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2017年9月

2017年9月30日 (土)

作品を作り続けていくことに就いてPart2 現代日本では大人主義でも子供主義でもない違う感性から

 日本は極め付けの大人主義的判断を言葉によってではなく、相互の暗黙の了解目配せだけで行うから、要するに理性を妄信している社会である。

 それが日中戦争から太平洋戦争へと日本人を追い込んでも、それを抑止する神との対話がなかった以上、今でも日本では相互理性を妄信することで、内輪的正義だけが罷り通り、それを批判する外側からの視点がない。外側の視点とは多分に神という発想から齎されるものだ。

 でもそれは理念的には今の日本人にも理解されることである。只日常生活的に共同体的な地方の人達の集合では今も為されているとは言い難い意思疎通方法である。

 

 理性の妄信、勿論その様なことは日本だけではないだろう。だがその反省はキリスト教社会では徹底している。だが日本には神がいないから、そういう反省を自己としてするということが日本では殆ど無い。

 重要なことはそういった大人主義的判断で自己信条を薄めるということが詩作ではないということだ。そんなことをするなら詩等最初から作らない方がいい。

 寧ろ現代では自己信条を抑制して、取り繕った形式的な詩を書くくらいなら、何も書かない方がいいという判断を多くの読者が持っている。

 

 つまりかなり最近ではウェブサイトを誰もが利用する様になったことも手伝って、大胆な試みだけに関心を示すという傾向にあらゆる読者がなってきた。

 だからかなり破天荒な内容の詩でないと却ってこちらの作為が見透かされてしまう。

 

 社会の隅々にまで行き渡っている大人主義的な理性論は、大人とはこうでなければいけないという暗黙の了解によって成り立っている。

 しかし大人とはそういう風にこういう場合はこういう風に対処すればよいと決まっていることを履行する人達だけだったのだろうか、という疑問が多くの若い世代の日本人(取り敢えず50歳以下の人達としておこう)に沸き起こっているのだ。

 と言って子供主義的な無邪気だけをいつも価値とする程単純なものではない。そういうことは既にビートたけしが映画に進出する前の段階の時代で終わっている。

 

 確かにツービート登場以降子供主義はタブーでなくなったが、ビートたけしの持つ芸能スタンスや表現者精神が極めて大人主義・保守主義と相補的だということは明らかなので、単なる無邪気で屈託なさだけで勝負することはそれ程新鮮味のある感性では既にない。

 だから大人主義の人間間の無反省的な理性主義に抵抗するには、子供主義でも不充分で、大人とか子供という役割的な認識から外れることだけからしか生み出されない何かだけを詩精神にも我々は求めている。

 

 それは、詩は素朴でなければいけないということさえ無視する態度である。つまり厄介な理屈っぽささえ容認していい場を設定しなければいけない。

 観念的なことさえ実在的空気で理解しやすい場合も現代社会ではあり得る。例えば戦前の日本人より今の日本人は英語教育によって英語的感性の表現の仕方(例えば他動詞的な捉え方等)も決して可笑しいと感じない様になってきた。又神学的な(つまり一神教的な)感性を打ち出しても理解を得られる。

 

 日本人は武家社会倫理由来のものなのか、どこかで白黒はっきりさせない奥ゆかしさ、つまり対話を回避して阿吽の呼吸的に理解し合うということが今も大衆社会では罷り通っている。だが少なくとも文章として示されることでは、そういう共同体的他者空気配慮とは違った理解の仕方をも多くが求めているところである。そこでは奥ゆかしさを会話場面で適用している様な意志疎通的な不文律とは違ったものが表現として適用されていても、充分通用する。

 

 と言うより、一切そういった詩の様なものを読まない人達が居る一方、かなりそういう修辞的な感性を味わいたいと願う人達も居るということである。(つづき)

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2017年9月29日 (金)

A Phrase by My American Friend of Mine as a Poet and My Responding MessageⅡ

Happy birthday.

Luevernon Cross

 

Thank you very much for your celebrating message for me. I got to be 58year old but I am not so mature mentally. I want to create poems forever till I die. Namely my concern and interest to life itself is questing the beauty of words and digging for strong and fecundly meaningful massage to anybody but with so simple vocabulary. For this physically healthy state is always needed, then I always walking sometimes climb a mountain and riding a bicycle. I wish also your health and happiness, happiness starts with the first health physically and also mentally. Wish our shared happiness and peace in the world!

 

Jun Nishimura

 

You're very welcome. I agree with you. We have to take care of ourselves.

Luevernon Cross

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A Phrase by My American Friend of Mine as a Poet and My Responding Message

 

In life we only regret the chances we didn't take.

 

Luevernon Cross

 

< good! by Myself >

 

 

 

There're things or chances we are happy for rather losing or not taking so much. Namely all of things we can infer to the future is not always that we are surely so aware of what happens in future, and we cannot know all of what should be. Only time or the God's intention can convey us to somewhere, of course we must decide all chances any time, but be letting anything go forward is one of very important attitude, not decide any parts of things about the future strictly.  < good! by Ms. Cross >

 

Jun Nishimura

 

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2017年9月28日 (木)

作品を作り続けていくことに就いてPart1

 集団生活とはその中で社会には色々なルールがあること、それを知る為でもあるが、そのルールも実は人によってかなり考え方が違う。

 だから集団とは、その頂点に君臨しているのが国家であり、その国家の中の様々な社会であるけれど、様々な異なった考え方が犇めいているということがリアルに実在する我々の世界の実質である。

 社会では様々なタイプの人が居るけれど、一切の闘争、一切の対立を避けていこうと考えている人達は居る。勿論彼等はいつも集まっているわけではない。否寧ろ彼等はいつも孤立している。

 一匹狼程孤立していることを自分に対して知っているので、孤立を深めさせようという悪意を人が持つと、異様に神経を尖らせる。

 つまり彼等彼女等は何処か凄く飛び抜けた侠客の様なものである。

 

 対しそういう一種の正義感とか対立や闘争を生む人や、人を孤立させようと思ってかなりきつい一言をかける人を異様に遠ざけようと無意識に心がける侠客と違って、いつも一人で居る人は、それでいて他の人から誘われて、それを敢えて断りもしないし、目立とうともしなければ、侠客が傍に居ることを避けようともしないし、その点では彼等は寧ろ本当に思い立ったなら、自分の立場とか考えを明確に述べることもするし、対立したり対決したりすることも辞さないだろう。

 つまり侠客が孤立していることと、侠客によって守られていると傍目からは見える普通の人達との違いは、侠客をそれ程信用しているわけでもないけれど、取り敢えず侠客の善意に素直に応じておこうということにしているだけなのだ。

 でも時々侠客が仲間だと任じる中に居る一人がどこか皆で一緒に居る時ではない別の時に、やはり侠客から仲間だと見做された人との間に何等かの諍いが在った様な場合、それをきつく後者の相手から何か言われたと思った前者が何か侠客へ告げ口した場合、長く冷たい後者の人への侠客からの仕打ちが始まる。

 だから他の侠客に一応つき従っている人達は、そのことをも何処かで何となく気づいていて、それが一種のミニサークル、リトルコミュニティに於けるイニシエーションであると気づいてもいるし、又それが自分には極力向けられない様にしようと心がけてはいるのだろう。

 

 これは一般社会でもあり得ることである。

 

 会社組織でも研究者の横の繋がりでも何にでもあり得ることである。

 

 孤立者は孤立したくないが為に固有の美学を自分に背負い込み、それを糧に全集団内成員を観察して、自分の正義感にフィットする他者を選別して仲間にしているのだ。だが仲間だと思われている彼等彼女等自身は必ずしも、その侠客の意図にだけ付き従っている訳ではなく、只その侠客の好意を無にしたくないだけなのである。

 でも彼等は自分で周囲に仲間を作ろうとは思ってもいない。それは面倒臭いことであり、又そこまで考えて集団に関わろうと思うわけでもないからだ。

 だから彼等こそ孤立してはいないけれど、決して集団全体の固有の雰囲気の常に中心に居るわけでもなければ、いざとなったら、その集団での付き合いから身を引いたっていいと考えている。

 だから個人主義者という意味では侠客から仲間だと思われ、色々と侠客から親切にされる彼等彼女等こそそうである。対し侠客とは完全に伝統的集団主義者である。

 

 でも作品を作るということは集団主義的な営みではない。それはどんな形式のものでもそうである。研究者や学者も個人主義でなければ勤まらない。

 集団とか組織というものは彼等にもある。でもそれは必ずしも仲間を作る為ではない。

 だから孤立している人とは、個人主義者ではなく、誰からも自らを侠客として任じられていることを自己で自覚出来ないと生存さえ危うい、真のアウトローである。だがそういったアウトローは最初に出会った時は、こんな親切な人は居ないと思えてしまい、誰もが彼や彼女の傍から離れない。

 だがやがてそのアウトローが自己陶酔固有の慣性で人に接していることに徐々に誰もが気付いていく。

 

 皆、こういうことはないだろうか?自分が好感を持って接近した他者である彼や彼女自身は凄く自分に親切にしてくれるけれど、同様に彼や彼女は彼や彼女自身を異様に尊敬する別の他者を常に傍につけていて、その者の自分への忠節をことのほか気持ち良く思っていて、自分に接近してくるどんな人にも、自分だけでなく、その忠節者をも良く思って欲しいと、接近してくる人にどことなく強制していく様な態度をとりはしないだろうか?

 私はこの様なタイプの皆から人望があり、好感を持たれるので近づいて来る全ての他者へ、その者が贔屓にする傍にその者に心酔する別の者をも良く思って欲しいと何となく強制していく姿を、色々な異なったコミュニティで発見してきた。

 だがあくまで誰もがその人望があり好感を持たれているその人にだけ用があり、その人にだけ何か告げたいし、一緒に時間を過ごしたいのに、それを許さない我儘がこういった人にはある。

 だからこの手の人達は全員侠客でもある。そして侠客に付き従う崇拝者も又侠客なのである。

 

 そういう性格の集団はきっとどの国にもあるだろう。或いは会社組織でも政治家の政党でもそういうことはあるのだろうと思う。

 只社会全体がそういう侠客とその仲間達ということだけだと、少々うんざりしてくる。

 人はやはりそういう集団の掟だけで生きているわけではない。集団の掟はこの場合明らかに法律とは異なる。だが法律より、こういった固有の情感主義が蔓延ることは決していいことではない。

 日本の場合かなりこういった情感主義が力ある組織や集団でも蔓延りやすい。しかしそれは日本だけでなくどの国にもある内情だろう。

 だから当然その情感主義を只管守ろうとする人達と、そうでない人達とが常にどの国にもあるだろう。

 

 最終的に人と人との繋がりは感情的な調整の為に皆無意識の内にしていることである。

 この無意識にしていることを独りの世界から語ることが詩であり、少し独りから離れて語ることが小説である。詩でも小説的手法を取り入れられるし、逆に小説にも詩的な独りの世界的な叙述を含めることはできる。

 創作家は侠客であってはいけないと思う。又侠客に付き従う侠客とか、その侠客の善意に絆されてもいけないと思う。ただ何処に居ても付かず離れず、と言って何処か特定の集団に全てを捧げてもいけないと思う。

 

 だが、そういう意志の強い個人主義者として生きていくことは、かなり本質的に孤独である。でも実際は侠客的人達は集団全体では少なく、大半の人達はこの個人主義者なのである。でもそのことを侠客と違って一々誰にも告げないだけなのである。

 自分自身の主張をするには必ずどの集団でもこの侠客に盾を突くことであるから、その時はかなり向こうから抵抗を受けるが、最終的には侠客は自ら弱さを誰にでも曝け出すことで、却ってその恩義から自分から進んで自分の弱さをさらけ出した相手全員を護っている(そういう気持ちで辛うじて自己存在理由を見出している)、要するに無償の用心棒なのだから、誰も侠客以外の人で侠客に盾突く人を敬遠することもしない。何故なら侠客とはあくまで私的な趣味の集い、研究者や学者の集いという、本職の仕事現場とは違う場でだけ存在する固有の中心人物に過ぎないからである。

 

 今回は集団生活に於ける個人像から創作する人の心がけに就いて述べてみた。そしてこれは詩にも小説にもなるテーマであるとも思えるのだが、どうだろうか?

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2017年9月27日 (水)

過ぎていく様に在る在り方なのだけれど

時は時刻から言えば、確かにどんどん過ぎていく様に思えるのだけれど、時刻が次から次へと刻まれて、移っていくことそのことは、何時迄も変わりはしない。

 

目盛りの上を只管滑って行く様な時の旅人の様に思える私達だけれど、皆は何時迄もちっとも変わりはない様にも思える。

 

でも確実に皆老いている。老いて死へ刻々と近づいている。

死が近づいても、死を恐れている暇なく、皆その時々で何かを考えている。

 

何時からそうしてきたかをきちんと覚えているわけではない。でも何時からか、今は何月何日で何時かと思いながら何かしている。何時の間にか、そういう考えで生きてきている。

 

全ての時の移り変わりを一切無視して何か、そのもの、そのことを考えられるだろうか?

そうやって時と共に変わりゆくことを無視して、何時迄も変わりないことだけを考えられるだろうか?

 

考えられることは何時も、どんなに時が移り変わって次の時刻になっていっても、その移り変わる時々に立ち会っているということだけは何時迄も全く変わりない。

 

だから皆自分というものが時の移り変わりを認めるものとして、それだけは在ることとして時の旅を理解している。時の旅とは、自分がその時々で、今在る、今時が何時かを知って居るということの繋がりを、今から離れて思い浮かべるから、そこに見出される。

 

でも時がどんなに過ぎても、今ここに自分の身体が在って、そこから考えているということだけは全く何時迄も変わりない。

そう考えれば、時だけがどんどんやってきては、どこかへ飛び去って行く感じもする。

 

今此処に自分が在ると思えることには、何時も身体の中から外へ向かって何かを認め、何かへ向かうということから成り立っている。

今此処に在る自分から離れられないということの内に、それぞれの時そのものはそれ程大きな意味を持たない。

 

でも何か思い出す時、あの時はと思う時には、時が移り変わって行っているということそのことがはっきり表に出てくる。

思い出さない心はきっとない。

でも思い出しながらも、過ぎ去った時の移ろい行く感じはありありとしたものではない。もう、すっかりその移り行く感じは剥ぎ取られている。

 

だって何時も僕達は今こうして着々と移り行く感じにだけ心が釘付けだからだ。

でも心は何時も此処に在るのだけれど、あの時の心とは一体何処へ行ったのだろう?

あの時の心は今此処に在る心ではない。最早思い出すことの中にしか、それはない。

 

思い出す中に在ったと思える時の過ぎ行く感じ、移り行く感じは今正にそれが過ぎ、移り変わって行っていることが感じられるから、在ったと思えるだけかも。

だって今正に過ぎ去っていく感じが少し前に対して在って、更にその都度少し先に思えたことが今となってしまっているという感じが在るからこそ、思い出せることの中だけの過ぎ去ったりする今や、移り変わって行くその時だけであることは、在ったと言えるのだ。

 

今さっき迄来るだろうと思っていて、今正に来てしまったこと、そしてその今が次の今へ移り変わる感じとは、思い出せるということと一緒になっていなければいけない。

だって思い出せるということは、思い出される過去から今となっている間が作っているのだから。

思い出せることは、思い出すのに必要な今が今感じられているからで、その今が無ければ、思い出すということそのことが成り立たなくなる、ということだから。

 

でも今もさっきもこれからも全てが全く差なく感じられているなら、それは時そのものがずっと停止しているっていうことだろう。

時が止まっているとは、心の時が止まっていないから感じられるのであって、心の時さえ止まっているなら、時が止まっていることを、止まっているとさえ感じられないだろう。

 

だって、そういう場合、皆自分が自分だとさえ思えないということなのじゃないか。

自分というものが誰にとっても全く無いことは、時も全くやってくることも、過ぎ去って行くことも、今そのものが移り変わって行くことも、全く変わりなく、何時も何時もでなく、何時もでない何時だけが在って、でもその在るっていうことが、今在るっては決して思えないことなのだから、それは世界というものが在るというのとは違うのだ、とだけ言える。

 

でも、時と世界が在るって感じられることと自分が在ると信じられることは、どうしていつも組んでいなければいけないのだろう?

 

それらがばらばらでは何故いけないのだろう?

それに答えるには、自分というものが何時もばらばらではないということだけが、正にそうだと示されなければいけない。

自分がばらばらではないということは、今もばらばらではなく、常にはっきりと移り変わっていく感じでなければいけない。

 

だから世界が一つだと思えるということが、自分がばらばらではなく、今もばらばらではなく、常にはっきりと移り変わっていくことといつも一緒だという感じだけが、世界が在るっていうことだ、と言えるのだろう。

 

世界はだから自分であり、今が移り変わって行く感じと、過ぎ去ってしまったことを何時でも思い出せることであり、思い出せる今がいつも、それら思い出される今で在ったことと、違うことだと分かっていることなのだ。

 

その分かるということも、又世界が世界であるということを示している。

世界は分からないなりに、在るということだけを皆分かっている。

 

世界はどこかに飛んで行けない。

飛んで行けるものは、だから世界ではない。

飛んで行けるものは、その時々で考えられる何かだけだ。

その考えられる何かとは、その時々のその時だけの今ということと全く同じだ。

 

その時だけの今はどんどん忘れられていく。だからこそあの時の今とは思い出される。思い出されないあの時の今とは、眠っている時だけだ。でも眠っている時だけ感じられる何か凄くもやもやした、すっきりとしないことは、今何かがすっきりしているって感じを際立たせている。

 

世界は何時もすっきりしているわけでない。

すっきりしていることは世界の中のほんの部分だけなんだ。

 

すっきりしていないこと、在るのか無いのか分からないことの全てが合わさって世界が出来上がっているということだ。

 

世界よ、君は誰からも世界なのに、一体何処に在るとも、何時在るとも言えない分からないことだらけの集まりでしかない、とも言えるよね。

世界よ、又明日も僕に何かを教え、語りかけておくれよ。

(了)

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2017年9月26日 (火)

直線・曲線/自然・人為Part3/詩学・美学・修辞学メモPart2 直線と円

〇直線的要素は全ての楕円にある。正円の中心を縦に(垂直に)伸ばしても、横に(水平に)伸ばしても、必ず楕円のヴァリエーションを作れる。してみれば正円の曲線も楕円の曲線も、直線と対応するかたちで空間的に存在理由を見出している。

 

〇又人為的な線を引こうとすると、定規を使い正確に直線を引く場合でも、気に入った形の曲線を引く場合でも、自然現象的に物理法則に従って正円が楕円になっても、又その正円状の正球が楕円状の楕球になっても、自然自体が偶然的な現象によってその都度物理法則の概ねこうなっていくべき道筋に於いて、多少の誤差を生じつつ、展開していくなら、人為的に正円、正球等を作る意図とは、その自然現象の偶然的な不可抗力を極力排除しようと試みることであるから、人為とは自然と同様に我々が我々の行為の結果を見做す時に、その出された結果を違う結果にする、つまり誤差を少なくして、実現する可能性を追求して、誤差を排除していく意図という風に見做せる。

 

〇結果に対してより理想に近いかたちで修正していく意図を人為と言っていいなら、その理想を持った修正意図のない行為は、人為的でありながら、自然の無計画性とそう変わりないものだということとなる。

 

〇人為とは自然の無計画性に逆らおうとする限りで、放置していれば必ずずれる様な事態を阻止する意図であり、計画的に理想の在り方、何かに対し、その状態を理想とするなら、その状態を望む限り永遠に固定化させようと試みることである。だからこそどんな言語でも不動点を獲得してきているその状態、文法、語彙、統語構造、活用変化、人称等の全てを、それ以外の恣意的な変更を許さない形で、つまりその都度任意で全てを組み立てるのではなく、あくまで規則通りに運用されることを是とする態度そのものである。

 規則を規則して認識し、それに遵守する行為を正当と見做すということこそ人為ということだ。

 

〇詩が書かれる場合、或る語彙の羅列の構成秩序自体が固定化された言葉の配列の形式だと見做すなら、それは詩の完成である。だから詩創造に於ける完成とは配列の固定化であり、それが一つの規則であると見做せることの容認である。承認である。

 

〇だが上記の固定化は一つのマンネリ化への警鐘でもあり、それは固定化された瞬間に解体されるべき筋合いのものである。その固定化された瞬間に解体されるという刹那的な完成こそ、一つの創作の美学であり、修辞学的な意味で言葉が横滑り的に意味を作っていきながら、全体的な詩創造の法則を生み出しつつ、同時にそれが法則の完成を常に阻み、更に法則を別個に求めるという運動を保証する。

 

〇つまり言葉の意味と、意味によって言葉の配列が作られるという事態が、語彙の意味、慣用句の意味、語彙のタイプの異なったもの同士の組み合わせから齎される意味の伝達のメッセージ的性格から、詩言語の修辞性を証明することとなるというわけである。それはあたかも正円が次元を変えると正球となり、正円が楕円へ、正球が楕球へと移行する円と直線の対応的な空間的・次元移行的拡張に、修辞的性格があることを炙り出すと見做せるなら、意味の修辞性の中に既に人為的でしかないと思われがちな言葉の営みである文学が、実は自然界法則的な何かへのオマージュでもある、ということを証明することとなる。

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2017年9月25日 (月)

詩は戦うものではない、ただそこに在るだけでいい何かだ

 社会とか国家とかとは、須らく秩序であり、闘争である。

 国家間競争、GDP値の上昇だけを目的とした国家目標、民族間の宗教倫理的正統性を巡る闘争、闘いがそこここで繰り広げられている。

 目的、理想、理念等の全てはあらゆる事物や行為を意味づけようとする。それは社会的な義務とか題目として常に正しい事とは何かという形で設定される。

 

 だが人は其処に在るだけでもよく、つまり何かそこに特別の意味を見出すこと自体に意味等あるだろうか?

