頭)が徐々にディスコティークミュージックやヒップホップ、レゲエ、ラップ等を増殖させていった。ダンスユニットが活躍するのは現代では当たり前となっているが、身体を動かすことで心の奥底に眠る悪への誘惑を断ち切る意味合いが現代のダンスシーンにはある様に思われる。だから大勢の人数で踊るEGirls等も現在日本で活躍しているわけである。

 それも欧米や中南米の踊りと音楽が合体した文化が影響を与えている者と思われる。

 

 しかし実に興味深いことには、そういった激しい悪からの囁きとそれに乗ってしまいそうな心理を歌う歌と同じ位、神学的な神の到来を思わせる曲もあるということだ。

 この様な神と悪魔の対比的共存を意識した楽曲の林立が現代大衆音楽シーンの実情であるが、実はこれも純音楽の世界ではかなり早く両方登場してきていたのだ。バッハ等の時代から現代の教会音楽は無調整や十二階音楽をも咀嚼した形で新たなシンフォニーを形成してきている(ビートルズが作った会社でレコードデビューさせた数年前に亡くなったジョン・タブナー等もその先駆である)。

 勿論カール・オルフの『カルミナ・ブラーナ』(映画『カリギュラ』のテーマ曲としても使われた)等も現代大衆音楽同様、悪魔からの誘惑をテーマとした曲であるし、悪と善の対立的な構想の曲はかなり古くから存在してきた。ダンテの『神曲』もその葛藤がテーマの詩である。

 だからかなり先祖帰りしているのが21世紀の音楽と言えるかも知れない。それは全世界的に今波及しているナショナリズムやヘイト思想の登場が心的に影響しているものとも思われる。

 

 コロンビア国籍のシャキーラ等のヴェテランシンガーが率いる中南米の音楽の方がどこかした明るさがある気は聴いていて感じる。でも彼女は中東の血脈も持っている人なので、音は中東的だし、アメリカの大衆音楽でもかなりの度合いでイスラム的(中東的)な音の世界も展開されている。エスニシティを隠蔽することの方が多かった20世紀より、よりその点でも現代音楽は先祖帰りしていると見做すこともできる。

 それもこれも、意外と人類の絶滅の時が近づいているかも知れないという無意識の(潜在的で、普段は隠蔽されている)不安感の表出であるかも知れない。核兵器、核弾頭等の世界的な脅威が手伝っているかも知れない。政情不安はシリア内戦の状況を動画とリポートして世界中を震撼させた8歳のシリア人少女バナさん(タイム誌の世界に影響力ある25人に選ばれた)のメッセージ等からも今後益々我々の深層を掻き立てるに違いない。

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2017年6月27日 (火)

リアル(実在)への問いからPart1 

我々人類はあらゆる社会インフラをアップグレードさせて古いものを脱ぎ捨てる様にして、リニューワルされたモードやシステムへと変換させていく。着換える様にして、である。(時間推移的)

 当然それは武器に関してもだ。性悪的な人間の根源的な性質は変わらないだろう。そして武器携帯するということは、それを取り締まる側も通信等を駆使して犯罪予防、テロによる革命行為を阻止する為の警察機構とその対処法も進化を遂げていく。

 

都市空間移動は各種標識・自動改札等への対応が主となるので、ほぼ地下・ビル構内の密閉空間移動が大半となる。そこでは方向感覚が麻痺しやすく、都市空間には人が大勢居るので、その動きによって方向は益々分かり難くなる。だから標識だけが頼りということとなる。

 対し、郊外、地方空間移動はより自然条件に沿った地形(それは郊外では建造物との間はニュートラル、地方では建造物が自然条件に完全に添っている)で、方向感覚は健全に維持されやすい。(空間的・位置確認的)

 

哲学では言語と存在に就いて考えることがメインとなるので、音楽性が際立ち過ぎ、空間的広がりが考慮され難いという欠陥がある。つまり哲学で存在と言う時、時間と存在者の変化(動き)へ意識が釘付けになりやすく、空間的広がりや視野把捉し得る瞬間(一挙)性へ言及し難くなる。

 それは言葉の営み自体である唯論理性へ加担しやすい。それが哲学の決定的傾向なのである。

 

科学とは実在を問うものである。従って非実在は問えない。神は実在を超越するが故に、科学は否定するが(否定と言うより、問うことを停止する)、神学は違う。神学は従って心の学問とも言える。

 宗教はその普及と啓蒙を旨とする。哲学はそれらの相互の関係の中から問う。

 哲学が音楽性(唯論理性)へ埋没しやすいのは、それが証明と定義に拘るからだ。

 

非実在とは事実として言葉(言語、強いて言えば哲学的言語)でしか問えない。だが、それはやはり言葉が生み出しているのでもない。敢えて言えば存在が生み出している。しかし存在も又言葉でしか問えないが、言葉が生み出しているのでもない。(形而上的問い)

 

或る町、或るエリアには固有の性格が付与される。それは自然条件的にも、文化、政治的にも。にも関わらず、哲学ではこの空間的性格を通常一切問わない。それは唯論理性=音楽性がそれ自体一切時間以外考慮され得ないからだとも言える。特に分析哲学ではそうだ。この唯観念論には存在のタウマゼインが大きく抜け落ちる。だがハイデガーが存在と言った時、明らかに空間実在的性格やその変化、推移も含めて考えられる。其処に彼の言う歴史も大きく関与する。(哲学の限界へのリアルからの問い)

 

  付記 最初の〇の社会インフラの進化と脱ぎ捨て着換える我々の在り方は、哲学では問いやすい。これは言語の語彙やフレーズ等の変化と似ている。詩にもしやすい。だが空間的広がりを詩にするのは難しい。

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2017年6月26日 (月)

日記的記述EI コミュニケーションの在り方と態度の違いに就いて

 日本語で相当破壊的な詩を書いた場合だけ英語にして、それをアメリカ人に読んで貰うと反響がある。日本語は率直大人主義的・理性主義的に纏める傾向の言語である。それは社会がそういう風に個を仕向けているからだし、日本語本体にもそういう傾向がある。

 

 個がある、とは主観的ということだ。そして主観を言うことは日本社会では憚られるという空気がある。これが一体何から由来するのかを突き止めるのは難しいが、国家神道=天皇制は、それを有効に維持するのに役立っているとは言えよう。

 

 英語では主観だけを捲し立てて丁度いいのであり、慎ましやかな詩を日本語で書いて、それを英語に翻訳してアメリカ人に読んで貰っても、何の反応もない。

 そもそも平素からアメリカ人は日本人より数倍以上躁状態なのである。対し日本人は鬱状態である。

 

 主観を前面に出していいということは、個々が神に守られている、心の内面で神へ敬虔な気持ちさえ抱いておれば、神のご加護があるという発想がアメリカ人にはあるからなのだ。恐らくその感情はフランス人や英国人よりアメリカ人により強いだろう。

 イスラエル人にはそれなりのヤハウェに対する敬虔な気持ちを持つということはあるだろうし、キリスト教徒も居るだろうが、アメリカ人と本質的には協働しやすい感性はある。だがユダヤ教の人達の為だけの旧約聖書であって欲しいと願っている様な人達にとってキリスト教も邪教ということにはなるだろう。個々それぞれ違っていて、それをお互いに余り口に出すことはきっとないのではないだろうか?(いずれイスラエル人本人や、その知人から聞いてみたいことであるが)

 

 

 音楽はそもそも感情を表に出す儀式の様なものである。従ってそこではそもそも大人主義や理性主義は意味を為さない。だがアメリカとはその点では(似た様なことはイランや北朝鮮でも言えるだろうが)、政治や国家運営さえ表に出すことで成立している様なところはある。日本はその点でも敗戦国なので、抑えるということを幼少時から躾けられてしまっているのだ。

 

 グローバリズムの全盛時代、つまり少なくともそれが世界のメインストリームであることを疑うことのない時代は確かに終わった。そしてあらゆる民族感情が噴き出す時代、つまり感情の時代を迎えたと捉えている論客も居る。だがそもそもグローバリズム全盛時代でさえ、それは表面的な態度の取り方だったのではないだろうか?

 

 アメリカ現代の大衆音楽から言えばラップは感情だけを表にダイレクトに出すというメソッドの音楽である。できるだけ言いたいことは言い切るという流儀である。

 だがIS等が活発化しだしたこと一つ取っても、あの数年前からの世界潮流から読み取れることは、アラブ系民族もアメリカ人同様決して抑える様な人達ではないということだ。イスラエル人がパレスチナ人を殺害した数の方がずっと上回ることを彼等はよく承知していて、数で復讐しようとしているとも言える。

 アブー・ムスアブ・アッ・ザルカーウィーは米軍爆撃で67日に死亡した。だから今後その報復としてISILがどういう方法で反撃するかをアメリカは予想だけはしているだろう。

 イスラム教過激派の主観は、自分達の個々の生命を失っても恐ろしくない、それはアラーによるご加護があるからだ、ということだ。でもそれは何としてでも個として生き残りたいというアメリカ人のメンタリティを支える神からのご加護ということと、そう大きく違うわけではない。

 そういう主観は日本人にはない。そもそも主観を前面に出すことは良くないことだ、はしたないことだと躾けられてきているからだ。

 主観を前面に出して生きていくということは、その分責任を自己に負うことであり、そう宣言することである。不言実行ではなく有言実行の方に近い。

 

 英語の詩は英語を使用する市民が世界で最大数だということも手伝って、極めて主観を有効に示さないと何も伝えられない、伝わらないということがある。共に敵と戦おうという意識はアメリカ人の英語には読み取れる。だが面白いことにそれと同じだけ皆で慈愛を共有し合おう、祈ろうという意識も共存している。そのことで均衡を維持しているとも言える。

 又、英語自体がどんどん日々変わりつつあるのだ、ということも言える。

 それは日本語のコミュニケーションと本質的に異質である。どこだということではなく、最初からコミュニケーションをする時の心の持ち方が違うから、部分的なことでなく、前提からして違うのである。

 神から守られている限り、自分の主観がないことは、却って神に背いていることになるということで、相互に意識を共有し合うということが英語、特にアメリカ人と英語でコミュニケーションすることにはある。

 

 でもどんな日々自己の主観を抑え込んでいる人も、一気にそれを爆発させることはあるし、爆発させてしまったら、後は鎮静化された平静なマインドを持っていたいと望むものである。

 そのバイオリズム的なウェイヴそれ自体が既に一つの音楽であるし、時間の奴隷である我々は、その揺らぎと振れそのものの鳥籠の中に居続けていると言える。それを楽しいと思うか、嫌だ、抜け出たいと思うかも又一つの主観であるが、そのいずれの気持ちになることも誰しも持っているに違いない。

 

 その振れ幅とか揺らぎの問題はやはり哲学でも解明できないし、生物学でも限界があるのではないだろうか?

 つまりだから詩を書き、詩を読むという習慣も又無くならないと言えるのではないか?

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2017年6月25日 (日)

My Point of View in FB and report of my tweet message to US musician friends Part10

About current affairs

 

I wish not to know in media that in a nation, long time no see assassination of the President in near future, its possibility is not low for the time being now.

 

 

My Impression message tweet to tunes by Musician Mr.Jacob Lutz

 

It's uncannily good, its perplexed sound will is intriguing!

 

At one meaning song is what we are moved only with not so complete form or device we can say so. Nowadays I feel only not professional expression makes me moved. Unexpectedly we are never moved by so perfect completion and strong message without any maze. Theres miracle only languorous feeling tune gives us as fresh impression. Your song evokes that truth in my daily life.

 

Your tune is planned so precisely, possiby you love art, don't you? Your expression is similar to expressionism tableau or new painting art. Of course contemporary music scene probably you take care, very diverse approach you take, is it so?

 

My tweet message to Mr, My Impression message tweet to sentence tweet by Mr.Joshua Ofori

Not only music but also art creating, thinking of philosophical matter, baring a good idea are all not honorarium or fame seeking, it's absolutely so. Only spiritual and mental and heartfelt performance can give something to friends and sympathizers, I believe. It's voice of God or own faith, principle, belief, creed given by the God in mind.

 

My Tweet message to shared animation by Mr.A.J. Lauer

Very heart-felt performance we can get easily to know, gentle and tender sound I can confirm with it. Music and its soul is so deep and fecund. Reason to be so is inscrutable to me now, but sometime in my future, the God would tell me how it is so, I now imagine.

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2017年6月24日 (土)

絶妙であるとは何か?Part1

 絶妙という語彙がある。英語ではexquisiteexcellentmarvelous等で示し得るsomethingである。時節的にはタイミング、ハイデガー用語で言えば時熟した何かである。それは空間的な何かでもあり得る。今回は空間的なことから、ちょっと絶妙さが認められるケースに就いて考えてみよう。

 

●日本という国は国土の広さが纏まりを持たせる意味で絶妙だった。日本人がどこから来たかということはかなり古くから言われてきたことだ。

 東南アジアを通って中国から来たとか、朝鮮半島を経由して来たとか、幾つかのルートが考えられる。だが最も重要なことはそうやってどこかから来た人達が日本列島に住み着いて、そこで国家を曲がりなりにも築き上げた後、民族的な大征服に一度も見舞われなかったことは、その国土の地形と面積によるところが大きい。もし日本列島が本州が二つの島に分かれて居たり、或いは九州、四国、沖縄諸島等が存在せず、それ以外だけの面積の島(本州中心の)であったら、或いはもっと簡単に中国大陸の襲来によって征服されていたかも知れない。或いは逆に日本列島そのものが今の面積より2倍から3倍近く広かったなら、もっと大勢の人達が押し寄せ(当然一つの民族や部族だけでない多くの人達が来るだろうから)内部で熾烈な民族間闘争が繰り広げられてきたであろう。

 

 つまり今の日本列島の広さと地形(それ程東西に広がり過ぎていないこと)が内部分裂をし難くさせ、逆に外部から容易に襲来しようとしても、複雑な山地の地形から、それがそれ程容易くないと外部に思わせたし、実際そうだったのであろう。この点では天地<或いはそれをお作りになった神>に感謝しなければいけないだろう。

 

 尤もそのことが日本人を内部で巧く結束していて、分裂が少ない民族性を構築したと同時に外にはいささか疎い性格をも付与してきた、と言える。

 例えばアメリカの新聞は世界中のその日の出来事が記事化されている。移民数が多いということもあるが(日本の移民受け入れ数は世界で5番目である)、そもそも建国初期から世界中から集まって出来た国なので、何か大きな事件がなくても、ほぼ世界中の出来事がその日の新聞で分かる様になっている。それはHerald Tribune等でもそうだし、いささか英語ネイティブが読むと日本人向けになっているらしいJapan Timesもそうである。

 だが日本の新聞では何かテロでも起きない限り、或いは特別のサミット等の会議とかがない限り、通常殆ど九割九分国内ニュースだけである。

 又テレビにしても、選択肢は少ない。外国語放送は地上波以外では見られる様になっているが、チャンネル数は少ないし、ケーブルテレビも発展しているとまでは言えない。

 これらは内向き的性格をよく表している。

 

 日本では山岳信仰は仏教より古くから存在したが、要するに自然信仰的民族性を今日迄残存させている世界でも稀有の民族である。神道は言ってみれば無神論の象徴でもある。つまり日本にはdeities(神々)は存在しても神(the God, Omniscience)は存在しないのである。だから国内で同族間では全く協調性のないアウトロー的生き方の人の方が一神教的世界が圧倒的な世界では、日本を一歩出れば巧く順応できるという事実は充分あり得るのだ。

