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2017年7月

2017年7月31日 (月)

世界をどう見るかに既に批評性が介在し、そこから思想も哲学も生み出されていくPart1 行為そのものへ埋没していくことに就いて/ハイデガーの頽落から考える

 現代人は何かをすることに於いて、その目的を明確に理解しているから、それをしているのではない。これは実はずっと古代から人類がそうであったことを今も証明しているだけである。

 

 例えばギャンブルはお金を儲ける為にしているわけではなく、あくまで金を賭けて、そこで当たって得をするか、外れて損をするかというゲームそのものが楽しく病み付きになっていきやすい、つまりそれだけその賭ける行為自体が楽しいからするのである。

 だから現代人にとって仕事全般が既にそうである。

 

 芸術家は芸術作品を作るのが楽しいから作品を作っているのだし、俳優は舞台や映画の撮影現場やドラマの現場で演じること、身体の所作と台詞でやり取りするのが楽しいからしているのである。

 

 それはそういった職業だけではない。通信技術の異様に発達した現代ではSNSもブログも、メールのやり取りも、スマホを通したグーグルマップアプリを使用して様々な場所へ移動して知らない店や観光の穴場スポットを探索するのも、そうやってスマホ片手に調べて、それを下に移動するのが楽しいからしているのである。タクシーの運転手も勿論生活の為にではあるが、現代では既にAIが導入されて、どこへ向かえば必ず客がゲットできるか分かっているから、そこへ早急に向かうのだが、そうやってカーナビにセンサーが表示してくれる場所へ移動することが楽しいからしているのである。

 

 これは全て行為そのものがゲーム性を帯びているということであり、目的がどの様なものであるかより、行為自体が楽しいということが大前提にあると言っていい。

 

だからそれは現在の北朝鮮の核弾頭、ミサイル発射の繰り返しも、かつて全く発展途上国で全てが遅れていたその国が意外と百数十か国と国交を持っているおかげで、ロシアからも高水準の技術を提供してくれる軍事技術者を招待したりすることができて、生活水準も以前より豊かになってきて更に軍事強国を目指ししていく中で、そうやって世界を震撼させることそれ自体が楽しいからしている、という様ないささか日本に居る我々やアメリカ人にとって不気味なことではあるが、人類は古代から狩猟をしたり、海貿易をしたり、遊牧をしたりしてきた様に戦争もかなり頻繁にしてきたその繰り返しをまるで現代社会では、その延長行為として現代人類がサイバーテロ等も含めて延々と只行ってきただけであり、戦争の様な残忍な行為(過去に於いてはユダヤ・イスラエル王国でもギリシャでもローマでも奴隷交易してきたし、それが資本主義経済行為の一つの大きな進化を人類に齎したのであるけれど、それも含めて考えてもいい)をも含めてそれをするのが楽しいからしているのだ。

 

つまり鎮められてきつつあると言われるISILも北朝鮮も人類が生み出させてきたものなのである。それは我々資本主義・民主主義国家全てが作ってしまった怪物なのである。そして彼等にとってそういうことをして世界を不安にさせるのは、その際には目的が何であるかより、それをすること自体が楽しいからしているのであり、それら全ては目的を超越した行為そのものの止められなさが現代人類に喚起させてしまっている一つの現象でしかない、とも言えるのである。

 

何でそんなことをするのかという観点から言えばナチスがユダヤ人やジプシーや大勢の無実の市民をホロコーストで死へと追いやったことも全く倫理もへったくれもなく、理屈や論理的な理由からしたのではなかった。

 現代人は行為自体にとりつかれていくことを熟知していながら、全ての行為を止められないということの上で自分達の行為の意味を認識している。だから目的がないから危険だとは、現代人は余り偉そうに言えないのであり、それを言うなら北朝鮮のしていることは国際社会で自分達のポジションを獲得したいという目的で多分あの様に軍事大国化してきているのである。

 

 だが、古代からずっとやってきたことを現代人も繰り返ししているだけだ、とも言えるのだ。

 

 

 ハイデガーが『存在と時間』ZEIN UND ZEITで頽落(Verfallen)という語彙を使ったのは、第五章 三十八節 に於いてである。

 ハイデガーはここで次の様に始める。

 

 空談、好奇心、および曖昧性は、日常的に現存在が、おのれの「現」である在り方、つまり、世界内存在の開示性である在り方を、性格づけている。これら三つの性格は、現存在でみられる実存論的な規定性なのだから、事物的に存在しているのではなく、現存在の存在を共に構成している。それら三つの性格において、また存在に適合したそれら三つの性格の連関において、日常性の存在の或る根本様式が露呈するのだが、その根本様式をわれわれは現存在の頽落と名づける。

 

 ここで赤字で示した箇所で明確に日常性=頽落を適用した現事実(生の真実)ということを示している。つまり頽落は避けられない我々の生活の本質なのである。

 つづいてハイデガーは

 

 頽落というこの名称は、なんら消極的な評価を言いあらわすのではなく、現存在は差しあたってはたいていは配慮的に気遣われた「世界」のもとに存在しているということ、このことを意味すべきである。

 

 と言っている。配慮的に気遣われた「世界」こそ、後で出てくる世人の頽落を決定的にする一つの場なのである。

 だがこれは意外と日本人には理解しやすい。場や空気に敏感な我々にはすんなりとハイデガーのこの論述の流れは入ってくる。だが欧米哲学史ではこのことは決してすんなりと受け入れられるものではなかっただろう。つまり一神教的な通史観を持つ彼等の文化土壌では、ハイデガーの存在の気遣いといった概念規定は、神による決定を覆す人間の傲慢と受け取られかねない響きもあったからである。

 

 だがハイデガーは決してそこで神からの決定という観念を捨て去っているのでもない。ここに彼の思索と熟考の一つの挑戦がある。

 

 尤もそのことは追々示していくこととして、今回は頽落が目的を持つということを寧ろ後付け的なアリバイ工作にしか過ぎないということを言いたいためにハイデガーがこの概念を利用していることだけを示しておきたい。

 ハイデガーは次の様にこの三十八節の論述を三つのパラグラフの後述べている。

 

 現存在は、頽落しているものとしては、現事実的な世界内存在としてのおのれ自身からすでに脱落している。しかも現存在は、現存在がおのれの存在の進行につれてはじめて突き当ったり突き当らなかったりするような、そのようななんらかの存在に頽落しているのではなく、それ自身おのれの存在に帰属している世界に頽落しているのである。頽落は、現存在自身の一つの実存論的規定なのであって、事物的存在者としての現存在に関しては、何ごとも陳述してはいない。つまり、現存在がそこから「由来している」存在者との事物的に存在している諸関係、さもなければ、現存在が後になってそれと交ワリをもつにいたった存在者との事物的に存在している諸関係に関しては何ごとも陳述してはいない。

 頽落という存在論的・実存論的構造は、ひとがこの構造に、人類文化の進歩した諸段階においてはおそらく除去されるかもしれないような、一つの劣悪な嘆かわしい存在的な固有性という意味を添加しようとしたとすれば、これまた誤解されてしまうだろう。

 

 その後彼は次の様に上の文に後続するパラグラフに結論として締めくくっている。

 

 世界内存在の一つの実存論的様態が頽落という現象において証拠立てられている。

 

 事物的存在者としての規定ではないところの頽落は多分にこの節の冒頭での空談、好奇心、および曖昧性が言語的性格を帯びていて、それが存在それ自体と対峙していく様な性格であることを示している。でもその頽落が世人として当然のことであるとしながらも、ハイデガーは存在忘却の理念から、その頽落を批判する。この批判は従って現実の(actual)な世界への否定ではなく、あくまで哲学的人間、哲学的存在者として踏み込んだ提言である。そして存在それ自体が存在者へと問題が摩り替えられることこそ、今回の記事の前半に長々と示した目的を持って行為しているわけではなく、目的自体が行為の行き過ぎから例えば第二次世界大戦が起きてしまったことから、その反省的意識で国連等を人類が作った様に、しているが、本来行為はその様な反省を常に伴っている訳では決してないと我々人類史に於いて明証されてきているからこそ、そしてそれが存在者間の神からの視線というものを忘れ去ってしまっていると見做されるが故に、頽落していると捉えることに哲学的に(人類思想的な意味で)思考と思索を踏み込むことを意味あることとするのである。

 

 だから空談、好奇心、および曖昧性とは、事物的存在者としての実質からかけ離れた現存在が言語を持ってしまったが故に持たざるを得ない一つの社会的行為、個人の行為のユニゾンから喚起される世人的な意識の向かう先のことなのだ。それは目的を持ってすべきであると我々が何か大きな失態をやらかした後に規定していくそのことを齎している、目的的な意味でなく、日常的に何かせずにいられない現存在の性向・傾向性から語られているのだ。

 

 だからこの一連の目的も無くしてしまっているこの世人的行為の連鎖に目的を付与するのは、その行き過ぎを頻繁に人類史が体験してきているからであり、その目的という意識さえ、頽落自体が生み出してきていることでもあるという思想が、ハイデガーのこの節の一連の論述で示されているのだ。(つづき)

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2017年7月30日 (日)

思想・哲学メモPart80・宗教メモPart11 神と倫理に就いて

デカルトとハイデガーは確かに異なった系列の哲学者である。だが彼等には或る決定的な共通性もあり、それがその系列の違いを際立たせている。

 

 まず彼等はバークリーがロックの認識論を観念論へと完成させ、然る後有神論へと至る様な道筋にある経験論者ではない。

 デカルトはコギトという判断を最終的に持つ。そこに至る迄、経験論・実証主義的な省察や現象学の記述方法の元祖とも言える仕方の検証もするが、その末に判断されるエゴ・コギトは先験的に彼の合理判断に基づいている。その意味では彼は合理論(理性論)者である。

 ハイデガーはデカルトの様な自己意識から生み出される一元的世界への把捉からは画然と超越した自己そのものから離れた視点を採用する。それは他者全体である。彼が言う現存在は自己をもその他者の一部へと組み込んだ人類のことである。

 

因みに永井均は言語獲得する我々は自己意識を持ちながら、その自己意識が他者と共存していることから意識されていることから、既にその時点で自己を自己以外の他者一般へと紛れ込ませ(つまり自己を他者化して)世界を考えているということを示しているが、これは彼がハイデガーやハイデガーへ影響を与えているニーチェから引き出している考えであるとも思われる。

 

 ハイデガーは明らかにこの考えは自己意識から齎される視点だけでなく、言語、或いは言葉と言ってもいいが、その思考を通して得られたことを基にしている。そしてその認識の発見こそがタウマゼインなのである。

 

 従って自己意識からの視界獲得と世界把捉という一元性に基づくデカルトも世界を現存在全体が織りなす一つの存在と言語の遣り取り(ゲームと言ってもいいが)から考えるハイデガーも先験的にそういった把捉を保持しているという意味で、哲学的問いを継続させるタウマゼインは経験を超越したものである、という意味で合理論(理性論)者なのである。

 

 ハイデガーは先述の様に現存在を集合として捉える段で既に他者全般を考えているので他者哲学の祖とも言える。レヴィナスが自己固有の倫理哲学を獲得する際にハイデガーを大いに参考にしていることはよく分かる。

 

神と言う時、明らかにビッグバン以降の全宇宙史を、非∃から∃へと移行させた世界の起源=創造ということからすれば、それは自然創造の神ということとなる。世界秩序・世界∃設定者という意味である。

 しかし我々人類は人間同士の関係性から生み出される思考、倫理その全てを最大価値とするという側面も、自然全体の中の一部という考えがあるという側面以外にある。その時神とは明らかに人間愛とか、道義や理性的な救済思想、全ての慈しみや憐みの意味を問う、倫理思想の創造主だという考えが顕現する。

 

 プロテスタンティズムがカソリシズムから大きく転回させたことは神=イエスとの自己内の純粋な対話である。これはカソリシズムが社会機能として一つの救済システムとなって目に見える社会内道具、つまりインフラになってしまっていることの批判である。組織的腐敗や免罪符等の初期キリスト教団的モティヴェーションから離れた教会の実態を鋭く批判したものだった。ルター、カルヴァンによって推進されたこの思想が、神と自己を直結させた。その間に神父や教会権力が介入することを否定した。それはローマ法皇制度全体への否定だった。

 

 だが人間は人間同士でしか理解し合えないこともある。その点では人間が他者を一切巻き込まず自己単独で神と対話することは、逆に非情なる孤独、孤絶を覚悟しなければいけないので、プロテスタンティズムは冷徹な合理主義的経営者に見られる様な生き方へ結び付けられやすい側面も確かにある。

 独裁者も神との対話はしているかも知れない。だからプロテスタンティズムは純粋な自己責任論=力の論理(その点ではニーチェの力への意志はそういった考えをかなり含んでいる。彼自身プロテスタント的視点でものを語っている)という志向性があることは確かなのである。

 

世界をデカルト的に一元的な自己判断から把捉するか、ハイデガー的に全ての他者を含んだ現存在としての自己から、世界を自己判断や視点を超越した想念から把捉するかという選択の問題自体が既に、その把捉主体に於いて神を介在させている。神が被創造物の全てを俯瞰する眺望を意図的に採用している。かなり無意識に近い意図であり、恣意としてそうしているのである。

 

 だから哲学的思索者として生きることの内に、既に他者∃全般と自己との関係性、そして把捉される世界の見出し方、それら全てが神と倫理の問題に触れているのだ。

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2017年7月29日 (土)

創作と研究

つい先日或る友人とコーヒーを飲んで食事をした後でビール等を飲んで歓談した時に、主に哲学と神学の話になったのだが、彼が私にハイデガーを皮切りに哲学の話が盛り上がってきたところでハイデガー以外の色々な哲学者の話になってからデカルトはハイデガーとは全く正反対だ。デカルトハイデガーはそもそも系列の違う哲学者だ。と語った。全くそうなのである。つまり哲学には色々な水脈というか自己資質的な系列があるのだ。

 

 或る意味では(その時は彼とは話さなかったけれど)ウィトゲンシュタインはデカルト的系譜の哲学者である。ウィトゲンシュタインより先人ではジョン・エリス・マクタガートもそうである。

 

 どういう系列かとは、かなり遡って恐らくギリシャの哲学者達の資質からずっと継続してきているものだろう。それはそういう学術的な営みがずっと続いてきている欧米の伝統的な思考方法の中に見出せるものなのである。

 どの哲学者がどんな信条を哲学的専門性として以前の生活信条としているかという私人としての態度は一人の哲学者の思想を読み解く際に極めて重要である。

 でも例えばデカルトでもハイデガーでも専門的に研究するなら、フランスやドイツに留学してその土地の風土、つまり彼等が幼少期から晩年迄過ごした土地を具に歩いて確かめなければいけない。でもそれはかなりお金もかかることであるから、そういう機会を作る為に人との出会いを作らなければいけない。でも幾ら素晴らしい人と出会っても、本人が研究するかなりの有意義な何かを見出していなければ、誰も協力等してはくれない。

 だからそういうものが見つかる迄はかなり自分で違う職業を持って生活しながら、空いた時間を惜しんで使い、そこで成果を挙げるしかない。

 私の場合は、何とか創作で飯が食えないかと考えて奮闘してきた(その間に違うことをして生活を凌いできた)のだけれど、創作自体がかなり、それだけで食っていくことが難しい何かなのである。

 

 でも哲学とか神学の本を読み漁ることで得られる何かは必ず創作にも役立つと思う。何故なら偉大な哲学者や神学者達とは、凄く人生上で何等かの大きな経験によってそういうテクストを書くことを促されてきている訳だからである。彼等は学徒としてだけ学者であった訳ではない。少なくとも歴史に残っている人達はそうである。

 その何故ああいった偉大なテクストが書かれたかということに関する研究も、その書かれたテクストのロジックに関して以外にも必要である。

 

 でもそれは詩人とか劇作家でも小説家でも同じである。何故そういう作品がその人によって書かれなければいけなかったかという必然性に何か最も大切なものがある。それを見つけなければ意味はないのである。

 でも勿論その詩とか戯曲とか小説そのものの魅力が発散し、読む者に啓示を与えることそのことを別の著者同士と突き合わせて考えていくことも無意味ではない。

 

 そういうことを考えていくと先程の私の友人との会話で出たデカルトとハイデガーの最大の系列的差異とは一体何なのだろうか?

 

 ところで、バイロン(1788-1824)は自分が足に障害を持つのと似た境遇に12歳の時に大病が原因で身体の成長が止まってしまったアレクサンダー・ポープ(1688-1744)が最も好きな詩人だったらしい。未だ私はポープの詩を読んでいないが、バイロンの幾つかの長編詩を翻訳した後にじっくり読んでみたいと考えている。ポープは文学論、擬英雄詩体風刺詩、論敵を罵倒した長詩等様々な試みでイギリス古典主義文学の代表的人物と目されているが、バイロンの歴史詩的な感性が彼からインスパイアされたものかも知れないと思わせる共通性はバイロンの詩を読む限り、つけられそうだと思える手応えは確かにある。

 

 でももっと形而上的・神学的なアプローチならウィリアム・ブレイク(1757-1827)である。彼の生涯はバイロンの様な波乱万丈なものでなく、堅実な市民生活の全うと言っていい。だからこそ書けた詩世界だとも言える。

 詩人の場合かなり生き方や収入等の得方、つまり生活スタイル等が大きく創造に反映する。

 

 勿論同じことは哲学者にも当て嵌まるだろうが、ハイデガーはそもそも神学者出身であり、デカルトは数学者・自然科学者だったので、その出自の違いが大きく反映されていると言える。

 

 デカルトは確実で明証的知識を基礎にしなければいけないという使命感があったので、その後のマクタガートやウィトゲンシュタインへとその考えが受け渡されてきていることはよく分かる。

 

 だがハイデガーにとって確実なことは明証されるべき、つまり数値化したり決定的に定義を明確にしたりして疑問点を払拭することによってではなく、寧ろそういう風に確定的に固定化された論理へ収斂出来ない、つまり言い切ることのできない何かだけを見出すことである。

 

その点では確実な明証性を求める実証主義的立場からすれば神秘主義的だと感じられる何かがあるかも知れない。

 

 だがハイデガーの文章はよく読むと、そういう神秘性へ陥っている隙は見られない。それも又確実な事実である。

 

 だからハイデガーの系列とは、デカルト的な系列より、少し厄介である。勿論デカルト系列が簡単であるというわけではない。

 

 要するに実は明証性だけを求めて、それだけを示しても、それを反故にする何かの方を優先して探り出し明証不能性を論っても、いずれに転んでも哲学の論理証明とはなかなか厄介な代物なのである。

 だから、それは先程生き方とか、人生の生活の送り方と詩人の作品世界で述べた様な何かと全く底流では通じているものと思われる。

 

 詩そのものは文章の構築なので、必然的にその構造には仕掛けがあり、その仕掛けは哲学者の持つ明証性、論理志向性、方法論とそう変わるところはない。

 でも何をもって詩は詩と呼ばれ、何をもって哲学は哲学と呼ばれるかもやはり一言で説明しきれるものではない。そういうことを突き止めようと思ったら、もうそれを貫徹するだけで数十年を要す、であろう。

 

 つまりそういうことなのである。全て簡単に為せる何かではないということだ。

 

 創作と研究とはだから本当の意味で底流では同じ水の中の世界での魚類や微生物の生活するエコシステム(生態系)の様に何かが横立っているものと思われる。だからデカルトのセオリーやロジックもハイデガーのそれもそういとも容易く解明出来る程軟なものではない。

 

 例えば概念毎に分節化させて論じたとしても、一つの概念が持つ性質や機能や構造やその効果が別のもう一つの概念の持つそれらと重なり合っていたり、逆にそれでいて反発し合っていたりする。しかし仮に反発し合っていたとしても、相互に対義的に存在し合うのだとしたら、その異質性とは、共通の基盤に在ると考えていい。

 

 それは詩的言語にも恐らく延々と介在し続けることである。

 一つの語彙の意味は違う語彙の意味と重なり反発し合う。そしてその簡単に相互を完全に隔離し合えない矛盾した共存の中に何かが読み取れるのだ。だから詩の言語の機能と構造とは、その関係性そのものの意味の把握を促進する装置として設定されていると見てよいのだ。

 

 

 完全に切り離し得ないにもかかわらず、どこかでは反発し合っている様な相互の存在(或いは存在者)、そこに何かがあるが、それは同時に、切り離されているのに呼応し合っている相互の関係性が、その関係性と関係し合っているとも言えるのだ。

 

 この語彙や文章の意味の個々の意味と意味の関係、意味の関係全体が齎す何等かのメッセージの問題は、詩ではかなり直接分析しやすいけれど、哲学にも当然それが介在しているのである。それを読み解くには詩の解析が役立つことはあると思う。

 

 そういったことはしかし私が実際に詩作すること、つまり創作家としても行っていくことで、展開されていく、謎の解明も進展していく様な性質のものではないだろうか?