 そういう風にあれこれ理屈をつけることに意味が在るだろうか?

 

 哲学者は意味や理屈を考えているが、その向かう先は秩序を見出すことよりは、恐らく秩序を妄信することへの懐疑的な眼差しを持つことへ哲学を学ぶ者を誘う。

 人は戦う為に生まれてきたわけではない。やはり其処に在る為にだけ生まれてきた。

 しかし社会や国家は政治や経済を通して常に生存を賭けて利害の対立する社会や国家と、会社等の法人は競争相手と存在理由を社会から認知されることの為に日々熾烈な他社との競争に明け暮れる。

 しかし人はその社会目的化された仕事とか責務とかとして意味付けられた正当な行為の為だけに生きているのではない。

 そのことに気づかせてくれるものこそ詩だ、と言える。

 

 TOEICで何百点以上取れれば、企業でビジネスツールとしての英語を駆使する能力を買われるという様なことと、詩を読み、其処に何か感じることとは全く違うことである。

 詩はそういった目的化された行為、そういったものはしばしばそれが組織集団、社会、国家の為に貢献できれば賞賛され、褒章を得る様な性質のことであるが、そういった権威的意味付けとは全く無縁であるべき、又そうであればこそ存在理由を持つものである。

 つまり詩とはそれがどんなに過激な描写を含んでいても、それは挑発であるよりは、何等かの魂の鎮静化が目的であり、その今目的と言ったことは、それが正義だとか理念だとかとは無縁の心の中でのみ納得されればいい、利害とは全く無縁のことである。

 

 人生でこれ以上全うに生きていくことすら嫌になってしまうことがあるが、そういう時にふっと語りかけてくれるものだけが詩である。

 

 従って皆に時代を象徴していて、その共時性を訴える様な歌詞は、その意味では私がここで言う詩ではない。

 何故なら、それらはやはり決定的に行為目的化された意義、例えばそれは大衆の息抜きとか、そういう合理的な存在理由が与えられるからである。

 だから与謝野晶子、金子みすゞ、寺山修司、谷川俊太郎といった人達が書き、今も書いている様な世界とは、行為目的化された意義とは全く違ったことなのである。

 だからビートたけしが自分が書いた小説を直木賞が欲しいとか、お笑い芸人の後輩である又吉直樹が芥川賞を取ったことを腸が煮えくり返ったとテレビインタビューでインタビュワーのアナウンサーに伝える様な態度は、少なくとも詩人としての本論に沿ったものではない。彼自身は凄い才能のクリエイターであることは認めるし、敬意を持つが、詩人とは、そういう虚栄そのものから自由でいなければいけない。

 そしてそのモラルは倫理規定的な規約ではない。そうあるべき理想の姿であるだけで、実際そういう詩人的な自由さは昔から忌み嫌われてきた。それは或る種神がかった態度だからである。そういう超然とした態度は社会の歯車になることに情熱を燃やす市民にとっては危険思想以外ではない。

 

 日本で神を信じるということ、天皇や八百万の神以外の一神教的神を崇拝することも日本では危険思想である。私は、それは個人の自由だと思うし、実質上法的には憲法で信教の自由を保障されているにも関わらず、俗世間的にはそうではない。日本ではユダヤ・キリスト・イスラム教的神観念を心に抱くことは端的に俗的に危険思想なのである。

 でも平安時代初期に今運用されている一週間(日曜から始まり土曜で一つのサイクルを終えるシステム)が採用され、明治以降昭和にかけて日本では一週間のサイクルが欧米同様より意識される様になったらしいけれど、最初はユダヤ教が世界を七日間で神が創造された、ということから来ているのである。

 

 織田信長は恐らく凄く神がかった何かを持っていた人だったのだろう。そして延暦寺を焼き討ちし一切の迷信的タブーを破壊しようとした。だから彼が彼の死後最高権力者となった豊臣秀吉の様に頂点に立っていたなら、天皇制さえ廃していた可能性はある。そういうことへ保守伝統的思考の明智光秀は耐えられなかったのかも知れない。そして室町幕府を再興する為に彼は本能寺の変で信長を討ち破ったのである。

 

 坂本龍馬は天皇制を破壊したいと願ったわけではないだろう。彼はやはり合理的に社会秩序の在り方を徳川幕府中心のものから、そうでないものへと、しかし幕臣達を永遠に葬り去るのではなく、あくまで彼等も又参画する形で薩長と協働して新しい時代を作ることだけを草案した。それが船中八策である。

 しかしその冷徹な合理思想が、それを邁進していった先の社会への不安、つまり龍馬自身が神格化されることを恐れる何者かによって暗殺されたのだ。

 だが実際彼は明治以降徐々に神格化されてきた。

 

 しかし信長も龍馬も実際は、社会目的化された秩序とか意味目的化された題目を愛し、そういった行為へ及んだのではなく、自己の内的な詩的美学にのみ忠実だったのだろう。

 だから、それが彼等の様に一定の後世へも啓示を与える様なものである場合のみ、それは意義ある歴史的遺産となるが、詩的美学とはあのキム・ジョンウンさえ抱いているものなのである。

 だから詩的美学とは、自己の理想へ向けて実現されるよりは、常にその実現は至らない侭に留まっていて、初めて人の心の安らぎになるものだとも言えるのだ。

 

 率直神的人とは居る。居るのである。

 孔子も孟子も仏陀もイエス・キリストもムハンマドもそうだったのだ。

 イエスはやはりその神の無主観性、超然とした態度と誤解されやすい無差別性を恐れられたのだろうと思う。為政者にとって俗ということを超脱した態度は危険思想と映ったのだろう。

 詩そのものを生きる人とは、そういった意味で神的人である。

 しかし詩人は、そこまで行かないで踏みとどまる人である。だから神的人へ尊崇はあっても、自らそうなりたいとは思わない。そうなりたい、と思うことそのものが既に虚栄を含んでいる。神的人間はそういう虚栄そのものを持たない。でも詩人はそれを知っていて、しかしそれはよくないと思えるだけの人である。

 

 でも詩人は虚栄に浸り込むことはないけれど、虚栄を持ってしまう人の心そのものへは客観的に見つめるだろう。

 神的人間は客観性さえ超越している。だから神的人間は弱者を癒すが、強者には恐れられる。しかし強者とは実は弱者の裏返しである。

 だから詩人はその天使(天使は往々にして弱者である)と悪魔(強者)の反転的な実在の意味を一瞬で見抜くのだ。

 悪魔は天使でもあり得た時期を経過しているからこそ、それを裏切って悪魔となっている。だからそれが権力である限り、権力自体を一切持たない弱者の天使性と実在的意味としては同一律的である

 詩人は、しかしその同一律を証明したりはしない。それは哲学者の仕事である(それはそれで必要だ)。詩人は只、その実在的意味の同一律的な在り方への示唆をしさえすればいいのであり、強制してもいけなければ、強く表現し過ぎてもいけないとだけは言える。

 

 だから詩人とは魂の巡礼者であり、魂の苦悩の旅人であり、詩そのものが戦いではないことだけを示す、だからそれは只そこに語りとか囁きとして、在るだけでいいという提示でいいのだ。

 だから詩性とは政治や経営とは別のものである。尤も辻井喬(堤清二)の様な例外的な人も居る。だから詩性は一般には弱者性であるべきだが、権力者という強者も又、別の意味で凄く弱者でもあるという意味で(だからキム・ジョンウンも弱虫なのである)、天使と悪魔の同一律、弱者と強者の同一律に存するとも言えて、何かそこら辺にも、詩創造の秘密がある様な気もするのである。

 

 付記 だから信長も龍馬も、詩そのものを文学作品としては書かざる詩人だったとも言えるし、歌詞が偉大な作曲と対で初めて素晴らしい様な意味では、詩は各自がそれを読んで心にメロディやリズムを思い浮かべればいいのであり、そこに敢えて曲をつけない方がいい場合も多いのである。

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2017年9月24日 (日)

サヴァイヴァルメモ/選択と生存戦略と世界との関係Part1

 

〇金正恩朝鮮労働党委員長は、端的に世界を我が物にできると考えている。それが誇大妄想であるとして断罪できるのは、彼の行動を制御し、北朝鮮全体の世界への脅威を阻止出来る限りのことであり、完璧に彼の意図のとおりにそれが実現されるなら、それは妄想ではない。

 

 これはキム・ジョンウン一人にのみ適用されることでなく、全人類のどの成員でも世界とは我が物である。ただその我が物であることの意味がそれぞれ違うだけである。

 

 

 

 例えば核シェルターには様々な価格があり、何億もする様な、それこそ水爆が何発もが爆発しても尚助かる様な最高級のものから、簡単にミサイル攻撃には何とか耐えられるというものまであるだろう。そしてそれを他の人に一切相談もせず利用するということは、その個々人は全てキム・ジョンウンと同じ様に自分のことしか考えていないということになる。その点では世界を自分の所有物にしたいと願う誇大妄想も、自分独りだけその核戦争の最中生存を維持したいと願う願望も、本質的に何の変わりもないと言い得る。何故ならそこに共に他者等介在しないからである。

 

 

 

〇一つはそういうキム的誇大妄想に対して自分独りだけでも(せいぜい自分の愛する家族を含めてだけであり、それ以外の一切の自分の住む地元の他人は含めずに)助かる方法を模索すること以外に、死ぬ時は皆一緒でいいと腹を括り、一切核シェルター等を購入しようとか考えず、それどころか何とかキム・ジョンウンの国際的暴挙を阻止する国際的動きに自分も微力ながら参画したいと願うか、全てを静観して、なる様になれ的に、一切生存戦略自体を立てずにのほほんと今迄通りの生活を続けていくだけだと決め込むことも可能である。

 

 後者の場合、そうしながらも、もしキムの思惑どおりに北朝鮮以外の日韓米全てが廃墟にしてしまうということが実現してしまう暁には自分が死んでしまっている時だと重々承知していながら、でも他人と共に死ぬのではなく、自分は自分独りで死ぬのだと腹を括っていることとも言える。

 

 

 

 皆と共に死んでも皆と一緒で居られると願うことと、皆と一緒に死んでも所詮自分の死は自分の死だけだとしか考えないこととは全く別の決意である。表面的に皆に合わせていても、一切自分自身のことしか考えていないということはあり得る。

 

 

 

〇例えばアメリカ合衆国による一国の世界への経済的・軍事オプション的支配自体を消滅させれば、世界も徐々に核武装を全て解除するのではないかと考えることが楽観的だと誰もが分かっていても、アメリカさえそれが出来るなら、他の国もそれが出来るだろうと考えることは、それ程可笑しいことではない。

 

 

 

 日本は所詮アメリカの思惑にその侭つき従ってきただけの戦後72年だった。少なくとも語学教育的には。しかし実際アメリカ人の話す英語をヒアリング・リスニングできたとしても、日本人自身が日々英語で思考してきたとは言い難い。そういう個人もあるだろうが、日本人自身がそれが心地良いと感じられてきたかと言えば、それは違う。一つの選択肢として英語も日々アメリカ人が使用しているのだから、自分もそれと同じ様に英語で考えれいければ、それはいいことだと考えて、それが或る程度実現していても、そのことと、日本人として日本語で考える、言語の習得に纏わる日本人固有の資源の問題は又別である。

 

 そうした時に、日本人にとって英語にかけてきた情熱の幾分かでも、英語以外の言語にかけてきていれば、その言語は少なくとも英語と日本語との言語的差異の持つ資源の差とか、言語性格の距離より近い言語、例えばハングル、インドネシア語・マレー語・タガログ語等があり、欧州の言語でもフランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語等から、ロシア語、ウクライナ語、ポーランド語等も存在している以上、それらを英語以外に習得してきているなら、寧ろその方が何かという時には有益である可能性も高い。

 

 何故なら世界には多数英語を全く理解しない民族も大勢居るし、たとえビジネス上では英語を使用していても、例えばSNSでは一切自分は自国語しか使用しないと決めている人達も又大勢居るからである。

 

 

 

 私はTwitterで6000人以上のフォロワーが居るが、その内2000人程度がサウジアラビア、エジプト、イエメン他のアラビア語使用のイスラム教徒系の人達である。彼等が私をフォローしてくれたら、私もフォローし返すが、そのお礼のメッセージがプライヴェートメッセージとしてTwitterに送信される。それを私は当初英語ではじめまして(Nice to meet you)と返していたが、全く誰も更に私へ送信し続けてくれる人は居なかった。たった一人を除いて。その人だけは英語で返信してくれて、少しだけ英語でやり取りをした。しかし私が日本にとっての国家戦略的意味で敵国とされる国家の言語、例えばロシア語も中国語も関心があるが、貴方にとってヘブライ語やペルシア語は、私が言う様な意味で、関心だけは持てるものなのか、と質問すると、彼の応対はそこで途絶えた。

 

 その後私に送信してくるプライヴェートメッセージがアラビア語と分かっているのだから、私はアラビア語で今日はを意味する(アッサラーム・アライクム)<実はアラビア語は本ブログのniftyでも使用出来ない。又メールでもアラビア語で私に送信してくる全ての宛名は、メールの管理自体が英語圏中心の観念で構成されているからか、?マークだけが羅列されて送信者の名前が表示される。ここにも英語圏的発想の言葉の壁と縛りがある>السلام عليكم(アッサラーム・アライクム) という挨拶を返信する様にした。すると確かに更に返信してくる人も居るが、私自身はそれ以上アラビア語を未だ始めたばかりなので、それ以上返信し続けることはできない。

 

 

 

 つまり世界は英語だけで支配しているつもりなのはアメリカだけであり、それ以外の英語の側から理解できない全ての言語は英語圏的発想で無視し続けているという極めて重大な言語の壁が存在するのである。

 

 そしてそれに只管合わせて日本は英語だけを最重要な言語として使用しているが、アメリカ人が日本語を習得するということは一切ない。日本自体に関心があって来日する人達以外は一切。

 

 又先程も述べた様にかなり厖大な数の英語圏以外の中東アラビア語圏の人達を含めて世界市民が英語を理解せずに生活していることも事実だ。

 

 そうした事実を垣間見る時、日本の日米パートナーシップに準じる一つの英語メインの外国語教育とビジネス使用というリアルを受け入れつつ、同時に英語圏的発想外的な日本人にとって日本語的感性を殺さず活かした侭、日本語から英語よりは近い感性の外国語を習得する自由は個人に当然あるわけだが、それを誰かに特別吹聴せずに秘かに学習し続けるとしたら、それは日本という国家を或る種巨大なシンガポールとして認識し、自らは現代の隠れキリシタン的に生きていく道でもあるわけである。

 

 つまりシンガポールは英語圏的発想の利便性あるビジネス国家にしてリゾート地であるが、現地人は公用語である英語(それは英語圏的発想でビジネス・観光として利用する全ての外国人に向けて彼等は使用する)以外にもマレー語、華語(北京語=マンダリン)、タミル語をも公用語としていて、それは恐らくそれらの通じる中国人、台湾人(ところで彼等は国家的には対立するが、個人としてはシンガポール等で相互にコミュニケーションできる。又企業も中国や台湾国内では禁止されていることでも海外では色々と可能なこともあるだろう。)、インド人、マレーシア人等とは会話しているわけである。

 

 因みにシンガポールは日本と違ってきちんと軍隊を完備している。Wikipediaで掲載されていることを参考迄のコピペしておこう。→(兵力は陸軍50,000海軍9,000空軍13,500の計72,500名。徴兵制により男子2年間の兵役を義務付けており、兵役終了後は予備役に編入され、有事の際は総動員体制となる。2006の軍事予算は100.5億シンガポールドルで、全歳出に占める割合は22.5パーセントである。)

 

 

 

 つまりここでもダブルスタンダードがある訳だから、私は日本に居て、個人的に英語圏的発想外的な発想を同時に持つことは、一つの自由であり、それは国内で起業する場合にも色々在る法律的規制自体も、多国籍企業化することで又違った展開をしていくのではないかとも思っている。雇用する従業員は一定数日本人を主体にしなければいけなくても、経営とはそれとは違う。

 

 その規制そのものに就いても、法的な現実が横たわっているだろうが、それは追々考えていくこととしよう。

 

 

 

 いずれにせよ、国策的な決定事項があったとしても尚、それは絶対的に個人を縛れるものではなく、その抜け穴もあれば、逆に国策に準じながら、政治的に少しずつ国の方針を変えていくことも可能だし、又仮に英語圏的発想しか持たない侭、延々今の日本を運営していくこととなったとしても、同時にその限定された現実の中で国際的ビジネスを英語圏的発想外的に行うことも可能なのである。だから私は日本を巨大なシンガポールと認識していくのも一つの捉え方だと思っているのである。

 

 

 

〇個人的な人生に就いてちょっと考えてみると、現代社会では必ずしも若い時に構築した人間関係を永続的に死ぬ迄維持し続けなければいけないということはない。それどころか常に数年置きに全て人的交流も仕事で関わる他者も完全に入れ替えることも可能である。と、少なくとも私はそう考える。

 

 

 

 私自身はしてきていることを死ぬ迄永続しなければいけないと全く考えていないし、全く違うことをし始め、それまでしてきたことを一切しなくなっても、それはそれで悪いことではないどころか、一つの選択であると考えている。実際に私は過去の一切を捨てて次のことをして、その次にする時にも、それ迄してきたことを全て捨てて次へと赴いたし、人間関係もその都度全て入れ替えて生きてきた。それで良かったと思うし、後悔をすることもなく、後悔しなければいけない意味も感じない。又全く過去にしたことをやめても、過去にした事自体は変えられないし、とんでもない誤りでない限り、それは二度としなくても、何等かの形で次にし始めたことに役立つこともある。

