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2017年7月16日 (日)

日記的記述EM 性悪説的な教育が全く無いのは可笑しい

 私は半世紀以上生きてきて、その間に真に無私で公平な立場に立てる人間も、完全に人の立場に立って理解できる人間も、一人もお目にかかったことがない。否、それは貴方が真に素晴らしい人と出会っていないからだと言いたい人には、貴方がそうだと信じる人に対して私は貴方の目が曇って見誤っているだけだ、とそう言いたい。

 だから人は自分本位にしか物事を考えることはできないということを前提に全てを考えていくべきだけれど、日本ではそういう性悪説的教育が全く為されてこなかったし、今もそうだ。だからディベートといったことも性悪説的見解に基づいて為される社会訓練なのであるが、今日本でそれを充分しているとはとても思えない。

 

 性善説的言説、いい子ぶった正義論や偽善的な公平な視点は政治家から官僚からエコノミストに至る迄誰しもメディアではそれしか語れない様に垂れ流しされてきているけれど、それは大半が女性の心を安心させるための方便でしかない。性善説とは女性という性の人達、それは正に世界の半分なのであるが、彼女達はそれしか信用しないという固有のバイアスのかかった見解があるから、知的階級の全ての人達は善良とされる宗教家や神学者に至る迄、その方便の仕方を採用してきた。だから真実には聖職とされる教育者を含めた全ての人達こそ最大悪である。

 率直女性のこの固有の善で表面を塗り固めていこうとする無意識の悪意程世界でも醜いものはない。現代の男子の大半は女性に固有の欺瞞的な性善説主義、清らかであることを好む嗜好に惑わされ、完全に訓育されきっている。

 

 また、悪と欲望にとりつかれたことのない人なら哲学や思想、宗教や文学に目覚める訳がない。だから体裁としては善的なことを言っていても、基本的に彼等の内心は性悪説的である。でなければそういった職に就いている筈がない。

 イエスは兎も角として初期キリスト教を牽引してきた聖職者達はイエスを迫害する立場だった聖パウロをはじめ悪であったればこそ、宗教教団的な倫理を大成し得たのである。

 

 この世でその意味で善的な触れ込みをする全ての人の悪を最初に暴いた哲学者こそニーチェだったと言っていい。でもそれは彼自身もそういうキリスト教徒の伝統的なモラル意識を十二分に引き摺って成長し文献学者としてスタートしたことを熟知していたからである。ハイデガーの頽落その他の倫理的命題はニーチェから引き継いでいる側面も強い。

 

 何か自分の持っている論理や倫理で世界の在り方を更新させようとする人達は全員悪である。そういうものだということを誰しも分かっていて、その悪の巧妙さに舌を巻いてぐーの音も出ないからこそ賛美しているだけのことである。

 恐らくイエスやムハンマドは悪人とは違うレヴェルの人達だったのだろう。だが彼等を神格化させてきた人達は決して善ではなかったし、だからこそあそこまで宗教倫理を大成し、人民の感情をそこへと引き上げてこられたのである。

 

 責任は悪である。だから社会的に家庭を維持していく為には善だけで生き抜ける人は居ない。子供を育てるのも社会へ送り出すのもそうである。

 だからそれができそうにないと思っている人は、悪にはなれないけれど、一切の責任も負えないという立場を明確にするしかない。

 

 だから被災地出身だということだけで教師から生徒に至る迄差別していこうとするのは、恐らくそもそも日本では教育が社会や人類の歴史的真実に目を塞いで性善説的な人間観を植え付けてきたことで生じた極度のストレスが高じてああいったことを引き起こしてきたに違いないのである。

 人間は悪という本性を持ったいきものなのである。それをまず徹底的に叩き込んで、そこから全ての教育が為されるべきなのである。

 

 何か特別の技能や才能があることは、そうでない全ての凡人を支配する権利をその技能や才能の持ち主に与える。社会とはそういうものである。だからまず基本的に社会は全ての成員に対して平等ではない。既にそこから差別的待遇は始まっている。又期待を背負ってそれを実現させない人は、それまでどんなにいい業績があっても、直ぐ引き摺り降ろされる。あらゆるアスリート達を見ていれば分かるだろう。政治家もそうだし、役者や芸人やタレントもそうである。

 だから人類の社会、集団や組織は、全てそういった性悪説的な契約によって成立している。あらゆる保障、担保、利子等の全ては性悪説的な契約なのだ。

 

 日本の場合、国家神道の立ち位置から、その性善説主義が生み出されていることだけは間違いない。だから国際的に活躍する人達は、そのことをよく知っていて、大半の人達はダブルスタンダードで生活しているだろう。日本を捨てて渡米したりして別のどこかの国へ行って再スタートを切る人も少なくないだろう。

 

 哲学がブームとなったのはオウム真理教の一連の事件の在った頃である。それより少し前の20世紀末に論壇全体が賑わった時代(当時はポストモダンブームだったが)を経てカルト宗教的心理へ追い込まれる青年が多発する状況が後押しして大勢の哲学論客はメディアに登場する様になったのであるが、現在は、又そういったメディア戦略のからくり自体が大勢の市民から見抜かれやすい時代となっている。そこで成立するのは時代的ブームへの懐疑的眼差しである。もう二度と騙されないぞという意識に目覚めた市民を説得し続けるのは与党が政権を維持し続ける位に難しいことである。 

 

 でもそう安易に世に出ている人達を信用しないぞという意識は悪いことではない。いいことである。性悪説的人間観を理解してきているからである。

 だから理不尽ないじめや差別が起きた場合、我々はそういうことをせずには居られない日常的に張り詰めた悪しきストレスを生む原因とは何かを考えを進めていくべきである。忖度等の横行する社会はそれだけ洗練された制度が確立されていない社会だと見做した方がいい。

 

 性悪説的な物事の解決の仕方しか人類は有史以来採用してはこなかった。その現実をよく踏まえた見識をこそ信用すべきものとしていくべきである。

 そして女性を差別することを良くないこととして余りにも女性の形式主義的な性善説を放置してきたことからも、女性の男子への横暴も決して今後見逃すべきではない、とも最後に言っておきたい。

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