 

 ただその詩創造が論理的解析に役立つことそれ自体の意味も見出したり、その構造の論理的意義を証明したりすることは、それはそれでそう容易なことではない。もうそれだけで生涯を費やしてしまうくらい大変なことだろう。その片鱗を私が関われるか、それは断念し誰か他の方へ委ねていくかは、私に後どのくらい人生の残り時間があるかによるので、私自身で決定できるものではないだろう。

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2017年7月28日 (金)

思想・哲学メモPart79・宗教メモPart10

全ての物理法則(重力や電磁相互作用、弱い力、強い力等)が、単なる偶然ではないかたちで実現されているとするなら、それは全てが偶然であるという考えは矛盾してくる。或る部分では明らかに全ては決定されている。後は例えば物質を構成する粒子等の秩序が決定された上で例えばブラウン運動等によって、それがどう展開されるかというタイムスパンに於いて初めて偶然が介入し得る。しかし如何なる偶然も無限に拡散した可能性から突如降って湧いた様に起こるのではなく、或る程度の範囲へと限定された可能性の条件から起こっているのだとすれば(それを逸脱する偶然等あり得ないのだとしたら)、そこでは時間がやはり所与されていることで展開する経緯なのであるから、それら全てを設定した者というポジションは常に想定し得る。

 

神はその設定者ということに尽きる。だから全自然界、宇宙の全ての創造という観念、起源という観念から神は創造されている。我々が神を創造したのである、しかし一旦創造してしまった神が我々を創造したのだと捉えている訳だが、そうは言っても(実際)そもそも神が我々をしてそれを発見せしめたのではないとは証明できない。

と言っても例えば数字は我が創造したのではないとしか言えない。何故なら全数学者が同じ数値をアウトプットし得る数秩序があるとすれば、それは人間による創造とは言えない。人間による創造であるなら、完全一致はしない筈だ。だから数とはそれ自体人間が初めて発見したとしても、予め設定されていて、後で我々が見つけたに過ぎないと言い得る。

 

数学では直観主義は数学者の直観によって数学が営まれているという判断を基礎とし、形式主義はあくまで公理と推論法則に従って行われるゲームだとする判断を基礎とする部分では、前者は人間中心主義、後者は記号客観合理主義、つまり前者が主観、後者が客観を基準にしているということだけは分かる。哲学では生の哲学は前者、記号論理学・論理実証主義の流れを汲む分析哲学の記述主義は後者のスタンスと平行していると捉えることもできる。だが両方とも数そのものの起源の設定という考えに至っている訳でも、そういう考えを介入させている訳でもない。

 

起源はそれ自体問うことを伏せるかたちでしかそれ以上の何も論じることができない。だからその領域に踏み込めば「信じる」ということだけになっていく。

 

 プロテスタンティズムとは目に見える形で教会やその寄進や儀礼的慣習で人間社会の形式に追随して腐敗をも招いていたカトリックへの批判精神によって形成されてきたものである。それはキリスト教にとっての神人一致存在であるところのイエスとその予言、訓戒、つまり新約聖書記述のイエスの言葉と信者個々の自己との対話だけに信仰を焦点化させた考えこそプロテスタンティズムの本質である。それは目には見えない、心の中で信じる(信じて疑わない)という気持ちだけを前面に押し出した思想である。

 

現代数学の様々な発見は常に神学と一体化した世界観の中から育まれてきたというのが下村寅太郎による『近世における幾何学の生成』(194011月)の論旨であるが、その顰に倣うなら、にも関わらずグローバル社会の中で学術が位置づけられるにつれて、一キリスト教へと発展していったユダヤ教発の宗教史だけでなく、キリスト教普及以降のユダヤ教のキリスト教からの隔離的永続史、或いはイスラム教とユダヤ教の協力史や、それ以後の離反と対立史、それらいずれでもないヒンドゥー教、仏教、儒教、道教他のアジア多神教の宗教倫理との相互関係と個々の宗教史が成立し得るなら、たとえユダヤ教発のキリスト教倫理を基礎に発見された公理や真理であっても、それ以外の宗教文化圏の人達にも理解可能なグローバルでユニヴァーサルな価値のものとして考えられる可能性の場として現代論理学や倫理学、形而上学等が考えられるであろう。

 それは起源がどうであれ、それによって齎された結実した価値から、起源を異にするものへの適用可能な思想だということの発見である。

 

 でもそういう風に自分自身の民族的アイデンティティを度外視して、メタ的視点から諸処の思想史、宗教史を回顧しようと試みること自体に、既に神の視点への各自の模倣が為されていると見做すことができる。どの立場にも立たないで、全ての異なった信仰を全て上から見下ろす地点への自己視点の設定とは、それ自体神の視点の借用なのである。だからこそそこから例えば私は日本人であるが、世界中の日本語以外の言語と日本語との相関性や位置づけを普遍文法的視点で行ったりすることができる、と言える。

 

 そして既にそこに我々は意識の上でも言語行為上での原初的な論理思考の上でも神という視点をまず認めた上でそれを行っていると言える。つまり客観的合理思考そのものが神を認めていることでもあるのである。

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2017年7月27日 (木)

7月27日のTweets 人生、生活信条的思想、ツイッター上で出会った人達他

 中国人もかなり大勢インテリから学生や会社員迄話した事があるが、彼等も個人としては自由を重んじている。国家では政治家・官僚やエリートだけが大手を振って歩いている感じだが、彼等は思想があるから、いずれ共産党一党独裁を何とか変えていくのではないだろうか?中国人個人は好きだ。

 

 色々な所(大きな公園とか映画館他)で大勢の外国人を目にするし、時々道を聞かれ一言二言三言話す。英語が多いが、フィリピン人、インドネシア人、タイ人、韓国人、台湾人、どの人達も日本人より自由を価値としているのは分かる。アメリカ人は勿論だが。教条的なのが好きなのは日本人だけだ。

 

 僕のツイッターのツイートをよくLikedしてくれる女性(アバターでは写真でそうなっている)がいるんだけど、彼女のLikedしているツイートを見ると、彼女自身はどうもインドネシア人らしいけど、英語、日本語、ポルトガル語まで理解しているらしく、全ての言語のツイートを選んでいる。凄い!(FB

 

 私自身は東京五輪・パラリンピックは楽しみだが、それさえ楽しみにしない自由もあっていいと思う。今凄く大勢の人達が関心持っていても、自分は敢えて余り興味ないから乗らないということはもっと大切にされていい。政治さえそうだし、全てに言える。そういうてんでんばらばらが自然でいいと思える。Liked in Twitter

 

 これは結構当たっていると思うが、日本人は働き方、皆で一緒での楽しみ方、神輿を担ぐ様に協力し合うことは確かに他の民族より得意だろう。でも休み方、心の落ち着け方(瞑想や沈思黙考)が下手だと思う。そういうことが障害者施設を襲撃させ、被災地出身生徒を先生と生徒が一緒に差別させる。

 

 社会は個に神経を遣う様に強いる。率直自分は自分で考え事する以外は一切神経を遣いたくない。でも日本は或る意味余程金に余裕がないと他人との関わりの煩わしさから逃れて生活できない。日本は精神的に社会(共同体)主義だからだ。個が神経を一々他者との接触で遣わない社会が理想だ。Liked in Twitter

 

 他人は信用してはいけないという気持ちで自分は生活している。だが毎日テレビで見られる又吉直樹は作家で芸人で且つニュースキャスターやレポーターをしているから一々向こうから紹介して貰えなくても信用できる、ということは否定しない。又誰かから金を借りる時金を持っていると証明されれば信用する。

 相手が青年だからと言って中年以上の年配者も気を抜いてはいけない。人は生まれた瞬間から或る程度その世界への対し方は決まっている。他者へ配慮できる人ばかりでなく、社会を警察官他の職で取り締まる事だけに長けた官憲的支配能力だけずば抜けた人も居るからだ。この違いは深刻な溝だ。Liked in Twitter

 

 数か月前から在ロスのアメリカ人ミュージシャンのご夫婦に招待され或るサイトで自分の詩も発表してきているが、意外とこんな哲学的内容のものは一般受けしないかなと懸念した作品の方が普通の詩よりずっと受けている。やはり一般的水準から言ってもアメリカ人の方が日本人より全般的に哲学的だ。

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人を信じることを前提に育まれている社会とそうでない社会/でも国家が個人を信用すれば人同士は信用しなくても行為責任だけでいい

  

私はかなり幼い頃からずっと頼みもしないのに親切な事を言う人が嫌いだった。日本ではそういうタイプの大人が少なく見積もって約七割である。そして大半の市民はそういうタイプの人を親切だと感謝する。だが私はどうしてももう還暦に近い年齢になっても、そういう人の言うことを余計なお節介としか思えないのである。

 

 

 それは単に日本社会全体が人を信用するということを前提にして機能しているからである。これは極めて世界的にも珍しいケースである。

 

 何故なら資本主義社会とはそもそも人を信用できないということを前提に全てのルールが設置されているからである。人は神ではないから過ちも犯すし、又そういうものとして競争とは、自分が相手に負けたくないという闘争本能を利用して成立している。だから資本主義に於ける利子や担保や保証人等の全ての規約や制度は性悪説主義に立って設定されている。

 だから日本社会は建前的にも本音的にも資本主義を採用していながら国民感情そのものは、そういう資本主義ルールと国民性(的建前的慣習)との間で引き裂かれているとは言えないだろうか?

 

 自己責任とは他者を安易には信用しないということを意味する。そして資本主義社会とは誰かが大儲けをすれば必ず他のかなり多数の誰かが損をするということを意味する。だから競争主義社会では人を安易には信用しないという事が鉄則となっている。だからこそ契約が成立し得るのだ。又言語とはそもそも人の心は自分の様には分からないということを前提に営まれている。人の気持ちが自分の心の様に分かったなら、そもそも言語等必要ない。

 

 だが日本では個人の間の契約は殆ど無いし、在るのは個人が会社と契約することだけであると言っていい、個人と個人は主体的に取引し難い様になっている。個と組織や集団という関わりしかないということは自由に交渉や取引ができないということを意味する。個の判断が自由ではないということは、そういう社会自体が個を信用していないという事を意味する。

 自己責任や主体性とはあくまで個が国家から信用されていて、その前提で育まれるものである。だがそういう風に個が自立していることを国家自体が日本では望まないのである。従順に権力者や権威者の言うことを聴いていればいいからなのである。それは単に一切の社会的矛盾を生じさせない様に国家がしたいからである。政治家や官僚だけに管理されている社会だからそうなるのだ(因みにアメリカ人は全員国家から管理されているという意識を持っていない。個と国家と国家を支える神との関係しか信じていないからである)。

だから全ての下々の人達は日本では責任倫理ではなく、お互いに国家からは信用されていない権力者の捕囚同士だという性善説主義的関わりだけが許され、責任はお互いに擦り付け合い、責任を個が持とうとすることをお互いに忌避し合う社会なのである。つまり自意識とか主体性を持つことはこの国では危険思想以外の何物でもないというわけだ。

 

 日本ではどこの組織にも帰属していない人を絶対に信用しない。つまり組織や集団は国家が信用しても、個人は信用していないのである。

 社会が個を信用しているなら、個同士は常に相手に対して信用していればいいというだけでなく、お互いに取引という事だけが成立する筈だ。

 だから日本は常にお上的な偉い一握りの人達だけが責任を持ち、それ以外の人達は只その判断に従っているという感じである。これはかなり大勢の人が共感し得る事実ではないだろうか?

 

 社会が個を信用していない社会の典型とはその社会を指導している人達、つまり為政者・権力者や権威者だけが判断をし、それ以外の社会成員は全員その判断に従っておればいいという社会を意味する。だから臣民的な人達同士とは個人の利害で結びついたり、競争し合ったりしているのではなく、あくまで敷かれたレールに沿って走る電車に乗り合わせているだけという感じである。

 日本はだから太平洋戦争を開戦した時も民主主義的ルールでそうしたのではなく、極一握りの人達が天皇を利用して始めたのである。そして多数の戦争による犠牲者を出しても、依然天皇制へ批判を唱える人は戦後登場しなかった。これが違う民族であるなら革命が起きていても可笑しくはない。

 

 

 つい先日秩父鉄道の三峰口からバスにのって川又というところの山道を歩く趣向の最初に参加者を有料で乗せて下ろしたバスが待っている同じ個所迄戻るというウォーキングに参加した。最初にウォーキングのスタート地点に連れて行ってくれたバスに乗ったので比較的早い時間に私は戻って最初に駅へ戻るバスに乗り込んだ。

 その時隣席(窓際)に座っておられる年配の紳士に私は「このバスは最初に戻るバスですか?」と質問した。その方は「そうです。」と返答された。そこから私とその方との会話が始まった。

 私は来月埼玉県と東京都と山梨県に跨る山、雲取山に登るつもりなのだとその方に告げた。そしてその登山に行く前にウォーミングアップとしてもう少し低い山に何度か登ろうと思っているのです、と言うと、その方は「高い山に登られるなら、それまで余り無理をせず体力を取っておかれた方がいいですよ。」と言われた。それはその方の親切心からでた言葉だったのであろう。余りそういう忠告を初めて会った方から言われるのは好きではないが、ま、そういう親切心から出た言葉だったのだろう、とその時は解釈した。

 

 しかし色々と山に関する話題を話していた時、私はその方に「何年か前に(去年だったか一昨年だったかは忘れた)親に躾けだということで車から降ろされ、後で親がその子を置いた場所迄車で戻ったら、子供は居なくなっていて、数日失踪した子供を探して全国でニュースとなり大騒ぎした事件がありましたよね。」と私は話を切り出し、「その子供の自主的な判断、自衛隊の営倉に辿り着き、水道で水を飲み、室内に置かれたマットで暖を取ったりしたその判断の適切性は素晴らしかったですよね。もう全国のニュース視聴者達は半分諦めていましたからね。」と言った。そして最後に私は

 「その子はその時の体験を生涯忘れないでしょうね。」

 と付け加えると、それまで私の話を只頷いて聞いていたその方が

 「いや、子供は忘れますよ。親は忘れないものですよ。」

と仰った。

 

 つまりこれである。ここに日本人の他者優先思想があるのだ。

 確かに子供を不用意に辺鄙な場所で降ろして失踪させた親は大きな責任がある。だから生涯忘れないであろう。しかし重要なのは、そういった特殊な体験をした子供の心ではないだろうか?一見その方の仰る意見は子供のことを思う親への気持ちの理解として正しい様に見える。だがその意見は完全に子供とは親のことなど構わず勝手に大きくなって自分でいずれ家庭を持つだけだ、という観念に彩られている。つまり子供の主体性とかそういうことは一切考慮していない。

 私はその時「将来その子はその時の体験から登山家になるかも知れませんね。」とも言ったのだが、その方はそのことに就いては一切反応しなかった。

 他者への配慮だけが優先される社会とは、基本的に個人の主体的・自主的判断を余り信用しない社会であるとは言えないだろうか?

 親が子供に悪いことをした贖罪心理への理解も大切だが、その子が将来その時の特殊体験をどう活かしていくかという事の方がずっと大切なのではないだろうか?子供とは案外大人で、彼が親に全国でニュースとになって恥をかかせたという気持ちもずっと生涯持ち続けるのではないだろうか?その方はそういう事はどうでもいい事なのだろうと、その時私は多少呆れた気持ちでいたのだ。

 皆さんは、どう思われるであろう?

 その方の仰ることは平均的日本人の大人の他者への理解力に過ぎないと私は思った。そしてその観念は人の心とは誰からも読めるということを前提にしている。それは心情倫理的観念であり、人を信用し悪意を持ってはいけないという訓戒通りの考えである。

 

 私は哲学も学んできたので全ての哲学者同様、他者の心等そう容易には読めないと確信している。だから今の日本社会のていたらくを見るにつけ、日本では相手へ悪意を持ってはいけないということを基本とした性善説主義で社会が成立しているので、他人の気持ちを忖度したり斟酌したりすることで却って現況の政治的混乱を招いているのではないかと思って、こんな記事を今日は書いてみたのである。つまり今の日本の他者への配慮とか(遠慮や慎み等一切も含む)の営みとは、いささか他者を個として認めるのではなく、国家という強制的に乗せられている相乗り電車の乗客同士の相手を信じようということであるに過ぎないと言えはしないだろうか?

 でもどの駅で降りるのも、どの電車を利用するかも人は自由だし、第一電車に乗らなくたっていい。

 勿論国家とは自分で生まれてくる場所を選べないけれど、少なくとも個があり、主体的意見があるなら、どんな電車にしていけばいいかを考える自由はあるし、そういう自己責任を持つことが我々に可能であるのは、結局個というものを社会や国家が信用するということを、そしてそれは責任倫理なのだから、心情倫理的に相手を疑ってはいけないということで統一するのではなく、あくまで心がどうであるかより、まず行為としてどうお互いに責任を取り、示し合うのかの方がずっと重要ではないだろうか?

 

 私の基本的考えは他者を信用しなくてもいいから、お互いに契約だけは守ろうということであり、そして責任を果たすということだけが信用するか否かより重要だということなのである。

 

 又,今回のその方との会話で親の心子知らずをその方は極自然に採用して、ああいうことを仰ったのだとしたら、その方はその点では余り幸福な人生ではなかったのだろうな、という思いも多少は持ったのだった。

 

 今回の記事の論理的結論とはこうである。

 

 「個人を信用しない国家だからこそ、逆に人を信用し合うことだけを前提とする性善説主義的社会になり、責任倫理でなく心情倫理だけになりやすい。だがそれは本当の個の責任や主体性を育まない。」

 

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2017年7月26日 (水)

リスタート形容詞論Part45 存在と言葉が並置していることの矛盾に就いて 語彙roughから

 日本語の形容詞(粗い(荒い))は通常、対義語は(細かい)だ。

 だが細かいという事態はかなり広範囲に跨っている。何に対して細かいのかに応じて例えば(芳しい(かんばしい・かぐわしい)、慎ましい、麗しい、しおらしい、恭しい、詳しい、優しい)等が考えられる。きっと他にも沢山この(細かい)を意味する項目は考えられるだろう。

 

従って逆にそれらではないというかたちで、(粗い)が考えられるとすれば当然のことながら(粗い)の本質はそれぞれ事態に応じて次の様になる。

 (芳しくない、慎ましくない、麗しくない、しおらしくない、恭しくない、詳しくない、優しくない)

 

 (芳しい)とは何等かの状態が良好であり理想的であることを意味し、(慎ましい)は態度・物腰の相手に対する礼節が良好であり理想的であることを意味し、(しおらしい)は何等かの上位者、権威者へ従順であり素直であることを意味し、(恭しい)は態度・物腰の礼儀正しさを意味し、(詳しい)は何等かの領域に関する知の保有量の多さを意味し、(優しい)は他者に対する配慮が行き届いていることを意味している。

 

 従って(粗い⇔細かい)をミニマル形容とすれば、上記の何に関して細かいのであるかまで踏み込んだものはマキシマル形容となるだろう。

 

 (粗い)は大修館 ジーニアス和英辞典 ではviolent, fierce, gross, coarse, rough, harsh, cellular, loose, crudeと列挙されている。この一つ一つの語彙をOxford Advanced Learners Dictionary of Current Englishで一つ一つ引くと、それぞれの語彙意味規定項目が(階層性を無視して分岐された全てを一つとすれば)violent3, fierce3, gross4, coarse5, rough7, harsh3, cellular3, loose11, crude3となる。

 

 勿論これはたまたま私の手持ちの辞書から導いたことだけであり、どの辞書からでも上記の様な数値は算出できる。

 

 まず多くの項目を辞書で保有するroughlooseのみを考えてみよう。

 今回はroughから考えてみよう。

 この語彙の英英辞典意味規定(上記のOxford Advanced Learners Dictionary of Current Englishから)では次の様になっている(例文を除く)。

 

 

1a(of surface)not rough or level (b)(of the sea, etc.)not calm 2 using excessive force; rather violent; not gentle 3 (of sth in its early stages) done, etc quickly and without detail; not exact: 4 difficult; unpleasant; not peaceful 5 harsh in taste, sound, etc: 6 (infml) not well; not looking happy

 

 

 

 ここで重要なのは赤枠囲いの意味物理的事態の叙述黄色枠囲いの意味行為や状態(人間以外の主語)の叙述水色枠囲いの意味が何等かの対象を前にした人間主体にとっての心的状態の叙述を意味していることだ。

 

 第一義が赤枠囲いであることから元々この語彙が物理的事態から設定されたものだったとは推測できるが、辞書項目自体がこういった全く異なった粗い事に関する異なった向かい方を常に(このことはミニマル形容の最たるものであるbigではより鮮明なのだが)並置させている。

 

  

 それはあたかも存在を存在として把捉する我々が存在と存在を存在として語る言葉とを同じ語彙として並置させていることと同じである。つまり語彙の意味範囲では整然とした階層秩序によってではなく、語彙をその都度話者・記述者が使用するために便宜的に全く異なった向かい方をする意味を並置させているのだ。これは例えば先述の(芳しい)ということからすれば、(芳しくない)というroughの意味からすれば4difficult; unpleasant; not peaceful 6not well; not looking happyによって示すことが可能だろうし、(慎ましい)ということであるなら、(慎ましくない)というroughは当然1not calm 2 using excessive force; rather violent; not gentleによって示すことが可能だ。又(麗しい)ということからすれば、(麗しくない)というroughの意味は1のnot rough or level5harsh in taste, soundによって示すことが可能だ。この様にどの(粗い)一語で済まされる意味の対義語の否定という事態に於いても、物理的事態の叙述行為や状態(人間以外の主語)の叙述対象を前にした人間主体にとっての心的状態の叙述全てを示し得るのがこの辞書項目の多いroughの特徴である。

 

 

 つまりミニマル形容を担う形容詞こそ、異なった向き合い方をする、次元を異にする事態の説明を一語で済ませる利便性を兼ね備えていると言うことができる。だから逆に或る形容詞語彙に一つの項目の意味しか説明されていないなら、それはその語彙が一般的な汎用性からは程遠く、そもそもミニマル形容で済ませられない特筆すべき事態に於いてのみ使用するマキシマム形容の為の語彙なのだ、と判断できる。