 

 勿論再度一度離れた侭でいたことに出会ったり、し始めたりすることも自由である。つまり全てが自由だと考える。

 

 又一二年先の展望を持つことは必要だが、生涯これだけをするとか、こうしなければいけないと決めつけることにも意味を感じない。確かにそういう時代もずっと長かったが、今は違う。転職者にとって可能性を持てる社会にしていかなければいけないし、そうする為には各個人が諦めるということを止める必要がある。

 

 

 

 話しは少し変わるが、今迄述べてきたことを私の若い頃のことからちょっと述べてみよう。

 

若い頃は誰しも自分に与えられている資質と食い違ったタイプの年配者に他者として惹かれることはあり得る。

 

 私は父は倫理的左翼、心情的右翼的人(エンジニアで趣味が俳句)だったが、他者として倫理的右翼、心情的左翼的な美術教師に惹かれたことがあったが、彼は達観した人生観の人で、大人とは全ての欲望を諦めるということにあるという観念だったが、私は今正にそれと全く正反対の生き方を志向している。最後迄諦めないということだ。

 

 日本では生き恥を晒すという観念は武士に仕える農民兵士にもあった様だが、その精神は会津白虎隊の最期や太平洋戦争中の「生きて虜囚の辱めを受けず」的教育迄延々維持されてきた訳だが、既に戦争が終わって72年経っている。

 

 しかし国内には今も尚右翼精神的思想信条が息衝いていて、それは今述べた私が青年期出会った美術教師(彼は九年前に肺癌で他界した。私は或る時期から晩年に至る迄一切彼と交流は無かった)が持っていた信条とか信念、それが大人としてあるべき姿だというのと似ている。

 

 しかし重要なのは個人の幸福なのであり、社会奉仕も国民の義務のその上にあるべきなのである。だから誰もがモンスタークレイマーになっていいと言っている訳ではないが、必要な請求はしていくべきなのであり、慎みとか遠慮しなければいけないと達観すべきではない、と言いたい。

 

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2017年9月23日 (土)

猫が通る

猫が通る。

とぼとぼと。

でもとてもしっかりと

決まりどおりに

前肢と後肢を左右交互にして。

猫は和んでそうしているのではない。

でも猫も時々は和む。

喉をぐるぐると言わせながら。

 

 

猫が通る。

僕が偶然目にとめただけだ。

でも猫は偶然そこを通った訳じゃない。

でも猫を見かけられることは平和だ。

猫は心の平和、心の和みだ。

猫の歩きに悪意はない。

でも走りは違う。何かを捕まえるためだ。

 

人にとって猫は何か特別な友なのでもない。

でも欠かせない友だ。

居なくても特別悲しくもないけど、居ればほっとする。

そして長年付き合って、或る日突然居なくなると、

心にぽっかり穴が開く。

 

 

猫が通る。

それをふと目にしても珍しい出会いとは思わないけど、そんなことが一切無くなったら、やっぱり寂しい。

 

誰に教わるでもなく、前肢の恐らく利き肢の上を舌で舐め、それで顔を拭く。

どうしてそうやって舐めて拭くのか、聞いてみたい。でも君は答えてはくれない。

だから君が通るのを横目で見て、

ほっとするなら、別にそれだけだっていい。

(了)

 

❄迄は9. 21記、その後と修正は2017. 9. 22

 

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2017年9月21日 (木)

「完全に矛盾する」という言い方は矛盾してはいないか?でもPart1

 世界の様々な言語を見てみると、どの言語にもその言語固有の或る厳密さがあるが、同時にその厳密さを維持するために、別のことでは凄く緩く設定されているということがある。

 

 同じことは言い方でも、それは言える。

 

 例えば「完全に矛盾する」という言い方は、よく考えてみると確かにどこか可笑しい。何故なら「完全に」という副詞は、完璧で無矛盾であるという意味であるにも関わらず、矛盾するという意味で接合させると、全く相反する事態を接合させていることになるからである。

 

 しかし、では完全に無矛盾な言い方、つまり完璧で一切可笑しいところのない言い方というものが仮に存在したとして、それを言った場合、我々は意志疎通するための意味として、或いは意思疎通するための言い方として、その言葉の連なりを我々は自然に理解することができるのだろうか?

 それは矛盾というものだけを一切排除した一つの完全に完成された言い方の結晶の様な、その言い方の本質だけを纏めた何かかも知れないが、それはきっと我々の日常的な(それはかなり受け流すということが重要な要素として介在している)言い方としては甚だ不適当な言い方となるであろう。

 それは丁度数学者とか理論物理学者が考えた数式の様なものになってしまうだろう。勿論それはそれで価値のあることなのだけれど、日常的な言い方とは、そういうことではないということが今ここで私が言いたいことなのである。

 

 だから「完全に矛盾する」という言い方もその一つだと言い得るのだ。

 つまり「完全に矛盾する」という言い方は、それ自体は確かに先程述べた様に完全に矛盾する。しかし今私が言った様にそう流れで言っても、ちっとも我々は少なくとも不自然には感じない、不自然には聴こえない。そのことの方が重要なのだ、少なくとも言葉とか言語活動とか言語行為ということに於いては。

 

 してみれば、我々は意味の、物事の本質の構造にだけ準じた結晶の様な数式に自然さを感じるのではなく、逆に真に突き詰めていけば矛盾しているにも関わらず、日常的な流れの中では、その本質的には矛盾した言い方の方に、寧ろ寛ぎを感じ、それを瞬時には理解するということが我々の日常生活ではあり得るということになる。

 

 だから、それは世界の無数に存在する言語、それは四千ともそれ以上とも言われるけれど、それぞれの言語ではその言語が形成されてきた何等かの根拠があるのだけれど、そういう文化的・生活様式的実態に即した、或る固有の事情に対しては最も巧く適応しているけれど、そうでない、その文化的・生活様式的実態にとっては、さして重要ではないことに関しては、極力イージーに、つまりテキトーにしている、つまり緩く厳密ではないということを意味する。

 つまり或る事態に於いて凄く厳密であるということは、別の事態に於いては凄く緩く、非厳密であるということである。

 

 シナ・チベット語族の一つである中国語は、孤立語と呼ばれるグループに属すが、これは動詞が現在形、過去形、未来形で英語(印欧語族)の様な屈折語や、日本語(アルタイ語族)の様な膠着語の様に活用変化を一切きたさない。そしてきっとそこには、そういうことに於いては出来る限り緩く、非厳密にしておいた方が自然である何等かの理由があったのであろう。それはそれ以外の事では凄く厳密にしなければいけない理由があったからこそ、その点では緩く、非厳密にしておく方が無難であった、自然であった、ということが言えるのだろうと思う。

 

 と言うことは、確かに世界に存在する無数の言語は、それぞれは完全にばらばらである(この言い方も厳密に検証してみると、確かに可笑しいのだけれど、こういう文脈の上で言う事は、全く不自然には聴こえない)けれど、たった一つだけ重要な点ではどの言語も厳密なのだけれど、それ以外のことではそうではない、だからそれこそが全く相互に全く逆の構造の言語でも共通する、普遍的な性質なのである、と言えるのではないだろうか?

 つまり或ることに於いては凄く厳密である代わりに別のことに於いては凄く緩く厳密ではない仕方にしておく、ということに於いてはどんな構造の言語でも全言語で共通する、という普遍的性質がある、ということである。

 

 それは全てに於いて厳密で、全てに於いて正確である様な言語は、日常的使用には耐えられない、ということである。

 

 つまり、それはだから先程述べた様な数学者や物理学者の何等かの自然的法則の発見の本質を凝縮した数式の様なものになってしまい(それは一種の芸術作品と同じである)、それ自体は凄く価値あることでありながら、日常的使用という観点からは、いささか不具合なものである、と言い得ることとなる。

 つまりこの二つは全く別の用途と存在理由をもったもの同士だということである。

 

 それは日常的使用に耐えられる言い方というものは、厳密に矛盾を全的に排除したものなのでは決してなく、寧ろ或る観点に於いては厳密にしておかなければ絶対にいけないのだけれど、別の観点に関しては、凄く緩く非厳密にしておいた方が得策であり、且つ自然であるというものに対する見方を、我々が持っているということを意味しているのではないだろうか?

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2017年9月20日 (水)

夕陽と月

或る日夕陽が天に控えている月に尋ねた。

君は何時も空が暗くなってから出てくれるけれど、君が地上に咲き乱れる秋の花を照らすには君の明かりは少な過ぎる。もっと煌々と照らしてくれるってことは期待出来ないのかな、と。

 

すると月はこう答えた。

うん、そうした方が確かに夜になっても、よく花が見えるよね。秋桜も曼殊沙華もよーく、その黄色、紫、赤、白が見えるかも知れない。

でも、ちょっと薄ぼんやりしているから、その仄かな明かりの下で花の色が映えるっていうこともあるからだよ。

僕ももっと煌々と全てを照らし出したい気持ちもやまやまなんだけど、そうさね、太陽君の面子を潰す訳にもいかないしね、夜には夜の控え目な明かりが却って皆には歓迎されるのかも知れないよ、だからか、僕はこうやって薄明りに徹しているんだ、こういう風にしか照らせないんだよ、僕には。

 

夕陽が月に質問をしたので、今度は月がこう質問した。

君が僕に聞いてくれたので、僕も君に一つ質問させて貰うよ。

君がそうも短い間だけ太陽が隠れる間強烈に地平線を照らし出しているのに、やがて地平線を真っ暗にして、最後の輝きを振り絞り、それを終えると静かに立ち去って、周囲を真っ暗にしてくれる。だから僕は次に薄明りを照らす為に出て来られるのだ。

でもさ、余り夕陽が美し過ぎると僕の明かりの印象が薄れてしまうじゃないか、だからもう少し後で僕は皆の前に出たいのだけど、君が退却した後直ぐに出なきゃなんないことも多いんだ。

君が美し過ぎた後、一体僕はどうやって自分の美しさの面目を保っていけばいいんだい?

 

すると、夕陽はこう答えた。

いいんだよ、いつも君が煌々としていず、控え目だから、仄かに花弁に君の明かりを浮かべた花が美しく見えるんだから、さっき君はそう僕に言ったじゃないか。

そう夕陽が言ってくれたので、月は

そうだったよね。でも君がそう言ってくれて、何かほっとできるよ。

本当は僕もいつもこんな弱い光でいいんだろうかって思うこともあるからさ。

だから月に何度かは僕のよりくっきりと見せてくれる空の暗さも天が作ってくれもするんだよ。そういう時は僕だって君に負けずに地上の人達の目を楽しませてあげられるんだよ。

 

そう月が言うとすかさず、夕陽は

そんな控え目でいないで、俺が居るからお前が美しく見えるんじゃないかってもっと君はデーンとしていなきゃいけないよ、と言った。

すると月は

嬉しいよ、君だけだよ、そう言ってくれるのは、って月は夕陽にそう言った。

 

でも月が薄ぼんやりとしていると、やがて夜明けの朝焼け君が登場する。そこから又一日が始まる。

月は朝焼けに主役を譲って静かに次の日の夜を待つ。

夕陽は朝焼けが登って来てくれるから、やがて自分も出番を持てる。

 

 

そういう皆がそうやって朝焼けを待っていたら、その日はいつになく曇っていて、朝焼けはかなり薄ぼんやりとしていた。

すると、そこに一筋の奇妙な得体の知れない光が通り過ぎて行った。

それをそろそろ引っ込もうとしていた月も、その奥で一日の太陽の光の隠れる時迄待っている夕陽も、その光の筋の行く方向へと目を移して見届けた。

その日、地上では多くの人達がどよめいていた。

それが地上に落ちることを不安気に想像しながら、大勢の人達が右往左往した。

 

地上の人達は暫く普段誰も目にしない得体の知れない奇妙な一筋の光に就いて誰もが語ったが、やがて時間が経つ内に、違う話題に花を咲かせていった。

そして地上の人達は又美しい夕陽と、控え目な月の明かりを愛でて美味しいお酒を飲んだりした。

もうあんな変な光が通り過ぎてくれない様に、心の奥底では願いながら。

 

夕陽は自分の美しさを地上の人達が認めてくれることを今更ながらに感謝した。

月も、夕陽と共に、自分の出番を地上の人達が静かに待ち侘びてくれることを感謝した。

 

 

 

山で餌を食べて満足していた狸が、月明かりに挨拶しながら、寺のある方向へととぼとぼと歩いていた。

 

その時傍に蝮が通り過ぎた。そして蝮はその日が余り明るい月でなかったので安心していたのだけれど、狸に見つかって狸に肢で蹴飛ばされ、一目散に叢へと逃げ延びて行った。

でも狸も蝮もそういうことがあったと直ぐに忘れた。

 

確かに月だけがその光景を目にしていたかも知れない。でも夕陽も朝焼けも、きっとそれは知らないだろう。

 

そしてそこにその日の夜狸と蝮が居て、そういうことがあったことを、地上で皆と共に食事したりする人達は何も知らない。

皆、そんなこととは関係ない違うことばかり話題にしていた。

 

(了)

2017. 9. 20

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2017年9月19日 (火)

保守の時代から考えるPart4 世界中が徐々にダブルスタンダードにならざるを得ない

 アメリカは概ね終身雇用制の日本と異なり、どんな職種でも生涯今より良い条件を求めて職場を転々とすること、転職することが当たり前の社会である。そういう一般的な通念をベースに全国の国土が計画され、政治も経済も運営されている。同じ様な事は世界ではそう見当たらない。

 

 例えばロシア人は欧米人(日本人は言うに及ばず)と比べても極端に平均寿命は短い。50代で大半の人は亡くなる。風土的にも日本やアメリカの様に豊富な生産量を農業生産物で期待できない。中国も、全てのエリアが肥沃な大地であるわけではない。従ってこれらの国々が欧米や日本や韓国の様な資本主義に完全に移行することはない。そういう風に無理してしても、それは丁度日本の社会システムを完全にアメリカ式にできない様に絶対に、反発が起きる。だから世界とはそれぞれのエリアで異なった歴史と風土があるから、その文化や生活者の感情を変えることができないので、必然的にどこかの国のモデルに世界を合わせるということは不可能なのである。

 

 日本人は戦後72年、アメリカの資本主義のビジネスモデルを経営者達は巧く適用させて成功してきた。しかし実際今の世界経済では台湾やシンガポール等がどんどん発展してきて、自動運転システムも日本より早く実現させるのではないかと見られている。

 本当に先見の明のある経営者は既に東南アジアや南アジアや中東を視野に入れてビジネス展開させようとしている。だから必要となる語学もビジネス英語以外の多くの現地語を習得している人は少なくないだろう。

 日本のビジネス成功者達はそれぞれ自分自身の故郷を日本に持っていて、そこでは郷土全体の常識に合わせて生活し、しかしビジネス業務的には東京のマンション等を所有し、海外リゾートに別荘等を持っているだろう。

 

 つまり彼等はビジネス的な展開やその戦略と、日本に於けるホームでの寛ぎを分けて考えているに違いない。海外リゾートで別荘や広い土地を持てるなら、日本では昔ながらの日本人全体の為に社会主義的精神に彩られた地方生活を満喫したっていいというわけだ。

 つまりアメリカ式ビジネスモデルはグローバルエコノミーの上では成立していて、それだけがスタンダードでも、日本国内ではそういった通念がその侭通用するわけではないから、日本での日本人一般と合わせることと、自らの資産の管理やレジャーとを分けてダブルスタンダードで生活しているだろう。

 

 だからこう言える。世界はどんなにグローバルエコノミーがアメリカ方式の資本主義に準じても、バチカン市国の様なタイプの国家やブータンの様な社会主義的職業分担の王国が無くならない様に、全てがアメリカ的になるということが絶対にあり得ない以上、今示した日本の世界経済で成功した経営者の様なダブルスタンダードをどの国の市民も採用するだろう。

 だから常に個人一人からすれば、グローバルエコノミーとそうでないホームでの常識という二つのスタンダードがあり、その間には極度の隙間があるということだ。

 それがないのはグローバルエコノミー自体で成功している富裕層のアメリカの経営者達だけである。彼等にはダブルスタンダードによる二つの相異なった価値観の間の隙間はない。勿論それ程グローバル経済での成功者ではない一般アメリカ市民は別である。

 

 だから世界はきっとかなりこの二つの間のギャップが顕在化して展開していくだろうと予想される。世界の軍事防衛戦略的に世界中に基地を保有するアメリカと、その軍用的ニーズを巧く利用して利潤を上げようとするアメリカ人以外の経営者、そしてどの国にも大勢居る地元から生涯仕事的にもレジャー的にも大きく離れて暮らすことはない一般市民との三層の人達の意識のずれだけがずっと並行して存在し続けるというわけだ。

 だから科学技術の啓蒙や教育の振興の為にはスタンダードなビジネス言語である英語以外に、その後進の発展を促進させる必要ある地域の地元の言語とをどんなビジネスパーソンも技術者も教育者も両方把握しておく必要に迫られるだろう。

 この様な二重の戦略は今後世界のどのエリアで生活しても、どんな市民にも必要となっていくに違いない。それは経済発展の為のビジネスだけでなく、文藝やサブカルチャーでもそうだし、学術研究分野でもそうである。

 

 ダブルスタンダードで全ての個人が世界を見ていく限り、世界の危うい均衡が極度に崩壊することはないだろう。アメリカ人の精神に巣食っている空洞化的な現象はアメリカにのみ固有のノブレスオブリッジ的なメンタリティーである。だがアメリカは遠からず白人だけの采配では一切何も動かない国家へ移行するので、今のアメリカの保護主義は一過性のものだと思われる。

 つまりいずれアメリカ人自身が今迄は不要であった今迄述べてきたダブルスタンダードを誰もが持たなくてはならなくなっていくからである。

 そしてかつてアメリカが隆盛を極めた様な事が今後、フィリピンやインドネシア、マレーシア等でも実現していく様にグローバルエコノミーは展開していくに違いない。そういう時代の前夜の不安が齎すものこそ現時点でのナショナリズムの保守化傾向である、とそう位置づけることができる。(つづき)

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2017年9月18日 (月)

日記的記述EP 日本人として生まれたのだが、それだけが自分ということではない/詩を発表することに就いて

 日本の社会構造は、一つには個というものを暗黙の裡に絶対に主張しないという規約が不文律的に(つまり感性的に)前提されている。

 だから出世する人は、一切の自己主張をせず、上位者の言うことを言われたとおりにする人である。まずそういう態度でいれば、信用され、仕事が任される様になるということだ。

 

 だから日本人にとって正義とは組織集団自体が安泰で維持されていくことであり、その主体は各人間の平和である。

 しかしそこには一切個というものは顧みられない。何故ならあくまでどの個人もが安泰であることだけが前提されているからであり、衝突ということが全て悪しきことであるからである。自己主張とは概ねこの国では、異質な行為なのである。あってはならないとまでは言い切らないが、余り最初から、そうでは暗黙の倫理(明文化されていない倫理)として、そういう人は好感情では迎えられないのである。

 

 つまり日本では対立ということ自体が悪なのである。これは一種の精神的な意味で原始共産制的感性であり、社会主義的正義の不文律である資本主義社会の持つ性質を持ちながら、それはそういった制約が精神的に課されているのだ。

 つまり倫理的に皆暗黙の裡に平等であり、努力して大きな経済的力を持った人が凄く大きな権力を余り持つことは好ましくないから、遠慮すべきということがあるのである。

 だから日本は完全に非階級的な資本主義社会であり、自由主義社会なのであり、それはかなり半社会主義的自由主義なのである。

 

