« 2018年9月 | トップページ | 2018年11月 »

2018年10月

2018年10月31日 (水)

メロディとパロディPart2/日記的記述GI/世界の真理109/日本人の私と哲学的・神学的私Part4

 今『七日の王妃』(テレ東・韓流史劇)が終わってテレビのチャンネルを換えてフジを見ると、いつもの様にデイブ・スペクターがアメリカの芸能人セレブの話題を取材した報告を皆が喜んで聞くという趣旨だった。

 日本って、本当にアメリカのセレブが好きだ。


 要するにアメリカの国体さえ傷つけない様にしさえすれば、この局はいいんだろうか?でも興味深いことにアメリカの民主党はセレブが多いし、要するに凄く金持ちの人達が支える党である。

 対し今トランプが大統領を務める共和党は中間層以下の支持者達が圧倒的に多い。


 つまりこういうことだ。アメリカは人種差別等をすべきではないというリベラル的理念も一方ではしっかりとしているけれど、それは概ね元奴隷交易に賛成していた民主党の方が担っていて、そうでなく奴隷制度自体を撤廃したのは共和党最初の大統領リンカーンだったので、彼はアメリカで最初に暗殺された大統領である。

 アメリカは来た人の順に(つまり来た人の順にネイティヴアメリカンを虐殺して、領地拡大してきたので、アングロサクソンやアイルランドやユダヤの次は黒人も大統領になったが、その次に非白人(colored)が就任するとしたら、確率的に中国系である。

 又ユダヤ系はNYでもどこでも金貸しと相場が決まっていたし、中国系は西部劇でも登場するけど、洗濯屋と相場が決まっていた。又アイルランド系は繊維業界、イタリア系は八百屋(今西海岸では圧倒的にグロッサリーショップは韓国系だけど)と相場が決まっていた。それでもアメリカは中国系移民排斥法(1882)も施行している。


 ところで南北戦争は奴隷交易に賛成していた件の民主党サイドの政治家であったジェファーソン・デイヴィスが将軍ロバート・E・リーを担いで、対してそれに異を唱えるエイブラハム・リンカーン(尤も彼の祖父はリンカーンの父を含む祖父の子供達の目の前でネイティヴ・アメリカンに殺された)がユリシーズ・グラント将軍を担いで戦争し、後者が勝利して、奴隷制度は撤廃されたが、その後も黒人への人種差別は延々と続き、それがディランやピーター・ポール-&マリーやジョーン・バエズ(英語読みではバイエス。彼女はクェーカー教徒の家庭のメキシコ系である)が活躍したフォークソング(トピカルソング。ウッディ・ガスリーの工場労働者賛歌等に見られる反体制リベラル色の強いメッセージソングのこと)が世界的旋風を巻き起こした60年代の公民権運動へと繋がっていることは周知のとおりである。


 さて民主党は資産家の支持母体を持つ党であり、だからNYのブロードウェーは昔赤狩り(マッカーシー旋風の起こった50年代に活躍した大勢の演出家や映画監督達はこのストリームの支持者だった。エリア・カザン<マーロン・ブランド、ジェームス・ディーンを世に送り出した>、リー・ストラスバーグ<ユダヤ系演出家、劇作家、俳優でアクターズ・スタジオ創設者。彼のスクールからダスティン・ホフマン(ユダヤ人)、アル・パチーノ(イタリア系)、ロバート・デ・ニーロ(イタリア系)等が続々と輩出した。)によって摘発されていた人達の思想の流れは明らかに今回爆弾を送り付けられた民主党系が多く、共和党はリンカーンの時代を最後に今ではすっかり右寄りの党と言うイメージが定着してしまった。


 でも率直貧乏人の味方という意味では、そして日本政治全般との相性という意味では圧倒的に歴史的には共和党が利益を運んできたということも紛れもない事実である。


 つまり端的に理念や正義の観念から正しいことが、同時に政治的現場や実際の国民の支持とか歴史的な作用に於いて吉と出るかとは全く違う話なのである。


 従って日本という国家も、西郷隆盛に拠って確かに戊辰戦争で守旧派の大勢の幕臣サイド、或いは開国派を抑えて明治政府を構築することができたけれど、旧氏族の不平不満を一身に受けた彼が西南戦争(西南の役)で大久保利通に敗北を喫したことで政府と国家が安定化したということだけは確かである。


 にも拘らずその後の日清戦争と日露戦争の勝利によって、日本が大蔵省推進の金融帝国主義に邁進し、後に愛新覚羅家を利用して満州鉄道等を建造して張作霖を謀殺し、西欧列強の模倣で脱亜入欧政策の延長線で中国大陸、朝鮮半島、台湾等を植民地化させたことが、結局昨日、新日鉄徴用工問題で韓国最高裁が提訴を確定し、新日鉄側の敗訴を申し渡した旨の一連の反日感情を韓国人へ醸成したことは確かなのである。

 今後韓国政府は日本との間に交わした条項を巡って板挟みになり、日韓関係は又一層困難な季節を迎えることとなった(尤も、ムン大統領は急進派リベラルなので、北との国交を重視しているから、日本の利益団体とは相反する。でも拉致家族問題はムン大統領が安倍総理との間に立たなければ前進は望めない。


 ところでメディアの多くがアメリカに敗戦した後、能天気に、無思想的に大勢のハーフやクォーターを起用し、今やCMでも何でも挙って白い肌のタレントをより多く起用して、と言って大坂なおみの様なスーパースターのみアメリカのマイケル・ジャクソンの様に特別扱いをするという全くもってけしからん日和見主義の原型も又、大久保利通の西欧被れに端を発している。

 しかし同時に今週の日曜の『西郷どん』では大久保が庶民が苦しんている時に自分達政府要人だけが後の鹿鳴館的な形に拘るビフテキ等の高級料理を食べていることに、そして皆が食事時に西郷だけ御握りを食べて上に立つ者こそ質素倹約であるべきだと通しているのに、他の高官達がやり難いと零すシーンがあり、西郷が大久保にその贅沢を窘めるシーンでは、大久保は、だがそうやって上級官吏達だけでも西欧列強的贅沢ができるという所を示さないと、向こうから侮られる。だから西郷の採っている態度は、全体のバランスを崩すのだ、と諭し返す下りが描かれていたが、実際日本が大久保の様な態度の者が一人も居なかったら、英国かアメリカかフランス等列強の植民地となっていた可能性はやはりゼロではない。只そうならなかったから簡単に大久保の様な態度を今批判することができるのだ、とも言えるのだ。

 

 日本人はルサンチマンが希薄な民族である。

 韓国人はそうではない。アメリカ人も日本人よりさっぱりしたところもあるけれど、日本人より個々の個人はルサンチマンは強い。中国人然りである(今の習近平独裁と一帯一路政策を見ているとそう実感できる。尤も中国では習の独裁に拠って異様に立身出世を妨げられた大勢の官吏もいるので、今後どう全人代の政局から共産党全体の采配がシフトしていくか予断を許さない)。

 アメリカ人のルサンチマンは要するにピッツバーグでシナゴーグに集まっていた年配者のユダヤ教徒、50代から90代の市民を11人銃撃して殺害したまるでネオナチ的発想の狂信的中年男性に見られる様な極度の白豪主義、白人優位主義者達によっても示されている。



 ロサンジェルスは、ビートたけしによると、共和党中間層以下の最も人口の集中する市民層に受ける大衆娯楽路線の場所で、そのシンボルがハリウッドであり、その中腹にビバリーヒルズが位置し、大勢の芸能人セレブやビル・ゲイツ等が豪邸を構える。監督で言えばジョージ・ルーカス、『スター・ウォーズ』がその一種の典型的タイプの仕事である。このアメリカ映画文化の層はかなり厚い。


 対しNYは思想的にリベラルな人達の牙城で、反体制的メッセ―ジの映画、例えば大昔のマーティン・スコセッシ監督の『タクシー・ドライヴァー』(名女優ジョディ・フォスターが13, 4の娼婦役で全世界にカミングアウト。彼女はその後、『告発の行方』『羊たちの沈黙』等で二度続けてアカデミー主演女優賞を獲得、押しも押されぬ大女優となり、監督やプロデューサー業への進出し今日に至る)や『ディア・ハンター』(マイケル・チミノ監督)、『カッコウの巣の上で』(今年四月に亡くなったミロス・フォアマン監督<チェコからの移民>)等の映画を今も世界的に話題化させる場所らしい。

 

 ここで何が言いたいかというと、つまり我々は常に二つの現実の柱が要るということである。

 その二つの人間的存在の仕方、態度や思想の在り方は、やはり常に必要で、いずれもいずれかを滅ぼせば、滅ぼした方も滅ぶ(これは戦争責任に自責の念も禁じえなかった京都学派のメイン人物でもある田辺元の思想でもあった)。


 次回もっと詳しく(次回はビートたけし=北野武、中島義道、永井均、桜井和寿、宇多田ヒカル、高橋優、星野源、ボブ・ディラン、ポール・マッカートニーとジョン・レノンやジョージ・ハリスン等に就いても詳しく考えていく)その意識構造がメロディとパロディとで説明が尽くと考えている、とだけ示そう。


 大久保利通はパロディの人であり、音楽でそういう人はフランク・ザッパ(上原ひろみが最もインスパイアされたミュージシャン、アーティストである)、精神はそうだけれど、技能はメロディ的なところもあるのがアンディ・ウォーホル(英語読みではワホールに近い)である。

 対し西郷はメロディの人であり、ポールもそうであれば宇多田ヒカルも高橋優もそうだ。でも星野源はメロディの人であると同時に精神にはパロディもある。

 ま、乞う、ご期待!

 

 さて又話をアメリカへ戻そう。

 アメリカも元奴隷制撤廃に貢献したリンカーンの共和党と、今もアメリカのステイタスシンボルである様々な経済的成功を得た人達、セレブや資産家や大富豪の利権を守る民主党は、しかし同時に彼等はノブリス・オブリッジ(栄誉ある職や、エリートや成功者に付帯する精神的責任の重圧のこと。Nobles oblige)から決して人種差別主義者的な非知性的行動には出ない。

 と言って彼等はでは大衆の味方か、と言えばそうとも言えない。彼等は個人主義者だから、そういった意味では理念的に誤ったことは許さないけれど、感情に押し流されないから、同時に贔屓をしない(だから日本で父親が名首相だったからという事だけで日本人の余り思慮深くない能天気な大衆が小泉進次郎を贔屓にしたり、かつて若貴ブームで親が人気力士だったからと言うだけで応援する様なことはしない。でもでは彼等が絶対差別しないかと言えば、そうではない。教養のない人は軽蔑する(そういう所は日本の野党の方がそういうことは少ない。勿論そうではない冷たい日本リベラルも居ない訳ではないけれど、それは概ねかなり東大とかでエリートだった人達で学閥的保守思想の人に多いとは言えるだろう。名誉の為に言っておくが東大出身でも福島瑞穂はそういうタイプではない)。


 勿論例外の様な凄い人、バーニー・サンダーズの様な大工から出発した人もいるので、全てがそうであるとは勿論言えない。昨今は例のアレクサンドリア・オカシオ・コルテスの様なヒスパニック系の女性政治家も登場しているので、少しずつ様相も変化してきているのだろうけれど。


 逆に共和党の人達は、特別の国家的財産である様な人達以外の支持者層には貧困層も多いので、彼等はそういった無教養を社会的環境要因だと見做して軽蔑しない事も多い。

 

 日本でも同様のことが言える。

 西郷が必要だった様に、その対極的存在、大久保も又当時は必要だったのだろう。

 

 要するにこういうことも言える。


 西郷は現在の沖縄に幽閉されている時期に人生に於ける二度目の妻を娶っている。彼は後に西南戦争で旧氏族の不平不満のはけ口に自らを投じた。彼に寄り添ったのは北海道でアイヌ問題等も担当した人斬り半次郎こと、桐野利秋(NHK大河『西郷どん』では北海道出身の人気俳優、大野拓朗が演じている)もそうだけれど、実はもし家族に異民族との結婚、或いは国際結婚をしたとしても、西郷や桐野は差別しないタイプの人である。

 対し大久保の家系にはそういう人は居ないし、彼の家系から四人程後に総理を出している(昔は高橋是清もそうだし、最近では麻生太郎がそうである)。従って彼は理念的には外国人を差別しない態度を取り続けるだろうが、同時に例の生麦事件を秘密裡に決着をつけたのも彼だったし、外国人や異民族へ形式的に礼節を尽くしても、本音で差別していないとは言えない、寧ろ積極的に国粋主義者だとも言える。

 

 つまり理念としての正義や客観的公平や筋を通らない事を許さないということと、人情味があるとか、誠実性として曲がったことを許さないということは分離していることも多く、屡々両立不可能でさえあるのだ。

 今までの話しの流れでは当然大久保が前者、西郷が後者である。


 そして当然のことながらケネディ、オバマは前者、ブッシュ(息子の方)、トランプは後者のタイプと敢えて準えることも不可能でないだろう。


(つづき)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月30日 (火)

メロディとパロディPart1

 或る意味では詩創作では全く異なった志向性が反復して到来する、と言える。それは一つの流れ的な美しさを求めたいという感性の文体や詩の運び、それともう一つは、今書かれてあることが過去に書いていたことや考えていたこと、或いは未来に於いて自分が書くであろうと今予想されることなどを念頭に、今読まれている文章自体で示しているのではないことの方へ意識を向かわせる文とでも言おうか、そういうことが交互に繰り返されるのである。

 

 今書かれてあることに意識を釘付けにさせているのは花なら花の美しい色や匂いを仄浮かばせて、その花の美しさや香しさそれ自体を文の流麗さと相俟って伝える様な場合であるけれど、それを仮に美しい調べであるからメロディと名付けるとすると、そうではなく、今語彙羅列で示されている意味が、その文自体の調べの美とか、文体の流れより、それが意味し指示する事態や意味が、文を書いている私の自己同一性や私にとってのメタ的な詩への思い(つまり思想とか信条)の方を浮かび上がらせ、想像させていく様な文ということだ。

 これをパロディと仮に名付けよう。何故なら或る事が或る事でない何かへ連想させる文の運びは文の美や調べではなく、文を成立させるバックグラウンドへ読む人の意識や観念を運ばせるものだから、鑑賞へ誘う前者と違って、思索、思慮へ誘う趣きだからである。


 だから前者がより誘い込む感じであるとすれば、後者は明らかに緊張へと強いる書き方だ、と言える。

 後者はロマンティックなとかノスタルジックな淡い感傷性へ誘い込みやすい前者と違って、かなり呼ぶ場の雰囲気が辛辣且つ真摯であるが故に、ヴァイオレンス映画のスリラー、サスペンスシーン、銃撃シーン、暗殺シーン等に近い、と言える。


 この全く相反する志向性は絶えず、一つの詩の中でも、もう少し幅のある日常的創作現場でも交互に訪れるし、どちらかに完全に長期偏るということはない。

 だから、これは相互に相互が必要なのである。



 ボブ・ディランのLike a Rolling Stoneは明らかに調べ自体はメロディアスで快適に聴けるけれど、歌詞の意味の与えるメッセージ性はもっとかなり辛辣且つシニカル且つアイロニカルなので、両義的と言える。つまりメロディとパロディの接合なのである。

 これはビートルズのHey, JudeLet it be等の曲とは全く違う要素である。ビートルズのこの二曲は作曲も作詞も共に内容もメッセージの普遍的な傾向も一致して調和しているから、メロディ型である。

 だがディランはかなりやり方が巧いから心地良い相反的で逆説的、要するに反調和的なのにも関わらず気持ち良く考え込ませていく偉大なる名人と言えよう。だからディランは曲は聴き心地良くさせているものと、敢えて衝撃を与える趣旨のメロディがあるけれど、そのことと歌詞の理解しやすさを思惟へ誘う形でもあるので敢えて別々にして組み合わせることで意外性をも持たせる両義的な名人と言えよう。


 高橋優のメロディやリズムと歌詞の志向はディラン的にずれさせてメロディとパロディを分けていないストレートに一致させている(けれど歌詞内容はパロディ的な所もある)し、桜井和寿の歌詞と曲の別々の要素の組み合わせはディラン的だと言えよう。


 尤も、この問題はやはりそう単純ではないので、シリーズ化させて考えていきたい。

 

 付記 本シリーズは純粋詩と歌曲の歌詞とを突き合わせつつ考えていきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月29日 (月)

日記的記述GH 何時の時代だって詩人なんて/たけしの若い頃の写真

 NHK『ファミリー・ヒストリー』 の秋山竜二の特集はかなり面白かったな。うん、彼は今お笑い界の鬼才の一人、バカリズムや東京03等数多く活躍する天才お笑い芸人の中でも特筆すべき鬼才だけれど、この名前かつて70年代に活躍した有名な漫画家(だから若い世代は余り知らないと思うけど)秋竜山っていう人が居るんだけど、そこから頂戴した名かと思いきや、そうじゃなかったみたいだね。


 お笑いは確かに大勢の人達の疲れた魂を癒してくれる。

 そういった意味で常にどの時代にも偉大なお笑いやコメディ的センスの逸材って居た訳だけれど、どんな人でも人生の時間なんて限られているから、自分達世代にとって印象深い人というのが居て、今月つい最近僕の住む町で日本中から観光客が訪れる大きな祭があって、僕も例年の様に遊びに出かけたんだけど、その日祭衆達と参加者(全国からだろうけれど)と警察官や警備員、そして観光客とが一体となっている祭の熱狂が我が町を二日間だけ別次元の場へ変える訳だけれど、その時に目撃した幾つかの光景が目に焼き付いて、詩の文句が浮かんだので、その時ノートを近くのコンビニで買って、その時思いついた詩があって、屋台の奥の歩道脇に置かれた土嚢に腰かけそれを書き留めていると、若い二十代前半のカップルが僕に何をしているんですかと尋ねてきたので、僕は思い浮かんだ詩を書いているんですと、返答し、暫く彼の世代(彼は23歳だって言うから、どんな有名人同世代で居るの?と聞くと、大谷翔平のことを話していた)は、色々話した後、僕がビートたけしの若い頃、全盛期のことを話題にすると、彼の80年代の全盛期にツービートとして漫才ステージで公演した際、ワンステージでコンビで3000万円稼いでいたことなどを話したけれど、彼が明石家さんま等と活躍した『おれたちひょうきん族』や『風雲!たけし城』等のことを彼等は一切知らなかった。


 その二つの番組で当時フジテレビの外部発注仕事をなさっていた美術スタッフの親方こそ、僕はこの祭りでも有名な埼玉県の観光都市に引っ越してきて割と直ぐに知り合った方で、彼は元々は日大芸術学部出身で絵を描いていたのだけれど、それでは家族を養えないから美術スタッフを纏めて自ら設計したプランを元に大勢の職人を指導し束ねる仕事をなさって、当然たけしやさんまやタモリとも一種に仕事をされた方なので、僕が人生で色々あった後に知りあったその方と親しくなり始めた頃、僕は失意の日々にたけしのエッセイを、とりわけまずあのオートバイ事故直後に出されたものを中心に読んでいた。その時の読書経験は今の僕の考え方の基礎となっている。まずたけしの本が僕の前にあり、暫くしてから中島義道や永井均の本と出合ったという訳である。


 僕が埼玉県の観光都市に、戸越銀座で有名な品川区戸越から今の町に越しててきた時、丁度たけしが事故って顔面麻痺になっていたのだけれど、そのたけし達と深く一時期関わりある方の紹介と言うか、取り計らいで当時その方が経営為さっていたある画廊(その数年後に店はその方が畳まれたんだけれど)で個展をさせて貰ったことが、唯一僕の人生で大きくお世話になってことだったので、要するにその方はやはり恩師の一人なのである。


 エッセイを通して精神的恩師は当時ビートたけしだったのだれど、実際的にお世話になったのは今年84歳になるその方である。

 結局2001年の小泉政権時代に僕はそこで個展をさせて貰い、その時から数年置きに三回程個人的に食事と酒も御馳走になったというわけである。

 

 ところで詩人なんて、よく気取った奴なんかが、芸術とか文学等というものは時代を超越しているものだから死んだ後が勝負だなんて言うけれど、そしてそれは或る程度正しいのだけれど、自分が生きて育って、大人になって死ぬ迄の間に見た自分が直接関わるエリアと時代に関わることに一切触発されないで詩なんて書いている奴なんて、どんな古代まで遡ってみてもどんな偉大な詩人でも一人も居なかったのである。

 つまりお笑い芸人だけでなく、ま、僕はたけしはかなり僕の見識からすると、偉大な詩人でもあると思っているんだけれど、詩人だってシンガーソングライターだって(あのボブ・ディランも正にそうだし、ビートルズもそうだけれど)、作曲家でも、ピアニストでも劇作家でも脚本家でも演出家でも映画監督でも、時代と言うか、要するにリアルタイムの世相と無縁に生活している奴なんて一人も居ないのであって、時代を超越した普遍を求めると仮に言うなら、それは只その時代には食えないで、売れていない奴の一種の負け惜しみ(sour grapes)でしかないのであって、負け惜しみ自体さえ、正に時代を超越しているどころか、全く逆に自分が惨めで全く売れない、受けないというその時代、そのリアルタイムの人生の時間に最もダイレクトに関わっているのである。

 従って時代を作っているのは売れっ子であるロバートの秋山竜二達だけでなく、やはり無名の全員の市民も又深く関わっているのである。

 

 確かに今世界はかなり複雑な様相の時代へ差し掛かっている。

 例えば昨日ブラジルで新大統領に選出されたジャイル・ボルソナロ氏はブラジルのトランプ等と言われているけれど(ところであのフィリピンのトランプと呼ばれたドゥテルテはどうしているだろう?)、全世界的に右傾化、つまり保守主義、自国中心主義の嵐が吹き荒れている。さてこの現象をどう解釈したらよいのだろうか?


