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2018年9月

2018年9月30日 (日)

プライヴァシーの尊重も意外と陥穽はあるし、実は人のエゴイズムに限界はない

 世界的に人類の真の悪とエゴイズムを最もよく育てるものが性であることだけは間違いない。


 性だけは公的なこととして語られない。にも拘らずどんな個人も婚姻関係を結んだりすることは権利として認められるし、それは国家や民族に寄与することとなるから承認されるけれど、実はそうしながら自分中心、自分の欲望中心であることを誰もが認め、それを取り上げられたくはないから、性に拠ってはっきりと自分の愛する者達とそうではない只の他人を分けている。


 つまり凄く面白いのは人の性悪とは、即ち、自分や自分の愛する者達だけは出来るだけ楽をして、自分以外の他人に自分達にかかる負担とか辛苦を肩代わりして欲しいという積極的にエゴ的な自分本位で、人に不幸を押し付けたい気持ちである。

 それ以外の本当の我々個々の気持ちなんてあり得ないのだから。それを敢えて見ない様にしている偽善と欺瞞を認めたくないなら、その我々のどの個も持っている醜いエゴイズム心理を理解しなければいけない。

 だから権利とかプライヴァシーとは、明らかに自分本位でしか生きてはいけない僕達人類全体から発せられている自己弁護でもあるのだ。


 だからそういう余りにも醜い我々の姿を誰もが知っているから、それを一時に忘れたいが為に、我々はきっと美しいメロディや歌詞の音楽や歌を聴いて気持ちを紛らわせているに違いないけれど、それよりはやはり人の醜さをもっとストレートに示す小説も読みたいし、映画も鑑賞したいっていう訳だ。

 絵の色彩的美しさとかマチエールとかメチエとかに感動するのだって、そういう我々の完全なる自分本位でしか生きていけない現実を一時そういう抽象的世界に接する事で浄化する為なのだ。

 だからプライヴァシーとは美しい絵の人それぞれで違う基準とか好きな音楽の曲や歌の基準とかよりはずっと、もっと凄く本質的な何かだとは言える。


 つまり性に纏わることは、そのことで人の生命を作ってしまうことへ繋がるから、やはりかなり禁止も出来なければ、干渉も出来ないけれど、余りにも全てをプライヴァシーの一言で片づけられもしないことなのだけれど、やはり内容が内容だけに、そう簡単に人の基準を自分の基準では推し量れない。

 拠って人を好きであるという感情と同じ様に性とは、個人毎に異なる基準だし、人には言えないし、又比べられないことだから(その点では性的嗜好自体に差別を撤廃しようとしている現代社会は、それなりに人にとって住み心地だけは良くなってきているとは言える)、やはりタブー的に余りきちんと解析しない様に我々は無意識に心掛けていると言えるけれど、兎に角、人を好きになって、相手を愛する事とは、即ちそれ以外の全ての他者に無責任を決め込み、一切どうなってもいいという態度を取ることを自分の権利とその為の義務履行と引き換えに手に入れていることだけは事実である。


 だって、セックスしている時の凄く平和な気持ちは明らかに、自分達だけ世界で残って、他の誰もが他人なんて死滅したっていいという気持ちにならずに、そうしている人ってきっと(恐らく絶対)居ないと思うから。

 そうやって自分達は出来るだけ楽をして、人に辛い思いを肩代わりさせたいからこそ、古代から奴隷制とかも世界に存在し、中世になっても領主とか地主と、小作人との間の階級制度が設けられてきたのであり、それは自分以外の他者を搾取しながら、その実その搾取して使用することで相手に感謝させて、自分達はその甘い汁を吸うということを権利として認める、それが資本主義社会の本質であることは間違いないからだ。

 でも、それは決してそういうものだとは言ってはいけないこととして現代社会は動いているし、又それが国際的規約であること自体がグローバリズムの考え方なのである。


 だから基本としてそういう形で今の世界秩序が成立しているのだから、たまにそれとは違う傾向の発言をする人が登場したからと言って、それを全て躍起になって否定なんてしなくても、それ自体はそれ程奇異なことではない、とだけは言い得る様にも思えるのだ。

 でも、きっとそういう全ては何時の間にか、やはりどうでもいいこととして処理されていくだろう。


 何故なら何時だって、その時だけそういう雑事に意識を取られて人は気分を紛らわせているけれど、所詮最終的には自分のことしか考えられないし、一々関係のない自分や自分の愛する者以外の他者のことなんて考えてなどいないからである。

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2018年9月29日 (土)

点・線・移動Part3

〇四肢移動(四足歩行動物の移動)は必然的に地面が胴体と平行であることが理由で、常に目先の遮蔽物への認識が最重要となる。

 つまり彼等は二足歩行の我々の様に遠くまで見通せない。

 しかも横から遠くの同一種個体を見る以外、相対する場合、動物は顔と目が中心となり、胴体は分からない。それは自分の胴体を自分の目で見ることもそうだし、相手の胴体を見ることもそうである。

 対しヒトは他個体と相対した場合、胴体がお互いに丸見えとなる。つまりヒトの場合は敵対者とそうでない識別は一目瞭然となる。従って敵対部族と仲間とがその様に相対する状況自体を一切持たない様に事前に注意する様にするだろう。

 でも同一部族では相対することは即ち最初から武装解除していることとなる。

 

〇上記事実から必然的に相対する他個体とは闘争対象では抑々ないのがヒトである。

 つまりヒトとは相対した場合相手の胴体も丸見えだし、且つ相手の胴体の下部(足元)を確かめながら且つ自分の身体の足元を確かめることさえ可能だ。

 この能力は四足歩行動物の四肢全てを使った移動形態の姿勢では不可能である。

 この様な運命的な大きな差異から、必然的にヒトは相互信頼と協力体制を構築することは、この移動システムの相互維持に於いて比較的容易かったであろう。

 デカルト座標軸的な認識さえ(デカルトは16世紀後半から17世紀中盤にかけての)数学者であった彼は、そのヒトの歩行システムの維持と協力体制の文明の中から登場している訳だが、座標自体の構築coordinationはギリシャで既に行われていたのだけれど、それはこの直立二足歩行システムによる著しい四足歩行では到達し得ない恩恵の下に為されていると見做すことは容易い。

 

〇直立二足歩行は、四足歩行動物と違って、自己身体認識をしやすい姿勢なのだ。

 それはまず垂直認識を得ることで、地面と自己(その心は専ら脳の収められた頭、そして顔が地面から離れているということが最大特徴であり、メリットである)の関係性を容易くヒトへ齎す。

 四足歩行動物は先までまず地面の形状を認識し難い。従ってそれへ費やされる神経活動に多大の負担を強いる分、他個体との協力体制へ持ち込ませる為の神経活動労力をヒトに比べ残し難い。

 この障害物を地面で発見する場合先まで見通せない事のデメリットが、逆に衝突すべき相手としての他個体との協力の推進をすることを阻んでいる。

 直立二足歩行者とは、その点地面の持つ形状や、その先の見通し易さから、必然的に身近に生理的に自分が四肢全てを地面へ接触させて移動しているのではないので、他者化しやすい。これは言語的論理的認識を持たせやすい条件と言える。

 垂直直立姿勢から水平状態への認識を容易に得やすい。つまり水平垂直関係性から座標軸的認識を得ることの容易さこそが、世界を関係性で位置づけ、その中にある「私」という意識を持たせることから、言語論理的構造的把握を旨とする神経活動へ持ち込ませやすいと言えるのが、この直立二足歩行者の持つ運命的とも言える好条件の取得なのである。

 

〇本来握手とは人類史的にも相対する他個体との間でお互いに武器を持っていないことの確認であり、証明であったし、乾杯とはお互いに毒を相手のグラスに注いではいないことの確認であり証明であった訳だが、この和解や和平的なる行為の持つ意味を認識させているのもやはり直立二足歩行である。

 四足歩行動物は自己身体を自分の目で確認しようとすると、必ず他個体と相対している場合に、相手へ自分の後頭部を直に見せてしまうこととなる。

 ここを相手から直撃されればおしまいである。

 しかし直立二足歩行者はそうではない。既に述べたが、相手の足元にも注意を注ぎながら、且つ自己身体全体を一瞬で確認することも可能である。

 そして何より直立して水平の距離的認識を得ているので、相手との間に距離を事前に取る様に持ち込ませるのも四足歩行動物よりずっとしやすい。

 その事は戦争形態をもより進化させると同時に和解や和平へ持ち込むことも同時に進化させることとなる。

 

 中世から近世まで頻繁に行われた欧州貴族同士の決闘とは、剣を使う場合でも銃を使う場合でも、必ず直立二足で地面から垂直に立位である場合、その間に距離をとることが必須となる。この距離を取れることが、逆に親しい者同士は近づけるということを可能としている。

 それを意識、認識レヴェルで可能にしているのである。

 だから戦争し合う敵対者同士の距離を取れることそのことこそが、逆に愛し合う為に相対して相手の目を見ることを異性同性に可能にしている。

 これも四足歩行動物では不可能だからである。


(つづき)

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2018年9月28日 (金)

日記的記述GC 我々は違いを直ぐ目に留めるけれど

 ほぼ毎日ハングルの字幕付きや副音声だけのドラマを見ているし、英語ドラマや映画もほぼ副音声で毎日見ている。アメリカ映画、イギリス映画、カナダ映画、オーストラリア映画等々である。


 さて我々はそういった外国語のドラマや映画を見ていて、ややもすると、その文化差やら言語の違いから、我々日本人と彼等との違いにばかり目が行く。

 でも、悲しい時には泣き、辛い時には誰か縋れそうな人に救援を叫ぶ、これら全てに国境の差も、民族や国毎の差なんてない。

 つまり愛に対する妄執やら、吹っ切れなさ、忘れられなさ等の全ては、どの民族や国民にも共通している。全く違いはない。

 

 ところで、英語では「彼って賢くないね。」を意味する文として

I dont think he is smart.

とは言うけれど、

I think he isnt smart.

とは何故か言わない。

 だから仮にそう言ったとしても、相手に意味だけは通じるけれど、自然な英語だとは思われない。

 その理由を何故だと聞かれても、即座に私にも返答できない。

 けれど、例えば日本語でも「彼は賢くないと思います。」と言うよりは、「彼は賢いとは思えません。」と言う方が何故かしっくりと聞けるということがありはしないだろうか?

 

 勿論意味的には両方とも間違いではない。でもそれを伝える時自然に響く言葉と意味の運び方はやはりどの言語でもある。

 そして今の例の場合、明らかに英語も日本語も共通して、否定辞として示す場合には主格の動詞自体を否定にしないと何かしっくりとこないというところがきっとあるのだ。

 つまり否定を後ろに持っていくと、どういう訳かは分からないけれど、持って回った(悪しく理屈っぽい)言い方に聴こえてしまうみたいなのである。

 

 だから、そういうちょっとした言葉の感情的な相手への伝わり方の様なものには、意外と(文法でも構文の作り方でも何でもだけれど、各言語間にはかなり大きな違いが横たわっているにも関わらず)、最も大切な単刀直入に伝える場合には、共通した現象がどの言語でも見られる様に思えるのである。

 だから悪しき例の言い方をする場合には、その報告者が余りにも言いづらい、苦渋の末にやむなくその事実を伝えているというニュアンスになってしまうのだろう、と思う。

 

 自然さとか、要するに人間の機微に関する細かい事に於いて、違う言語を使う人との間に、きっとそう大きな差はない、と見る方が正しいと、最近思えるのである。

 それは、かなり際立って色々な言語の違いを乗り越えて、やはり同じ人間であるということの証拠の様にも思えるのである。

 

 そして上記の様な細かい発見をできるから、色々な国のドラマや映画を鑑賞することはいい勉強になるし、そこで得たことを英語詩を書く上でも応用しているのである。

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2018年9月27日 (木)

点・線・移動 Part2

〇心は点である。その点で二つの目という点を通して世界を見る。


〇点である目は点である相手の目を見る。これが人間の基本である。


〇人は立って歩く。直立二足歩行、これが最大の特徴である。又この事実は他の動物と決定的に異なった或る点を我々へ与えている。

 それは自らが空間移動する時常に地面が頭と顔から離れているということだ。これは四肢全てを使って移動する動物や、抑々四肢の無い動物では考えられないことである。


〇地面に対して対峙的意識が持てること、これが地球環境という自然全体へ客観的視点を与えている。つまり我々は自然を対峙として捉える。その時点で、言語を有す我々は自分と同じ言語を持つ相手を対話できる相手と認識する。

 古くはそうではなかったが、今ではそれは違う言語を持つ相手に対しても適用される。人種や民族の差を超えて他者として理解できる、ということは、実はかなり長く閉鎖的であった時代を持つ前の人々に於いては可能だっただろう。

 そこから全ての信頼という観念が心に生じている。


〇つまり相手の目を見るという点である心が点である目を通して他者の点を凝視するところから我々は信頼と対話という観念を我々にとって重要な財産と受け取る。

 そこから思考する我々は、もう直立二足歩行と、その地面と離れた頭と顔という事実・現実が生み出している地面全体を一つの他者として捉える視点は、四肢全部を使って空間移動する他の動物では成立し得ない。何故なら、彼等は常に他者という観念を持てない様に生きているからだ。野生では同一種であれ、恣意的に協力することはあっても、基本的に信頼という観念を持てる訳ではない。母が自分が生んだ子を認識する以外のものを彼等は持たない。

 このことは彼等には実は地面そのものが彼等にとって主観的な在り方であることを物語る。つまり地面擦れ擦れに頭と顔が位置することで保全ということが、自らの限られた視野からしか得られないからだ。


〇人は成長し、地面をかなり頭と顔が地面から離れた空間座標軸点から見ることから、遠方への認識と把握を持て、世界というもの、自然というものを一つの他者として認識し得る。そこから様々な道具を作るという行為を可能にしているのだ。


(つづき)


 


 付記 本シリーズはPart1は、今年8月25日に別ブログ 何か叫ぶ為のブログ にてアップされた別の詩の続編である。Part1は別の機会に本ブログでもアップする予定である。

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2018年9月26日 (水)

言葉の慣用性とは何か?Part201 二百回記念研究発表、撥音と促音の日本語の一つの機能に就いてⅡ

 前回の促音の語彙を再度並べて検討してみよう。

あっさり (副詞スル・自動)

あっぱれ (「あはれ」の転。「天晴れ」はあて字)(形動)(感)

がっぽり ()

きっかり ()

きっちり (副詞スル・自動)

ぎっしり ()

くっきり ()

ぐったり (副詞スル・自動)

こっそり ()

ごっそり ()

こってり ()

さっぱり (副詞スル・自動)

しっかり (副詞スル・自動)

しっぽり ()

すっかり ()

すっきり (副詞スル・自動)

すっぱり ()

すっぽり ()

そっぽ (名・側方)

たっぷり (副・形動)

ちょっぴり ()

でっぷり (副詞スル・自動)

どっさり ()

ばっさり ()

ばっちり ()

ぱっちり (副詞スル・自動)

びっくり (名・副詞スル・自動)

びっしり ()

ぽっきり ()

ほっそり (副詞スル・自動)

ぽっちゃり (副詞スル・自動)

ぼってり (副詞スル・自動)

 

 これ等の中に「まったり」「もっさり」を入れると、それは寧ろ撥音的な緩慢さの方に近い意味を示すので、決して厳密に法則的ではない、と言える(でも前記二つはM音を使用しているので、それが例外だと見ることもできる)ので、これは当然緩やかな一つの傾向とだけ言えるが、それでもその緩やかだが或る程度そういう法則があると見ても間違いではない一つの傾向とは、前記の全ての促音の語彙は、少なくともずっと変わらない感じへの一つの失望感を相も変わらず抱いてしまうという溜息的な観想はない。