 それは日本に一神教的神と自己との倫理的対話が宗教教義的に全く不在だからである。

 と言って多神教文化である仏教の特定の宗派を個々人が信仰しているわけでもない。だから神道は相互の成員の安泰を願う衝突回避的な守り神の一つの象徴的な実現であるに過ぎない。

 

 神ということは、神から個々が異なった使命を与えられているという意識から信じられていることというのが欧米やイスラム教の世界の倫理である。勿論キリスト教の辿った歴史とイスラム教とでは大きな性質的差異はあるが、それでも神と対話するという習慣ではこの二つの宗教文化圏では共通している。

 

 一方、日本人は自然観が季節とそれによる衣替えとか、そういった慣習的なことと密接である。この点は四季の差異というものがそれ程多くあるわけではない中東や南アジアとは異なっている。

 だから日本人の場合季節を与えられている自然自体への感謝の念が先立っていて、それは言ってみれば自然神だけが意識の上で立ち上がっていると言っていい。

 だから、日本人にとっての神とは倫理的な神ではない(そんなものは一切ない。だから年配者の訓示だけを聴いていればいいという建前が自然に<不文律的に、暗黙の裡に>出来上がっている)。

 日本人とは即ち創造の神ということの絶対的不在、そういった思考と概念自体が形成されていない固有の文化圏にあるのだ。

 と言って韓国の様に儒教倫理が徹底しているわけでもない。中国の様に道教的感性も携えているわけでもない。

 

 でもそういう日本人として生まれた自分も、では日本人という枠組みだけで思考しているのかと言えば、そんなこともない。勿論何か得体の知れないグローバルなヒューマンというわけでもないが、と言って日本人という集合体の成員であるという意識だけで生存しているわけでもない。

 だから一神教の神の観念も、宗教倫理的な理念も自分達が作ってきた文化であり倫理ではないが、そういう違いとして彼等の気持ちを理解はできる。

 

 自分は詩を書いてきた。それは或る部分では日本人固有の自然観も反映されている。でもそれだけでなく、キリスト教やイスラム教の一神教的倫理から語ることもあれば、元々そういった異文化に惹かれて、その感性で書いてきている詩も多数ある。

 それが果たして、例えば短歌(和歌)の伝統のある日本人に理解して貰える様な、つまり一般の日本人の人達に果たして詩であると認知して貰えるかどうか、ずっと不安を持ってブログ等でアップしてきた。

 しかしかなり自分では日本人の四季観とか自然的感性とはずれた内容の詩を書いても、それなりに読んでくれていることも多いということが分かったので、その点では意外と日本人的な詩ということを意識し過ぎなくてもいい時代になってきたのだな、とだけは思える様になった。

 どこかでは詩人が持つべきであると暗黙の裡に信じられている素朴さとか、純情さとかを一切無視して書いてきている部分もあるが、それをも詩でもこういう態度があってもいいと思う人も、全く居ないということもない、ということだけは分かってきた気もするのだ。

 

 果たして自分が作っている言葉の羅列が詩文学であるかどうかさえ、完璧な自信があるわけではないのだ。

 でもどんな詩人でも、こういうものが詩であるという確固とした保証を持って、それを示しているのでは、きっとないのだろうとも思えるのだ。

 

 つまり人は自分がすることはどんな、それなりにその時々で自信のある仕事でも、それは必ず半信半疑的な自己の示していることへの懐疑と、それでも尚その懐疑を吹っ切って、これでいいのだ、と開き直る部分とが常に共存していて、その表現を示すということが、どういう反応を得るかを、半分はわくわくしながら、でも残りの半分は不安を持ちながら、発表しているのではないだろうか?

 

 そのことに於いては、偉大な詩人として歴史に残っている人も、そうではない人でも、殆ど誰からも知られていない様な人でも、同じなのではないだろうか?

 そういう常に暗中模索的な自信と不安の共存が立ち上がっているということが創作をし続けるということなのではないだろうか?

 

 確かに日本社会は相場主義的な暗黙の横の協調と連帯が重視される社会なのだが、そういう慣習的なことへ反発を持っている人達も老若男女に関わらずいるのだろうとも思える。

 それは私の様な誰か特定の自分にとっての師匠とか尊敬する詩人とかグールーとかを持って必ずしも書いてきているわけではない、我流の詩人に対しても、それなりに興味を示してくれるブログの来場者も少なからず居てくれるからである。

 

 勿論、好きな詩人はいる。童話詩人の金子みすゞであるし、与謝野晶子である。寺山修司も好きな作品がある。又海外の人ではウィリアム・ブレイクにも凄く惹かれるし、エドガー・アラン・ポーも凄い天才だと思えるし、ホイットマンやディキンソンも惹かれるし、バイロンも凄いと思えるし、ボブ・ディランの歌詞もいいと思える。

 

 でも、それと自分が詩を創作することは、やはり常に少し違う。勿論心の中のどこかでは繋がっているだろうけど、その繋がりを意識することは余りない。

 ウォーキングと登山とでは足の筋肉の使い方が違う。サイクリングも又違う。でも同じ身体で行うことなので、やはりどこかでは関連している。そういうことと同じと考えてもいいかも知れない。

 

 つまり言葉も、誰か自分以外の人が使うことがあるから、自分も使うのだけれど、それは誰にとっても同じ意味が通じるということでありながら、誰にも同じ様に自分の側で伝えたいことが伝わるかということでは、そういう部分もあるけれど、そうでない部分もあるし、あり得るということだからである。

 つまりそこに言葉を使って何か表現して発表することの意味を私は感じているのである。

 

 だから、それは~だから~になる、という様に予測が完全にし切れないから面白いし、遣り甲斐もある、と思えることでもあるのである。

 そして、そう思えるのは、~をすれば、~という反応が返ってくるだろうという予測も全く無ではないから、成立している冒険とかチャレンジでもある、とも言い得るのである。

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2017年9月17日 (日)

保守の時代から考えるPart3

 日本は戦後敗戦国としてアメリカ合衆国の指導の下憲法を制定し、その流れで国防的にも日米安保条約を締結し今日に至っている。従って日本の国民へ植え付けられたモラルはあくまでアメリカが正義である。それを疑うことすら自由にはできない様に教育されている。

 勿論民主主義国家であり、自由主義を標榜するアメリカが基本に世界的にあるということは事実だが、世界にはアメリカ式の国家の方が数は多いということはない。バチカン市国等は全くそれとは違うし、ブータンの様な国家もそうである。つまり世界標準と言うより、アメリカ合衆国の外交的軍事的な事情を優先して世界標準が設定されてきたというだけのことであり、国連や国連の常任理事国(アメリカ、ロシア、中国、英国、フランス)や国連で承認された公用語は現在、英語、中国語、フランス語、スペイン語、ロシア語、アラビア語であるという事も、その流れで決定されてきたことに過ぎない。それも戦後の連合軍の戦勝国を中心とした観念を採用しているに過ぎない。

 

 それはしかしあくまで世界の規約ということでしかなく、日本では公用語のいずれも通じず、日本語だけを利用している。又日本人の生活習慣とアメリカ人のそれは著しく異なっており、同盟国関係にあると言っても、相互に相互の生活感情を理解しているとは言い難い。

 又日本で生まれた以上、日本語の世界観と、生活習慣や死生観から抜け出ることは誰もそう容易にはできないし、又どんな行動も日本人同士で考え企図するということから食み出すことも困難である。

 つまり会社員として生活するにしても、公務員として生活するにしても、いざとなったら、つまり日本が国家として危機に陥った場合、日本人同士で助け合わない限り、他のどの国民も日本人個人を救済してくれるわけではない。

 だからナショナリズム自体が余り加熱することは誰もがいい事だと思わなくても、所詮、自国、つまり国籍を誰もが持っている以上、同じ国籍を有する者同士の結束ということが最も重要であるからには、国家というものが存立する以上、それは戦争等になった場合、自国民同士では結束し、敵国とは対峙していくということが運命付けられているのだ。

 

 只日本は今迄戦後72年そういう危機に立たされて来なかったという事だけである。しかし今は違う。そしてそれはやはり日米安保条約その他の日本とアメリカの国家同士の締結と、中学生から英語を日本人が習わされるという規約から引き起こされている。つまり日本人の頭から爪先迄、全て思考することがアメリカ指導の下に成立している以上、日本人とアメリカ人以上に民族的な生物学的・生理学的なDNAの近い民族が他にあったとしても、それは顧みられることはない。

 

 しかしアメリカ人自身はそうではない。アメリカ人は英語以外の言語を習得するとしたら、それは個個人が持つ自分自身の祖先の民族の言葉であり、彼等は日本語を習得するわけではないし、日本人や他の多くの世界の国民にとって自国語以外英語が必須である様に、何か違う言語を習得するわけではない。

 この不平等はかなり決定的である。だから日米同盟とかパートナーシップと言ってもかなり脆弱な一面を露呈しているのだ。事実英語さえきちんと理解している国民はかなりエリート階級の一部の一割にも満たない人達だけである。外交や経済的な貿易等の交渉を業務とする人達だけであろう。

 つまり本当の意味で現代の世界が平等に成立しているわけではないからこそ、イスラム教系原理主義的なテロがなくならないのである。経済的な意味で貧困な国家は多数存在する。そういう国の人達から見れば、日本人の生活レヴェル等夢の又夢であろう。

 

 だから北朝鮮を今の状態迄追い込んできたのはアメリカでもあるし、日本でもあるのだ。三十八度線で分断され大韓民国と分かたれた時点で、以北の人達にとっての歴史は韓国とはまるで違った経緯を辿った。彼等は当時のソ連に支援を受けてきた以上、アメリカも韓国も日本も最初からずっと敵国だったのだ。

 そういう北朝鮮が何としても核保有を世界へ認めさせたい気持ちを持っていくこととなったのかということは、そもそも国の成り立ちからしてまるで我々ともアメリカと共に戦った韓国とも違うということを考慮に入れなければ理解できるものではない。

 その意味では一切そういうレヴェルで対話することができなかったことが、一番相互にとって残念な事実である。

 

 現在の日本の尖閣列島へ海洋進出する中国漁船の問題も同様である。実際あのエリアには人は住まず、日本の排他的経済水域(EEZ)と言っても、それも又アメリカ主導型の秩序であるに過ぎない。日中が胸襟を開いて、そのことを討議していきたということもない。

 その不満はアメリカ以外のかなり多数の国に胸中にあることなのである。それを一切無視してアメリカ主導型の規約だけを正義とし続けていくことが果たして今後日本にとって唯一の正義であり、国益へ繋がることであるかどうかも含めて今後日本人は考えていくべきであろう。そういう論議くらいは自由にさせておく必要がある。

 

 領空もそうであるが、全ての規約がかなり多数アメリカにとって都合のいい様に設定されてきたことだけは事実であり、それが遠因で北朝鮮を今の様な状態へと誘ってきたということは紛れもない事実なのである。

 この観点は今後も重要なので一つ一つ考えていくことにしたい。

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2017年9月16日 (土)

『散歩する侵略者』が描いている現代社会の人の生存と愛に就いて/長谷川博己の時代

 現代社会では非常に長谷川博己である。この言葉だけがまず本作品を鑑賞している上映時間中に思い浮かんだ。

 

 長谷川博己こそ現代社会の負の全てを我々全員が立ち会っている姿を最大級にシンボライズさせている役者だと思うからである。それは他のどんな主役級の役者にも出せない所作であり、表情であり、雰囲気なのである。

 

 勿論本作品の主演は長澤まさみである。夫が或る日地球への侵略者にウイルスの感染の様に洗脳され、元の夫(松田龍平)とは違う人格になってしまっていて、だが記憶だけは以前の夫の侭である部分もある様な奇妙な生活を共に送る妻の母性を演じる長澤こそが本作品の主役である。

 にも関わらず本作品は犠牲になる人間の側の代表格として水先案内人であるジャーナリスト桜井を演じる長谷川が最も強く印象づけられる様に演出されている。

 最終的に聖母の様な妻長澤を宇宙人に感染された侭生涯添い遂げようとする松田龍平の決意で終わるこの映画では、長谷川演じる翻弄されるジャーナリストという立場の現代人が、夫婦愛の進展を描くシークェンスと別個に設定され並行して話が進み、途中一部だけこの主役の夫婦と絡むという筋立ての中で、却ってその映画のメッセージの結論を意味づける為にのみ登場しているにも関わらず、その存在感は他の役者を圧倒している。

 だからこの映画は或る意味で完全に長谷川博己の映画である。

 

 長谷川は近年、『進撃の巨人』シリーズ、『劇場版MOZU』等で猟奇的イメージを印象づけていたが(『シン・ゴジラ』はゴジラ本体が主役なので、少し違う)、本作品で完全に一つの長谷川博己スタイルを確立したと言ってよい。

 昔アンジェイ・ワイダ監督『灰とダイヤモンド』(1958年)という名作があったが、あの映画でサングラスをして主演として登場した役者ズビグニェフ・ツィブルスキー(39歳で事故死したので、ポーランドのジェームス・ディーンと呼ばれた。)を本作品の長谷川博己は感じさせる。恐らく長谷川自身もかなり意識して、特に非業の最期を遂げるシーンでは撮影に臨んだに違いない。

  

 本作品のメッセージでは宇宙人自体が只ウィルスであるか、他の惑星から飛来したのかなどの説明は一切ない。だから本作品は日常から非日常へワープする世界の様相に意味が出てくる。

 

 この種の映画は近年増加している内容の傾向である(私は勝手にサヴァイヴァル映画と呼んでいる)。この映画より先に長澤が助演として印象づけた映画『アイアムアヒーロー』(佐藤信介監督、2016)での母性的演技の総決算が本作品で見ることができるが、その映画も基本はサヴァイヴァルがテーマであった。

 

 俗的解釈を許して貰えれば、原作者・前川知大の意図とは関係なく、本作品で描かれる自衛隊等が出動して国家が非常事態となる様は明らかに現代の北朝鮮のミサイル発射や核実験とダブって見えてくる。又一日の内に数十万件にも及ぶハッカー攻撃に晒されている政府や企業といった現実も彷彿させる。或いはインターネット自体が心を持ち人類の行動をコントロールし始めているとさえ言える現代社会の異常性をも連想させる。

 

 

 日本という国家は最初昭和初期に金融帝国主義に邁進し、天皇の御旗で大陸侵略を陸軍中心に正当化し、日中戦争から太平洋戦争へと突き進んだ。

 そして二発の原爆が広島と長崎に投下され、アメリカ合衆国へ無条件降伏をして進駐軍に沖縄丸ごとの統治と、日本政府管轄として占領され、占領統治的現実の下で憲法が草案された。だから国体的な建前としては日本は平和主義を標榜してきたのにも関わらず、実質的に朝鮮特需、ヴェトナム特需で日本は経済大国へと伸し上がった。つまり日本の会社組織自体は実は日中戦争へ突き進んだ陸軍と、その精神性は変わりない本質を維持し続けてきたのだ。

 会社員の意識は陸軍的男尊女卑的連帯という意味で戦時中も戦後も全く変わっていない。だからこそ電通の高橋まつりさんが過労自殺したのだし、東芝が企業ランクを落としてしまったのであり、シャープが台湾企業ホンハイに敗れたのである。

 

 そういった日本の悪しき男社会の旧陸軍的性格が本作品で多く登場する自衛隊の様な組織集団や警察(それらの正体が本映画では一切解き明かされない侭終わる)で象徴されているのだ。これは1955年生まれで60年安保以降の日本社会の意識の変遷と、それにも関わらず組織集団の本質の変わりなさをずっと観察してきた映画監督黒沢清にとっては極自然な表現だっただろう。長谷川演じるジャーナリストはその立会人というポジションとなっている。

 

 その意味で本映画は三年前の『岸辺の旅』の浅野忠信(もう死んでいる設定)の演じる夫と、その亡霊と共に旅する深津絵里演じる妻、昨年の『クリーピー 偽りの隣人』の西島秀俊演じる刑事の夫と、竹内結子演じるその妻の夫婦愛の一つの結論ともなっている長澤まさみと松田龍平の夫婦愛を結論付ける為の大きな現代社会という背景=仕掛けとして黒沢が設定した長谷川演じるジャーナリスト桜井は、つまり我々一般市民自身なのである。

 

 本作品では多くの脇役が色を添えている。長澤演じる加瀬鳴海の上司としてセクハラ的な態度を取り、宇宙人に心を乗っ取られた夫真治に復讐される中年男鈴木社長に光石研、ひょんなことから松田演じる真治が散歩する道筋で出会う一般市民に満島真之介、映画冒頭に登場する宇宙人に心を乗っ取られた少女立花あきら(恒松祐里)の入院先病院の護衛刑事役にアンジャッシュの児島一哉、長澤演じる鳴海の妹明日美に前田敦子、立花あきらと行動を共にする宇宙人に乗っ取られた青年(高杉真宙)に最後殺される政府筋かそれとも民間の暗殺団か定かでない怪しげなボスに笹野高史、そして映画終盤に登場する宇宙人ウィルスによる被害者を救済する女医を小泉今日子が演じている。

 

 しかし映画全体につき合う鑑賞者にとって最も印象を強く与えるのは出演時間は最も短いカメオ出演的な黒沢映画二度目の登場を果たす牧師役の東出昌大である。

 散歩する侵略者である松田龍平演じる加瀬真治が途方に暮れて偶然子供達が斉唱する讃美歌が聴こえてきて立ち寄る教会の牧師を演じている。そして愛の無償性と人を選ばなさを切々と説くシーンが、正に罪を懺悔するに相応しい夕刻を過ぎた夜であることも映画全体に印象的なアクセントとなっている。

 つまり本映画での愛の維持を夫婦で育んでいこうと決意する宇宙人の立場に立ってしまった松田龍平の加瀬真治が、愛と信頼というものを信じていく大きな契機となるシーンに登場するからである。

 東出は近年の映画界では最も活躍し、大きな印象を映画ファンに刻印してきた役者である。彼を登場させるシークェンスの演出が黒沢映画で最も見事である。

 

 尚本映画の製作者には主演の一人松田龍平の母、松田美由紀も名を連ねている。ジャーナリスト桜井をガイドとして同行させる宇宙人天野演じる高杉真宙、その連れである少女立花あきら演じる若き役者恒松祐里の演技と演出に、正に小学生にシルヴァーの防御頭巾を被せて北朝鮮のミサイルや核攻撃の非常時の為に訓練させる今の日本で平和を脅かされている若年層の子供達のマインド的なトラウマをシンボライズさせているのも見事である。

 

 上映時間の129分がかなり短く感じさせるテンポの良さと、或いは私の見間違えかも知れないが、天橋立を日本海を背に臨む丘で撮影されたと思しき日本海でラスト近く夫婦二人を襲う垂れ込める暗雲とそこから放出され地上へ降り注ぐ火の玉のシーンは迫力があり、黒沢映画の幻想性を際立たせている。それ以外でのロケハンもどれもが素晴らしく全ての映画に登場する風景が印象的である。これは黒沢清ムーヴィーの大いなる特長なのである。

 

 久しぶりに再度映画館に足を運びたいと思わせてくれた映画鑑賞体験であった。尚、配給は松竹と日活。

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悪魔の慈悲と救いPart3

我々は悪魔にとりつかれて初めて改心を知る。

神は改心しない。だから神の判断は善を志向しない。

我々は善を悪魔のお陰で見出せる。

 

遊びの中に遊びで解消したものから、善を導く。

それは悪魔の誘いから世界を見た者だけが知る意志だ。

神は悪魔から誘いを受けないから、我々へ直接慈悲とならず、救いもしない。

だから教典の神は悪魔を知る者の言葉が作り出した神なのだ。

 

