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2017年7月

2017年7月22日 (土)

世界の真理Part75・宗教メモPart10

国家とは多分に宗教感情的な共同体を歴史的に基礎とするものであり、そこに言語的違いが付帯して、民族差というものを構成するかたちとなっている。従って現代社会でも今も色濃くどの国にも残っている反目的感情も、全て宗教教義的分岐の歴史等が反映されて実現されていると言える。

 

キリスト教に限って言えば、キリストが処刑された後復活した、つまり各弟子の前に現れた(それをキリスト教では顕現と呼び、それを哲学が採用している)のだが、その共通体験がベースとなって、一つの原始キリスト教団と呼ばれる共同体が形成されて徐々に世界中へ普及したという歴史がある。

 

〇自然科学的客観主義は遠藤周作が『キリストの誕生』で示した「宗教の時間」つまり遠藤的に言えば真実の時間ではなく「現実の時間」だけを相手にするだろう。では現実の出来事としてこのイエスの復活とは何を意味し得るだろうか?

 新約聖書中のイエスの復活を意味する記述は遠藤周作が『キリストの誕生』で例示しているが、一つはルカ24, 1335であり(エオマの旅人の話)A、もう一つはルカ24, 3643とヨハネ21,114(甦ったイエスとの食事)Bである。

 それは次の通りの記述である。(聖書 新改訳 日本聖書刊行会より)

 

ABの前半部全て(1352<終結部>迄)

 

 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。

 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。

 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。

 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。

 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。

 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいなあがら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」

 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力ある預言者でした。

 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。

 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、

 また仲間の女たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、

 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。

 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。

 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。

 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」

 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。

 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。

 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。

 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。

 そこで、ふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心のうちに燃えていたではないか。」

 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、

 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された。」と言っていた。

 彼らも、道であったいろいろなことやパンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。

 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。

 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。

 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」

 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。

 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、

 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。

 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。

 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、

 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、

 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

 あなたがたは、これらのことの証人です。

 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

 それから、イエスは彼らをベニタヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。

 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。

 彼らは非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、

 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 

Bの後半部(21114

 

 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。

 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタニエル、ゼベタイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。

 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」

 彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」

 彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

 夜が開けそめたとき、イエスが岸部に立たれた。けれでも弟子たちには、それがイエスであることが分からなかった。

 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べるものがありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引きあげることができなかった。

 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。

 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」

 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。

 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。

 

 彼等弟子達、弟子にまでは至らなかったもののイエスの生前関わった大勢の人達は最終的にイエスを救えなかった。そのことは彼等に共通の贖罪的意識を巣食わせた。そして彼等はほぼ同時期に同じ様なイエスの幻覚に襲われたのだろう。勿論イエスと出会った全員がそうであったわけではないだろう。しかしそういった共通した幻覚を持ったという一つの決定的な奇蹟的事実こそが原始キリスト教団を固有の共同体として育んでいったのだ。

 

 この原点から言えば完全にキリスト教とは性悪説的宗教である。原罪というアダムとエヴァの失楽園の旧約創世記記述を、自らの贖罪意識と重ねて発想し得たところに予型論(Typology)の起源がある。予型論は後述するカルヴァンのカルヴィニズムによってより強化された旧約聖書記述に既にイエスの到来、降臨等は全て書かれてあるという聖書学的解釈である。つまり彼等が幻覚を見る程贖罪心理が強かったことは、その幻覚を引き起こすだけの悪をした意識が拭い難くあったという意味で、キリスト教はユダヤ教の引用聖書箇所でイエスの言としても登場する成就という考えを再度持ち出してはいるものの、生来が罪人の為の救済の宗教思想なのである。だから自ら罪深いという意識を持たない人にキリスト教は必要ではない。理解できない筈なのだ。アメリカという国も英国同様、罪を犯してきたという意識があるからこそ、キリスト教が第一の宗教として君臨しているのだ。

 

 だから多分にキリスト教は排他的思想でもある。つまり一度は見捨てた師であるところのイエスが師を見捨てた弟子達の前に登場するという共通体験を持たない者を排他する思想だからだ。そしてそれはイエスと直接関わらなかった後代の人達にとっても、その説話を信じるか否かということで信者とそうでない人とを分ける。

 

〇ジャン・カルヴァン(1509-1564)はフランス出身の神学者だが、プロテスタント教会の改革派教会は彼が提唱したものである。1533年の彼が24歳の時に突然回心し、1536年彼が26歳の時『キリスト教綱要』(初版本はラテン語)を出版するが、尤も当時既に彼はスイスに亡命しており、(1534、パリで檄文事件が起こるとプロテスタントへの弾圧が激しくなり、バーゼル亡命した[1])、大半はこのテクストはスイスで執筆されたこととなるが、初版以後5度も改訂・増補を重ね、1541年(彼が31歳当時)フランス語版も出版され(同年、旅行中に偶々滞在したスイスジュネーヴ市で、牧師のギヨーム・ファレル英語版に要請されて同市の宗教改革に協力する[1][5]1538、教会勢力の拡大を恐れた市当局によってファレルらと共に追放の憂き目を見るが、約半年間バーゼルに滞在したのち、ストラスブール(シュトラースブルク)に3年間滞在した。この1541年には市民の懇請によってジュネーヴに戻る。)、最終的に彼が49歳の頃である1559年に最終版が初版本(1巻本)の数倍もの分量になって完結した。

 彼はこの偉大なるテクストの恐らく1559年に書かれたであろう本文の前の序文である<ジャン・カルヴァンより 読者の皆さんに!>でこう記している。

 

 「(前略)悪魔がその全軍をあげて、あさましい虚偽をもってわたしを押しまくり、このような恥をかかせていよいよ無力にし、あるいはいよいよ温順にしようとしても無駄であります。なぜなら、わたしが変わらぬ忍耐をもって耐えぬくようにしてくださるということを、わたしは信じているからであります。」(カルヴァン『キリスト教綱要 Ⅰ』渡辺信夫訳 カルヴァン著作集刊行会・新教出版社刊より)

 

 この文からも分かる通り、カルヴァンの時代やその少し先まではフランスでは特にユグノー戦争(1562-1591)等で迫害されてきたプロテスタントではあるが、現代世界はプロテスタントによってグローバリズムが完成された(その諸問題は矛盾はあるにせよ、形としては現代資本主義は彼等が完成させた)と言っていいが、その出発点に於いては極めて過激な被迫害者としての被害者意識が高じた歪なナルシスが読み取れる。これはイエスを見殺しにした初期キリスト教、原始キリスト教団の持っているヒステリックは使命感に近い。ルターとカルヴァンは、初期キリスト教スピリットを回復するという意図で登場し、実際プロテスタンティズムを定着させることでそれを成し遂げたのだった。

 迫害されればされる程意志が強固になっていくという意味で、その精神的傾向は初期儒教徒とよく似通っている。彼等は共にルサンチマンの徒だったと言える。

 

ジャン・カルヴァンは1564年これから益々フランスでカトリックとプロテスタントの抗争が激化しつつある最中に亡くなった。

 

尚アメリカで投資の神様と呼ばれ、昨今ソフトバンクの孫正義氏と提携したウォーレン・バフェット氏(1930-)はユグノー(つまりフランス国内のカトリックから見たフランス国内のプロテスタントという意味)の移民の子孫である。ユグノー戦争の背景には宗教上の対立であるとともに、ブルボン家(プロテスタント)やギーズ家(カトリック)などフランス貴族間の党派争いという側面もあった。因みにこの戦争では1562にカトリックの中心人物ギーズ公によるヴァシーでのユグノー虐殺事件(ヴァシーの虐殺)が契機となり、内乱状態になった。妥協的な和平を挟んだ数次の戦争の後の15728月24には、カトリックがユグノー数千人を虐殺するサン・バルテルミの虐殺が起こっている。それがこの戦争の長期化を予感させる当初の展開であった。

 ジャン・カルヴァンはフランスでは迫害される側の人間であったが、三位一体説を批判する改革期の神学者ミシェル・セルベートを生きながら火刑で処刑した。(ただし、火刑はカルヴァンの意ではなかったというが、それでも彼は、セルベートがジュネーヴに来れば生きて去らせることはしないと周囲に語っていた)。これに先立ってセルベートの処遇を同盟諸都市に訊ねたジュネーヴ市は、全ての意見がカルヴァンと同意見であったため、これを境にジュネーヴ市におけるカルヴァンの地位はほぼ確定したものとなった。他方、この事件に対しては、セバスチャン・カステリオン英語版など反カトリック陣営がカルヴァンを非難した。1555年にはカルヴァン派の市長が4人になった[1]

 このことから分かる様に彼は改革とその後の安定化の為にはかなり強硬な路線をも選択した人だった。そのことも前述の読者へ向けた序文で示されていると言えるのではないか?

そしてその強硬さをも併せ持つプロテスタンティズムは初期キリスト教団的イデオロギーへ回帰させようという目論見でもあったが故に、その後のピューリタン革命(1941-49)や名誉革命(1688-89)等を起こす原動力ともなったし、今日のグローバリズム的な世界制覇をも実現させ得たパワーとなったとさえ言える。

 だが忘れがちなことであるが、この一連のキリスト教による世界制覇こそが今日の自爆テロ等のイスラム教文化圏での過激派思想を生んできてもいるし、又極度に被害者意識も強いルサンチマンの思想であるキリスト教宗教思想が信徒に固有の特権意識をも与え続けてきたという負の側面も充分兼ね備えているものと思われる。今日のアメリカではカトリックの人口も増えてきているし、改宗者も多くなっている。そしてカトリックとプロテスタント双方からの歩み寄りで為されてきているエキュメニカル宣教会議等を通した教会一致運動(エキュメニズムecumenism)も今後益々重要なテーゼとなってゆくものとも思われる。

 付記 今回の本文の青字を中心とする部分はWikipediaを参考にした。濃い狐色字部分が主にコピペに頼った部分である。尚今後マルチン・ルターとジャン・カルヴァンの思想に就いては現代神学者であるカール・バルトや同時代の現代哲学のハイデガーやレヴィナス思想を掻い潜る中でも何度も引用していくつもりである。又中世スコラ哲学の巨人聖トマス・アクィナスの『神学大全』等も平行させて参照していく予定である。

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2017年7月21日 (金)

思想・哲学メモPart78・宗教メモPart9

プロテスタントがイエスとの直接的な内的対話を重視したのは、要するに目には見えない心の問題(immanent problem)へと問題意識を移行させようとしたからである。それはカトリックが教会主義的で、宗教組織自体の(目に見える)利潤を追求し、形式的儀礼性へ託けてきていたとルターが確信して以来のことだった。

 聖書は初期キリスト教団によってギリシャ語に翻訳されていたが、ルターの登場をもって、欧州全体へと普及していく道筋がつけられた。

 

 カトリックは性善説主義的な傾向があるが、プロテスタントは原罪観念を悔い改めの思想へと一致させていたために、性悪説主義的観念以前的と言っていい程、自らを罪深いと意識している。この固有のストイシズムは個人主義や責任倫理を個へと帰着させる自助努力社会としてのグローバリズムの現代に色濃く反映されている。カトリックの方がより現代ではリベラル的感性へと合致していて、プロテスタントこそグローバル社会である今日では保守本流である。

 

だが内的な神との対話だけを重視する思想は、社会全体を管理する側からすれば常に危険思想化されやすい危惧を生む。自由主義の自己責任社会とは管理し難い社会を意味するからだ。この点では絶対的自由主義的観念とは、個人主義であるから、よりアナーキーな方向へ社会全体が向かうこと自体を抑制できない。ISIL他のイスラム教徒過激思想者はその点では、現代システム化したグローバル社会全体の現状をよく知っていて、その盲点を突くという意味では、現代社会の申し子であると言える。それはプロテスタンティズム的グローバル思想が助長した一つの必然的帰結であるかも知れない。イスラム教徒系思想者達のルサンチマンはパレスチナ問題以降ずっと燻ってきているのだから。インティファーダの時代から自爆テロの時代まで、彼等はプロテスタンティズム的グローバル社会が一部の資産家や富裕層にとって都合のいい世界システムであると考えているのだ。だがそのグローバリズムはかつて西側と呼ばれた欧米諸国だけでなく、アフリカから中東、中南米等も含んで世界を制覇しつつある。だからそのグローバルウェイヴの中でインドネシア、マレーシア、フィリピン、モルディブ等々のアジア諸国にもイスラム教は浸透してきているので、テロの活動舞台がアジアへとシフトしていくのも必然的展開である。

 

ユダヤ教経典である旧約聖書を共有し合うキリスト教とイスラム教の世界の人口の半分を占めるシェアで、経済社会的にはイスラム教文化圏諸国が欧米化しつつある現状で、一方では心までは欧米社会へ同化し得ないというジレンマをイスラム教徒はずっと抱え続けてきている。それは日本も同じだし、中国も韓国もそうだ。そして日本の様な一神教文化の皆無な国でも個人主義は市民一人一人には浸透してきている。その個の内心の自由を剥奪することは誰にもできない。形骸化した宗教伝統的戒律から脱皮しようとする考えや行動は益々今後も大きくなっていくだろう。

確かに一週間は7日だし、安息日が日曜日になっていて、キリスト教の歴が世界標準にはなっているものの、イスラム教ではイスラム歴が採用され、ラマダーンも確実に履行されている。世界は通念的にも正義論的にも決して一つには纏まらないだろう。

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やばい!

