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2019年4月

2019年4月30日 (火)

怒り・不機嫌、嫌いという感情は尊い Part1 切ない、悲しいとかの気持ちと希望が持てないという気持ちと両方持てることにも感謝したい①

何もかも嫌だ、何かしたいという気持ちすら持てない、或いは持ちたくないことにさえ感謝したい。

 

だって、それが何かから支配を受けないっていうことだから。

もし、そういう気持ちさえ一切湧き起らないなら、きっと職場でも何処でも、きっと一切何もかも自分の気分を無視されても、文句も言えずに、全て搾取されてしまうから、きっと貴方だって八方塞がりになるだろうね。

 

だから、もし貴方が自分自身の判断で、この場はちょっとやばいぞ、と思ったら、即逃げる方がいいし、いよいよとなったら、やはり逃げるしかない。

だからいつだって迷わずそれができるんなら、やっぱり貴方だって、何かに希望を持てないっていう気持ちにさえ感謝したくなるに違いないって思えるよ。

 

(つづき)

 

2019. 4. 15<タイトル>、文・4. 18, 19, 30

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2019年4月29日 (月)

文学メモ⑧

〇詩の場合情感的情景、風景、追憶などを示す場合、明らかに男性が好む語彙と女性が好む語彙とはある。

 でも男女両方が経験してきていることを暗示する書き方をすれば、女性に対して男性の好む語彙が寧ろ効果的になったり、その逆であったりすることは珍しくない。

 

〇男女から関心の持たれる言葉の列とは、要するに性愛と、そのロマン的な香り、香しさである。誰もが持つそういった経験を、出来るだけ多くの男女に思い当たる様なことに絞って書くのだ。

 凄く熱情的な性愛を描くと同時に、ほろ苦く失恋すること、相互に憎み合う愛し合う関係、悪的な相手への願望や挑発、そして和解、癒しと誘い等も書かなければいけない。

 

〇小説で書く予定の男女の恋愛と壮絶な奪い合いでは、詩で示した語彙列や、その修辞的表現と、ミステリアスで現代的な筋立てと、神話歴史的、名作や聖典の原典的な性愛と嫉妬と闘争と和解を描かなければいけないので、それは必然的にエロスとタナトスの鬩ぎ合いと、アンニュイとデプレッシヴの鬩ぎ合いの様な時間の流れを読者に連想させる様な描写と場面設定が必要である。

 又次回作では後半の出産と子育てで格闘する生活の中で、母親と子供(一人は略奪愛の結果としての子、一人は正式の夫との間の子という設定。性別は未だ決めていない)、そして夫との生活と旅というエレメントを巧く調合する必要がある。

 略奪された女と略奪した女の生と死は相互に噛み合わないも、同時に、反転する様な合わせ鏡でもある様に描く。

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2019年4月26日 (金)

気持ち良く迎えられる朝はなかなかやってこない

朝からずっと一日夕方まで何かして、その日は凄くいい仕上がりを持てても、さあ、たまには早く寝ようと思って八時くらいに寝入ってしまうと、十一時から十二時前位に一度目を覚ましてしまい、結局思わぬ夜更かしをしてしまって、却って眠れなくなってしまい、それでも早朝には目覚めてしまう。

 

かくして却って休もうと思って早く寝付いてしまうと、寝不足になってしまうという悪循環を作ってしまう。

 

だからそういう朝の迎え方をしてしまうと、何となく午後はいつもより早く眠くなってしまう。

 

気持ち良く迎えられる朝はだから、そう滅多にある訳でない。

 

別に必ずしも朝とは気持ちよくなければいけないということもない。

 

でも、何となくそうでないと一日すっきりしないこともないとも言えない。

 

でも、それはそういう思い込みか、気分の問題で、気だるく何もしたくない一日が在ったって、それはそれでいい。

 

昼にはどうしても余り寝たくない、色々としたいことが色々あるからだけなのだ。

 

一日をどう使おうが、自分なりでいいのだから、まあ、人生全部もそうである。

 

自分にとって連休が長かろうと、そうでなかろうと、そんな大差はない。

 

只気持ち良く迎えられる朝は又少しご無沙汰になるだけのことだ。

そう、気持ちよく迎えられる午後からでも、夕方からでも、夜中でも、それは別に困るということはないのだ。

だから、気分は女に食わせて貰っているヒモでも、空き巣をして日銭を稼いでいる人間でもある様な感じでも、別にさして自分にとって都合が悪い訳ではないのだけれど、気持ち良過ぎる朝からスタートしない日の方が、却って気追い込まずに、いつも通りでいいっていうこともある、と言える様な、もうきっとそう若くないってことを知らされているだけかも知れない、とは言えるのだ。

 

でも、うんと濃いお茶を飲んで、それでも一度布団を被ると、すっかり寝入ってしまえれば、それでもういい。

2019. 4. 26)

 

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2019年4月25日 (木)

意味は何時も万能な訳じゃない、意味にならなくても素晴らしい瞬間は多く存在する

今思い出してみても、絶対生涯忘れないさり気ない一言、その場面っていうのはある。

そして、それは必ずしも重要な意味が充満している訳でもない。

却って全く無意味な筈なのに、何か忘れ得ないちょっとした気の利いた所作や一言、動作、表情、寧ろそういうことの方がいつまでも忘れられない。

ひょっとしたら生涯忘れないことは、きっとそういうことの方だ。

 

確かに意味は凄く重要だし、何時の時代にも必要で、最も大切な何かではあるけれど、却ってそれはどこか四捨五入したり、要点だけ絞っていたりすることなので、気分的なことや些細な優しさや配慮には欠ける。

 

要するにきちんとしていることっていうのは、必要だけれど心にいつまでも残っていく様なこととは違う。

心に残る情景や状況や些細な一言、気の利いた配慮の全ては、人が人として生きていく上で欠くことのできない情感だ。

 

それは、意味になる訳ではないからこそ忘れられない。

意味は常に形式的で、図式的に最も理解しやすくされている。

 

でも心に残る何かとは、いつもそういうきとんとしている何かではなく、意味はさしてないんだけれど、何処か凄く人の心を引き寄せ、惹き付け、気持ちを解す何かが在る。

 

だから、きっとそれは本当は、例えば哲学者や神学者や色々な偉い人達が必死に解明しようと齷齪してやっと辿り着く様な真理を一瞬で体現しているんだろうから、かなり複雑なんだけれど、一元的には意味には収まりきらないことなんだろう。

 

だから、やはり僕達には意味だけが大切で尊い訳でもない。

意味も絶対必要だけれど、意味にはならないけれど、そしてその意味も説明できないけれど、とても一瞬で説得力を持つ何かなのだ。

 

でも、きっとそれはそうし様と意図してそうなっているのでもないのだ。

 

だから僕達はこうも言えるだろう。

何か意図してどうなることだけに感動する訳ではないのだから、人も世界全体の大きな時間の移り行きの中で、どうなるか予測がつかない不可思議な決定されて歩んでいるのではない臨場的な何かに常に突き動かされ、日々少しずつ何か、それが何かと説明出来る訳ではないけれど、それに向かって歩んでいるんだろうね。

 

そう、その何かに言葉も動かされているし、言葉にはならない多くのこと達も動かされてきているんだろうね。

 

2019. 4. 25

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2019年4月23日 (火)

人間の執着心は記憶が作るけれど、その本質的理由とは何か?Part3

〇我々は地上に足をつけて重力に逆らえずに生活している。従って上空から見下す様に自分が歩く先に自分を遭遇するであろう他者を想定して歩けない。仮にドローンを操縦して歩いていても、かなり先に同じ道にどんな人が、自分が歩いていく先で擦れ違うなりして遭遇することを予想できたとしても、すぐ目の前に別の人がこちらに向かって歩いてきていることを見落とせば、ぶつかってしまうかも知れない。

 従って基本的にあらゆる出会いを事前に想定することができないし、できたとしても、それを避けることを仮に試みたとしても、全てを回避して生きていくことはできない。

 

〇従って我々は十全な自己の安全と保全に専心だけしてはいられない。それが固体=個体としてのみ生活していかざるを得ない生物である我々の宿命である。

 つまり我々は予め全ての未来行動と自らに襲い掛かる受難を予知的に自己の生活を維持し得ないという前提で社会に臨んでいる。つまりその諦めに於いて全社会成員は平等であると言う前提がまずある。

