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2017年7月12日 (水)

神ではないことで知る個や主体的であることの孤絶性に就いて

 永井均の全哲学業績の中で一際精彩を持つ論理とは、個であること、自分自身であり、他者の視点へは絶対立てないこと、それだけが神にはできないことである、という主張である。デカルトのことを一瞬偉いと神から独立した視点を持ったことを高く評価する永井は、神の全知全能性が、却ってそのことでどの個の主観的な自分でしかあり得ないことそのことへは立ち入れないという神そのものの構造的欠陥を突いたのだが、それが永井均という固有の分析哲学的手法で現象学的な謎にも分け入る哲学者の最大の功績かも知れない。永井のキーワードである<私>は実はそのことを証明していくための里程標であると考えられる。

 してみれば神とは主体的であるとか、世界に一人しかいない個そのものにだけは絶対なれない、全体の配置だけは構想できても、或る視点からしか見えない世界、感じられない世界を経験することができないということだから、それは当然実在者ではないということになる。

 

 勿論端から大半の哲学者は神学者同様、神が実在であるとは考えてなどこなかった。

 だから現代社会の個の孤絶性とは、超越的視点に誰も(人間である限りは)立てないということそのことの自覚自体が全人類的に共有されているということではないだろうか?つまりその不可性に於いては誰もが平等だからである。

 

 Wanna Cryというウィルスが各インフラに厖大な被害を及ぼしているらしい。つまり現代社会のサイバーテロは自爆テロの様な来世だけを信仰する突発的な個の自滅志向とは異なった、自分自身の自己犠牲を示すことにあるナルシスさえ介在しない別種のインフラ破壊欲求が渦巻いている。これは誰が犯人であるか特定が困難であることを承知で行っていることである。一種の愉快犯である。

 我々はウェブサイトに関わっている限り相手が人間であるかAIであるかを確かめる術はない。たとえフランス語だけ使ってSNSをしていても、単にフランス人になりすましている違う民族や国の人のしていることかも知れない。年齢も性別も偽って参加することも容易であるこのコミュニケーション手段の肯定は、実は誰もが自らの真の姿を見せずにあたかも他者にとって自分が神であるかの様な錯覚を齎すことに愉悦を感じているからではないか?

 なりすましそれ自体は最初からしていることが相互にゲームなのだから、違法ということにはならない。でもそれは誰もが神になれないということを知っているからこそ成立するゲームだとも言えるのだ。

 

 誰もがウェブサイトの全貌を把握することができない。どのソフトやどのツールの開発者、発明者でも決してそれが齎す全体の成り行きやその理由を全て知ることはできない。自分の生んだ、生ませた子供の人生の全てを親が知ることができないのと同じであり、それは結局神ということが、そもそも仮にそんな全てを創造することができたとしても(だからこの点では神とは自然法則、物理法則や、ビッグバン的な成り立ちそのものに近いと言える)、その全ての経過を予想することも、データ的に全てを理解することもできないということをどんな個人も知っていて、だから神とは只常にそういう視点に立ったとしても、全知全能ではあり得ないという形で、実在ではない神を観念上では据えているものの、実在ではないのだから比喩でしかあり得ないということを承知で人類は利用しているだけだということになる。

 だが実際誰もが同じこととして理解できることは実在ではないこの神だけであるということも事実である。何故なら誰もが自分の身体とその在る場所とそこから開ける世界しか知らないけれど、神だけはその誕生の全てを司っているかも知れないという一種の比喩であるだけなら理解し得るからである。

 

 だから神を語るということは常に個による果たし得ぬ夢や実現しない現実の願望を述べていると客観的には受け取ることができる。そうであったらいいなという反事実的条件法(Counterfactuals conditional)はデヴィッド・ヒュームが提示したことを後にネルソン・グッドマン、ロデリック・チザムも応用展開させ、デヴィッド・ルウィスも論じた現代哲学(特に分析哲学)で重要な命題である。

 そうであったらいいなという願望だけは誰もがその(そう)の部分が異なっていても容易に理解できる。その実態そのものより今は不足しているという事実に対する嘆きだけは誰にも理解できるからこそ、その願望を全て叶えられるものを神と呼ぶことも我々は自然に感じられる。神とは代名詞的理解の一つの大きな絶対的文法である。

 

" we may define a cause to be an object, followed by another, and where all objects, similar to the first, are followed by objects similar to the second. Or in other words, where, if the first object had not been, the second never had existed " David Hume, An Enquiry Concerning Human Understanding

 

つまりヒュームが言う様に存在者が最初だけでなく後続組も存在するからこそ、我々は起源を探るわけだが、起源とは必ず後続組と似ていなければならず、しかし似ているということは似ているということだけを糧にそれら存在者の上位にある何かが似た者同士を創造したことになる。かくして神は誰もが理解できる視点、つまりどの主体的、個の視点にもなれないというかたちで誰もが納得する絶対的文法となるのである。

 それはかなり大雑把な捉え方である。でも詳細ではないからこそユニヴァーサルなのである。誰もが超越的視点に立てないからこそ、それと引き換えに個別であり、その時は或る地点である風景が見えるのは、その個人だけであるという事実を我々は得ている。

そしてその個別の視点の問題を反故にして、皆と語る時には神の様なそういう大雑把だけれど誰もが容易に理解し得ることだけが文法的に誰もが納得し得ることとなるということが重要である。

 

 そして誰もが相手の顔も知らずにウェブサイト上でコミュニケーションをする時、神でさえ踏み込めない個の内面やその個からこそ展開する世界で唯一の世界を知ることができない神の絶対的孤絶を、個人の絶対的孤絶と極めて似たものとして理解できるからこそ、相手がアラビア語を使用していても、本当にアラブ人でイスラム教徒であるとは限らない、単なるなりすましも、本当に自分のアイデンティフィケーションを軸にウェブサイト利用する人と混じっていても、そんなことを頓着しない様に文字上での遣り取りにだけ集中していればそれでいいという形の日常を受け入れているのかも知れない。

 

 因みに中島義道は『不在の哲学』で、誰もが自分からだけしか開けていない風景=世界の見え方を不在とすることによって、客観的視点から普遍的な位置関係を認識することで言語行為に参画しているという捉え方をしている。この捉え方からすれば、神こそ不在の哲学から導き出される大雑把であればこそ、誰もが容易に理解しえる絶対的文法とも言えることとなる。

 

 神とは一切の主観的視点も世界も持てない孤独の別名であるが、それを疑似体験し得るウェブサイト利用は、現代人にとって屈折したナルシスの反映であり、神にはなれないことは、実在であることの運命であるが、実在ではない神の孤絶も、ひょっとしたら実在者としての自己の世界の唯一性と不可交換性と一致しているのかも知れないという、それも儚い実在の在り方の願望なのである。それこそが人類がウェブサイトをウィルス攻撃が進化しつつあるのを込みで肯定している理由なのかも知れない。

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