 つまり敢えて言えば撥音語には明らかにそれがある、つまり変化を本来なら期待するのに、あに諮らんや、それが決して達成されているとは言えないという正にやんわりとした失望感への観想がある

 だが、促音語には、それとは明らかに異質な予想通りでも予想通りでなくても、意外性はある。しかしそれは失望感の観想ではなく、寧ろ期待するしないと関わりのない一つの厳然とした事実認定の態度であり、この明白さへの言及という意味では決然的な伝え方にしやすい語彙の意味の指向性がある



 語彙の意味は必ず何等かの伝えやすさという形で厳密ではないので、例外の多少は必ず派生させはするものの、やはり一定の法則性はある。

 だから、それは意識的に合議によって決定されている様なことではなく、語彙使用者間の慣用に拠って自然と定着していくものである、と言える。

 たとえ厳密でないにしても、全く何の法則性もなく我々が一々の語彙を巧く覚え円滑に使用する様になる訳はない。

 


 今回はここで一度論を止めるが、この無意識的なる慣用性の問題は小さい問題ではないので、いずれ又別の機会に、発見したなら報告したい。

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2018年9月25日 (火)

言葉の慣用性とは何か?Part200 二百回記念研究発表、撥音と促音の日本語の一つの機能に就いて

 撥音を挿入することで一つの緩慢さ、相も変わらなさを示す為に、溜息をついて言わせる様に言う言い方は、日本語では次の様なもので既に利用されている。

 左に正式な(formal)な言い方を、撥音を挿入して、その溜息をつかせる様な印象を聴く者に与えるその謂い方である。

 

同じ(おなじ)おんなじ

皆(みな)みんな

侭(まま)まんま

 

 しかし副詞にはこれら以外に元々は撥音が入っていなかったらしき語彙に発音を挿入して、そちらの方が定着したと思われるものもある。

 それが次の様なものである。

 

すなりすなりすんなり

 

 しかし「すなりすなり」は既に現在では殆ど言われなくなった言い方だし、抑々この言い方は 

 

すならすなら

 

 であった。

 「角川新版古語辞典」(久松潜一、佐藤謙三編)ではこの「すならすなら」を次の様に説明している。

 

(-と)副 「すなりすなり(と)」も静かに歩くさま。また、身のこなしがしとやかで気がきいているさま。しゃなりしゃなり。「小褄 こづま をかい取って、-と歩み来る」〔浄瑠璃・日本武尊〕

 

 つまり抑々「すんなり」は例えば吉原芸者の太夫の歩く様を我々は思い起こさせる「すならすなら」が起源だとするなら、雅な井出達とその所作が庶民化され応用されたことになる。

 

 しかし日本語にはこの「すんなり」の様に撥音を挿入して緩慢さ、それは要するに「相も変わらず一定であること」の意味合いで次の様な言い方が更に存在する。

 

 

うんざり (副詞スル・自動)

 

くんだり (接尾辞)

 

げんなり (副詞スル・自動)

 

しんなり (副詞スル・自動)

 

たんまり (副詞)

 

だんまり 黙(り)(「だまり(黙)」の変化した語)

 

ちんまり (副詞スル・自動)

 

にんまり (副詞スル・自動)

 

やんわり (副詞)

 

 

 この中では「しんなり」は明らかに「すんなり」に近い意味合いで使われている。

 「すんなり」「しんなり」を続けて「新潮現代国語辞典」(山田俊雄・築島裕・白藤禮幸・奥田勲編)の説明で示しておこう。

 

すんなり 一(副・スル自動)ほっそりして恰好のよいさま。「-腕をのばして光・道後二(副)なんの支障もなく事のすすむさま。「提案は-認められた」

 

しんなり(副・スル自動)優美に。しとやかに。〔ヘボン〕しなやかなさま。「女郎花の一時をくねる細腰も-としてなよやか〔浮雲〕」

 

 もう一度先程の撥音挿入語彙を列挙してみよう。

 

 

うんざり (副詞スル・自動) くんだり (接尾辞)げんなり (副詞スル・自動)しんなり (副詞スル・自動)たんまり (副詞)だんまり 黙(り)(「だまり(黙)」の変化した語)ちんまり (副詞スル・自動)にんまり (副詞スル・自動)やんわり (副詞)

 

 

 個々の意味を一々記さないけれど、これら全てが或る緩慢な余り即座に変化推移することのない相も変わらず少しずつそうなってしまっているか、その時に突然起きた所作や動作であっても緩やかに、ゆったりと、要するに速度的に緩やかな様の意味であることは明白である。

 

 しかし、日本語ではこれらのパターン以外にもう一つ顕著な意味合いを共通して持つパターンがある。

 それが促音挿入語彙である。

 列挙しておこう。 

 

やはりやっぱり

 

 これら以外に次の様な語彙がある。

 

あっさり

あっぱれ

がっぽり

きっかり

きっちり

ぎっしり

くっきり

ぐったり

こっそり

ごっそり

こってり

さっぱり

しっかり

しっぽり

すっかり

すっきり

すっぱり

すっぽり

そっぽ

たっぷり

ちょっぴり

でっぷり

どっさり

ばっさり

ばっちり

びっくり

びっしり

ぽっきり

ほっそり

ぽっちゃり

ぼってり

 

 これらの語彙に一目瞭然に認められることは緩慢さとは正反対のある決然とした感じ、或いは明白で緩やかな推移ではなく、即座に全体的性格を規定している態度から言われている事態の言辞ではないだろうか?

 従ってそれは潜在意識の上では意外性を含んだ発見とその報告という意味合いが内在している様に思えるのである。

  

 そして、それは撥音のパターンと正反対の至高を暗に示す様に共存している様に思われるのである

 


 今回はここで終わりにして、次回はこの促音挿入語彙の個々の意味をまず提示してから、その敢えて促音を使用している日本語の側の理由から考えていく。


 (つづき)

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2018年9月24日 (月)

何故我々は狭い路地に惹かれるのか?

 月曜日の早朝先週の火曜日深夜放映された『旅するフランス語』の再放送がeテレで放映されるので、前の週の深夜だけでなく、それも再度見ている。フランス語を学ぶ貴婦人が常盤貴子なので、見ていて目も保養になる。

 美女に確かにフランス語は似合う。又常盤貴子くらいの美女になると、全く違和感がない。

 今日も先週に引き続きアルベール・カミュを巡るフランス国内の旅だったけれど、そこで映ったカミュ通りと今は名付けられたその路地が何とも言えない風情があった。


 この路地は当然日本国内でも素晴らしい場所は沢山あるし、パリにもNYにもあるだろう。

 でも人間は何故この狭い、何と言うこともない、取り立てて目を惹くのでもない路地に惹かれるのだろう?


 つまり人間は凄く広大な平野とか、所謂視覚的なだけでなく、体感的に例えば平野を見下せる山に登ってその展望台から見た百八十度水平に広がったその何とも言葉にはできない脳で処理している視覚情報が齎すものは、やはり身体が浮き上がっていく様な感じ、つまり重力から解放されていく様な感じと言えるだろう。

 でも、路地裏とはそういう感じでは当然ない。

 少なくともそこは超越的な風景ではない。

 又、狭い空間だから体感的に大空に羽搏いていける様な感じでもない。

 

 だから逆にそういった狭い路地等の空間に惹かれる我々は、体感的に広大である水平や、超高層ビル(sky scraper)がその地上に立つ人へ与える垂直な凄さの様なものとは異質の、自由とか絶対という概念からするなら、明らかにマイナーな空間に惹かれる人間とは、点的なことに拘って生活してきた、ということもできる。

 つまり広大な平野や砂丘、そういった概ね横に広がった空間は、明らかに人間に強いる移動では線的であるし、その線は広大な面に取り囲まれている。

 でも路地裏の様なものは日本にも欧州にも、他のアジアの国にも数えきれないくらい存在するだろうけれど、それは分割していく無限、つまり極小へ志向する可能無限の世界だから、やはり概念的に点的である。


 だから、それは移動ということを確かに人は一生何らかの形で維持し続けるのだけれど、一方では一箇所に留まる、ずっとそこに居続ける、定住するということも当然大きな事実として生に君臨しているのだけれど、その移動に対する屯する、そこに長時間留まり、憩うということ、これを路地裏へ何らかのノスタルジーを抱くとすれば、そういう拡張されていく空間体感性と反対の志向として絶えず携えているということを意味している様に思われるのだ。


 だからどんな街でも惹かれる路地というのはあり得る。

 寧ろ誰もが訪れる観光的価値のある名所ではないからこそ、却ってその土地に住む人々の息遣いが仄浮かび、そこからそこはかとない想像の世界へ飛翔していける、そういう風情が常に狭い路地、狭まった空間にはあるのだ。

 

 それは人間の身体の移動に伴う線に対して、点的にそこに固定的に留まる(stay)ということの意味を我々に教えてくれている様に思われるのである。

 それはついこの前迄建っていたアパートが取り壊され、空き地となって、たったそれだけのことで、それまで自分の記憶の中で定着していたそのよく知る風景の感覚とか意味ががらりと変わってしまう様な綾に於いてこそ、我々はやはり広大であり、無限である様な空間の凄さとは異質の、しかしその広大さそのものとも、やはりどこかでは繋がってもいる、狭さ、区切られ、囲われ、限定されてあるが故に何を我々の感情へと喚起させる風景にも惹かれるのではないだろうか?

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2018年9月23日 (日)

愛と闘争/縛りと緩み①

愛は憩い、癒しだ。

だが、それを得る為に仕事を通した戦いがある。

競争は緊張であり、気を抜かないことである。

その上に愛を成立させる全ての緩みがある。

 

縛りや緊張ばかりの世界なんてなく、癒しや緩みだけの世界もない。

もし癒しと緩みを大きく取れば、その分縛りと緊張を取られ、この反復は人が死ぬ迄解放されない。

 

闘いが人前で何かして楽しませるか、何らかのプログラムを数値や文という代数を通して提出するか、軍務で補給物資を運び調達先へ送り届ける為に操縦するか、機械を使うか、見せる為のレースや試合に出て観客を楽しませるかの違いがあるだけだ。

一切働かず、異性に食わせて貰うのだって、一つの神経労働である。

 

人は弛みっ放しでも信頼を失い、緊張し過ぎても敬遠される。

人から縛られたくなければ、自分で自分を縛るしかないが、人に縛られることを選んだ人は他者へ常に全体の調和を強い、自分で自分を縛ることを選んだ者は集団へ抵抗する力を持とうとし、個人で働く者へエールを送り、それ以外の他者とは関わらない。

 

女は女で全異性へ緩ませるには、いつもどこかで緊張していなければならず、一人の異性へそうさせるには、その異性を縛らなければならない。

女は自分で緩めば、必ず苦痛が待っている。

 

男は大勢の異性へ緩めば、家庭的であることは諦めなければならず、家庭を持ちたいなら、一人以外の全てを諦めなければならぬ。

 

人に縛られることを選んだ者は、又違う縛られ先を探せばいいから飽きてもいいが、自分で自分を縛ることを選んだ者は飽きてはいけない。

飽きていい者の社会を生き抜く知恵は俗であり、飽きてはいけない者の社会を生き抜く知恵は俗へ浸り込まないことだ。

前者は権利の知恵で、後者は殉教の知恵なのだ。


(つづき)

 

2018. 9. 22

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2018年9月22日 (土)

創作メモ36

 意外と創作で気を遣う部分とは、例えば打ちひしがれた人へ送るエールの詩でも、ではどういう性格の人に対してか、ということは多少いつも悩むところである。

 しかし打ちひしがれている時というのは日頃傲慢な態度を取っている人程殊勝な気持ちになっているものだし、却って日頃から控え目な性格の人の方がエールに対して、お節介だと感じることはあり得る。


 でもいずれにも合わせないで、いずれも客観的に読んでくれそうなことを書くという意思決定はあり得る。それはそしてそんなに悪い決断の仕方ではない。

 要するに或る一つの詩の文言にどう反応してくれるかは人それぞれでいい訳であり、又誰に対してということが特定的でない場合(誰か凄く関心のあった人や尊敬していたりする人が亡くなって、その生前の活躍や偉業に対するオマージュである場合以外は)、どういう結末の詩にしても、どういう読者への共感を誘う仕方でも、逆にどう突っ放していこうかという仕方でも、所詮決定権は自分にだけあり、それでいいのであり、第一自分と異なった人格の人が書いた様な詩の雰囲気等出せる訳がない。仮にそう試みても直ぐ化けの皮は剥がされる。

 だから一切そうった気負いや衒いは持たずに全て書く。それに尽きる。

 

 確かに日本社会は社会に出てスタートを切った時点では、その時点でかなりいい有能で力のある人の力添えでかなりいいスタートが切れるという意味では、そう公平な社会になっている訳ではない。

 だが、それは最初だけであり、最終的にどんな分野であれ、自己努力と研鑽を積んだ人間だけが、或る程度のいい仕事をし続けられるのであり、最終的にどういう風に最初に受けた影響や恩をいい意味で裏切って、それ以上のものを出していくかでその人の仕事の技量も成果も決まる。

 

 詩の場合、今感じていることが、過去からの声、要するに今持っている過去への追想と、その事と今抱えている事とが合わさった未来への思いが必ず出る。それが一切出ないのなら、それは詩ではない。

 小説でも、やはり今関心のあることしか作家は書けないだろう。

 そして今関心があることとは、要するに過去に出会い、感動したり、失望したり、挫折したり、要するにそれら全てが合わさって出来上がっている今という時点への捉え方が大きく関わっている。そしてそれは当然過去から今迄通じて得てきていることから自分の内部で発生している筈の未来への希望や不安が必ず投影されるのだ。

 

 だから今関心が或る事は以前からそうであったことと、それに対する今がどうあるかという事(自分の判断)に対して持っている事であり、それが未来にどう展開していくかに対する関心と期待と不安が入り混じっている。

 従って完全に夢と希望だけに満ち溢れていることはあり得ないけれど、完全に不安と絶望と憔悴にだけ支配されている訳ではない。

 勿論そのいずれでもいいけれど、どちらかと言うと、後者の方が詩にはなりやすいとだけは言い得る。

 逆に夢と希望と楽しさだけに満たされた気分や真実にその時の気持ちを表すのには、闇から脱したという意味合いも込められていなければ成立し難いとは言える。

 

 詩で書くことは過去に出会って良かった人や、出会ってかなり辛い思いをしたこと全てが生きてくる。だから人間観とはその侭社会観であり、自分観でもある。

 過去観は未来観であり、今観もそれらと密接である様な意味で、個も集団も私と私以外と貴方、そして彼や彼女である。

 詩は、だからかなり無限に展開可能なフィクションであり私小説でもあり、実録でもある。

 その辺のことは今後もずっと引き摺っていきそうな命題になりそうだ、という予感だけが今ある、と言える。

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2018年9月21日 (金)

日記的記述GB 聖地に拘ることとそうでないことに就いて①

 凄く単純に言えば聖地とは、そこの場所が凄く重要であり、昔何か極めて重要な事が起きた場所だからである。

 例えば日本で言えば伊勢神宮、出雲大社、京都御所、東大寺、鶴岡八幡宮、唐招提寺、日光東照宮、皇居、明治神宮といった場所である。

 それ等の場所は滅多なことがなければ場所が移転することはまずない。

 あるとしたら極めて重大な政変だけであろう。

 聖地巡礼という意味ではどの国にも、どの宗教のどの宗派にもそういう場所はある。

 エルサレムの嘆きの壁、イスラム教聖地であるメッカ、バチカン市国のローマ法王庁、英国のバッキンガム宮殿、アンコールワット、青瓦台等々である。

 でも、そういった場所が凄く犇めいているということは歴史と伝統に呪縛されているということを意味する。

 アジアはそういった聖地が凄く多いエリアである。


 その意味ではアジア人とは聖地を作ること、だから場所がその一点であることに意味を持たせるということからすれば、不動を生活的な感性から求めていると言えるだろう。従って点的な空間の認識がアジア人全般にはあると言っていいだろう。