 だから自己像とはどんなものでも幾分いい子ぶっている。完全に自分の欠点をひけらかす様な事だけは回避されている。だからそこで既に我々は自己防衛的に社会に接している。

 すると思わぬ他者からの攻撃や批判にさらされた時如何に自己責任へと追い込ませず、責任転嫁し得るかに日々脳裏の脳神経活動の全てに費やしていると言っても過言ではない。

 だから常に他者との関係性の変化に応じて我々は自己像をその都度半強制的に自己を取り巻く環境や、その対応に応じて変化させていくしかない。

 にも拘らず自己の在り方や基本的な対自的態度はそう大きくは生涯変わる事はない。そのずれを皆知っていながら知らんふりをしている。つまりそういうプライヴェートな真理を相互に暗黙に認め合い,しかしそれを誰もが口に出さないように心がけている。つまり、その事実が社会成員としての態度である。

 そして社会全体はそういった憩い的なことを誰もが持っていることを積極的に社会活動的な仕事的使命を支障なくさせて貰いたい意図から容認している。

 だから逆に友情とか付き合いという事は、言ってみればそういう暗黙の確約の中での自己使命を自覚しつつも、全く捨て去ることもできない一種の憩いである。

 それは相互のプライヴァシーを侵犯しない形でのみ維持し得ると誰もが心得ている。だから必然的に集団全体も各成員の適度の憩いを精神的に確保する必要性を常に暗黙の裡に容認する空気は出来上がるので、最終的決裁なども会社組織であればトップの鶴の一声で決まるものの、そのトップの決断は往々にして集団全体の空気を反映したことにならざるを得ない。

 

〇それを仮に無意識の社会主義と呼ぶとすると、社会、国家、民族はもとより、あらゆる集団でそれは発揮される。

 だからその点に於いて資本主義社会とか自由主義経済社会的個人主義とかの選択肢はニッチ的なことへと後退してしまうのだ。

 民主主義とはだからその惰性的な集団全体の暗黙の同意に着き従っているだけである。

 つまり全ての社会成員の社会生活上の最低限の幸福を権利として保証する為に最低限の惰性的心のゆとりや憩いを容認する社会全体の暗黙の要請に抵抗し得るトップ(経営者他)は居ない。

 つまり誰もが長期安定的に就業条件が確保されるべき権利の上でその全体的安定的調和を誰もが望む以上、どんな集団でも社会でも最終的には少しずつ全員が容易に責任転嫁し得る様に無意識の社会主義がどんな社会でも発揮される。

 だからその暗黙のトップをも動かす組織全体の批判装置が健全に作用しない事こそが独裁を意味するが、それはどんな場合でも私企業は勿論のこと、公的組織であっても、互助的組織であってもいずれ破綻をきたす。

 それもこれも最終的にどの個も適度の惰性を仕事的義務を果たす代わりに認められて然るべきだという集団全体の暗黙の容認が無意識の社会主義という拭い難い性質に拠って保証されるからである。

 

〇上記全ての社会的事実も所詮、人が固体=個体として生活する以上どんな不測の事態が発生し得るか誰もが予測し得ないという事実に負っている。つまり無意識の社会主義とはそういう全成員の無意識の互助的意識が自然と作り出しているのだ。だからそれが在る時には衆愚にもなるし、独裁体制を倒す力にもなるし、保守的閉鎖的に一集団内でそれが大きくなれば組織ぐるみの隠ぺいへも発展する。

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2019年4月22日 (月)

人間の執着心は記憶が作るけれど、その本質的理由とは何か?Part2

〇我々は皆、固体=個体からしか何を見る事も出来ない。例えば今こちら側から何か見えていたとして、そのものの向こうからそのものを同時に見ることができない。

 つまりどんな形状の身体に生まれついても、目が向こうに今見える何かの向こうにまで飛び出して今在る身体からと、向こうから見えること二つを総合して見ることができない。

 

 だからこちらから見えている或る女性の顔が凄く美しくいっぺんで虜になったとして、向こうに回ってみるまでもなく相手がこちらに今迄見えてきた側からは見えていなかった側の彼女の顔を身体の位置を変えて自分に見せたとして、そちら側が何らかの劇物を浴びて爛れていたとして、それを悟った瞬間もし気持ちが悪いと思ったとしたら、それはやはりその女性への単純な蔑視であり、自らの醜さに気づかねばならない。

 本来ならその女性の生きてきた軌跡に於いてその傷が齎した周囲の人から気持ち悪がられてきた人生を想像して何と健気で美しい心の持ち主であったことだろうとそう思わなければいけないが、実際はそう思えないで一瞬でも気持ち悪いと思ってしまう自分の弱さに対して恥じ入ることができるかが、その者の器を証明しよう。

〇人の感情は自分に対して怪訝な態度を取った者に必ず余り好感情を抱かないものだが、実際にはその他者は気分が悪かっただけかも知れない。

 だが、実際自分も余りいい気分ではない時には、相手に対してなかなか思い遣りを持てないので、そういう素っ気ない態度で応答されると、こっちからもつっけんどんな態度になりがちであるが、そう一瞬思って直ぐにそう思ってはいけないと思えるなら、自分に対して悔い改めがまだ可能だと知ることもできる。

 

 だから自らが神ではないと知ることこそが自分の執着心を制御する可能性を維持していける唯一の方法である。

 

 だが誰しもいつも完璧に対人関係的に処すことは誰にもできない。だから常に後で自らの全ての行状を振り返り、悔い改める事から我々は自己のあるべき姿を知ることができる。

 例えば凄く重要なこととは経験則的に直ぐ我々は判断しがちであるが、それは狭い自分だけの経験であり、自分が経験していないかなり多くの事、もうそれは無限に近くある訳だが、他者の数だけ我々は自己に拠っては知り得ない体験と存在者としての在り方、或いは生き方というものがある、と知ることができる、とその機会を与えられてあることを感謝すべきなのである。

 

(つづき)

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2019年4月19日 (金)

人間の執着心は記憶が作るけれど、その本質的理由とは何か?Part1

〇人は身体が立派な固体だ。このことは、もうそれだけで自己同一性に固執する様に人間を持って行っている。

 これは何も人間にのみ特徴的ではない。あらゆる動物はそうである。しかし凄く基本的なところで人類は社会的動物だ。

 それは当然言語に拠る。

 例えば植物は個体と言っても自己同一性的に個々別々に行動する様に生息するのでない。彼等は基本的に個体として生活しない。どんなに個々別々の枝に実をつけ花咲かせていたとしても、彼等は根は繋がっていたり、完全に個々が独立していたりする訳ではないし、又子孫も個体の死とのトレードオフで有性生殖する訳でない。無性生殖生物は、だから個体的独立性を前提とした種族保存のトレードオフではなく、あくまで環境との適応という観点からのみ生存戦略を構成している。

 

〇だからそうでない人間とは、個体毎に切り離されているが故に、自己同一性からだけ相互に理解し合う認識の仕組みを持ってしまっている以上、それは相互の社会的関係性に於いて若い頃から老年迄どんどん周囲の成員の顔触れはどの個体にとっても変化していくけれど、それでもその都度恒常的な社会内存在理由をどの個体も(個人も)求められ、その不動であることこそが自己にとっても社会にとってもその都度、自己同一性の証である様に自他共に強制し合うが故に、固執する様な行動パターンや、対外的意思表示をする様に仕向けられているのである。

 

〇しかし、同時に現代社会は過去のどの社会よりも自己同一性に於いて頻繁に自己像というものを変更しやすい環境にある。

 それはとりもなおさずウェブサイトなどを通したネットショッピングからあらゆる法手続きに至る迄リア充的対人関係外でのコミュニケーションを多くする機会に恵まれているからである。

 即ち自己像に固執しなくても、生活していける社会環境がそういった通信機器の発達していなかった時代には絶対あり得ない様な形で整備されてしまっている以上、誰もが多重人格的にも社会的に巧く一元的自己像や単一の人格的に振る舞う必要性が家族団欒を持っていたとしても、極めて部分化してしまっているし、且つ職場環境もどんどん仕事内容が社会的ニーズに応じて変化していく時代なので、固定化した執着心を少なくとも仕事の上では必要とされなくなってきた。

 しかし、にも関わらず、趣味とか息抜きのレヴェルでは、当然SNS利用等を通して一貫した個人の信条を社会全体からの要請と別個に持ちやすくもあるので、誰もが複眼的に社会的役割の時代状況の変化に応じたシフトと、絶対シフトさせない侭で居たい部分とを容易に併存させやすいとも言えるのだ。

 かくして、現代人は一面では社会的自己に応じてどんどん役職や社会から求められる職種を変更しやすい一方、頑なに趣味的、余暇娯楽的には、その仕事環境の激変に対応している褒美として、個人の趣味的執着を社会全体からもとやかく言われないで済むという二面性をも誰もが保証されているとも言えるのだ。

