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2017年7月 6日 (木)

言語・論理・把捉・存在に就いてPart2

ハイデガーは言語自体を存在同様メタ的に考え、語る。それは存在の家と言語を考えていることからも明白である。存在と対比的に言語を捉えるのは、その関係性が成立すると考えるからである。言語そのものを考える全ての基礎としているので、言語をメタ的には捉えられないとしたウィトゲンシュタインとの大きな違いである。ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で世界への理解と把捉を論理空間として考えた。それは言語により認識し得ることからしか問えないと考えたからに外ならない。しれみればウィトゲンシュタインの思考順路こそデカルト以来の伝統的な哲学的態度と言ってよく、寧ろハイデガーのそれは違うと考えるべきではないのか?

 

 ハイデガーが存在と言う時、それは概念規定を越え、もっと茫漠とした何かに抵触していると知っていることは明らかである。それは『存在と時間』序論 存在の意味に対する問いの開陳 第一章 存在に対する問いを表立って繰り返すことの必然性 に於いて「「存在」という概念はむしろ最も曖昧な概念なのである。」と述べていたり、「結論することができるのは、「存在」は存在者といったようなものではないということだけである。」と述べていたり、「事実、「存在」は存在者として概念的に把握されることはできないのである。「存在ニハイカナル性質モ加エラレナイ」。つまり存在に存在者が帰せられるというふうに、存在が規定されることはできないからである。」「存在が定義不可能であるということは、存在の意味に対する問いを免除するのではなく、かえってこの問いを問うことをこそ促すのである。」「(前略)存在問題を繰り返すことは、まず第一にその問題設定を十分に仕上げることにほかならないのである。」と述べていたり、或いは続く 第二節 存在に対する問いの形式的構造 で「(前略)「『存在』とは何であるのか」と、われわれが問うときにはすでに、われわれはこの「ある」についてなんらかの了解内容をもっているのだが、この「ある」が何を意味しているのかを、われわれが概念的に確定しているわけではあるまい。われわれは、そこからその意味を補足すべきはずの地平をすら、識別してはいないのである。こうした平均的な漠然とした存在了解内容は一つの現事実である。」と述べていたりすることからも明らかである。

 

 しかし同時にハイデガーは赤字黄色枠で示した様に、それを何とか言葉化させようと試みている。それが言ってみれば、この普及の名作『存在と時間』なのである。

 

 前回示した動物も又持っている識別能力のことをハイデガーは次の様な言葉で示している。同じ第二節からであるが、「存在は、存在している事実と存在している状態のうちに、実在性、事物的存在性、存立、妥当、現存在のうちに、また「与えられている」ということのうちにひそんでいる。」と述べているが、この最初の実在性こそ、世界が人間だけに与えているのではない能力をも含む。しかし重要なのはそのことより、赤い字黄色囲いで示された「与えられている」とする部分である。

 同じ第二節で彼は「眺めやること、了解して概念的に補足すること、選択すること、通路をたどって近づくことは、問うことの構成的な諸態度であり、したがって、或る特定の存在者の諸存在様態ですらあるのだが、この特定の存在者は、問うものであるわれわれがそのつどみずからがそれであるところの、まさにその存在者にほかならない。」としている。又この文より先に「存在が問われているのであって、しかも存在とは存在者の存在のことであるかぎり、存在問題において問いかけられているものは存在者自身であるということになる。この存在者はいわばおのれの存在をめざして試問されるのである。」

 この全ての赤字灰色囲いの部分こそ、彼が現存在と呼ぶ存在者のことであり、それが与えられた命題に取り組むべき使命を帯びていると捉えている。

 

 

 少なくともこの与えられた使命(それは上記のこの存在者はいわばおのれの存在をめざして試問されるという箇所からも示されているが)ということの内にこそ、ハイデガーが信じた神が居る筈なのである。それはその後の本文の到る箇所から発見することができる。彼はその意味では哲学という名の信徒であると同時にやはり神から遣わされた使徒でもあるのである。

 

 

 『存在と時間』はのっけから既に存在忘却から始められている。つまり存在者が存在を忘れてしまうことを基軸として論を展開させる。そしてそれを問い続けられるのは現存在、つまり我々人間だけだと上記の箇所でハイデガーは述べているのである。

 従ってウィトゲンシュタインを哲学的態度であるとするなら、ハイデガーのこの問い掛けそのものを成立させる使命への奉仕と殉教的な構えを神学的態度としても強ち間違いではないであろう。(つづき)

 『存在と時間』の本文は中央公論社刊 世界の名著74 原佑責任編集中 存在と時間 原佑・渡辺二郎訳によった。

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