 でもその点では英国のバッキンガム宮殿以外の場所は英国系の大陸移民達にとってはさして重要ではなかったとも言える。勿論アメリカをはじめどの国にも聖地的場所があるだろうけれど、それ程長い歴史を持つ訳ではないから、彼等はやはり一点に聖地を置き、そこに集うと言うより、どこもこれから何かするべき場所なのであり、要するに線的に移動するということが彼等には重要であることは、全く言えていることだ。

 その点では英国系民族(アングロサクソン)は率先して、その後に続くアイルランド系やドイツ系の移民の先鞭をつけたと言える。

 日本の場合植民地政策を取った時点で、既にかなり出遅れているので、植民地政策の失敗が戦争の最大の敗因である。

 何故そうであるかと言うと、やはり日本人は国内に多くの聖地を持ち過ぎていたからだろう。

 寧ろそれ以外は全て二義的意味合いしかなかったということそのことが大戦の敗戦原因である。

 聖地を持たない民族は線的に移動し、開拓していくしかない。

 だから日本では北海道へ移住した人達は日本史の中では、アメリカへ移住した移民と似た意志と決断はあったであろう。

 住めば都という言葉は、その侭移住者の言葉であるが、聖地にずっと住んで、それが誇りの人には、移住という観念はない。

 だから移住するということはどんな場合でも、そしてどんな民族でも、それなりのそれまで住んできた場所を捨てるという非情な覚悟が在った筈である

 つまり全て最初からやり直すという意味合いが込められているのだ。

 引っ越しも似た様なところがある。

 転職にも似た様なところがある。

 だからそう(引っ越しや転職)する前に出会った人達と再会しても、今一つピンと来ないところはそういう経緯を辿った人達にとってはあるものだ。

 もう一度捨てた過去にしがみつきたくはないという気持ちが或る事は多いだろう。

 

 聖地があるということは、でも当然移り住んだ後でも可能であるが、かなり年齢が年配になってから移り住んで、そこを聖地にする場合には、それまでの聖地に対してさして、そこを何が何でも離れたくはないという気持ちだけは、そう強くなかったということになる。

 事実引っ越しをする場所の聖地に執着があるなら、引っ越す訳がないからだ。

 そして、これは人にも拠るし、民族の歴史でも言えるけれど、生涯を移転、移住に費やす人生の人も居る

 つまり放浪者である。そういうタイプの人生には基本的に一点に象徴される様な聖地信仰自体への懐疑がある、と見ても強ち間違いではない。

 そうでなければ、それが只単に仕事上での異動とか、要するに配置転換的意味合いがあるのだけれど、抑々そういう風に居住地の変転の可能性が多い仕事に就くという事自体にも、或る種の聖地への拘りが希薄というか、そういう一点的なことより、線的なことに重要性があると人生を認識しているから、そうなっているという要素はやはり否定し得ないだろう。

 この問題は又少し時間を置いて、何か発見が在った時に取り上げてみよう。

 

 付記 この移動することの多い生涯には、意識的な変転と無意識的変転があり、それは最初からそういう仕事内容を分かってそうなっている場合と、最初からそういう仕事に就いていた訳ではないのに、結果的にそう何度も転職したり移住したりすることとなったということがある、という意味である。

 この問題は人が個人的にどういう人生を理想とまでは言い切れないにしても、意識的無意識的に関わらず志向しているかということなので、意外と深い意味があるものと、私には思えるのである。

 だから何か発見し次第再度取り上げてみたいのである。

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2018年9月20日 (木)

日記的記述GA 日本人と言うより日本語の構造が自我を引き立たせ育てさせない様になっている、でもそこで考えられる英語圏の人達とも共通して語れる詩とは何か?

 日本社会は安倍総理が三選を果たし、議員票でも党員票でも圧倒的多数で勝利したことからも分かるが、日本人自身が議論をする様に志向する(思考する)様になることは未来永劫ないだろう、ということだ。

 日本は今着々と管理統制的国家となってきているけれど(だから警察への鬱憤や警察国家的日本に絶望し自暴自棄的犯罪も多くなっているそれは要するに日本人という民族が常に控え目で遠慮し、慎みと節度を持って何事も嗜むという古来の考え、というか感性で生活することが理想だからである。

 

 率直明治維新以降確かに鹿鳴館とか西欧被れの源流は作られたけれど、日本人は明治以降鉄道が徐々に整備され、地元の氏神だけで良かった八百万の神信仰も、商業戦略的な意味から(『ブラタモリ』でも解説していたが)、明治神宮、鶴ケ丘八幡宮、川崎大師、成田山等へ初詣や家内安産子宝祈願とかする様になった。

 要するに、それ以前の江戸期の習俗や風俗もお上発令のモノであったけれど、明治以降も明治政府発令のものであり、今もそうである

 だからこそ潜在意識の上で日本人は長期政権を目論む安倍総理の様な右傾化した総理の下で安定した状態で五輪・パラリンピックを迎えたいのである。

 だから明治以後確かに欧米的思想が怒涛の如く流入してきたし、哲学もその一つだけれど、日本人は仮に自我という観念を理解したとしても、それを国民性としては直に肯定している訳ではない。否定している訳でもないけれど、やはり圧倒的にそれはあくまで欧米から摂取すべき概念であり、観念であり、それは学ぶものであり、身に着けて日本で実践すべきことではないのだ。そう向こうは考えていると承知しておくにとどめるべきなのだ。


 日本人自身は全く自己主張せず、従順で居ようという腹積もりの人が圧倒的に多く、自我を発散させまいとする慎みを美徳とする心掛けでいる人が圧倒的多数である。

 だから、そういう不文律に支配されている日本語の敬語や謙遜、謙譲表現を嗜みとしている以上、日本人は自己主張が悪であるという観念を刷り込まれているから、その意識の範疇でより日本語とは営まれている以上、その思考法こそ日本人標準、規準である。


 するとそういう日本語を使って思考するより、本音的なことは既に英語を知っている日本人であれば、日々英語で思考することの方を好むに違いない(事実私もそういう意識で本音的部分は全部英語で考える様になっている)。

 そしてそこで重要なのは、もしそれでも尚敢えて英語圏の人達と我々の間での普遍性を見出そうとすると(だから私は英語でも詩を書き<それは日本語で書いた詩の翻訳と元々英語で書く詩と半々である>)日本人の謙虚さとか謙遜的主体の慎み美学とそう英米の英語圏の人達との間で変わりないこととは、要するに我々は不完全な生き物であるし、個としてもそうだし、全体としてもそうであるという認識以外にない、とだけは既に大分前から分かっている。

 

 要するに英語世界的に言えば我々は神ではない、という事に尽きる。

 そして虐げられてきている人、苦悩する人、先行きに不安を抱えている人、それは世界中万国共通である。するとその弱者なりの決意、だからこそ隣人とも巧くやりたい、とか、弱い自分に叱咤激励することが、弱い他者全般へ、たとえその他者が自分につっけんどんにしても、それをも許す、という汝の隣人を愛せよ、敵を愛せよという思想へ繋げられる

 これは日本人として生まれてきた人が英米他の英語圏の人達と意思疎通する時に最大の武器にしていっていいし、そうするべきである。

 

 恰好付ける自分をすんなり(あっさり、ばっさり、潔く)捨てる、弱く醜く、悪である自分を認めてしまう。

 そこから懺悔的なことも出て来るし、でもそれだけで終えないで、やはり未来に向かって勇気を持って歩みたい願望と決意を、他者全般と共有し合えるテーゼとして示すという書き方が詩で最大限の命題となるし、そういうエールやエンカレッジング的内容の詩は日本人にも納得でき、且つ英米英語圏の人達にも説得力がある、という回路があるのだ。


 そのことを発見し得ただけでも日本人である私が日本語の詩以外に英詩も書き、それをブログにアップしてアメリカ、日本、アイルランド、スペイン、マレーシア、フランス、カナダ、スイス、フィンランド、英国の人達の順で獲得した閲覧者へ向けて日本語詩以外に英詩を書く理由としても合理的理由となる。

 つまりそういう弱い自分を隠さず、他者全般とその弱さを共有し合うことで、隣人思想ともなるし、日本人の謙虚さとか自己主張しなさとも繋げられる回路となり得るのだ。


 アメリカ人は信心深い民族だし、極めて倫理的に律儀に誠実で実直である。そしてそれは英語と日本語という言語の明確に自己を示す英語ではない日本語の世界との距離から往々にしてアメリカ人と個人的にには付き合えなさを実感する日本人は個人的に多いと察するけれど、意外と詩のメッセージの世界の感受に於いて共有し合える世界観だと私は信じているのだ。

 国家神道である天皇制等へ批判的眼差しを持っていようが、いまいが、そう大きく日本人全体は変わりない。コンサヴァもリベラルも右翼も左翼も大差ない民族だと私は思っている。

 

 その点でもアメリカ人も英国人もアイルランド人も、アメリカはその不器用なくらいに誠実であること、英国も王室のある国家であり民族なので、日本人の様な遠慮的なことは理解できるし、言葉遊び的な軽い自由さという意味でアイルランド人とも我々は意識を共有できる、という意味で私が行う英詩を日本語詩と並行させて創作し発表する事には意味がある。


 そういったメリットを実感しているからこそ、私は日本語詩以外に英語詩も書いて、それをブログにアップして、それなりの反響も得ているのである。

 望み過ぎないことという意味で、或る種の普遍的な倫理的共通性を英語圏の市民と日本人は共有し合えるのだということだけを今回は述べて筆を置くこととしよう。


 いずれ、又この問題は大きく取り上げていくことにもなるだろう。

 



 付記 神やイエスと個、八百万の神と天皇と臣民の関係は、意外と似ているのかも知れないという意識の意外な共有は、弱い自己の決意と他者との協働の決意の詩が日本と英語圏と双方で理解されるということで実証されている、と言えよう。


 尤もそのことと社会批判とか、政治的意識、思想的意見を別に持っているべきだということは両立し得るであろう。あくまで相互に違うこととして、個内部ではきっと(余り表に出さない日本人であるが<否アメリカ人も英国人もそう表に出さないとは言えているが>)誰もが携えている筈なのである。

 又、それをどの個に対しても信じているからこそ、たとえ意見や思想が異なっていても私は日本を完全に捨てることはしないし、すべきではないと考え、日本市民としての生涯を全うしようとしているのである。


 勿論英米圏へも詩朗読の旅はするかも知れないし、その侭向こうで骨を埋めることになる可能性も充分あるが、だからと言って私が日本人である事実は変わらないということである。

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2018年9月19日 (水)

Nameless-value流実践術・最も重要なことへ収斂させれば・総括篇①

他人なしには生きていけない、そういう人間であってはいけない。

 つまり他人が居るから自分があると考えるのではなく、まず自分があるから他人も居るとだけ考えておくべきである

 社会的な虚栄心の全ては自分の周囲の他人の動向によってのみ自分の人生を考えることに端を発する。

 それは本末転倒である。

 何故なら人生とはまず自分であり、その後に周囲の他人が存在する訳であり、自分の確立の前に他人がまず存在していることから何か始めても、それは決定的に主体的行動ではなく、他者依存的な自己の在り方だけでしかないからである。

 


敵対者が居ることはまず全く悪いことではないそれどころか敵対者が居ないということが最悪の事態であり、状況である。

 何故なら人は敵対者が居なければ決して進歩もしないし、それどころか敵対者を一切作らないという態度だけで生きていくことが異様なる腐敗を社会にも自分にも、その対人関係の全てにも齎すからである。

 従ってかつては適度に敵が居たのに、年を追う毎に誰しもが自分の味方になっていき、安定していく様な人生になってきているのなら、一度それを反故にして、再度敵を敢えて設定して、そこから出直すべきである

 


日本の警察は今揺れている。何故か?

 それは日本の警察だけが戦後全く組織解体されてこなかったからである。従って日本警察へ批判するそういう機会が殆ど日本社会にはない。それは日本警察にとって全く不健全な運命に立たされていると言っていいのだ。

 従って日本警察自体が組織的に腐敗しつつあることと、それへの直観的な察知によって、多くの国民が日本の警察自体へ信頼感が希薄化してきているからこそ、警察を狙う若者が多くなってきているのである。

 警察自体を個人的に挑発する様な衝動的犯罪は今後も多くなっていくに違いない。

 それと歩調を合わせる様に警察内部で組織改編を叫ぶ様にもなるだろう。だが警察組織とはほんの一部のキャリアとそうでない人との余りの落差が決定的であり(その部分では学界に似ている)、その矛盾が解消されない限り、民間の様な開かれた機会というものが全警察官に齎されるということはないであろう。



 

 付記 自衛隊は戦後ずっと批判的に左翼によって論われてきたので、健全に進化してきて災害救助でも活躍するが、警察は常にその運営がブラックボックス化している。従って自衛隊自体に警察の監視も委任させる様な法律を制定すべきである。


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2018年9月18日 (火)

創作メモ35

創作する上での自分は日頃の自然体の自分であってはいけない。意図的に作っていくべきものであり、それは思想とか考え全般で言えている。

 つまり意図的・意志的であることは、もうそれだけで敢えてすること以外でない

 いつも通りとか、慣れた仕方で、という事が一切効かない。つまり常に変速ギアを入れ換える様に異なったことだけをし続ける心掛けだけが大切である。

 だから決して創作とは素のことではない仮面的であり、要するに創っていくことは、常に自分自身をフィクシャスにしていくことである

 だからこそサルトルは自己欺瞞と『存在と無』で述べたのだった。

 


言葉自体も敢えてこう言う、敢えてこう表現する、でなければいけない。誰か親しい人と話す時の様な(そういう時でさえ、本質的には我々の心は構えて話しているのだけれど)警戒モード解除的話し方では駄目である。

 要するに創作とは常に警戒モードでなければいけないだからこそ、それは公的な言葉となり得る。私的な寛ぎは、実は真に言語ではない。

 


言葉で示された休みとか癒しとか憩いは、やはり一度格闘を経て居なければいけないだろう。つまり癒しだけが差し出されているという状況はその侭では可笑しいもしそうであるなら却って自由が剥奪されてしまっている虚脱と捉えるべきである。

 だから闘争であり、熾烈な競争である様な言葉の在り方の中にだけ、真の憩い、癒し、安らぎとかは存在し得るのであり、それがその侭置かれてあるのなら、それは寧ろ無であり、虚無でしかないだろう。

 だからその虚無を敢えて提示しなければいけないなら、それはそれなりの理由が示されていなければいけない

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2018年9月17日 (月)

日本とは一体何か?/言語と所作と世界への態度Part10

日本とは一体どういう体質で、どういう感性で成立している社会であるかなんてとっくに分かっている。それを私は幼児の頃から見抜いていたし、それを凄く日本人は愛しているけれど、率直世界でそれを価値だと認めている民族はきっと殆ど居ない。

 と言うのも世界的に日本人が賞讃される場合、国内では付き合いだけに神経を使う人ではない人、だから真に人類の為になることをしている人だけだからである。

 


