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2017年7月13日 (木)

言語・論理・把捉・存在に就いてPart4

 アウグスティヌスの昔からずっと哲学は只管時間ばかり考えてきたと言っていい。だがハイデガーは空間も考えた。だからこそ存在は歴史的でもあるが、変化しつつある存在全体の様相からも捉えられた。

 哲学で時間を中心に考えやすいのは単に言語自体への認識が反省意識によって喚起されているからだ。だが言語そのものの発語も、最初は文字を空間把握能力の一つとして記号=文字を生み出した人類が、一つ一つの文字を差別化させる為に初めてそれぞれに応じた音を編み出したのかも知れない。してみると一挙に皆で同時に理解できる形としての文字の方が先で、然る後その各文字を意味する発声を編み出すことで差別化して統語構造が徐々に出来上がっていったという経路も一つとしては考えられる。勿論証明はできない。言語学ではとっくに言語の起源に関しては不問に付すこととなってきている。

 

 只哲学で異様に多く論じられてきた時間とは、文字の発声と聴取ということ自体が、時間軸的に営まれることなので、必然的に心の移り変わりと共に哲学では論じやすかったからだ、というに過ぎない。

 やはり決定的に人は日常生活では空間と最も多く関わっている。そして言葉や文字ではやはり空間を示すことは難しいのだ。

 

 例えば富士山の裾野の高原の見渡す限りの広大な平野の眺望は一挙に体感し得るが、それを文字だけで示しても空しい。だから言葉とは言葉である時点で既に反省意識から生み出されていて、それは時間論的に語りやすい様に仕組まれているのだ。

 

 だがそれにも関わらず我々は生活上殆どを空間に頼っている。これだけは間違いない。会社に通勤する途上電車に乗って見えてくるのは車窓から確かめられる空間的風景である。どこかに仕事で移動する時も歩いたり車を使ったり、空間移動だし、室内もしょっちゅう移動している。全て空間的所業である。

 空間に於いてはどんなに個人主義の人間でも社会全体の様相より、天候とか自然条件の中に居る我々という意識が強い。これも哲学者の殆ど論じないことである。

 

 ハイデガーが面白いのは空間全体をそういう一つの事態としては理解できても、その広大なる一挙性は言葉化し難い旨も示していることだ。この点でデカルトやバークリーやベルグソンと彼が違ったタイプの哲学者だということは分かる。

 つまり言葉で示し得ることはやはり人間生活に於いても一部でしかないということだ。その事実自体を言葉化することは可能だが、それは形而上学をはみ出ることはないだろう。ハイデガーは形而上学を存在論より下位に置いている。(⇒『ヒューマニズムについて』)

 ハイデガーはだから唯心論者でも観念論者でもない。と言って完全な唯物論者でも実在論者でもないけれど、実在論的ではある。又認識論的な要素も多分に持つ存在論者である。

 レヴィナスは観念論者的要素は倫理第一主義であるから、その部分でそうである。

 

 そうである。こういう風に哲学的論議とは論理的納得なので、どうしても音声聴覚的なのである。論理の道筋自体の表明なのだから、それは時間論的なのである。理屈とは大まかに言えば時間の推移の説明なのである。

 そしてそれは反省意識が生み出していることなのだ。そうしてみると言葉とは常に過去の経験をベースにした反省意識的な追想とその纏め的な思考なのである。それは或る物体が或る場所にどかっと置かれてあることのインパクトとは異なる性質のものなのだ。どかっと置かれてあることのインパクトはアート的世界である。

 

 音楽はこの点はちょっと不思議である。何故なら音楽を聴いているとさながら風景が浮かんでくるからである。だから視覚的追想をも喚起する一つの聴覚体験なのであるが、追想を誘うことでもあるから反省意識喚起的でもあるが、現在から未来へ音楽が終わらず演奏され歌われている間は、推移していくリアルタイムの体験なので(その点では映画もそうである)、その臨場性が空間的イメージを、音楽を聴く者が脳内に描出しやすいのであろう。

 

 だからフッサールの現象記述学的手法は、その点では臨場的でもあったので、哲学の中ではリアルタイム体験性のものだった。論理学はそれとは対照的により無時間的である。フッサールも論理学的な見地から出発したが、次第に体験性的世界へと足を踏み入れた。

 

 だから今回の結論を言うとすると、哲学することの中で如何に日常生活で大きな位置を占める空間的体験、空間把握的生活実態をどう捉えていくかということが今極めて重要であり、求められていると言えるのではないか?

 それは幾分言語自体への考察からは離れるが、今余りにも言語哲学的な仕事が溢れ返っているので、一つの提言として考えてみた次第である。

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