 しかしにも拘らず、その二面性も、やはり自己同一性的にしか人類が生存し得ないという現実に負っても居るのである。

(つづき)

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2019年4月18日 (木)

アイスクリームにでも生まれてきたかった

いっそアイスクリームにでも生まれてきたかった、ってそう思うこともあるよ。

 

人間なんて、それこそ善だ、悪だとか、愛だの正義だの、幸福だの価値だのって、四六時中そんなことばかり考えて居なくちゃなんないし、犬や猫に生まれても、やっぱり飼い主に可愛がってもらわなければ大変だとかいつも気を張って居なくちゃなんない。

 

その点、アイスクリームだったら食べられて本望なので、そんなこと一切考える必要なんてないし、誰もアイスクリームにそんなこと求めもしない。

 

仕事が大変だからって言うこともあるけれど、もっと欲望だけはどんな状態でも無くならない、それが凄く理不尽に不都合だってしか思えないことはある。

 

そういう拘ることが一切ないのが、食べられてそれで終わりっていうアイスクリームのいい所だ。

 

第一病気になることもないし、食べられて周りから悲しまれることがない。

それって本当に素晴らしいことだよ。

 

だって人ってほんとうにそういうことばかりで悩んでいるんだから。

 

そう、だからアイスクリームでなくてもホットケーキでもハンバーガーでも良かったのかも知れないけど、ガムって何かまれている時に必死に抵抗している感じするじゃない。

でも、その点でもアイスクリームって、苦しそうに食べられていない。そこもいい。

 

だから生まれ変われるものなら、アイスクリームがいい。それも氷状のじゃなくて、ソフトクリームやヴァニラアイスがいい。

とろっと直ぐ溶けてくれるのが凄く楽そうでいい。

 

苦しまないで消えてなくなることのできるアイスクリームって、本当に素晴らしい。

 

そういう風にいつも感じて居られる自分で本当は居たいんだ。

 

2019. 4. 18

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2019年4月17日 (水)

女の海Part7 女達の策謀③

 俺はすっかりそのご婦人をいい人だと思っていた。

 そのご婦人をクラブの室内から入り口のドアを開けて若い女性が中へ促しご婦人は中に入った。

 でも俺は長く待たされることなく、そのご婦人の順になって彼女がクラブ室内で行った手続きはものの四五分で終わり、ご婦人は中から出てきて俺に「それじゃ失礼致します」とだけ告げて階段を上って去って行った。

 すると、さっき顔をちょっとだけ出していま去って行ったご婦人を中へ促した若い女性が今度は俺を中へ入る様に促した。

 俺は彼女に促されるままに中へ入ると、クラブの内部は床にはアンプやマイクから壁の差込口へと繋がれたコードが所狭しと投げ出されて絡まり合い、室内にはグランドピアノやドラムスのセットが設置してあった。

 その脇の壁際に折り畳み式テーブルが仮置きされ、そこに先程のご婦人とほぼ同年齢と思しき中年女性が座って書類を整理していた。

そこに座っていた老眼鏡をかけた年配の女性は、俺がこの女だけの世界にワープしてきたから遭遇したどんな女性より、俺の居た元の男女ともに居住する世界によく居がちな事務職などで年配になっても踏ん張っている女性に近かった。それだけに俺は何とか性同一性障害と俺の世界でよく居るタイプに振る舞って俺が男っぽい女性に過ぎないと思って貰おうと俺は身構えたのだった。

 何故ならその年配女性の眼力に或る固有の鋭さを直感したからである。

 俺はこの日の為に、その時かなりボーイッシュな女性に居がちなヘアスタイルに美容院に出かけセットして貰っていたので、兎に角話し方にだけは注意し様と心がけていた。

 しかし実際その女性は俺がそのテーブルの前へ来ると、俺の顔を一瞥してから、意外と柔和な表情と態度で俺に、俺が事前に役所に提出していた申し込みの書類を目にして、俺の名を俺に聞き確かめると、

「国民保険権利証明書を交付致します。お受け取り下さい。手数料として二千円お願い致します。」

とやや素っ気ない言い方ではあるものの、特別冷淡でもなさそうな感じの対応で、俺にこの世界で最低限の生活のできる権利を保障するカードを俺に手渡してくれた。

 その救済機関は事情が在って住所不定無職者も含めて役所に掛け合ってくれる良心的な団体だった様だったからだ。

 俺は一応その団体がネットで国籍証明のできない居住者や外国人も含め救済してくれる旨も表示してあったので、ネット検索してその団体の社会的信用も調べた上で、その応募に踏み切ったのだった。

 俺は幼い頃に女性二人の親に死別してから里親を何度も変えて転居が多かったことで、最後の里親とも巧く折り合いがつかず、住所不定となり、生まれた場所さえよく分からないという設定にして申請していたのだった。

 俺は心配したよりずっとスムーズに手続きを終え、その場をそそくさと立ち去ると、一挙に不安から解き放たれ、新宿の繁華街に久しぶりに繰り出し、どこかで一杯、未だ正午を過ぎて少しの時間だったのだが、その時間でも酒の飲める店を探して雑踏を歩いていた。

 昼休みで昼食をとろうとするその界隈の従業員達が色んな定食屋や喫茶店、ハンバーガースタンド等の店舗の前に行列で並んでいた。そのありさまは俺の元居た男女の世界と全く変わりなかった。

 ただ女性しか居ないという事を除いては。

 俺はずっと一般従業員の多く立ち寄りそうなエリアをその世界へワープして来て以降避けて生きてきたから、意外とそういう界隈の雰囲気を知らずに過ごしてきたからだ。俺はすでにその世界にワープしてからそろそろ一年になろうとしていたのだ。

 

 俺は或る客の少なそうな或る中華料理店に足を運ぼうとしていた時、俺の後ろから女性が声をかけてきた。

 咄嗟に振り返ると、その女性はさっきまで俺の前で待って直ぐ手続きを済ませ立ち去ったあの年配の女性だった。彼女は俺に、

「あら、奇遇ですわね。あの建物からかなり離れているのに、又お会い出来るなんて。」

とその女性は微笑んで俺にそう話しかけてきたのだった。

 俺はそのご婦人をその時もそんな悪い人だとは全く思っていなかった。

(つづき)

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2019年4月16日 (火)

世界の真理Part118

○古代ユダヤ人(ヘブライ人)は縦の系列を最初に考えたと言う意味で偉大である。

 

○古代エジプト人・アラブ人はその系列上で横を発展させた意味で偉大である。古代中国人もそうである。

 

〇現代の全人類はそれらの個々の異なった組み合わせに拠る一つの末裔であるとも言える。それは全人類が民族的存在理由としてはネストリウス派が考えていた信仰の普及的意味合いを(直接その考えを持っていなくても)存在理由的には併せ持っているということである。

それは現代人の行動を見てもそうである。

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宇宙の法則=神の与えた唯一の法則〔1=0〕

存在=有=宇宙は全空間・時間とは

部分=全体=1

と言い得る。

 

しかし1の絶対的ルールは、いつか必ず無=0となることだ。

 

ならば、この部分=全体=10に転換する<我々から言えば、転換される>ことだけを運命づけられている。

 

始まった(始められた)瞬間、神は全て決定した。その瞬間神に拠る最大の創造的使命は終わった。

 

そして始まったものは(その途中で何がどう変わろうが)必ずいつか終わる。

故に全宇宙の(人類を含めた)出来事は、全て神が予定した(設定した、或いは<神に拠り>プログラムされた)こととなる。

 

しかし、それはいつか終わる。

故に全出来事は神が予定した(設定した、神に拠りプログラムされた)、つまり決定されている、と言っても(或る程度必然故に偶然でもあり得ると言っても)、完全なる偶然にと言っても、どれも同じこととなる。

 

何故なら10なのだから。

 

そして、この事態のみ神と定義し得る。

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2019年4月15日 (月)

世界の真理 Part117 語学から見えてくる真実①

〇韓流ドラマ『私の黄金の人生』はきっとかなり面白いドラマである。それは観ていてもよく分かる。でも自分はハングルの学習を始めて、その途上で出来る限り字幕に頼らずにドラマを聞き取れる訓練の為に見ているので、ついそちらにばかり意識が行き過ぎて観ながらドラマの登場人物の関係などを把握し損ねているので、ドラマ終了後に人物相関図をネット検索で見て把握したりしている。

 台詞をリスニングでダイレクトに聞き取る訓練は勢いディテールへの配慮に比重がかけられ過ぎるので、ドラマ全体の把握に多少支障はきたしがちである。

 それでもいいドラマだと分かるので何となく全体の筋を後追いできなくてもメッセージだけは伝わる。

 つまり双子として育てられた若い女性の一人が実は財閥の娘だったという事を巡る社会的身分差に起因する恋愛の困難を周囲の人達を巻き込んで何とか成就へと向けて展開させていく趣向のドラマであるということが。