〇要するにその日本人しか持っていない憩いとは全て階級的なことを持たない様にしたい、であり、日本人は上下関係や支配と被支配という観念自体を異様に嫌う

 しかし初代スポーツ庁長官に着任したのはゴールドメダリストの鈴木大地だし、社会とは凄い実績のある人とない人との決定的落差があるのは当然だ。

 にも拘らずそれを一切考慮しない様な世論や、社会一般の通念の方が凄く大切にされる部分で、日本は完全に社会主義国家である。その点では自由主義でも個人主義でもない。

 資本主義とは自由主義を前提にしているけれど、日本の場合風土を異様に重視するので、計画経済をソ連の様にすることもできなければアメリカの様に完全に資本所有とその運用を優先する社会の様に個人には実現させず、要するに社会全体に還元され得ると踏んだものだけを大きく仕事や経営の機会を与え、そうでなさそうなものは全て可能性を封印する。しかもアメリカで大きく認められたものは殆ど否定せずに受け入れる。

 そういう所が凄く卑屈だし、しみったれている。

 だから日本人はきっと長屋的世界観に慣れ切っているので(その点はきっと中国人もそうだろうが)、横の世相的な関係性、つまり協調的な寄り合い所帯的な感性から置いて行かれる事に異様に恐怖を感じる国民なのだ

 でも、本当は何とか経済生活だけ維持できれば、どう生きようと自由だし、徐々にそうなってきてはいるでも余りにも若い世代のスマホ等を多用する生活スタイルが老齢者にはついていけなくなってきている、そういう場合には異様に若い世代に対して冷たい態度を取る孤独老人も多くなってきている。

 だから、そういう世代間ギャップさえメンタリティとして持っていなければ、今の日本はかなり快適に過ごしやすい国の方ではないだろうか

 


日本では慮るということが凄く大切なので、全て言い切ってしまわなさを重視する。でも、そういう或る種の器用さこそが却って見損なわせてしまう大切な何かはいつもある。そしてそれを発見するのは仮に日本人でも所謂協調性に長けた人ではないし、又外国人でも日本人が気にも留めてこなかった様な人である場合の方が多かった。

 でも一旦それを発見すると、今度は猫の杓子も猿真似をするという節操の無さも日本人は持っている。だからこの資質も諸刃の剣だと言える。

 

 だからいつも誰か他人を必死に追いかける、そういう感じの日本とは何に成功しても世界第二位に留まるだろうし、仮に中国のGDP二位とは違った意味で例えば或る事に関してアメリカに次いでということがあったとしても、何か一つでもグローバル社会全体に利益になること(日本人にとってだけ価値あることでなく)で世界一になれるものはカラオケ以来そう多く作ったり見出したりして来ている訳ではない

 だから、何でもかでも中途半端に結論を出さな過ぎる日本人の性格ややはり決定的に神学的ではないし、政治的ではない当然軍事的でもない。

 だから何かそういういい加減さを活かせる何かはないだろうか、ときっとかなり大勢の日本人は考えているだろう

 でも本気でそれを考えている人は絶対人には洩らさないだろうから、そういう人は同じ日本人の手を借りずに、まず自分の理解者を外国人に求めることはきっとこれからも多いだろう(孫正義の様にである)。

 そういった意味で日本人とはアメリカ人や韓国人よりは猜疑心の強い所はある。勿論別の面ではアメリカ人や韓国人の方がそうである部分は当然あるのであるけれど。

 例えば名刺等を相互に必要あって渡す場合でも、渡されても自分からは渡さない場合はアメリカ人の地位の高い人ではあり得る。つまり利用されてくないという猜疑心(警戒心)だし、又自分にとって利益になりそうな人とだけそういう紹介をし合いたいという感情というか、それは当然の選択の自由なのだという所はアメリカ人の方がずっと強い。つまりそれは資本主義社会の他者を出し抜くことがもっと日本より国中で横行しているからである。そして、それは韓国人も中国人も日本人よりはずっと強い。つまりそう安易に人を信用しないのだ。だから日本人は信用し過ぎて損をした人が捻くれて猜疑心を持つ様になることが圧倒的に未だ多い。

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2018年9月16日 (日)

世界の真理 Part 101 最も自由でアナーキーなものは文学である

 先ほど迄TVの深夜映画放映で『死霊館・エンフィールド事件』(ジェームズ・ワン監督・2016)を観ていたが、この映画で描かれるポルターガイスト現象とは一体英国が舞台だった映画だけれど、英語圏の民族の間だけで見られることなのだろうか?

 こういった言語と密接な死生観が生み出してきている怪奇現象は実際のところ未だ自然科学的説明が完全についてはいない。


 だから科学者なら、こういう現象に対して必ず心霊・神霊性とは別個の何かを見つけようとするだろうけれど、そういう仕方が常に必ず正しいとは言えない。

 神学者なら、その点では完全に聖書世界の神学的秩序からだけ原因を探ろうとするだろう。

 哲学は神学や神話等の秩序が齎す論理世界から、その原因を究明しようとするだろう。

 でも科学であれ神学であれ哲学であれ、それはやはり決定的に一元的に原因や根拠を述定させようとする営みである。だからそれは一つの決定であり、決定とは、論理の不動性への信仰に根差すから、必然的に一つの結果として(アウトプットされた)結論を揺るがそうとする全てを排除しようとさえするだろう。


 だから学術的論理の限界はそういうところにある。

 でも実際我々の心はそういう風に一元的に全てを知として仕舞い込める様になっているとは言えない。

 だから心理学とか神経学とか生理学とか色々な学術が、医学・薬学、或いは神学や文献学や哲学や修辞学・論理学以外に存在してきているのであるが、それ等もやはり最初に挙げた学術の間を探ること程度しかやはりできないと言っていいのではないか?


 従って日本語では学とつく文学のみ、そういった決定とは異なった作用で我々の心や脳に迫ってくるものだと言えるのではないだろうか?

 だから詩が特にそうなのだけれど、それは手紙の様な書き方で始めてもいいし、それがエッセイ風になったり、批評文風になったり、論理確定的になったり、散文的になったり、その都度自由に変換し得る、という意味で最もアナーキーであればこそ、この心の学術的一元的決定で納得しない部分へ明らかに密やかに心と脳に侵入してくる唯一のものと言えるのではないだろうか?

 もし世界中に存在する全ての学術だけで全ての疑問が氷解し、しかも心が納得するのなら、抑々芸術や音楽や文学等の営みが人類によって営まれてきた筈がないからである。


 詩程或る意味アナーキーなものを私は今のところ知らない。

 聖書もそう言われればかなりアナーキーであるが、それはやはり我々の心がアナーキーだからであろう。だから仏典もかなりアナーキーなので、それこやはり人の心の論理的にだけでは納得しきれない何かが人類史的に作らせてきたことなのだろう。

 兎に角心は納得し切れないものを必ず作る。どんなにその前に何か決定的だと言われる結論を示されても、である。


 だから決定とは一つであるなら、どんなことでも不十分である。しかし同時に余り多くの複数の結論を示されると我々はとても何か一つの不思議に対する説明としてもまるで納得できない。

 となると、結論を示す様な学術とは異なった表現世界というものがやはり心の隙間の宙ぶらりんであること自体への処方としてどうしても必要なのである。


 歌ならそこにリズムとメロディが加えられて、実際に聴覚的に、身体感覚の律動的な感受に於いて理解できる。そういう身体的な理解とリズムや歌詞に内在する規則や、メロディの歓喜するエモーショナルな(情動的な)記憶や想像力の刺戟が音楽である。

 だから言葉はそういった音楽的なインパクトを言葉だけで喚起させようという試みである。

 哲学でもエッセイ風だと、やはり詩に幾分近づく。詩とアフォリズムは殆ど同じ世界だと言ってもいい。従ってニーチェやウィトゲンシュタインは哲学者であると同時にアナーキーな詩人と言ってもいい存在である。


 このアナーキーであることがやはり詩では極めて重要なのである。アナーキーということは、要するに決定的にし過ぎないということである。それから仮にその時に詩人という名の創作家が書いた詩がどんな読者からもよく理解できなくても、その鑑賞者からの理解されなさの中にこそ何か凄く重要な非決定的詩的(私的)述定があるに違いないとも思わせるのだ。

 だから或るかなり完成された定型で創ってきた詩創作態度の中で、時々、それまで積み上げてきた信頼と言うか信用と言うか、要するに鑑賞者の期待を一挙に裏切る様な全くちんぷんかんぷんにさえ鑑賞者から察せられる様な詩を作っていかなければいけないのである。

 その時にだけ凄く理解される詩だけ作っていても駄目なのだ。


 つまり、そういう期待する者に対して期待された通りに応じると言う事と、それだけでなく時にはそれを意表を突く様に裏切るということ、期待したいことそのことの悪しき保守性をより鮮明に悟らせる仕方の挑発こそが詩人に求められている仕事ではないだろうか?

 だから、やはり詩人はかなり孤独な仕事内容だし、人生もそうなのである。

 でも、その孤独さは徐々に理解され始めると氷解していく。そしてそこで得た安住の地に安息しているだけでは駄目である。

 当然安息は必要だ。でも一定の休息の後には、期待を一挙に裏切る挙に出なければいけない。

 その頃合いのその都度の見計らいこそが詩人の言葉を選ぶ感性と同時に求められている何かであろう。


 そして、それは決して詩人だけでなく、実は一元的結論を出そうとしてきた全ての学術でも、政治でも、経営でも何にでも言えることではないだろうか?

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2018年9月15日 (土)

愛は難しいPart2

迷いがないことだけが愛だ。

きっとそれは或る意味正しい。

でも、いつもそう言い切れる訳でない。

何故なら愛があればこそ迷うこともあるだろうからだ。

 

でも、迷いが無くても受け入れられない愛は多い。

だから愛は難しいが、愛は愛を強要しないことが一番難しい。

愛は受け入れられる愛とそうでない愛があるけれど、受け入れられる愛だけが認められ、それ以外は一切認められない。

 

相手へ相手への思いを告げ、それを行使することが誰にもできない。

相手へ求めることが自分の求めることに沿わないことそのことへ苛立ちを持つ場合、その愛は強制になる。

 

だから迷いは相手へ愛に纏わる何かを一切行使しない決意へ至らせる苦渋の決断だけが愛を辛うじて純粋に保つことへ貢献する。

でもその苦渋さは本人以外誰も気にもとめない。

それを褒める者も居ない。

 

だから愛は孤独だ。

だから孤独でありたくない者はいっそ愛を一切追求せず、一切愛を持たない様にするしかない。

 

愛と受け取られることと、愛を貫くことは違う。

受け取られる愛は、冷めていることだけだ。

情熱的愛は、相互に同じ分量が注がれている時にだけ相互に燃焼し、相互に認め合える。

でも、なかなか同じ分量で配分される愛は実現しない。

又、その分量を相互に確認できない。

でも人は自分の愛だけが一番強いのだ、とそう思いたい。

でも、それこそ愛が強制へと移行する瞬間なのだ。

 

愛は、だから親子愛、兄弟愛・姉妹愛、異性愛、子弟愛、それら全てに言えるけれど、実際誰もどの愛が一番強いとか、どの愛が一番無償で尊いかということを判断できない。

優しさ、相手への気遣いの全てが、どれが一番尊く、純粋であるかなど絶対誰にも判断できない。

人間は神ではない。

否神を成立させないことが愛の怖さかも知れない。

 

神を成立させる道徳や倫理の方がずっと簡単だ。

一番難しく厄介で、振り解けないものが愛だ。

得たい時には一切得られず、得たいと思わない時だけ微笑みかけてくれることが愛だ。

だから愛とは自分ではないということだ。

愛はだから相手であり、他者であり、難しいからそれを解き明かそうとしないことだ。

愛は、だから放っておくことだ。

だから愛は、冷めていることだ。

 

でも冷めているだけでも愛は成立しない。

では、どうすれば愛を成立させるのか、そう疑問を呈した時、それは愛する者のとる態度ではない、と見做される。

 

だから愛は呪縛で、全ての世界で自分と相手、自分と他者との関係が作る危険な罠だ。

愛は十字架であり、牢獄であり、凶暴な法であり、試練だけを与える冷たさであり、友達になろうとすると余所余所しくなる蹂躙である。

 

愛とは、では幻想なのか?

それも違うと誰もが思う。

だから愛は難しい。

それは何時もどこかに、自分の身近にもある。

でも、それを放したくないと思い始めると、途端にそう思う者へ冷たい視線が投げかけられる。

 

だから愛は距離なのだろうか?

でも、その距離って一体何なのだろう?

距離が縮まることって、だから一種の瞬間的な奇跡なんじゃないだろうか?

だって、そんなこと生涯に誰しもそう何度も訪れることなんかじゃないんだから。


(つづき)


2018. 9.~❄11、以下15

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2018年9月14日 (金)

日本語の世界は何処が英語の世界と決定的に違うのか?Part2

 周知する、という語彙が日本語にあるが、これは知れ渡ることを意味する自動詞である。


 さて、この知れ渡るということはそういう状態が或る種自然にそうなっていくという<趣き>で語られる語彙自体がそういう規定である。


 しかし一般的にそれは例えば政府広報とかで、政治の世界が一般の市民に知れ渡らせるという一つの作為である。

 しかし日本ではそれを強制ではないと受け取らせる為の様々なクッションが必要だと受け取らせようと取り計らう者も、受け取ろうとする者も忖度する。つまりそれこそが日本語の世界なのである


 つまり日本ではあくまで本来強制したいところでもあるというのがお上、つまり政府等の考えなのであるが、それはやはり選挙によって代議士とは民主主義的手続きに則って選出されているのだからパブリックサーヴァント(public servant、公僕)は、やはり国民にその部分では遜る必要性が大義名分的にも建前的にもあり得るそこで自然にそうなるという風情の自動詞を使用するということだ。



 しかしこれは動作主が明確ではない。あたかも本当は国民はそれ程ではなくても、政府が率先してそうなっていって欲しいという願いで、例えば憲法改正しようとしている場合でも、結果的に「そうなった」と責任明示しない仕方を伝える時には選ぶというところに日本人的な奥ゆかしさと同時に狡さも仄見える。

 個の責任倫理は日本では社会全体で確立しているとは言い難い。

 

 この周知するというのを英語で置き換えると、get to be in publicity, become open(have become open) to the fact(decided matter), have been known to anybody, be spread等で表現されるだろう。しかしこれはやはり政府の意図として示すなら不十分なので、英語ならthe government has proclaimedとか、もっと直截的にthe government made the public known of ~等で言い表せるだろう。


 只アメリカ等でも、こういうことは事後的に、史実的にメディア関連の文では示され得るだろうけれど、リアルタイムであるならmakeは文面上では差し控える可能性はある。でも市民レヴェルでカフェテリアで会話する分にはそういう言い方は全く可笑しくない日本語ではそういう時でもはっきり政府批判する時以外は通常多くはそういう直截的言い方だけは差し控える傾向が大人社会では強い。

 



 ところで日本語で言う「~になる」という言い回しは言ってみれば老荘思想的な無為自然的意味合いがあるそういう観念を前提している。しかし英語ではそういうことはない何故なら自然信仰・汎神論・多神教的世界観ではないからだ。一神教的世界では、やはりその点ではmakeを基本とした他動詞的明示が最も理に適っている。

 主語に対する目的語ということから言えば、日本語と英語は確かに明示しない様に全てを慎ましく持っていくというコミュニケーションの仕方を取る日本語では平安貴族的嗜み的な相手を慮るま、それが現代日本では直截ではないという形で忖度という意味で批判を浴びているのは、単に日本が戦争をした相手がアメリカであり、アメリカの自由主義を基軸に世界の政治的展開を考える癖がついているからに外ならない)。


 日本語と英語の間の関係からだけ語るなら、そういうことになるが、ロシア語では日本語と共通する目的格を避ける言い方はある(それは又別の機会に報告したい)けれど、と言って英語とロシア語の共通性の方が強く、日本語ではそういう風に主格+動詞・他動詞+目的格・名詞という体裁ではない言い方の方が多いということも多分にあり得る