 例えばドイツのメルケル首相の率いる政党が選挙で右翼政党へ惨敗を喫して、退陣することとなったみたいだけれど、これは一種のリベラル的思想の人達が比較的昔から裕福な家庭出身の人達が多く(その点ではオバマ前大統領もそうだし、メルケル首相も物理学の博士号を持っているくらいだから、かなり裕福だったに違いないけれど)、要するにそうではない中間層以下の人達の人心を世界的に民族主義的、自民族中心主義(ethnocentrists)が特に掌握しているということなのだろう、とは思う。トランプ大統領も直ちに祝電を送ったということである。


 その点では実は僕もそんなに裕福過ぎる家庭ではなかったけれど、そんなに貧困な家庭出身でもないし、たけしも母親から受けた凄く熱心な教育で、かなり悪ガキだったことはそうみたいでも、どこか教養の良さも滲み出ていて、そういう彼だからこそ毒舌を吐いても、今の時代なら即座にあいつ、偉そうだとかSNSで批判が拡散する不気味な時代だけれど(そして、そういう風に人を見て批判しない人とする人を差別すること自体は全くいいことだとは思えないけれど)、たけしはいつも放送コードぎりぎりの発言をしてさえ、芸能界から干されないということはやはり何か途轍もなく別の面では気を遣っていることが在るんだろう、とだけは思う。


 昨日の深夜040分(今日未明)から一時間程、NHKBSで昨年九月に放映された再放送『たけし誕生』が放送され、見たけれど、彼が浅草に初めて来て、フランス座(昔はストリップ劇場だった。僕が二十代の頃訪れていた頃もそうだったが、今はお笑い劇場へと専門特化され、模様変えして営業している)でエレベーターボーイからスタートし始めた頃の彼自身の回想と、当時の楽屋仲間達、或いは浅草の小料理屋や居酒屋の今は店主をしている、当時は従業員だった様な人達の証言が凄く面白かった。

 そしてある人は「あれだけ国際的に大きな賞を貰って成功しているけれど、意外と海外と違って国内では彼の映画は観客動員数がいつもトップという訳ではない辺りに、浅草出身の性格が今も反映されている」という様なことを語っておられたけれど、正に今もその昔の仲間達との間では、世界のキタノも、当時の侭の意識でいる様なところにビートたけしという偉大なるお笑い芸人、俳優、映画監督、コメンテータ、エッセイスト、画家、小説家の本質が垣間見られる気がしたのである。


 番組で当時フランス座でストリップの踊り子をされていた女性達の証言もかなり多く編集で採用されていたのだけれど、彼女達と、未だツービートとして世に出て大成功を収める前の若きたけし(20代中盤)の彼がスリーショットで写されている写真も紹介されたのだけれど(その時写っていた人が実際証言でも登場された)、その端正だけれど凄みあるたけしのツービート時代より貧乏だったせいか、もっと細面で縦長の顔と表情が番組を見終わった後も目に焼き付いている。

 彼のその眼差しは風俗業界等で働く女性達へ彼が常に優しい眼差しを抱いた男性だったということが直ぐ了解される。だから今も浅草の居酒屋店主をされている年配の女性達も、昔の劇場仲間の元踊り子も「たけちゃん」と愛称で呼んでいる、そのたけしの人間性の本質をよく示していた。

 確かにそのたけしの二人のストリッパーに囲まれて中央に写ってカメラへ眼差しを向けている彼の表情は凄く優しい表情ではあるものの、と同時に「この僕の周りに居る女性達に邪険なことをしたら、僕は君がたとえ友達でも許しはしないよ」という、その瞳の奥底には凄く冴え渡った義侠性をも読み取れた。

 それはきよしと共にスターダムにあったツービート時代の若きたけしも見せなかった表情であった。


 実は僕自身が上野のストリッパーのお姐さんで童貞を失ってから、かなり大勢のストリッパー達とも色々(?)教えて貰えたし、実際に何人かとは付き合いもした(外国人女性も含む)ので、当時のたけしの写真に納まった表情、眼差しの持つ意味は即座に理解できたのである。

 そういうことを全くたけし本人とは関わりのない僕が感じているということの中にも、僕も又たけしとは違う場所で東京であの時期僕は青春を過ごしていた(ジュリアナ東京のお立ち台とかパラパラとかを知っていたけれど、そこには居なかっただけで)、確実にその時代共に他の人達全員と共に過ごしていた、という現実は拭い難く存在しているのである。


 そしてこれからも死ぬ迄、そういう共時的な全世界との人達とのきっとかなり自分でも気が付かない侭で居るに違いない奇妙な結びつきと共に生きていくのだろうという予感も、その番組を見たり、今日の秋山竜二のファミリーヒストリー等を見て感じたのであった。

 そう、正にどんな詩であっても、これからも書き続けていくとしたら、そのことを無縁で成立する作品等ありはしないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月28日 (日)

世界の真理108 人と人の距離 / 言語と身体 / 文学創作の意義

〇起き抜けに点けっ放しで寝ていたテレビでフジのプライムサンデーとかいうヴァラエティを耳だけで聴いていると、落語家の立川志らくが出て、サウジアラビアとの今後の世界や日本との付き合いをどうしていくかという談話の中で、下種の勘繰りって結構当たるんですよね、等と言っているのが聴こえた。彼は55歳、ま、僕より4歳程若いけれど、信用できる年齢ではある。

 でも何時も思うのだが、日本社会って、本当に相互に距離の近さをアピールすることでしか金が取れない。信用社会って訳だ。

 

 でも、それはやはり個を認めていないからに外ならない。個があるとは、或る個に対して他の個も集団も必ず一定の距離を維持すべきだが、日本人のコミュニケーションを見ている(それはとりわけ民放でそうであるが、その点はNHK討論等の方が相互の距離を図っている)と、距離を縮める形でしか相互に信用を得られない様にしているけれど、それはかなり危険だ。

 何故なら信用という事自体が一つの恣意的規準でしかないからだ。

 例えばここににこやかに笑顔で接している人と、もう一人仏頂面で一切笑わない人とが居た場合、日本では明らかに笑顔で接する人を信用していく傾向は強い。

 しかし仏頂面でお世辞も言えなければ、一切にこやかで友好的雰囲気さえ作れない人の方が、いざとなったら誰も裏切ることをせず、逆に日頃から友好的な態度を取るのが巧い人の方が、何か誰かが不利となったらさっと手を引き一切手助けしなかったり、裏切ったりすることはよくあることだからである。

 

 つまり日本では信用ということが常に集団全体の協調性の態度だけで成立させられているけれど、これは少なくとも文明国の態度ではない。

 相互の距離をとっていくことは重要であるにも関わらず、日本では長屋的な性善説主義に裏打ちされている(その精神肯定の娯楽こそ落語である。尤も志らくはその中では結構その惰性的文化から違うループを創ろうとしている、その意志だけは感じられるけどね)。


 不気味な家族主義の強制国家、民族だと思うね。

 何故なら協調性的態度を取れないということ(祭で神輿を巧く担げないこと、引いては天皇陛下へ忠誠を誓えない奴は締め出していくという空気だからだが)、それだけで四面楚歌にしていく全体主義は、しかし本質的協力体制ではない。

 寧ろ惰性的に一切相互不干渉を決め込む為の社交辞令であるに過ぎない。


 従って日本人のコミュニケーションの取り方では未来永劫、個と個との間の真の友情であるとか、信頼であるとか、男女でも真の愛等が育まれるとは到底思えない。

 何故なら、そこにあるのは只馴れ合い的、馴染的関係性だけだからである。

 個と個との間の距離、その形而上的、神学的関係を保持できる民族に成長するのに一体日本人とは何千年かかるのだろうか?(2018. 10. 28

 

 付記 信用を強制されると却って信用できなくなるんだよな。本当にいじましい敗戦国論理だって思うね、この距離を縮める使命感って。この国にそういった面では未来はないね。

 だって信用を得ている人がいい仕事に就け、いい収入を得るなんてナンセンスもいいところだよ。

 まず、誰にも何かをやらせてみて、自己責任でいい仕事をした人にだけいい収入があるのなら分かるけれど。

 最初から出来レースになっているのが発展途上国日本の実情だよね。

 だから日本社会には社会進化がない。何故なら社会より個々のキャラクターの方が重要だからだ。だから、そこには贔屓筋同士の馴れ合い関係しかなく、要するに理性的に相互の能力や仕事の質を評定する規準がない。

 だからたけしやタモリ等の様な存在がいつまでも君臨し、全く若い世代が彼等を超える仕事機会や報酬を貰える機会をずっと奪ってきたのだ。ま、でも後は時間の問題ではあるけどね。

 


〇人間は身体感覚へ全てを還元させ様とすればする程、言語的認識を先鋭化させる以外にない感性へと放り込まれる。

 

 でも、一体この感覚の正体とは何なのだろうか?

 

 一つには結局身体的な激しい動きや登山等の移動の困難さを克服して進むスポーツ等では、身体だけが世界全体へのインターフェイスであると我々は空間という存在のゼロ次元的な只中で自覚せざるを得ないから、その歩行の困難さや筋肉の痛苦等に於いて、何らかの身体の極限的な世界への接しに於いて、身体存在と空間との関係性、又その運動の持続と時間的推移との関係性等へ意識が認識的に研ぎ澄まされる。そこで必然的に我々はそういう時に存在と無との対比や、先程迄見ていた周囲の風景と今見る風景との違い等から、時間と空間との相互の関わりや、所謂人生全体で得ている記憶の喚起、要するに過去と現在との間の関係性、そしてそれが未来へと繋がっていくことの直観から、存在とか空間での移動や空間全体への把握意識が、却って言語的存在者、現存在である自己の存在理由へと覚醒させるからかも知れない。

 

 これは或る程度過酷な疲労へと自己身体を追い込まないと把捉し得ない感覚かも知れない。(2018. 10. 26, 28

 


〇詩作では抒情(叙情)や寓話性、童話性、逸話的なもの以外に、宗教性、神話性、時事性、政治と思想と批評性、形式実験性等もどんどん取り入れ、作ってゆくべきだ。

 全く誰からも一般的には評価を得られそうにない作品の方に寧ろ未来永続的・追求的価値は寧ろある。

 一定の評価を得てしまっていることだけを繰り返すのは芸能人のスポンサーの依頼に沿ってする仕事でしかない。


 詩人は鑑賞者を突っ放してなんぼのものである。


 それは率直鑑賞やその態度への挑発以外ではない。だからこそどういう方向へ行くか分からない行く先の定まっていないアドリブの一人旅の様な書き方の作品にのみ創造的可能性が潜んでいる、と言える。(2018. 10. 26, 28

 


〇人は何か特別辛いこと以外は、幼少期から20代前半迄に辛かったことだけがいつ迄も忘れられず、それ以降徐々に人間的に社会へ巧く適応して抵抗力もついてくるが故に、かなり辛いことでも30代中盤以降のことはルサンチマン的に回想することは極めて少なくなる。少なくとも私にとってはそうだ。

 幼少期から20代中盤迄に経て、何とか辛さを対処してきた経験だけが、老齢化した後の自分の人生での対処能力の基礎となっている。


 従って幼少期から20代中盤迄の間にそういった辛苦とその克服を経ていない者は中年以上の年齢に達した時に、或いはそれ以降に襲い掛かって来る辛苦に耐えられるだろうか?

 やはり薄弱な精神の人間を見ていると、一番大切な生育期にそういった通過儀礼的な辛苦を一切経てこなかったということなのだろう、としか軽蔑的眼差しからしか見られない。

 


 結局日本の敗戦国としてのその甘え精神こそが、ルサンチマンを得ることを潔しとしない協調性オンリーの教育がそうしてきたと言える。

 つまりそういうなし崩し的な馴れ合い主義長屋性に、私はもう本当にこの国に一切信用なんてできない、という思いしか湧かない。

 それは信頼を強制する内輪主義自体への懐疑、不信感、痛烈なる違和感だけしか心へ浮かばせない。

 そういう思いだけが日々益々強くなってきている、ということだけは言える。


 尤も上記の不満や不信や呆れてものが言えない気持ち自体は詩作、詩創造へそんなに悪い影響を与えないどころか、それ自体は命題化し得る。だから大したことのない国家の二流性こそが詩人に優れた詩を書かせる、と言い得る。2018. 10. 26, 28

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月27日 (土)

研究メモ7/ 創作・表現・研究メモ No.6 寧ろ創作家は一番モラルをじっくり考えねばならない/文はどう描くかで全く変わってしまう

〇数日前に、私がかつてメモしていた走り書きをアップした記事と、かなり真剣に考えてきた哲学・神学的考えの詩(元は日本語の原作)の英訳をアップしてみたところ、誰にも顧みられないという三回目と四回目の不名誉な結果をかなり人気のある自分の英語ブログ(examplewordpresscom1616)で得た。


 でもかなり考えた末それを私は削除するのを踏みとどまった。


 最初に全く顧みられなかった詩のみ今も一度削除した侭二度と蘇らせていないけれど、一度削除したエロス的内容の暗喩の詩を今度は引き下げない事にした。


 何故か?


 たとえ今迄してきたそのブログで重要な顧客でもあるファンに無視されたとしても、僕の詩の今は僕のことを知らない別のファン、それは潜在的な私にとっての戦力でもある訳だけど、その人達の為にその三つの詩を、特に二つは(その性的暗喩詩と、かなり真剣に書いたものは)残しておこうと考えたからである。

 何故なら私は今までの従来の僕の詩のファンの為だけに詩作してきている訳ではないからである。


 つまり彼等の為でもあるけれど、今は私のことを知らない他の潜在的ファンになり得る人達全員の為に私は書いてもいるからである。

 



〇上記の問題は創作家はそういうモラルは考えられている以上に重要だと考えるからでもある。だから私は自己信条への遵守を誓いたいのである。常にである。


 さてそういう創作上での一つのかなり不思議な経験とは、次の様なものである。

 文それ自体は韻文であるとか散文であるとかと関係なく、どんな場合でも何を主眼にして書くかで全く様相を変える、つまりそれを後で自分で読み返してもそうだし、僕の書いた文を他人が読んでもそうだけれど、要するに全く性質を変えるということだ。


 それは同じ私によって書かれてさえ別人であるかの如くですらあり得る。


 例えば、外側を書く詩があるとすると、それは多くは空間の只中に立たされてある身体感覚の一つの世界への受動性が重要となる。だからそういうウォーキングや登山した時の身体感覚を下に書いた詩は明らかに体感が全体的に受け身的である。


 対し内側を書く詩があるとするなら、それは明らかに追想的な心の移り変わりへの記憶も元にしている。それは空間の只中にあることよりも観念が際立つ。つまり内在的(immanent)であることとは、即ち身体感覚の受動的であることと正反対に凄く世界へ能動的で意志的であることを招聘する。



 つまり内在的、心の内側的詩とは、言ってみれば凄く決意的であり、それは音楽性のメッセージの主張、そういう意図がかなり前面に出る。

 だから、後者は明らかに能動的に世界への観念的支配を志向する。つまり心とは言ってみれば身体をも統制したがる。でも身体の受け身的経験は登山経験者には分かるだろうが、要するに心それ自体の抑制を欲するからである。

 この二つは正反対であり、対極の意志の表明となる。詩でもそれはかなり表面化する。


 それ等二つの対極的位置設定性に対して、第三の立場の詩も在り得る。

 それは詩でもエッセイでも、場合によっては小説でもあり得るけれど、又稀には戯曲でもあり得るだろうけれど(だからこそ戯曲でそのヴァリアントを試作してみたい欲求は強い)、人生全体の感慨、境涯的文学者性とも言える書き方の詩、或いは特定の日の思い出だけを中心に綴る詩とは、やはり前者二つの対極性とも又異次元的である。


 つまり或る特定の日の思い出を綴る場合には、人生全体の時系列的把捉と、その私の人生の限定的時間とそのもっと過去からの歴史と、人類の未来展望的なことが相俟って、総合的視野から眺める詩となるが故に、それは身体的且つ精神的心理的でもあり、当然受動的且つ能動的というニュートラルな性格が表立ちやすいとも言い得る。

 それが人生全体となると再度言葉的信条、自己信念、信仰その他の要するに言葉的に世界を理解し把捉しようとする意図と、その意図によって世界を統制したいと欲する文筆家のエゴが剥き出しになりやすいと言える。



 それ等のことを反省的に、個々が定期的に反復される自己とは一体何だろうという思索的思いが今後私の詩作に於いて重要なもう一つの命題となっていく様に思われるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月26日 (金)

研究メモ6/創作・表現・研究メモ No.5人間にしかできないこととは何か?Part1

AIやあらゆるビッグデータ集計的リアルへ支配されていきつつある人類全体のそのインフラ整備と進化の指向性を変えることはできそうにないと直観した場合に、では人間だからこそできることは何かと問うことは有意味である。


 一つには人間には感情があるということだ。

 これは感情に押し流されない様にすべきだという通念で逆に言われ続けてきたことだが、実際余りに冷徹な思考と計算の人間が仮に居たとしても、そんなことは既にAIの方がずっと優れているのではないか?


 であるなら、人間は全くAIにはできないことだけを生涯追求していくべきではないか?

 その考えはきっと正しい。

 

 一つには人間だけが恨み的感情を持つということだ。

 これは嫌な仕打ちを受けたことへその恨みを晴らしたいという怨恨的感情のことだ。それをルサンチマンと言うことにして、そのルサンチマンそれ自体を何故我々は抱くのか、そしてそれを抱いた相手(人)にしても、制度にしても、何にしても、それへ不利益になる形で且つ自分の側の損害状況を少しでも癒えさせるという意図こそ、ルサンチマンを下に、その怨念を晴らすことであろう。

 


〇上記のルサンチマンとはあらゆる自分を取り巻く周囲の環境、社会から国家から、その言語から何から何迄、全て我々はそれへ隷従する形で市民という体裁で何とか生活していることへも向けられ得るだろう。


 そしてそれへの隷従を決して潔しとしないならば、ルサンチマンも温存させ、自己が搾取される様な不利益から常に遠ざけようとする意志に於いて重要なのは絶対的個人主義である。


 これは通常で言うところの家族とか親族をまず信用しなければ幸福ではないという教条への懐疑を持つことも初歩的一つの心の在り方であるが、もっと広げて、社会や国家や民族自体をも信用しない、それ以前的に、自分だけを信用し、信頼する、つまりそれ以外はそれ以上に重要なことではないという決意に於いて、初めて成立する。


 つまりルサンチマンを持ち続け忘れないということは、その執念を支えることが結局個人、自分自身以外の大切なものなどない、という事を前提する。

 従って自分が愛することや者に対しての愛情も、それは結局自分への信頼、信用であり、愛である。

 

 だから、それ以外の組織や大義名分や国家や民族性とか、そういった一切へ懐疑的であるべきであり、それらに命を賭けるべきではない、ということである。

 


〇だから逆に自分だけを信用し信頼し愛するスタンスこそ正当だとすれば、それは一種自分への自嘲も生む。つまり、それこそが人間だけが愚かで居られるということを意味する。


 愚かでなく、全てに於いて利巧なだけで、計算も決して間違わないことは全て機械、AI等に任せておけばいい。


 だから愚かであることこそが人間の価値、つまり何か不測の事態になったら動揺したり、狼狽したりすること、そのことこそが人間が人間である証拠であり、それだけが唯一絶対社会インフラの進化でも我々に損なわせないものである。それだけが社会合理性や正義の欺瞞も一切我々へ変えられないことである。

 そして、その愚かであることへの変えられなさへの我々の絶対的権利こそが自由を理念的にも実際的にも我々へ守らせる唯一のことである。

 

 してみれば、下らない事に楽しむ、そのことそれ自体には一切の合理性のないこと(それはスポーツもギャンブルも思想も全てそうであるが)だけに価値を置くという生きていく上での人生の姿勢であろう。


 子供を作らないセックスもそうかも知れないし、酒を飲むこともそうだろうし、要するにそれ自体、取り立てて実利的なことがないという愉しみ全てが下らない事であり、その下らなさへ無視できない気持ちだけが人間的である、と言えないだろうか?

 

 それもこれも絶対的個人主義をまず正当であると認めた後、それでも自己犠牲的に何かの為に自分の全てを擲(なげう)つ事も又、立派な人間が人間である尊厳的下らなさである以上、つまりそれをどんなに美名の下に称揚しても、それは合理的説明など尽きはしないのだから、その不合理をまっしぐらに歩む人間は下らなさを全く価値として認めている証拠である。


 そして、ここが凄く重要であるが、それを美談にしないことが最も重要である。


 下らないことは全く何が悪いのだ、といういい意味での開き直りが必要である。

 ポルノが好きでしかたないことだって、猥褻の何が悪いという開き直りでもある様に、それを言うなら全てのスポーツもゲームもギャンブルも、投資だって何だって下らないこととしか言えないことではないか!