生きていること自体が結構やばい。

だって巧く行っていると自分で思っていても、全く何の反応もないこともかなりあるんだから。

 

かなり誰からも良い反応があっても、安心しちまう自分だってやっぱやばい。安心した途端見えなくなってしまうこともあるんだから。

 

自分でそれって当たり前で、何の疑問もなく可笑しくなんてないと思ってきたことが、実は凄く奇異なことなのだと自分達全ての外側から突き付けられ、すっかり自分が囲まれている環境が信じられなくなってゆくこともかなりやばい!

 

やばい!やばいんだよ。生きてゆくことそのものがさ。やばくないことなんて生きてゆく限り全く無いってことだけが分かってゆくからだ。

 

僕達は一体何を信じてこれまで生活してきたんだろう?そういう風に自らの拠って立つ基盤へさえ疑問をぶつけざるを得なくなるくらいに追い込まれてゆくのが一体いつなのか、全く見当もつかないってことそのことが全くもってやばい!

 

僕達は一途にそれが正しいって信じてきたことさえ一夜にして瓦解することだってあるんだからさ。それも結構人生の終わり頃になってやっと気付くことさえあるんだから、それがやばい!

 

信じ続けることそれ自体が既にかなりやばい!やばいんだよ。そういう風に疑うことなく全てを突き進むことそれ自体がさ。

 

でもそれがやばいって信じていればいいって疑わない侭生活し続けること自体がとってもやばいんだよ。やばいって仲々そう思えないからこそね。

 

結局ね、何事も何とかなる、テキトーにやっていればって思って、すっかりやばいことなんて全くないんだって思い続けていってしまうことそれ自体が一番やばい、それが一番やばいんだよ。

 

よおく、自分の周囲、自分以外の世界の全てに目配せしてみようよ。やばいなって一切考えていない者達の転落が手に取る様によおく分かるだろうよ。それにも増して常にやばいって思って生きている者の世界への信じていなさだけが、彼を彼女を結構世界のやばさから救っているんだってことを、ほら、そこの君もよおく分かっているだろう?

 

生きていること自体がもう既に何にも増してやば過ぎるんだからさ。そう、この世界にやばくないことなんて、たった一つだって、ありゃしないんだからさ。そのことだけをそこの君も、そこの彼女も、よおく肝に銘じておくべきなんだよ。勿論僕だってそうさ。
(了)

(2017. 7. 20)

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2017年7月19日 (水)

思想・哲学メモPart77・宗教メモPart8

ハイデガーはアリストテレス以来の哲学史、形而上学史、論理学史をひっくり返そうとした。その際立ちはだかったのは、ギリシャ思想のキリスト教化プロセスだったのではないか?

 倫理学にそれが読み取れたのだと思う。そこで彼はキリスト教化される以前のギリシャを考えた。そこでパルメニデス等への着目、そして中世キリスト教哲学者のドゥンス・スコトゥスも研究した

 しかしその際に彼は自分自身が出発した神学的基盤からニーチェの様に完全離脱できぬと知っていたのだろう。そこでキリスト教以前のユダヤ教をどこかでヒントにした可能性もあるのではないか?

 

イエスとはもの凄く他力本願で身勝手な大衆に待望された割には失望させることで衆愚的犠牲となって惨めに処刑された。その最後には師匠を救えなかった、実質的に師匠を裏切ってしまった弟子達の生涯を賭けた贖罪の旅、悔い改めこそが初期キリスト教徒だった。

 

 彼等が旧約創世記の原罪(失楽園)と自らの悔い改めを同化させたことは、死して存在を復活させたイエスの御心の前で、一致した何か(coincidenceとしてしか映らなかったのだろう。ルサンチマンの宗教史そのものであるキリスト教史では、彼等の立ち位置から彼等は原罪が痛く理解出来る様に思われたに違いない。ユダヤ教典旧約しか信じない信徒にとって、それは決して心地の良いものではなかった筈だし、今もそうであるが、キリスト教史とは、その原罪観念とイエスの救世主化とが、一致して感じられるところに存する一つの奇蹟思想なのである。それは裏切ってしまい贖罪だけを抱えて生きる貧しき人達=自分達という初期キリスト教布教者の祈念が生み出した共同幻想でもある。彼等はまず自分達が救われるべき存在として蘇り、それを為せるものとしてイエスを復活という観念でキリスト化した。そこに救われるという発想が大きく立ち上ってきたのだった。

 

〇ホロコーストは或る部分、イエスへの迫害が再現されたヘイト思想の究極の悪しき実現、再来だったかも知れない。ハイデガーはそれを賛美していた。

 しかし弟子のレヴィナスは自らの両親・兄弟がホロコーストの犠牲となって後もハイデガーを哲学思想として大きく自分の縁(よすが)として認識し続けた。

 

 ユダヤ教徒である彼には、イエスをキリスト化させた初期啓蒙者達とハイデガーが重なって見えたのかも知れない。輪廻的なこととも全く無縁であるとも言えない円的な思想がニーチェからハイデガー、レヴィナスと受け継がれていったと捉えることも可能である。

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2017年7月18日 (火)

過去は消せない・夢では過去だけが押し寄せる・それでも人生は試せない

 或る意味では愛欲だけに生きてきた人生でもあった。

 或る意味では思索だけを続けてきた人生でもあった。

 或る意味では表現し詩作することだけに現を抜かしてきた人生でもあった。

 

 だが基本的に過去はどんなに足掻いても消せず、6年から9年にかけて違うことに夢中になっては変え、放浪だけをし続けてきた人生そのものは一切過去を変えることはできないことを常に重々承知しつつ、しかし同時に如何に多く宿を変えても、如何に多く流転し続けても、人生そのものは一切変えることも出来なければ、そもそも何かを試し、その中でいずれが一番自分に向いている等と選択してからし始めることなど出来ず、つまり何をしてもそれは本格的にし始める前にリハーサルをしているのではなく、そのこと自体が常に稽古無しの本番の様なものであり、試すということが一切できず、効かないことそのことこそが生きるということである。

 

 歴史は現在どうしていくべきかを決定する際に一切何の役にも立たないとも言い得る。何故なら過去には過去固有の何か事情があったのであり、それは今とは完全に独立していて、その時だけにしか有効ではない何かがあったからだ。現在はやはりこれから何年か後にこそ問題であることとは違う何かに支配されている。

 

 最近よく夢を見る様になった。そして6年から9年に渡って大きく当時の人生を彩った人達が代わる代わる登場して、自分に何かを語っているのである。しかし顔だけはよく夢で出会ったことを覚えていても、決して語った話の内容は夢を見終えると覚えてなどいず、すっかり忘れている。夢を見ている時には、よくその話の内容を理解しているのに、夢が覚めるとすっかり記憶にそれらは残っていない。

 

 こういう感じの日々はやがて又消えていくのだろう。そして次には今とは違う感じの日々が過ごされていくのである。恐らくそうだ。そういう変わり目を持つ日々が違った形で押し寄せてくることが交互に繰り返されてきただけである様にも感じられる。

 

 生は常にリハーサル無しの本番である。友情も信頼も恋愛も練習することはできない。

 

 思索は常に重要だが、その思索も色々な意味合いが、思索の傾向に従って存在し、詩的思索、哲学的思索、科学的思索、政治的思索、娯楽的思索とかきっと色々とあるのだろう。だがそれぞれは常に別個で独立して意味があって、それら全てが綜合されて何かが生み出されている訳ではない様にも思える。

 

 死は必ず到来する。それは自分自身のこととは違う形でかも知れない。つまりまるで他人事の様に、それは訪れて、その時は自分とは消滅しているのである。

 

 大して意欲的に何かに取り組むことなどない毎日であっても、夢だけは眠れば見ることとなる。でも余り夢自体を見ない日々もある。

 

 夢を見なくても心で何かを考えているということは無くなりはしない。

 

 結局生とは一時も自分自身の考えから切り離すことができない。できるとしたら、それは死を持って初めてのことであろう。そして恐らく二度と自分自身というものは戻ってはこない。

 

 意味のある、意義のある生き方といった何かとはあり得るのだろうか?

 所詮何をしても全く後悔が残らない生き方等あり得はしないのではないか?

 

 こうやって数年後も何か思索しているだろう。しかしその時はその時にだけ意味のある何かに支配されているのであり、今とは全く違う形で思索されているのだろう。

 だがそれを今予測することはできない。つまりそういう風に事前に予測し得ないということだけが常に何等かの形で今と言い得るのであろう。予測し得た通りに全て運んだとしたら、それは今であると言い得るだろうか?

 

 予測し得た通りに運んだとその時は思っていたとしても、後から振り返れば、それは只の錯覚だったということではないだろうか?

 しかし結局それら全てが一体どういうことなのであるか、その解答を見出せずに終えてしまうことこそが、生きるということなのではないだろうか?

 

 こう考えてきても、これが哲学的に有意味な問い掛けであるかどうかさえ分からない。しかし何かが有意味で、何かが無意味であると容易に識別し得ることそれら自体に何か意味などあり得るだろうか?

 きっと、それらも何の回答も見出せずに生とは何時か途切れてしまうものなのだろうが、それさえいつのことか一切予測し得ないし、予測したとしてもその通りには進んではいけない。

 

 つまりそのことこそが生とは試すことが一切できないということなのだろう。

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2017年7月17日 (月)

思想・哲学メモPart76・宗教メモPart7

ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も旧約聖書だけは共通するバイブル(聖典)だが、創世記で農耕に携わるカインより、その弟である狩猟に携わるアベルの供物の方に神は歓迎し、カインを疎んじた。この時点で既にユダヤ・イスラエル民族史的には、農耕は卑しいものであり、逆に狩猟は尊いものであるという決定的な規定が刻印されてきた。

 日本は彌生時代の農耕社会から軍事的な秩序が形成されたので、ユダヤイスラエル民族の起源よりずっと後の時代の観念から民族が形成されている。この大きなずれが一神教文化圏と日本との齟齬ともなっている。

 

〇キリスト教では慣習的に叙階を受けた神父とはカトリックでは結婚できないし、又既婚者は離婚ができない。だが相手がカトリックでなければその限りではないこともあり得るらしい。だがプロテスタントは洗礼もあるが、基本的にイエスという神と自己との対話主義であり、教会主義でないので、完全に自己責任による固有の厳しさがあり、それはカトリックの様な家族主義(聖母マリア信仰等もその一つだが)や共同体友愛主義でもないし、増してや共同体主義ではなく、あくまで絶対的個人主義なので、責任ある大人同士のその都度の自由な決裁という意味では、時にはその自由さを抑制することができず、ヘイト集団的にもなりやすい。その点ではプロテスタントの方が絶対的自由主義であるが故に潔癖過ぎて危険分子化しやすい要素も多分にある。それはアメリカのWASPの思想や国家の決断や行動を見ればよく分かる。或る部分イスラム教でISIL他の危険思想を精神的に助長させてきたものはカトリシズムよりはプロテスタンティズムであると言えよう。そして今日のグローバリズムは中南米的カトリシズムでなく、明らかに欧米先進国のプロテスタンティズムこそが牽引してきた。従って彼等欧米先進国の決裁に疑問を投げかけるのはイスラム教文化圏やギリシャや中南米だという事実も、或る程度頷ける。

 
ハイデガーは明らかにマルチン・ルターの『キリスト者の自由』から啓発されている。そのイエスとの直の対話重視姿勢、免罪符他の教会権力への抵抗の精神が彼の中にも系譜的に伝えられている。だからその部分ではハイデガーはカトリック的ではない。にも関わらず与えられた、投被性、到来といった語彙で彼が示そうとしたことは、一神教的神であり、イエスという人格神的な感性とも違っていた。彼は直接イエスに就いて触れていないが、プロテスタントとしてのモラルからはイエスも前提されていただろうが、ユダヤ教一神であるところのヤハウェ的ニュアンスも込められていたとも思われる。到来という命題思想には明らかに個人内面の救世主(メシア)願望も読み取れる筈だからである。

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2017年7月16日 (日)

日記的記述EM 性悪説的な教育が全く無いのは可笑しい

 私は半世紀以上生きてきて、その間に真に無私で公平な立場に立てる人間も、完全に人の立場に立って理解できる人間も、一人もお目にかかったことがない。否、それは貴方が真に素晴らしい人と出会っていないからだと言いたい人には、貴方がそうだと信じる人に対して私は貴方の目が曇って見誤っているだけだ、とそう言いたい。

 だから人は自分本位にしか物事を考えることはできないということを前提に全てを考えていくべきだけれど、日本ではそういう性悪説的教育が全く為されてこなかったし、今もそうだ。だからディベートといったことも性悪説的見解に基づいて為される社会訓練なのであるが、今日本でそれを充分しているとはとても思えない。

