« 神ではないことで知る個や主体的であることの孤絶性に就いて | トップページ | 言語・論理・把捉・存在に就いてPart4 »

2017年7月12日 (水)

代名詞とは何か?代名詞の在り方を考えるPart1 視点の転換が可能であることから考える

  

神学者であり、神学で修士を取得される以前に哲学でも修士を取られ、司祭叙階も取得され、且つそれらの後法学博士号も習得し、54年に来日されたホセ・ヨンパルト神父のお書きになった『カトリックとプロテスタント どのように違うのか』(サンパウロ刊)によると社会学は経験科学であるが、神学とは思弁科学であるそうだ。

 

 神学は経験に拠る証明では為し得ない神と私達との間での内的対話に於いてのみ成立する論理的学術であると言えるだろう。

 

 さてこのヨンパルト神父の祖国であるスペインで話されるスペイン語は動詞と目的格の代名詞(例えば私達や私や貴方)は主語が神であることに拠って成立する仕様となっているケースが多々見受けられる。つまり自分が何かする、つまり行為主体であっても、その行為が成立し成就することは神からの恩寵であるという意識が文法的に多々反映されているのだ。

 

 

 

 そのことを念頭に考えていくと、代名詞とはこの記事の一つ前の記事で示した哲学者永井均の最大の論理的功績とも言える、我々が個としての視点から世界を把捉することは、実はその私ということの開闢が、神にさえ、その個には立ち入れないから、予測し得ないそういう語彙を永井が示しているわけではないという論点最初は『私、今、そして神』で示され、最近作の『時間の非実在性』中のジョン・エリス・マクタガートの翻訳に後続する注釈と論評でも述べられている。その中で永井は自著の中でも『私、今、そして神』を特にこれらの論旨を展開させたことから代表作であると自認している<共に講談社学術新書と文庫から>と密接に関係しているのである。

 

 

つまり永井哲学で、私にのみ知られる世界とは、私が誕生してこの方、私が私の身体とか目とか耳とか口とか全ての所有者であればこそ開けてきた世界からのみ成立し得るXであるとするなら、それは私が私に就いては熟知していて、私以外のどの個も神が全てをお造りになられたのだから、神ならば知っている全てを私自身は一切知らないからこそ、成立する世界であり、その私の世界という視点にだけは神さえも立てない、と言うことは全てをお造りになられた神さえも、私以外のどの個の世界という視点にも立てないということを論理的に証明したのである(文章的には示唆的に語られるが、全体的主張からは証明と言ってよい)。このことは世界中のどの哲学者も明確に示してはこなかったことである。

 

 

 

 

 そのことを考慮に入れると、私から発する全ての私、貴方とか君とか、彼とか彼女とかは、私が知る、私が理解できるそれらの存在のことである。だからそれは私にだけ開けた世界、視点とそこから開闢する私の世界から語られている。

 

 だが私をお造りになられた神という視点を置けば、私は神からそう考えさせられているということになる。でも神は私の世界を私の様には決して見ることも感じることもできない。その理由は既に充分示してきた。

 

 

 

 さて代名詞とは、そのことを考慮に入れて考えれば、明らかに世界の全ての存在者の創造主であられる神ということだけが絶対的代名詞として基本的に君臨していることになる。それは世界から見て一つなのであるから少なくとも哲学という学問を生んだ欧米一神教、イスラム教一神教的世界観からすれば、そうである)、それは固有名詞ではない。あくまで絶対的代名詞なのである。

 

 となると逆に貴方も彼も彼女も、全て私から語られる限り、それは私の世界の登場人物ということとなる。それはだから私にとっては絶対であるが、私以外の全ての個(私からすれば全ての他者)にとってはそうではなく相対的なことでしかないから、私は私の世界から見た視界全てを中島義道的に不在とすることで、私以外の個や集団と接していく限り、そこで示される貴方、貴方達、彼、彼女、彼達、彼女達は全て相対的代名詞ということになる。それは一人一人に焦点を当てれば固有名詞表示し得る人達のことを仮に示しているということだ(場所でも番地でも、最後に示す時間でもそのことは当て嵌まる)。

 

 

 

 だから私が貴方とか彼とか彼女と語る時は、私以外の全ての個は私にとっての貴方とか彼とか彼女だと即座に理解する。それは私のことを貴方とか彼とか永井均氏が語る時、私が永井氏にとっての貴方とか彼であると私が理解する様に、である。

 

 

 

 

 

