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2017年7月 5日 (水)

言語・論理・把捉・存在に就いてPart1

 分析哲学者や論理学者は往々にして、論理を記述として把捉しがちである。彼等は現代コンピュータサイエンス時代の要請に従って記述という行為性へ着目しているからである。それは確かに着眼として正しいけれど、それが全てではない。少なくとも我々の生活世界(フッサール用語)では。

 

 哲学者は他の専門の学者と異なって固有の思考傾向がある。それは修辞学者や解釈学者にも言えることだが、人間に固有の精神活動に拘るということだ。それも勿論正しい態度だが、或る部分では自然科学者の考えていることの方がより適切な場合も多い。

 

 例えば我々は人間に固有の能力によってのみ生活を支えているわけではない。私の家族はかつて猫を長年飼っていたが、我が家の雌猫はきちんと人をそれぞれ見分けていた。勿論猫だから名前という概念は分からないだろうが、私の母(彼女が最も猫の世話をしたので、雌猫は母を親だと思っていたけれど)と私と弟とを、生前の父のことも、きちんと全員見分けて区別して見ていた。

 

 これは哺乳類の一定程度の知性的本能を持った動物なら皆できることである。人間が人間に固有の優れた面だけで、動物とも重複する能力をもし持っていなかったとしたら、それはそれでかなり欠陥的な存在である。しかし我々は動物でも当たり前にできることを自分達もできる、つまり自分達も又動物的本能を持っているからこそ、それ以上の人間固有の精神活動も営めるのである。

 

 例えば「似る、似ている」等の語彙は、そういった言葉の規則とか意味とかの理解以前の、形態学的な相貌認証的能力が備わっていて、その判断が可能だからこそ、理解できる語彙でもある。それは人の顔だけでなく、漢字で似た形のもの同士を共通性を通して把握して理解することもそうであるし、果実や野菜を似た形のもの同士を共通性を通して把握して理解することもそうであるし、方向感覚的な把握もそうである。要するに把捉全般は人間も又一個の哺乳類の成員であるということから来るもっと根源的な能力である。悟性も又そういった規範から生み出されているものだと考えられる。

 

 ジョン・ロックもジャン・ジャック・ルソーも社会環境によって人が色々な性格や考え方が支配されるという考えを持っていたが、それはやはり一面的理解であり、社会環境に左右されない人の個人としての資質や能力は遺伝子的な継承によってあり得ることだし、一時期環境的に影響を受けたとしても、もっと長い時間の間では結局置かれた社会環境とは違う判断で意志を人は持つことができる。

 

 論理学者は当然分析哲学者にも証明論とかで影響を与えてきたが、この論理も根源的には人間固有の、つまり言語それ自体の文法的理解とか人間固有の精神活動的な知性に支えられているだけでなく、動物的直観とか本能に近い生来の能力によっても支えられている。寧ろそちらの方が後から追いかけてきた人間固有の歴史伝統的とか文化的とか、言語それ自体の習得に根差す把握を支えている。発声にしても聴覚的理解にしても、それは言語自体が持つ固有の高次の論理からより、もっと本能的生理学的直観で把握して習得されている。それは日本語であれ英語であれ文字の形で記憶して速いスピードで読めるとかのこともそうだし、長く演説する人の話の大意を掴むとかのこともそうである。人間固有の高度の知性だけがぽこっと取り付けられている訳ではない。あくまでもっと根源的な把捉の能力が細かいスキル的なことも支えている。

 人間の持つ感性も、そういった生物学的本能や把捉的な生来の能力の上に乗せられている。そういう風に考えないと、かなり唯知性主義的なものの見方になってしまう。

 

 だからそれは宗教的な精神の理解もそうだし、自然科学の合理的な理解や、法則的理解も、全て根源的な把捉がベースにある、と考えるべきである。特に宗教的心理には恐怖や不安も大きくかかわっているだろうし、それは人間固有の高次なことが、それ以前的動物的直観とか把捉が支えている。

 その意味で存在把捉ということがあるからこそ、我々は知性も理性も持ち得るのだと言える。

ハイデガーが『存在と時間』で考えた存在忘却も、実はこの存在を野性的に体感的に把捉する能力があって、その上で言語を社会環境的にも生来的にも強制的に覚えさせられつつ習得している我々が把握しているということをベースに語られているので、その根源的把捉に就いては彼は充分理解していたものと思われる。

 

 ウィトゲンシュタインはその点では社会制度として言語を習得するというデカルト主義的なコギト的な把捉を前提に語られているので、言語化し得ない理解が言語をも支える(それは先述の似た顔とか、人それぞれ個人の顔を記憶する能力や、形態を把捉する能力で示した)という視点は然程重視していなかったと思われる。尤も恐らく見間違いとか思い違い等のことに就いてはハイデガー等とも違った形で考えていただろうとも思われる。

 

だからハイデガー哲学よりウィトゲンシュタイン哲学の方が、より制度としての記述という事に拘っているという意味では社会現象記述的な態度だと言えるだろう。

 

 今回は我々が記述論理的に言語に固有の論理だと思われているものさえ、実は前言語的な把捉が促しているという側面に就いて考えてみた。

 次回以降はこのことをベースに諸々のことを考えていこうと思う。

 

 付記 今回の問題はあの日本全国を席捲している将棋の指し手に就いても言えることであり、論理的な認識だけでない動物的直観とか形態学的な把捉、空間把握能力等も多分に重なって判断されているのではないかということを示唆する。

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