 

 性善説的言説、いい子ぶった正義論や偽善的な公平な視点は政治家から官僚からエコノミストに至る迄誰しもメディアではそれしか語れない様に垂れ流しされてきているけれど、それは大半が女性の心を安心させるための方便でしかない。性善説とは女性という性の人達、それは正に世界の半分なのであるが、彼女達はそれしか信用しないという固有のバイアスのかかった見解があるから、知的階級の全ての人達は善良とされる宗教家や神学者に至る迄、その方便の仕方を採用してきた。だから真実には聖職とされる教育者を含めた全ての人達こそ最大悪である。

 率直女性のこの固有の善で表面を塗り固めていこうとする無意識の悪意程世界でも醜いものはない。現代の男子の大半は女性に固有の欺瞞的な性善説主義、清らかであることを好む嗜好に惑わされ、完全に訓育されきっている。

 

 また、悪と欲望のとりつかれたことのない人なら哲学や思想、宗教や文学に目覚める訳がない。だから体裁としては善的なことを言っていても、基本的に彼等の内心は性悪説的である。でなければそういった職に就いている筈がない。

 イエスは兎も角として初期キリスト教を牽引してきた聖職者達はイエスを迫害する立場だった聖パウロをはじめ悪であったればこそ、宗教教団的な倫理を大成し得たのである。

 

 この世でその意味で善的な触れ込みをする全ての人の悪を最初に暴いた哲学者こそニーチェだったと言っていい。でもそれは彼自身もそういうキリスト教徒の伝統的なモラル意識を十二分に引き摺って成長し文献学者としてスタートしたことを熟知していたからである。ハイデガーの頽落その他の倫理的命題はニーチェから引き継いでいる側面も強い。

 

 何か自分の持っている論理や倫理で世界の在り方を更新させようとする人達は全員悪である。そういうものだということを誰しも分かっていて、その悪の巧妙さに舌を巻いてぐーの音も出ないからこそ賛美しているだけのことである。

 恐らくイエスやムハンマドは悪人とは違うレヴェルの人達だったのだろう。だが彼等を神格化させてきた人達は決して善ではなかったし、だからこそあそこまで宗教倫理を大成し、人民の感情をそこへと引き上げてこられたのである。

 

 責任は悪である。だから社会的に家庭を維持していく為には善だけで生き抜ける人は居ない。子供を育てるのも社会へ送り出すのもそうである。

 だからそれができそうにないと思っている人は、悪にはなれないけれど、一切の責任も負えないという立場を明確にするしかない。

 

 だから被災地出身だということだけで教師から生徒に至る迄差別していこうとするのは、恐らくそもそも日本では教育が社会や人類の歴史的真実に目を塞いで性善説的な人間観を植え付けてきたことで生じた極度のストレスが高じてああいったことを引き起こしてきたに違いないのである。

 人間は悪という本性を持ったいきものなのである。それをまず徹底的に叩き込んで、そこから全ての教育が為されるべきなのである。

 

 何か特別の技能や才能があることは、そうでない全ての凡人を支配する権利をその技能や才能の持ち主に与える。社会とはそういうものである。だからまず基本的に社会は全ての成員に対して平等ではない。既にそこから差別的待遇は始まっている。又期待を背負ってそれを実現させない人は、それまでどんなにいい業績があっても、直ぐ引き摺り降ろされる。あらゆるアスリート達を見ていれば分かるだろう。政治家もそうだし、役者や芸人やタレントもそうである。

 だから人類の社会、集団や組織は、全てそういった性悪説的な契約によって成立している。あらゆる保障、担保、利子等の全ては性悪説的な契約なのだ。

 

 日本の場合、国家神道の立ち位置から、その性善説主義が生み出されていることだけは間違いない。だから国際的に活躍する人達は、そのことをよく知っていて、大半の人達はダブルスタンダードで生活しているだろう。日本を捨てて渡米したりして別のどこかの国へ行って再スタートを切る人も少なくないだろう。

 

 哲学がブームとなったのはオウム真理教の一連の事件の在った頃である。それより少し前の20世紀末に論壇全体が賑わった時代(当時はポストモダンブームだったが)を経てカルト宗教的心理へ追い込まれる青年が多発する状況が後押しして大勢の哲学論客はメディアに登場する様になったのであるが、現在は、又そういったメディア戦略のからくり自体が大勢の市民から見抜かれやすい時代となっている。そこで成立するのは時代的ブームへの懐疑的眼差しである。もう二度と騙されないぞという意識に目覚めた市民を説得し続けるのは与党が政権を維持し続ける位に難しいことである。 

 

 でもそう安易に世に出ている人達を信用しないぞという意識は悪いことではない。いいことである。性悪説的人間観を理解してきているからである。

 だから理不尽ないじめや差別が起きた場合、我々はそういうことをせずには居られない日常的に張り詰めた悪しきストレスを生む原因とは何かを考えを進めていくべきである。忖度等の横行する社会はそれだけ洗練された制度が確立されていない社会だと見做した方がいい。

 

 性悪説的な物事の解決の仕方しか人類は有史以来採用してはこなかった。その現実をよく踏まえた見識をこそ信用すべきものとしていくべきである。

 そして女性を差別することを良くないこととして余りにも女性の形式主義的な性善説を放置してきたことからも、女性の男子への横暴も決して今後見逃すべきではない、とも最後に言っておきたい。

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2017年7月15日 (土)

思想・哲学メモPart75

〇人間の本性が悪であることはどの文化圏、宗教圏でも同じであろう。尤もその立ち現れ方は大分違う。アメリカはキリスト教倫理で神からの恩恵をshareする意識の共同体社会であり、日本は天皇を頂点とする権威社会であり、その権威に追随した忖度・斟酌・配慮が求められ、そこでは完全に人間中心である。神は日本にはない。だから同じ結束でも意味は全く違う。その点では北朝鮮には近い。韓国は先祖、それも同族内での先祖が神であり(勿論それは一神教の神とは違う)、中国では官僚制的権威と権力が神であり、それに対して劉暁波氏死去を巡って、改革主義と内部で熾烈な闘争がある。香港も大きく左右するが、やがて台湾も参画していくだろう。

 

性悪説的である人間を最もよく示すものの一つがアメリカにも日本にも残存する死刑制度だ。犯罪者とはキリスト教倫理からすれば貧しき者であり、罪を背負った者が神の前では救われる。だが実際はアメリカでは極悪犯罪者には公開処刑も適用される。だから人を罰することで倫理的慈愛を反故にしてまで、社会と国家が人を殺すことを容認することを全国民が認めている以上、そこでは性悪説的倫理が罷り通っている。つまり性善説主義的な誠実性でなく、自己欺瞞的な社会的な態度だけが優先されるという意味で一神教文化圏のアメリカも八百万の神と天皇制の日本も、そう変わりない。

 

爪弾きにされていく成員こそ宗教倫理的には誠実だということになるという意味で、本当は挫折者や敗者こそが誠実だとは正しい。にも関わらずそれは社会全体では命題化されないという意味で、一神教的神の恩恵のshareも天皇制的権威追随もそう変わりないということは確かに言える。

 

だが昨今ではウェブサイトを通して個人の私的時間を公共空間で実現させてしまっている、つまり皆が挙って公共空間で一人の世界へ浸りきっているのが果たして日本だけなのだろうか?或いはアメリカでは電車内での対話の方が日本より多いかも知れない。日本では英語のイディッシュ系語彙でschmooze(schmoozle, schmoose)という下らないお喋りをするという語彙に該当する会話が多く、対話はない。だから対話へは行かず、車内スマホ意識釘付け状態が多くなるとは考えられないであろうか?この設問は魅力的なので、暫く考えてみたいし、実際どうなのかを確かめてみたい。

日本では首都圏近郊の通勤電車程そうだ。視界がどの椅子に座る乗客も30センチ程目から下の空間だけに限定されていて、視野が全体へ行き渡らないので、必然的にその視界を含め自分の周囲に目線を走らせる乗客を悪と決めつける目線を送る乗客が多くなった。

 

 つまり私的時間を公共空間で一人の世界に閉じ籠ることをスマホ利用者は他者へ容認する分で、そうしない成員を締め出す欲求の塊になる。だがそれは郊外地区へ人を運ぶ通勤電車での情景だ。私の知る範囲では西武新宿線が最もそうだ。西武池袋線はそれに次ぎ、西武池袋線でも飯能から東飯能を経て西武秩父までは、特に高麗を過ぎると緑が大半の車窓になるので、緑に身体と意識が囲まれると、精神はスマホに向かわない様なのか、高麗から西武秩父までの池袋線と秩父線ではスティーヴ・ジョブズが生み出した生活スタイルが万能ではない。その点では八高線もそうだ。上信電鉄も高崎経済大学前を過ぎれば、スマホ利用者は極度に減る。電車利用が通勤通学ではない人が大半であることが理由だろう。

 

欧米キリスト教社会はとどのつまりcarnalなこと、つまり肉欲を異様に否定してきた初期の原始キリスト教からカトリックの通史観的な事実があり、それが反動的に通史観的にはニーチェの様な権威主義否定と力への意志思想を生んだ。だがピューリタニズム革命以降のそれは、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で示される金も結婚による子孫の繁栄も神からのご褒美だという意識であり、不倫等は決して許されることではないのだ。肉体不浄的思想は延々引き継がれている。マルチン・ルターからジャン・カルヴァンを経てずっとそうだ。ただプロテスタントはイエスの言葉そのものと信者の内的対話を重視し、教会主義的な形骸化した制度を否定した分では潔かったが、肉欲的な観念の極度の否定はカントの『実践理性批判』の他律という考えでも示されている。だがニーチェはダンス等の快楽を復権させようとして、その汚らわしさの中にも猥雑な中にも美と真理を発見しようとした。その分ではピューリタニズム以降の性善説主義的内的世界への批判も兼ねていた。それでも彼はプロテスタントのモラルの範疇で、それを行ったと言えるだろう。

 

ハイデガーはニーチェのピューリタニズム批判精神も取り込んでいる。でも『存在と時間』で与えられた、とか到来といった語彙で神そのものの存在は完全否定しているわけではない。そこでは彼固有の一神教的神の肯定と制度的宗教倫理への批判とが合体した何かがあるだろう。レヴィナスはそれをギリシャのユダヤ化だとしたが、その意味ではヤハウェ的な神がハイデガーには内在する可能性はある。

 

緑に囲まれていると視界の範囲が広がり、そこに存在の様相を精神へ齎す何かがあり、唯認識的な郊外生活の利便性の行き着く果てのスマホ利用とは違った感性を人へ与えるとしたら、それは或る部分では自然の中に個と神との対話を求める様な詩精神が普遍化される可能性は開示する。

 

付記 個人が持ち得る通信を通した力は巨大であり、その分で性悪説的社会は実現したが、それはニーチェ思想があの時代では有効だった哲学的価値も、それが現実社会で実現した時突発的衝動を抑えられない個人を多く生み出す社会の到来をも意味する。それが自爆テロにもなり、日本ではオウム真理教的なカルト宗教や通り魔的猟奇的殺人、或いはいじめや差別を生み出す遠因ともなっている。その部分では自然回帰的な観念も哲学価値的には重要である。だから私は或る部分では意図的に自然信仰的な要素と一神教の神との自己内対話との止揚が詩でなら可能ではないかと模索しているのだ。

 

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2017年7月14日 (金)

日記的記述EL 映画『ライフ』を見た感想から始まり、それ中心で終わる日記

 今日は2017年にアメリカで公開された映画LIFEを鑑賞した。監督はチリ人の父とスウェーデン人の母との間に生まれ幼少時にスウェーデンへ移住、そこで育ち、デンマーク国立映画学校を卒業してプロとなった1977年生まれの40歳働き盛りの第一線であるダニエル・エスピノーサ監督である。

 

 現実にもISSなる国際宇宙事業の推進役は毎日地球を16周して、常時6人のクルーが従事して行われている。高度400kmを秒速約8km(時速28800km)で飛行、90分で地球一周しているこの現実の設定をその侭全てセットの撮影だけで、一切のCGを使用せずに作られた映画である。

 本映画ではかなり現実の今に近い近未来を設定していて、そう遠くない今に近い未来だということが重要なこととして語られる。火星の生命体存在を確かめるプロジェクトの一環として或る微生物を発見し、船内に持ち込み調査しているところに、この生命が思わぬ刃を人類へ向けてくることからこの映画の本筋が進行していく。

 この映画がその粘着質の粘体的単細胞生物であるが、人命を奪うことで益々ウィルスの様に増殖していくことで見る者に或る固有のホラー、スリラー的恐怖を誘う仕掛けとなっている。そして惑星保護(或る惑星で発見された生命を違う惑星へは持ち込まないという環境の異なる生命を隔離して、調査するという宇宙計画上でのモラル的規定)に沿って、それを地球から隔離させようと船内クルーが奮闘する姿だけが描かれた映画だ。

 