 

 一つの事態を踏み込んで語らなければいけないのは、或る報告に於いては最初だけである。人が殺されたことをそれを知らない人へ初めて報告する場合は、その様な殺人現場の現場検証的な報告にならざるを得ないので、マキシマム形容を施すが、その事件自体、或いはその問題の人が殺された事自体をその後に回顧したり、言及したりする場合にはミニマル形容を施して(例の)事件という形で語るわけだ。

 

 「哲学見解と展望」シリーズで私はハイデガーによっても示された存在と言語の全く次元を異にする事態の並置ということがハイデガーにとっての世界を構成する一つの特徴だと捉えたが、異なった性質のものが並置されざるを得ないのは、要するに例えば生命の大木をダーウィンの進化論に基づいてfamily treeとして示せる様なことだけで世界が成立している(構成されている)わけではないからである。

  

確かに生命だけとってみれば、階層的秩序が発見できるが、生命以外の物質や、人間が書いた書類や文字配列的記述等も含めれば、それは世界が階層的秩序という一律の因果探索可能な一つのシステムだけを語れば、それで済むというわけではないので、世界を記述しようと思えば、必然的に存在と言葉という全く異なった比較しようもない大きな人間にとっての事態を並置させていく様な仕方を採用するしかないのだ。そのことと今回の形容詞の意味規定の持つ異次元、異質の事態の意味が一つの語彙で併用されることは我々現存在が世界へ対峙していることから齎される共通した現象であると言えよう。

 

付記 次回はlooseから意味を探り、今回のroughとlooseとで(粗い)以外の日本語語彙が適用し得るケースを考えつつ論を進めていこう。

 

 

 

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2017年7月25日 (火)

或る日の出来事Part1

 或る時私は都会の歩道を歩いていて、突然見知らぬ人から声をかけられた。その男は自分より少し年長者の様にも見えたが、兎に角一度も会ったことも話したこともない人だった。尤も何故そうだと分かるのかは私にも実はよく分からない。

 男は私に

 「一体どちらへ行かれるおつもりですか?」

と突然私の脇腹辺りに手を差し出して私を振り返らせてそう質問してきたのだった。

 

 私は突拍子もないその質問に

 「どうしてそんなことを貴方に今お知らせしなければいけないのですか?一体貴方は何方なのですか?」

 とそう応えた。すると彼は

「皆さん、そうおっしゃいます。でも何故そうやって誰かに質問してはいけないのですか?そして何か質問をする時何故そういう風に自分の名を名乗らなければいけないのでしょうか?」

そう彼は抜け抜けとそう返答したのだった。

 

「今私ちょっと急ぎの用があって、貴方に一々説明している余裕がないのですが、勘弁して貰えませんかね。」

とそう言うとその男は

「そう皆さんおっしゃいます。でもそういう決まりきった人のことを一切干渉しないということって、本当に正しいのでしょうか?」

とそう言い始めた。

私はその時この男は少し精神を患っているのだろうと確信して少しきつくこう言い返した。

「忙しいって言っているのに、一体いつまでもそのしつこい質問を止めないとはどういうことなんですか?警察へ告げてもいいんですよ、あそこに交番がある。一緒について来て下さい。警察官に報告致しますから。」

するとその男は

「では、何故警察官だけは人に職務質問をしても、咎められないのでしょうか?」

とそう私に言いだしたのだ。しかしどういう訳か、その男の言うことにも一理ある、とその発言にだけは妙に私自身が感心してしまったのである。

 

「そう言われれば、全くそうも言えるな。確かに何で警察官だけは歩いている人にいきなり何か質問しても、全く咎められないんでしょうね。そう言われればそうだな、何で今までそのことに気づかなかったのだろう。」

と私は彼の質問に共感して、そう言っていたのである。

 男は私はそう返答すると、そう言いだすのを待っていたとばかりに

「ね、そうでしょう。皆自分のことだけを考えていて、他の人からとやかく何か聞かれるのが嫌だ、そんなこと放っておいてくれと思っているにも関わらず、警察だけは何でも質問することが許されている。可笑しいと貴方もお思いでしょう?」

と彼はそう私へ返した。

 

その瞬間私はその見知らぬ中年の男性との間に共有する何かを感じ取っていたのだ。そこで私はすっかり歩道の片隅にこの男と会話する為に立ち止まっていたのだが、こっちから相手に質問をしようと思い立ってこう言った。

 「ところで貴方はどちらに何を為さる為に行こうとされていたのですか?」

するとその男は

「私は貴方が今私に質問された様に言い返してくれる人に出会えないかと、方々を探して歩きまわって、偶然ここに辿り着いたのです。」

とそう言ったのだった。

するとその答え方にすっかり感心してしまった私はつい彼に

「そうか、そういう目的でどこかを歩き回るということも人には出来るんだな。」

とそう言っていた。

私は自分でも分からないたったこの男から声をかけられた数分の間の自分自身の感じ方、考え方の変化に内心感動していたのだ。

そして、何時か或る哲学者が書いた本で、息子が困ったことになった時に、その息子を心配する自分に感動したのだ、と告白したエッセイを読んだことがあったが、それを思い出していた。

そうだ、自分も又自分自身の変化に感動することもできるということをその時私は発見したのだった。そしてそういう風に私自身を持って行ってくれたその男に私は感謝さえし始めていたのだ。

 

私はその時咄嗟に自分でも自分がしていることに或る種の戸惑いを覚えながら、その名前も知らない男にこう言っていた。

「いやあ、何か目から鱗が落ちた思いを今貴方から突然声をかけられて、している感じさえしますよ。今日は大した用でなく行く予定の場所があったのですが、行くのを止します。私も貴方みたいに、私が貴方に答えた様な仕方で返してきてくれる人を探して、違う場所を歩いてみようと思います。」

そう私は言い終えると、彼は

「そうですか?それなら貴方に質問をして良かった。」

と言って一瞬私に笑みを返した。

 

私はそれを見てその時背負っていたリュックサックを歩道に下ろして、中にしまい込んでいた名刺を取り出そうとして、それを開こうとしてその男の顔を見ようとしたら、男はもうその一瞬の間にどこかへ居なくなっていて、どこを見まわしてもすっかり私の周囲からは見えず、どこへ去って行ったかも全く分からず、私はとうとう最後までその男に関する一切の身元も何もかも知れずに一人そこに取り残された。

 

でも私は次の瞬間その男へ私が言った様に言い返して来る誰かを探しに、どこかへ行こうとする気持ちもすっかり失せていたので、予定どおり行こうとしていた場所へ赴いた。その時はずっと前から見ようと思っていた映画を見に映画館へ向かって歩いていたのである。

 でも映画館についた時にはその映画の次の上映迄三十分程未だ時間があった。上映時間を私はネットで見間違えたか何かで少し早く家を出過ぎただけだったのだ。

 その小さな映画館に入って、私は次の上映時間まで待合室のソファに腰を下ろして、そこへ来る迄電車の中で読んでいた本を取り出して続きを読み始めた。そして十数分前にあったこともすっかり忘れていた。

(了)

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2017年7月24日 (月)

哲学見解と展望Part2 ハイデガー哲学他を通して理解できることから再度哲学してみるとⅡ 前回の復習と定義、そしてマルセル哲学を更に見てみる

 一方で存在は言葉以前的にしか感知し得ない。それが現存在としての我々の存在の圧倒的顕現である。

 にも関わらず、そのことは言葉でしか説明できない。言葉では説明できないということ自体が言葉でしか説明できないからだ。これはレトリックではない。言葉で何とか説明したいと我々は(何故か)願うからこそ、言葉では言い表せない、とそう言うのだ。この点は極めて重要だ。

 

 だが同時に我々はこの様に自らの言葉不足(と言うことは言葉がもっとあればいいと望んでもいるわけだが)さえ克服し得れば言葉で説明し得ないことさえ説明できるのではないかと、そうも思っている。だがその事実は、言葉だけでは全てこと足りるとも我々が思っていないということと対をなしているのである。この点も極めて重要である。

 

 すると言葉が何故、そして如何に存(在)するのかという命題が立ち上がる。ここに以下の三つの大きな真理が控えている。

 

言葉も存在の様に存在している。

 

存在が存在していることも言葉(やそれを作る我々の能力)が作っている。そうも言えるし、その様にしか存在も規定され得ない。何故なら、存在を問うことも一つの言葉の営みなのだから。

 

にも関わらず、言葉が仮に存在しなくても、存在自体は存在し得る、と現事実的に(記述的にでなく)我々は理解するし、そういう客観的事実を我々は確かに信じてもいる(これを、でもその客観的事実は言葉が我々に強いている、とそう分析哲学者なら考えるだろうし、分析哲学者とも言えないが中島義道等もそう考えるだろうが、そういうロジックへ転がし込むことはこの場合、御法度としたい)。信じている、とここで言っていることは、即ちその様に理解するし、知ってもいるし、それを疑わないということだ。

 

 我々は要するに、言葉で存在をカヴァーしたい(存在が言葉をカヴァーしているに過ぎないと現事実的には知りつつも、そうしたい)が、それが或る一定以上は不可能だと知っているが、それを止められもしない。

 そして言葉が存在を呑み込めないと知っていて、しかし存在は言葉でしか規定し得ないとも知っているので、言葉を存在と対等にさせたくて、そうしつつ、それが対等でないとも知っていることになるので、それが我々が言葉を一つの存在として固有の愛着を持って接している、つまり言葉を存在として扱っているのだ、ということを事実として導くこととなる。

 

 そのことを踏まえて前回から今回迄の内容を図式化させてみると下記の様になる。

 

存在 ⇔言葉

 

 意図として固定化を志向する=存在全体をカヴァーする  ことを志向する

 

存在否定時間的変化・固定化を拒む=存在肯定

(つまり否定することで肯定する、そういう存在の在り方を規定する)

 

だが我々は言葉では全体をカヴァーしきれないとも知っている

 

 上図で重要なことは言葉と存在とがあたかも相互入れ子構造的に我々の前に呈示されていると一見思えるのだけれど、決してそうではないと我々は知っているということだ。

 確かに我々は存在の意味を考える。それは存在に就いて我々がやはり或る部分では言葉によって知らしめられているとも思っているからだ。だが、だからと言って存在と言葉を対等だともやはり我々は思えない。何故なら人間が絶滅しても尚地球も太陽系も宇宙も存在し続けるだろうとも思うからだ。

 

 だが相互入れ子構造的に存在と言葉が存在しているのではないにも関わらず、その様に(サルトル的に言えば自己欺瞞的に)振る舞われていることそのことは、そうだと我々が重々承知していても、尚それ程どうでもいいことでは決してないのである。そのことを追々示していくことが本記事シリーズの目的でもある。

 

 少しだけ触れておくとすると、我々は全的理解を一方で望みもすれど、どこかではその儚い夢を諦め、それでいてその様に諦めることに満足もしている。でも全的に少しでも近づきたいとだけは我々は常に思っているのである。

 そしてそのことを何等かのかたちで哲学的論理で解明することも本記事シリーズの目的でもある。

 

 さて前回の復習もこのくらいにして、次にハイデガー以外の哲学者の考えを暫く考えながら再度ハイデガーを含めた哲学者にとっての存在と言葉の問題へと考えを進めていくこととしよう。

 

 そこで一つのキーとなるのは宗教史と神学史である。

 まず現象学で顕現と言う時、それはキリスト教の聖典・新約聖書で示されたイエスの処刑後の復活、再生と弟子や関係者へ現れることをそもそも意味している語彙を流用しているということである。

 これはハイデガーも『存在と時間』で到来という語彙で示していることとも関係しているのだが、ハイデガーは所謂神学的な論争を決して神秘主義的に溺れさせることはなかった。その点では彼はアリストテレスを凌駕しようと目論むだけの正統な哲学者である(ところで正統とは一体何なのだろうか?それはそれで一つの命題である)。

 だが神秘主義的な全てが否定されるべき無価値なものとも言えない。神秘主義的傾向を強めていったと言われる哲学者は大勢居るが、只その本質がよくこれまで理解されてこなかったというだけに過ぎない。そういった人達も自らを神秘主義と考えて哲学していたわけではないだろう。

 

 例えばガブリエル・マルセルGabriel Honoré Marcel(1889-1973)はカトリックから変節したと言われ悪評も買った人だが、フランスではカトリックの勢力が強いからこそ得た悪評であり、そのことは何らマルセル哲学の本質を毀損するものではない。彼自身は劇作家としての名声の方をより切望し、哲学者と見做されることにいささかの困惑を隠しきれなかった様だが、それも彼の哲学的本質自体を毀損することはない。

 

 彼の初期傑作は明らかに『存在と所有』Être et avoir (1918-1933), Paris, Aubier, 1935.である。この仕事で彼は自己というものの不確かさを示している。例えばハイデガーの現存在da-seinはハイデガー自身が存在と言葉の矛盾した共存を示す為に設けた彼固有の概念だが、その現存在自体を探究し、論証する自己、つまりハイデガー自身を彼はいささかも疑っていない。この点ではハイデガーは作家的でも詩人的でもない。

 しかしマルセルは違う。彼はそもそも存在というものはあくまで自己存在を通して得心されるものであるけれど、その自己というもの自体が神によって所有されていると感じざるを得ない一つの自己と存在の体験から書いている。

 

 彼は第一部 存在と所有 一 形而上学日記で次の様なことを書いている。

 

 十一月十四日

 口に出して言えることはすべて、考えることができるものである。もっと正確に言えば、口に出して言えることのうちに、私たちのうちの誰かがいつか、信じたり考えたりできなかったようなことは何もない。言葉の便利さは、あらゆる点で、すっかり完全にできあがった交通網が与えてくれる便利さに比べることができる。けれども、歩きまわるということは、それだけのことならば何の意味もない、話し合うということも同様、いやそれ以下だ。

 どのような審美的なえせ判断が、私にこんな注意下記を思い浮かばせたかは知らぬ、しかし悲しいことに、このような考え方は、多くのえせ形而上学のうちにも適用されるであろう。

 

 十一月十五日

 私を自ら自己としてたてるはたらきが、他人の実在性をたてるはたらきに先立つべきだということを、主張する正当な理由があるか。もしこのことを承認しなければならぬとしても、この先立つということをどう理解すべきか。それは、経験的な意味でも、あるいはまた、先験的意味でも考えることができる。経験的には、私は、私の意識状態全体からできている領域をもっているが、この領域は、知覚され、また知覚されるかぎり私の領域をなす、というはっきりした性格を示す。以上のことは明瞭にみえるが、実際には少しも明瞭ではない。それが明瞭にみえるのは、私の考えでは、ただ、このような言いあらわし方の底にかくれている、一種の唯物主義的な表象によるのである。私たちは、知覚されるものを知覚されるものとして考えようとつとめないで、或る種の器官的な出来ごとの観念、言いかえると、私が私の身体と呼んでいる、はっきりと限界をもっているといわれる領域の中で「生起する」或るものの観念に、すりかえているのである。私の信じるところでは、実際、自己意識の優先という、経験主義的な観念すべての根柢には、私に与えられる一切は、まず私の身体を通して来るほかはない、という基本的な観念がひそんでいる。私の身体が、どうしても介入しなければならないという観念。しかもこの際、私の身体を私にむすびつけている関係がどういう種類のものであるか、あるいはまた私がこの身体を私の身体であるとする行為が、どういう意味でものであるか、厳密なしかたで真剣に探究してみようなどとは、考えてもみないのである。絶対にそうだと主張するわけではないが、ここには循環があるようだ。すなわち、私たちは、感覚から私の身体の一種の表象にうつってゆかざるを得ないのだが、そうしておいてさて、私の身体がまさに私の身体であるという特権を説明するには、さきの感覚のはたらきをまたなければならないのではないか。もしどこまでも経験的な見地をとろうとするならば、この身体を確認すること以上のことは問題にならない、私の身体というようなことを言い出せばわけがわからなくなり、ひどい不合理を生じるものになるように見える、という考えに、私は傾いている。

 しかし、私がさきに先験的見地と呼んだところに立ってみるならば、事態はいささかちがってくる。(『存在と所有』マルセル 渡辺秀・広瀬京一郎共訳 理想社刊)

 

 ここでマルセルは十四日の記では型通りの言語ツール観を示しておきながら(この部分はウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論を思い出させる)、十五日には、その言語観自体が一種の客観主義の陥穽ではないかという視点から、唯物論的客観合理性へ批判を加えている。この箇所はその点ではデカルト主義的でもあるし、ベルグソン的でもある。

 

 十五日記述とは明らかに経験主義批判であり、現象学的記述主義的な批判である。この部分では世間で言われる様にマルセルは連日共に討論し合った仲間であるモーリス・メルロ・ポンティへ大きな影響を与えたということがよく分かる(このサロンにはサルトル、レヴィナス、ポール・リクールも居た)。フランス語版Wikipediaではレヴィナス、マルチン・ブーバー、カール・ヤスパースから彼は啓発されているとされているが、その点は頷けるが、重要なのは、彼が身体という感覚が、身体物理的なる現象を超えた何かから受け取っていることである。

 その意味では彼は神に所有されると体感や感覚的所与自体をメタ的に見ていることが分かる。つまり彼は自己の自由とは神に所有されることで使命は既に決定されていると考えている。この意味では彼は決定論者である。

 しかしハイデガーも又そうである。彼は到来という語彙にそれを込めている。与えられたという語彙が『存在と時間』では冒頭から出てくる。しかし到来はかなり後半終結部にならなければ出ては来ない。その示し方からしてそうである。

 

 つまり神に拠る使命という意識のない者に、体感や感覚的所与を命題として受け取ることは出来ない。それはマルセルが上記の文で批判している唯物主義的客観合理主義である。

 

 哲学は一見批判していることを通して現実を改善させていく意図の様に見えることがある。しかし違うのである。

 哲学とはその客観合理性を生むもの、それこそがきっとハイデガーの示した頽落(頽落とは悪しき事態として語られていない。つまりそれが一つの契機であると捉えられている)が生み出してきていることなのであるが、その正体を見極めていくことそのことなのである。それは肯定でも否定でもなく、一種の真理の見極めなのである。そしてそれは幾分称揚的でもあるが、幾分自嘲的でもあるのである。

 マルセルは唯物主義的にまず査定してしまう頽落を批判しているが、「もしどこまでも経験的な見地をとろうとするならば、この身体を確認すること以上のことは問題にならない、私の身体というようなことを言い出せばわけがわからなくなり、ひどい不合理を生じるものになるように見える、という考えに、私は傾いている。(改行) しかし、私がさきに先験的見地と呼んだところに立ってみるならば、事態はいささかちがってくる。」とこの日の日記を結語しているところを見ると、明らかに先験的見地と呼んだところとは神による恩寵ということ、そしてそう自覚すればこそ得ている自己意識とか、自己存在ということになろう。

 

 メタ的に唯物主義的客観合理性でものを見られるのも、実はそこで既に神による全存在者への視点を借用しているからであり、それは実は仮に無神論であっても、神の視点に立って神を居ないと断じるのであるから、所詮一神教的観念から離脱できているわけではないという思想がここに控えている。そしてそれをハイデガーは直接言いはしなかった(そこがハイデガーの正統的哲学者としての偉大なところでもあるが)が、文学者でもあるマルセルは自己境涯的な見地からさらりと言ってのけている、と解釈することができる。

 

 マルセルもここでしている様に唯物論的自然科学客観合理性批判をすることで、示そうとした先験的所与の問題とは、自らの自己とはハイデガー的に言うなら現存在の被投性が、既にそう捉えることで神の視点を借用していることだから、神から所与された使命に殉じるという意識のないところでは、それが決して成立し得ないのだ、とデカルト主義的に内心の自己懐疑から発した正当性の問い詰め方ではない、遠心的視点からハイデガーは現存在の自己を捉えたことと全く本質的には重なり合うのだ、と言うこともできる。

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2017年7月23日 (日)

哲学見解と展望Part1 ハイデガー哲学他を通して理解できることから再度哲学してみると

 ハイデガー哲学では多分に言語的な営み、つまり言葉それ自体は歴史的な所産であり、現存在の自己規定や他者認識の全てを司っていると考えられている。尤もこれはかなりハイデガーに固有の思想であり、全ての哲学者がそう考えてきたわけでは当然ない。

 ただハイデガーが彼個人の哲学的特質というだけでなく、現代思想全般へ大きく寄与している要素としては、存在と言葉とを別次元のものとしながら、並置させ、存在は存在で語りつつ、存在を語ることそれ自体を存在とは別に考えている様な態度の中に彼の哲学のメッセージとしての重要性がある。

 

 存在と言葉とは異なった志向のものであり、異なった次元への認識である。何故なら存在はどこまでも我々自身や人間の全所産をも超える何かであり、同時にハイデガーは、存在は存在を肯定しつつ否定すると捉える。存在というものに必ず変化が付帯し、しかも変化は時間と共に顕現されている。そして全存在は固定的にそうである様にだけ存在せず、絶えず変化し続けている。このことをハイデガーは存在は存在を認め(肯定し)つつ、否定すると捉えるわけだ。

 

 存在による存在否定こそ、時間を論じる契機を生んでいる。それは要するに固定化を常に拒むことである。だがそれは言葉の性質とは食い違っている。何故なら言葉とは、それ自体意味することと意味されることとが固定化される様にしか志向しないからだ。勿論意味も言葉の使い方も歴史的には変化していく。それでも言葉とは基本的な概念等は固定化されることを理想とする様に営まれている。

