« 日記的記述EL 映画『ライフ』を見た感想から始まり、それ中心で終わる日記 | トップページ | 日記的記述EM 性悪説的な教育が全く無いのは可笑しい »

2017年7月15日 (土)

思想・哲学メモPart75

〇人間の本性が悪であることはどの文化圏、宗教圏でも同じであろう。尤もその立ち現れ方は大分違う。アメリカはキリスト教倫理で神からの恩恵をshareする意識の共同体社会であり、日本は天皇を頂点とする権威社会であり、その権威に追随した忖度・斟酌・配慮が求められ、そこでは完全に人間中心である。神は日本にはない。だから同じ結束でも意味は全く違う。その点では北朝鮮には近い。韓国は先祖、それも同族内での先祖が神であり(勿論それは一神教の神とは違う)、中国では官僚制的権威と権力が神であり、それに対して劉暁波氏死去を巡って、改革主義と内部で熾烈な闘争がある。香港も大きく左右するが、やがて台湾も参画していくだろう。

 

性悪説的である人間を最もよく示すものの一つがアメリカにも日本にも残存する死刑制度だ。犯罪者とはキリスト教倫理からすれば貧しき者であり、罪を背負った者が神の前では救われる。だが実際はアメリカでは極悪犯罪者には公開処刑も適用される。だから人を罰することで倫理的慈愛を反故にしてまで、社会と国家が人を殺すことを容認することを全国民が認めている以上、そこでは性悪説的倫理が罷り通っている。つまり性善説主義的な誠実性でなく、自己欺瞞的な社会的な態度だけが優先されるという意味で一神教文化圏のアメリカも八百万の神と天皇制の日本も、そう変わりない。

 

爪弾きにされていく成員こそ宗教倫理的には誠実だということになるという意味で、本当は挫折者や敗者こそが誠実だとは正しい。にも関わらずそれは社会全体では命題化されないという意味で、一神教的神の恩恵のshareも天皇制的権威追随もそう変わりないということは確かに言える。

 

だが昨今ではウェブサイトを通して個人の私的時間を公共空間で実現させてしまっている、つまり皆が挙って公共空間で一人の世界へ浸りきっているのが果たして日本だけなのだろうか?或いはアメリカでは電車内での対話の方が日本より多いかも知れない。日本では英語のイディッシュ系語彙でschmooze(schmoozle, schmoose)という下らないお喋りをするという語彙に該当する会話が多く、対話はない。だから対話へは行かず、車内スマホ意識釘付け状態が多くなるとは考えられないであろうか?この設問は魅力的なので、暫く考えてみたいし、実際どうなのかを確かめてみたい。

日本では首都圏近郊の通勤電車程そうだ。視界がどの椅子に座る乗客も30センチ程目から下の空間だけに限定されていて、視野が全体へ行き渡らないので、必然的にその視界を含め自分の周囲に目線を走らせる乗客を悪と決めつける目線を送る乗客が多くなった。

 

 つまり私的時間を公共空間で一人の世界に閉じ籠ることをスマホ利用者は他者へ容認する分で、そうしない成員を締め出す欲求の塊になる。だがそれは郊外地区へ人を運ぶ通勤電車での情景だ。私の知る範囲では西武新宿線が最もそうだ。西武池袋線はそれに次ぎ、西武池袋線でも飯能から東飯能を経て西武秩父までは、特に高麗を過ぎると緑が大半の車窓になるので、緑に身体と意識が囲まれると、精神はスマホに向かわない様なのか、高麗から西武秩父までの池袋線と秩父線ではスティーヴ・ジョブズが生み出した生活スタイルが万能ではない。その点では八高線もそうだ。上信電鉄も高崎経済大学前を過ぎれば、スマホ利用者は極度に減る。電車利用が通勤通学ではない人が大半であることが理由だろう。

 

欧米キリスト教社会はとどのつまりcarnalなこと、つまり肉欲を異様に否定してきた初期の原始キリスト教からカトリックの通史観的な事実があり、それが反動的に通史観的にはニーチェの様な権威主義否定と力への意志思想を生んだ。だがピューリタニズム革命以降のそれは、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で示される金も結婚による子孫の繁栄も神からのご褒美だという意識であり、不倫等は決して許されることではないのだ。肉体不浄的思想は延々引き継がれている。マルチン・ルターからジャン・カルヴァンを経てずっとそうだ。ただプロテスタントはイエスの言葉そのものと信者の内的対話を重視し、教会主義的な形骸化した制度を否定した分では潔かったが、肉欲的な観念の極度の否定はカントの『実践理性批判』の他律という考えでも示されている。だがニーチェはダンス等の快楽を復権させようとして、その汚らわしさの中にも猥雑な中にも美と真理を発見しようとした。その分ではピューリタニズム以降の性善説主義的内的世界への批判も兼ねていた。それでも彼はプロテスタントのモラルの範疇で、それを行ったと言えるだろう。

 

ハイデガーはニーチェのピューリタニズム批判精神も取り込んでいる。でも『存在と時間』で与えられた、とか到来といった語彙で神そのものの存在は完全否定しているわけではない。そこでは彼固有の一神教的神の肯定と制度的宗教倫理への批判とが合体した何かがあるだろう。レヴィナスはそれをギリシャのユダヤ化だとしたが、その意味ではヤハウェ的な神がハイデガーには内在する可能性はある。

 

緑に囲まれていると視界の範囲が広がり、そこに存在の様相を精神へ齎す何かがあり、唯認識的な郊外生活の利便性の行き着く果てのスマホ利用とは違った感性を人へ与えるとしたら、それは或る部分では自然の中に個と神との対話を求める様な詩精神が普遍化される可能性は開示する。

 

付記 個人が持ち得る通信を通した力は巨大であり、その分で性悪説的社会は実現したが、それはニーチェ思想があの時代では有効だった哲学的価値も、それが現実社会で実現した時突発的衝動を抑えられない個人を多く生み出す社会の到来をも意味する。それが自爆テロにもなり、日本ではオウム真理教的なカルト宗教や通り魔的猟奇的殺人、或いはいじめや差別を生み出す遠因ともなっている。その部分では自然回帰的な観念も哲学価値的には重要である。だから私は或る部分では意図的に自然信仰的な要素と一神教の神との自己内対話との止揚が詩でなら可能ではないかと模索しているのだ。

 

|

« 日記的記述EL 映画『ライフ』を見た感想から始まり、それ中心で終わる日記 | トップページ | 日記的記述EM 性悪説的な教育が全く無いのは可笑しい »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/540889/65538417

この記事へのトラックバック一覧です: 思想・哲学メモPart75:

« 日記的記述EL 映画『ライフ』を見た感想から始まり、それ中心で終わる日記 | トップページ | 日記的記述EM 性悪説的な教育が全く無いのは可笑しい »