 そこで示されることはプロの乗組員として地球へ思わぬ被害を持ち込ませない為に自己犠牲を買って出る船員達の葛藤が中心に描かれる。その際にまるで猛獣使いを翻弄する猛獣の様なエイリアンが全ての(と言っても主な登場人物は乗組員の6人だけなのだが)人間に対するエイリアンがもう一人の主役の様な扱いとなっているし、その特撮描写は凄まじい。

 

 アメリカ、イギリス、日本、ロシアのクルーが現実とほぼ同じ様な設定となっていて、真田広之(在米の日本の名優)も日本人エンジニア、ショウ・ムラカミ役(プログラミングエンジニア<とアメリカでは正式に言う。日本でのシステム・エンジニアである>)出演者として参加して、素晴らしい演技を見せてくれている。アメリカ人医師デビッド・ジョーダン役をアメリカ人俳優ジェイク・ギレンホールが演じ、助演英国人検疫官をスウェーデン人女優のレベッカ・ファーガソンが演じるというキャスティングとなっている。

 犠牲者の一人となる司令官のロシア人エカテリーナ・キャット・ゴロフキナ(オルガ・ディホヴィチナヤ)は自らの冷徹な指令で自分以外の犠牲者を出してしまったことで、自分が率先して最も危険な任務を引き受け、最後の死に方も極めて映画全体では重要なエピソードとなっているし、最後に生き残る二人(誰がそうであるかは見てのお楽しみ)の一人は、地球へ落下して命が助かる船体と、エイリアンを閉じ込め宇宙へ放りだされる船体とをISSから分離していこうと画策し、自ら後者を買って出るが、その際に「俺は宇宙船の生活が長い。そろそろ80億の愚かな地球人と付き合い続けるのに飽きてきたところだ。」と捨て台詞的に語って相手を生かそうとする下りもドラマティックである。

 

 

 この段階で映画の好きな人なら、そして自分がもし脚本家だったなら、こういう結末にするだろうなという私が想像した通りの結末だったのだが、その点も見てのお楽しみ。私はこの映画の脚本家の意図を結末を見て知った時、シリアスな映画なのに、思わず噴き出してしまった。それくらい笑える結末でもある。

 

 

 今年見た全ての外国映画の中では明らかに『バイオハザード・ザ・ファイナル』や『ゴースト・イン・ザ・シェル』等とも共通するテーマであるが、今年見た全ての映画の中でも私にとっては最も強烈な印象残した映画だった。

 人間の人生の機微を描いたものとしては『ムーンライト』(米映画)が最高だったが、サヴァイヴァルクライシス映画の中では本映画が最高だった。

 

 映画は或る意味では志向されるタイプは二分される。一つ一つの人生上でのリアルな会話や成り行きを主眼とするものと、かなり大胆な設定と仮説を持ち込み、人類文明全体をアイロニカルのパロディ的に皮肉り、再考を促す趣向のものとである。その意味では当然後者に属すこの映画は終わり方の決定的な人類文明へのスケプティシズム(懐疑主義)は、数多くのSFホラーから啓発されているが、キューブリック的でもあるし、ゴダール的でもあるし、リドリー・スコット的でもあるし、部分的にはマイケル・ムーア的でもある。

 

 映画の持つ迫真の真実性も、このいずれのジャンルとして描くかによって大きく鑑賞する客層へ訴えるイメージが変わっていく。ひょっとしたら、これはパロディではなく現実にあり得るかも知れないと思わせる技がこの種の映画には大きく求められている訳であるが、その点ではこの映画は絶妙に功を奏していると言える。

 あたかもどんな社会でもあり得そうなフィクションの場合、機微的部分は演技からも台詞からも重要であることは言うまでもないが、逆に状況設定の大胆な仮説的フィクションの場合、アクションや展開の息詰まる迫真性が重要となるが、その意味でも本映画に参加している全てのスタッフのプロ達のチームワークが素晴らしく、全く見ていて飽きさせない出来上がりとなっている。映画の長さが103分(1時間43分)ということも絶妙である。これがもう少し短かったり、もう少し長かったりしたなら全く本映画の意図が伝わり難かっただろうし、そもそも全く異なったタイプの映画になっていたであろう。

 そういった意味で久しぶりに映画の上映時間と内容の絶妙さを感じさせた映画との出会いを果たした日だった。

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2017年7月13日 (木)

言語・論理・把捉・存在に就いてPart4

 アウグスティヌスの昔からずっと哲学は只管時間ばかり考えてきたと言っていい。だがハイデガーは空間も考えた。だからこそ存在は歴史的でもあるが、変化しつつある存在全体の様相からも捉えられた。

 哲学で時間を中心に考えやすいのは単に言語自体への認識が反省意識によって喚起されているからだ。だが言語そのものの発語も、最初は文字を空間把握能力の一つとして記号=文字を生み出した人類が、一つ一つの文字を差別化させる為に初めてそれぞれに応じた音を編み出したのかも知れない。してみると一挙に皆で同時に理解できる形としての文字の方が先で、然る後その各文字を意味する発声を編み出すことで差別化して統語構造が徐々に出来上がっていったという経路も一つとしては考えられる。勿論証明はできない。言語学ではとっくに言語の起源に関しては不問に付すこととなってきている。

 

 只哲学で異様に多く論じられてきた時間とは、文字の発声と聴取ということ自体が、時間軸的に営まれることなので、必然的に心の移り変わりと共に哲学では論じやすかったからだ、というに過ぎない。

 やはり決定的に人は日常生活では空間と最も多く関わっている。そして言葉や文字ではやはり空間を示すことは難しいのだ。

 

 例えば富士山の裾野の高原の見渡す限りの広大な平野の眺望は一挙に体感し得るが、それを文字だけで示しても空しい。だから言葉とは言葉である時点で既に反省意識から生み出されていて、それは時間論的に語りやすい様に仕組まれているのだ。

 

 だがそれにも関わらず我々は生活上殆どを空間に頼っている。これだけは間違いない。会社に通勤する途上電車に乗って見えてくるのは車窓から確かめられる空間的風景である。どこかに仕事で移動する時も歩いたり車を使ったり、空間移動だし、室内もしょっちゅう移動している。全て空間的所業である。

 空間に於いてはどんなに個人主義の人間でも社会全体の様相より、天候とか自然条件の中に居る我々という意識が強い。これも哲学者の殆ど論じないことである。

 

 ハイデガーが面白いのは空間全体をそういう一つの事態としては理解できても、その広大なる一挙性は言葉化し難い旨も示していることだ。この点でデカルトやバークリーやベルグソンと彼が違ったタイプの哲学者だということは分かる。

 つまり言葉で示し得ることはやはり人間生活に於いても一部でしかないということだ。その事実自体を言葉化することは可能だが、それは形而上学をはみ出ることはないだろう。ハイデガーは形而上学を存在論より下位に置いている。(⇒『ヒューマニズムについて』)

 ハイデガーはだから唯心論者でも観念論者でもない。と言って完全な唯物論者でも実在論者でもないけれど、実在論的ではある。又認識論的な要素も多分に持つ存在論者である。

 レヴィナスは観念論者的要素は倫理第一主義であるから、その部分でそうである。

 

 そうである。こういう風に哲学的論議とは論理的納得なので、どうしても音声聴覚的なのである。論理の道筋自体の表明なのだから、それは時間論的なのである。理屈とは大まかに言えば時間の推移の説明なのである。

 そしてそれは反省意識が生み出していることなのだ。そうしてみると言葉とは常に過去の経験をベースにした反省意識的な追想とその纏め的な思考なのである。それは或る物体が或る場所にどかっと置かれてあることのインパクトとは異なる性質のものなのだ。どかっと置かれてあることのインパクトはアート的世界である。

 

 音楽はこの点はちょっと不思議である。何故なら音楽を聴いているとさながら風景が浮かんでくるからである。だから視覚的追想をも喚起する一つの聴覚体験なのであるが、追想を誘うことでもあるから反省意識喚起的でもあるが、現在から未来へ音楽が終わらず演奏され歌われている間は、推移していくリアルタイムの体験なので(その点では映画もそうである)、その臨場性が空間的イメージを、音楽を聴く者が脳内に描出しやすいのであろう。

 

 だからフッサールの現象記述学的手法は、その点では臨場的でもあったので、哲学の中ではリアルタイム体験性のものだった。論理学はそれとは対照的により無時間的である。フッサールも論理学的な見地から出発したが、次第に体験性的世界へと足を踏み入れた。

 

 だから今回の結論を言うとすると、哲学することの中で如何に日常生活で大きな位置を占める空間的体験、空間把握的生活実態をどう捉えていくかということが今極めて重要であり、求められていると言えるのではないか?

 それは幾分言語自体への考察からは離れるが、今余りにも言語哲学的な仕事が溢れ返っているので、一つの提言として考えてみた次第である。

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2017年7月12日 (水)

代名詞とは何か?代名詞の在り方を考えるPart1 視点の転換が可能であることから考える

  

神学者であり、神学で修士を取得される以前に哲学でも修士を取られ、司祭叙階も取得され、且つそれらの後法学博士号も習得し、54年に来日されたホセ・ヨンパルト神父のお書きになった『カトリックとプロテスタント どのように違うのか』(サンパウロ刊)によると社会学は経験科学であるが、神学とは思弁科学であるそうだ。

 

 神学は経験に拠る証明では為し得ない神と私達との間での内的対話に於いてのみ成立する論理的学術であると言えるだろう。

 

 さてこのヨンパルト神父の祖国であるスペインで話されるスペイン語は動詞と目的格の代名詞(例えば私達や私や貴方)は主語が神であることに拠って成立する仕様となっているケースが多々見受けられる。つまり自分が何かする、つまり行為主体であっても、その行為が成立し成就することは神からの恩寵であるという意識が文法的に多々反映されているのだ。

 

 

 

 そのことを念頭に考えていくと、代名詞とはこの記事の一つ前の記事で示した哲学者永井均の最大の論理的功績とも言える、我々が個としての視点から世界を把捉することは、実はその私ということの開闢が、神にさえ、その個には立ち入れないから、予測し得ないそういう語彙を永井が示しているわけではないという論点最初は『私、今、そして神』で示され、最近作の『時間の非実在性』中のジョン・エリス・マクタガートの翻訳に後続する注釈と論評でも述べられている。その中で永井は自著の中でも『私、今、そして神』を特にこれらの論旨を展開させたことから代表作であると自認している<共に講談社学術新書と文庫から>と密接に関係しているのである。

 

 

つまり永井哲学で、私にのみ知られる世界とは、私が誕生してこの方、私が私の身体とか目とか耳とか口とか全ての所有者であればこそ開けてきた世界からのみ成立し得るXであるとするなら、それは私が私に就いては熟知していて、私以外のどの個も神が全てをお造りになられたのだから、神ならば知っている全てを私自身は一切知らないからこそ、成立する世界であり、その私の世界という視点にだけは神さえも立てない、と言うことは全てをお造りになられた神さえも、私以外のどの個の世界という視点にも立てないということを論理的に証明したのである(文章的には示唆的に語られるが、全体的主張からは証明と言ってよい)。このことは世界中のどの哲学者も明確に示してはこなかったことである。

 

 

 

 

 そのことを考慮に入れると、私から発する全ての私、貴方とか君とか、彼とか彼女とかは、私が知る、私が理解できるそれらの存在のことである。だからそれは私にだけ開けた世界、視点とそこから開闢する私の世界から語られている。

 

 だが私をお造りになられた神という視点を置けば、私は神からそう考えさせられているということになる。でも神は私の世界を私の様には決して見ることも感じることもできない。その理由は既に充分示してきた。

 

 

 

 さて代名詞とは、そのことを考慮に入れて考えれば、明らかに世界の全ての存在者の創造主であられる神ということだけが絶対的代名詞として基本的に君臨していることになる。それは世界から見て一つなのであるから少なくとも哲学という学問を生んだ欧米一神教、イスラム教一神教的世界観からすれば、そうである)、それは固有名詞ではない。あくまで絶対的代名詞なのである。

 

 となると逆に貴方も彼も彼女も、全て私から語られる限り、それは私の世界の登場人物ということとなる。それはだから私にとっては絶対であるが、私以外の全ての個(私からすれば全ての他者)にとってはそうではなく相対的なことでしかないから、私は私の世界から見た視界全てを中島義道的に不在とすることで、私以外の個や集団と接していく限り、そこで示される貴方、貴方達、彼、彼女、彼達、彼女達は全て相対的代名詞ということになる。それは一人一人に焦点を当てれば固有名詞表示し得る人達のことを仮に示しているということだ(場所でも番地でも、最後に示す時間でもそのことは当て嵌まる)。

 

 

 

 だから私が貴方とか彼とか彼女と語る時は、私以外の全ての個は私にとっての貴方とか彼とか彼女だと即座に理解する。それは私のことを貴方とか彼とか永井均氏が語る時、私が永井氏にとっての貴方とか彼であると私が理解する様に、である。

 

 

 

 

 