 この手のドラマは韓流現代劇ではよくあるパターンであるが、民放のテレ東放映なので字幕を消すことはできない。その点はNHKの方が上だが、NHKは史劇が中心なので実用ハングルの学習に必ずしも全面的に役立つとは言えない。尤も韓国文化と歴史への見識を深めたいなら勿論かなり役立つ。

 

 自分はハングルは十数年前に七年程テレビの講座で学んで、後半はラジオの講座も利用していたが、哲学学会などに関わっている間、英語以外の語学を顧みる余裕がなくなって、数年前哲学学会を、今年生物学学会も退会し、小説執筆へと向けて発進し始めてから、再度語学への情熱も復活して、そこで得たことを多言語小説を創作することに役立てようと思っているのだ。

 そしてハングルは英語以外ではフランス語とスペイン語とロシア語を当時並行して学んでいたので、つい最近(ここ二年の間に)始めたアラビア語とポルトガル語よりはかなり聞き取れる様になってきているので、そのリスニング自体に意識が感けると、必然的にドラマの構成やメッセージ把握に支障をきたすと言う訳だろう。

 つまり却って字幕を只読んでいるだけの方がずっとドラマ全体への意識は持てると言う訳だ。

 だから逆に私の場合は、それだけリスニングに関してなら、ハングルに対して少しは進歩してきたと言う訳だ。

 でも最初にフランス語とスペイン語とロシア語とハングルを始めた時に中国語も同時に始めたが、余りに英語とも日本語とも違う言語世界なので(前記の外国語は基本的にハングルは日本語と文法は親戚、それ以外は英語と親戚である)、途中で挫折した。だから日曜に集中してラジオ講座を聴く様に、語学学習を再開した時に決めて以後そうしている。すると忘れていたことを少しずつ思い出してくるのが分かる。

 

〇ところで名詞の後に形容詞をつけて話す流儀は英語では関係代名詞使用以外ではないが、フランス語は大半がそうだし(例外は余りなさそうだけれどゼロでもなさそうだが、それは未だ知らない)、スペイン語でも一部そうである。ロシア語では通常文では英語同様、形容詞・名詞の語順である。

 日本語やハングルはSOV、英語・フランス語・スペイン語・ポルトガル語ではSVO、アラビア語やヘブライ語ではVSOである。

 ところでアラビア語では名詞・形容詞の語順であるが、フランス語やスペイン語、イタリア語ではそれがあるということはサラセン帝国が南欧を支配していた時期の名残とも言える。ドイツ語もそうである。

 だが英語は違うという事は、概ね今のポルトガルとスペインを彼等は征服していたけれど、今のフランスやドイツとも交流があったか、実際に移民がかなり北上していた、と推測することも可能であるが、実際其処迄詳しく調べて判明している訳ではない。

 でも語学を通した言語研究に付随して、そこまで調べ上げれば、それなりに面白い研究は出来るだろう。勿論既にそういう研究を専門にされている方は居る。

 だから創作家はそういった研究著作物を利用して、多言語世界を描く手引きにすればよい。

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2019年4月14日 (日)

無と真理Part3 捕まえたと思ったら必ず遠ざかる絶対的真理

〇宇宙がやがてブラックホールに吸収された完全無(絶対無)となるなら、そういう風に予め設定されているなら、全宇宙史に於いて如何なる出来事がその間に起きようと、起きまいと、一切が完全な偶然であれ、一切が決定されていたとしても、その違いは完全に無化される。

 つまり、それは全て決定されていたと言っても、全てが非決定であったと言っても、全く本質的でなくなるからである。

 何故なら存在した宇宙自体を後に語る者が無となる以上、存在したことが在る全ての出来事事実は存在したとさえ規定することが絶対不可能となるからである。

 つまり1=0ということとなるからである。

 つまり絶対的有=絶対存在とは永遠でなければ矛盾するからである。

 

〇ブラックホールの写真撮影に国際研究チームが成功したことがニュースで大きく報じられたが、そのブラックホールに地球もろとも宇宙全体が吸収されやがて無になると知っていて、その写真撮影成功に喜べる人類は、無となると知っていて今だけの有=存在に浸っていられる程全てへ無頓着で居られる生き物だ、とも言えはしないだろうか?

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2019年4月13日 (土)

交差点 Part1

人はどんなに長い付き合いの者同士も必ず最後には別れが訪れる。

だから人間のみ最後には全てと別れを告げねばならない自分及び自分達のことを幼い頃からずっと知っている。

 

全ての出会いはどんな個から見ても全くの偶然である。

にも関わらず凄く長い長い時間の中では意外とずっとずっと大昔から、神が何もかも用意していたことなのかも知れない。

人は只その仕掛けられた場に放り込まれた駒でしかないのかも知れない。

 

でもその駒を生きるどの個にとっても、どんな出会いも青天の霹靂である。

 

人は何らかの形で死ぬ迄延々移動と放浪を重ねていく。

その交差点が自然と出来上がり、そこで思いも寄らぬ出会いが待ち構えている。

だから出会う全ての個にとってどんな出会いも予想も尽かないことだらけだ。

出会うから衝突も対立も生じ、出会わなければ全ての葛藤は自己の内にしか起こり得ない。

何かと皆で出会い、何かと誰かと出会うから、そこで問題も生じ、同意と齟齬とができる。

 

齟齬ができるから協力が要請される。協力が必要だからこそ説明が要請され、論理が生み出される。

 

同意だけで居られる関係なんて恐らくはどんな場でも時代でもあり得ない。

あり得ないからこそ、同意へ向けられるあらゆる個内部の葛藤と努力とが理性的に意味ある事と認識される。

 

出会いは同意する間柄でも齟齬を持ち合う間柄でも突拍子もなく突然訪れる。だから当然その出会いからの別れもそうだ。

 

でもずっと離れ離れになっていた関係が再度近づき密接に関わり合う事にもなる。

その一連の出会いと別れと再会とを予測することは出来ない。

只全てが過去となった時にだけ、その全ての流れと経緯が理解されるだけだ。

 

だからはっきりと因果を掴める理解とは全て記憶が齎しているのだ。

 

世界の大きなうねりは何となく誰でも察知できる。

でも、それがどういう方向へ目指しているか、世界全ての意図や目的や目的地を知る者は居ない。

 

全てを見通せないということ、にも関らずどの個も自分の時間がいつかは途切れる事だけは誰もが心得ている。

その事実だけが全ての個にとって生きている時間の間に何度となく訪れる生の時間の交差点をどの個にとっても意識させ得る根拠なのだ。

 

つまり、交差点を知ること、交差点に居ることを把捉することだけが、生きている時間からしか世界を把握できないと知ることであり、それも又、全ての生きている個が世界と関わることを知る唯一の指標なのだ。

 

明日世界がどうなるか、誰にも分らない。

その事実を誰もが共有するとどの個も知ることそのことこそが交差点に立ち会っているという唯一の世界への関わり方から個と世界の行く末を考えることができる、と我々はきっと皆知るのだ。

 

人の生涯に色々な移り行きが在り、意味が生じる様に、どんな文章や言葉やその使われ方や理解のされ方でもそれはある。

 

頭と胴体と足が繋がっている様な繋がりが、そこには必ず見えてくる。

そして、それも又交差点をそこここに見つけて行けることなのだ。

時間そのものにも、その移り行きに身を委ね、何かを発することも、そうだ。

 

擦れ違い、ぶつかり、離れることそのことが、交差点をその都度作っているのだから。

 

2019. 4. 13

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2019年4月12日 (金)

創作メモ52

〇一つには英語小説を書く場合、描かれる人間たちは世界全体の象徴として位置付けられる。つまり世界中の誰が読んでも、自分のことへ置き換えられる様に、共感できる様に登場人物の行動と設定を考えるということだ。

 でも具体的なモティヴェーションは私は日本人だし、この国に生まれ育って感じてきたことから書いていくのだから、その具体的な自分の感じてきたことから普遍的、世界に遍く存在してきている事柄だけを抽出して小説の描写にしていくのだ。

 

〇現代世界が舞台だという事は、その時点で現代に彩られる固有の世界を覆う問題が、ずっと古代やそれより古い時代にまで遡れる人間存在の問題、社会との関わり、自己と家族、性と愛、仕事、幸福感、使命感、創造的閃き等を定着させていく。