 

 英語は確かに「する」という動作主主体の責任明示、意志・恣意的意図明示型の文の方が自然であり、自然全体への詠嘆的なつまり雅自然的なものへの京風和歌的世界や俳句的季語的世界態度ではないビジネスライクであることはアメリカ社会ではかなり必要である第一アメリカでは日中韓の様に家の中でも靴を脱がない。つまり欧米社会とは屋内の床と素足、外と靴という区分け自体がない。だから個とそれ以外は全て社会という観念の欧米と、社会と家族や家庭とその中の自分、という個より親しみある内輪的世界とそれ以外という観念の異なった二元論の世界の違いと言える)。

 

 だから神と自己、それが基軸で、たまたま或る特定の家族に帰属する人達の世界である英語世界と、神々的自然と社会、そしてその内輪と他人という観念の日本語世界とでは、欧米では法治国家的縛りと、それ故の奉仕精神と義務と権利と自由というタイプの社会認識が真に今も日本に定着しているかと言えば、少なくとも言葉の遣り取りでのマナーでは徹底していないとは言える

 でも、そのことと、では社会認識がそういう内輪と世間という区分けだけで成立しているかという事とは又少し違う。


 日本人は支配と被支配という観念で世界を俯瞰しないし、社会を見ないという所はかなり古代からずっとある。勿論中世迄は領主と農民という身分差はあった。でも欧州の様に貴族領主と小作人と、教会を通した宗教的精神的個の自立という歴史と日本史は異なる。従って確かに世界文化遺産に承認された隠れキリシタンはその意味では極めて先進的であったとは意識レヴェルでは言い得るであろう。


 要するにアメリカは特にそうだが、プロテスタントの宗教改革と清教徒革命(ピューリタン革命)、名誉革命、独立戦争という経路を辿って形成された市民社会なので、本質的に自由ということは先験的に前提されている

 しかし日本社会は自由という事以前にまず奉仕ということが社会倫理としてはある。では日本の方が凄く厳密に義務的な態度かと言うと、そうとは言えない。それは又別である。

 つまり英語世界の方がずっとそういった自由や権利が義務と引き換えに付与され得るべき理念は強いから、奉仕ということも内輪的対人関係さえ巧く処理しておれば何とかなるという官僚(業務自体が過酷であることは充分認めるけれど、ヒューマンネット自体は緊密に内輪的である)や学者・研究者の官、半官半民的世界では護送船団方式的精神は今も残存する事とは違う。アメリカでは政権が変われば官僚も全て入れ替わるからである。


 でも、それと一般市民社会の民の部分の現実は全く別である。

 だから一概に例えば日米を対照的に捉えれば、それでいいということはないし、そう単純に判断しきれない複雑な様相を両者とも持っているとは言える。

 それは現代社会は情報的には世界中の出来事が瞬時に伝わってしまう時代だからである。

 

(つづき)

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2018年9月13日 (木)

言葉の慣用性とは何か?Part199 反復畳語的副詞と「つく」

 今回は畳語として繰り返し同じ音がオノマトペ的に登場する副詞で、それが「つく」へ変換されるものを考えてみよう。


 

 

いらいらするいらつく

 

 

 

うろうろするうろつく

 

 

 

からからするからつく

 

 

 

がらがらするがらつく

 

 

 

ぎらぎらするぎらつく

 

 

 

ぐらぐらするぐらつく

 

 

 

ざわざわするざわつく

 

 

 

にたにたするにたつく

 

 

 

にやにやするにやつく

 

 

 

ねばねばするねばつく

 

 

 

ぱらぱらするぱらつく

 

 

 

ひくひくするひくつく

 

 

 

びくびくするびくつく

 

 

 

冷や冷やするひやつく

 

 

 

ふらふらするふらつく

 

 

 

ぶらぶらするぶらつく

 

 

 

まごまごするまごつく

 

 

 

むかむかするむかつく

 

 

 

もたもたするもたつく

 

 

 

よろよろするよろつく

 

 

 さて、ここで問題なのは「ばらばらする」と最近余り言わないことだ。これは「ばらつく」と言うけれど、「ばらばらになる」と言う方が自然ではないだろうか?

 となると他の上記の語彙が「いらいらになる」~「もたもたになる」と余り言わない気がするのだけれど、これをどう説明したらよいのだろうか?

 

 因みにこの「つく」を広辞苑ではどう説明しているかと言うと、今一つしっくりとlくる説明がない。


 強いて言えば、自動詞五段活用の「二つの物が離れない状態になる。」の項目の<①ぴったり一緒になる。くっつく。②ウ そまる。>そして<⑧(他の語に付けて用いる。多くヅクとなる)その様子になる。なりかかる。>に該当すると見做すこともできるが、副詞のオノマトペ的用法に於ける一つの慣用である、としか判断できない


 また「びくびくする」に近いオノマトペ的発音と発想の副詞に「冷や冷やする」と「はらはらする」があるが、これらはしかし「冷やつく」は言うのに、「はらつく」とは言わない


 ところで横道に逸れるが「はらはらどきどき」と言うが、これは二つのオノマトペを接合した風情の仕上がりとなっているが、他に余り例のない整序された言い方ではないだろうか?例えば「いらいらむかむか」と造語的に言えないことはないけれど、これは慣用的に言わない言い方である


 「蒸し蒸しする」は勿論これも「蒸しつく」とは言わないが、一体何故あるものは「つく」で代用できるのに、他のものはそうではないのか?それは一つの疑問である。


又、「いがいがする」は古語由来では赤ん坊のおぎゃーおぎゃーという鳴き声のオノマトペの様だが「いがらっぽい」は形容詞で「えぐぐて、辛い」意味である。全く音的に同じでも繋がりはない



 結局語彙とは、そのケース毎に言い方とは使用するネイティヴ全員の気分で決定され、厳密に法則化されている訳ではない、というのが言葉の法則と言える。つまり全てが緩く設定されているのだ。


 そして、この点では英語もかなりそうであるし、そうでない言語の方が少ない(ひょっとしららない)かも知れない

 ここら辺のことも時間的余裕があったら、ゆっくりと考えてみたいところのことである。


 

付記 本シリーズでは後で分かってつけ加えることがかなりある。従ってかなり付け加わったことが多くなった時は再度アンコールで告知するつもりである。

 

 

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2018年9月12日 (水)

愛は難しい

愛は難しい。

何故なら、どれが一体本当の愛で、どれがそうでないかを見極めることが困難だから。

 

愛は難しい。

何故なら、どうすれば本当に相手に真心が伝えられるか、それをはっきりと知っている人がこの世界には居ないから。

 

愛は難しい。

何故なら愛という言葉だけに踊らされても、本当に愛を語る者が常に幸福で居られるとは限らないし、それを誰もが薄々知っているから。

 

愛は難しい。

何故なら愛を得ている者が皆、その愛を失いたくないばかりに、しなくてもいいことをしてしまうと誰もが知っているから。

 

愛は難しい。

違う愛同士がぶつかり合った時、どちらの愛が正しく、どちらの愛がそうでないかを誰もがはっきり分かる訳ではないから。

 

だから僕達は誰もが問い続ける。

一体愛って何だろうって。

 

きっと答えは常に容易には見つからない。

だからその都度その時だけが持っていることだけを真剣に考えて、その時なりの答えを見出すだけだ。

でも、その答えが永遠に正しいとは言い切れない。

 

だから僕達は、愛の新しい意味を、そして新たに出会える愛を探して旅をし続ける。

そして、旅はいつも旅する我々自身に優しいとは限らない。

道には多くの茨が茂っている。それと一つ一つ避けて通っていくしかない。

それでも、愛の難しさの前で我々はたじろぐことは許されない。

何故なら、愛の行方を私も貴方も違う世界の誰かも神もきっとどこかでじっと見つめているだろうから。

 

愛は難しい。

何故なら、そう問う者が何故愛が必要だとはっきり誰にも説明できないから。

 

そう、愛を求める者達はその問いと答えの果てに何かがきっとある、と信じているだけで、そう信じずには歩めない、ただそうとだけ思っているから。


(つづき)

 

2018. 9. 12

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2018年9月11日 (火)

創作メモ34

或る種詩人は世界に対して凄く順応できるということへの大きな挫折感がある。そこでその挫折感を味わった者が、自分以外に同様の経験を味わう他者全般へ向けたエールを送ることくらいならできるだろうという未来の可能性に賭けている。

 と言うより、彼にはそれしかできないのであり、それだけが彼のできることなのである。つまりさんざん全てに失敗してきた人間にできる残されたこととは、もう何をしても巧く行かなかったことを活かして、そういう状況に陥っている人にエールを送ることしかない。率直もう、それしかできないから、迷わずそれをするということ以外でない。

 だから意外と潔く、迷いがないから、それでいい

 

失敗や挫折の種類は成功の種類より多いし、又そういう状況に陥っている人の数の方が成功している人よりずっと多い。だから切実に自分の中の過去に全く巧く行かなかった経験は、人に気持ちとして伝わりやすい。だから、それをしない手はない。

 

もう一つ凄く有効な手は、自らの心の中のどす黒い悪、かなり悪魔的部分を隠さないで、人にはこういう気持ちさえ持つことがある、そういうことを巧く詩に書き込むことだ。これはいい子ぶったことより何百万倍も効果的に読む人を惹きつける。

 それは悪の肯定でも開き直りでもなく、やはりそれ自体は良くないことだという気持ちを持ちながら、どうしてもそういう気持ちを持ってしまう自分自体を透徹した眼差しで見るその真摯さ、これがかなり効果的だし、この分析的な態度の人間の心理の真理を描くことは、それだけでかなりの分量を書くことができる

 悪自体を見つめることのない詩はやはり、詩ではない。

 悪であると自らを認めることは、自らを善であると認めるよりは、善的だが、悪を認める仕方も開き直りになってしまわない様に要注意であるが、自らの心が作った悪に自ら挑み対峙する姿勢は、やはり一つの詩作の態度だ、と言えよう。

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2018年9月10日 (月)

1と0 Part1 第一部 永井均が生涯追い求めてきている事から『世界の独在論的存在構造 哲学探究Ⅱ』の論理的主張から①

 通常10は数字上では0が起源で、そこから1へ数字的に言えば0.0001から0.0002と次第に1へ近づくと、皆そう考えるこの少数の桁数は任意である。無限分割し得るから、どの様に数値を計測するのが好ましいかに応じて任意に桁数を設定すればよい。重要なことはそれが整数1より小さいということだけなのだから)。

 

 よく数学で初めて0の発見をしたのはインド人だとか言うけれど、実際この0の発見は一大革命的な発見とは数学的には言えない。

 

 数学的真理の様なものがあるとしたら、とは言っても私は数学者ではないからそんなものがあるのかさえ知らないけれど、これを数学の哲学と言い換えてもいいし、単純に哲学的にと言ってもいいのだけれど、0から1が誕生するということは、宇宙の起源的な事実としては正しいのかも知れないが、我々自身の認識に於いては正しいとは言えないのである。

 

 

 

 何故なら0という想念、と言うか概念、その在り方を知れる者とは存在者でなければならず、それは必然的に有で在り、無ではないからである。だからこの10から言えば、その在る(有る)事とは全て(数が2であれ3であれ、100であれ10000000であれ)1と言ってもいい

 

 つまりコンピュータ二進法的に言えば、1のみが全存在を意味し、0がそれがない、非存在を意味すると考えてもいい

 

 つまり無そのものは無を認識し得ない従って完全なる無の状態であるなら、それは世界そのものが存在せず、存在しない者が無を無だと規定することは出来ない従って0とはあくまで存在者のみが規定し得ることなので、必然的に0とは存在、だからここで言うところの1こそが作っているのである。

 

 

 

 以上のことを念頭に入れて、永井均という哲学者の考えてきていることを解析してみると、永井均という人は、若い頃にこの0では決してあり得ない、この私ということを直観的に気付いていたのだ。そしてそれは彼にとってきっと一つの啓示の様な、宗教家とか神学者で言うなら回心的な何かだったに違いない

 

 つまり世界中に無数の自分のことを私と呼ぶ存在者が溢れ返っているのに、何故この私だけが直に誰から教わるでもなく、これが私以外の全他者に向けて私と呼ぶと疑わずに言える私、つまり私にとってはこの私以外には私と呼ぶ人が取り敢えず全く見つからないということ、何故他の誰でもなく、この私と自分で呼べるこの身体、これが私であったのだろうか、という問いだけに数十年を費やしてきたのである。

 

 これはどうして自分が日本人の或る特定の家族の下に生まれたか、どうして20世紀後半に生まれたかとか、どうして男に生まれたかとかそういうことにも適用できることである(今の例は私のことであり、永井均にも適用出来る)。

 

 

 

 当然全ての永井によるその都度の回答は、それで解決したことになるなどと永井自身が思ってもいないだろう。何故なら永井自身も永井以外の私も含めた全ての永井にとっての他者が私と自分を誰かに対して(二人称的にも、三人称的にも<今私が書くこの文はそういう意味である>)呼ぶという世界のコミュニケーションの在り方に属し、そのルールに従って生きているからである。

 

 

 

 しかしこの赤字で示した事実こそが極めて重大なのであり、だからこそ、では何故その皆が採用しているシステムの中のたった一人である自分だけが永井均と呼ばれ、そこからしか世界が開闢していないことをまざまざと知らされざるを得ないことそのことは、永井の言う無内包のとか第0次内包とかを認知とか感知とかして生活していっていることそのことであるのだが、それに大半の人は何の疑問も抱いてなどいない、しかしその事実こそが彼にとって極めて不思議だからである

 

 そのことを最初に示した数字の1から考えてみると、永井均にとってはその他の誰でもなく端的に私、自分であると言えるこの私はたまたま永井均と呼ばれるこの身体であり、この存在者であるということは、それを仮に一つの個体として1とするなら、その1すらないという事態を示す0も、所詮この1が作っているに過ぎないではないか、ということに、まずなる。

 

 

 

 例えば0という事態とは我々にとっては、我々が一つの存在者である様に既に存在してしまっているし、それを知っているからこそ持てる想念である

 

 つまり例えばこの私(この文章を書く私)が1という存在者であるとしたなら、その私そのものが消え失せて居なくなって、世界から消滅するという事実を数値化した時に0となるという理解しか我々は持てない

 

 何故なら我々は既に存在してしまっていて、存在しないという事態を理解することができないからだ。

 

 従って0とは1、これはその次が2であるという意味でなく、まず数値的に存在者として存在する事実を意味する符号だとして考えると、その1が消え失せて無くなるという意味となる

 

 つまり1234やそれ以上全ての数との関係より、より10との関係の方が何かを示している、ということだ。だから1を存在(∃)とすれば、それは0ではないという意味でもあるだから0とは1ではないという意味でもある。これはこの二つの数以外に成立し得ない関係である。そして2以上の全ての数は、この論理的筋道から言えば全て1の変数でしかない、と言える。

 

 

 

 これは永井均という哲学者にこよなく関心だけは寄せて、この哲学者永井均には何か自分にはないものがあると知っていて、しかし彼の考えていることではないかということを文章にすると永井から見ても、それを読む永井哲学を知る人から見ても、全くその本質を理解していないと言う事が見事に明白なもう一人の哲学者、中島義道が頻繁に論じている不在という事態として理解すればよいだろう(因みに中島は中島で決して永井を全く理解していないと言うのではないと思われるが、永井が意味させたいことと常に彼は違うことをかんがえてきているということであるに過ぎない)

 

 

 

 しかし永井均は不在を論じている哲学者では、当然のことながらない

 