 つまり言葉は意図としては固定化を志向するものなのだ。だからそれは世界の全体をカヴァーすることを常に目指す。

 

 だが存在は常に全体をカヴァーすることを存在者全てへ拒む。何故なら如何なる存在者も存在全体を把捉することはできないからだ。そしてハイデガーも常にその哲学態度として現存在は他のどの存在者とも同じく、全体をカヴァーしきれないと知って全てを論じている。

 

 ここでハイデガーの命題が存在でありつつ、存在をカヴァーしきれない、つまり神でもない限り、それが不可能であるにも関わらず、現存在(人間)が言葉によって世界を固定化させたいという欲求で営まれている事実を我々へ覚醒させる。そのスタンスの中に例えば彼が考えた頽落という命題が産出されている。

 

 つまり世界は少なくとも我々、現存在にとっては異なった志向の二つの共存と捉えることができる。つまり一つは存在であり、一つは言葉である。

 

 

 ところで我々は現実生活に於いて、常に全てを理解(納得)して過ごすわけではない。さりとて何もかも皆目分からずにした侭過ごすわけでもない。つまり概ね把握しながら、しかし常に幾分かの未知事項・未解明部分を残し、その全てを完全解決することなく、部分的な何かだけを解決しながら、それ以外の全てを遣り過ごして生活している。つまり全的な解明や解決を放棄しなければ先へ進むことは一切できないと知っていて、事実その様にしてだけ先へ進む。

 では一体その先とは何なのであるか、ということも実は我々は何も知りもせず、又それを知ることなく全ての現存在はその持ち時間を使い切る。

 結論的に言えば我々は合理的に全的に理解すること(納得すること)も、解釈することもできないという真理だけを携えて生活していかざるを得ないということである。このことが何にも増して極めて重要である。そこから全ての問いが始まると言っていいからである。

 

 或る意味では哲学そのものもそうだし、文学や解釈学や修辞学や言語学等の全てもこの全的理解不可能性の上に成立している現存在にとっての社会的事実である。科学もそうだし、あらゆる文藝活動がそうである。又宗教的な営み、神学的な論争も、全的理解不可能性の中から神はそうではないというかたちで営まれている。それもこれも現存在としての我々は存在を一方では余りにも把捉不可能性として、一挙に合理的に説明することの不可能性に於いて認識し、把捉し、感知している。にもかかわらず存在が何であるかを我々は或る部分では熟知してもいる。これはアウグスティヌスが時間を捉える時の説明不可能なのにも関わらず、どこかでは充分感知しているということに似ている。身体的な体験の全てのタウマゼインは、この一挙合理説明不能性に於いてのみ我々の日常で存在し得る。そのタウマゼインとしての契機を見出されている。

 

 そして繰り返す様だが、言語、つまり言葉の営みとは、そうであると知りつつ、一挙に世界や、その在り方やあらましを知れる様に志向する営みである。だが存在だけは(時間もそうであるが、それも存在にハイデガー的に含めて考えて)凄くよく分かっている筈なのに、一挙に説明できないし、その在り方を規定することもできなければ、やはり全的に理解することもできずにいるのだ。

 

 一挙に説明できないにも関わらず、又固定化させていこうとする言語で把捉することが本来、存在自体固定化を拒む以上できもしないにも関わらず、我々は何とかそれを理解し、説明したい(だから哲学が我々に存在するのだ)、この傲岸不遜な態度から現存在は脱皮することができない。これも又極めて重要な事実であり、不可能性の真理である。何もかも全的ではないにせよ、それなりに合理的に理解しておきたい、全的理解の気分にだけは浸っていたいということが我々の一つの不可避的な性向・傾向性であると言える。

 

 だから存在と言葉という異次元の両者の差異を合理的に止揚すること自体の不可能性を承知しつつ、我々はこの二つを何の矛盾もないかの様に(実はその共存以上に極め付けの矛盾等ありはしないのにも関わらず)共存させているということが我々現存在の生の決定的事実なのである。(つづき)

 
 付記 次回はハイデガー以降の何人かの哲学者の考えからも参照しつつ、この矛盾した共存の世界の不可避的意味に就いて考究していこう。

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2017年7月22日 (土)

世界の真理Part75・宗教メモPart10

国家とは多分に宗教感情的な共同体を歴史的に基礎とするものであり、そこに言語的違いが付帯して、民族差というものを構成するかたちとなっている。従って現代社会でも今も色濃くどの国にも残っている反目的感情も、全て宗教教義的分岐の歴史等が反映されて実現されていると言える。

 

キリスト教に限って言えば、キリストが処刑された後復活した、つまり各弟子の前に現れた(それをキリスト教では顕現と呼び、それを哲学が採用している)のだが、その共通体験がベースとなって、一つの原始キリスト教団と呼ばれる共同体が形成されて徐々に世界中へ普及したという歴史がある。

 

〇自然科学的客観主義は遠藤周作が『キリストの誕生』で示した「宗教の時間」つまり遠藤的に言えば真実の時間ではなく「現実の時間」だけを相手にするだろう。では現実の出来事としてこのイエスの復活とは何を意味し得るだろうか?

 新約聖書中のイエスの復活を意味する記述は遠藤周作が『キリストの誕生』で例示しているが、一つはルカ24, 1335であり(エオマの旅人の話)A、もう一つはルカ24, 3643とヨハネ21,114(甦ったイエスとの食事)Bである。

 それは次の通りの記述である。(聖書 新改訳 日本聖書刊行会より)

 

ABの前半部全て(1352<終結部>迄)

 

 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。

 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。

 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。

 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。

 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。

 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいなあがら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」

 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力ある預言者でした。

 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。

 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、

 また仲間の女たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、

 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。

 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。

 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。

 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」

 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。

 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。

 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。

 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。

 そこで、ふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心のうちに燃えていたではないか。」

 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、

 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された。」と言っていた。

 彼らも、道であったいろいろなことやパンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。

 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。

 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。

 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」

 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。

 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、

 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。

 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。

 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、

 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、

 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

 あなたがたは、これらのことの証人です。

 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

 それから、イエスは彼らをベニタヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。

 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。

 彼らは非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、

 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 

Bの後半部(21114

 

 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。

 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタニエル、ゼベタイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。

 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」

 彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」

 彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

 夜が開けそめたとき、イエスが岸部に立たれた。けれでも弟子たちには、それがイエスであることが分からなかった。

 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べるものがありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引きあげることができなかった。

 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。

 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」

 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。

 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。

 

 彼等弟子達、弟子にまでは至らなかったもののイエスの生前関わった大勢の人達は最終的にイエスを救えなかった。そのことは彼等に共通の贖罪的意識を巣食わせた。そして彼等はほぼ同時期に同じ様なイエスの幻覚に襲われたのだろう。勿論イエスと出会った全員がそうであったわけではないだろう。しかしそういった共通した幻覚を持ったという一つの決定的な奇蹟的事実こそが原始キリスト教団を固有の共同体として育んでいったのだ。

 

 この原点から言えば完全にキリスト教とは性悪説的宗教である。原罪というアダムとエヴァの失楽園の旧約創世記記述を、自らの贖罪意識と重ねて発想し得たところに予型論(Typology)の起源がある。予型論は後述するカルヴァンのカルヴィニズムによってより強化された旧約聖書記述に既にイエスの到来、降臨等は全て書かれてあるという聖書学的解釈である。つまり彼等が幻覚を見る程贖罪心理が強かったことは、その幻覚を引き起こすだけの悪をした意識が拭い難くあったという意味で、キリスト教はユダヤ教の引用聖書箇所でイエスの言としても登場する成就という考えを再度持ち出してはいるものの、生来が罪人の為の救済の宗教思想なのである。だから自ら罪深いという意識を持たない人にキリスト教は必要ではない。理解できない筈なのだ。アメリカという国も英国同様、罪を犯してきたという意識があるからこそ、キリスト教が第一の宗教として君臨しているのだ。

 

 だから多分にキリスト教は排他的思想でもある。つまり一度は見捨てた師であるところのイエスが師を見捨てた弟子達の前に登場するという共通体験を持たない者を排他する思想だからだ。そしてそれはイエスと直接関わらなかった後代の人達にとっても、その説話を信じるか否かということで信者とそうでない人とを分ける。

 

〇ジャン・カルヴァン(1509-1564)はフランス出身の神学者だが、プロテスタント教会の改革派教会は彼が提唱したものである。1533年の彼が24歳の時に突然回心し、1536年彼が26歳の時『キリスト教綱要』(初版本はラテン語)を出版するが、尤も当時既に彼はスイスに亡命しており、(1534、パリで檄文事件が起こるとプロテスタントへの弾圧が激しくなり、バーゼル亡命した[1])、大半はこのテクストはスイスで執筆されたこととなるが、初版以後5度も改訂・増補を重ね、1541年(彼が31歳当時)フランス語版も出版され(同年、旅行中に偶々滞在したスイスジュネーヴ市で、牧師のギヨーム・ファレル英語版に要請されて同市の宗教改革に協力する[1][5]1538、教会勢力の拡大を恐れた市当局によってファレルらと共に追放の憂き目を見るが、約半年間バーゼルに滞在したのち、ストラスブール(シュトラースブルク)に3年間滞在した。この1541年には市民の懇請によってジュネーヴに戻る。)、最終的に彼が49歳の頃である1559年に最終版が初版本(1巻本)の数倍もの分量になって完結した。

 彼はこの偉大なるテクストの恐らく1559年に書かれたであろう本文の前の序文である<ジャン・カルヴァンより 読者の皆さんに!>でこう記している。

 

 「(前略)悪魔がその全軍をあげて、あさましい虚偽をもってわたしを押しまくり、このような恥をかかせていよいよ無力にし、あるいはいよいよ温順にしようとしても無駄であります。なぜなら、わたしが変わらぬ忍耐をもって耐えぬくようにしてくださるということを、わたしは信じているからであります。」(カルヴァン『キリスト教綱要 Ⅰ』渡辺信夫訳 カルヴァン著作集刊行会・新教出版社刊より)

 

 この文からも分かる通り、カルヴァンの時代やその少し先まではフランスでは特にユグノー戦争(1562-1591)等で迫害されてきたプロテスタントではあるが、現代世界はプロテスタントによってグローバリズムが完成された(その諸問題は矛盾はあるにせよ、形としては現代資本主義は彼等が完成させた)と言っていいが、その出発点に於いては極めて過激な被迫害者としての被害者意識が高じた歪なナルシスが読み取れる。これはイエスを見殺しにした初期キリスト教、原始キリスト教団の持っているヒステリックは使命感に近い。ルターとカルヴァンは、初期キリスト教スピリットを回復するという意図で登場し、実際プロテスタンティズムを定着させることでそれを成し遂げたのだった。

 迫害されればされる程意志が強固になっていくという意味で、その精神的傾向は初期儒教徒とよく似通っている。彼等は共にルサンチマンの徒だったと言える。

 

ジャン・カルヴァンは1564年これから益々フランスでカトリックとプロテスタントの抗争が激化しつつある最中に亡くなった。

 

尚アメリカで投資の神様と呼ばれ、昨今ソフトバンクの孫正義氏と提携したウォーレン・バフェット氏(1930-)はユグノー(つまりフランス国内のカトリックから見たフランス国内のプロテスタントという意味)の移民の子孫である。ユグノー戦争の背景には宗教上の対立であるとともに、ブルボン家(プロテスタント)やギーズ家(カトリック)などフランス貴族間の党派争いという側面もあった。因みにこの戦争では1562にカトリックの中心人物ギーズ公によるヴァシーでのユグノー虐殺事件(ヴァシーの虐殺)が契機となり、内乱状態になった。妥協的な和平を挟んだ数次の戦争の後の15728月24には、カトリックがユグノー数千人を虐殺するサン・バルテルミの虐殺が起こっている。それがこの戦争の長期化を予感させる当初の展開であった。

 ジャン・カルヴァンはフランスでは迫害される側の人間であったが、三位一体説を批判する改革期の神学者ミシェル・セルベートを生きながら火刑で処刑した。(ただし、火刑はカルヴァンの意ではなかったというが、それでも彼は、セルベートがジュネーヴに来れば生きて去らせることはしないと周囲に語っていた)。これに先立ってセルベートの処遇を同盟諸都市に訊ねたジュネーヴ市は、全ての意見がカルヴァンと同意見であったため、これを境にジュネーヴ市におけるカルヴァンの地位はほぼ確定したものとなった。他方、この事件に対しては、セバスチャン・カステリオン英語版など反カトリック陣営がカルヴァンを非難した。1555年にはカルヴァン派の市長が4人になった[1]

 このことから分かる様に彼は改革とその後の安定化の為にはかなり強硬な路線をも選択した人だった。そのことも前述の読者へ向けた序文で示されていると言えるのではないか?

そしてその強硬さをも併せ持つプロテスタンティズムは初期キリスト教団的イデオロギーへ回帰させようという目論見でもあったが故に、その後のピューリタン革命(1941-49)や名誉革命(1688-89)等を起こす原動力ともなったし、今日のグローバリズム的な世界制覇をも実現させ得たパワーとなったとさえ言える。

 だが忘れがちなことであるが、この一連のキリスト教による世界制覇こそが今日の自爆テロ等のイスラム教文化圏での過激派思想を生んできてもいるし、又極度に被害者意識も強いルサンチマンの思想であるキリスト教宗教思想が信徒に固有の特権意識をも与え続けてきたという負の側面も充分兼ね備えているものと思われる。今日のアメリカではカトリックの人口も増えてきているし、改宗者も多くなっている。そしてカトリックとプロテスタント双方からの歩み寄りで為されてきているエキュメニカル宣教会議等を通した教会一致運動(エキュメニズムecumenism)も今後益々重要なテーゼとなってゆくものとも思われる。

 付記 今回の本文の青字を中心とする部分はWikipediaを参考にした。濃い狐色字部分が主にコピペに頼った部分である。尚今後マルチン・ルターとジャン・カルヴァンの思想に就いては現代神学者であるカール・バルトや同時代の現代哲学のハイデガーやレヴィナス思想を掻い潜る中でも何度も引用していくつもりである。又中世スコラ哲学の巨人聖トマス・アクィナスの『神学大全』等も平行させて参照していく予定である。

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2017年7月21日 (金)

思想・哲学メモPart78・宗教メモPart9

プロテスタントがイエスとの直接的な内的対話を重視したのは、要するに目には見えない心の問題(immanent problem)へと問題意識を移行させようとしたからである。それはカトリックが教会主義的で、宗教組織自体の(目に見える)利潤を追求し、形式的儀礼性へ託けてきていたとルターが確信して以来のことだった。

 聖書は初期キリスト教団によってギリシャ語に翻訳されていたが、ルターの登場をもって、欧州全体へと普及していく道筋がつけられた。

 

 カトリックは性善説主義的な傾向があるが、プロテスタントは原罪観念を悔い改めの思想へと一致させていたために、性悪説主義的観念以前的と言っていい程、自らを罪深いと意識している。この固有のストイシズムは個人主義や責任倫理を個へと帰着させる自助努力社会としてのグローバリズムの現代に色濃く反映されている。カトリックの方がより現代ではリベラル的感性へと合致していて、プロテスタントこそグローバル社会である今日では保守本流である。

 

だが内的な神との対話だけを重視する思想は、社会全体を管理する側からすれば常に危険思想化されやすい危惧を生む。自由主義の自己責任社会とは管理し難い社会を意味するからだ。この点では絶対的自由主義的観念とは、個人主義であるから、よりアナーキーな方向へ社会全体が向かうこと自体を抑制できない。ISIL他のイスラム教徒過激思想者はその点では、現代システム化したグローバル社会全体の現状をよく知っていて、その盲点を突くという意味では、現代社会の申し子であると言える。それはプロテスタンティズム的グローバル思想が助長した一つの必然的帰結であるかも知れない。イスラム教徒系思想者達のルサンチマンはパレスチナ問題以降ずっと燻ってきているのだから。インティファーダの時代から自爆テロの時代まで、彼等はプロテスタンティズム的グローバル社会が一部の資産家や富裕層にとって都合のいい世界システムであると考えているのだ。だがそのグローバリズムはかつて西側と呼ばれた欧米諸国だけでなく、アフリカから中東、中南米等も含んで世界を制覇しつつある。だからそのグローバルウェイヴの中でインドネシア、マレーシア、フィリピン、モルディブ等々のアジア諸国にもイスラム教は浸透してきているので、テロの活動舞台がアジアへとシフトしていくのも必然的展開である。

 

ユダヤ教経典である旧約聖書を共有し合うキリスト教とイスラム教の世界の人口の半分を占めるシェアで、経済社会的にはイスラム教文化圏諸国が欧米化しつつある現状で、一方では心までは欧米社会へ同化し得ないというジレンマをイスラム教徒はずっと抱え続けてきている。それは日本も同じだし、中国も韓国もそうだ。そして日本の様な一神教文化の皆無な国でも個人主義は市民一人一人には浸透してきている。その個の内心の自由を剥奪することは誰にもできない。形骸化した宗教伝統的戒律から脱皮しようとする考えや行動は益々今後も大きくなっていくだろう。

確かに一週間は7日だし、安息日が日曜日になっていて、キリスト教の歴が世界標準にはなっているものの、イスラム教ではイスラム歴が採用され、ラマダーンも確実に履行されている。世界は通念的にも正義論的にも決して一つには纏まらないだろう。

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やばい!

生きていること自体が結構やばい。

だって巧く行っていると自分で思っていても、全く何の反応もないこともかなりあるんだから。

 

かなり誰からも良い反応があっても、安心しちまう自分だってやっぱやばい。安心した途端見えなくなってしまうこともあるんだから。

 

自分でそれって当たり前で、何の疑問もなく可笑しくなんてないと思ってきたことが、実は凄く奇異なことなのだと自分達全ての外側から突き付けられ、すっかり自分が囲まれている環境が信じられなくなってゆくこともかなりやばい!

 

やばい!やばいんだよ。生きてゆくことそのものがさ。やばくないことなんて生きてゆく限り全く無いってことだけが分かってゆくからだ。

 

僕達は一体何を信じてこれまで生活してきたんだろう?そういう風に自らの拠って立つ基盤へさえ疑問をぶつけざるを得なくなるくらいに追い込まれてゆくのが一体いつなのか、全く見当もつかないってことそのことが全くもってやばい!

 

僕達は一途にそれが正しいって信じてきたことさえ一夜にして瓦解することだってあるんだからさ。それも結構人生の終わり頃になってやっと気付くことさえあるんだから、それがやばい!

 

信じ続けることそれ自体が既にかなりやばい!やばいんだよ。そういう風に疑うことなく全てを突き進むことそれ自体がさ。

 

でもそれがやばいって信じていればいいって疑わない侭生活し続けること自体がとってもやばいんだよ。やばいって仲々そう思えないからこそね。

 

結局ね、何事も何とかなる、テキトーにやっていればって思って、すっかりやばいことなんて全くないんだって思い続けていってしまうことそれ自体が一番やばい、それが一番やばいんだよ。

 

よおく、自分の周囲、自分以外の世界の全てに目配せしてみようよ。やばいなって一切考えていない者達の転落が手に取る様によおく分かるだろうよ。それにも増して常にやばいって思って生きている者の世界への信じていなさだけが、彼を彼女を結構世界のやばさから救っているんだってことを、ほら、そこの君もよおく分かっているだろう?

 

生きていること自体がもう既に何にも増してやば過ぎるんだからさ。そう、この世界にやばくないことなんて、たった一つだって、ありゃしないんだからさ。そのことだけをそこの君も、そこの彼女も、よおく肝に銘じておくべきなんだよ。勿論僕だってそうさ。
(了)

(2017. 7. 20)

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2017年7月19日 (水)

思想・哲学メモPart77・宗教メモPart8

ハイデガーはアリストテレス以来の哲学史、形而上学史、論理学史をひっくり返そうとした。その際立ちはだかったのは、ギリシャ思想のキリスト教化プロセスだったのではないか?

 倫理学にそれが読み取れたのだと思う。そこで彼はキリスト教化される以前のギリシャを考えた。そこでパルメニデス等への着目、そして中世キリスト教哲学者のドゥンス・スコトゥスも研究した

 しかしその際に彼は自分自身が出発した神学的基盤からニーチェの様に完全離脱できぬと知っていたのだろう。そこでキリスト教以前のユダヤ教をどこかでヒントにした可能性もあるのではないか?