 だから現代固有の問題と古代から変わらないこと、凄く俗的な現実と、形而上的な思考、それは常に錯綜する。

 どちらかだけが常に表に立つことはない。いつも両竦み的である。

 神話は聖書と共存しもするが、対立もする。

 一神教でもキリスト教は特に罪の宗教である。イエス・キリストは処刑された。そしてそれに至るに加担してきたパウロが率先して普及させた。 

 従って処刑され亡くなって三日後に復活したイエスは、その差別虐待した人達が集団ヒステリー的に同時に罪の重荷に耐えかねて見た同時幻覚だったと捉えるのが現実的に最も妥当である。

 だが宗教は全てそういう共同幻覚的要素で普及してきたのだ。

 だが正統教義的宗教と神話は常に対立する。神話は個人的なことであり、正統教義的宗教は統制と秩序への強制だからだ。

 その対立する部分に全ての小説の登場人物が位置する。

 つまり、どんな現代の個人も、ずっと永続してきた縦の地点に立たされてあることと、現代に固有の今しかないという意識との間で引き裂かれている筈だからだ。

 だからそれは日本人である作者の自分と、外国文化や習慣の違いと、それを踏み超えて普遍へ到達することに於いてもそうである。

 だから伝統に従う部分と抵抗する部分の鬩ぎ合いこそが全ての個人である。

 それを踏まえている事をよく分かる様に描く必要がある。

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2019年4月11日 (木)

私が詩を書く理由、小説にも取り組む理由

 基本的に私は文藝作品を世に送り出そうなどと言う大それた目論見など皆無である。

 寧ろ自分にはそういう高尚な意図など最初から皆無である。

 つまり私は何をしても余り巧くやっていけないタイプの人間なので、そういう不器用な人間の一人という立場から何か発信できはすまいかという目論みの中から自然と言葉を紡ぎ出し、たまたまし始めていたブログにそういう文を投稿し続けてきただけである。

 だから基本的に何もかも人生ですることで巧く行く人達に向けて私は詩の様なものをアップし続けている訳ではないのだ。

 だから日本も今の時代は実力主義の過当競争社会であるが、アメリカや英国もそうだろうから英語でも日本語で書いた詩で共通したメッセージになり得そうな詩を英訳してアップしているに過ぎない。

 でも嬉しいことに毎回概ねアメリカ人の僕のサイトのファンが複数いてくれて、僕のサイトを閲覧してくれているので、やめないでし続けていられるという次第である。

 だから僕達現代人は誰もが容易に自分の意見を発信できる機会を与えられているのだから、それを利用しない手はない、と考えているのである。

 

 だからその意味では自分には何か凄く高尚な事をしているという意識は微塵もないのだ。

 それよりは常にメッセージになり得る詩の言葉がどれくらい具体的に読者に理解して貰えるだろうかということだけがいつも最大の問題である。

 だからかなりダイレクトメッセージの送信者である、と自分を規定することができる。

 詩とは抑々そういうものではないだろうか?

 でも、そういう試みを日頃から行っていると、そういう自分の試みを集大成的に纏めてみたいという想いに駆られると、長編小説も書いてみたいと思うわけである。

 だから今脳裏に幾つもの長編小説のプランが在るが、それは自分の日頃の詩作の延長でどれくらい文学的試みが通用するかやはり確かめてみたいので、又今度はもう少し前作の英文小説より文学性そのものに拘って作っていきたいと願っているのだ。

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2019年4月10日 (水)

世界自体がパロディ以外の何物でもない

世界のどの地域も元々汎神論的だった。

でも或る時期から明確にそうでない考えだけが正当だと言い張ってきた集団が段々世界を制覇してきた。

 

そこで全ての一神教だけが正当だとする世界に他の全ての世界が合わせ始めて世界の秩序は一見纏まっていた様に思えた。

でも、それが益々脆弱な一時凌ぎだっていうことがはっきりしてきた。

それでも一神教は依然滅ばない。

 

でも、次第に彼等だけが世界を制覇することの不可能性も世界を覆い始めた。

それでも、何処かで世界はその一神教に合わせた侭でもある。

だけれど無神論国家、共産主義的計画経済国家もやはり着々と経済的にのしてきた。

国家主義も宗教倫理も所詮パロディじゃないかって、皆心の奥底で思ってもいる。

でもそれを口に出してしまうととんでもない非難を浴びせかけられそうで、皆黙っているだけだ。

 

結局世界中のどの国も右翼的思想だけが永続していく様に思えてしまう。

でも、それもいつかぷっつりと途切れてしまう気も同時にする。

 

でもきっともう救世主なんて登場しないだろう、とも誰もが思っている。

だから凄く絶対的に個人主義的に誰もが生きていくしかない。

でも、やはりそういう風にだけ生きていくのって凄くしんどいから、何処かで皆手を打って保守的なコードに合わせて生活していくことを選ぶ人も居なくなりはしないから、なかなか世界って悪しく変化しない侭進んで行く。

 

だから全ての国家権威と宗教的戒律それ自体が一種のパロディみたいなもんだ。

 

だからスマホもビッグデータもAIも自動運転も宇宙計画も所詮パロディなんだよ、ってそう言いたくなっちゃうよ!

 

世界は悲劇も喜劇も全てがパロディなのさって、さ。

 

そう、だからパロディの中にだけしか真実や愛を掴めないって皆思い始めているんだから、きっとそういうのっていつはぷつんと切れてしまう、そういう気もしないかい、ねえ、そこの君?

 

でも、いいんだよ、一回ぐっすりと寝ちまえば、全て翌日はけろっと忘れて又、最初からすべてやっていけるんだろうからさ。

2019. 4 10

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2019年4月 9日 (火)

語学の勉強と文学作品鑑賞はやはり違う

 NHK第二ラジオでの正午から一時までに放映されるのは、中国語ニュースとハングルニュースとヴェトナム語ニュースとインドネシア語ニュースである。

 語学は表現以前的なサヴァイヴァルツールである。従ってそこで得る喜びは、通じる喜びに外ならない。だからそれは音的に喋った相手が聴きとってくれることと、向こうがこちらに喋る音を理解出来る喜びである。

 だから中国語にもハングルにもヴェトナム語にもインドネシア語にも固有の音の故郷がある。

 でも文学はそういう営みとやはり違う。

 でも和歌でも何でも文学も音的美しさもあるではないか、と言いたい向きもあるだろうが、それは意味が通じる相手同士でのみ成立する心の余裕である。

 だから意味が通じる、言っていることが即分かるということが意味し得ることとは、そういう意味を伝え合える内輪的関係と言うことに外ならない。

 だから私は英語の詩のみ意味的によく理解出来るし、英語と兄弟言語であるフランス語やスペイン語は読むだけなら理解も出来る。

 でもまだそこまで行っていない言語に関しては、言葉の響きの印象からまず単語を増やしていくしかないサヴァイヴァル状況なので、必然的に文学なら必ず介在する比喩や辛辣な皮肉を理解する以前的状態にある。

 だから面白いとは言えるけれど、それは幼児が語彙を習得していく過程を成人してかなり経ってから追体験している感じである。

 だから日本語ではもうどの語彙も言い回しも、それ自体に聞き慣れてしまっているので、そこに感動を見出すにはなかなか大変なものがある。

 だから外国語を益々関心持つことの本当の理由は、その外国語に浸っている時間から再度意識が日本語に戻った時に、新鮮に感じられる時が在って、それをいつも味わいたいからだ、とも言える。

 

 だから哲学や神話や神学などに関心を持っていることは、やはり意味の世界にかなり比重がかけられている。

 それは音の響きを幼児に戻った気持ちで追体験しているのとは異質である。

 だから意味を熟考する時は必ず母国語だとも言える。一応それに次いで自分は英語でもかなり考えることは出来る。

 だから逆に仮にこれからヴェトナム語やインドネシア語をかなりできる様になって、それらでも英語同様考えることができる様になったら、益々音に新鮮さを感じていたことは褪せていくだろう。

 

 だから意味の世界の思考の旅、熟考の時間とは要するに大人の時間である。子供の様な気持ちで考えることそのものが大人の思考である。

 でも外国語で不慣れな言語を習得しようとチャレンジすることは大人の真似に近いから子供のすることである。

 この二つはかなり正反対である。

 だからこそ、その対極の二つを日頃からずっと継続させてきている私にとっての自分でも無意識にしてきたことは、きっと全く正反対の脳を駆使した活動が一体どういう効果を人格的にも技能的にも自分に齎すかということを知りたいがためである(勿論無意識にであるけれど)ということかも知れない、とは言い得るところのことである。

 要するに音的に純粋な好奇心(子供の気持ち)と意味的な思想やメッセージを読み取る(大人の気持ち)を人間は何歳になっても併存させている、ということなのだろう。

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2019年4月 8日 (月)