 

 これらのヴィジョンからしか、何も我々は決意できはしないし、自己の生を透徹した眼差しで見ることはできはしないのである。

 この下らなさを敢えて立派さにこじつけはしないこと、それこそが最も大切な心掛けであり、それだけが自己に対して誠実だと言い得るであろう。


 

 自分より優れたことを持つ他者を羨望し嫉妬することも一つの大きな人間固有の愚かさで、下らなさだけれど、そのこと自体を取り繕っていい子ぶらない、そのありの侭の我々の心の狭量さそれ自体を否定しない、それをさえ認めていこうということだ。

 

 これはいい子ぶって取り繕ってそういう自分自身の愚かさを一切見まいとすることよりずっと難しいし、有意味な心の在り方、持ち方と言えよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月25日 (木)

世界の真理107 / 日本人の私と哲学的・神学的私 Part3

 日本には明文化された社会秩序への倫理的規定や宗教神学的な心得等はない。だから、日本は全てが主体、自主性に任されている。従って昨今多く見られる官僚の私的団体からの接待、医学部等の不正合格決定等は、全て倫理規定が明文化されていないが故に、自主的に何とか社会の矛盾に対処しようとして行われる恣意的操作を黙認するこの国の精神的な通例であるに過ぎない。

 だから日本人は基本的に全体主義的ではない。抑々が相互不干渉主義者達の集合体である。

 だから却ってアメリカ人や中国人、韓国人の方が全体主義的である。韓国では同系列親族の縦社会同士のエゴ、中国では同一派閥の共産党内部でのヒエラルキー、アメリカでは実力主義、つまり国家全体への貢献度に見合った報酬という形での全体というものが前提されている。

 しかし日本にその様な全体はない。何故なら日本人とはそういう風に明確に規定することを異様に嫌うからだ。

 従って日本人とは相互に敵対を一切しないということを前提とした自然発生主義的社会主義人民国家である。

 だからアメリカでも中国でも韓国でも誰かが勝利することは、別の誰かの敗北を意味するが、日本はそういう明確なものはない。そういう明確な勝敗的なことはプロ野球の監督や、スポーツ界には存在するが、一般社会には明確にはない。芸能界にもそれはない。だから年功序列は今も芸能界には残っているし、官僚の世界は完全に縦型社会であり、同一門下、派閥の世界である。

 でも、それは所謂実力によって勝敗を決させる様な性格のものとは違う。

 

 従って日本とは国家的性格も、国民の性格も、自主的、率先的自己抑制的な社会主義平等人民主義の社会であり、日本人とはそういう観念を明文化という形でではなく、あくまで暗黙に誰もがそうするから踏襲するという前例踏襲型、慣習依拠的人民である。


 しかし明治期以降確かに部分的には独裁的なタイプの政治家が時々出現するという形で、その自然発生的社会主義人民国家性は打ち砕かれた。

 日本史自体が室町時代の応仁の乱等でも実証されているけれど、親族間の相互利益供与と対立軸の集合体との闘争という性格のものが圧倒的に多かった訳だ(それは結局江戸期幕末にまで引き継がれ、やがて明治以降にも個々別の形で引き継がれて今日に至っている)。

 だから独裁者はいつも一時期だけである。平清盛もそうだったし、織田信長もそうだった。 

 だが鹿苑寺(金閣寺)を創建した足利義満(第三代将軍)は南北朝統一を成し遂げたり、要するにかなり辣腕を振るった訳だが、足利義政(第八代将軍)はそういう経路を辿った将軍ではなかった(彼の生涯は寧ろ妻、日野富子に翻弄されたとさえ言える)から、部分的には彼の存在理由は十五代徳川将軍、徳川慶喜に似ている処もある。


 そういう所謂隠遁的な美の追求の様な感性は、だから日本では大昔から育まれてきたという訳だ。


 でも、それも結局社会全体に漲っている集団合議制的な、だから一切独裁的決裁を認めない、そういう結末のつけ方を潔しとしない感性が裏打ちしてきた、という訳である。

 

 でも同時に日本は恐らく縄文・弥生・飛鳥・奈良時代迄にかなり大勢の中央アジアや中東からさえ、移民を受け入れていた可能性はある。だからこそ日本人の顔はアジアでも意外と多様なのである。

 時々独裁者を必要に応じて認めるという精神的資質が明らかに日本人にはあることも漢民族の様に(尤も、それも古代では幾つもの異なった民族が合同されて形成されてきた訳だが)かなり一民族的ではない、複合的な構成をしていたからだ、と捉えられなくもない。


 座、という語に見られる日本文化とは、勝敗を明確に決めていく性質のものではない。


 しかし、それと個人の仕事的な面での明確に焦点化させていく意図とは別のことである。だから日本人として生まれてきている以上、その両義性を利用していくべきだし、そうするしかないだけでなく、そうするべきでもある。


 アメリカは自由ということを理念として国家で打ち立てているので、必然的にどの個人も個として自立していなければいけない。従って彼等は却って全体主義的に国家全体を連動として捉える。

 対し日本人はあくまで全体とは仮の姿でしかないという意識があるからだが、全体主義的にしてはいけないという反作用が必ず働く。それは意識の上でもそうだし、決裁的にもそうだ。

 だからアメリカでは個の自立と、だからこそその全体主義的運命共同体運営に平等で友愛的であらしめる為に民主主義を必要とした。

 しかし日本は民主主義は戦後やっと獲得したに過ぎない。明治期には未だ貴族院等も存在したし、完全に国民が皇族を除き完全権利平等となったのは太平洋戦争終了、敗戦後のことである。


 だから日本人は意識の上で未だ民主主義の民という意識はアメリカ人等より、或いは韓国人よりも低い。


 その自主的な政治参画意識の希薄なことが、却って古代以来の集団合議制と、明文化させまいとする恣意的な相互自主判断の暗黙の容認と、相互不干渉主義という反全体主義的(全体主義だったのは明治期の一時期と、日中戦争と太平洋戦争へ至る時期だけである。大正デモクラシー時代は全く違った)観念が、どうしても民主主義の平等という観念を意識の上で成立させ難くしている。

 つまり絶対的自由と個の完全自立ということがない土壌では、民主主義の民という意識は醸成されていかないのだ。


 だから形式の上で自由という理念を持たなかった日本の人民とは、要するに土着主義的感性が今も残っている。

 だからこそ日本は聖地主義的である。荘厳な霊験あらたかな場所は神聖にして冒すべからずなのである。


 だから心霊現象等の観念が日本では土着的に振り払われない。御神木とか、そういった清め的意識、穢れへの忌避感情が、所謂暗黙の同意や相互不干渉主義的決裁の相場的容認の空気が作り出してきた迷信的感性が日本固有の恐怖感情、つまりホラー映画の文化も作っている(アメリカのオカルト映画も、基本的にキリスト教神学的な奇蹟の観念と結びついている)。

又、その清め的、禊的観念こそが乾癬等の病<私もそうである>へ見た目的に差別してしまう土壌を作っている。でも道端アンジェリカ等の尽力で少しずつそういった見た目の偏見も改善されていくことだろう。

 

でも日本社会には男子直系万世一系の皇室を残しているが故に、そういった迷信的感性はきっと永遠になくなりはしないだろう。

 何故なら、そういうパワースポット的な観光娯楽精神は今も脈々と受け継がれてきているからである。温泉好きという嗜好もそれと繋がっている。

 

 つまり日本文化とは穢れを忌み嫌う、差別主義に根差しているからなのである。だからイエス・キリストが梅毒に冒された売春婦をも撫で、慰めた、そういう慈愛の思想は日本にはない。

 だからこそオラショという形で(このことはいずれ言語学的考察で本ブログでも取り上げるつもりである)、面々と隠れキリシタンを熊本、長崎等で実践してきた背景にある考えである。


 つまり日本人は全て迷信的な八百万の神的観念だけに染め上げられてきた訳ではないのだ。

 慈愛がないと知ってきた人達も大勢居た。

 そして端的に言えば禊的なお浄め(お清め)的精神性こそ国家神道が捏造してきたものに外ならない。これは明治維新に大久保利通が徹底的に日本人に移植させた。


 しかし同時に日本には江戸期に徳川家康が政治には一切武家以外に関わらせず、しかし堺や大坂等一部ではそういったことを徹底して商人にだけ許した(だからこそ紀伊国屋等の商家の名家が受け継がれた訳だが)。

 その名残こそが民度を低いものとしている。

 つまり日本人の異様なる遜り(何かを聞く際にも単刀直入を絶対的に避けようとする。だから「~したりなされるのですか?」等という言い方を採用してしまい、その遜り過ぎは聞き苦しい。)とは、徳川家康による人民への精神的権威へ盾突くことへの異様なる警戒心から発している抑圧と大久保利通による脱亜入欧の異様なるストイシズム(明治期は妾等の一般市民が持つことを忌避させる精神の時代であり、それは江戸期迄の春画世界等に見られる所謂性的放埓、それが吉原文化を生み出しているのだが、その系譜を精神的に受け継いでいるのがビートたけしであることも間違いないが、それと対照的である。反作用・反動現象だったのだろう)という二重の抑圧によって、日本人を安倍晋三の様な柔弱な精神の(真の右翼とはそういったなよなよしたものなのである。それはあの近衛文麿もそうだった。)独裁的長期政権を安定して良いものと見做す一種の従順さを形作らせている。


 この点では明らかに織田信長が本能寺の変で明智光秀に殺害されなければ、全く異なった経緯を歴史が辿った可能性はある(再来年の大河は明智光秀である)。

 信長の後を継いだ秀吉の時代に、やっと日本は東北まで含めて一国として統一された。桜の花見の習慣は秀吉が広め、初詣は列車が徐々に全国へと張り巡らされた明治期以降の習慣である。尤も近年その業績を高く歴史家から評価されつつある伊達政宗の功績を無視することはできない。大阪城公園には多くの武将が淡路島から取り寄せて秀吉に寄進したとされる丸(あの真田丸もそうであるが)が、つまり城壁を見ることができる。


 従って東北以北は日本史では西とは異なった民族の構成であった筈である。

 つまりアリューシャン列島から南下してきたか、現在のロシアから新潟方面へと渡ってきたかという経路の人民は多かった筈だからだ。

 だから、民俗学的にも文化人類学的にもやはり日本は単一民族国家ではない。琉球人、アイヌ人以外にもかなり混交している、と見ていい。

 13世紀から16世紀にかけて活躍した倭寇は朝鮮半島では恐れられた。

 その民は海賊であり、八幡(バハン)と呼ばれた。全国に八幡神社が多いのも、何かそれと関係しているかも知れない。

 

 でも『このくにのかたち』等で原始神道の歴史に関心のあった司馬遼太郎は空海を蝦夷(えみし、えぞ)、つまりアイヌだったと捉えている(『空海の風景』)。

 その真偽は兎も角、日本が西の倭寇的性格のその祖先達が共通の祖先を持たなかったからこそ、一神を作ることができず、八百万の神とした、ということは説得力ある観念ではないだろうか?


 つまり八幡(バハン)という語彙からも伺える様に八部族、八民族が最低共存していた海洋航路を台湾からか、中国から直接か今検証されているが、日本へ向けて(正に18世紀の或る一群の欧州人がアメリカ大陸目指してピルグリムファーザーズとして入植したみたいに)古代に日本列島に到達した後、既に地元に根付いていた人達とどう戦ったり、どう折り合いをつけたりしたか(それが今日の自民党二階幹事長的調停主義の発進だったか?)、そこで縄文人が形成されていった訳だし、或いはその後百済人だったと推される皇族の祖の人達を連れてやってきた朝鮮半島出身の弥生人が後から入植し、農耕文化へと狩猟採集文化から移行させ、氏神的信仰を今度は国家神道へと押し上げ、天皇制を確立させた(継体天皇以後が実在人物と見做される)。


 にも拘らず宮内庁も皇室も神武天皇(神武景気等戦後語彙の元である)をも容認する、その非科学的国家神道的感性をどう捉えたらよいだろう?

 或いは科学者の意見を無視して今も尚天皇陵の調査を宮内庁だけが取り仕切っているこの常識をどう考えればいいだろう?


 日本は皇宮警察(皇室警察)と明治期の大久保の腹心へと西郷から下ったあの川路利良の警察基礎とは、異様なる国家忠誠主義であり、彼等は端的に国民より国家の方を優先するという意識も今も決して稀ではない(別の形でそれはNHKにも言える事だし、官僚組織にも言える事である)。

 戦後進駐軍の朝鮮戦争戦略の一端として一種の歪なる戦後敗戦意識で形成されていった警察予備隊由来の自衛隊をさえ下に見る一度も解体されたことがなかった警察組織の固有の猟奇的実働部隊性、天皇制への忠実な軍隊組織性、それらをどう捉えていくべきだろう?

 

 それらの命題を今後本シリーズを暫くお休みしていた「神・自然・存在」シリーズや「キリスト教の核心」シリーズと接合させて、今後考えていきたいと思っている。再度私にとってカルヴァンを、そして再度ルターを一日本人として考える旅が始まる予感にわくわくしているところである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月24日 (水)

創作メモ42/日記的記述GG

 毎日英語ブログexamplewordpresscome1616(プロヴァイダーのブログナンバーを其の儘利用しブログのタイトルにしている)に英語詩を丁度約二か月、60日休まずアップし続けた。その間に又それまでと違う新たな閲覧者を獲得した。多くがアメリカではないかと推察される。

 ところでこのブログは三年と少し前に開設し、その後暫くツイッターの呟きだけ其の儘手直しもせず直訳しアップしていたが、一年程後に少しずつ詩を載せ始めたら、弾みがついて、詩中心のブログに変更していった。


 従って二年前からは完全に詩中心のブログになっている。

 しかしそれでも本格的に詩を英語で書き始めたのは二年前からではなく、二年前の暮れから去年の上半期にかけてである。

 最初についた閲覧者はアメリカ人で、その少し後に直ぐ日本人の閲覧者ができた。


 だが二年前は余り真剣にその英語ブログに取り組まず、自分自身はこのブログの方に載せる日本語の研究他に意識は費やされた。

 しかし詩自体が、日本語で気に入った詩も書けだすと、今度は英語でも(既にこのブログではない私の最も古いブログ河口ミカルの読書日記に数か月に一度程度は日本語で書いた自分の詩を翻訳するのでなく直英語で書いて載せていたのだけれど)、その時の楽しさを継続させ様と、ほんの時々英語からいきなり(日本語でまず書くことをせずに)詩を書く様にし始め、その頻度をもっと上げたのが今年の五月で、それ以降は半分が英語で直接書く詩と日本語を翻訳する詩とが残り半分という割合となっている。


 その間に二年前から徐々にアメリカと日本以外に、アイルランドの閲覧者が定期的に見てくれる様になり、今、週の内五日アメリカの閲覧者が見てくれるけれど、それと違う詩をアイルランド人の閲覧者が二度見てくれ、アメリカ人もアイルランド人も同時に見てくれる詩というのは今迄に四作程に限られている。

 時差があるから、いずれかだけが見てくれている場合でも、違う時間帯に再度ブログアップの告知を出すけれど、それでもアメリカ人が余り関心を持ってくれない詩のみアイルランド人が見てくれて、今迄で、誰も見てくれなかった詩は四作に留まっている(内二作は昨日アップした詩だった)。

 要するにアメリカ人が直ぐ関心があり反応する詩はアイルランド人は関心を示さず、逆にアイルランド人が直ぐ反応する詩をアメリカ人は関心を示さないという顕著な傾向の違いだけは、国民性や文化の違いからある、ということだけはずっと前から分かっている。


 アイルランド人の常連以降、時々見てくれる様になったのはカナダと英国であるが、凄く頻度は低い。それ以外で複数回から一度限りでも見てくれた国は、スペイン、フランス、マレーシア、スイス、フィンランド、イタリア、アラブ首長国連邦である。

 しかしアメリカ人のファンはかなり僕の詩創作に厳しく、全力で書いたものしか絶対読んでくれない。

 でも別の意味で真剣にやっているのは遊び的要素の詩で、それだって見てくれるのは圧倒的にアメリカ人が無関心な時だけ僕の詩に興味を持ってくれるアイルランド人である。彼等の感性は日本人の遊び心をよく理解してくれていると言っていい。アメリカ人は言葉遊びや修辞学的内容は好まず、真摯な哲学的眼差しで書かれた詩や宗教倫理的詩を愛し、遊び的感性の詩はアイルランドや英国の人の方が関心を示してくれるという傾向の差はある。

 尤も自然選択的な生物学的傾向の詩は、時にはアメリカ、アイルランド、英国、どの国でも関心を持ってくれることはあるけれど、常にそうであるという定着した好みをどこかの国の人が持ってくれるということは、今のところ確認出来てはいない。

 

 尤も女性で僕のブログをフォローしてくれている人がかなりいるし、大半は確かめられるプロフィールから分かる範囲では白人、それ以外でもヒスパニックとかインドネシア系らしき人達だけだけれど、正確に一人一人の国別アイデンティティを知っている訳ではない。

 一々深く詮索しないからこそ、気楽に閲覧してくれるわけだから、僕もそういったデータを本人にコンタクトをとって聞かない様にしている。


 でもアメリカ人は日本人よりずっと感性的には国家全体への忠誠心は強い。日本人はそういった国家丸ごとへ直接関与しているという意識は中国人よりも韓国人よりもアメリカ人よりも低い。


 要するに日本には明文化された一つの掟の様なものがないのだ。それはモラル的にもそうだし、宗教戒律的にもそうである。

 だから日本では全ての判断が恣意的であり、そうでなければいけないのだ。つまりそこを明文化させてはっきりさせるのが極端に嫌いな民族性の国民なのである。

 だから日本でだけ通用する諧謔は充分無反省に日本では成立し得るが、それを国際的言語である英語で書いた詩をアップする場合、どの国からも顧みられない詩は、やはり駄作なのだろう。それが自分でかなり真剣に書いてそうである場合は、めげるけれど、それはやはりきっと厳然とした事実なのであろう。


 傾向としては自分内部での感性的な面での体験は、かなりセンシティヴだけれど書き方一つ間違えば只の自己陶酔に陥りやすい。

 対して外在的な事実、世相や世界情勢や、私自身のプライヴァシー的生活に於いてさえ、他者との関わり合いとか、そういう具体的な事例から引き出される事の方が公に近く、そういう私的な事でも公的要素の強い内容の詩の方をアメリカ人はストレートに評価してくれて、そうでない専ら内在的な観念を自分しか理解できない様な書き方をしても、書き方がそれなりに文学的味わい、その定義、その判定基準は曖昧なので言い換えれば、そういう私秘的経験でさえ共感を得られるタイプのことと、そうでないことは在り得て、その違いはやはり失敗をも成功以外にもある程度は積み重ねないと分からない事なのかも知れない。


 だから失敗した詩はもう一度練り直せば良くはなるだろうけれど、同じタイトルではなく違う作品として蘇らせなければ、もう誰にも読んで貰えない。

 だから、一度躓いたものはうっちゃっておくしかない、とは言えることだ。


 只アメリカ人の閲覧者の方が性的なジョークにしても、神的なことへのアイロニカルな批評性にしても、アイルランドや英国より、より神経質に反応するとは、僕の詩のブログの閲覧者の最大顧客がアメリカ人であり、その反応からも或る程度真理的に言えていることではある。

 又、何か発見し次第報告しようと思っている。

 

 付記 反国家主義的アナーキズム的感性はやはりアメリカよりアイルランドや英国での方が通じやすい(従ってパロディ的なこともだ。だからきっとフランスの閲覧者がもっと定着していれば、彼等もきっとアメリカよりはそうであろう)けれど、アメリカ人は現代文明全体への批判的な眼差しの詩は今日アップした詩も同時に久しぶりに同じ国で二人閲覧してくれたことからも或る程度言えているけれど、共感してくれる、という傾向だけは見てとれる。


 因みにアメリカ人は恐らく最も閲覧者とフォロワーは多い。アイルランド人は恐らく一人から三人程度、日本人は私は面識ある閲覧者を三人知っていて、内一人はかなり最近前からの知人で初めて英語ブログを紹介したので、それまでは女性一人、男性一人であるけれど、男性の方は今年八月の学会で紹介したので、それ以前からの閲覧者はその女性以外には面識もないし(その女性は私の英語ブログのある詩のファンで私とツイッターを通して知り合い、一度お会いして、それ以来時々ツイッターではやりとりをしている方である)、何人いらっしゃるかは定かではない。

 (ひょっとしたらブログを使って相手のアイデンティティを調べる方法もあるのかも知れないが、それを知る人はご一報して下さると助かるので、もし教えて下されるなら、本ブログでも本ブログの左にあるツイッターででも私にご連絡下さい。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月23日 (火)

羞恥は虚栄心に根差す Part1

 恥じらいという感情は、恐らく権威への妄信が生み出している。

 権威は日本では国家神道的な行事や、それを由緒正しいとする全ての有職故実である。

 日本ではその担い手は昨今仁徳天皇陵調査を行う様に指導した宮内庁であり、その国体を称揚すべく喧伝する役割はNHKに暗黙に委ねられ、NHK自身が担おうとしている。

 恥じらいとは、その恥じらう姿以外の一切の性的な善良さ、それは生活態度から婚姻生活全般に渡すあるべき姿、それを良しとする慎みある態度、礼節を失わない理性的な全てである。

 


 しかしそういった事に雁字搦めになるということは、既に現代社会の自由主義経済社会や、資本主義的な経済原理に則った生活態度、社会倫理にそぐわないと言える。

 何故なら自由主義経済競争原理とは、恥も外聞も金繰り捨てていかなければ成立し得ない世界だからである。

 だからその恥じらいだけを美徳とすることは一種の偽善である

 



 羞恥とはところで、やはり決定的に虚栄心に根差している。寧ろ積極的な権威的な美学を無視することで、民族的な嗜みの全てを破壊することを恐れる集合的感情、つまり集合的な無意識に根差している

 従ってそれが日本の礼節だと喧伝される時、それは日本的美的感性、美意識を尊崇するということへ繋がるが、それは言ってみれば有職故実的な感性以外を邪道として退けるという暗黙の差別意識、排他主義的な国粋主義が仄見える垣間見られる。


 しかしそこに何か凄く正義的実体がある訳ではない寧ろ常にそんなものはない。何故なら何に対して恥ずかしいかということは、はしたない事をすべきではないという形で結局日本民族以外の全民族を軽蔑する様な感性を前提してしまっているからである。

 これは英国人伝来のピューリタニズムにも共通している。それがしかし果ては歪な形でKKK等の人種差別意識の高揚を旨とする民族主義的は排他主義、ヘイト思想へと直結している。

 



 例えば恥ずかしいから、それはできない、したくない、と言い出したら、きっと世の中なんて一切渡っていけないあらゆる仕事やあらゆる新しい改革的な生活の改善とは羞恥を捨て去っていきていく覚悟以外ではないからだ。

 だからその点では恥じらう気持ちとはいつ迄経っても女子は処女を、男子は童貞を守る様なものである


 改革的意図や革新的な実験とは、それまでの従来型の仕方への懐疑に根差すから必然的に感性的に慣れていない事に慣れさせ様とする意図でもあるけれど、そこでは和服して来て来なかった女性が初めて洋服を着た時の様な羞恥は当然伴う。

 しかし、それを恥ずかしいと言って全て拒絶していたら、やはり何も身に着けることの感性の幅を広げることなどできはしなかっただろう

 いつの時代でもそれは、そんなことは恥ずかしいから自分にはできないという言い訳は決して新しいことをしようという勇気を持たない者の自己弁護でしかない。


 新しいこと、それまでの誰もがしてこなかったことをする際には必ず恥ずかしさを伴う。そしてそれをさせまいとする意図とは、旧態依然的な慣習にだけ寄りかかっている保守惰性的な感性の仕方の人達だけを認め、それ以外を一切排他していくという守旧的な保守思想以外ではない。

 

 だから恥ずかしいから、そんなことを言わないでくれ、とか恥ずかしいから、そんなことを言わせないでくれ、と言っていたら、いつ迄経っても大人になれないということであるが、それを暗に日本国家はずっと奨励してきた嫌いさえある


 だから、それは皆一斉に命令された通りに右に倣え的にだけしていこうとするその合わせる姿勢だけを高く評価するメディア操作的な思惑がある事が確かだが、結局独裁的為政者や官僚達にだけ都合のいい市民の行動に率先して載せられているだけだと言えるのだ。

 



 例えば詩作では、よりあけすけな表現はいけないことであるというタブーへ挑戦する為には隠語や俗語も使っていくのも一つの手だけれど、隠語的なことを多くし過ぎると、今度はそれは暗喩(metaphor)で読み解く力を読者に試す様な趣きになるので、余りに過激なことに関してのみ一定程度許容し得るも、余り多用すると、やはり却って不自由な創作態度になる

 だから高尚過ぎないテーマであけすけな言いたい放題をすれば、その方が効果的だとは言える。

 

 アナーキーな感性はしかし或る意味では羞恥を克服する形で得られるのであれば、最初は保守主義的な縛りが却って必要で、それを乗り超える為に一度は呪縛されなければいけないとしたなら、日本では国家神道、キリスト教プロテスタントならピューリタニズムやカトリックならプラトニズムということになるのだろうか?

