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2017年7月10日 (月)

言語・論理・把捉・存在に就いてPart3

 分析哲学では記述に異様に拘るので、その書生性にはどこかピューリタニズム精神が横溢している様に見受けられる。それはかなり彼等の中では巧妙に隠蔽されているが、恐らく精神的支柱とするのはそこだ。

 現代社会は一つにはプログラミング言語が動かしていると言っても過言ではない。だからその時代的趨勢に恐らく彼等は随順したスタンスを正しいと信じているのだろう。だが先日藤井四段のNHKの特集では、彼が唯一絶対AIでは考えつかない指し手で勝負した試合があったことを報じていた。

 つまり人間同士のコミュニケーションでもある勝負の世界では、機械的知性では気付かない駆け引きがあるわけだ。

 だからその意味ではプログラミング言語進化実態に随順した分析哲学の志向は一見時代を先取りしている様に半歩遅れているとも言える。

 

 人間の思考を機械の様に捉える仕方は確かに哲学の得意とするところである。だが人間は言語記述的な思考以外のかなり多くの思考をする。それは空間把握能力である。一本の棒がもう一方の棒より長いか短いかを即座に理解できる。遠くに見えることと近くに見えることで、瞬時に空間的な広さとか遠くに見えることと近くに見えることとの関係から我々は即座に位置関係というものを把握する。その様な能力全般を余りにも分析哲学では軽視し過ぎるし、日本の多くの哲学でもそれは同じである。彼等は言語というものを書生的に記述されたものだけが全てという発想で取り組んでいるので、必然的に(勿論最初から哲学は理屈だけで考えていこうとする傾向の強い学なので、そうなっていきやすいのだが)記述されていることの論理だけに偏りがちなのである。

 

 しかし理屈よりも日常生活では重要な知覚的な判断はかなり多い。自動車を運転する時も自転車に乗る時も電車を利用してどこかへ出かける時もそうである。アフォーダンス等のことも現象学では捉えるが、分析哲学では殆ど考慮しない。

 我々にとって視覚情報を身体全体で感知する情報と共に統合させて判断することは多い。そしてそれは中島義道が『不在の哲学』で言う様に言語習得したからではなく、言語習得と平行して為される別の能力の発現によってもである。中島義道がそのテクストで言っていることは、あくまでその能力によって得られた判断を誰か他者へ伝えるということに於いて、示される説明能力のことであり、それはやはり空間把握的な大きな能力の最終段階での付与に過ぎない。言語そのものが空間的把握を可能にしているという考えは受け入れ難いし、それは学術的に間違っている。

 恐らく動物でも直角のコーナーを今見ている角度では130度に見えるが、近づき真横から眺めると90度近くに見えることそのことを同じ空間的位置関係のものと自らの身体との相関性から違って見えることくらいは把握している。只それを言語にして伝えられないだけである。だから人間だけがその位置が変わることによって全く見え方も違ってくることそのことを苦悩せずに済むのは言語習得のおかげだという理論は、やはり可笑しい。理屈で理解できるだけのことであり、動物もそのことで一々悩んだりしない。そういうものだと済ませている筈だ。

 勿論人間はそこでその理由を考えることができる。そしてそれは正に中島の言いたい言語習得を通過した人の論理思考能力の賜物である。

 しかしそれはずっと後になってから始められることであり、最初にその形が位置の移動で違って見えることそのことを不思議に思えることから脱することを可能とするのが言語だという論理では、人には論理的納得による理解しかない、ということになる。そんなバカなことはない。論理とは別に空間把握能力自体が備わっているから、それを理屈で可笑しい等とその段階で子供が考える訳がないのである。言語は子供が言語習得をした後日、その事実の説明に供せられるに過ぎない。

 恐らく全ての認知科学者達はそう考えるに違いない。

 

 だから哲学は言葉そのものの、記述によって齎された論理に拘り過ぎて全体を見失う危険性が学術行為の姿勢自体にあるのだ。

 

 ハイデガーの哲学では現存在が歴史的存在であると考えている段で、確かに宗教や文化的な発想と不可分で、そういう歴史的伝統的な思考方法から自由になれないという意味ではよく分かる。しかし恐らくそれさえ、基本的な空間把握能力の中で発現されてきたものである筈である。

 だから哲学者の記述的論理に異様に執着する傾向は、悪しき文献学的な伝統的な名残なのであろう。だが本当に意味ある文献学は実はそれ程人類に於いて多く齎されてきているとは言い難い。そういう真に意義ある文献学を修辞学的見地から哲学フィールドからも産出していくことこそ、現代の知に関わる人達の使命であると言えよう。

 

 次回は時間論に固執する現代哲学の陥穽、唯心論的悪しき慣習に就いて考えてみよう。

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