 

イエスとはもの凄く他力本願で身勝手な大衆に待望された割には失望させることで衆愚的犠牲となって惨めに処刑された。その最後には師匠を救えなかった、実質的に師匠を裏切ってしまった弟子達の生涯を賭けた贖罪の旅、悔い改めこそが初期キリスト教徒だった。

 

 彼等が旧約創世記の原罪(失楽園)と自らの悔い改めを同化させたことは、死して存在を復活させたイエスの御心の前で、一致した何か(coincidenceとしてしか映らなかったのだろう。ルサンチマンの宗教史そのものであるキリスト教史では、彼等の立ち位置から彼等は原罪が痛く理解出来る様に思われたに違いない。ユダヤ教典旧約しか信じない信徒にとって、それは決して心地の良いものではなかった筈だし、今もそうであるが、キリスト教史とは、その原罪観念とイエスの救世主化とが、一致して感じられるところに存する一つの奇蹟思想なのである。それは裏切ってしまい贖罪だけを抱えて生きる貧しき人達=自分達という初期キリスト教布教者の祈念が生み出した共同幻想でもある。彼等はまず自分達が救われるべき存在として蘇り、それを為せるものとしてイエスを復活という観念でキリスト化した。そこに救われるという発想が大きく立ち上ってきたのだった。

 

〇ホロコーストは或る部分、イエスへの迫害が再現されたヘイト思想の究極の悪しき実現、再来だったかも知れない。ハイデガーはそれを賛美していた。

 しかし弟子のレヴィナスは自らの両親・兄弟がホロコーストの犠牲となって後もハイデガーを哲学思想として大きく自分の縁(よすが)として認識し続けた。

 

 ユダヤ教徒である彼には、イエスをキリスト化させた初期啓蒙者達とハイデガーが重なって見えたのかも知れない。輪廻的なこととも全く無縁であるとも言えない円的な思想がニーチェからハイデガー、レヴィナスと受け継がれていったと捉えることも可能である。

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2017年7月18日 (火)

過去は消せない・夢では過去だけが押し寄せる・それでも人生は試せない

 或る意味では愛欲だけに生きてきた人生でもあった。

 或る意味では思索だけを続けてきた人生でもあった。

 或る意味では表現し詩作することだけに現を抜かしてきた人生でもあった。

 

 だが基本的に過去はどんなに足掻いても消せず、6年から9年にかけて違うことに夢中になっては変え、放浪だけをし続けてきた人生そのものは一切過去を変えることはできないことを常に重々承知しつつ、しかし同時に如何に多く宿を変えても、如何に多く流転し続けても、人生そのものは一切変えることも出来なければ、そもそも何かを試し、その中でいずれが一番自分に向いている等と選択してからし始めることなど出来ず、つまり何をしてもそれは本格的にし始める前にリハーサルをしているのではなく、そのこと自体が常に稽古無しの本番の様なものであり、試すということが一切できず、効かないことそのことこそが生きるということである。

 

 歴史は現在どうしていくべきかを決定する際に一切何の役にも立たないとも言い得る。何故なら過去には過去固有の何か事情があったのであり、それは今とは完全に独立していて、その時だけにしか有効ではない何かがあったからだ。現在はやはりこれから何年か後にこそ問題であることとは違う何かに支配されている。

 

 最近よく夢を見る様になった。そして6年から9年に渡って大きく当時の人生を彩った人達が代わる代わる登場して、自分に何かを語っているのである。しかし顔だけはよく夢で出会ったことを覚えていても、決して語った話の内容は夢を見終えると覚えてなどいず、すっかり忘れている。夢を見ている時には、よくその話の内容を理解しているのに、夢が覚めるとすっかり記憶にそれらは残っていない。

 

 こういう感じの日々はやがて又消えていくのだろう。そして次には今とは違う感じの日々が過ごされていくのである。恐らくそうだ。そういう変わり目を持つ日々が違った形で押し寄せてくることが交互に繰り返されてきただけである様にも感じられる。

 

 生は常にリハーサル無しの本番である。友情も信頼も恋愛も練習することはできない。

 

 思索は常に重要だが、その思索も色々な意味合いが、思索の傾向に従って存在し、詩的思索、哲学的思索、科学的思索、政治的思索、娯楽的思索とかきっと色々とあるのだろう。だがそれぞれは常に別個で独立して意味があって、それら全てが綜合されて何かが生み出されている訳ではない様にも思える。

 

 死は必ず到来する。それは自分自身のこととは違う形でかも知れない。つまりまるで他人事の様に、それは訪れて、その時は自分とは消滅しているのである。

 

 大して意欲的に何かに取り組むことなどない毎日であっても、夢だけは眠れば見ることとなる。でも余り夢自体を見ない日々もある。

 

 夢を見なくても心で何かを考えているということは無くなりはしない。

 

 結局生とは一時も自分自身の考えから切り離すことができない。できるとしたら、それは死を持って初めてのことであろう。そして恐らく二度と自分自身というものは戻ってはこない。

 

 意味のある、意義のある生き方といった何かとはあり得るのだろうか?

 所詮何をしても全く後悔が残らない生き方等あり得はしないのではないか?

 

 こうやって数年後も何か思索しているだろう。しかしその時はその時にだけ意味のある何かに支配されているのであり、今とは全く違う形で思索されているのだろう。

 だがそれを今予測することはできない。つまりそういう風に事前に予測し得ないということだけが常に何等かの形で今と言い得るのであろう。予測し得た通りに全て運んだとしたら、それは今であると言い得るだろうか?

 

 予測し得た通りに運んだとその時は思っていたとしても、後から振り返れば、それは只の錯覚だったということではないだろうか?

 しかし結局それら全てが一体どういうことなのであるか、その解答を見出せずに終えてしまうことこそが、生きるということなのではないだろうか?

 

 こう考えてきても、これが哲学的に有意味な問い掛けであるかどうかさえ分からない。しかし何かが有意味で、何かが無意味であると容易に識別し得ることそれら自体に何か意味などあり得るだろうか?

 きっと、それらも何の回答も見出せずに生とは何時か途切れてしまうものなのだろうが、それさえいつのことか一切予測し得ないし、予測したとしてもその通りには進んではいけない。

 

 つまりそのことこそが生とは試すことが一切できないということなのだろう。

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2017年7月17日 (月)

思想・哲学メモPart76・宗教メモPart7

ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も旧約聖書だけは共通するバイブル(聖典)だが、創世記で農耕に携わるカインより、その弟である狩猟に携わるアベルの供物の方に神は歓迎し、カインを疎んじた。この時点で既にユダヤ・イスラエル民族史的には、農耕は卑しいものであり、逆に狩猟は尊いものであるという決定的な規定が刻印されてきた。

 日本は彌生時代の農耕社会から軍事的な秩序が形成されたので、ユダヤイスラエル民族の起源よりずっと後の時代の観念から民族が形成されている。この大きなずれが一神教文化圏と日本との齟齬ともなっている。

 

〇キリスト教では慣習的に叙階を受けた神父とはカトリックでは結婚できないし、又既婚者は離婚ができない。だが相手がカトリックでなければその限りではないこともあり得るらしい。だがプロテスタントは洗礼もあるが、基本的にイエスという神と自己との対話主義であり、教会主義でないので、完全に自己責任による固有の厳しさがあり、それはカトリックの様な家族主義(聖母マリア信仰等もその一つだが)や共同体友愛主義でもないし、増してや共同体主義ではなく、あくまで絶対的個人主義なので、責任ある大人同士のその都度の自由な決裁という意味では、時にはその自由さを抑制することができず、ヘイト集団的にもなりやすい。その点ではプロテスタントの方が絶対的自由主義であるが故に潔癖過ぎて危険分子化しやすい要素も多分にある。それはアメリカのWASPの思想や国家の決断や行動を見ればよく分かる。或る部分イスラム教でISIL他の危険思想を精神的に助長させてきたものはカトリシズムよりはプロテスタンティズムであると言えよう。そして今日のグローバリズムは中南米的カトリシズムでなく、明らかに欧米先進国のプロテスタンティズムこそが牽引してきた。従って彼等欧米先進国の決裁に疑問を投げかけるのはイスラム教文化圏やギリシャや中南米だという事実も、或る程度頷ける。

 
ハイデガーは明らかにマルチン・ルターの『キリスト者の自由』から啓発されている。そのイエスとの直の対話重視姿勢、免罪符他の教会権力への抵抗の精神が彼の中にも系譜的に伝えられている。だからその部分ではハイデガーはカトリック的ではない。にも関わらず与えられた、投被性、到来といった語彙で彼が示そうとしたことは、一神教的神であり、イエスという人格神的な感性とも違っていた。彼は直接イエスに就いて触れていないが、プロテスタントとしてのモラルからはイエスも前提されていただろうが、ユダヤ教一神であるところのヤハウェ的ニュアンスも込められていたとも思われる。到来という命題思想には明らかに個人内面の救世主(メシア)願望も読み取れる筈だからである。

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2017年7月16日 (日)

日記的記述EM 性悪説的な教育が全く無いのは可笑しい

 私は半世紀以上生きてきて、その間に真に無私で公平な立場に立てる人間も、完全に人の立場に立って理解できる人間も、一人もお目にかかったことがない。否、それは貴方が真に素晴らしい人と出会っていないからだと言いたい人には、貴方がそうだと信じる人に対して私は貴方の目が曇って見誤っているだけだ、とそう言いたい。

 だから人は自分本位にしか物事を考えることはできないということを前提に全てを考えていくべきだけれど、日本ではそういう性悪説的教育が全く為されてこなかったし、今もそうだ。だからディベートといったことも性悪説的見解に基づいて為される社会訓練なのであるが、今日本でそれを充分しているとはとても思えない。

 

 性善説的言説、いい子ぶった正義論や偽善的な公平な視点は政治家から官僚からエコノミストに至る迄誰しもメディアではそれしか語れない様に垂れ流しされてきているけれど、それは大半が女性の心を安心させるための方便でしかない。性善説とは女性という性の人達、それは正に世界の半分なのであるが、彼女達はそれしか信用しないという固有のバイアスのかかった見解があるから、知的階級の全ての人達は善良とされる宗教家や神学者に至る迄、その方便の仕方を採用してきた。だから真実には聖職とされる教育者を含めた全ての人達こそ最大悪である。

 率直女性のこの固有の善で表面を塗り固めていこうとする無意識の悪意程世界でも醜いものはない。現代の男子の大半は女性に固有の欺瞞的な性善説主義、清らかであることを好む嗜好に惑わされ、完全に訓育されきっている。

 

 また、悪と欲望にとりつかれたことのない人なら哲学や思想、宗教や文学に目覚める訳がない。だから体裁としては善的なことを言っていても、基本的に彼等の内心は性悪説的である。でなければそういった職に就いている筈がない。

 イエスは兎も角として初期キリスト教を牽引してきた聖職者達はイエスを迫害する立場だった聖パウロをはじめ悪であったればこそ、宗教教団的な倫理を大成し得たのである。

 

 この世でその意味で善的な触れ込みをする全ての人の悪を最初に暴いた哲学者こそニーチェだったと言っていい。でもそれは彼自身もそういうキリスト教徒の伝統的なモラル意識を十二分に引き摺って成長し文献学者としてスタートしたことを熟知していたからである。ハイデガーの頽落その他の倫理的命題はニーチェから引き継いでいる側面も強い。

 

 何か自分の持っている論理や倫理で世界の在り方を更新させようとする人達は全員悪である。そういうものだということを誰しも分かっていて、その悪の巧妙さに舌を巻いてぐーの音も出ないからこそ賛美しているだけのことである。

 恐らくイエスやムハンマドは悪人とは違うレヴェルの人達だったのだろう。だが彼等を神格化させてきた人達は決して善ではなかったし、だからこそあそこまで宗教倫理を大成し、人民の感情をそこへと引き上げてこられたのである。

 

 責任は悪である。だから社会的に家庭を維持していく為には善だけで生き抜ける人は居ない。子供を育てるのも社会へ送り出すのもそうである。

 だからそれができそうにないと思っている人は、悪にはなれないけれど、一切の責任も負えないという立場を明確にするしかない。

 

 だから被災地出身だということだけで教師から生徒に至る迄差別していこうとするのは、恐らくそもそも日本では教育が社会や人類の歴史的真実に目を塞いで性善説的な人間観を植え付けてきたことで生じた極度のストレスが高じてああいったことを引き起こしてきたに違いないのである。

 人間は悪という本性を持ったいきものなのである。それをまず徹底的に叩き込んで、そこから全ての教育が為されるべきなのである。

 

 何か特別の技能や才能があることは、そうでない全ての凡人を支配する権利をその技能や才能の持ち主に与える。社会とはそういうものである。だからまず基本的に社会は全ての成員に対して平等ではない。既にそこから差別的待遇は始まっている。又期待を背負ってそれを実現させない人は、それまでどんなにいい業績があっても、直ぐ引き摺り降ろされる。あらゆるアスリート達を見ていれば分かるだろう。政治家もそうだし、役者や芸人やタレントもそうである。

 だから人類の社会、集団や組織は、全てそういった性悪説的な契約によって成立している。あらゆる保障、担保、利子等の全ては性悪説的な契約なのだ。

 

 日本の場合、国家神道の立ち位置から、その性善説主義が生み出されていることだけは間違いない。だから国際的に活躍する人達は、そのことをよく知っていて、大半の人達はダブルスタンダードで生活しているだろう。日本を捨てて渡米したりして別のどこかの国へ行って再スタートを切る人も少なくないだろう。

 

 哲学がブームとなったのはオウム真理教の一連の事件の在った頃である。それより少し前の20世紀末に論壇全体が賑わった時代(当時はポストモダンブームだったが)を経てカルト宗教的心理へ追い込まれる青年が多発する状況が後押しして大勢の哲学論客はメディアに登場する様になったのであるが、現在は、又そういったメディア戦略のからくり自体が大勢の市民から見抜かれやすい時代となっている。そこで成立するのは時代的ブームへの懐疑的眼差しである。もう二度と騙されないぞという意識に目覚めた市民を説得し続けるのは与党が政権を維持し続ける位に難しいことである。 

 

 でもそう安易に世に出ている人達を信用しないぞという意識は悪いことではない。いいことである。性悪説的人間観を理解してきているからである。

 だから理不尽ないじめや差別が起きた場合、我々はそういうことをせずには居られない日常的に張り詰めた悪しきストレスを生む原因とは何かを考えを進めていくべきである。忖度等の横行する社会はそれだけ洗練された制度が確立されていない社会だと見做した方がいい。

 

 性悪説的な物事の解決の仕方しか人類は有史以来採用してはこなかった。その現実をよく踏まえた見識をこそ信用すべきものとしていくべきである。

 そして女性を差別することを良くないこととして余りにも女性の形式主義的な性善説を放置してきたことからも、女性の男子への横暴も決して今後見逃すべきではない、とも最後に言っておきたい。

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2017年7月15日 (土)

思想・哲学メモPart75

〇人間の本性が悪であることはどの文化圏、宗教圏でも同じであろう。尤もその立ち現れ方は大分違う。アメリカはキリスト教倫理で神からの恩恵をshareする意識の共同体社会であり、日本は天皇を頂点とする権威社会であり、その権威に追随した忖度・斟酌・配慮が求められ、そこでは完全に人間中心である。神は日本にはない。だから同じ結束でも意味は全く違う。その点では北朝鮮には近い。韓国は先祖、それも同族内での先祖が神であり(勿論それは一神教の神とは違う)、中国では官僚制的権威と権力が神であり、それに対して劉暁波氏死去を巡って、改革主義と内部で熾烈な闘争がある。香港も大きく左右するが、やがて台湾も参画していくだろう。

 

性悪説的である人間を最もよく示すものの一つがアメリカにも日本にも残存する死刑制度だ。犯罪者とはキリスト教倫理からすれば貧しき者であり、罪を背負った者が神の前では救われる。だが実際はアメリカでは極悪犯罪者には公開処刑も適用される。だから人を罰することで倫理的慈愛を反故にしてまで、社会と国家が人を殺すことを容認することを全国民が認めている以上、そこでは性悪説的倫理が罷り通っている。つまり性善説主義的な誠実性でなく、自己欺瞞的な社会的な態度だけが優先されるという意味で一神教文化圏のアメリカも八百万の神と天皇制の日本も、そう変わりない。

 

爪弾きにされていく成員こそ宗教倫理的には誠実だということになるという意味で、本当は挫折者や敗者こそが誠実だとは正しい。にも関わらずそれは社会全体では命題化されないという意味で、一神教的神の恩恵のshareも天皇制的権威追随もそう変わりないということは確かに言える。

 

だが昨今ではウェブサイトを通して個人の私的時間を公共空間で実現させてしまっている、つまり皆が挙って公共空間で一人の世界へ浸りきっているのが果たして日本だけなのだろうか?或いはアメリカでは電車内での対話の方が日本より多いかも知れない。日本では英語のイディッシュ系語彙でschmooze(schmoozle, schmoose)という下らないお喋りをするという語彙に該当する会話が多く、対話はない。だから対話へは行かず、車内スマホ意識釘付け状態が多くなるとは考えられないであろうか?この設問は魅力的なので、暫く考えてみたいし、実際どうなのかを確かめてみたい。

日本では首都圏近郊の通勤電車程そうだ。視界がどの椅子に座る乗客も30センチ程目から下の空間だけに限定されていて、視野が全体へ行き渡らないので、必然的にその視界を含め自分の周囲に目線を走らせる乗客を悪と決めつける目線を送る乗客が多くなった。

 

 つまり私的時間を公共空間で一人の世界に閉じ籠ることをスマホ利用者は他者へ容認する分で、そうしない成員を締め出す欲求の塊になる。だがそれは郊外地区へ人を運ぶ通勤電車での情景だ。私の知る範囲では西武新宿線が最もそうだ。西武池袋線はそれに次ぎ、西武池袋線でも飯能から東飯能を経て西武秩父までは、特に高麗を過ぎると緑が大半の車窓になるので、緑に身体と意識が囲まれると、精神はスマホに向かわない様なのか、高麗から西武秩父までの池袋線と秩父線ではスティーヴ・ジョブズが生み出した生活スタイルが万能ではない。その点では八高線もそうだ。上信電鉄も高崎経済大学前を過ぎれば、スマホ利用者は極度に減る。電車利用が通勤通学ではない人が大半であることが理由だろう。

 

欧米キリスト教社会はとどのつまりcarnalなこと、つまり肉欲を異様に否定してきた初期の原始キリスト教からカトリックの通史観的な事実があり、それが反動的に通史観的にはニーチェの様な権威主義否定と力への意志思想を生んだ。だがピューリタニズム革命以降のそれは、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で示される金も結婚による子孫の繁栄も神からのご褒美だという意識であり、不倫等は決して許されることではないのだ。肉体不浄的思想は延々引き継がれている。マルチン・ルターからジャン・カルヴァンを経てずっとそうだ。ただプロテスタントはイエスの言葉そのものと信者の内的対話を重視し、教会主義的な形骸化した制度を否定した分では潔かったが、肉欲的な観念の極度の否定はカントの『実践理性批判』の他律という考えでも示されている。だがニーチェはダンス等の快楽を復権させようとして、その汚らわしさの中にも猥雑な中にも美と真理を発見しようとした。その分ではピューリタニズム以降の性善説主義的内的世界への批判も兼ねていた。それでも彼はプロテスタントのモラルの範疇で、それを行ったと言えるだろう。

 

ハイデガーはニーチェのピューリタニズム批判精神も取り込んでいる。でも『存在と時間』で与えられた、とか到来といった語彙で神そのものの存在は完全否定しているわけではない。そこでは彼固有の一神教的神の肯定と制度的宗教倫理への批判とが合体した何かがあるだろう。レヴィナスはそれをギリシャのユダヤ化だとしたが、その意味ではヤハウェ的な神がハイデガーには内在する可能性はある。

 

緑に囲まれていると視界の範囲が広がり、そこに存在の様相を精神へ齎す何かがあり、唯認識的な郊外生活の利便性の行き着く果てのスマホ利用とは違った感性を人へ与えるとしたら、それは或る部分では自然の中に個と神との対話を求める様な詩精神が普遍化される可能性は開示する。

 

付記 個人が持ち得る通信を通した力は巨大であり、その分で性悪説的社会は実現したが、それはニーチェ思想があの時代では有効だった哲学的価値も、それが現実社会で実現した時突発的衝動を抑えられない個人を多く生み出す社会の到来をも意味する。それが自爆テロにもなり、日本ではオウム真理教的なカルト宗教や通り魔的猟奇的殺人、或いはいじめや差別を生み出す遠因ともなっている。その部分では自然回帰的な観念も哲学価値的には重要である。だから私は或る部分では意図的に自然信仰的な要素と一神教の神との自己内対話との止揚が詩でなら可能ではないかと模索しているのだ。

 

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2017年7月14日 (金)

日記的記述EL 映画『ライフ』を見た感想から始まり、それ中心で終わる日記

 今日は2017年にアメリカで公開された映画LIFEを鑑賞した。監督はチリ人の父とスウェーデン人の母との間に生まれ幼少時にスウェーデンへ移住、そこで育ち、デンマーク国立映画学校を卒業してプロとなった1977年生まれの40歳働き盛りの第一線であるダニエル・エスピノーサ監督である。

 

 現実にもISSなる国際宇宙事業の推進役は毎日地球を16周して、常時6人のクルーが従事して行われている。高度400kmを秒速約8km(時速28800km)で飛行、90分で地球一周しているこの現実の設定をその侭全てセットの撮影だけで、一切のCGを使用せずに作られた映画である。

 本映画ではかなり現実の今に近い近未来を設定していて、そう遠くない今に近い未来だということが重要なこととして語られる。火星の生命体存在を確かめるプロジェクトの一環として或る微生物を発見し、船内に持ち込み調査しているところに、この生命が思わぬ刃を人類へ向けてくることからこの映画の本筋が進行していく。

 この映画がその粘着質の粘体的単細胞生物であるが、人命を奪うことで益々ウィルスの様に増殖していくことで見る者に或る固有のホラー、スリラー的恐怖を誘う仕掛けとなっている。そして惑星保護(或る惑星で発見された生命を違う惑星へは持ち込まないという環境の異なる生命を隔離して、調査するという宇宙計画上でのモラル的規定)に沿って、それを地球から隔離させようと船内クルーが奮闘する姿だけが描かれた映画だ。

 

 そこで示されることはプロの乗組員として地球へ思わぬ被害を持ち込ませない為に自己犠牲を買って出る船員達の葛藤が中心に描かれる。その際にまるで猛獣使いを翻弄する猛獣の様なエイリアンが全ての(と言っても主な登場人物は乗組員の6人だけなのだが)人間に対するエイリアンがもう一人の主役の様な扱いとなっているし、その特撮描写は凄まじい。