 

 因みに世界の宗教人口から言えばキリスト教徒(各宗派総計から言えば)20億人を超えている。イスラム教徒が次いで多く16億人近辺である。中国人は中華人民共和国だけをとれば、137462万人であり、彼等は所謂宗教というものを持たない(あったとしても道教・儒教の痕跡を知として携えているくらいであり、仏教も盛んではない)。インド人は人口(131000万人)中、81.4%を占める82760万人がヒンドゥー教徒であり、それ以外にもネパールの人口の過半数、スリランカは15%の人口がヒンドゥー教徒である。インドネシアのバリ島、マレーシア、シンガポール(以外にも世界中には大勢インド系住民がいる)のインド系住民もそうなので、910億人を超える人口の人達により信仰されているとも考えられる。

 四位が仏教徒であり、儒教徒(韓国人は大半がそうであるし、同時にキリスト教徒である人も多い)、道教徒(因みに台湾では仏教徒が548万人、道教徒は454万人という内訳である)、神道徒は日本人だけなので当然少ない。日本では神道徒は形式だけであり、内心までそうである人はそれ程多い訳ではない。又日本では仏教も死者供養の為に採用しているに過ぎず、完全仏教徒も少ない。尚庚申塚等は全て道教から借入されていて、道教教義自体が神道と最も近接しているので、日本では神社が寺社の中にあったり、その逆もあったり、全てが混交的であり、日本人は結局宗教信者性では最も希薄である。

 それでも個人として神を信仰することは可能だし、戦後は信教の自由で完全に心の中まで束縛されることがないので、今日では神という観念と信仰を持って生活している人も海外経験の多い人にはより多いであろう。

 

 話は大幅に逸れたが、実際日本では政治的に例えば二国に分裂することなく国家が維持されてきたのが、単に海に囲まれていて、しかし広大な面積ではなかったこと、広大な海岸線以外のリアス式海岸も多いこと、中腹に山岳が迫り出している地形の箇所も多いこと、それが外部からの襲撃を容易でなくさせてきたこと、それらが複合的に作用してそうなってきた、と言えよう。

 

 これを絶妙と言わずして何と言おう。

 

●一昨年秋からずっとウォーキングイヴェントに参加してきている。それよりも前から既に一人で低い山を登ることはずっとしてきていた。それでも、それは主に読書、とりわけ哲学者・田辺元の本が中心だったが、それを読むのにもってこいの場所や道が多かったから、飯能市を中心に実践してきたが、カードを貰ってポイントをためると千円をスイカやパスモに入れて貰える制度もある西武鉄道のハイキング&ウォーキングに一昨年から参加してきた。先月からはJRの駅からハイキングも参加する様になった。

 埼玉県と東京都西部が中心でJRのものは時々群馬県のものも参加している。凡そ7, 8キロから10キロ、12, 3キロ、最大のもので15キロというケースが最も多いが、キロ数は10キロでも登山の場合もある。今のところ、ユガテ、丸山、宝登山、破風山、武甲山等を登った。

 

 さてかなり歩幅の取り方や歩き方によってスピードも人それぞれで、平均すれば(登山のケースでない場合の平地では)5キロを一時間乃至一時間弱で歩くことが大半であり、それは早くも遅くもない。

 サークルの様にそれらのイヴェントに参加する人達が居て、その時々で2,3人の時もあれば、5,6人の時もある。男女とも中高年が大半で、一番多い(約8割)のが65歳から80歳以上までである。一割に満たない数の中に中年の親子連れの10代と20代、30代等、単独で歩く人も30代、40代、50代(私はこの後半世代である)が一割程居る。全てに参加する人は2, 300人程度であろうが、どのイヴェントも全て含めて延べ数的には1000人は下らないだろう。

 

 男性で70代中盤くらいの方と時々ご一緒して歩くことがある。その方はかなり歩き方は早くて、私と共に歩いていても自分はかなり歩幅を早めないと一緒には歩けないくらいである。しかもその方は途中で友人と出会うと立ち止まって少し世間話をしている。私は知人でないので先へどんどん行くと、ものの数分で直ぐ私に追いつき、私すら早くしないと置いていかれるくらいの速さで歩く。

 その方は鳩山町という埼玉県の奥秩父の手前辺りの全く電車の通っていない、しかもバスも一時間に1本あるかないかというエリアで今は(かつては会社員とかをしておられたが)農家をしている方である。

 

 その方とはつい先日、久米川駅(東村山市)から西武遊園地駅(所沢市)迄歩いた時ご一緒したのだが、その方は鳩山町から稲荷山公園駅(狭山市)迄車で来て、どこかへ駐車し、足で今度は所沢迄西武池袋線で行き、西武新宿線に乗り換え、久米川で下車して、そこから西武遊園地迄歩き、そこで西武狭山線で西所沢迄行き、西武池袋線で乗り換えて稲荷山公園迄出て、そこから車で帰宅するとのことであった。

 その駐車した場所が絶妙である。

 何故なら稲荷山公園駅は自衛隊入間基地の直ぐ目の前である。その辺りは当然全く渋滞になる様な場所ではない。そもそも自衛隊等の大きな施設の出入り口のあるエリアとは日本のどの場所でも渋滞だけは避けられる様な立地になっている。そういう場所にしかそういった国防の施設とは作られていない。何故ならアクセスと移動が容易な施設でなければ基地機能が充分ではないから、そういう場所には敢えて渋滞を避けられる様に公園とかが設置されていて、恐らく法的にも売買等が制限されているのだろう。私はかなり頻繁に訪れているが、渋滞であったためしはない。

 その方が東村山から所沢、入間を通って狭山市まで行くのに渋滞になりやすいことを知っていて、敢えて少し手前で駐車して後は電車で久米川駅迄乗って来ていたのだ。しかも帰路は渋滞の少ない基地近辺を通って圏央道や関越自動車道を通って快適に帰宅することができる。敢えて裏道の一般市道を通っても、それ程渋滞するエリアではない。

 

 その方の駐車場所選択を、絶妙と呼ばずして何と呼ぼう!

 

 付記 ウォーキングは大体(その土地、日によって多少異なるが)午前9時~11時迄の間にスタートして少なくも午後2時~3時迄に到着する様に時間制限がある。西武鉄道主催(或いは秩父鉄道主催や、西武と秩父共同開催)のものはスタートとゴールがあるが、JR主催のものはゴールは設置されていない(一応制限時間は設けられているが、厳密に調べたりはしない。尚、ポイントカードはJR主催のものも設けられている)。

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世界の真実Part31

●友達とは少なくとも主体的に生きている人にとっては、お互いにメンタルに憩える相手でなければいけないけれど、同時にお互いに相手から深刻に影響を被るものあってはいけないという鉄則は暗黙にある。相手がどんなに悪辣でどんなに狡猾であっても、そのことでいささかも自分が動じることはないと知っている場合のみ、その者を友とする。芸術家とか文学者同士の純粋な交友関係と言うものもあるが、その場合ですら相手から呑み込まれると思えてしまうなら敬遠していくだろう。10代や20代前半までの友情なら同性愛的な相手の才能に惚れ込み尚且つ凄く相手から啓発され相互に嫉妬する様な親友同士もあり得るだろうが、中年以降では上記の様な惰性的な安心を求める様になるし、それは悪いことではない。

 

●日本社会に限らず、恐らく全ての国家の社会では、会社やどの組織でも内輪的な特殊な事情で従業員の人事が決定されている。それは既に働いている人達同士の事情が常に優先して考慮されるからである。だから常に人選とは公平なものでは決してない。だからこそ逆に政治運営に関しては通常民主主義社会では選挙制度が実施され、せめて政治ではそういう不公平があってはいけないという理念(理念とは一種の願いである)に沿って為されているのである。

 

●インテリ階級の人達は理性主義、近代的大人主義である。これは一つのコミュニティ全体を規定する性格でもある。だからそれはそれで陥りやすい傾向があるのだ。常に理性的であろうとすることもその一つだが、時には破綻を行為に於いて齎してもいい場合すら冷静沈着であることである。実利的な現実対応に対して原則論に陥りやすいのも一つの特徴だ。だから政治家はインテリ的な理性主義や大人主義では勤まらない。官僚達も又インテリ階級の中でも固有の陥穽を持った人達なのである。

 学術では哲学は保守的な学問である。それは決して原則論から外れることがない。だから哲学で思想的価値のある仕事は実はかなり少ない。神学と協働する価値のものも時にはあるが、多くはそのどちらの価値もないものも多い。何故なら専門家の間で完全に閉じた見識であり、それらの営みに対して批評することができる人達が居ないし、そういう厳しい批評家を外部監査的に設けること自体を彼等がしないからである。

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2017年6月23日 (金)

世界の真理Part73 分派していることの意味とは何か?①

●人間社会は物事への考え方や感じ方の違いで、同じ業種でもかなり多くの分派ができる。それは宗教の組織を見てみれば分かるし、学界等も全くそうである。同じことを正しいと思っていても、その正しいと思う脳内思考の回路が異なれば、正しさへの感じ方も変わってくる。

 

●それでもキリスト教の世界は少なくともカトリック(カソリック)とプロテスタントでは合同の会議等も行ってきた歴史がある様だが、ギリシャ正教となると又少し両者との間に距離がある。ロシアが関わっているということもカトリックやプロテスタントの側からすればそうおいそれと話し合いという風にも行かない部分があるのだろう。尤もこのことに関しては宗教メモシリーズで本格的に取り組んでいきたい。

 

●哲学の世界では言語や存在を巡って一つの大きな亀裂がある。まぎれもなく現象学の人達と分析哲学の人達との間である(相互の交流も全く無いとまでは言えないものの、決して盛んではない)。その二つの中間に位置する人達も居るが、それは極めて少ない。と言って分析哲学はそのスタートの時点で数学者のフレーゲが開祖的存在だから、全員が数学に秀でているかと言えば決してそんなことはない。例えば数学の哲学は数学自体を数学者的に理解している人達の集まりではない。ただ分析哲学は証明論とかの、合理的説明をすることに拘っていることは確かで、それは数学者等の取る態度からインスパイアされている。だが現象学者は凡そ、そういう風に合理的説明が何に対しても為し得ることそのことへ懐疑的である。だから表現的な立ち位置を取ることも多い。だがハイデガーは完全な戦後現象学者的でもなければ分析哲学者でもなかった。レヴィナスもポストモダン系列に該当すると考えられている向きには現象学者とされるが、多分に分析哲学的資質もある。

 又、実際に認知科学やコンピュータサイエンスと哲学の交流が仮にあっても、凄く理解し合っているとも言い難い。全てが個々殆ど外部と関わりなく勝手に行っていると言った方がいい。

 

●自然科学でも神経学や生理学は臨床医学的な目的、つまり治癒、病理学的な処方に重きを置くので、同じ自然科学者である生物学者は進化の問題に拘る時ダーウィン以後の多くの理論に拘るのだけれど、その様なことはない。そういうことは二の次である。分類学的な仕事も生物学では多いが、そういうアプローチも神経学者や生理学者が参考にすることはあっても、本筋的に行うことはない様に見受けられる。居たとしても、そういう人は極めて少ないだろう。

 生物学者の中にはコンピュータサイエンス等に精通している人も居る。プログラマーやエンジニアをしながら生物学にも携わっているのだ。その点では神経学や生理学、或いは分析哲学や現象学の人達よりグローバルな視野を持つ人も少なくないとは言える。

 尤も、生理学者や神経学者の列に参画している人でも、言語関係の解析をしている人も居るので、そういった人は多くの分派に同時参画していることはあり得る。又臨床精神医学のプロが同時に神経学へも手を伸ばし研究している人も居る。従ってそういった複数のプロ集団に属す人は研究者の世界では決して少なくはない。

 

●結局、何を主眼にするかで、どんな同じ職種でも、アプローチの仕方から、その仕事そのものが持つ意味合いまでがらりと変わってしまう。それは政界を見ていてもよく分かることである。同じ法案に賛成していても、その法案の通し方への考え、或いはそれを賛成する理由も少しずつどの議員も違う。だから集団とか組織とは常に幾つもの分派が構成されていく様になっている。同じ考えや思想であっても、最終的にはその人となりが持っている固有の人間性も我々は無視できないので、その相性的な問題も絡んで、同じイデオロギーの間でも幾つものグループに分かれていくことは自民党内部の派閥争いを見ても、よく分かる。

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2017年6月22日 (木)

全ての混乱した感情に棹を差せ!

全ての迷い、懊悩を塞ぐな!

自らの迷いと焦燥をごまかすな!

 

存在していることが即闘争だ。

きちんと自らの乱れを知れ!

狂いのない整序を安易に信じるな!

 

創造の神は安心には微笑まない。

元々揺らぎのないものなどない。

 

破綻は一つの自然だ。

破綻した推移自体が神の導きだ。

 

考えずに考えろ!

水に映った幻影に惑わされるな!

 

死へ助走する心の病に耳を澄ませ!

存在していることが一つの決定だ。

あらゆる拒否と拒絶へ憩え!

 

夢はいつも不安と混乱だけだ。

闇の大海原へ運ばれる様に日々を生きよ!

 

言葉にならないことだけを言葉にして語れ!

言葉に直ぐなるものには口を噤め!

 

何か考えた時別の何かは終わっている。

体表で感知することは心の鏡だ。

 

心に少しずつ流れている川は、神が決定したことのなぞりだ。

学ぶ意志は知ることが運ぶ。

為せるものだけが為され、為されぬものは心に浮かばない。

 

混乱という秩序は全てにとっかかりだ。

全ての混乱した感情に棹を差せ!