 だから上記のパラグラフの点からも全ての二人称や三人称は相対的である。だが神という絶対代名詞は神である限り、実在の個人ではないのだからこの点はキリスト教徒にとってのイエスとか、イスラム教徒にとってのムハンマド(マホメット)という捉え方と少し違う。しかし彼等にとってはイエスもムハンマドも信者間では絶対代名詞であるということはお分かりあろう絶対的であり、それは実在ではないから、そう思えるのであり、神しか知らない、とか神ではない私にはそれは分からない、という言い方を即座に誰しもに理解させている。特に一神教文化圏でもない日本人でも理解できる言い方である。

 

 

 

 代名詞とは基本的に人物の固有名詞の省略である場合には、必ず現存在=世界内存在としての成員であるという条件がつく。それらは全て相対的代名詞であり、神のみ絶対的代名詞である。何故ならそれはヤハウェとか言っても、固有名詞とは異質のものだからである。そのことで、或る部分ではハイデガーが脱自といったこと(ekstasse, exstatisch)の視点転換を我々が日常生活で行うこと、それは既に思考順路的には習慣化していることであるが、そのことが神という視点を個なりに想定して語られる反事実的条件法(counterfactuals)であるということをも意味しているとも言える。

 

 

 

 もし何等かのかたちで絶対的全知全能を主語にするなら、それはそういう風に自分より絶対的上位にある神を不遜にも持ち出しているのだから、神の視点でのみ語られる視点(時間的にも空間的にも)だ、という意味では必ず非本来的なことである。何故なら私という一個の個からはそういう風に神の視点へは絶対立てないからである。私は私の身体や心からしか語れないということ自体が本来的なことだからである。しかし言語行為に於ける説話上では、我々は必ず何かを説明する時、この神の視点へ立つ様な比喩を絶対代名詞である神を想定するかの如く(そういう神という語彙を示さなくても)説明しているのだ。

 

 

 

 だから我々は空間把握能力の一つの大いなる具現化である地図を利用することができる(恐らくどんな高等知性をも携える哺乳類の種<例えばチンパンジー、ボノボ、ゴリラ、クジラ、イルカ、ゾウでも>人間の様に地図を駆使して動き回ることは出来ないだろう。簡単な図示だけなら理解できても、それを活用することはできまい)のは我々が高度なメタ認知能力があり、それで言語で他者に何か説明したりすることができる様に地図作成者の視点を我々が想定して(どうやってこの地図でこの形状を示しているのかを、例えば鳥瞰図なら、それなりの空中から見た視点を採用して示しているのだという地図作成者の意図を理解して)、地図に沿ってウォーキングすることができるのである。

 

 

 

 それはその侭場所の観念の設定をも可能にしている。この地図のこの地点に示されている箇所はここで、こっちの地点として示されているのがあそこ辺りだ、と言う説明を可能にしている。

 

 ここ、そこ、あそこ、こっち、そっち、あっちということも代名詞として成立し得るのは、空間把握能力と他者の視点、つまり貴方から見ればそっち、あっち、彼や彼女から見れば、私や貴方の居る場所はあっち、そっち(お互いに声を掛け合えるなら、そして向こうに自分達の居る方へ来てくれと頼む場合には、そっちからこっちへ来て、ということとなる)と区別することができるからであり、この視点転換を想像できることが、それを可能としている。これは神の視点とまでは行かない迄も、かなり神の視点の比喩を心的理解としては応用したメタ的視点、脱自的視点であると言える。

 

 

 

 この様に考えてくると、代名詞とはどうやら常に深層心理的には、常に神である様な視点と、そういう風には絶対その視点を獲得し得ない自己という認識との相関によって使い分けられ、人物特定や場所の特定、或いは永井均も常々論理的説諭で利用している時間的特定(それがあの頃なのか、その頃なのか、さっきなのか、これからなのかという全て)も含めて援用されている、と見ることができる。

 

 

 

 つまり神だからこそ立てる視点と、神ではないからこそ語れる視点の相互転換が常に心的になされているからこそそういう心的メカニズムであると我々は日々それを理解しながら言葉を援用しているわけではないものの)、成立している品詞こそ代名詞だ、と言ってよいであろう。

 

 

 

 次回は、代名詞と動詞等の品詞との目的格的な示し方に就いて考えてみたい。

 

 

 付記 彼とか彼女とかの三人称は話者である私と貴方や貴方方を発語条件として必要とすることは言うまでもない。この辺のことはJ.L.オースティンが展開された論理で説明が尽くことであろう。

 

|

« 神ではないことで知る個や主体的であることの孤絶性に就いて | トップページ | 言語・論理・把捉・存在に就いてPart4 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/540889/65524575

この記事へのトラックバック一覧です: 代名詞とは何か?代名詞の在り方を考えるPart1 視点の転換が可能であることから考える:

« 神ではないことで知る個や主体的であることの孤絶性に就いて | トップページ | 言語・論理・把捉・存在に就いてPart4 »