日記的記述GD 詩集を作る為に何をすればいいか?Part2

 詩人とは詩が書きたいから書いているのであり、詩を書きたい気持ちがないところでは詩など成立し様がない、とは当然のことなのだけれど、彼も神ではないので、迷いもあれば自信喪失することもある。

 だから詩とは書きたい気持ちを作れるかと言うところの勝負が在る訳だが、意図的にそうやって自己を奮い立たせているという側面も否定し得ず、寧ろ詩人として詩を書き続けられる状況を作り出すのが詩人の仕事だとも言える。

 だからそれは詩人が詩を書く気持ちに自然となるという理想的状況を意図的に作っているのが詩人だとも言える。

 でも、どういう気持を描いても、素晴らしい詩になるとは限らないし、又、素晴らしい気持ちという何かがある、というのともきっと違う。

 もっと穿った見方さえ許して貰えれば、かなりひねくれた気持ちでいても、凄くいい詩は書けるし、逆に素晴らしい気持ちでいても、凡作は容易に作れてしまう。

 

 だから詩などフィクションだし、自己演出的策述以外ではないのであって、詩を何か凄く清らかで崇高なものだとする言説が在ったとすれば(流石にそんなものお目にかかったことも当然のことながらないけれど)、それは完全な噓っ八であろう。

 だから詩そのものとは何かという問いかけを巡る巧妙な心の中の駆け引きだけが詩人を何とか自分に対しても他者に対しても詩人と名乗ることを可能にさせているのであり、要するに書きたい気持ちすら、実際純粋に心に巣食っているという訳でさえないと言ってさえいい。

 

 だけれど、そういう風に自己同一性を巡って悶絶することは詩人の特権であり、そういうのたうち回ることは詩人にのみ許されていることかも知れない、とも言えるし、他の何の仕事でも究極的には皆同じだとも言える。

 

 詩はだから詩人にとっての心の気持ちであり、詩を書く人の生き方でもあり、又、詩で描かれる固有の読者が想像できる世界であり、詩で綴られた固有の言葉の響きでもあり、要するにそのどれでもあり得、それら一つ一つだけではない何かである。

 

 それは戯曲や小説や短歌や俳句でも、映画の脚本でも、映画の演出(監督)でも、学術研究でも何でもそうなのだろう、とも思う。

 

 実は英語で詩を書く時、英語圏でだけ当然である常識には忠実に考えてきてもいる。それは日本語でもそうだし、要するにそれぞれの言語を成立させる言語を話者として使用する民の生活している心をくみ取りながら書いているのだから、かなり言葉を使用すること自体にも内在する戦略的なことはある。

 それを一切無視して書ける言葉などあり得ない。

 心のモティヴェーションはそんなに純粋なものではない。

 でもその純粋でなさを純粋に見つめて書く分では、やはり詩人はそれなりに純粋だとも言える。

 純粋でない自分を純粋な眼差しで見つめ文章化する際に、凄く戦略的な、つまり非純粋な策略を巡らす、そしてそれがあたかも純粋に詩人の叫びの様に受け取られて読まれることを目論んで言葉を並べるのが詩人の仕事であり、業なのである。

 

 何かそれ以外の勿体つけら理由など一切欺瞞である。

 でも、その欺瞞性さえ詩のテーマとしてはかなり面白いことでもある。

 だから創作し続ける旅を死ぬまで途中で放り出すわけにもいかないし、そうしたくないという気持ちが廃れない間は、自分も詩をきっと書き続けているだろう。

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2019年4月 7日 (日)

日記的記述GC 詩集を作る為に何をすればいいか?Part3 創造とは何か?①

〇創造と言う時明らかに神に拠る天地の創造という観念を思い起こすことが少なくとも一神教的世界観で生活する現存在では当然であるが、それを個としての一現存在から考えてみよう。

 そこで創作が行われたとしても、学術研究が行われたとしても事情は変わらない。

 そして重要なのは、慣例的に全てを処していくことと、創造とは対極であり、慣習と慣例に準拠することは須らく創作ではないし、研究ではないし、要するにそれは創造的行為ではない、ということだ。

 

創造とは創造しつつ、創造されてきていることを破壊しつつ進む事だからである。

 従って完成ということは創造ではない

 それだけが創造の定義である。

 同時に創造は少なくとも前述の論理からすれば習慣ではない習慣化されてきたら、それを破壊して違う在り方を模索すべきことだからである。

 

有は無に対する破壊である。無を何らかの無でも有でもない力が有を生じせしめることが創造であるなら、端的に存在、つまり有とは無の破壊に外ならない。

 これは修辞学だから机上の空論だと言いたい人は一神教的世界観をベースとした全ての一神教(現在地球上の人口の半数を少し超える位の市民がそうである)を完全否定している事となる。

 何故なら言葉とはそれ程我々現存在にとって軽い事ではないからである。

 つまり論理や修辞とはそれ自体実在レヴェルからも存在レヴェルからも絶対的な指標であり、そうでなければいけないからである。

 そうでないなら、それは精気説に過ぎなくなる(それはあらゆる科学や倫理の否定となる)からだ。

 それは存在を言葉を使う事や、言葉が指標である事と分けている(例えば日本に固有のアニミズム)ことに起因する態度だからである。

 だから有は無の徹底破壊という偉業に拠って達成されている、ということがまず最大の前提なのである。

 

〇上記のことは、日本ではそうではない常識だけで社会が運営されているとするなら、それは日本が只単に論理が無い、ということは信念の体系も法もないということを意味し得るに過ぎない。

 つまり日本では何事かは自然と発生するという観念に彩られているのだが、それでは個とか絶対とかは一切存在してはいけないこととなり、それは人権上も法学上でも矛盾してくることとなるのである・

 だから逆に日本語の正体を解析する場合、自己や個ということと、自然全体や世界への認識が深刻な分裂をきたしている(それは自然を客体化し損ねているからこそ、発生している自然に、という観念に言語自体が支配されているからだが)という事実に立脚した方法論をベースとした民族共同体にだけ固有の論理を突き詰めていけばよいということとなるのだ。

 

〇だが、本質的創造とは必ず無の破壊に拠って生じている意志的・意図的力を想定することだから、その日本語世界の論理矛盾自体は一度は徹底的に対象化せざるを得ない。

 つまり日本語研究とはそこにだけ軸足を置ける。

 だから詩を日本語で書くなら、その考究的意図を鮮明にする必要がある。だから、それは古今和歌集・新古今和歌集的世界観を前提にせず、万葉、更に文献編纂される以前の日本語を意識的に想定する必要がある。

 英語やハングルは粗方その発生元が分かっているので、そういう意図を持って臨む必要はない。

 

創作も研究仕事の本来的目的も、完全なる謀叛である。つまり既成概念の破壊と慣習や習慣の破壊を意味し得るからである。

 従ってそういう意図的・意識的なる謀叛と破壊を行っていないあらゆる仕事を慣習的に創作や研究と呼んでもいけないし、称してもいけない。

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2019年4月 6日 (土)

日記的記述GB 詩集を作る為に何をすればいいか?Part1

 漠然と詩を書きたいと思い、書き留め始めてから既に十数年以上経った。その前から気持ちの中ではずっとそれをしてきてもいたが、きちんと書き留め始めたのは十数年前からで、十年前からそれをブログでアップし始めた。

 最初は当然、自分は日本人なので日本語だけで書いていたけれど、数年後から時々英語でも書く様にしてきた。

 そして四年前から英語だけのブログを(詩以外では持っていたが)詩でも始めだした。

 その結果今では英語詩と日本語詩の割合はほぼ互角となった。

 ときには英語が日本語を上回ることもあるし、最初は日本語で書いて気に入っていた詩だけを英語に翻訳していたが、次第に日本語で書いてよくても、英語にしてもいいとは限らないと分かって、自然と翻訳すべき場合とそうでない場合を直観的に分けだした。

 しかし、その本質的理由は今も良くは分からないし、分かってくることがあったとしても、それは必ずしも分かっていなければいけない性質のことでもなさそうだ、とも思える。

 

 つまり英語でも日本語でもいいものはいいとはっきり分かることもあれば、そうでないこともある、ということだけは何となく分かってきているだけである。

 つまり日本語で発想することも自然だし、英語でも自然である様にすればそれで良く、それでも時には敢えて日本語だけの詩を英語に訳してみたいとも思えるし、今のところその逆で英語から日本語に訳して良いと思えてそうした詩は一作だけである。