 だから上記のパラグラフの点からも全ての二人称や三人称は相対的である。だが神という絶対代名詞は神である限り、実在の個人ではないのだからこの点はキリスト教徒にとってのイエスとか、イスラム教徒にとってのムハンマド(マホメット)という捉え方と少し違う。しかし彼等にとってはイエスもムハンマドも信者間では絶対代名詞であるということはお分かりあろう絶対的であり、それは実在ではないから、そう思えるのであり、神しか知らない、とか神ではない私にはそれは分からない、という言い方を即座に誰しもに理解させている。特に一神教文化圏でもない日本人でも理解できる言い方である。

 

 

 

 代名詞とは基本的に人物の固有名詞の省略である場合には、必ず現存在=世界内存在としての成員であるという条件がつく。それらは全て相対的代名詞であり、神のみ絶対的代名詞である。何故ならそれはヤハウェとか言っても、固有名詞とは異質のものだからである。そのことで、或る部分ではハイデガーが脱自といったこと(ekstasse, exstatisch)の視点転換を我々が日常生活で行うこと、それは既に思考順路的には習慣化していることであるが、そのことが神という視点を個なりに想定して語られる反事実的条件法(counterfactuals)であるということをも意味しているとも言える。

 

 

 

 もし何等かのかたちで絶対的全知全能を主語にするなら、それはそういう風に自分より絶対的上位にある神を不遜にも持ち出しているのだから、神の視点でのみ語られる視点(時間的にも空間的にも)だ、という意味では必ず非本来的なことである。何故なら私という一個の個からはそういう風に神の視点へは絶対立てないからである。私は私の身体や心からしか語れないということ自体が本来的なことだからである。しかし言語行為に於ける説話上では、我々は必ず何かを説明する時、この神の視点へ立つ様な比喩を絶対代名詞である神を想定するかの如く(そういう神という語彙を示さなくても)説明しているのだ。

 

 

 

 だから我々は空間把握能力の一つの大いなる具現化である地図を利用することができる(恐らくどんな高等知性をも携える哺乳類の種<例えばチンパンジー、ボノボ、ゴリラ、クジラ、イルカ、ゾウでも>人間の様に地図を駆使して動き回ることは出来ないだろう。簡単な図示だけなら理解できても、それを活用することはできまい)のは我々が高度なメタ認知能力があり、それで言語で他者に何か説明したりすることができる様に地図作成者の視点を我々が想定して(どうやってこの地図でこの形状を示しているのかを、例えば鳥瞰図なら、それなりの空中から見た視点を採用して示しているのだという地図作成者の意図を理解して)、地図に沿ってウォーキングすることができるのである。

 

 

 

 それはその侭場所の観念の設定をも可能にしている。この地図のこの地点に示されている箇所はここで、こっちの地点として示されているのがあそこ辺りだ、と言う説明を可能にしている。

 

 ここ、そこ、あそこ、こっち、そっち、あっちということも代名詞として成立し得るのは、空間把握能力と他者の視点、つまり貴方から見ればそっち、あっち、彼や彼女から見れば、私や貴方の居る場所はあっち、そっち(お互いに声を掛け合えるなら、そして向こうに自分達の居る方へ来てくれと頼む場合には、そっちからこっちへ来て、ということとなる)と区別することができるからであり、この視点転換を想像できることが、それを可能としている。これは神の視点とまでは行かない迄も、かなり神の視点の比喩を心的理解としては応用したメタ的視点、脱自的視点であると言える。

 

 

 

 この様に考えてくると、代名詞とはどうやら常に深層心理的には、常に神である様な視点と、そういう風には絶対その視点を獲得し得ない自己という認識との相関によって使い分けられ、人物特定や場所の特定、或いは永井均も常々論理的説諭で利用している時間的特定(それがあの頃なのか、その頃なのか、さっきなのか、これからなのかという全て)も含めて援用されている、と見ることができる。

 

 

 

 つまり神だからこそ立てる視点と、神ではないからこそ語れる視点の相互転換が常に心的になされているからこそそういう心的メカニズムであると我々は日々それを理解しながら言葉を援用しているわけではないものの)、成立している品詞こそ代名詞だ、と言ってよいであろう。

 

 

 

 次回は、代名詞と動詞等の品詞との目的格的な示し方に就いて考えてみたい。

 

 

 付記 彼とか彼女とかの三人称は話者である私と貴方や貴方方を発語条件として必要とすることは言うまでもない。この辺のことはJ.L.オースティンが展開された論理で説明が尽くことであろう。

 

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神ではないことで知る個や主体的であることの孤絶性に就いて

 永井均の全哲学業績の中で一際精彩を持つ論理とは、個であること、自分自身であり、他者の視点へは絶対立てないこと、それだけが神にはできないことである、という主張である。デカルトのことを一瞬偉いと神から独立した視点を持ったことを高く評価する永井は、神の全知全能性が、却ってそのことでどの個の主観的な自分でしかあり得ないことそのことへは立ち入れないという神そのものの構造的欠陥を突いたのだが、それが永井均という固有の分析哲学的手法で現象学的な謎にも分け入る哲学者の最大の功績かも知れない。永井のキーワードである<私>は実はそのことを証明していくための里程標であると考えられる。

 してみれば神とは主体的であるとか、世界に一人しかいない個そのものにだけは絶対なれない、全体の配置だけは構想できても、或る視点からしか見えない世界、感じられない世界を経験することができないということだから、それは当然実在者ではないということになる。

 

 勿論端から大半の哲学者は神学者同様、神が実在であるとは考えてなどこなかった。

 だから現代社会の個の孤絶性とは、超越的視点に誰も(人間である限りは)立てないということそのことの自覚自体が全人類的に共有されているということではないだろうか?つまりその不可性に於いては誰もが平等だからである。

 

 Wanna Cryというウィルスが各インフラに厖大な被害を及ぼしているらしい。つまり現代社会のサイバーテロは自爆テロの様な来世だけを信仰する突発的な個の自滅志向とは異なった、自分自身の自己犠牲を示すことにあるナルシスさえ介在しない別種のインフラ破壊欲求が渦巻いている。これは誰が犯人であるか特定が困難であることを承知で行っていることである。一種の愉快犯である。

 我々はウェブサイトに関わっている限り相手が人間であるかAIであるかを確かめる術はない。たとえフランス語だけ使ってSNSをしていても、単にフランス人になりすましている違う民族や国の人のしていることかも知れない。年齢も性別も偽って参加することも容易であるこのコミュニケーション手段の肯定は、実は誰もが自らの真の姿を見せずにあたかも他者にとって自分が神であるかの様な錯覚を齎すことに愉悦を感じているからではないか?

 なりすましそれ自体は最初からしていることが相互にゲームなのだから、違法ということにはならない。でもそれは誰もが神になれないということを知っているからこそ成立するゲームだとも言えるのだ。

 

 誰もがウェブサイトの全貌を把握することができない。どのソフトやどのツールの開発者、発明者でも決してそれが齎す全体の成り行きやその理由を全て知ることはできない。自分の生んだ、生ませた子供の人生の全てを親が知ることができないのと同じであり、それは結局神ということが、そもそも仮にそんな全てを創造することができたとしても(だからこの点では神とは自然法則、物理法則や、ビッグバン的な成り立ちそのものに近いと言える)、その全ての経過を予想することも、データ的に全てを理解することもできないということをどんな個人も知っていて、だから神とは只常にそういう視点に立ったとしても、全知全能ではあり得ないという形で、実在ではない神を観念上では据えているものの、実在ではないのだから比喩でしかあり得ないということを承知で人類は利用しているだけだということになる。

 だが実際誰もが同じこととして理解できることは実在ではないこの神だけであるということも事実である。何故なら誰もが自分の身体とその在る場所とそこから開ける世界しか知らないけれど、神だけはその誕生の全てを司っているかも知れないという一種の比喩であるだけなら理解し得るからである。

 

 だから神を語るということは常に個による果たし得ぬ夢や実現しない現実の願望を述べていると客観的には受け取ることができる。そうであったらいいなという反事実的条件法(Counterfactuals conditional)はデヴィッド・ヒュームが提示したことを後にネルソン・グッドマン、ロデリック・チザムも応用展開させ、デヴィッド・ルウィスも論じた現代哲学(特に分析哲学)で重要な命題である。

 そうであったらいいなという願望だけは誰もがその(そう)の部分が異なっていても容易に理解できる。その実態そのものより今は不足しているという事実に対する嘆きだけは誰にも理解できるからこそ、その願望を全て叶えられるものを神と呼ぶことも我々は自然に感じられる。神とは代名詞的理解の一つの大きな絶対的文法である。

 

" we may define a cause to be an object, followed by another, and where all objects, similar to the first, are followed by objects similar to the second. Or in other words, where, if the first object had not been, the second never had existed " David Hume, An Enquiry Concerning Human Understanding

 

つまりヒュームが言う様に存在者が最初だけでなく後続組も存在するからこそ、我々は起源を探るわけだが、起源とは必ず後続組と似ていなければならず、しかし似ているということは似ているということだけを糧にそれら存在者の上位にある何かが似た者同士を創造したことになる。かくして神は誰もが理解できる視点、つまりどの主体的、個の視点にもなれないというかたちで誰もが納得する絶対的文法となるのである。

 それはかなり大雑把な捉え方である。でも詳細ではないからこそユニヴァーサルなのである。誰もが超越的視点に立てないからこそ、それと引き換えに個別であり、その時は或る地点である風景が見えるのは、その個人だけであるという事実を我々は得ている。

そしてその個別の視点の問題を反故にして、皆と語る時には神の様なそういう大雑把だけれど誰もが容易に理解し得ることだけが文法的に誰もが納得し得ることとなるということが重要である。

 

 そして誰もが相手の顔も知らずにウェブサイト上でコミュニケーションをする時、神でさえ踏み込めない個の内面やその個からこそ展開する世界で唯一の世界を知ることができない神の絶対的孤絶を、個人の絶対的孤絶と極めて似たものとして理解できるからこそ、相手がアラビア語を使用していても、本当にアラブ人でイスラム教徒であるとは限らない、単なるなりすましも、本当に自分のアイデンティフィケーションを軸にウェブサイト利用する人と混じっていても、そんなことを頓着しない様に文字上での遣り取りにだけ集中していればそれでいいという形の日常を受け入れているのかも知れない。

 

 因みに中島義道は『不在の哲学』で、誰もが自分からだけしか開けていない風景=世界の見え方を不在とすることによって、客観的視点から普遍的な位置関係を認識することで言語行為に参画しているという捉え方をしている。この捉え方からすれば、神こそ不在の哲学から導き出される大雑把であればこそ、誰もが容易に理解しえる絶対的文法とも言えることとなる。

 

 神とは一切の主観的視点も世界も持てない孤独の別名であるが、それを疑似体験し得るウェブサイト利用は、現代人にとって屈折したナルシスの反映であり、神にはなれないことは、実在であることの運命であるが、実在ではない神の孤絶も、ひょっとしたら実在者としての自己の世界の唯一性と不可交換性と一致しているのかも知れないという、それも儚い実在の在り方の願望なのである。それこそが人類がウェブサイトをウィルス攻撃が進化しつつあるのを込みで肯定している理由なのかも知れない。

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2017年7月11日 (火)

初夏五句

初西瓜 独り食らわば 腹膨れ

 

空梅雨で 花弁干からぶ 白紫陽花

 

なりすます 到来ヒアリと 違う蟻

 

蒟蒻が 葱に囲まれ こらなんじゃい(富岡市南蛇井<なんじゃい>に近い辺りの下仁田町の葱と蒟蒻畑にて、6.30

 

ビール飲む BGMに 扇風機(うちの扇風機は独特の音がする)

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2017年7月10日 (月)

言語・論理・把捉・存在に就いてPart3

 分析哲学では記述に異様に拘るので、その書生性にはどこかピューリタニズム精神が横溢している様に見受けられる。それはかなり彼等の中では巧妙に隠蔽されているが、恐らく精神的支柱とするのはそこだ。

 現代社会は一つにはプログラミング言語が動かしていると言っても過言ではない。だからその時代的趨勢に恐らく彼等は随順したスタンスを正しいと信じているのだろう。だが先日藤井四段のNHKの特集では、彼が唯一絶対AIでは考えつかない指し手で勝負した試合があったことを報じていた。

 つまり人間同士のコミュニケーションでもある勝負の世界では、機械的知性では気付かない駆け引きがあるわけだ。

 だからその意味ではプログラミング言語進化実態に随順した分析哲学の志向は一見時代を先取りしている様に半歩遅れているとも言える。

 

 人間の思考を機械の様に捉える仕方は確かに哲学の得意とするところである。だが人間は言語記述的な思考以外のかなり多くの思考をする。それは空間把握能力である。一本の棒がもう一方の棒より長いか短いかを即座に理解できる。遠くに見えることと近くに見えることで、瞬時に空間的な広さとか遠くに見えることと近くに見えることとの関係から我々は即座に位置関係というものを把握する。その様な能力全般を余りにも分析哲学では軽視し過ぎるし、日本の多くの哲学でもそれは同じである。彼等は言語というものを書生的に記述されたものだけが全てという発想で取り組んでいるので、必然的に(勿論最初から哲学は理屈だけで考えていこうとする傾向の強い学なので、そうなっていきやすいのだが)記述されていることの論理だけに偏りがちなのである。