善悪を超越する神に善を見るには、悪魔の慈悲と救いを経ねばならぬ。

遊びは生きて俗に塗れた我々の救いだ。

神に遊びは要らない。

遊びは悪魔が作った我々への慈悲であり、救いだ。

神には救いは要らない。

神自体が神への救いだからだ。

 

神でない者達であると知る我々でこそ知る悪魔。

それが神を善で見る。

悪魔を知る我々だけが持ち得る赦し。

愛は弱さへの赦しだ。

弱さへ慈しむ愛は創造主にはない。

 

人を知り人の目線で愛を説く者は倫理の神だ。

存在の神に倫理はない。

倫理が神を善に見て、悪魔を対峙させる。

倫理は弱き者の弱さへの自覚と、強くあろうとする願いだ。

 

昼は多く善を生むが、弱さから悪も生む。日陰に悪が育つ。

のろい者を置いてけ堀にする無慈悲な連帯。

集団に沿う心の隙間に生み出される自己保身の心の悪魔。

却って夜こそ無慈悲への悔い改めを育む。

 

倫理の神から存在の神を見る人の心の心の善への志向。

倫理は弱さで悪へ加担すまいと願う同じ弱き者への赦しの心が生む。

悪魔とのひとときの出会いから、我々は弱き心を強くあれ、と弱き者への赦しから、善を作るのだったら、悪魔の慈悲と赦しは、彼が神のもう一つの姿だと我々は倫理の神から学ぶ。
(了)

 

 

2017. 9. 14, 修正16

 

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2017年9月15日 (金)

悪魔の慈悲と救いPart2

悪魔の素直な促しだけが赦しだ。

悪魔のエゴサーチが赦しだ。

人の心は神の様に迷いなくは居られない。

悪魔のくれる赦しは遊び心だ。

 

遊びは義務感と使命への自覚には屈託だけ与える残酷な悪魔の囁きだ。

でも人の心は理性に縛られた侭、全ての時を通り過ぎることはできない。

 

蝉はなかなか居なくなってはくれない。

暑さは何度もぶり返す。

でも涼しさの中に、木枯らしの種も紛れ込んでいる。

夜になっても昼間の余熱が佇んでいる。

その中を一瞬冬からの贈り物が通り過ぎる。

 

冬だけが心へ与えてくれる光がある。

悪魔は夜と冬で我々の心を指南する。

遊びと怠惰な放棄を、緊張へと誘い込む。

 

冬は寒さからの退避を理性と義務から勝ち取るが、悪魔の誘いを正当化させるのは、自然の有無を言わさぬ季節の切り替えと我々のその操作出来なさだ。怠惰で居たっていいと悪魔だけが冬に告げてくれる。

冬だからこそ惰眠で過ごすことも寛ぎになる。❄(2017. 9. 15

 

心は自然の前では折れる。❄折れてもいい❄(2017. 9. 15

理性も信念も正義も自然には通じない。

悪魔の囁く遊びだけが慈悲となり、人の心を救う。

 

遊びと寛ぎの誘いは悪魔の愛だ。

創造神は自然へ直接力を行使する以外、人の心へは働きかけない。

神に人の心への導きを見出すのは人の心だけだ。

 

神は悪を持たない。でも我々は違う。

だから神は善悪を超越する。

でも我々は善悪に縛られる。
(つづき)

 

2017. 9. 14, 修正15

 

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2017年9月14日 (木)

悪魔の慈悲と救いPart1

理性は肉体と精神に命じる。

慎め、遊ぶな、責任を果たせ、と。

でも理性は固着しやすい。

肉体と精神は結託し理性の教条へ異議申し立てをする。

肉体と精神が示し合わせると悪魔が育つ。

 

でも悪魔だけが理性の直情を諫められる。

悪魔だけが持ち得る愛と慈しみがある。

理性は責任を全うしようという意志から、休んではいけないと義務的な強迫観念になる。

悪魔だけが理性の融通の利かなさを解き解す優しさとなり、堅い理性への理性になる。

 

夜は長い。

夜更かしを誘う悪魔が居る。

でも昼間の義務の使命の緊張を和らげる憩いは、夜の悪魔だけが差し伸べてくれる。

深い眠りは決められた就寝を遮る悪魔の誘惑だけが与えてくれる。

夢は明るくも暗くもない。罪への自覚でも清き心への励ましでもない。

夢に寄り掛かる浅き眠りは、一時の退避だ。

夢は夢を見る者を慈しまない。

夢は夢だけの都合で生み出される。

夜明けはいつの間にかやって来る。

その場に立ち会っていても、一瞬で夜を消す。

夜が終わっても時の移ろいは休まない。

さっき迄の情景の記憶が、今の情景を際立たす。

 

疚しさは理性が生み出す。

夢を疚しさに結び付けるのは義務感だ。

言葉の理性がそれを作る。

義務の教条から自由になるには、肉体と精神の結託にだけ罪を被せるのを断ち切るのだ。

精神だけの崇高さも、肉体だけの不浄さも幻想なのだ。

言葉を意味の義務から解き放て!

(つづき)

(2017. 9. 13, 14)

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2017年9月12日 (火)

直線・曲線/人為・自然Part3 意志・意図・思考/責任論

〇重要なことは、直線はフリーハンドでは引けないから定規を使うという事が既に意図的であり人為的、つまり二点間の最短距離をとるという意志によって為されるということだ。

 

 逆に直線を正確に引くことができないので、最早何を引こうとも思わずに思う侭に鉛筆とかボールペンとかを走らせることは、あのシュールレアリスト達が自動記述(Automatism)と呼んだ仕方であり、それは自由の様でいて、決して自由ではない。何故なら意志的・意図的に二点間の最短距離を取るという方式ではないし、又それがフリーハンドでは出来ないから、何の目的もなく手を動かすだけだなら、その任意性は却って全てその時々の神経組織の偶然的な動きに身を委ねることだからである。

 

〇ユダヤ教ではヤハウェとは人格神だとされる。ここで重要なのは小林・益川理論<対称性の破れ>を誘引したのは単に自然だとすれば、我々自身の個々の心の意志や意図も全て偶然でしかないと言い切ることになる、という倫理的な責任論を一神教(注)では根本的理念として掲げているということだ。

 

 神がその対称性の破れを選択された、と考えることで我々も神から付与された所与の身体を通して、その自己の行動を自己の責任で考えていくとするなら、そこで初めて意志・意図が自己責任の中で捉えられる。つまりそれは自然にそうなっていくことでは決してないのだ。だから自然とそうなっていくと考えているなら、却ってそれは神を暗に認めてしまうことになるが、一神教的な宇宙創造の神による選択とは、神自体を意志・意図と認めることだから、それに対する感謝の念を存在として身体と心を与えられた我々は自己に対して認め、そのことで何かを為す時自然とそう決意したということでなく、意志的・意図的にそうすべきであると倫理的に決意したとすることで責任論を全うするということとなる。

 

 それは却って神に依存するということから離脱して独立独歩的に為していく決意となるのだ。だから自然にそうなってしまうとは障害者施設を襲撃し大勢の障害者を殺害する犯人もそう自然と体と心が動いてしまったとするなら、却って神の声を聞いたから、と自己不在として暗に神を無責任論的に前提として認めてしまうこととなるのだ。

 

〇任意であるとはその時々の気侭な恣意性に身を委ねることだから責任放棄である。倫理的にはそうである。だから逆に意志的・意図的であるとは自己の行為の正当性を他者に説明可能だということで説明責任を果たす意思があるということである。それは創造主である神に対して対峙する姿勢(スタンス)の表明でもある。してみれば、神を認めることは神とは独立した自己の個を鮮明にすることである。

 

〇日本社会の根幹をなす八百万の神の発想は自己責任論の放棄以外でない。直線を引くということはそれが最も合理的であるから意志的・意図的に為す決意であるが、何の対象を描くでもなく引かれるオートマティックな線には自己意志はない。だからそれは責任不在である。

 

 曲線を描くということは、そういうことではない。人体のスケッチをする際に、人体の輪郭線の持つ曲線を描こうとすることには意志・意図があるからだ。

 

 だから重要なことは、意志的・意図的な直線というものがあると同時にそういう曲線もあり、只真っ直ぐに直線移動する物体を眺めているだけなら、その直線を目で追うことに意志・意図が、少なくとも倫理的に介在している訳ではない。それは何もせずに一日ぼんやりしていても直線的に時間が経過していってしまうということでも言えることだ。

 

〇最終的に思考とは意志・意図をどう顕現されるべきか、そう考えることに等しいということだ。思考とは責任倫理的なことである。直線でも勝手に誤射発射させた核弾頭ミサイルを放任しておくことでなく、制御することであり、描く曲線でも女性の身体の美を追求してデッサンしたりすることで得る曲線美を見出すことであり、制御するという意識のことはどんな直線も曲線も作られるべくして作られているのであり、逆にどんな正確な直線でも誤射発射させたミサイルの軌道や水平移動も、その侭任せている限り、それは非意志的・非意図的である。

 

 又何の目的もなく地面に棒切れで何か得体の知れない線をミミズの様に引っ搔いて書くのなら、それは非意志的・非意図的である。

 

 つまり責任とはそれ以上でもそれ以下でもないという事が倫理的命題の根幹に据えられた考えである。だから神からの所与という発想は、却って神でなく自然にそうなった(宇宙が創造されたのでなく、宇宙が勝手に出来上がった)とする考えとなってしまうので責任論不在だ、というのが一神教的世界観一切の根幹に在る考えなのである。少なくとも宗教改革以降のキリスト教プロテスタント形成以降の考えとはそうである。その点ではイスラム教も同じ考えを持っていると言える。つまりイエスとムハンマドをヤハウェとアラーの他にだからこそ必要だった、ということである。

 

注。一神教は英語でmonotheism、逆に多神教は英語で polytheismである。尚有神論はtheism、無神論はatheismである。

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2017年9月11日 (月)

詩学・美学・修辞学メモPart1 直線と円

〇移動直線(軌跡的)は永遠性の前では脆弱であり、それは刹那的である。

 

〇だが同時に顕現された直線とは刹那的でも(それは無限に延長されるわけではないからだが)、直線という概念は永遠である。その実直で曲がらなさ(それは当たり前だが)と、単純さ(ストレートさ)は厳格に無限に空間を貫く像を彷彿させる。

 

〇実在するレヴェルでも層的直線は頑健であり、厳然としている。それはだから移動直線の刹那性とは対極である。

 

 

〇円は形状的にも存在規定的にも極めて完全であり、完成されていると同時に全ての原点的な在り方をしている。そこから全てが発するかの如く発散機動力があると同時に、そこへ全てを吸引・吸収させる力がある。

 

〇円はどんなに移動しても、それ自体が何か確固とした固定化された不動性の様なものを携えている。それは存在が存在であることの証である様な何かである。

 

 

〇上記のことを全て踏まえると、概念としての無限直線(実在直線は全てどこかで必ず途切れ終わる。だから終わらなさの観念的理解に於いてのみ、しかし確固とした像を我々が想い描けるところの)は、円に極めて性質的に近い。円は完全円が実在するか否かはともかく、純円に近いと思われる全てのものに共通した或る普遍性の様なものそのものとすれば、無限直線と最も近似する要素は紛れもなく無限だということ、終わらないということだ。円には切れ目がないからだ。だから球はその三次元立方世界での顕現であり、存在の究極の起源であり、且つそこへ最終的に帰着するところの故郷である。

 

 当然のことながら円という二次元平方世界で我々は球として実在としては顕現されている全てをも含めて概念的に終わらなさ、切れ目なさを瞬時に理解している。この理解の仕方も又我々の世界での生活での厳然とした不変的な本質の一つと言える。

 つまり図式的理解がまず在って、そこから例えば宇宙の恒星とその周囲を軌道する惑星等の関係も理解している。

 

 勿論実在の事象への知覚で初めて理解されることは多いが、その理解を手助けしたり、実在での直接の知覚ではよく分からないことでも、図式的理解で納得できることもある、という意味でこの理解の仕方は極めて我々にとって重要である。

 

〇一つ上の〇で示していることは、哲学的認識の原初的な一つとも言える。そしてそれ自体が詩学・美学としても成立し得るし、修辞学的な言葉の理解へも貢献している。だからそれは我々が世界に実在し、世界に対しているそのこと自体が一つの驚きであり、哲学者が考えているタウマゼイン的なことだとすれば、詩や美学探究も又、数学で当たり前だとして一々取り上げない幾何形態のそれぞれへの言及(この記事を通して行っている様な)をも意味ある問いに変えるものとして、そして詩や美学にも内在する哲学的発見として、我々は見過ごすことは出来ない。

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2017年9月10日 (日)

直線・曲線/人為・自然Part2

〇二次元の円と線、三次元の球と線との対応をどう考えればいいかというと、三次元では球が直線移動する場合の球の中心の移動が線状であるということに於いてのみ、それは二次元と共通する。この場合も二次元の移動の三次元的転写と考えてもいいし、逆に三次元の移動の二次元的実現と考えてもいい。しかし自然界的に言えば後者が真実であり、前者は図示、記述の問題だと言える。つまり既に図示というアクチュアリティが与えられていて、それを糧に実在へ応用することだからである。

 だが理解とはそういう逆のルートから為されることは我々の場合では多いし、それは自然である。

 

〇円と直線の大いなる共通性とは、それは共に任意の線で示される訳ではないということだ。つまり、それは図示的にも法則的だし、自然界に於いても最も効率の良い公転形状として球であるとして顕現されている。

それは試行錯誤の末そうなっている訳ではないが、138億年前のビッグバンの時点で決定されていたとしとも、即座にそう顕現された訳でもない。生命の場合は454000万年前に地球が誕生して以降、32億年前に既にシアノバクテリアとして最初の生命がストロマトライトとしてかたちを現わしている。つまり134000万年の間に水が形成され、アンモニア、メタン等の水素化合物が揃っていくこととなる。それらは当然偶然の蓄積によって結果そうなっていったと言えるが、偶然の蓄積の結果そうなっていくことそのこと(その物質的展開そのものの物理)は、既に粗方決定されていた、つまりそういう展開を地球が辿ること自体、その展開を実現させる本質は既に出来上がっていた(それを神学的に表現すれば、神による所与ということとなる)と捉えることができる。

 

〇概念上の円は線(一次元)である。だが、それは当然二次元でも示せる。一次元の中の線とは図示そのものが成り立たない。勿論一次元的世界とはあり得る。だが我々が三次元立法世界に実在するので、それを我々は図示というかたちでは知ることが出来ず、それは観念的に理解するだけである(理解することは勿論出来る)。

 尤も我々は二次元の表示(図示システムに於ける二次元表示)が三次元を生み出しているとも言える。つまり、それは図示そのものの認識、記述された世界を糧に理解すると考えれば、そうである。二次元がマイナーな一次元を生み出し、同時にメジャーな三次元を生み出しているということは、紙面で図示して考える習慣から自然である。

 

〇円周そのものは前シリーズでも示したが、最も性質的には直線に近い。それは中心から等距離で軌道を描くという意味で既に決定されているルートだからである。その厳密なルールの下に、自然界の物理的条件で多少の誤差が出るということはあり得るが、基本としてはその法則の下に例えば太陽系は機能しており、太陽(恒星)を中心に惑星が公転している。

 二次元的平面での図示で我々が理解していることは、その宇宙の物理的システムをメタ的に理解する能力によって我々が発見してきたことである。

 

〇人為的な線はフリーハンドでは直線にはならない。曲線である。定規を使う時だけ或る程度正確に直線を作ることができる。

 だがそれは自然の線とどこか異なるだろうか?

 でも自然の線でも人為の線でもあり得る、つまり双方で実現可能な線もあり得るだろうが、いずれかでしかあり得ない線もあり得るだろう。例えば具象的ドゥローイングの線(絵画等の線)は、人為でしかあり得ない。

 勿論双方とも俯瞰して確かめられるという意味では二次元の平面的実現である図示システム(作図一般のこと。絵画もその一つの発展とこの場合考えてよい)と同じ様に、我々は自然界に対しては、地表をその平面として把握して、そこに線を見出しているのだ。

 

〇自然界に於ける現象としての線は、層的である。これは最初の〇で示したことがその特殊な例であることを我々に教えてくれる。

 層(stratum, bed, layer)とは、つまり時間的重なりによって形成される。従ってそれは移動によるものとは全く性質を異にする。Ⓐ/勿論自然界には移動によって形成される軌跡としての線も存在し得る。但し、それはあくまで我々人類が発見した図示システムを通して理解していることである。この点は重要である。

 Ⓐの場合、我々は線として見えるだけであり、線が引かれていると認識している訳ではない。つまり線が引かれると我々が認識するのは、あくまでの場合のみである。この点も極めて重要である。

 も確かに引かれてある様に見えることは見えるが、それは我々の認識によって直ちに打ち消される。線が引かれると認識するのは、例えば飛行機雲の様に軌跡として理解される場合だけである。

 

〇図示とは表示の一つの特殊な在り方である。ウィトゲンシュタインは論理を論理空間として、日常言語はその中の極めて実用的に限定的なものとして捉えているが、それをも含むもっと純論理的システムとしての論理空間の中に図示も、極めて一つの特殊な在り方として規定されている。

 

〇円は自然界では恒星の周囲を、軌道を描き公転することで実現している。それも我々の図示システムへの把握によって理解されている。その恒星‐惑星の軌道システムへの理解が、逆にミクロの粒子、分子・原子の関係性への理解をも促している。勿論素粒子とは本来物質的存在であるのか、それとも運動であるのかとは完全理解されている訳ではない。

 その問題へ来ると、果たして素粒子の存在とは何なのか?物質でも運動でもあり得るとしたら、それは一つの問題提起として「ゆらぎ」を提示せしめる。

 存在はゆらぎなのか?そういう疑問が起こる。この点を延々現代物理学は考えてきているという訳だ。

 

 付記 実は二次元的平面実現の特殊な一つの在り方である図示システムが三次元的把握や、四次元的実在としての自然現象の実現を捉えているかの如く示してしまったが、実際はそうとも言えないと考えていることだけは告白しておこう。勿論それは理解ということに於いて考えたことに過ぎない。自然現象そのものに、例えば層の認識等もだし、飛行機雲の認識もだが、そこに線を見出すことだけが図示システムを通した理解であるが、その自然現象そのものの理解は、線という語彙を我々がそこで使用する言語認識から生み出されている理解とは当然別である。

 

 だから説明としての線という語彙の使用を決定することと、地層や飛行機雲を自然現象として理解することとは別のことだ、とは明記しておかなければいけない。

 

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2017年9月 9日 (土)

直線・曲線/人為・自然Part1

 本シリーズは昨年九月初旬に七回に渡って行った「思考できることのメモ‐円と直線・作図に就いて」シリーズの延長線上のものである。記述は全て箇条書きにして進めていく。

 

直線は一般的には人為的なことだとされる。だが重要なことは人間が作成し得る直線とは極限られた狭い空間内だけ実現可能だ、ということだ。つまり物凄く物理的距離を必要とする直線自体、自然界では少なくとも地球の様なスケールの星では実現不可能である。

 地球上では少なくとも我々が人為的に直線を作図しようとして限りなく遠い地点迄線を引いていこうとすると必ず円に近くなってしまう。遠目から見た地球でそれを実現させるなら地表に逆らって水平な面となっている二次元平面を地表の上に固定させるしかない。地球自体が球形なので、完全な直線を引くこと自体実現不可能である。

 

〇円とは直線以外で最も直線の持つ合理的性格(例えば単純に二点間の最短距離という様な)を持つものである。球は円の中心を通す様に半分に切った場合、どの角度から切っても同形の円になるということであり、円の表面のどこから中心へ向けても等距離の物体である。 

 