(了)

2017. 6.19

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2017年6月21日 (水)

世界の真理Part72 言葉・要請・用意他

●人間のコミュニケーションはそもそも最初から完全なる本音などあり得ないし、建前だけでもなく、要するに全て相互に社会や集団や組織等全体の動向に沿った適度に合わせるという意識で成立している。そもそも言語というもの自体がそういう性質のものだからだ。

 

●年収何億と稼ぐ人もいるが、実際はそれは努力とか、その人の意志によってではなく、社会全体の世相からその時々で求められていることに応じている人達だけである。それは只優れているだけではない何かの要請に沿っているということだ。だがどういうことをすれば、そういう社会の要請に沿った仕事ができるか、それなりに誰しも真剣に考えるが、恐らく成功している本人さえ、何でそんなに巧く社会需要に自分が添っているかの理由が分からないということが大半だろう。だが一度成功すれば、その成功者としての生き方に彼等は慣れていくので、それでそれなりの態度をとって、そういう業績に相応しい人としての在り方が身に着いていくということである。

 そこまで成功していない普通の人でも要請に従って生きているという事に於いては変わりない。要請そのものはその都度誰しも変わるが、自分でこういう反応になるだろうと予測できることへ人はそう容易く向かわない。不確実な展開の中で何とか舵を切ろうと奮闘するわけだが、出会いは予測してこなかったことの中から掴み取られる。その掴み取るタイミングが重要であるとは大成功者であれ、普通の人であれ変わらない。

 

●国家とか民族という事は確かにそれぞれの国民で違うけれど、基本的に個人主義ということがメインで全ての社会がその能力に応じた査定をするということはこれからもかなり人類が絶滅の危機に立たされない限り、変わらないだろう。

勿論地球環境の激変で食料危機になって人類が絶滅するという瞬間もそう遠くはないという推測も成り立つ。人類が動物達共々絶滅しても植物と微生物と昆虫は絶滅せず地球上に君臨するだろう。

 

●人は誰しもビジネス・経営であれ農業等の耕作であれ学術であれ創作であれ、少し先の未来を見据えて、その時の為に備えることを仕事的にも普段の用意にしても行う訳だが、それが仮に三年後であり、実際そのとおりに三年後に功を奏したとすれば、その後の数年は空白になる。だからその空白をできる限り短くする工夫を常にしているわけだが、その未来展望に於ける自己の方針やその都度の成否に対する反応が、その人の言語行為、語りやコミュニケーション全体へ反映する。だから或る人の言動を具に観察すれば、どういう未来を思い描き、どういう風な対策を練って、それが巧く行っているかそうでないかが大体分かるものである。思考や苦悩がそういった言葉に反映しないことはない。

 

●用意はかなり先のことを考えてすることと、割りと近い未来に向けてすることとでは質も違う。だからその異なったタイムスパン想定に於ける個々の用意それ自体が或る程度人生の行く末を決めてしまうとも言える。用意の未来への遠さの違いと、その質の違いが或る時点で重層的に組み立てられていることそれ自体がその人の思想なのであり、それが言語の使用の仕方に反映すると考えることには無理はない。自然である。

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2017年6月20日 (火)

宗教メモPart6・思想・哲学メモPart75

●私が宗教メモという題目の日記シリーズを設けたのには理由がある。

 それは私がかなり若い頃から現在に至る迄ずっと欧米の哲学者(ドイツ、フランス、英国、米国、オランダ、デンマーク、フィンランド、スウェーデン他の哲学者のこと)と日本の哲学者との間で同じプロなのに、どうしようもない二つの間の壁をずっと感じ取ってきたからである。つまりその壁とは端的に日本の哲学者と向こうの哲学者とは幼児体験からしてまるっきり違うということに起因するのだ。

 

 日本の哲学者はどんなに早熟な人でもせいぜい中高生になってから欧米の聖典を文学や哲学を独学で学ぶ過程で出会う。しかし欧米の哲学者はおぎゃーっと産声を上げて生まれた時から、ずっと片時もキリスト教文化生活から離れて色々な体験をすることはないということである。

 

 日本は端的に死者供養に関しては仏教圏で、現生ご利益お祓いに於いては神道、そして道徳的にも道教か儒教の文化圏である。そこに欧米やイスラム教の一神教的思考世界はない。従って日本人がどんなに欧米の哲学者のテクストを真摯に読んだとしても、彼等が体験している幼児の頃からの読書経験とか両親とか学校とかから受ける精神的影響は分からないのである。

 

●上記のことに於いて一つは日本社会は教育的見地から言っても内的な世界というものをまず認めない。日本では偉い人という人格が社会でまず用意されていて、その人達が若い人達に向けて言ったことがベースとなる。

しかしここが決定的に欧米と違うのである。向こうでは幼児の頃から内的な世界というものをまず叩き込まれているのだ。それは容認されるということ以上の文化的な強制であり、その好むと好まざるとに関わらず叩き込まれることの中で彼等はそこから離反しようとしたり、依然として訓育どおりに生きていこうと決意したりするのである。当然のことながら、それは彼等が幼い頃から習慣化してきている神と自己との間の対話である。これは彼等には全員あるが、日本人には全く無いことである。この事実は決定的である。

 

従って日本の哲学者は全員非キリスト教徒であり、キリスト教徒が殆どの文化圏で幼児から育ち、学習してきた人達が書いた哲学書を形式的には語学とかを習得して読んでも、彼等が書いた文化的背景を全く知らずに読んでいるのである。だからそこには必ず誤解がある筈だと私は確信しているのだ。

 

●プロテスタントとはマルチン・ルター(1483-1546)が若い頃の幾つかの決定的経験が元になって修道院生活を経て彼が教皇制度と免罪符への痛烈なる疑問から『キリスト者の自由』を書き発表し、それが社会を揺るがす大事件となって、社会的に葬られそうになっているところでザクセン公の保護を受けたりして聖書をドイツ語に翻訳したのだったが、そこがまず原点である。

 

 ルターその人とはその後も波乱万丈の人生を送った人なのであるが、教会権力の腐敗の前で彼がイエス・キリストによる罪の許しだけで、それ以外は一切不要だという思想を打ち立てたことが、後の時代のフランシス・ベーコン(1561-1626)、トマス・ホッブス(1588-1679)、デカルト(1596-1650)、パルカル(1623-1662)、スピノザ(1632-1677)、ライプニッツ(1646-1716)、バークリー(1685-1753)、アダム・スミス(1723-1790)へと綿々と受け継がれ、その水脈の中から例えば宗教権威と文化の癒着を徹底的に批判するかたちで哲学を進行させたニーチェ(1844-1990)が登場したのであり、そのニーチェ自身もレッシング(劇作家・批評家)(1729-1788)、ヘルダーリン(詩人)(1770-1843)、ワーグナー(ヴァーグナー)(作曲家)(1831-1883)から多大のエキスを吸収したのだった。

 

 因みに17世紀初頭に産声を上げた薔薇十字団から発展して形成されたフリーメーソンリーがニーチェ他の哲学者・思想家へ与えた間接的影響も(今迄殆ど顧みられなかった観点なのであるが)無視することはできない。彼等こそ教会と君主制の廃止を訴えた近代以降の最初のムーヴメントだったからである。彼等のスピリットにルター的思想の片鱗がなかったとも言えない。その点も今後考えていきたい。

 

●つまり私が言いたいのは、そういった背景全体への眼差しがなく、ただ書かれたテクストの解析だけしていても、勿論そういうテクスト本体だけから読み取れることを重視する思想もある(例えばプロテスタントの聖書の読み方がそうだし、スンナ派イスラム教徒のクルアーンの読み方がそうである)が、少なくとも上記の哲学者の思想を彼等が真に言いたかったことを理解する為には、書かれた背景をも重視して読み解かなければ危険だと私は考えているのである。

 

 つまりキリスト教徒やイスラム教徒が書かれていることだけを重視するということを日本人が真似をしても意味がないと私は考えているのである。それは率直日本人にはできない、と断言していいと思う。

 

●ニーチェの思想の根拠や由来を知るには少なくとも宗教改革とは何であったかを知らなければ為し得ない様に、当然宗教改革を知るには、それ以前のカトリックや、もっとそれ以前の原始キリスト教迄遡るキリスト教史を知らなければいけないのである。勿論専門的に全てを理解することはできないが、少なくとも向こうの人達が哲学書を読む時に最低限発想している様なレヴェルくらいは理解できる様に知っておく必要があるのである。

 

 従って今後本シリーズ(宗教メモ)では数多くの解説書や文献を利用することとする。又文学・宗教メモを宗教メモ以外に既に今年スタートさせてきたが、そのアプローチからも宗教聖典とキリスト教活動の実質への考証も加えていこうと考えている。

 
 付記 次回以降、『カトリックとプロテスタント』(ホセ・ヨンパルト著、サンパウロ刊)、『カトリックとプロテスタント どこが同じで、どこが違うか』(徳善義和・百瀬文晃編 教文館刊)、『日本キリスト教史 韓国神学大学講義ノート』(澤正彦著、キム・ヨング訳、草風館刊)、『聖書の呪い』(山内雅夫著、光文社カッパブックス)等をフルに利用して、欧米哲学思想を啓発したキリスト教宗教文化の実質から考えていきたい。

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2017年6月19日 (月)

存在忘却とは何か?ハイデガーが考えていたことに就いてPart4 ハイデガーにとっての神とは何か?①

 ハイデガーは『存在と時間』では神という語彙を登場させていない。だがその文章を詳細に解析すると、やはり決定的に神というものも重く伸し掛かっている。そういう角度から切り込んだ論評は今まであまりなかったが、今後は重要性を増すだろう。

 <「ヒューマニズム」について>(パリのジャン・ボーフレに宛てた書簡)Brief an Jean Beaufret, aris(渡邊二郎訳・ちくま学芸文庫)ではかなり神に就いて直接書かれている。それは別シリーズで扱うこととして、今回は<芸術作品の根源>Der Ursprung des Kunstwerkes(関口浩訳・平凡社)のなかの神という語の出てこない文章から考えてみよう。

 

 真理はそれ自体を作品の内へと整え入れる。ただ世界と大地との対向性という在り方での、空け開けと伏蔵との間の闘争としてのみ、真理はその本質を発揮する。真理は世界と大地とのこの闘争として作品の内へと整え入れられることを欲する〔wollen〕。この闘争は、ことさらに生み出されるべき何らかの存在するものの内で、除去されたり、またそこに単に格納されてはならない。そうではなく、そのものから開示されなければならないのである。したがって、この存在するものはそれ自体において闘争の本質動向をもたざるをえない。この闘争において世界と大地との統一が闘い獲られる。世界は、それ自体を開くことによって、或る歴史的な人間存在に対し、勝利と敗北、加護と天罰、支配と隷属を決定する。立ち現れる世界はいまだ決定されないものと尺度をもたないものとを輝き現れることへともたらし、そのようにして尺度と決定性との伏蔵された必然性を開示する。(〔三 真理と芸術〕から)

 

 空け開け等はハイデガー用語の中でもお馴染みであるから解説の余地はないが、重要なのは最後の赤字に記した部分である。とりわけ黄色で囲った部分はキリスト教的である。元々欧米の哲学史自体が宗教倫理からの呪縛という精神構造を欧米人が不可避的に背負って生活していることその事への反省から生み出されてきている。ギリシャ発の哲学は、だがキリスト教誕生以降ずっとユダヤ経由の倫理思想から洗脳されてきている。洗脳という語彙は良くない語彙だが、それは事実だ。キリスト教倫理の普及自体がヨーロッパ史だから、それは運命的なことである。ギリシャ精神はそのキリスト教倫理の呪縛の中から見出されてきた。

 パウロ、フィロン、オリゲネス、クレメンス、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、ダンテ、ニコラウス・クザーヌス、マルチン・ルター、ジョン・カルヴァン、エックハルトといった系譜が不可欠に全ての哲学へ投射されている。その一つ一つの解説することは今できないが、いずれも哲学史の精神へ大きな寄与を齎してきていることだけは確かなのだ。

 加護と天罰とは神による恩寵と、戒律を破りし者への戒めという意味合いだし、モーセ以来のユダヤ教まで遡る一つの思考順路と言える。悪魔の折檻を受けるという意識とも共通したものである。

 ハイデガーの論述では神そのものを言葉に出して語られる場合、極めて哲学的に解釈し、論理的に説得させようとするが、却ってその語彙が使われていない場合に、より宗教戒律的思考順路が露呈するということは、よくあることである。

 ハイデガーが存在忘却と言って論説する主旨の中には、或いは伏蔵と彼が言うことと空け開けされたこととの対比、露呈されてあることとそうでないことの対比の中には、宗教戒律的思考順路が無意識に表出してしまっていて、彼の神という語彙そのものの論証とは異なった伏蔵があるのかも知れない。

 神そのものの論証には伏蔵でなく、一つの空け開けされた、露呈された論理そのものの構造があるが、神という語彙を使わずに上記の文の様に示される場合、伏蔵されているのは習慣的な思考順路という意味で文化的である。文化的なることから哲学者も逃れられない。どんな哲学論文も哲学的論理だけで書き進められるわけでない。それが可能なのは数式だけであり、数学論文にするしかない。尤も数学論文も数式以外の解説文は、文化的なコードを使用する以外に手はない。

 だからハイデガーの言う伏蔵とは、それ自体不可避的に付き纏う一つの文化的思考順路自体の運命的な我々への立ち塞がりのことなのだ。それが正しいとすれば、彼の言う頽落とは、その民族慣習的な思考順路だけに追随してしまうことそのことでもある。だが、それを当然百%除去することは我々にはできない。どんな天才でも特定の民族として生まれてくる限りそうである。だからそれは一つの運命的な枷なのであり、それ自体は自己にとっては誰でも愛着の対象であるが、別の意味では当然克服対象でもある。

 ハイデガーの言う頽落や存在忘却とは、存在忘却から言えば、明らかに存在者の固有の現象へ着眼してしまうことそのことで、存在者の存在自体へ目が向かわないことであり、頽落はその存在忘却自体を一切考慮しなくなってしまうことなのだ。(つづき)

付記 次回は神という語を直接使っている文章箇所の解析をしてみよう。尚上記の文の前半の闘争の原理の部分は、明らかにニーチェ<ツァラトゥストラ>命題経由の思想と言える。ニーチェからハイデガーが受け継ぐ要素はかなり多い。

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2017年6月18日 (日)

人類を支えている精神の作用とは何か?Part1 自嘲的態度になれることの効用から考えてみる

 哲学者が考えていることは通常、通り一遍の真実ではなく、恐らく常に懐疑的な眼差しによってであるだろうが、同時にそれはそういう風に斜交いに物事を見つめることで、現実や真実自体を暴露して楽しんでいるわけではないだろう。恐らく彼等も又(詩人や作曲家や画家がそうである様な意味で)現実や真実への深い愛もあるに違いない。

 つまりどんな哲学者も批判している当の事態を完全消去させようと考えているのではないということだ。それは例えば劇作家や小説家がある悲劇を描く場合でも、そういう風に現実にことが運ぶことを拒否したいから、そういう悲劇を描いているのではないことと同じではないか?

 

 人を愛することは愛する人当人が正しいからではないし、又愛することが適切であると思えるからでもない。世界とか現実自体も同じことではないか?

 だからシニカルにものを見たり、ペシミスティックにものを見たりしても、そういった事態を引き起こしている全てへ絶望だけしているのとはきっと違う。

 

 つまり批判とは批判する事態を完全に消し去るべきだというかたちで為されているのではないということだ。

 だからハイデガーやレヴィナスが語っていたことは、どんなに辛辣な批判的論述に於いても、そこで批判されている事態を憎んでいるというのとは違った。寧ろそういう愚かさがあるということ、それなしには生きていけないという批判的な肯定なのであり、運命的に我々自身が何に対しても不完全であるということの追認であり続けた。

 つまりもっと簡単に言えば我々は神ではないということである。だから逆に不完全性そのものである我々自身を理解するためにも、神は一定程度必要であると考えていない哲学者は居ないに違いない。その点では文学者全体にも同じことがきっと言えるに違いない。

 

 ハイデガーが言う頽落とか存在忘却もそれが無かったならもっと良くなると言っているのでは決してない。確かに存在忘却することは、そのことによって我々は哲学的人間としては不十分であろう。でも我々は四六時中哲学的人間でいられるわけでもないし、その必要もない。四六時中完全に教育者とか、警察官とか、裁判官などという人が居たなら狂人である。同じことは詩人や哲学者にも言える。

 だから全く頽落していない人は正常では少なくともいないし、そういう狂人では通常我々は存在できない。頽落し過ぎていることは問題であるだけで、頽落していく傾向は誰しも持っている。と言うことは、それでもそれを敢えて哲学として彼が取り上げた理由は、そういう傾向が我々にはあって、だからこそ哲学的人間も成立し得るのだし、存在忘却は、それ自体言語的な概念的思考があるから喚起されている事態でもあるが、実はそれは只結果的事実であるに過ぎず、寧ろ我々は存在忘却する一つの可能性を所与されているからこそ、逆に言語を思考と意思疎通のために生み出してもいるのだ、と恐らくハイデガーが言いたかったに違いないと思われるのである。

 

 だからそのことは頽落でも言えて、そういった本末転倒になっていく傾向を誰しも持ち合わせているからこそ、我々は哲学的反省意識も持てるのだし、そこから存在忘却同様、頽落した見方へ一定の修正をしていこうと意志し得るのである。

 だから哲学者の考えてきたことは全て神ではない我々のことに対する一つの提言的価値のあることだけである。その意味ではここでもバイロン等の詩人が自己人生の篭絡の為にするのではない、或る真摯な精神状態の告白でもある様な矛盾した行動と決意を示す様な詩を書いていた様な意味で、人類には一つの自己嫌悪にも自虐にも似た自嘲的態度というものが真に必要なのである。自己に対して凝視する姿勢があるからこそ、いい子ぶったことを人は一つも聖典にも書かず、殆ど性悪的な眼差しからだけ記述してきたのだ。

 それは当然全ての文学に言える。矛盾した存在であるが、どんなに努力しても我々は我々自体の存在の矛盾を解消することができない。だからハイデガーの言う存在忘却も頽落も全て我々がその存在矛盾を解消することができないということを肝に銘じるために為されているのだ、と考えた方がいい(サルトルが<存在と無>の前編で示した自己欺瞞もそうである。それを無くしたら我々は狂人になるしかない。そういった人生生活上での矛盾は、一つの可能性でもあると彼は捉えていた筈だ。ハイデガーは後年サルトル批判もしたが、そのことは又別の機会に考えてみたい)。

 

 だから先程も述べた様に我々は我々自身が不完全で愚かであるが故に誰かを愛するのであろう。完全で愚かさが一つもないとすれば、それは神に近いということであり、我々は誰かを真剣に愛すという気持ちになれるだろうか?