 

 アメリカ、イギリス、日本、ロシアのクルーが現実とほぼ同じ様な設定となっていて、真田広之(在米の日本の名優)も日本人エンジニア、ショウ・ムラカミ役(プログラミングエンジニア<とアメリカでは正式に言う。日本でのシステム・エンジニアである>)出演者として参加して、素晴らしい演技を見せてくれている。アメリカ人医師デビッド・ジョーダン役をアメリカ人俳優ジェイク・ギレンホールが演じ、助演英国人検疫官をスウェーデン人女優のレベッカ・ファーガソンが演じるというキャスティングとなっている。

 犠牲者の一人となる司令官のロシア人エカテリーナ・キャット・ゴロフキナ(オルガ・ディホヴィチナヤ)は自らの冷徹な指令で自分以外の犠牲者を出してしまったことで、自分が率先して最も危険な任務を引き受け、最後の死に方も極めて映画全体では重要なエピソードとなっているし、最後に生き残る二人(誰がそうであるかは見てのお楽しみ)の一人は、地球へ落下して命が助かる船体と、エイリアンを閉じ込め宇宙へ放りだされる船体とをISSから分離していこうと画策し、自ら後者を買って出るが、その際に「俺は宇宙船の生活が長い。そろそろ80億の愚かな地球人と付き合い続けるのに飽きてきたところだ。」と捨て台詞的に語って相手を生かそうとする下りもドラマティックである。

 

 

 この段階で映画の好きな人なら、そして自分がもし脚本家だったなら、こういう結末にするだろうなという私が想像した通りの結末だったのだが、その点も見てのお楽しみ。私はこの映画の脚本家の意図を結末を見て知った時、シリアスな映画なのに、思わず噴き出してしまった。それくらい笑える結末でもある。

 

 

 今年見た全ての外国映画の中では明らかに『バイオハザード・ザ・ファイナル』や『ゴースト・イン・ザ・シェル』等とも共通するテーマであるが、今年見た全ての映画の中でも私にとっては最も強烈な印象残した映画だった。

 人間の人生の機微を描いたものとしては『ムーンライト』(米映画)が最高だったが、サヴァイヴァルクライシス映画の中では本映画が最高だった。

 

 映画は或る意味では志向されるタイプは二分される。一つ一つの人生上でのリアルな会話や成り行きを主眼とするものと、かなり大胆な設定と仮説を持ち込み、人類文明全体をアイロニカルのパロディ的に皮肉り、再考を促す趣向のものとである。その意味では当然後者に属すこの映画は終わり方の決定的な人類文明へのスケプティシズム(懐疑主義)は、数多くのSFホラーから啓発されているが、キューブリック的でもあるし、ゴダール的でもあるし、リドリー・スコット的でもあるし、部分的にはマイケル・ムーア的でもある。

 

 映画の持つ迫真の真実性も、このいずれのジャンルとして描くかによって大きく鑑賞する客層へ訴えるイメージが変わっていく。ひょっとしたら、これはパロディではなく現実にあり得るかも知れないと思わせる技がこの種の映画には大きく求められている訳であるが、その点ではこの映画は絶妙に功を奏していると言える。

 あたかもどんな社会でもあり得そうなフィクションの場合、機微的部分は演技からも台詞からも重要であることは言うまでもないが、逆に状況設定の大胆な仮説的フィクションの場合、アクションや展開の息詰まる迫真性が重要となるが、その意味でも本映画に参加している全てのスタッフのプロ達のチームワークが素晴らしく、全く見ていて飽きさせない出来上がりとなっている。映画の長さが103分(1時間43分)ということも絶妙である。これがもう少し短かったり、もう少し長かったりしたなら全く本映画の意図が伝わり難かっただろうし、そもそも全く異なったタイプの映画になっていたであろう。

 そういった意味で久しぶりに映画の上映時間と内容の絶妙さを感じさせた映画との出会いを果たした日だった。

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2017年7月13日 (木)

言語・論理・把捉・存在に就いてPart4

 アウグスティヌスの昔からずっと哲学は只管時間ばかり考えてきたと言っていい。だがハイデガーは空間も考えた。だからこそ存在は歴史的でもあるが、変化しつつある存在全体の様相からも捉えられた。

 哲学で時間を中心に考えやすいのは単に言語自体への認識が反省意識によって喚起されているからだ。だが言語そのものの発語も、最初は文字を空間把握能力の一つとして記号=文字を生み出した人類が、一つ一つの文字を差別化させる為に初めてそれぞれに応じた音を編み出したのかも知れない。してみると一挙に皆で同時に理解できる形としての文字の方が先で、然る後その各文字を意味する発声を編み出すことで差別化して統語構造が徐々に出来上がっていったという経路も一つとしては考えられる。勿論証明はできない。言語学ではとっくに言語の起源に関しては不問に付すこととなってきている。

 

 只哲学で異様に多く論じられてきた時間とは、文字の発声と聴取ということ自体が、時間軸的に営まれることなので、必然的に心の移り変わりと共に哲学では論じやすかったからだ、というに過ぎない。

 やはり決定的に人は日常生活では空間と最も多く関わっている。そして言葉や文字ではやはり空間を示すことは難しいのだ。

 

 例えば富士山の裾野の高原の見渡す限りの広大な平野の眺望は一挙に体感し得るが、それを文字だけで示しても空しい。だから言葉とは言葉である時点で既に反省意識から生み出されていて、それは時間論的に語りやすい様に仕組まれているのだ。

 

 だがそれにも関わらず我々は生活上殆どを空間に頼っている。これだけは間違いない。会社に通勤する途上電車に乗って見えてくるのは車窓から確かめられる空間的風景である。どこかに仕事で移動する時も歩いたり車を使ったり、空間移動だし、室内もしょっちゅう移動している。全て空間的所業である。

 空間に於いてはどんなに個人主義の人間でも社会全体の様相より、天候とか自然条件の中に居る我々という意識が強い。これも哲学者の殆ど論じないことである。

 

 ハイデガーが面白いのは空間全体をそういう一つの事態としては理解できても、その広大なる一挙性は言葉化し難い旨も示していることだ。この点でデカルトやバークリーやベルグソンと彼が違ったタイプの哲学者だということは分かる。

 つまり言葉で示し得ることはやはり人間生活に於いても一部でしかないということだ。その事実自体を言葉化することは可能だが、それは形而上学をはみ出ることはないだろう。ハイデガーは形而上学を存在論より下位に置いている。(⇒『ヒューマニズムについて』)

 ハイデガーはだから唯心論者でも観念論者でもない。と言って完全な唯物論者でも実在論者でもないけれど、実在論的ではある。又認識論的な要素も多分に持つ存在論者である。

 レヴィナスは観念論者的要素は倫理第一主義であるから、その部分でそうである。

 

 そうである。こういう風に哲学的論議とは論理的納得なので、どうしても音声聴覚的なのである。論理の道筋自体の表明なのだから、それは時間論的なのである。理屈とは大まかに言えば時間の推移の説明なのである。

 そしてそれは反省意識が生み出していることなのだ。そうしてみると言葉とは常に過去の経験をベースにした反省意識的な追想とその纏め的な思考なのである。それは或る物体が或る場所にどかっと置かれてあることのインパクトとは異なる性質のものなのだ。どかっと置かれてあることのインパクトはアート的世界である。

 

 音楽はこの点はちょっと不思議である。何故なら音楽を聴いているとさながら風景が浮かんでくるからである。だから視覚的追想をも喚起する一つの聴覚体験なのであるが、追想を誘うことでもあるから反省意識喚起的でもあるが、現在から未来へ音楽が終わらず演奏され歌われている間は、推移していくリアルタイムの体験なので(その点では映画もそうである)、その臨場性が空間的イメージを、音楽を聴く者が脳内に描出しやすいのであろう。

 

 だからフッサールの現象記述学的手法は、その点では臨場的でもあったので、哲学の中ではリアルタイム体験性のものだった。論理学はそれとは対照的により無時間的である。フッサールも論理学的な見地から出発したが、次第に体験性的世界へと足を踏み入れた。

 

 だから今回の結論を言うとすると、哲学することの中で如何に日常生活で大きな位置を占める空間的体験、空間把握的生活実態をどう捉えていくかということが今極めて重要であり、求められていると言えるのではないか?

 それは幾分言語自体への考察からは離れるが、今余りにも言語哲学的な仕事が溢れ返っているので、一つの提言として考えてみた次第である。

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2017年7月12日 (水)

代名詞とは何か?代名詞の在り方を考えるPart1 視点の転換が可能であることから考える

  

神学者であり、神学で修士を取得される以前に哲学でも修士を取られ、司祭叙階も取得され、且つそれらの後法学博士号も習得し、54年に来日されたホセ・ヨンパルト神父のお書きになった『カトリックとプロテスタント どのように違うのか』(サンパウロ刊)によると社会学は経験科学であるが、神学とは思弁科学であるそうだ。

 

 神学は経験に拠る証明では為し得ない神と私達との間での内的対話に於いてのみ成立する論理的学術であると言えるだろう。

 

 さてこのヨンパルト神父の祖国であるスペインで話されるスペイン語は動詞と目的格の代名詞(例えば私達や私や貴方)は主語が神であることに拠って成立する仕様となっているケースが多々見受けられる。つまり自分が何かする、つまり行為主体であっても、その行為が成立し成就することは神からの恩寵であるという意識が文法的に多々反映されているのだ。

 

 

 

 そのことを念頭に考えていくと、代名詞とはこの記事の一つ前の記事で示した哲学者永井均の最大の論理的功績とも言える、我々が個としての視点から世界を把捉することは、実はその私ということの開闢が、神にさえ、その個には立ち入れないから、予測し得ないそういう語彙を永井が示しているわけではないという論点最初は『私、今、そして神』で示され、最近作の『時間の非実在性』中のジョン・エリス・マクタガートの翻訳に後続する注釈と論評でも述べられている。その中で永井は自著の中でも『私、今、そして神』を特にこれらの論旨を展開させたことから代表作であると自認している<共に講談社学術新書と文庫から>と密接に関係しているのである。

 

 

つまり永井哲学で、私にのみ知られる世界とは、私が誕生してこの方、私が私の身体とか目とか耳とか口とか全ての所有者であればこそ開けてきた世界からのみ成立し得るXであるとするなら、それは私が私に就いては熟知していて、私以外のどの個も神が全てをお造りになられたのだから、神ならば知っている全てを私自身は一切知らないからこそ、成立する世界であり、その私の世界という視点にだけは神さえも立てない、と言うことは全てをお造りになられた神さえも、私以外のどの個の世界という視点にも立てないということを論理的に証明したのである(文章的には示唆的に語られるが、全体的主張からは証明と言ってよい)。このことは世界中のどの哲学者も明確に示してはこなかったことである。

 

 

 

 

 そのことを考慮に入れると、私から発する全ての私、貴方とか君とか、彼とか彼女とかは、私が知る、私が理解できるそれらの存在のことである。だからそれは私にだけ開けた世界、視点とそこから開闢する私の世界から語られている。

 

 だが私をお造りになられた神という視点を置けば、私は神からそう考えさせられているということになる。でも神は私の世界を私の様には決して見ることも感じることもできない。その理由は既に充分示してきた。

 

 

 

 さて代名詞とは、そのことを考慮に入れて考えれば、明らかに世界の全ての存在者の創造主であられる神ということだけが絶対的代名詞として基本的に君臨していることになる。それは世界から見て一つなのであるから少なくとも哲学という学問を生んだ欧米一神教、イスラム教一神教的世界観からすれば、そうである)、それは固有名詞ではない。あくまで絶対的代名詞なのである。

 

 となると逆に貴方も彼も彼女も、全て私から語られる限り、それは私の世界の登場人物ということとなる。それはだから私にとっては絶対であるが、私以外の全ての個(私からすれば全ての他者)にとってはそうではなく相対的なことでしかないから、私は私の世界から見た視界全てを中島義道的に不在とすることで、私以外の個や集団と接していく限り、そこで示される貴方、貴方達、彼、彼女、彼達、彼女達は全て相対的代名詞ということになる。それは一人一人に焦点を当てれば固有名詞表示し得る人達のことを仮に示しているということだ(場所でも番地でも、最後に示す時間でもそのことは当て嵌まる)。

 

 

 

 だから私が貴方とか彼とか彼女と語る時は、私以外の全ての個は私にとっての貴方とか彼とか彼女だと即座に理解する。それは私のことを貴方とか彼とか永井均氏が語る時、私が永井氏にとっての貴方とか彼であると私が理解する様に、である。

 

 

 

 

 

 だから上記のパラグラフの点からも全ての二人称や三人称は相対的である。だが神という絶対代名詞は神である限り、実在の個人ではないのだからこの点はキリスト教徒にとってのイエスとか、イスラム教徒にとってのムハンマド(マホメット)という捉え方と少し違う。しかし彼等にとってはイエスもムハンマドも信者間では絶対代名詞であるということはお分かりあろう絶対的であり、それは実在ではないから、そう思えるのであり、神しか知らない、とか神ではない私にはそれは分からない、という言い方を即座に誰しもに理解させている。特に一神教文化圏でもない日本人でも理解できる言い方である。

 

 

 

 代名詞とは基本的に人物の固有名詞の省略である場合には、必ず現存在=世界内存在としての成員であるという条件がつく。それらは全て相対的代名詞であり、神のみ絶対的代名詞である。何故ならそれはヤハウェとか言っても、固有名詞とは異質のものだからである。そのことで、或る部分ではハイデガーが脱自といったこと(ekstasse, exstatisch)の視点転換を我々が日常生活で行うこと、それは既に思考順路的には習慣化していることであるが、そのことが神という視点を個なりに想定して語られる反事実的条件法(counterfactuals)であるということをも意味しているとも言える。

 

 

 

 もし何等かのかたちで絶対的全知全能を主語にするなら、それはそういう風に自分より絶対的上位にある神を不遜にも持ち出しているのだから、神の視点でのみ語られる視点(時間的にも空間的にも)だ、という意味では必ず非本来的なことである。何故なら私という一個の個からはそういう風に神の視点へは絶対立てないからである。私は私の身体や心からしか語れないということ自体が本来的なことだからである。しかし言語行為に於ける説話上では、我々は必ず何かを説明する時、この神の視点へ立つ様な比喩を絶対代名詞である神を想定するかの如く(そういう神という語彙を示さなくても)説明しているのだ。

 

 

 

 だから我々は空間把握能力の一つの大いなる具現化である地図を利用することができる(恐らくどんな高等知性をも携える哺乳類の種<例えばチンパンジー、ボノボ、ゴリラ、クジラ、イルカ、ゾウでも>人間の様に地図を駆使して動き回ることは出来ないだろう。簡単な図示だけなら理解できても、それを活用することはできまい)のは我々が高度なメタ認知能力があり、それで言語で他者に何か説明したりすることができる様に地図作成者の視点を我々が想定して(どうやってこの地図でこの形状を示しているのかを、例えば鳥瞰図なら、それなりの空中から見た視点を採用して示しているのだという地図作成者の意図を理解して)、地図に沿ってウォーキングすることができるのである。

 

 

 

 それはその侭場所の観念の設定をも可能にしている。この地図のこの地点に示されている箇所はここで、こっちの地点として示されているのがあそこ辺りだ、と言う説明を可能にしている。

 

 ここ、そこ、あそこ、こっち、そっち、あっちということも代名詞として成立し得るのは、空間把握能力と他者の視点、つまり貴方から見ればそっち、あっち、彼や彼女から見れば、私や貴方の居る場所はあっち、そっち(お互いに声を掛け合えるなら、そして向こうに自分達の居る方へ来てくれと頼む場合には、そっちからこっちへ来て、ということとなる)と区別することができるからであり、この視点転換を想像できることが、それを可能としている。これは神の視点とまでは行かない迄も、かなり神の視点の比喩を心的理解としては応用したメタ的視点、脱自的視点であると言える。

 

 

 

 この様に考えてくると、代名詞とはどうやら常に深層心理的には、常に神である様な視点と、そういう風には絶対その視点を獲得し得ない自己という認識との相関によって使い分けられ、人物特定や場所の特定、或いは永井均も常々論理的説諭で利用している時間的特定(それがあの頃なのか、その頃なのか、さっきなのか、これからなのかという全て)も含めて援用されている、と見ることができる。

 

 

 

 つまり神だからこそ立てる視点と、神ではないからこそ語れる視点の相互転換が常に心的になされているからこそそういう心的メカニズムであると我々は日々それを理解しながら言葉を援用しているわけではないものの)、成立している品詞こそ代名詞だ、と言ってよいであろう。

 

 

 

 次回は、代名詞と動詞等の品詞との目的格的な示し方に就いて考えてみたい。

 

 

 付記 彼とか彼女とかの三人称は話者である私と貴方や貴方方を発語条件として必要とすることは言うまでもない。この辺のことはJ.L.オースティンが展開された論理で説明が尽くことであろう。

 

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神ではないことで知る個や主体的であることの孤絶性に就いて

 永井均の全哲学業績の中で一際精彩を持つ論理とは、個であること、自分自身であり、他者の視点へは絶対立てないこと、それだけが神にはできないことである、という主張である。デカルトのことを一瞬偉いと神から独立した視点を持ったことを高く評価する永井は、神の全知全能性が、却ってそのことでどの個の主観的な自分でしかあり得ないことそのことへは立ち入れないという神そのものの構造的欠陥を突いたのだが、それが永井均という固有の分析哲学的手法で現象学的な謎にも分け入る哲学者の最大の功績かも知れない。永井のキーワードである<私>は実はそのことを証明していくための里程標であると考えられる。

 してみれば神とは主体的であるとか、世界に一人しかいない個そのものにだけは絶対なれない、全体の配置だけは構想できても、或る視点からしか見えない世界、感じられない世界を経験することができないということだから、それは当然実在者ではないということになる。

 

 勿論端から大半の哲学者は神学者同様、神が実在であるとは考えてなどこなかった。

 だから現代社会の個の孤絶性とは、超越的視点に誰も(人間である限りは)立てないということそのことの自覚自体が全人類的に共有されているということではないだろうか?つまりその不可性に於いては誰もが平等だからである。

 

 Wanna Cryというウィルスが各インフラに厖大な被害を及ぼしているらしい。つまり現代社会のサイバーテロは自爆テロの様な来世だけを信仰する突発的な個の自滅志向とは異なった、自分自身の自己犠牲を示すことにあるナルシスさえ介在しない別種のインフラ破壊欲求が渦巻いている。これは誰が犯人であるか特定が困難であることを承知で行っていることである。一種の愉快犯である。

 我々はウェブサイトに関わっている限り相手が人間であるかAIであるかを確かめる術はない。たとえフランス語だけ使ってSNSをしていても、単にフランス人になりすましている違う民族や国の人のしていることかも知れない。年齢も性別も偽って参加することも容易であるこのコミュニケーション手段の肯定は、実は誰もが自らの真の姿を見せずにあたかも他者にとって自分が神であるかの様な錯覚を齎すことに愉悦を感じているからではないか?