 彼にとっての10の問題は、実は今のところ最新著作である『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』の次の様な箇所に内在している(さらりと書かれているが、永井哲学の肝がそこから読み取れる)。

 

 

 

(前略)世界の場合でいえば、諸世界のうちのどれかが必ず現実世界でなければならないことと、これがその現実世界であることのあいだにもある種の矛盾がある、と言っているのである。時制の場合でいえば、諸「今」のうちのどれかが必ず<今>でなければならないことと、これがそれであることのあいだにも、人称の場合でいえば、諸「私」のうちのどれかが必ず<私>でなければならないことと、これがそれであることのあいだにも、ある種の矛盾があると言っているのである。(第五章 フィヒテの根源的洞察から「~方向性」へ 77-78頁)

 

 

 

 ここで永井によって述べられていることはかなり深い意味がある。 まず諸世界のうちのどれかが必ず現実世界でなければならないこと」とは可能世界から見た現実世界ということである

 

 つまり今こうであること、今までもこうであったことその全てはあらゆる全ての可能性である「であるかも知れない在り方の」ことの内のたった一つのこととして在る、と考えれば、つまりそれはあらゆる可能性の内の一つに選択された、選択を与えられ一つに決定された、と捉えればそうなる

 

 

 

 だが次の「これがそれであることは全く前者の捉え方とは違う見方である。

 

 何故ならそれはそういう風にして選ばれ、そう決定されたと仮にしたとしても、その何故そう選ばれ決定されたかに就いて我々は知る由もないし、又仮にそう選択され決定されたとしても、その選択や決定に我々は関与することができはしないし、抑々そういう風に可能世界の内の一つが顕現したということは、我々自身がそのたった一つの現実に接していることそのこと、つまり今までの話しの文脈から言えば我々がたった一つ与えられている現実(それを∃へ置き換えると)1それしかないから、逆にそこから逆算して、ではそうではなかった可能性は実現という意味では流れた(aborted)のだから0ということとなるし、そこから考えてきていることに過ぎないとも言えるからだ。

 

 

 

 そもそも数字の1はそれ自体有であり存在者なので、その1であること自体で一つの自己意識である数にそれを想定し得るし、これはパラメーター的な視点の変換を通して『存在と時間 哲学探究Ⅰ』で既に示されていた)。これは永井が第八章で論説しているとおりである。

 

 しかし意味としての1は有であり存在者であることはそうだが、数字、計算尺や座標軸の0はポイントでしかなく、それはそれ自体で有意識である訳ではない。だからスケール上での数は、その数が意味する数値世界の分量の表示に奉仕しているに過ぎないそれはその計算尺を利用する人の為の指標でしかない。しかしそこにも<私>を導入して『存在と時間 哲学探究Ⅰ』では考えられていた。そこに永井均哲学思想の物体とそうではない我々を並列的に見る1的視点がある。

 

 

 

 だがそれを存在者へ置き換えると、永井均が「現実的に」と繰り返し言う端的にそれだけしか自己とは存在し得ないという指標となる。従って永井論法では明らかに現存在とされる全ての個は1である数十億居ようが基本的に各個(「私」且つ<私>保有推定者=<<私>>)全てが1であるし、よしんばそれ(他者全て)を全て排除しても、私は<私>であり1である。

 

 そしてそれ以外は0である<私>が私にとって0だからである。従ってそれは第十二章で違う人格で身体所有者と接合して二体、二心が統合されてもそうである。つまり永井論法では世界でたった一人の私にならない限り、そうである

 

 

 

 又、永井均は私とここは近いこととして捉え得る地点での論理思考では今はそうではないと考えている当然自分にとっての自分の身体しか痛くもないし、自分の口からだけ意志すれば何か語れることの<私>に準えて、それが正に違う時点(既に過ぎ去った過去の時点でも、これから到来し得る未来の時点でもない)今でしかないということを<今>としても、それは明確に<私>と異なるということを次の様に述べている。

 

 

 

 もう一つの問題は、<私>と違って<今>はその外部の存在者に受肉していない(しているように見えさえしない)のだから、<私>とは違ってそもそも捉えられない、という問題である。<私>であれば、ウィトゲンシュタインの口調を真似て言うなら「<私とは世界が現実にはそこからのみ開けている唯一の原点のことを指しているのだが、あなたがたにとってそれが永井均という一人の人間に見えるなら、そう取ってもらってもかまわない」というようなことが言えたが、<今>にはその「永井均に当たるものさえない。(終章 中心性と現実性の派生関係、243244頁)注釈(この部分では明らかにマクタガートの時間の非実在性を示しているとも言える。) 

 

 

 

 永井均は言葉では示し得ない、つまり論理では示し得ないことだけを生涯追求してきている実在論哲学者である。つまり実在と言った時、それは客観的対象を意味するが、その実在は現実的と彼が言う事ではない(勿論存在ということでもない)。つまり私そのものの端的さとは、あくまで言葉で本来示せないことなのだが、敢えてそれを言葉化(つまり概念になり得ないことを概念化させる様に)してみる試みとして<私>が成立している以上、永井は上記記述の後に更にこう付け加える事の試みの意味も明白に我々には理解できる。

 

 

 

「<今>とは世界が現実にはそこからのみ開けている唯一の時点のことを指しているのだが、あなたがたにとってそれが201851144237秒に見えるなら、」と言いたいところだが、言っているあいだに自分がその「あなたがた」に移ってしまう(<今>を<今日>に換えて「201851日」まで広げてもやはり言っている自分自身が自分自身であるままその「あなたがた」の立場に移る)。<今>や<現在>やそれに類する直接的な(A系列的な)捉え方以外の方法でそれを再把握する手立てはないのだ。仕方ないので「のだが、あなたがたにとってそれが~に見えるなら」以下は放棄し、「世界が現実にはそこからのみ開けている唯一の時点のことを指している」だけを残すなら、それは動く今(あるいは今という立場)であり、すべての時点にかんして成り立つことでしかない。しかし、もしすべての時点がまったく対等にそうであるなら、時間というものは消滅するだろう。この言い方にとって言い表したくなる事実は確かにあるのだが、それはこの言い方によっては決していい表せないのである。(終章 中心性と現実性の派生関係、244頁)

 

 

 

 そして上記のことはその記述より5頁前の238頁で次の様に既に論証されている。

 

 

 

<私>の場合であれば、それはたまたまなぜか特定の人間と(持続的に)結合している(ように見える)ので、その事実を手掛かりにして、そいつの物理的特徴を探求するというようなことができた。いや、実を言えばそれしかできなかった。

 

(先ほど述べたようにそこには論点先取りが含まれているとはいえ、記憶を媒介したこの捉え方は自然であった。)それと類比的に、<今>を何が起こっているとか何年何月何時何分何秒だとか捉えようとすれば、そいつはすぐに<今>でなくなってしまう。<今>にはそれが受肉している持続的身体がないのだ。 (終章 中心性と現実性の派生関係、238)

 

 

 

 

 

 永井論法で『世界の独在論的存在構造 哲学探究』では明らかに中盤登場する逆懐疑論的な考察の為の命題である東洋の専制君主(第十章)や唯物論的独我論者(第十二章)は論証的には極めて重要なのにも関わらず、永井論法では終章で、その様な論証では語り尽くせない事のみを実在と考えるという示唆をしている。つまりそれが永井哲学の絶対命題、つまり語り得ない事だけが実在だ、ということなのだ。

 

 

 

 しかしこの永井均哲学の思想と論法の秀逸且つ独創的であることを認めつつも、最後に一つだけ凄く素朴な疑問を私なりに示すとすると、サルトルの「実存は本質に先立つ」がフィヒテの根源的洞察から結び付けられるべきだったという考えが第七章109頁に示されているが、サルトルが『存在と無』で示した実存の本質とは、ボーイが働く社会的自己を背負う自己欺瞞でも示された様に内的にも他者を必要とするという観点だった。

 

 

 

 しかしにも関わらず本テクストで示されている永井哲学思想はこのサルトルのボーイの感じている自己と、その社会的自己との乖離的状況を乗り越えているとまでは思えないのだ。つまりサルトルのあの部分を読む読者は、抑々永井が論説し続けてきた端的で現実的である<私>を既に読み取っていたのではないかという思いはするのだ。

 

 この観点に立つなら、第八章 自己意識とはなにか で永井が示す、人が自分の肌に手で触れた時、世界で自分だけがそれを感じられ、自分以外の他者がそうしても感じられないこと(それは肌を触る手もだし、自分で触り触られる身体<肌の一部>もそうだが)を、他人には全く感じない事と対比させているのだが、これも例えば親しい友人(親友)や恋人や配偶者との間で、触られるのと、嫌いで憎んでいる上司や軍隊で上官に触れるのとでは意味が違うし、要するにそういった社会的自己ということをサルトルは言いたかったのであるが、その側面は永井論法と哲学思想からはばっさり切り捨てられている。

 

 触られる場合は、他者で見知らぬその時初めて遭遇した人であるなら恐怖が、そして知人でも意外性が、そして愛する者同士や信用する者同士なら、通常同性からでない限りときめきか慰安とか安心ということも成立し得る。この違いに就いても永井論法ではミシェル・アンリ的にそこを突っ込むことはなく済まされる。

 

 

 

 つまり我々は私と私以外に、やはり決定的に貴方と素気なく言える貴方と、そうではない貴方と分けて接しているという事実があり、又相手に触っていいかと尋ねられ触られる場合とそうでなくいきなり向こうからそうされる場合でも全く私にとって感じられることは違うそして、それは一人称以外に永井論法の場合全て三人称である観念が強いけれど、二人称的なこともそれ等二つの対比以上に重要だということは永井哲学思想では終ぞ触れられてはいないのだ(その点では大澤真幸論法の方により軍配が上がるとは今の処言える)。

 

 つまり永井均哲学思想は、この点では言葉にはならないことだけを取り上げる実在論哲学者でありながら、同時に、潔く図式化可能なこと以外は全て切り捨て、二値論理へ収斂させ様とする観念論哲学者(分析哲学の多くがとる態度)を踏襲し様とする伝統的形式主義者でもある、という事は言えると思う。

 

 

 

 

 

 又、もう一つは、実存的な<私>とは逆に言えば、あくまで誰もが私という特殊で端的に、正にそれしかないことを持っているけれど、逆に言えば、その了解に於いて持つ言わばラッセルのパラドックスの或る集合に於ける集合を成立させる要素と、その集合自体ということの差異にも関わらず、並列的に見てしまうことの矛盾同様のこととして考えれば、<私>自体は一種の幻想であることにもなり得よう。

 

 しかしこの点では抑々、永井哲学思想と論法では、そういった論理矛盾的なことを除去する無矛盾性の追求自体を相手にしている訳ではないと言える。

 

 つまり永井均は抑々論理的に整合性ある論理証明に自らの哲学を費やしているのではなく、論理にさえならないことだけを相手にしているのだ。

 

 

 

 従って、更に永井哲学思想と論法が完璧なものになる為には必然的に永井自身が論理の無矛盾性自体の不可能性の証明に成功しなければいけないということとならざるを得ない

 

 それこそを次回作哲学探究Ⅲに私は期待したいところであるが、それはかなり難事業であるとは想像できるし、それをし得た時数学証明論的な視点で永井哲学が不滅のものとなることは間違いのないことであろう

 

 

 

 又、結語では永井はこう示している。

 

 

 

 この世界像は、世界にもしたんなる物体というものが存在しなければ、そしてわれわれもまたんなる物体の一種であるという側面を持たなかったなら、時間の場合と同様に、全面的に真理であったかもしれない。現状ではしかし、それは一面の真理でしかない。とはいえ、一面の真理ではあらざるを得ないのだ。(269頁、最終段落結語)

 

 

 

 この結語は或る部分では赤字部分は物体に還元して考える物質主義的、唯物主義的側面を例えばロックとかシューメーカーの様に踏襲する永井が、その矛盾として、つまり我々はほぼ全面的に視覚的に物体を捉える生き物なので(それが蝙蝠の様なエコロケーションになっても事情は同じである)、そこからすればその物体による遮蔽が、心を読み難くしているしかし我々自身の私だけは<私>としてそうではない。何故なら、それは私だからである。そしてそれは実在し、それしかない、それがあるだけである)。

 

 しかし茶色字の部分では、そうは言っても全面的に全く遮蔽されていないから全て分かってしまう、とも言い切れないし、同時に否そこに我々が自ら心があると信じて疑わない様なものがあるということすら、そうとは言い切れず、物体であることの一つの幻影でしかないのなら、そうとも言い切れるとも言える、ということを言っている。

 

 

 

 つけ加えて記しておくなら、終章 中心性と現実性の派生関係 238頁で「実を言えばそれしかできなかった。」と永井が言っていることを示しているが、永井のこのテクストで何度となく登場する「でしかありえない」「ただそれがあるだけである」等の全てがアート界の運動ではミニマルアート的視点を提供していると言えるし、又親鸞の悪こそ救われる的な存在者の存在悪は、そうであるしかできない(だから神的ではあり得ない)、そしてそうであるしかできないことそれ自体は悪としても存在し得る事であるし、それは事実論的にも存在とはそれ自体完全善であり得ないと言った思想でもあり得、又道元の空的な宗教思想との関連から永井哲学思想を論じる可能性を開示しているとも言えよう

 

 

 

 この「でしかありえない」「ただ、それがあるだけである」等固有の言辞は、実は論理学的にはアルフレッド・タルスキー的なトートロジーの取り得る手法でもある。

 

 そしてここでも永井は個々の存在者は1であり、個々が個別であるが、同時にそれら全てに意識も感覚も体験もないのであれば、必然的に全てが並列的に存在するだけの全てでそういった1ともなり得る。そしてそれは或る意味では我々が自分というものを度外視して只世界を眺めれば、そう見えるとも言える従って私ということが仮に完全な幻想であるだけなら、その1とは0と同じということにもなり得る。

 

 

 

 しかし永井はここで恐らく、やはり我々のでもそうだし、我々へと転化させる私の<私>を通したこれでしかあり得なさやそれだけが端的な事実であることそれ自体を徹底して肯定し、それを信じずには生きてはいけないということを暗に示す部分では強烈な倫理的信仰主義的な倫理学者である、ということでもある様に思えるのである。

 

 

 

 次回は永井均哲学の系譜的先達から、田辺元やその他の数学論の幾つかと永井前著の『存在と時間 哲学探究Ⅰ』の幾つかの論点、そしてそれ以外の幾つかの哲学や仏教等の思想と絡めて考え、今回大急ぎで10という対比的観点からのみ捉えて結語迄急いだが、最新作に内在する別の重要な論点を永井哲学思想を軸にしつつも、そこから思想全般へと敷衍して考えていきたい。

 

 

 

(つづき)

 

 

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2018年9月 9日 (日)

創作メモ33

過去とは実在している訳でなく、あくまで記憶が作っている。過去を概念化することを正当の手続きとさせることとは脳内の記憶再生(思い出すこと)であり、記録から記憶をよみがえらすことである。

 でも、それ無しに恐らく現在も未来も想定できはしない

 例えば或る詩の評判が良かったから次も同じ様なテーマでも行けるとか、そう思えることはある。でも、それだけ、つまり閲覧者反応だけで詩を書いている訳ではない。それはあくまで参考になるだけで、読者がどういう反応を持とうが、書いていくべき何かは常にその先にある。成功例にあるのではない。

 だから記憶されている共感獲得への向かい方は、今度は別の角度から共感を得ることだけを考える、ということである

 

 でも、世界全体、つまり自分を取り巻く全てのこと、社会や自然のことがその都度、詩を書かせていく契機ともなっているし、刺戟ともなっている。

 