 

 しかし理屈よりも日常生活では重要な知覚的な判断はかなり多い。自動車を運転する時も自転車に乗る時も電車を利用してどこかへ出かける時もそうである。アフォーダンス等のことも現象学では捉えるが、分析哲学では殆ど考慮しない。

 我々にとって視覚情報を身体全体で感知する情報と共に統合させて判断することは多い。そしてそれは中島義道が『不在の哲学』で言う様に言語習得したからではなく、言語習得と平行して為される別の能力の発現によってもである。中島義道がそのテクストで言っていることは、あくまでその能力によって得られた判断を誰か他者へ伝えるということに於いて、示される説明能力のことであり、それはやはり空間把握的な大きな能力の最終段階での付与に過ぎない。言語そのものが空間的把握を可能にしているという考えは受け入れ難いし、それは学術的に間違っている。

 恐らく動物でも直角のコーナーを今見ている角度では130度に見えるが、近づき真横から眺めると90度近くに見えることそのことを同じ空間的位置関係のものと自らの身体との相関性から違って見えることくらいは把握している。只それを言語にして伝えられないだけである。だから人間だけがその位置が変わることによって全く見え方も違ってくることそのことを苦悩せずに済むのは言語習得のおかげだという理論は、やはり可笑しい。理屈で理解できるだけのことであり、動物もそのことで一々悩んだりしない。そういうものだと済ませている筈だ。

 勿論人間はそこでその理由を考えることができる。そしてそれは正に中島の言いたい言語習得を通過した人の論理思考能力の賜物である。

 しかしそれはずっと後になってから始められることであり、最初にその形が位置の移動で違って見えることそのことを不思議に思えることから脱することを可能とするのが言語だという論理では、人には論理的納得による理解しかない、ということになる。そんなバカなことはない。論理とは別に空間把握能力自体が備わっているから、それを理屈で可笑しい等とその段階で子供が考える訳がないのである。言語は子供が言語習得をした後日、その事実の説明に供せられるに過ぎない。

 恐らく全ての認知科学者達はそう考えるに違いない。

 

 だから哲学は言葉そのものの、記述によって齎された論理に拘り過ぎて全体を見失う危険性が学術行為の姿勢自体にあるのだ。

 

 ハイデガーの哲学では現存在が歴史的存在であると考えている段で、確かに宗教や文化的な発想と不可分で、そういう歴史的伝統的な思考方法から自由になれないという意味ではよく分かる。しかし恐らくそれさえ、基本的な空間把握能力の中で発現されてきたものである筈である。

 だから哲学者の記述的論理に異様に執着する傾向は、悪しき文献学的な伝統的な名残なのであろう。だが本当に意味ある文献学は実はそれ程人類に於いて多く齎されてきているとは言い難い。そういう真に意義ある文献学を修辞学的見地から哲学フィールドからも産出していくことこそ、現代の知に関わる人達の使命であると言えよう。

 

 次回は時間論に固執する現代哲学の陥穽、唯心論的悪しき慣習に就いて考えてみよう。

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2017年7月 9日 (日)

日記的記述EK 世相や時代や自分自身の立たされている状況に懊悩するのは当たり前で、それができなかったり、隠蔽したりすることに意味はない

 日本の哲学者は多くが自分が立たされている時代状況や世相を異様に隠蔽することで初めて研究を成立させている。でもそれは本当に生きて何かに取り組んでいると言えるだろうか?

 哲学者だけでなく全ての研究者に、それは言えることである。つまり彼等は専門家としてだけ生きていこうとしているわけだが、その極度に狭められた心の持ち方に或る不自然さだけをずっと感じ続けてきた。

 哲学者は恐らく神と言う時だけ自分達の認識の不充分さを実感している。でもハイデガーは全盛期の『存在と時間』では神という語彙を示していない。代わりにそれを強く喚起する到来という語彙を示した。被投性もその一つだ(それは別シリーズで詳述する)。

 数学者は20世紀以来ずっと形式主義と直観主義で二元的に対立しつつ、歩まれてきたが、彼等は世界や宇宙は全て数へ置き換えられると確信しつつ、数自体の持つ自然的不可解さだけは超えられないと思っているだろう。彼等にとってそのことこそが神である。

 自然科学者はその法則に従って、只彼等は常に自然という実在と関わるので、その部分では自然全体の環境の中に居る自分ということは、少なくとも哲学者達よりはずっと自覚している。

 でも彼等は一切政治には関わるまいとする。あくまで彼等はその点では全員専門家でしかない。だからその部分では間接的に時代への提言を僅かするだけである。原爆が投下されたことでアインシュタインが世界の科学者へ呼びかける様なことがあったくらいで、それ以外に彼等が主体的に行動することはない。

 その点では確かに作家や映画監督や舞台演出家も同じだろう。彼等も時代の不安感を作品の中の出来事や登場人物の行動で間接的に示すのみだ。

 だが詩人は最も言葉のメッセージでそれを伝えられる。これは一つの生きていることの大きな武器ではないだろうか?

 私の場合には対象への呼びかけ、そして詩を読む人へ命令形も使う。それ程アジテーション的な仕方ではないが、時にはそういうことが在っていいとも思う。それくらいにはアナーキーに時代と世相の中にいることだけはきちんと示す。

 要するに一番取りたくない態度とは、揶揄と皮肉だけで巧妙に知的な読者にしか理解できない様なスノビッシュな態度で超然としていて、その隠蔽の巧さをひけらかすことである。これは若いさして力のない論客のよく取る態度である。自分自身は遠く問題から距離をとって、被害を受けない様にしている狡さがある。隠蔽したり、隠れていたりする時間的空間的余裕は少なくも私には全くない。

 一度日本語で書いた詩をほぼ全て英語にも翻訳する様に今年からしだした。中には最初思いつくのが英語の方もあるし、そういう場合、同じ内容を日本語でも書いても、英語の方がいい出来であることも決して少なくない。

 主にアメリカ人(中にはカナダ人もいる)の参加する或るサイトに招待され参加して、そこでアップロードしている。かなり大勢の人にも読まれ、シェアされているので嬉しいことである。

 日本語の詩は大半は河口ミカルの読書日記(ブログ左下のその表示の四つ下をクリックされたし)でアップし、英語の詩はexamplewordpresscom1616でアップしている。時々日本語の詩はこのブログの左下のココログのマークとその下の河口ミカルの読書日記の直ぐ下のlovehatehimのblogでもアップしているので、スクロールして確かめられたい。

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2017年7月 8日 (土)

My Point of View in FB and report of my tweet message to US musician friends Part11

Impression to Mr. Sammy Klinger’s long sentence message contribution

Your life experience should be shared to anyone, anyone can figure out in mind. Never give up is one of the most important hint and it also would take us to another chance and moment to get courage and hope to our future. (2nd 7)

 

Impression to upped Mr. A.J. Lauers music compilation contribution Rock the Night  https://soundcloud.com/ajandtara/rock-the-night

Good compilation you did, nice arrangement of tunes. order of each songs and performances is supeior! (7th 7)

Impression to upped Mr. Jacob Lutzs music contribution Ambient Airwaves, by IMFTTBT

It's contemporary church music as ambient tune, so nice!

I' d like to listen to your this tune's continued version, and long version. (7th 7)

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日本の問題は全て共通するPart1日本の哲学者は悪しく細か過ぎる、微細に解析し過ぎるのだ①

 欧米の哲学者の考えはいつも一刀両断に明快である。だが日本人には根本的に自国文化としてギリシャやユダヤやキリスト教の精神はないので、その負い目から全てを細かく解析し過ぎる。そのことで却って物事の本質から遠ざかっている。ハイデガーのテクストもレヴィナスのテクストももっと大きく掴まえている。だから解釈する方も受け皿が大きいので安心して書かれている論理を応用して考えることができる。その受け皿がどの日本の哲学者にもない。

 日本の哲学者は哲学解析批評家なのだ。欧米哲学研究者なのだ。自分自身に固有の哲学を示していない。つまりどこか自信がないのであろう。欧米の本場の人と直に何をしても太刀打ち出来ないと決め込んでいるのだ。

 

 ただそれはこと哲学だけに関することではないかも知れない。つまり構造的に日本社会並びに日本人にある固有の傾向かも知れないのである。

 日本人の形式主義は恐らく古代から継続させてきたとされる国家神道と天皇制に起因するのかも知れない。五穀豊穣等の祈念が一つの宗教的な指針なのだが、そのお祓いからあらゆる儀式的典拠、有職故実的な仕来りから日本人が異様に或る専門に従事する場合、一切横の問題、つまり共時的な意識を持たない様に組織等の全てが持っていこうとする、所謂前例のないことを一切させないという保守主義が厳然と存在するが、それが関係者を非関係者からシャットアウトさせる、つまり関わらせないという意識こそが今批判を国民やメディアから受けている自民党の忖度体質にも受け継がれている。

 今回はそういった一切の問題への宣戦布告だけにしておくが、次回は具体的に日本の哲学者の考え方が、どう欧米の人達と違うのかということを例証していこうと考えているが、哲学全体が20世紀から今日迄の間に大きく変質してきてしまったということからも考えていこうと思う。その世界の傾向を逸早く模倣する態度が日本人の哲学者の態度だからである。(つづき)

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2017年7月 7日 (金)

日記的記述EJ 夢で見て気が付いたこと

〇円のカンヴァスは四角いカンヴァスと違って四角の四隅を正確に床から平行に壁に展示しなければおかしいこととは違って、絵の内容そのものをベースに、例えばその絵が立像であるなら床からその描かれた人物が垂直になる様に展示しなければいけない。カンヴァスの形そのものであるなら、どう飾っても全く形は変わらないからである。

 だからこの場合制度としてのカンヴァスがどんな絵の内容であっても優先される四角のカンヴァスの展示と違って、絵の内容で飾り方、つまりどの絵の内容を上下にして、どの絵の内容を左右にするかという決定がカンヴァスの制度外の、しかも絵そのものに委ねられているという事態なのである。制度とはしかしこの場合絵の内容ということになるから、カンヴァスという形式が制度であることと意味を変えている。そしてそれは絵とは本来どういう意味を持つものなのかという問いが突き付けられているとも言える。

 

 付記 円のカンヴァスに敢えて歪んだ立像を描いた場合、作者は必ず最下点を展示係の人にも分かる様に印しておかなければいけない。

 

〇折り紙はかなり古くから日本で行われてきた高度な遊戯の一つである。ここで造られてきた折り方は、一人で考えられたものも中にはあるだろうが、かなり大勢の人達の知恵が集約されて進化してきたのだろう。そして重要なことは、その折り方があくまで二度同じ繰り返しがなく、最も効率的に一度で最大限の効果を持つ様な形の作り方になっているのだろう。

 

 同じ様に植物でも動物でも、進化していく上では、自然条件に沿って最も円滑に生命を維持し得る形で形や機能が決定されてきたのだろう。勿論工場の煤煙で隣接する森に生息する蝶々の色が変わってしまうという進化もあるけれど、それでもそれも又そういった環境の変化に適応した進化の仕方である筈である。つまり進化とは必ずどんなに短い期間に於いても長期間に於いても、そのスパンで変化していく方向に沿って、最も効率的な生命維持の仕方で為されていくものである筈であり、やはりそこでも二度手間は避けられている筈だ。

 

 してみると、自然自体が折り紙の最も良い折り方を発明してく様に、何等かの判断をしていることになる。それを古代より前から生活してきた人類が神と規定したのかも知れない。しかしダーウィン以来の進化論では神によるご判断でなく自然選択だと唱えてきたのだ。

 

 しかしこのことはもう一つ違う真理を我々に突き付ける。我々人類は言葉を駆使してコミュニケーションする唯一の生命とされているけれど、その時何をしても最も効率の良い方法を脳で考えるということそのものも又、自然が生命を進化させる上で取る判断とそれ程内実は変わりないということも言える。にも拘わらずとりわけ哲学では、あくまで人類が脳で言葉を駆使してものを考えるということを異様に特権化させて学術的営みをしてきたということも言えるのではないか?

 我々も又自然が判断しているのとそう変わりなく脳を駆使しているだけである。もしそれが違うと哲学が言うなら、やはり神を認めなければいけなくなる。だから哲学的思考とは必ず何等かの形で神を起源的に考えなければいけなくなる様になっている、とも言える。

 

 だから逆に神学という学問は我々の心が向かう在り方がたとえ実際に神が居ようと居まいと、神があり、それへ敬虔な気持ちであるべきだという倫理的な絶対的信仰の仕方そのものを問うものだということとなる。だからそれは或る部分ではやはり最も離れている様にも思える自然科学とさえ平行して歩まれている、そういう心の在り方の最も効率の良い捉え方が宗教史だと言えるからである。

 

 現代人はそういう意味では内的には宗教倫理的な訓戒をベースにする部分はあるけれど、社会インフラ的には自然科学の恩恵なしには生活できないという二重性を持って生活していると言うことができる。

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2017年7月 6日 (木)

言語・論理・把捉・存在に就いてPart2

ハイデガーは言語自体を存在同様メタ的に考え、語る。それは存在の家と言語を考えていることからも明白である。存在と対比的に言語を捉えるのは、その関係性が成立すると考えるからである。言語そのものを考える全ての基礎としているので、言語をメタ的には捉えられないとしたウィトゲンシュタインとの大きな違いである。ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で世界への理解と把捉を論理空間として考えた。それは言語により認識し得ることからしか問えないと考えたからに外ならない。しれみればウィトゲンシュタインの思考順路こそデカルト以来の伝統的な哲学的態度と言ってよく、寧ろハイデガーのそれは違うと考えるべきではないのか?

