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2017年7月14日 (金)

日記的記述EL 映画『ライフ』を見た感想から始まり、それ中心で終わる日記

 今日は2017年にアメリカで公開された映画LIFEを鑑賞した。監督はチリ人の父とスウェーデン人の母との間に生まれ幼少時にスウェーデンへ移住、そこで育ち、デンマーク国立映画学校を卒業してプロとなった1977年生まれの40歳働き盛りの第一線であるダニエル・エスピノーサ監督である。

 

 現実にもISSなる国際宇宙事業の推進役は毎日地球を16周して、常時6人のクルーが従事して行われている。高度400kmを秒速約8km(時速28800km)で飛行、90分で地球一周しているこの現実の設定をその侭全てセットの撮影だけで、一切のCGを使用せずに作られた映画である。

 本映画ではかなり現実の今に近い近未来を設定していて、そう遠くない今に近い未来だということが重要なこととして語られる。火星の生命体存在を確かめるプロジェクトの一環として或る微生物を発見し、船内に持ち込み調査しているところに、この生命が思わぬ刃を人類へ向けてくることからこの映画の本筋が進行していく。

 この映画がその粘着質の粘体的単細胞生物であるが、人命を奪うことで益々ウィルスの様に増殖していくことで見る者に或る固有のホラー、スリラー的恐怖を誘う仕掛けとなっている。そして惑星保護(或る惑星で発見された生命を違う惑星へは持ち込まないという環境の異なる生命を隔離して、調査するという宇宙計画上でのモラル的規定)に沿って、それを地球から隔離させようと船内クルーが奮闘する姿だけが描かれた映画だ。

 

 そこで示されることはプロの乗組員として地球へ思わぬ被害を持ち込ませない為に自己犠牲を買って出る船員達の葛藤が中心に描かれる。その際にまるで猛獣使いを翻弄する猛獣の様なエイリアンが全ての(と言っても主な登場人物は乗組員の6人だけなのだが)人間に対するエイリアンがもう一人の主役の様な扱いとなっているし、その特撮描写は凄まじい。

 

 アメリカ、イギリス、日本、ロシアのクルーが現実とほぼ同じ様な設定となっていて、真田広之(在米の日本の名優)も日本人エンジニア、ショウ・ムラカミ役(プログラミングエンジニア<とアメリカでは正式に言う。日本でのシステム・エンジニアである>)出演者として参加して、素晴らしい演技を見せてくれている。アメリカ人医師デビッド・ジョーダン役をアメリカ人俳優ジェイク・ギレンホールが演じ、助演英国人検疫官をスウェーデン人女優のレベッカ・ファーガソンが演じるというキャスティングとなっている。

 犠牲者の一人となる司令官のロシア人エカテリーナ・キャット・ゴロフキナ(オルガ・ディホヴィチナヤ)は自らの冷徹な指令で自分以外の犠牲者を出してしまったことで、自分が率先して最も危険な任務を引き受け、最後の死に方も極めて映画全体では重要なエピソードとなっているし、最後に生き残る二人(誰がそうであるかは見てのお楽しみ)の一人は、地球へ落下して命が助かる船体と、エイリアンを閉じ込め宇宙へ放りだされる船体とをISSから分離していこうと画策し、自ら後者を買って出るが、その際に「俺は宇宙船の生活が長い。そろそろ80億の愚かな地球人と付き合い続けるのに飽きてきたところだ。」と捨て台詞的に語って相手を生かそうとする下りもドラマティックである。

 

 

 この段階で映画の好きな人なら、そして自分がもし脚本家だったなら、こういう結末にするだろうなという私が想像した通りの結末だったのだが、その点も見てのお楽しみ。私はこの映画の脚本家の意図を結末を見て知った時、シリアスな映画なのに、思わず噴き出してしまった。それくらい笑える結末でもある。

 

 

 今年見た全ての外国映画の中では明らかに『バイオハザード・ザ・ファイナル』や『ゴースト・イン・ザ・シェル』等とも共通するテーマであるが、今年見た全ての映画の中でも私にとっては最も強烈な印象残した映画だった。

 人間の人生の機微を描いたものとしては『ムーンライト』(米映画)が最高だったが、サヴァイヴァルクライシス映画の中では本映画が最高だった。

 

 映画は或る意味では志向されるタイプは二分される。一つ一つの人生上でのリアルな会話や成り行きを主眼とするものと、かなり大胆な設定と仮説を持ち込み、人類文明全体をアイロニカルのパロディ的に皮肉り、再考を促す趣向のものとである。その意味では当然後者に属すこの映画は終わり方の決定的な人類文明へのスケプティシズム(懐疑主義)は、数多くのSFホラーから啓発されているが、キューブリック的でもあるし、ゴダール的でもあるし、リドリー・スコット的でもあるし、部分的にはマイケル・ムーア的でもある。

 

 映画の持つ迫真の真実性も、このいずれのジャンルとして描くかによって大きく鑑賞する客層へ訴えるイメージが変わっていく。ひょっとしたら、これはパロディではなく現実にあり得るかも知れないと思わせる技がこの種の映画には大きく求められている訳であるが、その点ではこの映画は絶妙に功を奏していると言える。

 あたかもどんな社会でもあり得そうなフィクションの場合、機微的部分は演技からも台詞からも重要であることは言うまでもないが、逆に状況設定の大胆な仮説的フィクションの場合、アクションや展開の息詰まる迫真性が重要となるが、その意味でも本映画に参加している全てのスタッフのプロ達のチームワークが素晴らしく、全く見ていて飽きさせない出来上がりとなっている。映画の長さが103分(1時間43分)ということも絶妙である。これがもう少し短かったり、もう少し長かったりしたなら全く本映画の意図が伝わり難かっただろうし、そもそも全く異なったタイプの映画になっていたであろう。

 そういった意味で久しぶりに映画の上映時間と内容の絶妙さを感じさせた映画との出会いを果たした日だった。

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