最初の〇で前者に関しては、その意味では全く顧みられない侭になって(率直最初にアップした時には閲覧者からさして共感を得られなかった)ことの方を次には優先させるということもしばしばあり得る。

 反響のあったことは、それで完結しているけれど、全くそれがなかったことはもっと掘り下げていかなければいけないと思えるからである。だから評判の良かった詩を次にも作ろうという意識だけはその都度殺すということは言える。

 何か自分自身の詩で描いたことへの共感に媚びると、その時点で詩を自分で主体的に書くことから、受動的に詩を書いて見せる相手から書かされることへ転じてしまうからだ。

 だから媚びをする場合には前例的な踏襲ではない全く新たな試みに於いて、それを理解して貰えるだろうかというチャレンジというか冒険というか、そういう試みが必ず要るのだ。それがなければ只の過去の自分とその共感への媚びとなり、一種の自己模倣、自己作業のコピーとなってしまう。

 だから必ず過去の作品とは違う要素で再度共感を得られるかを試す必要だけはある、と言える。

 


最初の〇の後者の問いに関しては、世界全体とは私と私が立たされている今、現代という時代でもあるし、それは当然人間社会であるし、自然、地震が起きたり、集中豪雨と河川の氾濫が起きたりということである。

 つまり常に自然と対峙している人間という姿と、政治時事的なことは接合されているそれを分けることができない。そしてその一部として生活する自分も接合された関係の渦中にある。

 悲しい事や楽しい事は、全てその中でのことである。それを外へ連れ出すことができない。だからこそ夢想的、想像的言葉に逆に意味が出て来る。

 それらはそれが不可能だから願いとか祈りに近い言葉となる。だから願いや祈りは自分と自分以外の全他者とが唯一繋がり得る行為である。それを願わない者は居ないからだ。

 自分が不幸になり、自分の愛する者が傷つくことを願う者は居ない。居たとしたら、その者は詩とは無縁だというだけのことである。

 

重要なことは祈りや願いは自分だけのことで成立し得ないということだ。だからもし自分だけが幸福になり他者が全員不幸になることを願い祈るとしたなら、それはそう願い祈る者の自家撞着であり、不可能性への妄想的実現夢想というだけのことである。

 悔しさとは幾分こういった心理に根差すが、実際にはその悔しさそれ自体はその侭では言語化し得ないということが、ここで言える。

 怒りと悔しさは似ているが、これは文章化する時には必ず頭を冷やして取り掛からなければいけないのである。

 だから基本的に批判や非難や真理とされることの誤謬発見を巡る否定とは、怒りや悔しさを鎮静化させなければ文的に成立し得ないのだ。

 


  

 従って文として示す詩作もやはり、この点では極めて冷徹な論理解析的姿勢が要るという事だけは言える。

 

 詩人は、それをあたかもそう沈静化させて書いているのではないと文体から思わせる技術が要るということだけのことである。

 

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2018年9月 8日 (土)

世界の真実Part35 自分とは一体何か?①

問題となることは、只一つである。自分とは一体何か、ということである。

 だが、当然のことながら、この問いは誰もが抱えているにも関わらず自分に対する捉え方は人によって違う。

 哲学者は自分ということを職業的にはあくまで個物であることや存在を認識したり、要するに世界の中に位置づける形で理解する。

 それは職業的な見方だが、個人的に、では自分とはどういうものかをどう捉えているかはなかなか本人にしか分からないと言ってもいいくらいに、とりとめはない



人は生まれてきた時に両親が話す言語に支配されていく。これは間違いない。だからその時に聴いた言葉でない限り、たとえ思春期に差し掛かる前に聴いた言葉であっても、それは既に臨界期を超えて居れば外国語にしか聴こえない。そして、それを変えることはできない。

 にも関わらず私は自分を日本語を話すから日本人としてだけで規定されると思っていないし、そう規定されたくもないが、多く哲学者はそういう規定そのものに全く関心はない。或いは話したことはないが、そういう規制自体に関しては生物学者の方が関心は持つだろう物理学者も恐らく全く関心を持たないだろう。

 その点で私は哲学的思考を重視するし、凄く自分にも哲学者的資質を認めはするけれど、やはり職業哲学者ではない。

 


言葉とは、その言葉の意味するところとか、その言葉を使って仕事する、本を書いたり、論文を書いたりということの主張とか思想的意味自体と、そうではなく、その言葉の流れと言うか、要するに文体やその言葉の駆使の仕方自体が自然に我々は齎す我々へ引き込むことそれ自体とは別である。

 だからこそビートたけしの言葉の使い方が彼の持つ芸能人生や国際的評価を得ている映画監督とかの考えを示している多くの本と哲学者たち、永井均や中島義道等の文の持つ、その文そのものの表現してしまっている(それは書いている本人も自覚的ではないこと)に引き寄せられる。

 その点で私の持っている興味はやはり詩人的でもあるが、同時に哲学者的であるよりは批評家的、思想家的、言語学者的である。

 だから私が日頃から感じ取っている日本とは一体何か、とはとりもなおさず日本語とは何かであり、日本語こそが日本人を日本人として規定している

 つまり言葉自体が民族性を形作ってしまっているのだ。

 そしてそこから誰もが自由になれない、という意味では何人でも、何語でも同じなのである


 だから、やはり自分とは、今述べた様な何人とか何語ということで規定されている部分とは別個であり、今私が述べた様なことは日本人以外でも考えている筈である


 だから自分とは日本人としての自分のことではない。少なくとも私にとっては。


 でも、その自分は一部は確かに哲学者たちの考えてきている様な自分とも重なるけれど、それが全てでもないそれは一部だ。


 つまり自分とは、身体だけでも精神だけでも言葉だけでもないけれど、国民とかそういう帰属性とも違うと言ってそれら帰属性と当然無縁ではない。


 一つはキャラクター全体が私に私らしさを感じさせることも当然関係している。

 それは日本人では私みたいな或る種の感じ方で生きている人はきっと少ないだろうけれど、世界を見渡せば、どの国にも一定数は居るだろうとも思える。

 そこで確かに連帯の様なものを作ることは可能だし、だからこそ現代の様なウェブサイトが拡充されている時代は、その点では幸福だ。

(つづき)

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2018年9月 7日 (金)

日本語の世界は何処が英語の世界と決定的に違うのか?Part1

 私が或る地方の駅前の売店で、女手一つで頑張ってきたらしいかなり年配の店主に陳列してある商品に就いて尋ねる時に「~だからさあ、」と言ったら、すかさずちょっとだけ顰めっ面で「~だからねえ、」と言い直された。

 日本語はこのことからもよく分かるが、要するに動詞や名詞の選択以上に、感動詞の様な付随的な言い方に異様に配慮する言語である。


 この点では正式の言い方とぞんざいな言い方をはっきり分けるハングルもそうだ。英語にもcould youwould youという言い方があるし、全く敬語なんてどうでもいいということは全くない。

 にも拘らずやはり英語で一番重要なことはそういう点ではない。

 これははっきりそうである。

 しかし日本語はそうではない。


 それに日本語では動詞と名詞の選択以外でも、やはりかなり多くの神経を接続詞に費やす

 英語でon businessと言うのは決まり文句であるけれど、仮にそれをforinで代用しても、それで決定的に矛盾するということはない(勿論ネイティヴ的に自然に聴こえさせる為にはきちんと決まりはある)。しかし日本語では厳密にそれぞれに決まっている訳ではないのに、その都度違う選択をしていかなければいけないという感触は凄く強い。

 

 日本語は意味の世界を伝達すればいいという本質論より、どうそれを伝えるかの様相の方に気を使わせる言語であることだけは間違いない。

 英語はそうではない。まず何を伝えるか、5w1h的な選択や、目的を明確化させる言語なのである。

 

 だから本質的にグローバル言語とは英語のことを言い、私的な感情を伝え合うのに適したものが日本語だと言えるだろう(和歌の伝統からしてそうだ)。


 つまり日本語とは同調や共感を得る目的が先行しているのだ。英語は折衝、交渉、要するに余所者同士で(初めて出会う人同士で)一番大切な要点だけを伝え合うのに適した言語であるのに対し、日本語とは勝手知った者同士が相互の状況を確認し合うのに適した言語だ、と言えるだろう。

 

 日本語のこの特徴は、日本語が階級社会ではない精神的横社会、つまり天皇を中心象徴的に設置する以外は全てが並列であるという意識的・無意識的共産主義的民族精神の現れと見ることができる。実力主義と言っても日本のそれは金銭的自由だけであり、精神的に真に多くの民に容認される人格とは金銭的力ではない、ということの明示こそ日本語であるそれはいいとか悪いとかいうことでなく一つの厳然とした事実である)。


 対し当然のことながら、英語は神を頂点とするその子達、とりわけアメリカではそれに加え社会的成功者を象徴とするという精神が英語を支えていると言っても、偉大なる社会的成功者(つまり富豪)が天国に行けるかというと、それは又別だという観念も共有されているところが日本と違うところである。


(つづき)

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2018年9月 6日 (木)

創作メモ32・創作・表現・研究メモNo.4/批評メモPart1

 本ブログで1日から3日まで継続してアップした詩シリーズ(poetry series)「約束の土地」は英語版Part1が和訳版でⅡとなって、英語版のPart2が和訳版でⅢとなって、日本語で書いて、それを直ぐ英訳して英語ブログにますアップさせた英語版Part3が、本ブログⅠとなったものだが、このシリーズは英語ブログでも本ブログでもかなり来場者を獲得した。この様なかなりシリアスなシリーズが注目を集めたことは意外だったが、自分としては大いに自信となった。


 このシリーズは追求していきたいので継続させたい。


 それにしても、今更ながらに詩作とは世界全体への批評であり、自ら世界の只中に立たされて、その不甲斐なさも含めて、その自嘲と存在すること自体、存在者として存在の一端であること自体へのタウマゼインもさることながら、やはりその存在そのものの辛口の批評という行為なのであり、その辛口であり、かなり辛辣であること自体が凄く意味あることである。

 

 生きていくことは世界そのものへの批評、批判なのであり、存在すること、存在者の一端として存在自体に関わることそのものの悲喜劇と、そこからの逃れなさと、存在のそれ自体の矛盾を徹底して究明していくことと創作が一であることの示唆と証明である。その示唆と証明に於いて詩作以上に合致した方法がないということなのである。

 


 批評行為として私の三十代前半の人生の危機と苦悩に於いて私を引き込ませたのはまぎれもなく当時、オートバイ事故からの復帰に賭けていたビートたけしの諸エッセイなのだが、それらを再度読み返してみようと思っているが、実は若い頃メルロ・ポンティ、ヤスパース、ハイデガー、サルトル、ベルグソン、カミュ等を読み耽っていた時期から暫く全国の放浪記を経て、或る欧州人女性と知り合い、その人生プロセスの中で読書自体から暫く離れていた私を再度読書へと呼び戻してくれたのがたけしの本であるなら、その後詩作と哲学的思考を習慣化させていく道の本端となった中島義道の『時間と自由 カント解釈の冒険』と出会ったのは当時画家として活動していた時期の苦悩の狭間でであり、たけしの方からインスパイアされてから数年後、絵画制作に徐々に乗ってきていた時期のことである。

 その数年後に永井均や竹田青嗣他大勢の哲学者の本と出合うこととなっていった。


 しかし今六割程読み進んできている永井均の『世界の独在論的存在構造 哲学探究Ⅱ』は永井均の哲学人生の総決算的意味合いのテクストであるが、その本質的跳躍は寧ろ『存在と時間 哲学探究Ⅰ』で果たされていたその余裕の中で書かれたのがこのⅡである。

 だが永井の持つ名文体はやはり決定的に世界への批評的であるその部分で一見全く無関係に見えるビートたけし=北野武のテクストとさえ共通したエッセンスがあるのである。


 しかしそれをきちんと論文化させることはやはりかなり容易い作業ではない。何故なら、その解析こそ日本語の世界、つまり英語やそれ以外の言語にはない世界の分析と解明を旨としなければいけないからである。


 それはやはり決定的に日本語世界、日本社会に前提される甘えの本質、凭れ合いのもつ存在論的考究になるだろう。そしてそれはイコール羞恥の本質であろう

 

 日本語は各分節を分けないこと、繋げる事である。従って日本語とはsplicingの世界なのである。生物学進化論で言う遺伝子・ゲノムの選択的スプライシングの世界なのである。


 対し英語とは切り離してあることを切り離した侭関係させる事なのである。これはアラビア語が話す者と話す相手との関係に於いて全て切り替える言語とも日本語の様に全て繋げて流れで持って行く言語とも違うのである。

 ロシア語とは日本語の方に近い、しかし日本語よりは少しだけ英語やアラビア語に近い言語である。又、ハングルはアラビア語的な切り替えと日本語的繋げとの中間である。


 このことはいずれ考えていくべきであろう。

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2018年9月 5日 (水)

世界の真理 Part 100 シリーズ百回記念・究極の真理とは存在し得るか?①社会の在り方から考える自由と権利

我々は幼い日々より思考習慣として正しい事とそうでなく誤っている事という二元論でものを考える習慣がある。

 しかしそれはあくまで人間社会がその都度でっち上げて拵えてきたものにしか過ぎないとも圧倒的に言い得る。

 つまり自然実在的に善や悪、正しい事と誤った事というのがあるわけではないのだ。

 しかし、それはあくまで自然からの考えで、自然でなくあくまで社会とか共同体とか国家とかを軸に考えるなら、それはある、と一般的に我々は考える従って全てが相対的に善悪が決定されている訳でも勿論ない。そしてその最も分かりやすい指標として法というものがある。しかしそれもやはり少しずつではあるが、古代から現代まではかなり大きく変わってきている

 だが、そういう或る固有の正義や決裁の正当性自体の変遷から察するに、再度哲学的に考察するなら、実際真理としての真偽とか、正誤ということ自体、大いなる幻想かも知れないのである。

 しかしこれはやはりニヒリズムではない。ニーチェの時代はニヒリズムだったかも知れないが、現代ではそうではない。

 つまりそうやってまやかし的なる考えを除去していって、最後に残るものだけが絶対間違ってはいないという確信を我々へ与える真理だろうと見ることは決して間違いではない

 



〇例えば自由という理念を絶対正しいものであるとすると、自由の範囲が余りにも拡張され過ぎて、やはり収集が尽かなくなる。従って自由というのは与えられるものではなく、あくまで獲得する権利として考えていかなければならない

 しかしその与えられている権利それ自体はどこまで自分の思い通りになるか、とか、どこまで追求して良いのかということは明確に規定されていない。勿論それは法的な意味でなく哲学的意味に於いてでは、である。否、法的にも法的に逸脱しさえしなければ自由は際限が設定されているわけではない。

 何故なら哲学でそういう風に一個一個の社会概念を精緻に設定し過ぎると、社会の在り方自体が変貌していくので、概念の設定が先に為されるべきなのではなく、常に人類が立たされている現状に鑑みた法の在り方とか、自由の範囲という設定が重要になるからなのだ。

 でもその設定が何らかの形で社会に共有されていれば、通常必然的にそれが法に反映されていくものである。

 そしてその反映されてきやすいものは、やはり時代毎にある。

 つまり、ずばり現代社会には現代社会にだけ固有の自由や権利の問題が存在するのだ。

 



現代世界は、地球は明らかに全世界規模で資本主義が自由主義の正義の下で正当だとすることで自然環境は益々破壊されつつある。この現実が世界に地球環境の激変と自然災害を多発させていることは間違いない。