 もしそれができるとするなら、それは神に近い人だけであろう。

 

 無神論も実は科学全体の合理性の維持のために、我々が宗教的矛盾、それは多分に虐待されたり差別されたりしてきた人達への慈しみから発している一つの心理なのであるが、それを科学の前に持ち出すと解決できるものもできなくなるから考え出されてきた筈なのであり、その実在として神は存在し得ないと考える思考や認識が、実は、別の場面では人自身が完全な存在ではないということを知る意味で哲学的にも神を念頭に置いて思考することは無意味ではないと多くの哲学者は、たとえ神という語彙を敢えて使用しなくても考えてきたであろう。神という語彙をよく使うから、そういう人間の不完全性を示しているとは言えないから、敢えてそう言わなくても、神の完全性ということを前提に現存在の不完全性を示すということを彼等はしてきた筈である。

 だから科学的合理性の前では神を否定する必要があって、そうしても、同じ人間が信仰心を持つということも全く矛盾してはいない。自然科学者でも生物学者のマイケル・コリンズは<ゲノムと聖書>というテクストも書いて、自らの信仰を告白しているし、哲学者のマイケル・ダメットはキリスト教徒だったし、そのことは彼の哲学的思考の論理的整合性とは別個に両立可能だったと思われる。

 

 今回は全く計画性なしに、長々と書いてきたが、要するに我々は自己矛盾していることを承知で全ての行為をしてきているのだし、そういった矛盾を抱えて生きているということは全く不思議なことでもないし、恥ずべきことでもないということが言いたいのである。そういう風に矛盾していなければ我々は科学も持たなかっただろうし、哲学も文学も芸術も持たなかったであろう。

 

 又明日から具体的なことを考えていく日々が始まるが、今後考えていくことの上でも、そういった神ではない存在としての我々こそが実は宗教も哲学も科学も文藝も持ってきたのだ、そこに何かある、ということだけを今日は言っておきたいのである。

 自然科学もそのテクノロジーも異様なる進化を遂げてきているけれど、それは最も単純な楽をしたいという我々の率直な生活上での要請に我々自身が素直だったからだけである。しかし同時にそのテクノロジー自体の脅威をも我々は理解できるし、そういう風に反省的に人類文明全体も見ることもできる。

 そのことも一つの大いなる矛盾であるが、進歩や進化をいいことだと促進させようともする同じ我々がそこに脅威も感じる(例えばAIに対しても軍事テクノロジーに対しても、であるが)という矛盾を我々は抱えて生きている。

 その様に一つの事態に対して反省的に見る力はハイデガーやレヴィナスの様な天才的哲学者だけでなく持っている。その一つの自嘲的態度には、きっと何か凄く大きな意味がある(きっと科学的にも哲学的にも文学的にも)。そのことをずっと考えていきたいのである。

 

 つまり人間として生まれたなら誰もが普通に考えることが最も重要な何かだと思うのである。そしてどんな世界の天才も、その当たり前のことを他の人には考えつかない様な方法論とか流儀とか、示し方で行うということなのだろうと考えている。

 

 又明日から私の思索と詩作と思考と創造の旅が始まる。

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2017年6月17日 (土)

My Point of View in FB and report of my tweet message to US musician friends Part9

My point of view to world FB tweet

 

Now worldwide so complex matters among so many nations are working and it makes all of us anxious and melancholic.

Surely any nations hold so difficult emotion to own nation as bilateral relation.

At this now situation I think that language or masterpiece of own language is innocent.

I’m very interested in language itself, then I learned many languages, English, French, Spanish, Russian, Hangul, Chinese, namely their sound and structure of grammar, or all of mixed together outstanding effect, are so beautiful.

Any great literature, philosophy, scripture, sutra originates in this matter.

Arabic, Hebrew, Greek all of language has own characteristics and sound and intonation, of course letter too. It’s each so beautiful.

 

Language and music is on the same base in human-being, I infer.

Music and language is probably for our ancestors, knowing our life and its end as time limit, then our ancestors might have been conscious that our heartbeat is the sole biorhythm and its intentional repetition as copying the sound is music and in another result language.

At one meaning very systematic unit cognition, mathematics has progressed to nowadays and cognitive science crossed to it and computer science or programming language which includes compiler has developed.

Language, music, mathematics as number study are all method to use unit itself. How to see unit has diverse evolution for human-beings.

We should regard all of them our own as shared and common legacy, for example Tibet music with sutra has so subtle wind sound as air tangible sensibility by Tibetan. It can be seen to any races, any nationalities, any tribes.

Latin music, African music, Indian music, Middle East music are all our shared and common legacy to human-beings.

 

At one angle spirit and heart and mind all of them make a triplicate ensemble, in this fact our activity as social, mental, spiritual, has meaning of being as ontological signification.

 

Actually our crisis of human-being is so sensitive and twisted thing and no so easy to solve, but we should be in wide-opened vision, I think, and music and language is so effective unit and human's arm to break through the crisis.

 

Impression to Joss Stone I put a spell on you

 

Her voice and way to sing a song makes our generation people remember Janis Joplin. She was so impressive Rock singer. Blues feeling is forever, it's beyond age difference, I think so.

 

My Japan life

In Japan in sightseeing visitors the most is Korean, next Chinese. Probably business visitors are the same.
According to my experience so skillful Japanese speaker as sightseeing object is almost Chinese, not Korean of course Korean people who live in Japan is so skillfully speaking Japanese.
I
ve never spoken to Russian, Mexican, Arabian, New Zealander, Viet-Names, any other important nation people are at least a chance Ive held, of course, Finnish, Icelander, Norwegian so many people I have never spoken to.
Probably American is third visitors in Japan, French, German, Dutch, Italian are next to American as Caucasian.
Filipino people who live in Japan is next to Chinese or Korean. Filipino visitor to Japan is so many, and Thai is also so many.

all of tweets is upped at 6.16

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2017年6月16日 (金)

アメリカ人ミュージシャン達とウェブサイト上で交流して分かったこと

 最近次々とアメリカ人ミュージシャン達と交流することとなった。サイトの紹介や動画のシェアなどである。そこで端的に半世紀以上日本で暮らした一日本人から見た日本の印象やアメリカの印象に就いて触れてみたい。

 箇条書きにして示そう。

 

●日本には神はない。権威としての天皇制は神への尊崇ではない。勿論ユダヤ教でも神が民族的結束を促す装置から出発していないとは言えない。だが最終的に論理的に神が普遍的意識から引き出されているとは言える。天皇制は血統的な国家的象徴であり、それは外面的に礼節を示す意味合いが強い。だから日本では内的に苦悩するということが社会全体からは許容されていない。だがその点ではキリスト教徒の最も多いアメリカも、それ以外のフィリッピンでも、イスラム教圏のインドネシアでもマレーシアでもイランでもイラクでもサウジアラビアでも(相互に政治的には対立する間柄でありながら)基本的に内面の悩みという事を仮に外部に持ち出しても、決して罪なことではないのだ。この点では一神教宗教伝統的なメンタルなマナーがあると言っていい。

 

●だから裏を返せば、神を放逐するという意識で成立しているのが日本民族であり日本国家の体制であり、精神的憲法だと言えよう。だが現代社会では海外の情報から知の体系の全てが容易に日本にも当然のことながら入ってくる。そこでは確かに無神論的なメッセージも多いし、そもそも神不在の日本を尊く感じる海外の人達の意見もある。しかし無神論は一つの立派な宗教なのであり、神を実在として認めないというだけで、理神論的意味合いも強いのだ。

 

●或る部分、一神教的神の存在への感性的・理性的確信(前者は身体感覚的、後者は倫理的直観と言える)こそが、私達個々人の心に主体性、個人主義を育てる。尚身体感覚的感性はハイデガーにはある。彼は言葉と身体が合致した一つの原初的統合が前提されている。又倫理的直観はレヴィナスにはある。この二人を異なったタイプの一神教的神の存在の規定者として考えることには意味がある。

 

●イエスはキリスト教徒にとってはイスラム教徒にとってのムハンマド同様、実在した人であるが、その生き方と死に方は価値として実在を超える意味がある。それは神人一致した特例なのである。だからユダヤ教のヤハウェやイスラム教のアラーといった絶対神が人格と交差したところに彼等の信仰の源がある。

 

●日本人同士のコミュニケーションは明らかに神道的マナーである。それは横の協調性を支持しているからだ。其処で抜け落ちるのは個人である。つまり我々個々は異なった祖先を持つ。その意識は亡き祖先達の魂である。寄り合い所帯としての日本ではその縦を隠蔽することで、生者の利益を優先させて、完全に個をしまい込む流儀としての横関係の重視から、現生ご利益主義を奨励してきた。それが天皇制の本質である。だから個人主義とは自己の祖先を念頭に置いた自己使命への対話なのである。そしてそれは死者を排除する神道的マナーでは凝視し難い。

 

●仏教、道教、儒教に一神教的神はない。だが仏教には固有の祈り的精神がある。道教や儒教にはそれはない。祈りより実践が重視されるからだ。仏教は中国由来ではないし、南アジアから東南アジアへと波及した宗教なので、必然的にその放浪の過程で色々な変形も来してきている。日本に到着した時点でもそうである。多神教的文化の中でも神との出会いは可能である。それは念仏でも読経でも精神統一的な実践性の中で可能なのである。それは恐らく現代の欧米人とも共有し合えるものではないだろうか?

 

●日本人同士で(そこには中国人や韓国人等同じ人種の人達も入り込めない)閉じた思考をしている限り、アメリカもだし、他の欧米諸国、東南アジア諸国からも南太平洋諸国からも感性的には置いていかれるだろう。輻輳的な地点にあるという意識を日本は持つべきであり、それは外を取り込むことであり、排除することではない。隠れキリシタンを弾圧した時代の負の遺産を繰り返すべきではない。それは右翼・左翼、コンサヴァ・リベラル双方へ言えることである。

 

 付記 或る部分世界で一人くらい日本人なのに、日本人の大半が素晴らしい美徳とする部分を貶すバカな人間が居ても、そのことで日本国家や日本民族が崩壊することなどあり得ないだろう。だから今後もこうした記事も続々と書いていきたいと考えているのである。

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Report of my tweet message to US. musician friends Part8 with my tweet in FB

B. Great to meet you! Hey I'm Bruce, a singer songwriter in California. What kind of music do you listen to?

J. Nice to meet you, too.

B. Thanks for sharing. Welcome to our “Bringing People Together Through Music Movement”. I like all kinds of music. Do you have some favorite music artists?

J. Many kinds of music attract me, in old days of my life, The Beatles, Eric Clapton, Pink Floyd, British Rockers, or the US band for example Chicago, Steely Dan, Eagles, Ben Folds Five or so, but in long span, Bob Dylan, or contemporary fine music for example, Terry Reily, Rou Harrison, Henry Cowell, attract me and enchant me. All of ethnicity includes Middle-East, Africa, India, South-East Asia, Middle and South America are the target to listen to. After all, fusion, crossover is the best. Shakira is also my favorite. Bob Marley and contemporary hip-hop musicians, Capital Steez, Joey Badass, in the US are also my favorite.

B Thanks for sharing Jun. I can see you really appreciate music. Welcome to our “Bringing People Together Through Music Movement”. All Music has always fascinated me too. I love all styles and cultures of music. I think you will enjoy my "Redwood Coast Sound”, Uplifting Soulful Rock Country Rock Blues on radio worldwide. I’m happy to send you a link to four free downloads of our popular songs. Just let me know and I will send it!!

 

impression about

With my impression of youtube animation and songs by TOMMY CASTRO & the Painkillers @ Montreux Jazz Festival 2015 

 

This band's sound has so many elements for example Stevie Wonder, Jeff Beck, Allman Brothers Band, namely many kinds of music taste they take in their tunes. It' so traditional style Rock Band but this greedy stance to join many things together is so fascinating to me, actually so.

 

●Just as my opinion or impression, in Rock or Blues music the most appearing phrase is Never let you go, and, Please set me free. It’s not so far to actual lyrical matter.

 

This fact is caused from Christianity bound and consciousness as wish to be free from it, simultaneously be bound to it so heavily, it’s a little bit ambivalent feeling but it’s so honest it.

 

In Japan, instruction like as Christianity is none, but some instructive many phrases mixed together with Confucianism and Shintoism and sometimes Taoism exist.

 

Anybody tries to be free, but doing so needs some steady way to go through and do with, it’s probably a social rule and moral practice, but after setting those mind we should be arbitrary and free to go anywhere.

 

Probably Never let you go as phrase is shown to be sure that matter we shouldn’t let go is lover or beloved things to myself and myself itself.

 

Ana Popovic or Samantha Fish or any other contemporary singers and musicians are in same consciousness as I narrated.

 

Meeting to other beloved things are at the same time of it, is so

 

private and individual thing to myself and the God we can meet is actually matter which we do in mind, and this encounter is very rigorous decision and just because of it, it’s so precious.

 

All of those things together, we are apt to listen to the Rock or Blues music in using the phrase Never let you go and Set me free.

 

So Please set me free, is cry for claiming individual pray time and moment to deliberate truth deep inside of mind.

 

 

 

 

●We should go forward. The Past myself is none now.

 

Set me free as phrase is probably to a cry for myself who is so bound to the past myself.

 

We always change and have a right to change anytime.

 

J. Nice to meet you, too.

B. Thanks for sharing. Welcome to our “Bringing People Together Through Music Movement”. I like all kinds of music. Do you have some favorite music artists?

J. Many kinds of music attract me, in old days of my life, The Beatles, Eric Clapton, Pink Floyd, British Rockers, or the US band for example Chicago, Steely Dan, Eagles, Ben Folds Five or so, but in long span, Bob Dylan, or contemporary fine music for example, Terry Reily, Rou Harrison, Henry Cowell, attract me and enchant me. All of ethnicity includes Middle-East, Africa, India, South-East Asia, Middle and South America are the target to listen to. After all, fusion, crossover is the best. Shakira is also my favorite. Bob Marley and contemporary hip-hop musicians, Capital Steez, Joey Badass, in the US are also my favorite.