 なりすましそれ自体は最初からしていることが相互にゲームなのだから、違法ということにはならない。でもそれは誰もが神になれないということを知っているからこそ成立するゲームだとも言えるのだ。

 

 誰もがウェブサイトの全貌を把握することができない。どのソフトやどのツールの開発者、発明者でも決してそれが齎す全体の成り行きやその理由を全て知ることはできない。自分の生んだ、生ませた子供の人生の全てを親が知ることができないのと同じであり、それは結局神ということが、そもそも仮にそんな全てを創造することができたとしても(だからこの点では神とは自然法則、物理法則や、ビッグバン的な成り立ちそのものに近いと言える)、その全ての経過を予想することも、データ的に全てを理解することもできないということをどんな個人も知っていて、だから神とは只常にそういう視点に立ったとしても、全知全能ではあり得ないという形で、実在ではない神を観念上では据えているものの、実在ではないのだから比喩でしかあり得ないということを承知で人類は利用しているだけだということになる。

 だが実際誰もが同じこととして理解できることは実在ではないこの神だけであるということも事実である。何故なら誰もが自分の身体とその在る場所とそこから開ける世界しか知らないけれど、神だけはその誕生の全てを司っているかも知れないという一種の比喩であるだけなら理解し得るからである。

 

 だから神を語るということは常に個による果たし得ぬ夢や実現しない現実の願望を述べていると客観的には受け取ることができる。そうであったらいいなという反事実的条件法(Counterfactuals conditional)はデヴィッド・ヒュームが提示したことを後にネルソン・グッドマン、ロデリック・チザムも応用展開させ、デヴィッド・ルウィスも論じた現代哲学(特に分析哲学)で重要な命題である。

 そうであったらいいなという願望だけは誰もがその(そう)の部分が異なっていても容易に理解できる。その実態そのものより今は不足しているという事実に対する嘆きだけは誰にも理解できるからこそ、その願望を全て叶えられるものを神と呼ぶことも我々は自然に感じられる。神とは代名詞的理解の一つの大きな絶対的文法である。

 

" we may define a cause to be an object, followed by another, and where all objects, similar to the first, are followed by objects similar to the second. Or in other words, where, if the first object had not been, the second never had existed " David Hume, An Enquiry Concerning Human Understanding

 

つまりヒュームが言う様に存在者が最初だけでなく後続組も存在するからこそ、我々は起源を探るわけだが、起源とは必ず後続組と似ていなければならず、しかし似ているということは似ているということだけを糧にそれら存在者の上位にある何かが似た者同士を創造したことになる。かくして神は誰もが理解できる視点、つまりどの主体的、個の視点にもなれないというかたちで誰もが納得する絶対的文法となるのである。

 それはかなり大雑把な捉え方である。でも詳細ではないからこそユニヴァーサルなのである。誰もが超越的視点に立てないからこそ、それと引き換えに個別であり、その時は或る地点である風景が見えるのは、その個人だけであるという事実を我々は得ている。

そしてその個別の視点の問題を反故にして、皆と語る時には神の様なそういう大雑把だけれど誰もが容易に理解し得ることだけが文法的に誰もが納得し得ることとなるということが重要である。

 

 そして誰もが相手の顔も知らずにウェブサイト上でコミュニケーションをする時、神でさえ踏み込めない個の内面やその個からこそ展開する世界で唯一の世界を知ることができない神の絶対的孤絶を、個人の絶対的孤絶と極めて似たものとして理解できるからこそ、相手がアラビア語を使用していても、本当にアラブ人でイスラム教徒であるとは限らない、単なるなりすましも、本当に自分のアイデンティフィケーションを軸にウェブサイト利用する人と混じっていても、そんなことを頓着しない様に文字上での遣り取りにだけ集中していればそれでいいという形の日常を受け入れているのかも知れない。

 

 因みに中島義道は『不在の哲学』で、誰もが自分からだけしか開けていない風景=世界の見え方を不在とすることによって、客観的視点から普遍的な位置関係を認識することで言語行為に参画しているという捉え方をしている。この捉え方からすれば、神こそ不在の哲学から導き出される大雑把であればこそ、誰もが容易に理解しえる絶対的文法とも言えることとなる。

 

 神とは一切の主観的視点も世界も持てない孤独の別名であるが、それを疑似体験し得るウェブサイト利用は、現代人にとって屈折したナルシスの反映であり、神にはなれないことは、実在であることの運命であるが、実在ではない神の孤絶も、ひょっとしたら実在者としての自己の世界の唯一性と不可交換性と一致しているのかも知れないという、それも儚い実在の在り方の願望なのである。それこそが人類がウェブサイトをウィルス攻撃が進化しつつあるのを込みで肯定している理由なのかも知れない。

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2017年7月11日 (火)

初夏五句

初西瓜 独り食らわば 腹膨れ

 

空梅雨で 花弁干からぶ 白紫陽花

 

なりすます 到来ヒアリと 違う蟻

 

蒟蒻が 葱に囲まれ こらなんじゃい(富岡市南蛇井<なんじゃい>に近い辺りの下仁田町の葱と蒟蒻畑にて、6.30

 

ビール飲む BGMに 扇風機(うちの扇風機は独特の音がする)

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2017年7月10日 (月)

言語・論理・把捉・存在に就いてPart3

 分析哲学では記述に異様に拘るので、その書生性にはどこかピューリタニズム精神が横溢している様に見受けられる。それはかなり彼等の中では巧妙に隠蔽されているが、恐らく精神的支柱とするのはそこだ。

 現代社会は一つにはプログラミング言語が動かしていると言っても過言ではない。だからその時代的趨勢に恐らく彼等は随順したスタンスを正しいと信じているのだろう。だが先日藤井四段のNHKの特集では、彼が唯一絶対AIでは考えつかない指し手で勝負した試合があったことを報じていた。

 つまり人間同士のコミュニケーションでもある勝負の世界では、機械的知性では気付かない駆け引きがあるわけだ。

 だからその意味ではプログラミング言語進化実態に随順した分析哲学の志向は一見時代を先取りしている様に半歩遅れているとも言える。

 

 人間の思考を機械の様に捉える仕方は確かに哲学の得意とするところである。だが人間は言語記述的な思考以外のかなり多くの思考をする。それは空間把握能力である。一本の棒がもう一方の棒より長いか短いかを即座に理解できる。遠くに見えることと近くに見えることで、瞬時に空間的な広さとか遠くに見えることと近くに見えることとの関係から我々は即座に位置関係というものを把握する。その様な能力全般を余りにも分析哲学では軽視し過ぎるし、日本の多くの哲学でもそれは同じである。彼等は言語というものを書生的に記述されたものだけが全てという発想で取り組んでいるので、必然的に(勿論最初から哲学は理屈だけで考えていこうとする傾向の強い学なので、そうなっていきやすいのだが)記述されていることの論理だけに偏りがちなのである。

 

 しかし理屈よりも日常生活では重要な知覚的な判断はかなり多い。自動車を運転する時も自転車に乗る時も電車を利用してどこかへ出かける時もそうである。アフォーダンス等のことも現象学では捉えるが、分析哲学では殆ど考慮しない。

 我々にとって視覚情報を身体全体で感知する情報と共に統合させて判断することは多い。そしてそれは中島義道が『不在の哲学』で言う様に言語習得したからではなく、言語習得と平行して為される別の能力の発現によってもである。中島義道がそのテクストで言っていることは、あくまでその能力によって得られた判断を誰か他者へ伝えるということに於いて、示される説明能力のことであり、それはやはり空間把握的な大きな能力の最終段階での付与に過ぎない。言語そのものが空間的把握を可能にしているという考えは受け入れ難いし、それは学術的に間違っている。

 恐らく動物でも直角のコーナーを今見ている角度では130度に見えるが、近づき真横から眺めると90度近くに見えることそのことを同じ空間的位置関係のものと自らの身体との相関性から違って見えることくらいは把握している。只それを言語にして伝えられないだけである。だから人間だけがその位置が変わることによって全く見え方も違ってくることそのことを苦悩せずに済むのは言語習得のおかげだという理論は、やはり可笑しい。理屈で理解できるだけのことであり、動物もそのことで一々悩んだりしない。そういうものだと済ませている筈だ。

 勿論人間はそこでその理由を考えることができる。そしてそれは正に中島の言いたい言語習得を通過した人の論理思考能力の賜物である。

 しかしそれはずっと後になってから始められることであり、最初にその形が位置の移動で違って見えることそのことを不思議に思えることから脱することを可能とするのが言語だという論理では、人には論理的納得による理解しかない、ということになる。そんなバカなことはない。論理とは別に空間把握能力自体が備わっているから、それを理屈で可笑しい等とその段階で子供が考える訳がないのである。言語は子供が言語習得をした後日、その事実の説明に供せられるに過ぎない。

 恐らく全ての認知科学者達はそう考えるに違いない。

 

 だから哲学は言葉そのものの、記述によって齎された論理に拘り過ぎて全体を見失う危険性が学術行為の姿勢自体にあるのだ。

 

 ハイデガーの哲学では現存在が歴史的存在であると考えている段で、確かに宗教や文化的な発想と不可分で、そういう歴史的伝統的な思考方法から自由になれないという意味ではよく分かる。しかし恐らくそれさえ、基本的な空間把握能力の中で発現されてきたものである筈である。

 だから哲学者の記述的論理に異様に執着する傾向は、悪しき文献学的な伝統的な名残なのであろう。だが本当に意味ある文献学は実はそれ程人類に於いて多く齎されてきているとは言い難い。そういう真に意義ある文献学を修辞学的見地から哲学フィールドからも産出していくことこそ、現代の知に関わる人達の使命であると言えよう。

 

 次回は時間論に固執する現代哲学の陥穽、唯心論的悪しき慣習に就いて考えてみよう。

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2017年7月 9日 (日)

日記的記述EK 世相や時代や自分自身の立たされている状況に懊悩するのは当たり前で、それができなかったり、隠蔽したりすることに意味はない

 日本の哲学者は多くが自分が立たされている時代状況や世相を異様に隠蔽することで初めて研究を成立させている。でもそれは本当に生きて何かに取り組んでいると言えるだろうか?

 哲学者だけでなく全ての研究者に、それは言えることである。つまり彼等は専門家としてだけ生きていこうとしているわけだが、その極度に狭められた心の持ち方に或る不自然さだけをずっと感じ続けてきた。

 哲学者は恐らく神と言う時だけ自分達の認識の不充分さを実感している。でもハイデガーは全盛期の『存在と時間』では神という語彙を示していない。代わりにそれを強く喚起する到来という語彙を示した。被投性もその一つだ(それは別シリーズで詳述する)。

 数学者は20世紀以来ずっと形式主義と直観主義で二元的に対立しつつ、歩まれてきたが、彼等は世界や宇宙は全て数へ置き換えられると確信しつつ、数自体の持つ自然的不可解さだけは超えられないと思っているだろう。彼等にとってそのことこそが神である。

 自然科学者はその法則に従って、只彼等は常に自然という実在と関わるので、その部分では自然全体の環境の中に居る自分ということは、少なくとも哲学者達よりはずっと自覚している。

 でも彼等は一切政治には関わるまいとする。あくまで彼等はその点では全員専門家でしかない。だからその部分では間接的に時代への提言を僅かするだけである。原爆が投下されたことでアインシュタインが世界の科学者へ呼びかける様なことがあったくらいで、それ以外に彼等が主体的に行動することはない。

 その点では確かに作家や映画監督や舞台演出家も同じだろう。彼等も時代の不安感を作品の中の出来事や登場人物の行動で間接的に示すのみだ。

 だが詩人は最も言葉のメッセージでそれを伝えられる。これは一つの生きていることの大きな武器ではないだろうか?

 私の場合には対象への呼びかけ、そして詩を読む人へ命令形も使う。それ程アジテーション的な仕方ではないが、時にはそういうことが在っていいとも思う。それくらいにはアナーキーに時代と世相の中にいることだけはきちんと示す。

 要するに一番取りたくない態度とは、揶揄と皮肉だけで巧妙に知的な読者にしか理解できない様なスノビッシュな態度で超然としていて、その隠蔽の巧さをひけらかすことである。これは若いさして力のない論客のよく取る態度である。自分自身は遠く問題から距離をとって、被害を受けない様にしている狡さがある。隠蔽したり、隠れていたりする時間的空間的余裕は少なくも私には全くない。

 一度日本語で書いた詩をほぼ全て英語にも翻訳する様に今年からしだした。中には最初思いつくのが英語の方もあるし、そういう場合、同じ内容を日本語でも書いても、英語の方がいい出来であることも決して少なくない。

 主にアメリカ人(中にはカナダ人もいる)の参加する或るサイトに招待され参加して、そこでアップロードしている。かなり大勢の人にも読まれ、シェアされているので嬉しいことである。

 日本語の詩は大半は河口ミカルの読書日記(ブログ左下のその表示の四つ下をクリックされたし)でアップし、英語の詩はexamplewordpresscom1616でアップしている。時々日本語の詩はこのブログの左下のココログのマークとその下の河口ミカルの読書日記の直ぐ下のlovehatehimのblogでもアップしているので、スクロールして確かめられたい。

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2017年7月 8日 (土)

My Point of View in FB and report of my tweet message to US musician friends Part11

Impression to Mr. Sammy Klinger’s long sentence message contribution

Your life experience should be shared to anyone, anyone can figure out in mind. Never give up is one of the most important hint and it also would take us to another chance and moment to get courage and hope to our future. (2nd 7)

 

Impression to upped Mr. A.J. Lauers music compilation contribution Rock the Night  https://soundcloud.com/ajandtara/rock-the-night

Good compilation you did, nice arrangement of tunes. order of each songs and performances is supeior! (7th 7)

Impression to upped Mr. Jacob Lutzs music contribution Ambient Airwaves, by IMFTTBT

It's contemporary church music as ambient tune, so nice!

I' d like to listen to your this tune's continued version, and long version. (7th 7)

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日本の問題は全て共通するPart1日本の哲学者は悪しく細か過ぎる、微細に解析し過ぎるのだ①

 欧米の哲学者の考えはいつも一刀両断に明快である。だが日本人には根本的に自国文化としてギリシャやユダヤやキリスト教の精神はないので、その負い目から全てを細かく解析し過ぎる。そのことで却って物事の本質から遠ざかっている。ハイデガーのテクストもレヴィナスのテクストももっと大きく掴まえている。だから解釈する方も受け皿が大きいので安心して書かれている論理を応用して考えることができる。その受け皿がどの日本の哲学者にもない。

 日本の哲学者は哲学解析批評家なのだ。欧米哲学研究者なのだ。自分自身に固有の哲学を示していない。つまりどこか自信がないのであろう。欧米の本場の人と直に何をしても太刀打ち出来ないと決め込んでいるのだ。

 

 ただそれはこと哲学だけに関することではないかも知れない。つまり構造的に日本社会並びに日本人にある固有の傾向かも知れないのである。

 日本人の形式主義は恐らく古代から継続させてきたとされる国家神道と天皇制に起因するのかも知れない。五穀豊穣等の祈念が一つの宗教的な指針なのだが、そのお祓いからあらゆる儀式的典拠、有職故実的な仕来りから日本人が異様に或る専門に従事する場合、一切横の問題、つまり共時的な意識を持たない様に組織等の全てが持っていこうとする、所謂前例のないことを一切させないという保守主義が厳然と存在するが、それが関係者を非関係者からシャットアウトさせる、つまり関わらせないという意識こそが今批判を国民やメディアから受けている自民党の忖度体質にも受け継がれている。

 今回はそういった一切の問題への宣戦布告だけにしておくが、次回は具体的に日本の哲学者の考え方が、どう欧米の人達と違うのかということを例証していこうと考えているが、哲学全体が20世紀から今日迄の間に大きく変質してきてしまったということからも考えていこうと思う。その世界の傾向を逸早く模倣する態度が日本人の哲学者の態度だからである。(つづき)

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2017年7月 7日 (金)

日記的記述EJ 夢で見て気が付いたこと

〇円のカンヴァスは四角いカンヴァスと違って四角の四隅を正確に床から平行に壁に展示しなければおかしいこととは違って、絵の内容そのものをベースに、例えばその絵が立像であるなら床からその描かれた人物が垂直になる様に展示しなければいけない。カンヴァスの形そのものであるなら、どう飾っても全く形は変わらないからである。

 だからこの場合制度としてのカンヴァスがどんな絵の内容であっても優先される四角のカンヴァスの展示と違って、絵の内容で飾り方、つまりどの絵の内容を上下にして、どの絵の内容を左右にするかという決定がカンヴァスの制度外の、しかも絵そのものに委ねられているという事態なのである。制度とはしかしこの場合絵の内容ということになるから、カンヴァスという形式が制度であることと意味を変えている。そしてそれは絵とは本来どういう意味を持つものなのかという問いが突き付けられているとも言える。

 

 付記 円のカンヴァスに敢えて歪んだ立像を描いた場合、作者は必ず最下点を展示係の人にも分かる様に印しておかなければいけない。

 

〇折り紙はかなり古くから日本で行われてきた高度な遊戯の一つである。ここで造られてきた折り方は、一人で考えられたものも中にはあるだろうが、かなり大勢の人達の知恵が集約されて進化してきたのだろう。そして重要なことは、その折り方があくまで二度同じ繰り返しがなく、最も効率的に一度で最大限の効果を持つ様な形の作り方になっているのだろう。

 

 同じ様に植物でも動物でも、進化していく上では、自然条件に沿って最も円滑に生命を維持し得る形で形や機能が決定されてきたのだろう。勿論工場の煤煙で隣接する森に生息する蝶々の色が変わってしまうという進化もあるけれど、それでもそれも又そういった環境の変化に適応した進化の仕方である筈である。つまり進化とは必ずどんなに短い期間に於いても長期間に於いても、そのスパンで変化していく方向に沿って、最も効率的な生命維持の仕方で為されていくものである筈であり、やはりそこでも二度手間は避けられている筈だ。

 

 してみると、自然自体が折り紙の最も良い折り方を発明してく様に、何等かの判断をしていることになる。それを古代より前から生活してきた人類が神と規定したのかも知れない。しかしダーウィン以来の進化論では神によるご判断でなく自然選択だと唱えてきたのだ。

 

 しかしこのことはもう一つ違う真理を我々に突き付ける。我々人類は言葉を駆使してコミュニケーションする唯一の生命とされているけれど、その時何をしても最も効率の良い方法を脳で考えるということそのものも又、自然が生命を進化させる上で取る判断とそれ程内実は変わりないということも言える。にも拘わらずとりわけ哲学では、あくまで人類が脳で言葉を駆使してものを考えるということを異様に特権化させて学術的営みをしてきたということも言えるのではないか?

 我々も又自然が判断しているのとそう変わりなく脳を駆使しているだけである。もしそれが違うと哲学が言うなら、やはり神を認めなければいけなくなる。だから哲学的思考とは必ず何等かの形で神を起源的に考えなければいけなくなる様になっている、とも言える。

 

 だから逆に神学という学問は我々の心が向かう在り方がたとえ実際に神が居ようと居まいと、神があり、それへ敬虔な気持ちであるべきだという倫理的な絶対的信仰の仕方そのものを問うものだということとなる。だからそれは或る部分ではやはり最も離れている様にも思える自然科学とさえ平行して歩まれている、そういう心の在り方の最も効率の良い捉え方が宗教史だと言えるからである。

 

 現代人はそういう意味では内的には宗教倫理的な訓戒をベースにする部分はあるけれど、社会インフラ的には自然科学の恩恵なしには生活できないという二重性を持って生活していると言うことができる。

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2017年7月 6日 (木)

言語・論理・把捉・存在に就いてPart2

ハイデガーは言語自体を存在同様メタ的に考え、語る。それは存在の家と言語を考えていることからも明白である。存在と対比的に言語を捉えるのは、その関係性が成立すると考えるからである。言語そのものを考える全ての基礎としているので、言語をメタ的には捉えられないとしたウィトゲンシュタインとの大きな違いである。ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で世界への理解と把捉を論理空間として考えた。それは言語により認識し得ることからしか問えないと考えたからに外ならない。しれみればウィトゲンシュタインの思考順路こそデカルト以来の伝統的な哲学的態度と言ってよく、寧ろハイデガーのそれは違うと考えるべきではないのか?

 

 ハイデガーが存在と言う時、それは概念規定を越え、もっと茫漠とした何かに抵触していると知っていることは明らかである。それは『存在と時間』序論 存在の意味に対する問いの開陳 第一章 存在に対する問いを表立って繰り返すことの必然性 に於いて「「存在」という概念はむしろ最も曖昧な概念なのである。」と述べていたり、「結論することができるのは、「存在」は存在者といったようなものではないということだけである。」と述べていたり、「事実、「存在」は存在者として概念的に把握されることはできないのである。「存在ニハイカナル性質モ加エラレナイ」。つまり存在に存在者が帰せられるというふうに、存在が規定されることはできないからである。」「存在が定義不可能であるということは、存在の意味に対する問いを免除するのではなく、かえってこの問いを問うことをこそ促すのである。」「(前略)存在問題を繰り返すことは、まず第一にその問題設定を十分に仕上げることにほかならないのである。」と述べていたり、或いは続く 第二節 存在に対する問いの形式的構造 で「(前略)「『存在』とは何であるのか」と、われわれが問うときにはすでに、われわれはこの「ある」についてなんらかの了解内容をもっているのだが、この「ある」が何を意味しているのかを、われわれが概念的に確定しているわけではあるまい。われわれは、そこからその意味を補足すべきはずの地平をすら、識別してはいないのである。こうした平均的な漠然とした存在了解内容は一つの現事実である。」と述べていたりすることからも明らかである。

 

 しかし同時にハイデガーは赤字黄色枠で示した様に、それを何とか言葉化させようと試みている。それが言ってみれば、この普及の名作『存在と時間』なのである。

 

 前回示した動物も又持っている識別能力のことをハイデガーは次の様な言葉で示している。同じ第二節からであるが、「存在は、存在している事実と存在している状態のうちに、実在性、事物的存在性、存立、妥当、現存在のうちに、また「与えられている」ということのうちにひそんでいる。」と述べているが、この最初の実在性こそ、世界が人間だけに与えているのではない能力をも含む。しかし重要なのはそのことより、赤い字黄色囲いで示された「与えられている」とする部分である。

 同じ第二節で彼は「眺めやること、了解して概念的に補足すること、選択すること、通路をたどって近づくことは、問うことの構成的な諸態度であり、したがって、或る特定の存在者の諸存在様態ですらあるのだが、この特定の存在者は、問うものであるわれわれがそのつどみずからがそれであるところの、まさにその存在者にほかならない。」としている。又この文より先に「存在が問われているのであって、しかも存在とは存在者の存在のことであるかぎり、存在問題において問いかけられているものは存在者自身であるということになる。この存在者はいわばおのれの存在をめざして試問されるのである。」

 この全ての赤字灰色囲いの部分こそ、彼が現存在と呼ぶ存在者のことであり、それが与えられた命題に取り組むべき使命を帯びていると捉えている。

 

 

 少なくともこの与えられた使命(それは上記のこの存在者はいわばおのれの存在をめざして試問されるという箇所からも示されているが)ということの内にこそ、ハイデガーが信じた神が居る筈なのである。それはその後の本文の到る箇所から発見することができる。彼はその意味では哲学という名の信徒であると同時にやはり神から遣わされた使徒でもあるのである。

 

 

 『存在と時間』はのっけから既に存在忘却から始められている。つまり存在者が存在を忘れてしまうことを基軸として論を展開させる。そしてそれを問い続けられるのは現存在、つまり我々人間だけだと上記の箇所でハイデガーは述べているのである。

 従ってウィトゲンシュタインを哲学的態度であるとするなら、ハイデガーのこの問い掛けそのものを成立させる使命への奉仕と殉教的な構えを神学的態度としても強ち間違いではないであろう。(つづき)