 自由とはあくまで世界的規準としても、傲慢にエゴ的所有欲を満足させられる形で各個人が行使してよいものとして現代社会が成立しているわけではない。

 従って例えば何らかの大資産を経営に於いて取得した場合、それはそれ相応の税負担を課せられ、その納税額の大きさに伴い社会的責任が生じるので、自らが稼ぎ出した資産を市民・国民全体、つまり国とか、世界的にその企業が関わる国々の投資者やユーザーにとって幸福となる様な条件での社会奉仕義務が生じるし、又そういった成功者にはそういった技量に於いて尊敬を社会的に勝ち取れるので、自然と善的な資産運用の貢献というものがしやすくなる

 かくして資産が大きくなればなる程それに付帯していく社会的義務が一つの国家や社会への奉仕への市民・国民(納税者)の期待と誘因とによって、より健全で善的なる奉仕の義務として確立せざるを得ないので、必然的に社会全体のニーズによりその資産家は通常社会貢献しやすくなる

 だから、その良好な責任遂行をしている内は彼は社会全体から尊敬されるが、それを踏み外すと途端に社会全体から白い目で見られていってしまうという末路が用意されている。

 



〇つまり一つ前の〇で示したこととは、要するに一人の人間の仕事とそれによる社会奉仕とは、そういう需要に対して供給するという受け答えとして成立していくものなので、社会全体に還元されるべき相互依存的な共有関係の中に於いてのみ仕事の意義と存在理由が証明されるのだ。

 従って近代的自我とか様々な条件が個々人に突き付けられていても、それは必然的に社会全体への奉仕義務とその奉仕を個々人の市民が享受する権利との一致に於いて個人が成立しているので、社会的に評価され得る市民個人の技能と貢献度とは、そういう全体的評価に常に曝されているので、どの個人の自由も、その奉仕義務の範囲内としてのみ正当に認められ得るので、どの個人も個の欲望を暴走させることだけは出来ない様になっているのだ。

 従って現代社会は法的秩序とその範囲内での各人の自由の追求が前提されているので、必然的にどの個人も余程何らかの精神的変調をきたさない限り、個人の欲望だけを暴走することができない様に自然に各人がそのマナーを習得していくこととなるべく社会インフラや教育が整備されているのだ。

 



〇だからそのこと自体をより不自由だと見做す感性は個人の自由であるが、その不自由さから離脱して個人の自由を獲得する為にはどんな個人でも、それ相応の努力、つまりその自由を得る為の資産や自由な時間を持てるだけの余裕を獲得するべく労働や社会奉仕をしなければいけないのだ。

 従って自由を行使する権利を得る為の義務と責任の遂行が欠かせない現代社会では、特定の個人のエゴイズムを実現させる様には社会全体が機能していないのだ。

 これが人類の一つの大きな社会と個との間の確約なのだ。

 しかし、それはやはり産業育成も凄くこの現代社会確立の上では貢献してきたけれど、近代以降の哲学や宗教等の思想や啓蒙も大きな寄与をしてきたということは決定的に言えよう。

 つまり政治権力の闘争だけであった訳でも、宗教的宗派闘争だけであった訳でもない、常に相反的で相克的な在り方が、現代社会成立の礎にはあったのであり、今もそうである(教育は正にその狭間で考えが熟成してきたと言える)、ということなのである。


(つづき) 

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2018年9月 4日 (火)

世界の真理 Part 99 世界の事実と世界への謎②

確かに日本には絶対はない。だから全てが相対である。しかしそれが全面的に悪とも勿論言えない。


 例えば八百万の神以外にも世界にはかなり広範に多神教(汎神論)は見られるギリシャがそうであるし、ケルトもそうであるし、第一神話と名付けられる大半が多神教的世界観である。


 だから逆に言えば一神教という宗教思想の一大勢力とは、実は数多くの多神教を各民族が勝手に信仰していった場合に、収集がつかなくなることを慮っての宗教教義上の政治への配慮だとさえ言える。



 例えば分析哲学の多く(ジョン・エリス・マクタガート、バートランド・ラッセル、デヴィッド・ルイス、ソール・クリプキ等)はばっさりと切って捨てる思想だと言える。

 スティーヴン・スティッチ氏(分析哲学・心の哲学・反事実的条件法他のアメリカの哲学者の大家)は東大駒場での講演で、全てを切り離せ(divorce)と結論された。

 切り離すという事は、繋げないことであるから、必然的に同化を阻止することである。同化阻止とはとりもなおさず純然たる純粋で真正の唯一者を求めるということにほかならない。Only genuinely refined thing is needed.ということにほかならない。

 これが一種のカルヴァン的態度だと言えよう。

 


 つまりこのばっさりと切り捨てる発想はカルヴァン由来だと言える。それは有無を言わさず、絶対者としての神とその神の恩寵への従順な受け取りとそれへの感謝と、その意を示す為の奉仕という観念である。

 


 従って日本の哲学者、永井均を魅せてやまないデカルトはその意味で偉大なる反逆者であった。そしてジョン・エリス・マクタガートを初めて日本で翻訳した永井均によるマクタガートの時間論(『時間の非実在性』)への疑問と氏による自説はだから、このカルヴァン主義への抵抗であり、懐疑であろう(この点は後日永井均哲学の本質を論じるシリーズを設置し、マクタガート、デカルト、カント、ニーチェから中島義道迄動員させてこの一神教教条絶対主義が哲学へ齎してきている精神的な訓戒性とそれへの抵抗という形で論じていくつもりである)。

 



〇或る意味マルティン・ルターには明らかにカルヴァン的硬直化傾向の顕著な一神教絶対主義の持つ政治的統括意図や清濁併せ呑む的な非情措置と異なった純粋なモティヴェーション主義というか、そういう生き方が多くの論文やメモからも伺える


 だが、このルターの真正な倫理的モティヴェーション至上主義は、やはり政治的には(もしそれだけを長期持続させていたなら)挫折していたかも知れない。

 つまりカルヴァンはそのことをどこかで心得ていて、ルター的なる態度を善としながらもマルティン・ブーツァー的な教育論的な宗教改革の実践性へ赴いたと言える。ルターの後見人であったメランヒトンは、ルターの純粋さを崇高なものとして尊敬の念を絶やさず、ルターの死後彼はきっとそのルターの純粋であればこそ欠損していた(と言うより重きを置かなかったこと、例えば修辞学的な態度)を教育者としてルターの死の14年の後生きたかも知れない。

 


 つまりルターは純粋な詩人だったのだ。そしてメランヒトンはギリシャ語からラテン語迄堪能な偉大な学者だったのだ。

 



〇だから逆に言えば散々批判してきたこの日本の曖昧にして玉虫色にしていく決裁方法がやはり一度徹底的に真理的に、公理論的に反省的地平へ放り込まれなければならぬにせよ、その徹底した一元的な価値踏襲を目指した絶対主義を仮に日本が今後採用していったとしても尚日本人には残存するであろうなし崩し的に相互同調へ赴かせる座的空気主義の全てを撲滅する必要もないとも言える。


 つまり一神教の統制的原理は確かに世界を制覇したが、それは今現在世界秩序がアメリカ一国のリードで行われてきている(にも関わらず、そのリーダーシップからトランプ大統領は逸脱したスタンスに赴きつつあるのだけれど)その事実に対して、地域的にはコプト教的な正統的キリスト教教義からは著しく逸脱すると思われがちな異教的・邪教的教義(その一つは今は古代的なものと思われがちなゾロアスター教であるが)さえ、多神教・汎神論的伝説は神話上では地方には多数今も残存するので、完全撲滅させるべきではない、という中庸思想は充分正当性を持つのである。

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2018年9月 3日 (月)

約束の土地 Ⅲ

再会は最初の出会いがあるからこそできる。

真にお互いにとって特別な出会いであればこそ、再度お互いに出会えるのだと確信し合える。

そして、そのことだけが我々の心に刻まれ、その時それが出会いだと言えるのだ。

 

約束とは誰へ対しても自分に対して決心することなのだ。

誰かへ与える者も、誰かから与えられる者も、共に一つの心で居ることができる。

約束とはそのことによってだけ得られる。

約束の土地とはこの地球上の空間であるとは限らない。

心の空間、想像上の空間、創造性の空間、それ等は全て大半が脳の中に存在する。

でもそれ等全てはやがて真実に存する空間になるのだ。

でも、それだけではない。

 

約束の土地とは突如出現する。何故なら何が一体未来に起きるか等我々には知る由もないからである。

にも関わらず予測のつかない出来事の意味や本質はその出来事が起きてから長く続くのだ。

 

きっと個々の時代のそれぞれの時間に於いて聖書の部分を編纂した者達は預言者達でもあったそれぞれの執筆者によって書かれた初期の時代の記述を思い出していたに違いない。

何かが起きた出来事の後で、出会い、別の出来事というのは起こるのだ。約束の土地とは前の土地の上に書き換えられる。

約束の意味とは、心理や約束を支える精神がどんな出来事が起こったとしても変えていく。

約束を確かなものとする特別に期待された意味が実際に起きるのだ。

でも、それはきっと我々全てにとって信じられぬ程魅惑的なのだ。

とても印象深い出会いの様なものは我々の意識をより高い価値ある約束の土地の意味へとして高めるのだ。

 

その出会いはそれらのことを正しいことだと我々に意識させ、それら公正なものであるべきなのに誤解される。

それでもその後で、我々は来世の意味を知り、よりよく修正され生とその意味への見方を変える様に仕向けられる個々が我々の生の切実なる価値へと導く到来へ向けて願うのだ。

 

過去数年の間に解決が尽く筈だった事は再々持ち越され、我々の生活に素直な実感としては全く鋭利に咎っているのだ。

 

平地や水平な地平線の広がりは瞬きをする一瞬の内に我々に個々の行く先を告げ、でも平地を歩いた後では、それぞれの地域に固有の地理的な状態はそれぞれの行く先へ行く際に各瞬間にどう歩いていくべきかを我々へ告げてくれる。

 

貴方のハートへ叫べ!

貴方の心に内なる声を迸らせよ!

 

貴方はその瞬間からどう歩むべきかを知るだろう。

貴方の道は長く、個人も貴方も凄く時間もだ。

時には貴方が歩む道端に咲く花へ言葉を囁け!

そうすれば、貴方の疲れへ癒しとなる様に、それは答えてくれよう。

 

貴方にとっての癒しの時を持ち、貴方の約束の地である行く先へ向かう最良の方法を熟慮せよ、さすれば貴方の持つ力の限り、先へ、もっと先へと貴方なら歩めるだろう。


2018. 6. 29, 原文英語を日本語に翻訳9. 2-3

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2018年9月 2日 (日)

約束の土地 Ⅱ 

約束の地はカナンだけではない。

我々は皆目を瞑った時だけ個々にとってだけの約束の地とは、心の地として現れる。

我々の想像上の現実とは、来世への願いなのだ。

 

来世の到来だけが、真の約束の地なのであり、それは我々の心の願いに存する。

我々が日々の仕事をすれば、我々は必ずや希望の輝きと出会えるのだ。

それは我々自身の約束の地と同じ輝きなのである。

約束の地を含めて全てを照らすことの意味とは、来世の到来への疑念への闘争なのである。

日々の務めは必ずや我々へと報いられるだろう。

 

希望の輝きはあらゆる他者への憎しみの感情からの離脱であり、その憎しみの感情とは我々の民の古代の日々より不文律として慣習化したものでしかない。

でもそれら全ては古代の治世に対して修正をし、矯正すべき目的へと転じられていかなければいけない。

王国としての希望の約束の地とは常に我々の心に住み着いている。

心は我々が祈りを怠らず、約束の地の王国としての来世の存在を信じる事を求める。

 

約束の地は我々個々の愛する者への再会なのだ。

愛する者との出会いとは、常に再会を阻みそれに対する障害としてのみある制度に存する。

再会の前には格子が嵌められている。

 

それは慣習の違い、言葉の習慣の差異、習慣そのものである。それら全ては格子の様に我々に対峙している。

 

現代社会は目には見えない何かに取り囲まれ、情報の供給と伝播に検閲されているのだ。

そしてどんな時代でもそうしようとする権力は幼稚であり、子供っぽい社会に設置されたインフラなのであり、他者に対して公的には信用している家族である。

 

でもその親しみとはあらゆる自由で想像力溢れる創造性やそういった人々を抑制する不動な保守的警察実行力の権力へと転移していくのだ。

つまり権力が維持する意図とは常に独創性のある全ての思想を干渉することなのだ。

 

自由に考えること、自由に自分達自身の習慣を選べることとその行動は公衆へと広がっていくことは阻止されるのだ。

公的な生活とはあらゆる種類の政府公職者達による抑制的監視から齎される干渉を擦り抜けることは滅多にできない。

 

ちょっと、常識に囚われた旧態依然の考えでいる知人に執拗に取り囲まれているという我々の受難を想像してみよう。

 

でもそうやってじっと凝視していると、やがて我々は心からの信頼と心からの信仰を照らし出す解放された明るい環境へと前進する様に徐々になっていく。

 

我等の約束の地とは我々の未来に於いて直ぐそこまで来ているのだ。

その輝きは我々全てへ行き渡り、我々はそれを我々の心に切実なるものとして備蓄し、そのことに就いて共に語り合おうではないか、我々が得た安楽な時間と幸福に満たされた日々に於いて、アーメン!

2018. 7. 7


 本作品は今年七月初頭の七夕の日にまず英語で書いた。本作品が私にとって英語だけで考え書いた詩の最初の和訳である。今年に入ってから去年までは十作に一作の割合だった最初から英語で詩を書く習慣が、現在は最初日本語で書いて、それを英訳するケースが大半だったことから、日本語で書く詩の割合と同じ(半々)となった。

 従って今後日本語で書いた詩も全てを英訳はしないだろうし、逆に英語で書いた詩も全ては和訳しないだろうが、本作品の様にかなり過激に(いい詩とは全て過激である)書いたもののみ和訳も試みていくだろう。

 因みに本作品は初めてアメリカ人二人以上の閲覧者を同時に得たものであり、昨日の同タイトルの詩は英語で考えたPart2(本作品は英語ブログではPart1)を挟んだPart3として、これのみ日本語で書いて、それをその侭英訳した(初めてアメリカ人とアイルランド人が同時に閲覧してくれた本シリーズ最初の作品となった)。尤も最近は日本語で書いていても、もう一つの脳が英語で、又英語で書いていても、和訳する時のことも考えて書いているということも何度かに一度はある(尤も、そうでないことの方が未だ多い)。

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2018年9月 1日 (土)

約束の土地 1. 重なり具合の推移

身体はその侭でも、心が変われば身体の調子も大きく変わる。

心を変えてゆくものって何だろう?

 

人は先行きへの不安に関わらず、いつもその時々の今に、その時にだけ、その今にだけできることがある。

 

だから、それを見つめられる者だけが、きっと自分の心を見つめられる。

身体の調子も、時々変わるけれど、心の在り方、気持ちも時々変わる。

そう、いつも大きく変わりはしないことと、比較的頻繁に変わってゆくことがいつも心では重なっている。

その重なり方が、その都度人の身体の調子にも大きく影響を与える。

 

何か大きな出会いは心を大きく変える。

でも心を変えたい兆しが確かめられるからこそ、出会いが作られる。

大きな出会いは、その後その出会いの前の自分へは二度と戻せなくする。

そうでないものは出会いではない。


出会いの大きさは出会っている時の長さではない。

二度と似た出会いがなければ、大きな出会いは今生では解決しないことへと心を向かわせる。


約束の土地は、だから今生のその唯一の出会いが作る。

何かと関係し、その関係は一切の衝突を作らなければ、それは閉じ込められた自由でしかない。


真の自由は、その関係が他の多くの関係と調和しないことだけだ。

だからこの真の出会いしか出会いに値しない。

 

2018. 8. 31

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