 

 ハイデガーが存在と言う時、それは概念規定を越え、もっと茫漠とした何かに抵触していると知っていることは明らかである。それは『存在と時間』序論 存在の意味に対する問いの開陳 第一章 存在に対する問いを表立って繰り返すことの必然性 に於いて「「存在」という概念はむしろ最も曖昧な概念なのである。」と述べていたり、「結論することができるのは、「存在」は存在者といったようなものではないということだけである。」と述べていたり、「事実、「存在」は存在者として概念的に把握されることはできないのである。「存在ニハイカナル性質モ加エラレナイ」。つまり存在に存在者が帰せられるというふうに、存在が規定されることはできないからである。」「存在が定義不可能であるということは、存在の意味に対する問いを免除するのではなく、かえってこの問いを問うことをこそ促すのである。」「(前略)存在問題を繰り返すことは、まず第一にその問題設定を十分に仕上げることにほかならないのである。」と述べていたり、或いは続く 第二節 存在に対する問いの形式的構造 で「(前略)「『存在』とは何であるのか」と、われわれが問うときにはすでに、われわれはこの「ある」についてなんらかの了解内容をもっているのだが、この「ある」が何を意味しているのかを、われわれが概念的に確定しているわけではあるまい。われわれは、そこからその意味を補足すべきはずの地平をすら、識別してはいないのである。こうした平均的な漠然とした存在了解内容は一つの現事実である。」と述べていたりすることからも明らかである。

 

 しかし同時にハイデガーは赤字黄色枠で示した様に、それを何とか言葉化させようと試みている。それが言ってみれば、この普及の名作『存在と時間』なのである。

 

 前回示した動物も又持っている識別能力のことをハイデガーは次の様な言葉で示している。同じ第二節からであるが、「存在は、存在している事実と存在している状態のうちに、実在性、事物的存在性、存立、妥当、現存在のうちに、また「与えられている」ということのうちにひそんでいる。」と述べているが、この最初の実在性こそ、世界が人間だけに与えているのではない能力をも含む。しかし重要なのはそのことより、赤い字黄色囲いで示された「与えられている」とする部分である。

 同じ第二節で彼は「眺めやること、了解して概念的に補足すること、選択すること、通路をたどって近づくことは、問うことの構成的な諸態度であり、したがって、或る特定の存在者の諸存在様態ですらあるのだが、この特定の存在者は、問うものであるわれわれがそのつどみずからがそれであるところの、まさにその存在者にほかならない。」としている。又この文より先に「存在が問われているのであって、しかも存在とは存在者の存在のことであるかぎり、存在問題において問いかけられているものは存在者自身であるということになる。この存在者はいわばおのれの存在をめざして試問されるのである。」

 この全ての赤字灰色囲いの部分こそ、彼が現存在と呼ぶ存在者のことであり、それが与えられた命題に取り組むべき使命を帯びていると捉えている。

 

 

 少なくともこの与えられた使命(それは上記のこの存在者はいわばおのれの存在をめざして試問されるという箇所からも示されているが)ということの内にこそ、ハイデガーが信じた神が居る筈なのである。それはその後の本文の到る箇所から発見することができる。彼はその意味では哲学という名の信徒であると同時にやはり神から遣わされた使徒でもあるのである。

 

 

 『存在と時間』はのっけから既に存在忘却から始められている。つまり存在者が存在を忘れてしまうことを基軸として論を展開させる。そしてそれを問い続けられるのは現存在、つまり我々人間だけだと上記の箇所でハイデガーは述べているのである。

 従ってウィトゲンシュタインを哲学的態度であるとするなら、ハイデガーのこの問い掛けそのものを成立させる使命への奉仕と殉教的な構えを神学的態度としても強ち間違いではないであろう。(つづき)

 『存在と時間』の本文は中央公論社刊 世界の名著74 原佑責任編集中 存在と時間 原佑・渡辺二郎訳によった。

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2017年7月 5日 (水)

言語・論理・把捉・存在に就いてPart1

 分析哲学者や論理学者は往々にして、論理を記述として把捉しがちである。彼等は現代コンピュータサイエンス時代の要請に従って記述という行為性へ着目しているからである。それは確かに着眼として正しいけれど、それが全てではない。少なくとも我々の生活世界(フッサール用語)では。

 

 哲学者は他の専門の学者と異なって固有の思考傾向がある。それは修辞学者や解釈学者にも言えることだが、人間に固有の精神活動に拘るということだ。それも勿論正しい態度だが、或る部分では自然科学者の考えていることの方がより適切な場合も多い。

 

 例えば我々は人間に固有の能力によってのみ生活を支えているわけではない。私の家族はかつて猫を長年飼っていたが、我が家の雌猫はきちんと人をそれぞれ見分けていた。勿論猫だから名前という概念は分からないだろうが、私の母(彼女が最も猫の世話をしたので、雌猫は母を親だと思っていたけれど)と私と弟とを、生前の父のことも、きちんと全員見分けて区別して見ていた。

 

 これは哺乳類の一定程度の知性的本能を持った動物なら皆できることである。人間が人間に固有の優れた面だけで、動物とも重複する能力をもし持っていなかったとしたら、それはそれでかなり欠陥的な存在である。しかし我々は動物でも当たり前にできることを自分達もできる、つまり自分達も又動物的本能を持っているからこそ、それ以上の人間固有の精神活動も営めるのである。

 

 例えば「似る、似ている」等の語彙は、そういった言葉の規則とか意味とかの理解以前の、形態学的な相貌認証的能力が備わっていて、その判断が可能だからこそ、理解できる語彙でもある。それは人の顔だけでなく、漢字で似た形のもの同士を共通性を通して把握して理解することもそうであるし、果実や野菜を似た形のもの同士を共通性を通して把握して理解することもそうであるし、方向感覚的な把握もそうである。要するに把捉全般は人間も又一個の哺乳類の成員であるということから来るもっと根源的な能力である。悟性も又そういった規範から生み出されているものだと考えられる。

 

 ジョン・ロックもジャン・ジャック・ルソーも社会環境によって人が色々な性格や考え方が支配されるという考えを持っていたが、それはやはり一面的理解であり、社会環境に左右されない人の個人としての資質や能力は遺伝子的な継承によってあり得ることだし、一時期環境的に影響を受けたとしても、もっと長い時間の間では結局置かれた社会環境とは違う判断で意志を人は持つことができる。

 

 論理学者は当然分析哲学者にも証明論とかで影響を与えてきたが、この論理も根源的には人間固有の、つまり言語それ自体の文法的理解とか人間固有の精神活動的な知性に支えられているだけでなく、動物的直観とか本能に近い生来の能力によっても支えられている。寧ろそちらの方が後から追いかけてきた人間固有の歴史伝統的とか文化的とか、言語それ自体の習得に根差す把握を支えている。発声にしても聴覚的理解にしても、それは言語自体が持つ固有の高次の論理からより、もっと本能的生理学的直観で把握して習得されている。それは日本語であれ英語であれ文字の形で記憶して速いスピードで読めるとかのこともそうだし、長く演説する人の話の大意を掴むとかのこともそうである。人間固有の高度の知性だけがぽこっと取り付けられている訳ではない。あくまでもっと根源的な把捉の能力が細かいスキル的なことも支えている。

 人間の持つ感性も、そういった生物学的本能や把捉的な生来の能力の上に乗せられている。そういう風に考えないと、かなり唯知性主義的なものの見方になってしまう。

 

 だからそれは宗教的な精神の理解もそうだし、自然科学の合理的な理解や、法則的理解も、全て根源的な把捉がベースにある、と考えるべきである。特に宗教的心理には恐怖や不安も大きくかかわっているだろうし、それは人間固有の高次なことが、それ以前的動物的直観とか把捉が支えている。

 その意味で存在把捉ということがあるからこそ、我々は知性も理性も持ち得るのだと言える。

ハイデガーが『存在と時間』で考えた存在忘却も、実はこの存在を野性的に体感的に把捉する能力があって、その上で言語を社会環境的にも生来的にも強制的に覚えさせられつつ習得している我々が把握しているということをベースに語られているので、その根源的把捉に就いては彼は充分理解していたものと思われる。

 

 ウィトゲンシュタインはその点では社会制度として言語を習得するというデカルト主義的なコギト的な把捉を前提に語られているので、言語化し得ない理解が言語をも支える(それは先述の似た顔とか、人それぞれ個人の顔を記憶する能力や、形態を把捉する能力で示した)という視点は然程重視していなかったと思われる。尤も恐らく見間違いとか思い違い等のことに就いてはハイデガー等とも違った形で考えていただろうとも思われる。

 

だからハイデガー哲学よりウィトゲンシュタイン哲学の方が、より制度としての記述という事に拘っているという意味では社会現象記述的な態度だと言えるだろう。

 

 今回は我々が記述論理的に言語に固有の論理だと思われているものさえ、実は前言語的な把捉が促しているという側面に就いて考えてみた。

 次回以降はこのことをベースに諸々のことを考えていこうと思う。

 

 付記 今回の問題はあの日本全国を席捲している将棋の指し手に就いても言えることであり、論理的な認識だけでない動物的直観とか形態学的な把捉、空間把握能力等も多分に重なって判断されているのではないかということを示唆する。

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2017年7月 4日 (火)

文学・宗教メモPart5 詩作に就いて

〇詩を書いていくために一つの方向性を持たせている。一つは自分が日本人であることから、普通に感じる自然と身体を通した経験的な観想を示していくことである。それはしかし自然信仰的なものでもない。気づかぬ内にそういう八百万の神的感性が出ない様にしている。そもそもそういう感性は私の中には濃厚にはない。何故なら現代日本人だからだ。伝統的に自国に伝わっているものと現代人との間には決定的な距離がある。それは心理的にもそうだ。

 

〇だからと言って近現代の英語詩を容易に理解できるわけではない。それには聖書以来の伝統、一つのキリスト教文化圏でこそ成立する所作が存在する。16行詩のソネットもそうだし、あらゆる戯曲や歴史書の伝統も詩と関係している。つまりそういう一連の大きな流れの中に彼等は居るし、その流れの或る一点である様な時代で書いている。でも彼等は大きな流れの中の一つだといつも自覚しているわけではない。そういう時は人生の最後に多いだろうが、ほんの数回くらいしかないだろう。それは自分のことを考えてみてもよく分かる。常に今どうしていくか、どうなるかしか念頭にはないのだから。

 

〇つまりそういう風に自己を決して客観的には見られないという運命を誰しもが背負っている訳だが、それでもあえてそれを挙行しようという大それた試みも時には詩には宿っている。それが全てではないが。

 

詩を書く上で重要なことの一つは何を主語にするかだし、その主語を規定するものとは一体何かということの問いである。神ということは確かに日本民族には無い。従って国家や我々の周囲にそういう問い掛けを平常のこととする何ものも存在しない。にも関わらず現代を生きる我々は多くの隣人達がそういう信仰を持って生きていると知っているし、少なくともキリスト教世界観は馴染みから言えば、それ以外のイスラム教よりは大きいと言える。インドのヒンドゥー教も何となく日本人なら分かるという部分もある。一神教神や多神教的神も同時に登場させてもいい。だが自分にはどちらかと言えば一神教的神の方に全体を通した詩への捧げという意識では強い。

 

詩人の多くには労働というものの痕跡がないことの方が多い。それは哲学者にも言える。神学者は大体神父や牧師をしながらなので、人の話を聴くという労働を読み取ることができる。ハイデガーの哲学にはその哲学を考える人の労働も読み取れる。思考の労働でもあるけれど、それ以外の通常の労働もである。これは日本の哲学者には全く欠落した要素だし、それが意外と重要だけれど、殆どの人は着目すらしていない。

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2017年7月 3日 (月)

猫の顔

猫の顔を見ていると、思わず頬擦りしたくなる。

君の全てを守りたいと思えてくる。

 

全ての男と女を父や母へ目覚めさせる。

 

肌を摺り寄せれば、どんな肌触りの良いコートや毛皮より気持ちいいよ。

 

君は何故そんなに僕の顔を不思議そうに見つめるのかい?