 『存在と時間』の本文は中央公論社刊 世界の名著74 原佑責任編集中 存在と時間 原佑・渡辺二郎訳によった。

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2017年7月 5日 (水)

言語・論理・把捉・存在に就いてPart1

 分析哲学者や論理学者は往々にして、論理を記述として把捉しがちである。彼等は現代コンピュータサイエンス時代の要請に従って記述という行為性へ着目しているからである。それは確かに着眼として正しいけれど、それが全てではない。少なくとも我々の生活世界(フッサール用語)では。

 

 哲学者は他の専門の学者と異なって固有の思考傾向がある。それは修辞学者や解釈学者にも言えることだが、人間に固有の精神活動に拘るということだ。それも勿論正しい態度だが、或る部分では自然科学者の考えていることの方がより適切な場合も多い。

 

 例えば我々は人間に固有の能力によってのみ生活を支えているわけではない。私の家族はかつて猫を長年飼っていたが、我が家の雌猫はきちんと人をそれぞれ見分けていた。勿論猫だから名前という概念は分からないだろうが、私の母(彼女が最も猫の世話をしたので、雌猫は母を親だと思っていたけれど)と私と弟とを、生前の父のことも、きちんと全員見分けて区別して見ていた。

 

 これは哺乳類の一定程度の知性的本能を持った動物なら皆できることである。人間が人間に固有の優れた面だけで、動物とも重複する能力をもし持っていなかったとしたら、それはそれでかなり欠陥的な存在である。しかし我々は動物でも当たり前にできることを自分達もできる、つまり自分達も又動物的本能を持っているからこそ、それ以上の人間固有の精神活動も営めるのである。

 

 例えば「似る、似ている」等の語彙は、そういった言葉の規則とか意味とかの理解以前の、形態学的な相貌認証的能力が備わっていて、その判断が可能だからこそ、理解できる語彙でもある。それは人の顔だけでなく、漢字で似た形のもの同士を共通性を通して把握して理解することもそうであるし、果実や野菜を似た形のもの同士を共通性を通して把握して理解することもそうであるし、方向感覚的な把握もそうである。要するに把捉全般は人間も又一個の哺乳類の成員であるということから来るもっと根源的な能力である。悟性も又そういった規範から生み出されているものだと考えられる。

 

 ジョン・ロックもジャン・ジャック・ルソーも社会環境によって人が色々な性格や考え方が支配されるという考えを持っていたが、それはやはり一面的理解であり、社会環境に左右されない人の個人としての資質や能力は遺伝子的な継承によってあり得ることだし、一時期環境的に影響を受けたとしても、もっと長い時間の間では結局置かれた社会環境とは違う判断で意志を人は持つことができる。

 

 論理学者は当然分析哲学者にも証明論とかで影響を与えてきたが、この論理も根源的には人間固有の、つまり言語それ自体の文法的理解とか人間固有の精神活動的な知性に支えられているだけでなく、動物的直観とか本能に近い生来の能力によっても支えられている。寧ろそちらの方が後から追いかけてきた人間固有の歴史伝統的とか文化的とか、言語それ自体の習得に根差す把握を支えている。発声にしても聴覚的理解にしても、それは言語自体が持つ固有の高次の論理からより、もっと本能的生理学的直観で把握して習得されている。それは日本語であれ英語であれ文字の形で記憶して速いスピードで読めるとかのこともそうだし、長く演説する人の話の大意を掴むとかのこともそうである。人間固有の高度の知性だけがぽこっと取り付けられている訳ではない。あくまでもっと根源的な把捉の能力が細かいスキル的なことも支えている。

 人間の持つ感性も、そういった生物学的本能や把捉的な生来の能力の上に乗せられている。そういう風に考えないと、かなり唯知性主義的なものの見方になってしまう。

 

 だからそれは宗教的な精神の理解もそうだし、自然科学の合理的な理解や、法則的理解も、全て根源的な把捉がベースにある、と考えるべきである。特に宗教的心理には恐怖や不安も大きくかかわっているだろうし、それは人間固有の高次なことが、それ以前的動物的直観とか把捉が支えている。

 その意味で存在把捉ということがあるからこそ、我々は知性も理性も持ち得るのだと言える。

ハイデガーが『存在と時間』で考えた存在忘却も、実はこの存在を野性的に体感的に把捉する能力があって、その上で言語を社会環境的にも生来的にも強制的に覚えさせられつつ習得している我々が把握しているということをベースに語られているので、その根源的把捉に就いては彼は充分理解していたものと思われる。

 

 ウィトゲンシュタインはその点では社会制度として言語を習得するというデカルト主義的なコギト的な把捉を前提に語られているので、言語化し得ない理解が言語をも支える(それは先述の似た顔とか、人それぞれ個人の顔を記憶する能力や、形態を把捉する能力で示した)という視点は然程重視していなかったと思われる。尤も恐らく見間違いとか思い違い等のことに就いてはハイデガー等とも違った形で考えていただろうとも思われる。

 

だからハイデガー哲学よりウィトゲンシュタイン哲学の方が、より制度としての記述という事に拘っているという意味では社会現象記述的な態度だと言えるだろう。

 

 今回は我々が記述論理的に言語に固有の論理だと思われているものさえ、実は前言語的な把捉が促しているという側面に就いて考えてみた。

 次回以降はこのことをベースに諸々のことを考えていこうと思う。

 

 付記 今回の問題はあの日本全国を席捲している将棋の指し手に就いても言えることであり、論理的な認識だけでない動物的直観とか形態学的な把捉、空間把握能力等も多分に重なって判断されているのではないかということを示唆する。

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2017年7月 4日 (火)

文学・宗教メモPart5 詩作に就いて

〇詩を書いていくために一つの方向性を持たせている。一つは自分が日本人であることから、普通に感じる自然と身体を通した経験的な観想を示していくことである。それはしかし自然信仰的なものでもない。気づかぬ内にそういう八百万の神的感性が出ない様にしている。そもそもそういう感性は私の中には濃厚にはない。何故なら現代日本人だからだ。伝統的に自国に伝わっているものと現代人との間には決定的な距離がある。それは心理的にもそうだ。

 

〇だからと言って近現代の英語詩を容易に理解できるわけではない。それには聖書以来の伝統、一つのキリスト教文化圏でこそ成立する所作が存在する。16行詩のソネットもそうだし、あらゆる戯曲や歴史書の伝統も詩と関係している。つまりそういう一連の大きな流れの中に彼等は居るし、その流れの或る一点である様な時代で書いている。でも彼等は大きな流れの中の一つだといつも自覚しているわけではない。そういう時は人生の最後に多いだろうが、ほんの数回くらいしかないだろう。それは自分のことを考えてみてもよく分かる。常に今どうしていくか、どうなるかしか念頭にはないのだから。

 

〇つまりそういう風に自己を決して客観的には見られないという運命を誰しもが背負っている訳だが、それでもあえてそれを挙行しようという大それた試みも時には詩には宿っている。それが全てではないが。

 

詩を書く上で重要なことの一つは何を主語にするかだし、その主語を規定するものとは一体何かということの問いである。神ということは確かに日本民族には無い。従って国家や我々の周囲にそういう問い掛けを平常のこととする何ものも存在しない。にも関わらず現代を生きる我々は多くの隣人達がそういう信仰を持って生きていると知っているし、少なくともキリスト教世界観は馴染みから言えば、それ以外のイスラム教よりは大きいと言える。インドのヒンドゥー教も何となく日本人なら分かるという部分もある。一神教神や多神教的神も同時に登場させてもいい。だが自分にはどちらかと言えば一神教的神の方に全体を通した詩への捧げという意識では強い。

 

詩人の多くには労働というものの痕跡がないことの方が多い。それは哲学者にも言える。神学者は大体神父や牧師をしながらなので、人の話を聴くという労働を読み取ることができる。ハイデガーの哲学にはその哲学を考える人の労働も読み取れる。思考の労働でもあるけれど、それ以外の通常の労働もである。これは日本の哲学者には全く欠落した要素だし、それが意外と重要だけれど、殆どの人は着目すらしていない。

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2017年7月 3日 (月)

猫の顔

猫の顔を見ていると、思わず頬擦りしたくなる。

君の全てを守りたいと思えてくる。

 

全ての男と女を父や母へ目覚めさせる。

 

肌を摺り寄せれば、どんな肌触りの良いコートや毛皮より気持ちいいよ。

 

君は何故そんなに僕の顔を不思議そうに見つめるのかい?

 

それなのに、いとも簡単に自分の身体の数倍の高さを君は跳び上がる。

 

君は動くもの全てに興味を持ち、あらゆる咄嗟の動きをいつも絶やさぬのに、どんな場所でもどんな人間にも、いつも一番気持ちいい場所を見つけ、一番気持ちいい恰好をする。

 

君のその円らな瞳に僕は吸い込まれそう。

君のその水晶の目が見つめる先に、君の心の向かう先が潜んでいる。

 

君は眠っている時以外はいつも意識をはっきりさせたいんだろう?前肢の表を舐めて、それで必死に顔を拭いている。耳の脇が痒ければ後ろ脚で掻くだけだ。

 

君は自分以外の全てが自分の僕だと思っている。

でも君は君の仲間がそう思っていても、それ程怒りもしなければ動じもしない。そこが僕達と違う。

 

猫よ、君の顔がちょっとでも今みたいなのと違った風だったら、僕達って、こんなにも君を愛していただろうか?

 

君の顔を見て和む僕達の顔を君が見て信用してくれる様にしてくれた神へ感謝したいよ。君はきっとそんなことどうでもいいだろうけれど。

2017.6.24,7.3修正・加筆、最後の行の一文のみ)

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2017年7月 2日 (日)

詩は経験なんかじゃない

 詩を書き始めて十数年経ったが、全くそれで食っていこうとか、名を挙げようとか思ったことはなかった。それどころか、他の全てに失敗し続けた人生で、只一つの心の拠り所にしてきたところがあって、そこで面白いのが、人生の心の拠り所とは或る部分じゃ、宗教心理的なこともあるせいか、最後の砦くらい、一切成否と関係なくやっていきたいという気持ちの方がずっと強くあり続けた。

 

 自分はそもそも何か特定の才能があるという風に自分を規定したことは一度もなかった。若い頃は営業もやったが、実際そういう仕事をしてみて、日本の商習慣に準じた仕事だけは向いていないなとつくづく思った以外は、それ以外なら何でも良かったと言ってさえいい。しかし同時に教育者にも絶対向いていないなともずっと思っていた。だから教員免許を取る為に大学で履修していた単位も後、教育実習だけを残して、放棄してしまった。結局常に違う仕事へころころと鞍替えして今日に至っている。殆ど大して税金も払っていないし、そのことを凄く罪なことだとさえ思ってもいない。

 

 詩が面白いのは、普通にものを書くとのは違って、かなりその時々の気分を反映させられる創作だということだ。詩はだから長年書き続けてきたからどうのこうのという経験的なことでは絶対ない。寧ろそういった慣れは詩の本分では邪魔になる。詩とは経験で書くものでは決してない。

 

 ハイデガーは『ヒューマニズムについて』(Brief an Jean Beaufet, Paris(渡邊二郎訳・ちくま学芸文庫)で次の様に述べている。

「哲学は、みずからの本質を尊重するならば、断じて、離れ去って先へと歩み進むことなどしない。哲学は、つねに同じ事柄を思索すべく、当の場所で足踏みをしつつとどまるのである。」

 このことは詩にも全く当て嵌まる。詩とは何かをどこかへ向かって進歩させていくべきものではない。常に詩を書きたいという気持ちにその都度戻って(初心という言葉は余り好きでないが、敢えて別の語彙を探せば、そういう言い方をしても間違いではない)、つまり同じ所に居続けて発信し続けることだけに意味がある様な何かである。

 勿論冒険とかチャレンジ自体はいいことなのだけれど、格別の確立を意識し過ぎて書けるものではない。

 

 今でも自分は詩を書いてきたから自分の能力はそういう文章を書くことだけであると思っているかと言えば、そんなことはない。全く違う仕事をしても面白いし、その方が本当は向いているのかも知れないという発見を求める旅をしてさえいいと思っている。

 それでも詩は金の為に書いているわけではないので、たとえどこか地方で土地でも買って(それだけの経済力があれば、という仮定だが)狭くてもいいから農業でもやって生活していくのも悪くはないなと思いながら生活しているのだけれど、そうしながらでもずっと書き続けていくだろうなという予感だけは持っている。宮沢憲治も決して金の為に詩や小説を書き続けたわけではないだろうから、そういった意味では、どこかでは自分の死後誰かが目にでも留めてくれれば、いいな、とだけちらっとは思って書いているという要素は否定するものではない。

 

 又明日どんな詩が書けるだろうかと常に思いながら今日書く詩のことだけを考えている毎日である。

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2017年7月 1日 (土)

唯一性に就いてPart1

 『言語・真理・論理』に中で論理実証主義哲学者で後の分析哲学に大いなる啓示となったA.J.エアは、どんな事態であっても過去に於いて、その展開で最善の方法とは在った筈だと言っている。

 これはそんなに難しいことではない。つまり我々が往々にして相対的に全てを判断しがちであることを戒めているからだ。選択肢が多く存在するということは、未だ何も行っておらず、命題として成立していないということだから、それは判断以前である。しかしどんな事態であれ、その渦中にあって判断に窮している場合には、必ずそれを打開する方法はあり、それは必ず一つだということだ。

 

 それはアメリカ大統領であれローマ法皇であれ、国連事務総長であれ日銀総裁であれ、大企業のCEOであれ、刑務所の受刑者であれ、全国指名手配犯で国内逃亡者であれ、突き付けられた難題があるという意味で全て平等である。つまり立たされた事態、窮しているという事実に於いては皆均一であり、その打開策とは必ず一つはあるということだからだ。

 

 だからレヴィナスが後期しきりと唱えていた一者という命題=発想とは、キリスト者を限りなく理解しているユダヤ教徒としての彼が、ヤハウェと共にイエスという預言者をも合一的に理解しようとする時、宇宙や自然の全てを造り給うた神の一者と、人間社会で理性を持った現存在的存在者全ての判断に於いて、ある事態に於いては、それを打開させる道は一つであるということが、どんな思想信条でも必ず一致するということ、そのこと、つまり倫理的命題としての究極の善であるところの神の一致ということを彼は言っていたのだ。前者がヤハウェであり、後者がイエスであることは言うまでもない。

 

 だからどんなに相対的に全てが錯綜していても尚、絶対というものがあるという認識は正しいし、それが究極の神の存在を証明していると言ってもいい。

 そのことを例えば人類が言語を所有したことから考えているのが哲学者一般であろう。その点ではデカルトからカント、ウィトゲンシュタイン、ハイデガー、レヴィナス等全員同一線上にある。

 

 だが存在は存在自体不可知に満たされており、言語による理解の全てを持ってしても計り知れない。でもその計り知れなさを示すのは言語だけだ。だからキリスト教にとっての(ユダヤ教にとってはヤハウェしかないのだけれど)、唯一神のヤハウェとイエス、イスラム教にとってのアラーとムハンマド(マホメット)ということの一致こそが彼等の求めてきた究極の理想であり目標であろう。

 

 それは公益が盛んとなった都市やエリアが必然的にエリアの地理的自然条件に適っているという意味で一所だけである、唯一であるという事と同じだ。

 日本に沖縄に似た条件の地は他になく、京都や奈良に代わり得る場所もないし、聖なる神木が生えている地点も唯一である。それはミルチャ・エリアーデが『聖と俗』で言おうとしたことを正当化する。何かするのにもってこいの場所というものは必ず一つに絞られるし、選択肢はない。だからこそ絶妙という語彙が存在しているのだ。

 

 ユダヤ教やキリスト教やイスラム教が発生したことは、それぞれの住んできたエリアと、その気候条件、自然条件と、隣接する異民族等の条件によって、それぞれ独自に展開してきた。それも又唯一である。日本にとって隣接する民族は朝鮮民族、ロシア人、中国人、台湾人、フィリッピン人等と必ず限られている。フランス人やイタリア人とは隣接自体はしていない。

 

 一者という事を今後も考えていくが、それは明らかに切羽詰まった状況と自体に遭遇しない限り、捻出され得ないことなのであり、又そういうものだけが仕事とか選択ということに値すると言えよう。そしてそれは常に絶対なのであり、決して相対的判断の介入する余地はないのだ。この点が重要である。

 

 だから宗教倫理的にも神学命題論的にも一者を求めるということは究極の自己救済且つ他者救済なのである。

 そのことだけを念頭に入れて次回の命題に就いて考えていこう。(つづき)

 付記 選択肢が多いということは未だ差していない将棋の駒であり、一手差す毎に選択肢が狭められていき、しかしその窮地を脱する一手も今まで考えられたよりAI的知性を導入すれば、もっと沢山在ったのだと分かった時、少なくとも将棋の世界では未知の領域が開闢したと言っていいだろう。それでも尚その限りない前進の中で究極の一手を探そうとしている、と言える。

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世界の真理Part74 分派していることの意味とは何か?②詩人と哲学者、聖人や預言者、日本人、神と個人主義

〇ハイデガーは『芸術作品の根源』ではかなりの分量で詩に就いても論じている。それは『ニーチェ』でもそうである。彼はその点では偉大な哲学者なので、哲学の専門家でなくても読んでいて理解出来る書き方をするし、彼自身ルネッサンスマン的な感性を持っている。ただそれを哲学者は哲学者固有の専門性から理解しようとし、それだけが正しく、例えば文学や芸術に携わっている人達による哲学者の理解、例えばニーチェやもっと最近の人ではデリダやフーコーに対する捉え方は邪道であるとしたいらしい。それが専門の哲学者達の狭量な専門家意識である。

 

〇実際の詩人は(私も詩人であるが)、哲学者や哲学的探求心、その疑問の持ち方を比較的他の専門家よりはずっと理解できる方ではないだろうか?結局哲学も詩も言葉の営みだからである。でも相手を理解できるし、そのメッセージの意味や意義を理解できるということと、自分も同じ様にそういうことができるかということは全く違うことである。自分では巧くできないことを理解できるという事があるからである。その点では哲学者が詩人を理解していることは、それなりに本当に詩の意味やメッセージを理解していると受け取っていいけれど、それと彼等が詩人と同じ様に詩を書けるかというと、それは全く違うということだ。

 

率直何処にでも居る奴に限って、自分だけは特別だと思っている。だから自分だけは特別だと決して思えない者はかなり稀である。そういう人の中の極め付けの、それこそ何千年に一人位の割合でしか現れない人こそ、預言者になっているのだ。彼には俗世虚栄的な欲望はない。ないから聖人なのだ。

 

 どこにでも居る人は、しばしば自分だけがある教祖を真に理解していて、それは特別なことなのだ、という誇りを抱いている。でもそれが凄く何処にでも居る決して珍しいことではないということだけを気づいていない。

 

〇でも上記の様な聖人は、その人となりは、やはりきっと全く普通の人とは違うだろう。だからこそ誤解されやすいし、付き合い難いからこそ、何等かのかたちで排他されていきやすい(率直真に自己の正義に誠実であることは、或る面では凄く冷たい、殆どの場合、表面的にはエゴイストでしかあり得ない生き方と態度になるだろう)。そして最後にはスケープゴートになってしまう。その典型的な人物こそイエス・キリストだったのだ。だが或いは、本当にそういう神がかった慈愛の人とは長い人類史の中で何人かは登場するのだろうし、そういう言葉に言い尽くせない稀な人との邂逅から、我々が、そのお方は神が遣わされた人に違いないと思ったとしても、全く不思議ではないし、また、それは比喩である、とそう特に神を持たない日本人は思うかも知れないが、そういう比喩でしかなく、神なんて居る筈はないという見方が絶対正しいとは言い切れないし、まず証明できない。証明できないものを正しいと言うのは哲学的には明らかに独断だし、偏見である。

 そうでないとは証明できないことはそうであるかも知れないということは絶対に残しておかなければいけない。だが残念ながら日本社会とはそういう問い掛けを決して重視しないし、蔑ろにしてきたし、これからもそうだろう。その点ではその問い掛けを重視している人は、それを心の中に封じ込め、さながら現代でも隠れキリシタン的に生きいかざるを得ない。

 

そういう生き方や問い掛け方は確かに哲学者も詩人もそれぞれ一部持っている。でもやはり哲学者の持つ固有の専門的見識の保持に対する誇りは、それ自体全く超脱されていない俗世的虚栄心でしかない。でも彼等の多くは、それを気づいていない。だから真に神という事を考える問い掛けとは肝心なところで一線を分かつ。それは少なくとも問い掛けではないし、ましてや信仰でもない。

 

〇勿論信仰には絶対に他と妥協しない固有の危険性はある。日本人とはそれを特別に忌み嫌う傾向の民族なのである。その点では日本人は決して個の内面というものを持ってはならないという厳しい暗黙の鉄則だけを信じる民族である。だから日本人は自然信仰者である。しかし自然は人間理性を最上位に置くものの考え方からは第一義ではない。そして自然自体は神とは違う。欧米人もイスラム教徒もその点では(お互いにいがみ合っているけれど)、自然全体をそうあらしめる力と、その決定という意味では神を認めていて、自然信仰は実利的なことでしかないと思っていることは確かだ。

 そして自然全体をそうあらしめる力としての神という発想を持つということこそ、個々独立した個である自分の真の主観を持つことなのであり、それこそ神から与えられた使命だと言えるので、そこで個人主義も主体も生まれるのだ。

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