B Thanks for sharing Jun. I can see you really appreciate music. Welcome to our “Bringing People Together Through Music Movement”. All Music has always fascinated me too. I love all styles and cultures of music. I think you will enjoy my "Redwood Coast Sound”, Uplifting Soulful Rock Country Rock Blues on radio worldwide. I’m happy to send you a link to four free downloads of our popular songs. Just let me know and I will send it!!

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2017年6月15日 (木)

21世紀の音楽の方向性を決定づける要因とは何か?Part1ヒップホップとコラージュ、読経から読み解けること

 最近ツイッターで知り合った或るアメリカ人のミュージシャン(夫婦でロス拠点の音楽活動をしている。シンガーで作曲家である)から誘われFB上で彼等主催のサイトに投稿する様になった。そこで色々なアメリカ人の友達達がアップする動画で最新のアメリカ音楽に接する様になった。

 

 一つダウンロードすると、次々とそれに関連する音楽が楽しめる。そういった意味では情報が拡散するのが容易なので、日々新しい情報摂取によってどんどん自分自身の感性も変わっていく、そういう時代に我々は生きているのだな、と思える。

 

 確かにディランもビートルズも素晴らしい。だが彼等は今も活躍するが、やはり基本は20世紀の精神である。しかし最新のミュージシャンは多く20代で、既に21世紀生まれという人も少なくない。最新のムーヴメントに関わる青年達は多くが20世紀末に生まれ、21世紀に思春期を過ごした人達である。

 

 さてこの様にアップすることもダウンすることも容易な時代だからこそ生み出される思想と技術がある。それは情報を誰にも分け隔てなく(職業や階層や国境を容易に侵犯して)供給する、情報共有がたやすいという固有の性格が現代社会にはあるということだ。

 

これはディランやビートルズの全盛期には無かったことである。勿論彼等は天才だから、そういった現代社会の行く末を見据えて、それを予感させる作品群を既に20世紀に我々に送り届けてくれた。しかし現代21世紀の若きミュージシャン達は、そういった一握りの天才のディヴァイスや配慮に啓発されて音楽の知や感性を身に着けている訳ではない。スマホや様々なツールやサイト、ディヴァイスから自然と身に着けているのだ。

 

 中でも黒人のヒップホップはそもそもボブ・マーリーによるレゲエを発信源とする音楽なので、よりエスニシティを際立たせている。そこにはアフリカ発の音、アメリカならではの音、カリブやジャマイカ発の音、更にそこに東南アジアや中東やインドのテイストも加わる。そこでは民族的多様性が一挙に一曲の楽曲に凝縮されている。

 ヒップホップ、ラップには固有のリズムと歌詞を一つ一つは際立たせないで、羅列させて、重要なこととそれ程重要ではないことが等価に示されるメソッドが採用される。つまり真剣に考えて捻り出された観念や真理と、その場の思い付きとが共存して、それに格別の差別化的な配慮を敢えて消去させるメソッドがメインストリームとなっている。だからクライマックスを敢えて持ってこない仕方なので、アンビエント・ミュージック性も多分に持ち合わせている。

 又読経的に歌詞を読んでいく発声なので、東南アジアのチベットのラマ教とかマントラとかの感性も持ち合わせている。それでいて歌詞内容全体はレゲエを根幹とする精神がある。随所にオールドソングのリミックス等も仕掛けていて、サウンドコラージュ風の(それはビートルズも得意だったし、60年代の多くのアーティストが行っていた実験でもあるが)アレンジも多分に見られる。

 

 纏めると、平板にして歌うことで特に重要箇所を敢えて暈して歌うという読経性には精神の鎮静化を図る意味があるし、そこで醸し出されるアンビエント・ミュージック的性格が歌でありながら伴奏でもあり、BGMでもある様な多義性を全面に出しているということができる。又それでいて全体的に歌詞を作るモティヴェーション的にはボブ・マーリーを発信源とするレゲエ精神を多分に持ち合わせている。そしてそれを裏付ける様にビートルズやフーやピンク・フロイドも行っていたリミックスやサウンドコラージュ風の演出も施し、彼等へのオマージュとしている。そういった全体的傾向が読み取れる。勿論サウンドコラージュ的な実験はテリー・ライリーの様な古典的なタイプの現代音楽作曲家兼演奏家も行ってきたことである。だから彼等黒人ヒップホップミュージシャンの試みは今後の音楽界全体の未来への方向性を示唆している。つまり音楽主題とそのモティヴェーションの示し方というメソッドの問題と、前時代から受け継ぐ精神の問題、そしてワールドミュージックの持つエスニシティの融合の問題、そして現代音楽等の純音楽とポップスや大衆音楽全般との垣根の消滅等が彼等の実験的な発信によって方向づけられると考えられるのだ。

 
 私がそう言うものを感じ取れるアーティストは1993年生まれで2012年に19歳で自殺した天才ヒップホップシンガー・ミュージシャンのキャピトル・スティーズ(21世紀のボブ・マーリーと言っていい)が先駆けている。更に彼から多大に啓発された彼の意志を受け継ぐ意識で音楽活動をしているジョーイ・ベイダ1995年生まれ)がソロやプロ・エラ他のユニットを通して発信している音楽がそれに該当する。

 

 付記 実は仏教諸派の宗教学的なモティヴェーションは20世紀のロックやレゲエ、そしてそれら全てを咀嚼した21世紀のヒップホップやラップを先駆ける精神があったのである。つまり宗教自体が当初は現体制への反逆精神のものだったのだ。それを逆に現代のミュージシャン達が証明していると読み解くこともできる。尚、上記二人を中心とする動画は私(olivlove)のツイッター上で容易にアクセスできるので、是非ご視聴して頂きたい。

 

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2017年6月14日 (水)

世界の真実Part30

 

 現代社会固有の真実

 

●これは20世紀以来のことであるが、テロ・交通事故、人の死等を報道で我々は知るが、報道の存在理由とは、言ってみれば、今これを見ている貴方は、被害者にならなくてよかったですね、という安心量獲得を視聴者へ提供するということである。結局報道というもの自体が生者だけが中心で死者とは世界そのものにとって他者なのだという主張そのものであると言える。従って報道は宗教的ではない。寧ろそれと常に正反対の意図を志向する。

 

●文字情報がより優先される時代である。それはウェブサイト利用が加速度的にそう変化させている。人々は何かを肌で見て感じ取る以前にまず、情報として摂取するという習慣となっている。体験はその後でいいというわけだ。

 

 感じ取る以前に「読み」ということが重要だとウェブサイト利用する全ての市民が同意している。「読み」とは自分と直接関係があるか否か、社会全体にとってその情報がどれくらい重要かという査定である。

 

 これはハイデガーが頽落と呼んだことの一つの典型的な現代社会の実例だと言える。21世紀は20世紀より益々そうなってきているし、それは止むことはないだろう。

 

●最初の●は20世紀以来のことだが、それが個人でアップして動画も中継も配信できる時代なので、より二番目の●と動画の共存という事に大きな意味を生じさせる時代になったと言える。そしてそれは多分に語彙的である。語彙選択の適切性こそがアップ配信時代に求められていて、それに全ての市民があざとくなっている。にも関わらず日本では語彙の適切性より、大勢の人が使う語彙を援用しようという意図が強い。言い回しや語彙の組み合わせも一挙に変化して皆右に倣え式であるのは確かに日本の特徴だ。それをLINEが促進している。だが、それは日本だけのことであり、より多くの国々で利用されるSNSではやはり語彙選択の適切性は重要な意識となってきている。アメリカでもどの国でも日本以外はそういうことは多くが気を使っていることである。

 

テクノロジーは一度進化してしまうと、前時代に戻ることだけは決してない。今より不便な状態へ戻ることは決してない。

 

 そのことも実はハイデガーが頽落と呼んだことの内の一つなのである。それは別シリーズでじっくり取り組んでいきたい。

 

②太古からきっと変わらない人類の真実

 

●人は信用している人の言うことと異なり、そうでない人の言うことは必ず懐疑的意識で聞く。権力・権威の中枢に居る人は特にそうである。勿論人格的に陶冶されている優れた人は別だが、さしてそれだけの器でない大勢の社会的地位上位者はそうたやすく人を信用しない。また人を信用し過ぎる人はその地位まで上り詰められない。

 

 刑事や検事は犯人や被疑者へ、教育者は生徒や学生へ、弁護士や検事は被告へ、精神科医は患者へ、信用など決してしない。それが出来る人は確かに全く居ない訳ではないが、極めて少ない。そもそもそういった関係は対等ではないからである。強い立場とそうでない立場の者同士の関係では、従って建前的に相手と接しなければ足を掬われると言える。

 

人は余りに性善説的な観念を前提にして対人的態度をとると、その人には決してついてはいかない。聖人的息苦しさを感じ取ってしまうからだ。信用され過ぎるのも、信用し過ぎるのも、そういった堅苦しさを相互に共有させてしまう。その点でも建前的に接するということ、建前を度外視して接するのはより親密になった後で、である。

 

善は進化し難いが、悪は進化しやすい。それは不正ソフトや振り込め詐欺の方法は進化しやすいが、それを取り締まることはそれ程ではないことからも、よく分かる。ウィルスの進化はウェブサイト上では決定的に、それを除去する方法よりも早い。除去する方法やソフトが不正を完全撲滅することへは容易に追いつけないことからも、それは明白であろう。武器や軍事的テクノロジーの進化の速さを見ても、それは分かる。

 

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2017年6月13日 (火)

Report of my tweet message to US. musician friends Part7

Tweet of impression of Enya song

 

Enya is Irish musician but Caribbean taste its song holds, she has unique talent to take her music in so many elements from other area. It's fun.

 

Listening to Dylan's the newest album, I feel relaxed. Young musicians’ tunes are exciting, but all of them aren’t so ones which can be listened so relaxed. Both types of tunes are needed, but superior creative masterpiece also is needed so relaxed atmosphere. That device is indispensable in music, at least for listeners.

Not to mention of it, its performance is not so easy for creators, but it is a mission for them, probably also for poets, novelists etc.

 

Enya is also performer of relaxation in music, it's so valuable.

 

Today’s idea

Its my honest impression to worldwide phenomenon, very many nations are in enthusiastic nationalistic mood, namely ethnic sympathy as the same race, same tribe, only in injecting vision to same direction, its consciousness is almost same destined so many people hold in mind.💛
In Japan, Japanese have so strong consciousness with racism, and ethnocentrism but its truth is never awoken by many people, now concerned to amendment of constitution, nationalistic argument is busy. In historical meaning, it is so nessesary. But being only serious, it would not transport good effect to this country future.
the US. holds diversity of race, ethnicity and thinking and religion.
But in the US. some kind of division rises, the news reported assorted things, and we can get to know only with them.
, it is so necessary.  historical meaning, it is so necessary. But being only serious it would never transport good effect to this country future.
The US. holds diversity of race and ethnicity and thinking and religion. But in the US. some kind of division rises, the news reported assorted things, and we can get to know the situation only with them.
Surely anxiety to the future is spread to Japanese too, of course North Korea problem is not so small, probably not only Japanese but also to many countries citizens.


Surely anxiety to the future is spread to Japanese too, of course North Korea problem is not so small, probably not only Japanese but also to many countries citizens. 💘
But just in this situation, we should hold mentality, as individual happy feeling and idea to blow off melancholic imagination. 💗
Unexpectedly black joke is needed nowadays in social mood.
So as to say, it's so difficult to express brightly.
But let's enjoy its expressive game together.
Depressive feeling is probably so universal emotion or mentality beyond the border or nationality. 💓
Then joke or parody is so precious nowadays.
It neighbors to philosophical idea or rhetoric idea.
Words play for instance mother goose tackled in traditionally in the UK.
In Japan so many words game play for example Haiku poem or so.
I'd like to offer good idea in this site someday intuitive mind goes down. 💛
 
Homage to Chuck Norris
He is so great. I watched his movies including co-starring with Bruce Lee. Recently his activity I am not familliaw with, but hope that he will be active forever.
Strong muscle and hard jump or moving toward another fighters, so cool!
 
To Chick Corea
I went to his concert with Hiromi Uehara as duo album for two, several years or ten years ago. His exciting piano play was so impressive at jazz club Blue Note Tokyo in Minami-Aoyama. Just side of his piano performing position I looked at him so nealy and listened to his play so nealy, it was wonderful night.
 
She has so common feeling Norah Jones holds, possibily she is Indian African, isn't she? Hip-Hop sensibility and reading sutra atmosphere, so groovy, so relaxed and healing heart. I love this.

It neighbors philosophical idea, rhetoric idea.

 
 

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2017年6月12日 (月)

存在忘却とは何か?ハイデガーが考えていたことに就いてPart3

昨日のツイッターで私がツイートしたことになかじぃ氏が反応してくれた一連のツイッター上の対話をまず下記に示そう。

 

私 日本社会は構造的に弱い者いじめを国家や地方自治体全体が奨励する様に機能している。この国からいじめと差別は消滅しない(アメリカでそうである様に、韓国や英国でそうである様に)。全てが路線通りに円滑に捗る事だけが目的で、個人幸福でなくGDP達成目標だけ故。弱く真面目な奴は死ね、なのだ。

 

なかじぃ こんにちはー。国別のいじめの傾向をまとめたデータをみたことがありますが、日本とフィンランドは陰湿なところがとても似ていました。アメリカは人前で堂々とやる傾向があり、イギリスは他国より早い時期にいじめをやめる傾向がある。いじめにも文化があるんでしょうか。。。

 

私 最近<ムーンライト>(米映画、オスカー作品賞受賞作)見たが、人前でイニシエーションしおかまだと言っていじめるということはアメリカらしいと思った。イギリスはアメリカより陰湿で仄めかす精神的いじめで、韓国はアメリカ的に思える。日本は最強に陰湿だ。被災地出身というだけで教師までいじめに加わる。

 

なかじぃ メディアは扱わないけどすごいみたいですね。。。一見普通に見える御嬢さんが堂々と福島のJKを罵っているのを見て戦慄。なぜ???全くわからないわ。福島県民被害者やん。

 

私 女子高生もだし、青年世代がはっきり二つに割れている気がする。一つはそういう弱い者いじめを平気でできる側と、内に自殺したいと思っても踏みとどまる例の福島出身の中学生みたいな経験を持つ人達や、そういう人への理解者とだ。分断はアメリカだけでなく、日本で熾烈に進展している。

 

 さてここで展開している議論は存在者として知性を持った人間に固有の問題であると同時に、生物学的に普遍の問題でもある気がする。そのことを哲学者であるハイデガーは端的に次の様に述べている。

 

伏蔵する拒絶が、まず第一に拒むこととしてあらゆる空け開けに対して恒常的な由来を付与し、しかし偽装することとしてはあらゆる空け開けに対して惑わしの容赦のない厳しさを付与するかぎり、真理は真理そのものとしてその本質を発揮する。伏蔵する拒絶という動向を含めることによって、真理の本質において対抗的なもの〔das Gegenwendige〕が名指しされることになる。この対抗的なものは、真理がその本質を発揮するさいに、空け開けと伏蔵との間において存立する。それは根源的な闘争の相互対立なのである。真理の本質はそれ自体において原闘争〔Urstreit〕である。この原闘争の内で、存在するものがそこに立ち現れたり、そこからそれ自体の内に引き籠るところのあの開けた中央が闘い獲られるのである。(<芸術作品の根源>平凡社刊 関口浩訳〔二〕作品と真理 86ページより)

 

 この箇所のハイデガーの思想は、根源的に一元的である存在者の存在の世界などありはせず、元々世界とはその成り立ちに於いて多元的に相互闘争的であるということを言っている。これは極めて明瞭な論理である。

