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2017年7月 2日 (日)

詩は経験なんかじゃない

 詩を書き始めて十数年経ったが、全くそれで食っていこうとか、名を挙げようとか思ったことはなかった。それどころか、他の全てに失敗し続けた人生で、只一つの心の拠り所にしてきたところがあって、そこで面白いのが、人生の心の拠り所とは或る部分じゃ、宗教心理的なこともあるせいか、最後の砦くらい、一切成否と関係なくやっていきたいという気持ちの方がずっと強くあり続けた。

 

 自分はそもそも何か特定の才能があるという風に自分を規定したことは一度もなかった。若い頃は営業もやったが、実際そういう仕事をしてみて、日本の商習慣に準じた仕事だけは向いていないなとつくづく思った以外は、それ以外なら何でも良かったと言ってさえいい。しかし同時に教育者にも絶対向いていないなともずっと思っていた。だから教員免許を取る為に大学で履修していた単位も後、教育実習だけを残して、放棄してしまった。結局常に違う仕事へころころと鞍替えして今日に至っている。殆ど大して税金も払っていないし、そのことを凄く罪なことだとさえ思ってもいない。

 

 詩が面白いのは、普通にものを書くとのは違って、かなりその時々の気分を反映させられる創作だということだ。詩はだから長年書き続けてきたからどうのこうのという経験的なことでは絶対ない。寧ろそういった慣れは詩の本分では邪魔になる。詩とは経験で書くものでは決してない。

 

 ハイデガーは『ヒューマニズムについて』(Brief an Jean Beaufet, Paris(渡邊二郎訳・ちくま学芸文庫)で次の様に述べている。

「哲学は、みずからの本質を尊重するならば、断じて、離れ去って先へと歩み進むことなどしない。哲学は、つねに同じ事柄を思索すべく、当の場所で足踏みをしつつとどまるのである。」

 このことは詩にも全く当て嵌まる。詩とは何かをどこかへ向かって進歩させていくべきものではない。常に詩を書きたいという気持ちにその都度戻って(初心という言葉は余り好きでないが、敢えて別の語彙を探せば、そういう言い方をしても間違いではない)、つまり同じ所に居続けて発信し続けることだけに意味がある様な何かである。

 勿論冒険とかチャレンジ自体はいいことなのだけれど、格別の確立を意識し過ぎて書けるものではない。

 

 今でも自分は詩を書いてきたから自分の能力はそういう文章を書くことだけであると思っているかと言えば、そんなことはない。全く違う仕事をしても面白いし、その方が本当は向いているのかも知れないという発見を求める旅をしてさえいいと思っている。

 それでも詩は金の為に書いているわけではないので、たとえどこか地方で土地でも買って(それだけの経済力があれば、という仮定だが)狭くてもいいから農業でもやって生活していくのも悪くはないなと思いながら生活しているのだけれど、そうしながらでもずっと書き続けていくだろうなという予感だけは持っている。宮沢憲治も決して金の為に詩や小説を書き続けたわけではないだろうから、そういった意味では、どこかでは自分の死後誰かが目にでも留めてくれれば、いいな、とだけちらっとは思って書いているという要素は否定するものではない。

 

 又明日どんな詩が書けるだろうかと常に思いながら今日書く詩のことだけを考えている毎日である。

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