 抑々日本語と英語の世界は本質的に異なることなのだから、つまり言語毎に(英語以外の言語であっても)分けて考えることは理に適っている。

 それでも詩集を作るとなると、やはり厳選しなければいけない。

 そして、それがかなり大変な作業である。

 でも作ってきた作品数が多いので、それほどそれが苦であるとも言えない。

 何故なら会心の作はそう多いとは言えないから、自ずと決まるとも言えるからだ。

 

 要するに個々の作品はずれるが、全体としては作者が同じなので、そう全てを通して届け様としているメッセージはそう変わりないということの方が重要で、個々の作品の違いに重きを置いている訳ではないのだ。

 だから現象としては個々の異なった詩の作品を通して一体全体として何を伝えたいかということの方が常に最重要であり、それ以外のことは些末な事でしかない、とも言えるということだ。

 だから詩は志である、のだ。

 でもその自分凝視するのは試練でもあるけれど、やはりそれを通過しなければいけない。

 でも、それはそれで楽しい通過儀礼でもある。

 何故なら全て自分の子供たちのことだからである。

 

 そう、いい意味でバカでない者に、詩人とか文学者は務まらない。

 そして、これからもいい意味でのバカで、あり続けたい、とだけ自分に対して思っているし、自分にだけ、そう託している。

  (つづき)

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2019年4月 5日 (金)

無と真理 Part2

   我々は生きている限り生命現象の実例の一つとして行為事実を積み重ねられるが、死ねば物質へと還元され、心は消滅する。

 しかし我々の身体を構成する物質自体は、死す、と共に生命現象を構成していた全体性から解放され分解して空気中に拡散されるが、その物質構成要素であった素粒子(元素)自体は宇宙が消滅する日まで永遠に存在し続けるだろう。

 その意味では我々の生命現象とは実は極めて固有であり、それは或る種の仮象とも言える。

 だからこそ胡蝶の夢とずっと言われ続けてきたのだ。

 つまり我々の生命は感情や思考等を脳が司ってきているのだけれど、それは脳波を伴った脳神経細胞とニューロンのプラスとマイナスイオンと、その発火現象なのであり、それを心と認識するのは常にどの個人にとっても自分だけであり、他者の心は分からない。

 これは既に多くの分析哲学が問うてきたことである。

 さて、ではこの元素へと還元され自己同一性をいつかは失う有限の時間の固有の我々の生命は、各人の心という形で、人格(personality)と捉えられているけれど、やはり存在事実ではあっても、全く物質的存在とは異なったこと(現象)であり、事実である。

 つまり我々の心の事実はだから外的観察やデータに拠って実証不能なことでもあるのだ。

 只それを誰も言わないでいるのだ。

 つまり本当は心などというものは実在証明できないので、岩石や雲の様な自然現象とは本質的に違う性質のことなのである。

 何故なら我々は気が付いた時には自分の意志とは全く関わりなく生まれて意識を持っていて、ずっと生きているけれど、或る時点でそれがぷっつりと切れてしまうのである。

 そして死んだ後に生きていた頃のことを思い出すことができない(恐らくそうだ)のである。

 だから、それはやはり決定的に刹那の幻かも知れないのだ。

 だから我々が真理と呼ぶものは、須らくそういう極めて脆弱な実在証明不能な現存在同士の示し合わせに過ぎないとさえ言える。

 勿論岩石や雲もあくまで我々心を持つと信じて疑わない現存在同士で示し合う物質と言う理解でのことで、それが実際には、つまり彼等にとってどうであるかはやはり分からないのだ。

 だから全てが無である、と言っても、やはりそれも間違いではないのだ。

 だから真理とはあくまで我々に拠る理解の総意と言ってもよく、無さえ、我々から見てそうであるだけであるとも言える。

 しかし完全に無であるとは宇宙自体の消滅、ブラックホールに全てが吸引されていく、と一応我々は理解してきている様であるが、実際のところそれさえその後真に無だけになる、と証明されている訳ではない。

 抑々有=存在であった事実、現象の全てが完全に無になるとしたら、やはり無や、我々の世界である有という範疇とは別次元の何らかの力が作用している(働いている)と考えてもいい。

 抑々、有=存在を発生せしめられ得るのは、少なくとも一神教的世界観からすれば、神を置いて他にはない。

 つまり神のみが完全無、絶対無から有=存在を生じせしめた、と言える。

 従って神のみ、有とも無とも別次元の、全く全てを超越した何か、ということとなる。

 そこで次の様な図式が構成される。

 つまり、 神(無=非在→有=存在) である。

 

(つづき)

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2019年4月 4日 (木)

無と真理 Part1

〇我々の世界は確かに全て有である。だからそこに無は本質的に存在しない。全ての粒子を取り除いた空間さえ、そのスケール、体積を有するが故に有である。

 

〇だから存在とは須らく存在しているという実存に於いて雑多であればこそ相対的である。しかしそういう相対であるという事実に於いて絶対である。無ではないと言う意味で絶対である。

 

〇人間は死ねば物質へと還元され心は消滅する。だから死は心の存在から言えば絶対である。無と言う絶対である。

 しかし人間の考えというものは生きている心から発しているので、やはりその考えに沿って何らかの社会行為へ直結させられている場合実在的であり、存在レヴェルで語り得るが、考えそのもの、つまり脳内での思考それ自体は実在と言い切れない。まず外部から観察できないからだが、それは脳内の血流、生理的活動でしかない。

 

〇だから心は客観的認識に於いてはあくまでブラックボックスである。

 だからその考えが行為へと転換された時のみ、考えが実在化され存在レヴェルで語り得る。つまり社会行為として事実化されているので、それは要するに客観的認識が適用される。

 

〇だから客観的認識で把捉し得る、理解し得る全ては相対的な全宇宙的レヴェルで相対的絶対である。

 だが無はどんな存在=有に比しても、その有同士の相関性に組み込まれない(絶対にそうである)が故に絶対である。

 だから無だけは逆に有=存在の全局面で想定可能である。

 何故なら有は必ず有でない状態に転換する場合、無にしかならないからである。

 何か有と無との間に在りそうに思えるけれど、それは全て有である。だからこそ有だけが相対的に絶対であり、無のみが絶対的に絶対であり、逆に無理して無に相対性を見出すとすれば、どんな有も無に転換し得るという事実に於いてのみだが、これもよく考えれば無の側の事情でなく、あくまで有の側の事情であると言うことが分かる。

 

〇従って真理とはあくまで、それを真理であると我々世界内存在にして現存在として自らの有=存在を自覚していることに於いてのみ成立し得る絶対であり、物質的、客観的実在証明し得る様な測定可能な物質・事態ではない。

 だから真理は言葉・言語界のものである。

 そして言語は音声発声活動という空気の振動であると同時に印刷された実在的物質を通した行為事実であるが故に、その意味や概念も、実在的に客観的に例えば岩石の物質の様に測定され得ることではない。

 だから言語とはあくまで我々現存在の社会行為事実の範疇でのみ実在的価値(存在理由)を与えられているに過ぎない。

 だから我々の思想は通常の物質的実在を通した存在=有ではなく、あくまでその客観的認識を我々が得る為のものであり、それは無ではないが、実質的に物質的存在事実として、実在現象ではない。

 だから、そこでも又我々は容易に有=存在の中に無を見出している、とも言える我々固有の生活事実を発見することができる。

(つづき)

 

 付記 本シリーズは「分析哲学と現象学はどういう点で最も異なるのか?」シリーズと絡めて考えていきたい。

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2019年4月 3日 (水)

人間には二面性が在る Part1 社会進化とGDP目標国家を尊ぶかと思えば、先進的でない進化しない要素を好みもする

 人間は矛盾している。

 凄くハイテクで進化を遂げた都市空間に憩いを見出しもするが、同時に全く昔から手付かずの変わりなさを愛しもする。

 つまり人は進化を止めないことを是としながら、同時にそれが急速であることに畏怖をも抱き、ずっと昔からの侭にさせておきたいとも願う。

 

 だから急成長を遂げ、もう色々な分野で世界トップになりつつある中国を学ぼうと、中国語を必須のこととするかと思えば、英語の今でも世界でトップのビジネス言語的なことは、それ以外にやはり重要だという事でキープしながら、例えば自分の様に全く社会制度的観点から言えば古代からの部族社会的性格を残したイヌイット(イヌピットも含む) の人達の使用する語彙や言語の構造や習慣などにも同時に関心が在るということは何ら不思議ではない。

 

 先日マケドニア(発音的にはマセドニアの方が正しいのだけれど)の街の風景が映った。マケドニアを北マケドニア共和国と改名するという事も報じられたし、それがギリシャとの確執でデモが起きたりしたのも、背後にロシアの影が在るからだけれど、実際その街並みは明治時代に建造された建物が一切外装を改築したり、新建材でリニューワルをしていないような街並みだったのには驚いた。