 しかし、最初からそれら全ての感性を拒絶しながらしか受け入れられないタイプの人達にとって、ではそんな呪縛以外でもっと有効な理想郷的なベースとなる自分達なりの法とはあり得るのだろうか、という問いかけは確かに要る

 

 だから虚栄心を振り切ることは、一度はその虚栄心、人から軽蔑されたくはない、とか人から外れていると小馬鹿にされたくはないという観念が理解されなければいけないこととなり、結局そういう縛り自体にどっぷりと意識を漬からせた

くない場合、表向きはそれらに従っていつつ、実は内心では全くその全ての縛りに軽蔑心しか持っていないという事だから、それは既にかなり多数の日本人が実践している



 そしてその成れの果てが福島県出身の生徒を東京近郊に生まれた時から居住する生徒と先生が一緒になっていじめを行うということへと繋がっている

 恐ろしいことである。

 でも、実はどんな時代に罷り通っていることでも、もっと長いスパンで民族史や国家史を俯瞰してみると高々数十年程度継承されてきたに過ぎないのだ

 


 だから江戸前のべらんめえであれ、大阪弁的な喧嘩流儀であれ、九州男児的な男気であれ、何でもあれ、俗語とか卑猥な隠語等も仮にそれを言った場合、その意味を即座に誰も画理解できる場合のみ効果的なのであり、高尚過ぎたら、誰も理解できないから逆効果である


 その選択は難しい。


 又形式だけ伝統的、恥じらいを損なうことなく何でも対外的に振る舞うなんて、やはり欺瞞的で、その方がずっと虚栄心に沿っているから、抑々人から遅れをとるまいという構え自体に全く重きを置かない一つの吹っ切れた世界をまず自分に身につけていかなければいけない

 


 吹っ切れた世界を獲得するということは、それ以前的に未練たっぷりで怨念的世界を知るということでもあるから、自ら余りに執拗で怨念めいた人への毛嫌いとか、要するに全ての保守伝統的なコードをさんざん身に着けて、それを今度は否定し敬遠し、毛嫌いして、自己感性から排除していこうとする道のりが用意されているかも知れない。

 そして、その屈折し屈曲した道のりはやはり決定的に一般に詩の読者を含めた全ての他者から敬遠されがちだろうし、誰からもひょっとしたら理解されない試みかも知れない


 しかし即時的に誰からも称賛されることばかりを追求していくことは、追求ではなく只の媚びでしかない

 だから誰からも目に留めて貰えない行為や主義主張や理念や正義を貫き通す為には、虚栄心や人から恥ずかしいと思われることその者を撲滅する様なかなり鑑賞者や、自分の支持者さえ無視していく様な向こう見ずの試みよりもっと、もうそれしかないという開き直り的な感性的なテロリズムが常に理想なのかも知れない

 


 虚栄心は、だから最初は追随していかなければいけないというオブセッションに始まり、次にはそれを下らない見栄で、下らない勇気の無さだと否定し、撃墜することに終始し、次には、そういう何か定型とそれへの否定や批判という仕方全般を葬り去る、もっと吹っ切れたメタレヴェルの止揚を求められているけれど、そういう段階的なことを全て今度一度捨て去るというプロセスがあってもいいのだ。

 全てを捨てる、もっと凄くプリミティヴなことから再度始める決意である。

 その原始的感情の迸りが自分で息衝いているなら、それを隠蔽すべきではない。


 そして、そのナマなこと、レアなこと、そのことは、やはりそうではない雁字搦めの洗練が呼んでいることなのだ。

 それに気づいた時堂々巡りだけが押し寄せてきている自分の生の現実そのものにぶち当たる。


 その堂々巡りを今度はもっとメタ的視点から突っ放して見て、その縮図的なことを表し始める。しかしその上から目線でいつも自分自身は現実には生活している訳ではない。

 となったら、もう今度は、そういう上から目線でない自分から見えていることだけを信じるという仕方に自然と切り替えられる。

 すると、その時にははしたないこととかみっともないことはしたくないという虚栄心はすっかり消え失せている。

 その吹っ切りの中では、もう既に人から良く思われたい様な外れていない仕事だけしたいという欲求そのものが消え失せている。


 その再度そこから始まる回路に立たされている自分とはきっと、羞恥そのものを過去の亡霊の様に対象化し、その羞恥の虚栄との結託それ自体への嘲笑的笑い飛ばし(lol, laugh out loud)が行える様になっている

 


 だから生まれて直ぐ言語を習得し始めてから、抱え込んでしまっていた羞恥とその維持にかけられる虚栄心の対他的な攻撃性を、親和性へ転換させながら歩み自分の像それ自体を、今度は凄くミニマルな語彙に置き換えて、自然環境とかを肌で感じてウォーキングしながら、その自分の反復的日常を戯画化する道が残されている


 その戯画化の試みとはきっと羞恥、恥じらいと虚栄心と自己欺瞞とは全く異次元の世界への接触の仕方である、とだけは言い得る様に思われるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月22日 (月)

世界の真理106 / 日本人の私と哲学的・神学的私 Part2

 昨日から本格的に『西郷どん』では明治篇へ突入したけれど、実際日本史でこの明治期とは、それまでの武家社会という中世を完全に終わらせた時代だと概ね歴史家からは位置づけられている。


 しかしやはり大久保利通の政策方針を正義として、西郷隆盛の西南戦争を行き過ぎた元武士階級の人達の鬱憤晴らしだと只見做す訳にもいかない部分もある。

 それは仮に西郷が勝利し大久保に代わっていても、彼も征韓論を唱えていたわけだから、彼が軍国主義国家的に日本をしていかなかったとは断言できないけれど、同時に実際に大久保は勝利し、その後の明治政府の礎を築き、今日までの近代国家的秩序を繋げさせているけれど、富国強兵的な政策他はやはり大久保暗殺以後の、大久保の青写真への継承の意図でもあったから、日本を全体主義化させた超本人も、近代化へ貢献した大久保だったと言ってもいいからだ。

 

 尤ももしいつまでも武家社会存続的未練の元武士達の言い分を聞いて、愚図愚図と近代化邁進を遅らせていたら、何らかの形でアメリカか英国、どこかの国から日本は戦争をしかけられ、それで勝利できたかと言うと、それもやはり覚束ない。

 

 従って歴史では絶対誰もが元の時代へ戻ってやり直したりすることができないので、何が歴史的に正しい判断だったか否かという論議自体に全く意味はないということとなる。

 

 でも日本人は基本的に大半の市民は完全なる自主自立やら自由なんて求めていないということは分かっている。大半の市民は生涯目立たずに他人に迷惑だけはかけないで生きていきたいというのが本音であり、出世欲も、自由への渇望もアメリカ人よりも中国人よりも韓国人よりも小さい。北朝鮮人に、だから周辺諸国では一番近い。

 

 でも、それはやはり一部の物凄く事業とかが巧く行っている成功者達には適用されない。彼等はもう完全なるエスタブリッシュメントで、彼等は核シェルターさえ作って自分達だけ助かればいいと考えている。

 それは世界的規模で仮に自分の国が滅んでも自分の家族だけ助かればいいという、ま、それが完全なる個人主義であり、資本主義経済での自由主義の考え方だが、仮に地球が滅びそうになってもロケットで脱出することさえ考えているに違いない。

 だから仮に身分制度的なことが残っていて、立憲君主国であっても、そんな体裁は有名無実であり、世界は完全に自由主義経済個人選択自由主義なのである。

 

 でも、地球が滅んで宇宙へ脱出できたとしても、その資産家は結局食料を自ら調達することは宇宙空間ではできないから決して生き延びることはできない。地球で全人類が絶滅するより少し延命できるだけである。


 又自分で地球で人類絶滅を危惧して、それを対処する様なことを考える人は、今度は自分だけ助かろうなんて絶対思わない。

 何故なら、それが本当に実施できるくらいに凄く科学実践的に裏打ちされているなら、それを世界へ公表し、普及しようとするからだ。

 つまりその方が結局自分にとっても最大の利益になるからである。


 要するに人類のできる限り多数の人々の幸福に直結することこそが、結局それを試みる人にとっての最大の幸福へも繋がるということは、北朝鮮やサウジアラビア等の独裁国家(中国はこの二国程ではないからも知れないけれど、微妙なところがある。ロシアもである。)でない限り、世界標準としてはそうである。

 

 でも再度個人主義に拘ってみると、日本には確かに馴れ合い的な自然発生的社会主義的な幸福感を最大価値と無意識にしている人達が多いけれど、ここではプライヴァシーが成立し難いのである。

 馴れ馴れしいことは個人主義の天敵であり、馴れ馴れしい部分が皆無な人へ懐疑的であることは一般的に自然発生的共同体主義、社会主義倫理愛好者全般に見られる精神的特徴だからである。

 

 自分のことは人からとやかく干渉されたくはない、という観念こそが個人主義を愛好する人、そっちの方がそうではない他人同士で干渉し合う様になりがちな社会主義ではないという意志であり、それが結局現代の自由主義社会の基本である。

 だから今現在はどんなに貧乏で完全なプライヴァシーをキープできていない市民も努力によって、完全に広大な敷地に居住し、プライヴァシーを守れる様にすることを止める権利は誰にもないという意味では、権利問題的には確かに現代社会は自由は保証されている。


 しかし重要なことはたとえどんな広大な敷地を有して生活していくにしても、その面積の土地の管理を巧くできない者は、広大なゴミ屋敷と見做され、結局地域社会で暮らせなくなってしまうし、そうならない為には地域住民との間の人間関係は良好に保っておかなければいけない。

 だからどんなにプライヴァシーが重要だし、それが権利問題等と言っても、結局そういった社会倫理を守った上での、義務遂行の報償としてのみ与えられる自由に過ぎず、完全に野放図に何をするのも自分勝手でいいということでは決してない、という意味では、社会とはアジア人全般に見られる様な完全なる自由や公平を求めている訳ではないという民族全般にとっても、それよりはずっとそれを求めている例えばアメリカ人等にとっても、その両者の間の差など、所詮習慣の差にしか過ぎないと言っていいくらいに、凄く成功したり、凄く広大な土地を所有し、資産家であることは、そのことで却って貧乏であった時代には殆ど気遣いする必要さえなかったことまで、もの凄く気遣いしていかなければいけないという資産的有力であることの代償としての社会的義務の遂行が暗黙に社会全体から強制されるのだ、という意味では、とどのつまり、自由主義も社会主義も、個人主義も集団主義も、全体主義でさえなければ、全て完全にどちらかに偏り過ぎることは決して許されないという面はずっと変わらずに存在し続けるであろう。


 つまり、社会とは倫理的に言えば、自由の在り方が凄く問われる、又共存の在り方も問われる、前者は個人主義者、後者が社会主義、共同体主義者に突き付けられている命題である、という意味では、全ての命題に対して無縁で居られる様な存在は、人間である限りは在り得ない、そうできるのは空気か、無であることでしかない、とは言い得るであろう。

 きっと、そういったことをケインズも考えたんだろうし、もっと前の時代ではヒュームやアダム・スミスも考えたのだろうし、ホッブスも考えたのだろう、ということだけは浅学菲才の私にも何となく分かる様な気だけはするのである。


 あくまで、私の無根拠な自分への言い聞かせでしかない、と言われれば、そうでしかないのだけれど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月21日 (日)

世界の真理105 / 日本人の私と哲学的・神学的私Part1

 私の問題は実はかなり難しい。

 


 何故ならそれは一人自分だけで成立している訳では決してないからだ。だからこれは国や文化圏や宗教倫理とも大きく関わっているから、私ということ自体が一筋縄ではいかないことを証明している。

 


 例えば私は半世紀以上日本で暮らしてきて、この国の倫理とか宗教観とか、所謂全ての私を成立させることは、そこからしか何も見えない人間だけれど、同時に近代以降の民主主義社会であるとか自由主義経済社会で生活してきている以上、西暦を使い週が七日間であるシステムを採用して生活している以上、哲学や神学もそれなりに学んできたので、日本的なる私とそれ等の私との間の共通性と、ややと言ってもいいし、別の場合ではかなり食い違っていることの両方を認識できる、という事が言える。

 


 さて日本的私とは抑々日本社会が自由な移動と階級的社会システムを潔しとはしない何かを精神的縁として日本人が生存を図ってきたことと関係している。

 

 つまりアメリカ等の場合は企業の不正等を摘発した場合報奨金が多額に支払われる社会システムであるが、それは要するに社会倫理が国家や国民全体に関わる一つの大きな歯車と認識しているからこそ、当然派生する権利問題である。 

 


 しかし日本社会の場合、抑々そういう風に国家や社会全体を一個の装置と言うか、要するに全体的認識で見るということ自体へのどの社会成員も抱いている、うっすらとした懐疑心がある、ということがまず言える。

 


 つまり社会全体を合理的共同体(協働体)として見る前に、個々の成員の愛着を優先しているという意味では西欧流で世界へ定着した自我の問題とか私という意識が日本の場合、外的環境と一体化された精神的エコシステム(生態系)として機能する現実を潔しとする以上、社会全体の統一的秩序と個々の成員のその奉仕という観念は完全なものとして日本人に定着している訳ではなく、そこに必ず合間的なこと、曖昧な完全に∃(存在)=1とはできない何かが心に残されると感じている訳だ。

 


 だから所謂タルスキー的なトートロジーでも永井均の哲学の「そうでしかあり得ない、ただそれだけである。」という観念も、概略化された全体像的認識に於ける数値主義的な01では割り切れなさの方を日本人が優先してきているその精神的感性をよく反映している。

 

 つまり日本人とは個にしても社会にしても合理的に割り切れるという絶対主義的発想のキリスト教文化圏と異なって、そこに一種の溜息の様なものが必ず介在する訳だ。

 


 だから、それは日本語それ自体にも副詞や接続詞や感動詞等に固有の言葉的な響き、音的感性を先鋭化させている処理が自然と行われている。しかしそのことは「言葉の慣用性とは何か?」シリーズで考究していこうと思う。

 

 

 



 さて日本の私は、だから割り切れなさと自然やその自然環境に自己を馴染ませるという一種の進化論的な在り方をしていて、それはダーウィン以来の無神論的な観念を日本人が受け入れやすい素地も作っているけれど、要するにその合理的決済、定義的無矛盾性の排斥という感性で裏打ちされている欧米流の、キリスト教倫理的思想では計り知れない、固有のナルシス的(身体的にも精神的にも)エゴイズムが介在していて、それが聖地的なアウラを日本人が重視してきた、だからこそ伊勢神宮でも出雲大社にしても京都御所にして明治神宮にしても、そういう聖地を中心に感性が成立している以上、そこから慎みや節度や遠慮や嗜みとかの概念が生み出されてきている、とは決定的に言える。

 


 それは遜り的表現を言語行為に介在させることでも証明されている。

 

 

 

 だから定住ということが、例えばアメリカ人や、その他大勢のコーカソイド(ロシア人もそうだし、要するに領土拡張と移住と移動を精神的にかなり自然なものとしてきた民族)に固有の一点聖地的なことからは外へ外へと向かう遠心的エネルギーの自然さに対する、アジアに固有の(だから、それは日本だけのものではないので、他のアジア人と日本人の差を見極めることも重要だけれど)一点聖地主義と、それを中心とする暗黙の周辺へ行くに従い従属と過疎を自然なものとする自然主義的社会コミュニティを発生させる感性、だからそれは内へ内へと向かう求心的エネルギーの自然さが暗に前提されているし、そこから生み出される精神的感性は明治期以降脱亜入欧してきても、変わることなく受け継がれているとは言える。

 


 でも南青山に虐待児向けの施設を一等地に建造することに対して、地代が下がること、ブランドイメージ降下への懸念から住民反対運動が起きている様な事態も、社会全体を合理的なシステムと認識し難い日本人固有の土地への愛着に根差す矛盾的事態であるが、それはやはり倫理的には欧米キリスト教社会の宗教倫理の方に軍配が上がると脱亜入欧以降の国策の延長線上にある近代以降の日本人の正義の倫理から言えば、地域エゴやブランドイメージより児童教育的観点からすれば、そういう地域住民反対意図は長期的未来を見据えていないものと言えるだろう。

 

 

 

 サウジアラビアのムハンマド皇太子がやはり今回のジャーナリスト殺害事件で国際的なブランドイメージや信頼をも大きく国全体へと失わせたことは確かだけれど、それでも尚交易相手としてはアメリカは彼等と完全に手を切ることはないだろう。

 

 つまりそのかなりそれはそれ、これはこれと切り離して考える癖は、やはり日本が鎖国状態にあった中世で、ポルトガルやスペインがカトリック宗教思想と倫理を日本へ宣教する場合、その社会システムや民族性迄影響を与えさせ様としたことと違って英国やオランダの様なプロテスタントは宗教倫理と、日本の居住民の精神的縁の自由とを分けて敢えてキリスト教化することを彼等は殆ど考慮に入れていなかったというところに、明治期以降のプロテスタント的精神の方が日本に隠れキリシタンの脈々と受け継がれた熊本、佐賀、長崎の江戸期以降の人達と違って、東京中心の、それも日本に於ける合理思想、全体的発想の芽生えに拠って精神的には歓迎され、今日のアングログローバリズムへの同意的姿勢、つまり日本の自由主義経済の基盤が形成され、定着されてきたのであるから、我々は多神教的、氏神的聖地的尊崇性や定住暗黙の聖俗のヒエラルキー的感性と、全体性認識の合理主義的個々を切り離して(プロテスタントが敢えて宗教精神と、交易や相互利益追求を分けた様に)考える思想や倫理、正義感が奇妙に混交し、使い分けながら、同時に相互に撲滅させ合わない配慮、そこに日本式の配慮、忖度、斟酌、控え目であること等の素行やマナーが成立している、と見てもいいだろう。

 


(つづき)



 

 




 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月20日 (土)

Why I use outspoken words in poetry creation Coz only it could be effective in Contemporary society

Nowadays I feel that any philosophic activities and literature activities are only the things to which I cannot help but be disillusioned.

All those activities are targeted only to privileged ones who have steady knowledge about professional skill or technical term using method.

But in larger vision we could look over our future, its restriction has no meaningful effect to any readers in society.

Namely as long as written words are directed to the sole aim to be understood only by professional ones with something, it would never mean so much.

 

My aim to want to be reach is always targeted to the point anybody is easy to focus on, then so outspokenly candid opinion contained poetry is only needed to my stance to create these poetries serially.

Contemporary society is based on irregular season sensation for example cherry blossom has been active also in fall season coz of typhoon phenomenon this year, namely Haiku poetrys stance must be shifted to different phase any past knowledgeable haiku poets must had never imagined all those years ago.

 

Then political, philosophical and so thought idea telling taste poetries in series are needed to all of worldwide readers favorite in reading poem like things.

 

The most important things we must regard as the indispensable instruction to create poems are only based on not academic nor not pedantic creative stance coz this contemporary society has gotten be so flat to everything any kinds of information must never be and should never be so not authorized anymore than the past days of the world.

Then suppressed expression not to be able to prevail to any ordinary citizens in the world could never mean so much anymore, already nowadays of the world.

 

Then only outspokenly candid opinion contained poetry trials as one example of try and error must have adopted to any reads in the world, I believe its stance and finger to get all over the world as the target to be told of my poetry messages of mine caused from my life experience and facts I met by chance.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月19日 (金)

創作メモ41/世界の真理Part104

〇創作では反措定的な何か、つまり現実社会全体への同意と反発が同時に自己へ打ち寄せて来ることに起因する創作的衝動が、我々詩人へ書かせることは、幾分文明批評的批判、幾分それらへどうしても引き寄せられ魅せられる我々自身の惰性的な反応に対する自嘲的な呟き、幾分ニヒリスティッシュなぼやきであり、幾分未来へ夢や希望を繋ぐ様な肯定的な人生への賛歌、であり、そのいずれでもなければ、それらの総合でもない様な何か、それだけが詩である。


 詩だけが特にと言う訳でなしに、どんな文学形式でも、そのことに就いてだけは全く皆同じではないだろうか?