 付記 水平に球形を半分に切るということはこの場合立方体にぴったり入っていると発想していることになる。楕円球だと直方体に入っていると発想すればいい。その時点で二次元であるなら円を正方形に、三次元なら立方体に当て嵌めて考えていることだ。つまり座標的に捉えると、即座に直線の三次元的構成が円を包摂し得ると捉えられるので、この時点でも円と直線は十分相補的関係にある、と考えてよい(円は正方形、楕円は長方形に嵌め込むと考えることが基本にある、と考えてもいいし、その逆に三次元的に球が立方体に、楕円球が直方体に嵌め込むことが基本で、その二次元限定的実現と考えてもいい)。

 

 

宇宙の全ての公転する惑星❄は球形に見えるものが大半であろうが、その平均は限りなく球形に近い形状だろう。只自然界のそういった限りなく球形に近い数値になること自体は、限りなく平均的に球形条件値に対して上下しながら平均的には完全な球形条件値になるだろうが、それは自然がそれだけ人為に対していい加減だからではない。 

❄イトカワの様な潜在的に危険な小惑星ではない星、つまり公転する地球同様の球形状の星のことを言っている。

 

 寧ろその自然に限りなく完璧に近い値を弾き出す力が備わっているということは、人為では及ばない。つまり先程も述べた様に狭い空間内でだけ人為的なことは誤差を限りなく少なくできるが、広大なスケールではそれが不可能だからだ。自然のいい加減さはタイムスケールを拡張して考えれば、全て合理的である。

 

〇つまり自然とは人為にかかる一つの決意自体が不在である。自然に意志はない。勿論神ということを認めなければ却って自然自体に意志とか意図があるという風にも単純には解釈可能であるが、少なくとも自然には我々人間が持つ様な意志はない。だからこそ自然は冷徹に(冷酷にと言ってもいいが、これは文学的・修辞学的表現だが、そういう風にしか言えない程)全く飽きもせず自然法則に限りなく近接して全てを反復する。公転する全ての星の形状が球形に限りなく近いということと同様、そこに意志自体の持つ惰性的、非恒常的性格自体が見当たらない。その点で自然程惰性的に(これも修辞的表現であるが、要するに意志不在的にという意味だ)一つの法則に執着するものはない。一つの法則とは物理法則である。

だから人間に固有の意志とは必ず法則化できるものではない、と言える。

 

〇この自然の冷徹さとは、一種の意志する理性でなく、自然の理性と呼んでもいい、所謂誤差を限りなく少なくするのでなく、誤差を少なくしかできないことそのものである。確率の法則に遵守した一つの在り方を自然とは持っている。

 だからそれは詩創作等のテーマとなり得る。

 寧ろ人間の理性程移ろいやすく、飽きっぽいものはない、と心得る為にもこの自然の緩慢だが冷徹に一つの法則に遵守するしかない機転の利かなさ自体が一つの強靭なパワーであることを見逃すべきでない。それが一つの倫理である。

 

円はそれ自体一つの線だから、起点も終点もない。それは起点と終点のある線と違う要素だが、線自体はどの平面空間でも成立する。円もそうである。そういった意味で宇宙の様な容積を持つ空間では球が直線と最も同一次元の存在者であり得る。ただ平面空間(二次元)と容積のある空間(立体空間・三次元)では概念上では線自体の性質に違いを見出せないので、二次元での線と三次元での線とを分かつものとは、二次元に於いて二次元に作用する線と、三次元に於いて三次元に作用する線との違いでしかあり得ないが、その質がどう違うかは未だ分からない(自然科学<物理学>的には解明されているのかも知れないが、私には今それを説明出来ない)。

ただ、こうは言えるかも知れない。雨が降った後に地面に出来る窪みは雨粒が垂直に降下しているなら、円周に限りなく近いだろう。だから直線的な雨粒の降下と円の親縁性とは何等かの形であり得るだろう。

 

〇一番初めの〇で説明した様にかなり厖大な距離の寸分の誤差もない直線さえ自然条件的にそういうものを成立させる、つまりその実現を遮る条件が揃わないという条件さえ揃えば、それは可能だろう。だから遠い天体の星を見出し、そこに直線が見出されたからと言って知的生命体が存在すると即座に判断することは危険であろう。それがかなり限定的な二点間の直線でない限り、自然に引かれた線だと判断すべきであろう。

 

最終的に哲学や思想がどこへ向かうかは分からない。しかし一つだけ言えることは、かつて哲学者は同時に神学者であった。フィロン、クレメンス、オリゲネス、ヒエロニムス、アウグスティヌス、アンセルムス、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥス、ウィリアム・ザ・オッカム、ヒエロニムス迄は大半の哲学者が神学者か宗教学者・聖書学者達であった。スコラ哲学等は、神の意志と捉えなければ余りにもその正確さが(先程の全ての公転する星の平均的形状が限りなく完全球形に近いということなどであるが)説明出来なかったということだろう。それがそうでなくなっていく歴史的過程では人間理性への信頼ということがあったであろう。だからバークリーの様なケースは例外的である。彼より半世紀程早い時代に登場したスピノザにも神学者的本質は脈打っている。

 だが人間理性を信頼し過ぎることは、前迄の〇で示した空間上で直線を引く場合、自然界が勝手に(こういう言い方も修辞的であるが、要するに自然にという意味である)引いてしまう直線よりスケール的には狭い範囲でしか実現できないという意味からも、理性を信頼し過ぎることは一つの大いなる陥穽なのであり、それはカントも考えていたところのことである。

 

付記 上から五つ目の〇で述べたことは、一つの真理を持っている。つまり直線と円とは親縁性がある、とは、自然が勝手に引いてしまう蓋然性の高い、自然が自然の理性で自然に形成させてしまうこととして起こる確率の高い形状である、ということかも知れない。只今のところそれ以上の言及をすることができない。

 只、任意の曲線と円とは本質的に円だけが厳密に法則的である(偶然に左右されない)ということだとすれば、直線とその点で大いなる共通点がある、と言い得るであろう。でもそのことに重要性があるか否かに就いて未だそれ以上は言えないということだ。

 

 

 

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2017年9月 8日 (金)

遠くへ飛べないいきもの

遠い遠い遠い所へ飛んでいきたい。

どうして僕たちは皆一歩一歩しか歩めないんだろう?

どうして一瞬で遠くまで行けないんだろう?

 

一挙に移動が、一挙に全てのことが済ませられれば、電車も飛行機も要らないのに。

 

僕たちは空を飛べない。

上空を飛んで徐々に地上へと降りてくることもできない。

だから僕たちは飛行機を発明した。

 

それだけじゃない。僕たちは一瞬で地上を駈け抜けることもできない。

だから僕たちは鉄道と列車を発明した。

 

遠い遠い遠い所へ滑って行きたい。

 

列車や飛行機に乗れば確かに空を飛んで見える景色や地上を滑って移動したら見える景色は味わえる。

 

でも自分で飛んでいるんじゃないし、自分で滑っているんでもない。

僕たちはただ乗せて貰っているだけ。

自分で運転する車で移動しても車という機械が運んでくれるだけ。

 

遠い遠い遠い所へ、自分の身体だけで飛んでいきたい。

遠い遠い遠い所へ、自分の身体と力だけで滑っていきたい。

でも、それはできない。

 

だから僕たちはひょっとして近くに居る仲間と言葉で伝え合う様になったかもね。

きっと、そうだよ。それしかできなかったからさ。

 

でも僕たちはその気になれば木なら登れる。

岩も登れる。水の中を掻い潜っていくことも、海面を泳ぐこともできる。

一歩一歩上がってゆくことや、一歩一歩近づいていくことなら、

できる。

 

その遠い所へ一挙に跳べず、一挙に滑ってはいけないからこそ、僕たちはゆっくり一歩一歩大地を踏み締めて、どこかへ到達した時の喜びがある。

 

それを互いに声を掛け合うこともできる。

 

 

 

でも、きっとどんないきものも、今日が一挙に明日になったり、もっと先の一週間後とか、一年後とか先へはいけないんだろうね。

 

一日とか、一週間とか、一年とかってただ僕たちが勝手に決めてきたことだけれど、そんなもん持たない全てのいきものも、きっと一気に時の歩みを跨ぐことだけはできない。鳥みたいに遠くへ一気に飛んでゆけるいきものさえ。

 

だから地球に住むいきものは、全てその点じゃ、ゆっくりだよね。時を飛ばすことだけはできないんだから。

どんなに遠くへ空を飛べ、地上を馳せるいきものだって。

 

もし僕たちや僕たちの住むこの星のいきものたちが、時を飛ばすことができたなら、僕たちの住むこの星じゃ、きっと死ぬことなんてできないだろうね。死ねないんだったら、生きているってことにもならないんだろうね。

死ぬのはやだけどね。

 

だから時を飛べないいきものしか居ないっていうのは、良かったことなのだな?

 

でも僕たちも、僕たち以外のどのいきものも、仮にそうやって自分たちが与えられていることと違う力が与えられればって想い描いても、誰もそれを変えることなんてできない。

 

そういう風に違う力を持って生まれ変われはしない。

 

だから、きっと一歩一歩時の歩みにつき合っていくしかないし、そうしているんだろうね。

でも、そのことをこうやって想い描けるのも僕たちだけなのかな、そうかもね。

 

それって悲しいことでも、残酷なことでもないけれど、僕たちの喜びも、哀しみも、晴れ晴れした気持ちも、空しさも、きっとそのことが生み出しているんだろうね。

(了)

(2017. 9. 8)

 

 

 

 

 

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2017年9月 7日 (木)

日本という幻想―日本に思想はないPart1

 日本という国は基本的に社会とか国家とか、つまり一つの基本的な制度というものが全く秩序として形成されていない国である。

 これは何も戦後、太平洋戦争へと突き進んだ軍国主義国家の敗戦による瓦解ということから発しているのではない。もっとずっと古代からそうだった、という意味である。

 そのことに就いて今迄私が読んできたテクストの中で中島義道著『<対話>のない社会』(文庫化されその際のタイトルは『思いやりという暴力』として刊行されてもいる)である。つまり日本では対話ということが成立しない、そういう民族性というか、言語的特質が日本語にある、ということが言えるのである。

 北朝鮮がしてきていることは、世界の檜舞台に踊り出ることは彼等にとっては正義であり、それは70年以上前の日本にとって、それが正義であったことと同じである。だから既にあの件に就いて日本は北朝鮮から核武装を解除することはできない。不可能なのである。だから核武装国家として世界が容認するしか最早北朝鮮問題を解決する術はない。それ以外のどの方法でも、例えば米韓合同軍が画策する斬首作戦をしても、空爆をしても後々北と米韓の間だけでなく、ロシアや中国まで巻き込んで世界的混乱に陥れることになるだけである。

 つまりこの侭米韓側の立場だけから考えて北朝鮮首脳部崩壊を画策するなら、下手をすると米韓対中露の戦争へと発展していってしまう。

 第三次世界大戦勃発の引き金を引いてしまうと言っているのだ。

 当然日本は米韓を支持するだろう。だが日本は憲法で戦争の放棄を謳っているので、北朝鮮を巡って中露が日本が米韓の側につけば、彼等は日本の横須賀、佐世保、岩国、厚木、横田等の基地をまっさきに狙うだろう。米軍駐留の中枢を破壊するだろうからだ。

 従って今北の問題は既に相手の立場を全面的ではないまでも一定程度認めて対話へ持ち込む以外ない。ないのである。

 これはかなり白黒つけた論議である。

 しかし日本ではこの様な明確に結論を出す論議自体ができないのである。それは中島義道も言う様に日本人が基本的には一切言葉を信じていないからである。言葉を信じられないということは日本にのみ際立って特徴的なことである。そんな国は日本以外にはない。朝鮮民族には儒教という秩序があり、それは孟子等を軸とした言葉の世界である。それが彼等なりのロゴスである。

 中国も又共産党一党独裁的な秩序があり、それは位階的な言葉の世界である。

 当然のことながらキリスト教文化圏である欧米諸国も、中東や中央アジア、東南アジア、太平洋に於けるイスラム教文化圏もそうである。

 只、イスラム教は若干日本と近接している部分はあるとだけは認めておこう。

 言葉による指令という秩序性は明らかにキリスト教文化圏、中国、朝鮮半島では常識だということだ。

 これは階級制が完備した社会の一つの顕著な特徴である。

 だから日本には本質的な階級制というものが存在しないのである。全てが並列的であり、命令系統的ではないのだ。勿論公官庁や会社組織にはそれがある。しかしそれはあくまで経済活動を中心とした経営や職業従事に於ける約束であるに過ぎず、実際は一度、職場を離れれば日本にはそんなものは存在しない。そしてそれが一番日本人にとっては自然に感じられるのだ。

 だから日本では対話は成立しない。成立するのは国会とかそういう場所だけである。しかし国会でも日本では対話という形式であるよりは、集団合議的体質が強い。常にどこかで手打ちだけを求めているからである。

 今回は本シリーズで最も重要な日本では言葉とは信じられないということだけを言いたいのであるが、その根拠に就いて考えてみよう。

 一つには日本では常にコミュニケーションが阿吽の呼吸的な仕方に準じているのだ。何故なら日本では言葉そのものの持つ論理や責任明示性より、その言葉を発する人間の方に常に比重が置かれているからである。

 日本社会は人間主義なのである。つまりそれは欧米や中国や朝鮮半島と違って言葉自体の論理的力への信頼ということではないのだ。

 キリスト教のロゴス思想とは言うまでもなく、言葉を神から与えられているという観念に染められている。それは言葉の力は既に一つの責任であり、その責任は理性論的に人間本体の在り方を越えているのである。

 だが日本ではそうではない。或る言葉を発する人の本体が、つまりその人の内心が、性善説的に信用できるか否かが問題なのである。

 だから日本では契約という観念が、それは体裁上では存在しているのだけれど、生活の隅々にまで、つまり我々個々の個人の心にまでは浸透していないのだ。だから全ての決裁は常に丼勘定なのである。それは法治国家ではないうということをも意味する。だから日本は戦時中がそうであった様に警察国家へと容易に転じやすい性格が国民性的にあるのである。

 ハイデガーは最重要なことは人間ではない、倫理ではないと言っている。だからそれは言葉そのものの持つ一つの真理的構造である。

 人間は論理的に考えて正当だと思われることを正しく履行しなければいけないのだが、人間はそうならず、ややもすると人間性に於いて相手(他者)やその考えを判断しがちであることを彼は戒めたとも言える。

だが日本では常に人間本体の性善説的な人間性だけを信頼するので、人間関係は悪しく癒着しがちだし、シャープがホンハイに負けた様に企業風土がそういった固着した先入観に占有されやすいのである。

 つまり日本では或る考えの正当性を皆が容認し、その考えを色々な現実の場面で行動に移す時応用すればいいのに、そういったことは一切顧みず、全てが相手との暗黙の信用だけを糧にしているのである。だからそれは情感主義であり、一つ間違えば常に理性的考えを封殺し、情感的に皆が論理的に、真理正当的に判断せず、その場のムードに流されやすいのである。だから電通では高橋まつりさんの様な真面目で責任感の強い若手社員に全てを任せきり、彼女自身の苦悩を理解してあげられなかったのである。それは暗黙のいじめであり、それはあらゆる生活の場面でいじめられっ子を生んでいる。そういったスケープゴートを見つけては皆で鬱憤を晴らしているのである。

 これは日本社会の一つの顕著な特徴である。

 だから全てを玉虫色に収めさせようと画策するのでいつまで経っても一切はっきりとした結論が出ない。何故なら決して日本人ははっきりと結論を出すことをしない、したくないからしないだけだからなのである。

 本来その人間本体の心の優しさとか他者への気遣いとかそういうことより、その人間が小さな頭で必死に考えた論理的正当性の方を重視すべきなのに、日本では常に人間本体に対して信用できるか否かが問題とされるのである。

 そこには理性も法も介在しない。それが極めて危険だ、と言っているのだ。

 歴史的にきっと日本は言葉の通じない民族との間で闘争するということが或る時期から(恐らく弥生時代以降)無くなったからなのだろう。

 戦国時代にはほぼどこに行っても言葉が全く通じないという事はなかっただろう。方言を相互に教え合う程度で済んだのだろうと思う。

 だから今も厳然と根づくその場の相互の雰囲気を調整するという流儀となっていったのだろうと思う。

 だから日本では中国や朝鮮半島と違って宦官が歴史的に存在しなかった。それは信用できない相手を傍に置くという必要性がなかったからである。だからその代わりに武士の情け的に切腹だけは常に用意しておいた。

 中国でも朝鮮半島でも側近とは奪い取った土地の前の主に仕えた人達が主だったのかも知れないし、同族でも信用出来ない敵対する人達を奴隷的に側近として利用したので、自分達の子孫を持つことを許さなったのだろう。

 因みにユダヤ人の歴史でも宦官は(聖書にも登場するが)存在したらしい。

 

 今回はこの辺で切り上げるが、この対話という異質な考え同士を突き合わせるということ自体が習慣的に全く定着していない日本では常に相互の暗黙の信用と情感だけが支配し、理性や論理ということが優先されないという特質が、言葉を信じないという習慣へと発展していったとは考えられるところのことである。つまり言葉、言葉そのものの持つ論理的真理としての正当性という理性論より、常にその言葉を発する人の発せられる人への信用とか信頼といった人間の性善説的な条件の方を重視するという姿勢こそが、今日迄日本を何事も白黒つけず、曖昧な玉虫色にして、結論を先送りする社会体質を育んできたのだ。だから北朝鮮のことを只単に暴挙としてしか受け取れず、向こうには向こうなりの事情が半島の歴史としてあったのだということへ終ぞ思い至れなかったから、今あたふたしているということが言えるのである。(つづき)

 

付記 日本に思想がないとは、そういう集団合議的暗黙の調停主義がそうしている。言葉自体に重きを置かない人間性重視主義がそうしてきたのだ。

 だから今世界と日本自体に内在する感性の大いなる差異に戸惑っているだけなのである。

 だが世界ではそんなことは一切頓着していないのである。その点では北朝鮮もそうだし、アメリカもそうだと言える。ロシアも中国もそうである。

 この問題はかなり深刻だし、抜本的な改革をかなり難しくしている。しかしそういう議論だけは今日本では自由である。それだけは巧く活用していくべきである。

 

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2017年9月 6日 (水)

保守の時代から考えるPart2

 核シェルターはどれくらいの値段がするのか調べてみると、かなり安価なもので数十万円、収容人数が少し多い(つまり個室が何部屋かある)ものになると数百万円するものがあるらしい。でも水爆にまで耐えられるものとなると、かなり値が張るだろう。だから安価なものは全て防災シェルター程度のものと考えてよい。

 ところでこの様なものを買って、そのことを自分の住む地元の人達一切に知らせないでいたとしたら、その人は全く自分だけ助かればいいと考えていることになり、愛国心とかそういうことからは程遠い気持ちで生活している人ということになる。因みにジェフ・ベソス、ビル・ゲイツ、マーク・ザッカーバーグといった人達が住む豪邸には地下にシェルターを設置しているだろうことは容易に想像される。

 そして日本人が北朝鮮人を異様と思うとしたら、それはああいったかたちで愛国心だけで周囲のどの外国の事情も鑑みないことを可笑しいと思うということだから、それは同時に過去の日本人、つまり太平洋戦争の渦中で竹槍訓練とかバケツリレーをしていた頃の日本人を、自分達の祖先だとは思っていても、今は違うと認識していることとなる。すると当然核シェルターの様なものを自分の経済力の許す限り買うことは悪い事ではないと思っているのだから、自分以外の誰もが助からなくたっていい、自分さえ助かればいいという完全個人主義、つまり自己責任社会を完全に容認していることとなる。北朝鮮では核シェルターを持てるのは恐らくキム・ジョンウンと彼が認める何人かの親族や側近達だけだろう。

 

 だから北朝鮮人に街頭でインタビューをして今回の水爆実験とかのことを質問して、素晴らしいことだとカメラを前に返答する市民が異常だと日本人が思うとしたら、それは個人主義がないからだ(まさかそういう返答をする全ての市民が核シェルターを持っているとは思えない)と非難するとしたら、愛国心等所詮その程度のものだ、つまり同胞の命より、まず自分の命の方が常に優先されることを悪い事であると思えないなら、それは既に保守主義と言っても、形骸的な、つまり形式に則っておれば、後は全て自由だというかたちで、要するに完全個人主義、資本主義経済での自分の経済力としての強さと実力だけが全てだと考えていることとなる。

 だから現代の保守主義とはあくまで本音と建前を形式上区別していればそれでいいという開き直りだということになる。

 

 愛国心がもし郷土を護るという事、例えばあの東日本大震災の時に仙石線の運転士や車掌といった乗務員の方達が必死に乗客の命を最優先して助けようとしたその行為を支えているものが貴いモラルだとしたら(あの時は皆各自会社からの指令に只従うのではなく、自分達の立たされた状況に即応して自分達なりの判断を下し助かった人達が多かった)、そういうエゴイズム、つまり郷土全体が助かる為に核シェルターを地方自治体レヴェルで建造するということに一切関わらず、自分達家族だけの生命を守ることを優先するとしたら、それは只単なるエゴイズムということになる。

 でも今の日本人は、では北朝鮮人はいざとなったらお国の為に、元帥様の為に命を賭けようと思っている人達ばかりなのか、只カメラを向けられたら、その時だけ取り繕って罰せられない様な態度を取っているだけなのかと考えてしまうだろう。だから日本人はどこかで富裕層ならきっと水爆攻撃にも耐えられるだけの核シェルターを保有して、それを隣人達といざという時に共有することすら一切考えていないこと自体を批難できなくなる。

 富裕層の人達さえ、最終的にカメラを向けられれば、自分達だけ助かればいいということを正当化する様な言説は一切表には出すまい。

 

 となると現代の保守主義とは自分達の幸福、命だけが常に最優先なのは当然そうなのだけれど、いざとなったら或る程度は隣人とか、その場に居合わせた人達と協力することは吝かではないということに於いてのみ、社会全体で共有し合おうという決意だということになる。

 

 アメリカの大資産家達もいざとなったら、凄く広い収納スペースのある核シェルターを幾つも配備させていたとしたら、北朝鮮から電磁パルス攻撃でも受けた際には、地域住民(と言ってもビル・ベイツの住む邸宅の周囲には中産階級レヴェルの人以下の人達等住んでいる筈はないのだけれど)とか、その場に居合わせた外部からの観光者等を助ける気だけは持っているのだろうか?