 

それなのに、いとも簡単に自分の身体の数倍の高さを君は跳び上がる。

 

君は動くもの全てに興味を持ち、あらゆる咄嗟の動きをいつも絶やさぬのに、どんな場所でもどんな人間にも、いつも一番気持ちいい場所を見つけ、一番気持ちいい恰好をする。

 

君のその円らな瞳に僕は吸い込まれそう。

君のその水晶の目が見つめる先に、君の心の向かう先が潜んでいる。

 

君は眠っている時以外はいつも意識をはっきりさせたいんだろう?前肢の表を舐めて、それで必死に顔を拭いている。耳の脇が痒ければ後ろ脚で掻くだけだ。

 

君は自分以外の全てが自分の僕だと思っている。

でも君は君の仲間がそう思っていても、それ程怒りもしなければ動じもしない。そこが僕達と違う。

 

猫よ、君の顔がちょっとでも今みたいなのと違った風だったら、僕達って、こんなにも君を愛していただろうか?

 

君の顔を見て和む僕達の顔を君が見て信用してくれる様にしてくれた神へ感謝したいよ。君はきっとそんなことどうでもいいだろうけれど。

2017.6.24,7.3修正・加筆、最後の行の一文のみ)

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2017年7月 2日 (日)

詩は経験なんかじゃない

 詩を書き始めて十数年経ったが、全くそれで食っていこうとか、名を挙げようとか思ったことはなかった。それどころか、他の全てに失敗し続けた人生で、只一つの心の拠り所にしてきたところがあって、そこで面白いのが、人生の心の拠り所とは或る部分じゃ、宗教心理的なこともあるせいか、最後の砦くらい、一切成否と関係なくやっていきたいという気持ちの方がずっと強くあり続けた。

 

 自分はそもそも何か特定の才能があるという風に自分を規定したことは一度もなかった。若い頃は営業もやったが、実際そういう仕事をしてみて、日本の商習慣に準じた仕事だけは向いていないなとつくづく思った以外は、それ以外なら何でも良かったと言ってさえいい。しかし同時に教育者にも絶対向いていないなともずっと思っていた。だから教員免許を取る為に大学で履修していた単位も後、教育実習だけを残して、放棄してしまった。結局常に違う仕事へころころと鞍替えして今日に至っている。殆ど大して税金も払っていないし、そのことを凄く罪なことだとさえ思ってもいない。

 

 詩が面白いのは、普通にものを書くとのは違って、かなりその時々の気分を反映させられる創作だということだ。詩はだから長年書き続けてきたからどうのこうのという経験的なことでは絶対ない。寧ろそういった慣れは詩の本分では邪魔になる。詩とは経験で書くものでは決してない。

 

 ハイデガーは『ヒューマニズムについて』(Brief an Jean Beaufet, Paris(渡邊二郎訳・ちくま学芸文庫)で次の様に述べている。

「哲学は、みずからの本質を尊重するならば、断じて、離れ去って先へと歩み進むことなどしない。哲学は、つねに同じ事柄を思索すべく、当の場所で足踏みをしつつとどまるのである。」

 このことは詩にも全く当て嵌まる。詩とは何かをどこかへ向かって進歩させていくべきものではない。常に詩を書きたいという気持ちにその都度戻って(初心という言葉は余り好きでないが、敢えて別の語彙を探せば、そういう言い方をしても間違いではない)、つまり同じ所に居続けて発信し続けることだけに意味がある様な何かである。

 勿論冒険とかチャレンジ自体はいいことなのだけれど、格別の確立を意識し過ぎて書けるものではない。

 

 今でも自分は詩を書いてきたから自分の能力はそういう文章を書くことだけであると思っているかと言えば、そんなことはない。全く違う仕事をしても面白いし、その方が本当は向いているのかも知れないという発見を求める旅をしてさえいいと思っている。

 それでも詩は金の為に書いているわけではないので、たとえどこか地方で土地でも買って(それだけの経済力があれば、という仮定だが)狭くてもいいから農業でもやって生活していくのも悪くはないなと思いながら生活しているのだけれど、そうしながらでもずっと書き続けていくだろうなという予感だけは持っている。宮沢憲治も決して金の為に詩や小説を書き続けたわけではないだろうから、そういった意味では、どこかでは自分の死後誰かが目にでも留めてくれれば、いいな、とだけちらっとは思って書いているという要素は否定するものではない。

 

 又明日どんな詩が書けるだろうかと常に思いながら今日書く詩のことだけを考えている毎日である。

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2017年7月 1日 (土)

唯一性に就いてPart1

 『言語・真理・論理』に中で論理実証主義哲学者で後の分析哲学に大いなる啓示となったA.J.エアは、どんな事態であっても過去に於いて、その展開で最善の方法とは在った筈だと言っている。

 これはそんなに難しいことではない。つまり我々が往々にして相対的に全てを判断しがちであることを戒めているからだ。選択肢が多く存在するということは、未だ何も行っておらず、命題として成立していないということだから、それは判断以前である。しかしどんな事態であれ、その渦中にあって判断に窮している場合には、必ずそれを打開する方法はあり、それは必ず一つだということだ。

 

 それはアメリカ大統領であれローマ法皇であれ、国連事務総長であれ日銀総裁であれ、大企業のCEOであれ、刑務所の受刑者であれ、全国指名手配犯で国内逃亡者であれ、突き付けられた難題があるという意味で全て平等である。つまり立たされた事態、窮しているという事実に於いては皆均一であり、その打開策とは必ず一つはあるということだからだ。

 

 だからレヴィナスが後期しきりと唱えていた一者という命題=発想とは、キリスト者を限りなく理解しているユダヤ教徒としての彼が、ヤハウェと共にイエスという預言者をも合一的に理解しようとする時、宇宙や自然の全てを造り給うた神の一者と、人間社会で理性を持った現存在的存在者全ての判断に於いて、ある事態に於いては、それを打開させる道は一つであるということが、どんな思想信条でも必ず一致するということ、そのこと、つまり倫理的命題としての究極の善であるところの神の一致ということを彼は言っていたのだ。前者がヤハウェであり、後者がイエスであることは言うまでもない。

 

 だからどんなに相対的に全てが錯綜していても尚、絶対というものがあるという認識は正しいし、それが究極の神の存在を証明していると言ってもいい。

 そのことを例えば人類が言語を所有したことから考えているのが哲学者一般であろう。その点ではデカルトからカント、ウィトゲンシュタイン、ハイデガー、レヴィナス等全員同一線上にある。

 

 だが存在は存在自体不可知に満たされており、言語による理解の全てを持ってしても計り知れない。でもその計り知れなさを示すのは言語だけだ。だからキリスト教にとっての(ユダヤ教にとってはヤハウェしかないのだけれど)、唯一神のヤハウェとイエス、イスラム教にとってのアラーとムハンマド(マホメット)ということの一致こそが彼等の求めてきた究極の理想であり目標であろう。

 

 それは公益が盛んとなった都市やエリアが必然的にエリアの地理的自然条件に適っているという意味で一所だけである、唯一であるという事と同じだ。

 日本に沖縄に似た条件の地は他になく、京都や奈良に代わり得る場所もないし、聖なる神木が生えている地点も唯一である。それはミルチャ・エリアーデが『聖と俗』で言おうとしたことを正当化する。何かするのにもってこいの場所というものは必ず一つに絞られるし、選択肢はない。だからこそ絶妙という語彙が存在しているのだ。

 

 ユダヤ教やキリスト教やイスラム教が発生したことは、それぞれの住んできたエリアと、その気候条件、自然条件と、隣接する異民族等の条件によって、それぞれ独自に展開してきた。それも又唯一である。日本にとって隣接する民族は朝鮮民族、ロシア人、中国人、台湾人、フィリッピン人等と必ず限られている。フランス人やイタリア人とは隣接自体はしていない。

 

 一者という事を今後も考えていくが、それは明らかに切羽詰まった状況と自体に遭遇しない限り、捻出され得ないことなのであり、又そういうものだけが仕事とか選択ということに値すると言えよう。そしてそれは常に絶対なのであり、決して相対的判断の介入する余地はないのだ。この点が重要である。

 

 だから宗教倫理的にも神学命題論的にも一者を求めるということは究極の自己救済且つ他者救済なのである。

 そのことだけを念頭に入れて次回の命題に就いて考えていこう。(つづき)

 付記 選択肢が多いということは未だ差していない将棋の駒であり、一手差す毎に選択肢が狭められていき、しかしその窮地を脱する一手も今まで考えられたよりAI的知性を導入すれば、もっと沢山在ったのだと分かった時、少なくとも将棋の世界では未知の領域が開闢したと言っていいだろう。それでも尚その限りない前進の中で究極の一手を探そうとしている、と言える。

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世界の真理Part74 分派していることの意味とは何か?②詩人と哲学者、聖人や預言者、日本人、神と個人主義

〇ハイデガーは『芸術作品の根源』ではかなりの分量で詩に就いても論じている。それは『ニーチェ』でもそうである。彼はその点では偉大な哲学者なので、哲学の専門家でなくても読んでいて理解出来る書き方をするし、彼自身ルネッサンスマン的な感性を持っている。ただそれを哲学者は哲学者固有の専門性から理解しようとし、それだけが正しく、例えば文学や芸術に携わっている人達による哲学者の理解、例えばニーチェやもっと最近の人ではデリダやフーコーに対する捉え方は邪道であるとしたいらしい。それが専門の哲学者達の狭量な専門家意識である。

 

〇実際の詩人は(私も詩人であるが)、哲学者や哲学的探求心、その疑問の持ち方を比較的他の専門家よりはずっと理解できる方ではないだろうか?結局哲学も詩も言葉の営みだからである。でも相手を理解できるし、そのメッセージの意味や意義を理解できるということと、自分も同じ様にそういうことができるかということは全く違うことである。自分では巧くできないことを理解できるという事があるからである。その点では哲学者が詩人を理解していることは、それなりに本当に詩の意味やメッセージを理解していると受け取っていいけれど、それと彼等が詩人と同じ様に詩を書けるかというと、それは全く違うということだ。

 

率直何処にでも居る奴に限って、自分だけは特別だと思っている。だから自分だけは特別だと決して思えない者はかなり稀である。そういう人の中の極め付けの、それこそ何千年に一人位の割合でしか現れない人こそ、預言者になっているのだ。彼には俗世虚栄的な欲望はない。ないから聖人なのだ。

 

 どこにでも居る人は、しばしば自分だけがある教祖を真に理解していて、それは特別なことなのだ、という誇りを抱いている。でもそれが凄く何処にでも居る決して珍しいことではないということだけを気づいていない。

 

〇でも上記の様な聖人は、その人となりは、やはりきっと全く普通の人とは違うだろう。だからこそ誤解されやすいし、付き合い難いからこそ、何等かのかたちで排他されていきやすい(率直真に自己の正義に誠実であることは、或る面では凄く冷たい、殆どの場合、表面的にはエゴイストでしかあり得ない生き方と態度になるだろう)。そして最後にはスケープゴートになってしまう。その典型的な人物こそイエス・キリストだったのだ。だが或いは、本当にそういう神がかった慈愛の人とは長い人類史の中で何人かは登場するのだろうし、そういう言葉に言い尽くせない稀な人との邂逅から、我々が、そのお方は神が遣わされた人に違いないと思ったとしても、全く不思議ではないし、また、それは比喩である、とそう特に神を持たない日本人は思うかも知れないが、そういう比喩でしかなく、神なんて居る筈はないという見方が絶対正しいとは言い切れないし、まず証明できない。証明できないものを正しいと言うのは哲学的には明らかに独断だし、偏見である。

 そうでないとは証明できないことはそうであるかも知れないということは絶対に残しておかなければいけない。だが残念ながら日本社会とはそういう問い掛けを決して重視しないし、蔑ろにしてきたし、これからもそうだろう。その点ではその問い掛けを重視している人は、それを心の中に封じ込め、さながら現代でも隠れキリシタン的に生きいかざるを得ない。

 

そういう生き方や問い掛け方は確かに哲学者も詩人もそれぞれ一部持っている。でもやはり哲学者の持つ固有の専門的見識の保持に対する誇りは、それ自体全く超脱されていない俗世的虚栄心でしかない。でも彼等の多くは、それを気づいていない。だから真に神という事を考える問い掛けとは肝心なところで一線を分かつ。それは少なくとも問い掛けではないし、ましてや信仰でもない。

 

〇勿論信仰には絶対に他と妥協しない固有の危険性はある。日本人とはそれを特別に忌み嫌う傾向の民族なのである。その点では日本人は決して個の内面というものを持ってはならないという厳しい暗黙の鉄則だけを信じる民族である。だから日本人は自然信仰者である。しかし自然は人間理性を最上位に置くものの考え方からは第一義ではない。そして自然自体は神とは違う。欧米人もイスラム教徒もその点では(お互いにいがみ合っているけれど)、自然全体をそうあらしめる力と、その決定という意味では神を認めていて、自然信仰は実利的なことでしかないと思っていることは確かだ。

 そして自然全体をそうあらしめる力としての神という発想を持つということこそ、個々独立した個である自分の真の主観を持つことなのであり、それこそ神から与えられた使命だと言えるので、そこで個人主義も主体も生まれるのだ。

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