 

〇アメリカ映画を多く見ていると必ず気付くが、異様に殺人シーンが多い。これは銃器を携帯させている国固有のことでもあるが、潜在的には恐怖感情がアジア人に対してあって、その今現時点での急先鋒は明らかに中国人であり、国家としての中華人民共和国であるが、それが作品を映画として提出する際に無意識に表出している、と見ることはできる。


 対し日本映画はより惰性的日常を送るヒロインやヒーローだけが多く登場するし、それはアメリカ映画の銃器を相互に所有することに起因するサヴァイヴァルとは異質の社会的虚栄心の描出が多い。

 でもそれは映画での話しで、ドラマでは全く違った趣もある。尤もNHKの朝ドラ等の世界観と大河ドラマ等の世界観と、ホームドラマとアクションドラマとではやはり個々異なったテイストを踏襲しているとは言えるけれど、基本的にアメリカ人の持つサヴァイヴァル的な観点での恐怖心が日本のドラマに在るとは思えない。


 アメリカのドラマはそういうものはコメディタッチのものであったり、社会的虚栄心は法廷ドラマだったりして、ヒューマンドラマは内心のトラウマを深く掘り下げている。

 従って日本の大手資本エンタメ映画ではない独立プロやマイナーな監督達による仕事と、アメリカのヒューマンドラマは共通したところがある。ペシミスティックに描きがちな日本映画にも最後に可能性と希望だけは見出させる描き方も見受けられるし、映画ではあれだけ大勢の登場人物を殺すのに、ヒューマンドラマではそういうことは全く描かない。対しセックス等を含めて社会的虚栄心は法廷ドラマ等の様なもの、ビジネス空間でのオフィスワークから派生する悲喜こもごものドラマに委ねられている。


 韓国ドラマは史劇は主に音楽はアメリカンシネマテイストで大袈裟なオーケストラを使用するか、60年代や70年代のフランス映画に見られ、一部リュック・ベッソンが『ニキータ』『レオン』等を通して20世紀末に復活させた情感主義(センチメンタリズム)や抒情主義(リリシズム)に適用されるライトタッチのシンガーによるソングを頻繁に利用している。

 要するに韓流とはあくまでホーム娯楽に徹しているから、現実社会への批評性よりは圧倒的に作り事としてのドラマツルギーであることが、ヒューマンな人間のサヴァイヴァル、とりわけ王侯貴族、王朝の人達と、両班と、庶民や奴婢との間に固有の身分制度から派生する生と性の苦を描いている訳だが。

 


 これらのことから読み取れることとは、言ってみれば虚栄心は日常社会の職場や家庭で垣間見られるけれど、それ等の日常を少し俯瞰的視点から客観視しようとすると、聖書の持つ運命論的、クルアーン等で示されている天罰的発想の映画が、どうしても彼等アメリカ人は無意識に出てしまい、しかし日本では銃器使用はやくざくらいなので、必然的に心の内部の暴力の方へと表現されるべき対象が向かうという違いが日米間の映画表現の差として我々が認識できるということは言える。

 


〇でも、それら日本人である私にとって日常的に頻繁に接している娯楽表現の現象全体が私自身の詩作にも影響を与えない訳はないのであるが、実際サウジアラビアのジャーナリストが粛正されたかに思われるアメリカがすっぱ抜いたトピックが世界中を飛び交い、すっかりサウジアラビアの国家と王族中心の首脳へ批判的眼差しが世界に波及してしまっているけれど、実際中国のICPO総裁だった方の失踪行方不明の案件も未だどうなっているか不分明であるが故に、例の女優は何とか生存していることだけは発覚したものの、依然中国への世界の批判的視点は止むことはあるまい。


 又、アメリカが中国を牽制する意図や欲求もよく分かるけれど、実際アメリカが次々と脱退を表明している世界郵便等の制度も、現実には世界的にインターネットとウェブサイトの拡充によって、過去から次第に切り離された世界現実に晒されていることを考慮に入れれば、アメリカが全て歪な自国利益中心主義に陥っているとだけ判定することも難しい(勿論トランプ大統領がそういう旧来型の古き良きアメリカへの先祖返りを志向していることは事実だが)が、そのことで却って民主党Alexandria Ocasio-Cortezへの関心と国内的な世相沸騰、それはかのBernie Sandersの政治的意思の継承として捉えられているもう一つの現在のアメリカの姿であるが、それは私の詩作とそのアップしている活動で重要な閲覧者であるアメリカ人へのエールをも私に促すけれど、それはアメリカという国と不可分の戦後の歴史を持つ日本人としての私にとっても、この国とアメリカと世界全体への動向への注視を私に忘れさせずにはおかないし、その世相的把捉と、哲学的・宗教的/神学的把捉とはやはり不可分だし、それは自然全体へ自己身体が接していることが齎す固有の身体感覚が、抽象的語彙を引き出しもするけれど、それが同時に国際世相的なジャーナリスティックな感性を喚起させずにおかない一つの現代社会成員としての固有の共時態的意識の発露ともなっている。


 要するにメタ的視点とか、形而上的、存在論的な把捉は、決して俗世間的な世界現実と完全遊離等しては否どころか、常に表裏一体であるとさえ言い得る。

 でも、やはりこの問題は世相を解析したりする批評性と、私自身の個人的体験に根差した創作モティヴェーションとが切り離せない者同士であると言うこと以外では、やはり詩作品創作を継続させていくしか、そこから見えて来る何かに関して、今は言い様がないと思えるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月18日 (木)

都市部と地方部/人類の孤独は恣意的に作り出されているPart1

  

  

 都市部で独身生活を送る男女に地方自治体の長等が結婚を薦めるということは、何か特別の人口対策的な政策が打ち出されない限り、そう多いとは言えないに違いない。

 

 

 

 地方部で、しかも原野とか山間部とかの一軒家で居住する人に対して(まあ、たいていは男子だろうけれど)、地方自治体の長が結婚を薦めることは、その地に根を張ろうとしている人に対してなら(尤も一過性の短期滞在でそういう過疎エリアに居住するということは通常在り得ないけれど)、凄く自然に在り得る。

 

 

 




 

 

 

 そもそも過疎地域では隣人を選んでいられない。

 

 

 

 つまり対人関係を全てどんな人とでも巧くやれる自信のない人は、都市部に住む以外にない。都市部であるならマンションで隣に住む人がどんな仕事をしていようが、誰もが知ったこっちゃないという態度で居られるが、過疎エリアではそうはいかない。アイデンティティがしっかりと周囲の全他者へ知れ渡っていなければいけない。従って過疎エリアで暮らすということは、都市部でしか味わえない固有の孤独とは無縁で暮らすということに外ならない。

 

 

 

 と言うのも人間の孤独感情等というものの大半は都市部での過密な人口密度のエリアでこそ成立することが大半だと思われるからである。

 

 

 

 

 

 

 

 人間の孤独感情とは都市部の様な就業の機会や他人と出会う機会が満ち溢れたエリアでこそ恣意的に作られているのだ。

 

 

 

 つまり文明自体が、例えば航海術の発明以降の人類なら、どの民族や国家の居住設定区域でも港が作られていて、そこに多くの交易関係の従事者達が立ち寄り、短期滞在する。

 

 

 

 必然的にそこには外国人も多く住む様になるし、多人種間交流が定着していく。言語的にもピジンやクリオールが発生していく。従って人種間・民族間混交的婚姻や国際結婚的形態の家庭とは、歴史的に植民地の宗主国と宗主国に被支配を強いられている民族間、奴隷主と奴隷との共存といった特殊な場合以外は大半が、港(現在なら空港のある都市)での出来事が大半を占める筈である。

 

 

 




 

 

 

 つまり他者と出会う機会の多さこそが固有の孤独感情を人間に育てるのであり、地方の過疎エリアで暮らす人に、抑々そういった孤独感情とは発生しようがない。

 

 

 

 もし発生しているのなら、その人は都市部並びに郊外住宅地出身者で、近隣住民との間の日常的なコミュニケーションの不足に起因する退屈な感情が理由であることが多いであろう。しかしそういう人ですら、長く過疎エリアで暮らし、その生活に慣れていけば、次第にそういう孤独とは無縁の精神状態が支配する日常へと同化していくだろう。

 

 

 




 

 

 

 都市部とは擦れ違う人達が知り合いである可能性の方が10の差とするなら、圧倒的に0に近く、それくらいに友人とか知人、同僚、要するに面識在る人と共に居る時間より、少なくとも会社であるならオフィスを出ている時間では他人と擦れ違うことの方がずっと多い。

 

 

 

 つまりこの文明に固有の市民の立たされている時間を過ごす状況こそが孤独という感情を人間に創っているのであり、それはエリオットの詩集『荒地』(THE WASTE LAND)の世界を作らせている当のものだし、ボブ・ディランのLIKE A ROLLING STONEという歌曲の歌詞を書かせている当のものである。

 

 

 

 

 

 

 

 例えば都会では凄く辛い愛する人との出会いを失ったことで嘆き、泣き喚くことは通常では都会の雑踏では誰もがしない様に自然と心がける。そこで都市生活者固有の文明的マナーを保持する為にストレスが作られている。

 

 

 




 

 

 

 従ってそういう風にもし辺りを憚らずに大声を出して泣き喚きたくなったら、東京近郊で言えば、滑川町や熊谷市(埼玉県)にある森林公園とか、そういう場所の山道として設定されていて、営業時間中でもそう滅多に人が多く通らない場所まででかけていかなくてはならない。

 

 

 

 その点では北海道の原野や森林の間の空間に建てられた一軒家で暮らす人はほぼ毎日大声を出して泣き喚いても誰にも咎められない。だからどんな大声を出しても自然全体の広大な空間の空気に吸収されていってしまう様な山間部や、荒野や原野では、そういう大声を出して孤独な感情を吹き飛ばすという気持ちに、そこに移住し、着いて住み始めた当初だけは持つ感情だろうが、じきに生活の全てに渡ってエネルギー確保(夜間の暖房その他から炊事や洗濯に至る迄)から食料調達から、何から何迄一人でしていかなければ生きていけない(人と会うのは必要な物資や食料調達の際に月や週に一度大きな買い物をバンとかを運転して行うその際だけである)ので、必然的にため込んだ孤独を癒すという気持ちさえ、そう多くは発生しなくなっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 つまり孤独とは都市部の都市空間、都市居住者固有の隣人と間近に接していて、会社のオフィスでも他人と一日中近く傍に接していなければいけないという状況自体が作り出しているストレスの一つなのであり、地方部の過疎エリアでは殆ど成立する余裕はない。

 

 

 

 地方部でも、日本で言えば城下町でも何でもそういう都市部でしか生活しないのであれば、孤独と言う感情が発生し得る余地はあるし、地方都市固有の孤独は発生し得るが、そうではない完全な過疎エリアでの一人での生活ではそういうこと自体もきっとそう多くはない。

 

 

 

 

 

 

 

 このことは人間が選択肢の多さが、一種の文明に固有のストレスを生み、そのストレスとは、本質的に可能性と条件に恵まれ過ぎている状況それ自体が捏造する余分な心理であるに過ぎない、ということを示している。

 

 

 




 

 

 

 選択肢が抑々凄く狭められた居住条件の下で生活する場合(極端なことを言えば、孤島や砂漠のオアシス等で暮らす場合が全くそうであるが)、ストレスということを発生させる余裕がないので、常に全ての過ごされる時間とは何かの為、つまり生存を確保させていく為の行為へと費やされていき、それ以外のことを抑々考える余裕等全く剥ぎ取られてしまうからである。

 

 

 

 だから選択肢を多くし過ぎることで精神も神経も過敏になっていくということなのだから、人間は都市部で通常の業務で生計を立てて生活してこうとするなら、やはりあらゆる選択肢を絞り込まなければ精神衛生的には良くないと言える。

 

 

 




 

 

 

 しかも都市部では自然は一部だし、尤も東京都は他県の都市部より、昔から都会の中のオアシス的な樹木等の生い茂った公園は多いけれど、要するに人の気配を感じずに一日過ごすことはできない。それは都市部では公園でも同様である。

 

 

 

 しかし地方部ではそうでなく、抑々人の気配が殆どなく全て自分だけでサヴァイヴァルをこなしていかなくてはならないので、次第に人間以外の事物、自然や動植物の方が人間の代わりという感情になっていく筈である。

 

 

 




 

 

 

 そういう自然界に接したエリアで暮らしていても、都市部で偏屈的に誰とも付き合わないという態度は不可能ではないが、都市部では固有の知人と親しく接しなくても収入さえあれば、全て一人でコインランドリーを使用したりすることで、他人と接することなく過ごすことは可能であるが、山間部、森林部、原野等で生活する場合には、自然自体を味方につけなければサヴァイヴァル自体が不可能なので、昨今キノコ採りに出かけて長野県を中心とする山間部でかなり大勢の老人が遭難しているけれど、その地に長く住む人は、そういう都市部から来たであろう様な自然への接し方を日頃から一切せず、絶対色々な意味で移動にしても何にしても無理をしないという風に心掛けているだろう。

 

 

 

 つまり、そういう風に気を遣うということが既に自然を都市部であるなら接する他者と同等の意味合いで把握している、ということなのである。

 

 

 




 

 

 

(つづき)

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月17日 (水)

僕が詩を書き続けている本当の理由

 僕は本当に辛いことは余り(と言うか、殆ど)誰にも相談しない。

 相談して解決の尽くことなんて、殆ど本当に辛いことではない、と考えているからでもある。

 寧ろ人に相談しても決して解決が尽かないと分かっていて、尚且つそのことにずっと耐え続けなければいけないし、それ以外に仕方のないことだけが本質的に辛いことである。

 それだけは知っているつもりである。

 

 従って、仮に細かく誰かにその辛かったことを告げることができたとして、或るタイプの人達は、それはどうということはないとしか思わないかも知れないし、逆によく分かると共感してくれる人にとっては、今度はそれはそういった人達が抱える辛さときっと同じ様に、それは話すだけ話して気持ちが楽になることかも知れないけれど、だからと言って解決には繋がらないことであることは、きっと多いに違いない。

 

 率直私は影響を受けたり、凄く素晴らしいと客観的に思えたりしてきた詩や多くの文学作品を読んできたけれど、心底感銘を受けたと言える作品はそう多くない、否一つもない、と言ってさえいい。

 

 だから、凄く大袈裟に言えば、そういうものを自分で書けないかと思って書き続けているということも言えるのだ。

 

 つまり、僕にとって詩とは説明して理解して貰えても、解決には繋がらないことを抱えて生きる辛さを知る人達にだけ向けて、書かれた言葉で、それを読む人が一時癒される、そういう言葉であるべきで、そういった人達へエールを送りたいという気持ちで自分も書いているのだ。

 この考えが的を射ている考えであるか否か、それを僕は判断することができないのだけれど、それだけが正直に言えることなのである。

 

 その点では中島義道や永井均といった哲学者達が哲学論文やエッセイで試みてきたことの方に近く、永井は『こどものための哲学』で説明されている様な、哲学とは悩みをすんなりと受け入れ、巧く生きていける様な人には必要のないものだという様なことを書いているけれど、そういうことを試みてきているのである。

 つまりどうしても納得し切れない、だから納得を容易にできる人に、哲学は必要のないものである様な意味で、きっと詩もそうではないか、という思いだけが私の中にあるのである。

 

 

 だから当然書かれてある作品の全てでそれが決して成功している訳ではないけれど、僕自身は若い頃、親も含めて年長者から受けた色々な心の傷、異性から受けた心の傷は生涯癒えることはない様に思えるので、そういった心的外傷(trauma)を自分なりに克服して強く生きていける様にしたいと願って、自己の精神を回復する意味合いでも、詩を書き続けているのである。

 勿論今述べたことは或る特定の辛かった出会いのことを指しているだけで、出会った年長者の全て、異性の全てがそうであった訳では勿論ない。

 しかし深く傷ついたことは圧倒的に若い頃の出会いに於いて多かったし、それは大半の人に人生にとってもそうであろう。

 

 つまり自らを自らで書く詩によって勇気づけ、生きていく気力を回復したいという思いが強いのである。

 

 私は若い頃多くのお世話になった年長者達が居て、大半は今は亡くなっている(存命か否か分からない人もいるし、生きている人も僅かには居る)けれど、その彼等彼女等からやはりかなり辛い仕打ちも同時に味わってきたので、その様な経験をする僕以外の人達も決して少なくないだろうという気持ちで、そういう人達のことを想定して、そういう人達へ向けてエールの言葉、励ましの言葉だけを送り続けたいという気持ちだけで詩を書き続けてきているのである。

 

 先ほども述べたが、私にとって心底胸を、心を打つ言葉を発してくれる詩は、かなり古今東西で知られ、余りに有名な偉大な詩人の詩では殆どないのである。つまりそういうものからは私にとって最も切実な何かとは伝わってこないのだ。

 率直それ程深い感銘を受けないのである。

 これはかなり正直な印象なのである。

 

 そして、権威づけられているものに感銘を受けなければいけないと信じている様な人(それは詩を書く人や、芸術や文学全般に関わる人でもかなり多い、としか思えない)に、本当に自分の気持ちに素直になって、そういう心を打つ作品との出会いなど、持てるだろうか、という訝しい思いは、凄くしているのである。

 

 ルターやカルヴァンやジョン・ノックス等の宗教改革者達に関心を持ち出したことも、そういった理由から、却って文藝的仕事である詩等より、そういった宗教活動に於いて得てきている言葉の方をより信じられるという気持ちもあったからであるが、実際人生の苦悩を経ていない人に、そういった仕事へ気持ちを向かわせることはできないだろうという確信だけは私にはあって、だから細かい教義とかの問題では素人である私にも、それら宗教書や神学書を読むことは決して無駄な事ではないという確信も持っているのである。

 

 抑々プロしか読んではいけない様な書かれてあることは、そんなに普遍的な価値があるとも思えない、という気持ちもあるのである。

 

 だから、本質的に私にとって詩を書き続けていこうと決意させている理由とは、真に人に感銘を与える言葉とは一体どういう言葉なのだろうか、という疑問と素朴に接してきているから、それだけの理由で、そういう言葉を一言でも書けないかという気持ちだけで詩を書いてきたし、これからも書いていくつもりだ、と言ってもいいのである。

 

 だから、詩とは私にとっては、理解するとか、意味が分かるということとは本質的に違う、その言葉に拠って辛い気持ちが癒され得るかということだけなのである。

 そして、正直に言えば、そういう言葉はどんなに有名な詩でも出会わなかったし、出会えそうにもないという気持ちは凄く強いのである。

 

 だから、私のこういう気持ちを、それは文学ではない、と言う人もきっと居るに違いないけれど、そう言われれば、私は何も私が求めている言葉は、文学でなくてさえいい、という気持ちもかなり強いのである。

 

 そして、だからこそ、そういう様な言葉だけが綴られた、そういう人に素直な癒しになる様な詩、と言うか、短文でも何でもいいから(形式的秩序とかとしてではなく)、そういうものを生涯に一作でも書きたいという気持ちだけを頼りに日々何かに向かっているのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月16日 (火)

創作メモ40

〇凄く平明な言葉で、且つ平明な世界の真理、というか、もの凄く自然で説得力ある言葉だけを並べて、人にうーんと唸らせること程難しいことはない。


 それは凄く当たり前なのに、当たり前と普段は気づかないし、世界全体がそういうことを当たり前と知らせない様にしているとしか思えない様な在り方自体に我々が翻弄されていることから、それを巧く解きほぐす様なそういう言葉の示し方だからこそ、凄く自然で説得力がある訳だから、それだけそういう易しい(易しいことは同時に優しいことでもあるのだけれど)言葉だけで示す詩は何時も書ける訳でない。


 寧ろ凄く思索的で、やはりかなり真剣に論理的にも倫理的にも一見して難解にしか読めない様な作品を一方で多数書くからこそ、その思索の疲れから必要性的要請で書きたくなる平明な言葉の作品が書けるのだから。

 


〇詩の言葉が伝えることは営業的な媚び諂いと権威への卑屈な従順さとは全く無縁の世界の行為である。


 そういう言葉は金を稼ぐために仕方なしにする社交辞令に過ぎない。

 だから完全にそういう言葉を生涯一度も使用せずに生涯過ごすことはきっと誰にもできないだろうが、少なくとも詩で伝える言葉で、そういう言葉を使っては絶対にいけない。

 それをするなら、詩と銘打つべきでないし、詩に関心を持つべきでもない。


 世界とはいつも我々自身による世界自体への接し方こそが我々へ窮屈に感じさせているに過ぎない。それ自体はそれ程窮屈である筈がない。


 だから権威への諂いや謙遜し過ぎであること、営業的な社交辞令等は常に最小限度に留めることをどんな場でも誰もが心掛けるべきであり、そうすれば、世界が或る種のステレオタイプ的な窮屈さから脱していけるに違いない。

 結局そういう心がけを持てるか、そういう心がけで何時も居られるかということだけが、創作を行い続けていく上で、惰性的な時間を少なくして、より充実した創造へと脳と心を向かわせていくのだ、ということだけは言える様に思われるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月15日 (月)

日記的記述GF 叙情(抒情)とは何か?文学の可能性は人生の可能性である/固有の空隙に就いて

 実は哲学は大学生時代からずっと読んでそれなりに自分のエキスにしてきたので、必然的にかなり長くなってきたし、中島義道氏主宰の哲学塾カントに通っていた時期からも既に10年以上経ったので、哲学的認識は一つの自分の思考方法の指針とはなっている。

 しかし哲学的思考は一つの順路であり、思考それ自体を支える構造への理解なので、それ自体は学術的な正統的な在り方であるだけで、創作的世界とは本質的に異なる。

 創作は学術的行為ともやはり違っていて、勿論そういった一つの学術的真理それ自体は必ず応用されているのだけれど、それだけではない何かが絶対必要で、それは間的なことではある。

 つまり精神の空隙の様なことが文学を我々に生み出させている。

 

 時間それ自体にも空隙はあるし、何かの為だけに奉仕させられている時間から解放されること、そこに何かある。

 

 空隙は当然空間的にも成立している。

 何かが建造されてある空間に対して庭や色々な(例えば電柱とか色々な)ものが空間に設置されてある、それらの間に感じられる距離や、そこには何も立てられていないということ、そこに何かがある。

 

 人の話しにも必ず息継ぎがあるが、その前に話していることが一旦中断され、ややあって違う話へと切り替えられていくその間に何かある。

 歌を歌っている時、前の歌詞の息継ぎの瞬間に、やはり一瞬必ず時間的な歩みの空隙があり、そこに何かが込められている。

 

 文学に叙情が成立し得るなら、やはりそこに何かある、と考えてよい。

 

 意味は必ず充実を志向する。何かを志向すること自体が一つの充実である。

 しかし何かをとりたてて志向しないことだってあり得る。つまりその一切取り立てて何かを志向しないということの在り方が示唆することとは、そこに何を誰もが意味を付与することも自由であり、その選択を相手に全て委ねる、だからそれは行為的ではない行為の在り方だし、能動的ではないけれど、受動的というのでもないいずれでもあり得るし、又いずれでもないとも言い得る、そういう合間の様なものは、空間的にも時間的にも全てで積極的でも消極的でもなくあり得るし、必要というのでも不要というのでもない次元なので、それはあたかも存在ということと近い何かが示されている。

 

 そもそも善とか悪とか、そういうことと、或いは充実と空白という様な二元性以外に、明らかにそういった価値判定とは次元を異にする一つの超越的な在り方はやはり「在り得る」。

 だからそれが空隙であり、又善悪や積極・消極を超越した時空の単元性とは異質の何かがある。

 

 文学の言葉は、やはりそこから例えば記述されてある語彙やその意味が齎されている。それは哲学ではないことである。

 哲学は他の全ての学術と同様、一つの語彙とその意味によって示されてある事だけであるし、又それ以上であっても余計なことであると言えるが、文学は寧ろ書かれてある語彙とその意味全ての間になる何かが最重要だし、そのことへの注目、着目無しに我々は一切文学であることを望む理由はない。

 

 でも、ではそれが何かと問われれば、そういう風に対象的に実体化し難いことである。

 つまり指示し得ることは所詮そう難しいことではないのだ、ということがここで言える。

 しかし、恐らくそれは何かが始まって、その何かが収束されていき、その後に又何かが始められる訳だが、その始まる前の予兆的な何かではあり得る。

 

 何かが始まることは一つの誕生であるが、何かが収束することは一つの決着であり、それまで行われた行為の死である。

 だから何かが始められる予兆を察知させる時間とか、何かが存在していることを示されてある空間が途切れていて、その先に又それまで存在していたことと異なる何かが控えてある、或いは臨めるということの持つ意味とは、やはり一つの存在の予感であり、時間的にも空間的にも一つの固有の緩みであり、固有の虚無である。

 しかし、これがなければ、例えば我々は一つの長文も読むことはできないだろう。

 つまり、そういう句読点的な間がなければ、我々は生命種として命脈を繋げていけないだろう。

 詩にはそれが要るし、小説にもそれが要る。

 

 と言うより私は既に詩と小説を分けて創作するという意識自体が消滅している。詩であるが、それは読み方によっては小説でもエッセイでもあり得る様な何かにしか一つの創作する意味を感じない。

 

 だからそこにもきっと一つの表現形式とそれとは違う表現形式との間の空隙の様なことが意識されてある。

 

 でも、その空隙の意味を知るには、自分は未だ存在の充実の方に加担し過ぎているという感じはある。

 だからそこから離脱していくには、やはり徹底的に一つの芯棒となり得るもの以外の全てを捨てていかなければいけない。

 この捨てるという作業が極めて意識的に必要である。

 

 しかし、待てよ、こうも言えるのではないか?