 そのことを現代日本の状況に敷衍させてみると、確かに表面的にはどの組織に帰属する社会人も相互に横の関係に気を配って協調性を重んじていても、内心では精神的には大きな分断を来していると言える。それがなかじぃ氏が批判している福島出身者への差別をも生み出している。つまり自分達だけ良ければそれでいいという観念が子供社会ばかりでなく大人社会にも蔓延しているからこそ、そういった理不尽な差別やいじめが消滅しないのだ。自分達だけ良ければいいという発想を持つ人達は、意外と表面的には国家や社会の動向全般に従順である。彼等は悪辣な政治指導者や官僚への批判精神はない。エリートとして決定されている人とそうでない人という区分けしか持たない。自分が参画するという意識があれば、震災で被害を受けた人達を差別する様なことをする筈がない。彼等にとって大切なのは闘争が一切成立しない世界なのであり、根底では常に闘争とは介在して然るべきであるのに、闘争を最初から一切放棄している。ことなかれ主義がその様に定着すると、闘争的な段階を一足飛びに省略することだけに血道を上げ、困難を生じさせる被災地から引っ越してきた人達を予め差別して、蚊帳の外へ放りだすという意図だけが一人歩きする。するとかつてのナチスによるユダヤ人虐待の様なことが当然のこととして行われる様になるのだ。

 でも闘争を一切避けることだけを至上目的とする差別の方がより、闘争を避けるべきではないという参画意識より深い闘争を後々引き起こすということをそういった考えの人達は知らない。昨今の異様なる官僚による忖度とかも、そういう態度を取る人達が他者を批判するということを一切最初から放棄しているからである。つまり彼等は権力や権威が確定的なこととして、それを一切批判対象から外すのである。そして彼等が批判すべきは確定的な権力や権威を批判する自ら常に何かに参画しようとする人達なのである。彼等にしてみれば考えないで常に上に従ってさえいれば楽なのに、それをそういった批判者達がき乱すからである。彼等は闘争を最初から一切しないと決め込むことで惰性的な安定を手に入れようとしているだけなのだ。

 

 ハイデガーはそう言い放つ前提として、上記記述より先に彼はこうも述べている。

 

 存在するものはそれ自体をわれわれに対して拒む〔versagen〕。存在するものについてわずかに、それは存在する、としか言えないとして、われわれがもっとも容易に言い当てるこの一事、一見したところもっとも些細なこのことに至るまで拒むのである。拒むこととしての伏蔵は、まず第一にそしてただ単に、認識のそのつどの限界なのではない。それは空け開けの伏蔵は、まず第一にそしてただ単に、認識のそのつどの限界なのではない。それは空け開かれたところの空け開けの原初なのである。〔前記の書と同じ、83ページより〕

 

 存在するものが我々に対して拒むのは、存在自体が前記の様に闘争を根源に控えさせているからだし、拒むことがそもそも空け開けとハイデガーが言い表す世界の根底、つまり原初なのである。それは現存在にとってみればまず他者ということに外ならない。又存在する者はそれ自体我々を拒むとは、共存する自己以外の他全てを受け入れることを我々に強いるということでもある。だから拒まないでいられる状況を維持しようとすることなかれ主義には最初から他者というものがないということになる。福島県出身であるというだけで差別しているということは、自分とは全く異なった境遇の人達とは居るのだ、だからそこから他との共存が始まるという意識を放棄していることとなる。

 

今回はなかじぃ氏とのツイッター上での対話で示されていたことをハイデガーの論述が思考する思想に当て嵌めて考えてみた。

 

実際この様な応用的な具体例提示を哲学論述の持つ普遍的意味と照応させることは余りにも今迄専門の哲学が怠ってきたことだとは言えないだろうか?ハイデガーが形而上学や論理学を存在論より下位に置き、それらを徹底的に批判することの意味はそこにも向けられている様に思われる。だが実際はハイデガーのその実践性と乖離する様に現代哲学界が運営されていることも又確かである。

 
 そうである、そこでもハイデガーが言う様な原闘争が介在し、伏蔵する拒絶、つまり全てが最初から明るみにあるという実在的真理から言っても、現代哲学の分析哲学を中心とする形而上学の隆盛と、それを分断されて歩まれている現象学や心の哲学等との間の乖離も一つの必然だということにもなる。そしてそういう風に分断が隠されずに存在するということは、表面的に全て巧く行っている様に見える自民党や公官庁の官僚の世界の一般市民への示し方の隠蔽性よりはずっと正常であるとは言える。

 

付記 この現状維持だけを至上目的としてしまうこともハイデガーの言う頽落に当て嵌まるが、本シリーズの目的である存在忘却は原闘争や頽落とも関係している。原闘争自体に我々が着目すれば、他者との距離だけが意識され、存在事実の様相の着目になりがちだが、実際は対立する他者や不可解な他なる事実も、存在しているということに於いては同一であり、その普遍的な存在事実の事実としての在り方は対立とか敵対とか闘争ということそのことより重要だと直ぐに分かる。これは一つの全く近代主義的な理性主義とか大人主義から脱却したもっと根源的な存在理性主義とでも呼べる提言なのだ。そのことに就いて追々示していくこととしよう。

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2017年6月11日 (日)

Report of my tweet message to US. musician friends Part6

This song's atmosphere is oriental, rap song is hard to listen to words for Japanese me, but its spirit is unexpectedly easy to understand, Beatles presence is surely special for contemporay people, but for African ethic people Beatles presence are  probably different to European ethnic people, at this point Beatles presence meaning was so special for Japanese, when they gained ground at '60th. Of course probably Japanese misread the Beatles songs different from British people have read at '60th. the US. citizen were probably in different understanding to British citizen. All music are in destiny may be misread as selfish interpretation, but its thing is fun and has possibility to create something.

memo; This sentence is impression for upped youtube animation by one of my musician friend's pal in site, this song's theme is The Beatles and sung by African American young men as rap band.

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2017年6月10日 (土)

人類未来展望の論理と真実No.8 大人主義・本物主義の崩壊の途上で③

近代的大人主義は科学や思想が進化・進歩することへ疑念はなかった。それは近代に於いてその前進ということを躊躇なく前提にして歩まれてきたし、今もその基本は変わりない。只一部の哲学者や思想家達だけがそのことに懐疑的であるだけだ。

 近代主義としての大人的態度とは、要するに一部の天才をあたかも救世主の様に扱う姿勢も際立っていた。そしてそれこそが正しいことなのだ、とされた。民主主義もその一つだ。だが独裁と第一次世界大戦と第二次世界大戦が歴史に負の遺産として刻まれた。戦勝国と戦敗国とではその歴史的意義はきっと全く違うだろう。だがここでも哲学者や思想家の一部はずっとその戦争全体へ懐疑的な眼差しも持ってきていた。そしてその眼差しを経済合理主義、資本主義経済の普遍的価値を信じて疑わない理論家や株主、経営者、投資家や投機家等に対して、その資本主義経済社会文明全体への懐疑的眼差しとして携えてきたが、やはりそれは一部の哲学者や思想家達だけだった。

 

●時代はしかしグローバリズムが完全に善悪を問うことすら許されないスタンダードになって数十年が経過した。しかしグローバリズムは先進国と呼ばれる国々を中心としたモラルであり、今も世界には独裁国家や内乱状態の政情不安の国々はある。そしてその国と関係のある民族や、祖先がかつてキリスト教徒の十字軍以来現代に至る迄多大の植民地政策で搾取されてきた側の特にイスラム教文化圏で過激なテロ思想が数十年醸成され、それは昨今では数日置きくらいに挑戦的に仕掛けられてきている。

 

テロが多く起きてしまう理由の一つとして先進国の異様なる進化スピード、とりわけAI、ビッグデータ情報収集システム、全行程ロボット化された製造現場、そしてそれらのテクノロジーの粋を集めた兵器ロボットが異様なる進化を遂げて軍事テクノロジーを抑止力肯定論の下に配備されてきたという事実背景がある。人類はその全体的な進化のスピードを緩めることが既に出来なくなっている。つまり何事に於いても利用されるインフラ全てが進化していくことを誰も止められはしない。それは民主主義、グローバル経済社会、軍事的インフラ(軍隊施設や武器、艦船、軍用機から核兵器等に至る迄の装備)全てに言える。通信がそれらの進化スピードをより加速化し、軍事的な情報戦争的な通信と一般市民利用のウェブサイトはシナジー的に利便性とその速度をアップしてきている。それが時間節約と全ての進化スピードを恐ろしく早くしている。

 つまり我々はそれらのシナジー的な進化のレヴェルアップの水準が加速度的に上昇すること自体を誰も制御できなくなっている。それは政治家も経営者も一般市民全体も全てそうなのである。

 

ここにきて最早人類は大人主義的理性を維持出来ず、全個人にあらゆる社会的成功へ飛躍する可能性が保障されている様な所謂、子供無邪気主義が主流となった。しかしそれはそういうことであると取り決められて、そうなっているのではなく、最早誰の目にもそれを止めることができないので、暗黙の了解となっているということが重要である。

 この社会全体のあらゆる合理主義的進化路線的なテクノロジーと機構全体の進化とは絶対肯定的なものであり、揺るぎもせず、その巨大機構全体が人類全体をフルスピードで駆り立てている。つまり人類そのものではなく、人類全体の暗黙の同意、つまり進化は是であるという絶対肯定の前提が在るがために巨大機構自体へ誰も逆らえない様になってきているのだ。だから子供でも女性でも容易に利用でき、しかも殺傷能力も高い武器が製造されていく資本主義社会の負の側面も誰も制御できなくなっているのだ。

 

●あらゆる過剰労働も福利厚生的な法的秩序が存在しても尚抜け道的にブラック企業だけでなく、あらゆる伝統的な企業さえ無意識に行わせてしまっているのだ。それも人間本人が制御することができないということ、つまり組織自体の永続だけが合理目的化した経営と労働従事者との間の暗黙の合意を懐疑的に見ることが許されないので、それを反省的に歯止めすること自体が不可能となっている。自由主義経済社会の矛盾が至るところに火山の噴火の様に噴出しているのだ。

 

上記の時間節約とコスト削減自体が目的化した経済合理社会では益々人間自体が機械に利用されるという本末転倒な事態を招聘している。そして機械が今日より明日がもっと便利になって迅速に全ての業務をこなしてくれるとなると、その機械進化の維持だけが至上目的となり、リニューワルされた機械の使い勝手を習熟することだけが常に追い立てられる様に求められ、その都度書き換えられるワーキングメモリーの転換に精神が追い捲られていく様になるのだ。だから今後も第二、第三の高橋まつりさんが必ず出るだろう。つまり機械のテクノロジーの進化スピードとそれを業務処理する人との間の戦争の様な状態に、今社会はなっていると言っていい。経営がコスト削減を至上目的とし続ける限り、その悪循環は断ち切られまい。

 

上記の機構、組織安泰的維持だけが主流化する社会のモラルハザードが、自然回帰的な登山やサイクリング等のレジャーに駆り立てているけれど、それはそういう風に資本主義社会のサイクル循環の中で余暇の時間をリフレッシュさせる為に利用するという目的主義なのである。つまり両者は共謀している。

 つまりかなりエリートのエンジニアは機械進化と使いやすさの他社との競争に明け暮れ、そういった社会インフラ進化絶対肯定主義を前提としたメインストリームの企業戦士達は、それらと無縁に生きていこうとするライフスタイルの中年や青年と共謀している。方やそういった機械とインフラの進化が保障されているからこそ、その上で野生を求めているに過ぎない。

 

●確かにこの両者は二分されている。いずれかに関わる人も居るだろうが、意外と同一人物がその両方に関わることも決して少なくないのだ。だから完全にいずれかに偏る人も多いだろうが、インフラ進化メインストリームの人達を主知主義、社会合理性追求肯定主義とすれば、後者の野生志向は情感主義、社会非合理性希求肯定主義とでも言っていいだろう。

 

●つまりカントの考えていた様な理性自体も全く違った意味でその存立と有効性が疑念の下で俯瞰されだしたとも言える。懐疑的対象にすらなっている、いやなりきっていると言える。

 一つには絶対的価値とされてきた欧米や戦後日本の進歩主義と民主主義も、どこかでその妄信からか歪が出てきてしまっているという世相が続いているからであるとは言えないだろうか?衆愚的要素も強い与党の一強他弱時代。尤もそれは日本のことでアメリカは必ずしもそうではない。寧ろアメリカでは社会の亀裂や分断がもっと鮮明化している。只日本も水面下ではそうかも知れないが、巧妙に隠蔽されているという要素があることは否めまい。

 メディアや官僚機構全体が衆愚的になっているとしたら、それは自由や平等や公平という観念が徐々に形骸化してきたつけが出てしまっているとも言える。市民はメディアを信用せず、政治は市民もメディアも信用しない、公官庁は政治に阿る側と、それを正義で抑制したい側に分断され、相互に錯綜した関係が構築されていく。つまり全てが一枚岩ではないからこそ、なかなかどう展開していくか誰もが読み切れ難いということも言える。全てが全てに対して予測を立て難い時代になっているのである。

 

上記全てが理性万能主義の終焉を告げている。理性そのものの存立が危うくなっている。その代わりに諦観することを老いても拒絶する子供無邪気主義、死への極度の忌避感情だけが支配した生絶対主義が全人類的に支配しだしていて、率直それは間違っているのだが、資本主義、経済合理主義、進化進歩絶対肯定主義の前では全市民が為政者にとってロボットの様な律儀さで居てくれた方が政治家も官僚も助かるのである。只経営者達だけが知恵を絞ってどういう企業経営戦略を立てれば資本が巧く流通していくかだけ金融のプロ達と必死に考えているという時代である。そして権力者達は貧民とかドロップアウトした全ての世界市民と共謀している。警察とテロリストが共謀して犯罪ゲームとその取り締まりゲームとの攻防が新たな犯罪方法を編み出し、その阻止法律と行政的な警察権力や防犯テクノロジー(テロ等準備罪的な法整備の右傾化をも含む)が益々進化を遂げるという次第だ。そして過剰なデスクワークビジネス業務が精神疾患を多くして、その処方に臨床精神医学が薬学とタイアップして進化を遂げていくという循環ゲームが、進化進歩絶対肯定主義の名の下に正当化されるというわけだ。

 付記 今回特に示さなかったが、経済合理主義、経営コスト削減至上命題が、デスクワークでの判断も完全に数値読解的な態度となっていて、それは部分的には我々の生活をユーザーも労働者も快適にしているが、そのことへの無反省性が固着した経営判断と生産リアルを生んでもいて、数値主義的な思考が現代人を資本主義経済の金の流通というメタ的リアルをより優先しがちだということも挙げておかなければいけない。これはハイデガーが言っていた頽落の最たるものである。利潤追求それ自体が目的化することでユーザーも従業員も経営者も資本主義経済社会の機構の奴隷に人類をすることに供している、と言える。

 

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2017年6月 9日 (金)

僕は世界を軽蔑したかった、けれど

僕は畏れ多くもかつて世界を軽蔑したかった。

この何ものにも代え難い自分を差し置いて世界に価値があるなんてどうしても思えなかった。

 

でもその頃から幾年月が経ち、結局世界とは自分の心が作り上げてきていると気がつく様になった。

そして僕は世界を否定することは自分を否定することなのだ、と気づいたのだった。

自分は決して世界の全てを支配したかったわけじゃない。それどころか世界の広さの中でほんの僅かな部分の隅にいる自分はよく心得ていた。

にもかかわらず、この自分に何ものも干渉して欲しくないとだけ思っていた。頼むから、この俺を放っておいてくれ、と。

そして自分以外の全てを僕は軽蔑したかった。

 