 もしそうであるなら、それは裕福であるレヴェルが日本人とは桁違いというだけで、基本的には日本人の持っている本音と建前を使い分ける形骸的愛国心や郷土愛とそう変わりないということになるが、余りにも広い邸宅だと、直ぐにそのシェルターへ移動するのには時間がかかり過ぎるということも考えられるが、否そういう有事のことを最初から想定に入れて数十か所位に分散してどこからでもシェルターへ駆けつけられる様に既に配備してある、とそう考えた方が自然かも知れない。

 

 今回はさして論旨を明確にしようと思わずに只思いついた侭書いたが、実はこの本音と建前を巧みに使い分けることそのことを軸に現代の保守主義が成立しているなら、それは結局誰もが幸福になる権利があるから、その権利を享受することを悪いことなどと誰も思わないから、社会全体を一定の調和へと維持し得ることだけが社会奉仕であり、一定の愛国心であり郷土愛であるとしながら、どこかでは例えば富裕層は核戦争に仮になったとしても、自分達(それは同じ民族とか国民だけでなく、世界に分散して生活する自分達と同程度の富裕層の人達という意味だ)だけでも最終的には生き残ることは悪いことでなく、正当な考えであるということで誰もが心の中では納得しているということになる。

 それは恐らくあの東日本大震災の時も目の前で津波に流されてその侭何もしなければその人は数分後には絶命するだろうと分かっていても、自分独りの力では何もできないし、助けようとしたら自分も死ぬと分かっているので、仕方なく遣り過ごすことと基本的には同じ構造の判断である。

 

 だから愛国心や郷土愛的な保守主義的観念も所詮エゴイズムから完全に切り離すということは幻想であり、その証拠にもし本当に一切のエゴイズムを介在させない愛国心等があり得るとしたら、そちらの方がずっと不気味であると今の日本人は思うだろうし、それは日本より国の生活レヴェルの上であるシンガポールや台湾やアメリカの市民なら、もっとそう思うだろうし(でもそれを公に口にすることもきっと絶対にない)、だからあの北朝鮮市民さえ、本当はカメラを向けられたら水爆実験成功を賛美する意見を述べる様に仕向けられているだけだ、心の中はどうであるかなんて誰にも分からないという意見の方を、それも人前では口に出さなくても、そう思うだろう。

 そしてそれはそんなに悪いことだなんて誰も思いもせず、もしそうでないなら北朝鮮市民もつける薬なんてないな、と思い、そうであるなら、未だあの国も戦時中の日本から今の日本へ変わった様に変わっていく可能性もきっとあるのだろうな、と思うのだろう。

 

 付記 結局民主主義も愛国心も国威発揚も、資本主義経済・自由主義社会の倫理とは矛盾していく要素が常に大いにあり得て、ではその矛盾をそれなりに常に巧く躱していくことだけが正義という名で賞賛されることもある、というだけのことである。この点では我々が形容詞で物理的客観的形容詞の機能と同時に、比喩的な機能をも担わせることの内に存在への認識と倫理への認識とを常に(実は本質的には全く異次元のことであるにも関わらず)隣接させ共存させて、一つの語彙の意味を勝手に理解している、論理位階的合理主義に当て嵌まらない判断を各個人がするということと極めて密接に関係しているものとも思われる。

 

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2017年9月 5日 (火)

ブレイクの詩を読み解くPart1

 以前一度だけブレイクの詩に就いてニーチェと引っかけて論じたことがある。→ブレイクの詩をハイデガー<ニーチェ>の論述から読み解くPart12016. 11. 20記事)

 

 だが今尚私にとってブレイクは謎の詩人である。何故なら凄く惹かれるのだけれど、その理由がよく分からないからである。解析できる程従って私は彼の詩を理解しているとは言えないことになる。事実そうだろう。

 

 だが詩はそういう風にきちんと理解できるものなのだろうか?

 

 例えば歌詞とは歌を歌う為の言葉なので、耳で聴いて一瞬で分からないものは歌えないし、歌のメロディーとリズムが醸し出す一つの世界を巧く言葉で説明されていなければいけないわけだが、詩はそういうのとやはり少し違う。勿論歌詞も純粋詩も根底では同根だろうと思うけれど、純粋詩はもっと作者のどろどろとした感情の起伏とか人生の強烈な眼差しが注がれていて、そう一度読んだくらいで全て了解できる世界ではないのだ。

 そこでまず一つ手始めに彼の『無垢と経験の詩』の(B)『経験の詩』から次の詩を見てみよう。原文、そしてその翻訳を掲載しよう。 

 使用するテクストは全て本シリーズでは『対訳 ブレイク詩集 イギリス詩人選(4)』(松島正一編、岩波文庫)とする。それ以外を参考にする時のみその都度テクストを示すこととする。だが翻訳だけ自分で行った。

 

The Chimney Sweeper

 

A little black thing among the snow:

Crying weep, weep, in notes of woe!

Where are thy fathermother ? Say?

They are both gone up to the church to pray.

 

Because I was happy upon the heath.

And smild among the wintersnow:

They clothed me in the clothes of death,

And taught me to sing the notes of woe.

 

And because I am happy, dance sing,

They think they have done me no injury:

And are gone to praise God his Priest King

Who make up a heaven of our misery.

 

 

煙突掃除の少年(タイトルは松島氏のとおりにした)

 

雪の中に小さな黒いものが悲しみに暮れた声で煤払い、煤払いと叫ぶ。

君のお父さんとお母さんは一体何処に居るんだい?答えてごらん。

お祈りの為に今教会に二人して行っているよ。

 

僕は荒れ野で育って幸せだった。

そして冬の雪に埋もれていても笑っていた。

僕の両親は死の衣服を僕に着せ、僕に悲しみの歌を歌う様に教えてくれたのさ。

 

また僕は幸せだったし、そうやって踊って歌いもしたのだけれど、

両親は僕にちっとも悪いことなんてしたなんて思いもせず、

僕達が惨めでいるからこそ出来上がっている神様、坊様、王様を崇めに行っているのさ。

 

 

 この詩は正に以前書いたニーチェの思想に近いものが表されている。つまりブレイクは生涯地味な絵描き職人生活で収入を得ながら詩をも書いた人なのだが、全く破天荒なことは人生にはなかった(つまりランボー的な波乱万丈さが彼には無かった)。その中でこそこういう詩が書けたと言える。

 

 つまり彼はどこかでは自分自身の幼少期から持っていた幻視体験的な内的な信仰と、形式的な国家や社会が個へ教条する宗教倫理との間に極度のずれを感じ取っていたに違いない。そうでなければこの様な内容の詩にはならない。自分達が煙突掃除という極めて危険な仕事(健康面でも頗る悪条件の仕事だった)を必死でして、その金で倹しい生活をやっと成り立たせてきているのに、その倹しい市民の布施によって生活を成立させてきているのが宗教権威であり、王室であるという発想があるのだ。

 

 だからこそニーチェ的思想を先天的に彼が持っていたと私は捉えているのだが、同時にこの詩では過酷な労働をしながら日々過ごすその生活実態を甘んじて受け入れつつ、煙突という暗い密室で感じる神との出会いの様なものをも彷彿させる。彼は明らかにそこに光を見出しても居るのだ。

 キリスト教倫理は確かに位階を設けているので、排外的であり差別的である。それへブレイクは直接批判する様なことはしないが、と言ってそういった暗黙に成立している宗教権威の持つ欺瞞性をどこかで嘲笑いながら、同時に内的な神との出会いへは敬虔な気持ちを保持しているからこそ、煙突掃除の様な生活にも耐えられるのだし、最終的に世間や社会や人間界の持つ見栄や虚栄に対して自嘲的態度を持っていながら、それへ対決することなく、そういった世間、社会の慣習に合わせながら、内的には自分だけの神を見出そうとする姿勢がこの詩からも読み取れる。彼は富裕な生活を幼少期送ったが、彼固有の幻視体験は両親や周囲を困惑させたらしいことは確かなので、そこでこういった自分と違う立場の少年の姿を自己体験へ仮託させたのだろう。

 

 つまり社会制度への追随的姿勢を表面的には全うしながら、同時にそのことで却って内的には自分自身でしか心で納得し得ないもののみを信じ続けるということが、過酷な労働生活を幼少期からしてきた少年の心に託すというブレイクならではの、そして美術アカデミーで師匠へ尊敬心を持つことができず、自身の幻視的傾向の強い作風に対してアカデミズムをもものともしない過大の自信を持っていたことが、詩そのものにも隠れたアウトロー性を忍ばせている。

 

 つまりこの詩は最後の節で示される教条慣習性批判に拠って彼の特異なダブルスタンダード的生き方(それは日本では隠れキリシタン等の人達が厳然と過ごしてきた生き方でもあるのだが)を示している様に思われるのだ。

 

 この詩で書かれている、踊り歌うとはメイデーのことを指しているのだが、そうやって社会慣習に従いつつ、実はその宗教権威制、社会慣習性そのものの存在の哀感的な在り方への人類による人類の自嘲が込められている。

 

 1794年に出版されているこの詩集が刊行時ウィリアム・ブレイクは37歳だった。彼は1757年に生まれ、1827年に69歳で死去しているので、人生の丁度中盤でこの詩を世に問うたことになる。

 

 ブレイクの詩はボブ・ディランへも影響を与えているが、それはディランがウディ・ガスリーから最も初期啓発されていることとも大いに関係している。トピカル・ソングはガスリーが創始した様なものだが、彼は労働者の哀感を歌ったが、しばしばそのことでスト破りの経営者サイドへ加担した労働者からリンチの憂き目に遭ったりしていた。そういった詩人の痛烈なスピリットは確かにこの短い簡潔なブレイクの詩の中にも読み取れる気がするからである。

 

 

 付記 ガスリー Guthrie, Woody 本名 Woodrow Wilson Guthrie 1912-67

アメリカのフォーク歌手・作詞家 オクラホマ生れ。14歳で一家離散し孤児同然となり、大不況のなか移民労働者として放浪生活をつづけ、その体験や見聞した民衆の苦しみを詩に書き、曲をつけて歌った。1000曲におよぶ作品のなかで代表的な「わが祖国」は世界的に有名。ほかに「ソーロング」「みのりの牧場」「900マイル」等。ジョーン・バエズやボブ・ディランらに強い影響を与え、彼らは<ガスリー・チルドレン>といわれた。自伝「ギターをとって弦をはれ」は映画化された。息子アーロ・ガスリーもフォーク歌手。

 ディラン Dylan, Bob 本名Robert Zimmerman1941-(尚その後ディランは本名自体をボブ・ディランへと変えた。付記 筆者)

アメリカのフォーク歌手・作詞家・作曲家。トピカル‐ソング作者U.ガスリーの影響を受け、1960年代に独特な鼻にかかった地声で反戦・反体制のプロテスト・ソングを歌い、一世を風靡。’65以降ロック色を強め、’70年代末には宗教的色彩の濃いアルバム「セイブド」を生み出すなど、ポピュラーソング界に多大の影響を与え続けている。作「風に吹かれて」1962。 筆者付記 2016年ノーベル文学賞を受賞。

 

ブレークBlake, William 1754-1827 イギリスの詩人・画家。富裕な洋品商の次男で、生粋のロンドン子。学校教育は受けず、版画師の弟子となる。少年時の現実逃避傾向は、のち神秘的幻想世界へ向かわせる一因となる。フランス革命への希望と挫折、家庭内の緊張という精神上の危機を経た後、1794最大傑作といわれる「無垢の歌と経験の歌」(「無垢の歌」は’89発表)を出版。象徴性あふれる作品で、<人間精神の2つの相対立する状態>の仕様をうたった。ほかに「天国と地獄の結婚」等の一連の詩を集めた「予言の書」(’90)がある。生前は認められず、幻想的な作風の挿絵版画の仕事で生活を支えた。水彩画も多く残している。

 

 

 コンサイス 外国人名辞典【第三版】三省堂刊からその侭引用した。尚筆者付記の部分だけ筆者(私)が加えた。

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2017年9月 4日 (月)

神の存在可能性・実在ではない創造主/個の使命Part1

〇人類史は時々大幅に人員を削減してきた。それは削減される犠牲者達の思惑とは別にそう事実的に決定されてきた。それは自然全体が時々成員数を調節している、つまり人口過剰に陥らない様に、そう仕向けていると見做すなら、そこに神が存在として立ち上がる。

 

 勿論自然科学者はそんな論理に耳を貸さない。だからたとえ地球が人類にとって住めない星になっていったとしても尚人類の生存に賭けて違う星に住める様にその住めそうな星を変える努力をするだろう。でもそんな星は終ぞ見つからないかも知れないし、見つかったとしてもそこまで移動が不可能かも知れない。

 

 だから哲学者はそんな儚い希望に身を投じない。もっと自然にネガティヴな終末を人類の未来に見る。ペシミズムかも知れないが、それが一番あり得そうだ、と。

 

 つまり北朝鮮の核実験もそういった人類の人口調節の為に神が人類全体に対して国家とか民族をそう配置した、つまりそういう世界全体をも危機に陥れる様なrogue nationをも成立させる様に創造の時点で取り計らっていた、とそう見ることも可能である。ここでは自然とは自然を成立させる神の意向ということと等しいものとして見做されている。

 

〇とりわけ人の中でも自らの神から付与された決定的使命に殉じる覚悟のある者は人との出会いがさして重要ではないし、それは些末なことだと心得ているだろう。その代表格はハイデガーである。彼は人ではない、人間が一番大切なのではない、存在なのだ、存在の真理を見極めることこそ重要であり、それを自覚する個人の決意が重要なのだ、と唱えた。

  

 つまり個の出会いとは人とではなく、神から与えられた使命だということだ。神から与えられた使命というのは、とどのつまり存在の真理との出会いである。何故なら我々は誰しも皆この自分のちっぽけな身体、この与えられた肉体、この物理的に儚い条件からしか世界を把捉することなど出来ず、しかもその把捉に於いて存在ということを頭では分かっていても、それを身から悟ることすら出来ないのである。

 

だから存在の真理とは、そういう永遠に個の限定された運命的条件から逃れられないことの中からしか見出せないし、それは個がそのことだけを認め、そのことだけを理解する様に神から要請されていると見做せるか否かということなのである。それだけが我々に与えられた使命(mission)なのである。

 

 だから我々にとってその存在の真理だけが寧ろ実在と呼べるのではないだろうか?