 

 つまり捨てることが必要なのは、何か充実を抑々求めてしまっているということがある訳だが、抑々そういった充実自体を最初から際立って求めないで居る、只そこに在る、つまり世界内存在として空間と時間の合間にふわっと佇んでいるというだけの存在の在り方を恣意的とか意図的ではなくしていられるなら、抑々捨てる必要さえない。

 しかし、その境地へ至るには、やはり自己の存在の仕方、時間との関わり方自体を再度、真剣に考え直してみる必要がある。

 それは言えていることである。

 

 つまり存在しているのだという存在自体の主張以前的な存在の中に非存在を介在させてある、それも自然とそうなっている様な在り方が、求められていると言うより、そうであるべきである様な自然な在り方がやはり「要る」。

 勿論その「要る」は名目的な行為とは異質の何かである。

 

 それは老荘思想的でもあり得るし、道元的でもあり得るし、西田幾多郎的で、在り得るけれど、そういう偉人に対する形容を持ち出す必要がない様な存在の存在仕方は、やはり決定的に在り得る。

 その決定的な在り方自体を主張の充実で示す様なことではない「かたち」での、有形的ではない、と言って無形を目指す様なことでもない、身体と精神の接合点が設定されてあるというのではない、自然と備えられてしまっている様な原因と結果が時系列的に設定されてある様なことでは本来ない様な息継ぎ的な在り方、それがやはり文学に必須の何かであり得る筈だが、それはその都度全く違うかたちで、定型的に示され得ることではないので、ちょっとうっかりしていると必ず見過ごしがちである様な事態なのである。

 

 だから、それこそが或いは、空間と時間との間に漂っている様な雰囲気で、存在なんか一切していない様にひっそりと在る、そういうことであろう。

 だから、それは一種の無の神であるかも知れない。

 しかし、それはそういう風に記して名指す様なことでも当然ないのだ。

 

 だからそこへ向かって意識と存在の旅を重ねるには、やはり今一度、充実と空虚の意味も熟考する必要はある。

 何故ならこの反復の様なものを経ていないで、いきなりその境地へ到達することは通常では、やはり不可能だと思われるからである。

 

 しかし、それが出来ているということは生命界的にも、人間界的にも在り得るだろう。つまりそういう存在が神がかっているということであろう。

 だから自分の様な存在は、それは志向すべきではない。そんなことは初めから不可能だと分かっている。

 

 だから死への察知だけがそれを私に可能にするだろうが、そうなる以前的に、死への準備は誰しも行うだろうけれど、その一つの布石としての「あわい」と言うか、要するに充実と空虚の反復と反芻を離脱してある様な形骸でも形骸でないことでもない別次元の空隙を得る為に、又果てしない私の創作の反復が、只私の前に、今準備され、用意され、待ち構えている、ということだけは言える様に今は思えるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月14日 (日)

日記的記述GE  変わっていくことと変わらない侭であることは何時の時代でも共存する/食べたくなるものに就いて他

 未来を占うことができる程自分が優れた知性と頭脳の人間だとも思わないけれど、自分が何とか時代全体の波に乗り遅れまいと、そういうことを考えることは自分にとっては少なくとも無意味ではないだろう、とだけ思うので、そういうことを少し書きたいのだけれど、今の世界は英国が数多くの植民地をアフリカ、中東、アジアに所有していた(主なものとしてはインド、香港がアジアではそうである)ことに起因して、しかも大英帝国の植民地であったことから独立していったアメリカをはじめ、カナダやオーストラリア、ニュージーランド等広大な面積を有す国の大半が英語圏ということで英語が世界スタンダード言語となって久しいし、そのことに今異議を唱えようとする民族は、自意識とプライドの高い中国人を除き(尤もビジネスに関わる中国人は英語も巧く操るけれど)そう多いとは言えない。


 でも日本人は長く畳の文化でやってきた民族なので、姿勢や体形はやはりコーカソイドの人達と違う。

 一部アスリートになっていく人達を除き(そういう人でさえ、特別の生まれつき突然変異的にそうである人以外は)、本当に胴長短足である。これは平均して白人とされる人達よりそうだ。

 様々な理由から長持ちする食べ物で生活してきたということもあって、必然的に消化する力が要るので大腸の長さは白人より長く、要するに腹が身体全体に占める体積と比例が大きい。


 対し白人はそこに関しては短く詰まっていて、足が長い。

 これは長く畳に直に座る習慣からもそうだし、明治期以降テーブルに椅子に腰かけて食す習慣が定着してきたと言っても高々150年の歴史しかないけれど、欧米の人達はそうではない。

 だから欧米流の酪農の歴史も浅いので、ラクトース分解等も日本人はし難い体質なので、牛乳も栄養価が高いから必要な飲料だけれど、お茶程多くの日本人が牛乳を消費するということ、やはりこれもアスリート達を除きないのではないだろうか?

 これは若い頃は欧米式の食事でも年齢を重ねると徐々にそうなっていくということはある。

 

 だから日本ではそうである様に、世界の何処の国でも植民地を多く持った宗主国である英国や戦争によって領土を拡張してきたアメリカの様な国のスタンダードで産業革命以降の資本主義経済全般をどの国も(一部統制経済的側面をずっと残した中国やロシア、或いは独裁的な王侯貴族の国家を除き)自由主義経済社会に同意しているから、その面では確かに世界がかなりグローバルに一つの船として航行しているかの如くではある。

 でも先程述べた様に日本人の生活習慣とか食習慣はかなり長い年月で培われきたので、その部分まで欧米化させていくことも不自然である様な意味で、世界のどこもそうだということから考えれば、世界はずっと変わらずに残す各国各民族に固有の文化や生活習慣と、世界共通の経済システムとが共存していくということで不動点を見出していると言える。


 さて食料の確保という事から言えば、動物性蛋白質も人類は必要であるが、やはり何と言っても植物が消滅すれば、地球上の動物は絶滅するだろうから、農業技術革新ということはいつの時代でも第一次産業的な重要性として減じるということはないだろう。

 でもそういう第一義的インフラである農業的生産体制とその為の技術の確保さえ前提されておれば、それ以外はやはり生活の余剰に関わることが世界的に(グローバルに)ニーズがあると言えて、それが例えばコンピュータを利用した統計的行為全般に渡す数値アウトプットの為のインフラ拡充ということが言える。


 しかし、この分野も既に産業ロボット等が進化を遂げ人間による頭脳より、ルティンワーク的にはAI全般の知性や処理スピードの方が格段に上なので、結局人間の役割はそれ等全般の管理ということとなっていくことはそうだろう。

 だから確かにそのAIその他コンピュータやビッグデータ管理に関わる知の部分、つまり新たなソフトやインフラの開発や発明が人間に求められているけれど、例えばプログラミング言語は、ひょっとしたらAI管理技術の前進によって、AI自体が人間が考え出すよりももっと優秀で誤差の少ないものを創っていく可能性はある。

 従ってそういうAIに委ねていい部分は全てAIに任せるということを前提に、それでも未だAIには任せられないことだけを人間に特化させるという方向へとどんどん移行してくだろう。

 

 翻訳ソフトは確かに進化を遂げているから、翻訳ソフト自体を持っていなくても、その知をパソコン利用者にダイレクトに提供する様に大手のポータルサイトビジネス自体が展開してくから、暗記も絶対必須でなく、基本的な言語のノウハウさえ把握しておれば、一々のことはその都度調べても何とかなるという時代にはなってきた。


 でも、そういうことと創造的な言葉を生み出すことはやはり人間に委ねられている気はする。


 小説や詩はやはり人がダイレクトに考えなければ本当に人間が読んでいいと思えるものはできない気はする。勿論部分的にはどんな作家も詩人もクリエイター全般は、例えば音楽家、作曲家がシンセサイザー等の機械を利用したり、コンピュータのソフトを利用して行ったりする様な意味で、各種のものを利用することはあり得るだろうけれど、人間の感情の細かいことや、合理的思考では推し量れない人間の感情全般に関する表現は、やはりダイレクトに作家、詩人、クリエイター全般の仕事であり続けるだろう。


 とりわけナンセンスやギャグ、ユーモア等のセンスは精確さを求められる様なこととは本質的に異なるので、やはりそれは最後まで人間の作業ということになるのではないだろうか?

 私は余りにも下らない破壊的な可笑しさだけが最後に人間にだけ残されるという予感がしているのだけれど、どうだろうか?

 それは凄く下劣なことも含めて、要するに不良的なことが、戦争等が人類から消滅していけばいく程残されていく、という感じはしている。

 それは勿論既に戦争が未だ終わっていない時代にも欧米のダダイスム等で実践されていたけれど、もっと過激にその下らなさが進化し続ける気がする(きっとこれは正しいと思う)。

 


 最初に日本固有の生活スタイルとか食生活に就いて少し述べたが、そこに戻ると、私はウォーキングを体調管理も兼ねた趣味にしていて、時々は少し高い山も登山しているのだけれど、かなり長時間続けて山道を歩き続けた後、晴天の日には明らかに昼食とか間食にはラーメンの(例えば担担麺の様な)メニューよりはうどんの方がいい。

 その理由は分からない。

 他のもっときつい肉体作業をした後はそういうこってりしたものの方がいいかも知れないけれど、徒歩に疲れている時にはうどんに柚子や山椒を振りかけて、或いはラーメン的なものでも和風、しかも麺つゆ、つけ麺的なものがいい。

 だから昼食に外食する時でもかつ丼の様なものを食べたい時は室内で頭を使った何か書いたりしていた時であり、外をウォーキングしている時はそうではない。

 これは自分の好みもあるし、科学的説明だけではないと思えるけれど、酸味のあるものの方がいいということからうどんとかつけ麺の様なものが食べたくなるということはあるかも知れない。


 魚が食べたい時もあるけれど、外食する時は余りその種のものは頼まない。

 又蕎麦の方が匂いがきついので、蕎麦が食べたい時は、もう少し神経自体が異様に疲れた時である様な感じが、私の場合にはする。


 勿論そういう時だってカレーライスでもいいし、拉麺でもいいのだけれど、不思議と普段はうどんの方をずっと食べているのだけれど、勿論そればかり続けて食べると飽きて違うものが食べたいということはあるけれど、肉体的疲労に蕎麦という感じでは、私はないのである。

 神経的疲れに蕎麦がいいというのは私には当て嵌まる。


 勿論パスタの方を食べたい時もあるし、パスタを食べている時は一緒にコーヒーを飲む。

 勿論コーヒーとお茶は自宅にいる時も最も多く飲む。

 

 どういう時に、どういうものを食べたくなり、どういう飲料を飲みたくなるかということは、個人差もあるだろうけれど、一般的な生理的欲求の傾向はあるだろう。つま疲労回復には瞬時にはヴィタミンが、もう少し長時間的な持久力には蛋白質、きつい仕事の前には脂肪分とか、そういうことはあり得るだろう。

 しかし、それが必ず厳密に法則的ではない、という所に人の身体が生理的なだけでなく神経的・精神的にも色々な選択をしている、と言うことができるのではないだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月13日 (土)

人生メモ・真実の生とは何かPart19/創作メモ39・研究メモNo5

世界に住む74億以上の全ての人の味方をすることはできない。又そうする必要はない。


 只凄く重要なことは味方になってくれそうな人は常に誰にとってもほんの一部だが、敵ではない人の数はかなり無数に多いということだ


 独裁国家の下で生活する人達はアフリカであれ中東であれ極東であれ中南米であれ、敵としてしか存在し得ない人達では決してない。

 だから敵の直ぐ近くに居るというだけで、彼等全ては味方ではなくても、敵でもないのであり、そういう人の数が一番多い

 



〇上記のことは自分の書く詩の理解者でも言える。本当の理解者は凄くいつも少ない。しかし理解者とまでは言えないけれど、私の詩作活動を阻止する訳ではない人の数は一番世界で多い。

 



詩作に於いて政治的・人倫思想的な批判や、特定の事件や事実に対する辛辣な攻撃的内容の詩も書くべきである。

 と言うより詩人は全て比喩にだけ明け暮れていればいいということは決してないばかりか、率直それでは駄目である暗喩だけに情熱を注いでも駄目であるだけでなく人間失格である。そんな生き方をするなら詩や哲学から離れ、会社員になるべきである。


 詩人は大いに政治的イデオロギーを持ち、批判し攻撃すべき相手へは妥協を許さない攻撃的スタンスを持ち続けていくべきである。


 それ無しには詩作等只の遊戯でしかないと言っていい。

 



〇重要なのは社会・国家・民族等の集団、集合体の全ては、要するに精神疾患者の巨大な病棟なのであり、病院というゲゼルシャフトは正に警察から大学組織から法治国家の全てで適用されていることだ。


 この観念はニーチェ発フーコー経由の思想である。


 感性のテロリストでなければ詩人なんて称する意味なんてない。


 全てをひっくり返し、価値を転倒させないのであれば、教育指導要領に従って教諭にでもなった方がいい。

 率直言葉は人を殺せる道具である

 その認識のない者に言葉で表現する資格なんてない。

 


 他方毒にも薬にもならないありきたりの言葉も、それ自体は人を殺すことはない。しかしそういう文だけ作成する人類の全ては率直全ての闘争に参加を一切しないことだけを決め込み、世界の闘争による犠牲者の命には一切無責任、不干渉を決め込んでいる段で、既にあらゆる殺人者達に同意しているのだ。

 その点では極東のどこかの国の大半の国民が罪人である、ということは事実以外ではない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月12日 (金)

日本人として世界を考えるところからしか常に出発できない自分であることと世界に就いて

人は生まれてきた時に何処の国で生まれるか自分では選べない。

文化や習慣は世界全体の動向をどうこうするという様なものではない。

でも、その逐一が人の生活で憩いや親しみや気安さを作っているので、本質的世界への参与とは別に或る特定の国に生まれて生活していることは、どうでもいいことでは決してない。

 

日本とは血脈や自由を絶対的に尊崇する文化ではない。

血脈は国体の象徴たる天皇制だけで、それ以外はそうでない。

だから、個が血脈で争うことはない。

韓国の歴史はそうでなかった。だから身分制度も血脈も一体化していて、全てが祖先への信頼へと帰着する。

日本では祖先尊崇は個人的なことでしかなく、常に横の関係を重んじてきた。

だから精神は社会主義的で、自由が最大価値ではない。

 

祖先をよく知らないし、知ろうとしないのは、個より集団的調和を重んじてきたからだけれど、個そのものの幸福を真剣に考え無過ぎるのが日本人の性格だ。

アメリカ人も韓国人もその点は違うし、中国人もフィリピン人もインドネシア人も違う。

だから、日本人の個とは世界のどこからも理解し難いところがある。

それは自分を極力抑えることだからだ。

 

でも、だからと言って全く自由を求めていない訳じゃない。

 

理念も思想も正義もよく分かる。

でも、その表し方は何処の国とも日本人は違う。

そして、論理的にも倫理的にも、世界標準が正しいと信じ、その考えに沿って仕事しても、それとは別に常に日本に生まれた自分の固有の性格だけは残される。常に、世界的標準や客観や真理とは別のこととして。

 

それは、だから無理に前に押し出す性格のものでなく、あくまで何か理念や思想や正義への考えに拠ってし続ける中で滲み出てくるものである。

 

それを世界を視野に入れていた過去の全ての日本人も感じただろう。

日本語の言葉、それは論理的にも難しい。

それは例えばずっと英語の方が簡単だということではない。

難しさの質が違う。

でも、それは一体何だろう?

それを一言で説明できるなら、それは全く難しいことではない。

日本語も英語同様、否他の全ての言語同様、余りにも難しい。

だからその日本語の言葉自体に拘るなら、即座に結論を出さずに、生涯ゆっくりとそのことだけ考え続けるしかない。

 

そして、それは日本人の沈黙や言葉化させ過ぎない配慮ときっと関係ある。

楽しさや悲しさの示し方は国によって違う。

感情の表し方もだ。

 

でも、それも自分から自分を知る事が、人から自分がどう知られているかと全くずれている事とも関係している。

自分で凄く違うと思っていることが、自分以外の人から見たら似ていることもあるし、その逆も真だ。

 

だから言葉自体の研究だって、哲学的認識が要る。

そして、その両方からの鬩ぎ合いからしか、きっと日本文化や日本語の言葉の本質は見えてはこないだろうし、それを把握しながらでない限り、私の英語の旅の意味や、その向かう先に就いても、終ぞ理解はできないのだろう。

 

人からしか分からない自分、自分からしか見えない他人や世界。

この二つだけが常にキーである様な旅、それだけが生きるということかも知れない。

そして、その生きることそのことは、日本人であるとかそうでないとかとは関係ないもっと本質的なことだろう。

でも、その本質的なこととは、やはり本質的でないけれど、かなり厄介で死ぬ迄自分から離れはしないし、自分もそこから離れられない何かともやはり凄く密接に関わっているのだ。

 

そして、そのことへ常に覚醒していることだけが、自分にきっといい作業を常に用意してくれている、とだけは今も明確に分かる。

だから、それだけを手掛かりに死ぬ迄何かし続けるしかない。

 

2018. 10. 12

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月11日 (木)

世界の真理Part103

〇人間は凄く身近にある人、それが両親であれ他人であれ、会社等に務めている場合では同僚や上司や部下であれ、そういう人達から日頃習慣的に得ている影響、例えば喋り方等が知らず知らずに影響を受けてしまう(早口の親友から移ってしまう様な喋り方とか)ことはあるけれど、本質的な影響はそういう身近なことからは受けないものである。



 つまり却って余り日頃は身近に自己の周辺に確かめられない、もっと抽象的存在とか、もう少し難しく言えば形而上学的な存在から精神的には影響を受けるものである。

 つまり人とは、身近ではない接近不可能性を感慨としてその対象へ抱かざるを得ない様な対象に対してこそ、精神的影響を受けるものなのである。



 だから、それはかなり間接的な遠い存在への尊崇から得る自己内在的な啓発、それがかなり運命的に自己の意識の在り方をその出会いの後に変えていく様なものなら回心と呼ぶに相応しい精神的体験である。



 それは日頃の習慣的な影響、癖等の影響とは本質的に異なることなのだ。

 そして、それはさして教養とか、学識の有無とかと関係なくそうである。



 だから人間はやはり多く知識があることや、そういった素養だけで他からの影響を決定しているのではない、ということは真である。

 





〇広く言えば、言葉や論理の人間は(少なくとも、それを仕事として命を賭けている者なら)音楽の人間と同じで、要するにこの部類の人間とは、精神と思索の人であり、それは基本的に内在的(immanent)というわけだ。

 

 対しアートの人間は神経と知覚の人で、それは意外とかなりスポーツアスリート達の方に近い。



 ゲームも意外とアートやスポーツに近い。でもゲームにも言葉や論理的な感性は凄く必要だし、数学も前者の言葉や論理にもかなり重なるけれど、同時に神経と知覚の総動員的要素も強いし、幾何学ではアート的感性も動員されるから、この二つは特に秀でて両義的だ、と言えるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月10日 (水)

巨大な機構という体裁の安全装置としての鳥籠の中の鳥達 Part1 国家や民族という病院の病人達①

病院は一種の巨大な機構である。

それは厳密に臓器毎に細分化された医療利便性システムである。

外因性、内因性、心因性と全てを明確に区切っている。

 

医療自体が一種の強烈に人の命を個別性より、一般性の名の下に雁字搦めにする巨大な鳥籠である。

それはそこからは一切出られず、生涯その医療で延命され、且つそこで死んでいく鳥籠である。

 

国家自体が一種の巨大な病院である。

それは一見自由の名の下に、国家統制の下であらゆるその中で蠢く個を縛り上げていく安全装置の体裁をとった鳥籠であり、その縛りと保障の全てが一種の巨大な身体的精神的病の籠である。

 