でも僕は僕が軽蔑しようとする全てを同時に愛着を持って接してもいた。

僕は僕が嫌うもの、憎むものを同時に愛してもいたのだ。

つまり僕は憎悪も嫌悪も軽蔑も共に自分が作り上げた一つの世界なのだ、と認めたくなかったけれど、どこかではきっと気づいてもいたのだ。

 

世界の中にいる自分は、同時に自分が作った世界の中に自分を認めているのだ。

世界は僕にとっては、僕がいつも今ここに居るからこそ成り立っているとも言える。(6.8

だから愛しいものも忌むべきものも、僕が作る僕の世界からしか意味を持たない。でもそれはきっと僕だけじゃなく、誰もがそうである筈だ。

とすれば、世界は全て閉じていもするけれど、それら全ての個へ単独で開け渡されてもいるのだから、或いは尊敬、否畏怖の感情で接すべきかも知れない。

 

僕は世界を軽蔑することで、自分の作り上げた全てを否定するところだったのだ。

 

軽蔑も一つの愛着なのだ。そして僕は世界を軽蔑したいと思っていた時、自分だけが飛び抜けていると思いながら、本当は自分のことを軽蔑したかったのかも知れない。

だけど今なら世界をその不備や残酷も含め愛せるその世界を作り上げている自分も深く愛せる気がする。

 

世界とはいつも誰にとっても自分で参入することで少しだけ完成へとその都度近づく。

世界とはもしそれ自体で完成されているのなら、誰もそこに参入することなんて出来ない筈だ。

だから世界はいつもそれ自体は完全には完成したものではないかたちで誰に対しても接している。

 

世界とは予め与えられてあるのではなく、僕たち全てが、自分でどう捉えるかにかかっている。

世界は美しくも醜くもある。

だから僕は決めた。世界を美しいと思える様に世界とかかわろうと。

僕の世界は僕だけのものだけれど、世界と僕に捉えられる全ては途轍もなく広くて掴みきれない。そしてそれはきっと誰にとってもだ。

 

だから言おう。世界は一つでもあるけれど、無限でもあるのだ、と。

そうだ、僕にとって軽蔑すべき対象でさえあった世界とは、それだけ僕にとっても、恐らく全ての人達にとっても、きっと計り知れず、なくてはならないものなのだ。

でもそれはきっと、それぞれが違う在り方であり、違う接し方を強いられている。

 

その運命をどう自分なりの係わり方にするか、真剣に考えたその時だけ、きっと世界は誰に対しても何かを微笑みかけてくれることだろう。(6.9

 

 付記 タイトルは(2017.6.6,修正6.9)

 

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2017年6月 8日 (木)

Report of my tweet message to US musician friends Part5

Today I appreciated the US. movie Moonlight. It was so exciting experience for this year me. This masterpiece’s expression as movie is not so complexed. But this simplicity has so inscrutable meaning in our life.
Life as living today for the future is living together with other people which includes family, and being together in same space, this very simple and natural fact can be easily forgotten in our mind, namely we are surrounded by very busy daily life.
But not to be limited to this film’s one theme LGBTQ, we always think what life is and at each moment we respond to myself concluding that being now here is the most important fact and it’s destined thing to anybody and being now here holds so bitter and so complexed daily experience, this movie also expressed.
Then we can say that this film was praised Academy award of best picture was so natural and necessary. This movie’s message is never difficult rather it’s so simple.
Surely Sharon has held some gay sensibility and its fact has been recognized by also himself gradually, and he met Kevin and held experience as carnally physical contact between two same sex persons, but it’s a part of this film’s theme. The most important thing which this masterpiece tried to express is not this thing, it is decision making moment in life as individual, work of memory especially of childhood days or adolescence days in adult, and sympathy to neighbor as so intimate relationship.
This film’s hero Sharon was engraved by three actors and stream to next generation is so natural and three actors’ faces all beautiful not only them but also all cast’s face is so beautiful. That fact is the most impressive for me as movie appreciator.

At the matter of fact I am a type of appreciator of movie who make much of watching film as entertainment. Namely I’m not so vigilant observer of appreciating movies then for confirming some point I will appreciate this film more at least five times again and again, I am happy to discover valuable masterpiece to appreciate again so many times at this film.
Happy Together known in Japan as Buenos Aires by Wong Kar-wai gave some inspiration to this film director Barry Jenkins and he showed homage to Kar-wai,
At the matter of fact I haven’t appreciate this film, it’s not the truth that no great masterpieces of movie I have appreciated is none, so many great films I missed to appreciate then I will do this film also sometime.
I would love to praise Barry Jenkins and original screen play writer Tarell Alvin McCrarney and producer Brad Pitt who addresses realizing this screenplay to movie, or three actors of hero and Mahershala Ali and all actors and actresses!

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2017年6月 7日 (水)

思想が求められている根拠は批評や学術にどんな意味が在るだろうか?Part3

個の在り方がウェブサイト利用によって益々、身体と人柄、人間性を伴う存在論的エロスを欠いた思考・言語オンリーの情報伝達媒介的なものになってゆく。

 

〇故に個とは考え方、その人の持つ理念や観念という純粋哲学的方向へ機械の奴隷となることで全人類的にシフトしつつある。それは哲学が現実世界の諸問題への反省意識から作られていることを無視した、哲学的装いの一つの孤立的個人へと意識を駆り立てている。

 

〇そのことは実際のプロ哲学者でも形而上学を益々時代的必然的なものにして、多く研究者に研究へと向かわせている。

 

存在より認識、言語と意味がメインとなる感性がAIや電子機器が生活上重要性を増してゆくにつれ、自然となっていく。

 

〇しかし、そのことは益々ハイデガーが言う頽落を生活上強くしている。だが現代社会は頽落しない成員は衝突なく生きていくことなどできない。つまり現代人とは先進国自由主義圏諸国であれ、中国の様な共産制国家であれ、イスラム教文化圏であれ、どの社会成員も自らを社会全体の歯車として、巨大機構に率先して自らを呪縛させなければ(つまり奴隷化させなければ)一切の権利を手にすることはできないのである。従って使用する語彙も話す内容も積極的に頽落させていかなければ精神科送りにされるか、良くしても自宅待機を会社から命じられるのがおちである。

 

だから益々ウィトゲンシュタインが高く評価される。哲学的世相は私的言語を想定してみたい誘惑をさして天才でない一般市民さえ持ちやすくしている。それは確かに学術的には似非であろう。だがそういう本物ではない哲学的世相の方が存在としては問題なのである。

 しかし実際私的言語を想定したウィトゲンシュタインは、それは一切叶わないという結論を出したが、率先受け身的メッセージ表示を誰しもが積極的にすることを選択せざるを得ない現代人には、その問題の立て方が何となく分かる、と哲学を専門的に学ばない人さえ思えるのである。私的言語成立不可能性は、私的言語があればいいのにという思いの中で結論せざるを得ない。

 

そのことは論理学や形而上学を存在論へと下位に置くハイデガー的視座を益々持ち難くし、逆に論理学や形而上学を栄えさせている。

 

〇しかしだからこそ哲学命題的意味からでなく思想的、批評的に、つまり現代哲学のメインストリームを外側から批判する様にするために、ハイデガー的哲学姿勢をこそ採用するべき時節に入って来ていると言えないだろうか?それは広くギリシャから現代までの長い道程からもう一度存在を見直すという試練として突き付けられている。

 

現代人類は成功者もホームレスも既に現代社会という大きな機構、AIやビッグデータ収集システムとウェブサイトと通信システムの共謀の奴隷なのであり、そうでしかないという状況を平等に強いられているのだ。だから成功者もホームレスも自らを自己に呪縛させることの中でしか自由を謳歌出来ない自己を誰しもが自覚しつつ、頽落していかざるを得ない。従って哲学も文学も批評も思想も、そのことを覚醒させつつ、その中でどうやって生きていくべきかという事を模索してゆくべきだ、という意味では同一土俵にある、と言えるのだ。

 

 付記 一応このシリーズは今回で停止させ、別のかたちで既存のシリーズでハイデガーやレヴィナス思想と絡めながら考えていこうと思っている。また何か一度立ち止まって考えようとする時に思い出した様にその都度本シリーズを再開させるつもりである。

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2017年6月 6日 (火)

思想が求められている根拠は批評や学術にどんな意味が在るだろうか?Part2

現代社会の生活は地方部に至るまでかなりの頻度で電子機器、ATM操作等デジタル的なプッシュやタップといった行為で占められている。その生活習慣は言語行為や日常的な言葉の使い方へも影響を与えているのではないか?又、そういった生活習慣がそういった習慣のなかった時代から比較してみると、どれくらい批評や学術(例えば哲学や言語学)を変えてきただろうか?又その変化の傾向とはどういう方向へ向かっているのだろうか?

 

言語に拘ってみると、どうやら現代生活では冗長的なものは極力避けられ、節約合理的なものが喜ばれるという現状がある。長文より短文を志向している。又記号的なものも多く利用され、言葉を記号で代用する事さえ多くなっている。又和み的な語彙はそういう語彙が適切な文脈以外では日常的に頻繁に使用されることはない。そういった表現を日常生活の実利的部分では多用しないということの内にどういう意味があるだろうか?

 

上記のことはデジタル機器利用リアルがすっかり定着してきていることも理由として挙げられる。機械全般の多用が現代社会生活の実質的な様相である。過剰な機械文明との関わりが我々の脳内思考へ与えるものとは一体何だろうか?それがそれ程ではなかった時代とどう変わってきているだろうか?

 

人間関係の画一的な合理化が資本主義社会では上記のリアルから招聘されていないだろうか?社会全体が資本主義右傾化していく傾向をそういった電子機器利用生活とデジタル的思考が促進していくとは言えないだろうか?

 

身体的且つ視覚情報特化的な電子機器利用は、一部生理学的、神経学的な問題を投げかけている様に思われる。神経生理作用の疲労感を現代人に与えている部分もあり、その過剰利用が精神作用に何か及ぼすということはないだろうか?

 

言葉の使い方に現代社会インフラの激変が影響を与えているとしたら、それは具体的にどの様なことだろうか?

 

長文を読む習慣が薄れ、逆に箇条書き的な文章構成のものの方が好まれる傾向が、我々の思考や精神にどんな影響を与えていくだろうか?

 

上記のことが言語全般の在り方や哲学等の学術思考にどんな影響を与えていくだろうか?

 

都市インフラ利用生活(例えばエスカレーターや動く歩道等)が身体的リズムを作り、それらがラップミュージック等の音楽の創作に影響を与え、それらが聴かれることによって、それが又身体的な我々の感性へ影響を与えるということがあり得るが、それはどんな場面や局面で実際に顕現されているだろうか?要するに身体の動かし方とか所作全体へどんな影響を都市インフラ利用生活習慣が与えているだろうか、ということから展開する問題群である。

 都市インフラは信号が一切無かった時代から設置された時代の切り換わりの時点から徐々に現代人を変質させてきている筈であるが、それに更に電子機器利用、都市インフラの過剰な便利さが加わっているわけである。この部分の着目が重要なのではないだろうか?

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2017年6月 5日 (月)

思想が求められている根拠は批評や学術にどんな意味が在るだろうか?Part1

 学術は批評と違って常に時代を超越していなければいけないのだろうか?それでもやはり生活の隅々から日常的習慣が大きく変質してしまっている時代に対応することのできる新たな学術の姿勢が求められているのなら、それは思想的な意味もあるし、思想が持つ意味や求められていることが変わっていけば、学術全体にも批評に対してだけでなく影響を与えていくと言っていいのではないか?

 

 哲学では既にコンピュータが社会を支配する様な時代を予感するかの様に数論理学が経験論哲学へ影響を与え、分析哲学の大きな流れが構築されてきた。それらは言語を一種の論理記号と考える傾向が強く、パラドックス等の論理学の命題や証明論等の方法論を多く採用してきた。

 だが同時に現象学は生を全体的な世界への対峙的な在り方と考えて営まれてきた。だが分析哲学や論理学と現象学は必ずしも協働的であったわけではなく、あくまで違った水脈として平行して営まれてきた。

 現象学の流れの中でポストモダンという考えの一派が大きなウェイヴを作ったことで、文学批評や解釈学や修辞学が哲学論理思考へ介入し始めた。

 それから40年近くが経った。今はどんな形のものでも許容される時代になってはいるが、どれがどういうニーズに対してどういう意味を持つかということが必ずしも明確になっているとは言えない。勿論いつも確定的に何に対しても取り扱えることがいいことであるわけではないが、かなり多くの流儀が犇めき合っている割には共通の命題を見出しているとも言い難いのが現代の学術や批評のそれぞれの間の関係と言えるのではないだろうか?

 

 思想と言うと、やはり政治経済や社会全体の問題や宗教的な問題も包括的に関わらざるを得ない。思想として学術や批評を考えるなら、我々はそれらの個々別々に営まれている活動同士を関係付ける必要もあるのではないだろうか?

 

 例えば哲学は常に時代に対して超越的でなければいけないということがあるとしたら、それは何故そうであるのかを外部に説明し発信していく必要があると思えるが、それでもやはり哲学自体も時代が我々に強制する時代的な大きな変化から影響を受けないで済むということはあり得ない。だから個とか言語とか命題等の概念自体も時代と共に徐々に変質してきているのだから、言語学や批評等の考えてきたこととも無縁ではいられない。

 

 そういうことは社会学のすることだ、そういうことは政治学のすることだ、と言い切って、しかし哲学は違うのだと言ってみても、社会全体が世界経済の影響を受けて、政治意識から社会全体の意識までどんどん人類にとって変わってきている以上、個とか命題とか超越すると言うことの意味自体が大きく変えられていっているという現実を無視することはできない。

 

 私はアートをしてきた時間が長かったが、PC端末利用や社会インフラ全体の進化によって大きく我々の生活が変わってきたリアルに、デッサンとか絵を描くということが巧くそれらの変質に対応していけると感性的に思えなくなってきたので、絵を描くという行為から離れた。それよりは言語で思考して、それを文字に置き換えることの方が、変換的な思考という意味でよりPC端末利用習慣のこの時代には対応させやすい気だけはしていたし、それは正しかったと思う。

 

 絵よりは写真の方がよりPC端末利用とウェブサイト時代には巧く対応していける要素がある。そしてそういった時代的な日常的な情報発信の持つ意味が、きっと学術や文藝全体へも精神的影響を与えてきた筈である。

 それは何も批評だけの使命ではなく、哲学で考えていったっていいし、思想的な意味をそれ以外の学術で取り入れていっていい筈である。

 その様な応用が利くということに意味があるのではないだろうか?

 

 或いは本記事以外でもシリーズ化している記事で、私は今後も現代社会のマシーン利用の過剰なリアル自体を考えていこうと思っているが、機械と共存すること、AIやロボットと共存する時代という特殊性は一部ハイデガーも考えていたが、やはり21世紀の現在の状況の特殊性に真に対応しきれる哲学の在り方を考えていっていいのではないだろうか?