 現実に同じ白人が元々支配してきたアメリカやカナダではそういうことはないが、欧州ではかなりそういう劣化的なインフラの現状は頻繁に目にすることができる。

 でも、そういう古色蒼然とした風情が好きだという要素は廃墟などが全世界的にブームになったりすることでも人間に固有の(きっとそうだ)感情ではないかとは思われる。

 だからスペイン語圏の人達はプロテスタントの国家として最新の進化を常に誇ってきたアメリカに比べればずっと素朴なキリスト教カトリシズムに彩られているのだけれど、私が日頃よく読むのは聖書刊行会の聖書で私に啓示を与えて下さった今年96歳の方が進呈して下さった本であるが、エキュメニズムとしてカトリックとプロテスタントが共同で刊行した新共同訳を使用する教会も今は多い。

 だから言語的にも実用性と時代の要請という意味で英語と中国語の時代であっても、未来にはより発展する可能性への着目も手伝ってはいるけれど、仮にそうでなくてもポルトガル語は学びたいという気持ちも私にはあり、少しずつ学んでいる(未だ始めて間もない)。

 フランス語も英語に次いで長く接してきたので、少なくとも相手が喋る内容だけは最低限聞き取れる様に毎日ラジオで聴いている(フランス以外に、コンゴ民主共和国、カナダ、マダガスカル、セネガル、コートジボワール、カメルーン(国内に英語圏もあり、少数派の英語圏の人達とフランス語圏の人達の間の闘争が激しい)、他公用語としては29カ国、でも恐らくフランス語が通用する国はそれ以上の数が在るとは別ブログでも主張されているし、事実だろう。

 モーリタニアはアラビア語の国だけれど、フランス語の影響を少なからず受けているらしい。

 だから欧州言語では英語以外にフランス語、スペイン語、ポルトガル語はかなりグローバルランゲージだと言っていい。

 でもその反面、医学薬学的用途と哲学言語でもあるドイツ語やオランダ語はそうでもない。イタリア語もそうだ。

 それは植民地を多く持てなかった民族だったからだけれど、だからこそそこに魅力があると思える人も決して少なくないだろう。

 

 そういう訳で一国に複数の民族と言語が犇めく国は決して少なくないので、言語能力全般が著しく優れているひとのすくない日本にさえトリリンガルの市民は数万人は居るとすれば、世界では少なく見積もっても数億人は居るだろう。

 そこから発展させて考えてみると、数十か国語にさえ通じている市民さえ、世界には数百万人は居るに違いない。

 でも八千ある言語の中で五十か国語以上、完全理解出来る人となると、きっと数千人、更に聞いたことのない言語をいきなりべらべら話されても、数分の裡に粗方相手の意志を理解出来る様な頭脳の持ち主とは、慣習・習慣的に暗記して理解している訳でないから、世界でも数十人位しかいないだろうし、どんな言語に関してもそうである様な人はきっと世界でも数人程度に過ぎまい。

 要するに周囲の環境へ同化するかたちで習得している人は世界でもかなりの数になるだろうし、只内容が把握できるだけでなく、自分でも相手へそれと同等のことを伝えられ、且つあらゆる階層や専門のことをもそれらの駆使している言語で示し得る人は、やはり世界でも数万人程度しかいないのではないか?

 勿論それは只の私自身の推測でしかないから、かなりできるけれど、一々それを表へ示して、それで食べているというのではないひとも混ぜると、きっと全てのアイテムでかなりの人数がさらに水増しされるだろう。

 つまり、それだけ世界とは広いし、七十五億近く居る人口とはそういうことを意味するということだ。

 だから、そういう多様性が世界に渡るという事が、一個人にも自然選択的に反映している、という事が、我々が常に個人的に或る好みや快適性と、それに反する、文明進化志向と、それに相反する時代逆行的(アナクロ的)感性を、同じ一個人が介在させている、それこそが人間らしい、人間でしかあり得ないことなのではないだろうか?

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時間軸を元に戻すことはできない Part1

   凄く深刻でもあり滑稽でもある事実とは、明らかに時間軸を元に戻すことができないということだ。

 その一つは明らかに個人で意見を誰もが発信可能となったことであり、それを禁止することは現代では恐らく出来ない。

 この事実の齎す影響は政治家に対して甚大である。

 先ず限りなく独裁をスムーズには決して行えない(今のヴェネズエラ情勢を鑑みると全くそうである)。

 つまり権力者の独裁的力の発揮を凄く難しくさせたことであり、これを時代的に逆行させることは恐らく不可能である。

 その意味で少なくともサウジアラビア、北朝鮮等の独裁国家等を除けば、為政的策略に於いて、そう容易に余程の人民、民衆、国民に対して説得力を持たせないと、かなり思い切った政策を難しくさせている。

 これがかなり決定的だ。

 つまりほぼ全ての個人が個に固有の独我論的世界を容易に持てることから、エリートの立ち位置を限りなく相対的にし、絶対的威光を殺ぎ、寧ろエリートと一般市民との間の知的、発言権的格差を限りなく小さくした。

  従って、その意味では情報発信と自分の意見を反映させられる意味で、市民社会主義は或る程度独裁国家以外では実現された。

 従って、恐らく独裁国家の独裁君主さえ以前よりは圧倒的に裁かれていく危険性を大きく持たせている。

 つまり、かなり抑制の効いた為政でないと、市民が納得しない基盤だけは形成されたので、そこから逆に特殊な独裁国家の行く末を世界が注視しやすい土壌も可能となってきている。

 しかしコンピュータやPC端末もスマートフォンも、全て軍事テクノロジーによる副産物(byproduct)なので、その点では実に皮肉である。

 しかもそれを原爆を日本に投下した国が率先して作って、それを今度は日本に虐待された韓国や中国が追い上げ、アメリカをシェアではスマホに関しては完全に抜いてしまった。

 本シリーズではそういったことばかり扱うつもりだけれど、本ブログは最初期に始めたものなので、ブログ自体もPCメインに作られてあるけれど、現代最新ブログは既にスマホで閲覧し、作成することを前提のモノへと進化してしまっている。

そして、それも逆行させることは不可能であろう。

(つづき)(2019.3.9執筆)

 

 

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2019年4月 1日 (月)

個とは何か?Part1

〇個とは、どんな周囲の状況の変化にも、どんな世界全体の変転でも、揺るがせにできない思いの持続以外でなく、それは時節や世相の持つ空気を無視してでも個内部で継続させていかなければいけないことだ。

 

〇だから、自分の場合は、神との語りということもマインド的に凄く重要だし、そのマインドフルネスこそ個の主体性を保証し得るものであり、時代の転換は、あくまで組織・集団・国家・社会の側の事情であり、それに対して真っ向から対立していこうとする者がいても、それを決して邪険にすべきではなく、勿論率先してそういう態度の人にだけ全て合わす必要はないし、要するに個々が自分の判断で全てを決断し、行動していくべきであり、それ以上でもそれ以下でもない心の在り方だけが誰にとっても重要だ。

 

〇言語的な謙遜・謙譲も凄く重要だけれど、それは必要な時以外に乱用すべきではなく、自重するべきは、権威に対する反抗だけでなく、権威に対する阿りにも適用されねばならない。

 

〇個であることとは、実はかなりどんな社会でも国家や民族でも困難なことなのだ。

だからと言って、どんな時も全て集団にだけ全てを捧げるべきでは決してないし、そんなことを考えている国民等世界中探しても殆どない。

 

〇日本の場合、殊更、元号改正、改元に意識が行くということは、却って対外的にどの国や民族からも孤立してきている証拠でもある。

だから、それはそれとして大切にしていくべきだが、やはりそれは全てではない。

 

〇個とは、やはり謀叛的な気持ちも常に含むけれど、それは実践されない限り抑制すべきでもないし、寧ろ思考実験的心の在り方の自由が保証されることだけが常に個を大切にせよ、という意味では自由発想主義的であるべきだし、又、改革的意図は常に絶やすべきではない。

 

〇信仰的なことは自由であるべきであり、それは憲法の信教の自由という形式的保障だけでなく、やはり本質的正義、倫理的真理として捉えねばならない。

 

〇集団で結束や協力と協調性と分けていくべきである。つまり協調的空気だけであることは、ややもすると、やはりかなり危険な付和雷同的な或る特定の個人に対する四面楚歌を推奨していきがちだからである。

だから本質的組織や法人、社会や国家や民族への貢献は、常にワールドワイドな倫理的正義に基づいているべきである。

 

(つづき)

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