 

 

 

 

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2017年9月 3日 (日)

保守の時代から考えるPart1

 現代は益々世界的に保守化の波に晒されている。一つは愛国心とか民族意識とかである。私は1959年に生まれたので、思春期を過ごした70年代はインターナショナルの時代だった。当時は世界がユニティを目指して胎動していた。ところが同時にパレスチナ問題等民族問題も多く抱えていた。当時最も私達の世代に印象的だった世界的事実はソ連という国家の存在だった。1978年から1989年まで継続したアフガニスタン侵攻は最もその派遣主義を感じさせた出来事だった。やがてイラン革命も起きた(1979年)。その後に中国で天安門事件があった(1989年)。冷戦を経てソ連が解体されたことで東ドイツのベルリンの壁が崩壊し(市民による発動だった。1989年)、湾岸戦争(1990年)、イラク戦争(2003-2011年)と続き、現代へと至っている。

 重要なことは70年代から21世紀初頭まで継続していたのはリベラリズムを正統とする考えがグローバリズムを推し進めたことである。

 その最大の成果の一つが世界を物流で繋げたアマゾン等の企業の戦略であり、マイクロソフトやアップルやグーグル、つまりウェブサイト関連ビジネスの世界的成長と、その人類による利用である。シリコンヴァレーを支えている精神はアメリカのロック&ポップスによる精神の革命サマー・オブ・ラヴとウッドストックジェネレーションの持っていた発想である。

 だが同時的に常にパレスチナ問題が尾を引いてインティファーダ(一斉蜂起)が散発し、その継続的展開として現代の自爆テロが存在し続けているのだ。現代のイスラム教徒系過激派の思想を継続させる最も象徴的出来事がアメリカの9.11の同時多発テロだった。あれから既に16年が経った(ジャスミン革命等一連の中東イスラム教系国家群での独立的気運も、自爆テロ的思想を別の意味で勇気づけてきたとも言える)。

 そして今アメリカではKKK等の白人優位主義的思想の人達が人種差別反対のリベラリスト達と意識が分断している。

 オバマ政権からトランプ政権へ移行したことで一気にその現象が表面化した形だ。つまり現代世界は一方では立憲君主国である日本や英国は、その国体を保持し、そうでない国では民族意識が高揚を見せてきている。ネオナチ的なムーヴメントは実は80年代頃からずっと燻っていたのだけれど、そういった保守ヘイト思想がかなり鮮明に存在理由を主張してきたのはここ数年であり、更にそれがトランプ政権誕生と、中国習近平首席の独裁強権政治体制、フィリピンのドゥテルテ政権の誕生、プーチン政権の継続等によってより明確な一つの方向を示し始めた。

 要するに保守ヘイト思想とはナショナリズムの明確な復活を意味しているのである。

 ナショナリズムが正統であるという思想からは、国民である市民(成員)は大人であってはいけないという倫理が罷り通る。つまり大人であるのは君主とか元首だけであり、それ以外の市民は全員臣民的でなければいけない、つまり僕であるべきだという倫理である。だから却って世の中で成功する人達は総じて大人っぽい思想を持った人より、幼稚だけれど、上の者には従順で一切逆らわないという精神的傾向の人達である。それは芸能界ではお笑いの世界でまず顕在化してきたし、音楽シーンでも秋元ファミリーのAKB48の様な大勢徒党を組んで大挙して存在アピールする人達がメインとなってきたことでも言えることである。

 今やリベラルとかインターナショナリズムは経済活動に於ける自由、つまり起業とか交易レヴェルでだけ維持され、それ以外の市民の倫理とか国民としての慎みは一切がコンサヴァティズムに支配されている。つまり思想は経済活動の自由以外では一切自由が認められないという風潮が世界を網羅しているのである。

 そのことはここ数年リベラリズムが文壇で大きな力を持っていた時代の先達、渡辺淳一、野坂昭如等の作家達が続いて死去し、映画監督でも黒木和雄、鈴木清順等の監督がここ十数年の間に全員死去したこと、或いはリベラルの星でもあった大江健三郎氏がかなり健康面で復帰が難しい状態に今あるなどのこととも重なっている。

 お笑い界から又吉直樹の様な作家がプロデビューしたことは、従順な上の者へ平身低頭な態度の作家がメジャーとなり、今やそういった物腰の低くないクリエイターはビートたけし=北野武くらいである。

 尤も映画は流石に是枝裕和、黒沢清等の勇猛果敢なチャレンジャーが占めているという現状や、呉美保、西川美和、平栁敦子、荻上直子、三島有紀子といった優秀な女性のクリエイター達が犇めいているという頼もしい状況があるので、余り心配は要らないかも知れない。

 しかしメディアは保守化を強めている。益々日韓米に対して挑発的態度を取る北朝鮮は今日午後水爆実験を挙行した。だから今や日本国内では以前ならかなり盛んだった自民党に対する集団的自衛権決議反対デモ等も行われず、あらゆる意味でなし崩し的に保守主義とナショナリズム的挙国一致体制が精神的に肯定される。それは三年後の東京五輪・パラリンピックに向けた意識も多分に手伝っている。

 天皇陛下による退位発言は、皇室による国民と憲法へのクーデターだった。そして皇室で時々結婚の話があると全国規模でメディアが挙って大々的に報じるが、こういったお祭り的なことを一切無関心でいてはならぬというメディアの暗黙の一般市民への教条的目論見があることは特筆すべきである。

 私が言いたいのはこういった保守順当的なメディア報道姿勢は世界的な現象ではないかということなのである。北朝鮮は建国70年で今初めてその意識を世界へ向けて発信しているのであり、日本も戦前はそういう空気だったのだ。だから北朝鮮を今の様な態度にさせてきたのは日米中韓露の責任でもあるのだ。

 勿論他方では益々国際結婚も多くなり、日本のアスリート達はかなりの比率で(相撲、陸上、テニス、野球)国際結婚の家庭出身者がシェアを占めているし、音楽シーンでもそうだし、今や100人に一人は国際結婚の家庭である。

 つまり現代社会とは他方ではそういった恋愛や結婚の自由を保証しながら、同時に国体だけは一切変更を許さないという保守主義が協働している時代だと言える。

 それは或る部分では資本主義社会、資本主義経済だけが正統であり、共産主義経済とはソ連の解体によって終焉したという決定的な事実にも後押しされている。だから世界の多くの弱小国やオーストラリア程度のGDPの国家をマイクロソフトやアップルが買収さえできる程の資本パワーを持っていることを一方で認めつつ、国体的な修正は一切許さないという暗黙の密約が世界的に承認されている様なものである。

 そしてそれは同時に世界的にどの国の個人も個人で世界で通信を介在して発信可能である時代だから、ハッキング行為は連日連夜例えば日本に一日数十万件規模で行われていても、ウェブサイト自体を個人の発信の自由を妨げ、世界的に犯罪抑止の為に管理することにどの国も市民も同意はしないし、企業自体がそういったことを飲む訳がない。つまりそのレヴェルでは世界的に野放図にどの個人もその気になりさえすれば、ハッキングが可能である様な現実は温存させる代わりに国体レヴェルでは一切変更を許さない保守思想が占領するという言わば双方の手打ち的な措置が世界的に提携されている、という見方さえ成り立つのである。

 世界の暗黙のトレードオフは一方では肥大化するプライヴァシー重視的メンタリティと発信の自由を保証しながら、同時に国体的なことへの批判を全市民が差し控える様に世界のどの国家の元首もが画策する様なことで実現しているのだ。これは市民自身の自主規制的な禁欲主義の受け入れであると同時に、為政者や権力者が自由を獲得し過ぎた市民を管理統制する為に最後の砦として残した保守思想の温存の正当化を図る目論見の重複的事態と見ることもできる。

 今後もこの世界的傾向を注視していきたいが、リベラル的自由意見が容易に述べられる時代とは再来するのだろうか?例えば北朝鮮の周辺国への脅威が鎮まれば、そうなっていくのだろうか?

 それは今のところ分からない。しかしこれから数年位の世界の経済や政治の動向がその後の世界の情勢を精神的にも物理的にも決定的にするだろうというかなり確信に近い予感がするのである。(つづき)

 

付記 個性主義の時代は完全に終焉し、代わって義務履行者のみ特権が持てる実績主義へと世界的に社会認識が移行したこの十数年であったとは言えるところのことである。だから個人で発信するより、一定数の集団で主張することが正論だし、有利だという状況があらゆる業界や組織で定着してきた十数年だった。個というものの存在理由を問うのは哲学くらいかも知れない。

 だがそれにしても経済格差は縮まっていないという矛盾も顕在化しているし、保守的な思想が既得権者によって頑なに守られているということは言える気がするのだ。この点も何か又発信するべきことが見つかったら、書いていこうと思う。

 

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2017年9月 2日 (土)

思想・哲学メモPart87・宗教メモPart19

〇重要なことには宗教的殉教者は必ず繰り返し登場した。初期キリスト教徒でもそうだった。だからイエスの後にステパノが登場することによって、逆に常に教団とは(恐らく他のどんな種類の組織、集団でもそうである様に)初期のモティヴェーションを喪失して組織自体を温存させることへ感けていくことが証明される。だからその腐敗した経過を察知する一握りの改革論者が登場し、初期は殉教した。

 

 それ以後ダンテの神曲でも問題にしていた様に、天国へ行ける最上層の人と、地獄へ落ちる最下層の人との間の位階制が秩序付けられるに従って生まれつき不治の病に侵されている人への偏見や差別が生じ、それでは可笑しい、障害を持っていることはその本人の心がけとか祖先の行いとは関係ないと今なら言えるが、中世迄は違った。だからこそ神曲の様な文学作品がダンテによって作られたのだ。

 それは即ち存在の神が絶対的創造性を発揮していると知っていても、尚人倫的納得や理解を人間は欲するので、必然的に倫理の神の声という形で最初は確かに行いが悪いから病となるのだという非科学的見解が示されるが、徐々にそういった因果論的納得では満足しない倫理上での思想の進化と言うものが齎される。

 

 そしてそれは最終的には自民族同族同士の納得からナショナリズムへと落ち着いて行きやすいし、それ以外の収束を望めない部分もあるのだ。事実カトリックでは天国最上層には外国人は行けない。旧約聖書も選民であるところのユダヤ人とそれ以外は差別していた。

 だから必然的にどんなものでも(宗教でなく学術でも政治でも何でも)正統論とは、積極的にそれ以外の排他論・差別意識へと収束していく傾向は否めないのだ。

 

しかし時代が中世のそういった位階システム構築という組織・集団秩序安寧型の長い時代を経ると、再度今度はしかしステパノの様に処刑されることなく革命が成就する形でマルティン・ルターやカルヴァンが登場する。そこで初めてカトリックでは決して外国人は天国の最上層へは行けないという様な差別は表立っては言われなくなる。

だがそれでも個人による自己責任論になると、誰かを自分の周囲に近づけない権利まで主張され、結局アメリカのKKKの様なタイプのレイシズムやヘイト思想を容認する様な拡張された自由が絶対的猛威を振るう様なネガティヴな事態も同時に創出されていく。

何かの改変と再編成は新たな別の悪を生む温床にもなるのだ。

 

 

 

〇イエスやステパノの殉教の全てを縦の時間軸で全て見てこられた人は一握りだし、やがて似た人物が周期的に登場しても、実際は全く異なったタイプであっても、周囲の社会状況とか相互の異質な関係性の中の相関関係から~の再来という様なことを言うのは人間の一つの偶然の一致(coincidence)を見つける一種の傾向性だけからかも知れない。つまり全ての似たタイプの人物の登場が本当にそうであるかを確証することは誰にもできないということだ。だから当然、先述の真実Jesusの再来としてステパノを捉えてよいのかを実際に見比べて判断する術はない。~の再来とは一つの比喩的真実であるに過ぎない。

 

 でもその似た本質を持つ人が周期的に登場すること自体は全くあり得ないとも言い切れない。事実社会でも右傾化とリベラル化とは戦後世界でも世界全体で連動して周期的に反動現象として波の様に(それは正に経済学的な景気とも酷似している)なって繰り返されてきていることも事実だからだ(今正にヘイト思想とナショナリズムが吹き荒れている)。同じことはその異なった時代に於ける集団の中の個人の性格や思想同士の類似性でも言えることである。

 だから似たタイプの、殆ど存在理由は一致している様な別人が周期的に登場するという事自体が人類学的確率論として真理なのかも知れないし、その可能性を否定することも我々には当然のことながら出来ない。

 

 

 

〇ところで言語ではたとえ無神論者(atheist)でさえ、有神論者(theist)と同様、神でさえ出来ないと、それは神でもない限り理解出来ないといった言語行為上での比喩allegoryを相互に理解することができる。つまりどんなに個人的信条を違えても尚言語行為上では相互に相手の謂わんとしていることを理解出来る、という事実に於いて神学的発想は無神論者も含めてユニヴァーサルな現事実である。そのことの意味はそう小さくはない。

 

 つまり我々は異質の思想や信条同士として対立していてさえ、同一言語上では全くその意思疎通が可能だということだ、否寧ろこの意思疎通可能性こそが対立をも生み出していると言える。

 

 そしてどの民族も同一母国語を通してもそうであれば、その民族の者同士が同じ外国語を通しても、その意思疎通的ユニヴァーサルな状況創出の可能性は全く変わらないということだ。このことも極めて重要である。

 

 

 

〇勿論宗教神学上での納得として人民統治の論理として位階システムは自民族中心主義に彩られているけれど、どの民族もそういった自民族中心の(ethnocentric)エゴイズムに宗教信条も神学的位階制も彩られるという一点に於いてどの民族も人種も思考傾向といったものは殆ど相似、否もっと相同であるという奇妙な平等性さえ見出せる。

 だから各教典、聖典の研究では、そういったメタ的視点に立って、どの宗教でも志向する目的なそう変わりはしないのだという認識から、全てを俯瞰すれば、ユニヴァーサルな神学的秩序というものは見出され得ると結論してもよいこととなる。

 それは少なくとも可能性として賭けるべき価値だけは有していると断言出来る。

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2017年9月 1日 (金)

三島有紀子監督作品『幼な子われらに生まれ』の魅力と浅野忠信に就いて

 今年はアメリカ映画を七本、そしてイラン映画を一本、そして日本映画を三本観たので、もう少し(去年や一昨年はもっと日本映画を多く見たので)残りの四か月で日本映画の良いものを観ようと思ってまず今日映画の日に三島有紀子監督『幼な子われらに生まれ』を見てきた。二時間七分の上映時間が思ったより短く感じた。つまりかなり見応えのある映画であった。

 

 監督のことを私はこの映画を観る迄殆ど何も知らなかった。だが浅野忠信は現代日本と世界を代表する映画俳優であると知っていて、かなりこれまでも多く彼の主演作、助演や脇役の映画を観てきたので、その流れで観に出かけたのだ。

 

 この映画の原作は家族の殆ど戦場と呼んでもいい葛藤を多く描き、家庭という戦場の修羅場を描かせたら天下一品とされる重松清である。私は恐らく生涯重松の様なタイプの小説は書けないし、書かないだろうと思う。だからこそ一鑑賞者としては重松小説をベースとした映画が観たかった。

 重松の原作を脚本化させたのは荒井晴彦、今日本の全ての脚本家の中で最もヴェテラン且つ優秀な脚本を数多く手がけた名匠である。最近作では廣木隆一監督作品『さよなら歌舞伎町』も素晴らしかった。面白くない筈がない。

 

 映画はこの原作が10年以上も前に書かれたと思えない程現代社会の一つの在り方を示している。

 一組の夫婦がある。そして娘が二人居る。しかしその娘は妻が元夫との間に儲けた子達である。妻は離婚した後二人の連れ子と共に夫に嫁いだわけだが、今初めて二度目の夫の子を妊娠しているという設定である。

 夫にしてみれば妻が身籠った子供は離婚し母子家庭だった女性を妻にして、その間に初めて出来る血を分けた子供なのである。そして夫の男性にも彼女と再婚する前に離婚した元妻が居て、その間の娘は今は別の男性と再婚した元妻の家庭に居る。

 

 最初の一組の夫婦の夫は浅野忠信、妻が田中麗奈、そして浅野の元妻(大学准教授で今は別の専門の学者<大学教授>と元夫との娘の三人の家庭に収まっている)が寺島しのぶ、そして麗奈の元夫が宮藤官九郎というラインナップである。

 原作を読んでいないので、その点がオリジナルに忠実であるかは定かではないが、この主役の二人が住むコンドミニアムが斜行エレベーターで丘の上へ登っていくスタイルであることが映画全体の登場人物の心理とその進行状況に極めて効果的である。素晴らしいロケハンのセンスである。

 

 妻の連れ子の長女は小学校六年生で反抗期に突入している。そしてことあるごとに浅野演じるまま父のそうであって欲しい娘でない風にまま父の要望を裏切る。次女の連れ子は幼かったので事情を把握していず、まま父を本当の父だと思っている。そして浅野演じるまま父は決して非誠実な夫でも父でもなく、極めて誠実にまま娘二人共に接する。そこで何度も娘が訴える本当の父に会いたいという要望を叶えてあげようとして妻の元夫に会いに行く。

 

 その会いに行く妻の元夫を演じる宮藤官九郎が又素晴らしい。最も本映画で人間的に描かれている。一切のいい子ぶりっ子がない。本音だけを浅野演じるまま父に語り、彼も宮藤演じる妻の元夫の言い分も素直に聞く。

 

 でも最初は余りにもあっけらかんと父としての責任を放棄している風情に自分の妻にあの人に娘は合わせない方がいいと言ったりする。それでも娘はどうしても本籍上での父に反抗的態度を控えることをせずいつ迄も逆らい続けるので、浅野は宮藤に再度会いに行く。その場所は競馬場である。ギャンブルだけは止められない男なのだ。そしてサラ金で10万程工面して宮藤にそれを渡し、後日浅野は娘を独りで実の父へ会いに行かせる。

 

 そしてその時どうしても浅野は宮藤とまま娘がどうなったか気になって別の用で外に出ていた時妻の運転する車を自分で運転して二人が待ち合わせをしていた場所デパートの屋上に次女の娘(この娘を『おんな城主直虎』で幼児の時の直虎を演じた新井美羽が演じている)を一緒に車に乗せて行く。

 すると宮藤は約束どおり来て居たが、娘は来なかったと告げる(この時のクドカンの演技が秀逸である。この映画での宮藤官九郎は役者としての力量を率直最大限に示している。私は彼の脚本家としての仕事は好き半分、嫌い半分であるが、こういった映画での演技を観る限り、宮藤官九郎という役者はなかなか凄い名優である)。この辺りの描写が素晴らしい。

 

そして映画の前半に直ぐ出てくるのは主人公浅野の実の娘である(鎌田らい樹2003年生まれ、14歳の女優)。そしてその娘に「もし今のお父さんとの間に君のお母さん(彼にとっては元妻)が子供を産んだら君はどうする?」と自分の妻が連れ子の下の子として新たに家族が増えるので、そのことと引っかけて質問する下りがある。

その実の娘が映画の後半に再度登場し(それ以前に別の用で元妻と会った時に告げられていた、夫が癌で余命半年だと聞かされていたので、映画の観客は察知して観る訳だが)、自分にとってはまま父であっても、もう直ぐ死ぬと思うと凄く辛い、と実の父に抱きつく下りが描かれる。このシークェンスがあるからこそ、最後に主役夫婦に新たな命が産声を上げる場面で、家族全員が一つになりやっとほっとさせる結末に持っていくことの意味が一挙に理解される。

つまりこの映画のタイトルである『幼な子われらに生まれ』の幼な子とは、実際の新しい命のことでもあるが、同時にこのつぎはぎだらけの偽の家族(だと、まま娘が主役のまま父にそう語るシーンが前半に多く登場するのだが)が本物の家族になっていく最も重要な第一歩であること自体をも意味しているのだ、と了解される仕組みとなっている。

 

 そういった意味でこの映画の原作者の重松の力量と、脚本家の巧さと、NHKのドキュメンタリー演出出身の女性監督、三島有紀子の手腕の素晴らしさは、この偽家族、疑似家族が本物になっていく契機として赤ん坊が生まれるという事態を捉えているところなのである。その一連の筋の流れに観客を引き込む手腕が秀逸である。

 

 尚本作が映画出演第一作である2002年生まれで今年15歳になる妻の連れ子、長女役の南沙良の演技がまず注目である。本作出演を契機に彼女の芸能人生がスタートした訳であるが、今後が凄く楽しみである。

 

 又重松は本作品の原作をかなり以前に書いたけれど、ずっと映画化の話があったにも関わらず断り続けてきたのは、荒井晴彦が未だ自分が駆け出しの頃書いたこの作品を読んでくれて激賞してくれたことがあったという逸話をパンフレットで読んだが、三島監督メガホンで実現するまで映画化を断り続けてきた原作者重松清にも感謝の念を伝えておきたい。

 

 この監督の仕事を今後も見届けていきたいと思わせる力量にまず拍手を送りたいし、敬意を表したい。

 

 

 最後に役者、浅野忠信に就いて書いておきたい。

 

 私が記憶している限りで観た彼の出ている映画をリストアップしておこう。そして特に素晴らしいと思えた作品のみコメントしておきたい。

 

御法度、PARTY7、座頭市、父と暮らせば、黄金を抱いて翔べ(井筒和幸監督の下、アウトロー的な雰囲気の過去のある男を好演している)私の男(熊切和嘉監督の下、屈折した男の孤独と支配的エゴイズム演技が秀逸である)、ルパン三世、寄生獣・寄生獣完結編、岸辺の旅、グラスホッパー(瀧本智行監督の下、暗殺対象者に自殺させる様に持っていく独特の心理的テクニックの殺し屋を好演、共演の山田涼介との対決シーンが見ものである)淵に立つ(深田晃司監督の下、映画の観客が後で分かる凄い過去を秘めてミステリアスな或る家族の闖入者として強烈な印象を残す)、新宿スワンⅡ、そして本映画である。

 
 尚役者の浅野は実人生でも結婚と子育てと離婚を経験していて、その父としての、夫としての人生全体が働き盛りの44歳になるこの年に上映されたことは、恐らく役者浅野の人生にとっても極めて重要な一作となったであろうことは、本映画を鑑賞した全ての人が感じる事であろう、と思う。
 益々の今後の活躍(国内外を問わずのであるが)を期待したい。

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