 つまり実用的であるという意味でなく、現代社会で生活するからこそ、そこで派生する問題を哲学へ導入していっていいのではないか?それは言語自体がウェブサイト利用によって大きくその意味合いを変えているということとも関係している。そして機械を異様に多く利用する現代人の思考の変化が言語へも、論理思考へも変化を齎しているとも言えるからだ。

 つまり言語全体への接し方自体がそういった機械の利用の過剰でどんどん我々の中で精神的にも変質してきていると思えるのだ。それはだから当然文学とか映画等の表現ジャンルにも変化を齎しているし、そのことと学術や思想の変化とは無縁ではないどころか、一体の問題である。

 
 その部分の問題意識と命題設定を今後考えていくべきだと考えているので、次回をそのことの最初の前提を設定していってみようと思う。

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2017年6月 4日 (日)

人は常に今の自分からしか世界を語れないし、考えることができない

 ちょっと前のことだがビートたけしが若いタレントかアナウンサーから「もしもう一度自分の人生を送れるとしたら、もう一度送りますか?」と問い質され、「もう二度とこんな人生を送るのはいやだ。」と返答していたのが凄く印象的であった。

 少し前になるがリリー・フランキーが大人エレベーターとかの趣向で質問者の妻夫木聡にもう一度自分の人生を若い頃からやり直したいかと質問され「又若い頃に戻りたいとは思えない」と返答していたのも印象的だった。

 実はこう書いている私も若い頃に戻りたいとは思えないのである。やはり今の自分から今より過去の若い頃の自分が羨ましいとも思えないのだ。

 どうしてなのだろうか?私は意外と殆どの人がそう思うのではないかと薄々思っているのだが、その理由を考えてみよう。

 まず基本的に人は常に今を基軸にしか物事を考えられないという事があるのだ、と思う。又仮に自分が自分でなく違う人として生まれ全く違った環境で育ったなら、という仮定的な思考ができたとしても、どんな境遇でも自分が生まれ育った事実以外の条件で考えることも、やはり本質的にはできないのではないだろうか?

 つまり今の自分、過去ではない正に今自分だと感じられる世界からしか物事を実在的には考えられないという事があるのだと思う。それは今でない過去とはその時は今だったのだが、その時はその時なりにきちんと何か色々と考えていたし、行動していたのだから、同じその時を二度と味わいたくはない、仮に凄く巧く行ったことでもそうだし、仮に失敗したことがあっても、その時はその時なりに必死だったのであり、もう一度やり直そうという気持ちにはやはりなれないのだろうと思う。

 と言うことは過去に戻ってその時は今だった時をもう一度やり直すくらいなら、次に来る今をその時なりに必死に何かしようと思うということではないだろうか?

 つまり二度同じ今を繰り返すことを余り意味が在ることだと思わない、裏を返せばそういう繰り返しを一度しかどの今も来ないのだから、できたとしてもそれをするのが徒労であり、無駄なことであると思えてしまうということではないだろうか?

 かつて哲学者の永井均は唯今論というものを展開させた時期もあったが、そのことを言いたかったのではないだろうか、と今思うのである。

 と言うことは、我々は時間という推移の上では決して同じ今が二度来ることなどあり得ないと固く信じて、そう割り切っているという事を意味する。

 ここで纏めてみると、何故もう一度人生を過去に戻って繰り返したくはないと思えるかと言うと、

 今の自分とは既に過去の全ての今を知った上で成立しているので、同じ今を二度繰り返すことに意味を見出せない、価値的に考えられないという思考傾向が我々にはある。

 仮に二度同じ今を繰り返すことができても、それは徒労で、仮に次に来る未だ今でない今でも、そちらの方を経験する方がずっといいと思える。それは二度同じ時刻を経験することができないと分かっているだけでなく、仮にそれが可能だとしても、そこに価値を発見できないという気持ちの方が強いということである。

 そう上記の様に思えるということの背景には、人はどんな年齢であっても、どんな今の状態であっても、正にそれだけが実在である今在る状態とか条件でしか世界を語ることができないということと、想像する全ても今この時点からだけしか成り立ち得ないと知っているということである。つまり我々は常に今在る状態からしか価値というものを考えることができないという一種の頑強なる保守性を保持している、ということである。

 

 だから人はどんなに過去の方が輝かしい時代であったと思っていてさえ、今だけを切実に愛し、今在る状態だけを肯定するしかないと思っている、半ばその様に諦めていもするが、それは諦めているだけでなく、過去に~であったという事実を再度味わうことに意味を見出せず、それを無駄なことであると思えるということは次に来る今の方が二度繰り返される過去の今よりずっと貴重だと思う、ということだ。それは二度既に味わってしまった過去を経験することで失われる時間は、そういう足掻きで二度繰り返すことより、新たに違うことをした方がずっと有益だと思えるということでもある、とは言えないだろうか?つまり我々は時間が行ったり来たり過去と未来を自在に操ることができないということからしか、価値とか願望とかを持てない様になっているということでもある気がするのである。

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2017年6月 3日 (土)

存在忘却とは何か?ハイデガーが考えていたことに就いてPart2 ニーチェへの意識と存在の超越性に就いて

 人は気になる存在しか批判なんてしない。全く気にならない人のことを話題にもしないし、考えようともしない。だから哲学者だって同じである。ハイデガーにも大勢気になる哲学者は居た。だからカントに就いてもヘーゲルに就いても、デカルトに就いても言及している。

とりわけニーチェはかなり長編の哲学論文で批評している。<「ヒューマニズム」について>を翻訳した渡邊二郎は「「価値」に基づいて思索したニーチェにおいては、だから、「存在」が無にさせられているとして、ニーチェの思索をニヒリズムとしてあばいたのが、ハイデッガーの厖大なニーチェ論稿を書く根本モティーフであることは言うまでもない。」と訳注で書いている。とりわけニーチェは力への意志という観念からハイデガーが惹かれているのがよく分かる。それは<ニーチェ>の全編を通して貫かれているテーマである。

 例えば次の様な箇所では明確にニーチェの思想を受け取っていることが分かる。

 

(前略)好む働きのもつ成就させる能力こそは、その「力によって」なんらかのものが本来的に「可能にするもの」である。つまり、「可能にするもの」とは、その本質は、本来的に「可能にするもの」である。つまり、「可能にするもの」とは、その本質が好むことのうちに存するもののことにほかならない。(一 存在の思索の提起〔1 存在の思索と言葉〕から)

 

(前略)無償の健全なものと、深い激怒に駆られたものという二つのものが、存在のうちに生き生きとあり続けることができるのは、実はただ、存在そのものが争いを含んだものであるかぎりにおいてのみ、である。争いを含んだもののうちにこそ、否む働きの本質由来が隠れ潜んでいるのである。(一一 存在の否む働きと無〔87 存在の開けた明るみのうちに出現する、無償の健全なものと深い激怒に駆られたものとは、存在の争いに起因し、存在の「否む働き」から、「非ず」や、「いいえ」を言い述べる「否定」が出てくる〕から)

 

 この二つの文言にはニーチェが考えた真理が具体的なことである、真理が何か非現実的に抽象的に超越したものであるということへの徹底した批判を展開している<ツァラトゥストラ>的な観念で書かれている。明らかにハイデガーはこの具体性と実在的な顕現に着目する部分でニーチェから最も大切な真理命題を引き継いでいる。

 ハイデガーは前半の引用論述の後にこう言っている。

 

存在が、思索を、可能にするのである。

 

言葉とは存在の家であると言いつつ、同時に存在が思索を支えているとも言う。これはどういうことを意味するのだろうか?

 

 一つには言葉が存在の家であるということは存在を存在として自覚することができるのは言葉のお陰だということであるが、更にもう一つはその言葉を可能にする思索は、恐らく彼の中では言葉を覚えているからでもあるが、同時に思索する一種の脳内の活動が言葉を生んでいるのもあるし、思索は自分の身体を軸とした存在全体への把捉が生んでいるということに違いない。

 

 この様な存在と思索と言葉の三竦み的な関係の中にこそ、ハイデガーが真に言いたかった存在論があるのだ。

 

 彼は形而上学、論理学、ヒューマニズムへの批判も行っている。そして存在論とはそれらより上位にあるものなのだ。彼は『存在と時間』で「存在は端的に超越者である。」と述べていることを再度<「ヒューマニズム」について>でも念を押す様に述べている。

 ハイデガーは積極的なキリスト教哲学者ではないが、神学から哲学へ入っているし、キリスト教的な倫理が彼の念頭にあって語られていることは多い。そのことは<「ヒューマニズム」について>翻訳者である渡邊二郎も訳注で「(前略)いかにハイデッガーが、既成の啓示宗教であるキリスト教と一線を画するにはしても、「存在」が「語りかけてくる要求」に聴従するハイデッガーの思索(中略)は、「父」なる神が「語りかけてくる要求」を救い主イエスのうちに聴き取って立証している(後略)」と述べている。

 ハイデガーにとっての存在とは、超越的な在り方なのであるから、それは仮に一度はニーチェの様に神を捨てたとしても尚構造的には神と同一のものを持っていると考えることは自然である。

(つづき)

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2017年6月 2日 (金)

人類未来展望の論理と真実No. 7 大人主義・本物主義の崩壊の途上で②

現代世界では大人主義は冷静沈着で理性的で決して誤った判断を人はしないものだという性善説主義では成立し得なくなっている。率直大人だからと言って信用できない時代である。その証拠に交通事故から殺人まで老人犯罪も増加しているし、刑務所が足りなくて困っているのだから。つまり人は過ちを犯すという性悪説主義を前提しているということだ。何故そうであるかと言えば、それは我々が社会インフラからあらゆるツールに至るまで完全に個人が世界を揺るがすだけの力を与えられてしまっているからである。

 

アメリカでは州によっても法律が異なるだろうが、基本的に拳銃その他の武器携帯が個人へ認められている。そして自動小銃とは須らく使いやすく、女性でも子供でも容易に人を殺傷することができる様に進化してきている。従って個人で個人の生命を守るという題目を与えられているどの個人も一度精神的にバランスを崩せば女性や子供も犯罪者になるという前提で社会が運営されている。だから性悪説主義的にアメリカ社会は法的にも整備されている。それは極端な例であるが、どの国からもどの国家の中枢部へもハッカー攻撃が可能な時代である。つまり現代世界とは近代主義的理性主義に則った大人主義が成立しない時代なのだ。それは個々人が子供的に精神的に未成熟の侭巨大なパワーを誰しもが持つに至った時代の必然である。だから未然にそういった悪への誘惑を摘む様に法体系も整備されつつある。つまり我々現代人は個人が限りなく巨大な攻撃力を保持することが可能であるくらいに自由を与えられている反面、それを巨悪へ発展させない為の管理統制をどの国家も志向する様に全体的に現代世界とは推移しているのだ。だからどの個人の通信も盗聴傍受され、監視されていることを承知でウェブサイトを利用しているのだ。

 

〇この或る部分マゾ的に管理統制の下で生活することを誰しもが同意している時代では、子供的な無邪気さを適度にどの個人へも容認しなければ誰もが不自由だと感じてしまうことをどんな悪辣な権力者も心得ているのだ。だから本質的に権力者が一般市民を監視することも可能であるなら、権力者さえ一般市民から監視されているという実質を持つ時代なのである。だから管理統制を一般市民が同意しなければ、自分もいつ何時攻撃されるかも知れないと知っているのである。つまり現代世界とは権力者も一般市民も同意の上で相互呪縛管理統制的システムに同意している時代だと言えるのだ。

 

〇そういった管理統制の網の目の中で生活する時に個人が払うストレス軽減の為に多くのウェブサイト上でのゲームが展開され、スマホで一時凌ぎ的に誰しもがその時々の鬱憤を解消させている。そして益々時間節約のためのツールばかりが増殖して、その利用だけに追い捲られる実態が作り上げられている。どの端末にもGPS機能が設置されていれば、既に仮にそれをオフにしていても、何等かのかたちで管理統制するために、それをオンへと切り替えるシステムを開発するのは容易である。だから現代人は管理統制を権力者が一元的に自分達以外の全市民に対して行うだけでなく、一般市民もそれをどの他者にも実践可能なリアルに同意して生活しているので、自分も又誰かには監視盗聴されていることに同意しているのである。

 
性悪説主義的社会の在り方とは、どの国家も軍事テクノロジーを抑止力として保持するということに対立する国家群でも相互に同意しているので、それはどの市民も自らを監視盗聴されていたって構わないという同意の下で、でなければ一切の通信行為をできないということを意味するのである。つまりどの個人もその気になりさえすれば世界を破壊し得る知と方法論を得てしまっている、つまりパンドラの箱は開けられてしまっているので、相互に管理統制し合うこと自体に同意しなければ適度の自己の自由を保持できないと知っているのである。こういった点こそがハイデガー等の哲学思想家の生きた時代と現代社会との大きな違いなのである。だから現代人の自由謳歌とは相互呪縛的な管理統制システムへの賛同を前提とした子供無邪気主義だ、と言える。それは自由を幾分全ての市民が制限されてでも、完全にその気になりさえすればハッカーにさえなれるのだという切り札だけは失いたくないというメンタリティの時代だ、と言うことができる。

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2017年6月 1日 (木)

Report of my tweet message to US musician friends Part4

Dylans essence which talks to us with his songs

 

At one meaning Bob Dylans journey to life is surrounded by music form and methodized vision of music scene. His lyrics are the symbolized thing in his creation stance.

As first he took topical song and blues folk style song, and after several years Rock music trespassed on his domain, country and western, gospel, city rock ambient music or many other style and methods were utilized in his music, and recently mood entertainment music or classical standard number song has been taken by him.

Probably in his brain and heart, diverse American music elements are in melting pot of his curiosity. And some elements stream at a stretch when he is inspired by world situation and social transition.

Conclusively saying, his motivation is always mixed very personal things and very universal things and after complexed dialogue with these two different types of vision, he always has offered a clear result at this motivation. This stance and adventure makes his poetic challenge and trial to music scene.

 

My impression to the movie Arrival (the US. movie)

 

 

Today I watched Arrival as the US. movie directed by Denis Villeneuve. This masterpiece can be not so difficult only not in reading as usual our time system, namely its movie is the type we should not appreciate with logical consistency or order, it should be appreciated only by sensation. At that trial this movie would be so simple. In our life past makes itself future, on the contrary future makes itself past, present is also both past and future.

 

This movie makes me an impression to be common in sensation philosopher Nietzsches Also sprach Zarathustra, especially the word Ewig Wiederkehren (Eternal return)has.

 

This title Arrival as the word holds so diverse meaning, the destination, the birth, new product or so.

 

This movie appreciation gave me a word, thank you, life.

 

I want to say the last moment of my life “Thank you, life”

 

This word means thanks to all of things and persons and the God. And I would like to send my life as I would be able to say so.

 

This movie’s theme would probably be miracle in life as we are living with other persons or the earth itself.

 

Memo:  This movie’s sure difference with Stanly Kubrick’s A Space Odyssey is expression of the world disturbance to mysterious arrival which includes China or Russia, this thing is mirrored of now world situation as so nervous to any nations citizen.

 

My impression to my American Friends new songs

Dear A.J. and Tara

I listened to your 4songs just after returned home after appreciating a movie.

First song and forth song are Rap taste, coz I am Japanese, I cannot realize

its spoken words like as

American citizen rapidly after listening to those, but some breathe of now living citizen I got as impression after listening to those.

 

Third one is almost like Mariachi, this Mexican taste is so laid-back for me

and old times nostalgia can be born in my mind.

 

Music has mysteriousness that listening timing gives us as listener so different impression relying on moment's mood or

atmosphere which we make at each moment, then at listening those after several

hours or days, I would hold another impression to now it.

 

Then after several time, I will talk connection at this moment.

Thank you very much for sending your songs to me now!

 

See you later!

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