人の命への扱いはややもするとスライド式に誕生した瞬間から死ぬ瞬間まで、医療サーヴィスという名の鳥籠に支配され、制御され、投獄され幽閉されている。

国民や国民意識はそういった巨大な機構である鳥籠への監禁以外の何ものでもなく、自由とはその中で限定的に与えられる息抜きでしかない。

 

経済活動の自由の保証で生み出される格差を是正する目的で福祉が設定され、経済活動を円滑に図る為に法律が設定され、その法律の網の目をくぐろうとするのは民間企業も国立や公立の機関も全く同じである。

 

人は皆楽をしたいからこそ、分業している。

楽をすることが、楽を自分以外の全ての個にさせるという題目であらゆる職業が分担され設定されている。

しかし、その楽をすることが全体的連動を滞りなくさせられることへだけ供せられる時、屡々多くの個人的差異は無視され、歯車の中に放り込まれた潤滑剤の様な役割だけを各個へ与える。それが巨大な機構のできる唯一のサーヴィスである。

 

サーヴィスはサーヴィスを享受する者の断る自由も意外と容易に踏み躙る。

それが福祉や社会制度や法律に固有の縛りなのだ。

だから、民族も、あらゆる共同体も、あらゆる連盟や協会も全てが一種の病院の様なものである。

只或る病院に通院し入院する習慣がある場合には、他の病院では居心地が悪いと感じらせられているだけである。

でも、だからと言ってその大きな病院から完全に退院し、自己の生涯を一生それらと無縁で過ごせる者は一人も居ない。

 

だから鳥籠ということに慣れ、憩うしか道を持たないのが人類の生の性格的事実である。

鳥籠は時々違う鳥籠へ鳥を移りたくさせてしまうこともあるが、籠を変えたとしても、依然籠の中に閉じ込められ続けることに変わりはない。

只少しだけそこから覗ける風景が違う、というだけのことである。

 

でも鳥籠の鳥達はいつしか大空へ羽搏こうという意欲を剥奪され、その気さえなくなってしまっているのである。

でも、それに嘆くという事自体を既に全ての鳥達が忘れている。

そうやって老いにとって最も都合のいい墓場への人達全員を持って行く建前が用意されていく、という訳なのだ。


 

病院という機構で治療を受けた患者達は、何事もなかったかの様に再び一般社会という病院へ送り出され、国家や民族が与える固有の幻想の中だけを泳ぎ回る。

 

その事実の前では平和な国家も戦争に明け暮れる国家も変わりはない。

 

でも、その国家や民族が見させられている夢が、どれ程真実であるかなんて、どんな患者も、どんな医師さえも、全く真偽も是非も減ったくれもなく、只管それだけが正しいと信じ込まされているだけだ。

 

 

 

そして、その巨大な病院が全部の患者に、その病院だけが最も寛げ平和で幸福であると吹聴するのが、メディアで、メディアが流すニュースでは如何なる他の巨大な鳥籠である国家=病院が、如何に劣悪であるかの如く全ての患者に幻想させる。

 

そして、それだけが正しいとどの巨大な鳥籠である病院の中の患者である鳥達も、それだけを手掛かりに幸福や価値の基準を見出しているけれど、本当にどれが一番正しいかなんて、どの巨大な鳥籠である病院の患者である鳥達は未来永劫知る事は出来ない。

 

 

 

何故なら、常に生まれてから成長し、死ぬ迄に閉じ込められている巨大な鳥籠という病院を変えることができないからである。

 

 

 

だから、必然的に生まれてくるという事自体が既に成長して死ぬための準備でしかない様に全ての患者である鳥達は宿命づけられているのである。

 

その事に於いて地位や資産等の有無や格差なんて、大した事実ではない。

 

そして、その大差ない鳥籠の鳥である患者達は、その診察室の外に設置されている待合室で只死ぬ迄、自分と同じく通院してくる他所の患者と談話し続けるだけである。

 

それが学校でも会社でも、共同墓地でも、全く変わりない、どの巨大な鳥籠の病院でも同じ事実なのである。

 

 

 

 

(つづき)

2018. 10. 10

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月 9日 (火)

Nameless-value流実践術/人生の可能性の追求に就いて

〇会社の昼休みに、かなり忙しい時とかに、一人だけか若い社員が代表して弁当や飲み物を買いに行き、少しでも彼や彼女がその買い物から帰る迄PCや書類に目を通しておく様な時、若い社員が同じ部署の面子にそれぞれ「海苔巻き弁当と鮭弁当とどちらがいいですか?」と聞かれて、どちらかを返答するのでなく、「どちらでもいいよ。売り切れていない方でいいよ、それも駄目だったら違うのを君の判断で選んでよ。」と返答する方が、出会いとか、どんな弁当が来るか分からないから、来た時の愉しみも出来るし、ワクワク感はあるからいい。

 つまり、そういう風に予め選ぶものを決め過ぎないで、どちらでもいいという風にすることで、偶然的出会いのときめきが持てるということはある。

 人は概ね人生ではできることも限られているし、仕事的には皆それを選んで社会へ対峙している。だからそういうきちんと決めなければいけないこと以外は出来るだけ、厳密に好みとか時々のチョイスをどれでもいい、という風にしておくと、思いも拠らない出会いが、そこで作られるということはある。

 つまり予め概ね人生の方向性を決めてしまっている場合は、そういう風にそれ以外の全てを成り行き任せにした方が豊かな人生を送れるということは、あり得る。

 

〇趣味とか、息抜きはいつも決まったことばかりするのではなく、金が少し余裕がある時には、思い切って少し贅沢なことを試みのもいい。レストランでの食事もそうだし、競馬や競輪にでかけるというのもいい。

 要するに全てをけちけちしているとやはり人生は面白くない。だから凄くけちけちして研究でも事業でも自分でする仕事に全てを賭けて、休みも充分取ったとしても、それだけでなく、時々凄くリッチに過ごす時間をレジャー的に(娯楽的に)持つということが凄く人生では重要である。

 文学史跡巡りでもいいし、中華料理の名店巡りでもいい。

 率直文学のエキスは、哲学や神学と違って、そういう所にこそあり、一流とか二流とかに関する査定でも、人が言うから、相場的にそこが名所とか名店とされるということ以上に自分で穴場的に発見することの方が人生を創造的に豊かにすると言える。

 要するに少し学術的に難しく言うと可塑性のある人生の時間の過ごし方、それが創造的に選択することを可能にしている、と言える。ぎすぎす世間的評定だけを気にして恥ずかしくない様にしたいなどと思わない人生こそ有意義な時間の過ごし方をしている人生と言えるのではないだろうか?


付記 何か一つに固定化された方向ではなく、臨機応変にその時々の必要性とその資源を利用して巧く対応し、その時々で最大限の効果を上げる生理学的且つ自然選択的でもある自然の(人間なら身体とか精神<脳他>の)作用のことを可塑性(plasticity)と言う。それは人生の時間のflexibleな使い方でも応用できる理論である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月 8日 (月)

Nameless-value流実践術/サヴァイヴァルの為のブレイントレーニングに就いて

〇世界からひょっとしたら公認会計士等の仕事は消滅するかも知れない。となれば、一体どういった心掛けで人類は生活していけばいいだろうか?

 生半可な全体的認識、つまりトータルにものを見て、把握する能力なんてこれからの人類には殆ど要求されない。

 寧ろそんなもの付け焼刃的なことでしかないとしか思われない。

 つまりもっと簡単に言えば、あらゆる意味で世界がブラックボックスに包まれていると知っている事の方がずっと重要である。知ったかぶりも全く無駄な心の作業である。

 必要なことは常に微視的視野だけ持つ様に心掛けることである。

 微視的世界、つまり極めて絞り込んだ部分の世界からしか見えてこないことでしか世界を制覇することはできない。

 何故なら極めて絞り込んだ狭い範囲のことでしか世界を股にかけて、グローバルに人同士のネットワーク等作ることはできないからである。

 微視的視野へ常に何かを発見する力だけが今後の世界で生き抜く(どんな専門の世界であれ)唯一の心がけである。

 

AIや仮想通貨経済社会が我々に齎す命題は、要するにどうやってそれら全ての現代世界のインフラではできないこと、つまり優秀な頭脳を持ったAIや益々ベーシックインカム等によって統制的に一定の収入生活へと管理統制されていく時代の中で生き抜く為の最大の心がけが上記の様な態度であることは間違いないけれど、最終的にコンピュータ的知性ではやはり未だできない(恐らく今後もかなり長く最先端は人間本体に委ねられることとして)ことは、生物学(進化、形態、発生等々)、医学・生理学等の分野、そして人の心に関わる宗教や倫理への問い、神学等の体系的な学術、文献学等、そして何よりアートや音楽や文学である。

 これ等は今後も永遠に現代社会インフラの最先端の利便性を提供する頭脳でも到達し得ない世界であり続けるに違いない。

 

〇従って上記の分野の横断的な関係で生み出される何かが常に注目を集めていくことも容易に想像される。

 当然ここでも極めて世界への見方、凄く絞り込んだ限定的範囲の徹底観察的なことだけが何かを開示していくものと思われる。

 つまりその微視的なる視点設定と、その持続に絶えられない者は容易にAIや仮想通貨に管理される社会で目標を見失っていくと考えられるのである。

 点的な関心と興味を自然に、ではなく、寧ろかなり意図的に見出し設定していくこと、それはかなり熾烈な関心や興味のリストラを要す。

 つまり絞り込む事は絞り込まれたこと以外の一切を無視し、関心を抱かず、興味を持たないことなのである。

 だから、それは意識的な態度設定であり、その削ぎ落された世界でしか一切見えてこない事の発見だけが、唯一ユニヴァーサルでグローバルな何かである、とだけは今現時点でも断言出来る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月 7日 (日)

世界の真理Part102 基本的発想の転換の時代から読めば

〇世界的規模で人類全体がどうサヴァイヴァルしていくかは幾つかの基本的な発想転換を要す。

 一つは定住システムと定住者を統括する政治統制システムだけが最適だとされた時代が徐々に一年中移動し続け、一定の住所を持たない市民の方がマジョリティになっていくということは考えられる。

 もしこのシステムが定着すれば、国境の壁も次第に希薄化し、言語的にもクリオール、ピジン化した言語が多数存在し、各人が三つ以上の言語を幼い時期から全世界的に習得する時代となるだろう。

 この移動自体が一つのビジネスであり仕事化すれば、必然的に経済システム的にも所有という形態が個人の所有の大小による競争の勝者と敗者という事態自体が希薄となっていくだろう。

 つまりかつて『イマジン』でジョン・レノンが歌った様に所有ということに各個人が余り大きな価値を見出さない時代になるのだ。

 代わりに何が採用されるかと言うと必然的に共有である。

 仮に所有するとしても、全てが一時的なもので、容易に人へ手渡したり、人から得たりということの方が普通となっていくだろう。何十年も同じ地位に留まるという事自体もどんな組織や集団でも少なくなるだろう。

 

〇ヒューマンネットに於ける信用が移動とそれに伴う仕事内容だけで判断されれば、次第に所有財産自体への価値査定で人個人の能力や信用が図られる時代自体が徐々に消滅していくに違いない。

 価値の共有が第一であるなら、全ての権威があらゆる意味でその個人のその地位を失いたくない、価値を変えたくない一つの執着以外ではないということとなり、必然的に常に変わり続ける価値の移行と、それを注視し、常に先を読む力の方が重視される様になるだろう。

 事実我々が日頃から慣用し続けている言語も、どんな言語でもどんどん変わりつつある。

 その変わっていく過程に一体どんな語彙や言い回しや文法上の規約が変わらずに残り、逆にどんなそれ等の一部が長く使用されてきたにも関わらず消滅していくか、又どういうタイプの新しい、それ迄になかったことが必須となり加算されていくかということへの注視と、分析や解析が重要となっていくだろう。

 蓄財とか、収集ということの価値が、旧態依然の社会システムより重視されなくなってくるということも考えられる。

 

〇上記全ての社会システムに於いては、究極的には資本主義でも共産主義でもない形の経済学的システムが形成されていくこととなる。

 計画経済ではない共有システムが確立されれば、必然的に競争の価値自体が多くの財産を所有し運用することから次第に、如何に分配し、シェアし得るかの能力の方へ移行し、全世界的にこの移動ゲームに参加するプレイヤーに全世界の市民が位置付けられる。

 かつてザメンホフが考えたエスペラント語は実用へは至らなかった。

 しかし実際世界史では学名はラテン語、ビジネスは英語という風に確定的になっているけれど、それでも尚、分野的にはそれぞれ違う言語が多く適用される例は数多存在し得る。

 だから会社や各組織毎に暗号化された固有の言語を使用する様になるという世界像も考えられるが、それよりはやはり先程も述べた様に競争論理自体が変わっていくのなら、全ての日常会話でなくても、仕事上での、或いはビジネス上での世界共通言語が形成され、それさえ使えれば世界のどの箇所とも交信も出来れば、意志疎通を世界のどこからも可能であるという状態が全世界市民へと共有される様になるだろう。

 仮想通貨も多種のものが作られていくだろうが、或る時期迄来れば、進化の原理によって一定の数へと収斂されていくだろう。そして、やがて一度は全世界で統一される時代も到来し、再度そこから分裂し、という繰り返しは為されていくだろうとは容易に想像できる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月 6日 (土)

現代グローバル社会は基本的に全く記号的であるが、かなりの部分ロゴス主義的で、それは既に暗黙のキリスト教植民地主義への世界市民の同意であるPart1

 お笑い番組は、或る意味でかなり特殊な現代社会の様相を縮約させて見せてくれる。何故か?それはあらゆるノスタルジーを入り込ませる隙がお笑いにはないからである。



 従ってバカリズムの冴え渡ったブラックパロディの世界も、東京03の極め付けの論理矛盾を来たしている我々現代日本人の日常生活の慣習的世界へのアイロニカルな提示も、全て一切の虚飾をはぎ取られた形でだけ示されている。

 当然のことながら、それは80年代のお笑いブーム、漫才ブームでまずツービート、そのたけしのネタによって開示された芸世界である。

 さしもの大田光は自分がたけしの芸風と発想のコピーだとたけしの本のあとがきで言い切っている。



 でもあの時代と今の時代に決定的な相違があるとすれば、それはずばり或る時代(大坂万博を境とした70年代)にコント55号の萩本欣一のコントネタによって開示された世界もそうだったし、ドリフターズが示した大仕掛けの舞台装置の駆使によって笑いを誘う茶の間の憩いのひと時の憂さ晴らしを彼等一部の天才達だけが担った様な意味で、歌の世界では美空ひばりが、映画の世界では市川雷蔵や勝新太郎、船越英二、高倉健といった人達が担った様な国民的エリート的存在、つまりシンボル的意味合いと、現代の天才達の立ち位置が明確に、彼等内部のモティヴェーション的意味でも違っている、彼等は既にそういった時代のカリスマとかシンボル自体を一切信用していない世代である、ということである。



 何故そうであるか?

 その答えは明瞭である。

 全ての市民は世界的規模で、ワールドワイドにグローバルに均質化していく世界を暗に誰しもが望んでいるからである。



 従ってアイロニカルに言葉の世界の完全なる挑発的ギャグと毒舌批評的言辞へと絞り込んで、一切のお笑い演芸世界のノスタルジーを破壊したビートたけしこそ最後のシンボルであるカリスマであり、それ以後の全ての天才達、とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンは完全にシンボルとかカリスマということを如何に視聴率を稼ぎ出し大金を稼いだとしても、基本的に一切認めない時代の人達だ、ということである。



 さてそういう現代社会は、世界的規模でAIとビッグデータシステムと新しいシステムのコンピュータとあらゆる多種のプログラミング言語と、仮想通貨が世界全体をあらゆる生活の局面迄変えていきつつある時代にあり、それは率直完全にアジア的幻想やら、伝統的部族社会由来のあらゆる迷信世界を排除する方向にだけ世界が舵を切り始めたことを意味する。



 従ってアンジャッシュ、バカリズムや東京03、ロバートといった人達の芸の中に日本的なる伝統的所作や民族史的コードを見出すことに意味はない。

 何故なら彼等のお笑いは既に完全にお笑いそのものの持つ唯一のロジックを前面に出すという戦略に乗っているからである。



 その意味で世界は益々キリスト教宗教改革(Protestant Reformation)以降のあらゆる意味での剥ぎ取り作用と改革的四捨五入、つまりルター、カルヴァン、ジョン・ノックス、オリヴァー・クロムウェル等に拠ってアングロアメリカやジャマイカが形成され、世界構造が徐々に中国を除き、完全に一色に染め上げられていくプロセスとしてのみ世界は把握し得る時代へと突入していったそのプロセスを丸ごと認めている主義の表現者の時代に完全になった、ということである。

 

 ちなみにロシアは確かに今中国と共同戦略的態度にあるけれど、基本的に彼等の持つ発想は一度完全な共産主義に移行し、更にそれを覆したペレストロイカ以降の思想は、決して中国型の共産主義を理想とするものでなかった。

 何故ならプーチンの敷いた路線とは、あくまで世界の中でロシアを優位な場所へ立たせる為のストラテジーであるだけで、その独裁は中国の様な完全な国家統制的国土、つまり土地所有を認めない国有財産制的性質へ未来永劫完全に収斂させる様なものを志向するには、余りにも欧州的性格の国民性だからである。

 ロシアの言語には既に共産主義の国有財産制的なイデアを自然にする様な形での未来を約束させる様な趣きはない。



 率直対立しこそすれ、アメリカに最も近い風土の国はロシアである。英語とロシア語にも様々な共通性はあるし、一神教であるという意味で英ロ二語ともやはり意識レヴェルでは姻戚関係にある言語は(語族的にはまるで異なっていても尚、意識的な使用の仕方では)アラビア語がこの二語と最も接近している(英語の類にはラテン語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語も入っている)。

 多少時間はかかるだろうが、恐らくイランが周辺の対立国と懐柔的姿勢になるよりは早く米ロは徐々に接近していくに違いない。

 

 従って世界は中国を軸としたアフリカ諸国のアメリカ離れと中国への接近と、中国的独裁を模倣してきている北朝鮮等の国家群と概ねアメリカナイズされた自由主義経済社会の倫理の踏襲国家群との二極分離へと直進し始めている。

 しかし恐らく中国側の完全勝利にだけはなるまい。

 何故なら既に中国自体がバイドゥ等もそうであるけれど、アメリカ式のロゴス主義、つまり言語的解析的ノウハウを全てのビジネスに応用し展開してきているからである。

 対しアメリカの方がそういった中国方式を採用する様な事は一切ない。

 

 世界は益々聖書主義的世界観へと染め上げられていくだろう。

 だから東京03やロバート等の芸風に日本戦後の茶の間の憩いの様なものを見出すことはできないし、それを既に国民の大半が望んでいない様に、そしてその日本の国体の体裁的形式と、自由主義陣営的なモラルや商行為的な鉄則は益々アジア固有の共同体性から離反していっている。

 つまり言語ですら、異常に現代世相を反映する形で営まれている日本語では、既に有職故実的な意味合いが益々剥ぎ取られてきている。



 だから日本語もハングルも(恐らくいずれ中国も)この自由主義的発想の世相反映的な表層を装い、その実一切本質的には先祖返りさせない様な配慮のアイロニカルな(正に東京03のコントのネタ台本に見られるロジカルゲーム的な)ロゴス、つまり実体と符号や記号の完全な癒着関係を拒否した、ロジックそのものの自立と、実在自然世界と記号との乖離自体を一切問題としない、醒めた言及主義、言ってみれば分析哲学や論理学メソッドに近い在り方のコミュニケーションの方を自然に感じるという人達だけを相手にした芸が展開されていく様に私には未来展望できるのだ。

 勿論それはたまたまお笑いに話を絞ってみただけであり、市民全体がどの個も個人主義だけを信用する語と意味や概念を単純に教条で(つまり先達の言われた通りに)踏襲する事を拒絶することが日常茶飯となっていくということである。



 つまり叙情や懐古趣味的なことは既にビートたけし世代が担い、今全盛期にあるお笑い芸人の彼等は益々キリスト教プロテスタント主導の暗黙の倫理、コンプライアンスから何から何まで、そのグローバルなコモンセンスの方を選択するという方向性へと舵を完全に切っていると思われるのである。

 それは誰もが古代自然発生的社会主義共同体的な会話や対話の仕方ではない、論理と理屈と証明的手腕で他者を説得するビジネス中心主義的世界へと日常生活から、AI他の現代社会全体のインフラ進化が我々に好むと好まざるとに関わらず、そちらへのみ収斂させる方向へ動く世界の様相を現代世界市民全体が同意しつつある様に思われるのである。



 (つづき)

 



 付記 現代の言語行為は、それが何を示すかより、どう示すか、何故示すかの方向へと完全に志向しつつあり、しかもそれは何を生業にするかということさえ、それ迄のイメージ、つまり或る職業に付帯する常識自体を常にひっくり返すことだけがメインストリームとなっていく様な社会全体の常時変化し続けだけする様相へと益々固定化し、時々確かに世相的に懐古趣味は出現することはあっても、そういった全てを意外といつも早期に収束させていく様な社会になりつつある様に思えるのだ。そのことを如実に示すものとして、ドラマや映画ではなくお笑い芸全体の意識の在り方と動向が我々に垣間見られる様に私には感じられるのである。



 一対一対応的な意味の照合の時代は終わった。一対複数対応、複数対複数対応の複雑な論理式的コミュニケーションの時代へと突入した、と言っていいのである。

 だから何を説明しても解析しても一言で要約することの不可能性に全市民が(一部エリートやインテリだけでなく)覚醒し、あらゆる安易な啓蒙を許さない全市民の説明不可的リアリティの共有と矛盾的共存を自然化させる時代に入ったと思う。

 次回はJ-popシーンから考えてみる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月 5日 (金)

Nameless-value流実践術 人間の個人なんて所詮自分で責任を取れる範囲等限られている/文学は寧ろ悪人に向いている

状況に応じてどんどん戦略を変えていかざるを得ない様な時代である。

 先月28日にインドネシアでM7.5度の地震もあったし、今日も又北海道で地震が起きた。M5程度だと言う。

 しかしこの様な常に不測の事態が勃発することが頻繁な時代は世界的規模で、自然災害の危険性と隣り合わせであることを証明しているのだから、我々は常に長期的計画とか展望を持つことは依然重要であるし、それはそれで行っていくべきであるが、同時に常に不測の事態へ対処する、その際に潔く方向転換を出来る様な或る種の即座の機転を利かせた判断が極めて日常生活上重要となってきている、と言える。

 方針転換を或る時突然出来る、そういった心構えを常に携えておくことが全ての個人に求められている。

 これは登山をする人がかなり頂上近く迄登った時も、頂上をそれ以上目指すことを突如中断して、即座に下山すべき天候の急激な変化への対応等でも言えることである。

 その様な即座の機転を利かせて方針転換と計画変更を可能にする為に最も我々に求められていることとは、日頃からかなり自分でできることを絞り込むことである。つまり余りに広範囲に分散してしまう関心の傾向を幾つかの自分にとってもっとも大切なものにだけ収斂させ、絞り込んで、それ以外をあっさりと捨て去ることなのである

 つまり人は何かを潔く諦め捨てる事によって初めて、却って多様な展開を持つことができる何らかの方法論や日頃の仕事に関する態度や主義を持てるのだ。

 何もかも未練あるものを諦められない者は生涯何も得ることは出来ない。

 何故なら、やはり決定的に人一人が責任の持てる事等限られているからである。つまり人はどんな個人も限定的な能力の行使によってしか、真に深く真理に到達することができない様に作られていると言ってもいい。

 



〇上記のことを実現させる為に求められていることは、自分の生まれた時代やエリア等といった一つの決定的に自分に与えられた条件を無視するな、ということである。

 まず人は自分が生まれた時に与えられた性や生まれた場所や育った場所を変えることはできない様に、当然生まれた時代を変更することもできない

 何故そうであるかは神に聴くしかないけれど、事実そうである。つまり自分より早く生まれてきている人の考え方や感性と、自分より後に生まれ北人の考え方や感性から刺激を受けることは多いけれど、それ等全てを鵜呑みにすることは出来ないし、それは全く意味はない

 だからそういった一々の他者の考え方や感性に動じない様な態度を常に保ち続けられれば、我々はいつも冷静に他者全般を観察出来るし、分析し自分の今後に役立てることは可能だ

 つまり年長者や年少者全般を具に見極めることで、自分にだけ与えられた使命の様なものを理解することが逆に出来るのだ。

 自分と異なった資質や能力の持ち主に大勢囲まれて生きるということが我々全ての個の生涯逃れることのできない運命の様なものである。

 だからこそ自分にしか出来ないことを発見出来るのだ。

 


文学は世間一般の常識で生きていこうと考えている人には向いている様な作業ではないし、そもそも時間給的仕事でもない。従ってそれを読む趣味にだけにとどめておく事もいい選択だが、もし文学創造をしたいと思っているなら、常識の範囲内で生きていくことを断念した方がいいが、それが出来ないと言うなら、もう文学創造等全くしない方がいい

 人は世間一般の常識にだけ従って生きていこうと決意したとしても、どうしてもそういう規約だけで生きていける訳ではないと誰もが気付くのだが、文学はその何となくしっくりこない社会と自分自身の心との間の、それは自分にだけ適用できることではなく、自分以外の周囲の、或いはよく知る他者全般の生き方を見ていても気づくことだが、その間にある矛盾の様なものを察知する能力が在れば、その段階で或る程度文学全般へ関心を持っていくことは約束されていると言ってもいいけれど、そういう才能が仮に備わっていたとしても、それはやはりかなり限定的なことでしかない。それだけで文学者になれるなら、やはりそれは趣味のレヴェルでしかない。

 だから敢えて言えば真実の文学の創造とは、どういう傾向の作品を創作するか、と言うこと以前に、まずどういう生き方ができるかという決意の問題と、現実にそういう枠の中だけで考えるのではない生き方を実現できるかというレヴェルに於いてこそ問われるべきことだ、ということだ。

 だからどう生きていくべきかを既にそれは無理だと諦めてしまったレヴェルに於いてでなく、何事も為せば成るのだという発想で考えてさえ居れば、その段階で既に文学が語る世界の住人でもあり得るし、又創作する地点にも降り立っていると言える。

 才能等というものは一つの定型に拘らぬ生き方への自由ささえあれば、後からついてくるものなのだ。思い切って不可能だと思っていたことにトライすること、それがまず創作的態度であり、才能は備わっているものと言うよりは、そういう風に発想転換して何事かを作り出せてきたという一つの現実に対して、それに愛着が持て持続させていけるか、ということに於いてものみ初めて問われることであり、予め備わっている自分の資質を巧く引き出し活用し、そういったアウトプットされたことを手掛かりに、自ら更にステップアップを目指してして育てていくべきことことが創造であり、それをし続けていることそのことこそが才能なのである。

 創造とは出来上がったものを奥から引っ張り出すものではなく、全く無かったものをそういったプロセスを通じて形にしていくことなのである。

 



自分にとって苦手な相手とは大勢の他者の中には必ず一定数居る。しかしそういった人達とも全て理解し合い、巧くやっていこうなどと考えるべきではない。どうしても仕事でお互いに協力し合う必要のある他者は別として、趣味や余暇の時間で出会う人は充分自分自身の心にプラスになる相手を選別してよい。

 余りにも陰険な態度の他者は率直巧く避け、一切関わりを持たない様にする処世術は必要である。と言うよりそれなしに全てへダイレクトにぶつかっていくなら、却って人生は衝突ばかりになるだろう。

 従って逃げるのが巧い生き方を身に着けるべきである。何故なら他者の人数等途方もなく多い訳だからだ。

 物凄く住む人の少ない山村で暮らしていても、SNSで知り合う全ての人と巧くやっていく必要はない。始めたばかりの頃はそれでもいいが、かなりの人数になってくると、そうはいかない。そしてそれは都会に住んでいるという状況では最も自然なことである。つまり余計なストレスを人生へ抱え込まない様に巧く苦手な他者、危険そうだと察知した他者は避けて生きていくべきであるこれは最も現実的には重要なことである。

 



〇以上をもって、性善説的に全ての他者を信用して生きていくことに意味はないと了解されたなら、貴方はきっと文学創造に関わるだけの資質はある、と言っていい。

 率直文学創造は慈悲深い人には向いていない何もかも責任を負おうとしない態度が現代社会では益々求められているが、文学創造等かなり悪人にこそ向いている。自らの悪の懺悔のつもりで書いて成功している古今東西の偉大な文学者は多いのである。

 誠実で凄く人のことばかりを気に掛ける様な善人は、尤も私のこのブログを読もう等とも思いもしないだろうけれど。 

 文学とは、恐らく書く者が自らの悪をよく承知していて、その悪を抱え込まずには生きていけないその理由の模索と共に自然と出来上がっていく創造過程そのものだからである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月 4日 (木)

日記的記述GD 自分の資質は実は自分が一番よく知っている、でもそれに逆らう自由も自分にしかない

 自分の資質とは実は誰しも自分だけが知っている。よく自分では自分のことがよく分からない等と言うが、それは一種の社交辞令か、一種の自己欺瞞、つまり素直に自分を見つめられない侭社会全体の動きに身を任せてしまっているか、或いは敢えて自分を殺して社会へ奉仕しているかによる自己韜晦でしかない。

 本当はどんなことも自分が一番自分のことを隅々迄(きっと誰しも)知っている。


 だから例えば私の場合異様に英語世界へ魅せられ引き寄せられているけれど、自分は英語ネイティヴにもなれなければ、英米人にもなれない、と一番自分でよく知っている。でもユニヴァ―サルであることは現代世界では確かに英語圏的発想の産業革命以降の発明と資本主義・自由主義・民主主義(この三つがどう関わり何が優先されるかは、常に時節とか時代毎の世相と関わりがある。相互に矛盾している。)の相互の連動に於いて日本人にとって第一外国語は英語である。

 そして駐留米軍(沖縄嘉手納基地→普天間基地、東京横田基地他、厚木、横須賀、三沢、岩国、佐世保等々)が無ければ戦後の平和はあり得なかった。それは紛れもない事実である。


 だから日本人にとって第一外国語は英語である。

 勿論日本とアメリカはその軍事的和平、つまり抑止力効果の提供者たるアメリカとの間で決して対等ではない。その証拠にアメリカから来日するヴィップは大半が日本語を覚えない。しかし彼等を接待する日本人は全員英語を習得していることが義務づけられる。

 日本人の神道的精神はきっと、日本人の中の最古の源流ではない。でもだからこそ弥生期以降日本人はそれを指針としてこざるを得なかった。それくらいに天皇制確立迄は混沌するくらいに多様な雑多な文化が入り混じっていたのだろうと思う。

 でもそれはきっと現代までずっと今の日本人の多様性にまで波及しているだろうし、どこかで脈々と継承されている。

 そして、その日米エリートの間で決して対等では無さ自体へ不平も不満も言わず、忍従しているのでもなく、暖かくアメリカのエリート達を接待している事に喜びを感じている人達こそ真のエリートである。可惜、日本文化を知ったかぶりしている庶出の自然発生的社会主義者達ではない。

 

 要するに私はその一員であって、それは沈黙すること、肝心なことはそう容易には口に出さないということだ。

 でも、それはそういう風にしてきている自分でもあるけれど、そういう風にする以外の他のやり方を容易に見出せるものでもないと知ってそうしてきたことでもある。

 でもそれを敢えて自己という対自的スタンスで否定したり、理念的に批判することは可能であり、それも私がしてきたことである。


 つまり自己資質に対して、それに素直に従うも、それを敢えて自死、自殺するかの様に否定するも、最終的には全て自分によることであり、絶対に自分以外の他人には預かり知れず、関われない、立ち入れないことなのである。

 だから敢えて私は一神教の歴史全般の中のコモンセンスから逆に日本史を見てみようという態度だけを貫いてきた。

 でもそれでもその敢えてそうしている自分はやはり紛れもなく日本人である。たとえ外国人の妻を娶ったとしてもそれは変わりない。

 

 民主主義は平等と公平を旨とする。しかし資本主義は資本の流通自体を最優先する。自由主義は自由競争による自利益中心主義を正義とする。だから福祉(welfare)やボランティアは自由主義的発想全体への反省的視点に拠って設定されている倫理である。

 つまり資本主義は経済格差、生活水準の格差を生み出すことを前提している。競争には必ず勝者と敗者が生み出されるからである。


 しかしノーベル医学・生理学賞受賞された本庶佑先生はその受賞賞金を自らの後身に対する教育と指導と発展の為にそれを基金として寄付される旨を発表された。

 本庶先生のご精神は誠心でもあるが、要するに極めて日本的である。慎みとか自己尊大化へ直結する欺瞞的精神の抑制、しかしそれはそういう題目でなさっているのではなく、あくまで自然体的にそれを望まれていることに於いて極めて日本的である。日本の理性と言っていい。

 その自己抑制的なことは、だからきっと私の中にある何かからも理解しやすいことである。アメリカ人の博士と本庶先生とが同時受賞というのも一つ象徴的な戦後日本とアメリカとの関係的な在り方を示している。

 

 私の英語の旅は終わらないだろう、きっと死ぬ迄。

 でも、そうしている私は私自身で最もよく知っている自分自身でありながら、同時に最も説明し難い何かでもあるところの日本人的なるものをきっと引き摺っている。しかしそれを解析するのは私の仕事ではない。もし少しでも私のしてきていることに関心のある私より若い方が、敢えてその私の考えてきたことを解析されたとしたら、その時だけ何らかの意味合いが炙り出される様な何かである。

 だから、そういう一縷の望みを捨てられない為だけに、毎日全く先行くどうなるか分からない研究と創作を只管続けてきているし、これからもきっと止められないのだろう、と思う、否そうである。

 自分の関心やその方向性を遮断できるのも結局どんな個に於いても自分だけなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月 3日 (水)

実際に我々にはこれが確かさだと言い切れる何物もない

 現代物理学ではアインシュタイン以降、超高速の飛行物体に乗っている時には時間がゆっくりと進むという様なことを考えてきたのだが、ではその「ゆっくり」ということが我々どの個にも実感できるレヴェルなのかと問えば、きっとそうではないということなのだろうけれど、問題なのは、その様にこれは少し速いぞとか、遅い(ゆっくり)だぞということの違いをどう我々は感知しているのか、ということの方である。

 重力の差によって時間自体が歪むと、そう言われても直ちにそれが何を意味するのかを理解することは通常かなり難しい。


 要するに自分で、それを速いとか遅いと判断する場合、一体何を拠り所にしているだろうということだが、周囲の全ての変化のスピードが常に一致している、つまり概ね人全員が歩く速度も一定だとか、木々や花や果実が育ち、芽吹き、成長する速度が一定だとか、要するに全体的な協働的な(だから一斉にそうなっていく、一致した動き)ことからだけ我々は判断しているとしたら、我々はどんなに自分では自分の感覚を絶対正しいと信じている者でも、結局周囲全てのその一斉に(同時に)そうなっていくことそれ自体に意識も加担しているに過ぎないということとなる。


 となると、やはり時間というものは主観というものをそう容易に成立させはしない何かということになる。

 仮に自分が今日の一日の長さは何かいつもより早く感じた、とそう思っても、それは只の気のせいだよ、ということになってしまう。


 つまり自分の心が感知するその「本当のところは」、時計ではそう刻まれているけれど、少しいつもよりゆっくりに感じられるとか、そういう風に心で思うことの方が常に機械とか、我々がそれを皆で共通の物差しにしようと決めたことの方をやはり圧倒的に我々は信じていて、その自分にだけ感じられる「本当のところは」の方をこそ只の錯覚だと見做す様に世界は進行している(少なくとも人類の社会全体とはそういうことである)と見做すしかない。

 

 心とはだから我々は、つまり人類全体という視点からは、曖昧なことでしかないと見做されていることとなる。

 にも関わらず皆誰しも自分の心からしか、それら全ての感覚を知ることはできない。そして今時計の進み方がさっきよりも早くなったと、もし誰かが感じて言い出したとして、それに対して周囲に仮に七人居たとして、誰も「そんな風には思わなかった」と言えば、そう言い出した者の錯覚と見做されるが、他の六人全員が「そうだ、可笑しかったよ」と言えば、それはかなり信憑性が高いということと見做される。

 つまり主観等というものは、結局そういう風に同じ様に感じている者の数に拠って客観へと置き換えられるということとなる。


 だから木々の成長から川の水の流れから雲が移動する様子から何から何迄全て一気に「そうなっていった」としたら、やはりその全体に対して「あれっ、何か少し可笑しいぞ、いつもより全てが速く動いている」などと思っても、我々人類全てがそう感じられなければ、それは個人の錯覚ということとなってしまう。

 でも超高速飛行物体に乗っている人も、地上に居る人も全くいつもどおりでしかないとしか感じられないレヴェルの違いだ、とそう説明されても直ちに納得できるわけではないのだけれど、そういう風に一切の事物が同時にそうである様な状態全体に対して、あれっ、さっきよりゆっくりだぞということを成立させるには、やはり決定的に自分だけでなく「誰もが」そう感じたということが重要なのだろう、とだけは何となく分かる様な気は確かにする。

 

 そうすると、結局私というものは全体の中での自分という査定抜きに成立し得るものではない、ということと、他の誰もが自分が感じる様に感じられてはいないと知った場合には、それは自分にだけ特殊なことなのだろうと判断せざるを得ないということは誰にでも共通して認識されることだ、ということしか、この段階では判断できない。


 でも、そのそこに居合わせる全ての人が共通してそう感じたということも、やはり絶対ではない、という想念も拭い去らない。

 しかし、今述べたその「絶対」とは、では一体何なのだろうか?

 そんなものはあり得るだろうか?寧ろそれこそが完全な錯覚でしかないのではないか?つまり、何かいつも確定的ではないことそのことへの不安が只生み出している、それも一種の付け焼刃的な辻褄合わせの様なものとして、この「絶対」という、やはりこれも一種の曖昧なことへと後退していってしまう。

 

 ま、こういうことを考え始めたら、確かに徐々に全てが収拾のつかないことになっていってしまう。

 だから、逆にそうならない様にする措置として、かつて人類は神なるものを設定したのかも知れないし、今でも皆で一斉に、とか誰もがそう感じる、ということだけを信憑性ということの基準にしているのだ、とだけは言い得る様に思われる。

 でも、いつも何だかそれですべてがしっくりはこないんだよな、ということが残される、そういう感じだけはする。

 でも、それに対して、つまりそれが只の思い過ごしなんだよと誰かに言い諭されたら、誰もがそれ以上そのことには踏み込めない様になっている、そしてそれが社会ということだ、とだけ、ま、今は結論付けるしかなさそうだ、とだけ言える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月 2日 (火)

創作メモ38

間違って書き記したことの方が面白いことがある。でもそれはかなり稀にだけその間違いの方を採用した方がいいという判断が為されるべきでかなり修練を積まないと、確かにそういう間違いにだけ常に気を取られ酔ってしまう(要するに自己へのナルシス的オナニー性って言うか)から気を付けなければいけなくて、そういう意外性の発見で凄く最初に思いついたアイディアより、より良いことは、かなり多く創作し続けた結果としてのみ出て来ることだとだけは言える。


 だからかなり要注意していくに越したことはない

 


詩は或る特定の人へのエールであると意識して書いたり、そう暗示して読者を意識させていくことは凄く有効な創作手段であり形式だけれど、そのエールは同時に常に自分、つまり詩を書く人自身へも向けられている方が自然だし、そうでなく只自分は全く示さず、エールだけ送るということはロボットのすることであり、心のある人間のする事ではない、とだけは言える。


 従って他者へのエールとは施しや慈悲的な同情とは異質のもので、そうでなければ、やはり説得力はないし、態々詩にして、それを人に伝える必要はない募金でもすればいいことである。善意とかそういうことと本質的に違う心の作用が詩を書かせ、それを発表させるのであり、その点では小説と少し違うところはある。


 でも私はたとえ小説でも(長編でも)、詩に向けられている様なスタンスで書きたいという気持ちは強い。勿論形式的に詩の様に主観を前面に出しても有効であることはずっと小説では稀だが、それでもその小説固有の突っ放しに於いて、より自己主観を客観化させなければ、やはり創作の意味はない、と思う。

 


〇だから、やはり最終的には書く技術だとは言えるけど、その技術を先行させるべきではないそこが常に一番難しいし、又一番面白いところでもある何故なら技術だけ示していればそれでいいのであれば、それは方法論伝授の為の手引書、参考書執筆と変わりない。参考書ならもっと気の効いた技術や内容があり得る。それは一種の時事的資料なのだから。


 でも創作である詩は、やはりそこに一つの自己未来への希望と不安と、世界全体への批評や憤りや、にも関わらず愛着と言うか、世界は存在は裏切られないという表明にもなっている様な何かである限り、我々創作家は無限の可能性へ突き進んでいると、見做していいであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月 1日 (月)

創作メモ37

〇詩の場合、詩を読む人が詩を書く人との間に共通の意志疎通の回路を見出しやすい配慮が必要だが、それは要するに如何に客観的に世界を見ていても、それは主観的視点でしかないことの提示を詩内容から示すことだ。

 

 要するにそれは書いている自分が神でないことの宣言であり、それを読者が確認できる様にする配慮が必要なのだ。

 


神でない自分が神でない貴方に語るという形式が詩に求められているが、それは或る意味で読者へ共感を誘う仕方でもあるが、それは共有し合える何かを信じていることの表明でもある。

 

 共有し合える何かがあると言えるのは、作者である詩人本体が詩を読む人に何かを強制している訳ではないことのさり気ない提示なのであり、逆にそのことで、世界には強制する力、悪意、不本意な誤謬、惰性的な判断が多く存在することを摘発する意味合いもある。

 

 つまり世界そのものへの批評や批判が一切ないのであれば、詩を書く必要はなく、徴税業務や公認会計的業務に携わった方がいい

 


世界そのものが不十分にしか機能していず、その不完全性の中で不完全な人格としてだけ生きている我々は、しかし万能であるとか完全なる無矛盾性を何処かで追求している。そしてそれは無意味ではないが、その無矛盾性を、では精確に、それがあり得ると証明することはかなり難しい。だから逆に無矛盾性等存在し得ない事を精確に完全無比に証明することも同様に難しい

 

 どちらかが出来れば、どちらかは成立し得ない筈だが、もし世界とか存在そのものが矛盾でしかない様な形でしか存在し得ないのなら、両方成立してしまうかも知れない。

 だから、それが一種の完全なる矛盾である

 矛盾であることを証明することは、限定的な事態ではさして困難ではないだろうが、それを普遍的レヴェルに迄押し上げると、今度は完全に無矛盾であることは不可能であることの証明の必要性にぶち当たる。

 何故なら、どう証明しようとしても尚証明し切れないことが派生してしまうからだ。

 だからその証明し切れないことがその侭残されるとしたら、それは論理そのものの無矛盾的解析の不可能性を示しているが、それは世界とか存在そのものが無矛盾的解析、合理説明が不可能であることであり、その事さえ証明出来れば、つまり世界や存在が合理では説明出来ない事となり、それはとどのつまり、だからこそ論理にも必ず穴があるのだということの証明にもなる

 


上記の証明等は専門的には当然論理学者や数学者、哲学者、物理学者等に委ねてゆくしかないが、その直観は当然詩人にも内在している。だからそれを巧く掬い上げて、詩そのものに介在させていく必要がある

 

 つまり世界、存在はそれ自体矛盾している。だからそれは無だけが完全合理であり、真理であるということにもなる(これは永井均が暗示してもいる。→『世界の独在論的存在構造 哲学探究Ⅱ』

 でも彼は上記の証明に成功しているとは言えない

 或いはそれは人間には不可能な領域なのかも知れない。

 

 つまりだからこそ自然科学の計測データ主義的方法論が存在しているのかも知れない。存在そのものの不合理と無矛盾解析不可能性が、逆にだからこそ実在レヴェルの統計的数値だけが常にアウトプット出来る様にしてあるのだ(神が、と言ってもいいし、自然が、と言ってもいいけれど)、ということになる。

 


〇だから、そういう世界と存在の不可解さの只中で我々が生きて生活している以上、そのどうしようもなく謎だけが残される様なことこそが詩のメインテーマとなる筈である

 そして、そこに共感回路、共有し得る真理の様なものを見出していく道筋に、詩創作が在る、と考えても当然いいのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年9月 | トップページ | 2018年11月 »